社会の常識を疑う…兄の自由帳に書かれた“謎の言葉”筆者がヘラルボニーという存在を初めて知ったのは、とある意見広告だった。2019年12月当時の背景としては、内閣府が「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した問題について、安倍晋三首相(当時)は、名簿をシュレッダーで廃棄した人物は「障害者雇用の職員で、短時間勤務だった」と答弁したのだった。そうした中、東京・霞が関の弁護士会館の前に掲示されたのがこの意見広告だ。「この国のいちばんの障害は、『障害者』という言葉だ。」Upload By 桑山 知之29歳、岩手県出身の一卵性双生児。4歳上に、重度自閉症と重度知的障害のある兄・翔太さん(33)を持つ。崇弥さんと文登さんは、保育園から小学校、中学校、高校までをともに岩手県で過ごし、その後は別々の道を歩んでいた。Upload By 桑山 知之文登さんは東北学院大学(宮城・仙台市)に進学後、大手ゼネコンに就職。一方、崇弥さんは東北芸術工科大学(山形市)の企画構想学科へと進学した。そこで放送作家を軸にマルチに活動する小山薫堂さんのゼミに所属。卒業展示では、社会の“常識”を疑う「常識展」を企画した。インドと日本の水を比べるものや、駅に花を植えることに心からの喜びを感じているホームレスなど、常識を問うさまざまな作品を並べた。その主軸こそが、自らの兄だった。「常識展っていうタイトルやアイデアの出発点も、兄貴がかわいそうではないという伝え方をしたいっていうところから入っているので。障害=かわいそう、とか、障害=欠落、というものをそうではないという世界観を提示したいって思って。だから兄貴を題材にすると決めて最初からスタートしていました。昔からそういうのを提示したい思いはありましたね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之現在の屋号「ヘラルボニー」。一度耳にしたら忘れない“謎の言葉”に出合ったのは、この卒業展示の制作のため実家を訪れたときだった。「兄貴の部屋の押し入れをバーッて探していたんですよ、いろんなものを。母親もよく残していたなと思うんですけど、何十冊も自由帳とか絵日記とかあって。けっこう絵日記も世界観がおもしろいものが多くて、これなんかフォントおもしろいですよね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之「障害者だって同じ人間なんだ」中学時代に母とすれ違いも2人が幼いころから、自閉症の兄とともに福祉団体に遊びに行くのが毎週末の決まり事だった。そこでは、自閉症に限らずダウン症や精神障害などさまざまな人が集っていた。2人にとっては、そこで“障害”というものはあまり関係なく接しているのが当たり前だった。ただ、小学4年のころに覚えた違和感を、文登さんは作文に綴っていた。「団体の人と土日一緒に出掛けていたときに、目線とか……同い年ぐらいの人が指を差して、僕らの兄の集団を笑っていたんです。それに対して腹が立って。小4ながらに自分の中で思ってた感情っていうものがけっこう多くあったんだろうなって。僕ら双子の中でのフツウの感覚と、社会側のフツウの感覚のズレみたいなものとか、単純に『兄をバカにすんなよ』っていう思いもそこに乗っかっているのかなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之2人はやがて中学校に進学し、卓球部に所属した。兄は県内の特別支援学校へと進学。しかしここで、関係性は一度悪化してしまったという。「僕らの中学校は自閉症スペクトラムのことを『スぺ』って言ったりする子がいて、『お前、スぺの教室行けよ』みたいな。自閉症=欠落、スぺ=欠落みたいな風な使い方をするような中学校だったんです。試合の応援にも母親が兄貴をよく連れてきていたんですけど、僕もすごい兄貴が応援に来ることにアレルギーが起きるようになったんですね。それで母親に『兄貴連れてこないでよ』ってすごい言っていたんですけど、母親はしきりに『隠すことじゃないよ』って逆上するわけですよ」(崇弥さん)「自分たちの心の弱さから、小4のころはふざけんなよって言えても、中学ぐらいになって言えなくなってしまう自分もけっこういて。『スぺ』っていうものが蔓延して、スぺのきょうだいだって思われるのがすごく嫌になってしまった時期があって」(文登さん)Upload By 桑山 知之障害者の兄がいることは決して恥ずべきことではない。そんな思いから、部活を引退するまで母親は兄を連れて試合に応援へ駆けつけ続けたのではないかと2人は推測する。しかし、地元から200キロ離れた高校へ進学すると、自然にこの“すれ違い”はなくなった。「周りから言われることを避けるために、兄貴を迫害することによって自分を守っていた」と崇弥さんは振り返る。「中学時代も、兄貴のことを嫌いになったりとか、兄貴のことを大切に思ってない、ではないんですよね。兄貴のことはずーっと大切で、好きな状態はずっと今も思っていて。ただ、中学のころは防衛本能が働いていたっていうか……。高校に上がると、その当時の友達とかもいなくなったので、環境が変わったので普通に兄のことも言えるようになったんですよ。なので、自分で過ごしている環境ってすごく大事なんだろうなってホント感じますね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之子育てに正解はないという。「もしかすると正解は『ずっと連れて来るもの』って書かれるかもしれないけど…」としながら、きょうだいにはきょうだいの生活があり、親としてはその立場を考えるのもアリではないかと崇弥さんは語った。文登さんはそれを「逆張りだ」と笑いながら、親子で話し合う場の必要性を思案していた。前身ブランドからヘラルボニーができるまで崇弥さんは、小山薫堂さんが代表を務めるオレンジ・アンド・パートナーズという広告会社に4年半勤務した。かつて薫堂さんが住んでいた東京・赤坂のアパートも紹介してもらい、住んでいたという。社会人2年目の夏、岩手へ帰郷した際、衝撃を受けた。「岩手県にある『るんびにい美術館』(岩手・花巻市)っていう、それこそ知的障害のある作家が描いた作品が展示されている、社会福祉法人が運営している美術館がありまして。そこに行ったときにものすごい衝撃を受けて、これはおもしろい!っていう風に思ったんです。一発目に文登に電話をかけて、『なんかやろう!』って。何かを立ち上げようと」(崇弥さん)あの衝撃からちょうど1年後、2人はヘラルボニーの前身となるブランド『MUKU』を立ち上げた。ラッパーの晋平太さんを介して、『見えない障害と生きる。』にも出演したGOMESSさんに依頼し、楽曲も誕生した。見た人を惹きつけるプロダクトはすぐに話題となった。しかし一方で、崇弥さんはもどかしさを感じていたという。「当時は副業だったので、もっと全然いけるのに……っていつも思っていたんですよ。もっとコミットしたら絶対にいけるのに、でもこんなにリソースを割けないから悔しいなっていつも思っていて」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之そこから2年後の2018年7月、謎の言葉「ヘラルボニー」を掲げた会社を設立した。翌年には経済誌『Forbes』が選ぶ「世界を変える30才未満の30人」に双子起業家として選ばれたほか、先述の意見広告でも一大ムーブメントを巻き起こした。建設現場の仮囲いを期間限定のミュージアムと捉えたプロジェクトも話題を呼んだ。そして何より、障害のある作家がつくるアートを生かした製品は、飛ぶ鳥を落とす勢いでファンを獲得し続けている。その大きな要因として、「着想の出発点」が違うからだと筆者は思う。「時代に後押しされているというのはものすごく感じます。もともとSDGsやりたいとかそういう思いで始めたわけでは全然ないけれども、社会側がSDGsっていう文脈を持ってきてくれているし、ダイバーシティやりたいって思ってダイバーシティって言ったこともないけれども、社会側がダイバーシティ&インクルージョンっていう文脈をウチに紐づけてくれるし。社会側が色んな文脈をウチの会社にありがたいことに紐づけてくれたっていうところがすごくある」(崇弥さん)「10年前やっていたら全然違う結果になっているだろうけれども、今っていう時代にやれているからこそっていうのもあるだろうなと。僕ら双子揃って運が良くて、いろんな方に恵まれているというか、自分たち双子としては大したことないんですけど、関わってくれている皆さんが本当に素晴らしい人が多いんです」(文登さん)Upload By 桑山 知之異彩放つ活躍数字で語れる会社に人気セレクトショップ『TOMORROWLAND』での製品販売や、吉本興業とのコラボブランド『DARE?』など、ヘラルボニーの躍進は止まらない。今年度の売り上げは1億円を超えるという。もちろん、アーティストへの還元も忘れない。「正直ホント数字面ではまだまだなんで。数字で語れる会社になれたらいいなってすごい思いますね。あそこは数字も素晴らしいよね、障害のある作家にもめっちゃ還元するよね、っていう会社になりたい」(崇弥さん)「今後の目標設定とかもすべて透明化させたいなと来期から思っていて。障害のある作家さんにどれぐらいバックしていて、これまでどれだけバックしてきたか、みたいなところとかも全部見える化して、それに対する社会的なインパクトとかもつくっていきたいなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之兄・翔太さんは現在、岩手県奥州市にある就労継続支援施設(B型)「わかくさ」で、コーヒーのパック詰めや空き缶つぶしをしている。週に3回はグループホーム、残りは自宅で暮らしているという。きっと弟2人の“異彩を放つ”活躍を、誇らしく感じているだろう。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月21日フツウの学生時代から一変就職先から告げられた「辞めてほしい」名古屋市で生まれた石橋さんは、義務教育を経て高校に進学した。成績がすこぶる優秀だったというわけではないが、勉学でつまずいたり、校内で問題を起こしてしまうようなタイプではなかったという。「学生時代を振り返ったんですけど、特になくて。例えば先生に呼び出されるようなタイプでもないですし、赤点を取っていたタイプでもなかったんです。何人かの友達に『学生時代、俺ってどうだった?』って聞いてみたんですけど、別に普通だって」(石橋さん)大学受験にも合格。「困っている人の役に立てれば」と、医療・福祉系の学部を選んだ。より広い視野で社会福祉を学ぼうと、セミナーに参加するため米・ハワイの大学まで足を運ぶなど、向学心はむしろ人一倍強かった。そんな石橋さんが異変に気付いたのは、愛知県内の病院に就職してからだった。「普通の人と比べると物覚えが遅いとか、向こうから指摘をされて。これだけミスもあるし、病院としては正直辞めてほしいっていう話がありました」(石橋さん)Upload By 桑山 知之「グレーゾーンかもしれない」就職後に自閉スペクトラム症の診断石橋さんの就職先は、病院にある「医療相談室」だった。ソーシャルワーカーとして、入院患者や家族の希望を聞き取るほか、家族間や金銭的な悩みなどにも応えるといった、あらゆる問題を調整する業務にあたっていた。複数の入院患者のことを同時並行で進めなければならず、またそれが次から次へと続くわけだが、石橋さんが受け持つ患者の数は先輩と比べて少なかったという。「先輩たちは10人とか15人を同時に担当していたんですが、僕は正直なところ5人でも回せていなかったんです。5人分の困りごと、例えばこの人はこれが困っている、家族さんの背景はこうで、この家族さんにはここの支援機関だとか。人によって別のところと話さなきゃいけないし、この人は市役所のこの部署と話さなきゃいけないしとか、同時にやっていくのが困難だったっていうのは確かにあります」(石橋さん)Upload By 桑山 知之そして就職から半年以上が経ったある日、石橋さんはパニック発作を起こした。「当時、僕がパニック発作って分からなくて、病院に行っても原因が分からなかったんです。それで、精神科に行ってみたら、それはパニック発作ですねって言われて。もしかしたら発達障害があるかもしれない、“グレーゾーン”かもしれないって」(石橋さん)「次に何をしなきゃいけないのか、複数が同時に来ると分かんなくなってしまう」という、自閉スペクトラム症の特性のひとつとされる「同時処理困難」があった石橋さん。困っている人の役に立ちたいと夢見た医療の道だったが、促されるような形で退職したのだった。Upload By 桑山 知之職場からの「キミがいなくなっても困らない」――ミスをまとめた書類も発達障害はグラデーション状に広がっており、白か黒かといったはっきりとした判別が難しい。むしろ中間部分である「グレーゾーン」の方が多いとも言われている。自身も当事者であるライター・姫野桂さんの著書『発達障害グレーゾーン』(扶桑社)などにもあるように、発達障害の傾向はあっても、診断までは出ないというケースは全国的にも多く見られている。今回インタビューに応じてくれた石橋さんは、精神科にかかった後、自閉スペクトラム症の診断こそ出たものの、日常生活では特に困難さがあるわけではなかった。自分のことを周囲にどのように理解してもらうかを悩んだ末、勤務先の病院にも、障害のことを思い切って打ち明けた。すると、衝撃的な言葉が返ってきた。「(勤務先の病院に)言われたのは『キミがいなくなっても病院は次の人が入ってくるんだから、病院としては困らない』と。日本全国で大学卒業する人が誰もいないんだったら別だけど、そんなことはない。毎年入ってくるんだから、キミがいなくなっても病院としては困らないって。使えないから切ればいいっていうのは理解できるんですけど…」(石橋さん)石橋さんを辞めさせるためなのか、勤務先では石橋さんの仕事上のミスや当時の状況を事細かに同僚が書き起こし、ファイルにまとめていた。「何度も同じミスがあり、すべてに他者の確認作業と修正が必要」「他の作業をしていると、やることが抜ける」「相手の置かれている状況が想定できない」――。石橋さんは、退職を選ばざるを得なかった。Upload By 桑山 知之誰も取りこぼしたくない実体験を通して知った弱者の気持ち現在、石橋さんは再び職に就くためにLITALICOワークスで就労移行支援を受けようとしている。そこには、昔からブレずに抱いている思いがある。「誰も取りこぼしたくないっていうのはありますね。社会的に不利に追い込まれてる人とか、そういう人が不利益を受けるんじゃなくて。ひとり親、障害者、高齢者、親がいないお子さん……。そういう人たちが不利な状況になりやすい社会にはしたくないなって思うので、そういう人たちも幸せを感じられるような世の中にしていきたいなっていうのは漠然とありますね」(石橋さん)かつての勤務先で自身の発達障害を打ち明けても相手にされず、辞めるよう促された過去。石橋さんの心の中で、より強い思いが湧き上がった。「そういったことを言われた経験を踏まえて思いましたね。弾き出されるときって、こんなに露骨に弾き出されるんだなって。実体験としてすごく思いました。だからこそ社会の中で誰ひとり取りこぼしたくないし、自分の力が役に立てる場所でやっていきたいです」(石橋さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年01月17日切り替えが苦手で集団行動が遅れがちUpload By スガカズ長男はWISC-IVの結果で処理速度が低いことがわかっています。また、注意散漫、過集中といった特性もあり、学校で次の行動に移るときに時間がかかります。なかなか次の行動に移れないとき(特に教室を移動する授業)は、クラスメイトや先生が声をかけてくれることがあるのだそうです。学校で見かけた長男とクラスメイトのトラブルUpload By スガカズ1年前のある日、私は当時小3だった次男の忘れ物を届けに学校へ行きました。すると廊下で小6の長男がクラスメイト2人となにやら揉めていました。クラスメイトに何か言われており手をひっぱられています。長男は何も言わず泣きそうになりながら拒んでいました。体操服に着替えていること、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴っていたことから、「長男の行動が遅れているからクラスメイトが呼びに来たんだな」と理解しました。長男は次の行動に移るときに無理やり促されるのを嫌います。私はクラスメイトとのやりとりを見て「長男にとって大事な経験だ。今私が間に入るよりも、後で話を聞いてアドバイスした方が冷静に話し合える」と思い、後ろ姿を見つめていました。「病気(障害)だから仕方ない」長男の発言に腹を立て…Upload By スガカズ放課後、長男が帰ってきたので私は廊下でのやりとりについて聞きました。概ね私の予想通りで、体育館に行く途中で考えごとをしていたそうで動きが止まっていたそうです。長男がなかなか動こうとしないので、クラスメイトが「早く来て!」「遅い!」と強い口調で促していたそうです。「それは大変だったね。注意されていたとき、あなたはどんな気持ちになったの?」と聞くと、「オレは、できることとできないことの差がハッキリしている。だけどクラスの女子が無理やりオレをひっぱって連れて行こうとしたんだ」「オレ、病気だから行動がゆっくりでも仕方ないのに!」と怒り口調で答えました。私は長男が強めに促されてイヤだった気持ちは理解しますが、「仕方ない」という言葉に腹が立ち、思わず長男を叱ってしまいました。「障害だからいいでしょ」と許してもらおうとしたり、「仕方ない」からといって諦めたりするのは間違っていると思います。大事なのは、「障害に対して自分がどう向き合えばいいか」「言ってくれた相手とトラブルにならないためにどうしたらいいか」を考えて行動することだと言いました。このとき長男は「言われたのは自分の方なのに」と納得した様子ではありませんでした。どうすれば分かってもらえるのか?と考えたときに、長男に促す側の気持ちを体験してもらうことだと思いました。無視されたり開き直られたらどんな気持ちになる?Upload By スガカズUpload By スガカズその日の夜、きょうだいが全員そろったときに長男に話しかけられました。私は話しかけられていることを理解していましたがそれに反応せず、きょうだいの相手をしていました。何度も何度も話しかけていたのに長男は無視されたので、私に怒りました。怒っている長男に対して私は、「今、どんな気持ち?」と聞きました。子どもたちに話しかけられても対応できないときに「ごめんね」「ちょっと待ってね」「〇〇の後話きくね」と言うように私は気をつけていること、「〇〇だから仕方ないでしょ」という風に言ってないこと、もし「仕方ないでしょ」と言われたり無視されたらどんな気持ちになる?と長男に言いました。「…イヤな気持ちになる…」と長男は答えました。クラスメイトが声をかけてくれる(行動を促してくれる)のはありがたいことで、その行動に対して何も言わずに嫌がったり怒ったり「病気だから仕方ない」と言うのは間違っているともう一度言いました。Upload By スガカズその後聞いていなかったときや無意識で起こったことに「ごめん!」というセリフが出たり言葉で説明したりする場面が見られるように。私は素直に反応してくれたことが嬉しくて「気づいてもらえてお母さんうれしいよ」と言いました。もちろんすべてが好ましい反応にはなりませんが、気をつけようと思い言葉に出すことは、より良い生活を行うために必ず必要になってくることで、一歩前進したと言えます。中1の現在、できないことに対して「自分で解決策を考える」姿も…Upload By スガカズ中1になった現在は、どうしてもできないことに対して、考える場面も見られます。できない理由を言葉にして、私にお願いすることもあります。「どうしたらいいのか分からない」と、そのままにしてしまう場面も沢山ありますが、自分の障害を「仕方ない」と諦める前に、人に相談したり自分なりの案を試してほしいと思います。
2021年01月04日思春期の娘。声かけをすると…広汎性発達障害の娘は、小学4年生。思春期真っただ中で、一段と扱いにくくなっています。声をかけても返事をしなかったり、一対一の説明(説得)も真剣に聞いてくれなくなったり…Upload By SAKURA声かけをしても、「わかってる!」の一言。わかっているなら…と声かけをしなかったら、そのまま忘れているパターンばかり…。Upload By SAKURA療育グッズをつくってみても…娘の生活の補助にと、今まで使っていた療育グッズも、効果が薄くなり…Upload By SAKURA新たな困りごとが発生して、新しく療育グッズをつくっても…Upload By SAKURA見てくれないことも多くなりました。「私がもっとこういう言い方をすれば…」「違う療育グッズをつくってみたら…」と、試行錯誤してみても、まったくうまくいかない日々。娘の特性を受け入れていても、きついものはきつい。私が娘と歩んだ療育生活も、もう7年目。これが思春期ゆえの反抗だということも、中には、娘の特性からどうしても難しいということがあることも、私はすべて理解しています。Upload By SAKURAわかっていても、娘とうまくいかないことが、とっても苦しくなってしまいます。私の中の、揺るがない療育の軸。どうしたらいいんだろう・・・そう自分の中で考えていると、私の中で、療育の揺るがない軸になっている強い私が出てきます。Upload By SAKURAそして、「受け入れる」「娘のペースを大事に」「これは特性、個性」という、今までの経験で積み重ねてきた、考え方を出し…最終的に「仕方ない」という言葉を突きつけるのです。強い自分が、時に自分を苦しめる。私は、娘と向き合ってきた時間が長い。娘の特性に対して、「仕方ない」という結論しかないのは、わかっているのです。しかし、娘とのやりとりでうまくいかないことが続いて悩み始めると、この「仕方ない」という言葉が私の思考を覆い、悩むことも、泣き言を言うことさえもできない状況になります。Upload By SAKURA私の中のこの軸は、悪者ではなく、私が娘と共に歩んできた中で培ってきたもの。この軸のおかげで、いろんなことを乗り越えてこられた部分もあります。いつもならこの軸は、頼りになる存在。迷ったとき、「よし!」と思える基盤です。しかし、私自身がそれ以上に弱くなってきたり、娘とうまくいかない状況が辛く、苦しくなったりしてしまうのです。そんなとき、この揺るがない軸は、私の弱音にストップをかけ、モヤモヤしているのに、悩むというところまでいかせてもらえない…。そんな状況が、逆に辛くなり、頭を抱えてしまうことがあります。あえて弱い私を出し、夫に聞いてもらう。そんなとき私は自分の中で弱音を吐かず、あえて口に出し、夫に思いのたけを聞いてもらうことにしています。Upload By SAKURA私自身が十分過ぎるほど理解している、『受け入れる』『仕方ない』『頑張る』という言葉は、言わないで…と前置きをし、娘に対して言えない言葉や、私の中のどす黒い感情を聞いてもらいます。Upload By SAKURA夫は私の話をすべて肯定しながら聞いてくれます。自分の中でストップがかかって、吐けなくなっている弱音を、夫に聞いてもらい、受け入れてもらうと、自然とすっきりすることができます。私は、定期的にこの方法でリフレッシュしています。Upload By SAKURA療育は、山あり谷あり。娘の発達障害を受け入れてる私ですが、娘とぶつかって、泣き言を言いたくなることも、頭を抱えることもあります。きっと、こういうことの繰り返しをしながら、娘と一緒に時を重ねていくのでしょう。Upload By SAKURA弱音は吐きつつ、マイペースに進んで行きたいと思います。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月23日一人息子は発達障害夢はお寿司屋さん上口さんが30歳の頃、男の子を出産した。名前は悠樹くん。平成元年生まれで、偶然にも筆者と同い年だ。当時は今から30年以上前、今ほど発達障害への認知や理解は進んでおらず、典型的な症状でなければ見過ごされることが多かったという。今では発達性協調運動障害(DCD)という存在も知られるようになったが、悠樹くんが通っていた保育園では「手足の協調的な運動が難しい」と言われていた。段差に気付かず転んでしまうことは日常茶飯事で、穴に落ちてしまったり、保育園でのハサミを使った工作もとても苦労していた。しかし検診に連れていくとそれほど問題視はされず、「長い目で見ましょう」とあまり指摘されなかった。「ずっと親としては気になっていたんです。本を読んでみたり、発達障害者支援センターに相談に行ったりしてました。例えば、小学校に入ると集団登校ってありますよね。うちの子だけがどこかちょっと外れてるんですよ。ちょっと外れた動きをして、一生懸命高学年の人が手をつないでとか」(上口さん)Upload By 桑山 知之違和感を覚えながらも、しばらくやり過ごした。元々、底抜けに明るい子だった悠樹くんだったが、できないことが生活の中で多いことから、少しずつ暗くなっていった。学力こそ低くなかったものの、生きづらさを確かに抱えていたのだった。「小学5年のときに(診断を)受けました。あのときはもう混み合ってて、1年ぐらい待ってようやくWISCを受けて、ADHDとアスペルガーの混合型っていう、今だとまた違った診断名なんでしょうけど、その頃はそう診断されましたね」(上口さん)中でも特に辛かったのが発達性協調運動障害だという。近年その認知は徐々に広がっているが、これまでは「不器用」「運動音痴」という言葉で見過ごされてきたことが多い。悠樹くんにとってできないことも多々あったが、一方で悠樹くんは料理が大好きだった。家庭科の成績はいつも良く、時には上口さんに手料理を振舞った。悠樹くんの夢はお寿司屋さん。特に手先の技術を要する職業だった。Upload By 桑山 知之大学入学直後、拒食症に…上口さんによれば、中学ではいじめにも遭ったという悠樹くん。それでもなんとか高校へ進み、キャンパスライフを夢見て愛知県内の大学へと進学。一人暮らしを始めた。しかし、入学から1カ月後の5月には下宿先から一歩も出られなくなってしまった。「とにかく夢いっぱいだったので、スーパーでアルバイトもして、サークル活動もして。それで単位を取らないといけないじゃないですか。必修科目だとかいろんな履修登録をしないといけないんですね。それがうまくできなくて呆然となって、学校の中で自分一人でポツンといるような気持ちになって、それでもう学校も行けなくなって、バイトも辞めちゃって。結局、体重が30kg台になったときに、もう持たないと思って(悠樹くんを)家に連れて帰りました」(上口さん)Upload By 桑山 知之料理があれだけ大好きだった悠樹くんが、拒食症になってしまったのだった。「僕は何にも役に立ててない」と自分のことを責めもした。それでも程なくして、働く母親の上口さんを支えるため、「これからは僕が毎日夕飯をつくってあげる」と意気込んだ。その明るい性格から、買い物先の八百屋や近所の美容院の人からすぐに気に入られていたという。しばらくして余裕が生まれると、悠樹くんは自身が通っていた保育園でアルバイトを始めた。「うちの子はアルバイトをやってもすぐクビになるというか、なかなか合格しないんですよ。そうしたら、自分が行ってた保育園がおいでって言ってくださって。大学の中にある保育園なんですけど、そこで調理の経験をして、それをボランティアで半年ぐらいしてるうちに、今度は『僕、栄養士になりたい』って」(上口さん)Upload By 桑山 知之幸せな専門学校生活から一転、鬱に栄養士になるために名古屋・栄にある専門学校へ通い始めた悠樹くん。これまでと違い、同世代だけではなく少し年齢が上の“人生の先輩”がいたこともあり、「息子の人生の中で一番幸せだった」期間は1年以上続いたという。「初めて友達っていう存在がいっぱいできて。みんなで飲みに行って、今日まだ帰ってこない!って。親としてやっと普通の悩みっていうか。あれは嬉しかったですね。すごく楽しく過ごしていました。あのまま行けばよかったってすごく思います」(上口さん)クラスメイトには自身の発達障害についても打ち明け、周囲や先生は悠樹くんを受け入れてくれた。しかし、専門学校2年で実習が始まると、壁にぶち当たった。病院での厨房実習だった。運動障害によって真っ直ぐ歩けないため色んなものにぶつかった。手先が器用でなく、作業をすべてやり直しもした。きっと強迫観念もあったのだろう。「もう僕はできない、働けない」と落ち込み、悠樹くんは実習1日でドロップアウト。学校に行けなくなり、鬱状態に陥って自殺未遂を繰り返した。ベランダに飛び降りるための椅子が置いてあったり、紐が結び付けてあるなどした。夜中に自殺してしまうのではないかと、上口さんは悠樹くんの部屋の前で一夜を過ごしたこともあった。Upload By 桑山 知之「もう9年前ですね。その日は私が出張中で。だから私は現場にいなかったんですよね。(出張先は)京都だったので、何で日帰りしなかったのかなって思うんですけど、一泊しちゃったんです」(上口さん)2011年5月、悠樹くんは自宅マンションのベランダから飛び降りて自ら命を絶った。21歳だった。悠樹くんの携帯電話に残された遺書には、こう記されていた。「発達障害の人たちが生きやすい社会を願って」。Upload By 桑山 知之息子の自殺当事者が生きやすい世の中に「こんなことをお話ししていいのかわからないんですが、私はうちの子を育てながら『この子いつかいなくなる』って思ってたんですよ。電車の階段を落ちて骨折したり、自転車に乗ったら倒れちゃって病院で脳の検査とか、そんなことがしょっちゅうあったんです。『この子っていつまで一緒にいてくれるんだろう』って思ってました。だから、それが現実になったんだなって」(上口さん)悠樹くんの死後、「何かをやらないと潰れてしまう」と感じた上口さん。その中で、発達障害の当事者会に参加した。悠樹くんの話をすると周りは皆、親身に耳を傾けてくれた。県外にも足を運び、大阪でNPO法人「発達障害をもつ大人の会(DDAC)」広野ゆい代表(48)と出会った。Upload By 桑山 知之「広野さんの言葉で『自分が動いちゃいけない。自分と周りの環境があってその一番真ん中に自分がいなきゃいけない』っていうのがあって。引き寄せられて自分が動いたらいけないって言われて、なんかすごく救われたんですね。周りでいろんなことが起こるけれども、そこから動かないで距離を保ちましょうっていうことだと思うんですよね。私の場合は、悠樹の思い出との距離」(上口さん)当事者同士の交流が必要だと改めて感じた上口さん。実家を売り、駅近の物件を購入。こだわったのは、発達障害の当事者が集まりやすく、そして働きやすい居場所。「やめた方がいい」「無謀だ」と言われてもあきらめなかった。上口さんは2014年3月、ブックカフェ「Co-Necco」をオープンさせた。Upload By 桑山 知之「うちは職員も3分の1は障害のある方々で、発達障害や精神障害や身体障害などいろんな障害のある方々なんですね。最終的な目標は、障害者が対等に、それぞれの得意なことを生かした働き方っていうのかな、そんな職場をつくりたいですね」(上口さん)お店を開きたかったという悠樹くんの夢。上口さんが、悠樹くんの思いを形にして早6年半以上。定期的に開く交流会なども好評で、愛知県内だけでなく全国から“居場所”を求める客であふれる。決して無謀なことではなかった。「子どもを亡くす親って、何か子どものためにやりたいって思うもんなんです。そのときに、なんとなく当事者会が一番しっくり来た。自分も当事者ですからね、子どもを亡くしたっていう当事者ですから」(上口さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月06日年々難易度の上がる、娘の疑問への説明。広汎性発達障害の娘は、9歳(小学4年生)です。わが家では、娘に対して、物事の理屈や、意味を説明することが、よくあります。小さいころは、娘が知っている少ない数の言葉で説明することが難しかったのですが…Upload By SAKURA小学生になってからは、学年が上がっていくたび、質問の内容も、説明の難易度も上がっていき…Upload By SAKURA頭をフル回転させねば、説明しきれないことが、増えていきました。ごはんが遅かった娘が、言った言葉。引っかかったけれど…娘はごはんを早く食べるのが苦手。私たちは、娘のやる気を出させようと、娘の食事のときに、30分以内に食べ終わったら、ゲームをしていいという約束をしています。ある日、娘が約束した時間までに、ごはんを食べ終わらなかったときのこと…。Upload By SAKURA私はすぐ、その言い方が引っかかりました。しかし、娘の言った言葉に対して、私の引っかかりを、どんなふうに話せばいいか…考えがまったくまとまりませんでした。動いた夫!私も絵でサポート!どう話していいか、考えがまったく浮かばなかった私が固まってしまったとき、夫が話し始めました。Upload By SAKURA何も発言できなかった私は、せめて手助けを…と、白い紙を手に取り、会話を聞きながら夫の話を図にして、2人ところに持っていきました。Upload By SAKURAなぜ、嫌な感じに聞こえる?夫の上手な説明。Upload By SAKURA娘への説明はわが家では、必要不可欠。しかし、すべてを私一人で対応することはできません。いつもは私がメインで娘の対応をしていますが、実は説明も説得も夫の方が上手。しかし、普段夫は私のやり方を優先してくれ、特別前に出ることはありません。夫は、私の脳が思考停止になりつつあるときに、私の様子を見てそれを察し、進んで説明をかって出てくれます。私は、夫の気づかいと、行動力と、説明力のおかげで、年々難易度が上がっている娘への説明を、なんとか乗り越えられています。娘への説明も、夫婦二人三脚。夫も同じ気持ちなようで…Upload By SAKURAこういうことを2人で対応するたび、子育て、療育というのは2人で乗り越えるものだと強く感じ、夫がいつも協力的であることに、感謝しています。これから、娘が中学生…高校生と、進級するたび、言葉を駆使してしなければいけない、大変な説明もあるでしょう。引き続き、夫と二人三脚で頑張っていきたいと思います。
2020年11月25日床に寝そべり、協調性ゼロだった保育園時代Upload By かなしろにゃんこ。ADHDと軽度の広汎性発達障害がある息子のリュウ太が保育園のころと学童期は、保育士や先生から日中の様子を聞くと、多くはケンカや揉めごとの報告で、聞くたびに「あちゃー」と情けない気持ちになっていました。保育園のころ、好きなオモチャを他の子に取られて遊べない日は調子が出なくて、オモチャを巡ってケンカをしていました。お友達をオモチャで殴りましたとか、外遊びでは滑り台を階段から登らず滑る方から登ってルールを守りませんなど、悪い報告が多かったのです。日中の子どもの様子を影からこっそり見てみませんか?と先生に促されて、黒幕の影から子どもたちにバレないように覗くということをしたことがあります。Upload By かなしろにゃんこ。先生のピアノ伴奏に合わせてみんなで簡単な楽器演奏をする時間に、リュウ太は一人で床に寝そべってミニカーで遊んでいました。この覗きによってリュウ太は集団行動が取れない、協調性ゼロの問題児だったことを知ったのです!うわーん(泣)就学してからもすぐに、教室で座っていられない、ノートや教科書を準備せずに授業がはじまっても工作やお絵かきを続行するなど、自由な振舞いが目立っていました。トホホ……。就学後も集団のルールが守れない状態は続き...Upload By かなしろにゃんこ。勉強を無理に強制すると、工作やお絵かきを邪魔されたとパニックになります。先生は発達障害がある子の指導に慣れている方だったので、学校生活に馴染めないリュウ太をある程度自由にさせてくれていて、クールダウンスペースもつくるなど、息子の気持ちに寄り添った対応をしてくれて、ルールを守れないことも大目に見てくれました。リュウ太がアルバイトをはじめた16歳のころ、息子に「リュウ太はルールに従えなかったのに、働けるようになるまでに成長して良かった~」と話していたときに、「なんで昔はルールを守ることができなかったの?」と聞いてみたんです。ルールを守る同級生たちを見て「それ、本心でやってんの!?」Upload By かなしろにゃんこ。「保育園のときはいろいろルールがあるって気にしてなかったから、実はよく知らなかったんだよね。自分がやりたいことを今やりたいから、できないと体の中にストレスがドンドン溜まっていっちゃうから、気持ち悪くなっちゃうんだよ。だからルールよりも自分が大事!」とリュウ太は言います。「小学校に入ってからは、なんでルールに従わなくちゃいけないんだろう?って思った。ルールって誰かがつくったもので、人の気持ちをムシした規則じゃん。みんなは真面目に従っていてエライな~っていうよりも、先生の指示に反発もなくってマジ?それ本心でやってんの?って思った。」Upload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。自分を大事に生きていたリュウ太の考えに、思わずナットクみんながやるからやるとか、一人だけ目立つのがイヤだから合わせるとかバカバカしいことにこだわっていないで、やりたくなければやらなくていい!勉強とかやらなきゃいけないこともあるけれど、いやいややるならやらない方がマシ!という持論なんだそうです。それに、指示されると余計にやりたくなくなる!とも言います。指示の言い方に悪意を感じると絶対に従いたくなくなる、従うくらいなら戦う!なんだとか。私が「明日の時間割準備しなさいよッ」って半分怒りながら言うと絶対やらなかったのは、そういうことか!と気がつき、トホホ…。リュウ太が言うことをまとめると...人間は我慢が多すぎる。人からどう思われるか気にしたり、一日24時間の中で自分らしく生きている時間が少ないよね、日本人は特に我慢ばかりしている気がするから、もっと自由な感覚を持ったほうがいい。ということでした。なるほどね~、リュウ太はいつでも自然体で生きていたんだとわかりました。自分を大事にすることを忘れていた私。うん、なんとなくわかる。ルールって秩序を保つのに大事だったりもするけど、確かに従いたくないものも中にはある!大人は我慢して従っちゃうけど…そうやってルールに縛られて自分らしさをなくしていたな~。って気づかされました。Upload By かなしろにゃんこ。こんなことを言っていたリュウ太ですが、今では自分も我慢しながら生きる大人の一人として就労先のルールを守って働いています。幼児期や学童期にルールに従えない子でも、遅れてルールを守れるようになることがあると分かりました。徐々に「そのくらいは付き合ってやるか、ルールを守ってもいいよ!」という気持ちになるんだそうです。あくまでも「やってもいいけど」という上からの気持ちだそうです。何様?笑
2020年11月23日「私を育てるのは、大変?」娘から突然質問されて...広汎性発達障害の娘(小学4年生)は、自分が小さいころの話を聞くのが好きです。小さいとき、なかなかしゃべらなかったことや、表情がなかったこと…療育に通った話も、娘が聞いてくることは、何でも話すようにしています。ある日、娘と小さいときの話をしていた時のこと…Upload By SAKURA「私を育てるのは、大変だった?」と聞いてきました。これまでのことを思い出してみても、娘の子育ては正直言って、大変でした。でも、ただひたすら大変で、辛かったわけではありません。そこには楽しさもありました。Upload By SAKURA一筋縄ではいかない娘の子育ては、大変でしたが、その一つひとつ勉強になることばかり。発達障害に無知だった私は、娘のおかげで、発達障害についても学ぶことができました。"娘がどうしたらできるようになるか"を考えるのは何だかんだで楽しいし、それを解決できる療育グッズをつくれたとき、大きな達成感もありました。ずっとできなかったことが、長い時間をかけてできるようになったときの感動は、娘以外の子育てでは味わえなかったと思います。娘の子育ては、まとめると「大変で、楽しい」のです。娘から見た、ママは…そんな風に見えていたの!?話し終えると、娘は私に、予想していなかったことを言いました。Upload By SAKURAまさかわが子にこのセリフを言われると思わず、思わず吹き出してしまいました。「子育てに苦労してなさそう」は、他の人から言われると、ちょっと複雑な気持ちになるセリフ。しかし、わが子に言われると、不思議と嫌ではありません。私は終始ニコニコして菩薩のように、子育てしてきたわけではありません。むしろその逆。Upload By SAKURA娘のパニックの対応ができず、一緒にパニックになったこともあるし…娘との話し合いの中で伝えたいことをわかってもらえなくて、泣いたこともありました。もしかしたら娘には、そんな記憶はないのかもしれません。でも、親が苦労して大変な思いをしていた記憶なんて、できればない方がいい。親が笑っていた記憶だけ残ってくれているなら、万々歳ではないでしょうか(笑)私はそう感じました。Upload By SAKURA「育ててくれてありがとう」と、普通結婚式で言われるであろうセリフを、9歳の娘から言われたことも、予想外でした。私の子育ては、まだまだ続きます。引き続き、娘に「子育てに苦労してなさそうなママ」と思ってもらいながら、頑張りたいと思います(笑)
2020年11月18日教授に相談できなくて…卒論が書けず引きこもりに三重県出身の戸田さん。三兄弟の末っ子として生まれ、義務教育から高校卒業後、一年間の浪人を経て近畿大学農学部(奈良市)へと進学した。つまずいたのは、卒業間近の論文執筆時だった。「卒業論文がありまして、その作成がうまくいかなかったっていうか……考察とかそういう部分がうまく文章が書けなくて。そこから引きこもりになりました」(戸田さん)Upload By 桑山 知之“情報を整理する”ということができなかった。奈良県内の病院の精神科を受診すると、適応障害と診断された。周囲のサポートもあり、なんとか大学は卒業できたものの、その後は実家近くの病院のデイケアに通いながら、自宅療養生活を送った。「先生に頼りにいくという力がなかったんです。当時卒論を担当していた教授は別に怖い方ではなかったんですが、普段誰かを頼ったりしていなかったので……」(戸田さん)思い返せば「小さな頃から誰かを頼ることが苦手だった」と話す戸田さん。小学3年のころにてんかんを発症したこと、中学時代にロボコンに出場したこと、高校で吹奏楽部に所属していたこと以外、学生時代の記憶はほとんどない。戸田さん曰く「事実は覚えているが、感情は覚えていない」らしい。Upload By 桑山 知之過去に認定されていた発達障害24歳で再診断「発達障害はグラデーション状に広がっている」と言われるように、それが生活に支障が出ない人も少なくない。実は戸田さんが小学校低学年のころ、発達障害だと診断されていた。しかし、戸田さんや両親は特段気に掛けていなかった。しかし、大学卒業間近でつまずいた戸田さん。両親と同居しながら、以前の診断時に受診していた海南病院(愛知県弥富市)の精神科が運営しているデイケア施設「ネバーランド」に通った。改めて発達障害の診断を受けたのは、24歳のころだった。Upload By 桑山 知之「担当者と問答したり、数学の問題とかパズルのテストもやりました。結果は広汎性発達障害という名前がつきました。大まかに言うと、人の言っていることを理解するのが苦手なのと、優先順位をつけるのが苦手なのと、物事を文章化するのが苦手という3つが症状ですね」(戸田さん)自らの特性について話す様子は淡々としていて、どこか晴れやかな表情をしている。「自分はこういうのが苦手なのでサポートをお願いします、っていうスタンスが取れるようになりましたね」。戸田さんは、診断によって自己理解が深まったと胸を張っていた。Upload By 桑山 知之大学時代に出会った唯一無二の友人今でも支えに近大では「メダカの学校同好会」に入っていた戸田さん。「メダカの住み良い環境を作り出そうというコンセプト」だそうで、ビオトープ班に所属していたという。「ペットだと飼い殺しにしてしまいそうな感じがするので、飼うのは向いてないかなと(笑)。メダカの学校同好会では生物の調査をしたり、小規模ですが生物が入りやすいように溜池を作ったりもしました。楽しかったですね」(戸田さん)当時付き合いがあっても卒業するとほとんど縁が切れてしまったが、今でも唯一連絡を取っているのが同好会の友人。もう8年ほどの仲で、彼は宮城県仙台市で仕事をしているが、今年の頭には熱海へ旅行に行った。ゲームやアニメなど、彼をきっかけに戸田さんも趣味が広がったといい、現在の戸田さんにとって一番の支えになっていると話す。「定期的に向こうから今夜スカイプどう?みたいな感じで、複数人でオンラインゲームで遊んだり。パソコンのシューティングゲームもそうですし、今やっているオンラインのゲーム『World of Warships』もそうですし、最近アニメで定期的に毎クール観ようと思ったのも、その友人が絡んでいますし。今の趣味すべてに友人がどこかしら関わっている気がします」(戸田さん)Upload By 桑山 知之就労移行利用し就職上司「僕らが一番苦手なことができる子」厚生労働省が委託する機関で、各地域に「若者サポートステーション」というものがある。働く意向のある若者と向き合い、職場定着するまでを全面的に支援する機関で、49歳までの就労意欲のある人が対象だ。戸田さんは若者サポートステーションでパソコンについての訓練を受け、その後LITALICOワークスの就労移行を利用。現在、ネッツトヨタ愛知のデジタル推進部に所属し、各販売店で働くスタッフのサポート業務を行う。もう働き始めて2年目だ。「彼と面接したときに一番感じたのが、僕らって物を売る会社なので、対面のコミュニケーションが主になるんですよ。でも彼は逆で、文字のコミュニケーションができる子。僕らが一番苦手なことができる子だろうなって。だからすごく助かっていますよ」(戸田さんの上司)Upload By 桑山 知之「今までの人生においても、対面のコミュニケーションよりも文字情報のコミュニケーションの方が大半占めていますからね。小学校のときは2ちゃんねるをやっていましたし、中高はオンラインゲームでチャット、大学のときはTwitter。弊社ではMicrosoft Teams越しでやり取りすることが多いので、すごく質問しやすいんです」(戸田さん)大学時代につまずいたあの経験を二度としない。情報を整理するのが苦手だという自覚から、メモ帳はジャンルごとに7種類に分けて工夫するほどの徹底ぶり。新型コロナウイルスの影響でオンラインでの業務がより増えたが、自分にとってはむしろ心地いいという。今では文字でのコミュニケーションを主に置き、ストレスなく仕事に励んでいる。「僕はすごく恵まれてます」。戸田さんは、前を向いて笑っていた。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。CM内楽曲GOMESS『COMMON』は各サブスクで配信中取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年11月13日現代病としてさまざまな症状を引き起こす心の病気。なかでも私がかかった双極性障害は、心の病気のなかでも最も治癒率が低いと言われている病気の1つです。どのような症状があるのかについて私の体験を紹介します。双極性障害になった経緯私は16年間介護の仕事をしてきました。21歳のときに夫の金づかいの荒さをきっかけにうつ病になり、通院していましたが、息子が1歳半のときに離婚。一時的に良くなったものの、再婚後、夫との性格の不一致で離婚し、うつ病を再発。それまで通院していた病院では正式な診断名がついていなかったため、紹介状をもらい、現在の主治医がいる病院へ転院しました。もうそのころには最初の通院から10年以上の時間を費やしていました。新しい主治医から「あなたは月にお金はどのくらい使いますか?」と聞かれ、「あるだけ」と答えると、「あなたは躁うつ病だね」と言われました。双極性障害とは?躁うつ病とは、正式には双極性障害と言われる病気です。いわゆる躁と言われる気持ちが高揚している時間と、うつと言われる気持ちが低下している時間が短期的もしくは長期的に続く病気で、薬を飲んでコントロールしないと難しい病気です。私の場合は躁状態になると気分が高揚し過ぎて、暴力行為を起こして何度か警察のやっかいになったこともあり、うつ状態になると仕事に行けなくなったりとずいぶん差がありました。双極性障害と診断されてから薬が変更され、しばらくは2週間に1回通院していました。もともとうつ病だと思っていたので、カウセリングも必要かと思っていました。ですが、躁うつ病にはカウセリングは合わないと主治医から言われため、カウセリングは受けませんでした。躁うつ混合状態で入院することに!あるとき急に怒りっぽくなったり、どうかするとうつ状態でぐったりするようなことが続きました。主治医に相談すると、「ちょっと入院してみようか」という話になり、自分で入院手続きをしました。まだ息子も小学生のころだったので、元夫と実家に入院中の生活計画を作り、そのように動いてもらうようにお願いし、主治医のいる病院へ入院となったのでした。入院中は、4人部屋の大部屋でした。私のように家庭のある入院患者さんはほとんどいない療養病棟でした。入院中はさまざまな検査がおこなわれ、時には脳波検査のように器具を取り付けることで髪の毛がグチャグチャになってしまう検査もありました。その姿を心配してくださった看護助手の方が、入浴日ではないのに「ここで髪の毛洗いなさいよ」と気をつかってくださるなど、大変快適な生活を送っていました。また、介護職をしている私が入院してきたということで、介護業界に興味を持つ看護師から声をかけられることも多くありました。本来であれば3カ月間の治療が必要と言われていたのですが、毎週日曜日に面会に来ていた元夫から金銭的なこともあり、悪いけど1カ月で退院してほしいと頼まれました。主治医と相談し、結局1カ月で退院することに。自宅療養をすることになりましたが、結局数カ月もしないうちに介護職へ復帰することになりました。薬と主治医とうまくかかわることで、症状も安定していき、それまで2週間1回の診察も1カ月になりました。まとめ双極性障害に限らず、心の病気は誰でもかかる可能性があるものだと思います。薬と主治医との信頼関係ができていれば症状が安定し毎日を過ごすことができるので、休むべきときは休み、できるときはやるというふうに自分のペースを守ることが大事だと感じました。私はグレーな状態が嫌だったので3級の精神障害者保健福祉手帳を取りました。手帳を取得して10年ほどになりますが、だいぶラクな毎日を送れるようになり、気持ちもラクになりました。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。
2020年11月08日3歳、言葉が少し出るようになったころの癇癪。今でも記憶に残っている癇癪…今回は3歳のときのお話をしたいと思います。娘は3歳ごろから、少しずつ言葉が増えていきました。しかし、会話でのコミュニケーションはまだまだ難しく、娘のしたいこと、言いたいことを言葉で探るのは至難の業でした。GWのお出かけのときのこと...3歳のGW中のことです。当時、娘は(髪をとかす)くしのおもちゃがお気に入りで、どこへ行くのにも持ち歩いていました。この日のお出かけ時も、持って家を出た娘。家を出て、最初にガソリンスタンドへ寄り、その後、何軒かお店に行った後、娘が急に泣き出しました。Upload By SAKURA大きな声で、泣き叫ぶ娘。私たちは娘がなぜ泣いているかわからず、困り果ててしまいました。癇癪の原因は…当時、自分がしゃべれる言葉を、精一杯使い、必死に泣き続ける娘。Upload By SAKURAその言葉から、くしのことを思い出し、確認してみると、娘が家を出るときに持っていたはずのくしがありませんでした。私たちは慌てて荷物や車の中を探しましたが、見つかりません。Upload By SAKURA3歳当時の娘は、少し言葉が通じるようにはなっていましたが、「いつまであったの?」「どこで落としたの?」という質問には答えられませんでした。どこで落としたか、見当もつきません。私は「くしは諦めて…」と言いましたが、聞く耳をもたず…。癇癪を起し、ひたすら叫び、泣き続けていました。もうこうなったら手が付けられません。私たちは、寄ったお店に戻ることにしました。Upload By SAKURA店員さんに落し物がなかったか聞いたり、商品棚の隙間を探したりしましたが、まったく見つかりません。そして、家を出てから最初に寄った、ガソリンスタンドへ。ここで私は、出発前にごみを捨てていました。もしかしたら、ごみと一緒に捨ててしまったのかもしれない…周りの視線を浴びながら、ガソリンスタンドのごみ箱の中を必死に探しましたが、見つかりませんでした。諦めるしかない…その時…Upload By SAKURAこれだけ探してなかったのだ…仕方ない……なーんて、当時の娘には理解できるはずもありません。探している最中も、癇癪を起している娘のわめき声と、必死になだめている夫の姿が見えます。Upload By SAKURA見つからなかった…という結末は、避けなければならない…絶対に見つけないといけない!最後の望みをかけ、ガソリンスタンドの店員さんに、くしの落し物がなかったか聞きに行きました。私の切羽詰まった状況が伝わったのか、スタンド内を探してくれた店員さん。そして…Upload By SAKURA店員さんの活躍で、無事くしが見つかり、娘の癇癪をおさめることができたのでした。娘の持ち物は、「持っているか」をこまめにチェック。もちろん、なくして困るものは、持っていかないのが一番いいのですが、「持っていきたい」というのも、娘のこだわり。このころは、置いていくよう説得しても通じず、無理やり取り上げるとさらに癇癪を起してしまいました。私たちにできるのは、娘が外出時持っていくものが、ちゃんとあるかどうかを、こまめに確認することでした。この件があって以降、私たち夫婦は、娘の持ち物に関しては注意するようになり、娘が持ち物から手を離した時は、すかさず自分たちで保管し、こっそり管理するようになりました。Upload By SAKURAそして、持っていったものがなくならず、無事に帰宅した時は、2人でほっと胸をなでおろしていたのでした(笑)Upload By SAKURA続く…
2020年10月28日娘の癇癪、今でも記憶に残っていて...言葉が出るのが遅かった娘は、2語文が出たのは3歳前…。それでも会話はほとんど成立せず、会話でのコミュニケーションが取れるようになったのは4歳ぐらいでした。2歳半の頃は、まだ単語も2、3語しか出ず、コミュニケーションもほとんど取れない状態でした。娘の癇癪がもっとも酷かったのは、2歳半~4歳のときでした。その中でも、記憶に強く残っているお話をしたいと思います。2歳、言葉がほとんど出なかった時の癇癪。娘が2歳のときのことです。私たちはお昼ご飯を食べようと、うどん屋さんに行きました。お昼時だったこともあって、お店はとても混んでいて、行列が外まで続いている状態でした。長く待つことになると思った私たちは、うどん屋さんに入ることは諦めて、近くにある定食屋さんに移動することにしました。Upload By SAKURAその時、突然娘が大きな声で泣きわめき、暴れだしたのです。私たちは娘がいきなり泣き出した理由がわからず、どこか痛いのかと心配になりました。下におろすと、娘はうどん屋さんに向かって走りだしました。Upload By SAKURA違うお店でご飯を食べることを説明しても娘には伝わらず、うどん屋さんのドアに手をかけて、放そうとしません。結局無理やり抱きかかえて、定食屋さんの方へ歩いていくことにしました。定食屋さんに着くと、娘は急に大人しくなり、黙って店の中に入っていきました。癇癪の原因は…Upload By SAKURA私たちはそこで初めて、娘は「せっかく来たお店から離れたために、ご飯が食べられないと思って泣いていた」のだと気がつきました。Upload By SAKURA私たちは当時、発達障害の子が突然の予定変更を苦手とすることや、そのことでパニックを起こすことも知りませんでした。当時の娘は、言葉でコミュニケーションをとることができなかったので、どうしたのか話してくれず、突然癇癪を起こしたことで夫婦そろってただただ動揺し、困り果てたのを覚えています。Upload By SAKURA一度、娘が認識した予定は変えない。私たちは突然の予定変更が娘にとって苦痛であると身をもって体験しました。それから、外出に関しては気をつけるようになりました。Upload By SAKURAそのうちに、一度決めた予定を変更すると癇癪を起こす娘も、行く先がわからない状態での外出には動じないことがわかりました。そのことがわかってからは、行く先のことを事前に悟られないように気をつけ、一度娘が知ってしまった予定は変更しないように心がけるようになりました。原因を探って、回避!言葉が通じない…会話でコミュニケーションが取れない…表情もほとんどかわらない…そんな時期の娘の癇癪は、とにかく対処法がほとんどありませんでした。私たちにできたのは、パニックが起きる状況を覚え、そして予測し、回避することでした。娘が何を見ているか、どこへ行くつもりになっているかなどを神経質すぎるぐらいに見極めることが、当時の私たちには必要とされていたのでした(笑)Upload By SAKURAここから少しずつ表情がわかりやすくなったり、言葉が増えたりしていきますが、癇癪とは引き続き付き合っていくことになります。続く…。
2020年10月21日娘が発した「発達障害だから無理」の一言に、怒りがこみ上げて...前回の続きです。広汎性発達障害の娘が、言った「発達障害だから無理」という言葉。ここまで、難しいことも、やり方を変えながら娘と一緒に頑張ってきた私にとって、この言葉は使ってほしくない言葉でした。私はこの言葉に対して、つい感情的に「言い訳にして、最初から諦めたら駄目だよ!」と言ってしまいました。冷静になってから、言葉を言い換えて、「いろんなことが時間をかけて、できるようになったんだよ。だから最初から諦めないでほしい。」という説明をしました。諦めてほしくはないけれど、追い込みたくもない。私は、娘がこれから先、「発達障害だから諦める」という考え方をしてほしくないと思っていました。Upload By SAKURAしかし、娘にとってそんな私の思いは重荷になるかもしれない…私は娘の逃げ場を奪う言葉をかけてしまったのではないか…Upload By SAKURAそう思うと、私は娘にどういう言葉をかけることが正解だったのか、自分の思いもあわせて、わからなくなっていきました。娘の気持ちは・・・?気になるけれど・・・その後、娘は「発達障害だから無理」とは一切言わなくなりましたが、もしかしたら、言わないように我慢しているのではないか…とだんだんと心配になっていきました。Upload By SAKURA言ってほしくないといったのは自分なのに、言わなくなった娘の心境が気になり、矛盾した感情が渦巻いていました。娘の変化。そんなやり取りから1週間ほど経った、ある日のこと。テレビで『発達障害』の文字を見つけた娘は…Upload By SAKURAその人がどんな特性があるのかを気にしたり、自分との違いを見つけたりしました。その目は、真剣でした。娘にどのような心境の変化があったのかはわかりませんが、私は、娘の中で『発達障害』の捉え方が少し変わったように感じました。もしかして、私がモヤモヤ考え悩んでいるうちに、娘は自分の中でどんどん変化していっているのかもしれないと思い、しばらく見守ることにしました。予想してなかった自己肯定。それから数か月経った、ある日のこと…Upload By SAKURA娘は発達障害がある自分のことを、自己肯定をしたのです。私は嬉しくなりました。自分のことを「すごい子」だと言える娘のことを誇りに思いました。それから私は、いつも思っていることを言いました。Upload By SAKURAそう言った、娘の表情は、輝いて見えました。常に寄り添っていく。発達障害告知前は、どう言ったらいいかを悩み…告知後は、どう捉えていくかを心配…きっと、ひと段落着いたように思っている今も、次の何かが起きる過程の期間なのでしょう。Upload By SAKURA告知したから終わりではなく、これから先、娘が自分を肯定し続けられるよう、私たちは寄り添っていかなければならないと感じました。
2020年10月14日私には現在小学3年生の長男がいるのですが、発達障害であるADHD(注意欠陥・多動性障害)の診断が下りたのは小学校2年生のときでした。さらに3年生になった今年、自閉症スペクトラムの診断が下りたのです。私は、小学生になるまで長男の障害を見つけてあげられなかったことを後悔。乳幼児健診のとき、こうしておけばよかった! と思ったことをお話しします。 1歳半健診では育てにくさを伝えられずハイハイをし始めたころから活発な長男でしたが、1歳になるころには多動が目立ち始めていました。他の子とちょっと違うなと感じつつも、気にするほどでもないと思うなかで、1歳半健診の日を迎えました。 1歳半健診の質問項目に「育てにくさを感じますか?」とあったのを見て、一瞬戸惑う私……。買い物先や支援センターでよく脱走し、かんしゃくがひどいことに悩んでいたからです。 しかし育てにくいレベルに入るのかわからず、悩みながらも「いいえ」にマルをしたのです。このとき「はい」または「わからない」にマルをしていれば、支援に繋がったのかなと思います。 3歳児健診でも育てにくさを伝えられず!その後長女が生まれ、育児に奮闘しているうちに年月が経ち、長男の3歳児健診の日を迎えました。3歳になるころにはお喋りもじょうずになり、手先も器用になってきていた長男。一方で相変わらずかんしゃくが酷く、2歳下の妹を叩いてしまうこともしばしば……。 しかし私は3歳児健診での問診票でも、「育てにくいですか」の質問に悩み、「いいえ」にマルを付けてしまったのです。さらにあらかじめ相談内容を固めていなかったため、悩みをどう伝えたらいいのかわからず健診は終了。私はまたもや悩みを伝えられないまま、健診をスルーしてしまったのです。 次男のおかげで保健師さんに相談でき…3歳児健診を過ぎると、市の乳幼児健診の場はありません。仕事が忙しくなったこともあり、日々の家事、育児をこなすだけで精一杯の私……。そして長男が小学校に入るころ、転機が訪れました。わが家に次男が生まれたのです。 育てやすい次男ですが体が小さく、4カ月健診で経過観察となってしまいました。おかげで市の保健センターから、よく電話がかかってくるようになりました。長男のかんしゃくに悩んでいた私は、すがるように保健師さんに相談することに! すぐに専門的な相談施設を紹介され、小学2年生になったころにADHDの診断が、さらに1年後に自閉症スペクトラムの診断が下りました。 長男の幼児期を振り返ると、後悔するのはやはり乳幼児健診で悩みを伝えられなかったことです。伝えるべきか迷う程度の悩みでも、困っているなら相談するべきだと思いました。今では主治医や臨床心理士さんに相談しています。次男が3歳児健診を迎えるときには事前に悩みをリストアップし、細かく相談したいと思っています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 ベビーカレンダーでは、赤ちゃん時代を卒業して自己主張を始めた2~6歳までの子どもの力を伸ばし、親子の生活がもっと楽しくなる【キッズライフ記事】を強化配信中。今よりもっと笑顔が増えてハッピーな毎日なりますように! 監修/助産師REIKOイラストレーター/みいの著者:河津明香2男1女の母。旅行代理店勤務をしながらの育児を経て、フリーランスのライターへ転身。現在は発達障害の長男のサポートをおこないながら、旅行・育児・生活雑貨などの記事を中心に執筆。
2020年10月12日「先生、ウソつき…」小2で不登校、診断は広汎性発達障害Upload By 桑山 知之「♯見えない障害と生きる」連載3回目となる今回、愛知県名古屋市の高校に通う森本陽加里さん(18)と母・奈生子さん(47)に話を聞いた。陽加里さんが小学2年の頃、上級生が下級生に嫌がらせをする「いじめ」が校内で起きていた。「いじめられている子がいたら守らなくてはいけない」と先生から言われていた陽加里さんは、その教えの通り友達を助けた。しかし標的がすぐさま陽加里さんに変わってしまったため、先生に相談したという。「(自分が)やられるようになったから、『助けろ』って言ってた先生に『助けたらいじめられました』って言ったら最終的に『自分の身は自分で守りなさい』とか言われちゃって。先生、ウソつき…ってなっちゃいました」(陽加里さん)慕っていた先生からの心ない言葉に失望。それから学校への足取りは重くなり、不登校になった。着替えることも食事を取ることもままならず、授業時間中は自宅で録画した吉本新喜劇の同じ回をひたすら見続けたり、韓国海苔をかじりながら国会中継を眺めていた。一方で、日が落ち始めると異常なまでに元気を取り戻していたと母・奈生子さんは振り返る。「その頃はもう夜が寝れなくて。今思うとおかしかったですよね。ベッドの上で寝る時間になるとピョンピョン飛び跳ねて『キャー!』とか奇声発したり……。多分、次の日に学校があるっていうプレッシャーで寝れないんでしょうけど、もう興奮状態になっちゃってて。それで心療内科に通い出して、睡眠導入剤をもらって寝かせてました」(母・奈生子さん)その後、陽加里さんは広汎性発達障害という診断を受けたのだった。Upload By 桑山 知之娘が見た母の涙と変化二人三脚で生きる矛盾したことに折り合いをつけて進めていくことや、人の表情や言葉の真意を理解することがうまくできなかった陽加里さんは、通級で社会性を身に付ける「ソーシャルスキルトレーニング(SST)」を始めることにした。さらに母・奈生子さんは、文献を読みあさり陽加里さんの特性を理解したうえで「スモールステップ」を始めた。目標を細分化し、小さな目標を達成する体験を積み重ねながら、最終目標へ近づけていく方法だ。「着替えができないなら『着替えをしましょう』じゃなくて、例えばパジャマを脱ぐ、自分が着るものを持ってくる……ってやっていくと、行動ってすごく細かく分かれるんですよ。全部完璧にできなくても『今日はパジャマ脱ぐとこまで自分でできたじゃん!』って褒める。『じゃあ服はお母さんが着せてあげるわ』とか。そういう感じで細かく行動を分けていって、達成できたらまずそこで褒めるんです」(母・奈生子さん)「着替えることができないって思ってんの?って。今までパジャマを脱いだだけで褒めてもらったこともないのに、何を褒め始めてるんだ?って思って最初は嫌でした(笑)。でも根気よく向き合ってくれて、お母さんすごいなって思います」(陽加里さん)最初は陽加里さんも、対応が急に変わり、事あるごとに褒めてくる母・奈生子さんの姿に動揺した。しかし、奈生子さんによる小学校への働きかけなどもあり先生はバックアップ。「今日はここで僕とハイタッチしたからOK。明日は校門まで入ろうね」と、カレンダーに目標を書き込み、達成できたらスタンプを押すなど、歩みを揃えてくれたという。陽加里さんは少しずつできることが増えていき、再び通学できるようになった。Upload By 桑山 知之実は発達障害の診断が出る前、母・奈生子さんは陽加里さんの目の前で声を上げ大泣きする姿を見せていた。当時、思うようにできない子育てのストレスから心は限界に。「二人でどこか遠くまで行ってしまおうか」と思うくらい切羽詰まっていたという。しかしその後、奈生子さんは「娘が発達障害だと言われ、道が開けた」と話す。「今までの怒りはこの子のために怒ってたんじゃなくて、全部自分のために怒ってたんだ……って。それまでは、この先この子と生きていく術はないと思って、どこか田舎で学校行かなくても暮らしていけるようなところへ引っ越した方がいいんじゃないかとか色々考えてて。でも発達障害なら手があるじゃんと思って。自分の感覚や常識がこの子にスッと入るものだと思って育ててきてたから、発達障害って分かった瞬間に、ここを切り離そうと思ったんです」(母・奈生子さん)「娘のために時間を掛ける」と決めた母・奈生子さん。スモールステップを献身的に実践したほか、選択肢を与え本人に選ばせる方法を取った。自分の思うように娘が行動しなくても、決して怒らずに諭すような形で、自分の状況や事情も相手が理解するまできちんと説明した。こうした奈生子さんの変化に対し、陽加里さんは「人間味を感じた」という。「まず、親は泣かないものだと思ってたので、『あ、泣くんだ……』って。そのあとくらいから、お母さんが変わったなっていうのは分かりました。今までの人と違う!って思うぐらい違いました。人間味が増したというか、納得感がありました。『お母さんは今こういう状態にあって、こういう風に私にしてほしくて、でも妥協案としてこういう案があって、どっちか選ばせてくれるんだ』みたいに」(陽加里さん)Upload By 桑山 知之中学で2度目の不登校に陽加里さんは中学入学後、最初のテストで数学の学年順位はなんと1位、学級委員も務めるなど順調すぎるくらいの滑り出しだった。土日はダンスにも打ち込んだ。しかし程なくして、仮入部したバスケットボール部で先輩から目を付けられた。やがて再び不登校となったが、高校へは進学したかった。小学校時代の校長先生の「中学校は行くことを目的とするんじゃなくて、高校へ行くための手段にしなさい」という言葉もあり、中学2年のときに愛知県内の私立高校がブースで学校説明をするイベントに参加した。そこで名城大学附属高校という学校に出会う。「名城のブースの人に今の状況を説明したら、『今から頑張れば大丈夫だよ』ってすごくポジティブに言ってくれて。おいでみたいな感じに言ってくれたから、ここ素敵!って思って。その後オープンキャンパスで国際クラスの説明のときに、探究活動で自分が興味のあるテーマを調べて、プレゼンテーションをするっていうのがあったんです」(陽加里さん)関心事を自由に深掘りする。好奇心の強い陽加里さんにとってぴったりなカリキュラムだった。しかし推薦でしか入学できないことを知り、母・奈生子さんは最大何日欠席したら推薦が貰えないのかなどを調べ上げ、陽加里さんの目標までの道のりを具体的に細かく描いていった。学習塾にも通いながら、無理をしすぎないよう適度に休みを入れた。前例がない中で無事に推薦をもぎ取り、志望校へと進学した。入学後はカナダやニュージーランド、バリ島での海外研修にも参加。「遅刻や早退、欠席の数はギリギリ」だと奈生子さんは苦笑するが、娘の成長ぶりを肌で感じているのは間違いないだろう。Upload By 桑山 知之発達障害でも通える学校とは…ビジコン壇上でカミングアウトもし高校に進めなかったら起業していたと話す陽加里さん。学校に毎日行けず、将来社会人になっても毎日同じ時間に同じ場所へ行くのは難しいと感じていたようだ。それをふと高校1年の終わりに思い出した。「高校は楽しいんですけど、起業したい思いは抜けてませんでした。じゃあ何で起業するんだろう?って思って。そこで、海外研修はそれぞれテーマを設定してたんですけど、全部それを『特別支援教育』でやってたから、自分はなんとなくその辺に興味があるんだなって思って。それで『あっ、発達障害が自分にあるから、多分そこ(学校教育)が気に入らないんだろうな』みたいな」(陽加里さん)コミュニケーションがうまく取れない。感覚過敏があり、チャイムの音や朝日の眩しさが苦しい。数えきれないほどの我慢をしながら、陽加里さんは学校に通っていた。「しんどかった自分が行ける学校ってどんな学校だろう」「行きたいって思える学校ってどんな学校だろう」と考えた。そして“発達障害の悩みを抱える生徒らを支援するアプリ開発”というビジネスプランを携え、高校生ビジネスプラン・グランプリ(主催:日本政策金融公庫)に出場。悩んだ末に勇気を振り絞り、これまで隠してきた自身の発達障害を壇上でカミングアウトした。「自分に発達障害があって、それが自分の中できっかけになったっていうことを言おうか言うまいか、めっちゃ悩みました。でも、私が喋りたいことを喋ろうって思って。このアプリに対しての想いはこういうところからあって……っていう筋がちゃんと通った話をしたいと思いました」(陽加里さん)Upload By 桑山 知之自分自身を差別していたあの頃…いまは「ご褒美の人生」陽加里さんはビジネスコンテストの壇上でカミングアウトする前、友達数人には直接伝えていたという。「陽加里は陽加里だから」。そのときの友人らの言葉に涙が止まらなかった。「初めてお母さんから発達障害について説明されたとき、『あっ、違うんだ』って悲しかったんです。自分で自分を差別してたっていうか、自分のことを発達障害って重荷に感じてて。友達に言うときも、発達障害って言葉をこの子の前で口にしたらどうなるのかな……とかすごく思いました。でも、一番気にしてたのは自分でした」(陽加里さん)コンテストの結果は審査員特別賞だった。地元紙でも大きく報じられた。陽加里さんの障害を知ったクラスメイトも、泣きながら抱きしめてくれたという。Upload By 桑山 知之現在、学校生活における発達障害児の生きづらさをなくすアプリ「Focus on」は実装に向け開発中で、このうち個人カルテの機能だけを別立てした「Focus on《mini》」がすでにリリースされている。そんな陽加里さんの「なりたい女性像」は、母・奈生子さんだという。いま、発達障害がある自分についてどうか訊くと、間髪入れず目を輝かせながらこう答えた。「めちゃ良かったと思います。だって、なんかこんなに色んな経験することないから。お母さんにもずっと言われてるよね。 “ご褒美の人生だね”って」(陽加里さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年10月04日告知後の質問には、とことん答える。広汎性発達障害の娘は、現在小学4年生。私たちは、娘が小学4年生になる少し前(小学3年生の時)に、発達障害の告知をしました。告知時、娘は思ったよりあっさりとしていて、説明は意外にもスムーズに終わりました。しかしその後、何度も発達障害について聞くようになった娘。私たちは、娘が発達障害について聞いてくる限り、答え続けました。たとえ同じ質問でも、娘からの言葉を全て受け止めることが、娘が発達障害を受け入れるまでの大切な過程だと思っていたからです。Upload By SAKURA私たちの言葉は、娘の自分の発達障害に対しての受け止め方に、きっと大きな影響を与える…娘がどういうかたちで「発達障害」を受け入れるか気になっていた私は、一つひとつ言葉を選びながら答えました。気になっていたのは、障害の受け入れ方。私が気になっていた、娘の「発達障害の受け入れ方」。それは、主に、発達障害を、いろんな「できない」の言い訳にしてしまうのではないか…チャレンジする前に、いろんなことを諦めてしまうのではないか…という部分でした。Upload By SAKURAもちろん、告知時にそう捉えないための説明は丁寧にしたつもりですし、マイナスに捉えないために明るく話すという努力はしました。しかし、娘本人がどう解釈したか、奥の部分は私にはわかりません。もし、今後娘が苦手なことに直面した時に、発達障害であることを言い訳にしてすぐ諦めてしまったら、私はどう話してあげればいいのか…ずっと考え続けていましたが、まったくいい考えが浮かばず…Upload By SAKURAその時がこないことを祈りながら、娘の様子を見ていました。「発達障害だから無理」の言葉に、思わず…それからしばらく経ち、娘が小学4年生になった、ある日のこと。宿題の間違いを直すようにいうと、イライラした娘が…Upload By SAKURA「私は発達障害だから間違っちゃうの!無理なの!」と言いました。私は瞬間、お腹の底から気持ちがこみ上げるような感覚になり…考えるより先に言葉を発していました。Upload By SAKURA自分でも驚くほど、次々と口から出てきた言葉。言った後、私はハッとしました。何か変なことを言ったのではないか…娘に強く言い過ぎたのではないか…慌てて自分の頭の中で、今言ったことをリピートしていました。予想外の自分の言動に、自分でパニックになっていました。親としての切実な思い。娘は少し黙った後…「わかった」と言いました。Upload By SAKURA私は、思ったより自分が強く言っていたように感じ、娘に申し訳なくなりました。なぜあんな言い方をしてしまったのだろう…冷静になって、自分の言ったことの真意を考えると…Upload By SAKURA私はきっと、娘が言った「発達障害だから、無理」という言葉に、腹が立ったのだとわかりました。発達障害でも、できないことはないと、娘と共に頑張ってきた日々…方法を変えてクリアしてきたことを思い出して、「発達障害だから、無理」という言葉に対して、強く『それは違う!』と思ったのです。これまでもこれからも私は娘の成長を信じているし、家族はもちろん学校や放課後等デイサービスの先生たち、娘に関わる人たちもたくさん支えてくれる。周りの力も借りながら、自分の可能性を否定せずに成長していってほしいのです。話をしてみたものの…私は、落ち着いた後、娘ともう一度話をすることにしました。Upload By SAKURA落ち着いていた分、今度は丁寧に説明できました。娘は「わかったよ。大丈夫。」と言いました。その表情は、いつもと変わりませんでしたが、私は、自分の言葉が娘の価値観や考え方を思わぬ方向に持っていってしまったのではないかと、心配になりました。私の「諦めないで欲しい」という思いは、娘にとって重くなるのだろうか…娘に無理はしてほしくないけど、諦めないで欲しいというこの思いは、もしかしたら自分勝手すぎるかもしれない。そう思うと私は、なんと言葉をかけることが正解だったのか、再び考え込んでしまうのでした。【続く】
2020年09月23日息子の友人、おじいさんに席を譲られた!息子が特別支援学校高等部の頃のことです。子ども達が同じ放課後等デイサービスに通うママ2人と私とでお茶をしました。息子(17歳)は自閉症、A君(16歳)、B君(18歳)にはダウン症があります。小学校の頃から同じ放課後等デイサービス、同じ特別支援学校高等部に通っていました。10年以上の長い付き合いなので、結構突っ込んだ会話もドンドンできる気の置けない関係です。Aママ「ちょっと聞いてよ。この間、息子がバスで立っていたら、おじいさんに席を譲られそうになったらしいの」(A君は、当時、一人で公共のバスを使って下校していました)私「それで、本人はどうしたの?」Aママ「『いいです!』って断ったみたい。この話を息子から聞いたとき『やっぱ、“世間からは障害者だから大変だ”って見えるんだ~』と思い、悲しくなったよ!」Bママ「うちの子だったら、きっと『ありがとう!』」と言って席に座っちゃうかも!」私「外見から『障害がある』と分かるのも、理解してもらいやすいと思うから、私はうらやましいよ。本人が言葉に出したり積極的に伝えようとしなくても、周囲の人がSOSに気づいて、救いの手を差し伸べてもらいやすいでしょう。うちは見た目ではわからないから、バスの中で奇声を発したり、落ち着かないと怒鳴られてしまい、それでまたパニックを起こして…」Aママ「そうなのかあ…」もちろん、ダウン症のある子にも知的重度、軽度があり、身体面でも心疾患があったり、身体が弱い子もいたりします。そんな知識があって、おじいさんは「席を譲ろう」と思ったのかもしれません。でも、A君は元気一杯の子でした。このことを実家の母(80歳)に話したら「私だったらダウン症の子がいても席は譲らない」と言っていました。人それぞれです。「普通」として扱われる見た目ではわかりにくい発達障害児は、ぱっと見は定型発達のように見えます。息子は知的障害がある自閉症(IQ37 療育手帳3度)ですので、グレーゾーンではありません。それでも、「障害があるので色んなことが難しくてできないので宜しくね」とママ友に伝えても、容姿を見て「そんなことないじゃない、普通じゃない、しっかりしているじゃない」と数えきれないくらい言われました。誤解もある・NHKの番組で放送していたのですが、成人しているダウン症のタレントさんが居酒屋でビールを頼んだら「ビール飲ませても大丈夫なのかな」と店主が悩んでいたそうです。(年齢ではなく、「ダウン症の人にアルコールは大丈夫なのか」と思ったようです)・心疾患があり、4歳の子をバギーに乗せていたママ。「まあ、立派な足があるのにお嬢ちゃん、ママに甘えないで歩かないとダメよ」と言った見知らぬ人から言われていました。・内部疾患(心臓機能障害、腎臓機能障害、呼吸器機能障害)があるため電車の優先席に座っていた若者に対して「年寄りに譲りなさい」と言わんばかり前に立っている年配者がいました。(ヘルプマークを付ける方法もありますが、まだ世間には浸透していません)障害特性はあるけれど、性格はみんな違う「自閉症の子は秘めた才能がある」だとか「ダウン症の子はピュアだ」とか「これこれこういう障害の子は○○である」と思われていることがあります。確かに障害による特性はありますが、そんな型にはまったものではないと思います。何故なら、みんな一人の人間ですから…。生まれ持った気質や育った環境で全く性格が違ってきます。そんなことを感じたママ友との会話でした。同時に、「こんな突っ込んだ話が出来るママ友がいることは幸せなことだ~」と感じたお茶の時間でした。
2020年09月22日20代半ばで知った広汎性発達障害…診断を受けたのは就職後Upload By 桑山 知之「♯見えない障害と生きる」連載第2回は、愛知県名古屋市でグラフィックデザイナーとして働くノビさん(38歳・男性)に話を聞いた。ノビさんは愛知県内の大学を卒業後、印刷会社のデザイナーとして就職した。しかし、ある程度のカリキュラムをこなしていれば一定の評価を得られる学生時代とは違い、入社後ほどなくして壁にぶち当たった。「手が遅いんです。仕事にも時間がかかって、すごく残業してたんです。先輩に『そこまでやんなくていいよ』『うまく手を抜けよ』って言われるんですけど、手を抜くと肝心なところをすっ飛ばしちゃったりして、めちゃくちゃ怒られる。『うまく手を抜く』、その“うまく”ができなかったんです」その後、仕事を辞め個人でデザイナー業を始めようとしたが、それも失敗した。どうにもうまくいかなかった。何かがおかしい。そんな折、大学時代に同じゼミだった友人と再会する機会があった。彼は発達障害だった。「多分お前もそうだと思うから、診断受けてみろよ」。そう言われるまま、ノビさんはクリニックに足を向けた。そこで、広汎性発達障害という診断を受けた。20代半ばだった。発達障害の診断は「許されたような感じがした」Upload By 桑山 知之ノビさんは学生時代、勉強こそ多少できる方だったが、算数だけは異常に出来が悪かった。そして何より、誰かと一緒に何かをやるという楽しみがあまり理解できなかった。「大学時代の友達に久しぶりに会ったら、『学生のときは修行僧のようだった』と言われました。自分の中で正しいと思っていることは譲らないというか、会話を楽しんだり雑談が苦手というか…」思い返せば、幼いころから対人コミュニケーションには難があったノビさん。保育園ではみんながジャングルジムで遊んでいるのを見て「何が楽しいんだ」と思っていた。中学・高校では、仲の良いグループ以外の人間とはほとんど親しくすることができなかった。複数のコミュニティをまたいでいる友人は輪を広げていき、それに乗っかることができなかったノビさんは、やがて遊びに誘われる機会が減っていった。だが20代半ばで発達障害の診断を受け、心が穏やかになったという。「どちらかというとポジティブに受け止めたところがあって、正直ホッとしたんですよ。コミュニケーションもうまくいかなかったことが多くて、自分の努力が足りないとか、自分に責任があると思ってたんですけど、『障害です』『先天的なものです』って言われたときに、なんかこう許されたような感じがしたんですよ」Upload By 桑山 知之3歳児検診で「傾向あり」…伝えてほしかった発達障害というのは、“見えない障害”である。それゆえ、親が自身の常識や価値観を押し付けてしまい、子どもが苦しんでしまうことがままある。発達障害の特性が少しずつ見えてくるのは、3歳児健診であったり、幼稚園や保育園などといった集団生活であることが多い。早期に我が子の特性を理解したうえで親が接していくことで、併発しがちな二次障害を防ぐこともできるだろう。ノビさんは、診断について家族に対し思い切って打ち明けてみた。すると意外な言葉が返ってきた。「けっこう自分としてはそれなりに覚悟を持ってカミングアウトするつもりで、あるとき折に触れて話をしたんですよ。そのときの母の反応が、『あぁ、なんかね、そんな感じだよね』みたいな。なんかそんな気がしてたっていうノリだったんですよ」実はノビさんの母は、おそらく3歳児検診の際、「発達障害の傾向がある」と指摘されていたという。ただ、その段階では保育園で友達と揉めているなどの問題が起きていたわけではなかったため、様子を見ようということになり、そのまま進学、就職まで至ったらしい。その過程でも時折、例えば高校の進路を決めるときには自然がいっぱいあるところがいいんじゃないかという「謎の提案をしてきたこともある」と回顧する。Upload By 桑山 知之「(発達障害かも知れないと)わかってたんならもうちょっと何かこう、訓練とか何かあったんじゃないの?こっちはそれなりに苦労してるんだよ?っていうモヤモヤとした気持ちはありましたね。親は自由な考え方なので、こうじゃなきゃダメとか、レールを敷くような感じは全然なくて、放任主義なんです。それはそれでよかった部分もあるんですけど、もっと関わりがあってもよかったかなと。関係性が薄かったんです」我が子に発達障害かも知れないと伝えることのストレスは非常に大きい。ひょっとしたらノビさんの母はあえて“伝えない”という形を選んだのかも知れない。またそれは我が子を思っての選択だったのかも知れない。しかし成人後、ノビさんは確かに生きづらさを抱えてきた。これはあくまで結果論ではあるが、子どもが生活するうえで違和感を覚えていないか、親はアンテナを張っておく必要があるのかも知れない。再就職失敗、そして離婚…挫折から人の気持ちが分かるようにUpload By 桑山 知之“修行僧”のようだった大学生のころから、ノビさんには恋人がいた。「恋愛偏差値が低すぎた」ため、彼女の方からグイグイと来てくれたのがよかったという。やがて社会人になり24歳で結婚。しかし、個人での事業もうまくいかず、再就職を決意した。「新卒の就職活動と違って、再就職はレールがあるわけではない。面接で自分は必死にアピールしてるつもりでも、面接官から『お前さぁ、今のままでいいと思ってんの?』と説教されて帰ってくる。そうすると、夜の公園でブランコにもたれながら泣いちゃうんですよ。『何やってんだ自分は』って。抑えきれなかったんです」自分自身にそこまで感情の起伏がないため、他人の気持ちが理解できなかったノビさん。人が泣いているのを見ても、本当なのかと疑っていたという。しかし、再就職での挫折を受け、思わず涙をこぼす日々が続いた。それとほぼ同時に、離婚することになった。「本当に胸が潰れるような気持ちをそこで初めて経験しました。あのとき、あの人たちが言っていたつらい気持ち、苦しいとか悲しいっていうのはこれなんだというのが、そこで初めてわかったんです。今までは“自分の中での正しさ”を大事にしていたんですけど、“相手がどう思っているか”を大事にした方がコミュニケーションがうまくいくんだなって」発達障害の僕が生きるための“工夫”診断を受けたことで就労移行につながり、そのままその運営会社に就職したノビさん。現在はさまざまな受託事業のチラシを制作するデザイナーとして活動している。聴覚過敏で特に気になる「人のガヤガヤ声」を遮断するため、最近ではライフル射撃の選手が使うような耳栓をしているという。「努力というよりは、工夫するって感じですね。僕は発達障害以外にもてんかんの持病があって、薬を1日4回飲まないといけないんです。そこで、薬を1錠飲んだら、右腕から左腕にこのブレスレットを1本移していくんです。忘れないようにするっていう努力だとつい忘れちゃうので、仕組みを作るようにしました。このルールを伝えている人なら『朝飲んでないんじゃないの?』とか指摘をしてくれるんです。『この時間は全部左腕にないとダメなんじゃないの?』みたいな」つい忘れてしまうのであれば、仕組みやシステムを変えて、工夫する。診断を受け入れたからこそできる行動だ。他にも、仕事のタスクを付箋で貼っていく中で、優先順位が上がるとその付箋の位置を変えていくことで、見過ごさずに取り組めるといった方法を紹介してくれた。「前にインターネットで見た呟きで、すごいグッと来たものがあって。『みんなすごく我慢してるんだからお前も我慢しろ』って、よくあるセリフじゃないですか。でも、みんなが我慢してるんだったら、システムが悪いでしょって。障害って、みんなが当たり前にできることができないからこそ、“工夫”でなんとかしようと思ってます」Upload By 桑山 知之取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年09月03日約600名が参加!イベントの様子を紹介Upload By 発達ナビニュース2020年7月10日、「発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する~コミュニケーション支援のための6つのポイントと5つのフォーカス~ 」の出版記念イベントをオンラインで開催しました。イベントには、書籍の執筆に関わったLITALICO研究所所長の野口晃菜ほか著者・編集者4人が登壇し、オンライントークセッションを行いました。このイベントには、約600名がリアルタイムで参加。発達障害がある子どものこれからの支援について、関心の高さがうかがえるイベントとなりました。なぜ、この書籍を書こうと思ったのか?Upload By 発達ナビニュース本書の企画から編集までを務めた野口晃菜さんはイベント冒頭で、「本を書くのが苦手で、様々な書籍の執筆の依頼を断ってきました(笑)」と、話しました。そんな野口さんが、今回書籍を企画からやろうと踏み切った理由は3つあるとのことでした。1つ目は、「障害のある人のコミュニケーションの困難さはどこにあるのか?」を発信したいこと。本来、コミュニケーションは「双方向のやりとり」であるため、障害のある人のみに原因があるわけではないはず。それを多くの方にこの書籍を通して知っていただきたいということ。2つ目は、野口さん自身が尊敬している支援者と彼らの支援・取り組みについて知ってもらいたいという想いから。本書では、その7人の支援者が、それぞれの専門性からの支援の事例を紹介しています。3つ目は、発達障害の子どもの支援には、非常に多くの専門家・支援者が関わっているが、共通言語がなく、それぞれの専門性が活かしきれていないという課題感から。本書はこのような想いをもとに、高い専門性がありながらも、誰でも読めるようなわかりやすさがあり、コミュニケーション支援における共通言語と共通のポイントをまとめてあります。イベントでは、著者編集者自らが、自らの専門性に基づき、一歩進んだコミュニケーション支援をするための共通のポイントについて語りました。著者らが大切にしているコミュニケーション支援のポイントとは?Upload By 発達ナビニュースパネルディスカッションでは、本書のサブタイトルにもなっている「6つのコミュニケーション支援のポイント」について、4人の登壇者が自身が特に大切だと思っているポイントを選びトークが繰り広げられました。Upload By 発達ナビニュース緒方さんは6つのポイントの一番最初のポイント”「わからないから知りたい」からスタートする”を選択しました。全ての支援のはじまりになるのは、「この子が何をどう感じているのか?」「その子のこともっともっと知りたい」「お子さんや親御さんは何が大変なんだろう?」という想いがやっぱり大事。親御さんやお子さんが歩んできた歴史を理解したうえで、支援をするということを大切にしていきたいと話しました。Upload By 発達ナビニュース野口さんが選択したのは”誰かに原因を求めても解決しない”でした。「人間、うまくいかなかったとき、どうしても誰かのせいにしたくなる」自分自身もうまくいかなかった時に、子どもや関係者のせいにしたことがあるという野口さんですが、誰かのせいにしてもうまくいくわけではなく、自分が変わらなくてはいけないと気付いたとのことです。自分に対しても同じで、ただ自責しても良い支援ができるようになるわけではないとも話しました。そんな時大切にしているのは、その人の中に原因があるのではなくて、その人と、その人を取り巻く環境の相互作用の中に何かのズレが発生しているという考え方だと言います。Upload By 発達ナビニュース陶さんは全てのポイントが大切だと言いつつも、”キラキラポイントに目を向ける”を選択。「困難を切り抜ける時、キラキラしていることで切り抜けてきている」これは、これまでの支援の経験の中で、利用者から教えてもらったとのこと。生きていくとはそういうことだとも言います。子どもだけの力、先生・親御さんだけの力では難しく、みんなでキラキラするポイントを環境調整して引き出すように支援していくことが大切ではないかと話していました。Upload By 発達ナビニュース井上さんは、”チームで支援する”を選択。お子さんが感じていることのサインを、チームで見逃さないこと。そして、お子さんの本当に伝えたいことは何なのかをチームで考えることが大切だと話しました。また、良いチームは?という問いに対し、「フラットに、違いも踏まえて対話し続けられるチーム」という回答もありました。体験していくしかなくて、気付いた人から啓蒙していくことが大事だということです。Upload By 発達ナビニュースこのレポートでは伝えきれないくらい、興味深い話が多くつまったイベントでした。ご関心がある方はぜひ、アーカイブでイベントの様子をチェックしてみてください。アーカイブはこちらからご覧になれます!Upload By 発達ナビニュース■ イベント概要 ■ ■2020年7月4日(土)に「発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する~コミュニケーション支援のための6つのポイントと5つのフォーカス~ 」が出版されました。これを記念した執筆者達によるオンライントークイベントが開催されました。■ 登壇者プロフィール ■ ■<野口晃菜>博士(障害科学)。小学校6年生の時にアメリカへ渡り、障害児教育に関心を持つ。高校卒業時に日本へ帰国、筑波大学にて多様な子どもが共に学ぶインクルーシブ教育について研究。その後小学校講師を経て、現在障害のある方の教育と就労支援に取り組む株式会社LITALICOにてLITALICO研究所所長として、一人ひとりに合わせた支援・教育の実現のための仕組みづくり、自治体との共同研究、少年院との連携などに取り組む。文部科学省「新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議」委員<陶 貴行>株式会社LITALICOLITALICOワークスシニアスーパーバイザー・LITALICO研究所チーフリサーチャー約15年障害のある方の就労支援に携わっている。元、障害者職業カウンセラーで、専門は職業リハビリテーション、応用行動分析、認知行動療法。公認心理師、臨床心理士も取得している。これまで、障害のある方の就労支援における応用行動分析や認知行動療法による介入や就労移行支援事業所スタッフ向けのスタッフトレーニング(応用行動分析のスキル習得)、障害者の職場定着に影響を与える要因を検討するための調査、インターネット認知行動療法の効果検討等の研究を行ってきている。現在は、アクセプタンス&コミットメント・セラピーの就労移行支援事業所における応用や、就労移行支援事業所におけるオープンダイアローグの実践を行い、その効果を検討する研究を行っている。<井上いつか>株式会社LITALICOLITALICOジュニアアドバイザー言語聴覚士医療・福祉機関で勤務後、現在フリーランス。複数の支援機関でお子さんの療育や自立支援、ご家族や指導者のサポートを行っている。<緒方広海>株式会社LITALICOLITALICOジュニアチーフスーパーバイザー公認心理師臨床心理士さいたま市にて専門職(心理)として約15年間従事。こころの健康センター(精神保健福祉センター)、障害者総合支援センター(発達障害者支援センター)、子ども家庭総合センターなどで、乳幼児から成人期までの精神保健福祉、障害福祉の分野で幅広く心理臨床業務に携わる。現職においても支援に関わる指導員への研修やスーパーバイザーの育成の統括を担当している。
2020年08月06日発達障害当事者との対談連載、スタート発達障害を描いたドキュメンタリーCM「見えない障害と生きる。」でプロデューサーを務めた東海テレビの桑山知之が聞き手となり、さまざまな発達障害の当事者と対談する連載がスタート。連載初回は、このCMにも出演したラッパー・GOMESSを取材し、「家族と発達障害」について語ってもらった。10歳の冬、診断は高機能自閉症…あだ名は“障害者”GOMESSが初めてパニックを起こしたのは、地元のバザーに家族で行ったときのことだった。楽しむ母や姉を横目に公園でうたた寝をしていたところ、ふと首に違和感を覚えた。毛虫だった。GOMESSは、毛虫が大の苦手だった。我に返ると、パニックを起こしたGOMESSは母親によって強く抱きしめられていたという。後日、家族に連れられ赴いた精神病院で、高機能自閉症という診断を受けた。その後、症状が悪化するのを見かねた母は、小学5年の春、担任教師に相談した。自閉症とはどういうものか、子どもにも分かるような資料が朝の会で配られた。「それが成功する可能性もあったと思うんですよ。でも僕の場合は違って。陰で言われてたのは、障害者とか、野獣とか、エイリアンとか……。どんどん学校に行きづらくなりました」そこから5年間にわたり不登校、引きこもり生活を送ったGOMESS。今でこそ母の支えや頑張りが痛いほど分かるものの、当時は「お母さんが余計なことをしたから」と責めてしまったと振り返る。しばらくは母もなんとか学校に行かせようとしたが、GOMESSは強く抵抗した。「本当に悪いことなんですけど、すぐに死をほのめかしてたんですよ。『そんなに言うんだったら学校に行くフリして死ぬけどね?』とか。『生まれてこなきゃよかった』とか、お母さんに直接言わなくてよかったようなこともいっぱい言いました」3歳上の姉とは、自身が引きこもる前はケンカもしていたが、やがてほとんど会話もなくなった。避けられていた。「ずっと部屋で暗い顔してる弟は嫌だったんじゃないですかね」。Upload By 桑山 知之担当医「この子にはできないことがある」親が考える“正規ルート”からの脱却静岡県内の精神病院で診断を受けたGOMESS。代表的な楽曲の一つ『人間失格』にも登場する当時の担当医師“カゲヤマ先生”のある言葉で、家族の接し方は変わっていったという。「カゲヤマ先生がいなかったらうちの家庭はダメだったと思います。お母さんたちに『この子にはできないことがあります。それはできるものじゃないです。無理なものは無理。それをきっぱりと親が諦めてください』と言ってくれたんですよ。そこから僕の生活が楽になりましたね。文字が読めないのも、頑張って読めと言われなくなりましたし、ひどい偏食も理解してくれるようになりました。いつかカゲヤマ先生にお礼を言いたいんですよね」言うなれば「お父さんはスポ根の熱血系で、お母さんは知性と優しさ」だという両親。どちらかが叱るときは、もう一方が必ず優しく包み込んでくれた。特に母は、海外の和訳本を取り寄せるほど発達障害に関する本を読み漁るなど、息子について理解を深めようと努力を惜しまなかったという。GOMESSは「親がしてくれたことはすべて自分のことを思っての行動だった」と当時を振り返りながら、「子としてはすごく理想の両親」と誇らしげに語る。「親が予定していた我が子の“正規ルート”みたいなものからの“外れ方”ってすごく大事だと思うんです。一番まずいのは、子どもが何もしなくなること。どんな形であれ、ポジティブな気持ちで何かやろうとしていることがあるんだったら、止めない方がいいと思います。ポジティブな気持ちを何かに向けてることってけっこう奇跡だから、その奇跡的なポジティブは守ってあげてほしい」進学や就職など、親が思い描く「理想」は少なからずある。しかし、それは必ずしも我が子を幸せにするとも限らない。引きこもっている間も呆けるだけでは退屈だったGOMESSは、親に見守られながら、とにかく熱中できるものを追い求め続けたのだった。Upload By 桑山 知之教科書は読めないが、五線譜は読める色んなものに熱中していく中で、「音楽」へと到達するまでにそう時間は掛からなかった。ワールドミュージックを聴けば、ラテンのリズムについて母に力説していた。文字が読めないゆえ、教科書は読めなかったが、五線譜はすぐに読めるようになった。気づけば自ら音楽を作るようになっていた。「(親としては)本当は学校行かないにしても義務教育で習うものくらいは勉強してほしかったんだと思いますけどね。これだけ熱心にやってるんだからいいか、みたいな。僕は“プレイ”よりも“クリエイト”の方が好きだから、毎日毎日色んなことをクリエイションするようになって。その中で音楽が一番ハマりました」ここでもう一つエピソードがある。「音楽に勉強的だった」頃、ゲームにも没頭していた。裕福な家庭ではなかったため、買ってもらえたのは中古で300円ほどのスーパーファミコンのソフト『RPGツクール2』。その名の通り、命令や画像・音楽を組み合わせ、オリジナルのロールプレイングゲームを作るゲームで、GOMESSはPC版も含めこのシリーズをやり込んだ。そこで音楽素材のため、曲を作り始めたのだという。結果、自作のRPGは完成しなかったが、サウンドトラックはできていた。「親がゲームを止めないでくれたんですよね。それは大きかったですね。だからポジティブな気持ちで何かやってるときは、そういう何かが生まれることがある」姉が好きだというモーニング娘。のCDも借りて聴き、衝撃を受けた。「これめっちゃファンクじゃん!すげぇかっこいい!」と、インストゥルメンタル版のテンポを遅めてビートを乗せ、ラップをする。自然とサンプリングもこなれたものになっていた。Upload By 桑山 知之家族が疲弊…ラップが人生を見つめ直すきっかけに献身的に我が子を見守り続けた親だったが、自分を責め、時に精神的に病むこともあったという。「何年も何年も手を尽くしてくれた結果、頑張った末ですね。俺もズカズカとお母さんに言っちゃうから、お母さんは自分を責め続けちゃって。お母さんが僕よりも程度のひどい引きこもりになりました。部屋から出てこないみたいな。台所とかでたまたま会って、目が合うと下向いてすぐに速足で自分の部屋に帰っていって、扉をバンと閉めるみたいな」当時は自分が正気を保つのに精一杯で、家族に支えられていることに気付いていなかった。ラップを通して、いつしか自己を客観的に見られるようになった。「CDデビューをしたり、テレビに出たり、ライブをしたりするようになってから、精神的自立が始まったのかなと思うんですよね。その辺から少しずつ。歳で言えば18・19歳から20・21歳にかけての4年間くらい。僕にとって過去の清算じゃないですけど、こういう恩恵を受けていたんだなとか、一つひとつ噛み砕いていく時間だったなと思います」第2回『高校生RAP選手権』で準優勝を収め、世間からの注目が彼に集まる中で、姉も存在を認めるようになっていた。家でブツブツとラップをしていた引きこもりの弟が、「お姉ちゃんにとっても、ようやく人として接する価値のある人間になれたのかな」と感じた瞬間だった。Upload By 桑山 知之家族を幸せにするために、僕は幸せにならなきゃいけない自身の人生は「みんなのおかげで運良く素敵になった」と語るGOMESS。一方で、母から「私があなたをフツウに産んであげられなかった」と、我が子に対して罪を感じていることを吐露されたこともあった。自分にできることは何か。答えは明確だった。「手間暇かけて全力注いで頑張って育てた息子が人様の役に立つっていうのは、きっとすごくお母さんにとって誇らしいことの一つだと思うから、実際“罪滅ぼし”はできないにしても、何かお母さんのためになると信じてやっているんです」GOMESSは、ラッパーとしての現在の活動について「罪滅ぼしみたいな気持ち」と表現する。「だから、僕は幸せにならなきゃいけないんだなって。僕が幸せになれば、お母さんが感じてきた罪悪感は消えるんじゃないかなと思うんですよね」Upload By 桑山 知之GOMESSがCM「見えない障害と生きる。」で書き下ろした楽曲『COMMON』は、Apple Musicなどで近日配信予定。本連載では、第2回以降も桑山知之が見えない障害のある人を取材し、社会で生きる上でのヒントを探っていく。平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。・2019年 日本民間放送連盟賞 CM部門 最優秀賞・2019 59th ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS フィルム部門Aカテゴリー ACCゴールド・第58回JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール 経済産業大臣賞・第57回(2019年度)ギャラクシー賞 CM部門 優秀賞取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海公式サイト
2020年08月03日娘に「生理」がきたら…広汎性発達障害の娘は、小学4年生。初潮を迎える時期が近づいてきました。娘は感覚が過敏な特性があるので、『生理』がきた時、どうなるのか…母親として気になって仕方がありません。Upload By SAKURA定型発達でも、わが子に「生理」について教えるのは難しいものです。それが発達障害がある娘となると、どうなるのか…パニックを起こすのではないか…ナプキンの感覚を嫌がるのではないか…生理について子どもに話すのは、私にとっても初めての経験です。その時うまく教えることができるのか、という不安があります。思い出してみる、自分の時のこと…。そこで、自分の時のことを思い出してみました。あれは小学生低学年のころ…私は初めて、家のトイレでナプキンを見つけました。Upload By SAKURA母に「これなに?」と聞くと、『気にしなくていい』と言われました。その時の私はそれをオムツだと思い、なんとなく「聞いてはいけないことなのかもしれない…」と、それ以上親には聞きませんでした。そして、小学5年生の時…私は初潮を迎えました。下着に突然血がつき、びっくりして、何かの病気かと思い、トイレで悲鳴を上げました。Upload By SAKURAかけつけた母に「あら!おめでとう!」と言われ、その時初めて『生理』を知りました。母からナプキンの使い方を教えてもらいましたが、初めての感覚が気持ち悪く、お腹も痛い…私はその不快感がおさえられずに、母に気持ち悪いと訴え続けました。私があまりにしつこいので、母に「いい加減に慣れなさい!」と怒られてしまいました。その日の夕食後、ケーキが出てきた時、兄が不思議そうに見ていて、すごく恥ずかしかったことを今も覚えています。Upload By SAKURAその後、学校で女子だけ保健室に集められ、「生理」のことを説明されました。5年生で初潮を迎えていた私の場合、学校の説明は、生理になった「後」でした。学校から説明される前に。最近は初潮が早くなっていることもあって、小学4年生ごろには学校から話があるということを聞きました。娘もそろそろ説明を受ける時期です。Upload By SAKURA私はその前に、娘に『生理』という言葉だけでも教えておこうと思いました。娘は一度聞いたことある話の方が集中して聞くことができるので、事前に話しておけば、学校でされる専門的な説明をより理解できると思ったからです。実際に見せてみる。そこで、いつもは娘と別々にお風呂に入るのですが、わざと自分の生理中に娘と一緒にお風呂に入ることにしました。娘が、流れる血に気がついた時、話をすることにしました。Upload By SAKURA私は専門的なことよりも、『生理』の意味と大切さを、娘に理解してほしいと思いました。娘に怖いこと、嫌なことだと思ってほしくなかったのです。「生理があるから、あなたたちに会えた」娘はその言葉を聞き、「へぇ~大事なんだ…」と言いました。専門的なことより、大事なことだということを教える。体の仕組みなどを理解してもらうというよりは、「生理」というものがあるということ、それが大切なものだということだけ教えたかったので、説明はここまでにとどめました。その後も、ちょこちょこ「生理」について話すようにしています。Upload By SAKURA娘にとってあまり重要ではないのか、忘れていることが多く、その度にお風呂で話した説明を繰り返しています。当時の私があれだけ気持ち悪いと感じたのです。きっと感覚過敏な娘にとっては、もっと気持ち悪いと感じるものになるでしょう。その時がきて娘がどう感じるのか、何を嫌がるのかはわかりませんが、今教えられることは教えて、その時は娘に寄り添い、本人が過ごしやすいようにしようと思っています。
2020年07月22日強迫性障害だった私『発達障害に生まれて』(松永正訓著/中央公論新社)ノンフィクションのモデルとなった立石美津子です。新型コロナ対策のため「手洗い」「うがい」「除菌」など衛生面での報道が多くなる中、過度なまでに衛生管理にこだわってしまう状況に陥っている人はいないでしょうか。その場合、もしかしたら強迫性障害なのかもしれません。私は23歳のときこの病にかかり、1年間、精神科の病院に入院していたことがあります。息子も今、治療中です。強迫性障害とは、本人の意思と無関係に頭に浮かぶ、不快感や不安感を生じさせる「強迫観念」と、それを打ち消し振り払うために繰り返す「強迫行為」からなる病気です。この症状にはさまざまなものがありますが、代表的なのは「不潔恐怖」です。洗っても洗ってもまだ、汚れているような気がして手洗いを止められません。手を洗い終えても蛇口を触ることでまた汚れたと思い、永遠に手洗いが続くのです。石鹸1個なくなるまで手洗いをし、手がボロボロになります。外出もできなくなります。蛇口やノズルを触って再び汚れるのを恐れて風呂に入らなくなり、かえって不潔になってしまうという、おかしな結果になるケースもあります。その他にも、たくさんの種類があります。確認恐怖: ガスの元栓や鍵の締め忘れが不安になり、何度も戻って確認する数症恐怖: 特定の数字を見聞きすることを異様に恐れ、外出がままならなくなる加害恐怖: 運転中、人をひいてしまったのではないかと何度も車の下を確認する疾病恐怖: 健康なのに癌の不安から逃れられず、受診を繰り返す不完全恐怖: あるべきところに物を置かないと不安になる醜貌恐怖: 自分の容姿が人に不快な思いをさせていると思い込む不安を振り払うための強迫行為は不合理なものですが、それをやめるとまた不安や不快感が起こるため、なかなか止めることができません。石鹸1個を使い切るくらいの不潔恐怖の強迫性障害の患者さんは、今、かなり苦しんでいると思います。強迫性障害 | 厚生労働省自閉症の息子も新型コロナの影響で悪化息子はトイレ撮影が趣味です。新型コロナの影響が大きくなる前、トイレ撮影の予定を綿密に計画していました。Upload By 立石美津子最初、日付も入れていたのですが…緊急事態宣言が解消されるか延長されるかで、予定が全く立たなかったので、私から「いつ解除されるかわからないから、日付は消しなさい」とアドバイスし、今は電車の時刻だけを調べて入れている状態です。Upload By 立石美津子Upload By 立石美津子それでも「電車の本数が減ったらどうしよう」「時刻表が変わったらどうしよう」と次々に不安が襲ってくるようで、何度も何度も書いた用紙を確認し、強迫行為が治まることがありません。 また、「パチンコに行く人がいるから僕は35歳まで外に出られないかもしれない」とまで言い出しました。「これはまずいぞ」と思い、外出自粛の中、電話診療も可能だったのですが通院している精神科の病院に行ってきました。Upload By 立石美津子主治医から「確認は1分間にしましょう。そうしないと不安が酷くなり、ここに入院しなくてはならなくなるよ。そうなったらトイレも撮影に行けなくなるよね」と言ってもらうようにしました。実は普段、息子の様子を観察している私が先生から伝えてほしいことを事前にメモで渡しています。白衣を着た医師から伝えてもらった方が言うことを聞くからです。不安に囚われ、解決しようとしない方がよい不安を解消しようとする行為そのものが不安に囚われることになり、強迫性障害を悪化させると言われています。わかりやすい例でいえば…鍵を閉めたかどうか不安になり何度も何度も家に戻って確認する患者がいたとします。でも、確認すればするほど不安に襲われます。一度、家に戻って施錠を確認したら、その後、外出先で不安になっても自宅にもどらず、不安を抱えながら外出し続ける方がよいと言われています。息子についても、本人はトイレの予定について永遠に確認行為に没頭したいところでしょうが、1分間だけとか3回だけとか限定し、不安を持ちながら生活してもらいます。またこれを親ではない第三者、医師等に伝えてもらうようにしています。不潔恐怖が悪化風邪なのに「コロナに感染したかもしれない」という疾病恐怖の強迫観念に襲われている人もいると聞きます。新型コロナの影響は計り知れません。「手洗い!手洗い!」という言葉が否応なしに入ってきます。「強迫行為はほどほどにして、不安があってもそのままにしておこう」ではなく、今の状況は強迫行為を社会全体が肯定してくれる状態になっています。全世界で不潔恐怖の強迫性障害で苦しんでいる患者のためにも、何とか新型コロナが早くおさまってほしいと願っています。
2020年06月03日LGBT、障害、多文化。違いを認め合うコミュニケーションを実現するために、本当に大切なことは、意外にもシンプルでした。そんな“多様性コミュニケーション”を学ぶことのできる本をセレクトしました!少しの知識と関心を持つことが多様な社会でつながる極意。ダイバーシティ社会に対するビジョンを提案する電通ダイバーシティ・ラボの伊藤義博さんが紹介してくれた3冊を読むと、さまざまな指向、困難、バックグラウンドを持つ人の存在を知れる。しかし、いかに多様な人々がこの世界に生きているのかを知れば知るほど、コミュニケーションの難しさも感じてしまう。「『つながりの作法』には、障害者同士であってもすべてをわかり合うことの限界が書かれています。かといって、“わからない”“難しい”で終わらせるのではなく、読書で最低限の基礎知識を得ておくことは、各領域で共通して重要です。また『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では、多様性はいいことかと息子から聞かれた著者が“多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う”と答えます。多様性について、核心をついた回答です」『総務部長はトランスジェンダー』で扱うジェンダーを含むダイバーシティには、肌の色など表層のダイバーシティと、見えない深層のダイバーシティがあるそう。「はるかに多い深層に対して、どれだけ想像力を働かせられるかが、コミュニケーションのスタート。その上で、僕が多様な人たちと話す時は、“トランスジェンダーはこう”といった先入観を捨てようと意識しています。誰でも“こういう人”と決めつけられたら気分が悪いですよね。自分が嫌なことを人にしないといったシンプルなことが、多様な社会では、さらに大切になってくると思います」多文化『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ多文化社会で生きる母子のノンフィクション。日本人の母とアイルランド人の父を持ち、ロンドンの中学校に通う息子の成長記録。多文化社会であっても偏見がある中で、自らのアイデンティティを見つけていく。新潮社1350円障害『つながりの作法同じでもなく違うでもなく』綾屋紗月、熊谷晋一郎障害当事者が他者とつながる困難を深く考察。アスペルガー症候群と脳性まひ。障害当事者で、東大先端科学技術研究センターの准教授と研究支援員である二人が、他者や世界とつながるのに必要なことを提言する。生活人新書700円LGBT『総務部長はトランスジェンダー父として、女として』岡部 鈴女性として生きることを選択した妻子持ちの実話。家庭ある広告代理店の総務部長が、50歳を前に、葛藤しながらも女性として生きることを決意。カミングアウト後、妻や子ども、同僚らは、さまざまな反応を示す。文藝春秋1600円押さえておきたい“多様性”ワードを伊藤義博さんが解説!LGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの英語の頭文字からとったセクシュアル・マイノリティの総称のひとつ。電通ダイバーシティ・ラボの’18年の調査では、11人に1人がLGBT層という結果が出た。その4つに当てはまらない人もいるため、性自認や性的指向を定めないQ(クエスチョニング)、身体の性別を断定しにくいI(インターセックス)、恋愛感情や性的欲求を抱かないA(アセクシュアル)を含め、「LGBTQIA+」と表記されることも増えてきた。ポリティカル・コレクトネス性別、人種、民族、宗教などに基づく差別や偏見をなくし、政治的・社会的に、中立的な表現を用いること。政治的公正、政治的妥当性などと訳される。日本では以前、男性を看護士、女性を看護婦と区別していたが、看護師と統一され定着したのがその一例。欧米を中心に少数派への配慮として広がっていったが、最近では行きすぎという意見もある。伊藤さんは「あくまで個人的な意見ですが、単に言葉を言い換えればそれでいいという考えになってしまうと危険」と指摘する。社会モデルと個人モデル障害のある方を傷つけるという理由から、障害を「障がい」と表記する動きがあったが、障害の“社会モデル”という概念が浸透しつつある。これは、たとえば、車椅子の人が階段を上れないという困難に直面するのは、階段以外の代替手段がないという環境に原因があり、社会がその人の移動に障害を与えていると捉える。対して、“個人モデル”はその人の足に障害があるとする、これまでの考え方。障害者とは、社会にある障害に向き合う人であり、社会から障害を取り除いていくべきなのだ。伊藤義博さん電通ダイバーシティ・ラボ代表。設立準備から携わる電通ダイバーシティ・ラボ(DDL)にて、ダイバーシティを社会や企業に根づかせる活動を行う。ユニバーサルフォント「みんなの文字」などを開発。※『anan』2020年6月3日号より。写真・大内香織取材、文・小泉咲子(by anan編集部)
2020年06月01日発達障害に関する質問は、私にだけ…『発達障害』のことを知った娘。前回までの話は一応完結しているのですが、今回は番外編です。発達障害について娘が疑問を投げかけてくるのは、私に対してだけでした。Upload By SAKURA私は、一つひとつ丁寧に答えながら、娘が夫には質問しないことが気になっていました。夫はいつも娘に対して真剣に向き合ってくれますし、療育に対して協力的。できればこのことを夫と共有したいと思っていたのですが、娘が夫に対して発達障害の話をすることはなく...気になってはいましたが、理由を娘に聞くことはせず、時間は過ぎていきました。「なんで秘密にしてたの?」初めて娘が、夫に質問。発達障害について話した日から2か月ほど経った日、娘は夫に向かっていきなり…Upload By SAKURA不意打ちの質問に私は、自分が聞かれたわけではないのに動揺しました。その質問は、私には聞かなかった初めてのものでした。しかし夫は全く動揺せず、まるで世間話をするかのように落ち着いて話し始めました。Upload By SAKURA私はこの夫の言葉を聞いて嬉しくなりました。娘に伝えていた内容自体ももちろんですが、特に嬉しかったのは「パパとママは」という言葉でした。夫の説明の中に隠れた、気づかい。少しでもブレない接し方をしたかった私は、これまでも娘とのやり取りを夫に必ず話して情報共有をするようにしていました。Upload By SAKURAそのため、娘からどんな質問をされたか、どんな会話をしたか、夫が把握しているのは当たり前なのですが…私が単独で娘に話をしていたのに、「パパとママは」という言葉を使った夫。Upload By SAKURA「ママが話したことは、パパと同じ考えなんだ」と言われているように感じ、知らないうちに考えや気持ちも共有できていたことがわかりました。「発達障害は治る?」それから、ちょっと考えた娘が今度は…Upload By SAKURA発達障害が治るか…を聞いてきました。私は、またドキッとしました。一般的には、発達障害は"治る"ということはありません。療育を重ね、やり方を変え、できなかったことが前よりスムーズにできるようになる…ということはあります。しかしそれを娘にどう説明すればいい?すると夫は…Upload By SAKURA聞かれていない私はいちいち動揺しましたが、夫は終始落ち着いて、娘にわかりやすいように話していました。夫の言葉と説明は、私の答え合わせ。今回のことで、私はまた一つ、夫の存在のありがたさを感じました。私はいまだ、娘とのやり取りに失敗して揉めたりしますし、『発達障害の自己認識』に関しては、冷静を装っても中身は動揺してばかりです。しかし、こういう場面でも冷静でいてくれる夫。普段娘のことに対応しているのは私ですが、夫はいつも、私が対応していることのまとめ…というか、決めどころ?というのでしょうか。最後びしっと締めてくれます。これがとてもありがたく、また安心します。私と娘のぶつかり合いの時は、多くを語らず、ダメ出しもせず、見守ってくれる夫。その態度も、私は「夫に信頼してもらっている」と感じ、頑張る糧になります。Upload By SAKURAそして肝心なところや、大事な場面では、大切な言葉を娘に伝えてくれる夫。私一人ではなく、常に黒子のように後ろに夫が構えていて、一緒に向き合ってくれていると感じます。娘とたくさん向き合って、たくさん話した私より、たまに出る夫の言葉のほうが娘に届いているように感じます。私はそれを悔しいとは感じず、私が対応してきたことの丸付け?答え合わせをしてもらっているように感じています。夫と娘の会話を聞きながら、あぁ…大丈夫…私間違ってなかった…と確認しています。Upload By SAKURA
2020年05月13日夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ「コウは発達障害かもしれない」と私から聞いた夫が最初に言った言葉は「え?コウはコミュニケーションとれてるでしょ?」でした。『かわいいわが子にまさか障害があるなんて…』というショックからの否定ではなく、本気で『え?問題なく意思の疎通とれてるでしょ?』と思っていたことから出てきた、夫の素直な反応でした。私も3歳児検診で指摘を受けるまで“コウはコミュニケーションがとれている”と思っていたので「分かる分かる…!」と頷きましたが、今後のことを考えれば呑気に共感している場合ではありません。「分かるー!けど困る~!」と頭を抱えながら、夫にどう理解してもらえばよいのかを考えることになりました。意思の疎通はできているのに?Upload By 丸山さとこコウは、コミュニケーションが全くとれていないわけではありませんでした。「はい」と言って渡したいものを差し出すことや、クレーン現象で“相手にやらせたいこと”を伝えたりすることはできますし、「いいよ」と「駄目」も分かります。でも、「お水ちょうだい」と人に要求して水を貰うことと、ウォーターサーバーのボタンを押して水を得ることの違いが、多分当時のコウには分かりませんでした。「イヤ」と言われて拒否されることと、ブザーが鳴って機能を停止することは、どちらも“音がして水を得られなくなった”という出来事ですが、その理由は全然違います。人間との間には、手順の間違いという言葉では単純に片付けられない“コミュニケーション”が存在しているからです。発達障害について少し知識を得た上で改めてコウを観察してみると、彼にとって要求とは“心を介したコミュニケーション”ではなく、ボタンを押すような行為なのだろうということが分かります。ですが、それを夫に伝えるのはかなり難しいのではないかと思いました。夫は多分定型発達者でコミュニケーションは私よりよほど上手に行えますし意図も汲めますが、気持ちを汲むことに関しては理解の解像度が低いところがあります。あれこれ例えを交えながら説明しつつも、「コウのコミュニケーション能力の遅れに対して、理解してもらうのは難しそうだなー!」と感じました。まずは“分かりやすいところ”から知ってもらう!Upload By 丸山さとこそうして頭を悩ませていたとき、ふと「コウの発達の凹んでいる場所が分かりやすい会話を聞いてもらえばよいのでは?」とひらめきました。コウの会話は基本的にエコラリア(オウム返し)によって行われていたので、挨拶などのやりとりが難しく、3歳になってからも「お名前は?」に対して「お名前は?」と返すような状態でした。 練習によって「お名前は?」「何歳?」などの受け答えができるようになりましたが、多分その練習風景は一般的な家庭のコミュニケーションとは異なるものだったと思います。まず、親が自分の肩に触れながら「お名前は?」と聞きます。次に、コウの肩に触れながら「丸山コウです」と“コウが言うべき言葉”を親が代わりに言います。それをリズミカルに繰り返してコウが「丸山コウです」と言うのを待ち、コウの肩に触れているタイミングで言えたら、素早く“コウが好きな刺激”を与えながら褒めて行動を強化します。そんな風にして“知らず知らずに行っていた療育”の結果、コウは一見すると会話ができる子に見えるようになっていたのですが、それは親の側が会話の歩調を子どもに合わせるからだと私は知っていました。Upload By 丸山さとこ後日「今からする会話を聞いていてくれる?」と夫を呼んだ私は、コウとの会話を始めました。「何歳?」「さんさい。」「いくつ?」「さんさい。」と違う聞き方でもスムーズに答えてみせたコウでしたが、「何歳ですか?」と聞いた時に『何を言われているんだろう?』という顔をして固まってしまいました。「何歳?」は教えられていても、「何歳ですか?」は教わっていなかったため、答えられなかったのです。夫はここにきてついに、「あー…これは確かに何かあるって感じがするな…。」と言い、“発達障害の可能性”に対して納得しました。夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ“息子は発達障害の可能性が高いらしい”と知った後も、夫は発達障害についての知識を積極的に得ようとすることはありませんでした。それはASDとADHDの診断を受けた今も変わることはありません。本やウェブサイトを少し紹介したことはありましたが、いつもパラパラッと見ては興味がわかずに終わるようなので、「無理強いすることもないか」と思い近頃はこちらから特に何かを勧めることはしていません。改めて考えてみれば、診断を受ける前から育児書などを読む人ではなかったのだから、診断を受けたからといって急に「本などを読んで勉強しよう!」とはならないのも当たり前のことなのかもしれません。そんな夫ですが、息子に全く関心や関わりがないかといえばそんなことはありません。公園やプールに連れて行ったりと一緒にお出かけもしますし、将棋を指したりして遊ぶこともあります。それだけでなく、前述のような“療育的な関わり”で挨拶を教えてくれたのも他ならぬ夫でした。痛いところを押さえて「痛い」と言うことも夫が教えてくれたおかげで、私はとても助かりました。そんな夫とコウの関わりを見ていると、「本やウェブサイトを読まなくても、夫はコウそのものから知識を得ているのだな」と感じます。それが夫にとって丁度良い、「発達障害のある息子」との関わり方なのかもしれません。Upload By 丸山さとこ
2020年04月30日発達障害のことを話してから1週間...何度も聞かれる同じ質問。娘に発達障害のことを話してから、1週間。それまで娘から『発達障害』について聞かれることは、全くなかったのですが…1週間を過ぎたころから、娘は3日に1回ぐらいのペースで私に「発達障害って…この家で私だけ?」と聞くようになりました。その度に私は同じ説明をしました。Upload By SAKURA娘は毎回、私の話を聞いたあとはそのまま去って行きます。私は、その表情から娘の気持ちを読み取ってあげることができず、ただ聞いているだけなのか、それとも何か不安を抱えているのかわかりませんでした。娘は『発達障害』をどう思った?このやり取りが何度か続いたため、私は娘が何を思って聞いているのか知りたいと思いました。そこで娘に聞いてみることにしました。Upload By SAKURA娘は、『発達障害』があることが「心配」と感じていました。私が思った以上に、娘は表面上だけではなく、深いところまで考え始めていました。困ったのは『障害』という言葉。今回、娘に説明をしていて私が一番困ったのは…Upload By SAKURAなぜこれが『障害』という言葉なのか、ということ。『障害』という言葉は、子どもにはとても説明しにくいのです。「発達障害」ではない別の言葉ならよかったと、この時ほど感じたことはありませんでした。(発達障害ではなく、個性強め型とか、〇〇タイプとか、「障害」がつかない呼び名にしてほしいと思いました。)恥じるべきことではないのに、人に使ってはいけないという矛盾を上手く説明できない葛藤もありました。Upload By SAKURA最初の説明は、きっとその後の価値観の土台になっていく…。自分の言葉一つひとつの重みを認識するたび、その大きな責任感に身が引き締まる思いでした。受け入れるまで、寄り添う。その後も間隔は少しずつ開いてきていますが、娘は定期的に「発達障害って…この家で私だけ?」という質問をします。Upload By SAKURAその度に、こんな会話をします。ただ、心配なことばかりではなく…Upload By SAKURAこんな前向きな会話も、たくさんあります。娘は、『発達障害』を知ったばかり。何度も質問するのは、まだ受け入れることができていないということなのでしょう。私だって何年もかかったのです。娘もゆっくり受け入れてくれればいいと思って、聞かれる度に何度も答えています。
2020年04月22日“子どもの発達障害”にサッパリ気付かなかった私Upload By 丸山さとこここ数年、テレビや書籍などで“子どもの発達障害”に関する情報を目にする機会も多くなりました。「もしかして発達障害なのでは...?」と薄々不安を感じながら乳幼児健診を受けられる保護者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。息子のコウが乳幼児だった10年前を振り返ってみると、今に比べ積極的に情報を得ようとしなければ詳しく知る機会は少なかったかな?と思います。私はコウの発達に凸凹があることは何となく気付いていましたが、得意・不得意の範囲だと認識していました。1歳半検診で「人間への興味関心が薄い」と指摘され、追加で行われた2歳検診では明確に「コミュニケーションに不安がある」と告げられていたコウでしたが、そこでは“発達障害”という言葉を聞くことはありませんでした。確定診断が難しい年齢であることから、いたずらに親を不安にしないよう気を使われていたのかもしれません。「発達障害の可能性が高いです」とキッパリ言われた3歳児検診Upload By 丸山さとこ3歳の検診では、ハッキリと「発達障害の可能性が高い」と告げられ、心理士さんによる知能検査を受けることと、療育園への入所を勧められました。療育園について教えてもらった私は「コウのためになるのなら是非通いたい!」と思いましたが、コウの保育園入所がようやく決まったところだったので、週5日の療育園通いは私にとってかなり決心が要る選択でした。『仕事はどうしよう……でも療育が必要なのであれば、受けさせないわけにもいかないし……』と迷う私に、相談員の方は「週に1日のコースもあります。そちらには参加できそうですか?」と提案してくれました。仕事の方も、週1日なら何とか都合が付きそう!ということで、療育園に申し込みました。流れで何となく受け入れることになった“息子の発達障害”Upload By 丸山さとこ当時、私はコウに発達障害の可能性があるということで不安や抵抗を感じることはありませんでした。“ありのままの我が子を受け入れる愛情深い母親”だからではありません。状況に対応するだけで一杯一杯だったからです。療育園も週1で通うことにはしたものの、「通っていく中で『やっぱり週5にした方が良さそうだな』と思うことがあれば、仕事を辞めることになるかもしれないな」と考えていました。「何だか急に色々と状況が変わっていくな...。」と思ったことを覚えています。Upload By 丸山さとこ知識があれば、もっと違和感を感じとることができていたら、もう少し療育を意識した関わりができていたのかな?と思ったことはあります。ですが、心配性な私のことなので、躍起になって療育をしようとし過ぎていたかもしれません。全部、今だから言えることなのだろうなと思います。今、息子の発達障害のことをどう思っているのか「発達障害の可能性が高いです」と言われた3歳児検診の頃から早7年、コウは10歳になりました。現在ではASD・ADHDの診断を受け、ストラテラを服用しています。今、彼の発達障害について私がどう思っているかと言えば、そのことを知る前の頃のように「こういう子なんだな」と思っている感じです。気付いていないだけで、心の底では戸惑いや拒絶、迷いなどの、“受け入れたくない気持ち”があるかもしれませんが、意識の上では「それがコウなんだな」という感覚でいる現在の私です。違いがあるとすれば、「彼の中にあるいくつかの要素に名前がついた」というところでしょうか。髪が短い状態に“ショートヘア”という名前があるように“発達障害”という名前があって、“得意なヘアアレンジ・難しいヘアアレンジ”があるように“できること・難しいこと”があって、“おすすめのケア方法”があるように“おすすめの関わり方”があるのではないかな?と、コウの発達障害を認識しています。「発達障害」の言葉で表される特性にも一人ひとり個性はあるけれど、「上手くいかない時に参考になる情報」があるのは凄くありがたいです。発達障害の診断を受けて、得られる情報が増えてよかったなと思います。感性が独特でコミュニケーションの癖が強く、忘れ物がしょっちゅうで、ユニークで、「お母さんの好きなもの折ってあげたい」と言いながら私の部屋を折り紙博物館のようにしていくコウ。彼の中にあるいくつかの要素に強く影響している“発達障害”というものを、7年前より“身近で当たり前なもの”に感じているということが、以前の私と今の私の大きな違いかもしれません。そんな風にしてコウが発達障害であることを知り、受け入れた私ですが、夫はどうだったかと言うと...。Upload By 丸山さとこ『かわいいわが子にまさか障害があるなんて...』というショックからの否定ではなく、本気で『え?問題なく意思の疎通とれてるでしょ?』と思っていたことから出てきた夫の素直な反応に、「分かる分かる...!」と思いながらも頭を抱えるしかない私でした。ということで、次回はそんな夫がどのように息子の発達障害を認め、受け入れるに至ったかを書いていきたいと思います。
2020年04月20日セレーナ・ゴメスがマイリー・サイラスのインスタ番組「Bright Minded」に出演し、双極性障害であることを公表した。「最近、アメリカの最も素晴らしい精神病院の1つ『マクリーン病院』を訪れた。ここ数年の間、様々なことを経験してきて、私は双極性障害(躁うつ病)だとわかって…」とマイリーに明かしたのだ。「(この病気に関して)より多くの情報を知ることは、すごく助けになっている。理解することによって、怖くなくなる」と現状を語った。セレーナはこれまでも、心身の不調との闘いをオープンにしてきた。始まりは2013年。全身性エリテマトーデスのため公演中だったツアーを中断し、化学療法を受けた。2016年には病気の副作用でパニックアタックやうつに苦しんだ。2017年には腎臓の移植手術を受けて成功したものの、2018年には不安とうつから2週間リハビリ施設に入院したこともあった。そんなセレーナは、やはり現在感染拡大中の新型コロナウイルスに対し、不安があるという。「とにかくよく書き物をしている。『書くこと』は、いま一体なにが起きているのかを自分に理解させるのにすごく役立つ」と、不安を抑える方法を語っている。双極性障害であることを公表しているセレブは、ほかにデミ・ロヴァート、マライア・キャリー、故キャリー・フィッシャー、ビービー・レクサ、メル・ギブソンらがいる。(Hiromi Kaku)
2020年04月06日順調に活躍していたイヤーマフ。聴覚過敏で体調不良を起こしていた娘。試しに使ってみたイヤーマフは、大活躍してくれました。嫌な音を遮断できるということですっかり気に入り、常に持ち歩いて、放課後等デイサービスで集中したいときや学校で一人になりたいとき、家で読書をするときなどに愛用していました。Upload By SAKURAイヤーマフがきっかけで目に留まった言葉。そんなある日、放課後等デイサービスお迎え時…Upload By SAKURA私はドキッとしました。すると、娘は続けて…Upload By SAKURA「自分が発達障害か」を聞いてきました。今まで私は、娘に『発達障害』という言葉を使って娘の特性について話したことはありませんでした。娘の特性について話した経緯。言語訓練に通う理由を聞かれたので…Upload By SAKURA簡単に理由を話しました。娘は「言葉が苦手」というのを、マイナスには捉えなかったようで、気がつけば周りの人に対しても「私はね、言葉が苦手なんだよ」と自ら説明するようになっていました。2年生から特別支援学級に在籍になった娘は、慣れるために1年生の後半から特別支援学級の教室に行くことになりました。そのときに、『特別支援学級に行く理由』を説明しました。Upload By SAKURAその後、2年生から本格的に特別支援学級在籍になったときに、もう一段階詳しい話をしました。Upload By SAKURA娘は気にするどころか、長い時間特別支援学級にいられることを喜んでいました。「障害」という言葉を耳にすることが多くなってきて…それから時間は経ち…2〜3年生になると「障害」という言葉を授業やテレビで聞くことが増え、障害のある人が世の中にいるということを知るようになりました。Upload By SAKURAこのときから私は「いつか娘に『発達障害』について話す日がくる…」と考えていました。どんな状況で聞かれるのか…どんな風に答えようか…想像し、ずっと頭の中でシミュレーションし続けていました。そして、聞かれたときのために決めていたことがありました。そのときのため、決めていた3つのこと。『発達障害』のことを話す最良のタイミングは、聞かれたとき。あまりに幼いときは話す必要はないと思いますが、娘はもう小学生。専門的な話はしなくても、そういう特性について、言葉を選べば説明していいと考えていました。Upload By SAKURA真剣な顔や暗い表情で話してしまうと、これは悪い話だと思われてしまいます。話すときは、普段の会話のときと同じトーンで、なるべく表情は変えない!少しでも誤解を与えたくないと思いました。Upload By SAKURA『発達障害』に対して、「これ以上聞かないで」という対応は絶対したくないと思っていました。聞きたければいくらでも話す、聞いてはダメなことではないと娘に態度で示そうと思いました。Upload By SAKURA何度もシミュレーションして、これは絶対に守ろうと決めていたことでした。シミュレーションは完璧だったはずだけど…しかし、そのときは思った以上に突然やってきました。まさか、イヤーマフから繋がるとは…!イヤーマフを購入したときは、そんなこと想像もできませんでした。Upload By SAKURAあんなにシミュレーションし続けていたのに…いざ聞かれると私の心臓はドキドキ音を立て、動揺が一瞬で全身に広がりました。しかし、動揺してはいけない!返事に間を空けたら、娘に変に思われる!と決めていたことを思い出し、自分に気合いを入れ、ついに娘に話すことにしました。続く…。
2020年03月25日聴覚過敏で、苦しんでいた娘だったが…広汎性発達障害の娘(小学3年生)には、聴覚過敏という特性があります。弟が産まれたばかりのころは、その泣き声を嫌がり、苦しむ姿が見られました。赤ちゃんを大人しくさせることは難しく、私は頭を抱え、苦しむ娘と泣きわめく息子の間でオロオロしていました。Upload By SAKURAしかし娘も段々と弟の泣き声に慣れていき、自分で止めようがない不快な音が聞こえたときにどうすればいいかを繰り返し伝えていったことで、音で苦しむことはほとんどなくなりました。外食時に起きた、原因不明の体調不良。娘が小学3年生になったある日、家族で外食した私たち。食事をしていると、娘の顔色がよくないことに気がつきました。Upload By SAKURAすぐに娘を車へ連れていき、料理を頼んでしまっていたため、夫と娘の付き添いを交代で行いつつ食事を済ませました。車にしばらくいると娘は「気分、良くなった!」とケロッとしていました。後から娘に聞いても…Upload By SAKURA結局原因はわからず、そのままになりました。それからしばらく経ち、また外食したときに「気分が悪い」と言い出した娘。Upload By SAKURAこのときも同じように、しばらくしたらケロッとしていました。帰宅後、この謎の症状の原因を、夫と推理しましたが…Upload By SAKURA娘に聞いてはみたものの…またしても「わからない」の一言。どこか悪いんじゃないかと心配になりましたが、具合が悪くなるのはこのときだけで他のときは元気いっぱいなのです。授業参観で気がついた、体調不良の共通点。娘のこの謎の体調不良が気になりつつ過ごしていたとき、小学校の授業参観がありました。この日私は、特別支援学級の授業を観に行きました。授業参観には他の学年の子も何人かいて、娘が先生と授業を進める中、両サイドで大きな声を出したりしていました。Upload By SAKURAその瞬間、授業参観の光景と外食のことがぱっと繋がりました。もしかして、娘は音がうるさくて気分が悪くなったのかもしれない!そのとき、思い出したあのコラム。学校から帰宅後、すぐに娘に確認すると…Upload By SAKURAやっとわかった原因!そのとき…発達ナビで読んだ、ひらたともみさんのコラムを思い出しました。聴覚過敏で頭痛を訴えていたイロハちゃん。娘も同じではないのだろうか!?私はすぐに動きました。Upload By SAKURA病院にかかったわけではないので、本当に聴覚過敏が原因か、イヤーマフで本当に解消するのか、確信はありませんでしたが、そうかも!と思ったらじっとしてはいられず、試してみたかったのです。届くまでの間に、特別支援学級と放課後等デイサービスに使用許可をもらいました。購入した後の使用許可…って順番めちゃくちゃかもしれませんが、それほど待てなかったのです(笑)イヤーマフの説明書を作成!そして落ち着いた娘。そしてついに届いたイヤーマフ。Upload By SAKURA私は特別支援学級の先生と話して、他の子どもたちが不思議に思わないように、ひらたともみさんがコラムで紹介していたようなイヤーマフの説明書を作ることにしました。説明書には「イヤーマフとはなにか」「娘がなぜこれが必要か」そして「大事なものであること」を書きました。Upload By SAKURAそして、通常学級の教室と職員室に貼らせてもらいました。初日だけいろいろ聞かれたそうですが、説明書のおかげか、その後は娘がイヤーマフを着用してもからかわれたりすることはなかったそうです。Upload By SAKURA周りの声が聞こえないおかげか、特別支援学級の先生は「あーさんの集中力が上がった」と言っていました。イヤーマフは毎日ランドセルに入れて持ち帰り、放課後等デイサービスや自宅でも使用しています。自宅で宿題をする様子を見ても、周りの音が入ってこないので解くスピードが上がったように感じました。娘にとって安心感につながった。外でも使えることを想定していたのですが、イヤーマフを使い始めてから、外食時に周りが騒がしくても体調不良を訴えることはなくなりました。Upload By SAKURA娘にとっては音が不快だということを、私たちが認めて声掛けができるようになったからかもしれません。そして、聴覚過敏自体がそれほど強いものではなかったのかもしれませんが、イヤーマフは娘にとって「いざというときは、音を遮断できる」という安心感にも繋がったようでした。イヤーマフを使いこなす娘を見てほっとした私たちでしたが、このイヤーマフがのちにあーさんにとって…私たちにとって…大きな岐路に立たされるきっかけになるのでした。続く…
2020年03月11日