「頑張れ、フツウになれ」死を考えていた学生時代Upload By 桑山 知之2019年5月、ドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』の取材で、筆者は初めて神山さんと出会った。「学校の先生が文字読めないなんて、悟られたくない。悟られちゃいけない」「どうやって死のう、ばっかり考えてましたね。『頑張れ頑張れ、フツウになれフツウになれ』って言われ続けると、そういうふうにならざるを得ない」彼は、文字が読めない教師。にこやかな表情とは裏腹に、これまで経験してきた生きづらさが言葉の節々からにじみ出ていた。岐阜市で生まれ育った、すぐに熱を出してしまう、体の弱い男の子。自分は文字が読めないと知ったのは、小学2年の道徳の授業だった。B4見開きのプリントの文章を読み、感想を書くという課題で、一時間経って読めたのはわずか3~4行だけだった。「ぼくはみんなと違う」――。それからは、どう叱られずに一日を過ごすかが神山少年の課題となった。教科書が丸々覚えられるようにと、3歳上の姉が音読してオープンリールのテープに吹き込んでくれ、擦り切れるまで聴いて授業に臨んだこともあった。それも小学校高学年になると、文量が増えて立ち行かなくなってしまう。Upload By 桑山 知之「先生たちにも『あいつはどうしようもないやつだ』って言われて。『学校に来る価値のない人間』とか『教室に入るな』とか、そういった言葉は日常茶飯事で。先生がそういう風にみんなの前で叱って、つるし上げたりすると、クラスの雰囲気もそうなって、いじめられました。みんなにバカにされていました」(神山さん)神山さんの母親は、端的に言えば世間体を気にしていたという。学校で何かがあると自宅に電話が入り、家に帰れば「あんたなんか産まなきゃよかった」「あんたのせいで近所も歩けない」と罵られた。中学、高校も含めて学生時代は「どうやって死のうか」とずっと考えていた神山さん。紆余曲折を経て選んだ道は、陸上自衛隊。活字とは縁遠い職業だった。つらい思いは自分で最後に…決断、そして教師へUpload By 桑山 知之18歳の神山青年は、2等陸士として京都・宇治市にある駐屯地にいた。誰も自分のことを知らないところへ行って、人生を再出発させる。体力に自信がある神山さんにとって、文字を使わないこの仕事はまさに天職だった。2年ほど過ごし、自衛隊の中で成人式をやってくれることになった。「上官が『今までの20年間をしっかりと振り返って、今後どう生きていくか人生設計を立てなさい』と話をしてくれて、考える時間もくださって。そこで、自分のようにあんなにつらい思いをするのは自分で最後にしよう、そういう教育者になりたいな、自分がそういう教育を変えていけるようにしたいなと思ったんです」(神山さん)Upload By 桑山 知之すぐに上官と相談して、夜間の短大に通い始めた。朝6時に起きて夕方まで訓練をやったあと、大学に行き、帰ってくるのはいつも23~24時だった。それでも、「同じ苦しみを抱えている子たちを放っておけない」という一心で頑張れた。そして23歳の頃、教員採用試験に合格した。しかし、教え子に対しては、なかなか自分の苦手さを伝えられずにいたという。「教科書は前日に丸暗記して、読んでいるフリをしていました。技術科の教師だったので、技術科の教科書と、自分が担任するクラスの道徳の授業ですね。行頭の文字とかキーワードだけで、そのあとの文章が出るように覚えたり。丸々暗記しようと思うと大変ですけど、段落の頭でその段落が思い出せるように、ブロックで覚えるのを毎授業やってました」(神山さん)27歳で知った自分はディスレクシアUpload By 桑山 知之自己の学習障害を隠したまま、神山さんは通常学級を6年間受け持った。そんなとき、NHKのとある番組でアメリカの小学校のことが報じられていた。それがディスレクシア(識字障害)だった。「そこではディスレクシアとかいう言葉は使われていなかったですね。読み障害とかそういう感じ。でもアメリカは移民の国なので、そういう子たちのプログラムで教育は保障できるっていう。その子たちの特性はこうです、というもの全部が自分に当てはまるから、本当に驚きました」(神山さん)その後、神山先生は特別支援学級を受け持つようになる。テレビでディスレクシアを知って「自分の中でつっかえていたものが取れた」ため、自分の苦手なこともすべてオープンに話した。劣等感を抱えている子どもたちの心に寄り添うことができた。Upload By 桑山 知之特別支援学級を5年間受け持ったあと、特別支援学校で17年間にわたり勤務。そして、主幹教諭という立場で3年間、岐阜市内の小中高などを回っていろんなアドバイスや支援をおこなった。いつしか神山さんの存在は全国各地で知られるようになり、講演依頼が絶えないほどになった。現在は、岐阜市内の小学校の用務員をやりながら、子どもたちや保護者らの相談を受けている。「日本の教育って無意識に人との比較をしてしまっているんですよね。人との比較で自分を評価することを学んでしまっているんです。それよりも、過去の自分と比べる方が自然かなって。もっと言えば、『あなたはそのままでいいんだよ』ではなくて、『あなたはあなただからいいんだよ』って僕は言いたいです」(神山さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年06月23日「できるけど疲れる」ことがたくさんある筆者が吉川先生を知ったのは、2018年11月にNHK総合で放送された『発達障害って何だろうスペシャル』だった。千原ジュニアさんや南沢奈央さんらをMCに据え、スタジオには小島慶子さんのほか、筆者がテレビ取材もさせていただいた“トリプル発達障害”の漫画家・沖田×華さんも出演。そこでの吉川先生の発言に、思わず膝を打った。「発達障害のある方に関して『何かができるかできないか』っていうことだけで見ると、見誤るんですね。『できる』と『できない』の間に『できるけど疲れる』ことがたくさんある」(吉川先生番組内で)誤解を恐れずに言えば、吉川先生はちょっと異質的な存在だ。元々教員になりたかったが、学校教員の文化が自分に合わないことに高校時代に気づき、子どもの精神科医という道を選んだ。大学教員などを経て「自分は研究者向きではない」と感じたといい、現在では多くの発達障害当事者や養育者に支持されている。Upload By 桑山 知之「“正確さを犠牲にした分かりやすさ”っていうのを意識しているんです。専門の研究者って、正確さを大事にしなきゃいけない立場ですよね。正確さを犠牲にできないじゃないですか。でも僕は研究者ではないから、『誤解を招きかねないけど分かりやすい』ということがいくらか許される立場なんです。研究者になってしまうとできない表現や書き方ができるというのが、研究者ではない医者の特権かなと」(吉川先生)確かに、前述の「できるけど疲れる」ことがたくさんあるというのは、それに当てはまらないケースがあるのも事実だ。しかしながら、発達障害の苦しみを理解するうえでは非常に分かりやすい表現だといえる。福祉や法律といったあらゆる領域をまたいでいるからこその見識の深さを、自身は「ひとつの領域を突き詰めるというのがあんまりできなくて……」と謙遜する。Upload By 桑山 知之この子、発達障害かも?まずは「人手集め」から我が子にADHDや自閉症スペクトラム障害のような特性がみられた場合、多くの養育者はまず子どものことを理解しようと、発達障害の知識を蓄えることからスタートしてしまいがちだ。しかし、吉川先生によれば、まず「人手をできる限りたくさん集める」ことが入口として一番“無難”だという。「人手が足りないときに知識だけ集めたり、トレーニングだけ受けたりすると、わりとややこしいことになるんですよね。例えばこの子に何か新しいことを好きになってもらおうとすると、ちょっと演出しないと難しいよって。お母さんが歯磨きをしたあとに、すぐに僕もやる!ってなる子は歯磨きを覚えさせるのも難しくないんだけど、真似っこしたい気持ちが弱い子に対しては歯磨きって楽しいんだよっていうか、何かひと手間ふた手間かけないと歯磨きが好きにならないし、できるようにならないかもしれない。だから今、この子の子育てで何かを好きにさせるためにもできるようになるためにも、もっと言うと虫歯にさせたり怪我をさせたりしないためにも、余分に人手が要りますよねっていうところを共通認識にしていくことが入口なんですよね」(吉川先生)Upload By 桑山 知之あくまで順序としては人手、すなわちマンパワーを集めることが最優先事項。それがひと段落したあと、知識や技術を身につけていく。そのためにも、家族以外からサポートを受けることが精神的な支えになるそうだ。一般的には母親が先に気づいて父親はあとからついてくることが多いが、夫婦間だけでなく祖父母世代との間でも「足並みが揃うまでに時間がかかる」ことは多い。「早い時期に関わる支援者はつい子どもの特性とか子どもに対する関わり方をどんどん伝えたくなるんですけど、それよりも先にどうやってお父さんと足並みを揃えるのか、おじいちゃんおばあちゃんへの説明をどうしようか、っていう相談に応じていただいたほうがいいと思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之「できたら褒める」は要注意「挑戦したら褒める」にシフトをドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』を放送したのは2019年5月。発達障害は、ここ5年ほどの間に急速な認知が広がったように筆者は感じている。こうした中、人手を含めたリソースの供給などが追いついていないと吉川先生は話す。「社会の認め方もそうですけど、当事者やその身近な方の認め方も確実に変わってきているというのは、確実にそうですね。ただ、変わってきているのも、いいところも悪いところも両方あるかなって思っています。必要な方が援助にたどり着きやすくなったってことはあると思うんですが、急速に知識だけが広がってきたので、支援のためのリソースがまだ充分足りていない。文化の変化というか、そういう人たちがたくさんいるんだっていうのを含んだ“文化の成熟”っていうのも遅れているんじゃないかなと」(吉川先生)Upload By 桑山 知之吉川先生は、発達障害の有無にかかわらず子育てをする中でつい陥りがちなことがあると指摘する。それは、「できたら褒める」ということだ。「できたら褒められるっていうのを子どもが学びすぎると、大人が好きなのは完成と達成と勝利だけと思ってしまうんですよね。そうすると、どうせ達成できないから僕はやらない!ということになってしまう。発達障害のあるお子さんの中には、難しそうな課題は手を出さなくなる子が一定の割合でいるんです。どちらかというと、『挑戦したら褒める』作戦でいく方が、子どもを育てやすくなると思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之完成と達成にフォーカスするよりも、何かに取り掛かり始めたところで応援することに軸足を置いた方が育てやすいという。特に、きょうだいの中に発達障害と定型発達の子がいたり、知的障害のある子がいる場合、完成と達成を評価してしまうと他方への褒め方が見つからなくなる。それよりも、挑戦に対して「ナイストライ」「いいチャレンジだったね」と声を掛ける方が“辻褄が合いやすい”と吉川先生は話している。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年05月17日いじめで引きこもりに…「半分死んでいた」飲食関係の会社で働く父親と、元保育士の母親のもとで育った古橋さん。6歳上の姉とともに暮らしていた。中学1年の10月ごろから不登校になった。原因は、小学生時代から続いたいじめだった。「人がもうダメになって。小学校6年の終わりにいじめが始まったんです。小学校の人たちと縁が切れて、中学校に入ったら中学校で縁ができた人たちにもいじめられて……。あぁ、ちょっと無理、ってなって。自分の中で、引きこもりになるってことはすごくいけないことをしたっていう、人を殺すよりもいけないことをしたって考えていました。当時は、信号の赤を渡ったら地獄に落ちるぐらいの勢いで凹んでいたから。だからもう引きこもりになるってことは死ぬっていうか、半分死んでいるみたいな。生きてはいるけど。なんか死んではいないだけって感じで捉えていました」(古橋さん)Upload By 桑山 知之よく忘れ物をする子供だったという古橋さん。引きこもっている間に、自閉症スペクトラム障害だと診断を受けた。19歳の頃、鬱のため通院もしたが、なんとか苦しみを乗り越え、愛知県内にある通信制の高校や放送大学を卒業した。その後、就労支援のサービスを受け、エクセルやワードなどの資格を取得。2019年、晴れて貸し会議室などを運営・管理する会社にパートとして就職した。業界大手の一流企業だ。「その会社は時給社員っていう肩書きがある会社でした。社員だけどパートっていう、契約社員でも正社員でもなかった。営業の人が使う情報を入力して、資料を作成するような仕事ですね。そういったところでVBA(ビジュアルベーシック・フォー・アプリケーションズの略。Microsoft Officeに含まれるアプリケーションソフトの拡張機能のこと)を 使って、メールの下書きが自動で作れるようにしたりしていました」Upload By 桑山 知之襲い掛かった“コロナショック”就職から1年余りで週4日勤務、時給900円。手取り月収はおよそ7万円。決して裕福な生活こそできないが、それでも古橋さんは「正社員のような長時間労働は自分には難しいだろう」と、無理をせずに仕事に励んでいた。しかし、世界的なパンデミックの波が、古橋さんを襲った。「去年の春からコロナが流行って、不要不急の業務はやめるってことになって、お休みになったんです。それからずっと自宅待機になって、結局9月に退職しました。貸し会議の業界自体がお客さんを集めて運営するようなものなので……。人が集まれない状態ですから」(古橋さん)Upload By 桑山 知之「密を避ける」という時節柄、部屋に人が集まって会議をするという需要は激減した。自宅待機中、古橋さんは雇用調整助成金のおかげで給料のうち6割は支給されていたものの、「会社も運営が難しくなって人員を減らさないといけなくなり、その関係で切られた」という。現に、古橋さんと同じ立場であるパートは全員退職していた。「そりゃショックでしたよ。でも、しょうがないかなっていう思いが強かったですね。だってコロナの状況でしたし。なんでこうなったのかっていうのも、自分のせいじゃないってわかるし。じゃあ、就職活動頑張らなきゃなって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之コロナと距離「自分を受け入れてほしい」元々は正社員志望だったという古橋さんだったが、飲食関係の中小企業で正社員として働く父親が朝から仕事に出て、翌日未明の2時や3時まで自宅に戻らない姿を見て、子どもながらに「これは無理だ」と悟った。社会情勢の影響を受けるのは経済面などで「弱い立場」の人間であることが多い。旧来の“当たり前の幸せ”すらまともに享受できない現代において、新型コロナウイルスは、こうした社会と市民との距離をはっきりと顕在化させているのではないかと筆者は思う。「いま、社会に望むことはあるか」との問いに、古橋さんはこう即答した。「そりゃあ自分を受け入れてほしいってことじゃないですか。社会に出て、パートナーを得て、家族ができて、成功できればなって。社会に受け入れられるっていうのは、僕はその2つだと思います」(古橋さん)社会との距離をあぶり出した、新型コロナウイルス。引きこもりで通信教育だったため友達作りの場が不足していた古橋さんは、親以外に相談相手がいない。取材中も「僕たちには相談相手が必要だ」としきりに話していた。古橋さんに愛情を注ぎ続けていた母親は、取材時にガンで入院中だった。その後、3月18日に息を引き取ったという。Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之正しいからおもしろい行き着いた“適者生存”古橋さんは、去年11月から再び就労支援のサービスを受け始めた。幸い、以前も担当していたスタッフが在籍しており、また受け持つことになったそうだ。古橋さんがいま大切にしていること。それは「正しくないとおもしろくない」ということだ。「別に誰かに正しさを教えられたわけじゃないけど、自分の中でいつのまにか形成されたこだわりなんです。正しくないと楽しくないし、おもしろくないんです。正しくないよりは正しいことを楽しく感じますし」(古橋さん)Upload By 桑山 知之図書館に行っては歴史や社会、政治、自然科学といった専門書ばかりを読み漁る。その中で、ある言葉と出会った。いまの古橋さんの心を支えているという。「自分が最近好きな言葉が『適者生存』で。適しているから生き残るっていう意味らしいんですけど、実はそうじゃないんですよね。生物学の本に書いてあったんですけど、『生き残ってるのがすべて適者なんだ』って考え方なんです。適してないものは滅ぶんじゃなくて、すでに滅んでるんだって。だから、発達障害があるってことは環境に適していないっていうことではなくて、『生きているってことはすでに適している』っていう意味で適者なんだって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月25日音楽や映画などを中心としたエンタメ系のフリーライターとして活躍する吉田可奈さんは、仕事をしながら2人の姉弟を育てるパワフルなシングルマザー。しっかり者の姉 “みいちゃん”と知的障害を抱えた弟 “ぽんちゃん”との日々を綴ったエッセイ&マンガ『うちの子、へん?』(扶桑社刊)が今話題になっています。第1回では他の子との違いに気付いたきっかけや、障害を持つ子どもとの向き合い方について、第2回ではシングルで育てるためのさまざまな工夫や、実際に利用しているサポートなどについてお話を伺いました。そして、インタビューの締め括りとなる今回。子育てをする中で傷ついた言葉や救われた言葉、幸せに感じる瞬間について語っていただいています! 障害児を育てるママへの接し方は難しい-吉田さんとお話していると明るくさっぱり伝えてくださるのであまり悲壮感を感じないのですが、過去に言われて傷ついた言葉ってありますか? 吉田さん:エッセイにも書いたんですけど、母親に「いつ普通になるのかね」と言われた時は、すごく傷ついたというか、頭に来ましたね。「普通って何?」みたいな。あと、障害を持った子と触れ合ったことがない人たちに、遊んでいる姿を見て「そうは見えないのにね」「いつか喋れるようになるよ」と言われた時は、モヤモヤしました。 -障害のあるお子さんを持つママへの接し方って、傷つけるつもりでなくても傷つけてしまうこともあって、難しいと感じることがあります。 吉田さん:そうですよね。慰める気持ちや、相手を安心させようする優しい気持ちで言ってくれていることは分かっているんですよ。でも、実際にそういう言葉を聞くとやり切れない想いになってしまうんです。もし、身近にそういうママがいたとしたら、普通に話を聞いてあげるだけで十分だと思います。当事者にしか分からないことが多いし、変なアドバイスとかは逆撫でしてしまうことも多いと思うので。普通の会話の中で向こうが聞いてきたら答えるくらいで良いんじゃないでしょうか。 -障害の有無関係なく、人の家の子育てに口を出さないで!ってことですね。 吉田さん:まさに、簡潔に言うならそれです!障害って、うちの子みたいな言語障害にも知的障害がある場合とない場合があるし、自閉症やダウン症にもいろんな種類があって、本当に1人1人全然違うんですね。それなのに、「あの自閉症の子はこうしたからあなたもこうしてみたら?」とか、「あのダウン症の子、すごく書道が上手だからあなたも習わせてみたら?」とか言われると……。その人が良かれと思って言ってくれているのは分かるし、ありがたいとも思うんですが、どうしても素直に受け止められないんです。 -もし、障害児を育てているママ友がいて、すごく苦しんでいたとしたら、どうするのがベストなんでしょう? 吉田さん:何かママ自身がリフレッシュできることを考えてあげてみてはどうでしょうか。一緒にどこかに出かけたり、美味しいものを食べたりとか、そういうことが喜ばれるんじゃないかなと思います。あと、子どもたちを一緒に遊ばせてあげる。力の加減が分からないから強く掴んじゃったりすることもあるし、難しいんですけどね。そこはもちろん、ママが責任を持って制するようにして。全部理解して欲しいなんてワガママなことは言わないから、ある程度そういう子なんだというのを分かったうえで一緒に公園で遊んでくれたりするだけでも嬉しいものです。 障害を「逆手に取ろう」という言葉に救われた-なるほど。では、逆に救われた言葉や出来事はありますか? 吉田さん:同じマンションに住んでいた自閉症のお子さんを持つママに「うちの子に障害があるかもしれない」と伝えた時、「じゃあそれを逆手に取って遊ぼうよ」って言ってもらったことですね。知的障害者に交付される【愛の手帳】(※1)というものがあって、それを持っているとテーマパークでも列に並ばずに遊ばせながら待ち時間を過ごすことができたり、交通機関が割引になったり、旅行が格安で行けたりするんですよ。そういうのを使ってどんどん遊びに行こう!って。 ※1愛の手帳…東京都が知的障害者(児)に対する社会の理解と協力を深めるために交付している手帳。障害の程度によって、1度から4度に区分される。東京都以外では「療育手帳」が交付されている。 -すごく前向きな言葉で、励まされますね。 吉田さん:本当に、その言葉にはすごく救われました。今はちょっと遠いところに住んでいるのですが、今でも年に1回くらい会っていて、相変わらずすごく明るいし、勇気をもらえます。しかも、その自閉症の子は、知能指数(IQ)と日常生活の様子を見る障害の判定基準をクリアすることができて、最近手帳を返還したんですよ。そういうやり方もあるんだという前例を見せてくれることで、希望が持てました。私のところにも「実は誰にも言えなかったけどうちの子もそうなんです」とか、「今3歳で、障害があって絶望していたけど元気が出ました」とかDMが送られてきたりして、自分がこうやってぽんちゃんとのことを話すことで、安心してくれたりとか元気になってくれたりするのがすごく嬉しいです。 -先が見通せるって安心しますよね。 吉田さん:そうなんですよね。小学校に上がることすら怖いかもしれないけど、そこはぽんちゃんを見て、デイサービスに通わせれば日中ママは普通に働けるんだとか、そういうことを知って安心してもらえたら。極論的に言えば、健常児であってもこの先、何があるかわからないですよね。未来のことは誰にも分からないし、先のことを憂いて暗くなるよりも、今日はこれが楽しかったねって毎日楽しいことを積み重ねて10年過ごした方が絶対に良いと思うんです。 3人で入るお風呂がコミュニケーションの時間 -子育てする上でのこだわりや譲れない部分ってありますか? 吉田さん:ずっと大事にしていたのは、オン/オフをちゃんと切り替えることですね。お姉ちゃんが小学生のうちまでは、土日は仕事を入れないようにして必ず出かけていました。ちょっと遠出をしたりとか、泊まりがけで旅行に行ったりとか。2ヶ月に1回くらいは旅行に行っていたと思います。 -すごいパワフル。では、お子さんを育てている中で特に楽しい、幸せだなと感じる瞬間はどんな時ですか? 吉田さん:お姉ちゃんが今年で中学2年になるんですけど、すごく良い子に育ってくれていて。友だちみたいにAbemaの恋愛ドキュメンタリーを一緒に見たり、原宿に遊びに行ったりできて、すごく楽しいですね。ぽんちゃんも、そこに対して「やだ」とかが一切なくて、どこでも付いてきて楽しんでくれるんですよ。とにかくぽんちゃんはかわいいです(笑)。ビジュアルもかわいいし、言葉を発さないから生意気なことも言わないし、毎日かわいいね、かわいいねって言っています。あと、今でも毎日3人でお風呂に入っているんですけど、それが楽しくて。そこだけがちゃんとコミュニケーションがとれる時間というか、お風呂には携帯も持ち込まないしテレビもないから、その30分くらいはみんなでギャーギャー喋っています。成長するにつれてどんどん湯船が窮屈になってきているんですけどね(笑)。 -それは素敵ですね。最後に、2人にどんな子に育って欲しいですか? 吉田さん:今、本当に2人に対して不満がないんですよ。お姉ちゃんは中学生になって友人関係とかもいろいろ複雑になっていく年頃ですが、そういう中でも客観的に物を見て上手くサバイブしているので、それはそれで良いなと思っていて、ぽんちゃんもすごく人懐こいので、どこでも上手くやっていけるタイプだと思うんです。2人とも、そのまま楽しく毎日を過ごしていってくれたら良いなと思います。 3回にわたりお届けしてきた吉田可奈さんのインタビュー。知的障害を持つ子どもをシングルで育ててきた経緯や工夫、考え方などについて語っていただいきましたが、終始明るく前向きで、聞いているこちらが幸せな気分になり、元気をもらえました。きっと、この10年の間には大変な思いや出来事もあって、これから壁にぶつかることもあるかもしれませんが、しっかり者のお姉ちゃんと可愛いぽんちゃん、そしてパワフルなママの3人であれば、どんなことも負ける気がしませんね。同じ境遇のママや子育てに悩んでいるママも、吉田さん一家のポジティブな空気を感じて元気になっていただけたら幸いです! PROFILE:吉田可奈さんエンタメ系のフリーライターとして活動しているシングルマザー。13歳、10歳の子どもを子育て中。発達障害・知的障害の子どもに関する著書を出版している。
2021年04月18日音楽や映画などを中心としたエンタメ系のフリーライターとして活躍する吉田可奈さんは、仕事をしながら2人の姉弟を育てるパワフルなシングルマザー。しっかり者の姉 “みいちゃん”と知的障害を抱えた弟 “ぽんちゃん”との日々を綴ったエッセイ&マンガ『うちの子、へん?』(扶桑社刊)が今話題になっています。前回は、他の子との違いに気付いたきっかけや、障害を持つ子どもとの向き合い方についてお話を伺いました。 今回の記事では、シングルで育てるためのさまざまな工夫や、実際に利用しているサポートなどについて語っていただいています! じぃじとばぁばにお金を払ってサポートを依頼-シングルマザーで2人のお子さんを育てていて、さらに下の子に障害がある状態って大変だと思うのですが、実際に苦労したことなどありますか? 吉田さん:うちは本当に、運が良かったというか。シングルになると大体は経済面やサポートの面で苦労すると思うのですが、私の場合、1冊目に出した本『シングルマザー、家を買う』(扶桑社刊)にも書いたように、実家の目の前に良い物件を見つけて、両親のサポートを受けることができたんです。 -それが今住んでいらっしゃる家ですか? 吉田さん:はい。私が死んでも子どもたちが雨風をしのげる場所が欲しくて、離婚届を出したその足で不動産屋に行ったんです。そうしたら、運良くこの家に出会えて、30年ローンで購入しました。団地なんですけど、80平米もあって実家の目の前。その頃は年収が200万円くらいしかなかったのでローンを組むのは勇気が要ったのですが、当時の収入でも無理のない月額4万円の返済で契約したので、その後も経済的にかなり助かっています。 -ご両親のそばだとサポートしてもらいやすくて良いですね。 吉田さん:本当に、じぃじとばぁばには助けられていますね。私の仕事はライブレポートとかもあって週1〜2回は夜遅くなるので、そういう時はじぃじが家に来て泊まってくれたりとか、上手くサポートを受けて仕事ができています。コロナで緊急事態宣言が出てからは夜の仕事がほとんど無くなったので、だいぶラクになりましたけど。あと、うちの場合は完全に頼りきるのではなく、金銭が発生しているんですよ。年始に1年分としてある程度の金額を振り込んでいるんです。 -金銭が発生しているのは面白いですね。親しき仲にも礼儀あり、ということでしょうか。 吉田さん: どうしても食費など、子供を預けるのであれば発生する金額があります。それを振り込むことで、両親の負担が金銭面だけでも減るのであればと思い、年に1度、まとめて振り込むようになりました。 シングルでいることで逆にストレスフリーでいられる -じぃじとばぁばのサポートがあるとはいえ、やはり働きながら子育てするのは決してラクではないのでは? 吉田さん:今までシングルの状態でしか子育てしていないので、他とくらべて大変なのかどうかはよく分からないです。よく友だちかから旦那さんへの不満で「何もしてくれない」とか、「こういう扱いを受けている」とか聞くじゃないですか。うちの場合はそこに関しての悩みがひとつもないから、むしろすごくラクなんですよね(笑)。1人だったら自分でやるしかないし、期待する相手もいないじゃないですか。家事効率も完璧なんですよ。何時何分にご飯が炊けて、何時何分に風呂に入れて、何時何分に寝られて、何時何分から仕事ができて……という、完璧なタイムスケジュールで進められるんです。子どもたちも、上の子は中学生なので自由にやっているし、ぽんちゃんは「こうするよ」って言えば全部「はーい!」って素直にやってくれるし。やっぱり、同じくらいの年齢で同じくらいの思考を持った人が近くにいると、すごく面倒くさいんだろうなと思いますね(笑)。 -人にペースを乱されることがないっていうのは確かにストレスフリーですね。 吉田さん:そうそう。全然ラクです。 障害児手当と放課後デイケアサービスに助けられる毎日 -ほかにサポートなどを受けたりしていますか? 吉田さん:シングルマザーに【母子手当】(※1)が出るのはご存知の方も多いと思うのですが、あれって所得制限があって、たしか230万円を超えると貰えないんですよ。(母1人子ども1人の母子世帯で、一部支給額が支給される場合)普通にフルタイムで働いたらそんなの余裕で超えちゃうじゃないですか。私も離婚後1~2年くらいしかもらっていませんでしたし。ただ、私が受給してもらっている障害児手当【特別児童扶養手当】(※2)には助けられています。医師に診断書をいただき、審査に通れば受給できるのですが、結構知らない人が多いんです。障害の状況に応じて1級だと月5万円くらいと結構手厚いので、知的障害があるならすぐにでも調べて利用した方が良いと思います。 ※1母子手当(児童扶養手当)…離婚による母子世帯など、父又は母と生計を同じくしていない児童が育成される家庭の生活の安定と自立の促進のために支給される手当。※2特別児童扶養手当…精神又は身体に障害を有する児童を家庭で監護、養育している父母等に支給される手当。 -なるほど、そういうものを駆使すればシンママでもガッツリ働きながら育てられると。 吉田さん:そうですね。あとは、小学校に入ったら障害児向けの放課後デイサービスがあるので、それもおすすめです。うちは曜日別で2カ所に通わせているんですけど、そこが本当に手厚くて、小学校まで迎えに行ってくれて、18時過ぎになったら自宅まで送ってくれるんですよ。さらに土曜日でもイベントをやってくれたりするので、すごく助かっています。 -デイサービスを2カ所利用しているのはどうしてですか? 吉田さん:良さげなところを探したんですけど、保育園と一緒で空きがないと入れないんですよね。それに、入りたいところと入れるところが違っていたりもして。結局2カ所に通うことになってしまったのですが、今となってはそれが逆に良かったなと。 -空きがなかったからなんですね。でもなぜ、結果的に良かったと? 吉田さん:親だけが見ていると子どもの変化って分かりづらいけど、より多くの大人がぽんちゃんの存在を知って見てくれていることで、昨日の状態と今日の状態が違うことに気付けたりするんです。例えば、うちの子は金曜日だけ違うデイサービスに通わせているのですが、そこでは気づけなかったことに別の曜日で気付いたり、またはその逆があったりとか。私はそのデイサービスのことをめちゃくちゃ信頼しているんですけど、知的障害があって喋れないので、何があったとかも言えないじゃないですか。虐待などのニュースも日々ある中で、リスクを分散するというのはすごく大事だなと思います。 -病気の発見とかにもつながりそうですね。 吉田さん:うちの子は隠すことができないので、分かりやすいと言えば分かりやすいんですけどね。中には優しくて気を遣っちゃう子もいて、そうすると、嫌な目に遭っていても一切表情に出なかったりして、そういうところは気を付けてあげないといけないなと思います。あと、デイサービスに通わせてから、私は全然知らない人がぽんちゃんのことを知っていたりするんですよ(笑)。他の施設に通っている子のママに駅で声をかけられたりとか、郵便局に行ったら職員さんが「あ、ぽんちゃんだ」って声をかけてくれたりとか。結構いろんな場所に散歩に連れて行ってくれているみたいで、見守ってくれている大人が増えて、本当に助かっています。職員さんのお給料上げて欲しいくらい(笑)。 -なかなか昼間に出かけられないご家庭だと特に有難いですね。 吉田さん:本当に。1人で不安や大変さを抱え込む必要はないし、そういうサービスや支援に頼ることはすごく大事だと思いますよ。 働きながらシングルで障害のある子どもを育てるためのさまざまな工夫や、実際に助けられているという行政支援、民間サービスなどについて、メリット・デメリットも含め詳しく教えていただいた今回。次の記事では、子育てをする中で傷ついた言葉や救われた言葉、幸せに感じる瞬間について語ってもらいました。次回もお楽しみに! <第3回につづく>PROFILE:吉田可奈さんエンタメ系のフリーライターとして活動しているシングルマザー。13歳、10歳の子どもを子育て中。発達障害・知的障害の子どもに関する著書を出版している。
2021年04月17日3人の息子さんを育てる母親、TOPPU(@toppu_ayu)さん。発達障害を抱える長男との、『9年間』の出来事をTwitterにつづっています。投稿には、発達障害の当事者や関係者から反響が相次ぎました。母親がつづった長男との9年間ラストに胸が熱くなる「お子さんは、障がいを持っています」小学校の教育委員会から突然いわれた、そんなひと言に、母親は戸惑いを隠せなかったといいます。わらにもすがる思いでたどり着いた療育施設のスタッフからは、「もっと子供をよく見て。将来、犯罪者になるよ」といわれたこともあったそうです。そして、長男は小学3年生から『特別支援学級』へ行くことになります。※写真はイメージ小学校生活は、決して楽なものではありませんでした。友達と上手く関われず、人前に出ることが苦手だった長男は、行事のたびに「やらない。できない」といって泣いてばかり。長男だけでなく、次男や三男の世話もしながら家事や仕事に追われるうちに、母親の心は限界を迎えようとしていました。※写真はイメージ少しでも長男を理解するため、障がいについて学んでいったという、母親。そんな日々の中、唯一長男と一緒に楽しめたのは、走ることでした。中でも長男は『長距離走』が得意で、母親のこぐ自転車の横で走る姿は、とても生き生きとしていたそうです。そんなある日、長男はこんなことをいいます。「アイスホッケー、やってみたい」※写真はイメージ「チームプレーは難しいのでは」という不安を抱きつつも、アイスホッケーをやらせてみた母親。すると、長男はほかの子との交流こそないものの、黙々と競技に取り組み、チームの卒団までやり切ったのです。そして、小学校の卒業が間近となった日、息子さんは母親にこう告げます。「俺は、もう大丈夫」「俺は、もう大丈夫だから」もしかしたら長男は、「母親に心配をかけている」と感じていたのかもしれません。少しずつ成長する長男。中学校へ入ると、母親と相談した上で部活動は『陸上』を選びました。すると、小学生の頃のアイスホッケーや長距離走の経験が強みとなり、めきめきと頭角を現していきます。そして最後は、アンカーに選ばれるほどの活躍を見せたのでした。※写真はイメージ「進路は自分で決めて、陸上でさらに上を目指したい」「やらない。できない」といって泣いてばかりいた、長男の姿は、もうここにはありません。長男は、自分でやりたいことを見つけ、志望の高校へ見事合格を果たしたのです。長男のやりたいことを全力で応援し続けた、母親。例え障がいがあっても、息子さんは自分で大きな一歩を踏み出すまでに成長していたのでした。小学校の入学の知能検査で引っかかり、なんの知識もない私に「お子さんは障害を持ってます」と言い切った教育委員会の人が始まりで、「なんでそんな事いきなり?!」となって普通級で入学。初めての参観日で全然ついていけてない長男を見て、発達障害を学んでる人に話を聞きまくった9年前。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 親子二人三脚で過ごした9年間の話には、多くの人が心を打たれ、このような声が上がっています。・「俺はもう大丈夫」という言葉に涙。息子さんも投稿者さんも、たくさんの苦労をしたのでしょうね。本当に尊敬します。・うちの子も、大変なことが多かったけれど周りを気遣える、優しい子に育ちました。読んでいて自分と重ねてしまい、涙が止まりません。・子育てをしていると、不安に押しつぶされそうになる時がありますが、我が子を信じて「やりたいことを伸ばしてあげたい」と思います。最後に投稿者さんは、「私たちだけの力ではなく、周りの人にたくさん助けてもらいました。相談に乗ってくれた周囲の人たちに心から感謝しています」と話しています。子育てをしていると、心がちぎれそうなほどつらい出来事や、先の見えない不安もあるでしょう。それでも、最後まで我が子を信じて見守り続け、子供が自分の足で歩いていけるようにすることが大切なのかもしれません。投稿全文はこちら小学校の入学の知能検査で引っかかり、なんの知識もない私に「お子さんは障害を持ってます」と言い切った教育委員会の人が始まりで、「なんでそんな事いきなり?!」となって普通級で入学。初めての参観日で全然ついていけてない長男を見て、発達障害を学んでる人に話を聞きまくった9年前。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 たどり着いた療育者に「もっと子供をよく見て。将来、犯罪者になるよ」と言われて泣きながら担任に相談しに行った。コーディネーターの方も間に入り、発達検査を受けて、あれよあれよという間に診断もついた。病院と繋がり、色々な手続きを踏まえて3年生から特別支援学級在籍になった。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 その間に三男は産まれ、次男も年子だから入学し、登校渋りがあって母子登校。仕事もしてたし、本当にボロボロだった。家の壁にはやる事を書いた紙を貼り宿題を見ながら家事もやり、帰宅した子供達と公園に行く日々。当然、友達とも上手く関われず行事の度に「やらないできない」で泣いてばかり。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 人前が苦手な長男は運動会なんて出られたもんじゃなく、何度も担任と掛け合ったけど理解してもらえず、無理矢理参加した形になり、運動会の途中で脱走して探した事もある。発達検査は母子分離ができなく同室なのにできなくて、日にちや場所を変えて行ったりもしてきた。何をやるにも泣いてばかり→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 学校にも謝ってばっかり。公園では楽しそうに友達同士で遊ぶ子の側で、1人でボール投げたり自転車乗ったり。「ママついてきて」がいつまで続くのかな‥って思いながら。行事も苦痛、レクも苦痛。他の保護者と話すのさえ苦痛だった。息子をもっと知りたくて、私はとにかく障害の情報を学びまくった— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 唯一、長男とやってたのは走る事だった。彼は長い距離を走らせたら生き生きしていたから、三男を後ろに乗せて自転車を漕ぎ、次男も自転車で長男は走っていた。その頃から少しずつ、彼は変わっていき、放課後デイサービスに通ったりして体を動かして遊ぶ事が増えた→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 唯一、長男とやってたのは走る事だった。彼は長い距離を走らせたら生き生きしていたから、三男を後ろに乗せて自転車を漕ぎ、次男も自転車で長男は走っていた。その頃から少しずつ、彼は変わっていき、放課後デイサービスに通ったりして体を動かして遊ぶ事が増えた→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 そんなにやりたいなら‥と思い、ダメなら辞めたらいいぐらいの気持ちでやらせたら卒団までやり切った。ただ、他の子との交流はあまりせず黙々と言われた事だけやってた感じで、それもまた親として不安に思う事があったけど。小学校の卒業間際、彼は「俺はもう大丈夫だから」と言ってくれた。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 何が大丈夫なのかはわからないけど1つ大人になった様な気がした。中学入学後は、チームプレーの壁について話し合い、納得の上で陸上を選んだ。小学生の頃から積み上げてきた長距離がとても強みになり、記録を出し、駅伝にも選ばれて出場した。最後はアンカーもやらせてもらった。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 中学校生活では全く勉強には力を入れず‥笑、親もやりたい事しか応援しなかった。そうしたら、進路は自分で決めて陸上で更に上を目指したいと目標を持った。有言実行、行きたい学校に合格し今日、卒業を迎えた。長い長い9年間。すごく成長できた9年間。自分で選び、自分で決める。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 この先、挫折の壁は絶対やってくるけど自分で決めたから乗り越えられるだろう。頑張れ。卒業式を終えて、さっき友達と遊びに出かけました。あの泣き虫君が、楽しそうに。親の役目はお小遣いを渡す事のみです。笑笑何が言いたいかと言うと‥先の事は誰にも分からない。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 「今」発達障害という言葉で、立ち止まってしまったり、悩み悲観的になっている方もたくさんいると思う。私もそうだったし、当時の苦しみは忘れられない。そして保護者や周りの方は物凄い努力と大変さを感じて生きていると思う。それはこの先も続くと思う。我が家も、ずっと。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 でも、環境を整えて出来る事が増えたら成長できるんだなって、今、思えました。報われない努力はない。「地域の小学校は無理だよ」と途中で言われた長男。色んな事があるけど本人の可能性を大切にしたいなと思いました。そして、お疲れ様、わたしよく頑張った!頑張った!笑— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 たくさんの方から励ましや共感の声を頂きありがとうございます✨本当は1人ひとりにお礼を伝えたい所ですが、ここでまとめてのお礼ですみません♀️私目線で書いた事、息子からしたら「美談でまとめるな!」と怒られそうです‥笑きっと彼は私が感じるよりたくさん辛い思いや悔しい思いをしてきたと→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 16, 2021 思います。親子なので醜い言い争いもしたし、理不尽な事も言ってしまってたと思います。ですが、みなさんから息子を褒めてもらえた事、嬉しいです4月から親元を離れますが、自信を持って送り出せそうです✨私も含め、今後も共に頑張りましょう‼︎本当にありがとうございました✨— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 16, 2021 [文・構成/grape編集部]
2021年03月17日社会の常識を疑う…兄の自由帳に書かれた“謎の言葉”筆者がヘラルボニーという存在を初めて知ったのは、とある意見広告だった。2019年12月当時の背景としては、内閣府が「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した問題について、安倍晋三首相(当時)は、名簿をシュレッダーで廃棄した人物は「障害者雇用の職員で、短時間勤務だった」と答弁したのだった。そうした中、東京・霞が関の弁護士会館の前に掲示されたのがこの意見広告だ。「この国のいちばんの障害は、『障害者』という言葉だ。」Upload By 桑山 知之29歳、岩手県出身の一卵性双生児。4歳上に、重度自閉症と重度知的障害のある兄・翔太さん(33)を持つ。崇弥さんと文登さんは、保育園から小学校、中学校、高校までをともに岩手県で過ごし、その後は別々の道を歩んでいた。Upload By 桑山 知之文登さんは東北学院大学(宮城・仙台市)に進学後、大手ゼネコンに就職。一方、崇弥さんは東北芸術工科大学(山形市)の企画構想学科へと進学した。そこで放送作家を軸にマルチに活動する小山薫堂さんのゼミに所属。卒業展示では、社会の“常識”を疑う「常識展」を企画した。インドと日本の水を比べるものや、駅に花を植えることに心からの喜びを感じているホームレスなど、常識を問うさまざまな作品を並べた。その主軸こそが、自らの兄だった。「常識展っていうタイトルやアイデアの出発点も、兄貴がかわいそうではないという伝え方をしたいっていうところから入っているので。障害=かわいそう、とか、障害=欠落、というものをそうではないという世界観を提示したいって思って。だから兄貴を題材にすると決めて最初からスタートしていました。昔からそういうのを提示したい思いはありましたね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之現在の屋号「ヘラルボニー」。一度耳にしたら忘れない“謎の言葉”に出合ったのは、この卒業展示の制作のため実家を訪れたときだった。「兄貴の部屋の押し入れをバーッて探していたんですよ、いろんなものを。母親もよく残していたなと思うんですけど、何十冊も自由帳とか絵日記とかあって。けっこう絵日記も世界観がおもしろいものが多くて、これなんかフォントおもしろいですよね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之「障害者だって同じ人間なんだ」中学時代に母とすれ違いも2人が幼いころから、自閉症の兄とともに福祉団体に遊びに行くのが毎週末の決まり事だった。そこでは、自閉症に限らずダウン症や精神障害などさまざまな人が集っていた。2人にとっては、そこで“障害”というものはあまり関係なく接しているのが当たり前だった。ただ、小学4年のころに覚えた違和感を、文登さんは作文に綴っていた。「団体の人と土日一緒に出掛けていたときに、目線とか……同い年ぐらいの人が指を差して、僕らの兄の集団を笑っていたんです。それに対して腹が立って。小4ながらに自分の中で思ってた感情っていうものがけっこう多くあったんだろうなって。僕ら双子の中でのフツウの感覚と、社会側のフツウの感覚のズレみたいなものとか、単純に『兄をバカにすんなよ』っていう思いもそこに乗っかっているのかなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之2人はやがて中学校に進学し、卓球部に所属した。兄は県内の特別支援学校へと進学。しかしここで、関係性は一度悪化してしまったという。「僕らの中学校は自閉症スペクトラムのことを『スぺ』って言ったりする子がいて、『お前、スぺの教室行けよ』みたいな。自閉症=欠落、スぺ=欠落みたいな風な使い方をするような中学校だったんです。試合の応援にも母親が兄貴をよく連れてきていたんですけど、僕もすごい兄貴が応援に来ることにアレルギーが起きるようになったんですね。それで母親に『兄貴連れてこないでよ』ってすごい言っていたんですけど、母親はしきりに『隠すことじゃないよ』って逆上するわけですよ」(崇弥さん)「自分たちの心の弱さから、小4のころはふざけんなよって言えても、中学ぐらいになって言えなくなってしまう自分もけっこういて。『スぺ』っていうものが蔓延して、スぺのきょうだいだって思われるのがすごく嫌になってしまった時期があって」(文登さん)Upload By 桑山 知之障害者の兄がいることは決して恥ずべきことではない。そんな思いから、部活を引退するまで母親は兄を連れて試合に応援へ駆けつけ続けたのではないかと2人は推測する。しかし、地元から200キロ離れた高校へ進学すると、自然にこの“すれ違い”はなくなった。「周りから言われることを避けるために、兄貴を迫害することによって自分を守っていた」と崇弥さんは振り返る。「中学時代も、兄貴のことを嫌いになったりとか、兄貴のことを大切に思ってない、ではないんですよね。兄貴のことはずーっと大切で、好きな状態はずっと今も思っていて。ただ、中学のころは防衛本能が働いていたっていうか……。高校に上がると、その当時の友達とかもいなくなったので、環境が変わったので普通に兄のことも言えるようになったんですよ。なので、自分で過ごしている環境ってすごく大事なんだろうなってホント感じますね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之子育てに正解はないという。「もしかすると正解は『ずっと連れて来るもの』って書かれるかもしれないけど…」としながら、きょうだいにはきょうだいの生活があり、親としてはその立場を考えるのもアリではないかと崇弥さんは語った。文登さんはそれを「逆張りだ」と笑いながら、親子で話し合う場の必要性を思案していた。前身ブランドからヘラルボニーができるまで崇弥さんは、小山薫堂さんが代表を務めるオレンジ・アンド・パートナーズという広告会社に4年半勤務した。かつて薫堂さんが住んでいた東京・赤坂のアパートも紹介してもらい、住んでいたという。社会人2年目の夏、岩手へ帰郷した際、衝撃を受けた。「岩手県にある『るんびにい美術館』(岩手・花巻市)っていう、それこそ知的障害のある作家が描いた作品が展示されている、社会福祉法人が運営している美術館がありまして。そこに行ったときにものすごい衝撃を受けて、これはおもしろい!っていう風に思ったんです。一発目に文登に電話をかけて、『なんかやろう!』って。何かを立ち上げようと」(崇弥さん)あの衝撃からちょうど1年後、2人はヘラルボニーの前身となるブランド『MUKU』を立ち上げた。ラッパーの晋平太さんを介して、『見えない障害と生きる。』にも出演したGOMESSさんに依頼し、楽曲も誕生した。見た人を惹きつけるプロダクトはすぐに話題となった。しかし一方で、崇弥さんはもどかしさを感じていたという。「当時は副業だったので、もっと全然いけるのに……っていつも思っていたんですよ。もっとコミットしたら絶対にいけるのに、でもこんなにリソースを割けないから悔しいなっていつも思っていて」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之そこから2年後の2018年7月、謎の言葉「ヘラルボニー」を掲げた会社を設立した。翌年には経済誌『Forbes』が選ぶ「世界を変える30才未満の30人」に双子起業家として選ばれたほか、先述の意見広告でも一大ムーブメントを巻き起こした。建設現場の仮囲いを期間限定のミュージアムと捉えたプロジェクトも話題を呼んだ。そして何より、障害のある作家がつくるアートを生かした製品は、飛ぶ鳥を落とす勢いでファンを獲得し続けている。その大きな要因として、「着想の出発点」が違うからだと筆者は思う。「時代に後押しされているというのはものすごく感じます。もともとSDGsやりたいとかそういう思いで始めたわけでは全然ないけれども、社会側がSDGsっていう文脈を持ってきてくれているし、ダイバーシティやりたいって思ってダイバーシティって言ったこともないけれども、社会側がダイバーシティ&インクルージョンっていう文脈をウチに紐づけてくれるし。社会側が色んな文脈をウチの会社にありがたいことに紐づけてくれたっていうところがすごくある」(崇弥さん)「10年前やっていたら全然違う結果になっているだろうけれども、今っていう時代にやれているからこそっていうのもあるだろうなと。僕ら双子揃って運が良くて、いろんな方に恵まれているというか、自分たち双子としては大したことないんですけど、関わってくれている皆さんが本当に素晴らしい人が多いんです」(文登さん)Upload By 桑山 知之異彩放つ活躍数字で語れる会社に人気セレクトショップ『TOMORROWLAND』での製品販売や、吉本興業とのコラボブランド『DARE?』など、ヘラルボニーの躍進は止まらない。今年度の売り上げは1億円を超えるという。もちろん、アーティストへの還元も忘れない。「正直ホント数字面ではまだまだなんで。数字で語れる会社になれたらいいなってすごい思いますね。あそこは数字も素晴らしいよね、障害のある作家にもめっちゃ還元するよね、っていう会社になりたい」(崇弥さん)「今後の目標設定とかもすべて透明化させたいなと来期から思っていて。障害のある作家さんにどれぐらいバックしていて、これまでどれだけバックしてきたか、みたいなところとかも全部見える化して、それに対する社会的なインパクトとかもつくっていきたいなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之兄・翔太さんは現在、岩手県奥州市にある就労継続支援施設(B型)「わかくさ」で、コーヒーのパック詰めや空き缶つぶしをしている。週に3回はグループホーム、残りは自宅で暮らしているという。きっと弟2人の“異彩を放つ”活躍を、誇らしく感じているだろう。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月21日フツウの学生時代から一変就職先から告げられた「辞めてほしい」名古屋市で生まれた石橋さんは、義務教育を経て高校に進学した。成績がすこぶる優秀だったというわけではないが、勉学でつまずいたり、校内で問題を起こしてしまうようなタイプではなかったという。「学生時代を振り返ったんですけど、特になくて。例えば先生に呼び出されるようなタイプでもないですし、赤点を取っていたタイプでもなかったんです。何人かの友達に『学生時代、俺ってどうだった?』って聞いてみたんですけど、別に普通だって」(石橋さん)大学受験にも合格。「困っている人の役に立てれば」と、医療・福祉系の学部を選んだ。より広い視野で社会福祉を学ぼうと、セミナーに参加するため米・ハワイの大学まで足を運ぶなど、向学心はむしろ人一倍強かった。そんな石橋さんが異変に気付いたのは、愛知県内の病院に就職してからだった。「普通の人と比べると物覚えが遅いとか、向こうから指摘をされて。これだけミスもあるし、病院としては正直辞めてほしいっていう話がありました」(石橋さん)Upload By 桑山 知之「グレーゾーンかもしれない」就職後に自閉スペクトラム症の診断石橋さんの就職先は、病院にある「医療相談室」だった。ソーシャルワーカーとして、入院患者や家族の希望を聞き取るほか、家族間や金銭的な悩みなどにも応えるといった、あらゆる問題を調整する業務にあたっていた。複数の入院患者のことを同時並行で進めなければならず、またそれが次から次へと続くわけだが、石橋さんが受け持つ患者の数は先輩と比べて少なかったという。「先輩たちは10人とか15人を同時に担当していたんですが、僕は正直なところ5人でも回せていなかったんです。5人分の困りごと、例えばこの人はこれが困っている、家族さんの背景はこうで、この家族さんにはここの支援機関だとか。人によって別のところと話さなきゃいけないし、この人は市役所のこの部署と話さなきゃいけないしとか、同時にやっていくのが困難だったっていうのは確かにあります」(石橋さん)Upload By 桑山 知之そして就職から半年以上が経ったある日、石橋さんはパニック発作を起こした。「当時、僕がパニック発作って分からなくて、病院に行っても原因が分からなかったんです。それで、精神科に行ってみたら、それはパニック発作ですねって言われて。もしかしたら発達障害があるかもしれない、“グレーゾーン”かもしれないって」(石橋さん)「次に何をしなきゃいけないのか、複数が同時に来ると分かんなくなってしまう」という、自閉スペクトラム症の特性のひとつとされる「同時処理困難」があった石橋さん。困っている人の役に立ちたいと夢見た医療の道だったが、促されるような形で退職したのだった。Upload By 桑山 知之職場からの「キミがいなくなっても困らない」――ミスをまとめた書類も発達障害はグラデーション状に広がっており、白か黒かといったはっきりとした判別が難しい。むしろ中間部分である「グレーゾーン」の方が多いとも言われている。自身も当事者であるライター・姫野桂さんの著書『発達障害グレーゾーン』(扶桑社)などにもあるように、発達障害の傾向はあっても、診断までは出ないというケースは全国的にも多く見られている。今回インタビューに応じてくれた石橋さんは、精神科にかかった後、自閉スペクトラム症の診断こそ出たものの、日常生活では特に困難さがあるわけではなかった。自分のことを周囲にどのように理解してもらうかを悩んだ末、勤務先の病院にも、障害のことを思い切って打ち明けた。すると、衝撃的な言葉が返ってきた。「(勤務先の病院に)言われたのは『キミがいなくなっても病院は次の人が入ってくるんだから、病院としては困らない』と。日本全国で大学卒業する人が誰もいないんだったら別だけど、そんなことはない。毎年入ってくるんだから、キミがいなくなっても病院としては困らないって。使えないから切ればいいっていうのは理解できるんですけど…」(石橋さん)石橋さんを辞めさせるためなのか、勤務先では石橋さんの仕事上のミスや当時の状況を事細かに同僚が書き起こし、ファイルにまとめていた。「何度も同じミスがあり、すべてに他者の確認作業と修正が必要」「他の作業をしていると、やることが抜ける」「相手の置かれている状況が想定できない」――。石橋さんは、退職を選ばざるを得なかった。Upload By 桑山 知之誰も取りこぼしたくない実体験を通して知った弱者の気持ち現在、石橋さんは再び職に就くためにLITALICOワークスで就労移行支援を受けようとしている。そこには、昔からブレずに抱いている思いがある。「誰も取りこぼしたくないっていうのはありますね。社会的に不利に追い込まれてる人とか、そういう人が不利益を受けるんじゃなくて。ひとり親、障害者、高齢者、親がいないお子さん……。そういう人たちが不利な状況になりやすい社会にはしたくないなって思うので、そういう人たちも幸せを感じられるような世の中にしていきたいなっていうのは漠然とありますね」(石橋さん)かつての勤務先で自身の発達障害を打ち明けても相手にされず、辞めるよう促された過去。石橋さんの心の中で、より強い思いが湧き上がった。「そういったことを言われた経験を踏まえて思いましたね。弾き出されるときって、こんなに露骨に弾き出されるんだなって。実体験としてすごく思いました。だからこそ社会の中で誰ひとり取りこぼしたくないし、自分の力が役に立てる場所でやっていきたいです」(石橋さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年01月17日切り替えが苦手で集団行動が遅れがちUpload By スガカズ長男はWISC-IVの結果で処理速度が低いことがわかっています。また、注意散漫、過集中といった特性もあり、学校で次の行動に移るときに時間がかかります。なかなか次の行動に移れないとき(特に教室を移動する授業)は、クラスメイトや先生が声をかけてくれることがあるのだそうです。学校で見かけた長男とクラスメイトのトラブルUpload By スガカズ1年前のある日、私は当時小3だった次男の忘れ物を届けに学校へ行きました。すると廊下で小6の長男がクラスメイト2人となにやら揉めていました。クラスメイトに何か言われており手をひっぱられています。長男は何も言わず泣きそうになりながら拒んでいました。体操服に着替えていること、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴っていたことから、「長男の行動が遅れているからクラスメイトが呼びに来たんだな」と理解しました。長男は次の行動に移るときに無理やり促されるのを嫌います。私はクラスメイトとのやりとりを見て「長男にとって大事な経験だ。今私が間に入るよりも、後で話を聞いてアドバイスした方が冷静に話し合える」と思い、後ろ姿を見つめていました。「病気(障害)だから仕方ない」長男の発言に腹を立て…Upload By スガカズ放課後、長男が帰ってきたので私は廊下でのやりとりについて聞きました。概ね私の予想通りで、体育館に行く途中で考えごとをしていたそうで動きが止まっていたそうです。長男がなかなか動こうとしないので、クラスメイトが「早く来て!」「遅い!」と強い口調で促していたそうです。「それは大変だったね。注意されていたとき、あなたはどんな気持ちになったの?」と聞くと、「オレは、できることとできないことの差がハッキリしている。だけどクラスの女子が無理やりオレをひっぱって連れて行こうとしたんだ」「オレ、病気だから行動がゆっくりでも仕方ないのに!」と怒り口調で答えました。私は長男が強めに促されてイヤだった気持ちは理解しますが、「仕方ない」という言葉に腹が立ち、思わず長男を叱ってしまいました。「障害だからいいでしょ」と許してもらおうとしたり、「仕方ない」からといって諦めたりするのは間違っていると思います。大事なのは、「障害に対して自分がどう向き合えばいいか」「言ってくれた相手とトラブルにならないためにどうしたらいいか」を考えて行動することだと言いました。このとき長男は「言われたのは自分の方なのに」と納得した様子ではありませんでした。どうすれば分かってもらえるのか?と考えたときに、長男に促す側の気持ちを体験してもらうことだと思いました。無視されたり開き直られたらどんな気持ちになる?Upload By スガカズUpload By スガカズその日の夜、きょうだいが全員そろったときに長男に話しかけられました。私は話しかけられていることを理解していましたがそれに反応せず、きょうだいの相手をしていました。何度も何度も話しかけていたのに長男は無視されたので、私に怒りました。怒っている長男に対して私は、「今、どんな気持ち?」と聞きました。子どもたちに話しかけられても対応できないときに「ごめんね」「ちょっと待ってね」「〇〇の後話きくね」と言うように私は気をつけていること、「〇〇だから仕方ないでしょ」という風に言ってないこと、もし「仕方ないでしょ」と言われたり無視されたらどんな気持ちになる?と長男に言いました。「…イヤな気持ちになる…」と長男は答えました。クラスメイトが声をかけてくれる(行動を促してくれる)のはありがたいことで、その行動に対して何も言わずに嫌がったり怒ったり「病気だから仕方ない」と言うのは間違っているともう一度言いました。Upload By スガカズその後聞いていなかったときや無意識で起こったことに「ごめん!」というセリフが出たり言葉で説明したりする場面が見られるように。私は素直に反応してくれたことが嬉しくて「気づいてもらえてお母さんうれしいよ」と言いました。もちろんすべてが好ましい反応にはなりませんが、気をつけようと思い言葉に出すことは、より良い生活を行うために必ず必要になってくることで、一歩前進したと言えます。中1の現在、できないことに対して「自分で解決策を考える」姿も…Upload By スガカズ中1になった現在は、どうしてもできないことに対して、考える場面も見られます。できない理由を言葉にして、私にお願いすることもあります。「どうしたらいいのか分からない」と、そのままにしてしまう場面も沢山ありますが、自分の障害を「仕方ない」と諦める前に、人に相談したり自分なりの案を試してほしいと思います。
2021年01月04日一人息子は発達障害夢はお寿司屋さん上口さんが30歳の頃、男の子を出産した。名前は悠樹くん。平成元年生まれで、偶然にも筆者と同い年だ。当時は今から30年以上前、今ほど発達障害への認知や理解は進んでおらず、典型的な症状でなければ見過ごされることが多かったという。今では発達性協調運動障害(DCD)という存在も知られるようになったが、悠樹くんが通っていた保育園では「手足の協調的な運動が難しい」と言われていた。段差に気付かず転んでしまうことは日常茶飯事で、穴に落ちてしまったり、保育園でのハサミを使った工作もとても苦労していた。しかし検診に連れていくとそれほど問題視はされず、「長い目で見ましょう」とあまり指摘されなかった。「ずっと親としては気になっていたんです。本を読んでみたり、発達障害者支援センターに相談に行ったりしてました。例えば、小学校に入ると集団登校ってありますよね。うちの子だけがどこかちょっと外れてるんですよ。ちょっと外れた動きをして、一生懸命高学年の人が手をつないでとか」(上口さん)Upload By 桑山 知之違和感を覚えながらも、しばらくやり過ごした。元々、底抜けに明るい子だった悠樹くんだったが、できないことが生活の中で多いことから、少しずつ暗くなっていった。学力こそ低くなかったものの、生きづらさを確かに抱えていたのだった。「小学5年のときに(診断を)受けました。あのときはもう混み合ってて、1年ぐらい待ってようやくWISCを受けて、ADHDとアスペルガーの混合型っていう、今だとまた違った診断名なんでしょうけど、その頃はそう診断されましたね」(上口さん)中でも特に辛かったのが発達性協調運動障害だという。近年その認知は徐々に広がっているが、これまでは「不器用」「運動音痴」という言葉で見過ごされてきたことが多い。悠樹くんにとってできないことも多々あったが、一方で悠樹くんは料理が大好きだった。家庭科の成績はいつも良く、時には上口さんに手料理を振舞った。悠樹くんの夢はお寿司屋さん。特に手先の技術を要する職業だった。Upload By 桑山 知之大学入学直後、拒食症に…上口さんによれば、中学ではいじめにも遭ったという悠樹くん。それでもなんとか高校へ進み、キャンパスライフを夢見て愛知県内の大学へと進学。一人暮らしを始めた。しかし、入学から1カ月後の5月には下宿先から一歩も出られなくなってしまった。「とにかく夢いっぱいだったので、スーパーでアルバイトもして、サークル活動もして。それで単位を取らないといけないじゃないですか。必修科目だとかいろんな履修登録をしないといけないんですね。それがうまくできなくて呆然となって、学校の中で自分一人でポツンといるような気持ちになって、それでもう学校も行けなくなって、バイトも辞めちゃって。結局、体重が30kg台になったときに、もう持たないと思って(悠樹くんを)家に連れて帰りました」(上口さん)Upload By 桑山 知之料理があれだけ大好きだった悠樹くんが、拒食症になってしまったのだった。「僕は何にも役に立ててない」と自分のことを責めもした。それでも程なくして、働く母親の上口さんを支えるため、「これからは僕が毎日夕飯をつくってあげる」と意気込んだ。その明るい性格から、買い物先の八百屋や近所の美容院の人からすぐに気に入られていたという。しばらくして余裕が生まれると、悠樹くんは自身が通っていた保育園でアルバイトを始めた。「うちの子はアルバイトをやってもすぐクビになるというか、なかなか合格しないんですよ。そうしたら、自分が行ってた保育園がおいでって言ってくださって。大学の中にある保育園なんですけど、そこで調理の経験をして、それをボランティアで半年ぐらいしてるうちに、今度は『僕、栄養士になりたい』って」(上口さん)Upload By 桑山 知之幸せな専門学校生活から一転、鬱に栄養士になるために名古屋・栄にある専門学校へ通い始めた悠樹くん。これまでと違い、同世代だけではなく少し年齢が上の“人生の先輩”がいたこともあり、「息子の人生の中で一番幸せだった」期間は1年以上続いたという。「初めて友達っていう存在がいっぱいできて。みんなで飲みに行って、今日まだ帰ってこない!って。親としてやっと普通の悩みっていうか。あれは嬉しかったですね。すごく楽しく過ごしていました。あのまま行けばよかったってすごく思います」(上口さん)クラスメイトには自身の発達障害についても打ち明け、周囲や先生は悠樹くんを受け入れてくれた。しかし、専門学校2年で実習が始まると、壁にぶち当たった。病院での厨房実習だった。運動障害によって真っ直ぐ歩けないため色んなものにぶつかった。手先が器用でなく、作業をすべてやり直しもした。きっと強迫観念もあったのだろう。「もう僕はできない、働けない」と落ち込み、悠樹くんは実習1日でドロップアウト。学校に行けなくなり、鬱状態に陥って自殺未遂を繰り返した。ベランダに飛び降りるための椅子が置いてあったり、紐が結び付けてあるなどした。夜中に自殺してしまうのではないかと、上口さんは悠樹くんの部屋の前で一夜を過ごしたこともあった。Upload By 桑山 知之「もう9年前ですね。その日は私が出張中で。だから私は現場にいなかったんですよね。(出張先は)京都だったので、何で日帰りしなかったのかなって思うんですけど、一泊しちゃったんです」(上口さん)2011年5月、悠樹くんは自宅マンションのベランダから飛び降りて自ら命を絶った。21歳だった。悠樹くんの携帯電話に残された遺書には、こう記されていた。「発達障害の人たちが生きやすい社会を願って」。Upload By 桑山 知之息子の自殺当事者が生きやすい世の中に「こんなことをお話ししていいのかわからないんですが、私はうちの子を育てながら『この子いつかいなくなる』って思ってたんですよ。電車の階段を落ちて骨折したり、自転車に乗ったら倒れちゃって病院で脳の検査とか、そんなことがしょっちゅうあったんです。『この子っていつまで一緒にいてくれるんだろう』って思ってました。だから、それが現実になったんだなって」(上口さん)悠樹くんの死後、「何かをやらないと潰れてしまう」と感じた上口さん。その中で、発達障害の当事者会に参加した。悠樹くんの話をすると周りは皆、親身に耳を傾けてくれた。県外にも足を運び、大阪でNPO法人「発達障害をもつ大人の会(DDAC)」広野ゆい代表(48)と出会った。Upload By 桑山 知之「広野さんの言葉で『自分が動いちゃいけない。自分と周りの環境があってその一番真ん中に自分がいなきゃいけない』っていうのがあって。引き寄せられて自分が動いたらいけないって言われて、なんかすごく救われたんですね。周りでいろんなことが起こるけれども、そこから動かないで距離を保ちましょうっていうことだと思うんですよね。私の場合は、悠樹の思い出との距離」(上口さん)当事者同士の交流が必要だと改めて感じた上口さん。実家を売り、駅近の物件を購入。こだわったのは、発達障害の当事者が集まりやすく、そして働きやすい居場所。「やめた方がいい」「無謀だ」と言われてもあきらめなかった。上口さんは2014年3月、ブックカフェ「Co-Necco」をオープンさせた。Upload By 桑山 知之「うちは職員も3分の1は障害のある方々で、発達障害や精神障害や身体障害などいろんな障害のある方々なんですね。最終的な目標は、障害者が対等に、それぞれの得意なことを生かした働き方っていうのかな、そんな職場をつくりたいですね」(上口さん)お店を開きたかったという悠樹くんの夢。上口さんが、悠樹くんの思いを形にして早6年半以上。定期的に開く交流会なども好評で、愛知県内だけでなく全国から“居場所”を求める客であふれる。決して無謀なことではなかった。「子どもを亡くす親って、何か子どものためにやりたいって思うもんなんです。そのときに、なんとなく当事者会が一番しっくり来た。自分も当事者ですからね、子どもを亡くしたっていう当事者ですから」(上口さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月06日教授に相談できなくて…卒論が書けず引きこもりに三重県出身の戸田さん。三兄弟の末っ子として生まれ、義務教育から高校卒業後、一年間の浪人を経て近畿大学農学部(奈良市)へと進学した。つまずいたのは、卒業間近の論文執筆時だった。「卒業論文がありまして、その作成がうまくいかなかったっていうか……考察とかそういう部分がうまく文章が書けなくて。そこから引きこもりになりました」(戸田さん)Upload By 桑山 知之“情報を整理する”ということができなかった。奈良県内の病院の精神科を受診すると、適応障害と診断された。周囲のサポートもあり、なんとか大学は卒業できたものの、その後は実家近くの病院のデイケアに通いながら、自宅療養生活を送った。「先生に頼りにいくという力がなかったんです。当時卒論を担当していた教授は別に怖い方ではなかったんですが、普段誰かを頼ったりしていなかったので……」(戸田さん)思い返せば「小さな頃から誰かを頼ることが苦手だった」と話す戸田さん。小学3年のころにてんかんを発症したこと、中学時代にロボコンに出場したこと、高校で吹奏楽部に所属していたこと以外、学生時代の記憶はほとんどない。戸田さん曰く「事実は覚えているが、感情は覚えていない」らしい。Upload By 桑山 知之過去に認定されていた発達障害24歳で再診断「発達障害はグラデーション状に広がっている」と言われるように、それが生活に支障が出ない人も少なくない。実は戸田さんが小学校低学年のころ、発達障害だと診断されていた。しかし、戸田さんや両親は特段気に掛けていなかった。しかし、大学卒業間近でつまずいた戸田さん。両親と同居しながら、以前の診断時に受診していた海南病院(愛知県弥富市)の精神科が運営しているデイケア施設「ネバーランド」に通った。改めて発達障害の診断を受けたのは、24歳のころだった。Upload By 桑山 知之「担当者と問答したり、数学の問題とかパズルのテストもやりました。結果は広汎性発達障害という名前がつきました。大まかに言うと、人の言っていることを理解するのが苦手なのと、優先順位をつけるのが苦手なのと、物事を文章化するのが苦手という3つが症状ですね」(戸田さん)自らの特性について話す様子は淡々としていて、どこか晴れやかな表情をしている。「自分はこういうのが苦手なのでサポートをお願いします、っていうスタンスが取れるようになりましたね」。戸田さんは、診断によって自己理解が深まったと胸を張っていた。Upload By 桑山 知之大学時代に出会った唯一無二の友人今でも支えに近大では「メダカの学校同好会」に入っていた戸田さん。「メダカの住み良い環境を作り出そうというコンセプト」だそうで、ビオトープ班に所属していたという。「ペットだと飼い殺しにしてしまいそうな感じがするので、飼うのは向いてないかなと(笑)。メダカの学校同好会では生物の調査をしたり、小規模ですが生物が入りやすいように溜池を作ったりもしました。楽しかったですね」(戸田さん)当時付き合いがあっても卒業するとほとんど縁が切れてしまったが、今でも唯一連絡を取っているのが同好会の友人。もう8年ほどの仲で、彼は宮城県仙台市で仕事をしているが、今年の頭には熱海へ旅行に行った。ゲームやアニメなど、彼をきっかけに戸田さんも趣味が広がったといい、現在の戸田さんにとって一番の支えになっていると話す。「定期的に向こうから今夜スカイプどう?みたいな感じで、複数人でオンラインゲームで遊んだり。パソコンのシューティングゲームもそうですし、今やっているオンラインのゲーム『World of Warships』もそうですし、最近アニメで定期的に毎クール観ようと思ったのも、その友人が絡んでいますし。今の趣味すべてに友人がどこかしら関わっている気がします」(戸田さん)Upload By 桑山 知之就労移行利用し就職上司「僕らが一番苦手なことができる子」厚生労働省が委託する機関で、各地域に「若者サポートステーション」というものがある。働く意向のある若者と向き合い、職場定着するまでを全面的に支援する機関で、49歳までの就労意欲のある人が対象だ。戸田さんは若者サポートステーションでパソコンについての訓練を受け、その後LITALICOワークスの就労移行を利用。現在、ネッツトヨタ愛知のデジタル推進部に所属し、各販売店で働くスタッフのサポート業務を行う。もう働き始めて2年目だ。「彼と面接したときに一番感じたのが、僕らって物を売る会社なので、対面のコミュニケーションが主になるんですよ。でも彼は逆で、文字のコミュニケーションができる子。僕らが一番苦手なことができる子だろうなって。だからすごく助かっていますよ」(戸田さんの上司)Upload By 桑山 知之「今までの人生においても、対面のコミュニケーションよりも文字情報のコミュニケーションの方が大半占めていますからね。小学校のときは2ちゃんねるをやっていましたし、中高はオンラインゲームでチャット、大学のときはTwitter。弊社ではMicrosoft Teams越しでやり取りすることが多いので、すごく質問しやすいんです」(戸田さん)大学時代につまずいたあの経験を二度としない。情報を整理するのが苦手だという自覚から、メモ帳はジャンルごとに7種類に分けて工夫するほどの徹底ぶり。新型コロナウイルスの影響でオンラインでの業務がより増えたが、自分にとってはむしろ心地いいという。今では文字でのコミュニケーションを主に置き、ストレスなく仕事に励んでいる。「僕はすごく恵まれてます」。戸田さんは、前を向いて笑っていた。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。CM内楽曲GOMESS『COMMON』は各サブスクで配信中取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年11月13日2020年11月現在も流行がおさまらない、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)。ある障害を持った人たちへの手助けにも、コロナウイルスの影響があるといいます。新しい生活様式によって、難しくなったことも盲導犬総合支援センターが呼びかけたのは、コロナ禍での視覚障害者のサポート方法。コロナウイルスの影響から、ソーシャルディスタンスを保つよう注意喚起されています。そのため、盲導犬ユーザーに、腕を掴んで道案内などができず、どのような声かけをしたらいいのか迷う人が増えているそうです。そんな新しい生活様式とともに変わったサポート方法がこちらです。イラスト:セツサチアキクリックすると画像を拡大しますみんな、ぼくからのお願いだよコロナ禍においての新しい声かけ方法をぜひ沢山の人に教えてあげてほしいよ☺️例えば、手引きをしなくても少し前を歩いて、声で誘導したり、消毒液の場所やレジで並ぶ列の進み具合を教えてもらえるだけで、すご〜く助かるんだよ pic.twitter.com/8vJMbblxLt — 【公式】もうどう犬 エルくん (@moudoukenLkun) November 8, 2020 道案内をする時は、少し前を歩いて声で誘導。また、これまではなかった店内の入り口にある消毒液は、設置場所を教えてあげると親切です。買い物のレジは、前の人と間隔を空けるよう指示されています。距離があると前に進んだことが分かりにくいため、移動する時は何歩進んだのか声をかけてあげましょう。投稿には「こういうのはとても大切だと思う」「覚えておこう」「積極的に声をかけたい」などの声が寄せられていました。社会生活の変化によって、声掛けの方法も変化しました。誰もが暮らしやすい社会するためにも、協力しながら安全なサポートをしたいですね。[文・構成/grape編集部]
2020年11月10日■私たちは、そう簡単に老いを受け入れられないあれは、昔からの女友達とランチをしていたときのこと。20代後半で出会った女性社長友達4人は、皆それぞれ40代後半から50代前半になったというのに、会えば仕事の話や美容の話、20年前と変わらない熱量で毎回情報交換が止まらない。その席で誰かが突然つぶやいた。「サザエさんのフネさん、アラフィフだって知ってた?」百物語のようにその場は静まりかえり、フネさんのおばあさん然としたたたずまいを各々が思いめぐらせる。サザエさんが昭和の設定だからとは言え、いまの方が平均寿命が延びているとは言え、あのフネさんの「まるっと老年期を受け入れている姿勢」は現代アラフィフにとってはある種の脅威。カラーリングで白髪を隠し、エステやクリニックに通って肌の老化を多少防ぎ、爪にはネイル、ダイエットサプリで体形を保っている自分の悪あがきぶりが否応なしに露呈してしまうからだ。悪あがきといえば、私たちは「フネさんと同世代」以外にも認めたくないことがある。それは、更年期。閉経前後に訪れる「更年期障害」については、今まで多くの人が悩まされてきたはずなのに語り部は少ない。女性ホルモンが減少することによって引き起こされるそれらは、卵巣の変化も含めて「女性性リタイア?」みたいな印象があるのか、いまだセンシティブな話題ではある。少なくとも、「今日、生理何日目?」と、若い頃友人に聞いた気軽さで、「いつから更年期始まった?」とは聞けない程度には。実際、SNSでの同世代女性の書き込みに、「めまい? 更年期障害ですか?」と聞かれたことに対する相手の非礼さを責め、聞かれた自分を嘆いているものを見つけたことがあって、そのあまりに執拗な長文に、それこそ更年期障害の影響ではないかと勝手に心配したことがある。カジュアルに聞く方も聞く方だが、彼女はもともとこざっぱりとした性格だった故、同世代としては他人事と到底思えなかった。やはり私たちは、美容の側面でも、生物としてのステージ的にも、そう安々と“老い”を受け入れられないのだ。医療やテクノロジーがこれからも発展してゆけば、さらに私たちのような女性が増えてゆくのだろう。■更年期障害、私の場合更年期とは一般的に、閉経の前後10年の期間を言うらしい。私は44歳のときに乳がんが発覚し、右乳房全摘出後にホルモン治療を開始して閉経したので、人よりも少し早く更年期を迎えたことになる。乳がんの顛末を綴った本『我がおっぱいに未練なし』にも書いたが、ホルモン治療を提案されたときには、すぐに閉経するということや、多岐にわたる更年期障害の症状を聞いておののいた。イライラやめまい、突然の発汗、体重増加、髪や肌のパサパサ化、やる気の低下、などなど、全部ごめんこうむりたいラインナップ。中でも「やる気の低下」に至っては、「やる気」だけで生きてきた私としてかなりの致命傷に思われた。しかし、命には代えられないし、更年期障害は放っておいても数年後には経験することだと考えた。そしてなにより、先生の言った「症状が全部出る人もいるし、まったく出ない人もいる」という言葉の「まったく出ない方」に希望を託し、私はホルモン治療かもーん! 更年期ばっちこーい! と閉経したのだった。それから半年が経ち45歳になった私は、正直浮かれていた。あんなに心配した更年期障害は、突然の発汗は多少あるけどそれくらいで、他にはなんの不自由もなかった。「私は“まったく出ない人”だったのね~」と、なにかの賭けに勝ったような高揚感があったし、生理のない人生がこんなに快適だったとは! と驚いていたのだ。あの毎月の腹痛やら倦怠感やら不快感がない世界は本当にハッピーで、こんなことなら若い頃からピルを飲んでいればよかったと後悔しつつも、来月再建する予定の「新しいおっぱい」に気をとられ、終始ワクワクしていた期間だったのをよく覚えている。なんだか最近イライラするなぁ、と感じるようになったのはそれから3年後の48歳、今年の4月のこと。新型コロナウイルスの影響による自粛期間中だったので、原因はコロナのストレスだろうと疑わなかった。6月には露骨な体力の衰えを感じる。これも、続けていた水泳がジムの休業により断たれたせいだと思った。で、7月にはめまいがきて、8月にはだるくてやる気が起きない感じになったのだが、それでも私は今年の猛暑のせいだと思っていた。コロナも猛暑も多少落ち着いた9月になっても症状は続き、私はやっと、自分にとっての不都合な真実に目を向けることとなる。「これ、更年期障害フルコースやん!」と。そうと決まれば話は早く、更年期障害にいいと聞いていた水泳をがっつり再開し、いろいろなサプリを試しまくる。私の場合は友人に紹介してもらった、医者に処方してもらえる漢方が一撃で効いた。ここ半年苦しんでいた症状が一掃されたわけで、生活はバラ色に、仕事も精力的にできるようになったのだ。■まずは「更年期を疑ってみる」選択肢を持って私の愚かすぎる更年期障害エピソードから、40代以降の女性たちにはぜひ、「まずは更年期を疑ってみる」という選択肢を持ってほしい。そして、クリニックなどに気軽に相談するのをおすすめしたい。敵は、「おばさんと認めたらおばさん臭くなる」みたいな精神論で太刀打ちできる相手ではない。思春期にも我々を荒ぶらせ、妊娠時には不安をあおり鬱々とさせたあの「ホルモン様」なのだ。私の場合、「更年期を認めない」と自分につっぱってよかったことはひとつもない。聞くところによると、閉経や更年期という概念が広まったのは19世紀後半以降らしい。そう考えると、更年期もその後の老年期も、現代に生きる人たちへのギフトみたいなものだ。せっかくのギフト期間をよりハッピーに過ごすために、私たちは健康に留意し、医療を頼り、アンチエイジングを楽しんでいいのだ。そして、より幸せでパワフルな更年期人口が増えるように、更年期障害をもっともっと気軽にシェアできる世の中になるといいな、と思っている。
2020年10月21日娘が発した「発達障害だから無理」の一言に、怒りがこみ上げて...前回の続きです。広汎性発達障害の娘が、言った「発達障害だから無理」という言葉。ここまで、難しいことも、やり方を変えながら娘と一緒に頑張ってきた私にとって、この言葉は使ってほしくない言葉でした。私はこの言葉に対して、つい感情的に「言い訳にして、最初から諦めたら駄目だよ!」と言ってしまいました。冷静になってから、言葉を言い換えて、「いろんなことが時間をかけて、できるようになったんだよ。だから最初から諦めないでほしい。」という説明をしました。諦めてほしくはないけれど、追い込みたくもない。私は、娘がこれから先、「発達障害だから諦める」という考え方をしてほしくないと思っていました。Upload By SAKURAしかし、娘にとってそんな私の思いは重荷になるかもしれない…私は娘の逃げ場を奪う言葉をかけてしまったのではないか…Upload By SAKURAそう思うと、私は娘にどういう言葉をかけることが正解だったのか、自分の思いもあわせて、わからなくなっていきました。娘の気持ちは・・・?気になるけれど・・・その後、娘は「発達障害だから無理」とは一切言わなくなりましたが、もしかしたら、言わないように我慢しているのではないか…とだんだんと心配になっていきました。Upload By SAKURA言ってほしくないといったのは自分なのに、言わなくなった娘の心境が気になり、矛盾した感情が渦巻いていました。娘の変化。そんなやり取りから1週間ほど経った、ある日のこと。テレビで『発達障害』の文字を見つけた娘は…Upload By SAKURAその人がどんな特性があるのかを気にしたり、自分との違いを見つけたりしました。その目は、真剣でした。娘にどのような心境の変化があったのかはわかりませんが、私は、娘の中で『発達障害』の捉え方が少し変わったように感じました。もしかして、私がモヤモヤ考え悩んでいるうちに、娘は自分の中でどんどん変化していっているのかもしれないと思い、しばらく見守ることにしました。予想してなかった自己肯定。それから数か月経った、ある日のこと…Upload By SAKURA娘は発達障害がある自分のことを、自己肯定をしたのです。私は嬉しくなりました。自分のことを「すごい子」だと言える娘のことを誇りに思いました。それから私は、いつも思っていることを言いました。Upload By SAKURAそう言った、娘の表情は、輝いて見えました。常に寄り添っていく。発達障害告知前は、どう言ったらいいかを悩み…告知後は、どう捉えていくかを心配…きっと、ひと段落着いたように思っている今も、次の何かが起きる過程の期間なのでしょう。Upload By SAKURA告知したから終わりではなく、これから先、娘が自分を肯定し続けられるよう、私たちは寄り添っていかなければならないと感じました。
2020年10月14日期間限定配信!オンラインで学べる、「自閉症スペクトラムの人へのコミュニケーションの支援」Upload By noe.tokudaこの講義では、知的に遅れのある方からそうでない方まで、さまざまな年齢の方の具体例をご紹介しながら、穏やかに自己肯定感をもって暮らせるためのコミュニケーション支援について紹介しています。具体的には、理解面・表現面の支援の原則から、援助要請や相談する技術の育み方といった実践的な支援まで幅広く学ぶことができます。講義中は、スライドを用いて講師が解説を進めていきます。Upload By noe.tokudaオンラインでのセミナーを録画したものが、期間中何度でも閲覧することができ、自分のペースで学習を進めることができます。また、期間の最終日には、オンラインで講師に直接質問できる時間もございます。【実施概要】動画の視聴可能期間:2020年 10月17日(土)~10月31日(土)質疑応答(自由参加):2020年10月31日(土) 14時~14時30分【講師】飯塚直美さん(言語聴覚士/よこはま発達相談室・よこはま発達クリニック)【費用】4,950円(税込)【お問い合わせ先】mail : seminar@ypdc.nettel : 045-942-1160一般社団法人 発達精神医学・心理学研究会 セミナールーム大人も子どもも、障害のあるなしも関係なく一緒に楽しめる「カラフルライブフェスティバル」が開催!クラウドファンディングも実施中!Upload By noe.tokuda11月1日に、埼玉県の埼玉会館にて、地域交流型の音楽イベント「からふるライブフェスティバル」が開催されます。「からふるライブフェスティバル」は、大人も子どもも、障害のあるなしも関係なく一緒に楽しむことができるフェスティバルです。昨年度に引き続き2回目の開催になります。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、イベント当日のステージは無観客で、動画撮影を行い、後日、ユーチューブで配信する予定です。また、会場となる埼玉会館では地域の障害者施設による物販や展示を、対面で行います。からふるライブフェスティバルは、「知る・繋がる・楽しむ」をコンセプトとして、音楽を合言葉に集まった、さまざまな人たちが音楽やパフォーマンスを共感することで、今まで接点のなかった“繋がり”を作りだすことを目的としています。今年は無観客での開催にあたり、クラウドファンディングも実施中。支援者へのリターン品として、障害者就労支援施設で製作したグッズや食品を用意しています。【実施概要】日時:2020年11月1日(日曜日)11時~15時(予定)場所:埼玉会館 小ホール&ホワイエお問い合わせ先:colorful.prj@gmail.comアートライフブランド「HERALBONY」が「RAYARD Hisaya-odori Park」にてサステナブル・ミュージアムを開催Upload By noe.tokuda「福祉を起点に新たな文化をつくりだす挑戦」と銘打ったサステナブル・ミュージアムが3か月限定で名古屋に出店します。サステナブル・ミュージアムは、店内壁面を障害のある作家のアートで装飾し、展示終了後に装飾は廃棄されることなく、アートバッグに生まれ変わる。そんな循環型プロダクトを多数展開するショールームとなっています。運営するのは世界を目指すアートライフブランド、HERALBONY。ヘラルボニーは知的障害がある人の無数の個性に着目し、彼ら、彼女らが持つさまざまな「異彩」を、さまざまな形で社会に送り届けようとしています。その取り組みの一つとしてオープンした今回の美術館型店舗。ミュージアムでは、ART NECKTIEをはじめとした「HERALBONY」のアートプロダクトを展開しつつ、名古屋初出店を記念した「BRING x HERALBONY」、「MODECO x HERALBONY」の限定コラボレーション商品及び企画をご用意しております。【実施概要】◆SUSTAINABLE MUSEUM期間:2020年9月18日〜12月27日場所:RAYARD Hisaya-Odori Park(ヒサヤオオドオリパーク)〒460-0003 愛知県名古屋市中区錦3丁目15番10号先営業時間:10:00〜21:00定休日:不定休
2020年09月30日大学生活開始のタイミングで、手帳を取得することにでこぼこ兄妹の兄、タケルは現在20歳。8歳の時に県の発達センターで検査を受け、アスペルガー症候群(当時の名称)に「大変近い」との診断を受けました。「大変近い」といっても、発達障害という程ではない、俗にいうグレーゾーンとかいう意味ではなく、発達障害の中の分類でアスペルガーにキッチリ当てはまらないという意味です。当時も一応療育手帳の取得を検討はしたのですが、IQの高い、いわゆる高機能の発達障害の領域にいたこともあって、住んでいた自治体の基準では取得ができず、結局、18歳で高校を卒業するまで「そのまま」の状態できてしまいました。しかし、大学で障害学生として支援を受けるにあたって、やはり手帳があったほうが手続きがスムーズということになり、精神障害者保健福祉⼿帳を取得することにしました。Upload By 寺島ヒロUpload By 寺島ヒロUpload By 寺島ヒロUpload By 寺島ヒロ他にも市営の地下鉄や博物館や動植物園が無料になったり、美術館や水族館、アーカイブスの閲覧料金の割引もあるとのこと。迷い的なものは最初からあまりなかったのですが、この時点で僅かにあった葛藤も全てどこかに吹っ飛んでしまいました。大阪に来た瞬間から週1を上回るペースで動物園に通っていたタケルには「地下鉄タダ」「動物園タダ」が大変魅力的だったようです。Upload By 寺島ヒロUpload By 寺島ヒロなお、これは2020年8月の時点での情報となります。自治体によって、診断書の用紙は窓口での手渡しではなかったり、郵送をしてくれる場合もあるそうです。大きな流れは一緒だと思いますが、細かいところはご自分が住んでいる自治体の福祉担当窓口でご確認いただけたらと思います。診断を受けてから10年。改めて受診が必要とのことで...さて、改めて精神障害者保健福祉⼿帳を取得しようということになったタケルですが、ここで問題が発覚!8歳の時に受けた診断があるので、大分の発達センターに連絡すればすぐに申請に必要な書類(診断書など)を出してもらえると思っていたのですが、ほぼ10年経っているため診断から取り直す必要があることが分かったのです。言われてみれば当たり前ですが、わたしの中で時が止まっていたようです。(ASDあるある。。。)とはいえ、引っ越してきたばかりの大阪でタケルを診てくれる病院のあてなどありません。ネットで探す?などと夫と話していましたが、タケルに合う病院を探すのはそれなりに時間がかかりそう…と、その時…「大学の病院に聞いてみたらどうかな?」とタケルが言ってきました。ナイスアイディア!たまたまでしたが、タケルの通う大学には大学病院があり精神科もあったのです。新患を受け入れてくれるかは分かりませんでしたが、ダメで元々。さっそく、大学の障害学生支援課を通じて、大学病院に発達障害の診断をしてくれるか問い合わせてもらいました。結局、大学病院では受け入れてもらえませんでしたが、大学の近くで開業している専門医を紹介してもらい…次の週にはもう診察を受けられることになりました!いやもう、大学さまさま!学生支援課さまさまです!診察の予約が取れたので、「診断書の用紙」をもらうために地域の区役所に行き、精神障害者保健福祉⼿帳の「申請書」も一緒にもらってきました。自宅で書くので、親が書いてもわかるまいとは思うのですが、タケルは「いいよ。自署って書いてあるから自分でやるよ。」と、何度も下書きを書き直しながら、自力で「申請書」の記入欄を埋めました。そして、診察の予約をした当日がやってきました…Upload By 寺島ヒロ病院での診察はスムーズで、さほど待たされることもなく診察室に呼ばれました。この病院ではなるべく最初に本人から話を聞くことにしているということで、まずはタケルだけが診察室へ。生育環境などを聞かれるだろうと予想していたので、タケルは客観的に上手く喋れないと予測して、大分のセンターに通っていた時に受けた検査の結果(紙で残っていた)と、私の育児日記の一部を持って行って説明したそうです。その後、診察室に呼ばれ、今度は4人で話を聞くことになりました。そう!なんと私たちは家族全員でぞろぞろとタケルについて来ていたのです。診察をした医師の話では、「以前大分で出たという診断で間違いないでしょう。来週のどこかでもう少し詳しい検査をしましょう。」ということでした。丁度1週間後に予約を取って、この日は帰りました。診察にかかった時間は30分ほどでした。詳しい検査のため再受診。受けた検査は『WAIS-IV』Upload By 寺島ヒロ※WISC(ウィスク)は概ね児童用WAIS(ウェイス)は成人用これを読んでくださっている方の中には、これから検査を受ける方もいらっしゃるかもしれませんので、詳しくは書けませんが(予習になってはいけないので)、時間を測りながらの筆記の試験で、全部でも2時間かからないぐらいの感じでした。診断はやはりASD(自閉症スペクトラム障害) 。名称が変わりましたが、これは2013年に診断基準がDSM-5に変わったためで、かつて「アスペルガー症候群に大変近い」と言われた本人の症状は変わっていません。診断書を手に申請へ。手続きは意外とあっさり...?記入してもらった「診断書」を持って、再び区役所の福祉課に向かいます…。相談窓口で申請書と診断書、そして写真を提出し、マイナンバーカードを提示。問題なく受理され、1カ月後には申請通り精神障害者保健福祉⼿帳が発行されました。あれ、意外とあっさり…狐に化かされたみたい…。タケルの場合、10年前からの資料が残っていて経緯が追えたこと、他の合併症や二次障害がほとんど無いことなどがあり、スムーズに取得に至ったものと思われます。それにつけても大学の学生支援課の頼もしさといったら…!用意されている支援は遠慮せずうまく使わなければな…という思いを新たにしました。
2020年09月24日息子の友人、おじいさんに席を譲られた!息子が特別支援学校高等部の頃のことです。子ども達が同じ放課後等デイサービスに通うママ2人と私とでお茶をしました。息子(17歳)は自閉症、A君(16歳)、B君(18歳)にはダウン症があります。小学校の頃から同じ放課後等デイサービス、同じ特別支援学校高等部に通っていました。10年以上の長い付き合いなので、結構突っ込んだ会話もドンドンできる気の置けない関係です。Aママ「ちょっと聞いてよ。この間、息子がバスで立っていたら、おじいさんに席を譲られそうになったらしいの」(A君は、当時、一人で公共のバスを使って下校していました)私「それで、本人はどうしたの?」Aママ「『いいです!』って断ったみたい。この話を息子から聞いたとき『やっぱ、“世間からは障害者だから大変だ”って見えるんだ~』と思い、悲しくなったよ!」Bママ「うちの子だったら、きっと『ありがとう!』」と言って席に座っちゃうかも!」私「外見から『障害がある』と分かるのも、理解してもらいやすいと思うから、私はうらやましいよ。本人が言葉に出したり積極的に伝えようとしなくても、周囲の人がSOSに気づいて、救いの手を差し伸べてもらいやすいでしょう。うちは見た目ではわからないから、バスの中で奇声を発したり、落ち着かないと怒鳴られてしまい、それでまたパニックを起こして…」Aママ「そうなのかあ…」もちろん、ダウン症のある子にも知的重度、軽度があり、身体面でも心疾患があったり、身体が弱い子もいたりします。そんな知識があって、おじいさんは「席を譲ろう」と思ったのかもしれません。でも、A君は元気一杯の子でした。このことを実家の母(80歳)に話したら「私だったらダウン症の子がいても席は譲らない」と言っていました。人それぞれです。「普通」として扱われる見た目ではわかりにくい発達障害児は、ぱっと見は定型発達のように見えます。息子は知的障害がある自閉症(IQ37 療育手帳3度)ですので、グレーゾーンではありません。それでも、「障害があるので色んなことが難しくてできないので宜しくね」とママ友に伝えても、容姿を見て「そんなことないじゃない、普通じゃない、しっかりしているじゃない」と数えきれないくらい言われました。誤解もある・NHKの番組で放送していたのですが、成人しているダウン症のタレントさんが居酒屋でビールを頼んだら「ビール飲ませても大丈夫なのかな」と店主が悩んでいたそうです。(年齢ではなく、「ダウン症の人にアルコールは大丈夫なのか」と思ったようです)・心疾患があり、4歳の子をバギーに乗せていたママ。「まあ、立派な足があるのにお嬢ちゃん、ママに甘えないで歩かないとダメよ」と言った見知らぬ人から言われていました。・内部疾患(心臓機能障害、腎臓機能障害、呼吸器機能障害)があるため電車の優先席に座っていた若者に対して「年寄りに譲りなさい」と言わんばかり前に立っている年配者がいました。(ヘルプマークを付ける方法もありますが、まだ世間には浸透していません)障害特性はあるけれど、性格はみんな違う「自閉症の子は秘めた才能がある」だとか「ダウン症の子はピュアだ」とか「これこれこういう障害の子は○○である」と思われていることがあります。確かに障害による特性はありますが、そんな型にはまったものではないと思います。何故なら、みんな一人の人間ですから…。生まれ持った気質や育った環境で全く性格が違ってきます。そんなことを感じたママ友との会話でした。同時に、「こんな突っ込んだ話が出来るママ友がいることは幸せなことだ~」と感じたお茶の時間でした。
2020年09月22日20代半ばで知った広汎性発達障害…診断を受けたのは就職後Upload By 桑山 知之「♯見えない障害と生きる」連載第2回は、愛知県名古屋市でグラフィックデザイナーとして働くノビさん(38歳・男性)に話を聞いた。ノビさんは愛知県内の大学を卒業後、印刷会社のデザイナーとして就職した。しかし、ある程度のカリキュラムをこなしていれば一定の評価を得られる学生時代とは違い、入社後ほどなくして壁にぶち当たった。「手が遅いんです。仕事にも時間がかかって、すごく残業してたんです。先輩に『そこまでやんなくていいよ』『うまく手を抜けよ』って言われるんですけど、手を抜くと肝心なところをすっ飛ばしちゃったりして、めちゃくちゃ怒られる。『うまく手を抜く』、その“うまく”ができなかったんです」その後、仕事を辞め個人でデザイナー業を始めようとしたが、それも失敗した。どうにもうまくいかなかった。何かがおかしい。そんな折、大学時代に同じゼミだった友人と再会する機会があった。彼は発達障害だった。「多分お前もそうだと思うから、診断受けてみろよ」。そう言われるまま、ノビさんはクリニックに足を向けた。そこで、広汎性発達障害という診断を受けた。20代半ばだった。発達障害の診断は「許されたような感じがした」Upload By 桑山 知之ノビさんは学生時代、勉強こそ多少できる方だったが、算数だけは異常に出来が悪かった。そして何より、誰かと一緒に何かをやるという楽しみがあまり理解できなかった。「大学時代の友達に久しぶりに会ったら、『学生のときは修行僧のようだった』と言われました。自分の中で正しいと思っていることは譲らないというか、会話を楽しんだり雑談が苦手というか…」思い返せば、幼いころから対人コミュニケーションには難があったノビさん。保育園ではみんながジャングルジムで遊んでいるのを見て「何が楽しいんだ」と思っていた。中学・高校では、仲の良いグループ以外の人間とはほとんど親しくすることができなかった。複数のコミュニティをまたいでいる友人は輪を広げていき、それに乗っかることができなかったノビさんは、やがて遊びに誘われる機会が減っていった。だが20代半ばで発達障害の診断を受け、心が穏やかになったという。「どちらかというとポジティブに受け止めたところがあって、正直ホッとしたんですよ。コミュニケーションもうまくいかなかったことが多くて、自分の努力が足りないとか、自分に責任があると思ってたんですけど、『障害です』『先天的なものです』って言われたときに、なんかこう許されたような感じがしたんですよ」Upload By 桑山 知之3歳児検診で「傾向あり」…伝えてほしかった発達障害というのは、“見えない障害”である。それゆえ、親が自身の常識や価値観を押し付けてしまい、子どもが苦しんでしまうことがままある。発達障害の特性が少しずつ見えてくるのは、3歳児健診であったり、幼稚園や保育園などといった集団生活であることが多い。早期に我が子の特性を理解したうえで親が接していくことで、併発しがちな二次障害を防ぐこともできるだろう。ノビさんは、診断について家族に対し思い切って打ち明けてみた。すると意外な言葉が返ってきた。「けっこう自分としてはそれなりに覚悟を持ってカミングアウトするつもりで、あるとき折に触れて話をしたんですよ。そのときの母の反応が、『あぁ、なんかね、そんな感じだよね』みたいな。なんかそんな気がしてたっていうノリだったんですよ」実はノビさんの母は、おそらく3歳児検診の際、「発達障害の傾向がある」と指摘されていたという。ただ、その段階では保育園で友達と揉めているなどの問題が起きていたわけではなかったため、様子を見ようということになり、そのまま進学、就職まで至ったらしい。その過程でも時折、例えば高校の進路を決めるときには自然がいっぱいあるところがいいんじゃないかという「謎の提案をしてきたこともある」と回顧する。Upload By 桑山 知之「(発達障害かも知れないと)わかってたんならもうちょっと何かこう、訓練とか何かあったんじゃないの?こっちはそれなりに苦労してるんだよ?っていうモヤモヤとした気持ちはありましたね。親は自由な考え方なので、こうじゃなきゃダメとか、レールを敷くような感じは全然なくて、放任主義なんです。それはそれでよかった部分もあるんですけど、もっと関わりがあってもよかったかなと。関係性が薄かったんです」我が子に発達障害かも知れないと伝えることのストレスは非常に大きい。ひょっとしたらノビさんの母はあえて“伝えない”という形を選んだのかも知れない。またそれは我が子を思っての選択だったのかも知れない。しかし成人後、ノビさんは確かに生きづらさを抱えてきた。これはあくまで結果論ではあるが、子どもが生活するうえで違和感を覚えていないか、親はアンテナを張っておく必要があるのかも知れない。再就職失敗、そして離婚…挫折から人の気持ちが分かるようにUpload By 桑山 知之“修行僧”のようだった大学生のころから、ノビさんには恋人がいた。「恋愛偏差値が低すぎた」ため、彼女の方からグイグイと来てくれたのがよかったという。やがて社会人になり24歳で結婚。しかし、個人での事業もうまくいかず、再就職を決意した。「新卒の就職活動と違って、再就職はレールがあるわけではない。面接で自分は必死にアピールしてるつもりでも、面接官から『お前さぁ、今のままでいいと思ってんの?』と説教されて帰ってくる。そうすると、夜の公園でブランコにもたれながら泣いちゃうんですよ。『何やってんだ自分は』って。抑えきれなかったんです」自分自身にそこまで感情の起伏がないため、他人の気持ちが理解できなかったノビさん。人が泣いているのを見ても、本当なのかと疑っていたという。しかし、再就職での挫折を受け、思わず涙をこぼす日々が続いた。それとほぼ同時に、離婚することになった。「本当に胸が潰れるような気持ちをそこで初めて経験しました。あのとき、あの人たちが言っていたつらい気持ち、苦しいとか悲しいっていうのはこれなんだというのが、そこで初めてわかったんです。今までは“自分の中での正しさ”を大事にしていたんですけど、“相手がどう思っているか”を大事にした方がコミュニケーションがうまくいくんだなって」発達障害の僕が生きるための“工夫”診断を受けたことで就労移行につながり、そのままその運営会社に就職したノビさん。現在はさまざまな受託事業のチラシを制作するデザイナーとして活動している。聴覚過敏で特に気になる「人のガヤガヤ声」を遮断するため、最近ではライフル射撃の選手が使うような耳栓をしているという。「努力というよりは、工夫するって感じですね。僕は発達障害以外にもてんかんの持病があって、薬を1日4回飲まないといけないんです。そこで、薬を1錠飲んだら、右腕から左腕にこのブレスレットを1本移していくんです。忘れないようにするっていう努力だとつい忘れちゃうので、仕組みを作るようにしました。このルールを伝えている人なら『朝飲んでないんじゃないの?』とか指摘をしてくれるんです。『この時間は全部左腕にないとダメなんじゃないの?』みたいな」つい忘れてしまうのであれば、仕組みやシステムを変えて、工夫する。診断を受け入れたからこそできる行動だ。他にも、仕事のタスクを付箋で貼っていく中で、優先順位が上がるとその付箋の位置を変えていくことで、見過ごさずに取り組めるといった方法を紹介してくれた。「前にインターネットで見た呟きで、すごいグッと来たものがあって。『みんなすごく我慢してるんだからお前も我慢しろ』って、よくあるセリフじゃないですか。でも、みんなが我慢してるんだったら、システムが悪いでしょって。障害って、みんなが当たり前にできることができないからこそ、“工夫”でなんとかしようと思ってます」Upload By 桑山 知之取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年09月03日視覚障害者のポンコツ妻@アッシャー症候群(@KyokoKK5932)さんは、東京の東銀座駅で体験したエピソードをTwitterに投稿。反響が上がっています。係員の優しさに感謝都営浅草線東銀座駅を利用している投稿者さん。電車を降りるとすぐ「駅の係ですがお手伝いは必要ですか?」と声をかけてくれる係員がいるといいます。係員は、工事が終わったばかりの道を「道が新しくなりましたから途中までご一緒しますね」と丁寧に誘導。さらには、「階段は14段です。9時の方向に曲がるとスロープがあります。その方が安全なので曲がりましょう」と目が見えなくても分かるように言葉で教えてくれるそうです。東銀座駅から乗車する場合も、「ここで乗れば降りた目の前にエレベーターがあります」と乗り換えまで考えてくれるのだとか。※写真はイメージ数日後、投稿者さんの顔を覚えた係員からこんな声をかけられたのです。「この前もお会いしましたね、今日はどちらへ?気を付けて行ってらっしゃい」投稿者さんは、係員の声かけに「ちょっと恥ずかしいけど、でもすごく嬉しいしありがたい」と感謝の言葉を述べました。悲しいことに駅のホームから、視覚障害者が落下して事故となるケースも発生しています。しかし、投稿者さんは「東銀座駅のみなさんはとても親切。きっとこの駅では事故なんか起こらないだろう」と、この係員だけでなく駅の係員全体が優しく、安全を守ってくれていると実感したようです。東銀座駅に話を聞くと、「駅が広いこともあり多くの係員がいるため、そのような意識が高い人もいるのではないか」といいます。スマホを見ていると罵倒された経験も…今回、投稿者さんに視覚障害者を見かけた時にできるサポートについて話を聞きました。投稿者さんはこれまで「白杖を持っている人は全員が全盲と思われていて、目が見えているようなそぶりをすると罵倒されることがあった」といいます。弱視(幼児期から視力が弱い人)・ロービジョン(全盲ではないものの視力が弱い人)の視覚障害者についても知ってほしいと訴えました。―視覚障害の方へはどのようなサポートが嬉しい?まずは触れずに声をかけていただけると嬉しいです。電車内でたまに席を譲ってくれる人が「座ってください」と腕を引っ張ることがありますが、あれは正直いって怖いです。以前、駅のエレベーターで「着きましたよ」と後ろから背中を押されたのもかなり恐怖でした。私は少し視力があるのですが、視野が狭くてほぼ正面しか見えません。そのため、見えていない部分をいきなりつかまれるとすごく驚きます。あとは電車でスマホなどを見ていても怒らないでほしいですね。「見えているなら詐欺だろ!」といわれたこともあるのですが、私たちロービジョンだけでなく全盲の方でもスマホやタブレットを使っていることがあります。―道を歩く時に気をつけてほしいことは?白杖に気付いて避けてくださる人が大半なので、いつも非常に感謝しています。ただ、白杖は『2歩先に障害物がないか探る』ので、恐らくみなさんが想像しているより長いんですね。そのため、目の前とかすごく直前で避けられたり、ぶつからないように急いで横切られても、杖が長いので当たってしまったりして、かえって危険なことがあります。十分な距離を取っていただけるとありがたいです。ちなみに、私が白杖歩行をしている際、ぶつかるのは大体9割が歩きスマホの人です。あれは本当に危険です。白杖に気付かれない場合もそうですが、スマホ歩きしていてこちらに気付いて避けようとしても間に合わない、というケースも多いので。―最近感じた人の親切は?本当にたくさんありますが…最近だとGUで買い物をした際、レジに並んでいたら店員さんが白杖に気付いてセルフレジではなく有人レジに案内してくれました。さらに会計後レジの店員さんがエレベーターまで「ここは台がありますから少し右へ」など障害物の説明をしながら誘導してくれて、店内が混んでいたのでとても助かりました。また、Apple Storeの店員さんも店に入ったら「どういうご案内の仕方がいいですか?肩か腕どちらかつかまりますか?」と聞いてくれました。ひと言で視覚障害といっても人によってどのぐらい見えづらいか、見えないかはまったく違うので、サポート方法をどうするか聞いていただけるのが一番助かります。視野が狭かったり、視力が弱かったりする人の恐怖は、実際にその立場にならないと分からないこともあるでしょう。ですが、少しでもこのような声を聞いて協力し合い、助けることができるといいですね。投稿全文はこちら #視覚障害者が嬉しいと感じた配慮 都営浅草線東銀座駅の警備員さんがいつも神対応。電車を降りるとすぐ「駅の係ですがお手伝いは必要ですか?」と声掛けして下さる。最近改札を出た先の地下道の工事が終わったので、「道が新しくなりましたから途中までご一緒しますね」と(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 改札を出てすぐ地下道に続く階段があるので「階段は14段です」と教えてくれて上ったら「9時の方向に曲がるとスロープがあります。その方が安全なので曲がりましょう」とクロックポジションでナビ。ちなみに反対側ホームに行く階段の段数もいつも教えてくれる。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 上記は東銀座駅で降りた場合だけど逆に東銀座から乗る場合は降車駅を聞かれるので行先を告げると適切な乗車口まで案内してくれる、例えば「三田駅だとここで乗れば降りた目の前にエレベーターがあります」と。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 本当に毎回全てが適格な誘導説明で感動する。ついに先日顔を覚えられてしまい「この前もお会いしましたね、今日はどちらへ?」から「気を付けて行ってらっしゃい」まで…ちょっと恥ずかしいけど、でもすごく嬉しいし有難い。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 何より凄いのが、恐らくこの警備員さんの効果で東銀座駅皆さんとても親切。ホームで電車を待っていると駅員さんが「降りる駅に申し送りしましょうか?」と声かけて下さったこともあった。きっとこの駅では事故なんか起こらないだろう。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 毎回本当に感動するので都営地下鉄のコールセンターにお礼の電話をしたことがあるけど、いつかこのTweetがご本人に届いたら嬉しいな。東銀座駅を利用することがあったら、是非この警備員さんに遭遇してみて欲しいです。— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 [文・構成/grape編集部]
2020年08月31日通常学級に通わせる良さ、難しさ私は息子には特別支援教育しか受けさせていませんので、障害のある子を通常学級に通わせる良さを私は経験したことがありません。ですから本当のところはわかりません。これは例えば、双子を育てている人が「大変でしょ」と言われても、その人は双子を育てた経験しかありませんから比較するものがなく、答えようがないのと同様でしょう。もしかしたら、一人っ子でも大変な思いをしている人もいるかもしれません。通常学級に知的障害のある程度ある子どもを在籍させることで、定型発達のクラスメートから多くの刺激を受けることができるという、良い点もあると思います。地域の中に顔なじみの子ども達やその保護者がいることで、災害時など何かあった時にも気にかけてもらえたり、将来地域で暮らしていく時にも何かと安心かもしれません。けれども、残念ながら、いじめられることもあります。また、着替えなどがうまくできないと、自分から助けを求めなくてもいつの間にかクラスの子の誰かが手伝ってくれた結果、ヘルプを出す経験も積まず、また周りの人にやってもらうことが当たり前になってしまい、自立につながらないケースもあると聞きます。気をつけてあげたい、おとなしい子自己主張する積極的なタイプ、受け身のおとなしいタイプなど人間にはさまざまな性格があります。障害のある子も同様です。クラスメートを突きとばす、教室から脱走する、授業中に大声で叫ぶ――こうした行動がある場合、先生はほうっておくわけには行かず、叱ったり呼びに行ったりしなくてはなりません。行動が目立つので、そうせざるを得ないでしょう。また、本人からの「いやだ」とか「つらい」というSOSがあった時も、担任も保護者もキャッチしやすいでしょう。その問題行動が障害に起因していれば特別支援学級や特別支援教室(通級)へ行くことも検討されます。けれども、おとなしい子の場合はどうでしょう。授業がチンプンカンプンでも椅子にじっと座っている子、いじめられても黙っているタイプの子の場合、周りは本人がつらい状況にあっても、気づきにくいのではないでしょうか。クラスメートに危害を加えたり立ち歩いたりしないので、周りに迷惑をかけることもありません。その結果、問題に気づかれず、放置されてしまうケースもあると聞きます。教育虐待という言葉教育虐待という言葉を耳にしたことはありませんか?これは、「あなたのため」という大義名分のもと、保護者が子どもに課す行き過ぎた教育やしつけをすることを指します。しかしこれは、定型発達の子どもに限った話とは言えないのではないでしょうか。ある事例についてご紹介したいと思います。知的障害は中度でおとなしいタイプのAさん。義務教育の期間は保護者の意向もあり、通常学級に在籍していましたが、一般の高校受験は難しく、特別支援学校高等部に入学しました。入学してみるとAさん以外のクラスメートは、特別支援学級の出身者でした。Aさんより知的障害の程度は軽く、登校、着替えなどの身辺自立はもちろんのこと、読み書きもある程度できるようになっていました。また、「できないことは恥ずかしいことではない、わからないから助けてください」とSOSを出す教育も受けてきたので、“できないことは他人に頼る”ことも、中学までの間に学んでいました。ところが、通常学級に9年間在籍していたAさんは、Aさんにとって必要な支援をうけられていなかったため、持ち物管理、片づけ、着替え、一人登校などが身についていませんでした。きめ細かな対応には限界がある通常学級では教科書の内容を理解できるという前提で、国語、算数など授業が行われます。一クラスの人数は35人~40人、たとえ加配の先生がついたとしても基本、担任は一人でこの大人数の子どもを担当します。ついていけない子がいたら周囲や先生が「周りに遅れないように」とやってあげるなどで対応をし、みんな同じペースでカリキュラムをこなすことになります。これに対して特別支援学級では、質問のタイミングや着替え、生活のルールなど基本のきの部分から生活を作っていきます。通常学級では、丁寧な支援をしたくても、人数の関係もあり難しいこともあるのではないでしょうか。そして子どもは、黙って待っていれば、誰かがやってくれるという待ちの姿勢になってしまうこともあるのかもしれません。なによりも、わからない授業を9年の間、じっと座って受け続けていたAさんの苦痛はどれほどのものだったでしょう。さらには、身につけたい身辺自立の力は育むことはできなかったのです。自分から親や先生につらさを発信できないおとなしいタイプの子だからこそ、進級・進学先で困っていないかどうか、大人はアンテナを立てて気を付けて見なくてはならないと思います。小学校卒業までは、中学校卒業までは――いったん入学すると、卒業まではがんばろうと思いがちです。でも、子どもの様子をしっかりと見て、困っているのではないかと気づいたら、子どもにとって最適な環境を親や教師など支援者の側が速やかに用意をしてあげることが、何より子どもの力を育むのではないか。私はそう思うのです。
2020年08月22日発達障害当事者との対談連載、スタート発達障害を描いたドキュメンタリーCM「見えない障害と生きる。」でプロデューサーを務めた東海テレビの桑山知之が聞き手となり、さまざまな発達障害の当事者と対談する連載がスタート。連載初回は、このCMにも出演したラッパー・GOMESSを取材し、「家族と発達障害」について語ってもらった。10歳の冬、診断は高機能自閉症…あだ名は“障害者”GOMESSが初めてパニックを起こしたのは、地元のバザーに家族で行ったときのことだった。楽しむ母や姉を横目に公園でうたた寝をしていたところ、ふと首に違和感を覚えた。毛虫だった。GOMESSは、毛虫が大の苦手だった。我に返ると、パニックを起こしたGOMESSは母親によって強く抱きしめられていたという。後日、家族に連れられ赴いた精神病院で、高機能自閉症という診断を受けた。その後、症状が悪化するのを見かねた母は、小学5年の春、担任教師に相談した。自閉症とはどういうものか、子どもにも分かるような資料が朝の会で配られた。「それが成功する可能性もあったと思うんですよ。でも僕の場合は違って。陰で言われてたのは、障害者とか、野獣とか、エイリアンとか……。どんどん学校に行きづらくなりました」そこから5年間にわたり不登校、引きこもり生活を送ったGOMESS。今でこそ母の支えや頑張りが痛いほど分かるものの、当時は「お母さんが余計なことをしたから」と責めてしまったと振り返る。しばらくは母もなんとか学校に行かせようとしたが、GOMESSは強く抵抗した。「本当に悪いことなんですけど、すぐに死をほのめかしてたんですよ。『そんなに言うんだったら学校に行くフリして死ぬけどね?』とか。『生まれてこなきゃよかった』とか、お母さんに直接言わなくてよかったようなこともいっぱい言いました」3歳上の姉とは、自身が引きこもる前はケンカもしていたが、やがてほとんど会話もなくなった。避けられていた。「ずっと部屋で暗い顔してる弟は嫌だったんじゃないですかね」。Upload By 桑山 知之担当医「この子にはできないことがある」親が考える“正規ルート”からの脱却静岡県内の精神病院で診断を受けたGOMESS。代表的な楽曲の一つ『人間失格』にも登場する当時の担当医師“カゲヤマ先生”のある言葉で、家族の接し方は変わっていったという。「カゲヤマ先生がいなかったらうちの家庭はダメだったと思います。お母さんたちに『この子にはできないことがあります。それはできるものじゃないです。無理なものは無理。それをきっぱりと親が諦めてください』と言ってくれたんですよ。そこから僕の生活が楽になりましたね。文字が読めないのも、頑張って読めと言われなくなりましたし、ひどい偏食も理解してくれるようになりました。いつかカゲヤマ先生にお礼を言いたいんですよね」言うなれば「お父さんはスポ根の熱血系で、お母さんは知性と優しさ」だという両親。どちらかが叱るときは、もう一方が必ず優しく包み込んでくれた。特に母は、海外の和訳本を取り寄せるほど発達障害に関する本を読み漁るなど、息子について理解を深めようと努力を惜しまなかったという。GOMESSは「親がしてくれたことはすべて自分のことを思っての行動だった」と当時を振り返りながら、「子としてはすごく理想の両親」と誇らしげに語る。「親が予定していた我が子の“正規ルート”みたいなものからの“外れ方”ってすごく大事だと思うんです。一番まずいのは、子どもが何もしなくなること。どんな形であれ、ポジティブな気持ちで何かやろうとしていることがあるんだったら、止めない方がいいと思います。ポジティブな気持ちを何かに向けてることってけっこう奇跡だから、その奇跡的なポジティブは守ってあげてほしい」進学や就職など、親が思い描く「理想」は少なからずある。しかし、それは必ずしも我が子を幸せにするとも限らない。引きこもっている間も呆けるだけでは退屈だったGOMESSは、親に見守られながら、とにかく熱中できるものを追い求め続けたのだった。Upload By 桑山 知之教科書は読めないが、五線譜は読める色んなものに熱中していく中で、「音楽」へと到達するまでにそう時間は掛からなかった。ワールドミュージックを聴けば、ラテンのリズムについて母に力説していた。文字が読めないゆえ、教科書は読めなかったが、五線譜はすぐに読めるようになった。気づけば自ら音楽を作るようになっていた。「(親としては)本当は学校行かないにしても義務教育で習うものくらいは勉強してほしかったんだと思いますけどね。これだけ熱心にやってるんだからいいか、みたいな。僕は“プレイ”よりも“クリエイト”の方が好きだから、毎日毎日色んなことをクリエイションするようになって。その中で音楽が一番ハマりました」ここでもう一つエピソードがある。「音楽に勉強的だった」頃、ゲームにも没頭していた。裕福な家庭ではなかったため、買ってもらえたのは中古で300円ほどのスーパーファミコンのソフト『RPGツクール2』。その名の通り、命令や画像・音楽を組み合わせ、オリジナルのロールプレイングゲームを作るゲームで、GOMESSはPC版も含めこのシリーズをやり込んだ。そこで音楽素材のため、曲を作り始めたのだという。結果、自作のRPGは完成しなかったが、サウンドトラックはできていた。「親がゲームを止めないでくれたんですよね。それは大きかったですね。だからポジティブな気持ちで何かやってるときは、そういう何かが生まれることがある」姉が好きだというモーニング娘。のCDも借りて聴き、衝撃を受けた。「これめっちゃファンクじゃん!すげぇかっこいい!」と、インストゥルメンタル版のテンポを遅めてビートを乗せ、ラップをする。自然とサンプリングもこなれたものになっていた。Upload By 桑山 知之家族が疲弊…ラップが人生を見つめ直すきっかけに献身的に我が子を見守り続けた親だったが、自分を責め、時に精神的に病むこともあったという。「何年も何年も手を尽くしてくれた結果、頑張った末ですね。俺もズカズカとお母さんに言っちゃうから、お母さんは自分を責め続けちゃって。お母さんが僕よりも程度のひどい引きこもりになりました。部屋から出てこないみたいな。台所とかでたまたま会って、目が合うと下向いてすぐに速足で自分の部屋に帰っていって、扉をバンと閉めるみたいな」当時は自分が正気を保つのに精一杯で、家族に支えられていることに気付いていなかった。ラップを通して、いつしか自己を客観的に見られるようになった。「CDデビューをしたり、テレビに出たり、ライブをしたりするようになってから、精神的自立が始まったのかなと思うんですよね。その辺から少しずつ。歳で言えば18・19歳から20・21歳にかけての4年間くらい。僕にとって過去の清算じゃないですけど、こういう恩恵を受けていたんだなとか、一つひとつ噛み砕いていく時間だったなと思います」第2回『高校生RAP選手権』で準優勝を収め、世間からの注目が彼に集まる中で、姉も存在を認めるようになっていた。家でブツブツとラップをしていた引きこもりの弟が、「お姉ちゃんにとっても、ようやく人として接する価値のある人間になれたのかな」と感じた瞬間だった。Upload By 桑山 知之家族を幸せにするために、僕は幸せにならなきゃいけない自身の人生は「みんなのおかげで運良く素敵になった」と語るGOMESS。一方で、母から「私があなたをフツウに産んであげられなかった」と、我が子に対して罪を感じていることを吐露されたこともあった。自分にできることは何か。答えは明確だった。「手間暇かけて全力注いで頑張って育てた息子が人様の役に立つっていうのは、きっとすごくお母さんにとって誇らしいことの一つだと思うから、実際“罪滅ぼし”はできないにしても、何かお母さんのためになると信じてやっているんです」GOMESSは、ラッパーとしての現在の活動について「罪滅ぼしみたいな気持ち」と表現する。「だから、僕は幸せにならなきゃいけないんだなって。僕が幸せになれば、お母さんが感じてきた罪悪感は消えるんじゃないかなと思うんですよね」Upload By 桑山 知之GOMESSがCM「見えない障害と生きる。」で書き下ろした楽曲『COMMON』は、Apple Musicなどで近日配信予定。本連載では、第2回以降も桑山知之が見えない障害のある人を取材し、社会で生きる上でのヒントを探っていく。平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。・2019年 日本民間放送連盟賞 CM部門 最優秀賞・2019 59th ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS フィルム部門Aカテゴリー ACCゴールド・第58回JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール 経済産業大臣賞・第57回(2019年度)ギャラクシー賞 CM部門 優秀賞取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海公式サイト
2020年08月03日熱心な無理解者に苦しめられて『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルの立石美津子です。障害のある子どもを育てていると、熱心な無理解者に出あうことがあります。・「障害というハンディがあるのだから、今、辛くても頑張らせることが本人の将来のため、それが愛情だ」と思っている。・こだわりはわがままの一種なのだから、応じてはならないと思っているところがある。・努力すれば必ずできるようになると信じて疑わないところがある。・苦手を克服させようと必死に努力させ、何でも一人でやらせようと試みる。・「どうやったらこの子は○○ができるようになるのだろうか」とできないことばかりにスポットを当てがち。・偏食を徹底して直そうとする。・本人にとって難しいことであったとしても、みんなと同じことができるようにさせようとする。・本人の意図を考えずに才能を開花させようと躍起になりがち。・「やればできる」と過度な期待を抱きがち。・「障害にともなう困難の改善」ではなく、「障害そのものの克服」を目的にしているところがある。子どものことを思ってくれているのはわかる、熱心に支援をしてくれようとする…でも、こうした行為は子どもを苦しめてしまうことがあります。熱心な無理解者という言葉は、児童精神科医の故・佐々木正美先生が提唱された言葉で、私の知人でもある公認心理師、臨床発達心理士、特別支援教育士スーパーバイザーの川上康則先生も「発達障害のある子どもについて【無理解・誤解・理解不足】などの状態にもかかわらず、熱心と言われるくらいの積極的な指導・支援を繰り返し、かえって当事者の状態を悪化させてしまう人のことを指す」とおっしゃっています。たしかに、熱心であることは非常に重要です。しかし、「本人のため」「良かれと思って」の部分が前面に押し出されてしまうと、本人にとっては「苦行」のように感じられるのではないでしょうか。自閉症の息子も、療育施設で苦手な音の克服の訓練をされた結果、その施設に行くことすら怖がるようになってしまいました。「本人のため」「良かれと思って」だけが一人歩きしない支援が必要だと常々感じています。子どもの気持ちを大切にする大人のあり方では、子どもに寄り添い、子どもの気持ちを大切にする対応とはどんなものでしょう。・できることを伸ばそうとする。・偏食を無理に治そうとはしない。・こだわりに十分に付き合い、信頼関係を築いた上で、こだわりの緩め方を一緒に考えてくれる。・大人本位の「こうあるべき」にとわられすぎない。・子どもの今の状態を受け入れている。子どもにとって安心できる人は、このような対応をしているのではないでしょうか。同じ場所で支援者によって対応が違うと、子どものさらなる混乱を招く更に困ってしまうのは同じ場所でも上記の2種類のタイプの人がいて、子どもに対して全く違う対応をするケースです。子どもは無理強いされたり、許容されたりして「何が正しいのか」がわからず混乱してしまいます。こうした状況を「ダブルバインド」と言うそうです。子どものほうも相手により態度を変える(怖い大人の前でだけおとなしくし、やさしい大人にはからかいを多く出すなど)といった誤学習をしてしまうかもしれません。これは「偏食をわがままとして許さない父と、受け入れる母」など家庭内でもおこりがちです。わがままとみなすか、こだわりと共存するか感覚過敏によって偏食がある場合、無理強いされることは、もしかしたら「芋虫を小さく切ってあげるから一かけらだけでもいいから食べなさい」と言われているような状況にあるのかもしれません。熱心な無理解者はとかく「自分だけの基準」で考えてしまい、子ども本人の苦しみ、辛さまで思い至らないのかもしれません…。とはいえ、わがままかこだわりか見分けるのが難しいこともあります。しかし、「その子が何にこだわっているか」をよく観察していると、その子にも譲れない部分があるということが見えてきます。例えば靴、同じデザインのものでないと絶対に拒否するという段階の子どもがいます。違うものを無理に履かせようとすれば自傷しパニックになることでしょう。でも、「〇〇を買って欲しい」などのわがままな要求のときは、自傷や他害よりも、その場で泣くだけといった様子が見られることがあります。安全基地の確保障害がある子どもにとって、社会にはさまざまな怖いもの、苦手なこと、わからないことがたくさんある世界のように見えるかもしれません。叱責されてばかり、無理強いされてばかりだと、自ら一歩を踏み出すことすら怖くなってしまうかもしれません。「安全基地(Secure Base)」としての大人の存在が不可欠です。「この世は怖くない、安心、安全なんだ」「先生や親は自分を脅かす存在ではない」「大人は自分を守ってくれる人間である」ということを幼いうちに十分に経験させることが大切だと思います。障害があっても、経験を積んでいけばやがて「人生には思い通りにならないこともある」ことをその子なりに体験します。大海原に出ても戻ることができる心地よい「港」のような存在がいれば航海の勇気も出ます。安心安全な居場所=安全基地さえ確保していれば、時期がきたら本人から苦手なことにも挑戦する勇気も出てきます。人生をスタートさせたばかりの時期は、特に大人との愛着形成をする大切な時期です。保護者も支援者も先生もそのことを忘れてはならないと思います。
2020年07月18日新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)により、私たちの生活は大きく変わりました。それと同時に、これまで見落とされがちだった問題点が浮き彫りとなり、改善に向けた動きも加速しています。お笑いコンビ『サンドウィッチマン』の2人は、2020年6月28日にYouTubeで公開された動画の中で、コロナウイルスが感染拡大を続ける中、聴覚障害を持つ人たちが直面している問題について言及。その内容に「伝えてくれてありがとう」と感謝と称賛の声が寄せられています。動画の中で、『サンドウィッチマン』の単独ライブを収録したDVDが、聴覚障害を持つ人たちでも楽しめるようにと、字幕が表示できる仕様になっている点について触れた、伊達みきおさん。続けて、コロナウイルスによりマスクを着用する人が増えた今、聴覚障害を持つ人が抱えている問題についても語っています。今さ、みんなマスクするじゃん。(マスクを着用した状態で)こうやってると、「何を喋ってるかまったく分からない」と。「怒ってるか笑ってるかも分からない」。喋ってると聞こえる方はいろいろ分かるけど。聴覚障害者の方って、口の動きで理解してることも多いんだって。もちろん、手話とかもありながら。口の動きで、例えば「おはよう」とか。(そしたら)おはようございますってなるわけですよ。【公式】グレープカンパニーチャンネルーより引用マスクの着用で口元が隠れることの問題点を、聴覚障害を持つ知人からの話で知ったという伊達さん。さらに、口だけでなく眉の動きでも、聴覚障害を持つ人たちは相手の話していることを読み取っているのだと紹介しています。その上で、伊達さんはマスクの中心部分だけが透明のフィルター素材に切り替わっている特別なマスクを紹介。口の動きが分かるため、聴覚障害を持つ人も、相手とのコミュニケーションがとりやすくなるといいます。【ネットの声】・聴覚に問題がある人たちに配慮し、字幕スーパーを入れていることを始めて知りました。素晴らしいです。・『サンドウィッチマン』の2人のように発言力のある人がいってくれたことで、こうした問題がもっと知られるようになればいい。・知らなかった情報を教えてくれて、ありがとう。聴覚障害を持つ人たちが、マスクで口元の動きが隠れてしまい、相手とのコミュニケーションに苦労していることは、以前から一部で指摘されています。そのため、行政機関では、会見に同行する手話通訳者のマスクを透明のものに切り替えるなど、対策がとられてきました。しかし、まだまだ聴覚障害を持つ人たちが一般にも周知されているとはいいきれません。コメントにもあるように、サンドウィッチマンの2人が動画で紹介したことにより、この問題が広く知られるきっかけになったのではないでしょうか。[文・構成/grape編集部]
2020年06月30日発達障害に関する質問は、私にだけ…『発達障害』のことを知った娘。前回までの話は一応完結しているのですが、今回は番外編です。発達障害について娘が疑問を投げかけてくるのは、私に対してだけでした。Upload By SAKURA私は、一つひとつ丁寧に答えながら、娘が夫には質問しないことが気になっていました。夫はいつも娘に対して真剣に向き合ってくれますし、療育に対して協力的。できればこのことを夫と共有したいと思っていたのですが、娘が夫に対して発達障害の話をすることはなく...気になってはいましたが、理由を娘に聞くことはせず、時間は過ぎていきました。「なんで秘密にしてたの?」初めて娘が、夫に質問。発達障害について話した日から2か月ほど経った日、娘は夫に向かっていきなり…Upload By SAKURA不意打ちの質問に私は、自分が聞かれたわけではないのに動揺しました。その質問は、私には聞かなかった初めてのものでした。しかし夫は全く動揺せず、まるで世間話をするかのように落ち着いて話し始めました。Upload By SAKURA私はこの夫の言葉を聞いて嬉しくなりました。娘に伝えていた内容自体ももちろんですが、特に嬉しかったのは「パパとママは」という言葉でした。夫の説明の中に隠れた、気づかい。少しでもブレない接し方をしたかった私は、これまでも娘とのやり取りを夫に必ず話して情報共有をするようにしていました。Upload By SAKURAそのため、娘からどんな質問をされたか、どんな会話をしたか、夫が把握しているのは当たり前なのですが…私が単独で娘に話をしていたのに、「パパとママは」という言葉を使った夫。Upload By SAKURA「ママが話したことは、パパと同じ考えなんだ」と言われているように感じ、知らないうちに考えや気持ちも共有できていたことがわかりました。「発達障害は治る?」それから、ちょっと考えた娘が今度は…Upload By SAKURA発達障害が治るか…を聞いてきました。私は、またドキッとしました。一般的には、発達障害は"治る"ということはありません。療育を重ね、やり方を変え、できなかったことが前よりスムーズにできるようになる…ということはあります。しかしそれを娘にどう説明すればいい?すると夫は…Upload By SAKURA聞かれていない私はいちいち動揺しましたが、夫は終始落ち着いて、娘にわかりやすいように話していました。夫の言葉と説明は、私の答え合わせ。今回のことで、私はまた一つ、夫の存在のありがたさを感じました。私はいまだ、娘とのやり取りに失敗して揉めたりしますし、『発達障害の自己認識』に関しては、冷静を装っても中身は動揺してばかりです。しかし、こういう場面でも冷静でいてくれる夫。普段娘のことに対応しているのは私ですが、夫はいつも、私が対応していることのまとめ…というか、決めどころ?というのでしょうか。最後びしっと締めてくれます。これがとてもありがたく、また安心します。私と娘のぶつかり合いの時は、多くを語らず、ダメ出しもせず、見守ってくれる夫。その態度も、私は「夫に信頼してもらっている」と感じ、頑張る糧になります。Upload By SAKURAそして肝心なところや、大事な場面では、大切な言葉を娘に伝えてくれる夫。私一人ではなく、常に黒子のように後ろに夫が構えていて、一緒に向き合ってくれていると感じます。娘とたくさん向き合って、たくさん話した私より、たまに出る夫の言葉のほうが娘に届いているように感じます。私はそれを悔しいとは感じず、私が対応してきたことの丸付け?答え合わせをしてもらっているように感じています。夫と娘の会話を聞きながら、あぁ…大丈夫…私間違ってなかった…と確認しています。Upload By SAKURA
2020年05月13日夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ「コウは発達障害かもしれない」と私から聞いた夫が最初に言った言葉は「え?コウはコミュニケーションとれてるでしょ?」でした。『かわいいわが子にまさか障害があるなんて…』というショックからの否定ではなく、本気で『え?問題なく意思の疎通とれてるでしょ?』と思っていたことから出てきた、夫の素直な反応でした。私も3歳児検診で指摘を受けるまで“コウはコミュニケーションがとれている”と思っていたので「分かる分かる…!」と頷きましたが、今後のことを考えれば呑気に共感している場合ではありません。「分かるー!けど困る~!」と頭を抱えながら、夫にどう理解してもらえばよいのかを考えることになりました。意思の疎通はできているのに?Upload By 丸山さとこコウは、コミュニケーションが全くとれていないわけではありませんでした。「はい」と言って渡したいものを差し出すことや、クレーン現象で“相手にやらせたいこと”を伝えたりすることはできますし、「いいよ」と「駄目」も分かります。でも、「お水ちょうだい」と人に要求して水を貰うことと、ウォーターサーバーのボタンを押して水を得ることの違いが、多分当時のコウには分かりませんでした。「イヤ」と言われて拒否されることと、ブザーが鳴って機能を停止することは、どちらも“音がして水を得られなくなった”という出来事ですが、その理由は全然違います。人間との間には、手順の間違いという言葉では単純に片付けられない“コミュニケーション”が存在しているからです。発達障害について少し知識を得た上で改めてコウを観察してみると、彼にとって要求とは“心を介したコミュニケーション”ではなく、ボタンを押すような行為なのだろうということが分かります。ですが、それを夫に伝えるのはかなり難しいのではないかと思いました。夫は多分定型発達者でコミュニケーションは私よりよほど上手に行えますし意図も汲めますが、気持ちを汲むことに関しては理解の解像度が低いところがあります。あれこれ例えを交えながら説明しつつも、「コウのコミュニケーション能力の遅れに対して、理解してもらうのは難しそうだなー!」と感じました。まずは“分かりやすいところ”から知ってもらう!Upload By 丸山さとこそうして頭を悩ませていたとき、ふと「コウの発達の凹んでいる場所が分かりやすい会話を聞いてもらえばよいのでは?」とひらめきました。コウの会話は基本的にエコラリア(オウム返し)によって行われていたので、挨拶などのやりとりが難しく、3歳になってからも「お名前は?」に対して「お名前は?」と返すような状態でした。 練習によって「お名前は?」「何歳?」などの受け答えができるようになりましたが、多分その練習風景は一般的な家庭のコミュニケーションとは異なるものだったと思います。まず、親が自分の肩に触れながら「お名前は?」と聞きます。次に、コウの肩に触れながら「丸山コウです」と“コウが言うべき言葉”を親が代わりに言います。それをリズミカルに繰り返してコウが「丸山コウです」と言うのを待ち、コウの肩に触れているタイミングで言えたら、素早く“コウが好きな刺激”を与えながら褒めて行動を強化します。そんな風にして“知らず知らずに行っていた療育”の結果、コウは一見すると会話ができる子に見えるようになっていたのですが、それは親の側が会話の歩調を子どもに合わせるからだと私は知っていました。Upload By 丸山さとこ後日「今からする会話を聞いていてくれる?」と夫を呼んだ私は、コウとの会話を始めました。「何歳?」「さんさい。」「いくつ?」「さんさい。」と違う聞き方でもスムーズに答えてみせたコウでしたが、「何歳ですか?」と聞いた時に『何を言われているんだろう?』という顔をして固まってしまいました。「何歳?」は教えられていても、「何歳ですか?」は教わっていなかったため、答えられなかったのです。夫はここにきてついに、「あー…これは確かに何かあるって感じがするな…。」と言い、“発達障害の可能性”に対して納得しました。夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ“息子は発達障害の可能性が高いらしい”と知った後も、夫は発達障害についての知識を積極的に得ようとすることはありませんでした。それはASDとADHDの診断を受けた今も変わることはありません。本やウェブサイトを少し紹介したことはありましたが、いつもパラパラッと見ては興味がわかずに終わるようなので、「無理強いすることもないか」と思い近頃はこちらから特に何かを勧めることはしていません。改めて考えてみれば、診断を受ける前から育児書などを読む人ではなかったのだから、診断を受けたからといって急に「本などを読んで勉強しよう!」とはならないのも当たり前のことなのかもしれません。そんな夫ですが、息子に全く関心や関わりがないかといえばそんなことはありません。公園やプールに連れて行ったりと一緒にお出かけもしますし、将棋を指したりして遊ぶこともあります。それだけでなく、前述のような“療育的な関わり”で挨拶を教えてくれたのも他ならぬ夫でした。痛いところを押さえて「痛い」と言うことも夫が教えてくれたおかげで、私はとても助かりました。そんな夫とコウの関わりを見ていると、「本やウェブサイトを読まなくても、夫はコウそのものから知識を得ているのだな」と感じます。それが夫にとって丁度良い、「発達障害のある息子」との関わり方なのかもしれません。Upload By 丸山さとこ
2020年04月30日発達障害のことを話してから1週間...何度も聞かれる同じ質問。娘に発達障害のことを話してから、1週間。それまで娘から『発達障害』について聞かれることは、全くなかったのですが…1週間を過ぎたころから、娘は3日に1回ぐらいのペースで私に「発達障害って…この家で私だけ?」と聞くようになりました。その度に私は同じ説明をしました。Upload By SAKURA娘は毎回、私の話を聞いたあとはそのまま去って行きます。私は、その表情から娘の気持ちを読み取ってあげることができず、ただ聞いているだけなのか、それとも何か不安を抱えているのかわかりませんでした。娘は『発達障害』をどう思った?このやり取りが何度か続いたため、私は娘が何を思って聞いているのか知りたいと思いました。そこで娘に聞いてみることにしました。Upload By SAKURA娘は、『発達障害』があることが「心配」と感じていました。私が思った以上に、娘は表面上だけではなく、深いところまで考え始めていました。困ったのは『障害』という言葉。今回、娘に説明をしていて私が一番困ったのは…Upload By SAKURAなぜこれが『障害』という言葉なのか、ということ。『障害』という言葉は、子どもにはとても説明しにくいのです。「発達障害」ではない別の言葉ならよかったと、この時ほど感じたことはありませんでした。(発達障害ではなく、個性強め型とか、〇〇タイプとか、「障害」がつかない呼び名にしてほしいと思いました。)恥じるべきことではないのに、人に使ってはいけないという矛盾を上手く説明できない葛藤もありました。Upload By SAKURA最初の説明は、きっとその後の価値観の土台になっていく…。自分の言葉一つひとつの重みを認識するたび、その大きな責任感に身が引き締まる思いでした。受け入れるまで、寄り添う。その後も間隔は少しずつ開いてきていますが、娘は定期的に「発達障害って…この家で私だけ?」という質問をします。Upload By SAKURAその度に、こんな会話をします。ただ、心配なことばかりではなく…Upload By SAKURAこんな前向きな会話も、たくさんあります。娘は、『発達障害』を知ったばかり。何度も質問するのは、まだ受け入れることができていないということなのでしょう。私だって何年もかかったのです。娘もゆっくり受け入れてくれればいいと思って、聞かれる度に何度も答えています。
2020年04月22日順調に活躍していたイヤーマフ。聴覚過敏で体調不良を起こしていた娘。試しに使ってみたイヤーマフは、大活躍してくれました。嫌な音を遮断できるということですっかり気に入り、常に持ち歩いて、放課後等デイサービスで集中したいときや学校で一人になりたいとき、家で読書をするときなどに愛用していました。Upload By SAKURAイヤーマフがきっかけで目に留まった言葉。そんなある日、放課後等デイサービスお迎え時…Upload By SAKURA私はドキッとしました。すると、娘は続けて…Upload By SAKURA「自分が発達障害か」を聞いてきました。今まで私は、娘に『発達障害』という言葉を使って娘の特性について話したことはありませんでした。娘の特性について話した経緯。言語訓練に通う理由を聞かれたので…Upload By SAKURA簡単に理由を話しました。娘は「言葉が苦手」というのを、マイナスには捉えなかったようで、気がつけば周りの人に対しても「私はね、言葉が苦手なんだよ」と自ら説明するようになっていました。2年生から特別支援学級に在籍になった娘は、慣れるために1年生の後半から特別支援学級の教室に行くことになりました。そのときに、『特別支援学級に行く理由』を説明しました。Upload By SAKURAその後、2年生から本格的に特別支援学級在籍になったときに、もう一段階詳しい話をしました。Upload By SAKURA娘は気にするどころか、長い時間特別支援学級にいられることを喜んでいました。「障害」という言葉を耳にすることが多くなってきて…それから時間は経ち…2〜3年生になると「障害」という言葉を授業やテレビで聞くことが増え、障害のある人が世の中にいるということを知るようになりました。Upload By SAKURAこのときから私は「いつか娘に『発達障害』について話す日がくる…」と考えていました。どんな状況で聞かれるのか…どんな風に答えようか…想像し、ずっと頭の中でシミュレーションし続けていました。そして、聞かれたときのために決めていたことがありました。そのときのため、決めていた3つのこと。『発達障害』のことを話す最良のタイミングは、聞かれたとき。あまりに幼いときは話す必要はないと思いますが、娘はもう小学生。専門的な話はしなくても、そういう特性について、言葉を選べば説明していいと考えていました。Upload By SAKURA真剣な顔や暗い表情で話してしまうと、これは悪い話だと思われてしまいます。話すときは、普段の会話のときと同じトーンで、なるべく表情は変えない!少しでも誤解を与えたくないと思いました。Upload By SAKURA『発達障害』に対して、「これ以上聞かないで」という対応は絶対したくないと思っていました。聞きたければいくらでも話す、聞いてはダメなことではないと娘に態度で示そうと思いました。Upload By SAKURA何度もシミュレーションして、これは絶対に守ろうと決めていたことでした。シミュレーションは完璧だったはずだけど…しかし、そのときは思った以上に突然やってきました。まさか、イヤーマフから繋がるとは…!イヤーマフを購入したときは、そんなこと想像もできませんでした。Upload By SAKURAあんなにシミュレーションし続けていたのに…いざ聞かれると私の心臓はドキドキ音を立て、動揺が一瞬で全身に広がりました。しかし、動揺してはいけない!返事に間を空けたら、娘に変に思われる!と決めていたことを思い出し、自分に気合いを入れ、ついに娘に話すことにしました。続く…。
2020年03月25日専門家に質問!悩みをシェア!オンライン保護者会を実施子どもと親のみで家の中で過ごしていると、不安な気持ちになったり、不安定になっている子どもをどうサポートしていいか分からない…と感じている皆さまも多いと思います。先日LITALICO発達ナビがユーザー向けに行ったアンケートでも、子どもが不安定だという回答に続き、保護者自身もストレスを感じているという声が多くありました。Upload By 発達ナビニュース寄せられた声の中には、次のようなものもありました。「気持ちのバランスを崩し、特に寝付きが悪い。一日に何度も突然のハイテンションと突然の沈黙を繰り返したり、ADHDの困り事が急増。慣れたと思っていた社会性が必要な場への緊張感が増してしまい、自傷行為が目立つ」「課題を親が管理しなければならない。あれこれやれと言えばキレたりして物に当たる。本人もどう手をつけて良いか分からなくなっている」「兄・姉・妹トラブル。常に衝突をする。3人共に発達障害がありトラブルの連続」「暴れないかヒヤヒヤ。服薬させお腹を満たしあまり強く言わない」など、休校措置が続く中、家の中で精神的にもぎりぎりの状態で過ごしている様子が見受けられます。そこで、希望される保護者さま向けに、オンラインの保護者会を実施いたします。1回45~50分程度の開催です。臨床心理の専門家が皆さまのお悩みにこたえ、発達ナビ編集長・牟田がファシリテーターをつとめます。各回10~15名程度で行う予定です。オンライン保護者会は次のような流れで行います。なお、保護者会にはZOOMを使用いたしますので、ZOOMアプリのインストールが必要となります。1、オンライン保護者会希望フォームに入力参加希望の日程、質問したい内容、お名前、ご連絡のとれるメールアドレス等必要な情報をご入力いただきます。なお、ご質問いただいた内容について事前に専門家が確認をさせていただきます。2、ご参加いただける日程とZOOMミーティングのURLをメールでご連絡いたします。3、指定の日時になったら、アプリからミーティングにアクセスし、ご参加いただきます。他の保護者の皆さまも参加しているグループ形式のミーティングです。※ご希望多数の場合はすぐのご案内が難しい場合がございます。※開催日程は平日日中となります。※2020年3月16日~4月5日の間の開催予定となります。応募者多数の場合途中で締め切る場合があります。※ご利用方法はご参加者に事前にご案内予定です保護者アンケートで「心配ごと」1位は「子どもの学びの機会の喪失」先日実施した、発達ナビユーザーへのアンケート。その中で聞いた「心配なこと」の1位は、「子どもの学習機会が大きく減ること」でした。Upload By 発達ナビニュース発達ナビでは、放課後等デイや児童発達支援事業所などに向けて、研修・教材サービスの提供を行っています。すべて専門家監修の特別支援教材です。今回、このサービスの一部を急遽長時間開所に対応することとなった全国の事業所向けに開放することとなりました。そしてさらに、保護者の皆さま向けにも、その一部を無料でご利用いただけるようにします。ご利用いただけるのは次のカテゴリーの教材です。「3歳〜小学校低学年まで楽しめる難易度別の楽しい工作」「かず、ひらがなの楽しいプリント」「ソーシャルスキルサポートのアイテム」<参考>【無料提供】全国の児発・放デイ・学童を応援! 発達ナビの研修教材サービスを一部無料提供ご利用を希望される保護者の皆さまは、申し込みフォームへアクセスしてください。お申込みいただいた方専用のサイトから、必要な教材をダウンロードしてご使用いただくことができます。Upload By 発達ナビニュース施設向け研修教材サービスの一部無料開放についてはコチラ
2020年03月11日「自分が障害者だって、自分で明かしてはいけないの⁉」――息子の不服げな表情を見て改めて考えた、「障害」という言葉のイメージについて小学4年生の息子が、ある日「腑に落ちぬ」と言わんばかりの表情で帰宅した。彼はADHD(注意欠如多動性障害)傾向もあるASD(自閉症スペクトラム障害)当事者。約1年半の不登校生活を経て復学、最近また休みがちではあるものの、通常学級に籍を置きながら特別支援学級を利用しており、次年度からは特別支援学級への転籍が決まっている。発達障害は「見えない障害」とも言われており、息子や私も、ぱっと見では障害を抱えているとは分かりにくいだろう。そんな息子が4年生になってから、特別支援学級を利用し始めた――通常学級のクラスメイトたちからしたら、不思議だったに違いない。なぜなのかと彼らから理由を聞かれた息子は、「発達障害があって、感覚過敏などがあるから」というようなことを伝えたのだという。すると、「障害者とか、そういうことを言ってはいけないんだよ!」とたしなめられたのだそうだ。息子にしてみれば「質問に対して誠実に答えただけで、なぜ叱られるのだ」という気持ちになるのは当然だ。「誰かの秘密を勝手にしゃべったわけでもないのに…」などと、ブツブツひとりごちていた。「障害って、悪いことだとか隠すべきこと、みたいなイメージがあるからなあ」隠さざるを得ない事情や場面があることを重々知りつつ、私は息子へと言葉を投げかけた。「本当はそんなことないんだけどね」すぐにそう付け加えて。前回も書いたように、「障害」とは「人と社会の間に生じたずれ」だと思っているし、近年はそうした考え方も広がりつつあるが、まだまだ障害という言葉に対するイメージはよろしくない。「障碍」や「障がい」の表記や別の呼称を使おうと行政などが推し進めたところで、本質的なところは何も変わっていないというのが当事者としての印象であるし、「障害」という言葉、あるいは診断名が、揶揄の言葉として使われているのが現実だ。(今ふと思ったのだが、件のクラスメイトたちは「障害などの言葉で人を罵るのはいけないことである」というご指導を、親御さんから受けたのかもしれない。それが頭の中で「障害と言ってはいけない」へと変化した可能性がある)私は学童期にてんかんを発症しているため、「障害者」というラベルを手にしてからの生活はそこそこに長い。本当は良くないのだが、自分が受ける差別にはある程度慣れっこで、障害名で揶揄されたところで「はいはいそうですよ」と聞き流すことができる。最近は「障害という言葉や診断名が揶揄に使われ続けたら、誤ったイメージは広がる一方だな」と考え、冗談さながらの軽口であっても、「その言葉を聞き流すことを、私はやめることにした」とお伝えしているのだが、とにかく、傷つくことはほとんどない。しかし、自分ではない相手にそうした言葉が向けられているのを見聞きすると、なぜだか落ち着いてはいられない。ADHD性による衝動を用いて発言なさった方のもとに駆けつけ、直後にASD性を発動、「発達障害という概念やアスペルガーとも呼ばれている自閉症スペクトラム障害についての簡単な説明と、“頭が悪い”ということについてのあなたの定義を伺ったのち、障害と頭の良し悪しは必ずしも関係しないこと、そして“真に頭の悪い人など存在しないのでは”と私が思うその理由を説明させていただけないだろうか」などと申し上げたい気持ちになるが、そんなことをすれば本末転倒、障害のイメージ悪化に拍車をかけてしまうこと請け合いだ。そのうえ私は気が弱い。そんな大それた行動を起こせるわけがない。歯がゆさを抑えられないまま、「どうしたもんかね……」とうなだれるぐらいしかできないのである。支援に必要な情報である障害を容易に明かせない現状について、「障害」というラベルを長年持ち続けている私が思うこと前項に書いたように、私にとっての障害名は、自分について説明を要する際に使うラベルやカードのひとつであるという認識だ。「努力や我慢では克服できないレベルの苦手がある、ただし、こうした方法なら可能だ」と説明するためのものであり、もちろん診断名を出さない方が話が早そうなときはそうするが、障害を明かすことに抵抗はない。そして私は、「我々はどうやら発達障害というものの当事者であるらしい」と息子には早いうちに告げており、息子も息子で「なるほど。早めに分かっていれば、有事の折に対応もしやすかろう」とばかりにあっさり受け入れていた。「ゲームは夢中になり過ぎて時間を忘れがちだから、アラームをセットしよう」と自ら対策を講じたり、「自分は感情をその場で認識できないことがあるが、あとから友達に気持ちを伝えるにはどうしたらいいのだろう?」と私に聞くなどはするが、普段は自分が発達障害の当事者であることを、さして意識していないように見える。それは私も同様で、こうしたコラムを書くときや、発達障害についての情報に触れるときなどは発達障害当事者であることを意識するが、平時は「自分の一要素」に過ぎず、見えてはいるが注視はしない。しかし、ネットなどでは「子どもへの障害告知は慎重に。本人のアイデンティティーを揺るがしかねないデリケートな問題です」「障害という単語にショックを受けてしまうケースも考えられます」などと書かれており、私はのけぞった。「本人のアイデンティティーを揺るがしかねないデリケートな」障害告知を、「晩ごはんはカレーだよ」ぐらいの軽いノリで済ませてしまったからだ(もちろん、どのような行動特性が該当するかなども説明はしたが)。当時の私が発達障害を抱える方々の現実について、全くの無知であったからこその行動である。物分かりが良く、自ら質問してくれる息子であったことや、障害をネガティブなものと捉えずにいられる環境があったからうまくいっただけ。分かっている。とはいえ何かが引っかかる。『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』の中で、児童精神科医・臨床心理士の姜昌勲氏が下記のように書いていらした。発達障害は、「治療しなければいけない障害」ではなくて、「支援するために必要な病名」であるとともに、「かけがえのないその子の個性」でもあるのですから。「発達障害はニセの病名?」『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』(宋 美玄、姜昌功、ほか/星海社新書)P92より「支援するために必要な」情報を聞いた子どもがショックを受けたり、明かした人から不当な扱いを受けたり、ネガティブなイメージを抱かれるのはやっぱりおかしい。「実は発達障害で」「ふーん、そうなんだね」でいいじゃないか。もちろん私は「発達障害の当事者は誰もが、その事実を明かすべきだ」とは思わないし、「実は自分も発達障害で」とこっそり打ち明けてくれた方の話を他人に話す気にもなれない。それは、今の自分が、発達障害に関しては、明かしても差別される機会の少ない環境に身を置いているだけだと自覚しており、かつてはてんかんで「隠しても地獄、明かしても地獄」を体験しているからだ。だからこそ、悔しくてたまらないし、憤りさえも感じている。必要な情報を、誰もが気軽に明かせない現状に。「障害はその人が持つ事実ではあるが、人格そのものではない」と思う私に向けられた、友人からの嬉しい言葉Upload By 鈴木希望ところで私は、かばんにいつもヘルプマーク(外見では分かりにくい疾病や障害のある人が、配慮を必要としていることを知らせるためのピクトグラム)を付けている。私が住む新潟県でも配布されてはいるが、まだまだ認知度が低い印象がある。あるとき、私のヘルプマークを見た友人が、「これは何?」と尋ねてきた。彼女は帰郷してから知り合った人で、発達障害つながりではない。子ども同士が仲良しだったことからつながった、いわゆるママ友だ。私がヘルプマークの概要を簡単に説明して、「私はてんかん発作を起こしたり、発達障害からくる感覚過敏があって、パニック発作を起こす可能性があるんだ。だからそうしたときに適切な対応をお願いできるように、このマークを付けているんだ」と話した。すると彼女は「そうなのかー。てんかんのことも発達障害のことも私はよく分からないけど、手伝えることがあったら教えてね!」と微笑んでくれたのだ。(そう…!これ!これなんだよ!こういう対応が嬉しいの…!)感激屋の私はむせび泣きそうになるのをぐっとこらえて、「うん、ありがとう!お願いするね!」と返した。差別されたくないのはもちろんのこと、同情が欲しいわけでも、特別扱いされたいわけでもない。いつでも誰に対しても助けを乞うつもりはないし、自分ができる範囲内なら、ほかの誰かが困っているときにはサポートだってしたい――私が知る限りではあるが、多くの障害当事者はそう願っている。障害を感じにくい人たちもそうであるように、障害当事者にも純粋な人もいれば卑劣な人もいる。障害を理由に差別されていることを逆手に取ってひらりとかわす、狡猾でありながらもどこかキュートな友人の話もいずれ紹介したいが、それは一旦横に置く。とにかく「障害」というのはその人に関する事実ではあるが、人格そのものではない。「実は発達障害で」「ふーん、そうなんだね」ぐらいの扱いになってほしいと願うのは、傲慢なのだろうか。重要なのはラベルではなく中身。「障害」という言葉のイメージを変えたい私が考えた、あえての遠回りさて、息子の話に戻る。「障害って言ってはいけないのなら、これからどういう風に説明したらいいんだろう…というか、障害は悪いことじゃないんでしょ?なのに…」まだ「解せぬ。世の誤ったイメージのためになぜ自分が厄介なことを考えなくてはならぬのだ」という思いがにじみ出る表情の息子に、私は代替案を伝えた。「最初に障害って言葉を言わないでさ」「え⁉言ってることが矛盾してる!!」「分かってるよ。でも、誤解されるなら最初は避けた方がいいんじゃない?で、今回は特別支援学級を利用している理由を伝えたいわけだよね。だから、例えば“チョークで黒板に書く音で耳が痛くなったり、たくさんの人のひそひそ声で先生の話に注意を向けにくくなって、授業を受けることに障害を感じてしまうから”とか、困っていることの具体的な内容と、“障害というのは、困っていることという意味なんだ”と受け止めやすい言葉で伝えたらいいんじゃないかなあ?」幸い、クラスメイトたちは息子の特性を、なんとなくかもしれないが理解してくれているようなので、これで十分に伝わるだろう。「そのときになったら、そんな説明できるかな…」「じゃあ、“通常学級で授業を受けていると、困ったこと、障害がいろいろ出てくる”とかはどう?そこで質問してもらえたら具体的に言えばいいし、ふーんで終わればそれはそれでいいと私は思うが、どうかな?でも、障害っていう言葉を使う必要はないかなと私は思うよ。伝えたいのは障害の中身であって、障害という単語じゃないんだから」私の提案を受け、息子はまだ納得できていない様子だったが、少し考えてから「そうか…そういうことが障害なんだって後から分かってもらえたらいいのかもな…」と、誰に向けるでもなく、つぶやいていた。「障害」という言葉に付きまとう悪いイメージをなくしたい私が「障害」という言葉を避けるような表現を選ぶのは、息子が申すように矛盾も甚だしく、本末転倒とも言える。しかし、障害を明かさなければならない場面において重要なのは、「障害」というラベル以上に、「なぜそうしたラベルを持たざるを得ないのか」という理由、ラベルを示す人それぞれの困難の詳細についてというケースが多いように私は感じている。ならばそちらを優先させて、追々「障害」という言葉との紐づけを行う方が、遠回りのようだが、実は効率良くイメージの変化へとつなげられる道なのではなかろうか。その前に、発達障害については誤解をなくすことや、地域による情報格差など、片づけるべきさまざまな問題があるのだが…。「障害」という言葉のイメージが変わり、障害のある人たちへの偏見がなくなることに従って、人と社会の間のずれも消えていき、あらゆる人が助けを求めやすい世の中になる――なんて、現状では夢物語だ。しかし、そのような未来が訪れることを、私は願っている。そのためにも私はもっともっと学びたいと思っているし、感覚のアップデートも忘れたくない。
2020年03月08日お金の使い方や予定の管理ーー必要な力の身につけ方を学ぼう『未来に飛び立て!発達の気になる子の大人になるためのチャレンジ〈学齢期編〉 』将来就職できるのか、ひとりで生活していけるのかーーなど、子どもが成長するにつれて悩みの種類が変わってきたという方も多いのではないでしょうか。大人になる前に身につけて欲しい行動はたくさんありますが、家庭でどのように教えていったらよいのでしょう。3つの章で構成される本書。第1章では中高生の親子からの相談に対してのアドバイスや、子どもへの関わり方の解説など、思春期の子どもに身につけてもらいたいスキルや親の接し方が紹介されています。そして第2章では身だしなみや家事、お金やスケジュールの管理、コミュニケーション方法など具体的な行動について、用意するもの・やり方・工夫や配慮などがイラストも用いながら細かく説明され、その後の第3章では家庭学習、ゲームや動画サイトの閲覧など、気になる人が多いテーマについてさまざまな家庭の取り組みやエピソードを紹介するなど、実践的な内容を多数取り扱っています。スキル獲得の具体的な方法を紹介しながら、保護者の悩みや子育ての難しさにも寄り添ってくれる一冊です。家族関係や結婚生活など、当事者女子の体験談『#発達系女子 の明るい人生計画 ―ひとりぼっちの発達障害女性、いきなり結婚してみました』著者の宇樹義子さんは、子どものころからいじめを受けたり、心身の調子を崩したり、社会に出てからも職場の人を怒らせてしまったりと、多くの生きづらさを抱え、32歳で診断を受けた発達障害当事者です。過去には10年にわたるひきこもり生活も経験してきた宇樹さん。そんな宇樹さんは、発達障害について自覚しはじめた年の翌年に突然結婚します。結婚後、たびたびの離婚危機を乗り越え夫婦生活を安定させていく様子も、自身の特性と絡めて分析しながら綴っています。現在は福祉系ライターとして働きながら明るく毎日を過ごす宇樹さんの、波乱万丈な人生が詰まった書籍です。家族との複雑な関係や結婚までの過程とその後の生活、抱えていたトラウマの問題など、大人の当事者だからこそかける赤裸々な体験談は、当事者が読んでも保護者が読んでも参考になりそうです。『感情や行動をコントロールできない子どもの理解と支援: 児童自立支援施設の実践モデル』本書の著者である大原天青(おおはらたかはる)さんは、ソーシャルワーク・福祉心理学・非行臨床を専門とし、実際に児童自立支援施設で子どもを自立に導く支援活動に携わり、さまざまな研修に参加して得た知識をまた現場に還元し続けています。大原さんが、感情や行動を自分自身でうまくコントロールできない子どもたちを支援するときに必要とされる、子どもの心理を読み解く理論やアプローチ方法を、仮想事例を用いて分かりやすく解説しているのがこの本です。子ども本人との向き合い方から、生活の基盤となる家族や地域環境との関わり方といった環境へのミクロアプローチ、社会システムのあり方のようなマクロ環境へのアプローチまで、児童自立支援施設で過ごす子どもたちの支援について、幅広い視点から説明されています。支援者がより質の高い支援を提供するために知っておきたい研究や実践の知見が詰まっており、児童福祉施設で働く人や心理職、教員など、子どもと関わる機会のある人に読んでもらいたい一冊です。学校で取り入れられる、吃音のある子への具体的な支援方法を紹介『イラストでわかる 子どもの吃音サポートガイド: 1人ひとりのニーズに対応する環境整備と合理的配慮』「クラスに吃音のある子がいるけどどう対応したらいいのか」「吃音のあるわが子、ちゃんと学校生活を送れているかしら」といった不安を持つ先生や保護者に向けて、学校のさまざまな場面で必要な支援や配慮がまとまった本書。著者の金沢大学教授の小林宏明先生ご自身も吃音当事者です。吃音の症状の種類の分かりやすい説明と、症状がどのようなときに出るのか、そのとき本人がどのような気持ちでいるのかがイラスト付きで解説されています。日直や国語の授業の音読、委員会活動など、学校生活の中で多くある場面に基づいた事例が多数掲載されており、支援の工夫も具体的に紹介されているので、実際の学校生活の中で無理なく実践できそうです。クラスでの支援以外に専門的な支援を提供する場についての解説、支援者が作成したい支援計画や本人の自己理解促進のために活用できるワークシートなどもついており、吃音のある子どもを総合的に支援するために必要な情報が詰まったガイドブックです。定義から最新の支援ツールまでがまとまった専門書『LDの定義を再考する』知的発達に遅れがなく、おもに「読む」「書く」「計算する」「推論する」能力のうち特定の能力の習得や使用に著しい困難さがあることをさすLD(学習障害)。本書は、日本LD学会が主宰する日本LD学会第28回次大会で企画されたシンポジウム5回分の内容が載せられており、LDに関する専門的かつ最新の情報がまとめられています。LDが定義されるまでの過程について述べられた第1章からはじまり、これまでのLDの流れからLDの未来にかかわる技術までが紹介されており、この1冊だけでLDのこれまでとこれからを知ることができるよう構成されています。また第3章では、実際にLDと診断もしくは判断したあとの対応に関する議論内容や、ICT活用方法、LDのある子への指導法が分かりやすく解説されているほか、第4章ではLDのある子どもに対する合理的配慮について、小学生から大学生にいたるさまざまな年齢にあわせながら、多面的な切り口で述べられています。LDの基礎から具体的な支援方法まで分かる、支援に携わる人が知っておきたい内容が詰まった専門書です。
2019年11月15日