人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。社会学者・上野千鶴子さんの第4回目は、未来へのお話。私たち女性がこれからどう生きていくべきなのか、それに関するヒントについて、語ってくれました。イヤなことにはイヤと言い、変えるのが次世代への責任。私が〈女性学〉に出合って研究を始め、さまざまな運動をするようになってから、例えばセクハラやDVは不法行為に、また痴漢は犯罪と認められるようになるなど、社会は大きく変わってきました。ただ社会は勝手に変わったわけではなく、誰かが変えてきたということを覚えておいてほしい。あなたが職場でお茶汲みをしなくてすむのは、「なんで私がやらなきゃいけないんですか?」と言って、それを変えてくれた女性がいたからなんです。でも、ということは、イヤなことにはイヤだと言っていいし、上の世代と同じように、あなたたちも変えていいんです。イヤなことをガマンして呑み込んでいたらあなたは被害者のままで居続けることになりますし、その状況を受け入れるということは、次世代に対して加害者になることにつながります。不当な差別にガマンする必要はありません。どんどん自分ファーストで生きましょう。そんな生き方が、次の世代へのバトンになるでしょう。年を取っても、“ムカつく”だけはなくなりません。私は40歳を超えた頃から、自分に限界を感じるようになりました。まず、徹夜で麻雀ができなくなった(笑)。体力も落ち、肌も衰え始め…、まあ老いを感じ始めたわけです。つまり、自分の時間や体力やエネルギーが有限であるとわかって、物事に優先順位を付けられるようになりました。あれもこれも…という欲がなくなり、自分との折り合いの付け方が上手くなる。年を取ることはいいことしかない。長生きはするものです。でも怒りという感情だけは、年を取っても収まらない。そもそも〈女性学〉は、“オヤジ~、ムカつく”という怒りから始まったものですからね(笑)。私が女の抑圧の二大原因である家父長制と資本制を研究対象にしたのも、敵の弱点を知るためでした。そうやって一つ一つ怒りの種を解き明かしてきたのに、なぜかまた、安倍国葬とか介護保険改悪とか怒りに油を注ぐ出来事が次々と起こるので、怒りのエネルギーのタネは尽きません(笑)。うえの・ちづこ社会学者、東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。日本における女性学、ジェンダー研究のパイオニア。著書に『最後の講義 完全版 上野千鶴子これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会をつくりたい』(主婦の友社)など。※『anan』2023年2月8日号より。写真・内山めぐみ(by anan編集部)
2023年02月05日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。社会学者・上野千鶴子さんの第3回目をお届けします。ここ数年フェミニズムが再び盛り上がりを見せていますが、それが何かをきちんと知っている人は、実は少ないのでは。専門家である上野さん、フェミニズムって何ですか?私たちが欲しいのは平等以上に、自由なんだと思います。’70年代からフェミニズムの中に身を置き、運動を見てきた私としては、当時からずっと女性が本当に欲しかったのは〈平等〉以上に、〈自由〉だったと思います。親から大学に行くことを認めてもらえず、就職といっても限られた仕事しかなく、結婚し家庭に入ることだけが“女らしい生き方”…。女性たちはそういった押し付けられた〈女らしさ〉という縛りから解放され、自由に生きたかった。よく「フェミニズム=男女平等」といいますが、平等がもし“男と同じ生き方”という意味だとしたら、私たちは別に男になりたいと思ったわけじゃない。男とか女とか関係なく、ただ、自分らしく自由に生きたい。その思いは〈女性学〉に興味を持った日からずっと変わりません。今の状態から解放され、どんな自分になりたいか。それは当の本人にしか分かりません。逆に言えば、自分を解放できるのは他人ではなく、あなただけなんです。自分を優先して生きる、そんな女子が増加中。’19年の東大の入学式で、私は入試における女性差別や#MeToo運動、そして東大内のジェンダーギャップに触れながら祝辞を述べました。いろんな反応をいただく中で目立ったのが、40代女性たちの声。彼女たちは、男を立て、子育てを優先し、自分を後回しにする〈女らしさ〉を強要する“オヤジ的社会”で、それに適応しなんとか生き延びてきた人たち。祝辞を聞いて、「私は悪くなかったと気づいて号泣した」というメッセージをたくさんもらいました。一方で10代の若い子ともオンラインで交流していますが、その世代の女子は、男が女より優れているとは全く思っていないし、不当な差別にガマンする理由がないと思っている。〈女らしさ〉の美徳が「他者ファースト、自分セカンド」とされる日本で、“自分ファースト”な娘たちが大勢育ったのは歴史上の快挙です。そしてそんな娘たちを育てたのが、今の40代、50代の女性。みんな歴史に貢献しているんですよ。うえの・ちづこ社会学者、東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。日本における女性学、ジェンダー研究のパイオニア。著書に『最後の講義 完全版上野千鶴子 これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会をつくりたい』(主婦の友社)など。『anan』2023年2月1日号より。写真・内山めぐみ(by anan編集部)
2023年01月28日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。今月は社会学者の上野千鶴子さんです。フェミニストとして知られる上野さんですが、実は若い頃は女性が苦手だったとか。ではなぜ〈女性学〉の道に?無気力だった20代半ばの、ある出来事がきっかけでした。第2回目をお届けします。女性と遊ぶのに目覚めたのは25歳。遅咲きでした。もともと私は女が苦手で、自分の“女性性”ともおりあいがつかず、長く同性を避けて生きていました。そんな私が変わったきっかけが、25歳で友人に引きずられ出かけた、当時京都にできたばかりの「日本女性学研究会」の集い。主婦、教員、公務員、会社員、短大卒、高卒など多様な女性が、各々抱えるモヤモヤについて思いの丈を語る会でした。そこで私は、今までどんなに親しい男でも理解してくれなかった私のモヤモヤに、初対面の女性が共感してくれるという経験をしました。男ばかりの中で生きてきた私にとって、彼女たちの優しさやチャーミングさは、驚愕。そこから人生で初めて女遊び(笑)に夢中になり、〈女性学〉に没頭。とはいえ女性学の論文が学会誌に載るとも、ましてや職につながるとも思えない。女性学は趣味にし就職するか…と思ったのですが、当時大学院卒の女の就職口は、ほぼゼロ。自分の無芸無能さを思い知らされた20代後半でした…。同じ条件の男は就職できるのに、なぜ私はできない?25歳当時、たまたま見た地方紙の人事募集には、「女性募集、経理事務。珠算3級以上、簿記経験者」とある。私は大学院卒ですが珠算3級の資格も簿記の経験もない。ちなみにホステスの求人も、「23歳まで」。でも、“私と同じくらい無能だな”と思っていた男たちは、どんどん就職が決まる。あいつが就職できるのになんで私ができないの?!と思ったときに頭をよぎったのが、「もしかしてこれは、私が女だからなのかもしれない」ということ。もはや笑うしかありませんでした。その後私は大学教員の公募に22回落ち、23回目でやっと短大教師の職を得ました。それが30歳のとき。10年ほどの在籍期間中に、関西女のリアリズムに触れることができ、今思うと、そこで私は改めて〈日本の女〉に出会ったのだと思います。ちなみに’80年代、「女の子はクリスマスケーキと同じ。25過ぎたら値崩れ」なんて言われていた時代です。その言葉、今の20代女子にはどう響くのかしら。うえの・ちづこ社会学者、東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。日本における女性学、ジェンダー研究のパイオニア。著書に『最後の講義 完全版 上野千鶴子 これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会をつくりたい』(主婦の友社)など。※『anan』2023年1月25日号より。写真・内山めぐみ(by anan編集部)
2023年01月21日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。今回から4週連続で登場するのは、日本のフェミニズムの先駆者である、社会学者の上野千鶴子さんです!第1回目をお届けします。’70年代の学生運動とananって、面白い関係があるんです。ananが創刊したのは今から53年前、その当時私は京都大学の学生で、ヘルメットをかぶった“過激派”として学生運動をやっていました。実は学生運動とananにはちょっと面白い関係があります。東京の過激派の女子大学生たちは、ミニスカートにマキシのコートを羽織り、片手でananを抱えるというファッショナブルなスタイルで御茶ノ水などの街角に立ち、公安警察の動きを見張っていたんです。女性が街角に溶け込むための小道具がananだったわけです。その後Hanakoも刊行されましたが東京ローカル。東京に行った子がお土産に買ってきてくれる雑誌を、関西で時差を感じながら読んでいたことを覚えています。ちなみに当時の私は機動隊に向かって石を投げ、短距離走が得意だったので〈逃げ足の速いちづちゃん〉と呼ばれておりました(笑)。ちなみに成人式はバリケードの中。そんな大学生活でした。マイクを持つのは男子、女子はおにぎり係…。学生運動でマイクを持てるのは男子だけ。女子の役割はというと、おにぎり作りという〈後方支援〉と、警察に捕まった男子に支援物資を届ける〈救援対策〉、そして男子たちのセックスの相手です。確かに当時は「性を解放しよう!」という性革命〈フリーセックス〉の流れもあり、性的に活発な女子のことを、男子たちは“公衆便所”という不愉快な隠語で呼んでいました。学生運動の中でも、同志だと思った男性たちからものすごい女性差別を感じていました。学生運動で、結局私たちは敗北。その後私は向上心・向学心ゼロの無気力学生に。することといえば、セックスと麻雀だけ(笑)。大学院に行ったのも、就職活動をしたくなかった、それだけの理由からです。私の20代は、将来の見通しもなく希望もない、うつうつとした時代でした。そんな上野千鶴子がどうして今のような人間になったのか…?そのお話は、また来週に。うえの・ちづこ社会学者、東京大学名誉教授、認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長。日本における女性学、ジェンダー研究のパイオニア。著書に『最後の講義 完全版 上野千鶴子 これからの時代を生きるあなたへ 安心して弱者になれる社会をつくりたい』(主婦の友社)など。※『anan』2023年1月18日号より。写真・内山めぐみ(by anan編集部)
2023年01月14日社会学者の上野千鶴子氏(70)が6月30日、「情熱大陸」(TBS系)に出演。テレビ出演が珍しいこともあり、その特集は大きな反響を呼んでいる。女性学・ジェンダー研究の第一人者である上野氏は、4月に開かれた東京大学・入学式でスピーチを披露。その際に昨年発覚した東京医科大・医学部入試での女子差別問題にふれ「頑張ったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください」と話した。するとTwitterでは「祝辞としてふさわしいのか」という議論は起こりながらもトレンド入りするほどの反響となった。「情熱大陸」で上野氏は東大での祝辞に触れたあと、女性たちも男性たちも同調圧力に縛られているといった持論を展開。さらに「その都度、目の前にあるものにムカつくっていうことを1つ1つその時その場で言っていくことの蓄積の結果、今日の私達がある。いちいち目くじら立てて面倒臭い女になっていく」と問題定義し続ける自身のスタンスを語った。放送終了後、上野氏の「面倒臭い女になっていく」という発言に勇気をもらったという声が多数上がった。「#KuToo運動」で話題となっている石川優実さんも《情熱大陸見たぞ!面倒臭い女で居続けるよいちいち恐るよ!上野千鶴子さん最高》とツイート。さらに賛同する声も上がっている。《黙らないってほんと大切。これは女性に限らず言えること。世の中の理不尽なこと、権力者に対し、この姿勢でいることはほんと重要。面倒くさい何かでいることで社会は前進する》《怒ることが出来ないのが今の女性。私はとことんこの現状と戦い続ける》今年6月、上野氏は本誌に登場し半生を振り返っている。48年7月に生まれた上野氏は京都大学文学部に入学。その後「モラトリアム」で大学院へと進んだが、そこで転機が起こる。日本女性学研究会で“女性学”と出会ったのだ。「それまで女性学って、日本では影も形もありませんでした。77年から78年にかけて、そうした民間の団体が出てきたんです。ただの仲よしクラブじゃないですから、研究プロジェクトを組んで勉強会をやる。調べると、次々と疑問や怒りが湧いてくる。月経用品や出産の歴史など、毎日が発見の連続、誰もがパイオニアでしたから、こんなにおもしろいことはなかった。なにより集まった女性たちが自立していて、大学以上に刺激的でした」82年に「セクシィ・ギャルの大研究」で著者デビューした上野氏は、30代を迎えてまもなく京都の平安女学院短期大学の専任講師となった。しかし「まだ女性学の看板は掲げられなかった」と話し、“悔し涙”エピソードを明かしている。「最初は大学の自主講座からで、本当に苦労しました。新しいカリキュラムを作って、予算を立てて教授会に提案しなきゃならない。男性教師から、『女性学、それは学問ですか?』と言われて流した悔し涙は、今でも忘れません」歯に衣着せぬ姿が印象的だが、「私だって、初めから強くはなかった。打たれて、打たれて、ここまで来たんだから」とも語った上野氏。93年には東京大学文学部に招かれ、現在は同大学の名誉教授だ。MeToo運動を例に挙げ「一人一人の力」の大切さを語っている。「最近よかったのは、#MeToo運動で年長の女たちが、二度と同じ悔しさは若い世代に味わってほしくないと『ごめんなさい』を言いだしたこと。昔は『みっともないこと、やめなはれ』でしょ。長い時間をかけて変化をつくったのは一人ひとりの力」そして上野氏は本誌の読者に、こんなメッセージを送ってくれた。「大切なのは、自分の人生の主役になるという生き方。たとえ結婚して母親になったからといって、脇役になるわけじゃない。自分の人生は自分で決める」
2019年07月02日「私が、物議をかもしては、WANのアクセス数の増加に貢献しております、理事長の上野千鶴子でございます……フェミニズムは、日本の美しい伝統を破壊し、家族を壊し、少子化を推し進めた戦犯と言われまして、私のような“おひとりさま”は生産性のない非国民でございます(笑)」5月18日午後、京都の同志社大学で開催された女性支援のNPOであるWAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)の創設10周年記念シンポジウムの冒頭で、挨拶に立った上野千鶴子さん(70)。小柄な体に、いまやトレードマークの真っ赤に染められた髪の毛がよく似合う。毒あり、ユーモアあり、そして問題提起を含む話しぶりで、一瞬にして会場の女性たちのハートをつかんでしまった。日本の女性学やジェンダー研究を牽引し、近年は介護分野のエキスパートとしても知られる。研究のかたわら、ベストセラー『おひとりさまの老後』や、かつてのアグネス論争のように、出版や発言のたびに議論を呼び、論客として、学会だけでなく一般でも有名だ。その上野さんが社会に投げかけた真骨頂ともいうべきスピーチが、この1カ月ほど前にもあった。4月12日に日本武道館で行われた東京大学の入学式。東大名誉教授としてステージに立った上野さんの祝辞が、またも日本中で賛否両論を巻き起こしたのだ。「男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときからかわいいことを期待されます……だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです」女性差別が明らかとなった東京医科大学の不正入試問題や、自ら切り開いてきたフェミニズムの歴史を織り交ぜながらの祝辞は、力強く、こう結ばれた。「フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です……。未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。異文化をおそれる必要はありません。人間が生きていくところでなら、どこでも生きていけます」話題作を次々と送り出し、論争では“不敗神話”を持ち、学生からは「いつ寝てるの」というワーカホリックぶりを驚嘆される強い女性。そんな上野さんの研究者としての第一歩は、“かわいい”ことを求められた少女時代に、母の姿を見て思った「主婦ってなんだろう?」というシンプルな疑問だった。「父は内科の開業医でした。家庭ではワンマンの亭主関白で実は小心者という、典型的な日本の家父長ですね。それを専業主婦の母が耐えつつ支え、父方の祖母が同居で嫁姑問題もあって。私は、5つ年上の兄と、2つ下の弟にはさまれた一人娘で、ねこっかわいがりされました。いわばペット愛ですね」1948年7月12日、富山県に生まれた上野さん。活発で、超がつくほど好奇心旺盛。夏休みの課題で、家の前の道路に小銭を置いて物陰から人間観察したことも。10歳の正月、父が兄と弟に将来の話をしていたので、上野さんも自分について尋ねた。父は、「チコちゃんは、かわいいお嫁さんになるんだよ」。瞬間、私は期待されないんだ、と疑問が浮かんだ。「えっ、お嫁さんって、お母さんのようになるってこと?これが私の将来だとしたら、あまりに割に合わないと。母は、私たちに『離婚したいけれど、お前たちがいるからできない』と愚痴りました。そうやって自分の現在の不幸の原因を、子どもに負債として背負わせる普通の日本の母でした」中学に上がるころには、疑問はより鮮明になっていた。「おまけに、母と気の強い祖母との同居は35年続きました。でも、私は孫娘として祖母にもかわいがられました。一人ひとりは悪い人でなくても、長男の嫁や姑、家父長という立場にはまると、こうなる。まして母と父は、恋愛結婚でしたからね。だから、自分の夫選びの間違いの責任を誰にも転嫁できない。それで『結婚相手を間違えた』と子どもたちに言い、私はジーッとその様子を見て思った。『お母さん、夫を代えても、あなたの不幸はなくならないよ』。よしっ、私はこの構造にはまらないでおこうというのが、私の女性学の原点です」WANのシンポジウムの翌日の夕刻。京都は鴨川沿いにある中華料理店のテラス席に、上野さんと関西在住の元ゼミ生らが集まり、ミニ同窓会が開かれた。上野さんが定年より2年早く東大を退職したのが’11年3月、翌月にはWAN理事長に就任し、その後も、執筆や講演などで多忙な日々を過ごしており、今日も十数年ぶりの再会という顔ぶれも。かつての研究室でそうだったように、この日も上野さんはぎりぎりまで教え子たちと談笑し、日曜最終の新幹線で帰京。翌日も早朝からスケジュールをこなしたという。「体にいいことは、何もしてません(笑)。温泉とスキーは好き。今年もスキーは40回行きました。仕事場のある八ヶ岳にホームゲレンデがあって、シーズン券をシニア割で利用して、朝8時半のリフトオープン待ちで、1時間滑って、パッと帰るんです」取材の最終のポートレート撮影中も、話は尽きない。「最近よかったのは、#MeToo運動で年長の女たちが、二度と同じ悔しさは若い世代に味わってほしくないと『ごめんなさい』を言いだしたこと。昔は『みっともないこと、やめなはれ』でしょ。長い時間をかけて変化をつくったのは一人ひとりの力。私、いつも若い人が就職したら、『お茶くみ、コピー取りは誰がやってる?』と聞くの。ところで、おたくの編集部はお茶は誰が入れてる?個人個人ね。そう、よかった!」70代を迎えなお好奇心は健在、いや、ますます旺盛だ。
2019年06月17日4月12日に開かれた東京大学・入学式での上野千鶴子氏(70)の祝辞が話題を呼んでいる。上野氏は日本を代表するフェミニストの1人であり、「女性学」や「ジェンダー研究」の第一人者だ。上野氏は祝辞の冒頭で、昨年発覚した東京医科大の医学部入試での女子差別に言及。“息子は大学まで、娘は短大まで”という親たちの考えにもふれ、「社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています」と指摘した。さらに「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています」と話した上野氏。「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください」として、こう呼びかけた。「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」上野氏は「ようこそ、東京大学へ」と結んだ。努力が報われたことで得たものを、他者に還すよう新入生に語りかけた上野氏。Twitterでは「上野千鶴子」がトレンド入りするほどの反響を呼び、賛同する声が上がっている。《「努力が許された今までの環境は当たり前に得られるものでなく1つの特権だ」という示唆は新入生にとって意義深いと思う》《上位の大学に限らず入るには周囲の環境によるものがとても大きい。それを知らない人が多すぎる。そして大学では知る事自体ではなく考えられてその先に行く力をつける場だと思う》《大学新入生が何をどういった方向で学んで考えればよいのかよくわかる。もちろん東大以外の大学新入生にも役に立つ》自らの足元を見つめ直すのも、いいかもしれない。
2019年04月13日「一応、私、(キャラが)おじさんみたいだけど『女性自身』も読んでいるんです。それで、パッと桑江先生の病院の記事が目に入って“オーッ”となって。(医療現場について)いろいろ文句を言ったり、問題点を挙げる人はいますが、実際に(改善策を)実行しているので、直接お目にかかりたくて来ました」9月12日、野田聖子女性活躍担当大臣(58)が「みなみ野グリーンゲイブルズクリニック」(東京都・産婦人科)を視察した経緯を語った。きっかけとなったのは、本誌9月4日号の「桑江千鶴子さんが『女性が一生働ける病院』を作るまで――」という記事だった。24時間体制で大学病院などに勤務する、産婦人科や外科の女性医師は、出産や育児を機に一定期間、医療現場を外れざるをえない。せっかく時間をかけて育てても離職のリスクがあると、最初から女性を受け入れない現場の医師もいる。東京医科大学が女子受験生の入試の点数を意図的に操作した問題も、こうしたことが背景にあるとみられる。そんな現状を憂い、桑江千鶴子さん(66)は、今年6月に“女性医師が子育てしながら経験が積める”医療機関を開業した。ここでは、看護師も病棟、外来、手術と何でも担当できるように訓練し、育児中のスタッフを全員でサポートする体制を目指している。12時にクリニックに到着した野田大臣は「しっかり勉強させていただきます」とあいさつ。暖色の照明とぬくもりを感じる木目調のフローリングを施したという院内を歩きながら、こう話す。「病院にいることを忘れてしまうほどリラックスできますね。もう1回、子どもを産みたくなっちゃうね」クリニックは現在、スタッフ30人中、26人が女性。今後、育児中の病院スタッフが利用できる保育施設や、産後うつに対応した産後ケア施設も計画されている。視察後のランチミーティングでは「女子会みたいでいいですよね」と現場スタッフとの意見交換も行われた。そこで野田大臣が注目したのは、臨床医は“現場に居続けることが大事”ということだった。出産・育児で、男性と同じように当直などのハードな仕事がこなせなくなると、多くの女性医師は常勤医から非常勤医へと働き方が変わる。経験の積み重ねが必要な手術の担当を外され、“第一線にはもどれない”と諦めてしまうケースも……。だが、桑江さんのクリニックでは、大病院で常勤が困難になった3児のママさん医師が、当直・オンコール(時間外待機)をしなくても、帝王切開や婦人科の手術を続けられている。「技術を衰えさせず(育児が一段落したときに)、大きな舞台に戻っていけるような“つなぎ”をしっかりしていることが、大きな発見でした」(野田大臣)こうしたシステム作りができれば、出産しても活躍の幅が一気に広がると、桑江さんは語る。「概して女性医師は病院側から敬遠されますが、患者さんからのニーズは高い。とくに産婦人科では、医師に出産や育児の経験があれば、患者さんとのコミュニケーションもさらにスムーズでしょう。全国の病院のロールモデルになれるよう、ママさん医師が活躍できるクリニックを目指します」桑江さんの熱意にじかに触れたからだろうか、野田大臣は病院を後にするとき、「“こういう制度が邪魔している”ということがあったら、おっしゃってください。できる限りのことはやります!」と言って、桑江さんと固く握手を交わしたのだった――。
2018年09月19日「女子は減点」の医大入試もしかり、医療現場はまだまだ女性にやさしくない。改善されないのなら自分で“お手本を見せる”と、ある女性医師が立ち上がった。「東京医科大学で受験者の得点を意図的に操作し、女子入学者数を抑制していたことは、医師を目指している女性全体にとって許しがたい不正。大学からは、出産や育児で離職、休職せざるをえない女性医師を、積極的に合格させたくないという思惑を感じます。こうした問題を解決するために不可欠なのは、出産・育児のある女性医師が働きやすい、復帰しやすい医療現場を作ることです」そう語気を強めるのは、6月に開院した「みなみ野グリーンゲイブルズクリニック」(産婦人科)の桑江千鶴子院長(66)だ。東京都立多摩総合医療センターの産婦人科部長として、緊急帝王切開や高難度の婦人科手術でメスを握っていたが、現在は、女性医師を含む、女性全体が安心して出産・育児ができる枠組みを作ろうとチャレンジしている。女性医師に寄り添う医療現場は少なく、出産育児を機に、キャリアを捨てざるをえなくなったというケースは少なくない。厚生労働省の、’06~’16年の調査によると、女性医師の就業率は、医師登録して12年後、つまり出産や育児の時期と重なる30代後半で、75%ほどに下がるのだ。桑江さんが続ける。「そうした理由から、女性医師の流出を防ぐために院内に託児所を設置する施設も増えてきました。しかし、一緒に働く男性医師の意識が古いままでは、根本的な解決にはつながりません」女性医師のニーズの高い小児科でも「女性は出産時に辞めてしまうのでダメ」と断られたり、「2年間は妊娠するな」と条件を突きつけられることもある。医療現場で求められるのは、24時間365日、滅私奉公で働ける医師。出産・育児は敬遠される。女性医師の割合もOECD加盟国の平均は46.5%だが、日本は20.3%(’17年)で最下位だ。桑江さんが自らクリニックを立ち上げ、女性医師の働き方の改善を模索するのは自身も「いつ辞めようか」と考え続けてきたからだ。信州大学医学部を卒業した’77年ごろを振り返る。「入学した100人のうち女性は4人。指導する先輩医師からは『男のほうが脳が重いから優秀』と言われ、メスも握らせてくれなかった。多くの女性医師が、当直や急患のある外科系では受け入れてもらえないだろうと最初から諦め、比較的時間に余裕が作れる眼科や皮膚科などを選びます。女性は選択の幅が狭いんですね」卒業後、すぐに高校教師の秀夫さん(66)と結ばれる。彼女が出した結婚の条件は「子どもは産まない」ということだった。「『いや、ちょっと待ってよ』と。ボクは子どもが好きだから、欲しかったんです。だから妻には『ボクが育てるから産んでほしい』とお願いしたんですよ」(秀夫さん)’80年に長女・七生さん(38)を出産。その後に始まった産婦人科医の仕事は、多忙を極めた。「娘が2歳のときに勤めていた病院は、月の分娩が120~180件もありました。保育園に迎えにいくのはいつも最後。当時、私は赤い車に乗っていたので、娘は窓の外を見ながらずっと『赤いブーブ、赤いブーブ』と言っていたそうです。保育園の先生からそれを聞いて、“寂しい思いをさせてしまっているな”と涙が出ました」だが、立ち止まってはいられなかった。’85年に長男を出産したときも、産後2カ月で職場復帰した。「トイレで母乳を搾っては捨てていました。せめて5カ月くらいは母乳を与えたかった……。家族旅行も、急患が入れば私だけ途中で切り上げたり、娘の誕生日ではケーキのロウソクの火を吹き消す前に病院に舞い戻ったり」もっと子どものそばにいたい、辞めたいと何度も思った。そんなとき秀夫さんはこう言って励ました。「本当にそれでいいのか?もし子どもが大きくなって“私のためにお母さんが好きな仕事を辞めたんだ”と思ったら、イヤだろう」夫や夫の両親、実家の母親のサポートを得てキャリアを積み、’02年から退職する’12年まで、多摩総合医療センターの産婦人科部長を務めることができた。「私はスーパーウーマンではなくて、迷いながらも、家族のサポートがあって“なんとか切り抜けられた”のだと思っています。そもそも“専業主婦”は高度経済成長期に生まれたもので、それまでは農業も酪農も漁業も女性は働き、育児は親戚や近所などが助け合っていた。つまり、子育ては1対1で部屋に閉じこもってするものじゃないんです」桑江さんはかつての自分の姿を思い出す。鉄筋コンクリートのマンションの一室に子どもの泣き声が響き渡っていたとき、思わず虐待しそうになったのだ。「そのとき母が姿を現してわれに返ったのを覚えています……。都立病院を退職してからは、非常勤医師としてクリニックなどで産後うつのお母さんの治療にあたっていたんですが、いま“医師であり母である私”ができることは何かと考えるようになって、新しい病院を作ろうと決意しました」3人の子どもとクリニックを訪れた娘の七生さんに、“母として”の桑江さんについて尋ねてみた。「母はいつも忙しくて、私は父と一緒の思い出ばかり。でも、育児しながらでも女性が手に職を持って働くことの素晴らしさを学びました」女性医師たちを導く“母”として、桑江さんの挑戦は続く――。
2018年08月22日「東京医科大学で受験者の得点を意図的に操作し、女子入学者数を抑制していたことは、医師を目指している女性全体にとって許しがたい不正。大学からは、出産や育児で離職、休職せざるをえない女性医師を、積極的に合格させたくないという思惑を感じます。こうした問題を解決するために不可欠なのは、出産・育児のある女性医師が働きやすい、復帰しやすい医療現場を作ることです」そう語気を強めるのは、6月に開院した「みなみ野グリーンゲイブルズクリニック」(産婦人科)の桑江千鶴子院長(66)だ。東京都立多摩総合医療センターの産婦人科部長として、緊急帝王切開や高難度の婦人科手術でメスを握っていたが、現在は、女性医師を含む、女性全体が安心して出産・育児ができる枠組みを作ろうとチャレンジしている。3歳の娘と2歳の双子の息子を持つ医師・小澤桃子さん(33)も、大病院から桑江さんのクリニックに常勤医として移籍してきた。「子どもが3人もいると当直は無理です。そのため以前の職場は人員の問題もあり、常勤医として働くのは困難になりました。ただ非常勤では外来や病棟のみの担当で手術ができません。どうしようかと迷っていたところ、桑江先生から声をかけていただいたんです」週4日勤務で当直もオンコール(時間外の待機)もなし。昼間は外来に加え、婦人科の手術や帝王切開もやるという好条件だった。「キャリアを積むことができて、育児とも両立できる。桑江先生は“雨宿り”と表現されていましたが、子育てが一段落したら、また大きな病院に移ることもできるので、精神的にも楽です」だが、女性医師に寄り添う医療現場は少なく、出産育児を機に、キャリアを捨てざるをえなくなったというケースは少なくない。厚生労働省の、’06~’16年の調査によると、女性医師の就業率は、医師登録して12年後、つまり出産や育児の時期と重なる30代後半で、75%ほどに下がるのだ。桑江さんが続ける。「そうした理由から、女性医師の流出を防ぐために院内に託児所を設置する施設も増えてきました。しかし、一緒に働く男性医師の意識が古いままでは、根本的な解決にはつながりません」女性医師のニーズの高い小児科でも「女性は出産時に辞めてしまうのでダメ」と断られたり、「2年間は妊娠するな」と条件を突きつけられることもある。医療現場で求められるのは、24時間365日、滅私奉公で働ける医師。出産・育児は敬遠される。女性医師の割合もOECD加盟国の平均は46.5%だが、日本は20.3%(’17年)で最下位だ。がんを専門とする女性内科医師の1人は、労働時間を減らせず、流産をしたときも、翌日には医療現場に立っていたと話す。「職場で『妊娠』を口にしづらい雰囲気はありました。言い出せずに無理して働き、流産した人も山のようにいると思います。私は出産後に自分で育児をしたかったので、このような職場では働けないと病院を変えました」現在、クリニックには26人の常勤スタッフがおり、4人の男性事務員を除く全員が女性だ。桑江さんは常に、女性医師が元キャリアに復帰する道筋を考えている。たとえば前出の小澤さんのように、一定期間スローペースになったとしても、休まずに手術を続けていったほうがよいと。医師以外の医療スタッフにも、“助け合うスキル”を身につけてもらいたいと話している。「看護師さんには、外来、病棟、手術と何でもできるようになってもらいたい。そうすれば、誰かの子どもが熱を出したときなど、お互いカバーし合えますから。また、電子カルテ等で情報共有して、どの部屋でも心音などをチェックできるシステムを導入すれば、合理化できて就業時間の軽減につながります。大病院では、いまだにカンファレンスに何時間もかけたり、土日に全員が集まって回診したりしていますが」そして1~2年後をめどに、クリニックの隣に保育施設の開設を目指す。「もう設計図はできています。単に子どもをあずかるということだけではなく、たくさんの本が読めるスペースやピアノ教室など、子どもたちの個性を伸ばしていける環境も整えていこうと思っています」さらに、育児相談を受け付ける産後ケア施設も計画中だ。「成功すれば、女性の子育てをサポートできる医療複合施設のロールモデルとなるでしょう。これを全国に広めていくのが目標です」
2018年08月22日