そう、岩崎さんは、釜石のW杯誘致の言い出しっぺなのだ。
岩崎さんは、招致活動の先頭に立ち、イベントやフォーラムには必ず出席。一貫してこう訴えた。
「子どもたちの未来のために、釜石でW杯をやりましょう」
「W杯招致とスタジアム建設を通じて、明るい希望のある未来につなげていきましょう」
最初は誰もが半信半疑だった。ラグビーのW杯なんて――。安全が確保されていない被災地に、選手やファンを呼ぶことを危惧する声も強かった。それでも岩崎さんは訴え続けた。
「津波が怖いから、何もやらないでは、何もできません。
大地震を経験して、私たちにはどうすれば生き残れるかという知恵がある。津波は防ぐことはできない。でも、避難場所を造って、津波が来る前に、てんでんこ(バラバラ)に逃げる。それを教えていくのが、震災で生かされた私らの役目です。いま、夢を語らねば、いつ語るんですか」
’60年代、製鉄の街として隆盛を極めた釜石は、ラグビーの街でもあった。新日鐵釜石ラグビー部は、’79年から日本選手権7連覇を遂げ、8度、日本一となって「北の鉄人」と呼ばれるほどの活躍を見せた。当時、20代だった岩崎さんも、当然、熱狂した。