「つくることには喜びがあったんですが、お金のことは……。創作やショーのことばかり考えていて、月末になるとお金が足りないことに気づいて、借金をしてスタッフに給料を支払うと、僕の分はなくなってしまう。そんなことが何年も続いたんです」
また80年代にボディコンブームがやってきた。「ボディコンは男性から見た女性の魅力を際立たせる服作り。僕はそうした異性にこびる服はもうやめようと登場したわけだから、全く違う方向性の服作りに焦ったし、恐怖心さえ覚えました」と回想している。
苦悶の日々を仲間に励まされ乗り越えたが、90年代に入ると公私にわたってパートナーだったグザビエ・ドゥ・カステラさんが死去。“右腕”だったパタンナーの近藤淳子さんも脳梗塞に倒れた。賢三さんは社員500人を抱える「KENZO」の経営に忙殺され、創作との狭間で思い悩むことに。
さらに銀行の所有していた株が知らないうちに売却され、93年にルイ・ヴィトンなどを擁するLVMH社の傘下に入ることとなった。
「その辺りから区切りをつけたいという気持ちが出てきました。ファッションを少し離れたところから見てみよう、と……」
そして99年、LVMH社とのデザイナー契約を“更新しない”と決意。