2020年3月22日 08:00
小学校生活はお遊戯会。誰にも理解されず、浮きこぼれていた私――違和感だらけの子ども時代を振り返って【宇樹義子さん連載開始!】
とも思います。
自習の時間、自由帳の、以前にボールペンで描いた絵のあるページを広げながら本を読んでいたら、学級委員の男の子が「自習の時間なのにお絵かきして、いけないんだ」と言い出しました。いま描いたのじゃない、以前描いたやつだと言ったら、男の子は絵を指でこすって「インクが滲んだから今描いたやつだろう」と食い下がります。
出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=11038018544
「昔描いたやつもインクが滲むかもしれないし、滲むか滲まないかをいま確認する方法はないよね?」と言いましたが、どうも意味が通じないので面倒になって「あなたが私がズルしたと思いたいならそう思っておけば」みたいに言って終わらせたように記憶しています。
傲慢だったかもしれないのですが、このようにして私は小学校時代、「大人も含め、幼稚園のお遊戯のようなことをみんなでやっている」「そこにたった一人異質な者として説明もなしに投げ込まれて、逃げられない」ようなつらさを感じていました。
いわゆる、落ちこぼれよりも「浮きこぼれ」の状態だったように思います。落ちるのだろうが浮くのだろうが、こぼれるつらさは同じ。
「成績がいいからってお高くとまってる」と言われたり、「キモい、汚い」とバイ菌扱いされたり、クスクス笑いながら噂されるなど、いじめを経験した私。小学校5、6年のころにはすでに、いま思えば二次障害と思われる精神症状(人が怖い、皆が自分の悪い噂をしているように感じるなど)を感じるようになっていました。
当時は十分に言語化できないモヤモヤをたくさん抱えていて、私はいつも不機嫌でした。自分がなぜいつも不機嫌なのか、また自分が不機嫌であったこと自体、自分ではわかりませんでした。「抽象的理解力の高さと、義務教育で与えられていた語彙の小ささとのギャップに苦しんでいたのだ」と言語化できてすごく楽になったのは、高校生になって小論文対策にと評論用語を覚えてからです。「幸福の絶対性」とか「比較実験」とかいった言葉を覚えて、パァッと目の前が開けていくような気がしたものです。
本人の中での能力のギャップ
周囲の世界観と自分の世界観との間にギャップがあっただけではなく、私は自分自身の中での能力のギャップも抱えていました。
まずは、知的な面と社会面での成熟度にギャップがありました。