くらし情報『蛭子さん“最後の展覧会”制作現場の挨拶は「毎回『初めまして』」』

2023年9月27日 11:00

蛭子さん“最後の展覧会”制作現場の挨拶は「毎回『初めまして』」

父親は遠洋漁業船の乗組員で、年の離れた姉と兄はすでに家を出ていたため、末っ子の蛭子さんは、ふだんは母親のマツ子さんと2人暮らしだった。

長崎市立商業高校を卒業後、地元の看板店に就職。その4年後の’70年、22歳のときに上京。広告代理店の看板部門で働きながら2歳年下の先妻と結婚。’73年、25歳のときに、白土三平や水木しげる、つげ義春が連載した漫画誌『ガロ』でデビュー。漫画家を目指したが、2人の子供を抱えていたため生活費を稼ぐためにチリ紙交換、ダスキンのサラリーマンを経験した。

蛭子さんが芸能活動を始めたのは’86年。蛭子さんは「素人の時代の波に乗って」とかつて語っていたが、タレントや俳優として八面六臂の活躍。
怪しくて情けない笑顔、空気を読まない行動、不謹慎な発言が人気を集めた。あとは説明するまでもないだろう。

テレビを通して蛭子さんを知る人こそ多いが、ここでは絵の才能について振り返ってみよう。

長崎市立商業高校の美術クラブで蛭子さんとともに絵を描いていた土平啞倭子さん(75)が語る。

「グラフィックデザイナーの横尾忠則に憧れていた蛭子君は、グループ展ではギラギラ光るような絵をよく描いていました。

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