紅白歌手宮城まり子、芥川賞作家の夫と建てた療護施設の思い
「だったら、私がこの子たちのお家を建てよう」。そんなまり子さんの思いをいちばんに理解し、「昨日今日、言い出したらやめなさいって言うけど、ずっと思い続けていたみたいだから、いいでしょう」と、応援してくれたのが吉行さんだった。
まりこさんはアメリカの施設を視察して回り、女優業の合間に土地を探し、施設の認可を受けるべく奔走する。’68年4月、「ねむの木学園」は静岡県の浜岡砂丘に近い海辺の町に開校した。日本に福祉の概念が根付いていなかった時代から、障害児を守り、育てるために闘い続けた彼女の功績は大きい。
「90歳になったいま振り返ってみても、淳ちゃんと私はとてもいいコンビでした。ずっと結婚という形を望んでいましたけれども、かなわなければ、愛だけでいいと思い続けていました。淳ちゃんの子供、もちろん欲しかった。
ただ……」
正妻や娘さん、吉行さんの母や妹たちへの遠慮もあった。
「できなかったのではなく、産まなかったのです」
ねむの木の子供たちは、吉行さんとの子供でもある。