6月20日、日本芸術院賞授賞式に出席された雅子さま。初夏らしい白の装いで、受賞者と懇談された。皇后となられてからの装いを拝見すると、雅子さまは白がお好みのよう。ファッション評論家の石原裕子さんに、雅子さまの白の装いについて伺った。「日本芸術院賞授賞式のお召し物は、トランプ大統領夫妻の歓迎行事でもお召しになっていました。しかし、細やかなところに雅子さまのお心遣いが感じられます。元モデルのメラニア夫人のお迎えでは、アクセサリーを大粒パールのグラデーションネックレスにされるなど、小物でゴージャスさを演出されていますが、芸術院賞授賞式では控えめにされています。お会いになる方によって使い分けられているのです。また、白は最も高貴で皇后らしさを感じる色。“皇后として、身も心も清らかで純粋に”との思いが込められているように感じます」特に、蒸し暑い時期に白をお召しになることが増えた雅子さま。暑さを吹き飛ばす、爽やかな白コーデを振り返ります。【’19年5月27日】トランプ大統領夫妻の歓迎行事。ネックレスは芸術院賞授賞式のときよりもやや長く、豪華な雰囲気。【’19年6月17日】日本学士院賞授賞式にご臨席。ジャケットの襟、袖口にブレードを飾った華やかなセットアップ。お帽子のリボンにもブレードが。【’19年6月21日】ノーカラージャケットの丸襟に美しく沿う、パールのステーションネックレスを。優しい雰囲気の装いで港区の麻布保育園をご訪問。【’19年9月7日】秋田県で全国豊かな海づくり大会の絵画・習字優秀作品をご覧に。襟元や袖口、裾にフリルをあしらった女性的なジャケットで。【’19年9月24日】目黒区の高齢者センターへ。ノーカラーのツイード風ジャケットにややロング丈のフレアスカートを合わせられ、柔らかい印象を演出。【’21年9月6日】赤坂御所から皇居にお引っ越しの際はシャープなカッティングのセットアップを。ブローチとイヤリングはゴールドのものをお使いに。【’22年6月14日】沖縄本土復帰50周年記念特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」に。パンツスーツに淡い色のスカーフを合わせカジュアルな装い。
2022年07月02日担当者の説明にうなずきながら、沖縄返還にまつわる資料を真剣な表情でご覧になった天皇陛下と雅子さま。お二人が特別展「公文書でたどる沖縄の日本復帰」を鑑賞するために、国立公文書館に行かれたのは6月14日のことだった。雅子さまが同館を訪問されたことに、皇室担当記者は胸をなでおろしたという。「雅子さまの“腰のご不調”が大変心配だったからです。“腰の調子がよくない”という理由で、予定されていたご養蚕行事『初繭搔き』を取りやめられたのは6月8日のことでした。作業には腰をかがめる動作なども必要となりますので、それがご負担だったようです。雅子さまのご体調について、不良な体の部位が明確に公表されるのは大変珍しいことなのです」だが2日後の6月10日、宮内庁担当記者たちからの質問に、侍従次長はこのように答えるばかりだったという。「皇后陛下の腰のお痛みにつきましては、だいぶ落ち着かれたようです。ただ女性の体調に関わるお話ですので、どういった症状であるのかなどは、私のほうからお伺いすることは控えておりますので、詳しくはわかりません」ご不調の原因は明らかにされなかったのだ。さらに1週間後の16日になっても侍従次長は、「(皇后陛下の腰については)完全にお痛みがなくなったわけではないようです」と、コメントを……。前出の皇室担当記者が続ける。「実は4年前、’18年6月にも、当時皇太子妃だった雅子さまの“腰のお痛み”が公表されているのです。当時、東宮大夫は“車での移動をはじめ、立ったり座ったりする際にお痛みを伴う”と、説明していました。医師の診断は『腰椎ねんざ』。しかしこのときも原因は明らかにされず、東宮大夫は『お疲れもたまっていたと思うが、それが直結しているかはわからない』と、語っていました」“原因不明の腰の爆弾”を抱えられている雅子さま。腰や首の不調は、“皇后の職業病”とも言われているという。宮内庁関係者が解説する。「式典などで来賓席に一度座られたら、背筋を伸ばし身じろぎすることもできません。ずっと同じ姿勢を保つことは、腰や首にかなりご負担になっているはずです。また地方にお出かけになり、地元の人々とお話しになる際は、視線を相手に合わせるために、腰をかがめられています。皇后さまは東日本大震災の後に、避難所なども訪問されましたが、いつも床に膝をつけて、被災者と長時間にわたってお話しになっていました。さらに言えば、宮中祭祀も天皇陛下よりご負担が大きいといわれています。天皇陛下の正装は束帯、皇后さまは十二単をお召しになります。皇后さまの『おすべらかし』の御髪(おぐし)は首などに重圧がかかります。美智子さまも70代後半からは、お体への負担を考慮され、欠席されることも増えたのです」皇后になられて4年目、58歳の雅子さま。58歳というご年齢は“皇后の鬼門”なのかもしれない。「美智子さまが精神的なショックの積み重ねから、お倒れになったのが’93年10月、59歳のお誕生日のことでした。その後、しばらく声を出すことができない症状が続きました」(前出・皇室担当記者)■ストレスが腰痛を引き起こすケースも美智子さまが失声症を発症されたのは59歳だったが、58歳当時は被災地ご訪問などの過酷なスケジュールに疲弊し、またご自身への心ないバッシング記事に胸を痛めていらしたという。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「バッシング報道は、皇室改革を進めてこられた美智子さまへ、保守派の反発が向かったことが原因だったといわれています」美智子さまが58歳といえば、皇后になられて4〜5年目。雅子さまも同様だが、一心不乱に邁進された心身のお疲れが蓄積してきた時期ということなのか。精神科医の香山リカさんは次のように語る。「雅子さまが腰に違和感を覚えられていると伺い、心配しております。実は整形外科の医師から受けたレクチャーによれば、腰の痛みの70%は原因がわからないというのです。さらに、原因不明の方の多くが、心因性によるのではないかとも指摘していました」確かに厚生労働省のHPでも、《ストレスが腰痛を引き起こすメカニズム》について詳細に説明されている。香山さんは、こう続ける。「60歳の手前である58歳ごろは、自分の人生を振り返り、やり残したこと、やれなかったことなどを思い出し、精神的な苦痛が生じやすい年齢といわれているのです」美智子さまが危機を乗り越えられたのは、長女・黒田清子さんの尽力も大きかったという。「清子さんが中心になって、御所に音楽家を招いて、美智子さまがお好きな作曲家のシベリウスの曲の演奏会を開かれるなど、お心安らかに過ごせるお時間を作ったのです」(前出・渡邉さん)すると雅子さまが現在の危機を脱するためにもご家族のサポートが必要となるのだろうか。「『初繭搔き』を取りやめられてから、3日後の6月11日、雅子さまは紅葉山御養蚕所に赴かれたのです。お痛みをこらえてのお務めを心配されたのでしょう。天皇陛下と愛子さまも合流され、作業をご一家で行われました。詳細は明らかにされていませんが、雅子さまが声を出して笑われる場面もあったと伺っています」(前出・宮内庁関係者)腰痛に悩まれる雅子さまにとって、陛下と愛子さまとお過ごしになるひとときが、何よりの癒しになっているのだろう。
2022年06月23日1958年、NHK局員だった金子鮎子さん(88)は、ご婚約直前の美智子上皇后のお姿を撮影できたことが認められて、日本初の女性テレビカメラマンになることができた。順風満帆にみえた金子さんだが、紆余曲折を経て精神障害者支援への道を歩んでいくことになる。【前編】日本初の女性テレビカメラマン明かす「美智子さまご婚約直前の極秘撮影」秘話から続く■社会的に孤立していた精神障害者に寄り添いたかった念願のカメラマンになった金子さんは、事件があれば米国製の16ミリカメラを手に局を飛び出した。1964年の東京五輪では、女子選手村に入り、選手たちのプライベート映像をカメラに収めた。女性として第一線で働く金子さんの姿は、美智子さまと同様に時代の華として、週刊誌などでもたびたび紹介された。順風満帆に思えた金子さんのキャリアに転機が訪れたのは、カメラマン9年目の1968年。広報室へと異動になったのだ。金子さん35歳のときだった。「当時はまだ、労働基準法の保護規定で、女性の深夜労働が禁止されていたんです。キャリアを重ねたら多少お給料は上がるけれど、深夜労働ができない女性は、デスクとしては使いにくい。今なら問題でしょうが、当時は仕方ないと思いました」だが、転んでもただで起きない。これを機に、幼少期から関心があった心理学について学ぼうと、週に1度、仕事帰りに東京カウンセリングセンターに通い始めた。「そこの先生が、うつ病の当事者が集まる会を作ったというので、手伝いに行くようになったんです」ここで出会ったのが、心の病いに苦しむ当事者や、その家族だった。「幻覚や妄想などがある統合失調症は、10代で発症する人も多く、回復までに長くかかります。ひきこもりになると、本人も家族も苦しいし、家族間の関係性も悪くなってしまう。さらに、周囲からは偏見の目を向けられて、社会で孤立していました」幼少期の劣等感が思い出され、人ごととは思えなかった。「人は誰しも、深刻な出来事が重なれば心の病いになりかねません」金子さんは、知り合いの精神科医やカウンセラーなどと一緒に、1971年に障害当事者が集まる「日曜サロン」と、家族が集う「家族会」をオープン。「日曜サロン」は、現在までなんと50年以上も続いている。「心の病気のことって人に話しにくいじゃないですか。だから、心置きなく話せる場所を作れたらと思ってね。じっくり話を聞くだけでも、ご本人や、お母さんの表情が柔らかくなるんです。お母さんは、子どもにつらくあたったりしなくなるし。それだけでも、ずいぶん親子の関係性が変わるんですよ」■精神障害者でも働ける社会へーー株式会社を設立当事者やご家族から厚い信頼を得るようになった金子さん。NHKの勤務がない時間は、精神障害者宅を訪問して話し相手になったり、精神障害者を支援する会で病気のことを学んだり……。「仕事や勉強で手いっぱいで、結婚には前向きになれなくて」金子さんは、結婚より精神障害者と共に歩む道を選び取っていた。そんななか、「働いて自立したい」という精神障害当事者が多いことに気づく。「当時、NHKに入っていた清掃会社にお願いしてまわり、精神障害者の方を数名、雇ってもらったんです。いきなりフルタイムは無理でも、一日数時間から徐々に延ばしたら、長く働ける人もいてね。サポートすれば精神障害があっても、ご本人次第で働けると確信しました」NHKで働きつつも、金子さんの心には、「精神障害者と共に働く会社をつくりたい」という思いが年々膨らんでいった。「私は医師でも保健師でもない。だから“支援”なんていう上から目線じゃなくて、手助けしながら“一緒に”働きたい。ただそれだけでした」1988年、金子さんはおよそ34年勤めたNHKを55歳で定年退職。翌1989年、志を同じくする仲間と共に、精神障害者が働く清掃会社、株式会社ストロークを起業する。障害者は数百円の工賃しかもらえない時代、社会福祉法人などではなく、株式会社にこだわったのは「障害があっても仕事に見合う賃金が支払われるようにしたかったから」と金子さん。社名のストロークには、なでる、さするなどの意味がある。「赤ちゃんでも、スキンシップや周囲からの声かけが多いほどすくすく育つでしょう。そんなプラスのストロークを、もらうだけじゃなく、障害があってもこちらから発信して社会の役に立ちたい。社名にはそんな思いを込めたんです」金子さんの熱意を目の当たりにし、応援団は増えていく。「NHK時代の仲間や地域医療に関わってきた医師、たくさんの支援仲間、そして他界する直前だった父も株主になってくれて。起業を後押ししてくれました」一方、美智子さまは、1989年に昭和天皇が崩御し現在の上皇陛下が天皇に即位されたことで、初の民間出身の皇后になられる。新しい時代の扉は開きつつあった。■村木厚子さんらと実現した障害者雇用の道金子さんは、清掃会社でアルバイトをしながらノウハウを学んだ。しかし、簡単に事は進まない。「働きたい思いはあっても、社会経験がなかったり、薬を服用しているせいで朝起きられなかったりする人も少なくありません。『睡眠薬を飲んだので、明日は起きられません』と夜中に電話がかかってくることもあります。ですから私は事務所で寝泊まりして、急に休む人が出た場合は、代わりに現場に入る準備をしていました」事なきを得たからよかったが、金子さんは脳梗塞で倒れる71歳まで、事務所で寝泊まりする生活を送っていたという。みずからの命を削りながらも、金子さんは、精神障害者の人たちが働けるようになるまで「待つ」ことを諦めない。「一日数時間、週に数回のシフトから始めて、慣れたら入る時間や回数を増やしていく。そうすると、うまくいく場合が多い。調子が悪いときは、調子のいい誰かが入る。サポートがあれば、障害があっても職を失わず働き続けられるんです」金子さんの愛情は、障害当事者にもしっかり伝わっていった。勤続27年目のスタッフで統合失調症の持病がある只隈光人さん(65)は、こう振り返る。「入社してしばらくは、調子が悪いとすぐに仕事を休んでいました。でも金子さんは一度も怒らず、『仕方ないわね』とカバーしてくれた。でも、私が休むと、日ごろから無理をしている金子さんの負担がさらに増えてしまう。そう気づいてから仕事を休まなくなりました」とはいえ、一企業ができることには限界がある。金子さんの目標は、精神障害者の人たちが当たり前に働き、自立できる社会の仕組みをつくることだった。そのために、次々と各方面に働きかけた。「通称“職親会”といって、精神障害者の社会復帰のために働く場を提供してくれる小さな事業者(職親)の集まりがあるんです。こうした職親の取り組みを広く紹介したり、2000年からは2期にわたって厚生労働省主催の委員会の一員になり、どうやったら精神障害者が就労できるか、具体策を示して民間企業へ雇用を働きかけたりしました」当時から一定規模以上の企業は、身体・知的障害者を雇用せねばならない義務があった。しかし、精神障害者に関しては理解が進まず、雇用義務から外されていたのだ。さらに金子さんは、障害者雇用に道を開いた、当時厚労省の局長だった村木厚子さんの勉強会にも積極的に参加した。「いろんな障害者支援のグループの方々が夕方、厚子さんの局長室に集まって意見交換するんです。厚子さんは、こちらの意見にも熱心に耳を傾けてくださって、精神障害者の雇用を増やすために一緒に考えてくださいましたね」これらの勉強会を経て、2006年には「障害者自立支援法」が成立。障害者雇用促進法も改正されて、2018年ようやく企業での精神障害者の雇用も義務化されたのだ。「長い道のりでしたが、やっとスタートラインに立てた。そんな気持ちでしたね。私が起業したころは、ハローワークの人に『精神の病気を治してから来てください』と言われる時代でしたから」金子さんの脳裏には、これまで泣き笑いしながら共に働いてきた仲間たちの顔が浮かんでいた。■天皇皇后両陛下に謁見。陛下は驚かれて……64年前、正田邸で出会った若かりし日の美智子さまと金子さん。2021年12月20日、時代を経て2人の人生が再び“接近”する出来事があった。金子さんが、福祉の道で貢献した個人や団体に送られる「第73回保健文化賞」を受賞したのだ。同賞の受賞者は天皇皇后両陛下に謁見することが慣例となっており、金子さんは今上陛下と雅子さまにお会いすることができた。「陛下にこれまでの取り組みを申し上げると、陛下は、『それは大変でしたね……』と、私の話に熱心に耳を傾けてくださいました」天皇陛下の福祉へのご関心の高さは、母である美智子さま譲りなのかもしれない。ご成婚の年である1959年7月に、母子愛育会をご訪問されたときから、美智子さまの福祉施設へのご訪問は始まった。それから、半世紀以上にわたって、全国の福祉施設や病院を訪問され続けた。こうしたお姿が、国民にとって御簾の向こうにあった皇室を身近なものにしたことは間違いない。「美智子さまが訪問された病院を、直後に、厚労省の委員として視察に行ったこともありました。美智子さまも障害者の支援に、ずっと熱心でいらっしゃいました」お代替わりもあって、残念ながら美智子さまにお会いすることはかなわなかったが、お志を継がれた天皇皇后両陛下に、金子さんはこれまでの活動をご報告できた。「陛下には、美智子さまをご婚約内定前に撮影させていただいたお話もさせていただきました。そうしたら『ほぅ』と驚いていらっしゃったわね(笑)」皇室の扉を国民へーー。就労の扉を精神障害者へーー。64年前、夢と希望を胸に抱いて、同じ部屋でひとつの時を共有した2人の女性たちは、とびきりの勇気と優しさで、固く閉ざされていたドアを開いたのだ。
2022年06月12日国民にとって、遠く離れていた皇室の存在を、一気に身近なものにされた美智子上皇后。ご婚約とともに始まった空前の“ミッチーブーム”の陰には、じつはひとりの女性がいた。その名は、金子鮎子さん(88)。元NHK職員で、日本初の女性テレビカメラマンであるとともに、精神障害者支援の第一人者でもある。■NHK職員から精神障害者支援へーー「美智子さまの肌は透けるように色白で、映像や写真で見るよりずっとおきれいでした。私がテレビカメラを構え、お母さまの正田富美子さんが、『ちょっとこちらを向いて』とおっしゃると美智子さまは、真正面から横顔を見せてくださって。どの角度からカメラに向かうと、お嬢さまがより美しく見えるか、ちゃんと分析していらっしゃるんだ、と感心しましたね」金子さんは64年前をそう振り返る。1957年に軽井沢でのテニスを通じて知り合われた上皇陛下と美智子さま。翌年に婚約を発表されたが、その直前の“正田美智子さん”時代の貴重なお姿を、当時NHK職員だった金子さんはカメラに収めていた。初の民間出身の皇后として、国民に寄り添う皇室への扉を開かれた美智子さま。一方、美智子さまより一つ年上の金子さんも、日本初の女性テレビカメラマンとして男女の雇用格差が大きかった高度経済成長期に、女性が第一線で働くことへの扉を開いた先駆者といえるだろう。さらに金子さんが開いた扉はもうひとつーー。55歳でNHKを退職した金子さんは、精神障害者を雇用して清掃の仕事などを請け負う株式会社ストロークを設立。障害者のなかでも働くことが難しいとされてきた精神障害者の就労への道を開いてきた先駆者でもあるのだ。「そんなことがあったのね。報告ありがとう。いま来客中だから、あとからもう一度かけてね」取材中にも、金子さんの元には、精神障害者の知人から何度も電話がかかってくる。「今、電話をくれたのは一人暮らしの70代の男性です。今日はこんなことをしたとか、日々の出来事を私に報告してくれるの。そうすることで生活のリズムが整うんでしょう」夕方からは、オンライン会議システムのZoomで、支援団体らとミーティングがあるという金子さん。ネットも使いこなす88歳のキャリアウーマンだ。「起業するときには、精神障害者と一緒に働く会社をつくるなんて、そんな無謀なことはおよしなさいと周囲から止められて。でも、あれから33年、ようやく時代が追いついたような気がします」症状に波がある精神障害者は、一人ひとりに応じたこまやかな配慮が必要になる。そのため、精神障害者の雇用に後ろ向きな企業が多く、長らく就労の道は閉ざされていた。「精神病院から退院しても、行き場がなくてひきこもりになる人が多くてね。封筒貼りなど簡単な作業をすることはあっても、一日300円ほどの工賃しか出ません。『自立したい』という精神障害者の人も多いのに、働けなければ自立することもできない。それが起業したきっかけなんです」そう動機を語る金子さんだが、華やかに見えるマスコミの世界と、精神障害者支援は結びつきにくい。その答えは、金子さんの生い立ちに秘められていた。■幼少期からフロイトに興味があった金子さんは1933年、東京生まれ。父は英語が堪能で、文化芸術をこよなく愛する自由人。母は武家育ちで家族思いの人だったという。金子さんが5歳のとき、病弱だった弟が亡くなり、翌年妹が誕生。そのころから金子さんは、「ご飯が食べられない子」になってしまう。「とにかく食べるのが遅くてね。いつも父母から、『ご飯もろくに食べられないんじゃ、しょうがない』と言われていました。ですから私は、自分はダメな子だ、と思っていたんです」また、小学生のころ、「もっと音楽に親しんでほしい」と望んでいた母の期待に応えられなかったことも、心に暗い影を落とした。「母の期待どおりに音楽の道に進んだ妹と自分を比べたこともありました。妹の中学受験と私の大学受験の日が重なったのですが、母は妹の弁当だけ作って、『ひどいものだ』と笑い話になりました」今は、そう言ってほほ笑む金子さんだが、幼少期から思春期にかけては劣等感を抱き続けた。「自分は、世間一般からずれている。いつもそんな葛藤がありました。だから、のちに精神障害者の方たちと出会ったとき、自分も遠くない場所にいると感じたんです」女性でも、ハンディキャップがあっても、“働く”ことの重要性に気づいたのも、このころだ。「私が5歳のとき、母は私たち子どもの手を引いて家出したことがあるんです。仕事を見つけるために家政婦紹介所に行ったんですが、職員に『子ども連れじゃ働けない』と一蹴されてしまって」そんな母の姿を見た金子さんは、「仕事を持って自立しよう」と心に決めたという。一方で、人の心の動きに興味を持ち始めたのもこのころだった。「幼いころ、祖母や叔父たちも一緒に住んでいて、よくみんなでフロイトの夢判断の話をしていました。子ども心におもしろそうだなと聞いていたんです」次第に戦時色が濃くなり、時代はもの言えぬ空気に包まれていく。「学校の先生は『神風が吹く』なんて言っていましたが、父は、『日本はこの戦争に持ちこたえられないかもしれない』と言ったことがありましたね」父の言葉どおり、日本が敗戦したのは、金子さん12歳のときだった。中学・高校の成績は優秀で、飛び級で1年早く大学進学を迎えた金子さんは、1951年に早稲田大学文学部英文学科に入学する。「学生運動が盛んな時代でしたが、文学部の図書室に、ずっと読みたかったフロイトなど、心理学の蔵書がたくさんあって、それを読むのに夢中でした。幼いころから、母との関係性において葛藤する自分がいましたから、なぜ自分がそんな気持ちになるのか、なぜ心が揺れるのか。自分の中で心の動きを探る日々でした。生きていくうえでの訓練みたいなものだったかもしれません」1955年、金子さんは文系の女子に門戸を開いていた数少ない企業の中からNHKの採用試験を受け、見事合格。21歳で入局する。「これでようやく仕事を持って自立できる、とホッとしましたね」■ご学友のふりをして正田邸へ。国民が美しさに騒然時代は、家庭にテレビが普及し、テレビ業界が発展していく黄金期に入ろうとしていた。1年目は人事部に配属されたが、「どうしても現場に出たい」と上司に懇願し、2年目からはテレビジョン局映画部に異動。当時は、海外のニュース映像をそのまま輸入していたので、アナウンサーが読む海外ニュースの原稿を作る業務を担当することになった。さらに、手が空いたときは国内ニュース取材班の照明係も買って出て、撮影技術も学んだ。そんなとき、大きなチャンスが舞い込んでくる。ご婚約の内定発表直前の美智子さまをご自宅で取材できることになったのだ。「当時、発表されていなかったものの、美智子さまが皇太子殿下のご結婚相手の最有力だと言われていて、取材が過熱しないよう各社取材協定を結んでいました。でも、私は正式なカメラマンじゃなかったから協定は無関係ということにして(笑)。同じ部署に美智子さまの同級生が在籍していたので、彼女と一緒に、美智子さまのご学友として、正田邸にうかがうことになったんです」NHK内部でも知っているのは一部のみの極秘任務。「本番で失敗しないように、家で妹にピアノを弾かせてね。この角度から撮るとうまく撮れるとか、何度も撮影の練習をしましたよ」こうして迎えた取材当日。金子さんはテニスウエアに身を包み、マスコミが張り込みをする前を、美智子さまの同級生とともに正田邸の門をくぐった。「あのときはヒヤヒヤしました。各社の協定を破って出し抜いているわけですから(笑)」美智子さまを一目見たとき、その美しさに息をのんだという。「お花を生けておられるところや、ピアノを弾いておられるところなど、何カットか撮影させてほしいとお伝えしていたんですけど、お母さまが的確に指示してくださって。おかげで撮影はスムーズでした」この映像が放送されると、大きな反響を呼んだ。清楚な衣装で、ショパンの『夜想曲第2番』を弾かれる美智子さまの美しい横顔に世間はくぎ付けになった。空前のミッチーブームが始まったのだ。「最初、他社は提供された写真を放送したのだと思ったみたい。でも写真が動いたものだから、みんな驚いたそうです(笑)」これが認められ、翌1959年、正式にテレビニュースのカメラマンになることができた。日本初の女性テレビカメラマンだった。美智子さまの美しい横顔が、金子さんの運命を拓いたのだ。撮影から64年後、金子さんは天皇皇后両陛下に謁見する機会を得て、両陛下にこの思い出をお話することになる……。【後編】金子鮎子さんが開いた“精神障害者雇用への扉”天皇陛下にご報告もへ続く
2022年06月12日2022年6月9日、明仁上皇陛下と美智子上皇后陛下が、ご夫妻そろって都内の博物館の特別展を鑑賞されました。ご夫妻そろって、展覧会の会場に訪れられたのは、約1年7か月ぶり。博物館では、ご夫妻が長年心を寄せる、沖縄の本土の復帰50年を記念した特別展を鑑賞されています。午後5時前、東京・台東区の博物館に到着したご夫妻は、関係者と挨拶を交わし、腕に手を添えて館内に入られました。FNNプライムオンラインーより引用元は、同月2日に予定されていた訪問でしたが、上皇さまの体調を考慮し、大事を取って延期されていました。また、上皇さまの体調は普段通りに戻られたとのことです。このニュースに、「よかった」「無理はなさらないでほしい」など、安堵や心配の声が上がっています。また、博物館内を手をつなぎ、鑑賞されたご夫妻の姿に「こんな夫婦になりたい」といった声も上がりました。これからも、仲むつまじいご夫妻の姿が見られると嬉しいですね。[文・構成/grape編集部]
2022年06月09日夕暮れ時の東京・上野。報道陣が待ち受ける中、到着した車から天皇陛下に続いて、雅子さまが降りられた。5月25日、両陛下は特別展「琉球」をご覧になるため東京国立博物館にお出ましになったのだ。「報道陣にはもともと、天皇陛下お一人でご覧になるとアナウンスされていました。雅子さまも体調を整え、行かれることになったようです」(皇室担当記者)雅子さまのご同行は“サプライズ”だったのだ。両陛下は、15世紀に制作された「銅鐘旧首里城正殿鐘」という銅製の鐘について説明を受けた。雅子さまは、鐘の穴や凹みをご覧になって「やはり戦争の傷ですか」などと質問されていたという。この2日前、天皇陛下は、就任後初来日となったバイデン米大統領と御所で面会されている。だが、その席に雅子さまはいらっしゃらなかった。陛下はご自身と米国との関わりについて発言するなかで「皇后も高校、大学を米国で過ごし、たくさんよい思い出を持っています」と、雅子さまについても言及。さらに帰り際には「次回は皇后を交えてお会いしたいです」とお伝えになった。接遇の場に姿をお見せにならなかった雅子さま。だが、前出の皇室担当記者は「この選択に雅子さまの信念を感じる」と語る。「今回は、バイデン大統領は夫人を伴わない来日であったため、外交儀礼上、陛下との一対一の面会となったのは自然なことです。とはいえ、天皇ご一家のお住まいである御所での面会ですし、玄関での出迎えや見送りで雅子さまが挨拶される可能性は高いとみられていました。皇后となられて1年目に、当時のトランプ米大統領と通訳なしでお話しになる姿が話題になったように、国際親善は雅子さまの資質がもっとも輝くお仕事といっても過言ではありません。それでも雅子さまは、2日後にある琉球展に確実に同行したいとお考えになって、バイデン米大統領との面会を見送られたのではないでしょうか」雅子さまはいまだに適応障害の療養中であり、“体調の波”がある。短期間に複数のご公務に出席するのは大きな負担だ。そういった状況下で、沖縄関連の公務を優先するという選択の陰に、いったいどんな決意があったのか。■天皇陛下の目に光るものが…5月15日、沖縄復帰50周年記念式典に両陛下はそろってオンラインで出席されている。陛下は、お言葉のなかで沖縄の“犠牲”について言及された。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから(命こそ宝)』の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます」さらに、沖縄の発展や県民生活の向上などに触れたうえで、次のように述べられたのだ。「一方で、沖縄には、今なおさまざまな課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解がさらに深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています」 近現代の皇室に詳しい、歴史学者で名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんは「沖縄には『今も課題がある』と明確に述べたことは大きな意味がある」と語る。「政治的な発言ができない天皇の立場から、慎重に言葉を選んだのでしょう。『さまざまな課題』という言葉で、米軍基地問題などを私たちに思い起こさせたのだろうと感じます。今までの天皇のお言葉では、過去の沖縄の苦難については述べられていました。さらに踏み込んで、今も沖縄はたいへんな状況にあると述べたことは、政府や日本国民にその是正を求めたようにも感じました」お言葉を述べられているとき、陛下の感情があふれ出たように見える場面があった。宮内庁関係者が語る。「沖縄の“苦難の道”に言及されたあたりで、陛下の右目に光るものが見えました。陛下は涙を浮かべていたのではないかと、宮内庁内でも話題になっているのです。この50年の歩みを振り返り、感極まったのではないでしょうか。雅子さまも、陛下と同じ思いを抱かれたのでしょう。雅子さまも涙を浮かべんばかりの神妙なご表情で、陛下を見つめていらっしゃいました。両陛下は本土復帰50周年の節目に、沖縄へ心を寄せる活動にいっそう力を入れようと決意を固められたのではないでしょうか」
2022年06月01日今年生誕95年、在位70周年を迎えた英国君主エリザベス2世を追った初の長編ドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』の公開を記念して、エリザベス1世やエリザベス2世などを中心に英国王室を題材に描いた映画3作品と、BBCによるドキュメンタリーシリーズ『エリザベス1世と2世/偉大なる女王の共通点前編・後編』が「BS10スターチャンネル」にて独占日本初放送。あわせて「スターチャンネルEX」でも独占見放題配信する。★『クィーン』(2006)配信:6月17日(金)より/放送:【STAR1字幕版】6月2日(木)18時45分~ほかヘレン・ミレンがアカデミー賞主演女優賞に輝いた人間ドラマ。ダイアナ元皇太子妃の事故死という突然の事態に直面した女王エリザベス2世の苦悩を描く。エリザベス2世を演じたヘレン・ミレンは、ほかにヴェネチア国際映画祭女優賞ほか多数受賞し世界中から絶賛された。当時の首相トニー・ブレアやチャールズ皇太子など、実在の人物が多数登場。英国王室の裏側とそこで繰り広げられる人間模様を垣間見ながら、エリザベス女王の知られざる姿が描かれた。★『エリザベス』(1998)配信:6月17日(金)より/放送【STAR1字幕版】6月3日(金)18時45分~ほかケイト・ブランシェット主演の歴史ドラマ。16世紀イングランドの女王に即位し、宗教抗争を治めて黄金時代を築いたエリザベス1世。その若き日々と臣下との秘めた愛に焦点を当て、細部まで贅を凝らした美術でエリザベス朝を絢爛に描いた歴史大作。エリザベスが暗殺の危険に怯える少女から、政略結婚を拒み断固たる態度で敵対勢力を討つまでの過程をケイトが熱演。続編『エリザベス:ゴールデン・エイジ』も作られた。★『エリザベス:ゴールデン・エイジ』(2007)配信:6月17日(金)より/放送【STAR1字幕版】6月3日(金)21時~ほか女王の座を手にしたエリザベス1世が様々な試練や恋を経て、黄金時代を築いていく。英国女王エリザベス1世の苦悩や葛藤を描いた歴史劇『エリザベス』の続編。第1作に続いてケイトが主演し、威厳に満ちた君主と恋焦がれるひとりの女性という主人公の二面性を、卓抜した演技力で鮮烈に表現。また、豪華な衣装やスペイン無敵艦隊との対決をはじめとするスペクタクル描写も見どころとなった。★日本独占初配信&放送『エリザベス1世と2世/偉大なる女王の共通点前編・後編』(2020)配信:6月17日(金)より『前編』放送:【STAR1字幕版】6月3日(金)23時15分~ほか『後編』放送:【STAR1字幕版】6月3日(金)24時15分~ほか英国史上最も偉大な2人の君主、エリザベス1世とエリザベス2世。何世紀もの時を経たにも関わらず、その驚くべき共通点に迫ったドキュメンタリーシリーズ。前編では、無名から王位に就いた2人の共通の旅路に注目。王位を守るため、彼女たちが直面した戦いの数々を紹介。後編では、スコットランド女王メアリーとダイアナ妃という、2人のエリザベスを未知の領域に追いやった2人の女性の物語を紹介する。STAR CHANNEL MOVIES『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:クィーン 2007年4月14日よりシャンテシネにて、4月21日より新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋ほか全国にて公開©2006 GRANADA SCREEN (2005) LTD/PATHE RENN PRODUCTION SAS/BIM DISTRIBUZIONEエリザベス:ゴールデン・エイジ 2008年2月16日より日比谷スカラ座ほか全国にて公開© 2007 Universal Studios. All Rights Reserved.エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年05月10日美智子さまが心待ちにされていた、上皇陛下との赤坂御用地での生活が始まる。4月26日に上皇ご夫妻がお引っ越しされる仙洞御所は、昭和時代の東宮御所。美智子さまはご成婚の翌’60年から、上皇陛下とこの赤坂にお住まいになり、天皇陛下、秋篠宮さま、清子さんを育てられた。そして平成になって東宮御所が赤坂御所となり、’93年に皇居の御所に引っ越されるまで33年間を過ごされた。家族愛に包まれた、穏やかな赤坂御用地での日々を写真で振り返るーー。【’61年】美智子さまのご希望で、東宮御所にはキッチンが設けられた。これまで、皇族方にはご家庭で料理を作る方はいらっしゃらなかった。【’62年】フィリピン訪問からご帰国。玄関に出迎えに来られた2歳の天皇陛下を抱き上げられて。【’66年】6歳の天皇陛下とお手玉で遊ばれる美智子さま。満1歳の秋篠宮さまも、興味をお持ちのご様子。【’69年】清子さん生後半年ごろのお箸初め。秋篠宮さまも乳母車に乗られて。【’70年】お正月用写真で、百人一首で遊ばれる上皇さまと天皇陛下。美智子さまは読み手を。【’76年】お庭には美智子さまのお印、白樺の林が。清子さんと、愛犬の狆(ちん)2匹のお散歩を。【’81年】6年生になられた清子さんのピアノの演奏を、優しい表情でお聴きになる美智子さま。【’87年】天皇陛下はビオラ、上皇さまはチェロ、美智子さまはピアノ。ご家族での演奏も楽しまれた。【’92年】赤坂御所となった平成時代、初孫の眞子さんのご様子を見守られる。三世代の団らんがあった。
2022年05月07日「上皇陛下のご退位直前にお目にかかったときに、上皇后さまは『陛下のお心とお体のお疲れを、総合的にわかるのは私だけだったの』とお話しになりました。陛下を無事に赤坂にお連れしたいというお気持ちも伺ったことがあります」そう語るのは、美智子さまと交流のあるメディアプロデューサーの渡邊満子さん。4月12日から葉山御用邸に滞在されていた上皇ご夫妻は、4月26日に赤坂御用地の仙洞御所(旧赤坂御所)にお引っ越しされた。上皇ご夫妻が1960年(昭和35年)から33年にわたって暮らされていた思い出の家にお帰りになったのだ。「上皇后さまは平成最後の歌会始に〈今しばし生きなむと思ふ寂光に園の薔薇のみな美しく〉という御歌を出されています。これは、ご高齢になられて、ご自分の体も衰えてきたことを実感されている。こうしたときに庭のバラの花をご覧になり、もう少し頑張ろうと思われたという御歌でした。やはり、上皇陛下を支えていこうと思われたお気持ちを詠まれたのだと思います」(渡邊さん)引っ越しにあたって、エレベーターの設置などの改修工事が施された。ただ、私室部分こそ完成しているものの、すべての工事が完了したわけではないという。「それでも、美智子さまは“一日も早く上皇陛下と赤坂に”との思いを強く抱かれており、工事中のままの転居となりました。その思いの背景には、上皇陛下がご在位中から、認知症が疑われる症状を訴えていらっしゃったこともあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)上皇ご夫妻の側近も、その症状を明らかにしている。上皇陛下の87歳の誕生日(’20年12月)には、次のように近況を公表している。《お年を召され、上皇后さまにいろいろとお尋ねになることが多くなられたようにお見受けします。何度か繰り返されるご質問にもその都度丁寧にお答えになる上皇后さまと、それを聞かれご納得になるといつも明るい笑顔におなりになる陛下。時に、勘違いや戸惑いがあっても、一緒にお笑いになりながら、ご記憶を新たにされ、日々のご生活を確かなものとされています》翌年に、88歳の誕生日にあたって公表された文書にも、次のように記されていた。《ご高齢となり、時折お歳相応にお忘れになったり、ご記憶が不確かになられることはおありですが、いつも一緒にいらっしゃる上皇后さまにお尋ねになり、事実を確かめられては、「そうだったね」と笑顔で得心されるご様子をよく拝見します》上皇陛下は平成の終わりごろ、式典で原稿の読み飛ばしに気がつかなかったり、段取りを忘れて立ちつくされたりしたことがあった。美智子さまは、そういった事態にも即座に対応されてきた。退位後、“終の棲家”となる赤坂での穏やかな日々を心待ちにされてきた上皇ご夫妻だったが、想定外の事態が重なった。「当初の予定では、ご退位後すぐに皇居から高輪皇族邸に引っ越され、’20年中には赤坂御用地への転居が完了しているはずでした。ところが、膨大な荷物の整理は遅れ、上皇ご夫妻の体調不良もあって、ようやく高輪に移られたのが’20年3月。しかもコロナ禍が深刻な状況となり、お引っ越し後は外出もご友人を招くことも難しくなってしまいました」(前出・宮内庁関係者)美智子さまは上皇陛下のためにも、より多くの方々と交流する機会を持とうとされていたという。しかしコロナ禍で、外出も来客もない単調な日々が続き、上皇陛下の症状の悪化も懸念されたーー。「そこで美智子さまは、さまざまな日課を作られました。起床後はまず、お庭を一緒に散策。朝食後には毎日、お二人で本の音読をされます。一冊の本を、交互にお読みになるのです。これまで読まれたのは大岡信『折々のうた』、パスカル『パンセ』、山本健吉『ことばの歳時記』、寺田寅彦『柿の種』などです。夕方にも必ずご散策されます。上皇職や皇宮警察の職員と言葉を交わされ、周囲のマンションの住人と話されることもありました。ご夕食後には、上皇陛下は侍従とお話しになることを日課とされています。これは美智子さまの強いすすめで始められたそうです」(前出・宮内庁関係者)引っ越しも完了し、ようやく実を結んだ美智子さまの奮闘ーー。上皇陛下との“思い出の場所”赤坂での、穏やかな暮らしが始まる。
2022年05月02日上皇ご夫妻は4月26日、赤坂御用地の仙洞御所(旧赤坂御所)にお引っ越しされた。《先々には、仙洞御所となる今の東宮御所に移ることになりますが、かつて30年程住まったあちらの御所には、入り陽の見える窓を持つ一室があり、若い頃、よくその窓から夕焼けを見ていました。3人の子ども達も皆この御所で育ち、戻りましたらどんなに懐かしく当時を思い起こす事と思います》美智子さまが、赤坂へのお引っ越しを待ち望む思いを綴られたのは、’18年10月、84歳の誕生日のこと。それから3年半、上皇ご夫妻の体調不良やコロナ禍を乗り越えて、ようやく転居が完了した。引っ越しにあたって、エレベーターの設置などの改修工事が施された。ただ、私室部分こそ完成しているものの、すべての工事が完了したわけではないという。「それでも、美智子さまは“一日も早く上皇陛下と赤坂に”との思いを強く抱かれており、工事中のままの転居となりました。その思いの背景には、上皇陛下がご在位中から、認知症が疑われる症状を訴えていらっしゃったこともあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)上皇ご夫妻の側近も、上皇陛下の誕生日に公表する文書で《お年を召され、上皇后さまにいろいろとお尋ねになることが多くなられたようにお見受けします》《ご高齢となり、時折お歳相応にお忘れになったり、ご記憶が不確かになられることはおありですが》などと、その症状を明かしている。コロナ禍の、皇居よりずっと狭い高輪皇族邸での暮らしでも、美智子さまはこの2年間、精いっぱいの工夫で“対策”に奮闘されてきた。起床後はまず、お庭を一緒に散策。朝食後には毎日、お二人で本の音読をされる。夕方にも散策をされ、夕食後には上皇陛下は侍従とお話しになる。こうした日課の多くは美智子さまの提案で進められたという。パークサイド脳神経外科クリニックの近藤新院長はこう話す。「日常の中でお散歩をされたりするのはとてもいいことです。同じコースの散歩でも天候や季節の移り変わりなどが刺激になりますし、体を動かすことも大切です。心身への刺激を絶やさないようにすることが大切なのです。一般論としてですが、いわゆる認知症の方の場合ですと、環境が変わるというのは脳への刺激が加わるという点ではメリットがありますが、リスクもあります。心の部分で適応ができないということもまれに起きるのです」実は、美智子さまが、上皇陛下の“環境の変化”を懸念され、これほどまでに懸命に取り組まれた陰には、上皇陛下の母・香淳皇后の存在があった。30年ほど前に、美智子さまは当時交流していた親しい友人に次のように打ち明けられたことがあったという。「皇太后さま(香淳皇后)は、昭和天皇がお亡くなりになったことも、十分におわかりになっていない。それに生活環境が急に変わってしまえば、皇太后さまに大きな打撃を与えることになってしまう。だから皇太后さまには、いまでも皇后さまでいらっしゃるような気持ちで過ごしていただきたい」上皇ご夫妻は、’93年12月に皇居の吹上に新たに建設された御所にお引っ越しされたが、香淳皇后は昭和天皇とお暮らしになった御所に、そのままお住まいになった。このことは、“美智子さまが香淳皇后を古い建物に押し込めている”といった形でバッシング報道にもつながった。だが実際には“慣れ親しんだ場所で暮らし続けてほしい”という、香淳皇后への思いがあったのだ。懐かしい赤坂の地で、上皇陛下と美智子さまは穏やかな日々を過ごされることだろう。
2022年05月02日天皇陛下に続いて車から降りた雅子さまは、マスク越しではあったが、カメラに向かってほほ笑まれたーー。4月13日、天皇皇后両陛下は科学技術の進歩に大きく貢献した研究者に贈られる「日本国際賞」の授賞式に出席された。コロナ禍により’20年と’21年の授賞式が延期となっていたため、3年分がまとめて表彰された今回の授賞式。天皇陛下はお言葉のなかで、コロナ禍における科学の力への期待を示された。「現在、わが国を含め世界中の人々が、新型コロナウイルス感染症の影響により、さまざまな困難に直面しています。そのような状況の中で、科学技術が果たす役割は、さらに重要になってくるものと思われます。さまざまな分野の叡智を結集し、世界の人々が互いに力を合わせることにより、この困難な状況を乗り越え、希望に満ちた未来を築いていくことを願っています」陛下と雅子さまは式典のあと、受賞者との懇談にも出席されたという。お二人そろって外出を伴う公務に臨まれるのは、昨年8月の戦没者追悼式以来、8カ月ぶり。「事前の発表では天皇陛下お一人が出席されるはずでした。しかし雅子さまは1週間以上前から意識的に体調を整えられ、当日は式典に続き、外国人受賞者たちとの懇談まで完遂されたのです。今回、雅子さまにとって“勝負色”であるブルーのお召し物を選ばれたことからも、再始動への強い意気込みが伝わってきました。両陛下は、ご自身の活動が感染を広げたり、感染対策が周囲の負担になったりしないよう、外出をお控えになってきました。オンラインで式典に出席されたり、地方の福祉施設と交流されたりと、外出せずに“国民に寄り添う”務めを果たそうと工夫されてきました。今後は、引き続きオンラインを活用しつつも、式典会場などに足を運ばれることも増えるでしょう」(皇室担当記者)ただ、この数カ月にわたって雅子さまを苦しめたのはコロナ禍だけではなかった。体調が優れない日々が続いていたのだ。■大きなプレッシャーを克服されて昨年の秋から、雅子さまは体調不良に見舞われていた。誕生日写真の撮影を2度キャンセルされたり、2日に分けて行われた愛子さまの成年祝賀行事の1日目を欠席されたりした。年始の講書始の儀も、体調が整わず欠席されている。「愛子さまの成年行事や記者会見のために、雅子さまは数カ月前からご準備を続けていました。国民から大きな注目が集まり、愛子さまの人生を左右するだけに、雅子さまも大きなプレッシャーをお感じになっていたのではないでしょうか」(宮内庁関係者)しかし、昨年12月の成年祝賀行事で愛子さまが披露されたティアラ姿に続いて、3月の記者会見にも絶賛の声が集まった。「雅子さまにとっては、これまでの母としての努力がすべて報われたようなお気持ちだったでしょう。愛子さまの記者会見での立派なお姿によって、雅子さまは自信を取り戻されたのではないでしょうか。それゆえ、本格的に公務を再開するという大きな一歩を踏み出すことができたのだと思います」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまは会見で、両陛下への尊敬の念を、率直に話されていた。「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」両陛下こそが、愛子さまにとって一番のお手本になっているのだ。両陛下からのどんなお支えや言葉があったのかとの質問には「何か問題に直面した時は、その問題に真剣に向き合ってくれまして、私の意見や考え、気持ちを尊重しつつ、的確なアドバイスをくれたように思います。そして、両親からもらった大きな愛情や励ましが、そのような時に私の支えとなっておりました」とお答えになった。会見が行われた大広間の隣の部屋では、雅子さまが待機なさっていたという。愛子さまの言葉をお聞きになった雅子さまは“私が愛子を導く”という思いを抱かれたのではないだろうかーー。精神科医の香山リカさんは、愛子さまの成長が雅子さまにも好影響を及ぼしていると語る。「成年皇族となられた愛子さまにとって、雅子さまは母親というだけでなく、先輩女性としてのお手本にもなります。今回の日本国際賞に関しても、どんな方が受賞したのか、懇談の場ではどのような話をしたのかなど、御所に帰られたあと愛子さまにお話しになったことでしょう。愛子さまにとっては、近い将来ご公務に出席される際の参考にもなりますし、大学卒業後の進路を考えるうえでも、世界的な研究者である受賞者の方々について知ることは有意義だったでしょう。たとえご一緒に公務に行かれなくとも、こうしたコミュニケーションによって、雅子さまは愛子さまと二人三脚で公務に取り組んでいるように感じられるのではないでしょうか」雅子さまは今月28日にも、陛下とご一緒にアジア・太平洋水サミットにオンラインで出席されることが発表されている。“母の自信”を取り戻された雅子さまのご活躍は続く。
2022年04月22日ロジャー・ミッシェル監督によるエリザベス女王のドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』より新場面写真が解禁。また日本公開に寄せて、プロデューサーからのメッセージも到着した。本作は、今年で在位70周年となるイギリスのエリザベス女王の“初”の長編ドキュメンタリー映画。昨年9月に急逝した『ノッティングヒルの恋人』などのロジャー・ミッシェルが監督をつとめ、監督いわく「英国史上最高齢かつ最長在位の君主エリザベス2世。同時に世界において、もっとも在位期間の長い女性君主であり、存命の君主として世界最高年齢で最長在位でもある。いや、エリザベス女王はそんな肩書以上の存在」である“女王陛下”をテーマに選ぶにあたり、プロデューサーのケヴィン・ローダーとともに「既視感のある、ありきたりな王室ドキュメンタリー」ではなく、むしろ「機知の富んだイタズラ心とサプライズがあるものを作りたい」と取り組んだという。ロジャー・ミッシェル監督にとって本作が遺作となる。この度、4月21日のエリザベス女王の96歳の誕生日に合わせ、新たな場面写真5点が解禁となった。25歳の若さで即位した麗しき姿から、にこやかに公務を行う現在まで、様々な場面がとらえられている。「世界で最も有名な女性」と呼ばれるエリザベス女王の若き日の美しい横顔や、1952年、父であるジョージ6世(映画『英国王のスピーチ』で知られる)の崩御に伴い、25歳の若さで即位する戴冠式の様子、いまなお精力的に公務をこなす姿など華やかな場面が並ぶ。さらに21歳で結婚し、三男一女の母でもあるエリザベス女王が、フィリップ王配と仲睦まじく寄り添い、笑顔で見つめ合う姿も。一方1997年ダイアナ元妃が亡くなったあと、国民に語りかけた異例のビデオメッセージでの悲痛な表情もあり、波乱万丈な人生を垣間見られるシーンカットになっている。また、本作が日本公開になることを受け、プロデューサーのケヴィン・ローダーよりメッセージが到着。「日本の方々が私たちの女王についてどう思っておられるかは分からないのですが、日本も皇室、ロイヤルファミリーが存在する国です。エリザベス女王に関しては、他の国の方々からも非常に興味を持たれる存在でありますし、それとともに英国と同じくらい、セレモニー、意識であったり、フォーマルなバランスの物事のやり方を尊重する文化として、日本の皆様には面白く観ていただけるところがたくさんある映画になっているのではないかと思います。また、英語が分からなくても映像と音楽で出来上がっている作品なので、自分の母国語のように感じ、観てもらえるんじゃないかと。それもこの映画の見どころです」と、亡き監督に代わり、その思いを寄せてくれた。『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年04月21日女優の吉瀬美智子が出演する、プレミアアンチエイジング「CANADEL(カナデル)」の新CM「立ち上がれ、私」編、「負ける気 がしない」編が15日より順次放送される。新CMでは、仕事も家事も頑張っている自分を誰かに「ほめてほしい」という女性たちの切なる声を吉瀬が自身の“身をもって”表現。米米CLUBの大ヒット曲「君がいるだけで」がCM曲として使用され、ストーリーの中で吉瀬演じる「私」を、心に染みわたる歌詞とメロディで応援する。「立ち上がれ、私」編で、「私」からポロリとこぼれる“ホンネ”「誰かほめてくれんとかいな〜」は、吉瀬の出身地である福岡県の言葉。福岡を離れて久しい吉瀬は「(地元の)友達に連絡してリサーチしました!」と明かした。また撮影を振り返り、「今回CMは、リアルに近いというか、自分自身も仕事、家事、育児とかで忙しい毎日を送っているのですが、 そんな女性のリアルな日常を表現できたんじゃないかな、と思っています」と吉瀬。「今日のセリフにもありましたが、“誰かほめて〜”のように、子どもに“ママ、頑張ったね”って言って! とお願いしたりします。子どもたちにそう言ってもらって助けてもらっています」と話していた。
2022年04月15日4月、新年度を迎えて大学3年生になられた愛子さま。だが、いまだにキャンパスで授業を受けられたことはないーー。《愛子さま当面、オンライン授業へ両陛下への感染を心配大学に登校せず》(FNNプライムオンライン)そう報じられたのは4月7日のことだった。天皇家の側近幹部によれば「ご自身の登校が結果的に両陛下の感染につながってはいけないという強いお気持ちがある」という。天皇陛下は今年2月の誕生日会見で「愛子には、感染症が落ち着いて、いつの日かキャンパスに足を運べるようになると良いなとは思います」と語られていた。だが、3月下旬に“まん防”が解除され、多くの学生がキャンパスに足を運ぶようになった現在も、愛子さまは“登校自粛”を続けられるというのだ。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんは、この決断に愛子さまの“内親王の矜持”を感じたと語る。「両陛下のもとでお育ちになった愛子さまは、“天皇の娘”という立場を深く自覚されています。万が一にも天皇皇后であるご両親に感染させてしまったときの“事の重大さ”を、十分すぎるほどに理解されているのです。ご自身のキャンパスでの学生生活よりも、親孝行をとったということだと思います」愛子さまは3月の会見で「両親と話をしておりますと、豊富な知識や経験に驚かされることが多々ございまして、また、両親の物事に対する考え方や、人との接し方などからは学ぶことが多くございます」とお話しになっていた。「愛子さまはご自宅で、大学での専攻に加えて、日本の伝統や歴史の勉強もなさっているのでしょう。ご家族は仲がよいと聞きますし、天皇陛下から皇室に関する歴史なども教わっているのではないでしょうか」(前出・渡邉さん)愛子さまが自粛されているのは大学への通学のみではない。学習院女子高等科時代の愛子さまの同級生も、残念そうに話す。「1月には『二十歳の会』という同窓会が開かれたのですが、会場に愛子さまはいらっしゃいませんでした。それでも、会場に用意されたスクリーンに、愛子さまは振り袖姿で登場してくださったのです。映像でのリモート参加ではありましたが、愛子さまがお出ましになったことで会場も非常に盛り上がりました」■大学時代に「新しい発見と経験を」と陛下内親王として、キャンパスライフを諦めて両陛下に尽くされる愛子さま。ただ、天皇陛下は複雑な思いを抱かれているという。「皇族にとって、大学在学中こそがもっとも自由を謳歌できる時期。“国民に寄り添う”という姿勢を大事にするためには、ほかの学生と同じように授業やサークル活動に取り組み、ときには“羽目を外す”ことも大切だと、陛下はお考えなのです」(宮内庁関係者)陛下は2月の会見でも「私自身の大学生活を振り返ってみますと、気が付けばもう40年くらいも前になりますが、大学では様々な人たちと顔を合わせて授業を受けたり、放課後の部活動で一緒に参加したり、見ず知らずの人と学生食堂で隣り合ったり、新しい発見と経験の連続であったように思います」と回想されていた。音楽部の先輩や同級生に池に投げ込まれたという話も、陛下がよく話されるエピソードだ。「学習院は、中等科と高等科は男女別学です。そのため、大学での女子学生との交流は新鮮だったと、陛下は当時の会見でお話しになっていました。愛子さまも、初等科以来ほとんど男子学生との交流はありません。将来の結婚ということを見据えても、大学時代に“出会い”があれば……と、陛下も期待されているのではないでしょうか。皇族の恋愛には非常にたくさんのハードルがあることを、陛下は身をもって経験されてきましたから……」(前出・宮内庁関係者)実は、“恋愛よりも両親の健康”と、愛子さまが感染対策を徹底される陰には、ある“苦い記憶”があるという。「’11年の11月、愛子さまはマイコプラズマ肺炎で入院されたことがあります。その直後、上皇陛下も軽度の気管支炎で入院。同じくマイコプラズマによる肺炎の可能性が高いとの診断でした。感染経路は明確にはわかりませんでしたが、このとき、愛子さまから上皇陛下に感染したのではないかという見方もあったのです。上皇陛下は幸い大事には至りませんでしたが、そういった出来事を忘れることなく、愛子さまはご自身が感染症を持ち込まないようにと決意を固められたのではないでしょうか」愛子さまは会見で「新型コロナウイルス感染症の感染拡大が一日も早く収束し、このような厳しい状況が落ち着いた先に、少しでも不安の少ない環境で、皆が有意義な学校生活を送ることのできる未来が待っていることを願っております」と、全国の学生たちに向けてメッセージを送られた。大学生活は残り2年。学習院のキャンパスに、愛子さまの笑顔が花開く日が一日も早く来ることを願いたいーー。
2022年04月14日4月10日に、上皇陛下と美智子さまは63回目のご成婚記念日を迎えられる。その節目とほぼ同時期の4月中旬に、上皇ご夫妻は東京・高輪の仙洞仮御所から赤坂御用地にお引っ越しされるという。「昨年9月まで天皇ご一家がお暮らしになっていた旧赤坂御所を、エレベーターの設置などバリアフリー化を施して改修し、仙洞御所として、上皇さまと美智子さまがお住まいになります。しかし、現状では生活にかかわるスペースの改修が完了しただけで、外装などの工事は6月まで続きます。新御所が未完成の状態でお引っ越しをなさるのは、美智子さまのご決断があったからなのです」(皇室ジャーナリスト)上皇陛下は6年前、82歳の誕生日会見で「行事の時に間違えることもありました」と、記憶力の低下を明かされた。また、87歳の誕生日を迎えられた2020年に上皇職が公表した文書には、「何度か繰り返されるご質問」「勘違いや戸惑い」といった認知症が疑われる症状が見られるとして、波紋が広がった。いまも美智子さまは常に上皇陛下のお側で、生活の一切をフォローされているという。「上皇ご夫妻は、朝食後に本の音読をされる日課のほか、健康のために毎日散歩されています。お二人はコロナ感染を避けるために外出されず、お庭の同じところを何周も回られているのです。かつて住まわれていた皇居に比べて高輪の敷地ははるかに狭いうえに地形や景色に変化がなく、骨密度低下を予防するための運動や認知機能の維持という点から見ても適しているとはいえません。“高輪での生活がこれ以上続けば、上皇さまのご健康状態が危うくなるのでは……”と考えられた美智子さまは、早く赤坂へ移りたいと願われてきたのです。赤坂御用地は、高輪より敷地が広く、起伏に富んでいますからね」(宮内庁関係者)美智子さまは、友人へ引っ越しまでのご覚悟を明かされていた。「3月末にお電話をいただきました。上皇后さまは、『陛下を無事に赤坂にお届けするのが、私のいちばんの務めなので、それだけは頑張ってやり遂げたい』とおっしゃっていました。午後になると少しお熱が出ることもあるそうですが、お庭を歩かれるとき、周囲のマンションから手を振ってくださる方がいて、そうした交流に感謝されていました」(美智子さまの友人)改修前の赤坂御所には、上皇ご夫妻がご成婚翌年の1960年から1993年までお住まいだった。「ご夫妻にとって30年以上の思い出が詰まったお住まいでもあり、御用地には秋篠宮ご一家も暮らされていて、ご家族ともお会いになりやすくなります。運動量や会話も増え、上皇さまのご健康にとっても好ましいことだといえるでしょう」(皇室担当記者)美智子さまが願い続けられた“上皇さまとの赤坂での生活”が、もうすぐ始まる――。
2022年04月05日世界でもっとも有名な女性である、英国君主エリザベス2世初の長編ドキュメンタリー映画『エリザベス女王陛下の微笑み』の公開日が6月17日(金)に決定し、ポスタービジュアルと予告編が解禁された。本作は、昨年9月に急逝したロジャー・ミッシェル監督が新型コロナウィルスによって次回作の撮影機会が奪われてしまったとき、「ドキュメンタリー作品を作ろう」とアイディアの一番手に女王陛下を挙げたことをきっかけに製作された。先日、エリザベス2世のコロナ罹患のニュースが全世界に配信されたが、現在は無事回復し、今月29日には昨年4月に崩御した夫フィリップ王配を偲ぶ礼拝に出席予定。夫を愛し、精力的に公務をこなす姿は昔から変わらず、その貴重な姿を改めて見られるのが本ドキュメンタリー映画の魅力のひとつともいえる。今回解禁された予告編は、25歳の若さで即位した姿とともに、「重い」「下を向くと首が折れそう」と王冠を前に語るエリザベス2世のチャーミングな言葉から始まる。そして英国出身のトム・グレナンの「Royal Highness」に乗せて、その知られざる素顔をテンポよく映し出していく。「皆様にお分かり頂きたいのです。女王も結構大変だと」というスピーチや、競馬で「ダメ、負けちゃう!」と言いながら興奮する姿は実にキュートで、ポール・マッカートニーが「若者にとってアイドルだった」と語る場面も。また愛するフィリップ王配との結婚25周年のスピーチで、「今日は『私は』ではなく『夫と私は』とお話します」と語ったエピソードなど、女王として、またひとりの女性としての生き方を垣間見ることができる。併せて解禁されたポスタービジュアルは、微笑むエリザベス2世の姿と「わたくしのすべてをご覧に入れましょう」というコピーが配され、本編へのワクワク感と期待感が高まる仕上がりになっている。『エリザベス女王陛下の微笑み』は6月17日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:エリザベス 女王陛下の微笑み 2022年6月17日よりTOHOシネマズ シャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© Elizabeth Productions Limited 2021
2022年03月23日’19年10月に開催された即位の礼の晩餐会。天皇皇后両陛下と笑顔で握手していたのは、ウクライナのゼレンスキー大統領とオレナ夫人。オレナ夫人の装いは、晩餐会は青、即位礼正殿の儀では黄とウクライナ国旗色だったーー。ロシア軍がウクライナに侵攻を開始したのは、陛下が「人と人との交流が、国や地域の境界を越えて、お互いを認め合う、平和な世界につながってほしい」とのお言葉を公表された、天皇誕生日の翌2月24日。昨年の天皇誕生日には、親日家であるゼレンスキー大統領から手紙が届き、お祝いの言葉と両陛下をウクライナに招待したい旨が記されていた。両陛下はウクライナの人々を苦しめている戦闘の早急な終結を、強く願われているだろう。
2022年03月12日2月23日、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は宮殿で催された祝賀の儀に臨まれた。ネイビーのロングドレス姿の雅子さまと並んで、お祝いの挨拶を受けられる陛下。多くの人が集う一般参賀や、飲食を伴う会は3年連続で中止となったが、昨年とは違い、誕生日の儀式に雅子さまとお二人で出席されたことで華やかな印象が残った。誕生日の会見で、陛下は雅子さまについて「私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています」と語られたほか、「雅子は」「雅子と共に」「私たち」と繰り返し述べられ、お二人で歩むことを大切にしているお気持ちを表された。雅子さまの昨年末からのお疲れについては「感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はあります」とご説明。ご夫婦の絆を感じさせる会見となった。誕生日会見で語られたご夫婦の絆ーー陛下のお言葉と写真で振り返ります。■「雅子と共に、『平和の礎』を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました」’97年、本土復帰50年にあたり沖縄への思いも述べられた。■「私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです」’17年、津波の被害が甚大だった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区で供花された。■「新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています」オンラインで日本各地を訪問され、多くの人とご交流。そのメリットもお感じになっている。■「愛子と3人でいると、私たちの団欒は、笑いの絶えない楽しいものになっています」20歳になられた愛子さまと楽しそうに語らいを。お誕生日写真で、優しい笑顔で見つめ合われる両陛下。そんな写真からもお二人の心の絆が感じられる。
2022年03月05日2月23日は天皇誕生日。2022年、62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、記者会見で2021年に成年を迎えられた愛子さまとの思い出などを語られました。「同じ親としてグッとくる」天皇陛下、愛子さまの印象深い思い出は…娘が「天皇陛下はどこに住んでいるの?」と聞いてきて…3人の子供を育てる、母親(@seikunnoouchi)がTwitterに投稿した、8歳の娘さんとのエピソードをご紹介します。天皇誕生日当日、娘さんが投稿者さんに「天皇陛下って、どこに住んでいるの?」と質問してきたそうです。投稿者さんは「東京都にある皇居に住んでいるよ」と教えてあげました。すると、自宅から皇居まで距離があることを悟った娘さんは、衝撃的な言葉を発したそうです。「じゃあ、遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」なぜか、娘さんは天皇陛下に対し、友人のような親しみを感じていたのです!どうしてもお祝いがしたかったのか、ケーキを購入するよう投稿者さんにお願いした娘さん。その日の夜、主役を招待することはできなかったものの、投稿者さん一家は、自宅で天皇陛下の誕生日を祝ったのでした。投稿者さんによると「わりと盛り上がった」とのことです。娘に、天皇ってどこに住んでるのか聞かれ、東京の皇居ってとこだと教えたら「じゃあ遠いから誕生日ケーキ届けられへんわ…」と天皇陛下に対して友だち感覚すぎる。そして今日、天皇誕生日を理由にケーキを買わされ、今なぜかみんなでケーキを食べてる。主役はいないけども。わりと盛り上がってる。— *イケメン自閉症せいくん*ブログ更新中* (@seikunnoouchi) February 23, 2022 この投稿には「ほほ笑ましい」「娘さん、かわいすぎる!」などの声が寄せられています。・とてもほほ笑ましいですね!温かい気持ちになりました。・娘さんの気持ちがなんだかかわいくて笑っちゃいました。天皇陛下にこのエピソードが届くといいな~!・みんなで祝っている姿を想像すると癒されます!うちでもケーキを買ってお祝いしようかな。・会ったことがなくても、その人の誕生を祝えるって素敵です!娘さん、その気持ちを大切に育ってね。娘さんの温かい気持ちは、多くの人の心に癒しを届けたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月26日2022年2月23日は、天皇陛下の誕生日です。62歳の誕生日を迎えられた天皇陛下は、同月21日に記者会見に応じられました。天皇陛下、二十歳の愛子さまについて「感慨深い」2021年12月、純白の『ローブ・モンタント』を身にまとい、成年行事に臨まれた、天皇、皇后両陛下の長女である愛子さま。女性皇族の正装で、お姿を見せた愛子さま凛としたたたずまいに「お美しい」「素敵!」天皇陛下は記者会見で、成年を迎えられた愛子さまについて「感慨深く思いました」と振り返られました。いつの間にか20歳という年齢を迎え、大人の仲間入りをすることになったことを感慨深く思いました。日頃から、多くの人々に助けられ、支えられているということに、愛子が感謝の気持ちを持っていることを親としても嬉しく思っています。印象深い思い出については、学校の水泳の授業で、小さい頃にはビート板を使ってプールで短い距離を泳いでいた愛子が、女子中等科時代、静岡県の沼津の海で3kmの遠泳ができるようになった時や、中学の修学旅行で広島を訪れた際に強い衝撃を受け、平和への思いを文章にまとめた時などに成長を感じ、嬉しく思ったことを覚えています。また、コロナ禍で大学生活を送る愛子さまについて「たとえどのような環境にあっても、実り多い学生生活を送ることができればと願っています」とも語られました。2021年に結婚した、小室眞子さんについて一方で、同年10月に結婚した姪の小室眞子さんについては「今後幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが、同時に、この間、多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています」と感想を語られています。また、記者会見では、小室さんの結婚を巡る週刊誌報道やインターネット上の書き込みについても質問が上がりました。天皇陛下は、憲法が保障する自由な表現は「尊重すべきもの」とした上で、一般論と前置きし、「他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要がある」と述べられています。天皇陛下のお言葉に、ネットからはさまざまな声が上がりました。・天皇陛下、お誕生日おめでとうございます。・愛子さまについて、1人の親として言及されていて、同じ親としてグッとくるものがありました。・正直、小室眞子さんの結婚について発言されたことに驚いた。親族だもの。心苦しかっただろうな。天皇陛下が記者会見で語られた、親族への想いは、多くの人の心を温かくしたようです。[文・構成/grape編集部]
2022年02月23日2月23日、62歳の誕生日を迎えられる天皇陛下。誕生日に公表される会見の回答では、成年皇族となられたばかりの愛子さまへのお言葉にも注目が集まる。現在学習院大学に通われる愛子さまと同じく、幼稚園から大学まで学習院で過ごされてきた陛下は、どのような学生だったのだろうか。大学の卒業アルバムをめくると、「徳仁親王」というお名前の下に「歴史の研究を続け、先人の足跡を学びながら未来への展望につなげたい」と陛下のコメントが添えられていた。学習院時代の印象をご学友に聞くと、「お人柄については、非常にいいやつの一言です」という。「今では『いいやつ』などとは決して申せませんが(笑)、当時の感覚ではこの表現がいいと思います」陛下と話し始めたきっかけは名前を聞かれたことだった。当初はどうお呼びしていいかわからず、「浩宮さま」と呼ぶと、陛下から「やめてよ、同級生でしょう。僕の名前は徳仁だからナルと呼んでほしい」と言われ、それ以来気軽に会話をするようになった。■散髪もお弁当作りもされていた美智子さま「高等科時代のことですが、『ナルは散髪行くのも大変だろ?』と尋ねると、『おふくろが切ってくれている。レザーカッターで』とおっしゃっていて驚きました。そしてお弁当は当時珍しかったフランス製の密閉容器に、おかずがきれいに入れられていました。そのお弁当も、おふくろ、つまり美智子さまが作られていたとのことでした」お弁当を召し上がらない日は、校内の食堂を利用されていたという。「陛下はカツ丼をよく注文されていましたね。食堂のトンカツはまるでハムカツのように薄かったので深く印象に残っています」大学時代のご学友からは、こんなエピソードも。「大学時代は、陛下が食堂で150円のきつねうどんを召し上がっていたのをお見かけしました。ほかの学生に交じり、順番に並ばれていましたね。学食にもお付きの護衛の方が一緒に来るのですが、護衛の方はガッツリしたものを食べているのに、陛下は割と少なめだなと思いました」■『平凡パンチ』『プレイガールQ』にご興味を示されて陛下と会話を重ねていくなかで、好奇心旺盛な一面が垣間見えることもあった。「友人グループで雑談をしているときに、『ナル、今いちばん何したい?』と聞くと、『みんなと茶店(さてん=喫茶店)でお茶したいし、本屋に行って“平パン”とか立ち読みしてみたい』とお答えになりました」“平パン”とは平凡出版(現・マガジンハウス)が発行していた、若者向けの週刊誌『平凡パンチ』のことだ。また、あるときには、陛下が「一度でいいから、『プレイガールQ』を見てみたいんだ」とおっしゃったこともあったという。少しお色気シーンもあり、高校生に人気だったアクション・ドラマだ。「陛下が最初に『深夜テレビ、見たことある?』とお尋ねになってから、21時枠で放送されていた『プレイガールQ』の名前を出されたので、陛下にとっては21時は深夜という感覚なのかもしれないと思いました」当時の東宮家(現・上皇ご一家)の方たちは、夕食の時間はご家族で過ごされ、20時になると私室に戻られていたのだ。テレビは、弟の秋篠宮さまが好まれていたウルトラマン・シリーズなどを一緒にご覧になっていた。その後は、陛下も私室に入られご自身のことや勉強などをされていたという。「学習院の教室や講堂には、警備のために外から中の様子がうかがえる覗き窓がありました。同じようにお住まいの東宮御所にも覗き窓があったそうです。そのうえ30分に一度、私室でのご様子を確認する見回りがきていたというのです。公人としては果たせない、普通の若者の日常への淡い憧れがあったのではと思います」大学卒業までを振り返り、ご学友は「ニックネームで呼び合い、友人たちと集まったときには、同じような感覚で会話に参加してくださる陛下に身近さを感じていました」と話す。学生時代からご友人たちと、フランクなご交流を続けられていた天皇陛下。ユーモラスで気さくなお人柄は、令和の「国民の中に入っていく」皇室の姿につながっている。
2022年02月22日「連日、日本人選手の活躍が続く北京五輪ですが、愛子さまも、天皇皇后両陛下とご一緒にテレビ観戦されていると聞いています」そう語るのは宮内庁関係者。天皇ご一家は、長年ウインタースポーツに親しまれてきた。本誌は、愛子さまにスケートを指導してきた長久保初枝さんに話を聞いた。長久保さんは、2大会連続で五輪入賞を果たした日本女子スピードスケートの黎明期の第一人者だ。「愛子さまがスケートの練習を始められたのは幼稚園の年長のころだったと思います。フィギュアスケートをされていた佳子さまに憧れて『ジャンプを飛びたい』とおっしゃったこともあったそうです。私が足をケガしたため、途中から直接ご指導ができなかったのは残念でした。高3の3月に最後の練習をする予定でしたが、それもコロナ禍でできなくなってしまいました。コロナ禍が落ち着いたら、立派に成人された愛子さまとリンクでお会いしたいですね」そんな愛子さまがとくに応援されているのが、フィギュアスケートの羽生結弦選手だという。ソチ、平昌に続く五輪3連覇に挑んだ羽生は4位に終わったものの、誰も成功したことのない「4回転アクセル」に挑戦。惜しくも転倒してしまい、2分の1の回転不足と判定されたが、史上初めて4回転半として認定される歴史的なジャンプとなった。「実は8年前に、愛子さまと羽生選手にはある接点がありました。’14年7月、ソチ五輪の入賞者を招いて皇居宮殿で開催された茶会に、羽生選手も出席しました。中学生だった愛子さまは出席されなかったのですが、天皇陛下(当時は皇太子)に質問を託されていたのです」(皇室担当記者)陛下が愛子さまから預かっていた質問は「得意なジャンプはなんですか?」だったという。羽生は茶会後の取材で、このときのやり取りを明かしている。「僕はアクセルジャンプが好きなので『アクセルジャンプが好きです、得意ですということを(愛子さまに)お伝えください』と言わせていただきました」その言葉通りに、羽生はアクセルジャンプをさらに極め、4回転半にまで挑んだのだ。「コロナ禍が落ち着いてからになりますが、北京五輪終了後にも、入賞者を招いた茶会が開かれるでしょう。成年皇族となられたので、今回は愛子さまも出席されます。羽生選手との“8年越しの対面”を楽しみにされているのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)夢の対面へ、愛子さまの胸も高鳴るーー。
2022年02月19日※ 本記事内で述べられているのは個人の感想であり、ローズヒップの効果・効能を保証するものではありません。■ローズヒップティーは“まずい”飲み物だと思ってた先月は「ジンジャーティー」に凝っていることを報告しましたが、今月はもうひとつ、好きな飲み物が増えた報告です。それは「ローズヒップティー」。私は知らなかったのですが、美容アイテムに目がない方々のあいだでは、“美容ティー”としてポピュラーな飲み物のようですね! 私も20代の頃に飲んだことはあったんですが、その時に酸味が強すぎて嫌いになって以来、「まずい」と思い込んで飲んだことがなかったんです。それが最近、ローズヒップティーを人から頂いたので、「スッパイだろうな~」と思いながらも飲んでみたら、意外にも微かに甘みがある……! 今から考えると、昔飲んだのはクエン酸が豊富に含まれているハイビスカスとブレンドされたローズヒップティーだったのかもしれませんね。■ローズヒップティーの期待できる効能&美容効果そこで自分でも買ってみる気になってネットで検索したら、ローズヒップティーにはいろいろな美容効果を期待できることが判明!ビタミンC含有量が高い!ビタミンCがあるのは何となく知っていたけれど、ローズヒップには「ビタミンCの爆弾」と言われるほど豊富に含まれているらしいの。つまり、これから紫外線が強くなる季節にピッタリな飲み物ということですよね。それにローズヒップのビタミンCは熱に強いので、お茶にしても壊れないらしいですよ。美容によいとされる成分が豊富その他にもコラーゲンや鉄分やビタミンA、E、βカロテン、カルシウム、リコピンが豊富に含まれているし、赤ちゃんの柔らかい肌を保つのに役立つαリノレン酸も含まれているとのこと。それらの栄養素によって肌の新陳代謝の促進、美肌・美白効果、ホルモンバランスを整える、老化防止、生理痛の緩和、毛穴が小さくなったり黒ずみが解消されるといった効果まで期待できるらしいの。まさに女性にとってはありがたーいお茶ですよね!■ローズヒップティーの美味しい飲み方さて、ネットで私が購入してみたのは「プロヴァンスガーデン」というところの、ファインカットと呼ばれているローズヒップの実が細かくカットされているもの。これをカップに大さじ一杯ぐらい入れて蓋をして、待つこと3分。蓋を取ると、実がカップの底に沈んでいて、お湯は紅茶色に変わっているの。モチモチ&ネットリ……、ローズヒップの実が美味しい!ティーも良いけれど、私はこの実のほうが好きになってしまいました! なんて言うか、モチモチとネットリ感とした感触で甘みがあって美味しいんです!実際、実を食べることのほうが大事。なにしろ、実のほうに先ほどの美肌効果や栄養成分が詰まっているのですからね。だからティーパックになっているものよりも、実も食べられる状態で売っているものを買ったほうがお得ということです。美白効果を狙えそう!?このローズヒップティーを朝晩の2回ずつ飲み(食べ)始めてまだ10日間くらいですが、確実に肌が白くなっている気がします。今年の夏は、これで紫外線対策&美白効果を狙おうかと思っています。気になる方は、ぜひ、試してみて!※ 本記事内で述べられているのは個人の感想であり、ローズヒップの効果・効能を保証するものではありません。
2022年02月16日「3年連続で、2月23日の天皇陛下の誕生日に予定されていた一般参賀は、感染拡大防止のため中止になってしまいました。残念ながら令和になって一度も天皇誕生日の参賀は開かれていません。祝賀行事も大幅に縮小されます。ただ、昨年とは異なる点があります。祝賀の儀に、雅子さまが出席されることになったのです」そう語るのは皇室担当記者。昨年は新型コロナ対策で、陛下が単独で出席されていた祝賀の儀。今年はお二人そろっての出席となり、総理大臣が代表でお祝いの挨拶をするという。「雅子さまは、昨年の11月ごろから体調不良が続いています。2日に分けて行われた愛子さまの成年行事も、1日目は欠席。年明けの講書始の儀も欠席されています。そういったなかで、陛下の62歳の誕生日に催される祝賀の儀に出席を決められた陰には、雅子さまの強い思いがあったのではないでしょうか」(前出・皇室担当記者)昨年12月のご自身の誕生日、雅子さまは陛下への感謝の思いをこう綴られていた。《天皇陛下には、コロナ禍の中でも引き続きお忙しい日々をお過ごしですが、変わらずお元気でいらっしゃることを何よりありがたく存じます。また、常に私の体調にお気遣いいただき、深く感謝申し上げます》いまだ体調の波を抱えながらも、雅子さまはできる限り陛下を傍で支え続けることを誓っておられるのだ。「陛下が雅子さまにプロポーズされてから今年で30年ですが、お二人の愛はまったく色褪せることがありません。雅子さまは、陛下へのバレンタインデーのプレゼントを欠かすことはないそうです。ご実家の小和田家も、海外生活が長く、また離れ離れになる時期もあったことから、クリスマスやバレンタインデー、お誕生日などの記念日の贈り物を大切にしていました。雅子さまはそうした習慣を引き継がれているといいます」(宮内庁関係者)■バレンタインデーにスイスチョコを天皇陛下の誕生日はバレンタインデーの直後ということもあり、誕生日会見で記者から、プレゼントについて質問を受けることもあった。婚約直後だった’93年の会見で陛下は「バレンタインデーについては非常に心のこもった物をもらいました。けれども内容については、二人の秘密にさせていただきたいです」と、おっしゃっていた。雅子さまが陛下にプレゼントされていたものの一つが、スイスの「ステットラー」というブランドのチョコレートだった。かつて東京・代官山にあった、ステットラーの日本代理店の元オーナーに話を聞くことができた。「雅子さまが天皇陛下のためにお求めになったのは、『ジュネーブの石畳(パヴェ・ド・ジュネーブ)』というチョコレートです。ヨーロッパの街並みの石畳を思わせる、キューブ形にカットされた生チョコです。現在ではこういった石畳形のチョコはさまざまなお店で見られますが、その発祥となったのはステットラーといわれています。ステットラーのチョコレートはもともと雅子さまのお父さまが、仕事の関係でジュネーブに住んでいたころからたいへんお好きだったそうです。ご結婚前に、雅子さまは陛下へのプレゼントとしてお求めくださいました。ご結婚後にも、侍従の方を通じて何度かご注文いただきました」■雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れない陛下スイスのジュネーブは、雅子さまが2歳のころに短い間ではあるが滞在したことのある街。双子の妹・礼子さんと節子さんが生まれた、雅子さまやご家族にとって大切な場所だ。雅子さまは高校時代の夏休みにも、スイスを再訪されている。そんな少女時代の思い出がこもったチョコレートを、陛下にお渡しになっていたのだ。一方の天皇陛下も、雅子さまへのねぎらいの言葉を忘れることはない。昨年の誕生日会見ではこうおっしゃっていた。「雅子はいまだ快復の途上にあり、体調には波があり、大きな行事の後には、疲れがしばらく残る傾向があります。これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います」コロナ禍のため、引き続き外出を伴うご公務は控えていくことになりそうだが、両陛下は2月10日、島根県の障害者支援施設をオンラインで視察された。画面越しではあるが、子どもたちが音楽に合わせて体を動かす「ミュージックケア」をご覧になるなど、施設利用者と交流されたのだ。両陛下は感染拡大を予防しつつ、新しい形での国民とのふれあいを模索されている。困難な状況は続くとみられるが、これからも雅子さまは“一生お傍に”という愛情で陛下を支え続けられるーー。
2022年02月16日天皇皇后両陛下の、コロナ禍の国民生活を心配するお言葉で始まった2022年。今年の皇室には、お引っ越しや単独ご公務の開始など、さまざまな変化が待っている。そこで、話題になりそうな「皇室ニュース」を大予測!【天皇皇后両陛下】英国ご訪問が実現?英国のエリザベス女王の在位70年となる今年、’20年から延期されている英国ご訪問への期待が高まる。実現すれば、令和初の海外ご公務。在位60年のときには上皇ご夫妻が招かれているので、両陛下も訪問を望まれているだろう。さらに、さまざまなご公務に愛子さまと出席される機会も増えるかもしれない。また、しばらくお出かけになれなかった被災地へのご視察も、実際に現地へ足を運ばれたいとお考えになっているのでは。【愛子さま】3月にご成年会見昨年12月に20歳となられた愛子さまは、春休みである3月に成年に際しての記者会見を行うほか、外出されてのご公務も期待されている。また、コロナ禍が収束していれば伊勢神宮、神武天皇陵へ成年となったことを奉告されるためのご参拝もある。4月には大学3年生になられるが在学中は学業が優先。それでもご公務に出席される機会もあるという。若々しく優しい笑顔と両陛下の一人娘としての存在感で、今年は注目の的になりそうだ。【上皇ご夫妻】春に赤坂へお引っ越しコロナ禍で改修工事が遅れている赤坂御用地の仙洞御所へのお引っ越しが、春に予定されている。上皇ご夫妻は平成の初めまでお住まいになっていた仙洞御所(旧赤坂御所)に戻ることを楽しみにされているという。【美智子さま】今年米寿に10月20日に美智子さまが88歳、米寿の誕生日をお迎えになる。【佳子さま】ご結婚への動きは?延期されている、皇嗣となられた秋篠宮さまの伊勢神宮ご参拝もコロナ禍の状況をみて行われる。そして、今年は女性皇族の結婚後の役割について国会で話し合われるが、眞子さんの結婚を応援されていた佳子さまの恋愛と結婚も注目される。【悠仁さま】4月に高校ご進学現在、お茶の水女子大附属中学3年生の悠仁さまは高校へのご進学を控えられている。筑波大附属高等学校を受験されるとの噂が出ているが、もし入学されれば、戦後の皇族として初の東大ご進学への期待が膨らむことになりそう。【小室眞子さん】NYで就職か?2月に小室さんがニューヨーク州の弁護士試験に2度目の挑戦。眞子さんもメトロポリタン美術館に勤めていたキャロライン・ケネディ氏を訪ねるなど就職も考えているのかも。2022年の皇室は昨年に続き、変化の年にーー。
2022年01月15日例年であれば新年一般参賀が開催されていたはずの1月2日。天皇皇后両陛下は「元明天皇千三百年式年祭の儀」に臨まれた。元明天皇は奈良時代、707年に47歳で即位した女性天皇だ。皇室の歴史に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんに解説してもらった。「元明天皇は、古代の日本社会の安定と繁栄を支えました。奈良の都の造営、現存する最古の歴史書である『古事記』の完成、古代の地方情勢を記録した『風土記』の編纂、日本最古の流通貨幣とされる和同開珎の鋳造など、元明天皇は数々の功績を残しているのです」女性天皇への反対意見のなかには「女性に天皇の重責は務まらない」といった声もあるが、元明天皇はそういった主張を覆す存在とも言えそうだ。「しかも元明天皇は、娘の元正天皇に皇位を継承しています。母娘で動乱の時代を安定に導いたのです。当時、天皇の血を引く男系男子がいなかったわけではありません。それでも2代続けて女性天皇が誕生したのは、ほかの男系男子よりも天皇にふさわしいと認められたからでしょう」(小田部さん)式年祭にあたり両陛下は元明天皇について資料を読み込まれたという。12月21日には、皇居・御所に丸山裕美子・愛知県立大教授を招き、元明天皇の事跡について説明を受けられた。「昨年12月、雅子さまは体調を崩されていましたが、それは愛子さまの成年行事に向けてさまざまな準備をされ、緊張状態が続いた影響があったとみられています。“将来の天皇に”と期待の高まる愛子さまが無事に成年を迎えられるようにと、雅子さまは母として大きな重圧を感じられていたのかもしれません。愛子さまが成年を迎えた翌月に行われた式年祭ですから、両陛下は元明天皇の“偉業”について、愛子さまにしっかりとお伝えになったことでしょう。そこには、女性天皇の功績を学ぶ中で愛子さまに“天皇になる覚悟”を持ってほしいという思いもあったのではないでしょうか」(宮内庁関係者)愛子さまは小学校の卒業レポートで藤原道長について取り上げ、天皇家と藤原家の姻戚関係や、当時の天皇の政治的役割についても言及されていた。当時から、皇室の歴史を自ら学んでいらしたのだ。愛子さまは1300年前の女帝の輝かしい功績に、何を感じられたのだろうかーー。皇室ジャーナリストの渡邉みどりさんはこう語る。「成年行事に臨まれた愛子さまは、とても堂々とした雰囲気で、目元は香淳皇后のお若いころに似ていらっしゃると思いました。歴史と伝統を重んじる天皇家のなかで育ってこられた愛子さまは、ご自身のお立場を自覚し、しっかり勉強なさっていると思います」憲法で“国民の総意に基づく”と定められた天皇の地位。国民の声を後押しに、愛子さまがその立場に就かれる日は来るのかーー。
2022年01月10日天皇皇后両陛下の長女・愛子さまは12月1日、20歳の誕生日を迎えられ、5日には初めての正装で成年行事に臨まれた。愛子さまは誕生日に《成年という一つの節目を無事に迎えることができましたことを嬉しく思います》と感想を記された。さらに《日頃から思いやりと感謝の気持ちを忘れず、小さな喜びを大切にしながら自分を磨き、人の役に立つことのできる大人に成長できますよう、一歩一歩進んでまいりたいと思います》と、成年皇族としての決意を述べられた。愛子さまの記者会見は来年3月に行われることとなっているが、天皇陛下も41年前の’80年2月、成年式の3日前に初めて公式記者会見を開き、お考えを述べられている。皇室の行事に参加する機会が増えることに「責任の重大さっていうものを感じています。でも一歩一歩努力していきたいと考えています」と、決意を語られた一方で、大学生活のエピソードもお話しになった。「学生食堂で食事する時にも、今まで全然知らない人と隣に座ったりして知り合いになれること。そういったこと、とても楽しいです」また、中学高校と男子校だったことから「また共学になって一種の新鮮さっていうものをちょっと感じている段階」だったといい、「入った当初は、何となく自分でも女子学生とつき合う時に何かぎこちなさってものを感じたんですけれど、最近は、ま、少しずつ慣れてきたかなという感じも受けるんです」と、共学への戸惑いも語られていた。史学科での研究や、音楽部でのクラブ活動など、充実した大学生活を送られていた陛下。記者から「青春というのは宮様にとってどんな時代か」との質問され、次のようにお答えになっている。「青春ってものはやはり、あらゆるものに挑戦し、それから自分の力を試す、自分の中のもの、外のものに限らずそういった力を試す時期であり、また、模索する時期じゃないかなって考えるんです」「青春ていうのは何年もたって、そしてあぁあの時が自分の青春だったのかなと思う、そういった感じも受けるんです。ですから、自分自身あとから考えてみて、ああ、あの時代、今の時代ですね――を精一杯生きたんだなと思えるような、そういった時期にしたいと思ってるんです」愛子さまは昨年4月に入学されて以降、コロナ禍のため学習院大学のキャンパスにほとんど足を運ぶことができていない。残りの大学生活で“青春”が謳歌できることを、両陛下も願っていることだろう。
2021年12月27日12月23日に88歳、米寿の誕生日を迎えられる上皇陛下。天皇陛下と雅子さまが12月9日、仙洞仮御所へ上皇陛下と美智子さまに雅子さまのお誕生日のご挨拶に伺った際には、1年9ヶ月ぶりのご対面に時間を延長されてお会いになった。天皇皇后両陛下がお帰りになるときも、美智子さまとお見送りに出られ、玄関でもお話が続き名残惜しそうになさっていたという。上皇陛下は1933年(昭和8年)に、昭和天皇と香淳皇后の長男として誕生された。上皇陛下には4人のお姉さまがおり、皇位継承者となる上皇陛下のご誕生に当時の日本中が沸き返った。その熱狂は、『皇太子さまお生まれなった』という曲が流行したほど。88年前の12月23日の早朝には、ご誕生を知らせるサイレンが東京の街に2度鳴り渡った。歌の歌詞にある「鳴った 鳴った ポー ポー」というフレーズは、男のお子さまがお生まれになったことを国民に知らせる合図だった。そして23歳の夏に、上皇陛下は軽井沢のテニスコートで美智子さまと出会い、1959年にご成婚。皇太子(当時)としては初めて、親子別々に暮らすのではなくお手元でお子さまを育てられた。上皇陛下が自ら、幼い天皇陛下を抱っこされる写真も残されているが、当時の人々の目には新鮮に映るお姿だった。上皇陛下は、ご家庭でのご様子も時折国民に公開してこられた。その上皇ご夫妻の子育てのスタイルは天皇陛下、秋篠宮さまにも引き継がれている。1970年のお正月写真では、小学4年生の天皇陛下と真剣なご表情で百人一首を楽しまれていた。一方で、お若いころからご退位まで地方ご公務や海外ご訪問が続き、忙しい日々を過ごされてきた。天皇陛下ご誕生から約半年後の1960年9月には、美智子さまとともにアメリカを16日間にわたり公式訪問。皇室で初めてディズニーランドを訪れたときには、ウォルト・ディズニー夫妻のアテンドでアトラクションを体験されている。また、昭和の時代から、国民の理想の夫婦として敬愛を集めてこられた。1968年の長崎ご訪問で船に乗られたときのように、美智子さまの手を取られエスコートされるご様子は、上皇ご夫妻の定番となっていた。そしてその仲睦まじいままのご様子で、国民の元にお出かけになってきた。高齢者施設や児童養護施設などでは、ゲームに飛び入り参加するなどユニークな一面もお見せになっている。そうしたご交流を、退位されるまで積み重ねられた。国民が楽しいときも苦しいときにも、国民とともにあるという平成の皇室のスタイルを確立されたのも、上皇陛下のお考えがあってのものだ。令和になって以降は、一切、ご公務をなさらず美智子さまと静かに暮らされている。皇太子時代から取り組まれていたハゼのご研究をお続けになるとともに、毎日の日課として仙洞仮御所のお散歩も欠かされない。広い皇居では長い距離を歩き、健康を維持されてきたが、仙洞仮御所では同じコースを何度も回られているという。来春には赤坂御用地にお引越しされるご予定の上皇さま。今よりも広いお住まいで、ゆったりと穏やかに過ごされる日が早く来ることを願うばかりだ。
2021年12月23日《成年という一つの節目を無事に迎えることができましたことを嬉しく思います》天皇皇后両陛下の長女・愛子さまは12月1日、20歳の誕生日を迎えられ、ご感想を公表された。その中で愛子さまは《成長を見守り、温かい声をお寄せいただいている国民の皆様に、この場をお借りして厚く御礼申し上げます》と、国民への感謝の言葉を綴られた。皇室担当記者は感慨深げに語る。「愛子さまのお言葉は皇族としての自覚を強く感じさせるものでした。育ててくださった両陛下、見守ってくださった上皇ご夫妻、さらには学校の先生や友人に丁寧に感謝を伝え、コロナ禍の国民生活を案じるお気持ちをしっかりと記されています」さらに注目を集めたのは、誕生日に公開されたお写真だった。ツイッター上では愛子さまの“変貌ぶり”に《綺麗になられてうっとりしてしまった》《ますます気品高いお顔立ちに》と、驚嘆の声が続出したのだ。ブラウンのワンピースに、グレンチェックのジャケットを羽織られた愛子さま。フォーマルな装いに合わせて、メークもバッチリされていた。「外部からヘアメークの専門家を呼んでいるはずですが、愛子さまご自身、あるいは雅子さまのご要望にそってスタイリングがされていると思われます」(宮内庁関係者)すっかり大人びた印象になられた愛子さま。その変化をもたらした秘密は“口元”にあった。《愛子さま歯列矯正されてる!》《歯が綺麗になって笑顔が素敵になられてる》昨年のお写真では八重歯がちょっぴり目立っていた愛子さまだが、1年の間にすっかり歯並びが整っており、ツイッター上でも驚きの声が上がったのだ。歯科矯正を専門にする麻布十番矯正歯科室院長の菊池香織さんによれば「昨今のマスク生活中に歯並びを直そうという人は増えている」という。「歯を抜く場合は2~3年かかりますが、抜かない場合は数カ月で治療が終わることもあります。矯正器具もいまは選択肢が増えていて、一般的なワイヤを使ったブラケットだけでなく、歯の裏側につける目立たない装置や、取り外しができる透明なマウスピースもあります。歯科矯正は、虫歯や歯周病予防、滑舌の改善にもつながります。また、歯並びに心理的なコンプレックスを抱えていた方からは、自然に歯を見せて笑えるようになり、矯正で気持ちが前向きになったという話も聞きます。海外ではよい歯並びが身だしなみのひとつと考えられていますが、日本でも歯並びに対する意識が変わってきているように感じます」■乗り越えた“激ヤセ”のトラウマ愛子さまも今後、海外からの賓客をもてなしたり、海外訪問をされる機会が増えてくるだろう。「実は、八重歯がチャームポイントの雅子さまも、ご婚約当初、アメリカの雑誌から歯並びについてあれこれと論評を受けたことがおありです。そういった経験もあって、雅子さまが歯列矯正を勧められたのかもしれません」(前出・皇室担当記者)この1年で急激に愛子さまが女子力を向上されたのはなぜなのか。前出の宮内庁関係者は、5年ほど前の“激ヤセ事件”が思い出されると語る。「愛子さまが中学3年生のころ、一気に15kgほどお痩せになったことがありました。思春期の愛子さまはこのころダイエットに取り組まれていたようですが、摂食障害に近い状態にまでエスカレートしてしまったといわれています。雅子さまもたいへん心配され、それ以来愛子さまがダイエットを試みることはなかったそうです。しかし、コロナ禍でご家族や職員以外と顔を合わせる機会がなくなり、他人の視線がプレッシャーにならない状況になりました。そこで雅子さまのサポートを受けつつ、愛子さまは“自分磨き”にチャレンジされたのでしょう。いま、若い女性の間では“自己肯定感”がキーワードになっています。かつてのトラウマを乗り越えてダイエットを成功され、歯列矯正もされたことで、愛子さまはこれまで以上に自信を持ってさまざまな活動に取り組むことができるようになられるはずです」立教大学教授で精神科医の香山リカさんは「ご自分の役割を自然に自覚されているのでは」と語る。「若い女性がオシャレになりたい、綺麗になりたいと思うのは自然なことですが、愛子さまの場合はそれだけではないと思います。成年皇族として人とお会いしたときに、より受け入れられる、いい印象を持ってもらえるにはどうすればいいかとお考えになっているのではないでしょうか。ファッションやメークにも愛子さまの“利他的”なご姿勢が垣間見えました。いまはコロナ禍ということもあり、さまざまなことを遠慮されていると思いますが、いずれはもっと自分らしさを発揮されてもいいのではないかと思います」雅子さまと二人三脚の“美活”で、さらに自信を深められた愛子さま。その笑顔はきっと、日本中を明るくするはず――。
2021年12月07日12月1日、20歳の誕生日を迎えられた愛子さま。宮内庁を通じて公表された文書では、《天皇皇后両陛下には、これまで愛情深く大切に育ててくださり、どのようなときも一番近くで支えてくださいました。また、上皇上皇后両陛下には、幼い頃より私を優しく包み込み、お導きくださいました。心より有り難く思っております》と、感謝の気持ちを綴られた。愛子さまは現在、学習院大学の2年生。今後は学業を優先しつつ、成年皇族としてご公務を担われることとなる。これからのご活躍が楽しみな愛子さまだが、これまで学業と両立して続けてこられたものがある。それは蚕の飼育だ。養蚕は明治以降の歴代の皇后に受け継がれる皇室の伝統だが、愛子さまも美智子さまと雅子さまに倣って10年以上も続けてこられたのだ。「愛子さまが養蚕を始められたのは、学習院初等科3年生のころ。学校の授業で育てた蚕を持ち帰られて以来、学業の合間を縫って続けてこられたのです。幼いころから生き物好きだった雅子さま譲りなのでしょう、卵から孵化させるなどとても大切に育てられています。蚕が病気にならないよう、2つのグループに分けるといった工夫もされていると聞きました。愛子さまの蚕は今年も無事に成虫となり、卵が採取されました」(皇室ジャーナリスト)愛子さまが熱心に取り組まれている養蚕だが、日本国内では蚕糸業は衰退傾向にある。今年6月に農林水産省が発表したデータによると、平成元年には57,230戸あった養蚕農家が昨年は228戸にまで激減している。「おもな理由は生産者の高齢化や後継者が不足していることです。蚕糸業者の間では、『皇室を最後の養蚕農家にしてはいけない』との声も上がっていると聞きました。愛子さまはそんな危機を目の当たりにして、皇室だけではなく日本の伝統をも守り抜こうという責任感をお持ちなのかもしれません」(前出・皇室ジャーナリスト)成年皇族を迎えるにあたって、《人の役に立つことのできる大人に成長できますよう、一歩一歩進んでまいりたいと思います》とも綴られていた愛子さま。10年以上も続けられている養蚕の“キャリア”は、将来、日本の伝統を紡ぐ希望となるはずだ。
2021年12月05日