『これが俺の芸風だ!!―上島竜兵伝記&写真集』(2005年発売/竹書房)満開の桜の花の中、豆絞りのほっかむりに同じ柄のふんどし姿でなんともいえない切なげな表情でたたずむ姿……。そしてそこに『これが俺の芸風だ!!』という名言を引用したタイトル。それだけでもう、素晴らしさがあふれかえる、2005年刊行の『上島竜兵 伝記&写真集』。大好きな一冊を、本棚から取り出してみた。〈主演・上島竜兵〉と書きかえた本書は表紙に記されているとおりの竜ちゃんの写真も満載の自伝。ただただ蒲田の街を歩いていたり、京都で舞子姿になったり、もちろん竜平会などで酔っ払って最高の笑顔を見せたかと思えば泥酔して目が据わっていたり、最後にはやっぱり全裸になってたり……写真パートだけでも「上島竜兵」という芸人の生き様のようなもの、「くだらなさ」(褒め言葉です)があふれかえっていて、自然と笑ってしまう。本文パートももちろんその「くだらなさ」は満載。自伝だからとカッコいい表現で半生を語ったりせず、みんなが思う「竜ちゃん」のまま。その「くだらなさ」ので笑いをとりながら、狭間から垣間見える生きざまのようなものが、またかっこいい。竜ちゃん、前書き3行目の段階で〈ここまで書くのに2時間かかりました〉と筆が重いという。そして、〈ちょっと軽く飲んでみます〉というと、〈いや〜、旨いね〉となるところが、彼らしい。おなじみの竜平会は、ダウンタウン松本人志や志村けんさんが若手芸人やスタッフなどを連れて飲みに行くのを「うらやましい」と思って声をかけるようになったことがはじまりだという。若手芸人には先輩だからと気をつかわずにいられるフランクな場であってほしい、そこでは後輩からツッコまれることも、全然かまわないと語っている。本書も、読者が要所要所でエピソードに笑いつつ、ツッコみながら読むのが楽しい気がする。中1で初恋の子の検便を盗もうとして先生にこっぴどく怒られたことを告白。それを〈好きな人のウンコだって恋しいって言うじゃない〉とまとめる。通知表はオール1、高校時代も成績は悪く、〈真面目で授業も一番前の席で無遅刻無欠席で一番バカ〉だったという。高校時代は役者志望で、三國連太郎や山崎努、田中邦衛、西田敏行などに憧れていたという。高倉健や松田優作主演の映画ポスターに自分の顔写真を貼り付け、〈主演・上島竜兵〉と書きかえたものを100枚ほど作った。主演作100本の大俳優だ。しかしそんな青春の熱意を込めた“作品”を、〈俺は東京で現実にこういうことするんだ〉という決意のもと全部燃やしてしまったところは、なんかカッコいい。軽い怪我はおいしいんだよね好きなタイプやアダルト女優の好みは「熟女」。だからといって10歳年下の妻のことを〈かみさんもそろそろ熟女の対象に近いかな〉と、ここでもツッコミたくなるが、落ち込んだりしたときに顔を見ると、〈“なんか、まぁ、俺は大丈夫かな”って思っちゃうことあるね〉というところがかわいい。全編にわたる上島竜兵ワールド。『お笑いウルトラクイズ』の「バス吊り下げアップダウンクイズ」で死にかけそうになったり、リュックサックに仕掛けられた爆弾が爆発して後頭部が焼けて500円ハゲができたり、人間大砲的なもので発射時に全裸になったり(〈服が綺麗に脱げるよう仕込むのに2時間くらいかかるの〉だそうだ)などなど、お笑いに関するエピソード、志村けんさんビートたけしへの思いなども、もちろん満載の一冊だ。〈軽い怪我はおいしいんだよね〉とサラリといい、熱湯や熱々おでんなどの際のリアクション芸は、「殺す気か?」「訴えてやる!」、そして「これが俺の芸風だぁ!」といった、最後の一言が大事で、そこにこだわると明かす。終盤、ここまで2人のメンバー(肥後克広・寺門ジモン)、ビートたけし、志村けんさんなど、いい人とばかり巡り会え、運にも恵まれていたと感慨深く記す竜ちゃん。ダチョウ倶楽部のメンバーで最初に天国に行くのは〈やっぱ俺かな。俺だろうな〉と、〈優しい感じのうすら笑い〉を浮かべながら想像していた。いつかこの世を去ったとき、顔にひげを書いて豆しぼりの格好でいるものの、熱々おでんにリアクションしないから、やっとみんなが“竜ちゃん死んじゃったんだ”って実感したりね、と笑いの文字を添え、〈ホント、俺の葬式はみんなで笑えばいいんだよ。わーって宴会すればいいんだよ。一番楽しいんだもん〉と綴るが、「笑えないよ、竜ちゃん!」とツッコむことが、精一杯だ。そんなふうに思ったとき、少し笑って、少し泣いた。(文/太田サトル)
2022年05月13日プロフィギュアスケーターの安藤美姫が、11日放送のABEMAのニュース番組『ABEMA Prime』(後9:00)に出演。有名人の訃報に関するテレビ番組での伝え方について、自身の思いを伝えていった。ツイッター上で「具体的な亡くなり方を伝えないでほしい」「自宅前から中継する必要はあるのか?」という疑問の声が上がっていることに対し、番組MCを務める安藤は「報道する側も仕事ではあると思うし、テレビに出演している立場としてはこういう取材・報道がされることは避けられないと思っている」とした上で「ご家族への配慮や、自分の家族が亡くなった時にどう思うのか?を考えながら行動してほしいと思った。みなさんが知っている方の訃報を伝える時は、最小限のことだけで良いのでは」との思いを吐露。続けて「今回のケースと立場は違うけど、私は幼い頃に父を亡くしている。そのことをフィギュアスケートで有名になった時に“ストーリー”として報じられたことがあった。この経験から、ご家族についてはそっとしてあげてほしいと思っている。遺族が一般の方の場合もあるし、いろんなことを考えて行動をしてもらいたいです」と伝えた。地上波テレビのワイドショー番組でコメンテーターとして出演しているリディラバ代表の安部敏樹氏は「番組に出演していて思ったことは、多くの方が知っている人が亡くなると、その人に対する敬意として『しっかりと長い尺のニュースとして取り扱うべきである』という意識があると感じた。でも、訃報は基本的に“速報”として入ってくるから、長い時間かけて扱うだけの具体的な内容がない。このように『何を報じたらいいのかわからない』となった時に、とりあえず自宅にカメラが行ってしまうとか、亡くなった経緯の深掘りになってしまうのだろう。難しい問題だと感じている」との意見を述べた。この話を受けて、テレビ朝日の平石直之アナウンサーは「報じ方についてさまざまな声が上がっているから、各局横並びの報道だから許されるわけではないと私自身も思ったところです」と話していた。
2022年05月12日お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達みきおが12日に自身のアメブロを更新。お笑いトリオ・ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんの訃報に悲痛な胸中を吐露した。この日、伊達は「1日中。仕事しながらも、ずっと考えてしまいました」と切り出し「北海道の番組STV『熱烈!ホットサンド!』にも、ダチョウ倶楽部さんは何度も来て下さった」と回想。「前乗りして、夕食をご一緒させて頂いたり…本当に色んな話をして下さった」と述べ「いつも、サンドウィッチマンを褒めて下さって」と写真とともに振り返った。続けて「札幌の室内アスレチック施設でのロケで、竜兵さんがビビりながらやっていたのがめちゃくちゃ面白かったなぁ。笑い過ぎて呼吸困難になったし」と上島さんとのエピソードを紹介。「後輩の我々やスタッフに対しても、とても気を使って下さる優しい方でした」と上島さんの人柄について述べ「すげー面白い先輩芸人でした!」とつづった。また「竜兵さんと一緒に仕事が出来て、沢山お話して下さった事は我々の財産です」とコメント。「悲しくて、寂しくて、本当に残念で悔しい」と悲痛な思いを吐露し「沢山笑わせて頂いた思い出を大切にして、これからも芸人として頑張ります」と述べた。最後に「上島竜兵さん。大好きな大先輩でした。ありがとうございました!」と上島さんへの感謝をつづり「大変お疲れ様でした。ゆっくり休んで下さい!」と追悼し、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「言葉が見つかりません」「胸が痛いです」「残念でなりません」「本当に寂しいです」などのコメントが寄せられている。【日本いのちの電話】ナビダイヤル(午前10時~午後10時)0570-783-556フリーダイヤル(午後4時~午後9時毎月10日は午前8時~翌日午前8時)0120-783-556
2022年05月12日お笑いコンビ・ペナルティのヒデが11日、都内で行われた舞台『こと~築地寿司物語~百年の絆』囲み取材に出席。同日に報道されたダチョウ倶楽部・上島竜兵さんの訃報を受け、追悼した。同作は、日本初の寿司屋の女店主として築地玉寿司の礎を築いた女性・ことの物語。ヒデのほか、鳳恵弥、IKKAN、武田知大、ウーマンラッシュアワー・中川パラダイス、築地玉寿司4代目の中野里陽平が取材に応じた。上島さんの訃報を受け、ヒデは「テレビに呼んでいただける前から、お世話になっていまして、正統派の芸ではなかったんですけど、そこを褒めて頂いたり、『どうぞどうぞ』をやっていいよと言っていただいたこととか、たくさんの思い出があって、ただただショックです」と悲しみを吐露した。また「ダチョウ倶楽部のメンバーの方が心に引っかかります。僕は相方としばらくの間離れていただけで寂しさがあった中で、どんなお気持ちなのかと胸が苦しくなります」とダチョウ倶楽部の寺門ジモンと肥後克広のことを思いやり、「その分じゃないですけど、この舞台を本気でやらさせていただきました。舞台に立ってなんぼだと思っているので」と悼んだ。
2022年05月11日俳優の川崎麻世が11日に自身のアメブロを更新。お笑いトリオ・ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんの訃報に悲痛な思いを吐露した。この日、川崎は「とても悲しい訃報が入ってきた」と切り出し「ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんがお亡くなりになった」と上島さんの訃報について言及。上島さんとの2ショットを公開した。続けて、上島さんと共演した『細川たかし特別公演ダチョウ倶楽部一座旗揚げ公演』を振り返り「竜ちゃんの芝居最高に面白かった」「出番じゃない時も楽屋に戻らずずっと袖から観ていた」と当時の上島さんについて説明。「稽古場で竜ちゃんにギャグを提案したら麻世さんにやれと言われたと披露してくれた」と明かし「嬉しかったありがとう」と上島さんへ感謝の言葉を送った。さらに「ダチョウ倶楽部一座はもうできないの?悲しすぎて言葉にならない」と悲痛な思いをつづり「共演者との飲み会も楽しかったよありがとう」と改めて感謝のコメント。最後に、上島さんを含む共演者との集合ショットとともに「ご冥福をお祈り致します」と追悼し、ブログを締めくくった。【日本いのちの電話】ナビダイヤル(午前10時~午後10時)0570-783-556フリーダイヤル(午後4時~午後9時毎月10日は午前8時~翌日午前8時)0120-783-556
2022年05月11日2022年5月11日、お笑いトリオ『ダチョウ俱楽部』のメンバー、上島竜兵さんが亡くなったことが明かされました。61歳でした。突然の訃報に、多くの人が驚き、悲しむ声が上がっています。加藤浩次、上島竜兵さんの訃報に絶句同日、情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)では、上島さんの逝去について報道。同番組の司会を務める、お笑いコンビ『極楽とんぼ』の加藤浩次さんは、「ちょっと本当に、僕もビックリしている」とショックを隠し切れない様子で、このように語っています。どの現場でも変わらず、後輩の僕たちにも話しかけてくれて。分け隔てなく接してくれる方で、僕も気さくに話させていただいたりしたんですけれど。『めちゃイケ』という番組で、熱湯風呂の形で『ダチョウ倶楽部』さんに教えていただくみたいなことを、初めて芸人になってできたこと、僕はそれが嬉しくて。『ダチョウ倶楽部』さんと一緒に、熱湯風呂の芸を一緒にできたことがすごく嬉しくて。そこからは、仕事で何度も一緒になっているんですけれど…。ちょっとね…考えられないというか…。うーん…。スッキリーより引用加藤さんは、時折言葉を詰まらせながら、「第1報を聞いた時、ウソだと思った」「ショックです」と続けました。上島さんの突然の訃報に、ネットからは悼む声が多く上がっています。・本当につらい。上島さんは、子供の頃から笑わせてくれていた。心よりお悔やみ申し上げます。・上島さんがドラマに出演されているのを見て、「演技がめちゃくちゃうまい!」と感動していました。これから、役者としての活躍を楽しみにしていたんだけどな…。・信じられないし、信じたくないな。あまりにもショックすぎる。上島さんのご冥福を心よりお祈りいたします。また、ニュースを読んでつらい気持ちになった人は、厚生労働省が行っている電話相談を頼ってください。厚生労働省[文・構成/grape編集部]
2022年05月11日2022年5月11日、お笑い芸人トリオ『ダチョウ俱楽部』のメンバー、上島竜兵さんが亡くなったことが明かされました。61歳でした。サンケイスポーツは、以下のように報道しています。人気お笑いトリオ「ダチョウ俱楽部」のメンバーの上島竜兵(うえしま・りゅうへい)さん(61)が死去したことが11日分かった。所属事務所によると、同日未明、自宅で家族が異常を発見し、病院で死亡が確認された。サンケイスポーツーより引用テレビのバラエティー番組を中心に活躍し、「ケンカしてチュー」「絶対押すなよ」など数々のギャグでお茶の間を沸かせた、上島さん。突然の訃報に、「ショックすぎる」「とてもさびしい」など、悲しみの声が上がっています。上島さんのご冥福を心よりお祈りいたします。また、ニュースを読んでつらい気持ちになった人は、厚生労働省が行っている電話相談を頼ってください。厚生労働省[文・構成/grape編集部]
2022年05月11日渡辺裕之さんと原日出子(2003年)またも悲劇が起きてしまった─。5月3日に俳優の渡辺裕之さんが自宅で亡くなっていたのだ。「死が公表されたのは翌々日の5月5日。妻の原日出子さんがお昼ごはんを作って渡辺さんを呼んでも返事がなく、地下のトレーニングルームに行ったら、そこで首をつって亡くなっていたそうです」(スポーツ紙記者)亡くなったとされる地下室は、渡辺さんの趣味が詰まった部屋だったという。「自宅を建て直したときに、地下室を自分の趣味スペースにしたそうです。そんなに広くはありませんが、トレーニング機材やドラムセットがあり、大画面テレビで映画を見ることができました。渡辺さんは、ここ最近、その部屋にこもっていることが多かったようです」(渡辺さんの友人)渡辺さんの自宅は神奈川県の閑静な住宅街にある。「3日の午後にパトカーが来て、警察官が出入りして不穏な雰囲気でした。泥棒でも入ったのかと思っていましたが、まさか渡辺さんが亡くなっていたとは……」(近所の住民)渡辺さんと原が結婚したのは1993年のこと。「原さんは1981年にNHK朝ドラ『本日も晴天なり』のヒロインでブレイク。人気絶頂の1983年に高校時代の同級生と結婚して1女をもうけるも、1987年に離婚しました。渡辺さんは1982年にデビューし、スポーツで鍛えた身体で肉体派俳優として活躍。『リポビタンD』のCMが有名ですね。ふたりは1990年にドラマで共演して交際が始まりました」(テレビ誌ライター)近隣住民が目撃した夫婦の姿原の娘は当時10歳。子連れ再婚だったが、渡辺さんはわが子のようにかわいがり、後に1男1女が生まれて5人家族となる。「2001年には『パートナー・オブ・ザ・イヤー』に選ばれました。原さんは2016年に出演した『徹子の部屋』で “キスやハグは当たり前”とアツアツぶりを公言。渡辺さんも折に触れて原さんへの感謝の言葉を述べ、SNSに奥さんの手料理の写真を上げていました」(同・テレビ誌ライター)映画でも夫婦役や、一緒にカレールーのCMに出演するなど共演も多数。まさに、おしどり夫婦として有名だったが、近所の人は少し違った印象を抱いていたという。「原さんが近所で買い物をすることはよくありましたが、いつも1人で、夫婦で一緒に歩いているところはあまり見たことがありませんでした」(前出・近所の住民、以下同)ふたりの生活スタイルは異なっていたようで、「渡辺さんはお子さんが小さかったころ、庭にプールを作って近所の子どもたちも呼んでくれたり、お祭りに参加して“ファイト一発!”と叫んでくれたりと地元に溶け込んでいました。一方で、原さんは親しい友人とワイン会を開くなどして楽しんでいたようですね」渡辺家では、定期的に自宅に友人を呼んでホームパーティーを開いていたのだが、「朝からテントを張るなどの準備をして夜10時ごろまで行っていたのですが、その常連さんたちが知る限り、積極的に動いていたのは渡辺さんだったようですね」おしどり夫婦としてのイメージが先行しがちだが、私生活ではお互いの趣味を尊重し、それぞれで楽しんでいたようだ。朝5時から1人でゴミ拾い渡辺さんは社交的な反面、ストイックな一面もあった。「子育てに適した環境を求めて都心から自然が多い神奈川の郊外に引っ越したそうですが、近くには車通りの多い幹線道路があって、分離帯へのポイ捨てが横行。それを見かねた渡辺さんは長年朝5時ごろから1人でゴミ拾いをしていました」(別の近所の住民)筋肉トレーニングは毎日欠かさず体形をキープ。『リポビタンD』のCMで共演した野村宏伸は、渡辺さんが完璧主義で熱い性格だったと振りかえる。「海外ロケの撮影はいつもハードでしたが、渡辺さんは撮影スタッフにアイデアを出すなど、リーダーシップを発揮していました。英語も堪能で、身体もガッシリ。そんな頼りがいのある男らしい人だったから、誰にも悩んでいる姿は見せられなかったのかもしれません……」渡辺さんと長年交流があったバイク店の店主は、友人の死を悲しみながら普段の人柄を振り返る。「多趣味で凝り性。カスタムした合計500万円以上のバイクをうちの店内に飾って知人に見せたりしながら、椅子に座って会話を楽しんでいました。僕を含めた知り合いを地方ロケや、テレビ番組の観覧に呼んでくれたり。一度、奥さんをウチの店に連れてきてくれたこともありました」最近はコロナ禍の影響で、仕事以外は家にこもりがちだったそう。「最後に会ったのは去年の10月。コロナで仕事が減ったと愚痴ったら、渡辺さんも仕事が減ってつらいけどお互い頑張ろうと言ってくれたんです。以前、奥さんの話になると“原の話ばっかで俺のファンはいないのか!?”と冗談めかして話していました」(バイク店の店主)「常に将来の不安があった」実際、昨年も渡辺さんの仕事は順調だった。「ドラマにも定期的に出演していましたし、これから公開されるものを含めて今年は6本の映画に出演。仕事が途切れることはなく、この5月からゴルフ番組でのレギュラー出演が決まっていました」(前出・テレビ誌ライター)しかし、以前からお金に関する不安は抱えていたようだ。「2005年に詐欺事件に巻き込まれ、同時に詐欺をしていた投資会社の広告塔だったと指摘されました。記者会見で事件について質問されると“定収入のない職業で、常に将来の不安があって、その不安がなくなればと思った僕がバカだった”と語っていました」(前出・スポーツ紙記者)亡くなる数日前、前出の近所の住民は異変を目撃していた。「自宅の近くで、うつろな目で道端に座り込んでいたり、立ち止まっていたり。今まではそんな姿は見なかったので、様子がおかしいなと思ってました」誰にも本心を語らず、地下室でひっそりと人生の幕を閉じた渡辺さん。悲しみの声は今も絶えない。【悩みを抱えている方は厚生労働省が紹介している相談窓口をご利用ください】いのちの電話 0570-783-556(ナビダイヤル)/0120-783-556(フリーダイヤル・無料)こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556#いのちSOS(特定非営利活動法人 自殺対策支援センターライフリンク)0120-061-338よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)0120-279-338
2022年05月09日俳優の的場浩司が5日に自身のアメブロを更新。俳優の渡辺裕之さんの訃報に悲痛な思いを明かした。この日、的場は「渡辺裕之さん…何作品も一緒に共演させて頂きありがとうございました…」と述べつつ「でも、悔しいです…もっと一緒に芝居がしたかったです…」と心境を吐露。「皆が悲しみでいっぱいです…連絡した共演者…連絡が来た共演者…皆、泣いてます…」と明かし「どうか安らかに…」と悼んだ。続けて、渡辺さんと共演した映画『修羅の世界』の撮影時を振り返り、渡辺さんから「今まで何本も一緒に仕事してきたのにまだ一回も一緒に写真撮ってないよね。一緒に写真撮ってよ!」と声をかけられたことを説明。「あの時の裕之さんの笑顔が今は辛いです…涙が止まりません…」と悲痛な思いを明かした。最後に「裕之さん…悔しいです…寂しいです…悲しいです…」と呼びかけ「心から御冥福を御祈りします…ありがとうございました…」と追悼し、ブログを締めくくった。【日本いのちの電話】ナビダイヤル(午前10時~午後10時)0570-783-556フリーダイヤル(午後4時~午後9時毎月10日は午前8時~翌日午前8時)0120-783-556
2022年05月06日2022年5月5日、テレビドラマ『愛の嵐』『華の嵐』『夏の嵐』(フジテレビ系)などで知られる、俳優の渡辺裕之さんが亡くなったことを、所属事務所が発表しました。66歳でした。事務所の発表によると、渡辺さんは同月3日に、自宅で亡くなっているところを発見されたといいます。5月3日(火)昼頃に、ご家族により発見されました。あまりに突然の出来事に、ご家族もスタッフも驚きと悲しみに呆然としております。マスコミの皆様におかれましては、ご親族の深い悲しみにご配慮頂きますよう切にお願い申し上げます。尚、葬儀に関しましてはご家族との相談の上、密葬というかたちで執り行わせて頂きます。株式会社ワイケーエージェントーより引用テレビドラマはもちろん、大正製薬株式会社の栄養ドリンク『リポビタンD』のCMに出演するなど、幅広い場で活躍していた渡辺さん。突然の死に「一体なぜ」「驚きと悲しみで何も言葉が出ない」といった声があがっています。渡辺裕之さんのご冥福をお祈りいたします。また、ニュースを読んでつらい気持ちになった人は、厚生労働省が行っている電話相談を頼ってください。厚生労働省[文・構成/grape編集部]
2022年05月05日2022年4月26日、音曲漫才の兄弟トリオ『横山ホットブラザーズ』の次男、横山マコトさんが、亡くなっていたことが分かりました。87歳でした。産経ニュースによると、マコトさんは同月22日、虚血性心疾患により逝去。葬儀と告別式は近親者で行ったとのことです。1952年に結成した『横山ホットブラザーズ』は、創作楽器を駆使した音楽と歌を織り交ぜた芸風で知られ、マコトさんはアコーディオンを担当。「お~ま~え~は~ア~ホ~か~」のリズムに合わせて、ノコギリをバイオリンのように鳴らすギャグなどで一世を風靡しました。マコトさんの訃報に、ネットからは悲しみの声が上がっています。・昔、よくテレビで見ていました。当時小学生の私にも、分かりやすくて面白かったです。楽しい時間をありがとうございました。・ノコギリバイオリンは名人芸でした。『横山ホットブラザーズ』大好きだったなぁ。・お笑いだからあまり注目されていなかったけど、アコーディオンの演奏技術はすごかった。ご冥福をお祈りします。子供にも分かりやすい芸風で、幅広い世代に愛されたマコトさん。これまでの活躍は、多くの人の心に残り続けるでしょう。マコトさんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月26日2022年4月25日、世界最高齢としてギネス記録に認定されていた、田中力子(たなか・かね)さんが亡くなったことが分かりました。1903年(明治36年)に誕生し、なんと明治、大正、昭和、平成、令和の5つの時代を生きた田中さん。アジア史上の最高年齢を記録しており、2022年4月19日に、119歳でこの世を旅立ちました。【大快挙】119歳到達無事に119歳を迎えることができました!サラ・ナウスさん以来22年ぶりの119歳到達です最新のカ子さんの写真です12月に親戚が会いに行った時のものです。たくさんの方々に支えられてここまでくることが出来ましたこれからも楽しく明るく元気に過ごしてほしいです pic.twitter.com/K38jXDTIQ3 — 田中カ子 (@tanakakane0102) January 1, 2022 田中さんの姿はこれまでテレビで何度も取り上げられ、「死ぬ気がせん」という発言や、元気に長生きする姿は多くの人を勇気付けてくれました。旅立ちを受け、ネットからは「ずっと尊敬しています」「長年の人生、お疲れ様でした」という声が続々と上がっています。田中さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月25日2022年4月22日、ヴィジュアル系バンド『La’cryma Christi(ラクリマ・クリスティー)』でギターを担当するKOJIさんが亡くなったことが分かりました。2005年に同バンドを一時脱退し、2009年の再結成時に再び加入した、KOJIさん。同バンドがTwitterに発表した内容によると、KOJIさんは食道がんで闘病しており、同月15日に49歳の若さで旅立ったといいます。病気療養中でしたKOJIが令和4年4月15日に食道がんにより逝去いたしました。KOJIを愛してくださったファンの皆様に謹んでお知らせいたします。 pic.twitter.com/D83YTbeNjp — La'cryma Christi (@Lacryma_Info) April 22, 2022 また、KOJIさんが所属していた音楽ユニット『ALICE IN MENSWEAR』は、訃報を受けウェブサイトを更新。相方であり、ボーカル担当のmichi.さんによるメッセージを公開しました。私は最期の瞬間を看取ることは叶いませんでしたが、ご親族にあたたかく見守られながら、眠るよう安らかに旅立ったそうです。葬儀は本人とご遺族のご意向により、家族葬にてしめやかに執り行われました。KOJIは病気の告知を受けてからも、決してギタリストとしての誇りを失わず、強く美しく闘い抜く姿を、毎日私に示してくれていました。そして、常にファンや応援してくださる皆さんを大切に思う姿勢は、私を音楽人としてだけでなく、ひとりの人間としても導いてくれました。今は闘いから解放されKOJIは旅立ちましたが、その気高い精神は、これからもずっと皆さんと私の中に在り続け、これからもずっと変わらず導き続けてくれると確信しています。ALICE IN MENSWEAR OFFICIAL WEBSITEーより引用2020年に食道がんであることを公表し、病気と闘ってきたKOJIさん。michi.さんのコメントからは、彼の心の強さが伝わってきます。あまりにも早すぎる別れに、ネットからは「素晴らしいパフォーマンスをありがとう」「驚きすぎて言葉が出てこない」といった声が上がりました。KOJIさんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月22日2022年4月21日、俳優の柳生博さんが亡くなったことが分かりました。85歳でした。柳生さんがオーナーを務める、山梨県北杜市にあるレストラン『八ヶ岳倶楽部』のFacebookで、息子である柳生宗助さんが逝去を公表。投稿によると柳生さんは、同月16日に大好きな八ヶ岳の森や家族、関係者に囲まれて、幸せな最期を迎えたといいます。テレビドラマや映画への出演、ナレーションや声優での活動だけでなく、テレビ番組の司会者としても人気を博した柳生さん。1981~1993年に放送されていたバラエティ番組『100万円クイズハンター』(テレビ朝日系)では、12年にわたって司会を担当していました。柳生さんの葬儀はすでに家族で執り行われましたが、後日、八ヶ岳倶楽部にて『お別れの会』が開催予定とのこと。また同店舗では、森の中に柳生さんを偲ぶためのスペースを設けたといいます。スタッフに声をかければ、尋ねることができるそうです。「『飛び出せ!青春』の塚本先生が大好きだった」「『ハンターチャンス!』の掛け声が忘れられない」といった声が続々と上がった、柳生さんの訃報。これまでの活躍は、多くの人の心に残り続けるでしょう。柳生さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月21日2022年4月13日、声優の松島みのりさんが亡くなったことが分かりました。81歳でした。所属事務所『青二プロダクション』によると、松島さんは同月8日に亡くなっていたといいます。弊社所属俳優松島みのり 儀(81歳) 病気療養中のところ薬石効なく令和4年4月8日 午前7時45分に膵臓がんの為永眠いたしました尚葬儀告別式につきましては親族のみにて滞りなく相済ませましたここに生前の御厚誼に深謝するとともに謹んでご通知申し上げますAONI PRODUCTIONーより引用松島さんは、『怪物くん』のひろしや、『キン肉マン』のミートくんのほか、『ONE PIECE』のつる、『ガラスの仮面』の姫川亜弓など、数々のアニメのキャラクターを演じてきました。また、バラエティ番組『世界の果てまでイッテQ!』(日本テレビ系)や、バラエティ番組『世界まるみえ特捜部』(日本テレビ系)のナレーションも務めています。松島さんの訃報に、ネットからは悲しみの声が上がりました。・松島さんといえばアニメ『キャンディキャンディ』のキャンディが好きだったな。少し声を聴けばすぐに松島さんだと分かるほど。さびしいです。・あの宝石のような、弾ける声をもう聞けないのかと思うと、残念です。長い間、本当にありがとう。・子供の頃に見ていたアニメの多くに松島さんが出演されていた。古くからの友人を亡くしたようなさびしさです。ご冥福をお祈りいたします。幅広い世代に、声で楽しさを提供し続けた、松島さん。松島さんの演技は作品とともに輝き続けるでしょう。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月13日2022年4月7日、漫画家の藤子不二雄Aさんが亡くなったことが分かりました。88歳でした。産経ニュースによると、同日の朝に川崎市の自宅で亡くなっているのが見つかったといい、警察が死因などを調べているとのことです。1996年に亡くなった、同じく漫画界の巨匠である藤子・F・不二雄さんとともに、共同ペンネーム『藤子不二雄』として活動していた藤子不二雄Aさん。共作の『オバケのQ太郎』『怪物くん』をはじめ、コンビ解消後も『忍者ハットリくん』『笑ゥせぇるすまん』『プロゴルファー猿』などのヒット作品を生み出しました。藤子不二雄Aさんの作品は、世代を超えて愛され続ける名作ばかり。漫画界の巨匠といえる藤子不二雄Aさんの旅立ちに、多くの人が「素敵な作品をありがとうございます」と感謝の気持ちを送っています。きっとこれから生まれてくる人たちにも、藤子不二雄Aさんの作品は漫画の魅力を伝え続けてくれることでしょう。藤子不二雄Aさんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年04月07日2022年3月17日、俳優の宝田明さんが同月14日に急死していたことが分かりました。87歳でした。昭和を代表するスター俳優、宝田明(たからだ・あきら)さんが14日に東京都内の病院で急死していたことが17日、分かった。87歳だった。サンケイスポーツーより引用宝田さんは、1954年に公開された、特撮映画『ゴジラ』で初主演を務めています。そのほかにも、ドラマや舞台など、幅広く活躍した宝田さん。182cmの高身長と、甘いルックスで約70年間にわたり、視聴者を魅了し続けました。宝田さんの訃報に、さまざまな声が上がっています。・背が高くて渋くてとてもかっこいい俳優さんでした。いくつになっても元気だと思っていたけれど。さびしくなります。・宝田さんが第二次世界大戦の終戦直後の話を、テレビ番組で話していたことを今でも覚えている。ご冥福をお祈りいたします。・宝田さんが80代で出演した映画『ダンスウィズミー』が印象的です。軽やかなステップに驚いていました。2022年3月10日には、アイドルグループ『乃木坂46』の岩本蓮加さんとダブル主演した、映画『世の中にたえて桜のなかりせば』のイベントに参加していました。数日前まで元気な姿を見せていただけに、多くの人が宝田さんの急逝に驚きを隠せないようです。宝田さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年03月18日2022年3月14日、漫画家の征海美亜(いくみ・みあ)さんが亡くなったことが分かりました。同日、漫画雑誌『なかよし』がウェブサイトで発表した文面によると、同月7日にくも膜下出血で急逝されたとのことです。征海さんの代表作である漫画『東京ミュウミュウ』は2002年にアニメ化し、女児を中心にヒット。2022年の夏には、リメイクした新作アニメの公開を控えています。講談社の『なかよし』編集部は、征海さんの逝去を受け、このようにコメントをしました。征海先生は講談社でデビューされ、「なかよし」にて『東京ミュウミュウ』や『スーパードール★リカちゃん』(原作/タカラ)等をご執筆下さいました。突然で早すぎるご逝去に、編集部一同、深い悲しみを禁じえません。先生の代表作『東京ミュウミュウ』は、今夏より『東京ミュウミュウ にゅ~♡』と題したアニメの放映が開始されることになっていました。また、アニメ化を記念した『東京ミュウミュウ 新装版』全10巻の刊行を2月に発表したばかりでした。先生は新装版のカバーイラストをすでに全巻分描き上げられていらっしゃいます。またそれぞれの巻に収録予定だった描き下ろし漫画もすべてではありませんがいただいております。征海先生は2年前から日々愛を込めてアニメを監修され、新装版とともに皆様にお届けできることをとても楽しみにされていました。遺された私たちは、いただいた作品を大切に扱い、悲しみをこらえながら丁寧に制作を続けて、先生のご遺志を継がなければと考えております。なお、告別式等は近親者の方々で執り行われたこともご報告申し上げます。征海先生の作品は世界中で読まれてきました。これまで長きにわたって愛していただいてきた数多くの読者の皆様に深く感謝申し上げます。なかよしーより引用『東京ミュウミュウ』は2022年現在も高い人気を誇る作品。また、先述したように再アニメ化の企画も進んでいるため、征海さんの訃報に多くの人が衝撃を受けたようです。ネットからは「本当に突然すぎて、受け止められない」「征海先生の作品がずっと大好きです」といった声が上がっています。きっと今後も、征海さんの生み出した作品は、多くの人に笑顔を与えてくれるでしょう。征海さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年03月14日2022年3月7日、俳優で、声優としても活躍していた、井上倫宏さんが亡くなっていたことが分かりました。63歳でした。サンケイスポーツによると、井上さんは食道がんのため、同年2月28日に自宅で亡くなったとのことです。井上倫宏氏(いのうえ・のりひろ=俳優、本名則弘=のりひろ)2月28日午後4時58分、食道がんのため相模原市の自宅で死去、63歳。サンケイスポーツーより引用井上さんは、舞台を中心に活動しながら、大河ドラマ『徳川慶喜』(NHK)の稲葉正邦役や、テレビドラマ『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)に出演。洋画の吹き替えや、テレビアニメ『MASTERキートン』(日本テレビ系)で平賀=キートン・太一役を務めるなど、優しい穏やかな声でも人々を魅了していました。突然の訃報に、ネット上では「信じられない」「大好きでした」「あの声が聞けないのはさびしい」など、悲しみの声が上がっています。井上さんの姿や声は、数々の作品の中で生き続けるでしょう。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年03月07日2022年3月6日、作家の西村京太郎さんが肝臓がんのため、同月3日に亡くなっていたことが分かりました。91歳でした。ドラマ化もしている『十津川警部』シリーズをはじめ、数々の名作を生み出してきた西村さん。トラベルミステリーの第一人者として知られ、1981年には『終着駅殺人事件』で日本推理作家協会賞を受賞しています。西村さんの訃報に、多くのファンから悲しみの声が寄せられました。・電車に乗って旅をするのが好きで、旅行するたびに西村さんの本を思い出していました。・名作の数々を本当にありがとうございました。・ご冥福をお祈りいたします。よい旅路を…。なお、産経新聞社が伝えているところによると、葬儀はすでに近親者で行ったとのこと。西村さんは年間12冊というスピードで執筆を重ね、これまでに600作を超える著作を世に送り出してきました。西村さんが生み出した名作は、今後も多くの人に読み継がれることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年03月06日俳優の川津祐介さんが2022年2月26日、逝去していたことが分かりました。86歳でした。ドラマ「ザ・ガードマン」などで俳優として人気を博した川津祐介(かわず・ゆうすけ、本名川頭祐一=かわず・ゆういち)さんが2月26日午前、慢性心不全のため東京都内の自宅で死去した。86歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻愛沙(あいさ)さん。サンケイスポーツーより引用川津さんは、テレビドラマ『ザ・ガードマン』(TBS系)で荒木隊員を演じたほか、料理リポート番組『くいしん坊!万才』(フジテレビ系)でリポーターを務めるなど、多才ぶりを発揮。その後は、絵画や陶芸も手掛け、福井県越前市にある『越前市いまだて芸術館』の館長を務めていました。川津さんの訃報に、悲しみの声が上がっています。・『ザ・ガードマン』での演技、大好きでした。・子供の頃、川津さんのことが大好きだった。ご冥福をお祈りいたします。・僕の中で、川津さんといえば『Gメン’75』。名演技でした。さびしいな。川津さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年03月04日西郷輝彦さん「好きなんだけど 離れてるのさ~」2月24日、都内のセレモニーホール前で大勢の女性たちが涙ながらに『星のフラメンコ』を合唱していた。4日前に前立腺がんで亡くなった西郷輝彦さんの葬儀が行われ、ファンたちが彼の代表曲で別れを惜しんでいたのだ。「辺見えみりさんやご家族の厚意で、告別式の日の午前中にファンクラブの会員向けにお別れの機会を設けてくれました。’20年3月に予定されていたデビュー55周年記念コンサートがコロナで延期され、’21年2月の振り替え公演も中止に。最後にお会いするのがこんな形だなんて残念でなりません……」(参列した女性ファン)7歳年上のマネージャーを“ちゃん付け”で前日の通夜には、所属事務所のサンミュージック最高顧問を務める森田健作や、歌手の橋幸夫も弔問に訪れている。「西郷さんは16歳のとき、サンミュージックプロダクションの創業者である相澤秀禎さんにスカウトされ芸能界入り。’64年にデビュー曲『君だけを』が大ヒットして、アイドルの先駆けともいえる存在となりました。同じく’60年代に活躍した橋幸夫さん、舟木一夫さんの3人は“御三家”と称され、同じく相澤さんにスカウトされた森田健作さんも“西郷さんを超える”ことを目標にしていました。西郷輝彦という人は、昭和の芸能界を語るうえで欠かせない存在なんですよ」(レコード会社関係者)デビュー間もないころに付き人を務めたAさんは、今でも彼の温かさを覚えている。「西郷さんの運転手に応募して面接を受けたら、本人から“付き人をやってほしい”と言われたんです。歌手志望の若者より芸能界と無縁の私のほうが信用できるということでした。人気絶頂だったので仕事はハード。彼の家に住み込みで働いていました。7歳年上の私を“ちゃん”付けで呼び、信頼してくれましたね」いちばんの思い出は、地方公演へ行ったときのこと。「地方のイベンターが私を“ボーヤ”と乱暴に呼んだんです。そしたら西郷さんが“彼にはちゃんと名前があるんだからそんなふうに呼ばないでください”って毅然と言ってくれて……。スターなのに付き人も尊重してくれるんだと感動しましたよ」(Aさん)西郷さんの分け隔てない姿勢は、生涯変わらなかったようだ。晩年まで交流があった放送作家の須田泰成氏も、彼との有意義な時間を懐かしむ。がん治療のために総額1000万円「酒場で若い人たちに人生相談をされていましたね。どんな人ともフラットに接していて、自分の話より人の話を聞く時間が長いんです。西郷さんのアドバイスを受けてから、仕事が来るようになり、今や会社の経営者になった人もいます。決めゼリフは“楽しんでやればOK!”と、右手でサムアップのポーズをするのがカッコよかった」ボランティア精神も強かったようだ。「私は’11年に発生した東日本大震災の支援活動をしていたのですが、西郷さんも協力してくれて、東北道が復旧した翌日に支援物資を持ってきてくれました。その後も、ことあるごとに被災地の避難所へ足りないものを提供してくれたんです」(須田氏)そんな性格だったからか、家族にも愛されていた。「’72年に辺見マリさんと電撃結婚。女優のえみりさんら2人のお子さんに恵まれました。’81年に離婚後、’90年には19歳年下の一般女性と再婚し、三姉妹が誕生しています。籍が分かれてもマリさんやえみりさんとの仲は良好でした」(スポーツ紙記者)充実した晩年を迎えるはずだったが、’11年に前立腺がんが判明。全摘出手術を行い快方に向かうも、’17年に再発。完治を目指し’21年5月にはオーストラリアに渡り、日本で未承認の“PSMA治療”を受けることになった。聞き慣れない治療法だが、どのようなものなのか。『くぼたクリニック松戸五香』院長の窪田徹矢氏に話を聞くと、「’17年にドイツで確立されたばかりの治療法です。点滴でがん細胞のみに効果がある放射性物質を投与します。一般的な抗がん剤治療で起きるような副作用がなく、治療は15分間ほど。点滴を打った後は入院せず帰宅できますが、劇的な効果が期待できるわけではありません。そして、1回の点滴で150万から200万円がかかります。滞在費やコーディネート代と合わせると、総額1000万円はかかったでしょう」(窪田氏)亡くなる前夜にかかってきた電話オーストラリアでの治療の様子をYouTubeに投稿していた西郷さんは、昨年8月末に『がんが消えた編』という動画を公開。がんは消えていたものの、進行度を示す数値PSA(前立腺特異抗原)は上がっていることを伝えていた。「PSAが上がっているのにがんがなくなったというのは臨床上考えづらいので、がん自体は残っていたのだと思います。もしかしたら、視聴者を安心させたかったのかもしれませんね」(窪田氏)その後9月に帰国し、国内の病院に入院して治療を続けていた西郷さん。45年来の友人であり、陶芸教室『まだん陶房』を営む岩田康則氏は亡くなる直前まで連絡を取り合っていた。「私が以前、経営していた飲食店にお客として来てくれたことから交流が始まりました。それから一緒にゴルフをしたり、お酒を酌み交わしたり……。’96年に私が開いた陶芸教室の会員第1号も彼でした」(岩田氏、以下同)再起を信じていた岩田氏には、忘れられないメールがあるという。「彼は俳句を嗜んでいて、自作や句会で選句をした詩をよくメールで送ってくれたんですよ。闘病中も精力的だったので、きっとまた元気に戻ってくると思っていました。でも、あるとき急に奥さんが代わりにメールを打ってくるようになりまして……。好きだった俳句が打てなくなるほど、体調が思わしくないのかなと心配していました」西郷さんが亡くなる前日の深夜には、岩田氏の携帯電話に着信があった。「気づいたのがその日の早朝だったので、悪いと思い折り返しませんでした。そうしたらあとになって亡くなったと連絡が入り……。別れの挨拶だったのか、今となってはわかりませんが、最後の最後に本人から連絡が来たことはうれしかったですよ」命が消える直前まで、周囲を気遣っていた─。
2022年02月28日歌手の今陽子が21日に自身のアメブロを更新。歌手・俳優の西郷輝彦さんの訃報を受けて、悲痛な胸中を吐露した。この日、今は「ガンで闘病中だと知っていましたが・・・」と切り出し「75歳の若さで西郷輝彦先輩が天に召されてしまいました」と20日に前立腺がんのため亡くなった西郷さんについて言及。「この写真は、友人の結婚式で、お祝いに歌った後の打ち上げ」と当時の西郷さんとの2ショットを公開し「久しぶりにお会いして、私の歌を凄く褒めてくださり嬉しかった」と回想した。続けて「大昔、有楽町の日劇で『西郷輝彦ショー』の前座を務めさせていただいた時も凄く優しく接してくださったことを覚えています」と振り返り「年齢の近い先輩がお亡くなりになるって・・・・凄くショックです」と胸中を吐露。最後に「ご冥福をお祈りします・・・・・どうぞ、安らかに」と追悼し、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「せつなくなりますね」「本当に残念でなりません」「ご冥福をお祈り致します」などのコメントが寄せられている。
2022年02月22日漫談家の松鶴家千とせさんと恵中瞳さん「わかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ〜」のセリフで知られた、漫談家の松鶴家千とせさんが2月17日、心不全で亡くなった。享年84。1月28日に風邪をこじらせて入院後、一時は仕事の話ができるまでに回復したものの、容体が急変。そのまま帰らぬ人となったという。実は、週刊女性PRIMEで昨年11月に紹介後、ネット上で話題騒然となった歌手・恵中瞳さんは、千とせ師匠の“最後の弟子”だった。しかも、1月26日に千とせ師匠とのデュエットのシングルCDをリリースしたばかり。2月27日には、浅草・木馬亭にてCD発売後初のお披露目デュエットを予定していたものの、1月16日の木馬亭公演が最後の共演となってしまった。「あまりにも急すぎて、心の整理がまったくつきません」と語る恵中さん。『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)の2月21日深夜放送回にも出演する彼女に、師匠との思い出を聞いた――。◆◆◆君の経験をもとに歌を作るから「千とせ師匠と初めてお会いしたのは、7年ほど前のこと。師匠がパーソナリティをしていらしたインターネット番組に出演させていただいたのがきっかけです。2回ほど出演させていただきました。その後、今から3年ほど前にお仕事で再会したのですが、師匠は当時のことを全く覚えていらっしゃいませんでした」(恵中さん・以下同)7年前の恵中さんは、歌手デビューしたばかり。まだ、自分の“売り”に気づいていないころでもあった。「私のことをすっかり忘れていらした師匠は、非常に恐縮されていました。改めて私が作詞・作曲した当時の新曲『銀座であんぱん 渋谷でピンポン』(2019)を聞いてもらったら、“君は本当に歌がうまいね”ととても気に入ってくださって、私の曲をプロデュースしたいとおっしゃってくださったんです」こうしてできあがったのが、『ふるさとのお母さん』(2021)だ。「師匠と再会したころの私は、ちょうど、ネットの誹謗中傷に悩まされていました。ついには声がうまく出せなくなってしまったんです。事務所の社長のサポートもあり、なんとかライブの舞台に立てるようになったものの、心は不安定なまま。そんなとき、師匠が『君の経験を元に歌を作るから』とおっしゃってくださり、師匠に生い立ちを聞いていただきました。師匠は私が話す私の母のエピソードに興味を持ってくれて、私の声が出なくなったときにとても励ましてくれたことや、成人式の振り袖を自分で縫ってくれたことなどを織り込んで、詞を作ってくださいました。できあがった曲を、母が喜んでくれたことが、なにより嬉しかったですね。母は以前から、千とせ師匠のファンだったので」「僕が瞳ちゃんについていくから!」恵中さんが千とせ師匠の“弟子”となったのは2021年の9月ごろ。「ちょうど『アウト・デラックス』(フジテレビ系)に出演したころのことです。松鶴家一門の定例公演に出演した際、『今日から君を弟子にする!』と。師匠にはそんな感じで決めたお弟子さんが200名以上いるそうで、基本的には“松鶴家”の名字をいただくんですね。でも私の場合『松鶴家瞳はなんかおかしいし、もうその名前で売れているから、瞳ちゃんは“恵中瞳”のまんまでいいや』と。そして、『もう一度、なんとかブレイクしたいんだよね。でも瞳ちゃんの方が売れているから、僕が瞳ちゃんについていくから!』ともおっしゃっていました。私には荷が重すぎる言葉でした……」とはいえ、二人は強力なタッグを実現させる。前述のようにデュエット曲シングル『CH列車で行こう!』『キャンユーアンダースタンド?』をリリース。“期待のデュオ”として、各メディアに取り上げられた。「千とせ師匠はとても楽しそうでした。『紅白、目指そうね』って。でも、取材を受けた際、すごく心のこもった声で記者さんたちに“瞳を、これからよろしくお願いしますよ”とおっしゃっていて。それを、今になって思うと……」師匠の遺志を汲み、2月27日の舞台に出演する予定だという恵中さん。「亡くなる直前、病室の師匠は一番弟子の松鶴家千代八さんをそばに呼び、“27日の舞台であのデュエット曲を絶対やってくれ”とおっしゃったそうです。師匠がそんなに肩入れしてくれていたなんて……。私がこれからも歌い続けることが、師匠の弟子としての務めだと思います」恵中さんがこれからも話題を振りまくことこそが、師匠への一番の手向けだろう。【プロフィール】恵中瞳えなか・ひとみ宮城県出身。歌手、モデル。2013年にデビュー、現在の事務所である南雲堂に移籍後、2015年に『おとこはアリャリャ』でCDデビュー。ライブや動画配信番組などで活躍中。Twitterアカウント: @t75147828(取材・文/木原みぎわ)
2022年02月21日2022年2月21日、歌手であり俳優の西郷輝彦さんが亡くなったことが明らかになりました。75歳でした。所属事務所の発表によると、西郷さんは同月20日に、都内の病院で亡くなったといいます。西郷さんはこれまで、長年にわたって前立腺がんで闘病生活を送っていました。1964年に、デビュー曲『君だけを』がヒットした西郷さん。また、同年に公開された映画『十七才のこの胸に』でも俳優として出演を果たし、同名の楽曲『十七才のこの胸に』もヒット。第6回日本レコード大賞新人賞を獲得するなど、演技、歌唱力ともに高く評価をされました。その後も、長年にわたって数々のドラマや映画に出演したり、楽曲をリリースしたりと、幅広く活動をしていました。西郷さんの訃報に対し、ネットからは「素晴らしい昭和の名優でした」「西郷さんの片倉小十郎は一生忘れません」といった声が上がっています。葬儀については、世情を鑑みて、遺族の意向により、近親者のみで執り行うとのことです。西郷さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年02月21日2022年2月19日、落語家の柳家さん吉さんが、亡くなっていたことが分かりました。84歳でした。柳家さん吉さんは、「同月15日に心不全のため亡くなった」と、落語協会がウェブサイトにて、以下のように訃報を伝えています。当協会員の柳家さん吉(本名:榑井昌夫くれいまさお)が令和4年2月15日(火)午前10時に心不全の為、永眠致しました。(84歳)一般社団法人 落語協会ーより引用なお、葬儀は近親者のみで執り行われたそうです。柳家さん吉さんは、1957年に柳家小さんさんに入門。1973年に真打に昇進し、一時期はバラエティ番組『笑点』(日本テレビ系)の大喜利メンバーとしても活躍されていました。突然の訃報に、ネット上では「大好きだった」「さびしい」など、悲しみの声が相次いで寄せられています。ご冥福をお祈りします。[文・構成/grape編集部]
2022年02月19日2022年2月17日、漫談家である松鶴家千とせさんが亡くなりました。84歳でした。松鶴家さんは同年1月28日から入院しており、同年2月17日に心不全で亡くなったとのことです。所属事務所は松鶴家さんの旅立ちを告げるとともに、「みな様、大変お世話になりました。誠にありがとうございました」とつづっています。松鶴家さんは「分かるかなあ!分かんねぇだろうなぁ!」のフレーズや、「イエーイ!」といいながらピースをするポーズ、特徴的なアフロヘアのビジュアルで1970年代にブレイク。漫談家としてだけでなく、歌手や俳優としても、幅広く活躍をしていました。1970年代に一世を風靡(ふうび)した松鶴家さんの旅立ちに、ネットからは「子供の頃にマネをしていたなあ」「昭和を代表する漫談家でした」といった声が上がっています。これまでたくさんの人を笑顔にしてくれた、松鶴家さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年02月17日神田沙也加さん「2月4日は神田沙也加さんの四十九日でした。法要は1月30日に身内だけですませており、『お別れの会』もコロナ禍という現在の状況を踏まえて、行われないことが所属事務所から発表されました」(スポーツ紙記者)昨年12月18日にこの世を去った沙也加さん。母は’80年代に一世を風靡したアイドルの松田聖子、父は神田正輝と、生まれながらにして注目を集めていた彼女の死は、世間に大きな衝撃を与えた。「正輝さんはMCを務めるテレビ朝日系のバラエティー『朝だ!生です旅サラダ』に逝去後も休まず出演。気丈に振る舞っています。聖子さんはまだ気持ちの整理がつかないようで、出演予定だった紅白歌合戦辞退後も沈黙を続けています」(芸能プロ関係者)舞台関係者たちも、スターの喪失を嘆いている。「出演予定だった舞台『銀河鉄道999 THE MUSICAL』は代役を立てて調整中ですが、白紙になってしまった企画もあるそうです」(同・芸能プロ関係者)■本番では難しい役を堂々と宝塚歌劇団や劇団四季で演出・振付家として活躍する謝珠栄さんも、彼女の才能を惜しむひとりだ。「’08年に私が演出した『AKURO 悪路』というミュージカルのヒロイン役を演じてくれました。透き通った歌声と演技への情熱を感じて、出演をお願いしました」当時は女優としての活動を再開して間もない沙也加さんだったが、彼女の“ありのまま”の姿は深く印象に残っているという。「明るくて気さくで素直。演技に対していつも一生懸命という印象でしたね。舞台度胸もあって、本番では難しい役を堂々と演じてくれました」(謝さん、以下同)舞台は大成功。『AKURO 悪路』はこの年の“読売演劇大賞最優秀スタッフ賞”を受賞する。「授賞式にも仲間たちと駆けつけてくれました。またご一緒したいと、舞台にオファーをしましたが、残念ながらスケジュールが合いませんでした。その後、どんどん出演が増えて“アナ雪”など、ご活躍されていることをうれしく思っていました」突然の訃報には、いまだ実感が湧かないという。「信じ難いものがあります。悩みを抱えていても、誰にも見せられなかったのかもしれませんね」多くの人に愛された沙也加さん。喪失感が癒えるにはまだ時間がかかりそうだ。
2022年02月07日小説『苦役列車』で芥川賞を受賞した、作家の西村賢太さんが、2022年2月5日、亡くなりました。54歳でした。破滅型の私小説で知られる芥川賞作家の西村賢太(にしむら・けんた)さんが5日朝、東京都内の病院で死去した。54歳。東京都出身。産経ニュースーより引用西村さんは、芥川賞受賞決定後の記者会見で破天荒なコメントをし、注目を集めました。ユニークな一面も知られていた西村さんの早すぎる逝去。ネットからは、多くの悲しみの声が上がっています。・54歳…早すぎます。とても悲しいし、さびしいです。・才能あふれる人。著作、愛読しておりました。悲しすぎる。・すごくショック。まだまだ西村さんの作品を読みたかったです。類まれなる文才で、多くの人の心に響く作品を生み出した、西村さん。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2022年02月05日梅沢富美男兄弟でこれからも紡ぐと誓った“夢芝居”だったが、梅沢富美男の兄・武生さんが1月16日、肺炎で他界していた。「梅沢さんが関係者に送ったメールの内容が、記者の耳に入ったことで判明しました」(スポーツ紙記者)12月21日発売の週刊女性で、武生さんが昨年12月上旬に緊急入院していたことを報じたばかりだった。梅沢はツイッターで武生さんが亡くなったことに触れ、こう綴った。《ニュースになり兄も役者冥利に尽きると思います。ありがとうございます》■「最後まで舞台に立ってほしい」梅沢は父親が立ち上げた『梅沢劇団』で小さいころから日本各地をまわり、舞台に立ち続けてきた。「’83年にはリリースした『夢芝居』が大ヒット。50万枚を売り上げました。梅沢さんが大衆演劇の女形スターとして活躍する一方で、武生さんは’63年から2代目座長として一座を率いてきました」(演芸ライター)今でこそ『明治座』などの格式ある劇場で舞台の公演を行っているが、かつて大衆演劇は格下扱いされていた。それでも人気を集め、’88年に初めて明治座で公演を行ったときのこと。梅沢は過去の雑誌インタビューでこう語っている。《ちょうど中日に、「今日、兄ちゃんとゆっくりつきあわねえか」と誘われたんです》ほかの人もいるのかと思ったら、2人きりだった。《2人でボトル3本は間違いなく飲んだ(笑)。さすがに次の日はつらかったけど、今までの人生の中でいちばんいい酒を飲んだなあ》苦しいときも、うれしいときも、ずっと一緒だった。ただ、梅沢は1度だけ劇団を離れようと思ったことがある。「まだ武生さんが座長だったころ。劇団からたびたび梅沢さんの給料を下げたいと言われたのです。おかしいなと思って調べると、借金まみれで劇団の運営は火の車。梅沢さんは独立するか悩んだそうですが、劇団を守らなくてはという思いから、兄の武生さんから’12年に座長を引き継いだのです。何よりお兄さんに役者として、最後まで舞台に立ってほしい。そんな気持ちがあったようです」(同・演芸ライター)最近でもこんな2人の様子が目撃されていた。「武生さんはタクシーから降りるときに必ず気前よくチップを渡してくれていました。一方で梅沢さんは、それを渋~い顔で見ているんです。梅沢さんはチップを絶対くれない。お兄さんに比べればケチですよ」(タクシーの運転手)ハタから見れば“ケチ”に見えても、座長となった経緯を考えれば、財布のひもが固くなるのも当然。この2年はコロナ禍で公演ができなかったが、なんとか劇団を維持してきた。それもすべては兄への思いがあったという。「武生さんも何度も大病を患いながらも、ずっと舞台に立とうとしていました。舞台で死ねたら本望と思っていたのでは」(劇団関係者)所属事務所は、「梅沢は、武生の死に目に会うことができて、無事に看取れたと言っていました」兄と弟は最期のとき、何を語ったのか─。
2022年02月01日