滝川英治絵本『ボッチャの大きなりんごの木』を出版し、パラリンピックの開会式に出演するなど活躍の幅を広げている滝川英治さん(42歳)。絵本は発売後すぐに重版が決まり、連続ドラマ『最愛』の読み聞かせのシーンで使用されたことも話題になっている。ドラマの撮影中の事故で脊髄損傷という大ケガを負い、ドクターヘリで病院に緊急搬送され、一時は命も危うい状況になった滝川さん。想像を絶する過酷な体験をしてきた彼が、新たな夢を実現させるに至った過程について取材した。■いとこのクリステルへの出産祝い2020年初春、エッセイ『歩―僕の足はありますか?』(主婦と生活社刊)を出版したころ、すでに絵本を作ろうと動き出していたという滝川さん。そのころ考えていた構想は、3匹のワンちゃんの話だったが、『ボッチャの大きなりんごの木』はまったく違うストーリーとなった。「実は、いくつかの物語を持って出版社を行脚しました。自信はありましたが、そう簡単にはいきませんでした。同時期に、絵本の構想とは別に、東京パラリンピック競技の絵も描いていました。パラスポーツ番組のMCを2年間やらせていただいており、僕なりの角度で描く物語が思いのほか好評で、そこから試行錯誤を重ね、今のボッチャの世界観が生まれたんです。ボッチャというパラスポーツの競技の無限の可能性が僕の伝えたいメッセージと重なり、ストレートに僕の想いを描きました」出版社へは滝川さんの姉が度々同行し、描いた絵は母親に見せては感想をもらうなど、家族の手助けもあったという。「甥っ子姪っ子からは子ども目線でのアドバイスをもらいました。そんな中、いとこのクリステルが小泉進次郎さんと結婚し、子どもが産まれるということで、絶対に出産祝いに絵本をプレゼントしたいというモチベーションになりました。締め切りまでの3か月あまりは睡眠時間2時間ぐらい。家族には内緒にしていましたが……」運動神経バツグンで、恵まれた体躯でハードな舞台にも出演してきた滝川さんだが、事故後は少し無理をするとすぐに高熱が出てしまうようになってしまった。それでも絵本作りに没頭できたのは、3年前に他界した父親の存在が大きかった。「僕は事故後も、東京でのひとり暮らしを望みました。東京でまだ夢を追いたいと思っていることを伝えると、父はそんな僕に対して“わかった。そのかわり二度と大阪に帰ってくるな”とケツを叩いてくれました」ほかの家族は心配し大阪の実家に戻るようにと言ったが、父親ひとりだけが背中を押してくれたという。「そのときに父の厳しさと優しさを噛み締めました。そんな父への感謝の気持ちを絵本のカタチにして報いたかった。天国にいる父に、少しでも安心してほしかった。夢を見つけて、俺は前を向いてるからもう大丈夫だよと」事故がなければ、思いもしなかったであろう絵本を出版するという夢。発売の2か月まえに描き終えた瞬間は、達成感と安堵でいっぱいだった。「この本は事故後の4年間のすべてと言っていいくらい、僕の魂の作品なので、もう感無量です。描き終えたその日は、朝からの雨空がふと外を見たら青空へと変わり、きれいな二重の虹がかかっていました。“頑張った!お疲れさま!”と父に言われている気がしました。ただ正直、僕にとったら描き終えた時点でもう過去のことになっていました」■生きることは想像&創造すること4年間の全てをかけたという絵本に込めた思いは、どういったものなのだろう。そこにはどんなメッセージを込めていたのだろうか。「絵本における内容的なメッセージは特にないんです。読者に対して、求めること、教えたいと思うこと、伝えたいことなど、押し付けがましい限定的なメッセージは何ひとつ考えていません。テーマ性とか教育的な見地を求めてしまうと、特に子供たちはそういう匂いをすぐに嗅ぎつけて、絵本から離れていってしまうと思うんです。絵本はあくまでも楽しいものであって、それ以上のことは必要ない。感覚、直感的に感じるもの、そのすべてを尊重したいですし、すべてが正解であるべき。子供が自分の感覚を信じ、子供の感覚が尊重される経験をすれば、後々つらいことや苦しいことがあっても、きっと乗り越えていけると思うんです」大変な経験をしてきたのだから、感じてほしいメッセージがあるのかと思っていたが、そうではないという。絵本もお芝居も芸術も、すべてのエンターテイメントは「想像と創造において自由で多様性の象徴になるべきもの」と考えているという。そんな中で人が「生きる」ということを考え続けた滝川さんが感じたのは「生きるのは存在することではなく創造すること」。「それは、常に何か新しいこと、何ができるのかを追い求める姿勢。『想像』と『創造』のサイクルを繰り返すことで、人は『生きる』ことを実感できると思っています。それがスムーズにできる社会が僕の理想で、僕が考えるインクルーシブな社会は、個人の創造の可能性に対して、適切なエネルギーが供給される社会です」九死に一生を得て、生きること、自分が生かされた意味について人一倍考えてきた滝川さんが辿り着いた答えだった。「特にその力が豊かな子どもは年をとって大人になっていくにつれて、見える色や感じる味が変わってきます。僕たち“障がい者”という、子ども達の概念の枠にはまらない存在から、何を感じるかなんて、それはさまざまで、ピュアでユーモアがあって、ときに残酷で、それが真実だと思います。こうなんだと伝えたり、教えることよりもまず、大切なのは自分自身が感じること。そして考えること。そして教わるのではなくて、ともに話し合うことが大切だと思います。ともにクリエイトできる『発想絵本』になってほしいなと思います」車イスで生活しているなかで、すれ違った子ども達に好奇の目で見られたり、不思議そうな反応をされ、つらいと感じたこともあった。日本は障がい者が特別な存在のようになっているから、子ども達の反応ももっともだと思うし、否定するのは違うと感じるという。「ただ、この絵本1冊だけでは伝えきれない包括的なメッセージはあります。僕は、絵も脚本も素人で、世間的に評価されるものでもありません。でも、僕の絵本にかけてきた4年間の想いは、誰にも負けるつもりはないですし、この夢に向かって突っ走ってきた4年間は奇跡で僕の誇りです。何度も跳ね返され、一時はダメかもしれないと下を向きそうになったこともありました。でも諦めなかった。人はこけてもこけても、何度でも這い上がれるということを、今さまざまな障壁にぶち当たり闘っている方たちに、そして今の僕自身にも、身をもって証明したかったんです。この作品は僕の『魂』で、まさに僕自身だと思います」「僕自身」とまでいえる絵本の出版後の反響はとても大きなものだった。多くの人に読まれ、すぐに重版が決定。絵本のランキングでも上位を獲得する。「友人知人、ファンの方、さらには教育関係者の反応が高いことに驚いています。学校の朝礼で校長先生が僕の絵本に触れてくださったり、小学校での読み聞かせや授業で扱ってくださったりしていると聞きました。さらに、尾木直樹先生もSNSで紹介してくださいました。もっとたくさんの方の感想を聞きたいです」■叶えたかったもうひとつの夢事故で入院し、意識が戻ってすぐに描いた夢は2つあった。ひとつは絵本の出版、もうひとつがパラリンピックに関わることだった。滝川さんは、なんと同時期にこの夢を叶えたのだ。「パラリンピックに関わりたいという夢も、僕を前に突き動かしてくれた生きる糧だったので、どうしても掴みたかったです。開会式の出演にあたり苦労したことは、ひとつもありません。オーディションもですし、肺活量を上げるトレーニングやボイストレーニング、どれをとっても、楽しくてしようがありませんでした。ひとつあげるなら、誰にも言ってはいけない“極秘事項”だったので、親しい方に言いたくてもそれを我慢するのが大変でした(笑)」俳優として舞台に立っていたときは、劇場中を支配するような声を生み出していたが、その肺活量は事故で激減した。一時期は呼吸器の装着で、声も失っていたほどだ。今でも常に身体の痛みはあるはずだが、そんな姿は一切見せない。事故後にパラスポーツの魅力を伝える番組のMCとして活動してきた滝川さんが、パラリンピックを見た後に感じたことがあるという。「どんな人でも焦らず諦めなければ、スーパーマンのように強く美しくなれると改めて思いました。人種・性別、年齢・価値観や障害の有無も関係なく、一人一人の違いを認め、多様な生き方に触れることで、個性や才能のある人たちが能力を発揮できる社会の実現を目指していくべきだと思います。日本もこうした“多様性”の捉え方が進んできているけれど、さまざまな物事の判断において、まだまだ旧態依然とした価値基準が残っているように感じます。これからのグローバル社会において、日本でもダイバーシティという考え方を標準化させていく必要性があると思います」滝川さんは有言実行の人だ。これからの夢は何だろうか?「これからの夢は、最後にもう一度だけ俳優としてのステージに立つこと。そして自分の力で歩くことですね。『ボッチャのシリーズ化やボッチャのその後は?』いう話もあるのですが、僕自身は今のところ次の構想は考えていません。僕自身がこれから、もっとさまざまな体験をし、視野を広げて成長できたときには、自ずと伝えたい、描きたいという気持ちになると思います」夢を叶え、また新たな夢を描くのは簡単ではないはずだ。事故から現在までで、夢を支えてくれる出会いはあったのだろうか?「事故にあってたくさんの人の温かみに出会ったのはもちろんですが、事故にあって生活が一変してしまった『今の自分』との出会いですかね。今までは絶対に出会うことが出来なかったはずの自分がいました。今は、そんな今の僕から目を背けずに毎日自問自答して大切にしていこうと思います。学ぶことや今まで気づけなかった新しい境地に感動さえします」新しく出会った今の自分のことを、好きになったり嫌いになったりの繰り返しだと滝川さんは笑う。「それでも、僕は……僕ですから。僕はまだまだ弱いです。だからこそ強くなりたい。たとえ人に笑われても、限界は自分で決めません。人の可能性は無限にあると思います。まだまだ続く僕の道を楽しみにしていてください」滝川英治(たきがわ・えいじ)1979年、大阪府出身。俳優。「リポビタンD」のCMでデビュー後、ドラマ、映画、CM、バラエティー番組やミュージカル『テニスの王子様』などの舞台で幅広く活躍。2017年、ドラマの撮影中に自転車事故に遭い脊髄損傷の大けがを負う。車いすでの生活となったが、懸命のリハビリでテレビ番組のMCとして仕事に復帰した。現在は、バラエティー番組『Smile again!~人生宝箱~』(BSスカパー!)の MCを務める。著書に『歩』(主婦と生活社)がある。
2021年11月28日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「東京オリパラ」です。パラの成長を見た東京大会。認知に広がりも。東京オリンピック・パラリンピックは大会としては結果的に成功だったように思います。無観客でさまざまな制約があったにせよ、特にパラリンピックは過去の大会に比べると注目度もたいへん高く、史上最多の4403人の選手が参加しました。アフガニスタンでは開催直前に政変が起き、選手が大会に参加できず他国に逃れるという事態に。開会式では国連難民高等弁務官事務所の方が代わりに国旗を持って入場行進をし、最終的にはサポートを得て2人の出場が叶いました。女性選手も、LGBTQをカミングアウトする選手も、これまでの大会以上に参加が増えました。僕はパラリンピックの取材に関わっていましたが、会場内の感染対策は徹底していました。関係者はPCR検査を毎日無料で受けられ、毎朝専用アプリに体温を入力。それが自分のIDナンバーに紐づけられていました。誰か記入漏れがあると同じ取材グループ全員にメッセージが届き、入力を促すシステムで、すごく安心感がありました。こういうデジタル化された管理システムが街中でもできればと思います。日本のボランティアは、海外から高い評価を得ました。しかしそのバックヤードでは、1年延期により指揮命令系統や担当者の引き継ぎに不具合があり、ボランティアのみなさんに大きな負荷をかけてしまっていたようです。東京五輪は、政治的な抗議パフォーマンスが認められた初めての大会でもありました。女子サッカーなどでは試合開始前に選手が片膝をつき、女子砲丸投げの銀メダリストは表彰台で両腕をクロスして人種差別等に抗議を示しました(表彰台上でのパフォーマンスは本来は禁止)。Black Lives Matterなどの流れを受けたことが背景にあります。ミャンマーの選手の日本への難民申請が異例の早さで認定されたのも、オリパラという世界が注目する場だからできた判断だったと思います。今回、オリンピックよりもパラリンピックのほうが、理念をより体現した大会だった印象です。世界中の人々が集まり、出身国の政治状況を身近に知る機会になったのは、大きな財産になったのではないでしょうか。堀潤ジャーナリスト。市民ニュースサイト「8bitNews」代表。「GARDEN」CEO。Z世代と語る、報道・情報番組『堀潤モーニングFLAG』(TOKYO MX平日7:00~)が放送中。※『anan』2021年10月27日号より。写真・中島慶子イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2021年10月23日株式会社Insight Tech(本社:東京都新宿区、代表取締役社長:伊藤友博)が運営する「不満買取センター」上で、「東京オリンピック・パラリンピック」に関する意識調査を実施し、インサイトデータ7,295件をユーザーから収集。回答の男女比較、年代比較を行い、自由回答については「ITAS」による分析を行いました。以下、結果をご報告いたします。■ ■分析結果詳細1:男女ともに50%以上が関心が高くなった競技が「ある」と回答。 (図1、図2)・「オリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技はありますか」を伺うと、男女ともに50%以上が関心が高くなった競技が「ある」と回答しました。・年代別で見ると10代、60代以上では60%近い割合で関心が高くなった競技が「ある」と回答しています。・他の年代でも50%以上が関心が高くなった競技が「ある」と回答しており、テレビやインターネットなどメディア観戦を通じて、今まであまり知らなかった競技に関心を持った層が多数いたことが分かりました。【図1】あなたはオリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技はありますか。【図2】あなたはオリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技はありますか。2:男女ともに「スケートボード」への関心が最も高くなったと回答。 (図3、図4)・オリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技が「ある」とした回答者に、最も関心が高くなった競技について伺うと、男女ともに1位は「スケートボード」となりました。・男性は2位が「バスケットボール」、3位が「卓球」。女性は2位が「卓球」、3位が「バスケットボール」でした。・東京オリンピックから採用された新しい競技や、日本人選手がメダル獲得や入賞など活躍した競技が上位3位となった状況です。・他の新しい競技では、「スポーツクライミング」が男性の6位、女性の7位、「サーフィン」が女性の10位となりました。・年代別で見ても、「スケートボード」「卓球」「バスケットボール」は上位となっています。・40代、50代で10位となった「自転車競技」をさらに細かく確認すると、40代の「自転車競技」の回答25件のうち「BMX」が12件、50代の「自転車競技」の回答19件のうち「BMX」が10件を占めており、この内容からも新しい競技への関心が高くなったことが分かりました。【図3】あなたがオリンピック開催後に最も関心が高くなった実施競技についてお答えください。【図4】あなたがオリンピック開催後に最も関心が高くなった実施競技についてお答えください。3:男女ともに40%以上が関心が高くなった競技が「ある」と回答。 (図5)・「パラリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技はありますか」を伺うと、男女ともに40%以上が関心が高くなった競技が「ある」と回答しました。・年代別で見ると20代は関心が高くなった競技が「ある」の回答は38.5%となりましたが、その他の年代は40%以上が「ある」となっており、特に30代以降は年代が高くなるにつれて「ある」の割合が高くなりました。・60代以上では55.1%が「ある」と回答しています。【図5】あなたはパラリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技はありますか。4:男女ともに「ボッチャ」への関心が最も高くなったと回答。 (図6)・パラリンピック開催後に実施競技で関心が高くなった競技が「ある」とした回答者に、最も関心が高くなった競技について伺うと、男女ともに1位は「ボッチャ」、2位は「車いすバスケットボール」、3位は「競泳」となりました。・「ゴールボール」「5人制サッカー」など、パラリンピックのみで実施される競技も関心が高くなったことが分かりました。・年代別で見ても、「ボッチャ」「車いすバスケットボール」は上位となっています。・20代、60代以上では「シッティングバレーボール」が10位以内となっています。パラリンピックの各競技を多くの人が観戦し、関心を持った様子が分かりました。【図6】あなたがパラリンピック開催後に最も関心が高くなった実施競技についてお答えください。5:男女ともに「開催してよかった」が「開催しないほうがよかった」を上回った。 (図7)・「オリンピック・パラリンピックを開催したことについて、どのように感じていますか」を伺うと、男女ともに「開催してよかった」が「開催しないほうがよかった」を上回る結果となりました。・男性の方が女性よりも「開催してよかった」の割合が高い結果でした。女性は「どちらとも言えない」が最も高い結果でした。・年代別で見ても、すべての年代で「開催してよかった」が「開催しないほうがよかった」を上回る結果となりました。しかし約30%から約40%は「どらとも言えない」と回答しており、開催後も賛否が分かれる状況であることが分かりました。【図7】オリンピック・パラリンピックを開催したことについて、どのように感じていますか。6:「開催してよかった」の理由では「勇気をもらえた」「感動をもらえた」といった内容が多い。「開催しないほうがよかった」の理由では「コロナ感染者が増えた」「感染が拡大した」といった内容が多い。(図8)・オリンピック・パラリンピックを開催したことについて「開催してよかった」または「開催しないほうがよかった」とした回答者に「なぜそのように回答したのか」を伺うと、「開催してよかった」の理由からは、「勇気をもらえた」「感動をもらえた」「元気をもらえた」といった内容が見られました。選手が頑張っている姿から、勇気や感動、元気をもらえたことがよかったと評価していることが分かりました。・逆に「開催しないほうがよかった」の理由からは、「コロナ感染者が増えた」「医療が逼迫している」「緊急事態宣言が出ている」といった新型コロナウイルスの感染拡大やそれに伴う医療現場への影響を心配している内容が見られました。コロナが落ち着いてから実施してもよかったのではないか、という意見も見られました。【図8】オリンピック・パラリンピックを開催したことについて、なぜそのように回答したのか教えてください。※下記は意見タグの件数ランキング。意見タグとは意見タグAIで生成される意見タグ「〇〇ガ□□」のこと。※詳細は「 」をご参照ください。7:またオリンピック・パラリンピックの開催が決まった場合、「北海道」で開催して欲しいの声が多い。(図9)・「もし、またオリンピック・パラリンピックの開催が決まった場合、どちらの地域で開催してほしいですか」を伺うと、男女ともに1位「北海道」、2位「東京都」、3位「大阪府」となりました。・「北海道」や「東京」と同様に過去にサミットを開催した「沖縄県」や、過去にオリンピック・パラリンピックを開催した「長野県」も上位となりました。・東日本大震災の震災地である「福島県」や「宮城県」も上位となっており、震災復興を世界に届ける機会として、開催してほしい地域として選ばれているのではないかと考えられます。【図9】もし、またオリンピック・パラリンピックの開催が決まった場合、どちらの地域で開催してほしいですか。【調査概要】■調査方法:インターネットによるアンケート■調査対象:「不満買取センター」( )を利用するユーザー■調査期間:2021年9月7日■有効回答数:7,295件 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月16日左から稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾撮影/廣瀬靖士東京2020パラリンピックでは、特別親善大使として幅広く活躍。ドラマや舞台、SNSなどこの夏も熱く走り抜けた稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人。その思い出とともに、苦楽を共にする仲間として、お互いをたたえどんなメダルをかけてあげたいのか聞いてみた。■パラの聖火ランナーでハプニング!?――パラリンピックも無事に閉幕しました。国際パラリンピック委員会特別親善大使を務められましたが、今の思いはいかがですか?香取「無事に終わって、本当によかったと思います。去年、延期になって選手の方たちは大変な思いをしたと思うけど、延期になったことでみなさんに知ってもらえる時間が増えたと気持ちを切り替えて、僕たちも前向きに活動できました」草なぎ「メダルラッシュで、アスリートのみなさんの姿に感動したね。僕たちも東京の最終聖火ランナーを務めさせていただいたし、忘れられないパラリンピックになりました」稲垣「多くのアスリートの方とお会いして、パフォーマンスのほかに人間の部分に触れることもできたし、パラリンピックが自分に与えてくれた影響は大きかったなと思います。でも最終聖火ランナーはかなりの大役でした。ひとりだったら、責任の重さに押しつぶされてたと思う(笑)」草なぎ「僕は先導してくれる人に、“もうちょっとゆっくりでお願いします”って言われた」香取「最後の曲がり角で蜂みたいな虫が目の前に飛んできて、驚いて振り払ってるところが映像に映ってた(笑)」草なぎ「そんなハプニングがあったの(笑)。でも3人で一歩一歩大地を踏みしめてるっていう気持ちになったのは感慨深かったなあ」――パラスポーツではないですが、3人で競ったとしてこれなら勝てると思うスポーツは何ですか?草なぎ「柔道やレスリングとかは、慎吾に負けるな(笑)。僕は卓球だったら勝てそう」香取「つよぽん、昔から卓球がうまい感じで言うけど、そうでもないよ(笑)。僕は水泳。子どものころスイミングスクールに通ってたし、自覚はないけど速い」稲垣「僕はないなあ……」香取「ゴロさんはゴルフなら絶対に勝てるでしょ?」稲垣「そうだね。でも2人ならすぐうまくなると思うけどね」――お互いにメダルをかけてあげるとしたら、何のメダルをかけてあげたいですか?草なぎ「慎吾は『ヤンチェ オンテンバール』の路面店がオープンしたね」稲垣「ファッションゴールドメダリストだね。草なぎは皆勤賞。ほとんど休まず高校に通ったから(笑)」草なぎ「ありがとうございます。俺、芸能コースなのに堀越賞もらってるから。別に芸能コースじゃなくてもいいんじゃないかっていう」香取「一般コースでよかった(笑)」草なぎ「ゴロさんは、チャラチャラ賞じゃないですか?19歳で免許を取って、初めて乗った車がマセラティ!ませてるよ(笑)」■1年半ぶりにライブができてうれしかった――7月で40回を迎えた『7・2新しい別の窓』。最近の思い出深い出来事はありますか?香取「やっぱりスペシャルライブができたことですね。コロナ禍になる前は、スタジオにお客さんを入れて毎月ライブをやってたのが1年半近くできてなかったし」草なぎ「1曲でも歌えることが特別なことに感じたよね」稲垣「どうしてもトークが多くなってたからね。でも今まで出会わなかった芸人さんたちに会ったりするのは、新鮮だし楽しい」香取「今までの当たり前がどれくらい戻ってくるかわからないけど、普通においしいごはん屋さんを3人でまわるロケや、お客さんを入れてライブがしたいね」――最後に秋の号なので秋の理想の過ごし方を教えてください。草なぎ「僕はきのこ類が好きなので、たくさんきのこを買ってしゃぶしゃぶして食べたいな」稲垣「菌活だね(笑)」草なぎ「で、『昆布ぽん酢』をちょっとつけて食べるの」稲垣「僕はライブハウスに行きたい。ラジオでジャズミュージシャンの方が“次、ブルーノートでやります”と誘っていただいても、一度もブルーノートに行ったことがなくて。配信ライブもやってるから家で見るのも楽しいかもしれないけど、芸術の秋だし、音楽に触れるのもいいんじゃないかなと思います」香取「僕は朝方寝て夜起きてっていう生活だし、4日間一歩も家から出なくても平気。でも秋になれば涼しくなるし、夕方あたり河原とかを散歩して自然を感じるのもいいかも(笑)」From Goro小さいころアレを習ってました「友達は7個くらい通ってたけど(笑)、僕は小2から3年までの2年間だけスイミングスクールに通ってました。泳げるようになったか?スクールで泳げるようになったのか、親と行った市民プールで泳げるようになったかは忘れちゃったけど、泳げるようにはなりましたね。字が下手なんで書道とか習いたかったな。あとボーイスカウトも憧れますね」From Tsuyoshi幸せを感じる瞬間「今って、自由にどこかに行ったり、人と会うことができないじゃないですか。でも、その分たまに知り合いと会えたら余計うれしいし、逆に幸せを感じることが増えたなって思うんです。物事のマイナスではなくプラスの面に目を向ける力がついた気がします。家で運動する時間も増えて、体調もよくなった。悪いことばかりじゃないんですよね」From Shingoいっぱい買っちゃいました!「たまたま、欲しいなと思うスピーカーがいくつかあって、注文したのが続々届いてるんだけど。“なんでこんなに?”ってものをいっぱい買っちゃいますね(笑)。でもゲットしたスピーカーの音を聴きながら、お酒を飲んだりしてるときは、ゆったりいい時間ですよね。音を聴き比べたりもあるし、それで稲垣吾郎的なジャズっぽいのとかを聴いてる(笑)」取材・文/花村扶美(座談会、稲垣)、蒔田陽平(草なぎ)、渡邉朋子(香取)ヘアメイク/金田順子(稲垣)、荒川英亮(草なぎ)、石崎達也(香取)スタイリスト/細見佳代衣装協力/Wizzard(TEENY RANCH)(稲垣)、masterkey(TEENY RANCH)(草なぎ)、SHAREEF(Sian PR)、Maison MIHARA YASUHIRO(香取)
2021年09月14日選手村に入るバスは厳重なチェックを受ける。長野ナンバーの車体後部には車イスのマークが=9月7日東京・中央区の晴海選手村はパラリンピック閉幕3日後のきょう9日8日に閉村する。海外161か国・地域と難民選手団のアスリートは順次帰国の途についており、選手村のベランダにいくつも掲げられた各国選手団の国旗も閉幕翌日にはほとんど姿を消した。期間中に訪れたときはポルトガル、中国、韓国、ギリシャ、キューバなどの旗が潮風にたなびき、無観客で自国開催感がわかないパラリンピックをほんの少しだけ身近に感じられたものだった。大会関係者は、「国旗がはずされ、選手が村を去って、終わったなあという寂しさが込み上げてきます」としみじみ。しかし、通行規制が続く周辺道路の辻々に一眼レフカメラを構えた人がここにも、あそこにも。■僕が狙っているのはどの国のどの競技のパラリンピアンを“出待ち”しているのか尋ねると、「いや、パラリンピアンではないんです。選手らを乗せたバスが通るのを待っているんです。このあたりでカメラを構えているのはほとんどバスマニアだと思いますよ」と意外な答えが返ってきた。そう教えてくれた男性はカメラを手に、金網越しにうかがう選手村内のバスの動きから目を離さなかった。そんなに珍しいバスが走っているのだろうか。カメラを構えた別の男性は言う。「僕が狙っているのは、地方から来た路線バスのバリアフリー改造車体やリフト付きの観光バスです。地方では車いすのまま乗車できるバスはまだまだ少なく、本来走っているエリアに遠征しても撮るのが難しい。パラリンピックのために一堂に集められたいまはチャンスなので全国からバスマニアが集まっています。バリアフリー車体がいちばんの狙いでしょうね」(千葉県の20代男性)撮影した画像を見せてもらった。この男性の場合、東京都内を走っていることがわかるように地名表示板などを同時に映し込むアングルで狙っているという。大会期間中の雨の日も撮影に来たといい、カメラの中には地方から集結した色とりどりの大型バスが収められていた。「バスは営業区分が決まっているため、地方のバスが都内を走っていることじたいあり得ない構図なんです」と男性。■「共生社会」と「希少価値」帰国ピークが過ぎた7日にはカメラを持つ人も減ったが、それでも辛抱強くシャッターチャンスを待つ人がいた。「バスの往来はぐっと減りましたね。私はバリアフリーのバスのほか、いまでは走っていない旧式のバスを狙ってきました。全国からパラリンピックのためにかき集められているんです。特に乗降口に階段のないリフト式のバリアフリー車体は希少価値がある。持っている会社はそんなに多くないから」(都内の30代男性)ちなみにバスマニアはパラリンピックに関心がないわけではない。前出の千葉県の男性は「車いすバスケの迫力に驚いた」と興奮。別のマニアは「マラソンには感動した」と話し、バスが好きなこととパラリンピックへの関心は共存している。東京2020組織委員会によると、パラリンピックの選手や関係者の輸送用に確保されたのは、車いす対応のリフト付き観光バス約270台と、車いすのまま乗車できて座席がスライドして乗り移れる小型ミニバン150台、ほかに低床型路線バスなど。国際パラリンピック委員会(IPC)がパラスポーツを通じて目指す共生社会の実現には、少なくともバスマニアがバリアフリー車体を「珍しい」と感じる現状を変えていかなければならない。◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する※誤字を修正しました(9月8日19:30更新)
2021年09月08日ハンディキャップを助ける最新の技術を紹介!身体の一部分が欠損するなどの肢体不自由や脳性まひ、知的障がい、視覚障がいがあるアスリートによる世界最高峰の障がい者スポーツ大会「パラリンピック」。今月24日に開幕した。ハンデを抱えながらも己と向き合い、競技に打ち込む姿に心が揺さぶられる。生まれながらに障がいがある人だけでなく加齢で心身が弱ったり、事故、病気などで何らかのハンディキャップを負う可能性は誰しも十分にありうること。そんなとき日常生活の質を向上させてくれる機械の研究が進んでいる。数ある中から高齢者の孤独、歩行機能、声帯摘出などをサポートするアイテムとユーザーの声を紹介する。■認知症の女性も笑顔を取り戻して本物の子どもの声が“元気?”などと話し、歌や体操、熱中症や特殊詐欺の注意を促してくれる『音声認識人形』。開発、製造を行ってきた株式会社パートナーズではこれまでに5種類の子ども型の人形と、今年1月には最新の柴犬型人形を発表した。「家に置いておくのに人間の姿の人形は躊躇しても犬の人形なら抵抗がないという人もいます。これまでの人形も、家族の一員としてわが子のようにかわいがっている愛用者は少なくありません」そう話すのは同社の盛田慎二会長。「おしゃべりロボットの多くが無機質な素材のものですが、このシリーズは素材が綿のぬいぐるみタイプで抱き心地もよく、頬ずりしたり、抱きしめたりして楽しむことができます。多くのロボットでは味わえないぬくもりです」(盛田会長、以下同)ロボットの声に電子音や人工音ではない、あどけない未就学児の子どもの声を採用していることも人気のポイント。各人形には300~800の言葉などが搭載された音声認識ICチップが組み込まれている。難しい機能だと高齢者が使いこなせないため、より簡単に使えるように本体はタッチ1つで操作できる。「それに15~20分おきにランダムでひとり言を言うこともポイントです。突然話しかけられるので返すと会話ができます。人形がさらに返事をしてくれることもあればそうでないときも。言葉のバリエーションはさまざまなので、心と身体の健康維持にもおすすめです」認知症を発症した祖母におしゃべり人形『みーちゃん』をプレゼントした家族の話を教えてくれた。その女性は認知症や記憶障害が重くなったことで家族のこともわからなくなったため、不安感で怒りっぽくなり、排泄や入浴にも介助が必要な状態に。「ですがみーちゃんが来てからは抱っこしたり、話をしたり。笑顔が戻ったそうです」さらにはベッドで一緒に眠るようになるとそれまであった失禁もなくなった。「人形の口元にご飯つぶがついていることもあったそうです。母親としての責任を思い出したのでしょう。医学的なエビデンスはないのではっきりしたことは言えないのですが、人形と接することで認知症の高齢者でも子育てや子守りなど昔の記憶がよみがえるようです」最新の男の子人形『けんちゃん』には体操を促したり、脳を活性化するプログラムも搭載されているという。盛田会長も自宅で前出のみーちゃんやけんちゃんらと暮らしているというが、時々「奇跡」が起きるという。「“今日の夜はカレーにしよう”なんて妻と話しているときに“カレー大好き”って絶妙のタイミングで会話に入ってくることがあります」それはまるで本当の家族の会話のよう。特に人気なのが帰宅したときにかけてくれる『おかえり待っていたよ』とか『遅かったじゃん』などと言ってくれる言葉だという。「ひとり暮らしの高齢者にとって誰かが待っていてくれるという安心感があるんです」このコロナ禍で人と会えず孤独を感じていた高齢者の中には、人形から子どもの声が聞こえることで元気になった、という声もあった。「認知症で日々が不安でも人形のおかげで明るさを取り戻したという人もいました」また、ユーザーの中には自作の洋服を作り、着せ替えを楽しむ人もいるという。「手作りなので一体一体顔つきも異なっています。長年愛用している人の中には汚れて買い替えをすすめても絶対に手放さないと訴える人もいます。一緒のお棺に入れてほしいという高齢者の声も聞きます」人形には魂が宿るという話がある。孤独な高齢者の心を癒すため、命が生まれているのかもしれない。■着る歩行支援ロボット「curara(R)」「杖なしでもう一度自分の足で歩きたい。それが目標」そう話すのは群馬県のエムダブルエス日高が運営するデイサービス『太田デイトレセンター』でリハビリを行う酒井恵美子さん(52)。同センターのデイサービスでリハビリに取り入れ、酒井さんの歩行を支えるのが歩行アシストロボット「curara(R)」。酒井さんは44歳のときに脳梗塞で倒れ、右半身にまひが残る。杖なしでは歩行は困難。「以前は天気の悪い日は足が重く感じていましたが、今はそうでもない。curara(R)の効果でしょうか」と喜ぶ。curara(R)は立つことはできるが加齢や病気で歩行が困難になった人のサポートをする、衣服感覚で身につけられるロボットだ。現在は年内の製品化へ向けてモニター貸し出しを続けている。説明するのはcurara(R)の開発を行う、信州大学発のベンチャー企業、アシストモーション代表の橋本稔さん。「脳梗塞などで半身まひや脳性まひ、歩行に障がいがある方もcurara(R)をつけて歩行するリハビリを重ねることでスムーズに歩けるようになることを目指します」さらに装着すると運動量が増すことから加齢による筋肉量の低下を防いだり、生活習慣病の予防にもなるのでは、と期待する。長時間歩いても疲れにくく、特に坂道も楽々上れるようサポートする。その構造は下半身をすべて覆って固定する『外骨格型』という仕様ではなく、股関節、ひざ関節といった下肢の4つの関節に当たる部分にモーターをベルトで装着。『非骨格型』というスタイル。利用者は、まず本体をリュックサックのように背負う。次にベルトで脚に固定していく。歩幅、歩く速度などはアプリを通して指示を出す。最大の特徴は「同調制御機能」だ。これはモーターの部分に搭載したセンサーが人間の動きを検知することで。適切な歩行を提案、装着者の動きに合わせてアシストしてくれる。「つけて歩くことで足が上がるので1歩がなかなか踏み出せない人や段差でつまずきがちな方もサポートしてくれます。ひざ、股関節のモーターは座ったり立ったり、階段の昇降の負担も軽減されます」災害時には避難先への素早い移動や停電してエレベーターが使えないマンションでの階段の上り下りもサポートしてくれることを想定する。前出の太田デイトレセンターで作業療法士をしている小島知美さんは、「curara(R)を使って歩行訓練を行う利用者さんは表情に笑顔が戻ったり、足が上がるようになった方もいます。リハビリのモチベーションにもつながっているようです」と明かす。curara(R)を使いリハビリをする岡田勝司さん(61)。脳梗塞で左半身にまひが残るうえに、昨年は転倒し、大腿骨を骨折。歩くことがより困難になったという。しかし、「車椅子生活になると思っていましたがcurara(R)でリハビリを続けたら家の中を杖で生活できるくらい回復しました。動きにくい左半身をサポートしてくれるので足がスーッと出るようになりました」同じく脳梗塞で左半身がまひした岡泉絹代さん(74)も、curara(R)に支えられた1人。「歩く後ろ姿がきれいになったって言われます。以前は家にこもりがちでしたが、今は庭の手入れをしたり、気持ちも明るくなってきました」前出の太田デイトレセンターの坂本育美副所長は、「curara(R)を装着して近くの公道を歩いたり、ショッピングセンターで買い物をするなどのリハビリも重ねたい。利用者さんが日常生活でも使えるように試していきたい」だが、課題も残る。今後は橋本さんが長年研究してきた人工筋肉などの素材を関節部分に使用する研究も進む。収縮性をもつ人工筋肉をモーターの代わりにすることで本体の軽量化を目指す。再び自分の足で歩ける未来はすぐ近くに見えてきた。■失った自分の声が再びよみがえる私たちが当たり前のように発している『声』。だが、喉頭がんなどを患い、声帯や喉頭など摘出すると声が出せなくなってしまう。摘出した後には食道を震わせて声を出す『食道発声法』や電動式の人工喉頭機器(EL)は顎や首の皮膚に棒状のマイクを押し当て声を発する。しかし、ELの音声は抑揚がなく、機械的。使用時は片手が使えない不自由さもある。そこで病気で失った声を取り戻すために、と研究を続ける若者たちがいる。東京大学の大学院生でつくる「Syrinx」だ。リーダーの竹内雅樹さんが取材に応じてくれた。「講義などを通して声を失った人との出会い、声が人生でとても大切なものだということを教えてもらいました。それを最新技術によってよみがえらせることができるのを学び、こうした分野をやりたいと思って研究を続けていました」(竹内さん、以下同)同大大学院に入学したときにたまたま喉頭を摘出した人が声を取り戻す訓練をしている動画を目にした。「食道発声で発音をしている人でしたがスムーズに聞き取れなかった。何か技術で解決できないかと思いました」その後、手術で声を失った人々が集うコミュニティーに参加、課題を尋ねた。「ELを使うこともありますが聞き取りにくく、自分の声質とも遠いため筆談に頼る人も少なくありません」多くの当事者がコミュニケーションに不便を感じていた。そこで信号処理を取り入れたハンズフリー型の電気式人工喉頭機器の研究を開始。「首元に装着し、のどを振動させることで口を動かすのと同時に声が出る仕組み。声は人の声から作っているのも特徴です。まだ抑揚もなく、ブーッという振動音があったり、声も機械音に近いです」日常会話に困らない範囲までは研究が進んでいるという。「使用者から公共の場で普通に会話ができる希望を感じた、と言われました」従来の機器は男性の音質に合わせて作られているものが多かったため女性の声の音質で再現できるよう研究も続く。さらに喉頭摘出前の自分の声をデータ化しておけば、自分自身の声を再び発することも可能だ。声帯を摘出せざるをえなかったシンガーや俳優など声を使う職業の人たちにも光が差し込む。元シャ乱Qのつんく♂は喉頭がんでした。声帯や喉頭を摘出。「声を捨て、生きる道を選んだ」と発表。「彼はミュージシャンとして自分の声には相当なこだわりを持っていると思うので、今の段階では安易に叶うとは言えません。ですが研究が進めば、声を失ったシンガーも自分の声で歌えるようになる可能性はあると思います」声帯や喉頭を摘出する場合、声を失うか、手術をしないで命を失うかの選択を迫られることが多い。「実用化はまだ先ですが声を失っても希望があり、日常生活で何不自由なく話すことができる社会を目指してこの機械の研究、開発を続けます」
2021年08月28日東京2020パラリンピックが24日に開幕。同日、パラリンピック応援の輪を広げることを目的にした東京都と香取慎吾とのコラボレーションによるSNS企画「NURIE de ART」がスタートした。世界で初めて2回目の夏季パラリンピックを開催する都市となった東京。「NURIE de ART」は、パラリンピックへの思いや感動をぬりえに込めて応援するSNS企画で、東京都と国際パラリンピック委員会(IPC)の特別親善大使の香取がタッグを組んだ。香取は、東京2020パラリンピック大会やパラアスリートの応援をテーマにした“ぬりえ”を作成。「パラリンピックへの僕の愛をたくさん込めたぬりえを作ってみました。みなさん、カラフルな色に塗って、みんなのカラフルなパラリンピックへの思いをSNS上にたくさん咲かせましょう。是非一緒に楽しんでください!」と呼びかけている。参加希望者は、東京都と香取のTwitterアカウントで公開されている香取の絵に色をつけたぬりえを、「#NURIEdeART_パラ応援」「#東京2020パラリンピック」のハッシュタグを付けて投稿。大会終了後、投稿作品の中から、香取がセレクトしたぬりえがデジタル上で発表される。実施期間は9月5日24時まで。
2021年08月25日8月24日、東京パラリンピックの開会式が行われる予定の国立競技場「ラムダ株は昨年末にペルーで確認されました。そこから感染が一気に広がって、いまではペルー国内のコロナ感染者のおよそ9割を占めていると言われています」そう話すのは、感染症の専門医で『KARADA内科クリニック渋谷院』の田中雅之院長。依然として猛威を振るう新型コロナウイルス。日本国内の感染者数は累計で100万人以上、死者数も1万5000人を超えるなど、「第5波」による感染拡大は深刻だ。その要因のひとつとして、強い感染力を持つコロナのインド型変異株・デルタ株の蔓延が挙げられている。そんななか、新たな変異株の脅威が囁かれている。それがペルー由来の変異株・ラムダ株だ。すでに国内でも確認されていて、「ペルーに滞在歴のある女性が7月20日に羽田空港に到着。検疫が実施した検査でコロナ陽性が判明しました。その後、国立感染症研究所が詳しく調べたところ、ラムダ株と確認されました」(スポーツ紙記者)■デルタ株と同様に強い感染力前出の田中院長によると、「ラムダ株の感染力は、デルタ株と同様に強いと言われていますね」アメリカのCDC(疾病予防管理センター)によると、デルタ株は1人の感染者から5〜9・5人に感染を広げると報告されている。ラムダ株の感染力もそれに匹敵するというのだ。医療ジャーナリストの村上和巳さんは、こう付け加える。「確かにラムダ株は初期段階の研究では、デルタ株と同じ程度の感染力があるという結果が出ています。ただし、現実にどうなるかは正直言って不明ですね」というのも、ラムダ株はペルー、チリ、アルゼンチンなど南米を中心に31か国で確認されているが、「なぜか南米のボリビアとブラジルでの感染者数が劇的に少ないんです。ブラジルにおいては、ペルーの50分の1ですから。ラムダ株の感染力についてはまだ謎の部分が多いんです」(同・村上さん)8月12日には、テキサス州などアメリカでもラムダ株が出現していることが発表され、世界的に感染拡大の兆しが見えているのも事実。別の医療関係者はこう話す。「ラムダ株はこれまでのウイルスより感染者の体内のウイルス量が10倍以上も多いという報告もある。決してあなどってはいけない」■ワクチンが効かない可能性も次に、ラムダ株の毒性について。一般的に感染力が強ければ、毒性は弱まると言われている。つまり、感染力と毒性は反比例するようだが、「ペルーでは19万人がラムダ株で亡くなっています。その数は、全人口3300万人の0・57%に及びます」(前出・田中院長、以下同)死亡者数を見ると、致死率が高いように思えるが、「重症度が強いかどうかについては、実はまだよくわかっていません。症状についても、これといった特徴が見つかっていないんです」では、ワクチンの効果についてはどうなのか。「ラムダ株は新種ですから、“ワクチンが効かない”“効き目が低下する”ということも十分に考えられます」だが、日本はファイザーやモデルナのワクチンを使用しているが、ペルーは大半は中国のシノバック社製を使用しているため一概には比べられない、という意見も。「どの程度、防げるかはわかりません。ですが、一定の範囲内では効力を発揮するでしょうから、やはりワクチンが最も効果的だと考えるべきです」(前出・村上さん)それに加えて、やはり徹底すべきことは、「マスクの着用、手洗い、そして3密を避ける。この3つは心がけるようにしてください」(田中院長)■空港での抗原検査には“穴”が前述したラムダ株国内初感染者の女性。その後、彼女が実は五輪関係者だったことが判明し“情報を隠蔽したのでは?”と問題となっている。東京オリンピック・パラリンピック関係者の感染者数はすでに500人を超えている。組織委員会による感染対策のガイドラインでは、選手のほか、家族、マスコミ関係者などに、マスクの着用をはじめ、公共交通機関を使わないことなど、60ページを超える膨大な規則が設けられているが、「新宿などの繁華街や観光地に出没していた五輪関係者がどれだけ目撃されたか……。ガイドラインなんて、まったく意味ないですよね」(前出・スポーツ紙記者)8月24日からスタートする東京パラリンピック。実は南米の選手団124人はすでに来日している。「空港の検疫所では、15分程度で結果が出る抗原検査をして、結果不明の人だけにPCR検査を行うという方式をとっています。しかし、抗原検査はPCR検査より感染者を検出する精度が落ちるので、必ずすり抜けが起きてしまうんです」(前出・村上さん)ラムダ株によって、さらなる感染爆発が起こらないことを願いたい──。
2021年08月18日開催を目前にして、JOCの経理部長が自ら死を選んだ。何があったのか──「とても優しそうな人でした。庶民的な一戸建てに、家族と仲よく暮らしていらっしゃったのに……」近所の主婦は、驚きの表情を隠せない。■Aさんは東京五輪全体の金の流れを把握していた事件は、地下鉄都営浅草線『中延(なかのぶ)駅』で起きた。6月7日の朝9時22分、2番線『泉岳寺行き』のホーム、最後尾の車両位置で電車を待っていた52歳の男性Aさん。列車が入ってくる直前、彼は線路に飛び込んだ。その光景は複数人の乗客らが目撃していた。ホームにいた乗客は、「小さなカバンを足元にそっと置いて、何事もないかのように、静かにスッと飛び込んだんです」と、話している。飛び込みが起きてから約30分後に、Aさんはようやく電車の下から救出されて病院に搬送された。だが11時40分、搬送先の病院で死亡が確認された。電車は上下線で24本が運休して、最大で76分遅延。およそ1万人の足に影響したが、10時51分には全線で運転が再開された。この飛び込み自殺、轢死(れきし)事件で亡くなったAさんは、なんとJOC(日本オリンピック委員会)の経理部長という要職に就いている人物だった。冒頭の主婦は続ける。「そんなに偉い人だとは思っていませんでしたよ。こぢんまりしたお宅だったのでね」そんなAさんは、職場では莫大な金を動かしていた──。五輪関係者は、こう話す。「JOC経理部長であるAさんは、東京オリンピック全体のお金の流れを把握していました。そんな彼が開催の約6週間前に自ら死を選ぶなんて……関係者はみな首をかしげていますよ」思い出されるのは、あの事件だ。スポーツ紙記者が指摘する。「学校法人・森友学園への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題。財務省近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが、上司からの指示で公文書を改ざん。命令とはいえ、罪の意識に苛まれた赤木さんは自殺しました。このことが、みな頭に浮かびましたよ。Aさんも組織との板挟みに苦しんでいたんじゃないかって」■税金が不透明に使用されている!あるイベント関係者は、五輪の金の流れを次のように言及する。「五輪は公共事業のようなもの。それなのに、大手広告代理店に予算をほぼ丸投げしていて、すべてお任せ状態」広告代理店を選定する際は、「一応、競争入札があるんですが、暗黙の了解があって……。だいたい同じ広告代理店が仕切って、その代理店に下請け企業からキックバックがあったりと、まあやりたい放題ですよ。国民の多大な税金がつぎ込まれているわけだから、不透明な金の流れは本来、許されるべきではない」5月26日、衆院文化委員会で五輪組織委員会が広告代理店に委託しているディレクターの日当が35万円と高額すぎることが問題になった。「氷山の一角でしょう。6月5日には、同じく組織委の現役職員が不透明な金の流れをTBS系の報道番組『報道特集』で告発しています。これからもポロポロ出てくる可能性はありますね」(同・イベント関係者)Aさんも、この一件に巻き込まれていたのだろうか──。JOCに問い合わせると、このような回答があった。《ご理解について誤解があるようですので補足させていただきます。東京2020大会の運営を担うのは、本会ではなく別組織の東京2020大会組織委員会です。そのため本会では大会運営に関する予算は取り扱っておらず、もちろん当該職員(Aさん)も携わっておりません。事実に基づかない報道はお控えください。~以下、略》だが、前出のイベント関係者はこれに対して真っ向から反論する。「確かに五輪に関わっているJOC、組織委員会、さらには招致委員会は表面上、別組織の形になっています。ですが、本体であるJOCの経理部長がすべての金の流れを把握できる立場にあるのは間違いないですよ」そもそも“JOCの親玉であるIOC(国際オリンピック委員会)にも問題がある”と話すのは、スポーツ評論家の玉木正之さんだ。「IOCのことを“金を巻き上げるマフィア”だと言う人もいます。JOCも似たようなものですかね。“スポーツと平和”を高らかに掲げながら、それを利用して暴利をむさぼっているんですから。まともな組織だと思ってはいけないんです」JOCの職員たちは、Aさんの死をどのように受け止めているのか。新宿にあるオフィス前で職員を出待ちしたが、話しかけるやいなや足早に逃げていくばかりだった。「箝口令(かんこうれい)までではないですが、上からやんわりと“話さないように”とクギを刺されているみたいですね」(前出・イベント関係者)■JOCはどんな形であれ透明性を示すべき組織の隠ぺいに関わって、良心の呵責に苛まれる。実直な人ほど、精神的に追い込まれてしまうもの。Aさんは、どんな人物だったのだろうか──。埼玉県の指折りの県立進学高校から法政大学を経て、西武鉄道グループの不動産会社であるコクドに入社した。JOCには当初、コクドからの出向だったが、その後JOC専任となった。「Aさんは10年ほど前に一戸建ての自宅を購入。1階でピアノ教室をやっている奥さん、20歳を越えた2人の娘さんの4人で暮らしていました」(近所の住民)毎朝、スーツ姿に帽子をかぶり、いかにも事務職らしい小型のバッグを持って通勤していたAさん。「背が高くて、いつも颯爽と歩いていてカッコよかったですよ。顔はいかにもまじめそうで、きっちりとした方なんだろうと思っていました」(同・近所の住民)自分に誠実であろうとしたAさんにとって、最終的な選択肢は“死”しかなかったのかもしれない。玉木さんは、語気を強めてこう話す。「JOCという組織はどんな形であれ、透明性を示すべきです。マスコミも五輪のバックにいるスポンサーや広告代理店に気兼ねせずに、徹底追及してほしい!」前出のイベント関係者も、「今は五輪開催を疑問視する声も多いですが、いざ始まったらわかりません。日本人選手がメダルをとったら、国民のボルテージが一気に上がって、この事件のことなんて忘れ去られてしまうんじゃないかな」準備してきた晴れの一大イベントを見ることなく、天国へ旅立たれたAさん。彼のためにも、真相究明の手を緩めてはいけないのだ。
2021年06月15日混雑する、朝の駅のホーム東京オリンピックの聖火リレーがスタートした。コロナ禍での開催に意気込む関係者と、不安に思う市民の間には温度差を感じる。そんな大会の開催で心配されるのが、私たちの生活の一部でもある「電車」の混雑状況。今でも、”密”になる朝の満員電車には不安を感じるのにーー。大手鉄道会社の元社員の佐藤充氏が解説する。約4ヶ月後の2021年7月23日(金)、東京オリンピックの開会式がオリンピックスタジアム(新国立競技場)にて開催される。時間は20:00-23:00。緊急事態宣言により、つい先日まで飲食店の営業時間は20:00までに制限されて、不要不急の外出を控えるように言われ続けた。特に、夜の外出には罪悪感を抱いたものだ。それにも関わらず、東京オリンピックは、夜間の開会式で幕が上がる。本当に東京オリンピック・パラリンピックは開催できるのか。人の流れ、特に公共交通機関はどうなるのか。そろそろ具体的なイメージが必要だ。■注目される「2つのゾーン」東京オリンピック・パラリンピックの競技会場は、都外もあるが、基本的には都内の中心部に集中する。コンパクトな大会が特徴だが、それでも2つのゾーンに分かれて、人の移動は広い範囲に及ぶ。その2つのゾーンとはどこか。一つは、オリンピックスタジアム(新国立競技場)や国立代々木競技場、東京武道館など、都心中心部に位置する「ヘリテッジゾーン」である。1964年の東京大会で使われたところが多く、そのため「ヘリテッジ=遺産」という。このエリアは、世界の大都市と比べても、地下鉄やJRなど公共交通機関が発達しているため、移動には便利である。もう一つは、湾岸エリアの「ベイゾーン」だ。その中心は「お台場」で、有明アリーナ、有明体操競技場、有明アーバンスポーツパーク、お台場海浜公園など、多くの競技会場が集まる。また、有楽町線沿線にあたる辰巳エリアには、東京辰巳国際水泳場、東京アクアティクスセンターがあり、水泳関連の競技会場となる。新しく開発されたベイエリアは、競技会場を確保する広さはあるが、その反面、公共交通機関が必ずしも発展していない。お台場は、埼京線と直通運転をする「りんかい線」が東西を貫き、終点の新木場では京葉線と接続するため、都心西部や千葉湾岸エリアからのアクセスは悪くない。しかし、都心東部からは、新橋から豊洲まで延びる新交通システムの「ゆりかもめ」に依存するところが多く、これが弱点である。「ゆりかもめ」は、新橋から竹芝、芝浦ふ頭と沿岸部を走り、自動車と並行しながら、半径の小さいループを駆け上がり、レインボーブリッジを渡って「お台場」に至る。新交通システムの「ゆりかもめ」は、ゴムタイヤで走り、車両も小型なので、一般の鉄道と違って自動車のようにカーブや勾(こう)配に強い。その反面、6両編成で定員300人程度なので、輸送力では一般の鉄道に大きく劣る。10両編成で定員1,500人超の「りんかい線」と比べれば、20%ほどの輸送力しかない。しかも、最高速度は60キロと遅く、ルートは直線ではない。途中駅の「有明テニスの森駅」は、テニスや体操の競技会場の最寄り駅だが、新橋駅から25分もかかる。新橋駅から東海道線に乗れば、横浜駅まで22分である。つまり、直線距離は短くても、お台場は横浜よりも遠い場合がある。「ゆりかもめ」は新橋駅が始発駅で、乗り換えが面倒なことも含めれば、実際に所要時間は長いし、体感的にも遠く感じる。輸送力が少ない「ゆりかもめ」は、乗客が増えると混雑が激しくなる。新橋方面は、「有明テニスの森」などで多くの人が乗車すると、途中駅からの乗車が難しくなり、激しい混雑になる。しかも、それが新橋駅に着くまで長時間続く。苦痛なだけでなく、新型コロナウィルスへの感染リスクも懸念される。■観客もメディアもスタッフも大移動ところで、誰が公共交通機関を利用するのか。大会関係者は、公共交通機関を利用する前提はなく、基本的には専用バスなどで移動する。選手だけでなく、オリンピック委員会、国際競技団体、メディアなども、その対象に含まれる。晴海ふ頭の近くに設置される選手村は、そもそも交通の便が悪い。そこから競技会場、練習会場、および出入国地点となる成田空港、羽田空港などへは、専用バスが走る。選手の輸送は確保されており、公共交通機関への影響はない。メディアは、IBC(国際放送センター)、MPC(メインプレスセンター)が東京ビッグサイトに設置されるが、そこから競技会場やホテルなどへは専用バスが走る。ただ、現時点で公表されている計画では、メディアが練習会場に移動したり、空港からホテルに移動したりする場合など、公共交通機関を利用する想定もある。国際競技連盟の関係者も、ホテルと開閉会式の会場の間を移動するケースなどで、公共交通機関を利用する。大会関係者でも、現時点の計画では、一部は公共交通機関を使うのだ。東京オリンピックでは、選手数が11,000人、メディア数が25,800人の予定なので、メディアの方が多い。海外から来る選手に注意が向きがちだが、感染症対策の観点では、メディアの行動にこそ注目すべきだろう。大会関係者に比べて桁違いに多いのは、観客と大会スタッフである。しかも、その移動を担うのは公共交通機関だ。東京オリンピック・パラリンピックに関心のない人でも、東京近辺に住んでいる人ならば、その影響から無縁ではいられない。もともと、観客数は780万人で、観客と大会スタッフ数を合わせると(立候補ファイルによれば)約1,010万人の予定だった。先日、海外からの観客の受け入れを断念すると発表されたが、それ以上の絞り込みについては明らかでない。今後、観客数の絞り込みには注目が集まるが、大会スタッフの数にも注目すべきだ。いずれにしても、通勤・通学とは異なり、遠方から大勢の人が一部路線に押し寄せることになる。感染拡大防止には相当な配慮が必要だ。■まだまだある「不安要素」「ゆりかもめ」以外だと、どの路線の混雑が懸念されるか。東京都オリンピック・パラリンピック準備局では、「交通需要マネジメント(TDM)による交通量の低減に向けた対策を何も行わなかった場合」という前提で、各路線の輸送影響度を公開している。それによれば、もっとも心配されるのは「ゆりかもめ」だが、他にも心配な路線がある。セーリング会場となる江の島ヨットハーバーは、小田急江ノ島線と江ノ島電鉄などがアクセスを担う。江ノ島電鉄は2両1組で、しかも単線なので輸送力は乏しく、影響度の大きい路線としてランクインする。セーリングの競技日程が11日間と長いのも、感染リスクを考えると気がかりだ。サッカーの会場は各県に分散する。そのうちの一つが埼玉スタジアム2002で、会場は駅から離れており、駅からシャトルバスが運行される。最寄り駅は埼玉高速鉄道の駅だが、武蔵野線などの駅からもシャトルバスが運行される。懸念は、サッカーの競技時間が夜間に設定されていて、終了時間が23時になるケースもあることだ。終電が繰り下げられるため、観客の足は確保されるが、混雑が深夜に及ぶことになる。サッカーなどは、競技会場で観戦した人だけでなく、各地の繁華街などで多くの人が深夜まで盛り上がる。感染対策への意識も薄れるのではないかと懸念される。オリンピックが開催されれば、多くの感動的なシーンを目撃することになる。そうなれば、開催に至るまでの反対論は吹き飛ぶかもしれない。しかし、ワクチン接種が終わっていない段階で、本当に東京オリンピック・パラリンピックを開催しても大丈夫なのか。大会のイメージが具体化すればするほど、不安も大きくなる。文)佐藤充(さとう・みつる):大手鉄道会社の元社員。現在は、ビジネスマンとして鉄道を利用する立場である。鉄道ライターとして幅広く活動しており、著書に『明暗分かれる鉄道ビジネス』『鉄道業界のウラ話』『鉄道の裏面史』などがある。
2021年03月30日元アナウンサーだった青山愛さん「青山さんが流暢(ちょう)な英語でお話になっていたので感心していたのですが、それよりも彼女がいま“国連”に勤めていることのほうが驚きでしたね」(イベントに参加した女性)2017年にテレビ朝日を退社。直後に渡米し、国際開発・人道問題の修士取得を目指し 『ジョージタウン大学外交大学院』に進学して以降、その後の活動が報じられてこなかった元テレビ朝日アナウンサーの青山愛さんが、3月26日にとあるオンラインイベントに参加していたという。題して、『世界共通のゴールを目指して―スポーツのチカラと難民』。迫害などによって故郷を離れなければならなくなった世界の子どもたちに、「“スポーツ”を通じて心身の成長の手助けができないか」との提案をする国際的なイベントだ。主催するのはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)という団体で、第二次世界大戦後の1950年、住居を失った何百万人ものヨーロッパ人を救うために設立された。現在も世界中の難民の保護や支援に取り組んでいるというのだが……。■学生時代はボランティアにホームステイも「青山さんはUNHCRの渉外担当官。国際パラリンピック委員会(IPC)との“調整担当”として、IPC難民選手団が大会に出場できるよう、支援を行っています」(国連関係者)オンラインイベント当日も彼女の存在感は大きく、「国際パラリンピック委員会の会長、アンドリュー・パーソンズ氏、元テレ朝の先輩である宮嶋泰子さんらと一緒に、スピーカーとして登壇しました。難民の子どもたちや若者にとって、スポーツは“より良い未来をつくる力”と説かれていましたよ」(前出・イベントに参加した女性)青山さんといえば、テレ朝の人気アナウンサーのひとりだった。’11年4月に入社、アメリカで13年間を過ごした帰国子女で、京都大学経済学部を卒業した才女。語学力はもちろんのこと、大学時代のモンゴルでのボランティア体験やフランスでのホームステイなど、海外での活動経験も豊富だった。「1年目の7月に、『速報!甲子園への道』のローカルパートでアナウンサーデビューしました。その後、4年半にわたって『報道ステーション』の気象キャスターやスポーツキャスターを担当。BS朝日の『いま世界は』で報道キャスターを務めるなど、若手ながら着々とステップアップしていましたね」(同・テレビ局関係者)■UNHCRに問い合わせてみたところ……その才能はバラエティーでも光るものがあった。夏目三久の後任で2016年から1年間『マツコ&有吉の怒り新党』に出演。有吉弘行、マツコ・デラックスを相手に存在感を放っていた。しかし、女性アナウンサーとして華々しい活躍をするかたわら、彼女の本心は別のところにあったようで、「彼女は学生時代から海外のNGOで活動するなど国際情勢に興味があったので、入社当時から報道のような国際的なキャリアを積める部署を強く志望していたんです。でも彼女が担当する仕事はスポーツやバラエティーと、報道の最前線の仕事とはほど遠いものでした」(制作会社関係者)2017年には退職理由について、ブログで以下のように綴っていた。《『声なき声に光を当てたい』と、飛び込んだメディアの仕事でしたが、 もっと現場に近いところで、私にできることがあるのではないか、と。語学や国際感覚、コミュニケーションの力を使って、国際社会に貢献したい。大げさですが、そういった使命感のようなものを抱いてきました。より国際開発・国際情勢への知見を深め、キャリアに繋げるために、大学院進学を決断しました》大学院進学後は学士課程で経済学を専攻した後、修士号を取得。前述の通り、現在はUNHCRで働いているという。「仕事ぶりや人柄が謙虚だと評判です。本人はSNSなどで発信することもなく、もう“表舞台”にはあまり興味がないそうですよ」UNHCRに青山さんが本当に在籍しているのか尋ねてみたところ、「はい、勤めております」との回答が。第二の人生は現場の最前線にあるようだ。
2021年03月29日「彼女には『鉄の女』でいる理由がある」東の夫はそう言って微笑む。3月18日、突如「胃がん」を公表した東ちづる。会見では、同情は無用!と言わんばかりのバイタリティーに満ちた姿で報道陣を圧倒してみせた。数々の困難をステップアップにつなげてきた東。彼女の周りには、差別や偏見、病と闘い、ともに称え合うたくさんの仲間の姿があった──。東ちづる撮影/伊藤和幸■オリパラ大会公式文化プログラムを担当中、胃がんが発覚東京にある渋谷区文化総合センター大和田のホール。その舞台上に女優でタレントの東ちづる(60)の姿があった。悪魔のような魔法使いのような黒の衣装。まるでハロウィンのようなコスチュームに身を包み、演者やスタッフたちに向かってテキパキ指示を出している。「みんなタイミングをもっと合わせて、ちゃんとお客さんのほうを向いてくださいね」3月18日、東が座長を務める「まぜこぜ一座」の舞台『月夜のからくりハウス渋谷の巻』のリハーサルが行われていた。全盲の落語家、ろう俳優、義足や車椅子のダンサー、自閉症のダンサー、小人プロレスラー、女装詩人、ドラァグクイーンなど“マイノリティー”にくくられる演者がズラリ。そこに極悪レスラーのダンプ松本やアコーディオン奏者なども加わり、障がいの有無にかかわらず、まぜこぜになって、パフォーマンスを披露していく。東は、障がいのある人や生きづらさを抱えた人たちの創作活動を行う「まぜこぜ一座」を2017年に旗揚げし、演劇の総合演出を務めてきた。そんな実績が認められ、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会公式文化プログラム「東京2020NIPPONフェスティバル」のひとつの文化パート総指揮者にも就任。「多様性」がテーマとなる映像制作の準備も着々と進んでいた。だが、冒頭のリハーサル同日、突然開かれた記者会見で東は「胃がん」を公表した。「私、胃がんだったようなんです。でも、内視鏡で切除しまして、こんなふうに元気になって、日々バリバリやっております!」昨年11月末に、胃痛と貧血の症状で診察を受けたところ胃潰瘍(いかいよう)と診断され、1週間の入院。念のため12月初旬に受けた精密検査で早期の胃がんが発見されたのだ。今年2月3日に内視鏡的粘膜下層剥離術を行い、13日には退院していたという。会見での姿は溌剌(はつらつ)としていたが、改めて本人に話を聞いてみた。「胃潰瘍が、がんを教えてくれたと私は思っています。胃潰瘍にならなければ気がつかない可能性もありましたから」東は「スキルス性胃がん」を恐れていたと明かす。医師に詳しい説明を聞きに行く前、家にいた夫にはこう告げていた。「たぶん早期のがんなんだと思う。でも、もしスキルス性だとしたら今後のことを話し合いたい」スキルスとは、「硬い腫瘍」を意味する言葉。一般の胃がんとは異なり、胃の壁に沿って染み込むように患部が広がっていく。症状が現れにくく、悪化してから発見されることが多い。5年生存率は7%未満といわれている。そのため、「死」を連想しなかったわけではなかった。「いちばんに考えたのが、引き受けたオリパラの仕事でした。引き継いでくれる人を探さなきゃならないと思った。これは私じゃなかろうが、実現させねばならない。とりあえず、あと1、2か月命があるんだったら、ガッチリと信頼できる映像班で、編集もこんな感じでとどう伝えればいいか真剣に考えました。あとは夫が1人になったらどうなるのか、形見はどうしよう、少ないけど遺産はどうなるのか、最後に旅行にも行きたいなとか……」東の夫、堀川恭資さん(58)は、妻の異変を感じ取っていた。「具体的に言葉には出さないけど、長く一緒にいるので、僕には彼女が普段と違って見えて、不安な気持ちでいるのがわかりました」それでも、悩んだのはたったのひと晩。スキルス性ではなく、初期の胃がんと判明した後は、すっかり普段のペースを取り戻していた。東には、がん告知に動じずにいられた理由がある。30年以上にわたり『骨髄バンク』の活動に携わり、数々の死を目にしてきたからだ。「こういう活動をしていると、私より若い人がたくさん亡くなるんですよ。ある日突然、仲間がいなくなる。骨髄移植で成功する人もいれば、亡くなってしまう人もいる。毎日のように弔電を打って、白い花を贈っていた時期もあります。“なんでうちの子なの……”って泣くご遺族の姿もたくさん見てきました。人生は本当に思いどおりにはならない。生と死は隣り合わせだと学んだんですよ」ひと呼吸おいて、「今の私はたまたまラッキーだっただけですね」と微笑(ほほえ)み、その声は弾んでいた。「私、胃がんだと聞いて、自分の身体にゴメンなさいと謝りました。私が悪い、生活を改めますと誓った。生っきよう♪一生懸命生きようって、思いましたね。自分を使い切ろう。絶対無駄にしないぞ、と」■優等生の挫折と母の言葉1960年、広島県因島市(現在の尾道市因島)で、造船関係の仕事をしていた父と会社員だった母の長女として生まれた。「母親は、子育て本を読みあさって、それはもう一生懸命に私を育ててくれました」幼いころから、母親は毎晩本の読み聞かせをしてくれたという。「母からは『1番にならないといけない』『優しい子でいてね』『ちゃんとしなさい』と教えられ、私もそれに頑張って応えていました」成績はずっとトップクラス。家の居間の壁には東の賞状がずらりと貼られていた。周囲の期待を感じ、いつの間にか何となく教師を目指すようになっていた。目標は、国立の広島大学の教育学部。誰もが彼女の合格を信じて疑わなかった。ところが──受験は失敗。そのとき、母がつぶやいた言葉が忘れられない。「母はボソッとつぶやくように言いました。“18年間の期待を裏切ったわねぇ”って。それはとてもリアルでした。景色が霞(かす)んで、壁の賞状がボンヤリと目に入った」あまりに大きな衝撃だった。浪人する道もあったが、母親の言葉にショックを受けた東は、大阪の短大に滑り込む。小さな島から出て、大阪という大都会でひとり暮らし。それまでの自分を知る人が誰もいないという解放感を堪能し、卒業の日を迎えた。■有名企業の会社員から芸能界へ当時は、「青田買い」という言葉があるくらい就職には有利な時代である。誰もが知っている有名企業に就職し、イベントプロモーション、ショールームを運営する会社の広報部に配属された。「年功序列もなくて、新入社員でもすぐ企画が出せました。ワクワクするような毎日でしたね。職場の雰囲気も労働条件もよかった。お茶くみとかコピー取りといった雑用は一切なし。それでも、女性の昇格には高い壁があった。後輩の男性社員に追い越され、納得できないこともありました」東は、満たされた日々を送るために「仕事以外」のことに熱中した。休日のアルバイト、ウインドサーフィン、テニス、スキー、ディスコ、食べ歩き、旅行、デート……。忙しく時間を使うことで「生きている」という実感を得ようとした。「会社の有休を週末にフルに使って、黒姫高原のペンションに居候してアクティブに活動してましたね。インストラクターの資格を取るくらい熱中してました」このころ、東には学生時代から交際していた恋人がいたが、大失恋を経験する。「原因は私の強い依存心。ムードだけの口約束だけでは不安だった私は、結婚への約束、保証が欲しかった。それが彼のプレッシャーになったんですね」当時は、結婚や出産を機に退職する「寿退社」が華だった。結婚が決まらない人はやがて「お局」と呼ばれるようになっていく。「寿退社」という選択肢を失った東は、進むべき道に迷い始めていた。「私は組織には合わないんじゃないか、と思うようになっていました。とはいえ安定からこぼれ落ちるのも怖い。一方で、もっと自分を表現できる仕事がしたい、という思いも強くなっていたんです」そんなある日、十二指腸潰瘍を発症。医者には「仕事を辞めればきっと治りますよ」とあっさり言われてしまう。時代はバブル期。一流ブランドの会社を捨ててもどうにかなる気もしていた。「スキーのインストラクターにでもなればいいぐらいに思って、会社を退社しました」会社を辞めた東に声をかけたのは、芸能事務所に勤める友人だった。「遊びにこない?」と誘われたのは芸能プロダクションのオーディション。軽い気持ちで会場へ向かった。それが人生を大きく変えることになるとも知らずに……。ド派手なファッションだった東は司会者の目に留まり、ステージに上げられた。何しろ、髪はソバージュ、ピンクのヘアバンド、白い革ジャンにピンクのTシャツ、白いパンツにハイヒール……。「いつクラブやディスコ、パーティーに誘われても大丈夫なように、普段からそんなスタイルだったんですよ(笑)」実は、友人が東をオーディションに出演させるよう仕組んでいたのだという。「そのオーディションは、新人の最終選考でした。テレビ局のプロデューサーやディレクター、制作会社の人たちが審査員だったんですね」東は、ステージでテレビに対する自分の意見を語った。そして男性司会者と腕相撲をして勝ってみせた。さらに、ガタイのいい司会者に向かって、「ここさぁ、あなたの仕事としては面白く見せるところでしょ?」とツッコミ、会場を沸かせたのだった。「私は何の欲もないから、すごいリラックスしてたんです。みんなめっちゃ緊張してやってるのに、私は普通に笑いを取りにいったんですね」その場でグランプリを受賞。審査員の数人が、「この子をすぐ使いたい」と次々手を挙げた。初仕事はテレビの情報番組のレポーターだった。「会社で広報担当をやっていて、イベントなどでレポーターに指示を出す立場でしたから、何をすべきか現場のノウハウはすべてわかっていたんですね。なんて要領のいい子だと思われました(笑)」当時は、芸能界の仕事は単なるアルバイトのつもりだったが、だんだんテレビの仕事が増え、東は現場をこなしながら実力を磨いていった。帯番組の司会を務めるようになると、料理番組『金子信雄の楽しい夕食』(朝日放送)の出演を射止め、全国ネットにデビュー。2年後には『THE WEEK』(フジテレビ系)の司会に抜擢(ばってき)されて上京する。時事問題を扱うバラエティー番組やドラマにも出演するようになり、大阪6本、東京で5本のレギュラー番組を持つ超売れっ子になった。「お嫁さんにしたい女優ナンバーワン」にも選ばれている。■少年の本当の気持ちが知りたい東は、そんな活躍の一方で、骨髄バンク啓発の活動を始めるようになる。きっかけは32歳のとき。自宅で情報番組を見ていると、画面に17歳の高校生が現れた。「彼は白血病でした。私の故郷の因島の男の子で、余命いくばくもないかもしれないとナレーションが入りました。とにかく泣かす音楽と泣かす演出でした。けれど、その子は泣くでも怒るでもない。それでスタジオのアナウンサーが『病気に負けずに頑張ってほしいですね』と言ったんですね。『えー!』と思いましたよ。だって、頑張ってんじゃん。泣き言も言わずに」テレビの仕事を始めて7年。東はテレビの持つ巨大な力の強さをひしひしと感じていた。ところが、その情報番組は“お涙ちょうだいの演出”にすぎず、少年の真意はくんでいないと感じ、愕然(がくぜん)とした。少年の本当の気持ちが知りたくて、「居ても立ってもいられなくなった」彼女は、連絡先を調べ、彼の自宅に衝動的に電話をしてみた。「少年のお父さんが出ました。けれど、全国から電話があったんでしょうね。『どうもありがとうございます』と言うだけで切られてしまいました。しばらくして、男の子の妹から私の元に分厚い手紙が送られてきたんです」手紙には、「骨髄バンク啓蒙(けいもう)のためのポスターを作ってほしい」と綴(つづ)られていた。それこそが少年がテレビに出て伝えたかったことだったのだ。「だったら、番組でそのことを伝えるべきじゃないか。それはすごく申し訳ないことをしたなと思いました。私の番組じゃないけど、テレビ業界にいる人間としてね。これは完璧に作り手の課題だと思ったわけなんですね」東は、少年が出演した番組の担当者にも連絡を入れた。「彼はなぜテレビに出たのか、そしてどうしてメッセージが伝わらなかったのかと尋ねたら、担当ディレクターから『テレビだよ、数字取らなきゃ』と言われました。それも正解ですよ。でも『数字も取りつつメッセージも発信する、両方できるんじゃないですか』と言ったら『まじめだね』と」骨髄バンクとは、白血病をはじめとする血液疾患などのため「骨髄移植」などが必要な患者と、骨髄を提供するドナーをつなぐ事業のことだ。厚生労働省の調査によると、日本では毎年新たに約1万人以上が白血病などの血液疾患を発症している。そのうち骨髄移植を必要とする患者は、年間2000人を超える。東が活動を始めたのは、日本で骨髄移植が実施される以前のことだ。自分が何か行動を起こさなきゃいけない、という衝動に駆られたと言う。「何もしないということは、溺れている人を見て素通りするような感覚があった」錚々(そうそう)たる一流の業界の仲間を集めてポスターを制作。プロのクリエーターたちによるモノクロ写真を使った斬新な仕上がりだった。病院、学校、企業に配布し、貼ってほしいと呼び掛けたが、想定外の壁に直面する。「いろんなポスターが送られてくるから貼る場所がない、と断られるんですよ。そのとき、骨髄バンクがまったく認知されていないと知りました。日本中の患者さんをつなげて、骨髄バンクを知ってもらうことが先決だと思い、関係者を探して連絡をとっていったんです」やがて患者会と連携して講演やシンポジウムなどを開催するようになる。しかし、「骨髄バンクについて語ろう」という趣旨のイベントを開いても、集まるのは関係者だけ。興味のない人をどう巻き込むかが課題だった。「そこで思いついたのが、『泣いて笑ってボランティア珍道中!』というタイトルをつけ、さらに『芸能界の裏側まで話しちゃう!』というコピーで一般の人々を呼び込み、骨髄バンクの話をしてパンフレットを持っていってもらうという作戦でした」芸能人による活動には、反発もあった。週刊誌などは、こぞって「売名行為だ、偽善だ」「パフォーマンスだ」という記事を書きたてた。「そのときに闘ってくれたのが、所属事務所ではなく活動仲間でした。出版社に電話して『まったくパフォーマンスなんかじゃないですよ。東さんは全部自分で動いているんですよ』と言ってくれたり、手紙を出してくれたりしたんです。あ、大人になっても仲間ってできるんだと思いましたね」全国骨髄バンク推進連絡協議会元会長の大谷貴子さん(59)は、自身が白血病を発症し、ドナーから移植を受けたことから活動を始めた。彼女は、東をこう評価する。「東さんは決して迎合しないし、ヘラヘラもしない。だから敵もいるけど、味方もたくさんいます。脳より先に足が動く人ですね。賢いんだけど、ずる賢いイメージの“クレバー”ではなく、“スマート”な人。だからダメなものはダメとはっきり言ってくれる。でも、とっても楽しい人でもあります」■母と娘でカウンセリングへ芸能界での活躍、骨髄バンク啓蒙運動の陰で、東は精神的な悩みも抱えていた。自分がAC(アダルトチルドレン)なのだと知ったのは、37歳のときだ。「あのころの私は、周囲の期待通りに振る舞いながら1人になると、訳のわからない焦燥感に押しつぶされそうだった。『生きていて何の意味があるのだろうか』なんて思い悩んでいたころでした」アダルトチルドレンとは、子ども時代に、親との関係で何らかのトラウマ(心的外傷)を負ったと考えている成人のことで、その傷が現在の生きづらさやパーソナリティーに影響を及ぼす状態を指す。「18年間の期待を裏切った」大学受験に落ちた日、そう口にしたことを母は忘れてしまっていた。だが、母の言葉に東は、その後も長くとらわれていた。そのため、東は高校時代の記憶が抜け落ちている。これは「解離」と呼ばれる精神障害のひとつ。記憶、意識、感情、感覚、思考などの心の働きが、一部切り離されてしまっていたのだ。「母に遠慮している自分を変えたかった。そばから見れば仲よし親子だけど、実は関係性は崩れていた。ちょうど父が亡くなった後で、大きな反省と未練もありました。もっと対話すべきだったなあという。とにかく母が生きているうちに関係を取り戻したい、そして本当の私を知ってほしいと思った。また、母自身にも、妻、母ではなく、それ以前のアイデンティティーを取り戻してほしいという思いがありました」東は「カウンセリング」という心理療法を2人で受診したいと母に迫った。しかし、母親の説得には2年もの時間がかかった。母親の英子さん(82)が言う。「カウンセリングなんて言われても理解できないですよ。催眠術かけられるのかなって(笑)。でも、ちづるから『そうじゃないから』って何度も説得されて、受けました」8か月、計12回にわたって母とカウンセリングを受けた。「変化はめちゃめちゃあった」と東は言う。「それ以前は、母が傷つかないような、悲しませないような言動をしていたと思うんです。お互いに心配をかけてはいけないと思いがちだった。でも今は、『今日はしんどい』『私は嫌だ』と普通に言えるようになったんですね」母親の英子さんは、自分の盲信に気づいたという。「私は、21歳という若いときにあの子を産んで、それも未熟児だったから、余計になんとかちゃんと育てなきゃ、という気持ちがあった。だから、育児書を読みあさって『あの子のために』と頑張ってきた。それが、あの子につらい思いをさせてたなんて考えてもいませんでした。『ああ、そうだったの?』と素直に謝れました」カウンセリングが終わって飲みに行った日、母は娘に謝罪の言葉を伝えたのだ。東はその言葉を聞いて初めて、「私は母に謝ってほしかったんだ」と自覚したという。■夫の難病と向き合い、団体設立東は、パートナーである堀川恭資さんと暮らして今年で26年目になる。堀川さんは、広告などにタレントやモデルなどをキャスティングする、キャスティング・コーディネーターをしていた。共通の友人であるスタイリストから紹介されたのが出会いだった。東の第一印象を堀川さんはこう振り返る。「面白い人だなと思ったのと、ほかの芸能人とは違うなと思いましたね。すごく勉強熱心で、やっぱり会社員を経験しているせいかなとも思いました」映画や食事に出かけるうちに距離を縮め、’95年には事実婚、’03年に入籍した。夫は飲食店を経営するようになり、幸せな生活を送っていた。ところが2010年、突然堀川さんが「ジストニア痙性斜頸(けいせいしゃけい)」を発症してしまう。自分の意思とは関係なく、筋肉が収縮する症状が首や肩に生じるもので、頭が回転したり、前後左右に傾いたりする。脳の機能がうまく働かなくなることが原因で発症するらしいが、詳細は明らかにはなっていない。東が言う。「2年間は寝たきりでした。しんどかったのは、最初は病名がわからなかったこと。闘う相手がわからないのが気持ち悪かったですね。どう治療していいかもわからない」それでも、西洋・東洋医療、民間療法など、宗教と霊的なもの以外は何でもやってみた。そして専門の医師と出会ったことで徐々に改善し、現在では多少の苦労はあるものの、車椅子生活を送っている。自動車の運転や軽い散歩もできるほどになった。堀川さんが言う。「発症して2年間は、本当に彼女もつらかったと思う。僕をみて仕事に行って『彼がどうなってるかわからないから』と好きなお酒も飲まずに急いで帰ってきてね。寝ていても僕は熟睡するまでずっと頭が動いているからその衣(きぬ)ずれで彼女は眠れなかっただろうし」2012年、夫がリハビリに励む中、東は『一般社団法人Get in touch』を発足。音楽やアートなどエンターテイメントを通じて、誰も排除しない「まぜこぜの社会」を目指す活動をスタートさせた。「なぜやるの?」と反対し続ける堀川さんに東は言った。「他者のため、社会のためにやることがあなたのためにやることなの。このままだったら、私たちは生きづらくてたまらない。社会が少しは変わってくれないと、我慢すること、耐えること、諦めることばっかりになってしまう。やらなければ何も変わらない」そして、2人の意見がぶつかったまま、『Get in touch』のイベントの日が訪れる。東が会場に到着すると、「東ちづる様」と書かれた段ボールが届いていた。差出人は書かれていない。「え?なんだろ?」「怖い、怖い」もしかしたら、反対派の嫌がらせかもしれない。訝(いぶか)しく思いながら中を開けてみると、中には「Get in touch」のロゴマークが印刷された缶バッジが何百個も入っていた。「夫からのプレゼントだったんですね。私に内緒でスタッフからロゴマークのデータをもらいプリントしてたんです」堀川さんは今、妻に“感謝”を伝えたいという。「反対していた当時は、自分のことだけでも大変なのに、なぜ社会のために他者のためにと……。理解するまでに時間がかかりましたね。今振り返ってみると、僕も含めて『まぜこぜ』の社会のためにやらなければということだったんですね。今彼女に伝えるとしたら、やっぱり『ありがとう』かな。病気になって11年間ありがとう、一緒にいてくれて26年間ありがとう」『Get in touch』の活動の中で、スタッフの目に東はどう映っているのだろうか。2015年から事務局の中心スタッフとして活動している柏木真由生(まゆう)さん(47)は「ちづるさんと一緒だとジェットコースターに乗っている感覚」だと言う。「とにかく走り出す。(クルマは)走りながら組み立てるわよ!という感覚ですね。それでも、しっかりメンテナンスもして、乗り遅れないでね、と声をかけることも忘れない。ちづるさんは『ピンチはチャンス』が口癖です。どんなことでも面白がる」驚かされるのは、車椅子ユーザーの関係者が、のんびりしていたりすると、東が「もう、遅い。立って歩きなさいよ~」などと言ったりすることだ。そう言われた車椅子の人はうれしそうに笑い返す。柏木さんたちスタッフは、初めて耳にした時は驚いて言葉を失ったという。「私たちにしてみれば完全にアウトですよね。でも、ちづるさんには普通のこと。『障がい者にはやさしく接しなければならない』と思っていたら、あんな冗談はとても言えない。けど、ちづるさんは言っちゃう。誰でもできることじゃないですよね」腫れ物に触るのではなく、自然ときついジョークも交わせる関係。その自信と覚悟があるからこそ、ぐっと距離を縮められるのだ。■ハッピーエンドにはしない昨年11月、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会公式文化プログラムの依頼を受けた東は、引き受けるかどうか1か月以上悩んだと明かす。「今までずっと粛々と『Get in touch』の活動を続けてきて、こんな晴れ舞台に出て、もしもバッシングを受けたら活動自体に傷がつくんじゃないか、という不安もありました。もちろん、たくさんのプロがいる中、私でいいのかということもありましたけどね」背中を押してくれたのは、仲間の言葉だった。『Get in touch』のメンバーに「こんな依頼が来ているんだけど」と打ち明けると、「ちづるさんがずーっとやってきたことの積み重ねが大きな形になりますね」「やっとですね、やっとですね。こういうチャンスを作るために私たちは頑張ってきたんですよね」みんな口々にそう言って涙を流したのだ。東も目を潤ませて言った。「ああ、そうか。こういう仲間がいるんだったら大丈夫だなと思いましたね」世界配信される映像のテーマは『多様性』。タイトルは「MAZEKOZEアイランドツアー」だ。「冠パートナー企業がJALなので、飛行機で多様な島をツアーしていくというコンセプト。(飛行機の)機内に乗るとドラァグクイーンのCAさんがいて、『さあ、みなさま。次の島はですね』と案内をする。その島には、障害のあるダンサーや全盲のシンガー・ソングライターなどがいろんなパフォーマンスを見せてくれる。いろんな人たちが参加して、アートや音楽やパフォーマンスを見せていくというもの。1本の映画ですね。これは、私の29年目になる活動の集大成なんです」東は、作品にこんな思いを込めようとしている。「ここ何年か、『多様性を目指す』とか『共生社会を目指す』という言い方をされることが多いんですが、“目指す”というのがそもそもおかしい。すでに私たちは、『まぜこぜの社会』にいるんです。全員が多様な色とりどりの人たちの1人で、一緒に生きているんだと。でも現実は、多様な特性が理解されなかったり、尊重してもらえないことで、生きづらさを感じている人がたくさんいます。傷ついている人がすぐそばにいるのに、なぜそのことに気づけないのか?頭では人権を理解しているつもりでも、実感はできていないのかもしれませんね」韓国や欧米と比較しても、日本の「多様性」への意識は遅れていると指摘する。「LGBTQを差別していないと言うけれど、日本はうわべだけ。例えば、欧米や韓国のドラマでは、学校や会社が物語の舞台になると、日常的にマイノリティーの小人や同性愛者や障がい者が登場します。日本の映画やドラマでは彼らが出てくるとしたら、それがメインテーマになってしまう。それを克服する感動ものになっちゃう。『日常的に一緒にいる』という描き方がまだできないんですね」そこで東は「共生・多様性」を可視化、体験化できる映像を企画したのだ。「私たちの作品の内容は基本的には、楽しく笑えて泣けて、最後はモヤモヤする。すっきりはさせません。実は最初はハッピーエンドにしてたんですよ。でも、森喜朗前会長の女性蔑視の発言があって、やめました。世界中が怒ったのに、私が『日本は多様性OKですよ』みたいな映像を作ったら、私が見せかけのヒューマニズム、美談にしちゃうことになるでしょう?」東の考えやアイデアを言語化し、舞台の脚本を担当する尾崎ミオさん(55)は言う。「ちづるちゃんは、パッションと感性の人。一緒にワクワクしながら刺激的な冒険の旅を楽しんでいる感覚がある。面白いからやめられない(笑)」夫の堀川さんは、東の体調を気遣いながらも、こう理解を示す。「手術後も100%体力は戻ってないけど、彼女にはやらなきゃいけないことがいっぱいあるので、気は張っていると思います。彼女は外から見ると『強い、可愛くない、女らしくない』と思われるかもしれない。けれど、僕からしたら『弱くて優しい女性』です。でも、そのままだと男社会で闘うことができないから、あのサッチャーのように『鉄の女』でいるのかもしれないですよね」今、東ちづるは「多様性・共生」という言葉を死語にしたいと意気込んでいる。「ピンチはチャンスだなと思ってるんです。ピンチってことは、こうじゃない別の方法を選べ、ということ。あ、ほかにもっといい方法があるんだってサイン。だから、まったくめげないですね!」《取材・文/小泉カツミ》こいずみかつみノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある
2021年03月27日ポリシーは、「できない」と言わないこと。日本初のスポーツ義足を作り、陸上クラブを創設したほか、世界初のヒールをはける義足やマタニティー義足を開発。ファッションショーまで開催し、患者が笑顔で挑戦できる場を生み出してきた。人生のどん底に立つ患者たちを、前へ前へと導く、オーダーメードの義足づくりとは―。城戸彰子さんの生活用義足を、スポーツ義足に慣れた手つきでつけ替える臼井さん撮影/伊藤和幸■義足になっても楽しめる場所抜けるような青空のもと、東京・北区にある東京都障害者総合スポーツセンターに、義足のランナーたちが集まっていた。参加者は、上は60代から、下は小学校低学年の、総勢70人あまり。板バネと呼ばれるカーボン素材のスポーツ義足にはき替えると、弾む足取りでグラウンドに駆け出していく。「メンバーは全部で219人いて、北海道や九州からも参加します。グループLINEっていうの?あれができてから、連絡がラクになりましたね」飾らぬ口調で話すのは、臼井二美男さん(64)。義肢装具士として、のべ5000本もの義足製作・修理に携わり、日本におけるスポーツ義足の第一人者としても知られるスペシャリストだ。臼井さんが、義足ユーザーを中心とした陸上チーム『スタートラインTОKYО(2017年に『ヘルスエンジェルス』から改称)』を創立したのは、1991年のこと。以来、30年にわたり、月1回の練習会を続け、ここを足がかりにパラリンピックの日本代表になった選手もいる。「取材だと、パラの選手が話題になっちゃうけど、ここに集まるのは、ふつうの人がほとんど。義足になっても、身体を動かしたい、走ることに挑戦したい、そういう人が楽しめる場所なんです」練習会にはボランティアで義肢装具士、理学療法士、スポーツトレーナーも参加しているが、義足ランナー同士が和気あいあいと走る姿が目につく。「義足になって閉じこもりがちだった人が、自分を変えようとここに来る。そうすると、見違えるほど表情がよくなる。走るっていう目標ができるし、事故や病気で足を失った、同じ経験を持つ仲間がたくさんできることも励みになるんです」いっちに、いっちに─。かけ声とともに、先輩ランナーと走る、勅使川原みなみさん(15)もそんなひとり。中学2年生のときに骨肉腫で左足のひざから下を失った。娘の走りを見守りながら、母・里佳さん(38)が話す。「初めて練習会に参加したときは、母娘してあっけにとられました。グラウンドの脇に、ずらーっと取りはずした義足が転がってて、『うわっ、こんな世界があるんだ!』って(笑)。娘は自分だけが特別じゃないって気づけたんですね。『義足あるある』で仲間と共感したり、居場所になっています」ひと汗かいて戻ってきた城戸彰子さん(40)は、26歳のときに感染症で両足を切断したと話す。「6年前に臼井さんに新しい義足を作ってもらって、松葉づえで歩けるようになったんです。それだけでもすごいことなのに、『走ってみない?』って私に─」そこまで話すと、感極まったように言葉を詰まらせた。「ごめんなさい、思い出しちゃった。すごくうれしかったんです。私でも、走ることを目標にしていいんだって」創立から30年、運営は決して楽ではなかった。スポーツ義足は、生活用の義足と違い、公費から補助が出ない。参加者に負担をかけないよう、1つ20万円くらいする貸し出し用の義足をそろえる必要があったからだ。「5年くらい前から、職場が費用を出してくれたり、スポーツ義足を寄付してくれる団体が出てきてラクになったけど、それまでは生活用義足のあまった部品をスポーツ用に使ったりね。もう、孤軍奮闘。だけど、やめようと思ったことは、1回もない」きっぱり言うと、メンバーたちの走る姿を見渡しながら、ポツリと言葉を足す。「俺がやめちゃったら、元に戻っちゃうじゃない。せっかくのいい表情が」■ミニスカートが履ける義足東京・南千住駅から徒歩1分の場所に、臼井さんが勤める、鉄道弘済会義肢装具サポートセンターはある。ここは、リハビリ施設も完備された全国屈指の規模の製作工場。常時30人の義肢装具士が働いている。臼井さんは勤続36年の大ベテランだ。「臼井さんは患者さんに義足を合わせる能力がずば抜けています。でも、それ以上に、僕が驚くのはコミュニケーション力ですね」そう話すのは、職場の後輩、義肢装具士の出口雄介さん(39)。臼井さんに憧れて、この道に入ったという。「患者さんが、スポーツをやっていたような活動的な人なのか、あまり歩かない人なのか、何に興味を持っているか。自然な会話の中で聞き取り、ひとりひとりにぴったりの義足を作る。対応する患者数も多いのに、すべての人に対してです。簡単にはまねできないですね」その言葉を裏づけるように、「オーダーメードの服のような義足を作ってもらった」と話すのは、都内のデザイン事務所に勤務する、イラストレーター・須川まきこさん(46)。15年前に血管肉腫を患い、左足の大腿骨を骨盤から切り離す、大がかりな手術を受けた。「初めて自分の身体を鏡で見たときは、わかっていたけどショックでした。もう好きなおしゃれもできなくなると。でも、臼井さんが『ミニスカートがはける義足を作ってあげる』と言ってくれて。座ってもひざがぐにゃっとならないよう、外装を工夫してくれたんです。2度と着られないと思っていたワンピースを、また着られたときの喜びは、今も忘れられません」須川さんの義足は、骨のかわりをする金属に、『外装』という肉厚なカバーをかぶせるタイプ。台所スポンジなどに使われるウレタン製の外装はミリ単位で削られ、上から厚手のストッキングをかぶせる。健足とそっくりで、どちらの足が義足かわからないほどだ。■広い世界を見せてくれた一方、あえて外装をつけず、金属のままの義足を見せるのは勅使川原みなみさん。『スタートラインTОKYО』の練習会にも、母娘で参加していた女の子だ。「外装をつけると、なんかもやもやしちゃうかなって。私は最初から義足ってことを周りに知ってもらいたかったので、そのままつけています」だが、ここにも臼井さんはひと工夫。みなみさんの義足のソケット(足の切断面と義足をつなぐ部分)は、おしゃれな迷彩柄で、よく見るとキラキラ光っている。「迷彩柄は、臼井さんに好きな生地を選んでおいでって言われて自分で選びました。ラメは、義足ができあがったら、なぜかついてた(笑)」臼井さんが言う。「みなみは外装をつけないから、もっと華やかにしてみようかと。ドラッグストアでラメのネイルっていうの?初めて買ってね」20年ほど前まで、ソケットは肌色や白が一般的だったが、「リハビリ用具っぽい」とはきたがらない利用者もいた。そこでソケットの外側に好きな柄の布を貼れるように臼井さんは工夫した。利用者に好きな布を買ってきてもらい、ソケットの形状に沿って貼りつけ、上から樹脂をしみこませて作る。和柄や花柄、好きなアニメのキャラクターなど、世界に1つだけのオーダーメード義足に個性がにじみ、愛着も湧く。生地やラメを加工すればそれだけ手間がかかるが、臼井さんは惜しむことなく“思い”をのせる。「はきやすい義足を作るのはもちろんだけど、モチベーションていうのかな、義足をはきたくなる要素を1つでも増やしたくてね」その“思い”は、義足作りだけにとどまらない。みなみさんの母・里佳さんが話す。「みなみが高校進学に迷ったとき、臼井さんに相談に行ったら、『高校に行って、やりたいこと、見つけたほうがいいぞ』と言われたみたいで、その日のうちに『高校行く!』と決断して帰ってきました。中学を不登校ぎみになったときも、臼井さんは否定することなく、『みなみ、借りていいですか?』って、24時間テレビのイベントや職場に連れ出して、広い世界を見せてくれました。みなみにとって、臼井さんは誰よりも信用できる大人なんです」進学に限らず、義足になって職を失った人にも、職業訓練校や公務員試験の受験などをアドバイス。今後の進路をともに考えている。「この仕事をやっていて、いちばんつらいことは、患者さんが亡くなること。作ったばかりの義足が、はかれることなく送り返されてくることもあります。深刻な病気の場合、再発のリスクは5~7年はつきまとう。必ず治ってほしいから、前向きに生活できる環境を整えたい。そうすれば免疫力も上がるからね」臼井さんは、足首の角度が調整できてヒールもはける、リアルコスメティック義足や、妊婦がお腹のふくらみに合わせてはける、マタニティー義足も世界で初めて開発。精巧な義足を作るだけでなく、患者の心にしっかり寄り添う。この義足作りにかける並々ならぬ思いは、どのようにして生まれたのだろうか。■8年ものフリーター生活1955年、群馬県前橋市生まれ。農業を営む両親のもと、兄と妹、3人きょうだいの次男坊として育った。「農業だけじゃ、食べていけなかったので、父は板金工をやって、母は給食センターに働きに出ていました。そういう両親の姿を見て育ったから、働くのはちっとも苦にならなかった」高校は地元屈指の進学校、県立前橋高校に入学。卒業後は、自由闊達(かったつ)な校風の和光大学人文学部に進んだ。「高校時代はあんまり勉強しなかったなあ。親は地元の銀行員や教師になれってすすめたけど、将来の仕事も定まらなくてね。東京の大学に行くかって、上京したんです」ところが、大学生になった臼井さんが没頭したのはアルバイト。ほとんど休みなしで、朝から晩まで打ち込んだ。「ガードマン、バーテン、ワゴンでTシャツを売る露天商、音楽コンサートのビラ配り、トラックの運転手もずいぶん長くやったなあ」アルバイト漬けで本業がおろそかになり、大学は3年生で中退。今でいう、フリーターになってしまった。「親は心配だったんでしょうね。とにかく顔を見せろとせっつかれ、しぶしぶ実家に戻ったら、おふくろが俺の長袖シャツをさっとめくるわけ。東京で薬物に手を染めてるんじゃないかって、注射痕がないか確認したんです(笑)。当時は髪も長くて、ヒッピーみたいだったからなあ」ちゃんと就職して、親を安心させたい。そう思うものの、アルバイト生活からは、なかなか抜け出せなかった。「正社員にならないか?」、熱心な仕事ぶりが評価され、アルバイト先の上司から、誘われたことも1度や2度ではなかった。それでも、決してうなずかなかった。「自分で言うのもなんだけど、まじめで一途な性格なので、正社員になったら、生涯その道一本にのめり込むとわかっていたんです。だから、一生を賭けたい仕事を見つけるまでは、中途半端に就職したくなかった」フリーター生活は8年にも及んだ。ようやくピリオドが打たれたのは、28歳のとき。真剣に結婚を考えたからだ。「それが、うちの母ちゃん(笑)。2つ年下で、喫茶店で働いてたんで、よく仕事の帰り、顔を見に寄ってね。3年付き合って、結婚を考え始めたとき、彼女のおやじさんから言われたの。結婚するなら定職に就けって。もっともだよね」これが弾みとなり、臼井さんは本気で職探しを始めた。■「こんな義足、はけねえ!」36年前、現在勤務する鉄道弘済会を初めて見学した日のことを、臼井さんは鮮明に覚えている。「当時、工場には20人ほどの職人が働いていて、半数が手や足のない人でした。もともと鉄道弘済会は、鉄道の仕事中に手や足を失った職員が働くために作られた義肢製作所だったんです。『きみは、手も足もあるのに、この仕事に就きたいの?』って聞かれたことが印象に残っています」職探しを始めて間もなく、職業訓練校で、義足・義手製作の技術を学べる『義肢科』があると知り、強く引きつけられたという。「義肢と聞いて、小学校の担任の先生を思い出したんです。若い女の先生で、病気で足を切断して義足になった。先生の不憫さや、触らせてもらった義足の硬さにショックを受けたこと、何もしてあげられないもどかしさなんかもよみがえってきてね。義足の仕事を覚えたいと訓練校への入学を決めたんです」道が定まった臼井さんは、入学前に義肢装具士の現場を見学しておこうと、軽い気持ちで鉄道弘済会を訪れた。すると、予想外の展開で、就職が決まったというのだ。「採用内定者に欠員が出たとかで、急きょ、『うちに来ないか』と。驚いたけど、現場で仕事は覚えられるって言うし、見習いの半年が過ぎたら正社員になれるので、結婚もできる。ほんと、どこの馬の骨ともわからない俺を引っ張ってくれて、今でも感謝してます」こうして、右も左もわからないまま、義肢の世界に飛び込んだ。配属は、義足製作。「先輩たちが作った義足の外装を、削って仕上げる。最初の3年は、そればっかり。だけど嫌じゃないってことは向いていたんですね。中学時代も美術部で、ものづくりが好きだったし」朝は誰よりも早く来て、夜遅くまで働いた。自分のパートを期日より早く終わらせると、「手伝います」と先輩の傍らにつくのが日課だった。「修理の仕方も先輩によって違うので、積極的に聞いて覚えました。対処法をたくさん知っておけば、それだけトラブルに強くなれる。ただ、聞くときは気を遣った。職人気質でプライドを持っている先輩が多かったので、同じ質問を別の人にするときは、場所を選んだり。こういう人間関係の知恵みたいなことは、アルバイト時代の経験が、ずいぶんと生かされました」入社4年目からは、いよいよ患者を受け持った。石膏で足型をとり、ソケットを作るところから、トータルで任される立場だ。臼井さんは張り切った。だが、患者の反応は思いもよらぬものだった。「『入社何年目?』って、よく聞かれたけど、そもそも患者さんは大事な義足を若造なんかに任せたくない。これが本音なんです。『こんな義足、はけねえ!』って投げつけられたこともありました」厳しい言葉に落ち込んだこともある。それでも、臼井さんは逃げなかった。「どんなに無茶な要求をされても、『できない』とは決して言わない。納得してくれるまで、何度でも作り直しました。そうすると、患者さんのほうが変わってくる。こいつなら任せても大丈夫って思ってくれるんですね」■日本初の挑戦、スポーツ義足入社5年後には、義肢装具士国家試験に合格。10年が過ぎるころには、勘所をつかんで作れるようになっていた。しかし、「臼井さんで義足を」と全国から患者が来るようになった今も、慢心はない。「一人前だなんて思ったことはないですね。最初から義足がぴったり合うこともめったにないし。患者さんの声を聞きながら、調整を重ねていく。それに尽きます」完成すれば終わりではない。筋肉や体重の増減で、そのつど調整が必要になる。このときも、対応は敏速だ。「担当した患者さんみんなに携帯番号を伝えています。直接電話をもらえれば、すぐに義足を調整できるから」患者のためなら、労を惜しまない。携帯登録者数は、1400人にものぼる。まだ日本にスポーツ義足が普及していなかった30年前、初めてスポーツ用の義足を開発したのが、臼井さんである。きっかけは、入社して間もないころに見た、1本のビデオに始まる。「アメリカ人女性の義足ランナーが、全速力で走る映像でした。少し前に、新婚旅行先のハワイで義肢工場を見学して、スポーツ義足があるってことは知ってた。だけど、実際につけて走る映像を見て、目が釘づけになった。こんなことができるんだって」当時の日本では、義足の人は運動を避け、多くのことをあきらめるのが常識だった。そのことに疑問を持った臼井さんは、いつかスポーツ義足をこの手で作り、義足の人を取り巻く環境を変えたいと熱い思いを胸に抱いた。そして、入社6年後、満を持して会社と掛け合い、スポーツ義足を開発する許可をもらったのだ。「支給された研究費で、さっそく、アメリカの義足メーカーから、バネのような『足部』と、『ひざ継手』という、ひざの部品を取り寄せて。それからは、無我夢中だった」目指すは、スポーツ用の『大腿義足』。太ももからつけるこのタイプは、ひざの部分も金属製なので、歩くだけでも訓練が必要。それを、走れる義足にしようというわけだ。「苦労したのは、ひざの部分。これがスムーズに動かないと、走るスピードについていけず、つんのめってしまう。それに、少しでも角度がよくないと、ひざがガクッと折れちゃう。ひざ折れは、大腿義足の人がもっとも怖がるアクシデントで、スピードを出せば大ケガにつながることもあります」■義足の人を走らせたい日本初の挑戦だ。身近にお手本はない。試行錯誤の日々が続いた。「義足先進国のアメリカやドイツの文献に載っている写真を、それこそ穴があくほど眺めては、構造を理解しようと必死でした」就業時間内は本業の生活用義足を作るので、スポーツ義足に取り組めるのは、夜になってから。それでも寝る間も惜しんで打ち込んだ。「義足の人を走らせたい!」、その一心だった。待望の試作品1号が完成したのは、2か月後のこと。最初の試走者に選ばれたのは、「度胸がある、タカちゃん」こと、任田孝子さん(55)。当時、20代半ばだった。「ハハハ、おてんばだったので、『やる!』って二つ返事で引き受けました。臼井さんに教わって、足を思い切り、ぽん、ぽんて踏み出したらすぐ走れたんです!小走りだけど、気持ちよかった。4歳で足を失ってから、走る感覚を初めて味わえました」孝子さんは、その後、結婚や出産で走ることから遠ざかったが、最近、再び走り始めたという。「東京オリンピックの聖火ランナーに応募したのがきっかけだけど、子育てが終わって、また走りたいって思ったのは、初めて走れた感動が忘れられなかったからですね」孝子さんが試走して以来、「タカちゃんに続け」とばかりに、次々と患者たちがスポーツ義足に挑戦。その走りを研究し、臼井さんはさらに義足を進化させていった。義足ランナーの練習会を立ち上げたのもこのころ。5人からスタートしたメンバーは年々増え、10年たったころ、パラリンピックの出場選手を輩出するようになっていた。2016年リオパラリンピック。満員の観客が見守る中、女子100メートル決勝に臨んだ日のことを、大西瞳選手(43)が振り返る。「私、すごく緊張しいで、国内の大会でもスタートラインにつく間に吐き気をもよおすほど(笑)。リオではどうなることかと本気で心配でした。でも、緊張するどころか、会場の大歓声を浴びて、ああ、夢が叶うってこういうことだって、心から楽しんで走ることができました」23歳のときに感染症が原因で、右足を太ももから切断した大西選手は、臼井さんとの出会いから、パラリンピックへの道が開けたという。「『走れるようになると、きれいに歩ける』って臼井さんに誘われたのが始まりでした。先輩ランナーのカッコよく走る姿を見て、当時抱えていた義足のコンプレックスもなくなり、私の義足を見て!って思えるほど、走るのが楽しくなっていったんです」学生時代に陸上部だった大西選手は、タイムもめきめきアップ。2008年、北京パラリンピックを観戦し、「いつか私も!」と心を決めた。■パラリンピック選手のサポートそれからは、仕事と練習を両立。臼井さんとともに走りやすさを追求して義足の改良を重ねた。「臼井さんは、私の意見を絶対に否定しないんです。そのうえで、さらにこうしてみるよと、工夫を加えてくれる。このさりげない配慮が、すごくありがたかったです」まさに二人三脚で、8年後、リオで念願の日本代表(100メートル・走り幅跳び)に選ばれたわけだ。「あの大きな舞台で、のびのびと走れたのは、臼井さんの存在も大きかったですね。選手村では毎晩のように話をしたり。場内でも臼井さん、私を使って海外の義足の選手の写真を撮ろうとするんです。『瞳ちゃん、一緒に撮ってあげるよ』って親切なふりして(笑)。本当は義足の研究が目的なのに。臼井さんがふだんどおりだから、私たち選手も緊張がやわらいだんですね」2000年のシドニーから、毎回選手に同行している臼井さんは、パラリンピック特有の雰囲気が、選手を萎縮させることを知っていた。「初出場の選手は特に、雰囲気に圧倒されて、飲まれちゃう。調子が出ないと、義足のせいにしたくなることもある。そんなときは、『任せとけ』って調整したふりをして、そのまま戻しちゃう」現地に入る前に、義足は入念に仕上げてある。あとは、気持ちの問題。だからこそ、臼井さんは選手に安心感を与えることに心を砕く。今夏、開催予定だった東京パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で1年程度の延期が発表された。だが、選手と向き合う臼井さんの姿勢は変わらず前向きだ。「1年間猶予ができたなら、僕は義足のもっと新しい部品を使えるように調整して、選手のパフォーマンスレベルがより高まる義足に仕上げていきたいと思っていますよ」来年、臼井さんの魂がこもった義足で、何人もの選手が心新たに夢舞台に立つ予定だ。これから選考会に臨む、大西選手が言う。「北京、ロンドン、リオと、回を重ねるごとに、パラリンピックの会場は盛り上がっています。もう福祉のパラというイメージはなく、観客は選手のパフォーマンスを心から楽しんでくださってる。開催国の選手が活躍すると、さらに盛り上がります。私も代表に選ばれたら、全力を出し切りたいと思っています」■義足のモデルでファッションショー鉄道弘済会には、花をあしらったアート感覚の義足や、しゃれた靴などが収納された衣装部屋のような一角がある。「ファッションショーで使ったもの。このサンダルなんか、俺が買ってきたの。誰かにはいてもらおうと思って」2014年、義足の女性たちの躍動的な姿を撮影した写真集『切断ヴィーナス』(撮影・越智貴雄)の出版を機に、翌年、石川県中能登町で義足の女性たちによる初めてのファッションショーが開かれた。モデルとして参加した、前出・大西瞳選手が話す。「臼井さんは15年も前から、義足のモデルでファッションショーをやりたいって言ってたんです。とんでもないこと言うなあ、誰が見るの?って聞き流していたんですが、実現させちゃった(笑)。義足はカッコいい、見せるものっていう、臼井さんの考えに時代が追いついてきたんですね」前出・イラストレーターの須川まきこさんも、ステージに立ったひとり。「金属の義足で登場するので、ちょっと衝撃的ですよね。私たちが緊張すると、お客さんも反応に困っちゃうので、思い切り楽しみました。それが伝わって、お客さんもすごく盛り上がってくれて」元気な義足女子たちは、義足は不憫で隠すものというイメージを、笑顔で吹き飛ばした。以来、全国から声がかかり、多いときは年に数回、同様のファッションショーを開催している。大西選手が話す。「都会に比べて地方は義足を見慣れていないので、偏見が残っている場合もあります。地方でこそ積極的にショーをやって、義足や義足ユーザーを身近に感じてほしいですね」イベントで、イラストを担当し、義足の女の子を描いている須川さんも話す。「義足の女の子のファッショナブルな絵を描けば、思春期で義足になった女の子にも喜んでもらえるかなって。私なら、誰よりもリアリティーをもって描けますから!」2人の言葉は物語っていた。10年、15年と臼井さんとともに歩むなかで、「支えてもらう人」から、「支える人」へと成長していることを─。臼井さんが話す。「足を切断するってことは、どん底からのスタートです。だけど、仲間ができたり、スポーツやカルチャー、それぞれが得意分野で自分の力を発揮できるようになると、どんどんたくましくなっていく。そういう変化を見られるのが、僕の喜びであり、この仕事の醍醐味なんですね」齢64歳。昨年、定年を迎え、現在は嘱託として同じ条件で再雇用されたという。「ありがたいですね。まだ発想力や体力も鈍ってる感じがしないので、とりあえず70歳くらいまでは続けていきたいと思っています」平日は義肢装具士としてフルで働き、休日も練習会や国内の陸上大会への付き添いと、ほとんど休みはない。「うちの母ちゃんが怒らないかって?ひとり息子が独立して、母ちゃんも保育園でパートしながら、エレファントカシマシの追っかけしてますから(笑)。感謝してます。結婚して35年、好きなことをやらせてくれる、母ちゃんに」夫婦の時間はいつか引退してからのお楽しみ。今日も、臼井さんは義足を作り、患者と向き合う。義足で歩き出す、新しい人生を輝かせるために─。取材・文/中山み登り(なかやまみどり)ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー。
2020年04月12日1965年に公開され、その後ほとんど公開される機会のなかったドキュメンタリー映画『東京パラリンピック 愛と栄光の祭典』が現在、東京のユナイテッドシネマ豊洲で公開されている。本作は、1694年に開催された国際身体障害者スポーツ大会の模様をおさめたもの。当時、この大会は“東京パラリンピック”の名で親しまれた。映画は、交通事故や戦争、病気などで下半身まひになってしまい、車椅子で生活する競技者たちが活躍し、海外の選手との交流やスポーツを通じて希望を見つけ出していく姿が描かれる。1964年は東京オリンピックも開催され、市川崑監督が総監督を務めたドキュメンタリーは当時、圧倒的な動員を記録。その完成度の高さは現在も語り継がれており、当時はその内容を巡って論争が起こるなど大きな話題を呼んだが、本作は最初の公開の後は上映される機会がほとんどなかった。現在、公開中の作品はそんな貴重な映像を初デジタル化して上映。名優・宇野重吉が解説を、日本を代表する作曲家のひとり、團伊玖磨が音楽を担当している。『東京パラリンピック 愛と栄光の祭典』ユナイテッドシネマ豊洲で公開中
2020年01月19日ついに今年、2020年東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。数々の種目がある中で、特に注目を浴びているのが「水泳」。今回は、Hanako本誌連載『LOCKER ROOM』よりインタビューをお届けします。事なかれ主義なので争い事は苦手です。…木村敬一選手リオデジャネイロ・パラリンピック競泳男子(視覚障害)では銀2、銅2のメダル4個を獲得し、読売新聞社制定『第1回日本パラスポーツ賞』の大賞にも選ばれるなど、日本のパラスポーツ界を牽引する木村敬一選手。その素顔はとっても気さくでオチャメ。取材時、大ファンだという広瀬すずさんの話になると声が弾み、週3回行うウエイトトレーニングの話題では「すごく楽しくて、ジムには毎日でも行きたい。ボディビルダーを目指したいぐらいです」と、軽快なトークで周囲を楽しませてくれる。30分ほど準備運動を行ってから入水。本誌でも少し触れているが、日本大学卒業後は同大の大学院にも進学。大学院では教育学を学び、ゆくゆくは教員の道も?「学校の先生や大学の講師だったり、そういう道が開けたかな。…あ、開いてはいないか。そういう道もあるということを知ったぐらいです(笑)」。フレンドリーな木村選手だったら、生徒たちにもきっと大人気!ただし、ちょっぴり不安材料も。「あまり強く言えるタイプではないので、言うことを聞かない生徒がいても叱れないかも…。基本的に“事なかれ主義”なので(笑)。先生としてはダメですよね」。世界で戦い続けるトップアスリートも、プライベートでは争い事が苦手。「ホントはみんなと仲良くやりたいんです。でも、そこは勝負の世界なので、やるからには勝ちたい。競技と私生活では矛盾が生じています(笑)」birthday:1990/9/11blood type :Oheight:171cmbirthplace:SHIGAきむら・けいいち/2歳の時に病気で視力を失う。10歳で水泳を始め、高3で北京パラリンピック出場。続くロンドンでは2つのメダルを獲得し、リオでは50m自由形と100mバタフライで銀、100m平泳ぎと100m自由形で銅メダルを獲得。(Hanako1128号掲載/photo : Rie Odawara text&edit : Naoko Sekikawa)撮影協力: 立教大学香りフェチのイケメンスイマー!…江原騎士選手練習が終わり、インタビュールームにやってきた江原騎士選手からは、とってもいい香りが!聞くと、本誌の私物チェックコーナーで紹介してくれた愛用の香水をつけてきてくれたそう。「紹介するので、つけたほうがいいかなと思って!」と、そのニクい心配りにもキュン香水のつけ方にもこだわりをお持ちのようで、「お風呂上がりやプール上がりにすぐつけて、1時間ぐらい経ち、肌になじんだときの匂いがベスト」なのだとか。香水の他にも、洗剤や柔軟剤、ボディクリームなど、香りへの思い入れが強い江原選手。「柔軟剤は大学1年生の頃からピンクの『ラボン』を愛用中。洗剤との組み合わせによっても香りが変わるので、いろいろと試してみましたね(笑)。プールに入っていると塩素によって肌が乾燥するので、ボディクリームも使っています。とくに、女性の水泳選手はボディクリームを使用している人が多く、いい匂いだと、何を使っているのか聞いたり。気になっちゃうんです」とニッコリ。興奮気味に話す様子がかわいかったです。Birthday:1993/7/30Blood:typeAHeight:172cmBirthplace:YAMANASHIえはら・ないと/専門は自由形。2016年、リオ五輪に出場。4×200mリレーでは2泳を務め、52年ぶりの銅メダル獲得に貢献。今年4月の日本選手権では800m自由形で初優勝。200m、400m自由形では2位に。7月の世界水泳ブダペストにも出場。(Hanako1144号掲載/photo:Rie Odawara text&edit:Naoko Sekikawa)
2020年01月18日台風19号の暴風雨には傘もひしゃげて=都内2020年も大きな被害をもたらす台風はくるのか。■今後増える「怖い台風」に注意読売テレビのお天気キャスターで気象予報士・蓬莱(ほうらい)大介さんは、「予想資料がまだそろっていないため、はっきりしたことは言えないんですが、ここ数年の傾向を見ると油断できないと思います」として次のように語る。「’19年は、千葉県などを襲った台風15号と、東日本に大洪水を巻き起こした台風19号の被害がひどかったですよね。実は以前から、今後、こういう台風が増えるのではないか、と予想されていたんです。地球温暖化などが招く怖い台風の代表例でした」(蓬莱さん=以下同)温暖化で「怖い台風」が生まれるとはどういうことか。「日本列島近海の海水温が高くなっており、日本のすぐ近くで台風が発生して上陸が早いケースがあります。これまでは列島から離れた南の海上で発生して1週間ぐらいかけて上陸するケースが多かったんですが、15号は発生3日目で上陸しました。勢力が強まっていくタイミングです」勢いがあるうえ、発生から上陸まで時間が少ない。怖いのはそれだけではない。「大洪水をもたらした19号は、平年よりも海水温が高くなっていたエリアをゆっくり北上し、勢力を落とさずに上陸しました。お風呂の湯気と同じで、海水が温かいため大量に発生した海上の水蒸気を巻き込み勢力を拡大しました。神奈川・箱根町では1日に922・5ミリの雨が降り、国内で1日に降った最大降水量記録を更新しました。東京の半年以上の雨が1日に降った計算です。こうした怖い台風が近年、目立っています」■夏暑く、冬暖かい1年になるか夏には東京五輪がある。涼しい夏になればいいが……。「現時点の資料を見る限り、太平洋の海水温の変化傾向などから’20年の夏も猛暑になる可能性は高いと思います。例年、暑さのピークは梅雨明け後の10〜14日間。関東地方の梅雨明けは平年なら7月21日ごろですので、7月24日に開会式を迎える東京五輪にドンピシャであたる可能性がある。梅雨明けがいつになるかが、ポイントです」こうした台風や猛暑にどう対処すればいいのだろうか。「自分は被害に遭わないとか、熱中症にならないと思い込まず、“もしかしたら自分も……”と考えるようにしましょう。天気予報は気象衛星ひまわりの進化などもあり、昔より精度が高くなっています。予報を把握して、自分が危ないと思っているよりも少し手前で線を引いて対策をしてください」ほかにも、気象災害で心配していることがあるという。「暖冬傾向で全国的に雪不足になりそうです。雪が少ないと春には水不足が心配です。また関東では1月〜2月初めにかけて大雪が降るリスクが高い。近海の海水温が平年より2度も高く、雪や雨を降らせる南岸低気圧が海上の水蒸気を巻き込みそうです。低気圧の発達具合、進む位置によっては雨かもしれませんが、寒気が流れ込むタイミングが重なるなど悪条件がそろえば大雪のおそれがあります」備えは万全に!ほうらい・だいすけ気象予報士・防災士。兵庫県明石市出身。2011年から読売テレビの気象キャスターを務め、『情報ライブミヤネ屋』などにレギュラー出演中。著書に『空がおしえてくれること』(幻冬舎)、『気象予報士・蓬莱さんのへぇ~がいっぱい!クレヨン天気ずかん』(主婦と生活社)
2020年01月10日商船三井/「BLITZ」所属倉橋香衣さん撮影/齋藤周造お盆休みの中日、海運大手、商船三井の社員食堂に設置されたコートで、子どもたちが車いすに乗り、夢中で車いすラグビーチーム「BLITZ(ブリッツ)」の選手を追いかけていた。「ほらみんなで囲め、囲め!当たって、当たって!残り20秒。頑張れ~!!」マイクを握り明るい声援を送るのは、車いすラグビー日本代表で唯一の女性選手、倉橋香衣さん(28)。笑顔からこぼれる白い歯が印象的だ。現在、商船三井の人事部に勤務しながら、同社がオフィシャルサポーターを務めるBLITZで活動し、’20年のパラリンピックを目指している。その日は商船三井の社員とその家族向けに車いすラグビー体験会が開かれていた。■つらいときも笑っている倉橋さんは大学時代のトランポリン競技中の事故で頸髄を損傷し、鎖骨から下の感覚を失った。肩と上腕の一部が動くだけで、指の感覚もない。リハビリ訓練中に目にした車いす同士の激しいぶつかり合いに魅せられ、車いすラグビーを始めた。「最初はただ動くのが楽しかったんですが、そのうち戦術があることを知り、どんどんハマっていきました」車いすラグビーは四肢に障害のある人のための男女混合のチームスポーツ。バスケットボールサイズのコートを使い、ボールをトライラインまで運ぶのを競い合う。車いす同士がぶつかり合うことが許された唯一のパラリンピック競技だ。選手は障害の重い順に0・5から3・5点までの持ち点があり、1チーム4名の合計が8点以下でなければならない。そのうち女子選手が含まれる場合は、0・5点の追加が許され、合計を8・5点にすることができる。倉橋さんのように障害が重い0・5のローポインターの選手も、ポジションの取り方によって、敵の動きを止めるブロッカーとしての活躍が期待される。「敵の動きを先読みして、うまくその進行を阻んで、味方がゴールを決められたときは、すごくうれしいんです」日本代表で世界的に有名なアタッカーの島川慎一さん(44)は、倉橋さんの選手としての成長をそばで見てきた人物だ。「最初は女子選手が入ることのメリットで代表に呼ばれたのが大きかったと思いますが、上達も早いですし、彼女自身も勉強熱心なので、いいプレーヤーになっていますね。この競技は当たりの激しさが注目されがちですが、ローポインターの選手の動きが重要で、海外でも司令塔の役割を果たしています。最終的には彼女もそうなっていくと思っています」時折、メンバーやスタッフと冗談を交わす倉橋さんは、終始リラックスしてにこやかな表情だ。日本代表のキャプテンも務めた官野一彦さん(38)はその笑顔に癒されるという。「いつもニコニコしてつらいときでも笑っているので。試合中は“歯を見せるな”とか叱られたりもしてましたけど、前歯が乾いて戻らないという(笑)。それぐらいいつも笑ってましたね。スキルでもメンタル面でもチームになくてはならない存在です」倉橋さんは’18年の世界選手権で日本の初優勝にも貢献した。自分たちのプレーによって、車いすラグビーやパラスポーツ全体への関心が高まることを期待しているという。「ケガをするまではパラリンピックを見たこともなくて、どんな競技があるかも知りませんでした。障害者と関わったこともなく、何もわかっていなかったんです。自分がこういう経験をして、さまざまな障害がありながら暮らしている人のことを知り、学ぶことがいっぱいで、世界が広がったなと感じています」■ひとり暮らし、車で通勤倉橋さんは現在、埼玉県越谷市でひとり暮らしをしながら、商船三井で週2日働き、残りの日をBLITZや日本代表の練習に充てている。「会社は私がまだラグビーを始めたばかりで、結果が出ていないときに採用を決めてくれました。大学卒業後も神戸の実家に戻らないでラグビーを続けると決めたので、仕事と競技を両立させる願いが叶えられて感謝しています」週1日は在宅勤務で、あとの1日はラッシュを避けた時間帯に約2時間かけて車で通勤する。愛車はアクセルもブレーキも手動で操作できる特別仕様車で、屋根の上にたたんだ車いすを積んでいる。会社の地下駐車場に到着すると、倉橋さんはルーフボックスを開いて車いすを降ろし、車の座席から乗り移る。到着から約5、6分で誰の手も借りずにエレベーターに乗った。人事部のある階に着くと、車いすでも届く低い位置のカードリーダーに社員カードをかざし、オフィスの中へ入っていく。通路に妨げとなるものはなく、スムーズに席についた。倉橋さんの入社後、さまざまな気づきから社内のバリアフリーが進んだ。これまで地下にしかなかった多目的トイレも今春、倉橋さんの働く階に増設されたという。上司である人事部長の安藤美和子さん(50)は言う。「社会的な要請で義務的に整備するということではなく、倉橋という社員がいますから、少しでも快適に過ごせればいいと思いますし、ほかのお客様がいらしたときや同じような社員が入ったときに利用しやすいように改善しています」倉橋さんは自助具をつけてパソコンのキーボードを打つ。主な業務は部署内の伝票や社内アンケートの集計の入力で、在宅でも同様の作業をしている。その正確な仕事には定評がある。しかし、社内で人の手を借りるときに戸惑うこともあると明かす。「人にものを渡すにしても、自分が何分もかけてゴソゴソやるより、ここ開けてくださいと言ったほうが、その人の時間も取らないし効率がいいとは思うのですが、できないことではないから、頼るべきか迷うんです」ともに働き、生活する仲間は介助者ではないので、どこまで頼んでよいのか悩むのだという。「もっと気軽に考えればいいんでしょうけど。いちばんいいところを探っています」安藤さんも障害のあるなしにかかわらず、任せたい度合いについては、お互いに話し合えればいいと言う。「ここまでは大丈夫だからいいですよというようなことも、最初は誰もわからないですけど、繰り返していく中でわかっていくんでしょうね。相手を慮りすぎると疲れてしまいますし、障害者だというだけで極端に気を遣いすぎるのもよくないですしね」倉橋さんは自らの経験を踏まえてダイバーシティ(多様な人材活用)をテーマに社内外で講演をすることがある。倉橋さんのリハビリ中のビデオを見た社員たちはみな感極まっていたそうだ。「人それぞれ境遇も違い、ぶち当たる壁も違うと思うんですが、倉橋のような壁を乗り越えてきた人の話を聞くと、なんか自分もやれるかなあという気持ちになれますよね。とにかく彼女はいつも笑顔で明るいんです。採用の決め手も笑顔だったと聞いています。そこに至るまでにはつらいことも苦しいこともいっぱいあったと思うんですが、笑顔で切り開いてきたという、そういうところに私たちも勇気づけられているのだと思います」(安藤さん)■’11年4月24日、頸椎を脱臼骨折’90年、兵庫県神戸市で3人姉妹の次女として生まれる。ともに会社員だった両親は、休みになると子どもたちを車に乗せてキャンプに出かけたり、旅行に連れて行ってくれたという。「じっとしていられないくらい活発な子」だった倉橋さんは、体操を見るのが好きだった母の影響で小学1年の終わりから体操教室に通い始める。「水泳やバレエなどほかの習い事もさせてもらったんですが、本当に好きな体操しか長続きしませんでした」車で送り迎えをしてもらい、週5、6回練習をした。「体操は同じ練習を何回もして技ができるようになっていくんですが、ラグビーも同じで、ボールにタッチする練習を何回もして上達していくんです。それが大切なことは自分でわかっているので、何においても毎日コツコツやることは、苦にならないのかもしれません」’09年、埼玉県越谷市の文教大学教育学部に進学。小学校の教員免許と中学・高校の体育教師の免許が取れるという理由で選んだ。高校3年まで続けた体操はひと区切りし、トランポリン部に入部する。「体操でトランポリンを使った練習をしたことがあって、怖かったり苦手意識があったんですが、体操と違った宙返りのやり方があったり、技ができるのがうれしくて、面白くなっていきました」大学3年になったばかりの’11年4月24日、越谷市のトランポリン大会の決勝前の練習でその事故は起きた。「東日本大震災の影響で大学がずっと休校だったことと、腰を痛めていて全然練習ができてなくて、出場するつもりはなかったのですが、見ているだけでは楽しくないからやはり出ることにしたんです」最初に技に入るときからタイミングが合わないのがわかっていた。しかし順番を待つ人のことも気になり、「いっちゃえ」と再び技に入った。すると自分の頭と身体の位置がわからないぐらい混乱し、宙返りの途中で頭からトランポリンに刺さるように落ちた。「次の瞬間、バーンと倒れて、呼吸が苦しくなりました。それからは意識が飛び飛びなんですけど、“ゆっくり呼吸しろー”というのは聞こえてて、フーフーと息をして少し落ち着いてきたら、救急隊員に“いま脚を触っているんですけど、わかりますか?”と聞かれて、わかりませんと答えました。首をやったら一生歩けないのは何となく知っていたんですけど、感覚がなくなるということは知りませんでした」倉橋さんは頸椎を脱臼骨折していた。救急搬送された病院で、5時間かけて首の骨を固定する手術を受けたが、脳とつながる中枢神経が傷ついており、鎖骨から下の感覚がほぼなくなってしまった。同じ学部に所属していた親友は、倉橋さんの携帯に送ったメールに気づいたお母さんから、その一報を受け取ったという。「そのときはまだよく状況がつかめずにいました。お母さんは香衣がトランポリンをしていたことやその前に体操をさせていたことがダメだったのかなとご自身を責めていらっしゃいました」倉橋さんもその後、母から同じ言葉をかけられた。「母には“体操をやっていたおかげで生き延びたんや”と言いました。当時は身体も太ってて、首も太くてムキムキしてたんです。あの体重で頭から落ちて生きていられたのは、首の筋肉を鍛えていたおかげなので、本当に体操をやっていてよかったと思いましたから」■前向きになれた理由手術後、堪え切れない痛みからは解放されたが、寝たきりの生活を余儀なくされる。頸髄が傷ついたことにより、自律神経の働きが弱まり、血圧の調整もできなくなった。「頭を起こすだけで血圧が下がってしまうので、少しずつベッドの角度を上げて慣らしていって、ベッドの上に座れるようにしていきました」ケガ後、はじめて倉橋さんと対面したときのことを前出の大学時代の親友が語る。「最初、なんて言ったらいいのかわからなかったのですが、香衣が“もう足は動けへんかも”なんて笑いながら言ってて、どうしようというようなことは一切言わなかったので、私や周りが泣いちゃダメだなと思いました」見舞うたびに鉛筆が持てるようになったことやフォークが使えるようになったことをうれしそうに話し、「リハビリのために神戸に戻る。早く動けるようになりたい」と何度も口にしていたという。「私が悲しい気持ちになる前に香衣がもう前を向いていたので、彼女がすることを応援しようと思いました。一緒に泣いたことも香衣が泣いているのを見たことも1回もないです」倉橋さんが前向きな気持ちになったわけを正直に話してくれた。「ケガをしたのは腰が痛かったり練習をしていなかったということもありますが、前日にバイト先の人に誘われた飲み会に顔を出して、寝不足で試合に臨んだという、選手としてダメな姿勢も要因だったと思っています。あとで、その方たちから“自分たちが呼ばなければよかった”と言われたんですけど、私が決めて行ったわけだし、あんな過ごし方をしてたら、そりゃケガをするだろうなと。それを後悔するぐらいなら自分が動けるようになればいいと思ったんです。自分の好きなように好きな生活ができれば、たぶん後悔はしないだろうなと。リハビリとか今できることをしっかりやっていこうと思いました」倉橋さんのように脊髄を完全に損傷してしまった場合、現在の医学では機能回復は難しいといわれている。ケガ後の生活の質は、リハビリ訓練で残った機能をいかに活用できるようにするかが大きなカギとなる。事故から6か月目、神戸市の兵庫県リハビリテーション中央病院に転院した。作業療法士の安藤芽久美さん(35)が当時の倉橋さんの様子を語る。「当院にいらしたときはまだ上手に車いすにも座れない状態だったんですが“私はひとり暮らしをするんや”という明確な目標をお持ちでした」まずはベッドの上で起きたり座ったりする動作から始め、次に車いすに移って、自分でこいで筋力と体力をつける練習を長い時間をかけて行った。「ひたむきな努力家で頑張りは抜きん出ていましたね。ひとりで車いすに乗れるようになると、ほとんど部屋には戻らずに広場でずっとこぐ練習をしていました。指もなかなかうまく使えませんから、訓練室でハサミを使うなど細々としたことの練習をずっとしていました。その姿はやはり目立ちますし、周りの人に影響を与えていましたね。あの子が頑張っているから自分も頑張ってみようかというふうに、みんなを勇気づけていました」■自分が好きな服を着たい自立して生活するために排泄や着替え、入浴などの練習もした。排尿はカテーテルを使って導尿を行い、数時間ごとにパックを取り換える。排便は座薬挿入機を使い、決まった時間に出すようにする。今はだいたい週2回、3~5時間をかけて行いルーティン化しているという。衣類は障害者が着脱しやすいファスナーやマジックテープがついたものもあるが、自分の好きなものを着たいと、手間がかかっても普通の衣類を着る訓練をした。入浴はお風呂用の車いすに乗って行う方法を習った。見守り続けた作業療法士の安藤さんが言う。「工夫をすればいろいろなことができるようになるんです。倉橋さんも自分でできることがどんどん増えて、周囲と励まし合う中で、本当の明るさや強さを取り戻していったのではないかと思います」同じ病棟には事故で手を切断してしまった人やショックで精神的につらくなってしまっている人、現実を受け入れられずにいる人もいた。倉橋さんはそうした人たちと話すことでさまざまな境遇や考えに触れていく。「周りも私のことをあの人は何であんなヘラヘラしてるんだろうと思ったはずです。でも、そうやって交流する中で、みんなで頑張れたかなと思います。障害者同士、はたから見ればどっちも同じに見えるかもしれないですけど、自分たちにしてみたら、“あの人のほうが手がきくからあれができるんや”とか違いがあるんで、こんな手で助け合いながら、わちゃわちゃやっていましたね」’13年1月、病院と同じ敷地内にある自立生活訓練センターに移り、車の運転やパソコンの操作などを練習した。同10月、大学と同じ埼玉県内にある国立障害者リハビリテーションセンターの自立支援局へ入り、ひとり暮らしをしながら大学に通う準備を進めていった。’14年4月、ついに念願の復学を果たす。■再び大学へ、そして母の反対リハビリ期間中は周囲に勇気を与えていた倉橋さんだが、大学に戻った当初がいちばん弱気になったという。復学して最初に感じたのは健常者とのスピードの違いだった。「授業でメモを取るのもついていけない感じでした。同級生たちはとっくに卒業してしまっていて、知らない人の中に3年遅れて入りましたし。最初のうちは大学の元の友達に“授業が追いつかない!”とか“周りにこれ頼みたいけど迷惑かなぁ?”なんてこぼしていました。でも私は昔からなんやかんやと愚痴っては結局、自分で解決していることが多かったので、友達もまた言ってるなくらいで聞いててくれて(笑)。私としては話をするだけで満足して、また次の日から元気になれました」大学へは車での通学が許されていたが、建物にはエレベーターがなく、ほとんどが階段だった。誰かの手を借りなければ授業のある教室までたどり着けなかったため、最初は年下のクラスメートたちの様子を窺い、何時までに行けば教室まで運んでもらえるだろうかと予想をしながら大学へ行った。「だんだん一緒に過ごしていくうちに友達にもなるから、車で到着したところを通りがかった人に一緒に教室へ行ってもらったり、6階までみんなで担いでもらったりしてました。教授に“お前、いろいろ引き連れて桃太郎みたいやな”と言われてましたね(笑)」友人たちは教室の扉に倉橋さんが出入りしやすいように紐をつけてくれたり、唯一あるエレベーターが点検中になったときはいったん教室を出た人も戻ってきて4階から下まで運んでくれたという。「試験は先生に相談して、筆圧が弱いのでボールペンで書かせてもらったり、車いすが無理な教室のときは別室で受けさせてもらったりしましたが、ほとんど普通に受けることができました。でも授業に出席できたのは、本当に周りのおかげだったと思います」国立障害者リハビリテーションセンターにいるときに出会った車いすラグビーに夢中になり、’15年4月からはクラブチームBLITZに参加した。倉橋さんは大学卒業後もBLITZの活動を続けたいと関東に残る決心をする。これには当然、家族の反対があった。その胸の内を母が語る。「中途半端な気持ちでやってほしくなかったですし、反対されても絶対続けようという気持ちがないと無理だと思ったので、何があっても反対しようと決めました。本当は地元で一緒に暮らせたらと思っていましたし。そうしたら自分で就職先も決めてきたんです。これというものがあったら、そこへブレずに向かっていく子なので。その点は何も心配してないです」倉橋さんもそんな母への思いを話す。「実際こういう生活をすると動きだしてからは、やってることに反対せず応援してくれています。ありがたいです」■壁のない社会へーー’16年4月、競技と仕事の両立に理解を示してくれた商船三井に入社する。’17年1月には車いすラグビー連盟から日本代表の申し出があり、同3月、カナダで開かれた大会で代表デビューした。それからの活躍は前述のとおりだ。BLITZのトレーナーを務める、理学療法士の加藤翼さん(28)は、いつも近くで倉橋さんの頑張りを見ている人だ。「自分でやれることは自分でやると貫き通しているのは、いい意味で意地っ張りだからかなと思います。口にしたってしかたないような愚痴をお互いに言い合うこともありますよ。でも、それでスッキリするので。来年に向けていろんな人の力も借りながら、できる限り彼女をサポートしていきたいと思っています」ときとしてアスリートはケガや故障をともなうが、前出の上司、安藤さんは倉橋さんの身体を気遣いこう話す。「試合に出られなかったりすると、彼女はせっかく応援してもらっているのに申し訳ないと思うようです。でも、そういうときは焦らずにきちんと身体を休めてほしいと思うんです。彼女がパラリンピックに集中している今、言うことではないですが、入り口はアスリートというかたちで採用しましたけど、あくまで倉橋という人間を採用したので。例えばもし車いすラグビーを引退して、別の人生を歩みたいということになったとしたら、そのときはそれに沿った仕事の場を提供したいと思っています。彼女の場合、企業人としてとか指導者としてとかいろんな生き方が考えられると思いますから」東京パラリンピック開幕まで1年を切った。カウントダウンセレモニーが催され、機運が高まる一方で、障害者スポーツを取り巻く環境整備はまだ十分とはいえない。「チームメートが練習場所を探してくれるんですが、車いす競技は床にキズがつくという理由で断られることが多いんです。実際にはキズはあまりつかなくて、タイヤの跡はつきますが、それはふいたらきれいになります」昨年から東京都品川区にパラリンピック競技の強化を目的としたパラアリーナがオープンしたが、’20年までの限定的なものだという。倉橋さんは健常者でも使いやすい仕様になっているので、同様の施設が増えればいいと話す。「みなさんこうしたらいいでしょう!なんて、自分から何か発信するということは考えてないです。私はただラグビーが楽しくてやってるだけなので、一生懸命な姿を見て、元気が出る人がいてくれたらうれしいです。そうして来年に向けてパラスポーツ全体が盛り上がって、’20年以降もそれが続いていったらいいと思っています」ひいては障害者と健常者がお互いに壁をつくらず生活をともにする社会になっていけばいいとも。「障害とか健常とか関係なく気軽にと思うんですけど、実際、私が健常者で、車いすの人を見かけたとき、声をかけるかといったらわからないし。自分に本当に余裕があるときに、ひとりの人として普通に接してもらえたらいいと思うんです。声をかけてくれる人って、何か手伝いますか?と聞いて、大丈夫ですと言ったら、サーッと去っていくみたいな感じなんで。そういう人はたぶん車いすとか関係なしにただ気になって声をかけてくれてるんだと思うと、そういうのこそが壁がない状態なのかなと感じています」「自分の好きなように生きられたら後悔はしない」と貫いてきた倉橋さんの進む道。その先に広がるのは、障害の有無にとらわれないノーサイドの世界。それは東京2020から続いてゆく。取材・文/森きわこ(もりきわこ)ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」
2019年09月14日初瀬勇輔さん撮影/坂本利幸初瀬勇輔さんの肩書は、障害者雇用コンサルタントにしてパラアスリート。2枚の名刺を持つ起業家でもあります。現在、障害者に特化した人材紹介会社「株式会社ユニバーサルスタイル」、企業の健康経営や個人の健康をサポートする会社「株式会社スタイル・エッジMEDICAL」、両社の代表取締役として忙しい日々を送る初瀬さん。■「死ぬのは1年だけ延期しよう」15年前は絶望の底にいたと言います。当時、中央大学2年生だった初瀬さんは、23歳にして視力を失ったのです。「手術直後だから見えないのであって、徐々に回復するのだと思っていました。でもそうではなかった。歯ブラシに歯磨き粉もつけられない。自販機で好きな飲み物を選ぶこともできない。今まで普通にしていた日常的な動作が全くできなくなってしまったのです」絶望の中、「死ぬのは1年だけ延期しよう」と初瀬さんは決めたと言います。「どんな環境であっても人は慣れるものなんです。時間が解決するというか。今となっては1年間は、自分の目が悪いことに慣れる期間だったのだと思います。それを僕は“ポジティブにあきらめていく”過程と名づけています。できないことは悩んでもしかたないから、人に頼むしかないと、少しずつですが、そう割り切って受容してきました」将来への不安もあった初瀬さんですが、大学だけは卒業すると決めていました。大学の事務室に出向くと「目が悪くなってしまった。でも卒業したい」と相談を持ちかけます。「僕みたいに途中で目が悪くなって字も見えないし、点字も読めない学生は前例がなかった。でも、大学側は“いい前例を作りましょう”と言ってくれた。1か月ぐらいたったころに連絡をもらって、“初瀬くんが単位を取りやすいように時間割を作りました”と。先生ひとりひとりに交渉し、マンツーマン授業など、特別な時間割を作ってくれたのです」大学側と献身的な友人のサポートで大学生活を乗り切った初瀬さんは就職活動で困難に直面します。何と応募した100社以上から落とされてしまったのです。「あまりに相手にされないので、障害者のための仕事は自分で作り出すしかないのかなと思いましたね」ようやく大手人材派遣会社の特例子会社に就職が決まり、異なる障害のある人たちと一緒に働くことになります。障害者の就職活動の困難、そして労働整備がされていない現状。これらの体験が後に「障害者雇用のコンサルティングをやりたい」という将来の起業への夢につながったといいます。「いつか障害者のための会社を作りたいと思っていましたが、具体的に動いてはいませんでした。それが変わったのは、東日本大震災のときです。明日やろうと言っていても、明日何が起こるかわからないのだから、今やらなければならないと背中を押されました」■失明を機に再び柔道の世界へパラアスリートとしても活躍する初瀬さんの競技種目は「視覚障害者柔道」。もともと中学では柔道部のキャプテンを務め、高校2、3年と続けて県大会で3位の成績を収めた初瀬さん。高校では国体の強化選手に選ばれたこともありましたが、大学では柔道から離れていました。ところが目が見えなくなったのを契機に、再び、柔道とつながります。「大学4年生のときですが、進路をどうするか自分の予定が全く見えませんでした。大学の勉強はしていましたが、やっているのはそれだけで、自分から積極的に何かする気分にはなれなかった。僕がずっと引きこもって鬱々としているので、当時の彼女が“もう1度、柔道をやってみたら”とすすめてくれました。このとき、目の見えない人だけでやる視覚障害者柔道のことを知りました……と言いたいのですが、この話をすると、僕の母親は、アテネ・パラリンピックのときにすでに教えたと反論するんですよ(笑)。そのときは2回目の手術から半年しかたってないから、それどころじゃなかったと思いますが、頭の片隅に残っていたのかなと」視覚障害者柔道と出会った初瀬さんは、その面白さに魅了されます。「視覚障害者柔道では、組んでからスタートするので組み手争いがなく、時間稼ぎもできず、逃げることが許されないんです。最後まで攻め続けるしかない。柔道に詳しくない人には、視覚障害者柔道のほうがドラマチックで面白く観戦できるんじゃないでしょうか」その後、初瀬さんの視覚障害者柔道界での快進撃は続きます。2005年から2013年にかけて、全日本視覚障害者柔道で9回の優勝。2008年北京パラリンピック柔道にも出場を果たします。今、目指すのは、2020年、東京パラリンピックでのメダルです。「柔道が自分に思い出させてくれたのは、“くやしい”という感覚です。日常生活では諦めることが多かったのですが、畳の上では負けたらくやしいと思えた。久しぶりの感覚でした。さらに柔道は視覚障害者も健常者も基本的に同じことをやっているインクルーシブなスポーツです。垣根を越えて“全然一緒に柔道できるじゃん”と。2020年、東京でパラリンピックが開かれるのを機会に、ぜひ、純粋なスポーツとして楽しんでもらいたいと思います」ライターは見た!著者の素顔初瀬さんが緑内障の手術で入院中、予備校で知り合った友人の磯(招完)さんが、ほぼ毎日泊まり込みでサポートしたそうです。「病室で10時間ぐらい話したりとか普通に接してくれましたね。当時はそれが当たり前でわからなかったんですけど、今思えば、目が悪くならなければ、ここまでしてくれる友人がそばにいることに気づかなかった」。退院する日、目が見えなくなったばかりの初瀬さんと、視覚障害者を誘導したことのない磯さんは、初心者同士、固く手を握り合って病院から外の世界に踏み出したといいます。取材・文/ガンガーラ田津美はつせ・ゆうすけ1980年、長崎県生まれ。中央大学在学中に緑内障により視覚障害となる。卒業後、サンクステンプ勤務を経て、障害者雇用に貢献するため、株式会社ユニバーサルスタイル設立。その後、株式会社スタイル・エッジMEDICAL代表取締役にも就任し、企業や個人の健康をサポートする活動にも尽力。現在、視覚障害者柔道の選手として活躍しながら一般社団法人日本パラリンピアンズ協会理事などを務める。
2019年08月30日東京 2020 組織委員会は、「東京 2020 公式アートポスター・プロジェクト」において、東京 2020 オリンピック・パラリンピック公式アートポスターを制作するアーティストを決定した。浦沢直樹(漫画家)オリンピックをテーマとする作品の制作者は11人。漫画家の浦沢直樹、画家の大竹伸朗、グラフィックデザイナーの大原大次郎、書家の金澤翔子、アーティストの鴻池朋子、グラフィックデザイナーの佐藤卓、美術家の野老朝雄、写真家のホンマタカシ、アートディレクターのテセウス・チャン(Theseus Chan)、写真家のヴィヴィアン・サッセン(Viviane Sassen)、アーティストのフィリップ・ワイズベッカー(Philippe Weisbecker)が選出された。そしてパラリンピックをテーマとする作品の制作者は8人。漫画家の荒木飛呂彦、書家の柿沼康二、グラフィックデザイナーのグーチョキパー(GOO CHOKI PAR)、アーティストの新木友行、美術家の野老朝雄、写真家・映画監督の蜷川実花、美術家の森千裕、画家の山口晃に決定した。公式アートポスターは、国内外のアーティストにオリンピック、またはパラリンピックをテーマにした芸術作品を制作を依頼し、それらを東京 2020 大会のポスターとして活用していくもの。20世紀初頭から、各大会の組織委員会が、オリンピックというスポーツ・文化イベントへの認知と理解を促進するために制作してきた。各大会の特色を世界に伝える役割も果たし、近年ではパラリンピックのポスターも含め国際的に活躍するアーティストやデザイナーを起用し、各大会の文化的・芸術的レガシーとなる作品を制作。その中からは、時代のアイコンとなるような作品も生まれているという。
2019年08月01日車イス卓球選手別所キミヱさん撮影/齋藤周造美しいネイルとバッチリメイク、派手な髪飾りが印象的なベテラン車イス卓球女性選手がコートの前に陣取った。その人の名は別所キミヱ。「国際大会のときは特に“敵を編み込む”というゲン担ぎを兼ねて、朝から髪を編み込みにして、蝶の飾りを埋め込んでいます。ゴールドに日の丸をあしらったネイルとつけまつげもトレードマーク。おしゃれは私の“勝負服”、そうすることで初めて戦闘モードに突入できる。自分に欠かせないものなんです」■「今は、来年の東京を目指している」2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと4度のパラリンピックに出場した偉大なプレーヤーだ。彼女は右手でしっかりとマイラケットを握り、小さなボールを凝視。集中して一球一球に反応する。そのオーラは他を圧倒するものがあった。特定の組織に属さない彼女は、地元の明石や神戸、加古川に加え、大阪や東京など6〜7の拠点を渡り歩き、練習を積み重ねている。姫路のテーブルテニスショップタカハシ(TTS)のママさん卓球教室もそのひとつ。4月中旬に訪れると、仲間の主婦たちに笑顔で迎えられた。「この人はホンマすごいんや」と羨望の眼差しで見つめられる中、基本のラリーが始まった。右手にラケットを握りしめ、フォアハンドを徹底して打ち続けた後は、得意のバックハンドの精度を上げる。最後には「マジック球」と名づけたコース狙いの浮き球も確認する。練習時間は約2時間。一瞬たりとも集中を欠かさず、小さなミスをするたび、「アカンわ」と厳しい表情で卓球台を睨みつける。その姿は「勝負師」そのものだった。コーチの荒川翔一さんは、指導を始めて10年以上の付き合いになる。「メダルを目指してロンドンまで全力投球した後、“これからどうするんだろう”と思いました。正直、やめるのかなと。でも、リオに行き、今は来年の東京を目指している。一球一球に強くこだわり、“先生、これでええんか?”と僕にアドバイスを求める積極性も変わりません。どこまで突き進むのかと驚かされるばかりです。最近3大会のパラはずっと5位なんですが、ここまで来たら行くところまで行ってほしい。僕は気のすむまでお手伝いをしたいです」車イスのハンディキャップを全く感じさせない別所さんのアグレッシブかつチャレンジングな人生を追った。別所さんが生まれたのは戦後間もない1947年12月。広島県と島根県の県境に近い安芸太田町という人口6000人足らずの小さな町で8人きょうだいの末っ子として可愛がられた。墓石の手彫り職人だった父・麻人さんを、母・末子さんは農作業をしながら支えた。気丈な母は畑に出るときもネッカチーフで髪の毛を包み、きれいに化粧をすることを忘れなかった。その影響を受けた別所さんは幼いころからおしゃれが大好きで、1日に3度も洋服を着替えたり、七輪で髪の毛を焼いてパーマもどきの髪型にしたり、赤い紙を水で湿らせてできた紅色を唇に塗る大人びた女の子だった。■20歳で結婚、40歳で死別汽車が2時間に1本しか走らないような山奥で、のびのび育ったという。「出かけた先で汽車を待っていられなくてね。1時間半がかりで歩いて山越えして帰ったりするような、じっとしていられない活発な少女でした。小中学校ではリレーの選手。ハードルや走り高跳びもやったし、バレーボールも本格的に取り組んだ。かなり活躍しましたよ(笑)」関西に出たのは高校卒業後、18歳のころ。パン好きが高じて大阪のパン屋さんに就職し豊中市にあるスーパーの店舗に配属された。見よう見まねでサンドイッチを作り、お客さんと会話を交わす充実した日々。寮生活をしていた別所さんは会社のバスで通勤していて、その運転手が後に夫となる勇さんだった。2人はすぐに意気投合し、別所さんが20歳のときに結婚する。その後、夫が兄の食品関連販売の仕事を手伝うことになり、兵庫県明石市に引っ越し。別所さんも仕事をやめて同行する。同じころには長男・勇人さんも生まれ、2年後には次男・将人さんも誕生。夫が独立して事業を始めるなど、一家の暮らし向きは目まぐるしく変化したが、彼女が明るく気丈に家族を支えた。次男の将人さんは当時をこう振り返る。「“昭和の親父”だった父は、僕が入っていたソフトボール少年団のコーチをしていたので、ウチにはいつもたくさんの人が来ていました。オカンも料理を作ったり、世話を焼いたりして、人をもてなすのが好きやった。にぎやかな家だったと思います」その別所家に異変が起きたのは、’87年9月。夫の勇さんが夜中に突如、激しい頭痛を訴えたことが発端だった。「救急車を呼んだほうがいいんと違う?」別所さんは心配して訴えた。だが、夫は「いや、こんな夜中に近所迷惑や。明日病院に行くわ」と軽く受け流した。意識もしっかりしていて歩ける状態だったため、その日は様子を見ることに。翌朝、病院へ行くと、医師が予期せぬ病名を口にした。「くも膜下出血です」手術もできないと言われ、動揺するばかり。寮生活をしていた高校3年の長男・勇人さんを呼ぶのが精いっぱいだった。そして翌朝、夫は「子どもたちを頼む」という言葉を残し、43歳の若さでこの世を去った。「あまりに突然すぎて放心状態。後悔の念にさいなまれました。“もっといい病院に連れて行ってあげていたらよかった”“夜のうちに救急車を呼んだらよかった”という気持ちが襲ってきて、どうにもなりませんでした」打ちひしがれる母親の姿が勇人さんは今も脳裏に焼きついて離れない。「オカンは憔悴しきっていましたね。当時まだ40歳くらいでしょ。連れ合いが亡くなるにはあまりにも早すぎる年齢だった。1年くらいは毎日、仏壇の前で泣いていました」それでも、子ども2人を抱えた母親として、じっとしているわけにもいかない。■希少がんの一種、2度の大手術「お父さんに“子どもたちを頼む”と言われたし、頑張らなアカンと自分を奮い立たせ、ガソリンスタンドで懸命に働きました。翌年には勇人も高校を卒業し、就職して家計を助けてくれるようになった。暮らしのリズムが少しずつ戻り始めました」だが、伴侶の死から2年もたたないうちに次なる試練が別所さんを襲う。昭和から平成へと時代が変わってすぐの1989年春、腰と足のしびれに悩まされるようになったのだ。最初は近所の整形外科やハリ治療に通ったものの、一向に改善の兆しがない。11月には歩けないほどの激痛を感じ、兵庫県加古川病院(現医療センター)に入院。「椎間板ヘルニア」と診断され、神戸労災病院に転院した。そこで4〜5か月に及んだ精密検査の結果、「仙骨巨細胞腫」と判明。聞いたこともない病名だった。主治医の裏辻雅章医師にはこう説明された。「仙骨とは骨盤の中央にある骨。その周りに腫瘍ができる病です。一応は良性腫瘍とされているものの、再発しやすく、そのたびに悪性度が増していく。別所さんの場合は腫瘍によって仙骨の一部が溶けていて、足につながる神経も腫瘍に巻き込まれています」日本人では年間500〜800人が発症するとされる希少がんの一種。手術は翌’90年1月に決まったが、仙骨の近くには大きな血管が集まっているため、大量の輸血が必要だった。そこで2人の息子が周囲に呼びかけ、当日は60人もの有志が血液を提供。26時間の大手術は無事成功した。「最初の3か月間はほぼベッドに横になっているだけ。5か月入院しましたけど、ひざや腰の痛みがとにかくしんどかった。そんなとき、鏡に映る自分の姿にゲンナリして、婦長さんにムリヤリ頼んで白髪染めをさせてもらったんです。それだけで気分がスッキリしました。やっぱりきれいにしていないと元気になれへん。それが自分なんです」こうして退院にこぎつけ、リハビリに専念したが、痛みは治まらない。徐々に激痛が走るようになり、耐えきれないほどになった。「これは、絶対におかしい」異変を察知し、再び労災病院へ行くと、裏辻医師は静かにこう告げた。「別所さん、再発ですね」最初の手術では神経を可能な限り残すため、腫瘍のある部分だけを切除したが、2度目はそうもいかない。「歩けなくなる」とも宣告され、セカンドオピニオンを取るべく京都大学へ。それは夫を亡くしたときの反省からだ。「あのとき、別の病院でよく調べていたら、お父さんは死ななくてすんだかもしれない」という悔恨の念を抱き続けた彼女は、納得できる判断を下そうとしたのだ。しかし、診断結果は同じだった。別所さんは裏辻医師に運命を託す。2度目の手術は’91年1月。前回以上の輸血が必要となり、86人から血液を募って、ドクター20人態勢で34時間がかりの大手術が行われた。1度は心臓が止まる危機にも瀕したが、強い生命力を発揮し、持ちこたえた。■いっそ死んでしまいたい勇人さんはこの日のことを克明に記憶している。「“子どもらもおるし、このまま別所さんを亡くならせるわけにはいかないと思って、必死に頑張りました”と手術室から出てきた先生に言われて、心から感謝の気持ちが湧いてきましたね。裏辻先生に出会えたのが母の幸運。僕らも力づけられました」一命はとりとめたものの、社会復帰にはとてつもなく長い時間を要した。入院期間は1度目よりはるかに長い10か月。退院後も「歩けない」という厳しい現実を前に、気持ちは暗く沈んだままだった。「“車イスでどうやって生きていけばええんやろ”と途方に暮れました。息子たちもまだ20歳そこそこ。“主人が生きていてくれたら”とこのときほど思ったことはありません。車イスに乗った人間を憐れむ周囲の目線が嫌で、夜中に松葉杖で歩く練習もしたけど、うまくいかない。いっそ死んでしまいたいとさえ考えたこともありましたね」絶望の淵に立たされた別所さんを救ったのが椿野利恵さんだ。同じ職場で働いたことがあり、夫の生前から付き合いのあった親友は、毎日のように家に通って懸命に励ました。「できないことを嘆くより、できたことを喜べばいいのよ」そう伝え続けたという。「最初は車イス生活を受け入れられずにつらかったんだと思います。子どもたちにも泣き言は言えない。私は“近くで見守っているお姉さん”的な存在で、弱音を吐くことができたのかもしれません。苦しむ別所さんを目の当たりにして、少しでも前向きになってほしいと思いました」椿野さんの言葉はスッと心に入ってきた。車イス生活になった今、できないことはたくさんあるけど、新たな人生を積み上げていけばいいのだ。「大きなターニングポイントになった」という別所さんはようやく一歩を踏み出した。第一歩は得意の手芸だった。友人が開いた喫茶店で小物を販売してくれることになり、ぬいぐるみやキーホルダー、アームバンドなどの小物を作った。徐々に売れるようになり、生きる喜びを体感できた。最初はイスに数分間座ることも大変だったのに、作業できる時間も長くなる。退院から半年後には鎮痛剤の注射も打たなくなり、やがて外出も可能になった。■卓球と出会い、劣等感がなくなったエネルギッシュなかつての自分を取り戻しつつあった別所さんが、次に出会ったのがスポーツ。車いすバスケットボールを取り上げた新聞記事を目にして、「自分もやりたい」と意欲が湧いてきたのだ。兵庫県リハビリテーションセンターの障害者体育館に問い合わせ、見学に向かうと、車イスに乗ってバスケをする選手のイキイキと輝く姿が目に飛び込んできた。「自分もスポーツをやりたい」という感情が込み上げてきた。「バスケは腰に金属プレートが入っていて難しいし、慣れ親しんだバレーボールは床に座るから負担が大きい。外の競技はムリやし、卓球しかないのかな。そう思って翌週には練習に参加していました」見よう見まねでラケットを振ると、意外にもうまく球を返せた。歩行機能を失っても天性の運動神経のよさは健在だった。日に日に上達し、試合にも勝てるようになるのがうれしくて、のめり込んでいった。「“車イスになってかわいそう”“障害があって大変だな”という偏見が嫌で嫌でたまらなかったけど、卓球をしているうちに恥ずかしさや劣等感もなくなりました」卓球を始めて「社会とつながりたい」という思いも強まった。生活基盤を確立させる必要もあり、’94年4月には障害者のための技術専門学院に入学。宝飾工芸課で宝石の鑑定やサイズ直しなどを1年かけて学んだ。ほぼ同時期に手動運転装置付き自動車の運転も始めた。勇人さんからは「事故に遭ったらどうするねん」と心配されたが、別所さんは自由に動ける環境を求めた。だが、学校と卓球を両立できるようになり、迎えた’95年。阪神・淡路大震災が発生して就職環境が一変する。目指していた宝飾関係が難しくなり、知人の紹介でカフェに勤務することになった。新たな生活がスタートし、仕事と卓球に一層力を入れた。’94年の国際クラス別卓球選手権初優勝、’96年の故郷・広島での全国身体障害者スポーツ大会優勝と着実に結果も出るようになった。冒頭のママさん教室に通ったり、健常者に車イスに座ってラリーをしてもらったり、練習相手を求めて岡山や和歌山まで足を延ばしたり、卓球教本を読み込んだりと、強くなるためにやれることは何でもやった。「ホンマ、卓球のために生きてると言っても過言ではないくらい」と話し笑顔をのぞかせた。’99年からは国際大会にも参戦。卓球王国・中国のレベルの高さに度肝を抜かれ、ライバル選手との駆け引きを繰り返しながら「世界のスケールの大きさ」を体感。椿野さんも驚くほどの劇的な変化を遂げていった。「今月は中国、来月はアメリカと世界を駆け回り、言葉の壁をものともせずに外国の人と仲よくなっていく別所さんを見るたびに心が震えましたね。海外遠征に行くときも得意の手芸で小物を作ってプレゼントしている。気配りもすごいなと思いました」■56歳、日の丸を背負う2002年にはパラリンピックに次ぐグレードの国際大会である世界選手権(台北)にも出場。2004年アテネに大きく近づいた。パラリンピックに出場できるのは、国際大会で稼いだポイントによる世界ランキング上位者だけ。別所さんは立って試合をすることはできないが、座位バランスは良好で、骨盤を保持して体幹の動作が可能であるため、車イスのなかでは最も障害が軽い「クラス5」に入っていた。そのクラスで、世界ランキングを上げることができれば、大舞台に手が届くところまで来ていたのだ。「やるからには、アテネへ行くんや」腹を括った彼女は2003年3月から半年間、カフェの仕事を休んで世界を転戦。アメリカ、メキシコ、イタリア、スロバキアなど8大会に出場した。2004年1月1日付の世界ランキングを10位前後まで上げ、ついにアテネの切符を手にした。一時は生死の境をさまよい、生きる希望を失いかけた56歳の女性が日の丸を背負い、パラリンピックの舞台に立つに至ったのは、快挙と言っていい。「アテネに行く前から“パラリンピックってどんなものなんだろう”って想像していたけど、開会式が盛大で、他競技の選手と交流できてホントに楽しかったですね。大会の雰囲気の印象が強いかな」と別所さんは微笑む。試合はグループリーグ1勝2敗で予選敗退したが、「もっと上へ」という意欲はとどまるところを知らなかった。4年後の北京は、次男・将人さんや椿野さんファミリーが応援に駆けつける中、5位入賞。前回より順位を上げた。「孫の佑星が“おばあちゃーん”と大声で叫んでくれたときは身体の力が抜けましたね。パラの卓球選手では史上最年長ということで、中国のテレビ局からも取材を受けましたけど、現地で“老女(ろうば)”と報じられてね(苦笑)。最初は“なんやねん”と思ったけど、反響がすごくて、試合会場でサイン攻めにあった。注目されたことは素直にうれしく感じました。後から中国の卓球選手に聞いたんですけど、老女には“尊敬する”という意味もあるんだそうです。そうわかって、何だかホッとしました」充実感を覚える一方で、メダルの懸かった試合でヨルダン選手に敗れた悔しさも胸に深く刻まれた。愛する家族や親友、2度の手術で輸血に協力してくれた人、卓球の活動を支えてくれる人のためにも、ロンドンでは何としても勝ちたいと思った。より多くの練習時間を確保するため、2009年にはカフェの仕事を辞めた。金銭的にはかなり厳しくなったが、そこで手を差しのべてくれたのが日本郵政だ。電話対応の仕事で採用され、卓球の活動費用の一部を負担してもらえることになったのだ。それ以前から「バタフライ」の商標で知られる卓球メーカー・タマスともアドバイザリースタッフ契約を結び、用具提供を受けていたが、加えて日本郵政がついたことは、別所さんの大きな力になった。2社は現在も支援を継続してくれているが、コーチ代、パラ出場に必須の国際大会参加費など自己負担も少なくない。「大会参加費だけで10万円ちょっとかかりますし、欧州遠征だと40万円は必要ですよね。すべてを賄ってもらえるわけじゃないからホントに大変。年金だけじゃとても暮らせない」と苦笑する。子どもに経済的負担をかけるつもりはなく、イベントや講演活動も幅広く手がけるが、最近は体調の問題もあって思うようにこなせないという。「1年後の東京パラが近づいてきて、障害者スポーツの環境がよくなったと思われがちやけど、みんなが恵まれているわけじゃない。企業所属や大きなスポンサーがついているのはほんの一握り。私のように練習場所を探して予約するところから始めて、あちこち転々としたり、コーチや相手を見つけるのに四苦八苦する人は多いんやないかな。そこはみなさんにも知ってもらいたいですね」と別所さんは険しい表情を浮かべた。■「派手」さがパワーアップする理由それでもあきらめないのが彼女である。ロンドン前からは「マジック球」と「スパイラル打法」というオリジナルの武器習得にも励み始めた。「マジック球」というのはラケットで球に回転をかけ、ポーンと高く上げるボール。敵陣に落ちた瞬間に曲がって外に出るから、相手はレシーブができなくなる。もうひとつの「スパイラル打法」は肩を使って腕を回しながら打つもの。敵はタテに来るのか斜めに来るのか読みづらく、リターンできなくなる。特に後者は、理論を開発した名将にお願いし、東京から姫路のTTSに招いたほど。荒川コーチと一緒に指導を受け、2人で時間をかけてここまで積み上げてきた。「別所さんは新しいことを次々と取り入れようとする選手。高齢なのでスピードや反応で若い選手に勝つのは厳しいですから、違うプレースタイルを目指されています。1セットの11点全部を浮き球で確保してもいいくらいになれば、もしかしたらメダルの壁を破れるかもしれない。僕はそう考えています」テンションを高めるための秘策「おしゃれ」にもより強くこだわった。別所さんは目を輝かせる。「北京の5位入賞から浮上したくて、この10年は一層のハデハデを目指してきました」多彩な角度から自分を見つめ直して挑んだロンドンはまたも5位。リオも5位と3大会連続入賞止まり。70歳手前のべテラン選手がこの位置をキープしただけで称賛されるべきだが、「まだまだ」という気持ちを捨てきれない。「絶対に負けたくない」というのが、別所キミヱの確固たるポリシーなのだ。だからこそ、5度目の東京には是が非でも出てほしい。「周りのレベルも上がっていますし、東京を目指すなんてまだとても言えない」と本人は慎重なスタンスを崩していないが、2019年は5月のスロベニアを皮切りに、ポーランド、チェコ、フィンランド、オランダの国際大会に参戦するつもりだ。7月の台北でのアジア選手権、8月の東京オープンにも出る予定で、メンタル的には「戦う気満々」。■「卓球=私」やからしかし今、予期せぬ苦境が別所さんを襲っている。実は2018年夏から短期間に3度の交通事故に遭い、ひざと背中を痛め、秋以降の国際大会を棒に振っていた。ランキングからはずれ再びゼロから積み上げないといけなくなった。現在も右足に力が入らず、ラケットを握る右手もしびれが残る状態だという。命を落としていたかもしれない危険に遭遇し、身体も万全でない70代の人間なら、普通は「もうあきらめよう」と考えるだろう。けれど彼女は「いろんなことに対して負けたくない」と戦い続けようとしている。「自分から卓球を取ったら何も残らへん。“卓球=私”やから、何事も乗り越えないといけないんです」前へ前へと突き進む母の姿に長男・勇人さんは少し複雑な心境をのぞかせる。「車イスの人は血栓ができやすいと聞きますし、心臓発作になったらと思うと不安です。70過ぎの母が卓球に携わるのは障害者の希望でしょうけど、息子としてはもろ手を挙げて賛成とは言えない。指導者として東京を目指すのなら大歓迎。そうしてくれたら僕はパラを見に行きます」心配性の兄とは対照的に、次男・将人さんは「やれるところまでやったらええやん」と力強く背中を押す。「北京のときはいちばん下の娘が生まれる前で連れて行ってあげられなかった。今、小学4年生になった娘は母の血を引いて運動能力が高く、柔道の軽量級で全国大会に出るレベルまで来たんです。来年夏に東京で開かれる全国大会に娘が出て、母も9月のパラに行ってくれれば、最高のシナリオ。次こそメダルを取ってほしいです」親友・椿野さんも「あの人なら絶対にやれる」と太鼓判を押す。早すぎる伴侶の死、自身の大病、車イス生活というさまざまな困難を乗り越えてきたタフなメンタリティーは間違いなく常人離れしている。この先も自分の道を貫いていけるはずだ。「卓球をやるようになって、外国人を含めた大勢の人と関わりができて、世界が広がり、人生が大きく変わりました。そういう意味で、卓球に感謝しています。輸血してくださった方、スポンサーさんなど応援してくれる方々の恩に報いるためにも、やれるところまではやり続けたいんです」別所さんの強く逞しい生き方は、前向きになることの大切さと素晴らしさを、われわれに教えてくれている。人はいくつになってもキラキラ輝ける。彼女の挑戦に終わりはない。取材・文/元川悦子(もとかわ・えつこ)’67年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心にスポーツ取材を手がけ、ワールドカップは’94年アメリカ大会から6大会連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1・2』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)
2019年06月22日(写真左から)香取慎吾、草なぎ剛、稲垣吾郎。終始テンションMAXの草なぎに、「今日はよく話しますね(笑)」と稲垣。香取も「来年も草なぎに走らせてやってください!」と笑顔を見せた「本日は、“雨あがり”のパラ駅伝日和!」(香取)前日の真冬並みの天候から一転、快晴のもと行われた『パラ駅伝 in TOKYO 2019』に、日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーターを務める稲垣吾郎(45)、草なぎ剛(44)、香取慎吾(42)が登場。今年はランナーとして参加した草なぎは、「自分の持ってる力を全部出し切りたいと思います!」と冒頭からヤル気満々。「さっき、ステージ裏で“本気で優勝する”と言ってましたからね」(香取)「盛り上げてください!」(稲垣)そう2人に送り出され、勢いよくスタート地点を飛び出した草なぎ。だが、コースを1周して戻ってきたときには、もうヘトヘト。「つよぽん頑張れ!最初の勢いはどうした~!(笑)」と香取からのエールを受け、なんとか無事にゴール!残念ながら草なぎが参加したチームは最下位となったが、「調子にのっちゃったけど……チョー気持ちいい!」と笑顔であの名ゼリフを。■スペシャルライブは大盛り上がり!そしてフィナーレにはスペシャルライブが行われ、『#SINGING』と、売上金がパラスポーツ支援のために全額寄付された『雨あがりのステップ』の2曲を歌い上げ、観客1万7500人で埋め尽くされた会場は大盛り上がり。「心がひとつになって、胸が熱くなりました」(稲垣)「もっともっと(支援の)輪が広がっていったらうれしいです」(草なぎ)「これからも一緒にパラスポーツを盛り上げていきましょう!」(香取)これまでさまざまなイベントに出演し、歌、言葉、そしてその笑顔で盛り上げ、パラスポーツの応援に尽力してきた3人。彼らの『新しい地図』の広がりは、まだまだ止まらない……!(撮影/渡邊智裕提供/日本財団パラリンピックサポートセンター)
2019年04月04日“東京2020公式ライセンス商品”として、《東京2020エンブレム小倉羊羹》《東京2020マスコット米粉クッキー》が、東京2020組織委員会より2019年1月15日(火)に発売されました。東京土産にもぴったりの2つの商品をぜひチェックしてくださいね♪気になるお味もお伝えします!東京 2020 オリンピック、パラリンピックエンブレムやマスコットのデザイン!左:《東京 2020 エンブレム 小倉羊羹》右:《東京 2020 マスコット 米粉クッキー》今回ご紹介するのがこちら!東京オリンピック、パラリンピックをモチーフにしたデザインのパッケージが、東京土産にぴったりなお菓子です♪それぞれをさっそく見ていきましょう。《東京 2020 エンブレム 小倉羊羹》が〔とらや〕で販売!青:《東京 2020 オリンピックエンブレム 小倉羊羹 5本入》赤:《東京 2020 パラリンピックエンブレム 小倉羊羹 5本入》●各1,400円(税別)●取り扱い店舗:〔とらや赤坂店〕ほか室町時代後期に創業され、御所の御用を勤めるなど、和菓子の“銘店”として揺るがぬ地位を築いてきた〔とらや〕。そんな〔とらや〕で販売されるのは、2種類の《東京2020エンブレム小倉羊羹》です。お味はどちらも同じで、パッケージデザインが「オリンピック」「パラリンピック」と分かれていますよ。ようかんのパッケージには片手で食べやすい工夫が♪切れ込みに沿ってむいていきます。これなら手を汚さずに食べられそう。常温で携帯できるので、スポーツ観戦をしながらでも食べやすいのがポイントです。運動の合間のエネルギー補給にも◎。お味は、しつこくない甘さで食べやすく、上品な後味で日本茶との相性も最高♡話題性もバッチリなので手土産にもぴったりですね。デスクや休日のティータイムのお茶うけにおすすめです。《東京 2020 マスコット 米粉クッキー》洋菓子メーカー〔コロンバン〕で販売♪右下:《東京 2020 オリンピックマスコット 米粉クッキー12枚入》左上:《東京 2020 パラリンピックマスコット 米粉クッキー12枚入》●各800円(税別)●取り扱い店舗:〔コロンバン原宿本店サロン〕ほか続いては、《東京2020マスコット米粉クッキー》をご紹介します。2種類のパッケージデザインには、マスコットである「ミライトワ」と「ソメイティ」が!お味はどちらも同じなので、デザインの好みで選ぶのもいいですね。国産の米粉を使用したクッキーは、サクサクほろ苦、香ばしいチョコの香りで軽快な食べ口。甘めの紅茶やミルクたっぷりのカフェラテと合わせるとさらにおいしくいただけます♡個包装されているので、小腹が空いたときのおやつとしても食べやすいですよ♪会社へのばらまきお土産にしても◎。“東京2020公式ライセンス商品”《東京2020エンブレム小倉羊羹》《東京2020マスコット米粉クッキー》をご紹介しました。2020年に向けて、話題性のあるパッケージデザインはお土産にもぴったりですよね♪ぜひお味も楽しんでみてください。スポーツ観戦やテレビを見ながらでも食べやすいところもおすすめですよ♡
2019年02月08日遅れてきた稲垣は、「遅刻したわけではありませんよ。来年は最初から参加したい!」提供:日本財団パラリンピックサポートセンターパラアスリートとアーティストたちによるスポーツと音楽の祭典『ParaFes 2018~UNLOCK YOURSELF~』が開かれ、日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーターを務める稲垣吾郎(44)、草なぎ剛(44)、香取慎吾(41)が出演!この日はパラテコンドー、パラ卓球、車いすフェンシングの“真剣勝負”が行われ、間近で観戦した香取は、「すごい贅沢……!」と大興奮。その後、秦 基博やMay J.ほか、盲目のピアニストなど“超人たち”によるライブが。舞台出演のため途中参加となった稲垣も、「まだ来て5分くらいなんですけど、もう感動しちゃいました!」ラストは稲垣、草なぎ、香取によるパラ応援ソング『雨あがりのステップ』が披露され、会場は大盛り上がり。熱気が冷めやらぬ中、「このままパラリンピックやりたいです(笑)」と草なぎ。2020年が待ち遠しい!
2018年11月27日新潟市の万代シティで行われた『NSTまつり2018』にて。草なぎ剛「佐渡のつよぽんと呼ばれたい」、稲垣吾郎「長岡の花火、来年は3人で……」、香取慎吾「エッフェル塔からレインボータワーへ!(笑)」撮影/渡邊智裕「“ぬかイワシ”がおいしかった!昨夜は地元の料理をいっぱい食べたので、元気モリモリです!」(草なぎ)稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾の3人が、パラスポーツの楽しさを伝えるべく、新潟市の万代(ばんだい)シティで行われた『NSTまつり2018』に登場。イベントでは、パラアスリートとのスペシャルトークのほか、選手指導のもと、実際にパラスポーツにも挑戦!ボッチャを体験した香取は、「本当に面白い。みなさんも職場に(ボッチャの)セットを買ってもらってください(笑)。お酒飲みながらやったら絶対楽しいと思う!」と、新たな魅力を伝えた。日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーターを務める3人が、最後にパラスポーツ応援ソング『雨あがりのステップ』を披露すると、集まった2300人もの観客は大盛り上がり。『新しい地図』として歩み始めてちょうど1年ということで、「これからが問われると思うので、しっかりとやっていきたい」(稲垣)と、決意も新たに。今後どんな地図を描いていくのか。目が離せない!!
2018年10月09日撮影/渡邊智裕「まさか都心の駅近でサーフィンができるなんて!人工の波も想像以上!」と、目を丸くして興奮ぎみに話すのは、JR大井町駅から徒歩5分の距離にある複合スポーツエンターテイメント施設『スポル品川大井町』の利用者たち。東京ドーム半分の大きさに相当する約2万4000平方メートルもの広大なスペースに、’20年東京五輪の正式種目となるサーフィン、スポーツクライミングの一競技であるボルダリング。ほかテニス、アーチェリー、ソフトボールなど全8種のスポーツ施設を含む13施設を設置している。あまりなじみのない競技も体験できるとあって、8月のオープン以来、大人から子どもまで楽しめる新スポットとして話題を集めているのだ。「来年はラグビーワールドカップ、そして2年後にはいよいよオリンピック・パラリンピックも開催される。一般の人が見る、支えるだけでなく、自らスポーツをする国になってほしい」プレオープンイベントに出席した鈴木大地スポーツ庁長官が語るように、「スポル」は’20年東京五輪・パラリンピックに向けて大会機運、スポーツ機運を盛り上げるべく誕生した背景を持つ。そのため、サーフィンやアーチェリーといった五輪種目の競技施設がセレクトされたというワケ。特に冒頭で紹介した、日本初上陸の人工波システム「シティウェーブ」を採用したサーフィンの臨場感と迫力はスゴい!膨大な水量に加え、大小の波や水流が作り出されるダイナミックなプールを見るだけでも訪れる価値あり。上級者向けの本格的な波はもちろん、初心者・初級者に向けた小さな波で楽しむコース(50分6200円)もあるので、子ども(キッズコースは小学1年~6年生)も安心してトライできるはず。■大坂なおみ選手の気分を伊達公子さんが監修したテニスコートも本格的だ。世界四大大会のひとつ「全米オープン」仕様の鮮やかなブルーカラーのコートでプレーすれば、今年の同大会を制し、東京五輪出場の期待がかかる大坂なおみ選手の気分を味わえるかも。また、マッチングサービス「TenniSwitch(テニスイッチ)」との連携により、日時、人数、技術レベルなどから、自分に合ったプレー相手を探すことも可能。スポーツのための最新設備が整えられている面も「スポル」の大きな魅力といえそう。ほかにも、上野由岐子投手のピッチング映像からボールが放たれるソフトボール(20球300円)は、野球のボールより球が大きいためバットに当てやすく、初心者でも楽しめる。角度の異なる4種類の壁から選べるボルダリング、「知力」「体力」「運」を必要とする脱出アトラクションなど、スポーツが苦手な人でも挑戦しやすい競技や、ファミリーで参加しやすい施設が集うなど、来場者によって楽しみ方は変わってくるだろう。■子どもでも大人でも小さい子どもが一緒なら、ボールプールや滑り台などの遊具をそろえたキッズランドがオススメ。お父さんに遊んでもらっている間に、お母さんはアーチェリーに挑戦!なんてことも。想像以上に集中力を要する、ストレス解消にもなりそうなアーチェリーは思わずハマって通うかも!?そして「スポル」では、サーフィン施設の真横に位置するメインダイニングやビーチゾーンで“手ぶらBBQ”が楽しめる。スポーツの後は、波の音を感じつつお肉をジュウジュウ……、ビールやサワーをグイッと。まるでリゾート地のような、ここがビルに囲まれた都会のド真ん中であることを忘れさせてくれる駅近スポットだった──。■施設の願いとはスポーツ庁は’12年に策定した「スポーツ基本計画」のなかで、成人のスポーツ実施率において週1回以上、スポーツをする人を、現在の40%台から65%に向上させることを掲げている。家族やカップル、友人、会社の同僚らが気軽に誘いあってスポーツと接することで、健康的なライフワークを実現してほしいという願いが「スポル」には込められているのだ。「小さい子どもたちが施設を通じて将来アスリートを夢見るようになってもらえたら」とは、開発を進めてきたJR東日本東京支社事業部・竹島博行部長。同施設での体験をきっかけに競技を始めたちびっ子が、将来のメダリストになる可能性だってある。2年後の東京五輪・パラリンピックも、彼らの夢へと続く扉となることだろう。「スポル品川大井町」への入場自体は無料なので、散歩など何かのついでに立ち寄ってみるのもいい。さまざまな競技が見られる、体験できる場だからこそ、その“ついで”が、子どもや自分を変えるキッカケになるかもしれませんよ♪(文/我妻弘崇) スポル品川大井町●住所:東京都品川区広町2-1-19●営業時間:月~土曜日 7:00~23:00、日曜日は21:00まで●施設利用料:入場無料。施設は要利用料※種目により営業時間、利用料が異なるため、詳しくは公式HP をご確認ください。●駐車場・駐輪場:あり(有料)
2018年09月29日2020年8月に日本で開催される「東京2020パラリンピック」を、映画を作ることで多くの人々とつながり、盛り上げていこうというプロジェクトが始動した。クラウドファンディングサイト「Makuake」で、小説「サッカーボールの音が聞こえる」の映画化を目指し、1万人の支援を集めたいという。■失明した青年が日の丸を背負い、初のブラインドサッカー日本代表に原作は、ノンフィクション作家・平山譲により執筆され、「小説新潮」にて連載、その後、書籍化された実話を基にした物語。喘息によって大好きなサッカーをプレイすることができなくなり、サッカー観戦が生きがいとなった1人の若者・石井宏幸。サッカー日本代表のドーハの悲劇、そしてジョホールバルの歓喜を現場で見た彼は、同じ頃、緑内障により失明してしまう。目が見えなくなり、自宅で遭難するなど、普通に生活することもままならない真っ暗闇の絶望を襲われた彼が出会ったのは、音のするサッカーボールと、そのボールを使う競技「ブラインドサッカー」だった。ブラインドサッカーと出会ったことで自分の未来を取り戻した彼は、初代ブラインドサッカー日本代表として日の丸と10番の背番号を背負い、世界の競合国と対戦。そしていつしか、ブラインドサッカーの素晴らしさを日本中に伝えることが次の目標となっていく…。■見えないからこそ成立する迫力のプレーに興奮必至「ねぇ、本当に目が見えないの?」。ブラインドサッカーを実際に見た子どもたちは、みんな素直にこう質問するという。その正直な質問が、ブラインドサッカーの魅力を余すことなく表現しているといえるだろう。まるで、本当に見えているかのようにプレーするその姿には、感動さえ覚える。また、ブラインドサッカーは、サッカー好きの視力障碍者が、工夫によって体験するサッカーの真似事ではない。見えないからこそ成立する、ド迫力の格闘球技。その魅力を伝えるために、この映画製作に向けた動きが始まった。音のするサッカーボールに出会い、「もう一つのサッカー」の魅力に引き込まれ、日本で初めての選手権を開催する石井氏の過程を通し、その中で見えてくる圧倒的な“希望”と、人が抱える圧倒的なその“限りない可能性”を、映画で描いていく予定だ。■目標は1万人の支援! 勇気と感動を共有したい今回のクラウドファンディングで目指すのは、1万人の名前をエンドロールクレジットで流し、1万人で勇気と感動を共有すること。コースは3,000円から300,000まで6種類用意されており、リターンは金額により様々。日本障がい者サッカー連盟会長で本作製作委員会・名誉会長でもある元日本代表・北澤豪からのお礼メールから、公認サポーター任命、エンドロールへのクレジット掲載、大会シーンの観客エキストラ参加、オリジナル応援Tシャツの進呈、トップアスリートや著名人参加のセレモニーへの優先招待およびフォトセッションまで、サッカーファンにとってはたまらない多彩なリターンが用意されている。(text:cinemacafe.net)
2018年06月08日日本人選手が大活躍した2018平昌冬季オリンピック大会の記憶も新しいところですが、もう東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)開催まで2年を切りました。そんななか、競技大会の顔ともいうべきマスコットが、全国の小学生による投票で決定しました。当たり前のように存在するオリンピックとパラリンピックのマスコット。知っているようで知らないその歴史から、新顔となる東京2020大会のマスコットにいたるまで、さらに楽しくなるマスコットのあれこれを紹介しましょう。■オリンピックのマスコットが正式に誕生したのは46年前公式マスコットが誕生したのは、1972年開催のミュンヘンオリンピック大会。ドイツ原産の猟犬・ダックスフンドをモチーフにした「バルディ」という名前のマスコットでした。忍耐力と柔軟性、スピード力を備え、見た目のかわいさも加わったマスコットにぴったりのキャラクターでした。ちなみに、1968年グルノーブル冬季大会で「シュス」というスキーヤーのようなマスコットも存在しましたが、これは非公式。ミュンヘン大会以降、マスコットは開催ごとに必ず登場してきました。マスコットがPRの主体となることで、大人だけでなく子どもにも幅広くオリンピックをアピールでき、さらにライセンス商品の販売で大会の収益源になるなど、多大な役割を担っています。人気のマスコットは、オリンピックの枠から飛び出して幅広く活躍することも。例えば、アメリカの国鳥・ハクトウワシをモチーフにした1984年ロサンゼルス大会の「サム」はテレビアニメにもなり、日本でも放送されたほどです。歴代オリンピックのマスコットは、主にデザインコンペや指名デザイナーによって作られました。自国を象徴するモチーフがしっかりわかるものから、個性的なものまでさまざま。ここでは、主な夏季オリンピックのマスコットをご紹介しましたが、みなさんはどれだけ知っていますか?■東京2020大会のマスコットは小学生による投票で決定!それでは、東京2020大会のマスコットはどうやって決まったのでしょうか。実は、コンペでも指名デザイナーでもなく、一般からデザインを公募。応募受付が開始されたのは2017年8月で、応募総数2042件のなかからマスコット審査会で選考が行われました。審査のポイントは以下の通り。・多くの人に愛される。・東京や日本らしさを感じる。・オリジナリティにあふれ、個性的。・拡大・縮小してもデザインイメージの変化が少ない、など。2017年12月に1次・2次審査を通過した最終候補3作品が発表され、小学生による投票がスタート。この初の試みとなる“小学生による投票”は、「子どもに愛されるマスコットを当事者である子どもたちに選んでもらうのがふさわしい」「東京2020大会に直接関わる貴重な体験ができる」という考えからクラス単位で投票が行われ、全国16,769校、約20万学級が参加しました。■東京2020大会のマスコットのこと、くわしく教えて!最終候補3作品のなかから選ばれたのは、「ア」のデザイン。左上のキャラクターが、伝統の市松模様と近未来的な世界から生まれた、温故知新のオリンピックマスコットです。性格は古風で、どんな場所にでも瞬間移動できるのが特技。一方、右下のパラリンピックのマスコットは、桜の触角と超能力をもつクールなキャラクターで、性格は物静か。特技は石や風と話したり、見るだけで物を動かせることだそうです。この2つのキャラクター、性格は正反対だけど、お互いを認め合う大の仲良し。おもてなしの精神で、アスリートを応援するために力を合わせて頑張ってくれるそうです。投票した小学生からは、「ア」のデザインに対し「足が速そう」「ゲームのキャラクターみたいでカッコイイ」「戦隊ものみたいで親しみがある」といった子どもならでは感想や、「近未来的で日本の高い技術を連想させる」など鋭い意見も上がりました。■今後のマスコットの活動をチェック!東京2020大会のこのマスコット、実はまだ名前が決まっていません。ネーミングの決定・発表は6月を予定しており、マスコットが正式にお披露目されるのは7〜8月です。その後は、大会をPRするために開催都市のいたるところに出現する予定。さらに各国の国賓をお出迎えしたり、逆に外国を訪問して開催をアピールすることもあるそうです。オリンピックとパラリンピック開催期間中は開会式・閉会式などのセレモニーに参加したり、観客と一緒になって選手を応援するなど、さまざまな活動が予定されています。オリンピックとパラリンピックを象徴するマスコットは、大会を盛り上げるアンバサダー。マスコットの活躍に注目しながら、東京2020大会が歴史と記憶に残る大会になるように、みんなで応援していきましょう! 取材・文/木村秋子
2018年05月10日意外と知らない社会的な問題について、ジャーナリストの堀潤さんが解説する「堀潤の社会のじかん」。今回のテーマは「平昌パラリンピック」です。平昌パラリンピックで、日本は前回ソチ大会を上回る10個のメダルを獲り、選手は大活躍でした。2012年のロンドン大会以降、パラリンピックやパラアスリートへの関心は高まり、企業のブランディングの一環として、広告への起用や支援も増えてきました。東京五輪に向けてNHKも放送に力を入れ、約60時間と、ソチ大会から放送時間が倍増したのは喜ばしいことです。僕も現地に行きましたが、今回日本の報道陣は頑張っていて、他国が1クルー程度だったのに対し、どこも日本の取材クルーが大挙して押し寄せていました。韓国の公共放送でさえ、放送時間は18時間程度と日本の3分の1以下。日本の報道陣を見て、文在寅大統領が急遽、放送時間を拡大するよう指示を出したほどです。ただ日本でも、取材したものの、発表する放送枠、紙面が少ないことに報道陣は頭を悩ませていました。財務省の文書改ざん問題など、世間の関心を集めるニュースに場を奪われてしまったことも要因です。取材の受け皿を広げるためには、「もっとパラアスリートを見たい」という視聴者の声が必要になるでしょう。オリンピックに比べてまだ関心の低いパラリンピック。金メダルを獲ったアメリカの義足のスノーボーダー、マイク・シュルツさんは、義足を作る会社の経営もしています。「パラアスリートたちのストーリーや、競技の技術力の高さは価値あるものだから、自分たちの活躍を通して、皆の関心を引き寄せたい」と話していました。今回、もう一つ平昌で痛感したのは、ボランティアの方々の重要性です。通訳や障害者の方の移動支援など、とてもスムーズだったんですね。ボランティアのなかには、「世界の人々と交流を深め、平和に貢献したい」と、2か月間仕事を休んで参加している青年もいました。平昌ではボランティアスタッフに食事と宿泊施設を提供していましたが、現状、東京五輪ではボランティアの宿泊費は自己負担です。選手の活躍、観客の声援、ボランティアの温かな支援が重要な要素となる五輪。約11万人のボランティアを募集しますが、気持ちよくサポートしてもらうためにも、待遇面のケアは必要だと思います。堀潤ジャーナリスト。NHKでアナウンサーとして活躍。2012年に市民ニュースサイト「8bitNews」を立ち上げ、その後フリーに。ツイッターは@8bit_HORIJUN※『anan』2018年4月25日号より。写真・中島慶子題字&イラスト・五月女ケイ子文・黒瀬朋子(by anan編集部)
2018年04月20日平昌パラ五輪アルペンスキーで金メダルを獲得した、村岡桃佳選手「いちばん見たかった景色を見ることができて、ちょっと泣きそうだった」平昌パラリンピックのアルペンスキー選手として出場した村岡桃佳は、3月15日の金メダルの授与式で、こう感想を話した。「村岡選手は滑降で銀、スーパー大回転とスーパー複合で銅を獲得したのに続き14日に行われた大回転で金メダルに輝きました。日本選手団では第1号の金メダルであるとともに、日本選手として冬季パラ五輪史上最年少で頂点に立ちました」(スポーツ紙記者)“快挙”を達成した村岡は、4歳のときに突然、両足が動かなくなる病気にかかってしまう。「車イスが必要となってふさぎがちになる娘を見た父親が、“笑顔になってほしい”と、小学2年生のときに車イスのスポーツ体験会に誘ったことがきっかけで、車イス競技にのめり込み、のちにスキーも始めたそうです」(同・スポーツ紙記者)彼女のことを「昔から運動神経がよかった」と話すのは、母校である埼玉県・正智深谷高校の小島時和先生だ。「彼女が1年生のときに体育を教えていましたが、スポーツ全般が得意でしたよ。バスケもシュートがうまかったし、ダンスも足は使えなくとも、腕の動きだけでうまく行っていました」村岡が2年生のときに副担任だった石川雄一郎先生によると、クラスメートとの人間関係も良好だったそう。「車イスを使っていますが、周囲が気を遣うということはなかったです。彼女がそうさせなかったんでしょうね。クラスの中でも積極的に発言する“ムードメーカー”で、みんなからも“ももちゃん”の愛称で親しまれていました」自宅近くにある中華料理店『美華』の成瀬潤子さんは、生中継をテレビで見て泣いてしまったという。「桃佳ちゃんが小学生のときからうちに通っていただいていて、きょうだいで来たり、お母さんも一緒だったりまちまちでした。広東麺や餃子、野菜炒め、ニラレバ炒めなどをよく頼んでくれていますね。桃佳ちゃんが偉いのは、ほかの人の邪魔にならないように、自分で車イスをたたんでから座敷に上がるんです。しかも、靴もきちんとそろえて。人を思いやることができる子で、私生活でも金メダルをあげたいですね」同じく彼女を小学生から知る近所の主婦は、父親の“献身”に胸を打たれたと涙ぐみながら話してくれた。「お父さんは会社を経営していてお忙しいそうなのですが、家の近くの公園で桃佳ちゃんに付き添ってトレーニングしているところをたまに見かけていました。そこでは健常者のお父さんも車イスに乗って、彼女と同じ気持ちになって伴走してあげているんです。なかなかできることじゃありませんよね……。スキーもお父さんが最初から教えていたようで、娘さんを全面的に支えていたんだと思いますよ」世界の頂点に立つまで支えてくれた父親に、最高の親孝行ができたはず!
2018年03月20日『パラ駅伝inTOKYO2018』に参加した香取慎吾、稲垣吾郎、草なぎ剛撮影/森田晃博「精いっぱい応援しますので、頑張ってください」(稲垣)3月とは思えぬ“炎天下”のもと開催された『パラ駅伝 in TOKYO 2018』に、「日本財団パラリンピックサポートセンター」のスペシャルサポーター・稲垣吾郎(44)、草なぎ剛(43)、香取慎吾(41)が登場。会場では香取が“I enjoy!”をテーマに描いた絵をもとに作られた“レゴ壁画”がお披露目され、「今日ここでサインを書いて、完成です!!」(香取)競技は約2時間にわたって行われ、選手にインタビューをしたり、一緒に走ったりと観客を大いに楽しませ、会場は大盛り上がり。フィナーレにはスペシャルライブが行われ、「72時間ホンネテレビ」のテーマソング『72』に続いて、新曲『雨あがりのステップ』を初披露。“誰もが新しい道を行ける気がした♪”という歌詞に、「僕らの心情にピッタリです。乗り越えて3人で歌うことができました」(草なぎ)新たなステージへと飛び出した3人。次はどんな“サプライズ”が待っているのか――。
2018年03月13日