【立川志らくインタビュー 後編】10回目となった語り納めの独演会で「芝浜」を
ジャズの「ノリ」を封じられたコロナ禍の今、こちらがクラシックの演じ方でやってみて、ジャズの人もきっちりできるんだなと、クラシックの人は脅威に思うはず」
先ほどの「「芝浜」はアドリブが生きる噺」という分析と、ここでの「今は、ジャズではなくクラシックできっちり作品を見せる時期」という分析は、表面上は、矛盾しているように見えなくもない。
しかし、その矛盾を、高座の上で融合し、あっけらかんと止揚してしまうことこそが、落語家の腕のみせどころだ。夫婦ふたりの人物像が、ジャズのアドリブさながらの会話術で活き活きと浮かび上がってくる。と同時に、クラシックの古典落語らしい人情噺の余韻が、後味として、きっちりと豊かに残る。
目指すところは、そういう「芝浜」とみた。
「若いころ、談志に言われました。「志らく、お前、巧い落語なんていつでもできると思っているだろう。でも、どっかで意識しておかないと、巧い落語ができなくなっちゃうぞ」と。
今はまさに、その時期なんだと思います。コロナじゃなかったら、TVのわたしだけを観ている人から「志らくさんって落語できるの?」なんて言われてカチンときて、じゃあ、笑いの多いネタをやってやろう、ワーッとやっちゃうぞ、となっていたかもしれない。