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娘は2歳半で双子のお姉ちゃんになりました。3歳になるころには、誰からもしっかり者と言われる頼れる存在に。ところがそれは、少しずつ娘の心をむしばんでいたのです。娘が「お姉ちゃんをやめたい!」と言ったあの涙を私は今も忘れません。きょうだい育児は大変だけれど、上の子のケアも重要だと痛感したお話です。幼稚園の個人面談で衝撃を受ける妊娠25週を迎えたころ切迫早産で入院。まだ幼い娘と離れることが不安でしたが、「お姉ちゃんになるから大丈夫!」と、娘の言葉に励まされました。そうして娘が2歳半の頃、双子が生まれました。双子が生まれる前から我慢してきた娘は、3歳になるころには大体のことを自分でできるようになりました。 しかし幼稚園の個人面談で、「しっかり者だね」と声かけをしたときに「パパもママもとられたから自分でするんだよ」と笑っていたと先生から聞いて、衝撃を受けたことを覚えています。 褒め言葉のつもりが……個人面談で娘が言っていたことを聞いてからは、もっと娘とコミュニケーションをとろうと心がけました。娘は双子の妊娠がわかったときから「お姉ちゃん」になることに喜びを感じ、娘も自分のことを「お姉ちゃん」と呼んでいたので、私たち夫婦も娘のことを「お姉ちゃん」と呼んでいました。それが娘にとってうれしいことと思い込んで……。 ある日「さすがお姉ちゃん、おりこうさん」と言うと「お姉ちゃんやめたい! おりこうさんもやめたい!」とわんわん泣き出したのです。 娘の笑顔を取り戻すためにしたこと手がかからないと思い込んでいたけれど、それは娘が我慢してきただけなんだと気づきました。「もうお姉ちゃんって呼ばれるのいやだ……。」私は知らないうちに娘にプレッシャーをかけていたのです。 それから以前のように娘を「お姉ちゃん」ではなく名前で呼ぶようにして、「娘ちゃんタイム」というパパやママを独り占めできる時間を設けるようにすると、とてもうれしそうにしてくれました。「おりこうさん」の代わりには「ありがとう、大好き」を言うことは、今でも続けています。 私は自分で思っている以上に娘に期待していました。もう3歳、まだ3歳。あのときの娘と同じ年齢になった双子をみて、あぁまだまだ甘えたかったよねと痛感しています。「大人の言う『いい子』は、大人にとって都合の『いい子』」。前にそんな言葉を目にしたことを思い出し、お姉ちゃんである前に大切な娘であることを忘れずに接していこうと思いました。 著者:梟うた/女性・主婦。5歳の娘と双子の3歳息子のママ。双子の出産を機に、東京から地元九州に移住。保育園勤務をしながら子育て、ファッション、旅行、インテリア、お得情報などを執筆中。最近の趣味は、絵本探し。 ※ベビーカレンダーが独自に実施したアンケートで集めた読者様の体験談をもとに記事化しています
2023年11月09日生まれつき耳が聞こえない難聴のユカコさん。一般採用で入った大企業に人事として入社。その後結婚し、難病をもつ長女・なっちゃんが生まれました。ユカコさんは育児に悩んだりもしましたが、「自分にできることをしたい」と勤めていた会社を退職し、難聴児の言葉の教育をサポートする会社を立ち上げ活躍されています。難聴者であるユカコさんのYouTubeチャンネルでは、生活や子育て、難病の娘さんのことなど、障害のある暮らしについてご家族のリアルな姿を動画でご紹介されています。今回は、おなかの赤ちゃんに難病があるとわかったときのこと、難病の長女なっちゃんが大きな手術を幼いながら頑張り、ご家族でリハビリを乗り越えて車いすを返却する様子をご紹介します。動画を観た方からは「自然と涙が」「感動しました」「涙が止まりません」などの声が続出。 ユカコさんはいったいどのようにして、ご自身が難聴を抱えながら、難病の子どもを育てているのでしょうか。その答えは、家族の在り方にありそうです。 生まれつき難聴の私が難病児を出産。「この子を育てられない」と号泣したあの日。 聞き取りやすい言葉と発音ですらすらとお話しをされるユカコさん。じつは、生まれつき耳の聞こえない重度の難聴者です。ユカコさんは話す相手の口の動きを見て、言葉を読んでコミュニケーションを取っています。 幼稚園から中学校まで一般の学校で過ごし、希望の高校・大学へと進学。大学ではお友だちと遊んだり、海外旅行をしたり、とにかくチャレンジを続け満喫した4年間だったそうです。その後は一般採用にて、大企業に人事として入社。お友だちとのキャンプで出会ったテツさんと結婚し、長女・なっちゃんを出産しました。 なっちゃんを妊娠中、妊娠後期になって、おなかの赤ちゃんの病気が発覚。長女なっちゃんは50万人に1人の骨の病気を持って生まれてきました。 最初は「難聴の私にどうして難病の子どもが生まれたんだろう……」と受け入れることができませんでした。 テツさんに泣きながら相談したところ「そっか、わかった。ユカコのやりたい方向で考えよう」と言ってくれました。そして、ユカコさんのお母さんは「育てられなくてもいいよ。障害児を育てるのは2人目やから、私が頑張って面倒を見てあげる」と力強い言葉をくれました。 ユカコさんには赤ちゃんの泣き声も聞こえないため、難病を抱えるなっちゃんのお世話は精神的にも肉体的にも非常に大変だったそうです。 テツさんやご家族のサポートもあり、徐々に受け入れられることができるようになったユカコさん。改めて難病児・障害児のことを考えてみると、教育の選択肢がとにかく少ないことに気がつきました。 「難聴のことなら自分にできることがある!」と思い、2018年に会社を辞め、難聴児の言葉の教育を中心とした団体・株式会社デフサポを立ち上げました。 難病のわが子が過酷な手術を……元気いっぱいすくすくと大きく成長していくなっちゃん。しかし、病気の影響で、成長するにつれて両足の長さに差がでてきたため、短い方の足の骨を伸ばす手術をすることに。ユカコさん夫婦は、全国各地の医師を探しまわり、どうにか手術をしてくれる先生を見つけました。 手術後は痛がってずっと泣き続けるなっちゃん。「すごくかわいそうだった……。とにかく頑張ったなぁ。」とユカコさんは振り返ります。ユカコさんとテツさんが交代で病院に行くため、次女のかんちゃんも寂しい思いをしながら頑張っていたそうです。 術後1カ月半ほどが経ち、器具がついた状態で退院。入院していたときに比べて、なっちゃんの表情は徐々に明るくなっていったそうです。 退院後は、テツさんが常に後ろから支えながら、川や山などの自然の中にも積極的にでかけたそうですよ。 とにかく大変だったとご夫婦で口をそろえておっしゃっていたのが、退院後のリハビリです。リハビリには毎日2時間ほどかかり、「仕事もある中で体力も時間も減って忙しすぎて記憶がない」とのこと。 『とても大変な日々だったけれど、将来なっちゃんにとってプラスになるなら』という気持ちで乗り越えたというお2人。 「一番頑張ったのはなっちゃん。そしてかんちゃんも頑張ったね。私たちはあの2人に比べたら全然……」と笑顔でおっしゃっていたのが印象的でした。 今なっちゃんの元気な様子を見て、「頑張ってよかったな」と心から思っているそうです。 ついに、車いすを卒業! 1年後、器具が取れて、ギブス生活を過ごしたなっちゃん。今ではランドセルを背負って元気に自分の足で学校へ通えるまでになりました。 そして今日は1年ほど使った車いすを返却の日。子どもたちの手でピカピカに綺麗に拭いていきます。 ユカコさんは耳が聞こえないため、子どもたちの口を読みながら会話をしています。そしてテツさんがさり気なくサポートし、常に子どもたちを褒めながら掃除を進めていきます。 最後に一度乗ってみるなっちゃん。座ってみると車いすが小さく見え、成長したのがわかります。「『車いす、いっぱい貸してくれてありがとうございました』と言って返そうね」と伝えるユカコさん。 きちんと自分の言葉で「ながいことかしてくれてありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えることができました。 なっちゃんの足がなおり、ジャンプできるようになった姿を見て、職員さんも驚いていましたよ。 退院後、1年以上お世話になった車いす。その期間はご家族4人が力を合わせて頑張った期間でもあります。手術後痛くて泣き叫んでいたなっちゃんがここまで成長した姿を見ると、胸が熱くなりますね。 動画を観た方たちからは、「なっちゃんも家族のみんなもがんばったから車いすにありがとうってお別れが言えたんだよね。 お世話になったものに素直に感謝する心を教えるテツ&ユカコご夫婦はホントにステキ」 「つらい思い出があるだろうにちゃんと『長いこと貸してくれてありがとう』って言えることに本当に感動しました! 涙出ちゃう……。これからもっともっと楽しいことが待ってるよ! がんばった分、素敵なことがたくさん2人の子どもたちに降り注ぎますように! もちろんご両親にも!!」「お父さんも普段からお子さんとちゃんとお話ししてるんだなっていうのがよくわかります。常に褒め続けているし2人の動きよくみていらっしゃる。本当に素敵なご家族です」「つらい時期を乗り越えて、車椅子を返却したときの気持ちを思うと涙がでます。 本当に良かったですね!」と感動の声がたくさん届いているようです。 ◇ ◇ ◇ お世話になった車いすを子どもたちの手で掃除をして、感謝の気持ちとともに返したユカコさんご家族。辛い日々を乗り越え、「ありがとうございました」と伝えながら自分で車いすを返却したなっちゃんは本当に強い……! なっちゃんの将来のことを想い、日本全国お医者さんを探し回って大きな決断をし、サポートし続けたユカコさんの芯の強さにも脱帽です。 決して明るいことだけではなかった日々。その都度ご夫婦で気持ちを共有して乗り越えてこられたのが動画から伝わってきます。他の動画を拝見していても、とにかくユカコさんの笑顔・子どもたちへのやさしい声かけ、テツさんのサポートが印象的……! ぜひユカコさんご一家の絆を動画でもご覧くださいね。 ベビーカレンダーは、多様化している家族のあり方=『新しい家族のカタチ』について発信する取り組みを開始しました。当事者のリアルな声を紹介していきます。多様な幸せを実現できる社会、そして、もっと「家族を持ちたい」「赤ちゃんを産みたい」と思う人が増える世の中づくりの一助となりますように。 著者:ライター 福島絵梨子
2023年11月07日不妊治療に通い、35歳で妊娠! 高齢出産だったので、産前産後に不安や悩みがありました。産前は気持ちの面での不安が大きかったのですが、体調は順調。しかし産後は体力の低下を実感したり、出産に伴う体の痛みに苦しんだり、悩むことが多かったのです。親友の助言もあり、不妊治療へ通うことに34歳と遅めの結婚だった私。新婚のうちは「まだまだ子どもはいいかな」と考えていましたが、同じ年の親友からの助言もあり、新婚旅行から帰ってきて妊活を意識するように。親友が不妊治療に通って2年後に妊娠した話を聞いて、私も不妊治療専門の病院へ検査に行ってみました。 検査してみると、多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)と診断されたので、早めに検査してよかったと思いました。検査後すぐに不妊治療をしながら妊活をスタートしました。 高齢出産、出生前診断を迷った結果……不妊治療は仕事と通院の両立が大変で、ラクではありませんでした。それでも不妊治療を開始して8カ月後に妊娠判定が! 妊娠時35歳で、高齢出産ということもあってなのか、出生前診断についての説明を受けました。高齢出産になる私は受けたほうがいいのか迷うように……。 夫婦で何度も話し合い、どんな結果が出ても産みたいと思ったので、出生前診断は受けないと決意。また、妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病について、病院で気をつけるよう言われました。私はつわりで脂っぽいものは食べられず、甘いものなら食べられる状態。しかし、食べ過ぎに注意し、味付けや栄養バランスを考え過ごしていました。 私の場合、産前よりも産後がつらかった赤ちゃんが生まれてくるまで不安はあったものの、妊娠期間は健康に過ごせていたので、私は産んだあとも順調に過ごせると思っていました。私の場合、帝王切開での出産にはなりましたが、無事元気な女の子を出産! しかし、産後は産前と違い、思ったように動けませんでした。 慣れない赤ちゃんのお世話に加え、脚の付け根やおしりに神経痛が襲い掛かりました。すがる思いで整骨院の産後骨盤矯正に通い、痛みは徐々に消えていくように。産後半年を過ぎると赤ちゃんのお世話のコツも少しずつ掴め、体力も戻ってきて、産後1年で産前のように動けるようになりました。 結婚が遅かったので仕方ないのですが、高齢出産ということで不安が大きかったです。私の場合は、産前よりも産後の体力の低下や足腰、おしりの痛みがつらかったです。同じ年でも元気なママさんもいるので、日頃から運動して体力をつけておくのは大切だと改めて実感しています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。※人工妊娠中絶は、母体保護法により定められた適応条件を満たしている場合に限り、施行されます。 著者:桜井りこ/女性・会社員兼ライター。2児の姉妹ママ。不妊治療から流産を経験し妊娠。美容系会社勤務、現在は育児休暇中。整理収納や株、投資信託が趣味。美容とコスメ系を合わせ、自身の体験をもとに、妊娠や子育てに関するライターとしても活動中。 ※ベビーカレンダーが独自に実施したアンケートで集めた読者様の体験談をもとに記事化しています監修者・著者:助産師 松田玲子医療短期大学専攻科(助産学専攻)卒業後、大学附属病院NICU・産婦人科病棟勤務。 大学附属病院で助産師をしながら、私立大学大学院医療看護学研究科修士課程修了。その後、私立大学看護学部母性看護学助教を経て、現在ベビーカレンダーで医療系の記事執筆・監修に携わる。
2023年11月06日双子の妹たちのお世話を楽しそうにしていた娘が、本当は我慢していると知った私は、それまで気がつかなかったことに反省と後悔の気持ちでいっぱいに。そこである行動に出ることにしました。それは、毎日たった10分のことなのですが、それが功を奏したのです。幼稚園の先生から驚きの話が双子を妊娠したと知らせたときから、生まれてくることをとても楽しみにしてた当時4歳の娘。妹たちが生まれてからは、育児用ミルクを飲ませたり、本を読んであげたり、歌をうたってあげたり、とても楽しそうにお世話をしていました。 そんな姿を見て、私はとてもうれしく思っていたのです。しかし、双子たちが生まれて半年くらいたったころ、幼稚園の先生に「ちょっと我慢しているように感じます」と言われ、正直私は驚きを隠せませんでした。 気がつかなかった娘の気持ち先生に話を聞くと、幼稚園で娘が「お姉ちゃんだから我慢するんだ」などと言っていたので「ママに甘えてもいいんだよ」と声をかけると、「でも、お姉ちゃんだから……」と少し寂しそうに答えるということでした。気になるたびに声をかけると娘は毎回同じような答えを返すので、先生は私に話をしてくれたようです。その日の夜は、娘にかわいそうなことをしてしまったという反省と、気がつかなかったことを後悔する気持ちでいっぱいでした。出産前から1カ月ほど娘を実家に預けて入院をし、産後は双子の育児が中心の生活。思えば、娘に寂しい思いをさせていたはずなのに気がついてあげることができませんでした。 双子のお世話に追われながらできることを考えた結果…娘に何かしてあげられることはないかを考えました。ただ、どうしても日々は手のかかる双子の育児が中心となってしまいます。そのため、時間もありません。でも、何かしてあげたい気持ちで考えたのが、「娘とママだけの寝る前の10分」を作ること。 この10分は双子をパパや手伝いにきてくれている母にお願いし、私と娘だけの時間にしました。パズルをしたり、積み木をしたり、好きな本を読んだり、折り紙をしたり、2人でその日にあったことを話したり、娘のしたいことをして最後にぎゅっと抱きしめて「おやすみ」をします。娘もこの時間を毎日楽しみにしていました。 娘の様子に変化が現れた!この10分間を過ごすようになってしばらくしたころ、娘がよく笑っていて変化がみられると幼稚園の先生から連絡がありました。先生から「何かしたのですか?」と聞かれるほどでした。 たった10分の短い時間ですが、大事なのは「娘だけのママとの時間」だったのです。下の子が生まれるまではひとり占めしていたママとの時間がなくなり、娘は本当に寂しい気持ちでいたと思います。 娘が無理していることに気がつかせてくれた、幼稚園の先生からのひと言。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。多くのことはしてあげられなかったのですが、娘の気持ちに気がつき、少しでも寄り添うことができて本当によかったです。 監修/助産師 松田玲子著者:田中つばさ2卵性の双子(年中)と小学生の娘の3姉妹を育てる母。Web企画や秘書、人材系営業職を経験。現在は在宅ワークとワンオペ育児に奮闘する毎日。出産体験や双子育児に関するエピソードを執筆中。
2023年11月02日初めての出産後、私が2人目を考え始めたのは長男が1歳3カ月のころでした。それから毎月妊娠検査薬とにらめっこをして約半年、待ちに待った陽性判定が! ですが、順調にいくと思っていた妊娠は思いがけない結果となってしまい……。改めて妊娠・出産は奇跡なのだと感じずにはいられなかった体験談をご紹介します。考え始めた2人目私が長男を出産したのは20代前半のころで、授かり婚だったため、1人目を妊娠するにあたり妊活をすることはありませんでした。できれば長男にきょうだいを作ってあげたいこともあり、私が2人目を考え始めたのは長男が1歳3カ月のころです。 ちょうどそのころになると2人目の話をするママも多く、実際に妊娠するママ友もおり、自分も2歳差で産めたらいいなと思っていました。 待ちに待った陽性判定2人目を考え始めてから、毎月生理が来るたびに落胆していましたが、避妊をやめてから半年後、妊娠検査薬で待ちに待った陽性反応が! 妊娠5週にあたる日に産婦人科へ行き、正常妊娠であることを確認できました。 このままいけば長男と2歳半、2学年差での出産予定。ですが、胎嚢の大きさが小さめで、排卵日がずれているのかもしれないと医師から言われたことが少し気になりました。 2週間後に再診。しかし……初診から2週間後、妊娠7週で再度受診したときのことです。心拍が確認できるころでしたが、あるはずの心拍が確認できず、赤ちゃんの姿も見当たりません、あるのは大きくなった胎嚢のみです。ここで医師から私が告げられたのは「流産の可能性がある」ということでした。 ただ、翌週になれば心拍が確認できるかもしれないということで、1週間後に再診になりました。つわりもありましたが、長男の妊娠時と比較してラクだったのを覚えています。 初診から1カ月。結果は……妊娠8週に再度受診しましたが、やはり大きくなっているのは胎嚢のみで心拍は確認できませんでした。もう1週様子を見ることになりましたが、妊娠9週になっても心拍は確認できず……。胎嚢も崩れてきており、「稽留流産(けいりゅうりゅうざん)」の診断がおりました。 このまま自然排出を待つより手術してしまったほうが良いということで、翌週には流産の手術をしました。幸いにも私の場合、他の病気などが原因ではありませんでしたが、医師の話によれば経産婦でも半分近くの方が流産を経験しているそうです。 流産から3カ月経ち再度妊娠しましたが、「また流産するのでは……」とヒヤヒヤしていたのは忘れられません。結果として長男と3歳差で次男を出産し、その後に次男と2歳差で長女を出産しました。自分とは無縁だと思っていた流産を経験し、妊娠そして出産は奇跡なんだと改めて感じた出来事でした。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子著者:佐藤祐子二男一女の母。幼~高(中高は家庭科)の教員免許と保育士資格保有。洋菓子メーカーを退職後、現在は地元にて3人の子育てに日々奮闘中。自身の体験をもとに、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2023年10月31日私の周りには「産後はなかなか体重が戻らない」と悩んでいるママ友が何人もいます。そんな中、私が悩んでいるのは“産後痩せ”です。なかなか体重が増えないという悩みをママ友に打ち明けると……。ママ友の言葉に、解決のヒントが!?もともと少食である私は、妊娠前から臨月までの体重が+7kgほどで、医師からは「しっかり食べておなかの赤ちゃんに栄養を送ってね!」と言われていました。そして出産後、ちゃんと食べているつもりですが、私の体重はどんどん減っていきました。産後1年経過した今、妊娠前よりも2kgほど減った状態です。 瘦せ型の私は育児に必要な体力がなく、子どもの相手を満足にしてあげられないこともあり、本当に悩んでいます。インターネットで体重が増えやすい食べ物を調べたり、増量のためのサプリメントはないか探したりしましたが、なかなか健康的に体重を増やす方法を見つけられずにいました。 その悩みをママ友に打ち明けたところ、「えー! ぜいたくな悩みー!」と笑われました。しかし、そのママ友から大きなヒントとなる言葉もあったのです。それは、「あなたは食べている量が明らかに少ないよ!」ということでした。 たしかに、成人女性が摂取すべきカロリーなどをしっかりと考えたことはありませんでした。調べてみると、30歳から49歳の女性で1日2,050kcalが必要なエネルギーということが判明(※)。当時の私は、ほぼ育児用ミルク+離乳食という状況でしたが、妊娠中や授乳中の場合は、さらに付加量が必要なようです。(※)推定エネルギー必要量は、年齢・性別・身体活動レベルや、妊婦・授乳婦であるかによって異なります。 私の普段の食事を計算すると、1,800kcalほどの摂取量であることがわかりました。そこで、どうやって摂取カロリーを増やすかを考えることに。私はカロリーの低い物ばかりを食べていたわけではなく、一度にたくさんの量が食べられない体質。そのため、3食の食事とは別に、10時ごろにおにぎりを食べたり、15時ごろに子どもと一緒におやつを食べたりするようにしました。まだ始めたばかりですが、体重減少を防ぐことができています。 “産後痩せ”は私にとって切実な悩みです。悩みを人から共感されないことは悲しい気持ちになります。しかし、それでただ「悲しい」と思って終わるのではなく、そんな中でも人の意見に耳を傾けることが大切だと感じました。自分では気づけなかったことが、誰かに話すことで、解決の糸口を見つけられるかもしれないからです。 参考:厚生労働省『日本人の食事摂取基準(2020年版)』 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子イラスト/ななぎ著者:海原えめ
2023年10月28日第2子妊娠中のことです。第1子に比べると出産準備が簡単になりがちで、わが家では戌の日の安産祈願さえも省略してしまいそうな雰囲気でした。それでもなんとなく行かなければいけない気がして、ひとりで安産祈願へ。すると思いがけない出来事が待っていたのです……!安産祈願を夫に提案したけれど……第2子の妊娠5カ月、最初の戌の日のことです。不定期な休みの夫と、私の休みがちょうど重なったので、上の子を連れて安産祈願に行かないかと提案しました。しかし、上の子は3歳で騒ぎたい年ごろなのに加えて、世間はコロナ禍……。無理していくことはないんじゃないかと却下され、夫と子どもは散歩に行ってしまいました。 第1子のときは、安産祈願で有名な神社まで車で1時間ほどかけて行ったのに、第2子には何もしてあげないのは何となく気が引けました。とはいえ、ひとりで遠くへ行くのは不安だったので、氏神さまへごあいさつに行くことに。 どこからともなく現れたのは!予約もせずに行ったので、社務所には誰もいません。本殿の前で気持ちばかりのお賽銭を入れて「第2子も無事に生まれますよう、見守ってください」と祈願しました。 一礼して本殿を去ろうとすると、どこからともなく猫がやってきて、私を見上げました。私が鳥居に向かって戻って行こうとすると、しばらくついてくるのです。駐車場まで戻ると、次第に猫は離れて行きました。 「戌の日なのに……」散歩から帰ってきた夫にこの話をしたら、「戌の日なのに犬じゃなくて猫!」と言って笑っていました。しかし、神さまが寄り添って見送ってくれたようで、私にとってはとてもうれしい出来事でした。 祈願に行く前は、家族が安産祈願に消極的なことがさみしく感じられてモヤモヤしていましたが、猫のおかげで母と胎児だけのささやかな祈願が、いい思い出話になりました。その後、第2子を無事出産したので、子どもが大きくなったらこの話を聞かせてあげたいなと思っています。 監修/助産師 松田玲子著者:柳 蓮花4歳、0歳の2児の母。第2子出産を機に退職し、現在は在宅ワークの道を模索しつつ、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆中。
2023年10月21日私が長男を妊娠中のころのお話です。妊娠初期を過ぎて体調が落ち着いた妊娠5カ月ごろ、病院で性別を確認してもらうことができました。義母に早く報告したくて、私はウキウキしながら性別を伝えました。すると、義母から信じられないことを言われたのです……!!妊娠5カ月で、性別が判明!私が長男を妊娠中のころのエピソードです。妊娠5カ月のころ、病院で性別を確認してもらうことができました。その日の夜、義母に早く報告したくてウキウキしながら会いに行きました。義父母にとっては初孫です。孫の誕生をとても楽しみにしてくれていたため、義母に性別を早く報告したかったのです。 「お義母さん、性別わかりましたよ!」と私が言うと、「ほんと??」と義母。私は、「はい! え~と、男の子です!」と言いました。すると義母は……。 義母の反応に絶句「え、ほんと?」とまた聞き返すのです。 私は「はい! 男の子でしたよ」と再度伝えました。すると今度は、義母は「えー、なんで?? やだ私は女の子かと思ってたー。女の子がよかったのにー!!!」と言ったのです。 私は思わず絶句してしまいました……。義母は「どうした?」とよくわかっていない様子。けれども私はしばらく絶句したままでした。 あれから13年……本当にショックすぎて、言われた瞬間も、帰りもずっと無言でした。夫はその会話は聞いていなかったようで「どうしたの?」とずっと聞いてきていましたが、私は放心状態。帰って泣きながら夫に話しました。そのあと夫が義母に怒りの電話をしたようですが、私は13年経った今もまだ忘れられません。 男の子でも女の子でも、一緒に喜んでもらえると思っていたので、思ってもいない言葉をかけられショックが大きかったです。 もう、義母は覚えていないかもしれませんが、きっとわたしは一生忘れられないと思います。義母はそこまで深く考えて発言したわけではないと思いますが、私のように深く傷つくこともあるのだなあと実感。特に妊娠中や産後の状態はセンシティブになっている時期でもあります。このことを教訓として、私も発言には気をつけたいと思った出来事でした。 著者:虎ママ/女性・主婦。13歳、9歳の2人の息子の母です。今現在反抗期真っ只中の中2男子と、小3男子の子育てに毎日奮闘しています。 ※ベビーカレンダーが独自に実施したアンケートで集めた読者様の体験談をもとに記事化しています
2023年10月21日YouTubeチャンネル「ポンコツ主婦!のまどん」を運営するのまどんさん。3歳、1歳の子どもたちを育てながら再起奮闘中の27歳シングルマザー・のまどんさん。昨年10月に離婚した、その経緯とは……?動画は、まだ結婚していた頃の、何気ない1日の様子から始まります。この日、ルーティン動画を撮影中だったというのまどんさんのもとに、友人から急に届いた宅配便。その中身に号泣してしまい……。 貧困の日々……友人からのサプライズに号泣 友人からは、妊娠・出産祝いを頂きっぱなしだっため、少し前に奮発して誕生日プレゼントを送ったばかりだったという、のまどんさん。 突然届いた段ボールをどきどきしながら開けると、中にはコスメの山が! 誰にも言っていないけれど、ずっと欲しいと思っていたコスメがずらり。 見た瞬間に、のまどんさんの目から涙が。上の子を出産してから3年以上、友達にはほとんど会わずに、連絡もあまり取っていなかったという、のまどんさん。 「私って友だちがいたんだ。好きな物もたくさんあった」 プレゼントを見た途端、タイムカプセルを開けたように、過去の思い出が溢れ出てきました。 さかのぼること10年前…高校生のころからの親友。のまどんさんと友人は、「美容の仕事に就く」という共通の夢を持ち、頑張っていました。 専門学校を卒業後、のまどんさんは、美容室に就職しながらWEB CMのヘアメイクを経験するなど順調でしたが、その後うつ病に。体と精神を壊して退職します。ちょうどそのころに、元夫から凄まじいプロポーズを受けて23歳の時に結婚。 結婚してすぐ、24歳のときに長男、26歳で次男を出産。最初は、愛してもらえる安心感もあり、幸せに溢れていました。 度重なる夫の退職と引っ越し元夫は「結婚して幸せにする」「子どもも欲しい」と言っていました。しかし、度重なる退職と引っ越し、そして増えていく借金。生活費も満足にない中、家事や育児に追われる日々。強い不安感と疲労感に追われながらも、選択肢を持てない自分にストレスを感じ、自分の髪を切り刻むなどおかしな行動を取ったこともありました。 お金がないため、大好きなメイクもできない日々が続きます。なんとか子どもたちを保育園に入れられるようになり、パートを始めて安定した収入を得られるようになってきました。 そんな中で、また夫の都合で引っ越し……。 引っ越し費用なんてないので、また借金して引っ越し費用にあてることを繰り返し、結局4年間の結婚生活中に3回も引っ越ししたそう。生活を安定させて、少しでも借金返済をしたかったのまどんさんは、心が折れてしまいます。 積み重なる借金。妻の財布からお金を盗む夫…結婚前は車を持っていた元夫ですが、結婚後にお金がなく10万円で売ってしまいました。それから、ことあるごとに「車が欲しい」「車があればもっと稼げるのに」と言うようになり、終いにはのまどんさん名義で車を購入して欲しいと言われます。 この時、すでにのまどんさん名義の借金が200万円近く、さらに元夫の借金も合わせると400~500万円近くに膨らんでいました。元夫はローンが組めないため、「お金は支払う」という約束で、のまどんさん名義で車を購入することに。 のまどんさんは、育児の傍ら様々な内職をして、3年以内に借金を返済しようと目標をたて必死にやりくりをしていた最中、元夫はのまどんさんが寝ている間に、お財布からお金を盗んだのです。これが分かった時点で、車の購入を取りやめました。その後も元夫がお金を抜くことが何度も続き、離婚を考え始めます。 「誰も人生の責任をとってくれない。自分の手で幸せになろう」「母親であることも大事にしながら、自分の人生も大切にしていきたい」 のまどんさんは、離婚を決意しました。 離婚後の現在その後、水面下で離婚準備を進めていった、のまどんさん。離婚にあたって一番不安だったのが「家を借りることができるのか」ということ。しかし実際には、シングルマザーに優しい不動産会社に出会い、良い物件を紹介してもらうことができ、離婚に踏み切ることができたそう。 そして昨年、離婚が成立。現在のまどんさんは、新居に引っ越して子どもたちと3人で暮らしています。週5でパートをして働き、在宅でSNS運用代行の副業もしながら、仕事と子育てに奮闘しています。離婚するまでに、パートや内職を掛け持ちして必死に稼いだお金を元夫に抜かれてしまうなど、たくさんつらい経験をしたのまどんさんですが、離婚してからはお金を奪われることなく、子どもたちと賑やかで安定した日々を過ごしているそうです。 この動画には、「涙が出ました」という共感の声や、のまどんさんへの励ましのコメントが多数寄せられていました。 YouTubeチャンネル「ポンコツ主婦!のまどん」では、子どもたちとの日常の動画がメインで投稿されています。こちらも合わせてチェックしてみてくださいね。著者:ライター 廣瀬尚子
2023年10月20日義母は、身長が私とほぼ同じです。そんな義母に、妊娠前から「ごはんちゃんと食べてるの?」、妊娠中には「もっと食べなきゃ!」。産後は、「痩せてると育児できないよ」と、会うたびに体重のことを指摘され、嫌な気分になりました。「義母と、親しくしたいけれど、嫌なことは嫌だ」と正直に私の気持ちを夫に伝え、義母との良好な関係性を築けるように義母と私の間に入ってもらいました。私の体重を気にする義母……義母は、身長150cm、40kg前後の私に「体重何kgくらいあるの?」と会うたびに聞いてきます。ごはんはしっかり食べているし、保育士をしているのでよく体を動かすこともあり、さらに体質も関係しているのか私は太ることができません。 義母は妊娠前や妊娠判明直後、産後も私に体重を聞いてきましたが、それが大きなストレス。保育士をしていることもあり、子育てをしていくだけの体力はしっかりあると思っていました。 体重で決めつけられるのが苦痛妊娠中のことです。安定期に入り、義実家にも妊娠したことを報告しました。すると、「私は、産後痩せちゃって子どもをお風呂に入れられなかったのよ。だから太ったほうがいいのよ!」と、痩せていると子どもを支えられないと、義母は決めつけてきました。 義母は、過去の自分の経験から心配しているのだと思いますが、考えを押し付けられているように感じました。「最低でも42kgはないと、子育てしていけないよ!」と具体的な数字まで出してきましたが、体重や体調は人それぞれ。妊娠中は、義母に会うのが嫌になってしまいました。 そして、産後、子どもを見にきたときの義母からのひと言目は、「何kg増えたの?」でした。 我慢できず、夫に打ち明けた結果せっかくのうれしい出来事の妊娠や出産なのに、体重のことばかり気にする義母に、私は会いたくなくなってしまいました。夫に「私は、義母に体重を指摘されることがすごく嫌だ。仕事では保育士をしているし、痩せているけれど子育てはちゃんとできるよ!」と義母に対する怒りをぶつけました。 夫は、そのことを義母にそれとなく伝えてくれたようで、息子が1歳になった今でもときどき言われますが、子育てを楽しむ心の余裕ができたこともあり、以前ほど気にならなくなりました。 義母との関係を悪化させたくなく、体重の指摘、義母の経験を押し付けられることを我慢していました。体力や体重は人それぞれという考え方はない義母。我慢しすぎず、もっと早く夫に伝えればよかったなと思いました。息子が生まれ、義母と会う回数が増えました。良好な関係を築いていくために、私が我慢すればいいと考えていましたが、夫に頼ることもときには大切であると実感しました。 著者:白田よう/女性・主婦。保育士として働いていたが、出産を機に退職。やんちゃな男の子を育てながら、自身の体験談を中心に執筆中。 ※ベビーカレンダーが独自に実施したアンケートで集めた読者様の体験談をもとに記事化しています監修者・著者:助産師 松田玲子医療短期大学専攻科(助産学専攻)卒業後、大学附属病院NICU・産婦人科病棟勤務。 大学附属病院で助産師をしながら、私立大学大学院医療看護学研究科修士課程修了。その後、私立大学看護学部母性看護学助教を経て、現在ベビーカレンダーで医療系の記事執筆・監修に携わる。
2023年10月19日第3子の妊娠中、おなかの子に先天性の疾患があることがわかり、帝王切開で出産することが決まりました。もともと里帰りではなく、産後は義母にきてもらう予定でしたが、今回は帝王切開なので入院が9日間。自然分娩のときと比べると4日ほど長いうえ、しかも産後は生まれた赤ちゃんの治療もありバタバタすることが予想されていました。義母や上の子たちが大変な思いをしないためにはどうしたらいいのか、私は悩んでいました。今までと違う入院中の生活上の子たちを産んだ病院は家から車で10分ほどの場所だったので義母や上の子たちは毎日お見舞いにきてくれていて、義母や上の子たちが困っていることを聞けたので都度対応できました。 しかし今回は家から車で1時間近くかかる場所、さらにこども病院なので感染症予防の観点から病棟への立ち入りが制限されており、上の子たちは病棟に入ることができません。つまり大人が2人以上いるときしかお見舞いにこられないので、夫が仕事の休みのときにしか義母と会うことができないのです。 義母の心配事入院中、義母が困っても即座に対応することは難しかったので、私は前もって義母に心配なことがないか電話で聞いてみました。いろいろと話し、伝えられることはその場で伝えましたが、義母は特に「子どもウケする献立作り」と「子どもが体調を崩したときの対応」に不安を持っているようです。 こういったことは非常に複雑で、電話で教えたところで、すべて記憶してもらうのは難しいもの。そこで私は「上の子たちの説明書」を作ることにしました。 上の子たちの説明書ノートを1冊用意し、上の子たちの普段の1日の流れから書き始めました。食事についてはあまり細かいことを書きすぎると義母が大変だと思ったので、「好きな物、嫌いな物」と「食べる量の目安」や「各自の食器」だけにしました。 体調不良時の対応については「病院に行く目安」や「かかりつけの病院」だけでなく、「常備薬や体温計、保険証等の場所」も書くようにしました。その他、「トイレの対応」や「DVDプレーヤーの使い方」など詳しく書いていき、それぞれ項目にインデックスをつけて、「上の子たちの説明書」の出来上がりです。 忙しい入院中に大活躍張り切りすぎたかなとも思いましたが、結論から言うと「上の子たちの説明書」は大活躍でした。産後すぐ、生まれた赤ちゃんは容体が急変して手術となり生死を危ぶむ状況が続いていたので、私はとても日常の困りごとに対応できる状態ではなかったのです。 何度か家族全員でお見舞いに来てくれましたが、病棟を離れられる時間は限られていましたし、上の子たちも場の雰囲気を察してか機嫌が悪く、とてもゆっくり相談にのることができる状態ではありませんでした。義母からも「あれのおかげで連絡が取れなくても不安がなかった」と絶賛されました。 今回のことで、子どもたちに関する情報を記録し、共有しておくことの大切さを思い知りました。今は特に子どもたちと離れる予定はないのですが、何か起こってからでは準備が間に合わないので、このとき作った「子どもたちの説明書」を常にアップデートしながら備えておこうと思います。 監修/助産師 松田玲子著者:岩崎はるか2女1男の母。両実家とも遠方のためワンオペ育児中。先天異常の影響で肺が片方しかない医療的ケア児を含む3人の子を育てた育児体験談のほか、大学院で農学を学んだ経験から食についても執筆。
2023年10月12日2人目の妊活中、マタニティ用品や育児グッズは1人目のときの物をまた使えばいいので、妊娠・出産に向けて特に何か準備が必要だとは考えていませんでした。しかし、実際に2人目を授かってみると、予想しなかった問題が生じたのです。つわりがつらい!1人目のときはつわりがほとんどなかったのですが、2人目を妊娠すると、つわりがつらく、ひどい船酔いのような状態が何週間も続きました。 そのころ、上の子はまだ幼稚園入園前。1日中遊びの相手をするのが大変で、一時保育を利用してみたいと考えました。ところが、それまでに一時保育の利用経験がなく、預けられる施設を探すところからのスタートになってしまいました。 一時保育の予約がとれない!?近所で見つけた施設は、事前に利用登録が必要でした。なんとか登録手続きを済ませたものの、いざ利用の予約を入れようとすると「すみません、その日は一時保育の枠はいっぱいです」と、思いがけない回答が……。 つわりの具合を見ながら、どうしてもつらいときだけ預けようと思っていたのですが、予約は早めに入れておかないとすぐいっぱいになってしまうようです。結局、思ったようには利用することができませんでした。 早めの情報収集と利用登録を!当時住んでいた地域は子どもが多く、保育園や幼稚園の入園は激戦状態。一時保育も例外ではなく、「使いたいときに使うためには、複数の施設に利用登録しておいたほうがいいよ」と、あとになってママ友から教わりました。 妊娠前は特に一時保育の必要性は感じていなかったのですが、何かあったときのためにもっと早くから情報収集をして利用登録を済ませておけばよかったです。 1人目のときは妊娠経過が順調だった人も、2人目以降も同様とは限りません。実家が遠方など頼れる人が近くにいない場合は、不測の事態に備え一時保育等を利用できるよう準備しておくことをおすすめします。 イラスト/imasaku監修/助産師 松田玲子著者:奥田美紀2児の母。IT企業にてSE・プログラマーとしてシステム開発やWEBサイト運用等をおこなう。夫の転勤や子育てのために退職し、現在は妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2023年10月09日私は幼稚園に通う4歳の女の子と、2歳の男女の双子を育てています。双子を出産するときのこと、一緒に入院準備をしていた母に持たされた“あるもの”にすごく助けられました。最初は不要だと思っていたのですが、持って行って本当によかったものとは……。クタクタの中、まさかのごはん抜き!?双子の出産時、計画自然分娩でしたが、帝王切開になる可能性もあり、朝から出産までは絶飲食でした。私が出産した大学病院では、20時までに分娩室から病室に戻ることができれば病院の夕食が食べられるとのことで、18時前に2人目を出産した直後に助産師さんから「夕食に間に合うよ!」と言われていました。ほぼ24時間何も食べずに出産したので、私はおなかがペコペコ。 しかし、出産後の出血が多く、分娩室から病室に戻ることができず……。結局、病室に戻ったのは23時ごろ。助産師さんから「遅くなって夕食が出せないんだけど、何か食べられるもの持ってきてる?」と聞かれましたが、「ないですが、大丈夫です!」と伝えました。 コロナ禍で立ち会いや面会ができないため差し入れもしてもらえず、「明日の朝までごはんがないのか……」と残念な気持ちになりました。 母に持たされた荷物を開けて思わず喜びが…入院バッグの中から洗面用具を出そうとすると、ある袋が目につきました。入院前日の夜、母に「あったら便利なものってあるかな」と話しながら準備をしていたときに、「荷物になるけど、一応持って行きなさい」と渡してくれたものでした。 袋を開けるとパンが2つと少しのおやつが! 私は出産の疲れから、パンを持ってきていることを忘れていました。「荷物になるし、どうせ食べないからいらないよ」と思いながらも、母がせっかく用意してくれたからと入院バッグに入れておいたのです。 そして夜中にパンを食べながら、コロナ禍でひとりで臨んだ出産を、母がねぎらってくれているような気持ちになりました。 私は入院中の着替えなどの用意や一緒に連れて帰る子どもの準備、出産のことで頭がいっぱいになっていました。小さなことですが、自分では気づかないことに助言をもらえたので、母と一緒に入院準備をしてよかったと思いました。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子イラスト/森田家著者:やまぐち さき
2023年09月30日私は現在2人目を妊娠中のママです。1人目の娘を産んでから、夫婦ともども子育ての大変さに疲弊してしまい、わが家はずっとひとりっ子で十分だと思っていました。しかし、あるときを境に、私は2人目を考えるようになったのです。ずっとひとりっ子で十分だと思っていた現在わが家にはかわいい4歳の娘がいます。私は1人目を産んでから子育てに疲弊し、正直ひとりっ子で十分だと思っていました。 住んでいる場所が両実家から離れており、なかなか手伝ってもらえる仲間もいない中、私は初めての育児で余裕のない日々……。夫も子どもが苦手なタイプで、2人目なんて、とても考えられなかったのです。 娘の急成長を見て考えに変化が!?赤ちゃんのころから毎日一緒に過ごしてきた娘が3歳になるころ、おむつが外れ、ひとりでできることが増え、育児の負担がぐんと減り、私自身に余裕ができました。 私が先導しなくても、娘は支援センターや初めて行く遊び場で、自分で友だちを見つけて遊べるようになり、急成長にビックリ! お友だちと楽しそうに遊んでいる娘を見ていると、「きょうだいがいたら、もっと楽しいのかな」と考えるようになりました。 夫婦で話し合い、2人目を決意!娘が生まれた当初、夫はあまり育児に参加してくれませんでしたが、成長するにつれて2人で出かけたり、遊んでくれたりするように。夫婦でお互いに育児の大変さを理解した上で、私たちはひとりっ子でも十分満足でした。 しかし、将来、親には相談できないことも話せるようなきょうだいがいたら、娘にとって良いのかもしれないと夫婦で話し合い、2人目を作ることを決意したのです。 私は育児に余裕ができ、2人目を欲しいと思うようになりました。現在、無事に授かることができ、娘も私のおなかを見て赤ちゃんの誕生を楽しみにしています。娘にとってこれからきょうだいができることが良いことなのかわかりませんが、2人とも大切に丁寧に育てたいと思っています。 イラスト/ななぎ著者:渡邊なつ
2023年09月01日anさんが運営するYouTubeチャンネル「an channel」。anさんは今、娘2人との3人暮らし。別居婚のシングルマザーです。別居する原因となった、旦那さんの2度に渡る裏切りとは!?anさんは別居婚のシングルマザーで、まだ籍は抜いていません。別居する原因となったのは旦那さんの不貞。今回はその経緯について紹介します。 出会ったころは、真面目な人だった学生時代に知り合ったanさんと旦那さん。知り合ったころは、女性関係にだらしない素振りは1ミリもなく、とっても真面目な人でした。 友達期間も含めると10年以上の付き合い。anさんは彼のことは何でも分かっていると思っていました。 しかし今思うと、結婚したころから、旦那さんはお風呂場にまで携帯を持って行くような怪しい行動が増えていったそう。でも女性関係には無縁のような旦那さんだったので、当時は疑いもしませんでした。 長女が1歳のころ、一度目の不倫が発覚 長女が1歳になるころ、夫の行動に何か引っかかるものを感じたanさんは、旦那さんの携帯を見てしまいました。LINEで複数女性と生々しいやりとりをしていたことを知ったanさんは、長女の寝顔を見ながら、涙を流しました。 翌朝、何事もなかったように旦那さんを仕事へ送りだして、離婚すべきか、誰かに相談するべきか、もし離婚した場合の子どもの気持ちなどを一日考えました。 その日の夜に「全部見た。あれは誰!?」と問い詰めますが、旦那さんは知らないの一点張り。 興奮して、まくしたてるanさんですが、認めない旦那さんに業を煮やして、長女を連れて実家へ帰りました。 「自分のしたことを親に報告してこい」と、旦那さんも実家へ帰らせました。 妻と子どもが実家へ帰ってしまっても、たまにLINEしてくるだけで、謝りにも来ない旦那さんにますます怒りが湧いたといいます。 ついに不倫を認めた夫その後、最終的には、旦那さんが不貞を認めました。 「今回だけは許してあげて」と義両親に懇願され、子どもがまだ小さいこともあり離婚を思い留まりました。 「二度としません。次したら離婚します」という誓約書を書かせたanさん。 それから5年経ち、次女も生まれてようやく、「あのころ離婚しなくて良かったな」と思えるようになっていきました。 まさかの二度目の不倫が発覚!不倫発覚から5年経ち落ち着いた日々を過ごしても、anさんの心の傷が消えることはありませんでした。ただ、過去の過ちをネチネチと言われ続けるのは旦那さんも嫌だろうなと思い、酔ったときに「もう浮気はやめてよ〜」と冗談まじりに釘を刺すくらい。 旦那さんも「二度としないよ」と、そう言っていた数日後、まさかの二度目の不倫が発覚したのです。 しかも今回は2年近く気づかずに、騙されていたことが判明。把握しているだけで二度も裏切られたanさんは、旦那さんに怒りをぶつけて、すぐに家を追い出しました。これが、2021年の出来事。 それから約1年の間に、2回話し合いの場を設けました。「もう二度としない」と泣きながら謝る旦那さん。さすがにもう信じられません。 旦那と別居へ。悲しかった娘の涙……旦那さんを家から追い出してから1年経っても「自分の行動が正しかったのかわからない」と言うanさん。子どもたちにとっては、たったひとりの父親。悔しくも葛藤はあります。 「もうパパとは一緒に暮らせない」そう話したときの長女の顔は、今まで見たことがないくらい悲しそうでした。 「片親にしてしまってごめん。ママ頑張るからね。絶対幸せにするからね」長女と抱き合って泣いたそうです。 やさしいと思っていた人は、ただただ何も考えていない人でした。大切な娘たちを傷つけたこと、絶対に許しません。「親権はもちろん、慰謝料や養育費もanさんが望む金額を支払う」という内容の誓約書を書いてもらいました。 旦那さんから「まだ籍は抜きたくない」と言われ、籍は入ったまま(2022年4月時点)。世間体を気にしているのか、まだanさんが離婚を思い留まってくれると思っているのか……旦那さんの本心はわかりません。 anさんもまだ幼い子どもたちがいるので、仕事は時短勤務中。お給料が少ないので、別居して婚姻費用をもらうことにしました。住宅ローンなども支払ってもらい、今のうちに貯金をしようと決意して、日々頑張っています。 「過去は変えられないけど、未来は変えられる!」と、動画の最後につづっていたanさんの言葉には、共感の声が多数寄せられていました。前向きな様子が伺えるanさんですが「ひとりで子どもたちを育てていくと決心しても、不安が押し寄せてくる夜がある」というシングルマザーならではの悩みも垣間見えます。anさんと子どもたちが幸せに穏やかに過ごせるといいですね。 YouTubeチャンネル「an channel」では、シングルマザーとしての日常や子どもたちの様子が投稿されています。チェックしてみてくださいね。著者:ライター 廣瀬尚子
2023年08月28日第3子を妊娠中のある夜、布団に入った私は、なぜか急に「脚を動かしたい!」という衝動にかられました。しかもその症状は何日も続いたため、私は産婦人科の先生に相談することに。すると思いもよらない返答が……。謎の症状の正体はまさかの…3人目を妊娠中のある夜のこと、布団に入った私は、急に脚に違和感を覚えました。その違和感は、「脚を動かしたい!」という、今まで感じたことのない症状でしたが、しばらくするとおさまったため、あまり気にせず眠りにつきました。しかしその1週間後、布団に入ると、また脚に違和感を覚えました。やはり脚を動かしたくなるので、布団の中でストレッチをすることに。でもその日はなかなか症状がおさまらず、1時間ほどが経過し、やっと私は眠ることができました。 その後も脚の症状はは2・3日に一度、起こるように。一度症状が出ると1時間はおさまらないため、私は次第に寝不足になり体調不良になってしまいました。症状が続いたため産婦人科の先生に相談をしてみると、先生から「むずむず脚症候群(※)かもね。安静時に、脚に不快感が出るような病気だよ」という予想外の返答が。私は聞いたことのない病名に驚きましたが、先生いわく、「妊娠中に貧血になると、むずむず脚症候群を引き起こすことがある」とのことでした。そのため至急、血液検査をすると、やはり貧血という結果に。薬を処方してもらい、しばらく様子を見ることになりました。 (※)むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群):夕方から深夜にかけて、下肢を中心に「むずむずする」「虫が這うような感覚がある」「じっとしていると非常に不快」といった異常な感覚が出現してくる病気。 薬を服用してから2週間が経ったころ、気がつけば脚の症状はなくなっていました。私はスムーズに眠れるようになり、体調も回復。まさか脚の症状と妊娠が関係あるとは思っていませんでしたが、妊娠中は何が起こるかわからないということを、改めて感じた出来事でした。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子イラスト/森田家著者:森井さやか
2023年08月25日長男が3歳になり、夫とは「もうこのままひとりっ子でもいいよねぇ」と話していました。しかしそのころから、娘のいない義母は「私はどうしても女の子が欲しいの。女の子を産んでもらわないと困る」と。わが家の長男にはもちろんのこと、夫に対しても失礼な発言と、私へのプレッシャーが始まりました。2人目のサプライズ妊娠と性別報告夫には兄が1人います。その兄のところには、娘と息子が1人ずつ。とにかく女の子がかわいい義母は、子どもたちが小さいころから孫娘のことを長男と甥っ子とは比べものにならないくらい大切にしていました。そんな中、計画していなかった私のサプライズ妊娠。そして性別が判明、男の子です。 「健康なら、どちらでもいいのよ」という実母に対し、「はぁ……まぁしょうがないわね。今編んでいるものはほかの人にあげるわ、ピンクだから」と言った義母。このひと言を言われたとき、今まで一方的に押し付けられながらも我慢してきた感情が、一気にあふれそうになりました。 現在も続く義母の攻撃実家からは遠く離れたところに住んでいるため、2人目は里帰り出産ができませんでした。生まれるまで、会うたびに「女の子ってことはないわよね?」などと言い続けてきた義母。 元気に生まれ、健康に育ってくれている長男と次男、そして兄家の甥っ子には目もくれず、今でもたった1人の孫娘がお気に入りで、クリスマスや誕生日のプレゼントの値段には明確な格差があり、もう笑ってしまうほど。義母は自分の偏愛を自身もよくわかっています。私には「あなたも子どもを特別にかわいがってほしかったら、女の子よ、女の子!」と、もう43歳になり、3人目は産むつもりのない私に今でも攻撃してきます。 私が爆発せずにいられる理由義母は今までも、そして現在でも、私に「女の子は特別だから」と言ってきます。何度も何度も爆発しそうになった私ですが、爆発せず義母の前では仏のような顔をしていられます。それは、夫が私の味方だから。義母が私に対して失礼なことや、あまりにもネガティブなことを言うとき、必ず「母さんは間違ってるよ。相手がどう思うか、もっと考えたほうがいいよ」と直接言います。 夫が義母のことをどう思っているのか、本当のところはわかりませんが、少なくとも私の前では100%私の味方をしてくれるのです。こうして、私は義母に対して大爆発を起こすことなく、過ごすことができているのだと思います。 「自分には女の子がいないから、どうしても孫には女の子が欲しい」と言う義母。そんな無茶な要求を、私たち夫婦に絶えず投げかけてくる中、何度もプッツンときてしまいそうな私をうまくコントロールしてくれているのは夫です。「仕方がない」のひと言で問題から逃げるのではなく、嫌な思いをしている私のストレスを和らげる努力をしてくれる夫に、本当に感謝しています。 著者:松本 奈緒海外にて、バイリンガルの7歳と11歳の男の子のママ。将来を担う子どもたちの海外での日本語教育や、日本での英語教育に力を注ぐライター。
2023年08月20日現在、生後5カ月の息子がいます。切迫早産を乗り越えた矢先、別の理由で約1カ月早めに出産。そんな私の体験談を紹介します。※新型コロナ感染症が「5類感染症」に移行する前の体験談です。 自分は大丈夫だろうと油断していたそのとき、私は妊娠37週0日でした。その2日前、実家には普段は夜勤などが多く、あまり会うことのない実父がいました。実父は、会社の集まりでごはんに行っていたらしく、酔っていました。食事をしていたところから歩いて帰ってきた実父は、「寒いんだよなぁー。なんか寒気するんだよなぁー。喉も少し痛いし」と冗談交じりに笑いながら話していました。 「コロナじゃないよね、こわいなー」など他愛もない会話をして、私はその日に自宅へ帰宅。次の日、私は喉が痛くなりました。ただ喉が痛いだけで、熱などはなかったこともあり、「のど飴を舐めていればなんとかなるだろう」と、そう思っていたのです。 お医者さんの言葉に自分を責める…次の日の朝、頭痛がすることに気づきました。熱を測ると37.5度。「あぁやってしまった」と思いました。すぐ病院を探したのですが、早くても翌日しか空いていなかったため、できるだけ体を休めることに集中しました。 しかし夕方になるにつれて熱は高くなり、39.2度にまで達していました。そして、なんだか胎動が弱く感じたのです。実母に連絡したところ、「すぐに産婦人科に電話しなさい」と言われました。そのとき、すでに22時ごろだったと思いますが、電話をすると「すぐに来てください」と言われ、病院へ行きました。 いろいろな検査をしてわかったことは、新型コロナが陽性であること、そして羊水が少ないこと、赤ちゃんが危険な状態であること、ということでした。産婦人科の先生はこう私に告げました。「今から緊急帝王切開になります。ただ、ここの病院では受け入れることができないので、約1時間ほどかかりますが、対応しているこちらの病院に行ってください」と。おなかの子は大丈夫なのか不安になった私は、自分の行動を振り返り、自分を責めました。 防護服の先生に囲まれての出産1時間かけて向かった病院には、防護服を身につけた先生方がいました。夜中0時ごろに病院へ着き、約2時間半おなかの具合を検査して3時ごろにオペ室へ。私が覚えているのは、真っ白な部屋とおなかを触られる感覚。そして、息子が生まれてきたときの小さい泣き声と、うっすらと見えた息子の体です。 そこから12日間は感染対策のため、息子に会うことはできず、術後の痛みに耐える日々でした。ただ、息子に再会してからは、痛みなんて忘れるほど幸せな毎日を過ごせています。 新型コロナが流行っている中での妊娠・出産は、もともと不安なことが多くありました。しかし不安な中でも、どこかで「自分は大丈夫」と思っていたのかもしれません。結局、最後の最後でかかってしまい、新型コロナは本当に身近に潜んでいる病気なのだと実感しました。おなかの子や子どもを守るためにも、必要最低限の対策を講じたうえで生活していかないといけないと感じました。 感染したときは家族が力になってくれて、そして病院の先生たちが助けてくれました。そのことに感謝し、今後のことをしっかり考えて過ごしていきたいと思っています。あのときの痛みを忘れさせてくれるくらい、子どもは本当にかわいいです。これからも、かわいい息子と幸せな日々を過ごしていこうと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子著者:そら22歳で一児の母。犬2匹と一緒に幸せに暮らしています。
2023年08月18日私は3人目を妊娠したときに、勤めていた職場を退職しました。当時勤めていた会社の制度をフル活用すればよかったなと、今でも時々思い出しては後悔しています。2人目を出産後、7カ月で復職2人目を出産したとき、職場の人たちに気を使って、産後7カ月で早めに復職しました。しかし、復職したからにはきちんと仕事をこなしてほしいという無言の圧力と、他の職員と同じかそれ以上に仕事をこなして当然という空気が私には重く苦しく感じました。 職場にはフルタイムで働くワーママも多く在籍しており、短時間勤務で早く帰宅することすら悪いことをしている気分で、申し訳なく感じてしまうほど肩身が狭い思いをして働いていました。 出産と育児のことで職場に遠慮し過ぎた2人目のときはもともと1年未満の育休取得予定と会社に伝えていたため、人員の補充もされないまま育休期間が過ぎ、職場の人たちは、人員が1人欠如した状態で仕事をしていました。 私の復職後も人員の補充はなく、職員の負担が軽減されない状態だったので、子どもの熱などで急に休んだときも周りに負担をかけてしまっていました。自分ではどうすることもできないのがつらかったです。 その後、私は3人目を妊娠。今回は人員を補充して仕事がまわるようにと、周りの方が考えてくれたようで、産休に入る前には新規で人を雇うことに。 仕事の負担はかなり減りましたが、それでも自分の疲労は限界に近く、退職するかどうか悩む毎日。周りの人たちからは、「会社の制度を使えば3年間の産休・育休が取れるのだから、しっかり取得したほうがいいよ」と言われていました。 結果的に退職を決意。でも…そのころ、2人の子どもたちは、保育園の送迎前に寂しがって大泣きすることもしばしば。仕事を続けようか辞めようか毎日悩んだあげく、結局、産休と同時に辞めることにしたのです。 退職を決めたものの、私は「2人目の産休・育休をしっかり3年取って、人員の補充もしてもらい、その間に3人目の子を妊娠して、合計6年の産休・育休制度を活用すればよかった……」と少し後悔。 今は違う職場でパート勤務をしていますが、やはり給料や保障の面を考えると、正社員はいいなと思うときがあります。有休やボーナスなどの待遇面もうらやましい……。 やがて子どもの手が離れたときに、もう一度正社員として働きたいと思っても、壁が厚く感じると思うのです。もちろんパートにもメリットはあり、正社員よりも時間の融通を利かせてもらっているなと感じています。 もしあのとき、3年間しっかり産休・育休を取っていたら、正社員として仕事を続け、定年まで働けていたかもしれないと、いまだに考えることも。しかし、子どもたちと過ごす時間が増えたので、今の境遇には満足しています。 イラスト/ミロチ著者:小川 朝美7歳男児・5歳男児・2歳女児の育児をしつつ、医療技術職として働くママ。子育て経験談や趣味について執筆するライターとしても活動中。電車大好きな息子たちの健忘禄として鉄道ブログも執筆している。
2023年08月14日第2子妊娠中、妊娠9カ月、突然の出来事が起こりました。それまで大きなトラブルもなくほぼ順調に来ていたのに突然の体調不良。そしてお尻の辺りがひんやりしました。破水したのかと思ったのですが……!? 真夜中に起こった衝撃の体験を紹介します。腹痛と寒気が…第2子出産を機に退職することを決めていた私。あと1週間で有休消化に入ろうとしていた妊娠9カ月のことです。3連休の週末初日、上の子と自宅で遊んでいるときになんだか腹痛と寒気を感じるようになりました。仕事に行っていた夫の帰宅までは、なんとかごまかしながら子どもの相手をしていました。 しかし、夜には発熱。翌朝は体温が下がったものの、水様便を伴う腹痛があり、その日は自宅でゆっくりしていました。そして夕方には次第に体温が上昇、その夜事件は起こりました。 お尻がひんやり!?夜中も何度か腹痛で目が覚め、そのたびにトイレへ行ってはまた寝る、を繰り返していましたが、深中の2時ごろ、お尻の辺りがひんやりして目が覚めたのです。1〜2時間おきに繰り返す腹痛とお尻の湿った感じ……。まさか、陣痛と破水?! 慌てて布団をめくると、なんと水様便が漏れてしまっていたのです。とりあえず出産に備えて購入していた夜用ナプキンを当て、おしりの下にバスタオルを敷いて寝ることに。そのあとも何度か腹痛で起きましたが、徐々に治まり、翌日にはナプキンも不要な状態になりました。あのときは本当に焦りましたが、その後は何事もなく、胎児は妊娠39週5日までおなかにいました。 無理は禁物だと実感あと1週間で有休消化という状況で、まだ会社のデスクは散らかったままでした。さらに、引き継ぎしたいことや関係先へのあいさつなどやることがいろいろ残っており、焦りやストレスがたまっていた私。そんなストレスなどが原因となって体調を崩してしまったようです。幸いにも早産にはならなかったものの、無理は禁物と思い知らされました。 第1子産休の時に引き継ぎで苦労したので早めに取り組んだつもりでしたが、もっともっと余裕が必要だったかなぁとも反省しました。何事にも無理をせず、ストレスをためないように心がけることが大切だなと思った出来事でした。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師 松田玲子著者:柳 蓮花4歳、0歳の2児の母。第1子出産後はフルタイムで仕事をしていたが、第2子出産を機に退職。在宅ワークの道を模索しつつ、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆中。
2023年08月06日元ホストでニートだった夫。妊娠がわかったとたんに初めて真面目に就活して正社員に。妊娠を誰より喜び、娘の誕生を待ち望んでいました。いよいよ破水すると、夫は大慌て。病院へ着いてからは痛みが増し、終始泣き叫んでいた私。そんな私のドタバタな出産エピソードです。ホストだった同級生と再会同級生でもある夫とは、彼がホスト時代に再会し、その数年後付き合い始めました。そして付き合って2年目となる年に妊娠が判明。当時仕事にもついていなかった彼ですが、生まれてくる自分の子どものために、初めてまじめに就活し、正社員となりました。 毎日のようにおなかに話しかけてくれて、夢に女の子が出てきたからと、性別がわかる前から名前を決めていたくらいの親バカでした。高校時代から問題を起こしてばかりで、母泣かせのやんちゃだった人です。 家族が職につけと説得しても私が説得しても職につかなかったのですが、父親になるとわかった途端、迷わず職につくことを決めました。その姿を見て、私は彼を信じてこの子を出産しよう、と決意しました。 ドタバタと焦り始めた夫に義母は…そんな私たちはお金がなかったので、妊娠後期は夫の実家に引っ越してお世話になりました。出産予定日は、夫の誕生日。夫と絆の深い子であることは間違いありませんでした。焼肉やスクワット、階段の昇り降りなど、あらゆる陣痛ジンクスを試しましたが、夫の誕生日には生まれてきませんでした。 毎日今か今かと待っている夫。ある日の夜中、私は何か異変を感じてトイレへ……。おしっことは違う意図しない水が流れてくる感じがします。色は薄いピンク色でした。「破水だ」と私はすぐそう思いました。初産婦だけれどいろいろな本も読んでいたので、間違いないと思ったのです。 病院からはつらくても自分で電話するように言われていました。トイレの中で落ち着いて電話しなきゃと思っていると、私の様子を気にした夫が、「どうした? 生まれるか?」と焦って聞いてきました。「うん、破水したみたい」というと大きな声で「かーちゃん! 破水した! 生まれる! 俺……」と、ドタバタしはじめました。義母は大爆笑。「あんたが焦ってどうするの」と。 夫は私のバッグを持ってウロウロ……。「俺、車まわしてくるから」と夫が焦っているおかげで、私は落ち着けました。「待って、まず病院に電話するから。落ち着いて」。病院へ電話すると入院になるから荷物を持ってくるように指示され、夫が病院へ連れていってくれました。 「もう無理ー!」痛みのあまり泣き叫んだ私夫はすぐ生まれると思ったのか、緊張しながらもワクワクしている様子。病院で助産師さんに、「子宮口は全然開いてないから。旦那さん、今日は帰って。朝もまだ生まれないだろうから、仕事に行って大丈夫! 午後から休んでも遅くないから!」。夫は目が点になりながら「え? 仕事? 仕事に行って大丈夫なんですか?」と、またあたふた。 夫は自宅へ帰り、その後、助産師さんの言うとおり仕事に行きました。しかし仕事に集中できるわけもなく、上司には「奥さんのそばにいてやれ」と言われたそうで、早退してすぐ病院へ駆けつけてくれました。 陣痛はなかなかこず、その日の夕方やっと弱い陣痛が始まったくらいでした。弱いとはいえ、経験したことのない痛みに、痛いと泣き叫び、義母と実母と夫に支えてもらいながら子宮口が開くのを待っていました。1時間が何十時間にも思える苦しい時間でした。 その日は満月で、たくさんのお産があったのか、ナースコールを押してもしばらく反応なし、ナースステーションももぬけのから。夫は何度も助産師さんを呼びに行ってくれましたが、いなくてイライラ。 小さな個人病院、お産が重なれば仕方ないこととはいえ、なかなか誰も来てくれないことに私もイライラと痛みで暴言を吐いていました。「もう無理ー! おなか切って! 無理ー」。バレーボールをずっとやっていた私は声が大きく、未だに家族には「誰よりもでかい声で泣き叫んでいた」と笑われるくらいです。 やっと来てくれた助産師さんは、「子宮口が全然だねー。まだまだかかるわー」と言ってまたいなくなりました。「もうやだー、痛いー!」。その繰り返しで、私は夕方から朝まで泣き叫び続けました。 妊婦さん全員が私を指さして…朝になると助産師さんの数が増えました。先生に診察してもらうために、歩いて行くように言われたときは絶望しました。母の手を借りてやっとの思いで私は待機室へ。 夜通し泣き叫んだ私は、誰が見ても今にでも倒れそうな姿だったのだと思います。数人の妊婦さんがいましたが、助産師さんが「それでは順番に先生の診察をおこないます」と言った瞬間、そこにいた妊婦さん全員が、私を指して「先に診てあげてください。私たちは大丈夫です」と譲ってくれました。 余裕がなかった私はお礼も言えず、頭だけ下げて先生のところに向かいました。そこで先生に「どうする? 陣痛促進剤を打つかい?」と言われて、「もう無理です。それ以外、考えられません」と即答し、陣痛促進剤を打ちました。 朝の9時に陣痛促進剤を打つと、急激に痛みが増して涙と鼻水と汗で私の顔はべちゃべちゃに。夫は必死で私の顔を拭いてくれてました。昼ごはんは天丼で、「こんなの食えるかー!」と激怒してしまった私。もう私を止められる人は誰もいませんでした。 感極まって泣く夫に全員が笑ったのはお産が重なったのもあり、私はLDRには入れずそのままこの部屋でと言われ、いきむためにつかむようなものもない状態でした。 どうしたらいいかわからず、「もう無理、無理ー! 出して!!」と弱音ばかりの私。助産師さんに「赤ちゃんに全部聞こえているんだから、そんなこと言わないの!」と言われ、とてもつらい時間でした。 やっと出産というとき、1回いきんだだけで、出てきてくれた赤ちゃん。私はもう放心状態。夫は感極まって声を出して泣いていました。義母が「まったく、泣き虫なんだから」と夫にハンカチを渡したら、全員が笑いました。なんと夫は漫画のようにメガネの上から涙を拭いていたのです。義母はそれを見て感動しながら「しょーもないねー」と夫のメガネを外し、涙を拭いてあげていました。その姿を見て私もほっこり。 「23時間、あれだけ大声で最後まで泣き叫んで怒っていた妊婦さんは、なかなかいない」と言われたぐらいでした。体力が人並み以上にあったからなし得た出産だったように思いますが、夫の漫画のような笑える行動が、笑顔と感動を与えてくれたことも間違いありません。 彼の夢の通り女の子だったので、そのまま夫が言っていた名前をつけました。その長女も11歳。夫が正社員となったのも11年目ということになります。ちゃらんぽらんだった自分を変えてくれた娘。その娘には感謝しかないと、夫は娘のために歯を食いしばってくれています。 バイトすら続かずニートだった人が、他人に頭を下げたり、どんなことがあっても投げ出さずに家族を守ってくれる夫に変わりました。今では夫には頭が上がりません。娘がいなかったら夫は今ごろどうなっていたか、私も夫も想像がつきません。変わらないといけないと自分を奮い立たせたら、人は変われるのだと私は改めて思いました。 やんちゃで喧嘩っ早い人でしたが、おちゃめで誰より人間味のある人でもあり、結婚して12年たちますが、飽きずに楽しく過ごせています。今では3姉妹の父ちゃん、家族をとても大事にしてくれるやさしい父ちゃんに成長しました。心も体もでっかくね。 監修/助産師 松田玲子著者:おはな3姉妹とオス二匹のワンコの母ちゃん。ほぼワンオペ育休中。破天荒な夫を支える鬼嫁です。
2023年08月04日息子は現在、自宅から車で8分ほどで行ける前夫の家に住んでいます。前からきょうだいがほしいと言っていましたが、前夫と離婚してしまったため、一人っ子。現在の夫と息子は、オンラインでゲームを共有したり、一緒に旅行やカラオケへいったり、仲良しです。しかし、息子は料理の専門学校へ通ってから調子を崩し、休学。その後は今の夫と息子が疎遠になり、私とも会わなくなりました……。息子は1カ月に1回、私のツケで親戚の美容室に行くため、その親戚から上の子の近況を聞いています。そんな中、私は現在の夫との子どもを妊娠。そして息子と携帯ショップへ行ったときに事件は起こりました……。現在の夫との子を妊娠現在の夫との子を妊娠して安定期に入ったため、前の夫と暮らしている息子に伝えようと会う日を決めました。母親である私が直接伝えたかったのです。しかし、先に親戚の美容室の人が息子に伝えてしまいました。 息子は驚いていたようですが、お兄ちゃんになるからと、休学していた料理の専門学校に復学してお母さんを手伝うと、意欲的だったとのことです。 携帯ショップへ行くとある日、息子が携帯の調子が悪いと言うので、携帯ショップへ一緒にいくことになりました。すると、20万円もする携帯がほしいとだだをこね始めました。そんな高い携帯は買ってあげられないこと、ただでさえギガMAXで、通信料合わせ月々携帯代が2万円もかかっていることを伝えました。 また、ゲームばかりやっているからと注意すると「ゲームは中学からの繋がりある大事な仲間とやっている。そんなふうに言うな。どうせ俺なんてもういらないんでしょ」とブチ切れ……。引きとめましたが「俺歩いて帰る」と、無視して帰っていってしまいました。 20歳の誕生日には前の夫に事情を話すと、「俺からフォローする」とのこと。もうすぐ20歳でも、息子としては、今の夫との義きょうだいを受け入れるのは複雑な心境なのかもしれないと、2人で話しました。 現在、息子は料理学校で奮闘中です。就職先がきまったら、私と仲直りしたいと、きっかけ作りを考えていると前の夫から聞きました。11月に20歳の誕生日を迎えるので、そのときには、盛大なお祝いをして、息子が私にとって大事な息子であることを伝えたいと思います。そして、その後生まれた弟と会ってほしいと考えています。 前の夫には、そのことを伝えており、今後も上の息子のフォローをしていき仲直りできるよう仲裁役をしてくれるとのこと。現在の夫も理解ある人で、上の子と、下の子、きょうだい顔合わせできることを望んでいます。その日が来るのを私は今、心待ちにしています。著者:幸20歳(前夫との子)、0歳(現在の夫との子)の2児の母。現在育児休暇中(看護師)。今の夫と結婚してなかなか子供に恵まれず、不妊治療するも、流産し、三度目の正直で43歳でやっと授かり出産。
2023年08月01日ショーコさんが運営するYouTubeチャンネル「30代バツイチ独身婚活中の玄野ショーコ」。20代で結婚、離婚を経験したショーコさん。離婚する原因となった経緯とは!?今回はショーコさんが8年間も交際して結婚したにもかかわらず、わずか1年で離婚することになってしまった体験談を紹介します。 交際8年、結婚1年で離婚 ショーコさんは学生時代から8年間付き合っていた彼と27歳で結婚。28歳で離婚しました。 結婚当初、夫は仕事が忙しく、帰宅はいつも22時過ぎ。でも、休日は一緒にごはんを食べるなど、幸せな結婚生活を送っていました。 きかっけは同僚に誘われたネットワークビジネスある日、夫が「ネットワークビジネスを始めたい」と言い出しました。会社の同僚Aさんから誘われたそうです。 Aさんはこのとき、「自分はネットワークビジネスでの収入はないが、アップ(指導者のような人)のBさんは、かなり稼いでいる」と話していたそう。 最初は、ネットワークビジネスについて懐疑的だった夫。しかし、Bさんの話を聞くうちに、魅力を感じてしまったそうです。 妻の大反対を押し切りネットワークビジネスをスタート「今は仕事が忙しいけど、ネットワークビジネスで稼ぐことができればショーコとの時間が増えるし、旅行にも行ける」と言う夫。会社の仕事に嫌気が差していた時期だったので、藁にもすがる思いだったのかもしれません。 ショーコさんは反対したものの、必死に説得され「人に迷惑をかけないこと。私の前でネットワークビジネスの話をしないこと。活動は月に2回にすること」という同意書を書かせて、認めることにしました。 親や友達を勧誘しはじめた夫…高額出費が続いた夫は「人に伝えるなら、自分も使ってみないと良さを伝えられない」と、日用品をはじめ10万円の空気清浄機や、30万円の鍋セットなどの商品をたくさん購入しはじめました。 また、同意書の内容に反して、ショーコさんに製品やネットワークビジネスで成功している人の話ばかりするように。さらに、「人には迷惑をかけない」と約束したのに、家族や友人を勧誘するようになりました。 友人には断られ、義父には「同僚がネットワークビジネスのせいで会社を辞めた。ネットワークビジネスはすぐに辞めろ」と諭されましたが、全く聞く耳を持ちません。月に2回の活動という約束でしたが、次第にネットワークビジネスの活動回数が増え、毎週出かけるようになりました。 近所の教会にも通い始め、勧誘してまわるように。ショーコさんから見ると胡散臭い高額な心理学の教材セットを購入したり、様々なものに投資するようになり、家を空けることも増え、結果的にショーコさんとの時間もなくなっていきました。 結婚して初めての妻の誕生日に事件が…結婚して初めてのショーコさんの誕生日。予約してくれたお店で、2人でゆっくり食事ができて嬉しかったショーコさん。しかし、帰りの電車で事件が。 ショーコさんが何気なく話した話題に、夫が突然キレたのです。本当に何気ない話題だったので、何の話題だったか覚えていないそうです。幸せな気分が一変、涙を流しながら帰宅。 「私のことどう思っているの?」と尋ねると「好きかわからない」と返答が……。必死に平静さを保って理由を尋ねると、「本が好きだと言っていたから結婚したのに、ショーコさんが本を嫌いだと言ったことが原因だ」と口にします。 数カ月前、夫からネットワークビジネスの本を渡されたとき、読む気になれなかったので「実は、本を読むのは好きじゃないんだよね」とそっけなく答えたことがショックだったそうです。 結婚しようと言われたときに「一緒にいると落ち着くから」と言われていたショーコさんは、本が好きだから結婚したという理由なんて初耳でした。「離婚したいと思っているの?」と聞くと、「それしかないと思っている」言われ、ショーコさんは泣きながら部屋を飛び出しました。 「無意識の中で嫌い」ショックな言葉に涙それから1週間、2人で話し合いました。ショーコさんは上司に離婚話が出ていることを話すと、早く帰らせてくれたそうです。気持ちが固まっている夫と、離婚したくないショーコさんの話し合いは平行線でした。 1週間の間に夫は「一緒に暮らすメリットはお金しかない」「他に好きな人がいる」「下に見ている」「結婚式はやりたくなかった」など、さまざまな不満や本音を口にします。しかしショーコさんはめげずに「悪いところは直すから」と努力を続けました。 それから数カ月後、関係が改善したように感じたショーコさんは、再度「私のことどう思っている?」と尋ねたところ、なんと「無意識の中で嫌いなんだよね」「触られたくないし、触りたくもない」と驚きの返答が! 他にも、会社を辞めてプログラマーになる、その費用は100万円かかると言い出しました。さらに、毎月スマホゲームに10万円課金していたことが発覚。 さすがに、金銭感覚についていけないし、自分を好きではない人とこれ以上暮らせないと思い、泣きながら部屋を飛び出し、母親に電話をしました。 理由を知った義母は涙…離婚へショーコさんの両親は、北海道からすぐに来てくれました。義父母と会い、6人で話し合います。ショーコさんのお母さんが泣きながら、義父母にこれまでのことを伝えると、義母も涙を流して「ショーコさん、ごめんね」と謝ってくれました。話し合いの結果、離婚が決定。 数日後、自宅に戻って夫に会うと、なんだか様子が違っていて「なんで俺はあんなことを言っちゃったんだろう」と後悔の言葉を口にしたそう。このとき、義父にきつく言われて、ネットワークビジネスを退会していました。 それから1カ月後にショーコさんは家を出て、離婚届けを提出。8年の交際を経て結婚しましたが、結婚生活は1年で幕を閉じたのでした。 今思うことは……ショーコさんは、この結婚と離婚を振り返って、こう述べています。 「交際や結婚生活を振り返って思うことは、その交際期間や結婚生活は決して無駄では無かったということです。 とても短い結婚生活ではありましたが、一瞬でも幸せな時間を過ごせましたし、共同生活の難しさ、自分の未熟さ、元夫や両家の家族の考えなど、様々な学びや気づきがありました。次の恋愛や私生活にそのことを活かすことができています」 長く交際して結婚しても、何が起こるかはわからないもの。ハマり症の夫の場合、いろんなことにのめり込み、何が一番大切なのかを見失ってしまったのかもしれません。 離婚するまでに、旦那さんからひどい言葉を浴びせられたり、お金を使い込まれてしまったり……。たくさんつらいことを経験したショーコさんですが、優しい両親と、まっとうな感覚を持っている義母や義父がいてよかったですね。 著者:ライター 廣瀬尚子
2023年07月27日私は34歳のときに1人目、35歳で2人目を出産しました。結婚は29歳でしましたが、その後数年間、不妊治療をしていたのです。夫婦の願いが叶って、子どものいるにぎやかな家庭になれたのはうれしい限り。今回は、アラフォーの私が年子育児をして感じる大変さ、そしてこの年齢だからこそ感じる育児の楽しさについてお話しします。36歳の年子育児。関節にガタがきている…2人目は35歳での出産でしたが、幸いなことに大きなトラブルはありませんでした。ただ、日々の育児に追われる中で、自分の体の老化を感じずにはいられません。まずは腰痛です。授乳におむつ替え、食器洗いに部屋の掃除と、家事・ 育児は前かがみの姿勢が基本。それらの作業が腰の負担になるのです。 膝や股関節の痛みもあります。子どもと外で遊ぶときは、しゃがむ・ 座る・ 立つの動作を何度も繰り返します。そして帰り道には14kgの息子を抱っこ、10kgの娘をおんぶ。コアラの親子のようになって歩きながら「あぁ重い、それに関節が痛い。私はもう若くないんだなぁ」と泣きたくなることもあります。 自由な生活に諦めがついたのはよかった!その半面、子どもを授かるのが遅かったことで見栄を張らなくなり、我慢強くもなりました。子どもたちとの生活は、服装も出かける場所も「子なし時代」とはまるで違います。自分勝手な子どもたちにイラ立つことも! それでも今の生活を幸せだと思えるのは、妊娠するまでに十分遊び、仕事をし、つらい経験もしたからだと感じています。 結婚後、子どもが欲しいと強く思いながらも、仕事に没頭する数年間でした。そして34歳、35歳と出産を続け、現在36歳。体の節々をかばいながら、育児は大変なのだなと痛感しています。それでも、身軽だった「子なし時代」より、年子に振り回される「カオスな今」が結構好きです。 イラスト/こばぱぱ著者:おかもとえみ
2023年07月22日私は結婚してから5年間妊活を続け、やっと赤ちゃんを授かりました。妊娠するまでは大変でしたが、妊娠経過は順調そのもの。仕事をしながらでしたが、近所に住む義理の母を頼ることなく妊娠前と変わらない生活を送ることができました。しかし、ほどよい距離感を保っていたはずだったのに、その関係が崩れてしまったのです。原因となった産後の出来事についてお伝えします。出産前はいい距離感だった私と義理の母との関係妊娠経過が順調だった私は妊娠前と変わらず仕事へ行き、家事も食事も通常運行。大変だったら近所に住む義理の母に手伝ってもらおうと思っていましたが、つわりもなかったのでそれも不要でした。 義理の母も「順調で安心だわ」と突然訪問するということもなく、用事があってくるときも必ず事前に連絡をくれていました。馴れ馴れしすぎず、お互いにいい距離感を保った関係だったのですが、産後あることがきっかけでそれが崩れてしまったのです。 出産後すぐ夜中に押しかけてきてビックリいよいよ出産となり、産院に行くことを義理の母に連絡すると、「頑張ってね」と応援の言葉をもらいました。無事に息子を出産し、時間は夜の11時過ぎ。夫は両親に無事出産したことを連絡し、面会は明日時間を決めてきてほしいと伝えたそうです。するとその30分後に「今、産院の前にきている。鍵がかかっているから開けてもらえないか聞いてほしい」と義理の母から夫に電話がかかってきたのです。 私は出産後の処置を受けながら、夫が電話口で怒り口調で会話しているのを聞きました。夫はきっぱりと「無理だ」と伝えると、家に帰ったようです。よっぽどうれしかったんだなと思う反面、ちょっとモヤモヤした気持ちが残りました。 翌日、伺いもなく部屋に入ってきた出産時に出血が多かった私は、貧血で体もつらく、息子のお世話以外は横になって体を休めていました。助産師さんからも休養が大事なので、授乳や沐浴以外は、今日は新生児室でみますと言われました。スマホを見ることすらつらかったのですが、義理の母は早く会いたがっているだろうと思い、朝一番に面会の時間を伺うメールを送りましたが一向に返事はありませんでした。 すると面会時間を少し過ぎた時間に突然病室のドアが開き、そこには義理の母の姿が! びっくりしている私にはお構いなく、「こんにちは! 赤ちゃんはどこ?」が第一声でした。私は休養が必要な状態であることと、そのために息子は新生児室にいることを説明し、急いで新生児室に息子を迎えに行きました。 出産直後に「2人目は?」の言葉息子を病室に連れ戻り、念願の初対面を果たした義理の母。喜ぶ姿がとてもうれしく、今までの行動も気にしないでおこうと思った矢先、「2人目ももちろん考えているんでしょう?」と言われたのです。 義理の母は私たち夫婦がなかなか子どもを授からなかったことを知っているのに、産後すぐの私にこんなひと言が出るなんて……とショックでした。このとき、これまで通りの関係は続けられない、できれば関わりたくないとさえ思ってしまったのです。その後も連絡をしてからきてほしいと伝えているのに、「通りかかったから」と授乳中に急に面会にこられるなど嫌な思いをしたこともあり、産後は少しずつ距離を置くようになりました。 孫の誕生のうれしさによる義理の母の言動があまりにショックで、それまでの良い関係が崩れてしまいました。気持ちが高揚してしまったことによるものだとは理解していますが、耐えられませんでした。いつもは気遣いができる義理の母だったということ、また産後のとてもセンシティブな状態のときだったからかもしれませんが、残念でなりません。ほどほどにお付き合いはしていますが、私の心の奥のモヤモヤは消えません。 イラスト/ののぱ著者:仲本まゆこ自身の体験をもとに、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2023年07月17日第一子の出産時にトラブルがあり、満身創痍の産後を過ごしていた私。出産は命がけということを痛感して、赤ちゃんが生まれた喜びと同時に次の妊娠が怖いと言う気持ちすら芽生えてしまうほど……。しかし疲れ切った私を待ち受けていたのは、義母からの予想もしない言葉でした。産前から予兆はあった私の夫は2人兄弟の長男。義母は女の子を育てたことがなく、かわいらしいお洋服を着せたり一緒にお出かけしたりすることへの強い憧れがあったようです。 結婚後、息子が生まれる前は一緒に買い物をしたりお茶をしたり、料理を作るなど楽しい時間を過ごすことができていたので、私自身は義母との関係は良好だと思っていました。今考えると、私のことを娘のように扱ってくれてたのかな? と感じます。 孫は3人でも4人でも結婚して間もないうちから、義両親には孫を望まれていました。私と夫が自宅を新築することになったとき、子ども部屋の数を決めるにあたって義両親は「子どもは3人だって4人だっていい」と口にして夫から諌められていたのを覚えています。 息子を妊娠したとき、性別が男の子だと報告した際も「女の子となかなか巡り会えないねえ」と言っていたので、次は女の子を望まれるんだろうなというのは当時から察していました。妊娠、出産が現実のものとなったことで、義両親、特に義母から女の子を産むことを望まれているというプレッシャーが強くなっていたのかもしれません。 孫フィーバーからの女の子リクエスト息子を出産後は義母にとって初孫である息子を非常にかわいがってくれていて、その点は感謝しています。しかし、私は息子を妊娠していたときに妊娠高血圧症候群を発症し、さらに出産の際大量の出血でとても苦しい思いをしたので、第二子の妊娠が怖くなってしまっていました。 しかし、出産直後に容赦なく「次は女の子だといいね」の言葉が。私にとっては、「女の子の孫が欲しいからもう一度頑張ってね」というメッセージに感じられたのです。 嫁は妊娠や出産の機械じゃない私と夫は結婚当初から子どもは2人欲しいねと話し合っていたのですが、息子の出産を経て夫は「君に何かあってはいけないから、子どもは1人でもいいね」と考えが変わりました。私自身は「もう1人欲しいけれど母体死亡は怖い」という気持ち。 それぞれの思いは義母に伝えていましたが、「産んだらなんとかなるから」、「大丈夫かもしれないじゃない」と言うばかり。結局孫をかわいがりたい気持ちが一番で、出産によって嫁がどうなろうと気にならないのかなと感じられる態度でした。 義母は息子にとってはいいおばあちゃんでいてくれるので、絶縁や距離を取ることは考えていません。しかし、2人目が欲しいけれど自分が死んでしまうかもしれない、それが怖いという気持ちはどうしてもわかってもらえなかった失望感から、自分の本音を話せる間柄ではなくなってしまいました。今後は付かず離れずのちょうどいい距離感で付き合っていこうと思います。著者:木下りん1歳男児の母。東京と長野を行き来する生活。お出かけ大好きな息子とのお散歩が日課。
2023年07月12日最低3人子どもが欲しいと考えていた私。それに対し、夫は多くて2人と考えており、また1人目を出産後、「2人までにしなさい」と義母から釘を刺されていました。2人目を考え出したときに、「2人目を出産後、どうやって2人を説得しよう」と悩んでいた私に訪れた、奇跡のような体験をご紹介します。夫や義母との考えの違い若いときに「子どもは3人以上いるときょうだいの中で社会ができあがるため、社会性を教育するのにいい」という話を先輩ママから聞き、結婚したら子どもは最低3人欲しいと考えていました。対して韓国人の夫は、子育てと教育費のことを考えて、子どもは多くても2人でいいと考えていました。 また、義母も夫と同じ考えのようで、私が3人以上子どもが欲しいと考えていることを知っていたため、1人目の出産後すぐ義母から「子どもは2人までにしなさい」とはっきり言われてしまったのです。 2人目ではなく、2人目と3人目の妊娠!2人目を妊娠したとき、喜びと同時にもし夫と義母を説得できなければ、3人の子どもを持つという私の計画はあきらめなければいけないと思うように。そんな思いを抱えながら、妊娠を確認しに病院へ向かいました。 エコー画像を見ていると、丸い物体が2つ見えた気がしました。まさか!?と思っていると、先生が夫に向かって「お父さん大変! 双子だよ!」と言ったのです。予想外の展開に驚きを隠せない夫の表情は今でも忘れません。 幸せいっぱいの私と放心状態の夫子どもを3人持てる、しかも双子というダブルの喜びに胸がいっぱいの私。夫は、2人の子どもの父親になると思っていたのが3人だとわかり、その日中、心ここにあらずという様子でした。3人目を反対していた義母は、双子という想定外の展開に、私の妊娠を喜び祝福してくれました。 その日は放心状態の夫でしたが、3人の父親になる覚悟ができたようで、翌日にはしっかり現実を受けて止めていた様子。どんな子が生まれてきてくれるんだろう、今から楽しみだなと言っていました。 私の親戚や夫の親戚にも双子はいないため、誰も予想しなかった双子妊娠。まさかの展開でしたが、双子は3人の子どもの母親になるという私の夢を叶えてくれる存在となりました。私が想像する以上に、双子の子育ては大変だと思います。双子の妊娠がわかった日の喜びを忘れないようにして、大変な育児を乗り越えていきたいと思います。著者:山口まなみ4歳の娘と1歳の双子の男の子の母。韓国人の夫と家族5人で韓国に在住。海外での子育てやバイリンガル教育に奮闘する自身の体験談を執筆中。 監修者・著者:助産師 松田玲子医療短期大学専攻科(助産学専攻)卒業後、大学附属病院NICU・産婦人科病棟勤務。 大学附属病院で助産師をしながら、私立大学大学院医療看護学研究科修士課程修了。その後、私立大学看護学部母性看護学助教を経て、現在ベビーカレンダーで医療系の記事執筆・監修に携わる。
2023年07月06日耳の聞こえないパパ・ととちゃんとママ・ゆうこさんが、家族の日常を公開しているYouTubeチャンネル「みゆみゆチャンネル」。今回は、家族の中で1人だけ顔出しをしていない次女からの手紙を公開する様子をご紹介します。みゆみゆチャンネルとは 耳が聞こえないパパ・ととちゃん、ママ・ゆうこさん、2000年生まれの長女・みゆかさん、大学生の次女・ねねさん、小学生の三女・かいちゃんの5人家族。 ととちゃんとゆうこさんはステップファミリーで、長女と次女はゆうこさんの連れ子、三女のかいちゃんは2人の実子です。長女はすでに結婚していて、1児のママ。ゆうこさんは、長女7歳、次女3歳のときに離婚。長女14歳、次女10歳のときにととちゃんと再婚しました。 2人の出会いは、職場だったそう。もともと、ゆうこさんは手話通訳の仕事もしていましたが、当時はあまり手話がじょうずではなく、ととちゃんに仕事と手話の両方を教えてもらうなかで、惹かれていったそうです。 そんなお二人が作りあげるYouTubeチャンネルの「みゆみゆチャンネル」には、ととちゃん、ゆうこさん、かいちゃんの3人がメインで登場しており、次女のねねちゃんだけが、顔出しをしていません。 今回紹介する動画では、ねねちゃんからの手紙をご紹介します。動画の中でととちゃんが涙! そのワケとは……? 次女からの手紙 ねねちゃんが高校2年生のときに、両親へ向けて書いた手紙。 「次女から手紙をもらうのは初めてかもしれない」と、手話と口話を交えて話すゆうこさん。 長女はゆうこさんとぶつかることも多かったそう。一方、次女ねねさんは絵に描いたような『良い子』だったと言います。 「自発的に勉強もするし、勉強もできる。逆に遊びに行かないから心配になる」とゆうこさん。 そんなねねさんに動画への出演をお願いしましたが、友達にバレるのが嫌だから出演はできないけれど、手紙ならOKと手紙を書いてくれたようです。ととちゃんがねねちゃんの代わりに読みます。 異父姉妹が生まれたときの気持ち 始めに、かいちゃんが生まれたときの気持ちがつづられています。「へぇ〜って思いました」という次女の手紙に、思わず笑ってしまうゆうこさん。 「自分が姉になるという実感はあまりなかった。年も離れているから、妹という感じもそんなにしない。今でも自分が末っ子のような感覚が抜けなくて困っています」と続きます。 ゆうこさんから見るとしっかりしている次女ですが、“もっとしっかりしなきゃ”という想いがあるようです。 YouTubeを始めた理由は、自分のためだと知って 母がYouTubeを始めたときの気持ちは、「もともと、癖のある家族だから驚きはなかったです。『ついに来たか』と思いました」と手紙には書いてあったようです。 YouTubeを本格的に始める前には、UberEatsの配達員や布販売をしたことがあるという、ゆうこさん。ゆうこさんが思い立ったらすぐに行動するタイプなのを、家族はみんな理解してるようです。 YouTubeチャンネルを運営しているゆうこさんに対しては「1年間YouTubeを続けるという目標を立て、毎日パソコンやカメラに向かう姿勢を見て、目標を立てそれに向かって頑張るのはすごいと思います」と、尊敬しているようです。 「嫌なのは常にカメラを警戒する必要があること」。思春期の女の子にとっては、家で常にカメラを意識するのは少し大変かもしれませんね。 「ママが動画編集をしている姿をいつも見ています。最近ではやることも増えて大変なはずなのに、いつも笑顔で作業をしているのを見ると本当にすごいなと思っています」という手紙の内容には、ゆうこさんの「嬉しい……」という言葉が漏れます。 「偶然見たママの動画で、YouTube活動を続ける理由の一つに私の大学の学費を稼ぐためだと言っていたのを見て、うるっとしました。本当に困った娘だと自覚していますけれども、それでも私の将来のことを考えてくれて本当に嬉しいです」 次女からの感謝の手紙にゆうこさんは涙ぐみます。 父から娘へ……手紙を読み終わったととちゃんから、ねねさんへ向けてメッセージ。話す前に、昔を思い出してうるっときてしまう、ととちゃん。 「勉強もあるから、ゲームをしたり、一緒に遊ぶことが無くなったことは、正直さみしい。だけど、ねねちゃんが勉強をしてくれるのは嬉しいです。行きたい道へ行けるかは運や環境にもよるけれど、全部サポートするからいつでも言って」と涙するととちゃん。 動画の最後には、ゆうこさんの想いが。「子どもは、好きなことを好きなだけ自由にしてほしい。私の姿を見て、それがプラスになれば最高だなって思います」 動画からは、ととちゃん、ゆうこさん、ねねさんの3人がお互いを想っている様子が伝わってきました。ときどき、後ろに映る三女・かいちゃんの様子にもほっこりします。普段は恥ずかしくて言えないことも、伝えられる素敵な手紙でした。 ママ再婚・連れ子次女からの手紙・涙のととちゃん|みゆみゆチャンネル 画像提供・協力:みゆみゆチャンネル著者:ライター 廣瀬尚子
2023年06月24日初めて妊娠した10年前、当時は知らないことばかりで雑誌やインターネットの情報を見たり、友人に聞いたりして知識を増やしていました。しかし、里帰り出産で転院するまで知らなかったことで、ちょっと大変な思いをした妊娠時の経験談です。マイナートラブルがなかった妊娠初期私は妊娠中、つわりがありませんでした。病院から妊娠初期に体重について説明されたことはなく、もともと食べることが好きな私は「赤ちゃんも含めて2人分!」と言い訳をつけて、いつもよりたくさん食べたりすることも……。 やがて妊娠中期には体重が8kgほど増加していましたが、それでも産院で注意されることはありませんでした。雑誌やインターネットの記事には「出産に向けて、たくさん歩きましょう!」と書かれていたので、できる限り毎日30分以上散歩をしていたこともあり、私自身も体重について気にしていなかったのです。 そして妊娠8カ月になり、里帰り出産のために地元の産院へ転院。そこで先生に言われたことは、「体重が増え過ぎている」だったのです! 転院先の産院では、BMI23だった私の場合、出産時までの体重増加を10kg以内に留めることが理想だったようです。 ※2021年3月に「妊産婦のための食生活指針」が改定され、妊娠期における望ましい体重増加量については、新たに「妊婦の体重増加指導の目安」が公表されています。何をしても増える体重……要注意妊婦に!?体重を指摘された私は毎日歩き続け、ときには1時間以上歩いたこともありました。食事の内容を気にしたり、量を減らしたりしたのですが、体重は右肩上がり! 臨月になるころには12kg増加していて、母子健康手帳には赤いペンで体重を書かれる“要注意妊婦”になってしまいました。 出産自体は、たくさん歩いていた成果もあったのか安産でしたが、産後に体重を減らすことがとても大変でした。歩いているから大丈夫! という勝手な思い込みから、食べ過ぎてしまった過去の自分に怒りたくなったほどです。 周りに出産経験がある友人が少なかったこともあり、妊娠中の体重管理が大事だとは知らなかった私。その結果、マイナートラブルの少ない妊娠中に調子に乗ってしまい、あとで苦しい思いをすることに……。今では、街でスラッとした妊婦さんを見かけるたびに、うらやましくも感じます。妊娠中は自分の勝手な思い込みで行動してはいけないと感じた出来事でした。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。著者:高山ななみ2013年、2015年、2018年、2020年生まれの4人の子どたちと夫との6人暮らし。医療系の資格を保有。医療の知識や子育ての経験をもとに、ライターとして活動中。監修者・著者:助産師 松田玲子医療短期大学専攻科(助産学専攻)卒業後、大学附属病院NICU・産婦人科病棟勤務。 大学附属病院で助産師をしながら、私立大学大学院医療看護学研究科修士課程修了。その後、私立大学看護学部母性看護学助教を経て、現在ベビーカレンダーで医療系の記事執筆・監修に携わる。
2023年06月21日実家を離れて暮らしている私は、出産のとき里帰りをしました。安心できる実家で産前、産後を穏やかに過ごすつもりだったのですが、さまざまな祖父の言動に悲しい思いや悔しい思いをして傷心。苦い思い出が残る里帰りでした。長い里帰り、祖父への不満続出切迫早産の兆候があったので、里帰り出産を予定していた私は、大事をとって妊娠7カ月のときに早めの帰省をしました。平日の日中、父と母は仕事に出ており、在宅している祖父母と過ごす時間が長くなったのです。 祖父は亭主関白な性格で、自分の身の回りのことはほとんど祖母に整えてもらっていたり、上からものを言うことも多かったりして、長い里帰りの期間で祖父への抵抗や苛立ちが私のなかで出てくることが多々ありました。 私は炊事係!?実家とは言え、家事などは進んでする気持ちでいた私は、家の農業の手伝いや食事作りをできる範囲でおこなっていました。しかし、妊娠初期から眠気が強く出ていて睡魔が襲ってくることが多く、家事ができないことがたびたびあったのです。 ある日、お昼になってテレビを観ていた祖父が「まだごはんの用意ができないのか」と怒ってきました。当時、祖母は昼過ぎまで農業に出ていたため、私が昼食を作ることが多くなっていたのです。 食事の時間はわかっていたけれども眠気とだるさで動く気がしなかった私は、祖父の言葉にため息。しかも祖父はただテレビを観ていただけ! 自分本位な言葉に「私はあなたの炊事係なの!?」と悲しい気持ちになりました。 母を悪く言わないで!祖父は嫁である私の母に、厳しいところが昔からありました。里帰り中もたびたび喧嘩をして、母がグチをこぼしていました。普段はあまり深入りしない私ですが、1度だけ祖父の言動にひどく気持ちを揺さぶられて、「お母さんは悪くない!」と抵抗し、祖父と大喧嘩したことがありました。 そのときは、母が祖父のことを思って忠告した言葉に祖父が怒って暴言を吐いたので、私は許せなかったのです。今思うと、産後1カ月経たないころで気持ちが不安定になっていたのかもしれませんが、祖父と喧嘩をしたことが里帰り中何よりつらい体験でした。 祖父にこんな感情持ちたくない!祖父に不快な感情を持つということ自体、娘を産んだばかりの私にとっては悲しいことでした。というのも、娘の祖父となった私の父が、娘をとてもかわいがってくれている姿を目の前にして、将来娘も私と同じように「じいちゃんが憎たらしい」という感情を持つことがあるのかもしれないと考えると複雑な気持ちだったのです。 しばらくして冷静になった私は、否定的な感情に折り合いをつけて、なんとか祖父と和解しました。 7年経った今となっては、久しぶりの長い実家生活で、家族の嫌な部分が見えてきてしまったのかなと思います。祖父に苛立ち立っていたのは少し感情的になっていたのかもしれません。悲しかったり悔しかったりして苦い思い出が残る里帰りでしたが、実家で家族とゆっくり過ごせた貴重な時間でした。 著者:田島さき自身の体験をもとに、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2023年06月19日