「死という選択肢を考えました」…元音楽プロデューサー・月光恵亮氏、どん底から画家として第二の人生へ
音楽業界から追放同然の扱いを受けたというものの、このように昔からの仲間たちが、月光氏の新たなスタートを支えている。
「今起こっているこの連鎖が、僕にとってすごく興奮する状況なんです。ヒット曲が生まれる瞬間もそういうことがあって、それは理屈じゃない。あと、僕の中にある1つの法則は、成功する前には絶対に大きなトラブルが起こるということ。普通の人はそこで諦めてしまうんですが、そのトラブルさえ自分のテコとして応用できる気持ちになって前に進む。これからまたいろんなことが起こるかもしれませんが、頑張りたいと思います」
●月光恵亮1952年、東京生まれ。富山県で育ち、大学に進学し、ロックバンド「Dr.KEI&摩天楼」「だててんりゅう」などを結成。卒業後、オフィストゥワンの傘下であるユニオン出版に入社し、阿久悠、三木たかし、井上大輔らに師事。
その後独立し、長戸大幸、織田哲郎とともに音楽制作会社・ビーイングを創業し、副社長に就任。BOOWY、LOUDNESSなどの制作に関わり、アートディレクションも行う。84年、パブリックイメージ社創立。LINDBERG、ZIGGY、田村直美など名だたるアーティストを育て上げ、一部のアーティストのアートディレクションも担当した。