「昭和のくらし博物館」女性館長が伝える「家族の平和」
「東京っ子の父は、東京市役所(現・東京都庁)勤務の建築技師でした。病弱で、学究肌の芸術好き。一方の母は神奈川の農家の出で、丈夫で温かくて、近所の子どもからも慕われる専業主婦。そんな母のおかげで、うちは貧乏でも明るい家庭でしたね」
太平洋戦争前の小石川は、緑豊かなハイカラな街だった。精肉店の店先には、当時としては珍しいウインナがぶら下がっていたり。
「ピノキオの鼻みたいで、私はずっと木でできていると思っていました(笑)」
笑い声のあふれる穏やかな暮らしは、しかし、戦争によって奪われていく。小学校5年の小泉さんは、宮城県や神奈川県の山間部へと集団疎開を余儀なくされ、小石川の家は行政による強制疎開で撤去。
「横浜の母の伯母を頼って引っ越しました。
しかもトラックなんて使えないので大八車に家財道具を積んで、東京から横浜までの距離を母と祖母が押していったんです」
そして、’45年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲。
「両親は町内の蔵を守る役目があって、私が7歳と4歳の妹を連れて逃げました。