那須御用邸でのご静養に向かわれる天皇ご一家を、大勢の市民が出迎えた8月19日の那須塩原駅前。ご交流は30分以上続いたが、途中でこんなひとコマがあった。「暑い中、ありがとうございます」と人々にお声がけされていた陛下。ハンカチでお顔の汗を拭きながら、笑顔で「ハンカチ王子」とつぶやかれたのだ。「これには集まった人たちからドッと笑い声が上がり、雅子さま、愛子さまも破顔一笑。しばらくの間、周囲が笑顔で包まれました。ご一家の様子を拝見していますと、陛下が若いころから話されている『国民の中に入っていく皇室』を、ご即位後すぐから実践されているのを感じます」(皇室担当記者)陛下は子供のころから、いわゆる“親父ギャグ”を好まれてきたと明かすのは、学習院初等科時代からのご学友だ。「中等科のころ、演奏会で『G線上のアリア』を演奏された陛下が、私たちに『最近盆栽に凝っているんだ』とおっしゃったのです。友人の一人が『それじゃ、ジイさんだね』と言うと、陛下が『だから、ジイさん(G線)上のアリアなんだとよ』とお答えになって、みんなで大笑いしました」陛下に負けず劣らず雅子さまも、記者会見などでユーモアに富んだ発言をされることが多かった。ただ当時は、積極的に発言される雅子さまに「しゃべりすぎ」といった心ないバッシングが浴びせられることもあったのだ。それでも雅子さまは発言することを恐れず、’96年12月にはご結婚後初めての単独記者会見に臨まれた。この会見では欧米マスコミの「皇室に馴染めずに雅子さまはうつ状態」といった報道に対する、こんな切り返しもあった。《今、脳内モルヒネとかというものがちょっと話題になっているようですけれども、そんなものも私の場合、それなりに出ているのか、うつ状態とかそういうことは全くありません》しかし’03年12月、雅子さまは体調不良で入院。その後、適応障害と診断された。「理不尽なバッシングやネガティブな報道であってもユーモアでかわされてきた雅子さまでしたが、精神的に限界だったのでしょう。それ以来、雅子さまのユーモアは影を潜めてしまったのです」(前出・皇室担当記者)’02年12月を最後に、現在まで雅子さまが記者会見に臨まれたことは一度もない。陛下のご即位後、堂々としたお振舞いで脚光を浴びる雅子さまだが、適応障害を完全に克服されたわけではないのだ。ご静養先での取材でも、まだ緊張は大きいと思われる。精神科医で立教大学教授の香山リカさんもこう語る。「雅子さまも一般の人たちと会話されるときには、皇后としての品格を見せなければと身構えるところもおありだと思います。そんなとき、陛下がいつもと変わらずパッと笑いが出るような会話でその場を和ませてくださることで、雅子さまもふだんと同じ自然体でお話しになれるのでしょう」かつて陛下は、夫婦円満の秘訣をこう語られた。《相手を思いやり、相手の立場に立って物事を考えること。そして、お互いによく話し合い、また、大変な時にも、「笑い」を生活の中で忘れないように、ということ》「雅子を笑顔に!」そんな天皇陛下の“愛の奮闘”に支えられ、雅子さまのご活躍はこれからも続く――。
2019年08月30日74回目の終戦の日を迎えた8月15日、正午――。天皇陛下と雅子さまは「全国戦没者之霊」と書かれた白木の標柱の前に立たれ、1分間の黙祷を捧げられた。天皇皇后両陛下にとって、日本武道館の全国戦没者追悼式に出席されるのは初めてのこと。黙祷のあと、陛下はお言葉を述べられた。《戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります》天皇陛下は、上皇陛下が用いてこられた「深い反省」という表現を踏襲されたのだ。皇室担当記者が言う。「安倍首相は第2次安倍内閣発足後、’93年以降の首相が必ず言及してきたアジア諸国への加害責任について式辞から削除しました。一方で上皇陛下は、戦後70年となった’15年の式典から『深い反省』という表現を加えられたのです。今年、上皇ご夫妻はテレビ中継で式典をご覧になり、黙祷を捧げられました。戦後生まれの天皇陛下と雅子さまが平和の願い、非戦の決意をしっかり継承されていることを感じられて、安堵なさったのではないでしょうか」しかし、8月9日には心配なニュースもあった。美智子さまが早期の乳がんと診断されたと、宮内庁が発表したのだ。美智子さまは10年以上前から、定期的に乳がん検診を受けられていたという。本誌も’03年5月、当時東京都豊島区にあった癌研究会附属病院に、美智子さまがお忍びで入られる様子を目撃している。「上皇ご夫妻は宮内庁病院だけに頼らず、より専門的な治療を受けるために、積極的にほかの病院での検査も受けられていたのです。上皇陛下をお支えするため、健康維持に努められてきた美智子さまですが、やはり御代替わりに伴う激務は大きなストレスになって積み重なっていたのかもしれません」(前出・皇室担当記者)
2019年08月25日猛暑が続く令和元年の夏――。天皇陛下と雅子さま、愛子さまが、ご静養先の須崎御用邸から帰京されたのは8月5日だった。6日は広島、9日は長崎の原爆の日。15日は終戦の日だ。日本人にとって“忘れてはならない日”が続く。「昨年まではご静養先で黙祷されることも多かったのですが、陛下が即位された今年は、赤坂御所でお慎みになりたいというお気持ちがあったのかもしれません。天皇ご一家の責務として、国民とともに平和を祈る。そのご姿勢の表れなのだと思います」(宮内庁関係者)そして8月15日、天皇皇后両陛下は全国戦没者追悼式に初めて出席される。「8月末には、ご一家そろって那須御用邸で静養される予定です。ただ、もしかすると来年は、8月に御用邸に行かれることはないかもしれません。東京オリンピック・パラリンピックが開催されるからです」(前出・宮内庁関係者)来年7月24日が、東京で2度目の開催となるオリンピックの開会式だ。8月9日に閉幕すると、続いてパラリンピックが8月25日から始まることになっている。天皇陛下は、オリンピックとパラリンピック、両大会の名誉総裁を務められることが決まっている。「’64年の東京五輪は、当時4歳だった陛下も上皇ご夫妻とともにご観戦。国立競技場で観戦されたマラソンでは、優勝したエチオピアのアベベ選手、銅メダルを獲得した日本の円谷幸吉選手に一生懸命声援を送られました。それから半世紀あまりを経て、ご自身が名誉総裁として迎える2度目の東京五輪に、感慨もひとしおでしょう」(皇室担当記者)前回の東京パラリンピック開催にあたっては、美智子さまの働きかけが大きかったという。「当時の日本では、障害者スポーツはリハビリのためのもの、という認識でした。競技としては普及していなかったのです。美智子さまは知人からパラリンピックの意義をお聞きになり、福祉関係者に働きかけて東京大会実現に協力しました。翌’65年から全国身体障害者スポーツ大会(現・全国障害者スポーツ大会)が始まっていますが、これは上皇陛下の発案によるものです。平成になってから天皇陛下に引き継がれ、雅子さまも開会式に出席されてきました」(前出・皇室担当記者)昨年6月には、陛下がリオパラリンピックの女子マラソン銀メダリスト・道下美里さんを赤坂御用地に招待。視覚障害のある道下さんの伴走を陛下が務め、一緒にジョギングをされた。両陛下はパラアスリートとの親交を深めながら、障害者スポーツの普及に取り組まれてきたのだ。天皇陛下の即位から1年というタイミングで迎える東京五輪。雅子さまは昨年12月の誕生日に、東京五輪を始めとする行事について《日本と世界の交流や相互理解が深められていく機会となることを願っております》と記されている。「世界中の注目が日本に集まるだけではなく、各国から首脳や王族も来日します。国際親善という観点から見ても一大イベントです。雅子さまは、トランプ米大統領やマクロン仏大統領への接遇ぶりにより、世界から脚光を浴びています。“平和の祭典”である五輪において、雅子さまの存在が国々の“懸け橋”になるのではないでしょうか」(皇室ジャーナリスト)
2019年08月11日「お妃候補と報じられた女性たちも、雅子さまと同じくすでに50代になっています。実は、愛子さまの同級生のお母さまの中にも、かつてお妃候補だった方がいるのです」(皇室担当記者)今年5月の御代替わりで、雅子さまは皇后となられた。雅子さまが初めてお妃候補と報じられたのは’87年12月のこと。天皇陛下からのプロポーズ、ご成婚、愛子さまの誕生という喜ばしい出来事のかたわら、適応障害での長いご療養の日々もあった。その一方で、“雅子さまのライバルたち”も、それぞれ激動の半生を送っていたのだ――。’87年ごろ、お妃候補と報じられていた小林詔子さん。父は大手生命保険会社の専務(のちに社長)で、週刊誌報道では3姉妹そろって名前が挙がっていた。現在の職業は、なんと国会議員。’88年に学習院大学を卒業した直後、小学校の先輩で富士急行の御曹司・堀内光一郎氏と結婚。光一郎氏の父は富士急行社長を務め、自民党の衆議院議員として労働大臣や通産大臣を歴任した堀内光雄氏。光雄氏が’09年に政界を引退すると、後継者として白羽の矢が立ったのが義理の娘である詔子さんだったのだ。’12年の初当選から当選3回と、現在も衆議院議員を務める堀内詔子さんに本誌は取材を申し込んだが、秘書を通じて「畏れ多いことですので」との返事のみだった。実は詔子さんだけではなく、息子のMくんまで「佳子さまと交際している」と報じられたこともあった。だが『週刊新潮』の取材に対し詔子さんは「まったくない」ときっぱり否定。親子2代での“候補”報道に、困惑も大きかったのだろうか……。雅子さまはトランプ米大統領やマクロン仏大統領への接遇ぶりなどで世界から脚光を浴びているが、元お妃候補のなかにも世界的な実績を残している女性たちがいる。小学6年生で全日本学生音楽コンクール1位になり、お妃候補としても注目を集めていた瀬川祥子さんは、ヴァイオリニストとして活躍中。現在はパリ在住で、世界各地で演奏を披露している。姉・冬子さんとともにお妃候補に挙げられていた徳川直子さんは徳川宗家の分家の出身で、曾祖父は大正天皇に仕えた元侍従長という名家。直子さんは現在、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究員になっており、HPにもその名前が記載されている。’05年には小型超音速実験機「NEXST-1」の飛行実験を成功させた。東京―パリ間を6時間で結ぶマッハ2の飛行を想定した実験で、次世代超音速旅客機の開発に向けた大きな成果だったという。くしくも皇室と関わることになった元お妃候補も。10代のころから天才ハープ奏者として名を馳せた吉野直子さんは、’87年12月に上皇ご夫妻がコンサートを鑑賞されたことで、一躍候補に浮上した。現在も日本を代表するハーピストとして活躍を続け、今年2月の「天皇陛下在位30年記念式典」にも出演。ソプラノ歌手の鮫島有美子さんとともに、美智子さまが作曲された子守歌『おもひ子』を披露している。本誌が取材を申し込むと、マネージャーより「音楽のお話しでしたらさせていただきますが、お妃候補のことについては、何もお話しできません」との返答だった。’77年8月に『週刊新潮』が報じ“お妃候補第一号”と呼ばれた山崎妙子さんは、美術館の館長になっており、天皇陛下との“再会”も果たしていた。軽井沢で陛下とテニスでダブルスを組んでいたことが明らかとなり注目を集めた山崎さんだったが、東京藝術大学大学院在学中の’86年11月に結婚。日本美術史の博士号を取得した山崎さんは、’07年に山種証券創業者である祖父が設立した山種美術館の館長に。日本で初めての日本画専門の美術館として’66年に開館した山種美術館には、皇族方が鑑賞に足を運ばれることも多い。’12年11月には上皇ご夫妻がご訪問。さらに’15年1月には、天皇陛下と雅子さまがそろって展覧会に。かつてのお妃候補と雅子さまが顔を合わせるという、珍しい場面もあったのだ。
2019年08月09日1974年(昭和49年)8月、天皇陛下は2週間にわたってオーストラリアを旅行された。14歳にして初めての、お一人での海外旅行だった。メルボルンの民家にホームステイされて各地を訪問された陛下だったが、とりわけ楽しみにされていたのがエアーズロック登頂だ。本誌は「浩宮さまオーストラリア体験旅行現地取材第2報」(’74年9月12日号)にて、その模様を報じている(以下、《》内は同記事より)。巨大な一枚岩に挑まれる陛下のいでたちは、水色のシャツに濃紺のセーターとスラックス。黒のカーボーイハットを被り、サングラスをかけていらした。急な岩の斜面を登る陛下のお姿を上から撮影するため、まっさきにカメラマンが登り始める。《岩の上に寝ころがって、ハアハアあえいでいると、早くも追いつかれた浩宮さまが、「あれッ、もうダメなの?」そういって、お笑いになった》いまでは登山家で知られる陛下は、このときも涼しい顔。息をつきながら登る報道陣や随行の侍従たちを見かねて、陛下が「それでは、ここらで小休止にしましょうか」と提案される場面もあった。頂上に着くと、陛下は登頂記念のサイン帳に“Naruhito”と署名された。報道陣に「どうぞ、みなさん、いっしょに撮りましょう!」と気さくに呼びかけられるなど、終始ニコニコ笑顔。下山の途中には、侍従が缶入りの飲み物を陛下に差し出した。《「殿下、ビアーをどうぞ」「えっ、ビールですかあ?」》驚かれる陛下。しかし、缶の英文字を読んで気づかれる。《缶のラベルを見つめて、「なんだ、ジンジャーだ」と一気にゴクゴク。こちらでは、その飲料を”ジンジャビア”という》念願のエアーズロック登頂を遂げられた陛下にとって、至福の一杯であったに違いない。
2019年06月11日「徳仁」と書かれた水泳帽をかぶって胸を張るのは、当時中学1年生の天皇陛下。「赤フンドシ」姿で水泳の鍛錬に臨まれたのだ。《乃木将軍が学習院院長だったころからの伝統の赤フンドシ日やけした肌にきりりとしめて、いかにもたくましい浩宮さま》(『女性自身』1972年8月26日号「伝統の赤フンドシ」より)天皇陛下はこの年の8月、静岡県沼津市の学習院遊泳場で1週間にわたる水泳合宿に参加されていた。男子は赤フンドシ、女子は水着に赤い帯を巻いて臨むこの合宿。上皇さまも経験され、現在まで続いている伝統行事だ。《自習のための勉強道具もたくさんもちこんで、訓練につぐ訓練のきびしい毎日だ。いま水泳の腕は4級だが、合宿の終わるころには、西郷島まで4キロの遠泳に挑戦!3級に進級なさるのを楽しみに、カッと照る夏の日を浴びておいでだ》(前出記事より)陛下はこの合宿の成果か、学習院伝統の古式泳法である平泳ぎが得意になられた。トライアスロンに挑戦し、スピードアップのためクロールのマスターに力を入れられたこともあったそうだ。
2019年05月31日御代替わりで皇嗣になられた秋篠宮さま。『女性自身』ではその幼少期から取材を続けている。この写真で当時7歳の天皇陛下に支えられている秋篠宮さまは、まだ1歳5カ月。どうして大号泣されているのか――。《さっきまで、自動車をさして、“ブーブー”とごきげんだったのに。南米へと出発なさるお母さまの姿が車の中に消えたとたん、淋しくてたまらなくなってしまったのだ。》(『女性自身』1977年5月22日号「おたたちゃま、行っちゃイヤ!」より)この日、上皇さま(当時は皇太子)と美智子さまは、22日間にわたる南米ご訪問へ出発された。ご両親が地球の裏側に国際親善へと向かわれるあいだ、兄弟でのお留守番となったのだ。陛下はお兄さまとして、ご両親の代わりにしっかりお世話をされた。陛下が日本橋高島屋へ買い物に出かけた日には、秋篠宮さまのおみやげにブリキの機関車を買って帰られた。東宮御所に着くとまっさきに動かしてお見せになったという。長いお留守番を終え、ご両親がお帰りになる日。東宮御所の玄関で待っていた秋篠宮さまは、車のドアが開かないうちに走りより、飛び立つように降りた美智子さまは、抱き上げてほおずりをされたのだった。
2019年05月25日5月4日、天皇陛下のご即位を祝う一般参賀が行われ、参賀者は14万以上にのぼった。雅子さまをはじめ、女性皇族の方々は美しいローブモンタント姿を披露され、その華やかさに参賀者からは感嘆の声が上がった。令和の時代を迎えた現在、女性皇族は11人。雅子さまをお支えする、新時代のプリンセス11人のプロフィールを一挙に振り返る。■愛子さま天皇皇后両陛下のご長女で、現在学習院女子高等科の3年生。音楽がお好きで、チェロ、バイオリンを演奏される。また、スポーツも得意で、学習院女子中・高等科の校内スポーツ大会ではバスケットボール、ソフトボールで活躍されたという。最近は仲のよいお友達と、文化祭でチアダンスを披露。昨年には英イートン校のサマースクールにも参加し、お一人での初めての海外訪問となった。皇族方が身の回りにつけるシンボル、「お印」はゴヨウツツジ。那須御用邸の周辺に咲いており、「純白の花のような純真な心を持った子どもに育ってほしい」との思いが込められている。■紀子さま秋篠宮さまとは学習院大学の書店で出会い、キャンパスの恋を実らせて’90年にご結婚。アメリカやオーストリアで幼少期を過ごされ、英語やドイツ語も堪能で知られる。悠仁さまのご懐妊中に海外絵本を翻訳されたことも。手話も得意なほか、結核予防会総裁を務められるなど、福祉関係にも尽力されている。今後は皇嗣妃殿下として、重責を担われることになる。お印は檜扇菖蒲(ヒオウギアヤメ)。昭和天皇が那須高原の湿原に美しく咲くヒオウギアヤメの研究をしており、秋篠宮さまも研究を手伝われていたことから選ばれた。■眞子さま上皇陛下と美智子さまの初孫にして、秋篠宮ご夫妻のご長女。国際基督教大学へ進学し、同大学院に在学中。これまで2度のイギリス留学で、博物館学を学ばれた。現在、東京・丸の内にある博物館「インターメディアテク」にお勤めになるとともに、ご公務に臨まれている。今年7月には、南米のペルーとボリビアを公式訪問される予定。昨年、小室圭さんとのご結婚が延期になり、今後が注目される。お印は木香茨(もっこうばら)。秋篠宮ご夫妻がお好きな花で、紀子さまがお選びになった。秋篠宮家の庭に植えられており、初夏に可憐な花を咲かせる。■佳子さまこの春、国際基督教大学をご卒業。高校生のころからダンスがお好きで、最近でもスクールの発表会にも参加して踊りを披露されている。大学では心理学を専攻されたほか、イギリスに9カ月間留学、舞台芸術を学ばれた。これまで手話甲子園や馬術競技大会、スピーチ大会など若い世代の催しに精力的に取り組まれてきた。ご卒業の際の文書回答で、今後はご公務に励まれると表明されている。お印はゆうな。ゆうなとは、ハイビスカスの一種・オオハマボウの沖縄地方での呼称。秋篠宮ご夫妻が九州南部、沖縄県の島々に咲くこの花がお好きで選ばれた。■寬仁親王妃 信子さま「ヒゲの殿下」として親しまれた故・寬仁親王殿下のお妃で麻生太郎氏の妹。一時期の体調不良から快復し、最近はご公務に復帰。数年前は、ご家族と距離を置かれた時期もあった。お印は花桃。■彬子さま寬仁親王殿下と信子さまのご長女。オックスフォード大学に留学し、日本美術のコレクションについて研究された。祖父・三笠宮殿下から続くトルコとの親善役を引き継がれている。お印は雪。■瑶子さま寬仁親王殿下の次女。学習院女子大学時代は体育会系の剣道部で活躍された。ご卒業後、日本赤十字社にお勤めになった。退社後はお姉さまと力を合わせ、公務に務められている。お印は星。■高円宮妃 久子さま47歳の若さで薨去された故・高円宮殿下のお妃。日本サッカー協会など、殿下から多くの名誉総裁を引き継がれ、東京五輪招致の際には、フランス語で見事なスピーチを披露された。お印は扇。■承子さま高円宮殿下と久子さまのご長女。大学卒業後は日本ユニセフの嘱託職員として勤務されている。妹君の典子さんは出雲大社権宮司・千家国麿さんと、絢子さんは日本郵船の社員・守谷慧さんと結婚された。お印は萩。■三笠宮妃 百合子さま3年前に100歳で薨去された三笠宮殿下のお妃。現在最高齢の皇族で、何度か入院されたが、今年の新年一般参賀にもご参列。新婚時代は庶民的な生活をされていた。お印は桐。■常陸宮妃 華子さま上皇陛下の弟宮・常陸宮殿下と前回の東京五輪が開催された’64年にご結婚。若いころからおしゃれで、気さくなお人柄で人気があった。ゴルフ好きでも知られている。お印は石楠花(シャクナゲ)。現在、未婚の女性皇族は6人。上皇上皇后両陛下のご長女・黒田清子さん(50)や、昨年結婚された守谷絢子さん(28)のように、結婚後は皇室から離れられるのか、それとも「女性宮家」として皇室に残られることとなるのか。「女性天皇」「女系天皇」に関する議論も含め、今後の女性皇族方の境遇について、注目が集まる。
2019年05月11日平成の即位の礼での装束を身にまとわれた、天皇陛下と美智子さま。そのお写真を、雅子さまはじっと見つめられていた――。5月1日の新天皇即位を間近に控え、皇太子ご夫妻は4月24日、東京・上野の東京国立博物館で開催されていた天皇陛下の即位30年を記念した特別展「両陛下と文化交流―平成の日本美を伝える―」を鑑賞されていた。「展覧会で、陛下、そして美智子さまの足跡をご覧になり、雅子さまもいよいよ新皇后になられる実感を抱かれたことでしょう。クリーム色のスーツをお召しになった雅子さまは、報道陣の前でも堂々とされていると感じました。皇后になる日が近づくにつれ、雅子さまのご表情は日に日に明るくなっています」(皇室担当記者)ご体調が劇的に上向いた理由として「愛子さまのご成長が大きい」と語るのは宮内庁関係者。「雅子さまの適応障害の根本には“お世継ぎ”の問題がありました。不妊治療と流産を乗り越え、’01年12月に愛子さまが誕生されたことは皇太子ご夫妻にとって至上の喜びでした。しかし’03年6月、当時の宮内庁長官は定例会見で『やはりもう一人は欲しい』『多くの国民もそう考えているのではないか』と発言。雅子さまにとっては、愛子さまの存在までも否定されたように感じられたことでしょう。半年後に帯状疱疹で入院され長期にわたるご療養に入り、その後、適応障害と診断されたのです」雅子さまはたっぷりと愛情を注ぎ愛子さまを育てられたが、学習院初等科2年生のときにはほとんど登校ができない状態になってしまう。その後も愛子さまの不規則な登校は続いた。実は、愛子さまが小学4年生だった’11年の秋ごろ、雅子さまは親しい知人にこう語っていた。「愛子には愛子の人生があり、皇室に生まれた運命、持って生まれた運命というものがあります。もちろん親としての娘の人生への希望はありますが、私どもの気持ちだけで、あの子の運命を、どうこうするわけにはいかないのです」逡巡する口ぶりから、愛娘の未来を憂う雅子さまの苦悩が伝わってくる。「いずれは“天皇の娘”となられるお立場なのに、皇位継承権を持たない愛子さま。一方で女性宮家創設案も浮上しており、どう育てていくべきか思い悩んでいらしたのでしょう」(前出・宮内庁関係者)しかし、一昨年に学習院女子高等科に進学されてからの愛子さまは、雅子さまを驚かせるほどの急成長を見せられた。「学校では社交的になられ、昨年の文化祭ではご友人たちとチームを組んでダンスを披露されました。さらにステージの司会もお務めになって会場を盛り上げたのです。東宮御所を訪れた外国の要人との懇談に参加され、英語でお話しされたこともあります。昨年の夏には英イートン校への短期留学も経験されています」(前出・宮内庁関係者)4月14日の「オール学習院の集い」でも、皇太子ご一家の仲睦まじいご様子が目撃されている。「盲導犬協会のブースで、雅子さまは愛子さまを促され、募金やお声がけのアドバイスをされていました。積極的に公の場でのなさりようを“特訓”されているようでした」(学習院関係者)雅子さまと愛子さまのまなざしは、新しい時代を見据えている。「娘に皇室に生きる運命を背負わせてしまったことに、ご体調が悪いころの雅子さまは自責の念を抱かれていたと思います。しかし愛子さまは皇族としての役割を受け止め、お立場を自覚されたのです。雅子さまはその成長に驚き、涙されたことでしょう。皇室に嫁ぎ、愛子さまを産んでよかった……。心からそう思えるようになったことで、雅子さまは笑顔を取り戻されたのです」(皇室ジャーナリスト)
2019年04月30日快晴に恵まれた境内には、優しい風が吹き、ときおり小鳥のさえずりが聞こえていた。モーニング姿の天皇陛下が皇室の祖とされる天照大神に譲位を報告されたのに続き、パールカラーのロングドレスに身を包まれた美智子さまも参拝された。4月18日、両陛下が伊勢神宮を訪れ、ご退位に向けた儀式「親謁の儀」に臨まれた。当日、伊勢神宮周辺の沿道には、ご在位中最後の旅となる天皇陛下と美智子さまをお迎えするために約4万3千人の人々が集まった。伊勢神宮に詳しい文筆家で皇學館大学非常勤講師の千種清美さんが語る。「これまで神宮で何度も両陛下をはじめとする皇族方のご参拝を取材してきましたが、今回は本当にすごい歓迎ぶりで驚きました。全国から集まったみなさんから、平成の御代を惜しむ気持ちや、両陛下への感謝が伝わってくるようでした」神宮の関係者によると、両陛下は外宮参拝のとき、いつもより緊張されているご様子だったという。「伊勢神宮の祭主を務める黒田清子さんとご一緒に昼食をお召し上がりになったそうですが、それでリラックスされたのか、午後の内宮ご参拝のときには両陛下とも表情が和らいでいらっしゃいました」’05年11月、東京都職員の黒田慶樹さんと結婚した清子さんは、’13年に伊勢神宮の式年遷宮で臨時祭主として儀式に臨んだ。そして’17年6月、正式に伊勢神宮祭主に就任した。「天皇陛下の代理として祭祀をつかさどる祭主は、皇室を離れた内親王として“最も重いお務め”といえます。両陛下は清子さんに祭主をお任せになることで、これからも皇室を支えてほしいという思いがあったのでしょう。それほど両陛下は、清子さんを信頼されているのです」(前出・皇室担当記者)‘93年、美智子さまが、59歳の誕生日に赤坂御所で突然お倒れになった。陛下と清子さんとご歓談中の出来事だった。一時意識を失われた美智子さまは、言葉を発することができなくなってしまった。その背景には、美智子さまに対するあまりに激しいバッシング報道があったと、皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんは語る。「そのとき清子さまはずっと美智子さまのおそばに寄り添われて、ご快復に力を尽くしました。また、’11年に東日本大震災が起こったときには、黒田さんの運転する車で、誰よりも早く皇居に駆けつけたそうです。結婚後もプライベートな部分で両陛下を支えてきた清子さんは、やはり美智子さまにとって特別な存在なのです」祭主になって以降も頻繁に御所を訪れる清子さんは、美智子さまのご相談相手となっている。「今回の神宮ご参拝で美智子さまのお足元が気になりました。足にご負担がかかるのか、御垣内の白石の上は歩きにくいようで、女官長さんの手を取られて歩かれる場面もありました。退位後に両陛下は御所から高輪皇族邸へ引っ越されます。ご高齢のお二人にとっては準備も大変であまり進んでいないようです。身の回りのことで頼りになるのは清子さんですから、美智子さまはすでに引っ越しについても相談されているそうです」(前出・宮内庁関係者)
2019年04月25日毎月1回開かれてきた天皇陛下、皇太子さま、秋篠宮さまの「三者会談」も、4月24日が最後になる。「三者会談」が行われる以前には、皇太子さまと秋篠宮さまの“対立関係”が表面化したことがあった。’04年5月の会見で皇太子さまは、適応障害で療養に入られた雅子さまについて《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》と言及された。この「人格否定発言」は、雅子さまを守るための悲痛な訴えだった。しかし、秋篠宮さまは同じ年の誕生日会見で《記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったか》と、皇太子さまに苦言を呈されたのだった。「その後、秋篠宮さまは皇室が抱える問題について積極的に発言され、存在感を増していきました。一方で、ご公務への出席が途絶えた雅子さまを庇い続ける皇太子さまへの風当たりは強くなっていきました。その状況は長く続き、’09年ごろには、皇太子さまは秋篠宮さまに皇太子の位を譲るべきという“廃太子論”まで言論誌に掲載される事態になったのです」(前出・皇室ジャーナリスト)その3年後に「三者会談」が始まるのだが、美智子さまのご提案の背景には皇位継承の準備だけではなく、もう一つ大切な理由があったと言うのは前出の宮内庁関係者だ。「’08年2月、当時の羽毛田宮内庁長官が、公式の場である定例記者会見で『愛子さまが両陛下を訪問なさる回数が少ない』などと発言。長官がマスコミの前で皇太子さまへ苦言を呈するという前代未聞の出来事でした。両陛下と皇太子ご一家、秋篠宮家は当時、そういった事態を招くほどコミュニケーションが取れていなかったのです。この状況を憂慮されていた美智子さまはが『三者会談』という場を設けることで、意思の疎通を図ろうとお考えになったのです」御代替わりを前に、秋篠宮家には眞子さまとの婚約が延期となっている“小室圭さん問題”が持ち上がった。バッシングは小室さんだけでなく、秋篠宮家全体にまで及んでいる。「美智子さまもこうした報道はつぶさにチェックされ、遺憾に思われているそうです。このままでは10年前とは逆に、秋篠宮さまが孤立してしまうことも危惧されます。だからこそ発案者の美智子さまは、令和の時代になっても新しい皇室の団結を示すために、新天皇と皇嗣による『頂上会議の継続を!』と望まれているのです。美智子さまが参加されていた昼食会には、新皇后となられる雅子さまが出席されることになると思われます」(皇室担当記者)兄弟が胸襟を開いて協力する姿を見せられれば、美智子さまの「母の不安」も杞憂に終わるはずだ。
2019年04月19日新元号「令和」も決定し、天皇陛下が退位される4月30日まで2週間あまりとなった。退位後の約1年半は品川区の高輪皇族邸に仮住まいされることになっている。高輪皇族邸は’73年に高松宮邸として建てられた。鉄筋コンクリート造りの地下1階、地上1階建て。高松宮妃喜久子さまが’04年に亡くなられるまで住まわれていたが、その後は空き家になっていた。「仮住まいの期間に、現在は皇太子ご夫妻がお住まいになっている赤坂御用地の東宮御所が改修されます。両陛下は’20年末までにその東宮御所に引っ越しされる予定です。改修後の東宮御所は、退位した天皇の住居として『仙洞御所』と改称されます」(宮内庁関係者)高輪皇族邸では改修工事が進むが、両陛下は「リフォームは最小限に」と希望されていた。「両陛下はできるだけ現状のままお住まいになりたいとおっしゃったそうです。国民の負担を極力少なくしたいというお考えなのでしょう。計画されていた運動場や陛下の魚類研究施設も、両陛下のご意向で取りやめになりました」(皇室ジャーナリスト・山下晋司さん)両陛下は引っ越されてから、運動のために皇居の多目的ホールに通われる予定だという。高輪皇族邸は高いビルに囲まれた土地なので、目隠しのための植林が進められている。ほかに邸内の空調設備の取り換えや屋根の防水などが主な改修工事だ。当初約8億4千万円だった予算は、5億円台半ばまで縮小された。「ご退位までお忙しい日々が続きますが、両陛下はお時間を見つけられては私物を確認されているそうです」(宮内庁関係者)皇居からのお引っ越しは大規模なものになるようだ。両陛下の前回のお引っ越しは’93年12月。赤坂御所(現在の東宮御所)から吹上御苑に新築された御所に移り住まれたが、その際に運び出された荷物は2トントラック延べ約100台分。引っ越し全体の予算は約4千万円だった。「陛下のご研究関係の資料や両陛下の蔵書、ご家族の思い出の品など、かなりの量になるはずです。最終的なお住まいとなる現在の東宮御所に倉庫が新設されます。そちらに直接運び込むもの、仮住まいの高輪皇族邸に運び込むもの、この仕分けなどもされているでしょう」(山下さん)
2019年04月13日「私が『陛下と私は、ほぼ同い年ですなあ』とお話しすると、陛下のお顔がほころんで『やあ、そうですねえ』とお答えになりました」そう語るのは、京都仏教会代表理事で、相国寺や金閣寺の住職も務める有馬頼底さん(86)。天皇皇后両陛下は3月25日から京都・奈良を訪問された。その初日、両陛下が近畿地方の首長やゆかりの人々などを京都御所にお招きになり、茶会が開かれた。そこに有馬さんも出席したのだ。お二人の出会いは80年以上も前に遡る。幼稚園に入って2年目の有馬さんが、翌年から入園される陛下(当時は皇太子殿下)の遊び相手8人のうちの1人に選ばれた。月に1~2回、朝から教師に引率されて東宮御所へと向かったという。「御所の庭でもらったビスケットを食べながら待っていると、小柄な陛下が三輪車に乗ってお見えになるのです。陛下と一緒に泥だらけになってブランコや砂場で遊んだものでした。取っ組み合って相撲を取ったのもよく覚えています。帰り道、友人に『お前、東宮さまを殴っただろう』と言われて、『相撲で投げ飛ばしただけだ』と口論になりました。すると先生が『お相撲の勝負だから仕方がないだろう』と仲裁に入ってくれました。今ではいい思い出です」茶会では、有馬さんが金閣寺の住職を兼任していることを伝えると、陛下は「焼ける前の金閣寺を拝見しております」とおっしゃったという。「私は『退位なされたら、ぜひ、修復した金閣にもおいでください』とお誘いしました。さらに『ご退位後は自由になられるのですから、ご先祖様のいらっしゃる京都に1年の半分くらいでも、お住みになってはいかがですか』とご提案させていただくと、陛下はやっぱり『そうですねえ』と笑顔でうなずかれていました」有馬さんは昨年の9月、日仏友好160周年の記念行事に出席するためフランスを公式訪問された皇太子さまにも同行した。「相国寺にある承天閣美術館所蔵の寺宝を出展した関係で、案内役の一人を務めました。エッフェル塔の点灯式では、皇太子殿下がボタンを押すことになっていました。しかし、トラブルで1時間以上も待たされることになったのです。関係者はヤキモキしていたのですが、殿下は焦ることなく、むしろ周囲に笑顔で話しかけ、場をなごませていらっしゃいました。しかもそのあとのスピーチでは流暢なフランス語も披露されました。フランスでの立ち居振舞いを拝見して、御代替わりとなっても、この方が即位なされば皇室は安泰だと思いました」
2019年04月02日4月末のご退位まで重要な儀式が続き、両陛下は忙しい日々を過ごされている。そんな中、両陛下を喜ばせる出来事があった。「3月17日に、天皇陛下の即位30年と美智子さまとのご成婚60年を祝う非公開の昼食会が東宮御所で行われました。その最後に、両陛下を労う“サプライズ”のプレゼントが用意されていたのです」(宮内庁関係者)皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、黒田清子さん夫妻が主催し、皇族方や元皇族、旧宮家の49人が出席したこの内宴では、雅子さまがメニューの考案をされたという。「皇太子殿下のお祝いの言葉で始まり、食事の後にはシャンソン歌手による歌の披露もあり、3時間ほど続きました。両陛下はもちろん、眞子さま、佳子さまも明るい笑顔でした。そして内宴の終わりには、愛子さまと悠仁さまが両陛下に歩み寄られて、悠仁さまが陛下に、愛子さまが美智子さまに花束を手渡されたのです。花束を受け取る両陛下は幸せそうな笑みを浮かべていらっしゃいました」(前出・宮内庁関係者)“将来の天皇”という期待を背負われている悠仁さまと、新天皇になられる皇太子さまの一人娘である愛子さま。「両陛下に花束を渡されたお二人が次世代の皇室で大きな役割を担われます。とりわけ愛子さまは、女性宮家の創設が決まれば、大きく立場が変わられるでしょう」(皇室ジャーナリスト)菅義偉官房長官は18日の参議院予算委員会で、女性宮家の創設を含めた安定的な皇位継承について「(新天皇が)即位された後、そんなに時間を待たないで(検討を行う)と考えている」と述べた。そして安倍首相は20日の国会で、これまで自身が持論としていた“旧宮家の皇籍復帰”について「私自身がGHQの決定を覆すことはまったく考えていない」と、否定的な考えを示したのだ。「旧宮家の皇籍離脱は70年以上前。民間人として暮らしてきた“男系男子”に皇室に入ってもらうのは、現実的ではないと結論づけたのではないでしょうか。旧宮家の復帰がないとなれば、女性宮家の創設がさらに現実味を帯びてくるのは間違いありません。そうなれば愛子さまは、結婚されたとしても皇室に残られることになります」(前出・皇室ジャーナリスト)3月28日に共同通信が報じた注目すべきスクープがある。政府が’97年から、女性皇族への皇位継承について極秘の検討会を開いていたというのだ。さらに’04年春の文書には、女性・女系天皇を認める皇室典範の早期改正方針が記されていたという。「愛子さまが天皇になられる可能性が、一度はかぎりなく実現に近づいていたのです。しかし’06年9月、悠仁さまが誕生され、その直後に第一次安倍内閣が発足。女性・女系天皇の検討はたち消えになりました。ただ、’17年5月の共同通信による世論調査でも女性天皇賛成は86%、女系天皇容認は62%となっています。今後、議論が再燃することも考えられます」(政治部記者)歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは皇位継承問題への危惧を口にする。「今後、悠仁さまが結婚され、さらに男性のお子さまが生まれるという保証はありません。政府がこのまま“男系男子”にこだわるならば皇室の存続が危ぶまれます。このまま問題の解決を先送りすれば、安倍政権は近い将来、皇位継承の危機を招いた責任を負うことになる可能性があるのです」4月から高校3年生になられる愛子さまは、将来はさらなる重責を担われることになるかもしれない。最近では皇太子ご夫妻と一緒に、東宮御所を訪れた外国の要人に積極的に話しかけられて、通訳を介さずに英語で懇談されることもあった。「愛子さまが“新天皇の一人娘”として、積極的にその役目を果たそうとお考えになっているのです。御代替わりを目前にして受け取られた花束に、美智子さまは愛子さまの“自覚”を感じられ、感涙にむせぶほど心を打たれたことでしょう」(前出・皇室担当記者)皇室の次世代を担う平成生まれのプリンセス。その成長を美智子さまはこれからも見守られていくことだろう――。
2019年04月02日2月24日、歌手の三浦大知(31)が「天皇陛下御在位三十年記念式典」で、天皇陛下がご作詞、皇后陛下がご作曲された『歌声の響き』を歌唱し、話題となっている。午後2時より東京・国立劇場で行わた式典で、沖縄出身である三浦は『歌声の響き』を記念演奏として披露。同曲は沖縄周辺の島々に伝わる八・八・八・六の音数律をもつ定型詩である琉歌で、天皇陛下が1975年に初めて沖縄を訪れ、名護市のハンセン病療養所を訪問したことがきっかけで詠んだ歌だという。同式典は、NHK総合、テレビ朝日、またインターネットで生中継が行われ、三浦の歌唱が終わるとネットでは大反響。TwitterやYahoo!のトレンドランキングに「三浦大知」「大地くん」がランクインした。ネットは「歌声も演奏も素晴らしかったです。もぅ…言葉にならない」「正座して聴きました。感動!鳥肌立ちました!式典の雰囲気を崩さずに、尚且つ三浦大知のスタイルも崩さずに、本当に人間性が滲み出ててた。日本の宝です」「素晴らしい歌唱感動を有り難うございました同じ時代に生まれて良かったぁ」と三浦の歌声に称賛の声が殺到している。
2019年02月24日《大君と母宮の愛でし御園生の白樺冴ゆる朝の光に》1月16日、歌会始の儀で発表された雅子さまのお歌である。天皇陛下と美智子さまが皇太子ご夫妻だったころ、お住まいだった東宮御所の庭に育てられた白樺が題材となっている。両陛下への感謝がこめられたお歌だったが、歌会始の儀が催された皇居宮殿「松の間」に雅子さまの姿はなかった。「両陛下が出席されてお歌を披露される歌会始は今回が最後です。’04年以降欠席されている雅子さまは、今年こそは出席したいという思いも強かったはずですが、7日に出席された昭和天皇三十年式年祭の翌日から体調を崩されてしまったのです」(宮内庁関係者)その後も発熱が続き、11日の講書始の儀、そして歌会始の儀も出席を控えられた。雅子さまにとっては悲痛な新年となってしまった。しかし、お代替わり後、新皇后の雅子さまを待ち受ける儀式やご公務の“試練”はさらに重い。5月から11月まで即位関連行事が半年以上にわたって続く。また、両陛下から引き継がれる重要なご公務も目白押しなのだ。「さらに安倍政権は、5~6月中に来日するトランプ米大統領と新天皇皇后両陛下の会見を計画しています。これほどの“過密日程”では、雅子さまがすべてのご公務に出席されるのは不可能に近いでしょう」(皇室担当記者)精神科医で立教大学教授の香山リカさんはこう語る。「雅子さまは適応障害で長期ご静養に入られて15年です。現在はかなり回復されていますが、ご病気になられる前の状態に戻られたとは言えません。雅子さまは新皇后になられてから役割を全うするために努力されると思います。しかし重圧も大きく、お疲れがたまります。いつ調子を崩されてもおかしくはないのです」雅子さまが適応障害と診断されて長期ご療養に入られたのは、’03年12月のこと。その半年後、皇太子さまが行動を起こされたことがある。雅子さまのお出ましが完全に途絶え、国民から心配の声が上がるなか、翌年5月の会見でこのように発言されたのだ。《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》“お世継ぎ”となる男子を産めなかったのに、海外訪問ばかりを望み、公務を休み続けている――。そうしたバッシングに心を痛めていた雅子さまを守るためになさった“人格否定発言”だった。しかし、このご発言は国民に衝撃を与えたばかりか、両陛下も困惑を示されることになった。秋篠宮さまは《せめて陛下と内容について話をして、そのうえでの話であるべきではなかったか》と皇太子さまに苦言を呈された。それから皇太子さまは論争を呼ぶような発言は控えられるようになり、雅子さまのご体調は「東宮職医師団」が毎年1回、文書で発表するだけになった。「宮内庁はこの15年間、体調には波がおありだと繰り返し発表しましたが、もう少し具体的な説明があってもよかったでしょう。雅子さまには、ご自身が国民の前でご症状について語られるには、少なからず恐怖があったはずです。一度でいいので、皇太子さまが国民の前でその説明をなさってもいいと思います」(香山さん)2月23日に59歳の誕生日を迎えられる皇太子さまは、例年のように会見に臨まれる。お代替わり前の会見は、この1回きりだ。“最後のチャンス”に、皇太子さまが再び立ち上がるのではと語るのは皇室ジャーナリスト。「現在は毎月、天皇陛下、秋篠宮さまとの“三者会談”が開かれています。お代替わりに向けた話し合いのなかで、皇太子さまは雅子さまのご体調についてもしっかり説明なさっていると思われます。今回は15年前とは異なり、お二方からの後押しもあるでしょうから、きっと雅子さまの不安を取り除く結果になるはずです」
2019年01月24日三浦大知(31)が2月24日に東京・千代田区の国立劇場で開かれる「天皇陛下在位30年記念式典」にて、記念演奏すると発表された。三浦の国民的行事への参加に、ネットでは大きな反響を呼んでいる。各メディアによると今回三浦は、「歌声の響」を披露。天皇陛下が沖縄訪問時の思いを込めて作詞され、皇后陛下が作曲された楽曲だという。Twitterではファンからの驚きとともに、喜びの声が上がっている。《沖縄県出身の、MJに憧れて歌いはじめ、踊りはじめた小さな少年は、青年になってとうとう天皇陛下、皇后陛下の作られた楽曲を御本人達の前で歌い、舞い踊る事になりましたとさ。いや、すげえや》《天皇皇后両陛下はきっと、三浦大知くんの歌声が国民の心を少しでも和やかにしてくれるだろう、って。そんな風にお考えになっているんじゃないかと想像して今夜は眠りたいです》《驚きすぎて気持ちが成層圏を突破している》三浦は97年にパフォーマンスグループ・Folderのメンバーとしてデビュー。9歳にしてメインボーカルを務めていた。「当時から、その歌声はMISIAさん(40)といった数々の大物ミュージシャンから認められていました。ソロに転向してからも着実にステップアップし、17年には紅白歌合戦に初出場。昨年も出場し、30人のダンサーを引き連れたパフォーマンスで多くの視聴者を魅了しました。昨年12月にリリースした楽曲『Blizzard』のMVが、YouTubeで1,000万回再生を突破したばかり。そのタイミングでの今回の発表に、ファンは喜びもひとしおのようです」(音楽関係者)そのキャリアは20年以上。三浦はついに、国民的歌手としての階段を登りつめたようだ。
2019年01月17日「天皇陛下と美智子さまは、1月下旬に神奈川県の葉山御用邸で静養される予定です。ご滞在中の両陛下は、御用邸裏の『小磯の鼻』と呼ばれる海岸を散策され、地元の人々とお話しされることもあります。ご退位まで4カ月をきったいま、両陛下のお姿を拝見できる貴重な機会になりそうです」そう語る皇室担当記者。退位後の両陛下はご公務をなさる予定はなく、お出ましの機会が激減すると見られている。「両陛下はご静養の初日に横須賀市の観音崎公園を訪れます。戦没船員の慰霊碑に花を手向けられたのち、葉山御用邸へ向かわれるそうです。両陛下として最後のご滞在となりますので、ご家族との思い出にあふれる場所で、お二人の60年間の歩みをゆっくりと振り返られるのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)しかし両陛下、とりわけ美智子さまのご心境は穏やかではないのでは……と心配を口にするのは宮内庁関係者。「眞子さまと小室圭さんの“ご結婚延期問題”が解決しないままお代替わりを迎えることは、ほぼ確実な状況になっているからです」昨年11月に秋篠宮さまは誕生日会見で、現状では『婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません』と明言された。「小室さんに対しての“最終通告”ともいえる、厳しいご発言です。それでも眞子さまのお気持ちは固く、小室さんとの結婚の意志は変わっていないようなのです。年が明けてからも、眞子さまは、小室さんに関しては秋篠宮ご夫妻と“対話拒否”状態にあるようです。美智子さまはこの問題についての発言を慎んでこられました。言葉にはなさいませんが、誰よりも初孫である眞子さまの未来を案じていらっしゃることでしょう」(前出・宮内庁関係者)
2019年01月17日「あ・り・が・と・う」広場に集まった数万人もの人々から大歓声を受けて、皇居・長和殿のベランダに立たれた美智子さま。その唇が何度か、感謝の言葉を紡ぎだすように動いた――。1月2日、快晴の空の下で平成最後の新年一般参賀が行われた。もともと両陛下のお出ましは5回の予定だったが、例年をはるかに上回るペースで人々が詰めかけたため、宮内庁は急きょ6回に変更した。「宮内庁の担当者は、報道陣に対しても『7回目はありません』とアナウンスしていました。しかし、両陛下のお出ましに間に合わなかった人々が大勢いたのです。それをお聞きになった両陛下の強い希望で、7回目のお出ましが決まりました。天皇皇后両陛下は、常に国民に寄り添うことを心がけてこられました。自分たちを求めてくれる声に、できる限り応えたい――。そうお考えになったのでしょう」(宮内庁関係者)昨年12月23日、天皇陛下の誕生日の前に行われた記者会見では、陛下の美智子さまへの深い愛情が伝わってくる場面があった。宮内庁担当記者はこう語る。「会見は20分ほどでした。皇太子殿下、そして天皇陛下としてご自身が歩んでこられた道のりを思い出されたのか、美智子さまへの感謝のお気持ちを述べられるあたりから、涙声を抑えきれなくなられたのです」陛下が涙ぐまれたのは、この言葉を述べられたときだという。《自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民への双方の献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います》文化学園大学客員教授で皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんは言う。「会見の内容は事前にご存じだったにせよ、陛下の真情あふれるご様子に、美智子さまも胸を熱くされたことでしょう。84年の銀婚式会見で、陛下は美智子さまに“努力賞”を、美智子さまは陛下に“感謝状”を差し上げたいとおっしゃいましたが、そのやり取りを思い出しました。先日の会見の際、陛下のお隣に美智子さまがいらしたら、どんな感謝のお言葉を返されたでしょうか」実はいま、美智子さまに“最後のお言葉”を語る場へ臨んでいただく計画が進行中なのだという。前出の宮内庁関係者が言う。「宮内庁記者クラブは、今年4月10日のご成婚60周年もしくは4月末の退位直前に、天皇皇后両陛下の記者会見を要請しています。宮内庁サイドは天皇陛下のご体調を考慮して、昨年12月23日の誕生日会見が最後であると明言しています。しかし、天皇陛下の誕生日会見が感動的だったこともあり、記者クラブの熱意はさらに高まっているのです。天皇陛下と美智子さまは、常に“国民の思いに応えたい”というお気持ちでいらっしゃいます。美智子さまも公の場で陛下への感謝を示したいとお考えになっていることでしょう。実現の可能性は決して小さくありません。国民にとっても大きなサプライズになりますね」これまでも数々の名言を残されてきた美智子さま。ご成婚60年をお迎えになる4月、どのようなお言葉を語られるのだろうか――。
2019年01月10日1958年11月、美智子さまが皇太子妃に選ばれたことが報じられ、日本中に巻き起こった“ミッチー・ブーム”。そのさなかに創刊された『女性自身』だが、本誌は天皇陛下の独身時代についても、貴重な証言をスクープしていた。天皇陛下の独身時代のエピソードとしてひときわ有名なのが、学習院高等科のご学友2人との“銀ブラ事件”だ。「銀座の夜に消えた皇太子と4時間」(68年2月26日号)では、銀ブラに同行した千家崇彦氏(故人)と橋本明氏(故人)が登場している。高等科卒業を目前にした1952年2月、天皇陛下はこうおっしゃったという。「大学に入るといろいろむずかしいと思う。ボクは立太子式後はますます公的行事に時間をとられて身動きできなくなる。いまがいちばんのチャンスだと思うんだよ」数カ月後に正式に皇太子と認められる立太子式を控える陛下には、並々ならぬ決意があったのだ。学習院の寮を抜け出した3人は目白駅から満員の山手線に乗車。新橋駅で降りて銀座の喫茶店に向かう道のり、陛下はこのようなご様子だったという。《殿下の足どりはゆっくり落ちついていたが、軽やかだった。殿下は手放しの喜びようだった》喫茶店では《殿下は運ばれてきたコーヒーを実にうまそうに飲んだ》という。新橋駅に戻る前に刑事に見つかってしまった3人。その後、橋本氏と千家氏は侍従たちから激しい叱責を受けたそうだ。(『女性自身』皇室SPECIAL増刊 )【創刊60周年記念「女性自身」皇室SPECIAL増刊】ご婚約から60年 美智子さまその輝きは時代を超えて――2018年12月25日(火)発売特別定価 500円(税込)
2018年12月31日天皇陛下の執刀医・天野篤さん(順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)が本誌に独占告白!陛下の泰然たるご様子と美智子さまの「献身」……。6年前の心臓手術の“舞台裏”がいま明かされる。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授(当時)の天野さんだ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。手術前日、天皇皇后両陛下に直接、お会いして手術の説明をしたとき、経験したことのない緊張に包まれたと天野さんは明かす。「たった30分の説明が、3時間に感じられました。全身の水分が、全部背中から流れ出たみたいな感じ。普通だったら映像の中にいる人。会いたくたって会えない人。そういう人と、同じ空気のなかに、僕なんかがいていいのかなと。もう、それぐらい圧倒的に神々しい。オーラが違いました」説明をお受けになる両陛下のご様子を、天野さんは述懐する。「天皇陛下は泰然となさっておいででした。医療に対する信頼がおありだったんだと思います。手術のことも、最初からすべて受け入れてくださっていた。『何かご質問はありますか?』とうかがっても『お任せしてありますから』と」一方、陛下のお体をとても心配なさっていた美智子さまからは、「矢継ぎ早に多くのご質問を受けました」と天野さん。「皇后陛下はご質問をされるたび、必ず『そうでございましょう』と天皇陛下にご同意をお求めになっていました。それに対して陛下は『うん、そうね、そうね』と」天野さんは、お二人の深い絆が見えるようだったと語る。「天皇陛下がお生まれになってから、日本はずっと戦争のただ中でしたよね。そして、皇后陛下に出会うまでに、いろいろご苦労があったわけじゃないですか。皇后陛下のなかには『私がもっと早く出会い、少しでもその辛苦をご一緒に背負って差し上げられていたら』というお気持ちが強くあったと思う。その強い思いを、天皇陛下もきちんと受け止めていらっしゃって。だから、皇后陛下のおっしゃることは基本的にすべて肯定される。あのお二人は、まさしく一心同体、そう感じました」こうして迎えた2月18日。3時間56分に及んだ手術は、無事に終わった。手術が終わって1時間ほどで天皇陛下は麻酔からお目覚めになった。そして、美智子さま、清子さんのお見舞いを受ける。「術後のご面会で、天皇陛下は左手を皇后陛下、右手を清子さんにさすってもらいながら『気持ちいい』とつぶやかれていました。おそらく術後の痛みだってあったはずです。それなのに、決してお辛いところをお見せにはならない。手術前、偉ぶることなく全員にお声をかける陛下にも感動しましたが、ご自身の威厳をしっかりと保つお姿は、とても神々しく思えました」――半年後の’12年夏。両陛下は天野さんを食事会に招かれた。吹上御所の応接間の窓からは、満開のキスゲの花が見えたという。「皇后陛下が『奇麗でしょう、いまがいちばんの見ごろなんです』と説明してくださいました。天皇陛下は、キスゲの隣にあった大きな木をお示しになって『悠仁がカブトムシをよく捕りにくるんです』と。そのお顔からは、お孫さんのことが可愛くて仕方ないというお気持ちがにじみ出ているようでした」そのとき、御所で供されたのは松花堂弁当。その中にカツオの刺身が入っているのを見て、天野さんは驚きを隠せなかった。じつは手術後、天野さんは天皇陛下に、「ご回復のためにも食事できちんと栄養を取るよう心がけてください。タンパク質を取るには、これからの季節、カツオがおいしくて、よろしいと思います」と、進言していたのだ。美智子さまはにっこりほほ笑んで、天野さんにこうおっしゃった。「先生もお好きだとお話しされていたので、カツオをご用意しておきました」天野さんは美智子さまのお心遣いに「感じ入った」という。「ほかに注意点として『ケガに気をつけてください』と申し上げました。ケガをすると体力も落ち、生活の質も下がりますから。手術後、公務に復帰された両陛下が、腕を組む場面が増えたように感じませんか。ちょっとした階段などでも、皇后陛下は必ず、天皇陛下を支えられている。もしかしたら、僕の助言を皇后陛下がお聞き入れくださったのではないかと思います。内助の功の素晴らしさを拝見した気がしました」来年4月30日、天皇陛下はお元気なまま、ご退位の日を迎えられるに違いない。「200年ぶりといわれる歴史的な生前退位に、ほんのわずかでも関われたことはとても誇らしく、僕にとっては勲章のようなものです」
2018年10月19日「天皇陛下はご自分の足で、歩いておみえになりました。そして、緊張した面持ちで整列していた医師やスタッフ、一人ひとり、全員にお声をかけてくださった。それは、とても印象的な光景でした」すべての人に分け隔てなく――それは、私たち国民には見慣れたいつもの天皇陛下のお姿だった。ただ、その場所がこれからご自身の心臓手術が執り行われる、手術室という一点を除けば……。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授の天野篤さん(現・順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)だ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。「手術後、陛下からはいつも招待状を送っていただいて。毎年、12月23日に吹上御所でお目にかかります。でも、それも、おそらく今年で最後になるでしょう」順天堂医院の院長応接室で、間もなく迎える平成最後の天皇誕生日を前に、天野さんは感慨深げにこう語った。そして、改めて、あの日に思いをはせた。「いよいよ手術という場面、執刀医にあいさつする人はいても、全員に声をかける患者さんなんていません。それも決して偉ぶる素振りもなく、ごくごく自然に。こんなことを言っては畏れ多いですが、僕はもう、そのお姿を見ただけで、陛下の大ファンになりました」心臓手術を受けた’12年の天皇誕生日。記者会見の席で、記者からの「手術後も以前と変わらぬペースで公務に取り組まれているが、来年80歳となるのを機に一層の負担軽減が必要との指摘があるが」という問いかけに、天皇陛下は次のようにお答えになった。「……負担の軽減は、公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。いまのところしばらくはこのままでいきたいと考えています」天野さんの胸に響いたのが、「公平の原則」というお言葉だった。「関係者の方からも、陛下は公務の優先順位も、ご自分の中にある『公平の原則』に照らして、お決めになる、と聞きました。国民とともにあるため、陛下は徹底的に公平の原則を貫いてこられたんだと改めて感銘を受けました」陛下の信念に触れ、天野さんも仕事に対する姿勢を変えた。「以前は部下任せにすることも多かった緊急手術を、極力すべて自分で引き受けるようにしました。経験値がいちばん高いものがあたれば、緊急といえど、高いレベルの治療が提供できるからです」いつ飛び込んでくるかわからない手術のため、酒もきっぱり断った。「当時の僕は、年間500例の手術をこなしていました。だけど、それは結局、自分のためだったんです。手術がうまくなりたい、有名になりたい、症例数を増やし学会で名をなしたいって」そんな、思い上がった気持ちも、奇麗さっぱり捨て去った。「陛下のおっしゃる公平の原則を、僕なりに守るにはどうしたらいいか。それは、どんな患者に対しても、自分のベストを尽くすことだと思いました。それを続けることができれば、周りの人もきっとついてきてくれる。天皇陛下も、そうじゃないですか。自分の中で公平の原則を常に意識し、きちんと守っていらっしゃるからこそ、国民誰もが尊敬のまなざしを向ける。そんなところを、ちょっとでも、僕もまねしていきたい」症例数はもはや8,000件を超え、いまさら、数をこなしたいとは思わない。いかに、質の高い医療を誰にでも提供できるか。その思いが、天皇陛下のお心に触れて固まったのだ。だからこそ、陛下の手術もあくまで8,000分の1にすぎないと考える。「陛下の手術はあの時点での僕のベスト。でも、あの手術から僕はもっと進化して、さらに質の高い手術を、現在の患者さんには行えているはず。きっと、公平の原則を大切にされている陛下なら、『それでいいんですよ』とおっしゃってくださるに違いないと思います」
2018年10月19日「悪天候が心配されるなか、ようやく愛媛県・広島県の被災地を訪問された天皇陛下と美智子さまでしたが、そのお顔には深い疲労がにじみ出ていました」そう語るのは宮内庁関係者。7月初旬に甚大な被害を引き起こした西日本豪雨。両陛下はお見舞いのため、2日間で3県を回られる予定だったが、3度も日程が延期された。皇室担当記者は言う。「当初、両陛下は9月13日に広島県と岡山県の被災地を訪問される予定だったのですが、天候不良で14日に延期されました。14日も天候がすぐれず、なんとか岡山県には足を運ばれましたが、広島県へは、20日に予定されていた愛媛県ご訪問と同日に行う方向で再調整されたのです。それは数時間のうちに3度も自衛隊のヘリコプターに搭乗される強行スケジュールでした」ところが予備日だった20日も天候に恵まれず、21日に延期……。「延期のたびに宮内庁の説明も二転三転して、パニックになっているようでした。このような混乱は、平成の行幸啓で初めてではないかと思います」(皇室ジャーナリスト)被災地ご訪問が延期の連続となったのはなぜなのか。前出の皇室担当記者はこう語る。「両陛下は、被災地にお泊りになったり、交通規制が必要となるお車での移動をなさったりすれば、地元の自治体や警察などに多大な負担をかけると心配されたのです。そういった負担を最小限にするため、ヘリを使って移動時間を短縮した日帰り訪問となりました」ただ、ヘリの飛行は天候に影響されやすい。結果的には秋雨前線が日本列島にかかる時季だったことが、大きなネックになってしまった。9月6日には北海道胆振東部地震も発生した。国民の苦難に心を痛め、被災者に寄り添い続けてきた両陛下。しかし平成最後の1年に、記録的な大災害が頻発することに――。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんも両陛下の体調を気遣う。「80歳を過ぎたおふたりにとっては、長距離の移動だけでも大変お疲れになるものなのです。さらに予定変更や延期は無意識でもストレスになります。今年の7月には陛下が脳貧血でお倒れになっています。それでも万が一、新たな災害が発生したならば、どんなにお忙しくても両陛下は被災地に向かわれるはずです。負担も大きいヘリ移動などがこれ以上続けば、陛下、そして美智子さまもお倒れになってしまわないかと心配しています」被災地激励には、美智子さまの知られざる“苦悶”が隠されていたのだ。
2018年09月27日御所で育てられたバラ「プリンセス・ミチコ」の花束を抱かれた美智子さま。その手を引き、エスコートされた天皇陛下。5月5日、天皇皇后両陛下は、例年と同様に東京ローンテニスクラブを訪問された。 「出会いは軽井沢のテニスコートですが、その後、両陛下はご成婚前に、このコートで何度かプレイされています。お若い頃に通われた東京ローンテニスクラブは、いわば“愛を育んだテニスコート”なのです」(皇室担当記者) この日、クラブで両陛下をお迎えしたメンバーの1人、天皇陛下の学習院時代の後輩で、長年のテニス仲間である織田和雄さん(82)はこう語る。 「当日はおふたりとも、とても明るい笑顔で、メンバーと一緒に記念撮影された後、ご歓談を楽しまれていました。お土産に、白あんと味噌の『ちまき』を持ってきてくださいました」 実はこのちまきは、両陛下の思い出の品なのだと織田さんは明かす。 「ちょうど60年前、’58年の5月4日に、陛下と仲間が集ってテニスをしたのですが、美智子さまも招かれてミックスダブルスをされました。陛下と美智子さまは、前の年の8月に軽井沢で出会われたばかりでした。おそらく陛下のお気持ちをくんで、友人の1人がお誘いしたのだと思います。その日、端午の節句にちなんで陛下が持ってこられたお土産が、ちまきだったのです。以来両陛下は、5月にテニスをなさる際に、ちまきをお土産に持ってこられます」 ちまきは両陛下にとって、旧友との親睦の証であると同時に、ご成婚前の淡い記憶を呼び起こすものかもしれない。 「今回は、テニスはなさいませんでしたが、これからもお声がけいただければ、いつでも一緒にプレイさせていただきます」(前出・織田さん) お代替わり後も両陛下はこのテニスコートで、60年前と変わらぬ仲むつまじいお姿を見せてくださることだろう。
2018年05月18日現地に集まっていた人々が待ちわびるなか、天皇陛下と美智子さまを乗せたお車が、東宮御所正門に入っていった。2月23日の夜、港区赤坂の東宮御所で恒例の夕食会が行われた。天皇ご一家で皇太子さま58歳のお誕生日を祝われたのだ――。 2日前の2月21日には、皇太子さまは記者会見に臨まれている。 「’19年5月1日の即位まで、あと1年2カ月あまりということもあり、新天皇としてのご抱負などをお尋ねする質問が多かったです」(皇室ジャーナリスト・近重幸哉さん) 皇太子さまは常にご自身に、“天皇とはどんな存在であるべきか”を問いかけ続けていらっしゃる。皇太子さまは21日の会見でも、こう語られている。 「(昨年の)秋に訪れた醍醐寺では後奈良天皇はじめ、多くの宸翰(しんかん)を拝見することができました。私としてはこうした過去の天皇が、人々と社会を案じつつ歩まれた道を振り返る機会を大切にしていきたいと思います」 宸翰とは天皇の直筆の文書のこと。ベテランの皇室ジャーナリストは語る。 「皇太子さまは昨年10月、雅子さまと京都を訪問されていたのですが、醍醐寺にはご公務の合間を縫って、皇太子さまがおひとりでお出でになったのです」 皇太子さまが宸翰をどうしてもご覧になりたかったのはなぜだろうか。 「後奈良天皇は戦国時代に在位し、飢饉や疫病に苦しむ人々を心配して、般若心経を写経しました。醍醐寺に所蔵されている写経には《私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている》という意味の言葉が記されています。まさに皇太子さまのお名前は“徳仁”です。きっと般若心経の言葉を自らの目で確かめることで、常に国民のために祈る“天皇のあるべき姿”をしっかりと確認されたかったのでしょう」 過去の天皇が、国民に寄り添う思いで写経した「般若心経」をご覧になったことで、皇太子さまの新天皇としての決意は、いっそう強くなったことだろう――。
2018年03月01日雲ひとつない快晴となった1月2日、新年一般参賀のために開門前から並んでいた2万人もの人が、二重橋を渡り皇居前広場へと入場していく。10時10分、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方が宮殿のベランダにお出ましになると、例年をしのぐ大きな歓声が上がった。 「午前3回、午後2回の計5回で、12万7千人がお祝いに訪れました。平成に入って最多の入場者数です。譲位まで1年4カ月。その前に両陛下にお会いしたいと、国民が切望してのことでしょう」(皇室担当記者) 大盛況に終わった今年の新年一般参賀。しかし、宮内庁関係者は声を潜める。 「2回目のお出ましで、陛下のご様子に“異変”があったのです」 本来の手順では、皇族方がベランダにお並びになってからしばらくして「ただいまから、天皇陛下のお言葉がございます」というアナウンスがあり、陛下がお言葉を記された紙をジャケットの内ポケットから取り出される。 「しかし、このとき陛下はアナウンスの前に紙を取り出そうと、2度もポケットに手を入れようとされました。タイミングを失念されている陛下に気づかれた美智子さまが、さりげなくお伝えすると、陛下は手を戻されました」(前出・宮内庁関係者) 陛下は2年前、82歳を迎える誕生日にも《年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました》と述べられている。 「ご退位の日まで、象徴天皇としてのお務めを果たしていただきたい――。そうお思いの美智子さまは、大変心配なさっていることでしょう」(前出・宮内庁関係者) ‘18年は両陛下のご出席が最後となる行事も多数ある。宮内庁は戦没者慰霊や被災地訪問など、「平成の集大成」となるご公務を検討しているという。“最後の1年”は大忙しになりそうだ。さらに、ベテランの皇室ジャーナリストはこう語る。 「今年は、代替わりに向けた準備を1年がかりで進めていかなければなりません。なかでも御所からのお引っ越しは一大事業といえます」 両陛下は譲位後約1年半にわたり、東京都港区の高輪皇族邸で仮住まいされる予定だ。現在は皇太子ご夫妻がお住まいの赤坂御用地の東宮御所が、改修後に上皇・上皇后両陛下の正式なお住まいになるが、その工事が終わるまでは高輪皇族邸に住まわれる。 「両陛下が使われたものはほとんど捨てずに保管されており、その整理は大変な作業になります。‘93年に両陛下が現在の御所に引っ越された際には、旧赤坂御所から2トントラック約100台分の荷物が運び出されました。高輪皇族邸は、床面積でいうと御所の4分の1しかないので、何を持っていくのか、1つずつ整理しなければならないのです」(前出・皇室ジャーナリスト) 前出の宮内庁関係者はこう語る。 「陛下は、ご高齢であるご自身の限界を自覚されながらも、懸命に“最後のお務め”に臨まれるお気持ちです。美智子さまは”そんな陛下を全力でお支えせねば、そしてお引っ越しの準備も万全に――“という覚悟を、この新年に固められたのではないでしょうか」 天皇陛下につつがなくご退位の日を迎えていただき、安らかで健康な退位後の生活を送っていただくため……。過酷なお覚悟を胸に秘め、美智子さまは奮励の日々を歩まれる――。
2018年01月10日「政府は、新しい天皇陛下となられる皇太子さまの『即位の礼』を19年秋に行う方向で調整を進めています。外国からの賓客も大勢招かれ、盛大なものになることでしょう」 そう語るのは、宮内庁関係者。政府は年明けにも菅義偉官房長官をトップとする準備組織を設置し、譲位・即位に向けた準備を本格化させていくという。 12月9日、雅子さまの54歳のお誕生日に発表されたご感想には、こんなご心境がつづられている。 《これから先のことを考えますと、身の引きしまる思いが致しますが、両陛下のお導きをいただきながら、皇太子殿下をお支えしつつ務めを果たしていくことができますよう、努力を重ねて参りたいと思っております》 このお言葉通り、雅子さまは“新皇后”に向けての努力を密かに重ねられている。本誌は、それを裏付けるエピソードをキャッチした。ある外務官僚は、本誌にこう明かした。 「まったく報道されていませんが、実は皇太子さまと雅子さまは11月30日に、千代田区にある在日ルクセンブルク大公国大使館をお忍びで訪問されたのです」 ルクゼンブルクのアンリ大公と長女のアレクサンドラ王女が、国賓として日本に滞在していたのは、11月下旬のことだった。 「基本的に、アンリ大公のおもてなしは、“同格”である天皇陛下と美智子さまがなさいました。もちろん皇太子さまと雅子さまも宮中晩餐会には出席されましたが、その場では、ご挨拶程度しかされず、親しくお話しする機会はほとんどなかったと思います」(前出・宮内庁関係者) 皇太子ご夫妻がルクセンブルク大使館を訪問されたのは、宮中晩餐会の3日後。前出の外務官僚が続ける。 「ご訪問の目的は、離日直前のアンリ大公と懇談されるためでした。ご到着は午後3時ごろ。大公と王女に迎えられた皇太子ご夫妻は、まず大使館の1階に飾られている写真をご覧になったのです」 写真は、写真家やエッセイストとしても人気があり、国際的に活躍するハービー・山口氏が、ルクセンブルクの街並みを撮影したものだった。 「明るい雰囲気で写真をご覧になった後、皇太子ご夫妻と大公と王女は、お茶とお菓子を楽しまれながらお話しをされたそうです」 宮内庁のHPには、皇太子ご夫妻の日程も記載されているが、ここに11月30日の大使館ご訪問についての記載はない。だが、前出の宮内庁関係者は言う。 「その情報を聞いてから該当部署などに確認したところ、確かに皇太子ご夫妻は、アンリ大公とお会いになっていたことがわかり、私も非常に驚きました。皇太子ご夫妻が、お忍びで大使館を訪問され、相手国の元首と会談をされたわけですが、こうしたケースはこれまでにはなかったことだと思います」 この“前例なき会談”は、皇太子さまと雅子さまが強く望まれたことだったという。宮内庁関係者が続ける。 「皇太子ご夫妻はお代替わり後を見すえられ、『私どもも、日本の皇室とご縁の深い、ルクセンブルクの王室との関係を大事にしたいと考えています』と、天皇陛下と美智子さまに相談され、お許しを受けたそうです」 いわば“直訴”によって、実現したものだというのだ。 「ご婚約以来25年、雅子さまにとって“皇室外交”は夢であり続けたと思います。そして皇位継承が目に見える時期になったいま、ついに動き出されたのではないでしょうか。これまでのご活動から、雅子さまの目指されている皇室像も、おぼろげながら見えてきます。その未来の構想の1つが、世界の恵まれない子どもたちを救うというものなのです。 先日のお誕生日にも《広く世界に目を向けても、困難な状況に苦しんでいる人々が数多くいることに心が痛みます》と、国際的な協力が大切だと訴えられました。ルクセンブルク大公国との絆を深められることも、その第一歩とお考えになられたのでしょう」 きっと大使館での懇談では、国民との関係の両国の差についても語りあわれたに違いない。
2017年12月28日『女性自身』が創刊されたのは’58年12月。以来、本誌は皇室ご一家の“愛”にまつわるエピソードを読者に紹介してきた――。 創刊直前の11月27日、宮内庁が《皇太子妃は、正田美智子さんに内定》と発表し、日本中が湧きたった。まさに本誌はミッチー・ブームとともに誕生したのだ。 創刊まもないころに掲載したのは『ご結婚五日前の素顔』(19号・’59年4月24日号)。お輿入れを間近にした美智子さまと父・正田英三郎さんがお庭でキャッチボールをされている姿を撮影した。 本誌で半世紀以上にわたって皇室記者を務めていた、故・松崎敏弥氏は「結婚目前の娘と、父との心情が、行き来するボールに象徴されていたと思います」と語っていた。 美智子さまのご成婚は、初めて「一般家庭出身」の女性が皇室に嫁ぐという“歴史的事件”だった。そのご決断について陛下自ら意見を寄せられたこともある。『皇室への二つの意見に私から答える/談・皇太子明仁親王殿下』(342号・’65年8月30日)だ。 《上流旧華族以上の家から、妃をとらないとしたことは、遺伝的な考慮ばかりでは決してなかった。国民と共に考え、共に生きる伴侶としての人を求めていた。これは旧華族上流以上の人には、求められない姿であった。現在、美智子の、常に日本国民のことを考え、自分のつとめに忠実たらんとしている姿をみて、この自分の考えが間違っていなかったと感じている》 ご学友でジャーナリストの故・橋本明氏を通じて本誌にコメントされたものだが、皇太子の立場にある方(当時)が、週刊誌に自らのお気持ちを語られるなど、前代未聞のことだった。 陛下が“美智子さまを選んだ理由”を明かされたのは、これが初めてだったが、本誌は後に、選ばれた美智子さまが胸の内をつづられた手紙も入手し、『皇城の人びと総括編十三年目の美智子妃殿下』(638号・’72年1月1日・8日合併号)で、その一部を紹介している。 《「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」と、お話し下さった時、私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、このように寂しい言葉はなかったと思いました。そしてその中を二十五年間お歩みになっていらした東宮さまのおために、力をつくして、あたたかい家庭をお作りしたいと思いました》 育児についての美智子さまのお考えも、この手紙には記されている。 《手元で育てさせていただくとすれば、それはもう皇后さまのお時代と違う形をとることになってしまいますし、それから乳人(めのと)の問題も――》 ‘60年2月23日、皇太子さまがご誕生。美智子さまは手紙につづられたとおり、乳母制度も廃止し、皇室で初めて母乳だけの育児を実践された。 東宮侍医長を務めた佐藤久氏が撮影していた写真を、33年ぶりに入手し、公開したのが『33年間、秘められていた“皇室史上初”写真!』(1636号・’93年3月2日号)。ご公務がお忙しいときなどは前もって搾乳され、冷凍保存したものを、哺乳瓶で授乳されることもあったという。 お手紙の《力をつくして、あたたかい家庭を》というお言葉どおり、美智子さまはいまも陛下を守られている――。
2017年12月05日天皇皇后両陛下は、11月16日から18日の日程で、鹿児島県の屋久島、沖永良部島、与論島を訪問された。 天皇陛下の即位20年にあたる’09年に「できるだけ遠方の島を」とのご意向から沖永良部と与論の離島訪問が検討され始めたのだが、東日本大震災(’11年)、陛下の心臓パイパス手術(’12年)もあり、長い間、叶わなかったのだ。まさに“8年越しの悲願”ともいえるご訪問だった。 そして屋久島は、口永良部島民の避難先であった。両陛下の強いご希望で、島民と面会するために屋久島ご訪問も加えられた。 「結果として、3日で3つの離島、総移動距離が約3,300キロという“強行日程”になりました」(宮内庁関係者) 高齢で心臓手術を経験された陛下にとって、負担の大きすぎるスケジュールといえる。 「宮内庁は侍医長を中心に非常時の医療体制を確認し、地域の病院にも“準備”を要請していました。特に重篤の場合は、屋久島からは鹿児島へ、与論島からは沖縄本島に、飛行機やヘリコプターで緊急搬送する態勢を準備していたと聞いています」(同・宮内庁関係者) 訪問初日の11月16日。両陛下は午前9時40分に特別機で羽田空港を発たれ、2時間弱のフライトで鹿児島空港に。さらに小型機に乗り換えられて、屋久島までは35分。45年ぶりとなる屋久島ご滞在は、13時から15時の約2時間。まさに分刻みのスケジュールだった。 そして、両陛下が屋久島空港から姿を現されて、車へ向かわれているときだった。お迎えの島民が声を発した。 「アッ、危ない!」 お疲れでいらしたのか、陛下が通路の段差を踏み外されてよろめかれた。周囲の誰よりも早く美智子さまが両手を差しのべられ、抱きかかえるようにお支えに。まさに、全力で陛下をお守りされたのだ。 両陛下は島民たちを心配させないようにと考えられたのだろう。笑顔まで浮かべて、何事もなかったように屋久島町総合センターへと向かわれ、口永良部島民とご懇談された。予定時間を過ぎてもお話は尽きず、側近に4度促されてようやく、両陛下は席をお立ちになった。美智子さまは、島で牛を3頭飼っている山田ヨリ子さん(74)らに「お体をお大事に。ね、牛さんも」とユーモアたっぷりにお声がけされて、にこやかに会場を後にした。 だが、皇室ジャーナリストはこう語る。 「美智子さまは終始朗らかなご様子でしたが、実はご自身も万全のご体調ではなかったのです。陛下と同じく多忙な日々を過ごされ、11月9日の秋の園遊会では、ふだんよりご表情が晴れず、お疲れのご様子でした。そのような状態でありながら、今回のご訪問の前日、15日の夕方には都内の病院を訪れ、絵本を通じてご交流のある古くからのご友人をお見舞いされています。身近な方にも、遠方の国民にも、美智子さまはご多忙の時間を調整し、お心を寄せられていたのです」 天皇陛下とご一緒に国民と触れ合われ、陛下をお支えする責務を全うする。その覚悟を胸に、美智子さまは悲願の“離島の旅”に臨まれていたのだーー。
2017年11月22日トランプ米大統領が、11月に初来日する方向で調整が進んでいると、複数の政府関係者が明らかにした。天皇皇后両陛下との接見も調整中だという。ジャーナリストの歳川隆雄さんが言う。 「トランプ大統領が皇居を表敬訪問すれば、天皇皇后両陛下との写真や映像が世界中に配信されて、日米の強固な関係をアピールすることになるのは間違いありません」 政治部記者もこう語る。 「11月4~6日の来日で調整が続いています。2泊3日ですと国賓となる可能性もあり、その場合は、天皇の歓迎式典、会見、晩餐会がワンセットで組み込まれます」 “暴言王”トランプ氏の来日には反発も予想される。イギリスではメイ首相が「トランプ氏をエリザベス女王が歓迎する国賓として招待する」と表明したところ批判が殺到。英議会のオンライン請願サイトには、招待に反対する186万もの署名が寄せられた。 皇室担当記者は、そんなトランプ氏の来日に違和感を禁じ得ないと話す。 「自らのツイッターで北朝鮮と舌戦を繰り返しているトランプ大統領は、天皇陛下と美智子さまのイメージから、もっとも遠い存在に感じてしまうのです。トランプ氏が両陛下に対面して、どんな言動を取るのか懸念を抱きます」 トランプ大統領が訪日する前後、両陛下のスケジュールは繁忙を極めている。 10月27日に九州豪雨被災地を見舞われ、28~30日に福岡県で開催される「全国豊かな海づくり大会」へご出席。11月3日、文化の日には文化勲章の授与式があり、すぐあとには秋の園遊会、そして屋久島・沖永良部島・与論島へのご訪問も予定されている。 気がかりなのは、陛下のご体調だ。宮内庁は、外国要人との会見は1ヵ月前に連絡するルールを定めているが、これも両陛下に想定外のご負担をかけないよう配慮したもの。 09年、中国政府がこの“1ヵ月ルール”を無視して求めた天皇陛下と習近平国家副主席(当時)との会見を、鳩山政権が一度は宮内庁に拒否されながらも強引に実現したことがある。 「陛下の国際親善は、政府のやることとは次元を異にするもので、政治的な重要性、懸案、政治判断を超えたところでなされるべきだ」 当時の羽毛田信吾宮内庁長官はこう発言し、政府への憤りを隠さなかった。トランプ大統領の来日は1ヵ月以上先ではあるが、過密日程の中での会見は心配だ。 今回、日米首脳会談のメインテーマは、緊迫する「北朝鮮問題」のはずだが、 「来日に合わせてゴルフも計画されています。米ツアーで活躍する松山英樹プロや日本ゴルフツアー機構の青木功会長が、トランプ氏と一緒にプレーする案も浮上しています」(皇室ジャーナリスト) 天皇陛下のご学友、明石元紹さんは、そんな“接待コース”に両陛下との会見が含まれているのではないかと懸念する。 「過去には陛下との会見が訪日の条件だったケースもありました。両陛下は相手がトランプ氏であろうと、米大統領としてしっかり接遇されることでしょう。たとえ陛下のお気持ちに沿わないことがあっても、それを表に出すことはできないお立場なのです」 懸念される点の多いトランプ氏の初来日だが、前出の文化学園大学客員教授の渡辺みどりさんはこう語る。 「トランプ氏に対しても、天皇陛下と美智子さまは、国際平和の視座に立ってお話されるでしょう。外国の首脳が両陛下のお人柄に感銘を受け、日本が再評価されたことも過去にあったのです」 どのような相手を前にしても、平和を希求する両陛下の信念が揺らぐことはない――。
2017年09月21日