一般的に日本の男性は欧米の男性に比べ、女性を褒めることが苦手だとされている。日本男児には古くからいわゆる「恥の文化」があるためか、女性を目の前にして、その本人の良いところを褒めるなどという行為は、照れくさくてしょうがないのだろう。特にその対象が妻になってくると、余計にそうだ。親密すぎる関係性が、素直になることの邪魔をする。本音では妻を愛していても、それを言葉にするのは難しいものだ。また、世の男性の中には「妻のことを褒めたくとも、いったいどうやって褒めていいかわからない」と首をひねる方も多いことだろう。確かに褒めるという行為は、実に漠然としていて具体性に乏しいものだ。「きれいだね」「かわいいね」などといった褒め言葉にはなんとなく実体がないように感じられ、簡単に口にするのを躊躇ってしまう。では、「いつも支えてくれてありがとう」などといった御礼はどうか。これはこれで妻に喜ばれるかもしれないが、褒め言葉とは大きく違う。しかも、執拗な御礼は時として相手の心を重くしてしまう可能性もある。御礼のほうが意外にデリケートなのだ。かくして、今回僕が提唱したいのは「正しい妻の褒め方」、その名も間接的絶賛作戦である。これをマスターすれば、夫婦関係もますます良好になることだろう。この作戦とは、要するに妻のことを直接褒めるのではなく、何かアイテムを挟んで間接的に褒めるという手法だ。たとえば「そのピアスかわいいね。どこで買ったの?」「今日のスカートかわいいね。よく似合っているよ」「ネイルもお洒落じゃん。センスいいね」などといった具合に、妻の全体像をただ漠然と褒めるのではなく、なんでもいいから細かいアイテムを発見して、それを目的として具体的に褒めていく。そうすれば、それぞれのパーツごとに妻を褒めることができるので、誰でも簡単に褒め言葉を複数回反復できる。したがって、生来の口下手だという男性には特におすすめしたい。目的語を変えるだけでいいのだから、精神的負担も軽くなるはずだ。一方、これらの褒め言葉を受け取る相手側にしてみても、何か具体的な目的語が間に挟まっていることで、「そんな細かいところまで見てくれているのか」と感動し、説得力がグンと増すことだろう。妻の気分が高揚すること間違いなし(誇大表現)である。こういう人間心理は、僕も思い当たる節がたくさんある。作家という肩書を背負っていると、自分の作品についての不特定多数の様々な批評を耳にする機会が多く、またネットを開けば否が応でもあらゆる批評が目に入ってくる。そういうとき、作家として嬉しいのはもちろん作品を称賛されることなのだが、その称賛の言葉が具体的であればあるほど喜びは増大する。作品全体を「とてもおもしろかった」と褒めてくれることよりも、「どこそこの、あの一文がとても良かった」「どこそこの、あの描写が格別だった」などと、細かいところを的確に指摘されるほうがはるかに快感を覚えるのだ。ちなみに、そもそも僕は読者の方々から「ストーリーや内容が好きだ」と言われるよりも「文章や描写が好きだ」と言われるほうが嬉しい作家である。最新刊の『虎がにじんだ夕暮れ』(PHP研究所)についても、正直なところストーリーや設定は定番だと自認しており、奇をてらったようなプロットも確信犯的に避けている。なぜなら僕自身がそこをあまり重要視しておらず、それよりも文章美や情景及び心理描写に尽力しているからだ。話が大胆に逸れたので、元に戻します。とにかく夫婦間で相手を褒めるという一見難しそうな行為は、「間接的」というヒントさえつかめば一気に簡単になり、しかも相手にとっても喜ばれる言葉になる。そして、いざ妻を褒め始めたら中途半端に終わらないよう、徹底的にそれを継続するといい。この「徹底的に」こそが、今回のもうひとつのキーワードである。一般的に男性は、恥ずかしさからか、もし妻を褒めるなら「厭味にならない程度にさりげなく」と考えがちだ。しかし、実際にはその「さりげなく」が一番恥ずかしい。これは人前(宴会など)で一発ギャグなどを披露するときの感覚になんとなく似ている。恥ずかしさを隠すように、気取りながら演じたほうがかえって顔が熱くなり、見ているほうにも痛々しさが伝わってきたりするが、ここはひとつ開き直って、大胆に道化になりきれば意外に羞恥心がなくなり、気分がやけに高揚したりする。褒めるという行為もこれと一緒で、控えめに相手を褒めたほうが妙な恥ずかしさを感じるもので、その後の会話もしどろもどろになりがちだ。したがって、相手のことを褒めるなら、執拗かつ徹底的に「褒めまくる」という領域まで針を振り切ったほうがいい。はっきり言って、ゲームみたいなものである。間接的な褒め言葉を執拗に繰り出し続けることで、いつのまにか羞恥心を感じる神経が麻痺していき、「次はどうやって褒めてやろうか」などと妙なテンションになってきたりする。ランナーズハイに近いかもしれない。褒め言葉のラッシュは、シンプルだが効果的な夫婦円満の秘訣だ。褒めるという行為をなめてはいけない。一見平凡かもしれないが、真理とは常に平凡の中にあるのだ。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年11月02日妻にもっと綺麗になってもらいたいと願うのは、世の夫の常である。たとえ元の素材が絶世の美人でなかったとしても、メイクやファッション、体型維持、さらに姿勢などによって、女性はいくらでも垢抜けられる。「自分のことを棚に上げて偉そうに!」と指摘されたら、男性としては黙って頭を下げるしかなくなるが、それでも我が妻にはそういう美意識を持ち続けてもらいたい。男はわがままな生き物である。ところが、多くの男性もそうであるように、女性も結婚して子供を産むと、ついつい美意識について気が緩む場合も少なくない。僕の友人のHくんも、二人の子供を産んだ妻が最近どんどん太りだしたことがもっぱらの悩みだという。Hくんの場合、自分も同じようにメタボ化しており、余計に妻にダイエットを促す道理はないが、それでも3人目の子供が欲しいという企てがあるため、妻の肥大化は大問題なのだろう。以前、Hくんと酒を飲んだとき、「もう一人、子供が欲しいけど、今の嫁を見ていると ‘そういう気分’にならないんだよ……」と頭を抱えていた。同じ男として、彼の気持ちは痛いほどわかる。御婦人方には申し訳ないが、これは男の人情である。また、妻のメイクやファッションについても、本音では「一言物申したい」と胸に含んでいる男性も意外に多い。別に現状に大きな不満があるわけではないのだが、それでも「もっとこんなファッションをしてほしい」と、妻を愛するがゆえのエゴを抱いてしまう。しかし、だからといって実際に妻のファッションを自分好みに改造させるのは至難の業だ。夫が下手に「こんな洋服を着て」と妻に進言した日には、たいていの場合、妻は「なんで、あんたに指図されなきゃなんないの!?」と不機嫌になり、挙句の果てには「だったら、そういう女と結婚すれば良かったじゃん」と突き放されたりする。まったく、女心は本当に難しい。我々男性は無垢な希望を素直に口にしているだけのつもりでも、それが妻の繊細な乙女心を傷つけることもあるわけだ。そこで、こういう場合に絶大な効果を発揮する裏ワザを僕なりに考えてみた。それは題して「カメラマン作戦」である。方法はいたって簡単。あくまで夫婦の遊びとして妻の写真をデジカメなどで撮影し、まるでグラビア写真集のように「世界でひとつだけのフォトアルバム」を作成するのだ。最初は休みのたび、あるいは空いた時間などにちょこちょこと妻の写真を気軽に撮影していくだけでいい。そして撮影回数をある程度重ねたら、膨大な写真データの中から特に美しく撮れている写真だけをいくつかピックアップし、フォトアルバム化する。それを妻と一緒に観賞するわけだが、ここで夫はできるだけ妻の写真を「これ、かわいいね」とひとつひとつ丁寧に絶賛していくことがポイントだ。そうすれば、間違いなく妻は喜んでくれるだろう。綺麗に撮れている自分の写真を妻が客観的に見ることで、写真を撮られる快感が徐々に彼女の心を支配していき、それはやがて「もっと綺麗に撮られたい」という女性ならではの本能的な美への欲求につながっていく。妻自身を褒めるのではなく、妻の写真を褒めることで、世の女性の頭の中にある潜在的なモデル願望を刺激するというわけだ。こういうことを何度か重ねていくと、次第に写真撮影が二人の趣味となり、夫が「今度はこんな洋服で写真を撮ってみようよ」などと自分好みのスタイルをさりげなく提案したとしても、妻はそれを「撮影のための衣装」だと認識し、遊び心で受け入れてくれたりする。妻にリクエストしたメイクやヘアスタイル、ファッションがあるのなら、最初はあくまでも撮影の衣装として提案することで、妻に「遊びで非日常的なスタイルに変身しているだけ」という意識を持たせるように努める。すなわち、「わたしは旦那のいいなりになっているわけではない」という女性としてのプライドを守ってあげるのだ。その後は同じパターンの繰り返しである。ファッション誌のカメラマンのごとく、変身した妻を撮影し、撮影後は厳選したいくつかの写真を丁寧に絶賛。これは妻にとって「普段、絶対にしないファッションに変身した自分」を客観的に見るという作業だ。そういう機会が徐々に増え、しかも夫にことごとく褒められていけば、妻の気持ちに少しずつ変化があらわれだしたとしても不思議ではないだろう。新しい自分の姿への好奇心が芽生え、ファッションやメイクへの意識も高まっていく。その結果、妻のファッションが劇的に変わり、はるかに自分好みの美しい女性になっていくという狙いだ。これは芸能人と同じ理屈である。多くの女優やアイドルが、なぜデビュー当時よりも格段に綺麗になっていくのか。それは金をかけているとか整形しているとか、そういった無粋なことだけではなく、仕事の衣装として様々なファッションやメイクに取り組み、それによって変身した自分の姿を膨大な写真に収められていくことで、本当に自分に似合うファッションを客観的に知ることができるからだ。写真はファッションの視野を広げてくれる。芸能人の美の法則を使えば、あなたの妻も驚くほど綺麗になるはずだ。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年10月26日近年、結婚式をやらないカップルが増えているという。従来の慣例的な結婚式及び披露宴の開催は、そのカップル(特に新郎側)にとって大きな経済的負担であり、この大不況の折では不承不承ながら断念せざるをえない事情があるのだろう。また、その決断を正当化するためか、あるいは真の理念としてそう思っているのかは定かではないが、そもそも「結婚式などという、そんな面倒くさい行事をわざわざやる必要もない」と煙たがる人もいる。本来、結婚は役所に書類を届けることで成立するものであり、したがって法的には別に必要不可欠なものではない結婚式という風習を費用と労力がかかるだけの、いわゆる旧弊のひとつとして認識しているということだ。彼らにとって結婚式は、ただの思い出作りと自己満足にすぎないナンセンスなイベントなのだ。もちろん、結婚式の開催は個人の自由である。様々な事情から開催を断念するカップルについて、どうこう意見する立場に僕はいない。それは二人が決めることだ。ただし、結婚式という風習は旧弊のひとつだ、あるいは費用と労力がかかるだけのナンセンスなイベントだと主張するなら、それに関しては真っ向から否定したい。男と女が互いの生涯を誓い合い、それを今までお世話になった方々に披露する儀式なのだ。人間は誰しも一人では生きていけない、多かれ少なかれ誰しもが他人に支えられて生きてきた、そういう人間としての常識を深く認識しているなら、人生の節目に親戚・友人を招き、これまでの感謝と今後の決意を表明することは当然の礼儀である。したがって、連載タイトルでもある「幸せになれる結婚」を叶えるためには、最低限の結婚式は必要だと僕は考えている。それは決して新郎新婦の思い出作りや自己満足のディナーショーではなく、夫婦になるということの責任を噛み締める儀式としてだ。もっとも、だからといって莫大な費用のかかる結婚式を無責任に奨励しているわけではない。この厳しいご時世だ。ない袖を無理に振っては、新婚夫婦の今後が危ぶまれる。しかし、それならば費用はできるだけ抑えて、そのかわり二人の労力をかけるというのはどうだろう。儀式の会場なんてどこでもいいから、二人でせっせと招待状を手書きし、今までお世話になった友人・知人・その他の関係者を招く。そして、そんな人々を可能な範囲で心からもてなし、これまでの御礼と今後の誓いを述べるわけだ。ここで大切なのは二人の門出のために、多くの人々を巻き込むということである。そうすることによって、特に新郎は自分自身に大きなプレッシャーがかかることだろう。「わざわざ時間を割いて参加・協力してくれた方々のことを考えると、今後何があっても簡単に別れることはできないぞ」という決意と覚悟、すなわち夫婦としての責任感が自ずと芽生えるということが、結婚式の一番の意味と効能だと思うのだ。実際、僕も自分の結婚式のとき、多くの友人・知人に協力を仰ぎ、VTRを格安で製作してもらったり、パンフレットやウェルカムボードをほぼ無償で作ってもらったり、とにかく祝儀の名目をフル活用した。言わば、友人・知人たちに貸しを作ったようなものだ。だからこそ結婚式のあと、僕は友人の一人に「俺たちにここまで協力させておいて、もし奥さんを泣かすようなことがあったら、袋叩きにするぞ」と厳しい叱咤まじりの激励を受けた。なるほど、おっしゃる通りである。自分のために多くの人々を巻き込んだからこそ、僕は自分の責任の大きさを感じ、襟を正す思いになれたのだ。あれから1年半がすぎ、これまでの結婚生活の中で僕らは何度も激しい夫婦喧嘩を繰り返し、それによって自分の中に漠然とした不安が芽生えたこともあった。しかし、そのたびに僕は結婚式の出来事を思い出し、当時みんなに誓った責任をまっとうしようと、自分を奮い立たせた。かくして、僕は時間の経過とともに徐々に結婚生活に慣れ、最近は僕らだけの生活スタイルというものを確立しつつある。これも結婚式のおかげなのだ。現代の日本では離婚率が著しく上昇しているという。その原因のひとつに、冒頭で述べた結婚式の排除、あるいは簡略化の傾向があるのではないか。書類ひとつで気軽に結婚してしまう男女が増えているらしいが、それが結婚に対する覚悟を薄れさせ、ひいては離婚につながっているのかもしれない。簡単な結婚は簡単な離婚を生む、ということだ。そう考えると、きちんと結婚式をやるということは、現代日本における離婚率の上昇に歯止めをかける効果があるはずだ。大切なのは金をかけることではなく、友人・知人を巻き込み、労力をかけるということだ。人間同士が育んできた情と絆に甘えることだ。正直、新郎側である男性には特にそれが必要だと思う。男性は女性に比べて、子供から大人になるまでの生理的な通過儀礼が少ない。女性は大人になっていく過程で出産をはじめとする様々な肉体の変化があり、そのたびに自分と向き合うことが求められるが、男性はそれが皆無に等しく、だから人生の節目のたびになんらかの儀式を経ないことには、なかなか大人になる自覚が芽生えないのだろう。女性より男性のほうが精神年齢が低いという一般論は、よく考えてみれば当然のことなのだ。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年10月19日グルメ番組というものが、どうも性に合わない。一流料理人が調理した高級料理から路地裏のB級グルメまで、とにかく様々な食べ物を名だたるタレントや文化人たちがこぞって絶賛したり、時に厳しく非難したり、そういう飽食の国ならではの批評的な構図が卑しく見えてしまう。中でも「まずい」という台詞は、誰が発するにせよ、公共の電波では聞きたくない。人間はいつからそんな傲慢な存在になったのか。また、「うまい」だの「まいうー」だの、そういった肯定的な台詞も、あんまり繰り返されると嫌悪感を抱いてしまう。人間の本能的な欲求である食欲というものは、それがゆえにどこか睡眠欲や性欲などと共通する部分があり、だから人間が食欲を剥き出しにする光景を見せつけられると、他人の性欲を眼前にしたかのような恥ずかしさ、あるいは低俗性を感じる。この世のあらゆる欲望は、基本的に内に秘めたるものであって、大衆に晒すものではない。丸々と肥えた上流階級風情がしたり顔でグルメを語るということは、表層的な気品を被っただけで、実は非常に下品な欲望露呈行為のひとつだと思う。これは結婚生活にも通ずる話であり、夫が妻の手料理に対して「あーだ、こーだ」とイチャモンをつける様子がどうも気に食わない。僕の友人である某男性は、奥様が料理下手だということを今年6月に結婚して初めて知ったそうで、「おまえの料理はまずいから、もっと勉強しろ!」といった厳しい台詞を奥様に浴びせているという。この話を聞いたとき、僕は奥様に対していたたまれない気持ちになった。確かに、妻が料理下手ということは家族にとって由々しき問題だろうが、それにしても言葉が辛辣すぎる。最近は「なんでもはっきり言うほうが、その人のためになる」という考え方が主流を占めつつあるが、それはきっと物事を是正する際の最終手段であり、是正対策の序盤で安直に使用されるべきではないのだろう。言葉の暴力によって深い傷を負う人間もいることを考えると、それが諸刃の剣にもなりうることを充分に考慮しなければならない。もし僕の妻に同じ台詞をぶつけたら、おそらく彼女は部屋から出てこなくなると思う。それに、こういうダメ出しの類は夫婦間では逆効果になる危険性もはらんでいる。人間という生き物は、大人になればなるほど、あるいは間柄が親密になればなるほど、妙な自意識が邪魔をして相手からの注意を素直に受け入れられなくなる。だから、こういう厳しい台詞はかえって妻のヘソを曲げてしまうこともあるわけだ。考えるに、こういうケースに陥った場合の夫は、まず自分の目的を明確化することが大切なのだ。そしてこの場合、夫の目的は妻に文句を垂れることではなく、妻の料理の腕前を上達させることであり、そのために必要なのは意識改革に他ならない。料理というものは、真剣に取り組めば誰だってある程度は上達するものなのだから、妻が料理をきちんと学ぼうという気持ちになってくれれば、つまり意識改革さえできれば、その目的は果たされたようなものだ。それなのに妻のヘソを曲げてしまっては何も始まらないだろう。具体的には、妻に料理への愛着を抱いてもらうことが重要だ。現状ではあまり美味しくない料理であっても、夫が優しく褒めてあげることで、妻の気分は向上するだろう。そして、そのうえで夫のほうから「自分が作ってほしい料理」を妻にリクエストするといい。それも肉ジャガやカレーライスといった定番料理ではなく、あえて妻が一度も作ったことがないであろう難解な、あるいはマニアックな料理を選択する。たとえば「君が作ったスペイン料理が食べたい」「本格的な中華を作ってくれたら嬉しい」などである。こうすることで、妻がその料理のレシピを学ぼうとしてくれたら万々歳だ。本屋で料理本を購入したり、ネットで料理のレシピを調べたり、初めて作る料理だからこそ人間は一から学ぼうとするわけで、その結果の積み重ねが無意識の技術向上につながっていく。さらにその情熱を消さぬよう、妻の姿勢をきちんと褒めてあげることも重要だ。食事の支度とは、妻が専業主婦であるなら、彼女にとって最大の仕事なのだから、それが報われたという充実感は何よりも活力になる。それはすべての仕事に共通する話だろう。また、これは僕の知人の料理人が教えてくれた裏技だが、料理が下手な妻にあえて夫のほうから「料理を教えてくれない?」と頼んでみると、自然に彼女は料理を学び始めるという。なるほど、これは逆説的な真理のひとつかもしれない。人間は誰しも、他人に何かを教えるとなったら、まずは自分できっちり勉強しようとする。「他人に何かを教える」という行為には、「自分が学ぶ」という裏の意味も含まれているのだ。要するに妻の手料理というものは、たとえそれがどんなにまずいものであっても、そう簡単に非難してはいけない。非難したところで料理の腕前が向上するとは限らず、ただ彼女の心を傷つけるだけに終わってしまうこともあるからだ。それよりも、まずは作ってくれた気持ちに感謝して、文句を言わずに食べるほうが人間として美しい。そして、その後にゆっくり妻の料理に対する意識改革を自然な形で促してあげるといい。なんでもかんでも正直者である必要はないのだ。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年10月12日いきなりで恐縮だが、10月上旬に僕の新刊小説が発売される。タイトルは『虎がにじんだ夕暮れ』(山田隆道 / PHP研究所)。1980年代~00年代の大阪を舞台に、熱狂的な阪神ファンのパワフルじいちゃんと少し頼りない孫の少年、そして二人が暮らす三世代家族の18年間にも及ぶ「ある悲喜劇」をリアルに描いた、涙と笑いの家族小説……のつもり。今回はハードカバーを予定しているため、気合いの入り方が違う。はっきり言って、自信あります。家族の物語なので、日本人ならどなたでも楽しめるはず。あ、すでにアマゾンで予約が始まっているみたいー。露骨でごめんなさい。さて、その小説の中でも夫婦の関係や恋愛の悲喜交々をたっぷり詰め込ませていただいた。こういう恋愛・結婚をテーマにした連載をやらせていただいているのだから、当然といえば当然だ。やはり男女の関係は、何を切り取ってもおもしろい。特に最近の僕が関心を寄せているのが、夫婦間のパワーバランスについてである。要するに、夫と妻のどちらが上に立つかということだ。夫婦関係とは、このいずれかのパワーバランスによって成り立つことが多い。「亭主関白orカカア天下」ということだ。僕と同じ男性にしてみれば、そりゃあ圧倒的に亭主関白のほうが好都合だろう。特にまだまだ遊びたいさかり(浮気という意味ではないよ)の20代~30代の男性にとっては、奥様の尻に敷かれるような、いわゆるカカア天下になってしまうと窮屈でしょうがない。結婚後もそれなりに友達と夜遊びしたり、時にはキャバクラぐらいには行ったり、そういう自由を満喫しようと思ったら、奥様との亭主関白関係を築くしかないわけだ。ちなみに昭和を代表する名俳優・勝新太郎(故人)は中村玉緒という良妻がいながらにして、その妻に堂々と浮気を公認させていたという。中村玉緒曰く、いくら勝新太郎が外で浮気をしようとも、最終的に自分のところに帰ってこればいい、だとか。なるほど、これぞまさに「男は船、女は港」の考え方である。大海に船出して、色んな島(女)に立ち寄ってくるのはいいが、あくまで帰ってくる港は奥様ということだ。確かにこういう亭主関白関係はうらやましい。健康的な男性なら、浮気とまではいかなくても、せめてキャバクラぐらいは奥様に容認させたいところだろう。なお、これはあくまで一般論です。僕が遊びたいというわけではありません。さて、そんな亭主関白関係の築き方だが、ここで大切なのは奥様と結婚した当初のころである。初期段階で夫の権利を妻に大きく認めさせる。要するにこれは、男女の権利を巡った陣地取り合戦みたいなものであり、その戦いに勝つためには最初が肝心なのだ。具体策としては、まず目標設定である。たとえば「キャバクラくらいは妻に認めさせたい」などと、夫が最低限勝ち取りたい陣地(権利)を心の中で明確にしておくことだ。そして、いざ勝負である。その目標を設定したうえで、それよりもはるかに「ランクが上の傍若無人な行為」を、あえて妻に平然と宣言してみるわけだ。「今度、友達から風俗に付き合ってくれって誘われているから行ってくるね」自分で書いておいてなんだが、さすがに無茶苦茶な発言である。これを容認してくれる妻は、世の中にそういないだろう。したがって、奥様が「なにわけのわかんないこと言ってんの? ダメに決まってんじゃん」などと冷たく言い放つことは想定の範囲内だ。それに対して夫は「わかったよ。おまえのために断わるから」と素直にしたがえばいい。ここでの目的は、奥様の脳裏に「旦那を束縛した」という記憶を刻んでおくことだ。さらに、あえて奥様をほったらかしにして、男友達と連日飲み歩いてみるのもいい。当然、奥様はだんだん不機嫌になり、やがて「ねえ、あたしをほったらかして友達とばっかり飲みに行くってどういうことよ!? 」と抗議してくるだろう。そこで、夫はまたも渋々了承すればいい。「わかったよ。おまえのために友達付き合いを控えるようにするよ」つまり、こういう「奥様のクレーム→夫の了承」を何度か繰り返していき、奥様の脳裏に少しずつ「夫を束縛すること」に対する罪悪感を植えつけていくわけだ。そんなある日、タイミングを見計らって、奥様にこう切り出してみる。「最近友達に厭味言われてるんだよね。結婚してから付き合いが悪くなったって。今度もみんなで風俗行こうって話があって、俺は断わったんだけど、なんか空気壊してさー」しかし、それでも奥様は風俗を許せるわけがなく、憮然とした表情を浮かべることだろう。そこで、最後の大勝負である。奥様に対して「わかってるよ。風俗なんか行くわけないじゃん。けど、キャバクラぐらいはいいだろ? 」と本来の目標を打診するのだ。すると、どうだ。今まで風俗の話ばかりしていたため、奥様の中でのキャバクラのハードルが著しく下がり、「まあ、それぐらいなら」とついついキャバクラを容認してしまう可能性が高くなる。えっ、そんなわけないって? いやいや、一回試してみてください。つまり、初期段階で奥様の夫に対する一般的な束縛基準を崩壊させ、そこに新たな束縛基準を上書きすることが、理想的な亭主関白関係を築くうえでは重要なのだ。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年09月07日山田優と小栗旬の結婚先日ホワイトデーの3月14日に結婚した、女優の山田優と俳優の小栗旬。(画像:山田優オフィシャルブログより)報告会見で山田は、「浮気したらシメます。当分、仕事ができないくらいに」と、宣言して小栗を怖がらせていたが、それほどまでに小栗の「浮気ぐせ」は有名だった。しかし、サンケイスポーツが山田の弟の親太朗に暴露させた、「姉のブラのカップがCからEになった」という発言によると、今のところ二人は現在順調な新婚生活を送っているもよう。小栗が山田に決めた理由それでは、そんな浮気モテ男の小栗が「山田に決めた」理由とはいったいなんだったのだろうか。週間実話が芸能関係者に行った取材によると、「あのポッテリ唇を駆使した生フェラの快感が、他の女では得られなかったからということです。それに浮気されても山田の方が小栗にゾッコンだったことも大きい」と衝撃の理由が明らかに。モテ男を落とすには「一途さ」と「夜の営み上手」が決め手となったようだが、果たして小栗の「ウッズ病」は治ったのだろうか。そんな理由で結婚を決めたのだとしたら、まだまだ「薬」が必要な状況であるような気がしてならない。山田が小栗を「シメる」日も近いのかもしれない。編集部 鈴木真美【おすすめニュース】小池栄子と佐藤江梨子がダブルAV出演か大森南朋に小野ゆり子を紹介したのは蒼井優だったAKB48前田敦子ヌード5000万円宮崎あおいと岡田准一の不倫、元夫高岡蒼佑のツイートが止まらない元の記事を読む
2012年04月02日山田花子、愛夫との間に待望のベビー誕生へ吉本興業の山田花子(36)が所属事務所を通じて待望の懐妊報告をした。2010年にトランペット講師の一般男性と結婚した山田が6日、喜びの第1子懐妊(妊娠5ヵ月)を報告。喜びのコメント山田は「元気な赤ちゃんが生まれるように大好きなお酒も我慢しています!早く、赤ちゃんに会いたいです。ベイビーカモ~ン」と、自身のギャグでコメントし、ツイッターでは「たまにお腹の中で赤ちゃんが動いているのがわかってきました。これからもセクシーな母親になれるように頑張ります!」「アラフォーですが、がんばります!息子が2匹、娘が1匹・・・うち、ヒト科は、1匹だけ。猫のいる生活は癒し、難しい年頃の息子のいない生活は、楽チンそれなりに悩みもあるけど^^;」と、喜びと同時に少しの不安も記している。また、これからの活動については、体調を見ながら出産まで仕事を続けて行き、産後の復帰は未定だという。山田のような卵肌の可愛いベビー誕生が待たれる。元の記事を読む
2012年02月07日