皇太子さまの「水問題」についての講演をまとめた著書『水運史から世界の水へ』が、4月1日にNHK出版から発売された。皇太子さまの著書が刊行されるのは、イギリス・オックスフォードでの留学生活を回顧した’93年刊行のエッセイ『テムズとともに』(学習院教養新書)以来、2冊目。本書の序章で皇太子さまは《水問題は、あたかも水がどこにでも流れていくように、世界の紛争、貧困、環境、農業、エネルギー、教育、ジェンダーなどさまざまな分野に縦横無尽に関わってきます》と、水問題の重要性を記されている。水をめぐる歴史について触れた箇所では、江戸時代の人々が作り上げた湧き水を平等に分配する仕組みを解説され、そうした営みは《人々が水を分かち合い、平和と繁栄、そして幸福を分かち合う第一歩》と語られている。「限られた水資源をいかに分けるかという問題は、どうすれば平和を実現できるかという問いに繋がります。本書には、そんな皇太子さまのお考えがにじみ出ていると思います」(皇室担当記者)序章の最後には、こんな一節も。《私の水に対する関心に、いつも理解と協力をしてくれている妻の雅子にも感謝の気持ちを伝えたいと思います》「皇太子さまが海外で講演される際には、英語表現の微妙なニュアンスについて雅子さまに相談されていたそうです。お二人で向き合ってこられた『水問題』についての思索は、令和皇室の根幹となるかもしれません」(前出・皇室担当記者)
2019年04月20日毎月1回開かれてきた天皇陛下、皇太子さま、秋篠宮さまの「三者会談」も、4月24日が最後になる。「三者会談」が行われる以前には、皇太子さまと秋篠宮さまの“対立関係”が表面化したことがあった。’04年5月の会見で皇太子さまは、適応障害で療養に入られた雅子さまについて《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》と言及された。この「人格否定発言」は、雅子さまを守るための悲痛な訴えだった。しかし、秋篠宮さまは同じ年の誕生日会見で《記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったか》と、皇太子さまに苦言を呈されたのだった。「その後、秋篠宮さまは皇室が抱える問題について積極的に発言され、存在感を増していきました。一方で、ご公務への出席が途絶えた雅子さまを庇い続ける皇太子さまへの風当たりは強くなっていきました。その状況は長く続き、’09年ごろには、皇太子さまは秋篠宮さまに皇太子の位を譲るべきという“廃太子論”まで言論誌に掲載される事態になったのです」(前出・皇室ジャーナリスト)その3年後に「三者会談」が始まるのだが、美智子さまのご提案の背景には皇位継承の準備だけではなく、もう一つ大切な理由があったと言うのは前出の宮内庁関係者だ。「’08年2月、当時の羽毛田宮内庁長官が、公式の場である定例記者会見で『愛子さまが両陛下を訪問なさる回数が少ない』などと発言。長官がマスコミの前で皇太子さまへ苦言を呈するという前代未聞の出来事でした。両陛下と皇太子ご一家、秋篠宮家は当時、そういった事態を招くほどコミュニケーションが取れていなかったのです。この状況を憂慮されていた美智子さまはが『三者会談』という場を設けることで、意思の疎通を図ろうとお考えになったのです」御代替わりを前に、秋篠宮家には眞子さまとの婚約が延期となっている“小室圭さん問題”が持ち上がった。バッシングは小室さんだけでなく、秋篠宮家全体にまで及んでいる。「美智子さまもこうした報道はつぶさにチェックされ、遺憾に思われているそうです。このままでは10年前とは逆に、秋篠宮さまが孤立してしまうことも危惧されます。だからこそ発案者の美智子さまは、令和の時代になっても新しい皇室の団結を示すために、新天皇と皇嗣による『頂上会議の継続を!』と望まれているのです。美智子さまが参加されていた昼食会には、新皇后となられる雅子さまが出席されることになると思われます」(皇室担当記者)兄弟が胸襟を開いて協力する姿を見せられれば、美智子さまの「母の不安」も杞憂に終わるはずだ。
2019年04月19日「4月30日まで、天皇皇后両陛下は多忙な日々を送られます。今月18日には三重県の伊勢神宮を参拝し、退位を報告される『神宮親謁の儀』。23日にも昭和天皇陵を参拝されます。26日に憲政記念館で開かれる『みどりの式典』を終えると、30日の『退位礼正殿の儀』を待たれるのみとなります」(皇室担当記者)お代替わり、そして「令和」の新時代が刻一刻と近づいている。5月1日には皇太子さまが新天皇に即位されるが、宮内庁関係者はこう明かす。「上皇・上皇后となられる両陛下は、ご家族の誕生日や結婚記念日以外では、皇太子さまや秋篠宮さまとお会いになることはほとんどなくなると思います。新天皇となられる皇太子さまはご即位後、自らの責任で判断を下さなければなりません。陛下にご意見をうかがえば、上皇と新天皇の“二重権威”が問題となる可能性があるからです。毎月1回開かれてきた陛下、皇太子さま、秋篠宮さまの『三者会談』も、4月24日が最後になります」この「三者会談」は、陛下が心臓のバイパス手術を受けられた’12年春から始まった。「この月1回の“頂上会議”は、美智子さまのご提案で始まったものなのです。陛下が象徴天皇としての体験や考えを、皇位の継承に連なる2人のお子さまにお伝えになり、率直な意見が交わされてきました。会談後は昼食会が開かれ、そこには美智子さまも参加されるのが恒例となったのです。何度もお会いになって議論を重ね、天皇陛下の思いが皇太子さまと秋篠宮さまにも共有されました。陛下が’16年8月8日にご退位のお気持ちを表明すると決断された陰にも、この重要な会談があったといえます」(皇室ジャーナリスト)ただ、発案者の美智子さまは、平成とともに「家族会談」にも終止符が打たれることに少なからず不安を抱かれていたという。「美智子さまは、皇太子さまと秋篠宮さまの間で、意思の疎通が図れなくなっていくことを心配されていました。現在の皇室は、天皇陛下のご長男である皇太子さまが、皇位継承順位第1位という構図です。しかし令和の皇室は、兄の皇太子さまが新天皇に、弟の秋篠宮さまが皇嗣となられます。親子ではなく兄弟が支え合っていくという、これまでとは異なる関係になるのです」さらに、皇嗣家には皇位継承順位2位の悠仁さまもいらっしゃる。「“将来の天皇”である悠仁さまが成長されるにつれ、その父である秋篠宮さまの存在感が大きくなっていくことも予想されます。真面目で慎重な皇太子さまと、活発で率直な秋篠宮さま――。ご兄弟の正反対な性格を誰よりもご存じの“母”美智子さまだからこそ今後の“兄弟確執”を不安に思われていたのでしょう」(前出・皇室ジャーナリスト)
2019年04月18日羽田美智子(50)が店主を務めるオンラインショップ「羽田甚商店」が4月11日にグランドオープン。それにちなんで「羽田美智子の羽田甚マルシェ」が浅草「まるごとにっぽん」で開かれ、同日オープニングイベントが開催された。「羽田甚商店」は1865年から続く羽田家の屋号。羽田の両親の代で一旦は畳まれたものの、羽田が6代目店主として再開することを決心した。商品は、羽田が日本全国に足を運んでセレクトしたもの。現在9品を扱っており、今後も随時商品を増やしていくという。「羽田甚商店」の前掛けをして登場した羽田は「平成は女優としてスタートし、令和という時代には二足のわらじとなりました」と笑顔で語った。また「店主としてはホヤホヤの新人」「一緒に育てていただけたら!」と呼びかけた。「屋号を継ぐなんて夢にも思わなかった」と明かした羽田は、「独り身の女性が50歳からどうやって生きていこうと思った時に、イキイキと輝けることを始めたいと思った」と屋号を引き継ぐ動機について説明。いっぽう「始めるのは簡単だけど続けるのが大事。やめるほうが難しいと離婚の時に思いました」と話し、会場を笑わせた。またイベント内で開かれた参加者からのお悩み相談コーナーでは、それぞれの悩みについてぬか漬けやしじみ汁といった商品を的確にセレクト。商品の魅力を説明するうちに「これは絶対に美味しいです!」「全部の良さを伝えたいんだけど伝えられない!」と熱の入る場面もあった。イベント後、取材に応じ「定期的にマルシェを開き、日本全国でできればなと」夢を明かした羽田。現在大人気放送中の「特捜9」(テレビ朝日系)の現場にも「羽田甚商店」で扱っている雑穀米と海苔の差し入れをしたと明かし、「羽田甚商店」を通して「食と健康の知識をおすそ分けしたいな」と語った。「羽田甚マルシェ」は同日から14日まで開催され、仕事の合間を縫って羽田も店頭に立つという。オススメ商品はもちろん、羽田の魅力にも触れることのできるまたとないチャンスになりそうだ。
2019年04月11日前日の雨もやみ。青空の下、柔らかな春の日差しが降り注ぐなか、6頭立ての馬車が、皇居二重橋から滑るように現れた。’59年4月10日午後2時30分。皇太子殿下(当時)と美智子さまのご成婚祝賀パレードが始まった。沿道には53万人もの人々がお祝いに詰めかけ、全国の街頭テレビには1,500万人が集まった。コースは、皇居から桜田門、四谷、神宮外苑、青山を経て、渋谷の東宮仮御所まで8.8キロの道のりだ。そのとき、渡邉みどりさん(84)は、青山学院大学のグリークラブのメンバーを率いて、コースの終盤の青山通り沿いで待機していた。「両陛下が通られるそのときにハレルヤをコーラスして、何がなんでも美智子さまに、テレビカメラのほうを向いていただく。それが日本テレビの秘策だったのです」当時、渡邉さんは入社3年目の新米中継スタッフだった。その秘策は見事に的中する。「果たして、美智子さまは、グリークラブに向かって45秒間、お手振りをしてくださったのです!」テレビカメラは、美智子さまの聡明な笑顔をアップで捉えることに成功し、そのあふれんばかりの健康美を全国に伝えたのだ。「あのパレード中継に携わったことで、この先も美智子さまにこだわり続ける予感はありましたね」渡邉さんは、生まれ年も美智子さまと同じ’34年。小学校入学とほぼ同時期に戦争が始まり、玉音放送を疎開先で聞いた世代だ。’57年に日本テレビ入社後は、33年にわたって皇室番組の制作に携わり、昭和天皇崩御の特別番組ではチーフ・プロデューサーを務めている。民放初の女性エグゼクティブプロデューサーまで上り詰めると、文化女子大学の教授に転身。ワイドショーなどに登場する帽子がトレードマークの皇室ジャーナリストとして、おなじみの方も多いだろう。「思えば、日本でテレビ放送が始まったのが’53年。それから5年で100万台まで普及したテレビが、美智子さまのご婚約に始まる“ミッチー・ブーム”で、一挙に200万台に倍増しました。何かあったらテレビをつけるという新しいライフスタイルが生まれ、高度経済成長の前触れともなったのです」美智子さまのご成婚は、日本が終戦後の焼け野原からの復興を果たし、人々の生活が豊かになっていく新しい時代の幕開けを予感させるものでもあったのだ。そのご成婚の日からちょうど60年後の4月末。平成の時代は終わり、30年間、皇后として天皇陛下を支えられてきた美智子さまも、そのお務めを終えられる。長年、美智子さまを見つめ続けてきた渡邉さんはしみじみとした深い声音でこう言った。「『お疲れさまでした』。もう、その一言に尽きます」渡邉さんが、正田美智子さんの名前を最初に知ったのは、20歳のときだった。毎年、成人の日を記念して、読売新聞で懸賞論文「はたちのねがい」を全国規模で募集した。’55年1月15日、その年集まった4,185通のなかから、2位入選を果たしたのが、聖心女子大学の学生だった美智子さまだ。渡邉さんも応募したが、3次選考で落選していた。「入選だけでしたら、美智子さまのお名前もすぐに忘れてしまったでしょう。ところが、2月5日の新聞でこう報じられていたんです」《2位入賞の正田美智子さんは、賞金2,000円を、恵まれない人への社会事業と奨学資金に寄付》「この報道で、同じ年齢のすごい方として、正田美智子さんのお名前が強く刷り込まれてしまいました。私は、もし、入選したらスキーに行こうと考えていましたから、誠にお恥ずかしい次第でした」3年後の11月27日、史上初の民間出身の皇太子妃が発表された。「その歴史のヒロインは、論文2位のあのすごい方だったのです」渡邉さんの心は躍った。そうして迎えたご成婚パレードの生中継。美智子さまの輝くばかりの笑顔を間近で拝見した渡邊さんの心に火がついた。以後、皇室特番の制作に進んだ渡邉さんは、持ち前の粘っこい取材力を発揮。それまでのメディアでは決して流れなかった皇室の方々の素顔の部分をクローズアップしていった。同級生から聞き出した「浩宮さま(現皇太子)のお芋掘り」の映像はスクープになった。日本テレビの2年後輩・徳市慎治さん(元株式会社バップ最高顧問)はこう話す。「渡邉さんは、われわれニュース報道が取材しないところに目を向ける独自の視点を持っていました。ファッションに注目したことも、当時は誰もやっていなかった。視聴者が皇室の何を知りたがっているのかを、常に考えていましたね」ファッションや子育てという身近な話題を通して、雲の上の存在としてではなく、美智子さまの人間としての魅力に着目した渡邉さんの番組は、次々に高視聴率をたたき出していった――。ベージュの帽子にグレーのジャケット。襟にはカメオのブローチ、胸ポケットにチーフと、渡邉さんはいまもお洒落だ。「この年になると、いろいろ大変なんですよ。第二腰椎圧迫骨折と脊柱管狭窄症で、朝晩に強い痛み止めを2年くらい飲んでいます。でも、美智子さまがこのお年でご公務に臨まれる姿を見ると、私たちも頑張らねばという気持ちになりますね」
2019年04月05日「あのパレード中継に携わったことで、この先も美智子さまにこだわり続ける予感はありましたね」’59年4月10日午後2時30分に始まった、皇太子殿下(当時)と美智子さまのご成婚祝賀パレード。コースは、皇居から桜田門、四谷、神宮外苑、青山を経て、渋谷の東宮仮御所まで8.8キロの道のり。沿道には53万人もの人々がお祝いに詰めかけ、全国の街頭テレビには1,500万人が集まった。当時、渡邉みどりさん(84)は日本テレビ入社3年目の新米中継スタッフだった。日本テレビのカメラは、美智子さまの聡明な笑顔をアップで捉えることに成功し、そのあふれんばかりの健康美を全国に伝えた。渡邉さんは、生まれ年も美智子さまと同じ’34年。小学校入学とほぼ同時期に戦争が始まり、玉音放送を疎開先で聞いた世代だ。’57年に日本テレビ入社後は、33年にわたって皇室番組の制作に携わり、昭和天皇崩御の特別番組ではチーフ・プロデューサーを務めている。民放初の女性エグゼクティブプロデューサーまで上り詰めると、文化女子大学の教授に転身。ワイドショーなどに登場する帽子がトレードマークの皇室ジャーナリストとして、おなじみの方も多いだろう。「思えば、日本でテレビ放送が始まったのが’53年。それから5年で100万台まで普及したテレビが、美智子さまのご婚約に始まる“ミッチー・ブーム”で、一挙に200万台に倍増しました。何かあったらテレビをつけるという新しいライフスタイルが生まれ、高度経済成長の前触れともなったのです」美智子さまのご成婚は、日本が終戦後の焼け野原からの復興を果たし、人々の生活が豊かになっていく新しい時代の幕開けを予感させるものでもあったのだ。以後、皇室特番の制作に進んだ渡邉さんは、持ち前の粘っこい取材力を発揮。それまでのメディアでは決して流れなかった皇室の方々の素顔の部分をクローズアップしていった。ファッションや子育てという身近な話題を通して、雲の上の存在としてではなく、美智子さまの人間としての魅力に着目した。初めて一本立ちのディレクターとして手がけたのは、ご成婚10年の記念番組だ。以降、5年、10年の節目ごとに特別番組を制作した。民間から皇室入りした美智子さまは、乳母制度を廃止し、家族で生活を共にする温かい家庭を基盤とした新しい皇室づくりを目指された。しかし、古くからのしきたりを重んずる皇室方や女官からの風当たりは強かった。そんな美智子さまの苦悩に焦点を当てた渡邉さんの番組は、視聴者の共感を呼び、毎回、高視聴率を記録した。見方を変えれば、渡邉さんの番組は、皇室と民間の距離を縮めようと努められた両陛下の“援護射撃”になっていたのではないだろうか。渡邉さんの人脈と取材網は広く、物おじしないエネルギッシュな姿勢は、周囲の人をも動かした。高松宮喜久子妃にはかわいがられ、ダイヤがちりばめられた門外不出のティアラに触れたこともある。両陛下のご結婚25周年のときには、美智子さまの実弟、正田修氏の単独インタビューに成功。このときは、面識のあった当時の日本テレビ副社長・氏家齊一郎氏に最後のひと押しをお願いし、取材の承諾をもらっている。’85年7月、ロンドン留学中の浩宮さま(当時)のコンサートを取材したとき、演奏終了後に渡すはずの花束を若い女性スタッフが1部終了の拍手のなかで渡してしまうというハプニングが起きた。渡邉さんは、そんなときも機転を利かせ、会場に飾られていた花瓶の花で急ごしらえの花束を作って、終演までに間に合わせている。「花瓶の花だったから、花束がびしょぬれなんです。それでも、宮さまはえんび服がぬれるのもいとわず、笑顔で受け取ってくださった。それこそが、陛下と美智子さまから授かった帝王学だったのでしょう」収録後、スタッフとともにご挨拶にうかがい、渡邉さんがスタッフ紹介を始めると、浩宮さまはこうおっしゃった。「渡邉さんとは上野でお会いしているじゃないですか。あのときのテープ、大切にしています」「テープ」とは、その5年前、浩宮さまが上野のコンサートで首席ビオラを担当されたとき、渡邉さんのチームが撮ったものだ。そのとき浩宮さまのほうから、録音テープとビデオテープを所望されたという。そんなささやかな皇族方とのやりとりも、激務の渡邉さんを支えていた。「実は、美智子さまと4分ほど懇談させていただいたこともあります。’09年11月のことでした」日本記者クラブ創立40周年のパーティに両陛下がご臨席になり、渡邉さんは、代表者に選ばれて懇談の機会を得たという。渡邉さんは、すでに日本テレビを退職し、文化女子大学で教壇に立っていた。教えていたのは「女性学」。美智子さまの生き方に焦点を当てた講義だった。美智子さまとの懇談の内容は、くわしくはオフレコということだが、「私のことを学校で教えてくださっているのでしょう?」と、お優しい笑みを浮かべられていたという。報道の現場を離れた渡邉さんの動向まで、美智子さまは把握してくださっていた――。皇室はまもなく大きな節目を迎えることに。「次の皇后になられる雅子さまは、お手本となる美智子さまがあまりにご立派でいらっしゃるので、大変だと思います。頭のよい方ですから、とりあえずは美智子さまのお手本にならい、そこから新しい時代に合った皇后になっていただきたいと思います」新天皇即位のパレードは、10月に予定されている。「新しい時代のパレードも、ぜひ、この目で見届けたいですね」
2019年04月05日4月末のご退位まで重要な儀式が続き、両陛下は忙しい日々を過ごされている。そんな中、両陛下を喜ばせる出来事があった。「3月17日に、天皇陛下の即位30年と美智子さまとのご成婚60年を祝う非公開の昼食会が東宮御所で行われました。その最後に、両陛下を労う“サプライズ”のプレゼントが用意されていたのです」(宮内庁関係者)皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、黒田清子さん夫妻が主催し、皇族方や元皇族、旧宮家の49人が出席したこの内宴では、雅子さまがメニューの考案をされたという。「皇太子殿下のお祝いの言葉で始まり、食事の後にはシャンソン歌手による歌の披露もあり、3時間ほど続きました。両陛下はもちろん、眞子さま、佳子さまも明るい笑顔でした。そして内宴の終わりには、愛子さまと悠仁さまが両陛下に歩み寄られて、悠仁さまが陛下に、愛子さまが美智子さまに花束を手渡されたのです。花束を受け取る両陛下は幸せそうな笑みを浮かべていらっしゃいました」(前出・宮内庁関係者)“将来の天皇”という期待を背負われている悠仁さまと、新天皇になられる皇太子さまの一人娘である愛子さま。「両陛下に花束を渡されたお二人が次世代の皇室で大きな役割を担われます。とりわけ愛子さまは、女性宮家の創設が決まれば、大きく立場が変わられるでしょう」(皇室ジャーナリスト)菅義偉官房長官は18日の参議院予算委員会で、女性宮家の創設を含めた安定的な皇位継承について「(新天皇が)即位された後、そんなに時間を待たないで(検討を行う)と考えている」と述べた。そして安倍首相は20日の国会で、これまで自身が持論としていた“旧宮家の皇籍復帰”について「私自身がGHQの決定を覆すことはまったく考えていない」と、否定的な考えを示したのだ。「旧宮家の皇籍離脱は70年以上前。民間人として暮らしてきた“男系男子”に皇室に入ってもらうのは、現実的ではないと結論づけたのではないでしょうか。旧宮家の復帰がないとなれば、女性宮家の創設がさらに現実味を帯びてくるのは間違いありません。そうなれば愛子さまは、結婚されたとしても皇室に残られることになります」(前出・皇室ジャーナリスト)3月28日に共同通信が報じた注目すべきスクープがある。政府が’97年から、女性皇族への皇位継承について極秘の検討会を開いていたというのだ。さらに’04年春の文書には、女性・女系天皇を認める皇室典範の早期改正方針が記されていたという。「愛子さまが天皇になられる可能性が、一度はかぎりなく実現に近づいていたのです。しかし’06年9月、悠仁さまが誕生され、その直後に第一次安倍内閣が発足。女性・女系天皇の検討はたち消えになりました。ただ、’17年5月の共同通信による世論調査でも女性天皇賛成は86%、女系天皇容認は62%となっています。今後、議論が再燃することも考えられます」(政治部記者)歴史学者で静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは皇位継承問題への危惧を口にする。「今後、悠仁さまが結婚され、さらに男性のお子さまが生まれるという保証はありません。政府がこのまま“男系男子”にこだわるならば皇室の存続が危ぶまれます。このまま問題の解決を先送りすれば、安倍政権は近い将来、皇位継承の危機を招いた責任を負うことになる可能性があるのです」4月から高校3年生になられる愛子さまは、将来はさらなる重責を担われることになるかもしれない。最近では皇太子ご夫妻と一緒に、東宮御所を訪れた外国の要人に積極的に話しかけられて、通訳を介さずに英語で懇談されることもあった。「愛子さまが“新天皇の一人娘”として、積極的にその役目を果たそうとお考えになっているのです。御代替わりを目前にして受け取られた花束に、美智子さまは愛子さまの“自覚”を感じられ、感涙にむせぶほど心を打たれたことでしょう」(前出・皇室担当記者)皇室の次世代を担う平成生まれのプリンセス。その成長を美智子さまはこれからも見守られていくことだろう――。
2019年04月02日3月22日、佳子さまはICU(国際基督教大学)を卒業された。佳子さまはご卒業に際し、宮内記者会からの質問に文書でお答えになった。眞子さまの結婚延期についての質問には《私は、結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので、姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています》と回答された。「眞子さまは、いまも小室さんとの結婚の意志は変わっていないといいます。すなわち佳子さまは、眞子さまと小室さんの結婚に賛成を表明されたと言えます。このご回答により、秋篠宮ご夫妻と眞子さま・佳子さま姉妹の深刻な亀裂が表面化してしまったのです」(皇室担当記者)宮内庁関係者は、この状況を美智子さまも憂慮されているはずだと語る。「美智子さまは陛下がご成婚の日におっしゃった《どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの》というお言葉を、60年間、大切にされてきました。今回の佳子さまのお言葉をお聞きになられた美智子さまは、慄然とされたことでしょう。秋篠宮ご夫妻を通じて、苦言を呈すこともお考えのはずです」佳子さまといえば、学習院女子高等科でダンスに熱中され、文化祭への出演が大きな話題に。現在も密かにダンススクールに通われ、昨年の公演ではパワフルなヒップホップダンスを披露されている。また、ICUに入学後はカジュアルなファッションが注目の的になった。そうした奔放なイメージもある佳子さまだが、今回のお言葉には“皇族としての自負”もにじむ。「ご公務については《私が何をやりたいかではなく、依頼を頂いた仕事に、一つ一つ丁寧に取り組むというのが基本的な考え方です》と記されています。佳子さまはこれまで紀子さまが出席されていた毎年6月の『産経児童出版文化賞』を引き継がれる予定です。また、今年9月にはオーストリアとハンガリーへの訪問も検討されています。初の海外ご公務です。大学院進学や就職のご予定もなく、御代替わりとなる今年、佳子さまはご公務にまい進されることになります」(前出・宮内庁関係者)結婚については「一個人としての希望」を強調される一方、ご公務は「私が何をやりたいかではなく」と、まったく対照的な記述。前出の皇室ジャーナリストは言う。「宮内記者会からの『お相手はいらっしゃいますか』との質問にも《このような事柄に関する質問は、今後も含めお答えするつもりはございません》と、きっぱりと回答を拒否されています。眞子さまだけではなくご自身についても『自由な結婚を!』と主張されているのです。一方で佳子さまは、皇族としての義務は公務で果たす、という“決意表明”をされたのです。佳子さまはご公務にしっかり取り組む代わりに、趣味のダンスや恋愛・結婚といったプライベートにはいっさい干渉しないでほしい、というお考えなのでしょう」ただ、このような“割り切った姿勢”も美智子さまのお気持ちとは一線を画すものなのだという。「天皇陛下は以前、《与えられた公務を真摯に果たしていく中から、新たに生まれてくる公務もある》と発言されています。両陛下でかつての戦地を巡られた“慰霊の旅”も、お二人の強い希望がなければ実現しなかったものでした。美智子さまは、佳子さまにもご自身なりの問題意識を持ってご公務に取り組まれることを望まれていたはずです。それにもかかわらず、主体性が感じられない回答をされた佳子さまに、美智子さまは肩を落とされたはずです」(前出・皇室ジャーナリスト)御代替わりまで1カ月あまり、美智子さまは新たな不安を募らせることになってしまった――。
2019年03月28日秋篠宮家の長男・悠仁さまは3月15日、お茶の水女子大学附属小学校を卒業された。4月には同大附属中に内部進学される。「悠仁さまが5年生のころには、都内の有名私立中の文化祭に紀子さまと参加される姿が目撃されています。他校への進学も模索されたようですが、紀子さまは昨年の夏ごろには、悠仁さまの受験を回避し内部進学するという決断をなさっていたと思われます」(皇室担当記者)実は昨年の夏休み、同級生の男子児童が勉強漬けの日々を送るなか、紀子さまは悠仁さまに「スパルタ帝王教育」を課していたのだ。その1つが、標高3,180mを誇る槍ヶ岳登山だ。山頂は“槍の穂先”と呼ばれ、岩場をはしごや鎖でよじ登らねばならない。昨年8月3日、山頂に居合わせた会社員女性はこう語る。「悠仁さまはチェックのシャツを着た登山スタイルで、ヘルメットもしっかり被られていました。悠仁さまがはしごを降りるあいだ、山頂へのはしごは“一時通行止め”になっていたのですが、紀子さまは登山客に『皆さん、お待ちになってくださっているのですね……』と申し訳なさそうにおっしゃっていました」槍ヶ岳は、山岳ガイドも「地元の子供も、1年がかりでほかの山を登って実力をつけてからでないと登りません」と言うほどの難所。紀子さまはなぜ、悠仁さまにこれほどの試練を課したのか。「同級生と比べても線が細い悠仁さまに、集団の中でも負けない体力と度胸を培ってほしいという願いで、過酷な槍ヶ岳登山を命じられたのだと思います。また登山は、皇太子さまと共通の話題にもなります。次期天皇と距離を縮め、身近でその立ち振舞いを学んでほしいとのお心遣いがあったのでしょう」(皇室担当記者)昨年の夏休み、悠仁さまは紀子さまとお二人で広島市の平和記念公園に足を運ばれるなど、戦争の歴史とも向き合われた。受験勉強よりも貴重な経験を積まれ、悠仁さまは中学校に進学される――。
2019年03月15日「東日本大震災から8年が経ち、地盤沈下でなくなってしまった海岸線が、少しずつ戻ってきました。今年の夏には砂浜を散歩できるようになるかもしれません」岩手県大槌町にある『三陸花ホテルはまぎく』の千代川茂社長が感慨深げに話す。震災前の’97年には、天皇皇后両陛下がこのホテルの前身の『浪板観光ホテル』にお泊まりになったことがあった。しかし’11年3月11日、ホテルは津波に飲み込まれ壊滅的な被害を受ける。先代の社長だった千代川さんの兄も行方不明になってしまった。悲嘆に暮れる千代川さんだったが、震災から半年後、美智子さまのお誕生日写真に目を奪われる。そこには真っ白なハマギクの花が咲いていた。千代川社長が言う。「それはかつて私の兄が贈ったハマギクでした。両陛下が御所で大切に育ててくださっていたのです。私は感激し、ホテルの再建を決意しました」そして’16年の岩手県ご訪問では両陛下が希望され、再建された同ホテルに宿泊された。「このとき私が『またお越しください』と申し上げると、美智子さまは『5年後には、砂浜が戻るのですね』とおっしゃいました。ご退位ののちには、海岸をもう一度お歩きになって、岩場に咲くハマギクをご覧いただきたいです。それが私の夢です」(千代川さん)海岸を臨むホテルのテラスには天皇陛下の歌を刻んだ碑「平成の架け橋」が建立され、今年3月11日に除幕式が行われた。東日本震災直後から両陛下は、被災者を励まし、復興を見守り続けてきた。宮内庁関係者が言う。「お代替わり後、両陛下は私的に被災地を訪問されることはあると思いますが、被災者へのお見舞いや復興状況のご視察は、皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻に委ねられることになります。御所のハマギクも、皇太子ご夫妻が大切に育てられるでしょう。ハマギクの『逆境に立ち向かう』という花言葉とともに、両陛下の思いも引き継がれていくのです」
2019年03月14日「本当は、もっとカラフルなお庭なんですが、今は冬枯れの時期だけに、残念でなりません。ここの植木も庭石も、かつてわが家にあったものを寄贈させていただきました。中央のモミジは、父のいちばんのお気に入り。かつて父は日本の来るたびに、大好きな日本酒を嗜みながら眺めておりました。そして、白雲木。母が結婚して満州(現・中国東北部)に渡るとき、赤坂御所で貞明皇后(大正天皇の皇后)が、御自ら種をお拾いくださって『記念に満州に植えるように』と賜ったそうでございます。その種から育った木の孫木になります。ここに来ると、どの木や花を見ても父や母を思い出します。懐かしゅうございます」兵庫県西宮市の武庫川女子大学附属中学・高校にある「日中友好の庭」。2月半ばの好天に恵まれた日の午前。庭の寄贈者で、同市在住の福永こ生さん(78・『こ』は樗の字の木へんが女へん)は、寒風に耐えるような木々を愛おしそうに見やりながら、みやびな響きをもつ美しい日本語で語り始めた。「日中友好に生涯を捧げた父と母が愛した庭でしたから、若い世代の方々が、この庭を通じて、隣国や平和への関心を持つきっかけとなっていただければと願うのでございます」こ生さんの父親は、中国・清朝のラストエンペラーであり、満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟の溥傑さん。母親は、日本の天皇家と縁戚関係にある嵯峨侯爵家令嬢の嵯峨浩さん。つまり、こ生さんは、あのラストエンペラーの姪であり、幼少のころには満州国の正統な皇位継承者として、2番目の皇女を意味する「二格格(アルゴーゴー)」と呼ばれていた。しかし、敗戦で運命は一変。5歳のこ生さんは、そのまま母と、内戦下の中国大陸6,000キロを1年5カ月もの間、流転。命からがら日本に帰国できたときに、憧れたのは「普通の生活」だった。やがて結婚して母となり、両親亡きあとも、その遺志を継いで日中親善に努め、時代の語り部として生きてきた。また、日本の皇室との交流も続いている。「昨夏も、毎日書道展で溥儀や溥傑の書が特別展示されて両陛下にお会いしたとき、父の話になりました。天皇陛下が’92年の初めての中国訪問時をふり返られて、『北京では、溥傑さんにたいへんお世話になりました』と語られ、皇后さまも『心のおきれいなお人でしたね』とおっしゃられて。父からは、そうした話は聞いておりませんでしたので、初めてうかがって、とてもうれしゅうございました」’95年1月17日、阪神・淡路大震災に遭遇し、こ生さんは西宮市の自宅で被災。当時、神戸市で老人ホームを経営していた夫が、すぐに施設を開放するなど、あわただしい毎日を過ごしていたころ、思いがけない電話がかかってきた。まず女官長が出て、すぐに皇后美智子さまのいつものやさしいお声が受話器を通して聞こえてきた。「お電話するのがたいへん遅くなりました。おうちはいかがでしたか」「自宅は半壊でございましたが、家族は全員無事でございました」「ご無事でなによりでした。きっと、お父さまの溥傑さんが見守ってくださったのね。どうか、お体を大切に頑張ってください。またお目にかかりましょうね」その後も被災地を訪問されるときなどに、「ご不自由はないですか」とのお心遣いがあったという。’07年、夫の死を機にそれまで住んでいた西宮市内の一戸建てを引き払い、こ生さんは同じ市内のマンションへと移った。ピアノや家具などの大半を、幼稚園や福祉施設に寄付し整理した。「唯一の心残りが、庭でした。嵯峨の家の家紋にもなっている連翹、父のモミジ、そして白雲木などなど。この庭だけはなくしてはいけない、と思ったのでございます」そんな庭は、末娘の母校で、中国との交流もあった武庫川学院に寄贈され、「日中友好の庭」となった。「なにより、この庭の成り立ちを知って、心の交流の大切さを学んでいただきたいと思いました。そういえば、白雲木では……」こ生さんは、一本の木にまつわるこんな思い出を語った。「’92年の両陛下とのお食事会のとき、まだご結婚前の紀宮さまもご一緒でした。赤坂御所のお部屋の前に、ここの白雲木の元木があるとのことで、紀宮さまは、『花が落ちたら、白いじゅうたんのようになって、とてもきれいなんですよ』と、お話しくださいました。今、その部屋には愛子さまがおられるとうかがっております。初夏になり、その白いじゅうたんを、愛子さまや雅子さまも、きっとご覧になっていらっしゃるのだと、想像したりしております。花とは、大切な人を思い出させて、心をなごませてくれるものでございますね」現在は、西宮市内のマンションで、次女と次男と同居するこ生さん。リビングの一角には、’92年の両陛下との食事会の写真なども飾られていた。「皇后さまからは、日中友好の節目の年などに、お電話をいただきました。先日は、まず『お子たちは、みなさん、お元気?』というお言葉から始まりました。また、関西方面に、たとえば植樹祭などでお見えのときは、侍従さんを通じて、『いかがお過ごしですか』とお電話をいただいて、お近かったら、ホテルのほうなどへ、わたくしからご挨拶にうかがったこともございます。わたくしは、これまでも必ず電話の最後には申し上げてまいりましたが、両陛下には、春以降、大きなお役目を終えられてからも、国民の理想のご夫婦として、『いつまでもお健やかにお揃いあそばして、ご長命であられますように』と、お祈り申し上げております」
2019年02月22日「秋篠宮さまは、小室さんの文書公表に、非常にショックを受けられたそうです。眞子さまが事前に文書の内容まで把握していながら、ご自身にも紀子さまにも黙っていらっしゃったからです」秋篠宮家の知人はそう明かす。2月6日に1年を迎える眞子さまのご結婚延期。その直前に小室圭さんが、母親と元婚約者男性との借金トラブルについて説明する文書を発表したが、小室さんの突然の行動に、国民の多くは困惑するばかりだ。「小室さんは、借金トラブルさえ解決すれば、眞子さまと婚約できるはずだと自信満々だそうです。マスコミに送付された文書には《私は、現在、米国において勉学に勤しむ機会をいただいております》と書かれていました。小室さんは、アメリカで弁護士資格を取得したらニューヨークで就職し、眞子さまと一緒に暮らすつもりだと周囲に話しているそうです」(社会部記者)前出の秋篠宮家の知人はため息を漏らす。「秋篠宮ご夫妻は、眞子さまの小室さんに対するお気持ちは徐々に薄れていくとお考えになっていたようです。ところが眞子さまのご結婚の意志は固く、諦めるおつもりはまったくないご様子です。ご自身の部屋にこもりきりで、ご両親とは会話の機会もほとんどありません。部屋では毎晩、小室さんと連絡を取り合っていらっしゃるのでしょう……」沈黙を貫かれている眞子さまだが、1月26日の夕方にはお忍びでお出かけされていた。「国立能楽堂で、ろう者の劇団による『手話狂言・初春の会』を鑑賞されました。実は、佳子さまもご一緒だったのです。新年の宮中儀式では表情がこわばっていた眞子さまも、この日は晴れやかな笑みを浮かべていました」(皇室担当記者)佳子さまといえば、現在はICU(国際基督教大学)の4年生。本誌は佳子さまがダンスレッスンを続けられ、昨年9月には極秘に発表会にも出演されていたことを報じている。「1月上旬には夜の10時過ぎまで大学に残られ、卒論執筆のラストスパートをかけられていたそうです。姉妹そろってのお出かけは、お二人にとって心安らぐひとときになったことでしょう。小室さんの文書が物議を醸す中、あえて佳子さまは眞子さまに同行されたのです。これは、孤立無援となっている眞子さまへの“共闘宣言”であると思われます」(前出・皇室担当記者)佳子さまは以前、紀子さまの反対もあって、ダンスサークルへの入会を諦めたことがあったという。「断念しかけたダンスに再び打ち込まれている佳子さまは、ご両親の反対を押し切って選んだ道を貫く眞子さまにも、共感されているのかもしれません」(前出・皇室担当記者)
2019年02月07日東京・西麻布の静かな路地の一角に、モディストで、美智子さまはじめ、皇室の帽子デザイナーでもある石田欧子さん(54)が父・暁夫さんから受け継いだアトリエがある。1階は、帽子ショップになっていて、カラフルな帽子が並ぶ。2階から4階がアトリエだ。欧子さんは現在、これらを運営する会社、オートモード平田の責任者でもある。モディストとは、洋服のオートクチュールに匹敵する高級帽子を作るデザイナーのこと。「私の父、平田暁夫は、かつてジャン・バルテ氏に帽子作りを教わりました」“ジャン・バルテ氏”とは、’60年代にフランスのパリで名をはせたモディストだ。欧子さんの父、故・平田暁夫さん(享年89)は、皇室の帽子デザイナーも務めていた。美智子さまがご公務でお召しになる小さなつばの平らな帽子は、暁夫さんが美智子さまと試行錯誤のすえ、長い年月をかけて、共に作り上げてきたものだ。「父は、常にかぶる方のことを考えていました。どんなフォルムにしたらかぶりやすいか。どんなラインにしたら、その方に似合うか。何度も自分でかぶっては、また形を整えて。私やスタッフにもかぶらせてみて、ここはもう少し、こうしようとか。確認しながら仕上げていくのです」暁夫さん亡きあと、皇室の帽子づくりは欧子さんに引き継がれている。「皇室の方々でも一般の方でも、帽子作りに対する姿勢は同じです」と話す欧子さんだが、皇族ならではの難しさもある。「皇族の方々は、TPOに応じて決まりが多く、帽子もそれに合わせないといけません。それに、一般の方なら、たとえ帽子が風で飛ばされそうになっても手で押さえることができますが、皇族の方々は、お立場上そういうことができない場合も。ほかに気配りなさらないといけないことも多いですから、帽子に関しては、これをかぶっていれば大丈夫と安心していただけるものをお作りしないと」美智子さまの姿勢に学ぶところも多いという。「美智子さまは、いつもご訪問先のことを考えて、その国の国花をモチーフにしたり、素材を使ったりしたお帽子をご希望されます」暁夫さんが亡くなってすぐの’14年6月、両陛下が、とくに思い入れの強い沖縄をご訪問の際には、美智子さまたってのご希望で、沖縄の芭蕉布という生地を使って帽子をお作りしたという。また、’17年3月のベトナム、タイご訪問の際には、現地になじみ深い笹をつかったデザインで、というオーダーがあった。「笹をどうデザインしようかと迷いましたが、いくつかサンプルをお持ちすると、『こういうふうにしたらどうかしら』と、皇后さまもアイデアを出してくださって」天皇陛下退位後に美智子さまからバトンを受け継がれる雅子さまは、欧子さんと同年代。同じく“伝統を継承する立場”として、欧子さんは雅子さまを、どうご覧になっているのか。「私とは、受け継がれるものの大きさが全く違いますから……。ただ、雅子さまはシンプルなものをお好みですが、背もすらっとお高いので、華やかなお帽子もお似合いになると思います」欧子さんの帽子作りを、受け継ぐ若い芽も着実に育っている。’18年10月、青山のギャラリーでは、欧子さんの長女、早姫さん(26)と長男、翔さん(20)が立ち上げたブランド「saki et show」の新作展示会が行われていた。室内に降り注ぐ秋の光に照らされた帽子は、どれもスタイリッシュでかぶってみたくなる。長女の早姫さんは言う。「祖父や母が、美智子さまや皇族の方々の帽子を作っているということは小学生くらいから知っていました。両親はひと言も言いませんでしたから、テレビで見て、『あれ、うちで作っている帽子だ』みたいな(笑)。でも、家業を継ぐつもりはありませんでした。両親からも、継がなくていいと言われていましたし」しかし、暁夫さん亡きあとのお別れ会で、大勢の人が暁夫さんの華やかな帽子をかぶって参列しているのを見て気持ちが変わった。「あんなに多くの方が、祖父の帽子をかぶっているのを見るのは初めてでした。展示品の帽子は目にしていたけど、実際にかぶったら、帽子も人も、こんなに輝くんだ、って。この家に生まれたからには、私がすべきことはこれだと」現在、専門学校生の翔さんも、卒業したら家業を継ぐつもりだ。「母は、ひと目見て、その方に似合う帽子のラインがわかる。いつも、かぶる人のことを考えているからでしょう。それってすごいことだし、祖父から受け継いできたものだと思います。私たちも、そんなよい伝統は継承しながら、もっと、若い人が手軽にかぶれる帽子を提案していきたいですね」欧子さんは、父の暁夫さんがそうだったように、子どもたちの成長を静かに見守る。3代目のこれからが楽しみだ。「時代に合わせて変えなければならない部分もあります。子どもたちには、受け継ぐべきところは受け継いで、新たなチャレンジもしてほしいと願っています」時代が変わっても、代々培われてきた技と心は継承されていく。
2019年01月28日「こんな帽子は、1960年代のジャン・バルテ以来、見たことがない。パリでは、もう、こんな本物の帽子を作れるモディストはいなくなってしまいました」散歩の途中、ギャラリーのドアを開けて入ってきた老紳士は、興奮気味にそう言うと、展示していた彩り豊かな帽子に目を奪われていた。2016年4月。パリのセーヌ通りにある、「GALERIE DE L’EUROPE」という小さなギャラリーでの出来事だ。モディストとは、洋服のオートクチュールに匹敵する高級帽子を作るデザイナーのこと。そのギャラリーで個展を開いていたモディストこそが、美智子さまはじめ、皇室の帽子デザイナーでもある石田欧子さん(54)だった。老紳士が言った“ジャン・バルテ氏”とは、’60年代にフランスのパリで名をはせたモディストだ。「私の父、平田暁夫は、かつてジャン・バルテ氏に帽子作りを教わりました。老紳士に、そう話すと、『そうだったのか!本物の帽子を作れる職人が、日本に残っていたなんて』と、とても感激なさって。毎日のように誰かを連れて足を運び、自慢げに私の個展を案内してくださるんです」欧子さんはそう言うと、静かにほほ笑んだ。欧子さんの父、故・平田暁夫さん(享年89)は、皇室の帽子デザイナーも務めていた。美智子さまがご公務でお召しになる小さなつばの平らな帽子は、暁夫さんが美智子さまと試行錯誤のすえ、長い年月をかけて、共に作り上げてきたものだ。「父は、常にかぶる方のことを考えていました。どんなフォルムにしたらかぶりやすいか。どんなラインにしたら、その方に似合うか。何度も自分でかぶっては、また形を整えて。私やスタッフにもかぶらせてみて、ここはもう少し、こうしようとか。確認しながら仕上げていくのです」そんな暁夫さんがパリから持ち帰った帽子作りの“技と心”を欧子さんが受け継ぎ、時代に合わせて変化させてきた。「パリで、私の帽子をひと目見て、それをわかってくださる人がいたことは驚きでした。父から継承してきたことは、まちがっていなかったんだ、って」東京・西麻布の静かな路地の一角に、欧子さんが父・暁夫さんから受け継いだアトリエがある。1階は、帽子ショップになっていて、カラフルな帽子が並ぶ。2階から4階がアトリエだ。欧子さんは現在、これらを運営する会社、オートモード平田の責任者でもある。パリの個展後すぐ開催した東京表参道の個展には、美智子さまはじめ、紀子さま、眞子さまなど、皇族の方々の姿もあった。「眞子さまは、美術館のお勉強をされているということで、展示の仕方にご興味を持たれていました。紀子さまが帰られた後も残られ、いろいろ楽しんでくださいました」美智子さまは、暁夫さんが闘病していたころ、手作りのスープを差し入れられたというほど暁夫さんのことを気にかけておられた。欧子さんに代替わりしてもなお、その帽子作りへの厚い信頼は続いている。「美智子さまは、常にお会いするお相手のことを第一に考えられておられます。つばが広いと、ご挨拶のときに相手と距離をつくってしまう、というご配慮から、つばが小さく平らなお帽子が生まれたと父から聞きました」ご公務では、着替えの時間も非常に短く、ヘアスタイルを整える時間もない。暁夫さんは試行錯誤の末、帽子を脱いでもヘアスタイルが崩れにくいよう、小さな土台だけで帽子を支える高度な方法を編み出した。美智子さまは、研究熱心でもいらっしゃるという。「帽子は、かぶり方や、飾りのつけ位置のほんのわずかの向きでも印象が変わるので、鏡の中で、ご自身で飾りの位置を微調整されたり、ご訪問先によって飾りをアレンジされることもあるようです。帽子のお仮縫いを通じて実感したのは、美智子さまは父とともに模索しながら、独自のスタイルをお作りなのだと。私もその貴重な経験をさせていただくことができ、とても勉強になります」お召しになるものが、いつも注目を集めてきた美智子さま。天皇陛下退位後の新たなステージを彩るお帽子を、欧子さんは、いま模索中だ。
2019年01月28日《大君と母宮の愛でし御園生の白樺冴ゆる朝の光に》1月16日、歌会始の儀で発表された雅子さまのお歌である。天皇陛下と美智子さまが皇太子ご夫妻だったころ、お住まいだった東宮御所の庭に育てられた白樺が題材となっている。両陛下への感謝がこめられたお歌だったが、歌会始の儀が催された皇居宮殿「松の間」に雅子さまの姿はなかった。「両陛下が出席されてお歌を披露される歌会始は今回が最後です。’04年以降欠席されている雅子さまは、今年こそは出席したいという思いも強かったはずですが、7日に出席された昭和天皇三十年式年祭の翌日から体調を崩されてしまったのです」(宮内庁関係者)その後も発熱が続き、11日の講書始の儀、そして歌会始の儀も出席を控えられた。雅子さまにとっては悲痛な新年となってしまった。しかし、お代替わり後、新皇后の雅子さまを待ち受ける儀式やご公務の“試練”はさらに重い。5月から11月まで即位関連行事が半年以上にわたって続く。また、両陛下から引き継がれる重要なご公務も目白押しなのだ。「さらに安倍政権は、5~6月中に来日するトランプ米大統領と新天皇皇后両陛下の会見を計画しています。これほどの“過密日程”では、雅子さまがすべてのご公務に出席されるのは不可能に近いでしょう」(皇室担当記者)精神科医で立教大学教授の香山リカさんはこう語る。「雅子さまは適応障害で長期ご静養に入られて15年です。現在はかなり回復されていますが、ご病気になられる前の状態に戻られたとは言えません。雅子さまは新皇后になられてから役割を全うするために努力されると思います。しかし重圧も大きく、お疲れがたまります。いつ調子を崩されてもおかしくはないのです」雅子さまが適応障害と診断されて長期ご療養に入られたのは、’03年12月のこと。その半年後、皇太子さまが行動を起こされたことがある。雅子さまのお出ましが完全に途絶え、国民から心配の声が上がるなか、翌年5月の会見でこのように発言されたのだ。《雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です》“お世継ぎ”となる男子を産めなかったのに、海外訪問ばかりを望み、公務を休み続けている――。そうしたバッシングに心を痛めていた雅子さまを守るためになさった“人格否定発言”だった。しかし、このご発言は国民に衝撃を与えたばかりか、両陛下も困惑を示されることになった。秋篠宮さまは《せめて陛下と内容について話をして、そのうえでの話であるべきではなかったか》と皇太子さまに苦言を呈された。それから皇太子さまは論争を呼ぶような発言は控えられるようになり、雅子さまのご体調は「東宮職医師団」が毎年1回、文書で発表するだけになった。「宮内庁はこの15年間、体調には波がおありだと繰り返し発表しましたが、もう少し具体的な説明があってもよかったでしょう。雅子さまには、ご自身が国民の前でご症状について語られるには、少なからず恐怖があったはずです。一度でいいので、皇太子さまが国民の前でその説明をなさってもいいと思います」(香山さん)2月23日に59歳の誕生日を迎えられる皇太子さまは、例年のように会見に臨まれる。お代替わり前の会見は、この1回きりだ。“最後のチャンス”に、皇太子さまが再び立ち上がるのではと語るのは皇室ジャーナリスト。「現在は毎月、天皇陛下、秋篠宮さまとの“三者会談”が開かれています。お代替わりに向けた話し合いのなかで、皇太子さまは雅子さまのご体調についてもしっかり説明なさっていると思われます。今回は15年前とは異なり、お二方からの後押しもあるでしょうから、きっと雅子さまの不安を取り除く結果になるはずです」
2019年01月24日「天皇陛下と美智子さまは、1月下旬に神奈川県の葉山御用邸で静養される予定です。ご滞在中の両陛下は、御用邸裏の『小磯の鼻』と呼ばれる海岸を散策され、地元の人々とお話しされることもあります。ご退位まで4カ月をきったいま、両陛下のお姿を拝見できる貴重な機会になりそうです」そう語る皇室担当記者。退位後の両陛下はご公務をなさる予定はなく、お出ましの機会が激減すると見られている。「両陛下はご静養の初日に横須賀市の観音崎公園を訪れます。戦没船員の慰霊碑に花を手向けられたのち、葉山御用邸へ向かわれるそうです。両陛下として最後のご滞在となりますので、ご家族との思い出にあふれる場所で、お二人の60年間の歩みをゆっくりと振り返られるのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)しかし両陛下、とりわけ美智子さまのご心境は穏やかではないのでは……と心配を口にするのは宮内庁関係者。「眞子さまと小室圭さんの“ご結婚延期問題”が解決しないままお代替わりを迎えることは、ほぼ確実な状況になっているからです」昨年11月に秋篠宮さまは誕生日会見で、現状では『婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません』と明言された。「小室さんに対しての“最終通告”ともいえる、厳しいご発言です。それでも眞子さまのお気持ちは固く、小室さんとの結婚の意志は変わっていないようなのです。年が明けてからも、眞子さまは、小室さんに関しては秋篠宮ご夫妻と“対話拒否”状態にあるようです。美智子さまはこの問題についての発言を慎んでこられました。言葉にはなさいませんが、誰よりも初孫である眞子さまの未来を案じていらっしゃることでしょう」(前出・宮内庁関係者)
2019年01月17日「あ・り・が・と・う」広場に集まった数万人もの人々から大歓声を受けて、皇居・長和殿のベランダに立たれた美智子さま。その唇が何度か、感謝の言葉を紡ぎだすように動いた――。1月2日、快晴の空の下で平成最後の新年一般参賀が行われた。もともと両陛下のお出ましは5回の予定だったが、例年をはるかに上回るペースで人々が詰めかけたため、宮内庁は急きょ6回に変更した。「宮内庁の担当者は、報道陣に対しても『7回目はありません』とアナウンスしていました。しかし、両陛下のお出ましに間に合わなかった人々が大勢いたのです。それをお聞きになった両陛下の強い希望で、7回目のお出ましが決まりました。天皇皇后両陛下は、常に国民に寄り添うことを心がけてこられました。自分たちを求めてくれる声に、できる限り応えたい――。そうお考えになったのでしょう」(宮内庁関係者)昨年12月23日、天皇陛下の誕生日の前に行われた記者会見では、陛下の美智子さまへの深い愛情が伝わってくる場面があった。宮内庁担当記者はこう語る。「会見は20分ほどでした。皇太子殿下、そして天皇陛下としてご自身が歩んでこられた道のりを思い出されたのか、美智子さまへの感謝のお気持ちを述べられるあたりから、涙声を抑えきれなくなられたのです」陛下が涙ぐまれたのは、この言葉を述べられたときだという。《自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民への双方の献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います》文化学園大学客員教授で皇室ジャーナリストの渡辺みどりさんは言う。「会見の内容は事前にご存じだったにせよ、陛下の真情あふれるご様子に、美智子さまも胸を熱くされたことでしょう。84年の銀婚式会見で、陛下は美智子さまに“努力賞”を、美智子さまは陛下に“感謝状”を差し上げたいとおっしゃいましたが、そのやり取りを思い出しました。先日の会見の際、陛下のお隣に美智子さまがいらしたら、どんな感謝のお言葉を返されたでしょうか」実はいま、美智子さまに“最後のお言葉”を語る場へ臨んでいただく計画が進行中なのだという。前出の宮内庁関係者が言う。「宮内庁記者クラブは、今年4月10日のご成婚60周年もしくは4月末の退位直前に、天皇皇后両陛下の記者会見を要請しています。宮内庁サイドは天皇陛下のご体調を考慮して、昨年12月23日の誕生日会見が最後であると明言しています。しかし、天皇陛下の誕生日会見が感動的だったこともあり、記者クラブの熱意はさらに高まっているのです。天皇陛下と美智子さまは、常に“国民の思いに応えたい”というお気持ちでいらっしゃいます。美智子さまも公の場で陛下への感謝を示したいとお考えになっていることでしょう。実現の可能性は決して小さくありません。国民にとっても大きなサプライズになりますね」これまでも数々の名言を残されてきた美智子さま。ご成婚60年をお迎えになる4月、どのようなお言葉を語られるのだろうか――。
2019年01月10日多彩な人脈をお持ちでいらっしゃる皇室の方々。その交友関係は芸能界にも広がっている。美智子さまと意外な接点があったのは、ダンス&ボーカルグループ・TRFのSAM(56)。実家は埼玉県の総合病院で、父や3人の兄や弟はみな医師として実家を守っている。兄弟の中でSAMだけが、父の反対を押し切ってダンサーになった。「SAMさんは先日、NHK総合の『ファミリーヒストリー』に登場。父方の先祖が石田三成や上杉謙信と交流があったことが明らかになりましたが、実は、SAMさんの母は美智子さまと交流があったのです」(皇室ジャーナリスト)SAMの母は学生時代にテニスの選手で、美智子さまと何度も優勝を争っていたのだ(97年11月25日号「“アムロの姑”は美智子さまのライバルだった!」)。美智子さまは聖心女子大時代に関東学生選手権で優勝するほど。SAMの母も実力者が揃う学習院大学で活躍していた。「動きがキビキビして、よく走るテニス」が持ち味だったという。SAMのダンスにも美智子さまとしのぎを削った“走るテニス”が脈打っているのかも?【創刊60周年記念「女性自身」皇室SPECIAL増刊】ご婚約から60年 美智子さまその輝きは時代を超えて――2018年12月25日(火)発売特別定価 500円(税込)
2018年12月28日藤原美智子がNHK文化センター青山教室に登場2019年1月26日(土)、NHK文化センター青山教室において、1日講座『LIFE IS BEAUTY 美しく幸せに生きるための逆算思考』が開催される。講師は、ヘア・メイクアップアーティストの藤原美智子が務める。美容だけでなくライフスタイル全般に関する知識が豊富な藤原が、大人の女性をさらに輝かせる「美・衣・食・住」のヒントを伝える。人生を軽やかに、美しくする工夫が満載だ。開場時間は10:00。開催時間は10:30から12:00まで。受講料は、NHKカルチャー会員が3,931円(税込み)、一般が4,611円(税込み)。2019年1月18日(金)まで、藤原への質問を受け付けている。講座終了後には、サイン会を実施予定。講座に関する問い合わせは、NHK文化センター青山教室(電話番号:03-3475-1151)まで。ライフスタイルデザイナーとしても活躍する藤原美智子藤原美智子は、ラ・ドンナを主宰し、メイクアップアーティスト、ライフスタイルデザイナーとして、幅広い分野で活躍。ライフスタイルブランド「MICHIKO.LIFE」のプロデューサーも務めている。『新しい口紅は寝る前に試す』、『美の宿るところ』など著書多数。Instagramのフォロワー数は33,000人以上を超える。(画像はNHKカルチャーより)【参考】※NHKカルチャー※藤原美智子 Instagram※ラ・ドンナ
2018年12月04日10月中旬の穏やかな午後。東京・目黒の閑静な住宅街にあるスタジオ。ここの主である影絵作家の藤城清治さん(94)は、2階のアトリエで制作の真っ最中だった。藤城さんといえば、瞳の大きな“こびと”や愛らしい動物たちが登場する影絵でおなじみ。誰もが『暮しの手帖』の連載やカレンダーなどで目にしたことのある国民的アーチストである。画業80年を超える今も、毎年のように展覧会を行い、東日本大震災には自ら被災地にも足を運んで作品を発表するなど、創作の第一線での活動が続いている。50畳もある仕事場には大きなライトテーブルがいくつも並び、作業台には夥しい数のカラーフィルムやペンなどが置かれ、天井からは何枚もの作品が下がっている。「これは、イノシシ。ちょうど来年の干支だね」愛用する片刃カミソリを一心に動かしながら、藤城さんが言う。目の前で右手がシャッシャッと動くたびに、鉛筆の下絵から、かわいいウリ坊の背中に密集した毛の一本一本が切り出されていく。「いつもカミソリの刃が当たっている僕の中指は、このとおり削れてしまって、人さし指なんてこんなにカチカチだよ。ほら」差し出された指に触れれば、石のような硬さ。その無骨な指先に、藤城さんが影絵作家として積み重ねてきた歳月が年輪のように刻まれているのだった。1924(大正13)年4月、藤城さんは東京・品川に生まれた。小学校での転居後はずっと現在の地で暮らしている。慶應大学附属中学の普通部に通っていた12歳から油絵を始め、日本社会全体に戦時色が濃くなるなか、慶應の予科(高校)へ。学園祭で上演された人形劇を見たことで、「大人も楽しめる人形劇をやろう」と決心するが、徐々に授業はなくなり、勤労動員に駆り出されていく。その後、海軍予備学生に志願して海軍航空隊に入隊。少尉となった弱冠20歳で、10代半ばの少年兵を率いて、千葉の九十九里海岸で訓練を行った。慶應大学経済学部の2年に復学し、人形劇団「ジュヌ・パントル」を結成したのが終戦の翌年。続いて文学部の講師だった小澤愛圀先生を通じて影絵と出合う。「先生のお宅で、アジアの影絵芝居の写真を見せてもらって、妖しい魅力に、これぞ人形劇の原点だと、いっぺんでまいっちゃった。物資も乏しい時代でしたが、影絵なら、ロウソクや裸電球があればできるんじゃないかと思って」大学卒業後は、父のツテで銀行に内定していたというが。「なんとなく銀行はイヤで(笑)、影絵に近いと思って、勝手に映画会社の宣伝部に入社したんだ。ここでパンフレット表紙のスターの似顔絵だけでなく、企画から編集まですべて一人でやりました」この東京興行(現・東京テアトル)での奮闘のなか、淀川長治さんら偉才との交流も始まるが、人生の転機となったのが、当時『スタイルブック』編集長の花森安治さんとの出会いだった。最初は、鋭い社会批判を行う姿勢に憧れて藤城さんから訪問したが、逆に花森さんはすぐに一流編集者の目で、藤城さんの若い才能を見抜いた。「今度、新しい婦人雑誌を作るんだが、手伝ってくれないか」こうして戦後の日本社会に新風を巻き起こす『暮しの手帖』に創刊号から関わっていく。「3号目の打ち合わせのとき。たまたま停電になってね。間をもたせるため、影絵の話をしたんだよ。そしたら、花森さんは影絵にも詳しくて、『君の影絵はきっと流行るよ。これからは、人が生きていくうえで、何かためになる作品を作らなきゃダメだ』と」こうして始まった藤城さんの影絵は、『暮しの手帖』の顔の一つとして、以降、48年間に及ぶ大連載となる。結婚は24歳のときで、やがて1女をもうけた。妻となる千代さんは、会社の同僚だった。「僕の1年後に入社してきた宣伝部長の秘書でした。最初は気取ってるなと思ったけど、話すとすごく自然体で、いいなぁと(笑)」26歳で、最初の影絵の絵本『ぶどう酒びんのふしぎな旅』を花森さんの後押しもあり、出版。2年後には、銀座の交詢社ビルで人形劇『雪の女王』を上演。ちなみに今も藤城さんと親交がある黒柳徹子さんは、この作品を見たことがきっかけでテレビの世界へ誘われたと、のちに語っている。藤城さんは着ぐるみの人形劇団「木馬座」を結成後、テレビ番組『木馬座アワー』で、世の子どもたちの人気を独占するのが42歳のとき。いちばんの人気キャラは、もちろんカエルの“ケロヨン”だ。「武道館をはじめとするショーなどで、ケロヨンの中に入っていたのは、家内なんです。僕も身内には何でも言えるから、『観客席に飛び降りろ!』なんてね(笑)」そうしたなか、思いがけない依頼が届く。「皇太子妃時代から、美智子さまは、僕が『暮しの手帖』やオリジナルカレンダーに掲載していた影絵をご覧になっていたようで、’88年の『つり橋はぼくのハープ』という作品を、ぜひ原画でご覧になりたいとのお申し出がありました。僕自身、当時はこの作品を最も気に入っていたこともあり、本当に深いご理解を示していただいたことに感激して、お譲りさせていただくことにしたんです」以降、御所で、美智子さまがハープを演奏される部屋には、この作品が飾られているという。「皇后陛下になられてからでしたが、影絵のお話をしに皇居へうかがったこともありました。美智子さまはアジアの影絵芝居などにもお詳しくて、ご質問も的確なことに感服いたしました」もっと以前の’65年には、こんなほほ笑ましいエピソードも。「当時、学習院の幼稚園に通われていた皇太子殿下の浩宮さまが、木馬座のミュージカルを三越劇場に観劇にいらして、着ぐるみの馬に乗って、場内を回るという楽しいハプニングもありました。また、皇太子殿下とご結婚された雅子さまは、ご実家がうちのアトリエの“ご近所”という不思議なご縁もあるんです」雅子さまの少女時代のころには、藤城さんのアトリエには木馬座のキャラクターの着ぐるみなどがたくさん保管されていたという。「雅子さまは玄関先に置いていたケロヨンに毎朝、ご挨拶されて通学していたそうです」美智子さまにはじまり、皇太子ご一家や秋篠宮ご一家など、皇室ファミリーはこぞって藤城さんのファンで、展覧会にもたびたびお出ましになっている。藤城さんは言う。「皇族の方々は、みなさん、動物好きで、いつも生き物すべてに対する深く大きな慈愛を感じております。僕も、影絵でさまざまな動物を描きます。たとえば、猫。作品を作るとき、僕は猫が人気だからとか、自分の飼い猫のかわいさを伝えたいのじゃなくて、猫という生き物そのものの素晴らしさを伝えたいと思っている。つまり動物でも、人でも、一様に“生きる喜び”を描きたいという純粋な気持ちなんです」
2018年11月22日「今年の秋篠宮さまのお誕生日が、眞子さまにとって“運命の日”になるかもしれません」神妙な面持ちで語るのは宮内庁関係者。11月30日に、秋篠宮さまが53歳の誕生日を迎えられる。その数日前には、ご夫妻がそろって記者会見に臨まれるのだ。会見の質問は事前に記者クラブ「宮内記者会」がまとめ、宮内庁に提出することになっている。皇室担当記者は言う。「すでに5つの質問項目が提出されていますが、眞子さまのご結婚延期についての質問も、もちろん入っています。これを質問しなければ記者会の存在意義に関わる、との総意で決まったそうです。宮内庁側も質問項目をすべて受け入れました。秋篠宮さまと紀子さまは、眞子さまのご結婚問題について何らかの説明をされなければならないのです」ただ、秋篠宮ご夫妻がご自身のお考えを表明するにあたって大きな難題があるという。「ご結婚問題について回答する以上、眞子さまご本人との相談が必要です。しかし眞子さまは、秋篠宮さまが呼びかけていらっしゃる『親子会議』を拒否されているそうなのです。毎日のお食事などは、ご家族とご一緒に召し上がられているようです。しかし秋篠宮さまや紀子さまがご結婚についての話題をお出しになると、眞子さまは口を閉ざして“拒絶”されるといいます」(前出・宮内庁関係者)その背景にあるのは、秋篠宮さまと眞子さまの間の埋めがたい溝ではないかと語るのは皇室ジャーナリスト。「眞子さまは現在も、ニューヨークに留学している小室さんと電話やメールで連絡を取り合われているようなのです。眞子さまと小室さんが出会われたのは6年前。小室さんに支えられて20代を過ごしてきた眞子さまは、その思いを断ち切れずにいるのです」会見の日は迫っているというのに、眞子さまと話し合うことすらできない。そんな焦燥が、健康問題にまで発展していると語るのは学習院関係者。「実は秋篠宮さまは内臓が弱く、医師からお酒は控えるようにと言われています。しかし最近は小室さん問題のストレスも大きく、夜になるとつい酒瓶に手を伸ばしてしまう日々なのだと聞きました」もともと秋篠宮さまは、かなりの酒豪として知られる。宮邸に多くのお友達を招かれて飲み会を開かれたり、街の居酒屋で目撃されたりもした。ただご結婚後、とくに悠仁さまがお生まれになってからは、お酒の量をセーブされてきた。「皇嗣殿下になられるお立場にもかかわらず酒量が大幅に増えているとすれば、その原因は小室さん問題にほかならないでしょう。袋小路となっている現実をつかの間でも忘れるための“自暴”のお酒なのかもしれません」(前出・学習院関係者)激震が続く秋篠宮ご一家。“最後の会見”までに親子会議は実現するのか。眞子さまと秋篠宮さま、お二人のタイムリミットは刻一刻と迫っている――。
2018年11月21日《陛下の御譲位後は、陛下の御健康をお見守りしつつ、ご一緒に穏やかな日々を過ごしていかれればと願っています》10月20日、美智子さまが84歳の誕生日を迎えられた。毎年お誕生日ごとに発表されてきたお言葉。皇后として最後となるお言葉には、天皇陛下のご退位まで半年あまりとなった現在の心境が綴られていた。陛下のご退位後、来年5月からはご公務を離れ、お二人での安らぎの日々が始まる。美智子さまはすでに新生活への準備を始められていると語るのは宮内庁関係者。「高輪皇族邸での生活を経て、赤坂の東宮御所(改修後に仙洞御所に改称)へと、2度のお引っ越しもあります。空いた時間には私物の整理などをされています。また、お代替わり後は新天皇・新皇后より目立たないように配慮して、外出を減らされるご意向もあるそうです。そのため、今のうちに旧友との再会をしておきたいというお考えもおありのようです」11月末には私的に静岡県をお訪ねになり「ねむの木学園」の宮城まり子園長に再会する予定だ。もともとは7月にご訪問が予定されていた。西日本の豪雨被害に配慮し延期となっていたが、4カ月越しに宮城さんとの約束をかなえられるのだ。女官を通じて電話でご訪問を伝えられたという宮城さんが喜びを語る。「その瞬間『うれしい~!』と、受話器を握ったまま泣きだしてしまいました。退位までに残された少ない時間を、学園の子どもたちと私のために割いてくださるのです。子どもたちも一生、感謝し続けることでしょう」60年前、ご成婚の日に陛下は《どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの》と美智子さまにおっしゃったという。美智子さまと交流のある元絵本編集者の末盛千枝子さんもこう語る。「全身全霊をもってお務めを果たされる天皇陛下。お若いころからのゆるぎないご覚悟に心を打たれ、皇后さまは24歳という若さで皇室に嫁がれたのです。それ以来60年間、天皇陛下と同じご覚悟を持って過ごされてきました。平成が終わろうとする今、それはすごいご決断だったと改めて感じます」美智子さまは、皇室に嫁がれてから現在までを振り返って《皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした》と綴られている。数々の困難がありながらも皇后としての“義務”を最優先に取り組まれたからこそ、ご公務を離れてからは穏やかな生活を、とお考えなのだろう。来年5月の陛下のご退位後、美智子さまが楽しみにされていることもお言葉の中にある。《手つかずになっていた本を、これから一冊ずつ時間をかけ読めるのではないかと楽しみにしています。読み出すとつい夢中になるため、これまでできるだけ遠ざけていた探偵小説も、もう安心して手許に置けます》前出の末盛さんが、本に関するエピソードを明かす。「本を読まずに積んでおく“積ん読”をよくしていますねなどと、談笑させていただいたことがありました」お言葉では述べられなかったが、美智子さまが音楽に造詣が深く、ピアノ演奏も得意でいらっしゃるのは有名なことだ。美智子さまを長年取材してきたメディアプロデューサーの渡邉満子さんはこう語る。「4月、皇后さまは陛下とご一緒に鈴木鎮一さんの生誕120周年記念コンサートを鑑賞されました。実はその数日前、お忍びで1度目のリハーサルにお出かけになり、子どもたちの伴奏までなさったのです。来年以降も音楽を通じてのご交流も楽しみにされていると思います。また皇后さまは若いころ、将来は本屋さんか、お花屋さんになりたいというお気持ちを持っていらっしゃったそうです。赤坂御用地でのガーデニングにも、今から胸を躍らせていらっしゃると思います」ご退位後、そして皇太子妃のころの思い出がつまった赤坂御用地に戻られてからも――。美智子さまは天皇陛下とご一緒に、笑顔で過ごされることだろう。
2018年10月26日10月20日、美智子さまが84歳の誕生日を迎えられた。今回のお誕生日は、美智子さまがご自身の文章でお考えを発表される最後の機会と思われるため注目が集まっていた。そのお言葉には、天皇陛下のご退位まで半年あまりとなった現在のご心境が綴られていた。ただ、今回のお言葉の形式に違和感を覚えたと語るのはベテランの皇室ジャーナリスト。「例年は、ご家族や親交のある方々に感謝やエールを述べられるのですが、今年はそれがありませんでした。これまでとは雰囲気が異なる文章です。中でも《また赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています》という一文で始まるお話が、かなり異質なように思えたのです」それは次のように続く。《こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに一畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいかと陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げるものだからと仰せで、6月の大祓の日に用いられることを教えてくださいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました》さらに「大変な瓜田に踏み入るところでした」という部分については、丁寧にこのような注釈もつけられている。《広く知られている言い習わしに「瓜田に履を納れず」(瓜畑で靴を履き直すと瓜を盗むのかと疑われるのですべきでないとの意から、疑念を招くような行為は避けるようにとの戒め)がある》皇室ジャーナリストは慎重に続ける。「『疑念を招くような行為は避けるように』といった文言はあまりに意味深です。美智子さまは、ご自身の意図が誤解されないようにと細心の注意を払い、何度もお言葉を推敲されます。注釈についても、美智子さまの要望で入れられ、チェックされているはずなのです。バラやユウスゲなど、多くの花々を栽培されてきた美智子さまが、なぜ20年以上も前のマクワウリの話をあえて持ち出されたのか。マクワウリそのものよりも“言い習わし”のほうをお伝えしたかったのではないかと思いました」この挿話と注釈については、さまざまな解釈が試みられている。森友・加計問題など、数々の疑惑を追及された安倍政権への皮肉ではないかと指摘する声もあった。だが前出の皇室ジャーナリストは次のように語る。「いつも美智子さまはお誕生日のお言葉に、ご家族への思いを込められてきました。とりわけ眞子さまのご結婚問題にゆれる秋篠宮家のことは心配でならないはずです。美智子さまはマクワウリの挿話によって、小室圭さんの件をどう乗り越えるべきか示唆されたのではないでしょうか」美智子さまはこれまで一貫して“小室さん問題”には一切言及してこなかった。それにもかかわらず美智子さまのご発言とされる文言が繰り返し報じられたため、5月には宮内庁が「これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました」と異例の発表を行った。前出の皇室ジャーナリストはこう語る。「今回のお誕生日は、美智子さまがご自身の文章でお考えを発表される、最後の機会だと思われます。秋篠宮家は、両陛下が貫かれてきた“お立場としての義務を最優先する姿勢”を、本当に受け継いでくれるのか――。小室さん問題により、美智子さまは危機感を抱かれたのではないでしょうか」小室家の借金トラブル発覚は、秋篠宮家に対する国民の見方も一変させた。「皇族やそれに連なるものは、その立場を自覚し、公明正大であるべきというのが美智子さまのお考えです。秋篠宮家も小室家も、国民に疑われるような行動があってはならない――。そんな戒めを込めて、マクワウリの挿話を書かれたのではないでしょうか」美智子さまは“赤坂の広い庭のどこか”にマクワウリを植えたいと綴られた。その記述には“赤坂御用地に住む眞子さま、秋篠宮家にこそわかってほしい”そのような“訓戒”がこめられているに違いない――。
2018年10月25日天皇陛下の執刀医・天野篤さん(順天堂大学医学部附属順天堂医院院長・63)が本誌に独占告白!陛下の泰然たるご様子と美智子さまの「献身」……。6年前の心臓手術の“舞台裏”がいま明かされる。2012年2月18日。東京大学医学部附属病院・入院棟14階の特別室をあとにした陛下は、美智子さま、黒田清子さんに見送られるようにして、午後9時24分、手術室にお入りになった。手術を担当したのは東京大学と、順天堂大学の合同チーム。執刀にあたったのは当時、すでに6,000例もの心臓手術を手がけ「神の手」と称されていた心臓血管外科医、順天堂大学医学部教授(当時)の天野さんだ。午後11時1分。天野さんの握るメスが陛下の胸に当てられる。歴史上初めての天皇の心臓手術、冠動脈バイパス手術が始まった。あれから6年――。手術前日、天皇皇后両陛下に直接、お会いして手術の説明をしたとき、経験したことのない緊張に包まれたと天野さんは明かす。「たった30分の説明が、3時間に感じられました。全身の水分が、全部背中から流れ出たみたいな感じ。普通だったら映像の中にいる人。会いたくたって会えない人。そういう人と、同じ空気のなかに、僕なんかがいていいのかなと。もう、それぐらい圧倒的に神々しい。オーラが違いました」説明をお受けになる両陛下のご様子を、天野さんは述懐する。「天皇陛下は泰然となさっておいででした。医療に対する信頼がおありだったんだと思います。手術のことも、最初からすべて受け入れてくださっていた。『何かご質問はありますか?』とうかがっても『お任せしてありますから』と」一方、陛下のお体をとても心配なさっていた美智子さまからは、「矢継ぎ早に多くのご質問を受けました」と天野さん。「皇后陛下はご質問をされるたび、必ず『そうでございましょう』と天皇陛下にご同意をお求めになっていました。それに対して陛下は『うん、そうね、そうね』と」天野さんは、お二人の深い絆が見えるようだったと語る。「天皇陛下がお生まれになってから、日本はずっと戦争のただ中でしたよね。そして、皇后陛下に出会うまでに、いろいろご苦労があったわけじゃないですか。皇后陛下のなかには『私がもっと早く出会い、少しでもその辛苦をご一緒に背負って差し上げられていたら』というお気持ちが強くあったと思う。その強い思いを、天皇陛下もきちんと受け止めていらっしゃって。だから、皇后陛下のおっしゃることは基本的にすべて肯定される。あのお二人は、まさしく一心同体、そう感じました」こうして迎えた2月18日。3時間56分に及んだ手術は、無事に終わった。手術が終わって1時間ほどで天皇陛下は麻酔からお目覚めになった。そして、美智子さま、清子さんのお見舞いを受ける。「術後のご面会で、天皇陛下は左手を皇后陛下、右手を清子さんにさすってもらいながら『気持ちいい』とつぶやかれていました。おそらく術後の痛みだってあったはずです。それなのに、決してお辛いところをお見せにはならない。手術前、偉ぶることなく全員にお声をかける陛下にも感動しましたが、ご自身の威厳をしっかりと保つお姿は、とても神々しく思えました」――半年後の’12年夏。両陛下は天野さんを食事会に招かれた。吹上御所の応接間の窓からは、満開のキスゲの花が見えたという。「皇后陛下が『奇麗でしょう、いまがいちばんの見ごろなんです』と説明してくださいました。天皇陛下は、キスゲの隣にあった大きな木をお示しになって『悠仁がカブトムシをよく捕りにくるんです』と。そのお顔からは、お孫さんのことが可愛くて仕方ないというお気持ちがにじみ出ているようでした」そのとき、御所で供されたのは松花堂弁当。その中にカツオの刺身が入っているのを見て、天野さんは驚きを隠せなかった。じつは手術後、天野さんは天皇陛下に、「ご回復のためにも食事できちんと栄養を取るよう心がけてください。タンパク質を取るには、これからの季節、カツオがおいしくて、よろしいと思います」と、進言していたのだ。美智子さまはにっこりほほ笑んで、天野さんにこうおっしゃった。「先生もお好きだとお話しされていたので、カツオをご用意しておきました」天野さんは美智子さまのお心遣いに「感じ入った」という。「ほかに注意点として『ケガに気をつけてください』と申し上げました。ケガをすると体力も落ち、生活の質も下がりますから。手術後、公務に復帰された両陛下が、腕を組む場面が増えたように感じませんか。ちょっとした階段などでも、皇后陛下は必ず、天皇陛下を支えられている。もしかしたら、僕の助言を皇后陛下がお聞き入れくださったのではないかと思います。内助の功の素晴らしさを拝見した気がしました」来年4月30日、天皇陛下はお元気なまま、ご退位の日を迎えられるに違いない。「200年ぶりといわれる歴史的な生前退位に、ほんのわずかでも関われたことはとても誇らしく、僕にとっては勲章のようなものです」
2018年10月19日「悪天候が心配されるなか、ようやく愛媛県・広島県の被災地を訪問された天皇陛下と美智子さまでしたが、そのお顔には深い疲労がにじみ出ていました」そう語るのは宮内庁関係者。7月初旬に甚大な被害を引き起こした西日本豪雨。両陛下はお見舞いのため、2日間で3県を回られる予定だったが、3度も日程が延期された。皇室担当記者は言う。「当初、両陛下は9月13日に広島県と岡山県の被災地を訪問される予定だったのですが、天候不良で14日に延期されました。14日も天候がすぐれず、なんとか岡山県には足を運ばれましたが、広島県へは、20日に予定されていた愛媛県ご訪問と同日に行う方向で再調整されたのです。それは数時間のうちに3度も自衛隊のヘリコプターに搭乗される強行スケジュールでした」ところが予備日だった20日も天候に恵まれず、21日に延期……。「延期のたびに宮内庁の説明も二転三転して、パニックになっているようでした。このような混乱は、平成の行幸啓で初めてではないかと思います」(皇室ジャーナリスト)被災地ご訪問が延期の連続となったのはなぜなのか。前出の皇室担当記者はこう語る。「両陛下は、被災地にお泊りになったり、交通規制が必要となるお車での移動をなさったりすれば、地元の自治体や警察などに多大な負担をかけると心配されたのです。そういった負担を最小限にするため、ヘリを使って移動時間を短縮した日帰り訪問となりました」ただ、ヘリの飛行は天候に影響されやすい。結果的には秋雨前線が日本列島にかかる時季だったことが、大きなネックになってしまった。9月6日には北海道胆振東部地震も発生した。国民の苦難に心を痛め、被災者に寄り添い続けてきた両陛下。しかし平成最後の1年に、記録的な大災害が頻発することに――。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんも両陛下の体調を気遣う。「80歳を過ぎたおふたりにとっては、長距離の移動だけでも大変お疲れになるものなのです。さらに予定変更や延期は無意識でもストレスになります。今年の7月には陛下が脳貧血でお倒れになっています。それでも万が一、新たな災害が発生したならば、どんなにお忙しくても両陛下は被災地に向かわれるはずです。負担も大きいヘリ移動などがこれ以上続けば、陛下、そして美智子さまもお倒れになってしまわないかと心配しています」被災地激励には、美智子さまの知られざる“苦悶”が隠されていたのだ。
2018年09月27日髪をアップにされ、白いスーツをお召しになった雅子さまがお見送りの言葉をかけられると、皇太子さまも晴れやかなご表情をお見せになった。9月7日の朝に出発された皇太子さまは、15日までの日程でフランスを訪問されている。「フランス政府から皇太子ご夫妻に招待があった公式訪問です。4月には、雅子さまも同行されるという報道があり周囲の期待も高まったのですが、実際にはまだ検討段階でした。9日間にわたる長丁場であり、ご滞在中も行事や交流会が目白押しの過密スケジュールということで、最終的に雅子さまのご同行は断念せざるをえなくなりました」(宮内庁関係者)外交官として活躍されていた雅子さまにとって、皇室外交に携わることはご結婚当初からの悲願。それゆえに渡仏断念はつらい決断と思われる。しかし、皇太子さまを見送られる雅子さまのご表情はとても明るかった。「外国への公式訪問ですから、国内の行啓のように行事ごとに出席するか否かを選択するのは難しいのです。すべての行事に出席されるか、ご訪問自体を取りやめるか、二者択一だったわけです。残念ながらすべてをこなすのは難しいと、雅子さまご自身が判断されたと聞いています。9月末には九州北部豪雨の被災地を訪問されるご予定もあり、そちらを優先したいというお気持ちもあったのでしょう」(前出・宮内庁関係者)立教大学教授で精神科医の香山リカさんは、こう話す。「主治医の判断に依存せず、ご自身でご公務への出席を判断されるようになっていらっしゃるならば、かなり回復されているとみてよいと思います」雅子さまの「劇的ご回復」があったからこそ、渡仏断念も前向きに受け止められたはずだと語るのは、皇室ジャーナリスト。「この夏のご静養先では、皇太子ご一家は駅頭の取材だけではなく、須崎御用邸、那須御用邸の中で記者に対応されました。雅子さまは今年6月の銀婚式では会見を見送られるなど、これまでは報道陣の取材に苦手意識を持っていらっしゃいました。それでも2度も積極的に取材対応をされたのは、雅子さまのご体調がよいことの証であると同時に、新皇后への決意の現れにも感じられます」皇太子さまはフランスへのご出発を前にした記者会見で、雅子さまの国際親善への関わり方についてこう述べられた。《外国への訪問だけではなく、賓客の受入れや日本で開催される国際的な行事への出席など、いろいろな形があります》《外国で暮らした経験、あるいは仕事で外交に携わってきたことは、必ず役に立つものと思います》前出の皇室ジャーナリストは、皇太子さまの発言に“新皇后”へのビジョンが垣間見えると語る。「皇太子さまが、雅子さまの外交官の経歴をこれほど強調されたことは、今までにありませんでした。このお言葉には、順調に回復されている雅子さまへの大きな期待がこめられていると思います。雅子さまの海外ご訪問が実現するには、まだ時間がかかるかもしれません。だからこそ皇太子さまは、まずは国内のご公務で外交官の経験を生かすことを提案されたのでしょう。雅子さまとおふたりで『新しい皇室外交』を築くことを切望されているのです」皇太子さまの後押しで、雅子さまは焦ることなく、“新皇后外交”への第一歩を踏み出される――。
2018年09月13日「おひとりさま」ってなんだか寂しいし、悲惨な感じ、なんて印象があるのでは?でも世の中には、おひとりさまを思う存分楽しんでいる女性も大勢いますよね。今回は、そんな素敵な「おひとりさまライフ」のヒントとなりそうなマンガを2つご紹介します。■不幸っぽいのに、なぜか楽しそう『幸子、生きてます』(柘植文/講談社)主人公は市役所に勤める金子幸子、33歳。“金も幸せも子もない”と自虐的に言うおひとりさま女子です。欠陥マンションに住み、元カレにお金を貸し、婚活パーティに行っても収穫ナシ……。そのようなシングルライフなのですが、なんだか楽しそう。あるときは、周囲から“お似合い”と言われた図書館司書の男子・飯田さん(35歳)とデートへ。飯田さんは若いギャルが好きで、幸子はいつもあやうい人に惹かれてばかり、という共通点を見つけ、恋愛感情を持たぬまま共感し合うふたり。そこで愛が芽生えないのが面白すぎます。33歳ながら男性とのお付き合いの経験がないエミちゃん。美人なのに不倫にハマっているユリちゃんといった女友達も強烈。特筆すべきは、幸子のハンパない妄想力。その妄想プロセスがとにかく楽しいんです。今日も真実の愛を探して生きる……シュールでフフッと笑ってしまう幸子の世界に、あなたも迷い込んでみては?■地味なお局さんの裏の顔は!?『セクシー田中さん』(芦原妃名子/小学館)主人公は、23歳のOL朱里。頻繁に合コンに顔を出し、それなりにモテている女子です。その朱里が密かに注目しているのが、経理のアラフォーお局・田中さん。ロングヘアにひっつめ髪&眼鏡という地味な出で立ちですが、朱里は彼女のナイスバディが気になって仕方ありません。「絶対、何かやっている」と田中さんをウォッチ。実は田中さんには、セクシーなベリーダンスを踊る女、という別の顔があったのです。そんな田中さんに憧れを抱いた朱里は、同じようにベリーダンスを習うなど、自分をどんどん変えていくことに……。そこに男友達、合コンで知り合った男子との恋愛模様などが絡んでいきます。とにかく田中さんの豹変ぶりが楽しいのでおすすめ。普段は地味だけど裏の顔は……っていう女性、現実にもたまにいますよね!■終わりにちなみに『幸子、生きています』の幸子はアルゼンチンタンゴを習い、『セクシー田中さん』の田中さんはベリーダンスを踊ります。どちらも色っぽいダンスなので、マイペースなおひとりさまは、そういう踊りと縁があるのかしら?なんて面白く感じました。おひとりさまだからと言って日々、暗い顔をしているのではなく、自分らしく楽しんでいる女性は魅力的です。読めば「こんな“おひとりさま”ライフなら、ちょっといいかも」と思え、なんとなく気分がラクになるマンガたち。おひとりさまに飽きている人も、今の恋愛にお疲れ気味の人も、ぜひ手に取ってみてくださいね!
2018年07月14日2018年6月27日発売のanan「やっぱりにゃんこLOVE猫さま特集」で、特別賞に輝いたのはピコさま。今回は毛がない種類のスフィンクスであるピコさまの、未掲載の学術的?! な写真を紹介します!文・野尻文代つっこみどころ満載のルックス&しぐさは一度見たら病みつき!猫(毛のある)を飼っている人なら「猫の手ってこんなふうなの!?」と驚くであろう一枚。ピコさまは至ってご機嫌の様子ですが。特別賞受賞ピコさまプロフィール:スフィンクス・6歳・オス。一見、コワモテだけど、実は甘えん坊でとても優しい性格。テレビの上で寛ぐのが大好き。パンチのある写真で強烈な爪痕を残したピコさま。スフィンクスのセクシーな無毛感に目を奪われがちだけど、よく見れば変柄でぽっちゃりさん。そして、しぐさがとてもチャーミング! つっこみどころ満載で中毒性ありの猫さまです。どーんと、後頭部(でも、頭は小さいのだ♡)。頭や首のしわしわを、びよーんと伸ばしてみたい衝動に駆られます。さて、この物体はなんでしょう? 丸くなっているピコさまの後ろ姿です。ちなみに、肌ざわりは生八つ橋だそうですよ。蝶ネクタイをしておめかしするピコさま(たまには、キリッとね!)。しかし、ちょっとヒトっぽく見えなくもないですね……。気持ちよさげだけど、寝顔もなかなかの迫力。でも、じーっとみていると味わい深くてかわいくみえてくる……。あれ、ワナかしら?友だちとほっこりツーショット? と思いきや、「亀にごはんと間違われて食べられそうになっている瞬間です」とのこと。亀、強気やな……。Informationもっとピコさまを見たいなら!『anan』2108号(6/27発売)「やっぱり にゃんこLOVE」お近くの書店、ネット書店でお求めください。
2018年07月01日2018年6月27日発売のanan「やっぱりにゃんこLOVE猫さま特集」で、準グランプリに輝いたのは、いなほさま。今回はいなほさまの、未掲載の秀逸な写真を紹介します!文・野尻文代おもしろキャラは仮の姿!? 実はツンデレ系貴公子。これがいなほさまの十八番、つかまり立ち。バーレッスン中のバレリーナさながらの美しい立ち姿には、ドヤ感すら漂う!?準グランプリ受賞いなほさまプロフィール:スコティッシュフォールド・3歳・オス。特技はつかまり立ち。大きなゴミ袋が大嫌いで、見るとスタコラサッサと逃亡。“ツン95:デレ5(飼い主さん調べ)”のザ・ツンデレ猫のいなほさま。そんな気位の高さを微塵も感じさせない、ひょうきんな顔や動きのお宝画像はまだまだありました。でも、それもまた世間を欺く姿なのでしょうか?「ここ、どこ?」。洗濯機の中に入りこんで戸惑う子猫の頃。くっきりと濃い鼻の黒い模様がチョビヒゲみたいでナイスです〜。キャットタワーの最上段で見張り番をしているうちにスヤスヤ(任務をサボっています)。その寝顔は餅のよう。癒されますね〜。なんと気持ち良さそうなバンザイポーズ! って、もしかしてその格好でまだ寝てる? 楽しい夢でもみてるんでしょうね、きっと。「ヒャーーっ!? なんだよ!!」。高い所にいるから覗き見されないと油断してましたね。これぞ、猫がギョッとした時の顔のお手本です。もふっと首が埋もれてフクロウのよう!? というか、ものすごい置物感! お餅みたいな丸顔も横から見ると頭ぺったんこでした。Informationもっといなほさまを見たいなら!『anan』2108号(6/27発売)「やっぱり にゃんこLOVE」お近くの書店、web書店でお求めください。
2018年06月30日2018年6月27日発売のanan「やっぱりにゃんこLOVE猫さま特集」で、準グランプリに輝いたのはこむぎさま。今回はこむぎさまの、本誌に掲載できなかったけどすごく萌える写真を紹介します!文・野尻文代クールビューティーが見せる無防備さと毛割れにキュン♡大好きな人の前でのみ披露する秘技、おばけポーズ。胸元や前脚にはマニア垂涎の毛割れが。顔をうずめてスーハーしたい!(変態)準グランプリ受賞こむぎさまプロフィール:ブリティッシュショートヘア・3歳・メス。猫じゃらしより、かくれんぼ派。爪切り、抱っこ、掃除機、ドーム型ベッドは苦手。整った顔にシックなグレーの毛並みがお美しいこむぎさま。初めて聞く音はどんなに小さくてもビックリする超ビビリだけど、ご主人の前では素の姿を数々と披露。その無防備な姿と自慢(?)の毛割れをご覧あれ!「おかわりちょーだい」。眼光鋭く、舌なめずりしながら歩く姿は、まだまだおなかが満たされていない様子。そして、けっこうワイルド!シャワー中のムッとしている顔を激写!「レディの入浴をなんで撮ってるのよ(怒)」。貧相に変貌したお姿は足もとを見れば想像が……。油断して寛いでいる背後からパシャリ(耳はこっち向いてるけど)。ぷりっとした後ろ脚からお尻のラインがなかなかセクシー!あ、モノマネクイズですか? わかりますよ〜、「家政婦は見た!」のですよね? 「古っ! 違うわよ! “ひょっこりはん”よ」。「助けて〜〜!!」。勢いでおもちゃを追いかけてきたものの、登ることも降りることもできずにジタバタする子猫時代。かわいい♡Informationもっとこむぎさまを見たいなら!『anan』2108号(6/27発売)「やっぱり にゃんこLOVE」お近くの書店、ネット書店でお求めください。
2018年06月29日