美しいさみしさの奥にあるグロテスクな本音と向き合う
そのうち、珍しく夫が家にいるときだって、いないときと全く何も変わらずさみしい、ということに気がついた。
家にいないからさみしいと思っていたのに、一緒にいたってさみしいのだ。結婚生活の終盤には、とにかくそんな粘着質なさみしさが、一度手に付いた納豆の糸みたいに、何をやっても、どこにいっても、しつこくまとわりついてきた。
そんな期間が結構長く続いたので、たかだか離婚ごときでは逃げきれないと腹をくくっていたけれど、意に反して、あのときほどのさみしさには、離婚してから一切お目にかかることがなくなったのだ。
このことを考えてみると、少なくとも私にとってのさみしさとは、本来埋まっているべき隣の席が埋まっていないこと、ぽっかりと空いていること。そのことへの、耐え難い空虚さなのだった。
離婚して、一人になることを選んだ今の私の隣には、そもそも誰かのための椅子なんてない。
だからもう、あのときのように空虚にならない、さみしくないのだ。
「さみしい」という便利な言葉の奥にあるもの
つい先日、友人がこんなことを言っていた。
「僕は“かわいい”という言葉を極力使わないようにしてる。行き場のない軽い性的な興奮を“かわいい”というと、それ以外に表現できなくなるから」