「サブカル少女が、お笑い猛獣の檻に放り込まれた」清水ミチコ 挫折と転機の『夢で逢えたら』
実家では、空き店舗を改装して始めたJAZZ喫茶が軌道に乗り、3店舗ほど出店。長女であるため、いずれは1店舗を継がなくてはならないという思いから、短大の家政学部に進み、家庭科の教職課程も学んだ。
「上京して19歳のときに、ずっと好きだったタモリさんのライブに行ったんですね。お笑いと音楽を融合したステージに魅了され、ネタを考えていらっしゃる作家さんにファンレターや自分の作品を送ったんですが……、お返事はいただけませんでした(笑)」
’80年代に入ると、短大の同級生はブランド品を身につけ、ディスコに旅行に明け暮れていたが、ミチコは対照的に、深夜ラジオやパロディ雑誌に、せっせとはがきを投稿する地味な毎日。
家庭科の教員免許も取得し、短大卒業を控えるころになると、実家の両親からことあるごとに「飛驒高山に帰って、喫茶店を手伝ってほしい」と電話がかかってくる。
だが、刺激のある東京を離れたくない。デリカテッセンのアルバイトを見つけたときも「飛驒高山にはない店だから、修業のつもりで働いてみるね」と理由をつけて、実家に帰るのを延期した。
「ここの店長が恩人。
『どんなことが好きなの』『休みの日に何をしているの』って、私に興味を示してくれるんです。