株式会社コロッケエンターテイメントフーズ(本社:東京都港区赤坂、代表:齊藤大)が運営する、ものまねタレント「コロッケ」プロデュースのコロッケ専門店「コロッケのころっ家」が初めてのスペシャルコラボ企画の商品として「美空ひばりBOX」を発売いたします。モノマネタレント・コロッケ氏と特大フィギュア2021年2月の第1号店である新小岩店オープン以降、その話題性と当店自慢のコロッケの評判から、1年と待たずに次々と店舗やキッチンカーを展開。おかげ様で各地に店舗をオープンするたびに、メディアでその盛況ぶりを多く取り上げて頂いております。そんな話題の「コロッケのころっ家」が、今年5月29日に迎える美空ひばりさんの生誕85周年を記念し、株式会社ひばりプロダクション(東京都目黒区青葉台1-4-12、代表取締役社長:加藤和也)のご協力により、ひばりさんの愛したコロッケを再現し販売させて頂く運びとなりました。ひばりさんのご自宅で料理番として台所を一手に預かっていた辻村あさこさんはご活躍を終えた今も、ひばり邸の守り神としてご自宅を守っています。当店は辻村さんにその貴重なレシピを伝授して頂き、商品化に漕ぎつけることができました。大スター「美空ひばりが愛した味のコロッケ」を是非、ご賞味下さい!■商品概要商品名 :コロッケのころっ家「美空ひばりBOX」販売先 :コロッケのころっ家 全店(現在、関東、中部、関西、長野で15店舗)商品構成:BOX(5個入り)での販売辻村さん監修のコロッケ:3個、特製ビーフコロッケ:2個「辻村さん監修のコロッケ」は新鮮なジャガイモと大きめのエビをふんだんに使った、ひばり邸の食卓の味を再現。素朴で深みのある味わいとなっております。販売期間:令和4年4月29日~10月31日(半年間の限定販売。状況により期間延長の可能性あり)販売価格:「いいコロッケ」にちなんだ 1,156円(税込み)※期間限定のBOX入りのセットとしての販売。単品販売は致しません。BOXの仕様(既存)辻村さん監修のコロッケ人気商品・特製ビーフコロッケ■美空ひばりBOXについて「ひばりさん」と「コロッケ」お二方のスペシャルコラボを見た目からも味からも存分にお楽しみいただきたいという思いから、オリジナル仕様のBOXに、新商品に加えて人気商品「特製ビーフコロッケ」も味わえる、5個入りのセットで販売します。BOXには「ひばりさん」と「コロッケ」のオリジナルイラストがデザインされたステッカーと、お二人の名前入り千社札風のステッカーが付いてきます。ご賞味の後もコラボ企画を楽しんでいただけます。(ステッカーは貼付の状態でなく、お好きなところに貼れるようシートの状態でご提供します)ひばりさん、コロッケのイラストと千社札風シール■辻村あさこさんプロフィール1950年5月27日 静岡県生まれ1973年から青葉台でお手伝いとして美空ひばりさんに付き、現在でも東京目黒の「美空ひばり記念館」に住み毎日3度ひばりさんの休む加藤家のお仏壇に食事をお供えしている。美空ひばりさんと辻村あさこさんの当時の写真料理番 辻村あさこさん【運営会社概要】■本部株式会社コロッケエンターテイメントフーズ住所 : 東京都港区赤坂3-8-17 パンジャパンビル3階代表者名 : 代表取締役 齊藤大設立 : 2020年10月26日事業内容 : 飲食店の運営、管理及び経営並びにその企画及びコンサルティング、フランチャイズチェーンシステムによる飲食店の経営、フランチャイズチェーンシステムによる飲食店の加盟店募集及び指導業務、屋台・車両等による飲食物の移動販売及びケータリングサービス業ホームページURL: 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年04月22日氷川きよし昨年末の『NHK紅白歌合戦』では美空ひばりの『歌は我が命』を熱唱し、多くの人の心を打った氷川。’22年の始動は、2月1日リリースの『群青の弦(いと)』から。■どんな苦しいことも乗り越えて「この楽曲は箏曲師の宮城道雄さんをイメージして歌った作品となっています。宮城さんは盲目でいらっしゃったわけですが、そんな苦悩の中から『春の海』のような素晴らしい作品をお作りになられました。どんなハンデがあってもどんな苦しいことがあっても、乗り越えてそこでまた輝いていく、そんな思いにさせていただける一曲です」水面をイメージした空間の中で、袴姿でたたずむ。そんな凛としたジャケットをここに初公開。「また全タイプに、ボーナストラックとして私の思いを描いた『きみとぼく』を収録しています」28歳のときから15年、ずっと一緒に生活していた愛犬のココアちゃんが昨年2月16日、天国に旅立った。ココアちゃん目線の作品を、kii名義で作詩した楽曲だという。「ぜひ多くのみなさまにお聴きいただきたい作品になっています。どうぞ応援のほど、よろしくお願いいたします」2月1日(火)発売『群青の弦(いと)』カップリングは【A】『鼓』、【B】『浮世 恋の騙し絵』【C】『明日が俺らを呼んでいる』(※写真はAタイプ)。全タイプにボーナストラック『きみとぼく』を収録。各1227円+税。発売/日本コロムビア
2022年01月18日吉野寿雄さん撮影/齋藤周造六本木にあった伝説のゲイバー『吉野』のママは、著名人たちが癒しを求める「オアシス」のような存在だった。各界のスターは、なぜ吉野ママの元に通い詰めたのか。カルーセル麻紀、はるな愛、美川憲一らが証言する戦中戦後を生き抜いたママの持つ魅力とは―。■三島由紀夫の初期の代表作に登場瀟洒(しょうしゃ)なブティックや飲食店が立ち並ぶ、東京・南青山の逢魔(おうま)が時、吉野寿雄さん(90)はひとりで約束の場に現れた。ハイブランドのカジュアルウエアに身を包み、背筋がピンと伸びた佇まいは、ただ者でない雰囲気を醸し出す。「来月で91になるの。現存する日本最古のオカマよ(笑)。青山に暮らして60年になるけど、昔はこのへんも何もなかったのよ。バブルになってからよ、こんなにビルが建ったのは。いつも夕方に起きて、夜、お散歩してるの。ずっと昼夜逆転した生活を送ってきたからね、変われないのよ」そう笑う吉野さんは、六本木の伝説のゲイバー『吉野』の元ママで、戦中戦後のゲイの歴史の生き証人ともいえる。自身の経験をユーモラスに明かす語り口で人気に火がつき、バラエティー番組やドラマ、YouTubeでも引っ張りだこだ。TBSラジオ番組『安住紳一郎の日曜天国』にはおなじみのゲストとして、不定期で出演。安住紳一郎はLGBTへの風当たりが強かった時代の苦労話も笑いに変えてしまう吉野さんの魅力に感服しているという。1964年に開業した店『吉野』には、政財界、文壇のほか、芸能界、スポーツ界から美空ひばりや石原裕次郎、高倉健、長嶋茂雄といったスターが夜ごと集まった。看板も出さない常連だけの空間で、スターたちは朝まで濃密な時間を過ごした。自身も元ゲイボーイで吉野さんを昔から知るタレントのカルーセル麻紀(78)は、親しみを込めて、“吉野のお母さん”と呼ぶ。「お母さんはまぁおもしろい人で!私もおしゃべりですけど、あの話術には到底かないません。吉野はちっちゃな店でしたが、いつも芸能人がずらりと並んで、銀座の一流ホステスも店が終わると来てましたね。高倉健さんだってお酒飲めないのに、わざわざコーヒーを飲みに来てたんですから!」2020年7月に公開された映画『mama』では、吉野さんが架空のゲイバーを舞台に会話劇を好演。監督を務めたタレントのはるな愛(49)も吉野さんをレジェンドと慕う。「ママがお店を始めたのは、高度成長期でみんな羽振りがよくって、夜の盛り場にいろんなものを満たしに行った時代ですよね。たくさんの出会いがすべてママの財産になっていて、本当に幸せな人生だなーって思うんですよ。昔は芸能人と一般の方との境目がもっとはっきりしていましたし、今より孤独だったスターたちの心の拠りどころだったんじゃないかと思うんです」六本木ヒルズの開発に伴う立ち退きを機に、『吉野』は惜しまれつつも38年の幕を閉じた。親友で歌手の美川憲一(75)がその裏話を語る。「水商売で華々しくしていてもね、末路は生活保護になられたり、大変なことも多いのよ。だから立ち退き交渉のときに、“老後のことを考えて、もうお金はいっぱい持ってるだろうけど、絶対1億は出るから、それまで粘りなさいね”って、私言ったのよ。ところが吉野は目の前に3500万かなんか現金積まれちゃったら、もううれしくなっちゃって(笑)。“みんな出ていっちゃって、暗いところに1人でいるのはお化けが出そうで怖い”って、潔く手を打っちゃったのよ。実際に最後まで粘った人には1億出たのよ!」さらには、その後の税務署の調査で、顧客からのチップもすべて記載された帳簿を提出することになり、追徴課税と立ち退き料でプラマイゼロになってしまったのだとか。「だからね、言うのよ。逆によかったんじゃない、なかったもんだと思えばって(笑)。でもね、あんた、いいじゃないって。それでも今でも元気でね、お金いくら残してるかわかんないけど、グッチだプラダだって買ってお洒落してるんだから。そんな90歳いないわよ。まさに怪物よ!」吉野さんは、三島由紀夫の同性愛をテーマとした初期の代表作『禁色』(1951年刊)にも登場している。戦後まもなく、17歳で銀座のダンスホール『美松』のボーイになったころ、仕事の合間に出入りしていた数寄屋通りの喫茶店兼倶楽部『ブランスウィック(以下B)』で三島と知り合ったのだ。『B』は「有楽町のルドン」という名称で出てきて、店内や常連客の様子が克明に描かれていた。「三島さんは遊びに来ていただけじゃなく、取材しに来てたのね。あのころはまだ色白で華奢だったのよ。Bは一見普通の喫茶店のようだったから、何も気づかずにコーヒーだけ飲んで帰るお客もいたわ。だけど実際はゲイのたまり場で、ゲイ同士は目と目を合わすだけでわかるから、一緒にコーヒーを飲んだり、気になる相手を探したりしたのね」『禁色』の中で、自分ほどの美少年はいないと思っている“オアシスの君ちゃん”のモデルが吉野さんだ。いつも洒落た身なりで、うなじをきれいに剃り上げて、外国人客にちやほやされる存在である。「美松のよっちゃんが、オアシスの君ちゃんになっていたの。私、自分のことを美少年だなんて言ったこともないのに、三島さんが勝手に書いたのよ!(笑)」三島は見た目と違い、大きな声で話しては、豪快に笑っていたという。吉野さんは気分が乗ったときに1回転するピルエットを度々披露していた。その癖も三島は見逃さず、作中に描いている。「バレエとか宝塚とかそのころから大好きだったからね。大磯のゲイパーティーも実際に横浜磯子の御殿で開かれていたものだし、主人公の悠ちゃんは、三島さんが惚れ込んでいた池袋のジャズ喫茶の息子さんだったのよ」当時のゲイたちは、昼間は男性として普通の生活を送り、夜になると密かに自分たちだけのグループで集まっていた。『B』は砂漠のオアシスのような存在だったという。「今は堂々と LGBTなんて言えて素晴らしいと思うけど、私たちのころ、ゲイはひどく差別されていたからね。ちょっと仕草が女っぽいだけで気持ち悪いと言われたし、自分は男が好きだなんて言ったら、気が狂ってると思われるだけで」■黒いマネキンのような死体の山「男らしさ」を求められることに違和感を覚えたのは、小学生のころだった。吉野さんが「國民學校初等科修了証書」と書かれた表紙を眺め、しみじみとつぶやく。「空襲で全部焼けちゃったけど、兄貴がこれだけは取っておいてくれたのよ」セピア色に染まった集合写真には、姿勢を正した小柄な吉野少年が写っている。「小学生のころから女の子のゴム跳びみたいな遊びが好きで、メンコやベーゴマは嫌いだった。特に柔道なんか嫌で、組んだ途端にわざと自分から転がったりしていたわ」太平洋戦争の最中、登校しても警戒警報が発令されると、防空頭巾を被ってすぐ下校させられた。勉強より軍需工場の勤労奉仕が優先され、歯磨き粉などをつくっていた覚えがある。「軍事訓練で隅田公園に木銃を背負っていってね、そのころからゲイだったから“え~いっ”なんてやっていると、先生に『もっと男らしくしろ』と殴られたりして。それでもじっと我慢の子。欲しがりません、勝つまではって仕込まれてたしね。だからちょっとやそっとのことじゃ弱音は吐かないわね。あのまま戦争が続いていたら、私も兵隊に取られていたし」高等科を卒業する(今の中学2年生)直前の3月10日、東京下町を焼き尽くした東京大空襲に遭う。B29による焼夷弾の集中投下で2時間で10万人の命が奪われた大惨禍だ。「だからね、中学の卒業証書なんかもらってないの。両国の酒屋だった親父が道楽して潰しちゃってね、しもた屋みたいな木造の家が並ぶ錦糸町と押上の間の横川町に住んでいたんだけど、夜中に火の手が上がったら、すごい勢いで燃え広がって。防空壕に行こうとしたんだけど、母親が“ここじゃ絶対危ないから、としちゃんだけ連れていく”って。私が末っ子だったんで」次兄は予科練に行っていた。父親と長兄が家のそばにとどまることになり、母親と戦火を逃れ、北へと向かった。ところが火の勢いが強く、途中で行く手を阻まれる。「押上まで来て、母がどうせ死ぬならここで死んじゃおうって。押上駅の橋の上でね、夜が明けるのを待ったのよ。結局生き延びたんだけどね。今でも、スカイツリーが見えるあの場所で、しばらく佇むことがあるわ」翌朝、焼け残った学校へ避難する途中、目に映ったものは、黒いマネキンのような焼死体の山だった。「母が見ちゃ駄目って。だんだん目が慣れてくると、ちっとも怖くなくなったけど、防火用水の中で生焼けになった人とか、電線に絡まったまま亡くなった人が怖くて。いつも夢で見て、眠れなかったわ」何度も焼け出され、転々としたが、練馬の江古田で終戦を迎える。予科練の兄も戻り、家族はみな無事だった。「終戦後、体調を崩してしばらくぶらぶらしてたんだけど、元気になってきたら、じっとしてるのも駄目だと思って、初めて銀座に出てみたの」西武線で池袋へ行き、山手線に乗り換えて有楽町を目指した。当時、山手線は進駐軍に接収され、外国人専用車両があり、半分は白人で、もう半分は非白人用だったという。「外国人の車両は冷暖房が効いてたけど、こっちにはないの。混んでるから連結器の上に乗ったり、サーカスみたいに外の手すりにつかまったりしたわ。落っこちて亡くなった人もいたんじゃないかしら」有楽町で降りると、GI(米国陸軍の兵士)や街娼がたくさんいた。接収中の帝国ホテルやアニー・パイル劇場と名称を変えていた宝塚劇場の前を通り、銀座4丁目の三越に出ると、再開したてのダンスホール『美松』に、ボーイ募集のチラシを見つける。「ボーイって何だろう?って。18歳以上と書いてあったけど、1つ年をごまかして応募したら、明日から出ておいでと」『美松』には一流のジャズバンドが入り、新人時代の石井好子やナンシー梅木が歌っていた。夜は進駐軍専用ホールだったという。「そういう音楽や踊りの娯楽系が大好きだったし、合間に当時日劇や帝劇でやっていた宝塚を見にいったりして、楽しかったわ~!」銀座通りには古着や古本などを売る露店が立ち並び、そぞろ歩きするのにもってこいだった。『和光』は進駐軍向けのPXと呼ばれた百貨店になっており、外国人から商品を買い付けて横流しする者もいた。清濁併せのむ銀座の街で吉野さんは息を吹き返す。■有名俳優も持ち上げない接客その後、ボーイの仕事の合間に出入りしていた喫茶店兼倶楽部『B』で“おしまママ”こと島田正雄さんに出会う。もともと進駐軍向けの食堂を営んでいた島田さんは、吉野さんと青江忠一さんをスカウトすると、お店の路線を変更。新橋の烏森神社の境内に日本初のゲイバー『やなぎ』を始めた。「店の2階に住んで下働きしながら、歌や踊りの練習をして、接客して、毎日、目が回るほど忙しかったわ。おしまママは軍人だったから、スパルタ式でよく殴られたの。今だったらパワハラよね」接収が解除となり、街から進駐軍が撤退した後は、日本人相手の商売に切り替えた。「3人で新橋の芸者からもらったカツラと着物で練り歩いて宣伝したの。お化けが行進してるなんて言われたけど、口コミが広がって、お客さんが集まるようになったのよ」なじみ客には江戸川乱歩やフランスの俳優、ジャン・マレーやアラン・ドロンといった面々がいた。群像喜劇の名手といわれた映画監督・川島雄三もまだ無名のころに、杖をついてよく訪れたという。「川島先生に映画に出ないかって誘ってもらったのよ。でも男の役は嫌だったから、お断りしていたの。顔が出て、親にばれるのは嫌だったし」『やなぎ』に住み込んでからは、すっかり実家への足が遠のいていた。「天国でしたよ。ゲイの社会に浸かりっぱなしで。親には結婚しないのって聞かれたけど、返事をせずにそのままずっと。いろいろ言われるのが嫌だったから、何も言わせないように仕送りしていたの」31歳で独立し、銀座『ボンヌール』を開店。当時から明け方まで営業していた店に、新橋の芸者や女優たちは仕事帰りに足しげく通った。「私たちが着物でストリップをやると、女優の高峰三枝子さんや山田五十鈴さんが喜んでくださって、みんなにチップをくれるんだけど、それがばかにならないお金で!」『枯葉』の世界的なヒットで知られるフランスのシャンソン歌手で俳優のイヴ・モンタンも『青い目の蝶々さん』の撮影の際、来店している。「有名な俳優さんだからって持ち上げたりしないで、普通に接していたら、リラックスしてくださったみたいで、ずっとカウンターに座ったまま、私たちのこと見てたわ」同店を成功させた2年後の’64年、東京オリンピック開幕間際に六本木で『吉野』をオープンする。さらに多くのファンを獲得したことは前述のとおりだ。学生時代から『やなぎ』や青江忠一さんの開いた『青江』で働き、現在、赤坂で47年目になる『ニュー春』を経営する春駒こと原田啓二さん(79)は、吉野さんと同様ピンと伸びた姿勢で、先輩から学んだ接客について話してくれた。「私たちはみんな姿勢がいいんですよ。呼ばれたらすぐ動かなきゃいけないから、深く腰かけないんです。吉野のお母さんからは特に、お客さまの特徴をつかんで名前をすぐ覚えることと、きちんとした敬語を使うことを教わりました。厳しい縦社会でしたけど、お母さんは全然威張らなくて、親しみやすい方でしたね」春駒さんが独立したとき、“一国一城の主として、苦しくても覚悟を持ってやりなさい”と叱咤激励されたそうだ。「それからはお互いライバル関係にあって、内心、負けてたまるかって気持ちもありましたけど。この人にはかなわないな、この人からお勉強しようという思いでいました」コロナ禍で休業を余儀なくされたときも、吉野さんから労いの言葉をもらったという。「大事にしなさい、何かあったら言っとくれと。ありがたかったですね。私ぐらいになると、こうしたほうがいいんじゃない?なんて言ってくれる人は誰もいないんですよ。吉野のお母さんぐらいしか。青江のお母さんも亡くなったし、現実にお店をやってて、昔のことを知ってる人間はもういないんです。私も吉野のおかんがいてくださるから、ちゃんとしなきゃって気持ちがあります。もうすぐ91歳ですから尊敬しますよ。もう人間国宝にしたいぐらい!」吉野さんは立ち退きで閉業した後、再び店を開くつもりでいた。ところが右腕だったちいママが急死し、叶わなくなったことが、いちばんの心残りだという。「晴美って子がよくやってくれたから、生きていたら継がせて、ずっと一緒にやってたはずよ。でも亡くなっちゃったからね、ああ、こんなものかなって……」■惚れた男に贈った高級車を破壊子どものころから愛する対象が男性であることを自覚していた吉野さん。その愛のかたちがどのようなものかを知ったのは、ボーイとして働きだしてすぐのころだ。「お客さんのGIにドライブに誘われたときよ。うれしさ半分、怖さ半分だったわね。初体験が外国人だったから、私はマダムバタフライ(蝶々夫人)ならぬ、マダムカキフライって言ってるの(笑)。やさしくしてもらって、PXでドーナツやポップコーンを買ってもらったわ。食うや食わずで、生きるのに必死な時代だったからね」戦後、昼間から女装をして街に立つ男娼がいた。それらの人々の蔑称が“オカマ”だったという。「上野の山になんかたくさんいたのよ。私たちゲイボーイは、芸を見せてそれで人を楽しませる仕事だって、だからああいう連中とは一緒にされたくないわよって、変なプライドがあったわね。今はオカマって言われても、何とも思わないけどね」刹那的な出会いを繰り返していた吉野さんだったが、1度だけ本気の恋をした。『吉野』を開業し、乗りに乗ったころだ。相手は普通の会社員で、知人の営む池袋の『グレー』という店で知り合ったという。「そこも一見普通のバーなんだけど、男の子がずらっと並んでて、お酒を飲みながら話して、気に入ったらカップルになるというシステムだったの。学生やまじめそうな子もいたわ。小遣いになるから、安直な考えでやってたんでしょうね。沖雅也みたいに俳優になった人もいたのよ」そこでアルバイトをしていた彼に、吉野さんはひと目惚れしてしまう。カルーセル麻紀はその恋を傍らで見ていた。「私、その男知ってますよ!若くていい男でね。お母さんは猿面が好きなんですよ。男の趣味もわかってますから」吉野さんはその男性と宮崎を旅したり、若者の憧れだったスポーツカー、フェアレディZを買ってあげたりもした。「ママとドライブしたいなんてうまいこと言いやがって!ほだされて買ってやったら、私なんてほとんど乗せてくれないで、銀座のホステスと乗り回してたみたいで」動かぬ証拠をつかんだ吉野さんは、ついにあることを決行する。「男が女の家の駐車場に車を止めて泊まり込んでたから、夜中にトンカチでタイヤから何から全部ぶっ壊してやったのよ!ところが男もまぁ図々しくて、家の前に車を置いといたら壊れてた、だなんて泣きついてきて」文句を言おうと思ったが、そのときはまだ彼への未練があり、結局、修理代を出してあげることにした。「“あらそう、誰が壊したのかしら?”なんて言って。てめえで壊して、てめえで払ってって。そんな思い出があるわよ。若気の至りよ!それまでは“おしまママ”が男に惚れたなんて話を聞いて、アハハってばかにしてたのね。ママに“あんたもいつかそういう経験するわよ”ってすごい怖い顔で言われてたから、あ~因果がめぐって、やっぱりこういうことになったんだって思ったわ」カルーセル麻紀が言う。「その男はゲイでも何でもなくてノーマルの男だから、結局は銀座のホステスに取られちゃった。私もそういうのありましたよ!お母さんは身体もどこもいじってなくて、あのままの人なのね。そこは私と違うんだけど、みんなそれぞれで、思考も違うんだって、認め合っているんですよ」吉野さんはその恋に破れて以来、同じことを繰り返さないと決心したそうだ。「ゲイは男に貢いだりして、最後はあんまりお金がなくなっちゃうことがあるのよ。結局ノンケなんかに惚れたら、つなぎはお金しかないからね。貢いじゃ駄目だわって、それからは賢くなったの」とはいえ、ボーイハントをしたくなると、日没後、公園や大学へ出張していった。「暗がりだと男だってばれないからね。私の時代の性転換手術は失敗することが多かったからね、何もしていないの」駒沢公園や碑文谷公園、駒場の東大は行きつけの出張先で、東大の寮では痴女が出ると問題になったこともあるという。「おっぱいの代わりに氷嚢(ひょうのう)にお湯を入れて、輪ゴムで結んで胸にしまっておくの。あるとき、男に噛まれたらそれが破裂しちゃって、顔にバシャーって水がかかっちゃったのよ。相手は何が起きたかわからなかったでしょうね。お互いに驚いて逃げたわ。それとか足の間に隠していたものが、ふとした拍子に飛び出しちゃったり!相手が腰を抜かしている間に、ハイヒールを脱ぎ捨てて逃げたわよ。今だったら殺されてるわよね」ひと昔前の男性たちは純情で、吉野さんを女性と勘違いする人も多かったのだとか。■高倉健、長嶋茂雄との交流取材中、吉野さんが「『週刊女性』に高倉健さんと付き合ってるんですか?って取材されたことがあるのよ!」とちゃめっ気たっぷりに話した。「口には出さないけど、東映なんかではみんなそう思ってたみたい。真相?それはね、何もなかったのよ。でもね、いい思い出があるわ」吉野さんは高倉の出世作、映画『網走番外地』シリーズに出演している。高倉とともに来店した監督・石井輝男からオファーを受けたのだ。「ひとつの檻の中の物語で、田中邦衛さんや由利徹さんもみんな囚人役だった。私は新入りのオネエの囚人で、最初みんなに驚かれるの。健さんに“あら、あんたいい男ね、ダーリン”って襲いかかって怖がられるシーンがあるんだけど、オファーがあってすぐのぶっつけ本番だったのよ」高倉は北海道ロケのとき、雪で滑らないようにと靴を買ったり、旅行鞄をそろえてくれた。現場では無口だったが、吉野さんと2人きりになると、よくしゃべったという。「健さん、昔はお酒を飲んだんですって。酒乱だったから自分でやめたと言ってたわ。水前寺清子が好きで、『いっぽんどっこの唄』なんて聴くと泣くのよ。外見は男っぽいけど、中身は華奢な人で、人一倍気遣いする人だったわ」高倉は最初、店を贔屓(ひいき)にしていた東映のスター俳優、中村(萬屋)錦之助が連れてきたのだが、そのときは車から降りもしなかったという。「“きんにいが呼んでるから来ません?”って声をかけたんだけど、“いや、俺はいいです”ってそのまま帰っちゃって。その後、当時新婚だった江利チエミちゃんや清川虹子さんと連れだって来てくれて、それから1人で来てくれるようになったの」美川が当時の様子を話す。「健さんとは時間があれば毎日のように会っていましたからね。喫茶店で待ち合わせて、六本木のキャンティで食事をしたりして。健さんがいろんな話を聞きたがるんですって、吉野は面白いからね。でも吉野は自分から友達をつくるタイプじゃないのよ。黙ってると黙ってるし、しゃしゃり出てくるタイプでもない。だから私も吉野といると、鬱陶しくないの。あうんの呼吸で」ところがあるときを境に高倉とは疎遠になっていく。「突然、プツッと縁が切れちゃった。向こうから音沙汰なくて、こっちからも連絡しなかった」吉野さんは高倉の没後、高倉がテレビを見ては「およしに会いたいな」と懐かしがっていたと、養女の小田貴月さんの著書で知る。「病気だと聞いていたから、本当はお見舞いに行きたかったんだけど、個人的には知らされてなかったし、迷惑になると思って遠慮して行けなかったの。でも1回ぐらいお見舞いに行けばよかったって、それは今でも悔やんでるわ」美川は2人の交流が途絶えたのは、自分のせいではないかと考えている。「私がブレイクしてバラエティー番組に出るようになったとき、吉野を誘って、一緒にテレビに出るようになったら、健さんからお声がかからなくなっちゃったのよ。健さんとしては吉野がやすらぎの人だったのに、マスコミに出るようになって目立っちゃったからね。疎遠になったのは、芸能界に引っ張り出しちゃった私のせいなんです。健さんは吉野のよさをわかっていらしたから、およしに会いたいなーと思っていたんでしょうね。でもいったん距離を置いちゃうと、なかなかね……」美川が吉野さんに「いちばん思い出に残っていることは何か」と尋ねたとき、高倉健と長嶋茂雄、知人男性と10年間、大みそかに成田山新勝寺に参拝していたことだと話したという。「4人で31日の夕方に押上駅から急行電車に乗って行ったらしいの。車を使わずにね。それで除夜の鐘を聞いて、精進料理を食べて帰ってくるんですって。ずっと自分も誘ってもらえたことがすごくうれしかったって言ってました」■寄っかからない、甘えない吉野さんには、悔いのない人生を送るために心がけてきたことがある。「散々悪いこといっぱいしたわ。でも人に迷惑かけたり、恨まれたりすることはなかった。この年になって、人様に借金したりせずに何とかやれてるのは、若いときは一生懸命働いて、年とってからはゆうゆうと暮らしたいって信念でやってきたからだと思うの。親兄弟にも仕送りは欠かさずして、孝行はしたわ。それだけは自分の取り柄」父が事業を失敗してから、ずっと働き通しだった母に、少しでも楽をさせてあげたいという思いがあった。父の死に目には会えなかったが、母には病院で立ち会え、盛大に葬儀も行った。「今は食っちゃ寝、食っちゃ寝で終わってる。90過ぎて、もう働くこともないしさ、テレビ見たり、ビデオ見たりして、毎日過ごしているわ」最近ではミュージカル映画『雨に唄えば』を観賞し、『木下恵介アワー』や韓国のアクションものを楽しんでいるそうだ。「美川たちが親切にしてくれて、ご飯食べた?って聞いて、一緒に食事してくれたり、ご飯を運んでくれたりしてるの。私、友達には恵まれてるから、そういう点では幸せだと思う。それがいちばんの財産。お金がないのも心細いけど、友達がいてくれるほうがいい」美川は叔母が『やなぎ』の隣の小料理屋で働いていたとき、吉野さんと親しくしていたため、幼いころから吉野さんの存在は知っていた。その後、再会し、付き合いが続いているのも、不思議な縁だと話す。「一緒にご飯食べて、じゃあねって別れて。お互い気も遣わないし、それがストレス解消みたいなもんで」吉野さんが80歳を過ぎたころ、遠慮がない間柄ゆえの助言をしたことがある。「“あんた、いくら持ってるか知らないけど、少しは楽しんでお金使いなさいよ、自分で旅行したりとか”って言ったのね。そしたら、“老後のこと考えないと”ですって!“あんた、何言ってんの、今が老後じゃない”って。まだ老後じゃないのよ、あの人にとっちゃ。だから私も老後はないの。吉野を見ていて私もそういう路線で、しぶとく生きるの。100までは生きますよ、あの人は!」吉野さんは自分でもこんなに長く生きるとは思っていなかったが、神様がくれた寿命ばかりはどうすることもできず、生きている限りは楽しくやりたいと思っている。「長生きしたのは、食べ物もよくなったからでしょうね。戦争中なんてお芋ばっかりで米なんか食べたことなかったし、我慢、我慢ばっかりだったからね。それを思えば今の人たちはみんな幸せよー!贅沢な時代に生まれて、何かというとセクハラ・パワハラって言えて。でも厳しい規律がなくなって、自由すぎるのも、わがままになりすぎてダメかもね。今はかえって迷ったり、悩んだりしてる人も多いんじゃないかしら。多少の厳しさは必要だと思うの。猫だって囲炉裏に1回落ちて熱いと思ったら、もう近づかないでしょ、それと一緒。やっぱり痛い目にあうことも、大事だと思うのよ」現在は性的マイノリティーに関する法も整いつつあり、同性婚も認められる時代となった。吉野さんは「お互いに好きで一緒になるんだったら、それはいいと思う」と認めつつ、自身は男性との同棲や結婚を望んだことはないと話す。「そういうところは男っぽいっていうか、ひとりが好きなのね。友達と会うときは、和気あいあいでしゃべったりするけれども、寝るときはひとりがいい。だから今の自分がいるのかなって思うのよね。人に寄っかかったりしないの。誰かに頼って、あれ取って、これ取ってって甘えてたら、きっとボケちゃってたかもね。身体がいうこときくうちは、なるべく自分でやりたいの」またLGBTを公表したい人がいる一方で、一生隠し通したいと思う人もいるはずだと語る。「出たがり屋と引っ込み思案な人がいるように、みんな一緒じゃないからね。そっとしといてもらったほうが心地いいって人もいると思うの。差別がないという意味では、今はいい時代になったけれど、あんまりオープンになりすぎるのもね。真の愉(たの)しみがなくなってしまうんじゃないかしら。ストリップだって、ちょっとだけよって隠してるからいいんであって、全部出したら興醒めじゃない?やっぱり秘密というものは、誰でも1つぐらいは持っていたほうがいい気がするの」歴代の好事家たちに愛された吉野ママ。悲しみもおかしみに変換し、胸のうちで秘められた記憶を反芻(はんすう)している。自立した90歳は、今にも自慢のピルエットで1回転しそうなほど、軽やかな足取りで夜の帳へと消えていった。〈取材・文/森きわこ〉もり・きわこライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」。
2021年11月06日人生の先輩的女性をお招きし、お話を伺う「乙女談義」。今月のゲストは歌手の八代亜紀さん。天真爛漫でキュートな魅力が炸裂します!第1回は「スタートはハスキーボイスの歌姫との出会い」。もともと、歌やお芝居ごっこをするのは好きでした。ただ小さいころの私はシャイで人前に出るのがダメ。いつも障子を閉めて、一人で歌ったりお芝居したりしてたんです。あるとき障子が少し開いていて、そこに歌う私をこっそり見る父の目が…(笑)。たぶん私が歌好きなことは知っていたと思います。中学に上がるころ、父親がジュリー・ロンドンという歌手のレコードをくれまして。父は浪曲しか聴かないから、ジュリー・ロンドンが誰かは当然知らなかったんですけれど、小さいころ私が、ドレスを着てワイヤレスマイクを持って歌う女性の絵をよく描いていて、その絵とジャケットが似てるからって。そう、今でいうジャケ買い。でもそのレコードを聴いたら、私と同じハスキーボイスでジャズやボサノバを歌っていてカッコいいのなんの!すぐ虜になっちゃって、私もこういう歌手になりたいと、心を決めた。今思うと、そこが運命の第一歩だったかもね。近所の人が座布団を持ち、歌を聴きに来た?!小学校低学年のときだったかな、地元でのど自慢大会みたいなものが開催され、いろんな偶然が重なり、私が出ることになっちゃって。しかもなんと、優勝しちゃったの。それ以降、週に1回近所のおばちゃんたちが座布団を持ってうちに来て、「アキちゃんの歌を聴きに来た」って言うんです。自分では正直意味がわからないですよ。人前で歌うのは全然得意じゃないのに…。それで、困ってもじもじしていると、それを見ている父の顔が、だんだん怖くなってくるわけ。「何をグズグズしてるんだ…」と言わんばかりに、片方の眉毛が上がってくる(笑)。怖いし、怒られそうだし、もう泣きたい、という瞬間に、だいたい母が、そっと10円をくれる。そうしたら、歌うしかないわよね。当時の流行歌だった、美空ひばりさんの曲を歌ったりしてました。そういえば父が、「アキはギャラをもらわないと歌わないのか」って、冗談で言ってたのもいい思い出です。やしろ・あき歌手。1950年生まれ、熊本県出身。‘71年にデビューし、‘73年『なみだ恋』で大ブレイク。以来トップスターとして活躍。趣味の絵画も評価が高く、ボランティア活動にも熱心。※『anan』2021年4月7日号より。写真・中島慶子(by anan編集部)
2021年04月04日石橋たちとの関係を“マブダチ”といってはばからなかったひばりさん。Cひばりプロダクション視聴率低下でレギュラー番組を失い、コンビも事実上解散……「タカアキは終わった」とまで言われながらも、まさかの人気復活を果たした平成の視聴率王。「傍若無人」とも評される男は、なぜ愛され続けるのか?それを紐解くカギは、昭和の歌姫との知られざる深い縁にあった──。■石橋貴明と美空ひばりさんの秘話「ホントに戦力外通告だな、と。“(仕事を)やりたくてもできない”というのは」1月31日放送の『情熱大陸』(TBS系)で、そう自嘲ぎみに語ったとんねるず・石橋貴明。その言葉どおり、ここ数年、石橋は落ち目だった。前身番組から数えて30年以上続いた看板番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)が視聴率低迷を受けて打ち切りになり、高校時代からコンビを組んできた木梨憲武も2人で設立した所属事務所を辞め去っていった。「業界内でも貴明さんからどんどん人が離れていきましたからね。YouTubeも正直、“コケるだろう”と思っていました」(テレビ局関係者)ところが、その予想を覆し、石橋のYouTubeチャンネル『貴ちゃんねるず』は開設当初から爆発的人気を集める。テレビではできなくなってしまった過激な笑いが詰め込まれたネット番組の登録者数は153万人を超える。石橋は一躍、芸能界トップユーチューバーのひとりに躍り出た。「全盛期を知らない若い世代も、貴明さんの作り上げる動画に大笑いしているんです。貴明さんの実力を思い知らされた。いやぁ……脱帽です」(同・テレビ局関係者)テレビ界に居場所を失い、新たな場所でまたイチから“自分の笑い”を切り開いている現状に、デビューを目指していた18歳当時──オーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)で居並ぶ審査員たちから総スカンを食った自分を重ねているのかもしれない。冒頭の番組で密着取材を受ける石橋が、ポツリとこう漏らした。「俺たちはあれが“面白い”と思ってやっていて、それを唯一、認めてくれたのがタモリさんだった。(中略)何が何だかわからないけど“なんかいい”と言ってくれた」そのタモリ以上に、石橋を認めていた大物芸能人がいた。“昭和の歌姫”美空ひばりさんだ。知られていないが、’89年に亡くなるまでの4年間、石橋らとひばりさんは“年の離れた友達”として濃密な時間を過ごした仲だ。歌番組に出演すればカメラを破壊し、レギュラー出演する『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ系)では客と大立ち回り。業界のしがらみに関係なく自分の笑いをぶつける駆け出し芸人と超大御所歌手の接点はどこにあったのか。ひばりさんのひとり息子として石橋たちとの親交をいちばん間近で見てきた、ひばりプロダクションの加藤和也社長によれば、とんねるずに「会ってみたい」と言いだしたのは意外にもひばりさんのほう。「たまのオフでおふくろが家にいるときは、必ず僕と一緒にテレビを見てくれるんです。中学生だった僕がかじりつくようにして見ていた番組が『夕焼けニャンニャン』。それで、おふくろはとんねるずを知ったんです。“あら、面白い人たちねぇ”って」■「お嬢」「タカ」と呼び合う仲にひばりさんと、石橋たちが初対面したのは’86年。フジテレビのある特番収録で、ひばりさんからの“ご指名”だった。初対面のふたりを、すぐに気に入った。「収録が終わると、貴明と憲武を自分の愛車だったリンカーンに乗せて、赤坂にあるなじみの店へ連れていって。ひばりさん、よっぽど楽しいお酒だったんでしょうね、その日会ったばかりのふたりの前で、生歌を1曲披露したそうですから」(フジテレビ関係者)ひばりさんは石橋を「タカ」と呼んだ。そして、自分を「お嬢」と呼ばせた。「おふくろがリクエストしたんだそうです。おふくろは“生涯歌手”として“時代についていきたい”とずっと思っていましたから。タカさんたちのエネルギーに触れたかったというか、うらやましさもあったのかな」(加藤社長)深夜、仕事を終えた石橋たちを、ひばりさんが自宅に招くこともたびたびあった。30以上も年の離れた石橋たちの与太話に、ひばりさんは声をあげて笑った。「おふくろは、交友関係は広かったですけど、本当のお友達は決して多くはなかった。タカさんたちが年の差も立場も超えて接してくれることが新鮮で、うれしかったんだと思います。人間性に惚れていたんですね」(加藤社長)■誰にでもまっすぐな石橋放送作家の海老原靖芳氏も「貴明は誰にでもまっすぐだった」と振り返る。’83年のある日、自宅に電話をかけてきた石橋の悲壮な声を、よく覚えているという。「開口一番、貴明が“エビさん、助けてください!”と」所属事務所に内緒で仕事を受けたことがバレて無期限謹慎を食らった、というのだ。テレビへの出演も白紙に。そこで、お笑いライブを開催して芸を磨きたい、という。「ついては僕に“コント台本と演出をお願いしたいんです”と。それも“ノーギャラで”って(苦笑)」(海老原氏)ぶしつけな依頼にも聞こえるが、それが石橋らしさだという。「貴明の言葉って、彼の実直さが伝わってくるんです。笑いにかける熱が電話越しに伝わってくるというか。胸にスッと入ってきた。それで引き受けたんです」(海老原氏)渋谷の小さなライブハウスで行われた単独ライブは大成功。その後、とんねるずは飛ぶ鳥を落とす勢いでテレビ界を席巻していくのだが、この話には続きがある。■石橋が和也さんに託した言葉「僕の担当番組で“とんねるずをゲストに呼びたい”という話になった。でも彼らは超売れっ子になっていて、番組側が出演交渉したけれど事務所から断られた。しかたなく昔のよしみで私から貴明に直接頼んでみることになって。電話に出た貴明は“わかりました。エビさん、少し時間ください”と。すると事務所から本当に“出演OK”の返事が来たんです」(海老原氏)実はその日、石橋たちは地方で別の仕事があった。「“車や電車移動では間に合わない”と現地からヘリコプターで飛んで来てくれた。30分の収録を終えるとヘリでトンボ返り」(海老原氏)苦境に陥った自分たちに手を差しのべてくれた海老原氏の恩を、忘れていなかった。「貴明には“裏”がないんです。この業界は裏表がある人間ばかりだけれど、彼にはそれがない。ただただ“笑いをやりたい”っていうだけ。それが、みんなに好かれた理由じゃないかな」(海老原氏)石橋とひばりさんが最後に言葉を交わしたのは、ひばりさんが亡くなる3か月前。ニッポン放送のラジオ特番『美空ひばり感動この一曲』──ひばりさん最後のメディア出演となる現場だった。かねてから患っていた病気が進行し、体力が落ちてしまったひばりさんは、それでも気力を振り絞り、自宅からこの番組に出演することになった。10時間ぶっ通しという異例の長時間番組には、萬屋錦之介、岸本加世子らが入れ替わり立ち替わり自宅を訪れ、ゲスト出演。その1組として石橋たちも駆けつけた。「タカさんから、かけられた言葉が今でも残っているんです。たったひと言“和也、ママを守ってくれよ……!”って」(加藤社長)そう言うと、貴明は真っ赤になった目をぬぐい“年の離れた友達”お嬢の待つ部屋に入っていったという。
2021年02月17日ママ歴:38年血液型:H型干支:ひみつ星座:うお座趣味:カラオケ、旅行カラオケの十八番:美空ひばり『愛燦燦』好きな男性のタイプ:心根の優しい人ママからの御言葉「健康第一で頑張りましょう」昨年は世界が一変するような大変な年でしたが、皆さま健やかにお過ごしでしょうか。スナックなど飲食業に従事されている皆さまにとっては、本当に苦しい年だったと思います。過去にも、バブル崩壊、リーマンショック、震災など、数々の試練を乗り越えてまいりましたが、これほど、健康第一と思い知らされた年はありませんでしたね。細々ながら自分たちなりにお店を続けてこられたのは、ひとえにお客さまのおかげ。大変な時だからこそ、愉快な仲間たちと笑顔で過ごせる楽しい時間、空間は大切ですよね。緊急事態宣言や自粛要請など引き続き先行き不安定な状況ではありますが、求めてくれるお客さまがいる限り、私たちはいつでもお店を開けてお待ちしたいと思っています。皆さまの健康、感染予防に留意して安心して楽しんでいただけるよう〈もしも…。〉は緊急事態宣言に従って予約営業しております。今年も皆さま健康第一に、楽しいひと時、心の余裕も忘れずに、頑張ってまいりましょう。今回のお菓子…常連さんが差し入れてくれた、森永製菓の「ミルクキャラメル」。「あら、うれしい!」と、笑顔の仁子ママ。今回のお店〈もしも…。〉飲み放題5,000円。ママたちの白エプロン姿がトレードマーク。東京都文京区湯島3-33-9 小能ビルB103-3832-787218:30~24:00(緊急事態宣言中は20時まで)土日祝休40席/禁煙(Hanako1193号掲載/photo : Natsumi Kakuto text : Chisa Nishinoiri)
2021年02月09日漫画『スインギンドラゴンタイガーブギ』の物語の舞台は昭和26年、米軍占領下における日本のジャズシーン。ロックもポップスもない時代、まちにはジャズが鳴っていた。「自分がマンガを描く以前から興味のあったジャンルなんです。1巻の第2話で、新宿駅前に集まったミュージシャンを、いわゆる手配師が『おまえはあっちのクラブへ行け』などと振り分けてトラックに乗せていくのですが、そういうシーンを描きかったというのがまずあります」と、作者の灰田高鴻さん。主人公の少女“とら”こと於菟(おと)が圧倒されるのが、まさにその光景なのだが、於菟はある事件を機に正気を失ってしまった姉のために、彼女の想い人らしいベーシスト“オダジマタツジ”を捜して福井から上京。歌声を見込まれてジャズバンドに誘われ、米兵が集うEMクラブで歌うことに。「ジャズ自体は戦前から日本にありましたが、戦後の歌謡曲や芸能界の直接的な礎になっていったらしく。もともとはミュージシャンだったけれどマネージメントの側にシフトした芸能事務所の創業者や、三人娘と呼ばれた美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみのような歌手を立ち位置として参考にさせてもらいました」観客は下手な演奏に容赦なく、ときに殴り合いや流血騒ぎが勃発するほど荒々しいが、いい演奏には称賛を惜しまない。於菟は最初こそ恐る恐るステージに立つものの、上京した目的を忘れるくらい歌うことに夢中になっていく。臨場感のあるライブシーンは、見どころのひとつだ。「どうしたら盛り上がっている感じを出せるのかはいつも手探りです。興奮の表現がインフレ化すると、火を噴いたりレーザー光線が出たりするのでしょうが(笑)。とはいえ当時のパフォーマンスも凄まじかったようなのでその雰囲気は意識しつつ、ときどきあえて外したような動きを入れて、現実的な範囲内でうまく描ければと思っています」見つかったオダジマは記憶喪失になっていて、於菟は音楽を通して彼の記憶を取り戻そうとするのだが、ふたりの距離にも少しずつ変化が。「人間関係や立場などが、ふっと変わる瞬間はフィクションにおいて自分が最も興奮する部分だったりします。それと少女マンガがわりと好きで、付き合うまでの過程にカタルシスを覚えてしまう。放っておくとそんなことばかり描いて話が進まないので、担当さんに止めていただかないといけないのですが(笑)」本作に登場した楽曲などを集めた公式プレイリストも配信中。すべての人が戦争という癒えない傷を負いながら、たくましく、したたかに生きた時代の鼓動が響いてくる。『スインギンドラゴンタイガーブギ』すべてを失った戦後の日本。米軍キャンプからのし上がるジャズバンドを通して芸能界のルーツを描く。天然(?)ピアニストが登場して広がりを見せる第2巻。講談社640円はいだ・こうこうマンガ家。2018年、第74回ちばてつや賞入選。『スインギンドラゴンタイガーブギ』にて連載デビュー。3巻が2月22日発売予定。※『anan』2021年2月10日号より。写真・中島慶子インタビュー、文・兵藤育子(by anan編集部)
2021年02月09日乃木坂46の26thシングル「僕は僕を好きになる」(27日発売)のMusic Videoが、乃木坂46YouTube公式チャンネルにて8日公開された。同曲は、3期生・山下美月が初めてのセンターを務めるシングルであり、長年にわたり人気メンバーとしてグループを牽引してきた2期生・堀未央奈のラストシングル。Music Videoは昨年の11月下旬に、鎌倉市と都内スタジオや渋谷など都内数カ所にて撮影された。歌唱パフォーマンス、女優としての演技、モデルとしての撮影、さらにはバラエティ番組の出演など、普通の女の子としてもアイドルとしても輝く、“乃木坂46メンバーの生きる姿”がコンセプト。ダンスレッスンシーンは、真剣な姿を収録するため実際の練習風景が使用された。メガホンを取るのは、映画『僕はイエス様が嫌い』で第66回サンセバスチャン国際映画祭最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞、森七菜「スマイル」や美空ひばり(AI歌唱)「あれから(メモリアル映像)」のMusic Videoを手掛けた映画監督・奥山大史氏。乃木坂46のMusic Videoを担当するのは初となる。センターを務めたことで撮影数が最も多かった山下は、監督の「どこまでが本当でどこからが演技かを、分からないようにしたい」という要望に全力で応えた。
2021年01月08日松田聖子’80年にデビューして40年。“ぶりっ子”アイドルからアーティストへ、芸能界を走り続けて常に注目を集めてきた聖子。そんな聖子を見つめ続けたまねだ聖子が語る魅力と、その生き方とは……。松田聖子のモノマネを始めて27年。そのきっかけとなったのが、聖子が出演していた『たかの友梨ビューティクリニック』のCMと、まねだは当時を振り返る。■まねだ聖子が見つめてきた「松田聖子」「ショートカットのウイッグをつけてCMに登場。当時その髪型のモノマネをする人がいなかったからやってみたら思いのほか似てると好評で。もっと掘り下げて研究したいと思って、ほかの人のモノマネをやめて聖子さん1人に絞りました」最初のうちはモノマネしていた森高千里の歌い方がまじったりして苦労したという。そこで聖子のライブDVDと自分の声を同時に聴き比べて、少しずつ本物に近づけていった。そんなまねだは、時代とともに変わってきた聖子の声をこう分析する。「デビュー当時は、声量があってパンチのきいた声なのに、とっても可愛いところが何といっても大きな魅力でした。それが『風立ちぬ』のころから、ちょっとかすれたキャンディボイスになって表現力が豊かに。さらに結婚して沙也加さんが生まれたころに歌った『瑠璃色の地球』では、細い声に甘さが加わり、やさしくて柔らかい声に変身。とっても温かみがあって母性を感じます。そして、海外進出を経て’90年代の『あなたに逢いたくて』などのバラードでは息声で歌う大人の魅力にあふれています。時代とともに聖子さんの新しい魅力を発見するのも楽しみのひとつですよ」そんな聖子の魅力を1曲で堪能できるのが、数多くのアーティストにもカバーされ、自身でも何回も再録している『SWEET MEMORIES』。’83年版は初々しくてちょっと背伸びをする聖子。’93年版は声に色気がグンとのってきたセクシーな聖子。そして2020年版では可愛らしさを残しつつ低音の魅力がますます深まる大人の聖子。歌手生活40年の重みを感じさせる名曲というわけだ。ここでまねだ推しの”聖子ソング“を聞いてみると、「はずせないのは、リクエストがとても多い『瑠璃色の地球』。コロナ禍の今、とても胸にしみる1曲です。そして『野ばらのエチュード』のカップリング曲『愛されたいの』も隠れた名曲のひとつ。最近の曲ではX JAPANのYOSHIKIが手がけた『薔薇のように咲いて 桜のように散って』は、今の聖子さんの声にピッタリ。“ルーリラ ルルリラ”のフレーズは『野ばらのエチュード』にも通じる。ファンにとってはたまりません」ライブはもちろんのこと、ディナーショーも必ず見にいくという熱狂的な聖子ファンでもあるまねだに、改めて彼女の魅力を語ってもらった。「彼女は目的に向かって、誰に何を言われてもまっすぐ突き進む。本当にパワフル。そしてどの時代も最先端を走ってきました。何より女性だっていい仕事をすれば認めてもらえることを、彼女は証明してくれました」そんなまねだは、1度だけ聖子とテレビ番組で共演したことがある。「デビュー20周年を迎えた2000年。聖子さんがテレビ朝日で番組の司会に初挑戦するという企画があり、その番組で私たちそっくりさんチームと聖子さんがクイズ対決したんです。左隣でウエディングドレスを着て出演していた私を見て“おきれいですね。ウエディングドレスはどうなさったんですか?”と聞かれ、舞い上がってしまい頭の中は真っ白。その後、聖子さんの歌を歌ったのですが、何も覚えていません(笑)。とにかく、放つオーラが違う。遠くから見ても光り輝いていました」昭和の歌姫・美空ひばり、山口百恵と肩を並べるキャリアと実績を誇る松田聖子。名実ともに2人を超える昭和・平成・令和の”歌姫“として輝いてほしいと、まねだは願う。最後にカラオケでワンランク上手に聴こえる『聖子ソングの歌い方三か条』を、こっそり教えてもらった。「まず1つ目は『青い珊瑚礁』でも『あなたに逢いたくて』でも、出だしの“あ”の声を強く歌うことを心がけてください。2つ目は、『サシスセソ』を『シャ・シィ・シュ・シェ・ショ』と少し息を漏らす。これをマスターすると甘く切なく、可愛らしく聴こえます。そして3つ目は、歌詞の母音をしっかりと丁寧に歌うこと」この3つをマスターすれば、あなたも聖子ちゃんに近づけること間違いなし!?PROFILE●まねだ聖子(まねだ・せいこ)●松田聖子のモノマネで、テレビなどの出演多数。東京・新宿区にある、ものまねショーレストラン『そっくり館キサラ』を拠点に活動
2020年10月26日氷川きよし氷川きよし(43)の新アルバム『生々流転』のビジュアルが週刊女性に到着!■“氷川きよし”というジャンルでいきたい「“生々流転”とは、いろいろと姿形が変わったり、時代や時の流れとともにいろいろなことが変わりますが、根本となる心の部分は変わらないという意味です。自分の持っているものを生かして表現したい、そしてもっと自分として輝きたいという深い意味を込めて、この言葉を今回のアルバムタイトルにしました」ヒット中のシングル『母』などオリジナルが12曲、『あれから』(美空ひばり/AI歌唱)などの名曲カバーが2曲。演歌あり、ロックありの全14曲となっている。「今、自分が心の底から伝えたいこと、魂の底から歌いたいことを厳選し、収録しました。氷川きよしの初の試みです。演歌もポップスもジャンルはない、“氷川きよし”というジャンルでいこうという思いで作った、魂を込めた一枚となっています」“アーティスト・氷川きよし”が、このアルバムの中にふんだんに――。10月13日(火)発売『生々流転』オリジナル12曲+カバー2曲の全14曲を収録。発売/日本コロムビア【Aタイプ/初回完全限定スペシャル盤】CD+DVD。3364円+税【Bタイプ/通常盤】CD。2909円+税
2020年09月29日ママ歴:50年血液型:A型干支::巳年星座:乙女座趣味:甘いものとコーヒーカラオケの十八番:美空ひばりさんの『人生一路』好きな男性のタイプ:演技派の山田孝之さんママからの御言葉「噂話だけはしちゃダメね 」宮城県鳴子出身で、東京に憧れてね。高校1年で退学して家族の反対を押し切って出てきたんです。最初は神田のレストランで働いたんだけど喋れば訛りで笑われるし、洋食の名前を覚えるのも大変でしたね。亡くなった主人がお酒と音楽が好きで、こういう仕事がしたいなぁと店を始めたんです。私は一滴も飲めないから“ホストクラブの雰囲気をスナックの料金で”という謳い文句で男性スタッフを7〜8人雇って、毎日夕方6時から朝6時まで。忙しかったけど楽しかったですね。当時は2階で雀荘もやっていました。建物は50年、内装も35年そのまま。尾崎豊さんも生前、無名の頃によくここで歌っていたんですけど、町工場のお坊ちゃんかと思っていたのよね。常々、家に帰ってきたように仕事の疲れを癒せる和やかな店にしたいと思っているから、お客様同士が楽しく交流して歌ってくれるのが一番うれしい。間接的な情報は嫌なことのきっかけになるから、良くも悪くも噂話だけはしないようにしていますよ。今回のお菓子「たけのこの里」の限定、和栗のくり金とん味。「甘い洋菓子が好きですね。お酒の代わりにコーヒーと」今回のお店〈レジャード〉店内は広々開放的。夜はお通し付き500円、ドリンク600円〜。カラオケ1曲100円。東京都足立区千住2-2903-3882-202012:00〜17:00、19:00〜24:00月、木昼、第4火休40席/喫煙※お店の情報は4月1日現在のものです。(Hanako1184号掲載/photo:Masayuki Nakaya text:Asuka Ochi)
2020年05月12日依然として猛威をふるい続ける新型コロナウイルスに立ち向かうためには、ぬかりない予防対策だけでは不十分。万一感染してしまったときにウイルスに負けない“免疫力”を、いまからしっかり強化しておこう。まずは次の免疫力チェックを!□ おなかや手足が冷える。体温が低い□ 野菜や果物はあまり食べない□ 日常的に激しい運動をしている□ 妊娠している□ 慢性的に寝不足だ□ 座り仕事が多く、運動不足だ□ ダイエットで食事制限をしている□ 甘いものや脂っこいものをよく食べる□ 喫煙している□ いつも強いストレスを感じる□ 生活リズムが乱れがちだ□ 毎年のように風邪をひく□ 便秘気味である□ 口内炎や口唇ヘルペスがよくできる□ 笑う機会が少ない□ 口や目の渇きを感じる当てはまる項目が、0〜2=免疫バランス良好。引き続きストレスや生活習慣の乱れに注意して。3〜5=免疫バランスにやや不安あり。日々の「免疫意識」を高めましょう。6〜9=かなり免疫バランスの悪い状態。10以上=いつ病気になってもおかしくない状態。生活習慣全般を見直して!“免疫力”を向上させることは、ふだんの生活のなかでもできるそう。そこで“免疫力”を向上させる生活習慣を2択クイズ形式で出題!出題してくれたのは、純真学園大学客員教授で、『それでは実際、なにをやれば免疫力が上がるの?』(ワニブックス)の著者・飯沼一茂先生。【Q】昼下がり、つかの間の自分の時間は?大きな声でカラオケ or 静かに読書正解は大きな声でカラオケ。大声で笑うことが免疫細胞の一種であるNK細胞を活性化するというのはよく知られているが、楽しく歌うことも免疫の活性化に効果があるという。「大きな声で歌うことは、体温の上昇や、快感ホルモンの分泌を促進してくれるので、免疫力の向上も期待できます」(飯沼先生・以下同)【Q】趣味のクラシック鑑賞。聴くならどっち?ベートーベン or モーツァルト正解はモーツァルト。近年、免疫力向上に寄与する音楽があることが解明されている。「注目されているのは『f分の1ゆらぎ』という音の波動。モーツァルトやバッハ、ショパンといった特定のクラシック音楽以外に、美空ひばりさんの歌声にもこの波動があることがわかっています」【Q】小腹がすいたときのおやつは?新鮮な黄色いバナナ or 茶色い斑点の出たバナナ正解は茶色い斑点の出たバナナ。バナナには、タンパク質の代謝に不可欠なビタミンB6や善玉菌のエサになるオリゴ糖などが含まれる。「免疫力の向上には選び方がポイント。茶色い斑点が出た熟成バナナには、免疫力のもとである白血球を増やす効果が、若々しいバナナの約5倍という研究結果も」【Q】運動不足の解消に適切なエクササイズは?1時間のウオーキング or 30分のハードなエアロビクス正解は1時間のウオーキング。シンプルながら免疫力を上げてくれる運動がウオーキング。「有酸素運動は、血液中の免疫細胞である白血球やリンパ球の働きを高めてくれるのです。1日の目安は7,000〜8,000歩(=1時間程度)。ハードな運動はむしろ免疫力を下げてしまうのでご注意してください」免疫力UPのルーチンを身につけよう!「女性自身」2020年4月7日号 掲載
2020年04月01日東京のラピュタ阿佐ヶ谷で特集上映「東映ビッグ・スタア大行進 痛快!時代劇まつり」が開催されている。タイトルの通り、大スターが活躍する痛快時代劇を連日上映。日本映画界が誇る傑作が集まった。かつて映画界最大の“花形”は娯楽時代劇だった。監督、脚本、殺陣、衣装、カメラ……撮影所の中でそれぞれの分野のエキスパートが修行を経て育ち、誰もが憧れるスター俳優がスクリーンを彩る。無駄のないスジ運び、観客を魅了するチャンバラ、恋模様、笑いと涙……それらを巨匠監督が大胆にして鋭い演出でまとめあげる。質と量が両輪になって上昇を続けた映画黄金期だから生まれた映画たちが数多く残されている。今回の特集は、その中で東映の快作38本を集め、5月まで上映する映画ファン必見のイベント。片岡千恵蔵、市川歌右衛門、大友柳太朗、美空ひばり、大河内傳次郎、大川橋蔵……映画史にその名を刻むレジェンド級のスターが、阿佐ヶ谷の銀幕で立ち回り、歌い、丁々発止のやりとりを繰り広げる。4月19日(日)には女優の星美智子が、5月12日(火)には俳優の風間杜夫が来場。トークイベントに登壇する。東映ビッグ・スタア大行進 痛快!時代劇まつり『血槍富士』『ふり袖侠艶録』『殿さま弥次喜多 捕物道中』『浪人八景』『柳生旅ごよみ 女難一刀流』『新選組鬼隊長』『おしどり囃子』『血斗水滸伝 怒涛の対決』『鞍馬天狗』『侍ニッポン 新納鶴千代』『大菩薩峠』『殿さま弥次喜多』『若さま侍捕物帖』『鳳城の花嫁』『恋山彦』『ひばりの森の石松』『大菩薩峠 第二部』『丹下左膳』『水戸黄門』『森の石松鬼より恐い』『伊達騒動 風雲六十二万石』『橋蔵の若様やくざ』『右門捕物帖 片眼の狼』『大菩薩峠 完結篇』『八荒流騎隊』『新吾二十番勝負』『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』『暴れん坊兄弟』『家光と彦左と一心太助』『新吾二十番勝負 第二部』『江戸の悪太郎』『はやぶさ奉行』『東海一の若親分』『八百万石に挑む男』『新吾二十番勝負 完結篇』『天下の御意見番』『江戸っ子判官とふり袖小僧』『きさらぎ無双剣』5月23日(土)までラピュタ阿佐ヶ谷で開催中
2020年03月23日ママ歴:54年血液型:A型干支:午星座:射手座趣味:お酒を飲むことカラオケの十八番:美空ひばり『人生一路』好きな男性のタイプ:たれ目のイケメンママからの御言葉「どんな仕事もケジメは大事」水商売の世界に飛び込んだのが19歳。バー、キャバレー、クラブ...いろんな所で下積みして、23歳で桜木町駅の近くにお店を持ったの。東京オリンピックの前後で、そりゃもう忙しかった。あの頃は景気がよくって、1日3〜4回転してたんだから。私も今じゃベラベラしゃべるけど、小さい頃は無口だったのよ。でも、人見知りじゃこの商売はできないでしょ。まず聞き上手にならなきゃいけない。そして聞いた話に対して応えなきゃいけないし、相手を傷つけないように言葉を選ばなきゃいけない。自分が一方通行にしゃべってもダメ。大きいクラブにいた頃、ママさんが厳格な人で爪から化粧、髪、靴まで全身チェックするわけ。ダメだと出直し。でもいい勉強になったわ。どんな仕事もケジメは大事。ずっと商売を続けられているのは、お酒と人の世話が好きだから。私ね、男をダメにするってよく言われるの。惚れると尽くし過ぎて甘やかし過ぎちゃうのよ。ママの恋愛話は長くなるから、続きはお店でね今回のお菓子〈ブルボン〉の「バームロール」昭和53年発売のロングセラー〈ブルボン〉の「バームロール」。「このシリーズってどれもおいしいのよね」今回のお店〈スナック樽〉ハマっ子ママが野毛で36年続ける老舗。ショット600円、ボトル4,000円〜(セット1,200円)。神奈川県横浜市中区宮川町1-1 都橋ビル 2F045-241-506318:00〜24:00日祝休7席/喫煙(Hanako1182号掲載/photo:Noriko Yoneyama text:Ayano Sakai)
2020年03月10日俳優の堺正章、モデルでタレントの"ゆきぽよ"こと木村有希、E-girls/Happinessの楓が18日、神奈川・横浜で行われた「みんなでヨコハマ花博招致!推進協議会」発足式に出席した。神奈川県横浜市は、2027年開催の国際園芸博覧会「花博」の開催地として横浜に招致する活動を展開。その活動を盛り上げようとこの日は「みんなでヨコハマ花博招致!推進協議会」の発足式が行われ、同協議会の発起人の1人でもある堺正章、横浜育ちのゆきぽよ、横須賀市出身も幼少期は横浜市によく訪れたという楓が登壇してトークショーを行った。横浜市の思い出として鎌倉市出身の堺は「横浜の磯子に美空ひばりさんのお家がありました。よく週末は遊びに行ったことを覚えております」と幼少期の頃の思い出話を明かし、横須賀市出身の楓も「横須賀に大きいショッピングモールが少なく、小学生の頃は毎週末横浜に家族でショッピングに行くのが決まりでした。横浜に来たら可愛いお洋服をたくさん買ってくれた思い出があります。今も行きますね」と語った。横浜生まれ横浜育ちのゆきぽよは「私は完全な浜っ子です。横浜は都会もあるけど海や山もあって夜景もある。すべてが揃っている素敵な街で、横浜があれば一生生きていけるぐらい横浜が大好きです」と横浜愛をアピールし、「大好きな横浜でビッグイベントが行われることは嬉しいことだし、それにちょっとでも関わることができればと思っています」と笑顔を見せた。花博ということで、「自身にとっての花はどんな存在?」という質問が報道陣から投げ掛けられ、「バラは『バチェラー・ジャパン』に参加していたからバラをもらえないと好きな人と次に行けなかったのでバラの重みは分かっています」と答えたゆきぽよに対して堺が「バラの花言葉知ってる? 黄色のバラは情熱の薄れ」と忠告。するとゆきぽよは「やだー! 黄色い大バラもらっちゃった。やばい! 嘘でしょ! ゆき108本のバラもらったことがあるんだけど、黄色入ってた。めちゃショック~」と今にも泣きそうな表情に。それにはお構いなしの堺は「それは完全に情熱が薄れてるな」とさらにダメ押しするなど会場の笑いを誘っていた。
2020年02月19日かつて世間の注目を集めた有名人に「あの真っ最中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、そして当時言えなかった本音とは……。第2回は、民放テレビの開局と前後してお茶の間の人気者になった『クレージーキャッツ』で、唯一の存命するメンバーとなったベーシスト、犬塚弘(90)に当時の芸能界と忘れられないスターを振り返ってもらう。クレイジーキャッツ・犬塚弘テレビ草創期の昭和30年代、一世を風靡したバンド『クレージーキャッツ』。メンバーは、リーダーでドラムのハナ肇さん、リードボーカルの植木等さん、トロンボーンの谷啓さんら、楽器をキチンと弾けるうえに、当時の日本を爆笑の渦に巻き込んだ男たち7人。■基地営業でついたバンド名「最初は別のバンド名で、米軍キャンプを回っていました。演奏しながら笑いの要素も入れると、軍人たちがテーブルを叩きながら“クレージー!”って叫ぶんです。“狂ってる”と言われていると思っていたら、そうじゃない。“面白い”とか“イカしてる”という意味だという。そこで、バンド名を変えました」そう語るのは、メンバーがひとりふたりとこの世を去った中、いま存命する唯一のメンバーとなったベース担当の犬塚弘(90)、通称・ワンちゃん。「小さな芸能事務所の所属第1号となり、それが渡辺プロでした。事務所には、どんどん新しい歌手とかタレントが入ってきて、クレージーが稼ぐお金のほとんどは、別の歌手やタレントに使われていたんじゃないかと思います。だって、給料はすごく安かったから(笑)」つらくて忘れられないのは、立川にあった昭和基地の仕事。「通勤ラッシュで混んでいる山手線に乗って、当時の車内には柱があって、そこに楽器をヒモで縛りつけて、身体でガードするんです。そうした苦労をして立川まで行ったのに、帰る電車賃もない。100円もないんです。ハナ肇に“なんとかしてよ”って言うと、新宿の知り合いの店からお金を借りてきたなんてこともありました。忙しいけど、お金には苦労しました」■美空ひばりさんだろうと引き立てしない’59年、フジテレビ開局翌日に始まったバラエティー番組『おとなの漫画』で、クレージーは初のレギュラーに。’61年にスタートした音楽バラエティー番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)が始まると、その人気が爆発した。犬塚が司会を務めていた歌謡番組『7時だ、とび出せ!!』に、美空ひばりさんがゲスト出演したときのこと。「今日は特別だから、ほかの出演者もかえてくれという伝達が急に来たんです。さすがに怒りました。“オレはたいこ持ちじゃねぇぞ!!”と反発して、そのときもいつもどおり淡々とやりました」番組の放送が終わると、ひばりさんの事務所の人がやって来て、犬塚に聞いた。「この後お暇でしょうか?」呼ばれた六本木の店へ行くと、ひばりさんと彼女の母親が待っていた。「あなた、ウチのお嬢は普通の歌手とは違うのよ」そう母親に言われた犬塚は、「俺はゲストが偉い人でも新人でも、番組はちゃんとやる。そこに差はない」と言い切った。すると、ひばりさん母子は「気に入った!」と言って、それから誕生日会やお祝い事には必ず呼ばれるようになった。「行くと映画スターや巨人軍の監督とか、すごい人がたくさんいる。でも、私はお酒が飲めないし、ああいった大スターとは付き合ったことないから困りました。ただ、私はお世辞が言えないから、気に入られたのかもしれません」■森繁さんと深夜まで話をする仲にあるとき、ひばりさんが呼んでくれたパーティーで、「ワンちゃん、ここ座って」指さされたのは、森繁久彌さんの隣席。さすがに驚いた犬塚が断ろうとするも「いいの!」と言って、ひばりさんが強引に座らせた。すると、「ホゥ、お嬢のボーイフレンドはワンちゃんかい」と、森繁さんがひと言。「参りました。でも、それから森繁さんには、息子さんたちと同じぐらい可愛がってもらいましたから、ひばりさんには感謝しています。森繁さんの奥さんの話も面白くて、ご自宅で夜中の2時まで話をしていたこともあります。家族ぐるみで私のことを信用してくれたんでしょうね」オーラがあった芸能人として犬塚が印象深かったのは、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スター・長谷川一夫さん。クレージーとして時代劇の映画『銭形平次』で共演したときのこと。翌日の撮影が朝9時から開始と聞き、30分前の8時半に撮影所にやって来た犬塚たちに撮影所の門でスタッフが、「お前たち何やってるんだ、7時には現場に入れ!」と怒鳴った。「時代劇はカツラも化粧もしないといけないから、現場入りが早いんです。すると、すでに銭形平次の衣装を着た長谷川さんがやって来て……」犬塚たちが「スミマセンでした!」と謝ると、長谷川さんは「遅かったわネェ」と、優しいオネエ調の言葉がかえって怖かったという。「話しかけられないオーラがある人でした。付き人が3人いて、イスを出す人、タバコに火をつける人とかいるんです。これぞ映画スターだと思いました。難しいセリフを一生懸命に覚えてたら“よく覚えたわネエ”と、お褒めいただきました(笑)」■90歳、気づけばひとりだけ次第にクレージーとしての活動はなくなり、犬塚は役者の仕事にのめり込んでいく。「バンドのメンバーは別の仕事が増えたけど、私は性格的にお笑いができなかった。植木は映画の主役をやって、私はテレビのドラマで使ってもらうことに。ドラマの共演者が文学座とか俳優座に連れていってくれて、だんだんとそっちに傾いていきました。役者の勉強をしまくって、演出家には“バカ!”と怒鳴られながらも、私のことを育ててくれました。井上ひさしさんには、6年くらい可愛がってもらいました。バンドをやっていたから、ほかの役者よりもアドリブができた。それで使ってくれたんです」現在の犬塚は、都内を離れ、避暑地・熱海のケアマンションでひっそりと暮らす。5年ほど前に妻が先立ち、子どもはいない。2年前、大林宣彦監督から連絡があった。「大林監督は私より10歳下ですが“ああしろ、こうしろ”とうるさい人なんです。突然、電話をかけてきて、“今から映画の撮影をする”と言う。監督は“映画館で映画を見るだけの役だから”なんて言うけど、台本を見たらセリフがドバッとある。でも、私は長ゼリフが得意だからやりました。リハーサルも入れて3日間で撮り終えました」これが4月に劇場公開される『海辺の映画館―キネマの玉手箱』。犬塚はこの作品を最後に引退表明をしている。「クレージーにいたことは、私の誇りです。学があるやつが多かったし、みんないいやつでした。でも、やっぱり寂しい。特に植木と谷啓と桜井センリさんが亡くなったことがつらい。この3人は、酒が飲めなかったんです。だから、いろんな意見を言い合った仲でした。気づけばひとりだけ残っちゃいました。なんで私だけ残っているのでしょうか。でもね、全然90歳だなんて感じがしないんです」そう言って、今も日課の1時間の発声練習と、演劇で習ったベッドに腰かけての足踏み300回を続けている。
2020年01月30日シンガーソングライターの山下達郎(66)が1月19日、「山下達郎のサンデー・ソングブック」(TOKYO FM)に出演しAI美空ひばりについて「冒とく」と表現した。ネットでは様々な意見が上がっている。AI美空ひばりは、歌手・美空ひばりさん(享年52)を最新の人工知能技術で蘇らせたもの。昨年9月にはドキュメンタリー番組が放映され、さらには「NHK紅白歌合戦」にも登場。スクリーンに映し出されたひばりさんが新曲「あれから」を歌い話題を呼んだ。19日、山下のもとにリスナーからの質問が届いた。そこには「単刀直入にお聞きします。昨年の紅白、AI美空ひばりはどう思われますか?」とつづられており、さらに「技術としてはありかもしれませんが、歌番組の出演やCDの発売は絶対に否と考えます」と文面は続いた。すると山下は、こう一言述べた。「ごもっともでございます。一言で申し上げると冒とくです」山下の発言は大きな話題となり、Twitterでは「美空ひばり」がトレンド入りを果たした。さらに《AI美空ひばりは、批判はあれど、曲を聴いて当時を思い出し、涙を流す方だってたくさんいた》《俺はどうしても、AI美空ひばりを観てその歌を聴いて泣いたひとを否定出来ない》と擁護する声も上がるいっぽうで、山下に賛同する声も上がっている。《歌だけならまだしも、曲間の台詞は非常にいただけない。故人を誰かの都合で勝手に喋らせるわけですから、この技術を用いて故人が恣意的に神格化されることに違和感を覚えます》《AI故人のやばいところは、生きてる人間の都合に合わせて故人のありようを改竄できるとこにあるよなあ私の知ってる故人はこんなこと言わないとか必ずこう言うだろうとかAI故人は死者の復活ではなく別人格の創造》また《AI美空ひばりについては、技術の進歩ってすげーと思う反面、それは本人ではないということを承知した上で色々やらなくちゃならんよなと思う》《AIと人間をごちゃ混ぜにしちゃうのは違うって感じ》と、あくまでひばりさんとAIは“別物である”と認識することが大事という声も上がっている。「俳優がひばりさんを演じるのとAI美空ひばりとでは違いがあります。前者は、俳優自身とひばりさん本人が別物であるということが明確。いっぽうAI技術で本人そっくりの存在を作り出すとなると人格の再現性が極めて高いです。そのため慎重に扱う必要があります。また今回は、“ひばりさんを尊ぶ”という方向に流れていったのも非難の理由のようです。技術は素晴らしいものですが『故人とAIは別物』という前提で、どう蘇らせて、それをどう使うのかという議論を進める必要があります」(ITジャーナリスト)
2020年01月20日若者に大人気のKing GnuやRADWIMPSからAI美空ひばりと、幅広い世代に向けたラインナップを揃えた令和初の『第70回NHK紅白歌合戦』。第2部の関東での平均視聴率が37.3%と過去最低を記録する形となったが、舞台裏では数々の“事件”が起きていた。今回のハイライトとなったのが、デビュー40周年目にして紅白初出場となった竹内まりや(64)だ。生命の尊さについて歌った竹内だが、そこには“亡き後輩”への思いが秘められていた。「視聴者から募集した大切な人との写真を映像で投影する演出だったのですが、そこに竹内さんと故・岡田有希子さん(享年18)の2ショット写真もありました。実は竹内さんが今までにもっとも多く曲を提供したのが岡田さん。昨年にそれらの曲をまとめたアルバムが発売された際にも『(岡田さんが)生きていたら52歳……』とコメントするなど、道半ばにして亡くなって自ら命を絶ってしまった岡田さんのことを今でも気にかけているそうです。そこで竹内さんサイドから『岡田さんも一緒に出してあげたい』と希望して、写真を使うことになったと聞いています」(NHK関係者)いっぽう、2年連続の出場となった松任谷由実(65)の周辺には緊迫した空気が流れていたという。「実は、各出演者サイドに、『松任谷さんへの楽屋挨拶は控えてください』というお触れがNHKから出ていたんです。楽屋の場所すら明かさない徹底ぶりでした。松任谷さんは歌う前の準備を大切にする人。特に今回はテレビ初披露する曲ということもあり、静かに気持ちを整えたかったのでしょう」(レコード会社関係者)名曲『ノーサイド』初披露の裏には、大御所ならではの“ルーティン”があったようだ――。「女性自身」2020年1月21日号 掲載
2020年01月06日「今回の紅白は若者に大人気のKing GnuからAI美空ひばりまで集め、幅広い世代の支持が期待されていました。しかし、一昨年のサザンオールスターズや米津玄師さん(28)のようなわかりやすい目玉とヒット曲が少ないことが裏目に出てしまったようです……」(NHK関係者)令和初の開催となった『第70回NHK紅白歌合戦』。大好評だった昨年超えが期待されるも、第2部の関東での平均視聴率は37.3%。2部制となった89年以降で最低の数字を記録する結果に。そんな波乱の舞台裏に本誌記者が密着。リハーサルから本番までの4日間、テレビには映らない驚愕ハプニングの数々をキャッチ!出演者のなかでも特に大きな注目を集めていたのが、氷川きよし(42)だ。氷川は昨年12月に一部週刊誌で《男らしく生きて欲しいって言われると、自殺したくなっちゃうから、つらくて……》と苦悩を“告白”していた。紅白リハーサル時に行われた囲み会見でも「きよし“くん”にサヨナラ」と新たな決意を語っていた氷川は、ある女性アーティストに感銘を受けていたようだ。「紅組トリのMISIAさん(41)は、LGBTQ運動の象徴であるレインボーフラッグやバックダンサーに女装家の人らを起用し、“音楽に国境や性別は関係ない”というメッセージを込めていました。氷川さんもいたく感動したそうで、親しいスタッフに『あのバックダンサーの衣装、今度私もやりたいから覚えておいてね』と言っていたようです」(レコード会社関係者)リハーサル時に氷川と親しげに話していた菅田将暉(26)は、スタッフも魅了していた。「30日のフォトセッション時には、菅田さん見たさにNHKの女性スタッフがずらりと並んで、『かっこよすぎる……』と黄色い声をあげていました。また、菅田さんは初出場ながらトリ近くで歌もフル尺で披露していましたが、これは極めて異例のこと。今回披露した『まちがいさがし』は菅田さんの親友でもある米津玄師さんが作詞・作曲しており、とても大切にしているそうです。そこで、出演オファーを受けた際に『きちんと人に届けられるように歌いたい』と希望したことで、今回の形になったと聞いています」(前出・NHK関係者)いつか紅白で菅田と米津の生コラボを見られる日がくるかも!?「女性自身」2020年1月21日号 掲載
2020年01月06日笑い上戸だったというひばり(37)と加藤(3)9月29日、『NHKスペシャルAIでよみがえる美空ひばり』という番組が放送された。七色の声をもつといわれたひばりの声をAIで再現、彼女自身が歌ったことのない新曲を披露したのである。ひばりにゆかりのある人たちが見守る中、AIによって「美空ひばり」は見事に再現された。歌声を聴いて慟哭に近い姿を見せていたのが、息子である加藤和也(48)だった。■母の“仕事場”、劇場で育った幼少時代不世出の大歌手だった美空ひばりが亡くなって30年。加藤はまだ16歳だった。母亡きあとの30年にわたる月日を、彼はどうやって過ごしてきたのだろうか。◆東京都目黒区青葉台─。美空ひばりがかつて過ごした家が、今は記念館になっている。その応接室に現れた加藤は、穏やかな実業家というイメージだ。「あのAIには参りましたね。紆余曲折を経たけど、最後はおふくろの声そのものだった。科学技術ってすごいなあと感心するしかありませんでした」応接室には、かつて美空ひばりが座っていた椅子がカバーをかけて大事に置かれている。30年間、誰も座ることのないまま、部屋の中心に椅子はある。「おふくろが亡くなったときは、ものを考える余裕がまったくありませんでした。メディアに気づかれないうちに病院からおふくろを家まで運び入れることしか考えていなかった。静かな環境で家に入れてあげたかった。泣いている暇もなかった気がしますね」加藤は「おふくろ」と呼ぶが、彼は美空ひばりの養子である。ひばりの弟・哲也さん夫婦の長男として生まれた後、両親が離婚。物心つく前からひばり宅で過ごしていた。ひばりとは一卵性母娘と言われた祖母・喜美枝さん、ひばり、運転手や付き人、お手伝いさんなど多くの大人たちに囲まれて育つ。来客も多い家だった。美空ひばりは、「ファンがいるところに自分から行く」タイプのアーティストだった。毎年、全国ツアーがあり、名古屋の御園座や東京の新宿コマ劇場では2か月公演も珍しくなかった。どこへ行ってもチケットは売り切れる。加藤が幼いころ、ひばりはツアーに彼を連れて行った。「劇場で育ったようなものです。おふくろの仕事場ということはわかっていても、まだ小さい僕にとっては遊園地でした。いたずらもしましたね。本番直前に音響の目盛りを全部めいっぱいに上げてしまったり、ドライアイスを各フロアのトイレに放り込んで3フロアくらい真っ白になってしまったり。そのたびにおふくろには叱られました」家でもときどきいたずらをしていたらしい。お手伝いさんとして家事万端を取り仕切っていた辻村あさ子さん(69)が当時を振り返る。「いたずらがひどかったとき、かーくん(和也)をボイラー室に入れちゃったことがあるんです。哲也さんにも厳しくしつけてほしいと言われていたので。だけど、あとから自分でボイラー室に入ってみたら狭いし暗いし、小さかったかーくんはさぞ怖かっただろうと思って(笑)」それでも決してのびのびと育ったわけではない。常に大人に囲まれていたから、いたずらをしながらも“空気を読みまくる子”だった。心から親切にしてくれる人、いい顔をしながらも内心、邪魔だと思っている人を見分ける力は鍛えられた。ひばりの付き人だった関口範子さん(79)は、こんなエピソードを覚えている。「周りはお嬢さん(ひばり)がかーくんを溺愛して甘やかしたというけど、意外と厳しかったですよ。劇場から帰るとき、お嬢さんは車の窓を開けてファンの方たちに手を振るんです。隣に座っているかーくんは、仕事が終わったのだからママを自分だけのものにしたい。だからその手を押さえる。そうするとお嬢さんは、“ファンの方たちがいるから、ママは大好きな歌を歌うことができるの。ママが歌を歌えるから、あなたもちゃんとごはんが食べられるのよ”と丁寧に言い聞かせていました」1年のうち3分の2近くは劇場に出ていたひばり。だが自分が幼稚園に入ると地方には連れていってもらえなくなる。5歳の加藤は、幼稚園の入園試験ではテスト用紙に何も書かず、平均台を歩くテストでも乗らなかった。■実父との交流は心の支え「それでも幼稚園には受かってしまったんですが。それ以来、家にはいつも誰かがいたけど、おふくろたちがツアーに出てしまうと僕はひとりで食事をするような生活。地方に行っているなら、まだあきらめもつく。都内の劇場に出ているのに、なかなか会えないときは寂しかったですね」加藤に大きな影響を与えた実父の哲也さんは、加藤が4歳のとき銃刀法違反で2年の実刑に。だが出所後は、加藤の心の支えになっていた。「おふくろの許可を得て、よく父のところには遊びに行ったり泊まりに行ったりしていました。親父はけっこうべらんめえなしゃべり方をするタイプで、“てめえのことばかり言うんじゃねえ”“てめえなんかエラくないんだから勘違いするな”とよく言っていましたね。いま思うと、美空ひばりという人のために家族は振り回されざるをえなかった。親父も『美空ひばりの弟』という立場が窮屈だったんじゃないでしょうか。でも、出所後は、おふくろの舞台のプロデュースをばあちゃんと一緒にするようになって生き生きしていました」哲也さんは本当に心優しい人だったと、お手伝いの辻村さんは言う。「地方ツアーに私はついていきません。かーくんが学校へ行くと、哲也さんは“今日はオレが何か作ってやるよ”と食事を作ってくれたり、“たまには映画でも見ておいで”とお小遣いをくれたり。あまりに優しすぎたから、いろいろな人につけ込まれたんじゃないでしょうか」その優しさは、加藤にも受け継がれていると辻村さんは言う。彼が小さいとき、熱を出して寝込んでいた辻村さんのもとに、ビニール袋に氷を入れて額にそっとのせてくれたのだ。「今思い出しても、たまらなくうれしかった」と彼女は言う。■祖母、そして実父の死甥にあたる加藤とひばりの間に養子縁組が法的に成立したのは、加藤が7歳のとき。玉川学園の附属小学校に入学したその年だった。「学校から帰ったら、ばあちゃんとおふくろが待っていて、ここに座りなさいと。ピンときましたよ。週刊誌もあったし噂も聞いていた。親父とおふくろが姉弟なのはヘンだし。でも、ずっと『ママ』と呼んでいたおふくろから、はっきりと養子だと聞かされて複雑な気持ちにはなりました。部屋に帰って泣いたのは覚えています。悲しかったわけじゃないけど、ヘンな孤独感がありました」美空ひばりは、時間があれば学校行事にも参加していた。入学式には、加藤とともに電車を乗り継いで学校まで行った。地方へ行くときは、加藤に語りかけるテープを残して行った。交換日記を始めたこともある。母になろうと一生懸命だった大歌手の素顔が見えてくる。加藤が見ているテレビのアニメなども一緒に見ていた。「僕に付き合ってくれているのかと思ったら、僕がいなくても『北斗の拳』などをおもしろがって見ていましたね。偏見のない人でした。歌だって、ジャンルに優劣があるとは思っていなかった。パンクロックなども、すすめると聴いていました」何度も一緒に遊園地に行ったが、1時間でも2時間でもきちんと並んだ。特別扱いを嫌う母だった。加藤が10歳のとき、美空ひばりにとってもっとも大切なマネージャー兼プロデューサーであった祖母が亡くなる。そして、波乱に満ちた加藤の10代が始まった。「ばあちゃんが亡くなった2年後、今度は親父が亡くなりました。親父はばあちゃん亡き後、おふくろを支え、自主興行をやろうとがんばっていた。美空ひばりにジャズを歌わせたのは親父です。演歌以外を歌うことにファンのみなさんには葛藤があったと思うけど、親父は明らかに美空ひばりを活性化させましたね」加藤は父と2日後に焼き肉に行く約束をしていた。体調を崩して入院はしていたが、それほど早く逝ってしまうとは……。まだ42歳の若さだった。すぐ帰宅するようにと学校で言われた加藤は、駅のホームで親子連れを見かけ、緊張の糸が切れて号泣した。「僕が10歳のころ、クリスマスにふたりでタキシードを着て赤坂のコパカバーナというクラブに行ったことがあるんですよ。連れて行かれたという感じだったし、子どもにはおもしろくない場所だから、僕はすぐに帰ってしまったけど、親父は男同士でそういうところへ行きたかったんでしょうね。大人になってから、いろいろ話したかったなと思うことがあります」加藤はしんみりとそう話す。さらに2年後、今度はひばりの末弟である武彦さんが亡くなる。同じく42歳だった。「このころからおふくろは酒量が増えていったんです。母と弟たちに相次いで死なれて、つらかったでしょうね。僕も急に寂しくなった」■荒れた思春期、中高時代中学に入り、加藤は自立心が芽生えていく。ひばりに口答えすることも多くなった。勉強はそれほど好きではなかったが、担任と気が合い、学校が楽しかった。一方でバレーボール部に入り、弱小チームを大会で優勝させる立役者になったりもした。当時の加藤の様子を、玉川学園の2年後輩であり現在の妻である有香さんはこうふり返る。「私たちは当時、彼のことを“美空加藤”と呼んでいました。運動神経はよかったけど、とがった一匹狼というイメージでした。彼はバレー部、私はバスケ部で、コートが隣同士。ボールがバレー部のほうに行くと、彼は怒るんだけど、私がボールを取りに行ったときは、彼、きちんと手渡してくれた。案外、優しいんだなと思った記憶があります」心の中に誰も想像できない孤独を抱えた少年だったのかもしれない。それでも中学時代は担任に甘えられたし、チームスポーツなどで捌け口があったのだろう。ところが高校に入ると様子が変わってくる。外部からも生徒が入り、教師も「大人」として接するようになる。「もともと学校は好きだから朝早くから行っているんだけど、授業に出る気になれずにサボってしまう。先輩たちとつるんでいたものの、折り合いが悪くなって、生意気だと言われて“先輩風吹かすんじゃねえ”と言い返したり」そして、ついに校内でケンカをし、相手をケガさせてしまう。胸ぐらをつかんだら手をねじられ、その痛さでキレてしまったのだという。後日、ひとりで相手の家に謝罪に行き、父親に許してはもらったものの、無期停学になった。高校に入学して2か月もたっていなかった。そのころ、母ひばりは全国ツアーに出ていたが、最終日の福岡で、脚の痛みと気分の悪さを訴えて緊急入院した。「どうせ停学だし、だったら福岡へ行こうかな、と。そのときはそれほど重い病気だとは思っていませんでした」ところが福岡へ行ってみると、大腿骨骨頭壊死と肝硬変という病名を告げられる。身内は加藤だけだったから医師の説明もひとりで聞いた。肝硬変の原因は酒だった。「飲みすぎを止められなかった」ことを今も加藤は悔やんでいる。だが、ひばりの立場になれば数年の間に母親と弟ふたりに死なれてしまったのだ。飲まずにはいられなかったことは容易に察しがつく。■今でも忘れない、沈黙の10秒間治療は順調に進み、夏には退院できた。そして翌年春の東京ドームこけら落としでの『不死鳥コンサート』が決まるのである。「僕は無期停学が解けて試験を受けにひと足先に帰京したんですが、テストはまったくできないし、学校をやめてもいいかなと思っていました。夏休み明けに授業をさぼったら職員室に呼び出された。先生たちがずらりと並んで、僕がやめますというのを待っている雰囲気があったんです。なんだか寂しかった。大好きな学校だったのに。それでキレちゃったんですよねえ」ごちゃごちゃ言うんじゃねえと叫んで、ポケットからタバコを取りだし教師の目の前で吸いながら、「こんな学校、やめてやらあ」と職員室を出た。生意気でしたねえ、と加藤は含み笑いをする。意気揚々と学校を出たものの、さて、母にどう報告するか。駅の公衆電話の前を何往復もしたという。結局、電話できたのは1時間半後だった。「おふくろは勘のいい人だから、“どうした?何かあった?”って。学校をやめてきたと言ったら、10秒くらい沈黙がありましたね。次に“で、どうするの?”と。友人とバンドを組んでパンクロックをやっていたので、音楽の勉強をしたいと答えました。“あんたね、学校へ行くより大変よ。最終学歴が中卒じゃ苦労するわよ”と言われました。それでも、最後には“次のことを考えられるなら、いいんじゃない?”と。見ていないようで、おふくろは僕のことを見てくれていたんだなと思いましたね」その後、ひばりは体調を崩していく。それなのに翌’88年の東京ドームでの『不死鳥コンサート』は伝説に残るステージとなった。相当、具合が悪かったにもかかわらず、舞台は完璧だった。「脚をひきずりながら歩いているおふくろにずっとついていたから、どんなにあのコンサートが大変だったかわかっていました。僕がおふくろの家に来た意味も考えていた。ドームが終わったとき、5万5千人の鳴りやまない拍手が、おふくろを今後も全力で歌に向かわせることにつながると感じました。その瞬間、自分の気持ちがはっきり決まったんです。金髪にしていたのを黒髪に戻し、スーツを買ってある日、おふくろに“手伝わせてください”と頼みました。16歳でした」ひばりは泣いて喜び、周囲に「私、この子に任せたから」と宣言した。東京ドームで見事な復活を果たしたひばりに、全国からコンサートの依頼が殺到する。放っておいたらひばりは全部、引き受けかねない。だからこそ、加藤は自分が歯止めになるしかないと決意したのだ。それが運命なのかもしれないと思ったという。■17歳直前、母・ひばり逝く5月から始まったツアーに加藤は帯同し、裏方として必死に働いた。同時にひばりプロダクションの副社長に就任、「将来、好きなことをしなさい」とひばりが関連会社を作ってくれた。息子が一緒に仕事をしてくれることが本当にうれしかったのだろう。「おふくろは僕の意見を素直に聞いてくれました。翌年のツアーも、専属のプロモーターに頼むのをやめてひばりプロダクションで自主興行という形をとった。それで大騒動を巻き起こしてしまったけど、おふくろの病状を考えながらツアーの日程を決めていくしかなかったので、あれは正しかったと今でも思っています」プロモーターにしてみれば、ひばりのコンサートができるかどうかは死活問題だ。長年、築いてきた関係もある。昨日や今日、副社長になった若造に何がわかるかという気持ちもあっただろう。加藤は海千山千の彼らに真摯に対応した。会社の細かな事務仕事も全部覚えようと必死だった。彼には常に完璧に仕事をする美空ひばりの血が流れていたのである。’88年の不死鳥コンサートから1年後、自主興行のツアーが始まった。スタートは、以前倒れたときお世話になった福岡だ。当時の医師に診察してもらうと、思ったよりひばりの具合は悪かった。彼女はどんなに高熱があってもステージに上がって歌ってきたし、無理も重ねてきた。だから調子が悪くても訴えることはなかったのだ。「おふくろに無理をさせないスケジュールを組みながら、誰にも病気のことは知られないようにしなければならない。誰かに話したらメディアに漏れる。ひばりが重病だと悟られてはならないんです。17歳のガキですからね、けっこう大変でした」最終的な病気は特発性間質性肺炎だった。大腿骨や肝硬変も治ってはいなかった。横浜アリーナのこけら落としコンサートが決まっていたが、加藤は中止を決め、ひばりを説得した。ひばりは泣く泣く、ファンのためではなく息子のために生きる選択をする。一方、加藤も複雑な思いだった。ひばりが元気なら、彼は仕事を手伝わなかった。病気になったからプロデュースすることになったのに、肝心のひばりの身体はもう歌うことに耐えられなかったのだ。母ひばりは’89年、彼が17歳になる直前に鬼籍に入った。泣く暇もなく、彼は「美空ひばり」を守らなければいけない立場になる。ひばりを過去の人にしたくない、生きているときと同じように歌を広めたかった。ひばりプロダクションの社長として仕事をするかたわら、知り合いで憧れの人だったブルースシンガー・大木トオル氏のもとで裏方として働くようになった。荷物持ちをし、マイクスタンドを運び、バンドの下働きをする。誰か信じられる人のもとで新しいことを始めなければ自分自身を保てなかったのではないだろうか。この仕事は6年ほど続けたという。だが、心の中は荒んでいた。自分の会社にアーティストがいるわけではないから、学んだ技術を生かす場はない。会社に行っても何をすべきかわからない。家にいるときは抜け殻のようになっていた。彼のことを子どものころから知る、元スポーツ紙文化部長の小西良太郎さん(83)は、のちに当時の彼の気持ちの一端を聞いたことがあるという。「そのころは車に逃げ場を求めていたらしいですね。けっこう無茶な運転をして死にかけたこともあるけど、死んでもいいと思っていたって。10代で4人の身内に死なれて、美空ひばりという大きな呪縛を背負った18歳。そう考えると痛々しくてたまらないよ」■「美空ひばりの息子」という覚悟22歳のとき、彼は運命の再会を果たす。先輩に連れられていったクラブで、玉川学園時代の後輩で、俳優・浜田光夫氏の娘である有香さんと会ったのだ。彼女は母が始めたラウンジを立て直すため、クラブに変えて経営をしていた。大学との二足のわらじだった。「私を見るなり“あんた、こんなところで何してるの”って。“こんなところって失礼じゃないですか”というのが再会して最初の会話でした(笑)」加藤はその後、店に来るようになり、3度目に結婚しようと言った。有香さんは冗談だと思ったが、彼は本気だった。とがった一匹狼だった学生時代の加藤が、そのときは生きてることに疲れているように見えた。「不良のように言われていたけど、学内で傷ついた小鳥を見つけて先生に“助けてやって”ともっていく優しさをもっていた。その優しさは変わっていませんでした」有香さんの両親も大賛成。2年後には一緒に住むようになり、正式に結婚した。「うちはごく普通の家なんですよ。食卓があってテレビがあって、家族みんなでごはんを食べて。彼が私の実家に来て、寝っ転がってテレビを見ているのを見たときはうれしかった。いつも周りを見ながら気を遣って、評価されなくてもいいから嫌われたくないと思って生きてきた彼が、すごく無防備な姿だったから。ずっとひとりでがんばってきたんだなと感じましたね」伴侶を得た彼は、ようやく精神的に落ち着いていく。有香さんは中学生になったばかりのころ、テレビで美空ひばりの歌を聴き、心を震わせたことがあった。それ以来、「崇拝している」のだそう。「ファン目線」をもっている有香さんに、加藤も徐々に頼るようになった。誰も信じられず、ひとりで「美空ひばり」を守っていくしかないと覚悟を決めた加藤が、ひばりの十三回忌の大イベントから有香さんに意見を聞くようになったのだ。有香さんも店を辞めて、ともにひばりを守ることを決めた。内に向いていた目が、外に向かって開かれるようになっていく。前出の小西さんは、ひばりさんが亡くなって10年ほどたったころ、突然、加藤から連絡があって再会したのをよく覚えている。「スーツを着て深々と頭を下げて、“あなたはばあちゃんやおふくろと付き合ってきた人だけど、僕が甘えてもいいだろうか”と。10年彼なりにがんばってきたんだろうけど、漠然と不安があったんじゃないですかね。ひばりさんのイベントを今後どうやっていったらいいかも含めて、これからのことを相談されました。この10年、苦労したんだなとわかった。何があったかは知らないよ。彼はそういうことは言わないから。あいつの魂の遍歴は、オレにとっても謎なんだ(笑)」ひばりの子であり、プロダクションの社長であり、ひばり伝説を継承していく立場は決して平坦な道ではない。「それでもあいつは不良だから、奥歯噛みしめてやせ我慢してるんだと思う。美空ひばりを守るというのは、生半可なことじゃありません」加藤と有香さんの間に子どもはいない。加藤は欲しがらなかったという。自分に子どもがいたら、「美空ひばりを守る」後継者にせざるをえない。それを彼はおそれたのではないだろうか。■さりげなく粋で、気遣いの人2001年から始まった『マネーの虎』というテレビ番組に、加藤はレギュラー出演する。一般人が自分の夢や目標をプレゼンし、出資者から投資してもらうのだ。加藤は投資する側の「虎」のひとりだ。そこで彼は、世界一のパスタ料理店を開きたいと語った立花洋さん(62)に、980万円をポンと投資した。ほかの虎たちが採算がとれないと危惧していたのに、加藤は「おいしいパスタを食べてもらいたい」という彼の「まっすぐな人柄」だけで大金を出した。自分と似たものをもつ立花に入れ込んだのかもしれない。立花さんはその後、湘南地域で4店舗を経営、一時は年商2億円までいった。「社長(加藤)は、“僕を銀行だと思ってください”と言ってくれました。金は出すけど口は出さない、と。ただ、店名だけはピンとくるものにさせてほしい、と。たくさん考えたけど、どれも社長は首を傾げて。何度目かにうかがったとき、僕が出した『ラ・パットーラ』(パスタと居酒屋を意味するイタリア語・ベットーラを合わせた造語)に“それだ!”って。ほかのことにはまったく何も言わなかった」開店するたび、大きな花が届いた。ときには「今日はたまたま近くまで行くので、ちょっと寄っていいですか」ということもあった。「料理を食べると、最後にのし袋を差し出すんですよ。たまたま来たわけじゃない、ちゃんとお祝いを用意してくれている。しかも、お店の子たちにジュースを買ってあげてと別にくださる。本当に社長は気遣いの人、しかもさりげなく粋なんです」ところが2年前、立花さんは後継者と決めていた人物に裏切られ、金を横領されて逃げられた。失意の中、すべての店舗を閉鎖したという。「この先、どうしようか。もう働く気も起こらなかった。缶コーヒーを飲みながら毎日、ぼんやり海を見ていました。そんなとき、加藤社長が昔、騙されたり裏切られたりしたと聞いたことを思い出したんです。詳細は言いませんでしたけど、商売をしているとそういうこともあるよ、と。僕とはスケールが違いますからね、大勢の人が寄ってきたり離れていったりしたでしょう。社長はよく乗り切ったなあ。それだったら、僕ももう少し別の道でがんばってみるかと思えるようになったんです」■「美空ひばりの息子が〜」からの解放美空ひばりの付き人であった関口範子さん、齋藤千恵子さん、お手伝いの辻村あさ子さんは、ひばり記念館で今も暮らしている。ひばりが亡くなったときも、加藤から「これからどうする」という言葉はまったくなかった。「お嬢さんが犬好きだったんです。社長は私たちがボケないようにと、10年前に子犬を連れてきてくれた。専務(有香さん)は、敬老の日に長寿の木をくれたんです。だからもうちょっと長生きしそうですと言ったら、社長がそれはよかったって」(辻村さん)加藤は、「あの3人がそのままいるのは、本当になりゆきなんですよ」と笑うが、ひばりのために尽くしてくれた3人を放り出す気など、さらさらなかったに違いない。情の濃い加藤は、自分を産んでくれた母が体調を崩していると聞いて会い、何度も食事をともにしたという。母が逝ったときは自宅の仏壇に頭を突っ込み、「母ちゃんがそっちへ行ったから、仲よくしてやって」と言ったそうだ。彼は昨年、肝炎と膵炎で突然倒れた。全身が真っ黄色になり、集中治療室に入れられて口もきけない状態だった。自身も死を覚悟したが、2週間半後、急に起きて歩くことができた。20キロやせたものの、検査結果は完全に回復。医師も驚いていたという。その一件以来、酒を控えるようになった。まだ死ぬわけにはいかないのだ。ひばりを守るだけではなく、不世出の歌手をきちんと伝えていかなければいけない。今年の『第70回NHK紅白歌合戦』では、AI技術によって再び美空ひばりのステージが蘇ると話題だ。また、ファンである有香さんは、ひばりが日系移民のために開いたコンサートの足跡をたどって、ハワイ、ロス、台湾、ブラジルでイベントを成功させたいという夢をもっている。「今も、僕はばあちゃんと親父が羨ましくてたまらない。僕も、美空ひばりをプロデュースしたかった。おふくろはもういないけど、忘れ去られることが怖いんです。だから美空ひばりをさらに発展させていくためにどうすればいいかを考えています。それができるのは僕と有香しかいませんから」加藤が何かを始めたら、「美空ひばりの息子が~」と必ず言われる。それを避けるために、彼はどこかで自分を押し殺していた。だが有香さんだけは、「好きなこと、やりたいことをしてみたら?」と言い続けてきた。ひばり没後30年の節目、死をも覚悟した急病からも復活した今なら、「美空ひばりの息子」を気にせず、やりたいことを楽しめると加藤は感じたのかもしれない。たまたま、仕事で知り合った日本コロムビアの早坂昌也さん(50)とパンクロックの趣味が一致、バンド活動を始めるつもりだという。「もうひと暴れする気になったと和也さんも言っています。何をやっても“パンクですから”って言い訳できますし(笑)」(早坂さん)美空ひばりの息子として生き、ひばり伝説を守り続けてきた彼が、これからは自分のためにも人生の時間を使えるときが、来たのかもしれない。取材・文/亀山早苗(かめやま・さなえ)1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。歌舞伎、文楽、落語、オペラなど“ナマ”の舞台を愛する
2019年12月31日12月29日、「第70回NHK紅白歌合戦」のリハーサル2日目が行われた。そこに天童よしみ(65)が登場し、「大阪恋時雨」を披露した。さらに今回は、Matt(25)のピアノ伴奏付き。紅白ならではのスペシャルコラボは、話題性十分だ。6月にリリースされた「大阪恋時雨」。同曲は天童にとって初となるラブソングであり、自身初のソウルバラード。天童にとって挑戦的な作品だが、今年の「年間USEN HIT 演歌/歌謡曲ランキング」では堂々8位にチャートイン。さらにYouTubeにアップされたMVの再生回数は25万回以上を記録している。すでに幅広い世代から支持されており、Twitterでもこんな声が上がっている。《天童よしみさんが紅白で歌う『大阪恋時雨』はものすごく良い。やしきたかじんテイストの大阪弁バラードが大好きなので、初めて聞いた時からグッと来た》《天童よしみの大阪恋時雨ほんとに推すからみんな聴いて》《大阪恋時雨は天童さんの代表曲になっていくのではないかと思いました》もともと「大阪恋時雨」は、作詞作曲を手がけたシンガーソングライター・半崎美子(38)が歌い続けてきたものだった。その縁を取り持ったのは、笑福亭鶴瓶(68)だ。「この曲を聴いた鶴瓶さんは感動し、すぐに『歌ってほしい曲がある』と天童さんに連絡したといいます。天童さん自身も聞いて号泣。『この歌を伝えたい』という気持ちが生まれたそうです」(音楽関係者)それだけでなく、「大阪恋時雨」を“いま”歌うことが天童にとって意味のあることのようだ。「天童さんはもうすぐ芸能生活50周年を迎えます。そのタイミングで『いつもとは違う天童よしみを見せたい』という思いも強かった。そこには晩年、秋元康さん(61)や小椋佳さん(75)の楽曲を歌った美空ひばりさん(享年52)の影響があるといいます。楽曲への自信と気合は十分。Mattさんとのコラボもありますし、紅白を機に新たなファンを獲得できればと新天地に期待をかけています」(前出・音楽関係者)96年リリースの「珍島物語」が130万枚以上のセールスを記録するなど、これまでも第一線で活躍してきた天童。「大阪恋時雨」で再び大きな飛躍を遂げるかもしれない。
2019年12月30日2018年春夏、2018-19年秋冬のアマゾン ファッション ウィーク東京(AFWT)のキービジュアルのアートディレクションを手掛けた「螢光TOKYO」の手島領がミュージシャンネーム、LUDWIG3rd.(ルードヴィヒ3世)名義で発表した曲「TOKYO “妄想”2020 feat.音宮いろは」が話題を集めている。同曲は、東京でのオリンピック開催が決定した翌年の2014年に、手島が「KEI-KO TOKYO」名義でYoutubeにアップした動画「KEIKO TOKYO 2020」がオリジナル。当時はボーカロイド、初音ミクのボーカルで制作されたものが、2020年を迎えるタイミングでインターネット配信用にリメイクされた。このニューバージョンでは最新のAIリアルタイム声質変換ソフトウェア「Voidol(ボイドル)」のキャラクター「音宮いろは」をボーカルに起用し、80年代テクノポップ風のサウンドにキャッチーなメロディと歌詞が印象に残る2020年のアニバーサリーソングとなっている。Voidolとは初音ミクなどのボーカロイドとは違い、鍵盤で音程を打ち込むことなく特定のキャラクターにリアルタイムで声質を変換するソフト。この数年、急激に増加しつつあるVチューバー(バーチャル・ユーチューバーの略語)に向けたアプリケーションとして知られていたが、今回初めて楽曲に使用された。AIリアルタイム声質変換技術の開発の元となったのは、声を失った人が過去の自分の声のアーカイブからその声を再現することを目的に医療用に研究されていたもの。必要な音声データさえそろえば、機械学習によりリアルタイムで男女関係なく声質変換できるという。誰でも憧れの人の声で歌える時代が来るかもしれないという“妄想”が現実になりつつあるわけだ。エレクトロニックミュージックシーンのエフェクト・ボイスの人気やNHKの放送で話題を集めた美空ひばりのAI歌唱など、2020年代は“声”の進化がさらに進みそうだ。
2019年12月27日1966年に別役実らと早稲田小劇場を立ち上げて60年代の小劇場運動を牽引し、1976年には拠点を富山県利賀村に移して劇団名をSCOT(Suzuki Company of Toga)と改称、80歳を迎えた今もなお精力的に活動している鈴木忠志。その名を世界に轟かすこの演出家が2007年、全三幕から成る三島由紀夫の名作戯曲から第二幕のみを取り上げて初演した『サド侯爵夫人(第二幕)』が、12月13日(金)から23日(土)まで東京・吉祥寺シアターで上演される。利賀村と武蔵野市が姉妹都市であることからSCOT作品を頻繁に上演している同劇場に、2017年に鈴木による新演出バージョンとして登場して好評を博した舞台だ。三島による『サド侯爵夫人』は、“サディズム”の語源ともなっている実在の小説家サドを巡る、妻のルネ夫人ら6人の女たちのドラマ。鈴木は三島の書いた言葉は変えないまま、美空ひばりの演歌を流すなどの三島の指示通りではない演出によって、三島がルネ夫人に託した芸術家としての思いを浮かび上がらせる。初日と楽日以外は鈴木によるトーク付きの上演となっているほか、中日には演劇評論家・渡辺保と鈴木が観客からの質疑にも応じる「対話」(チケット代は“ご随意に”とのこと)もあり、あわせて楽しみたい。文:町田麻子
2019年12月09日昨年“助六ロス”を巻き起こしたNHKドラマ『昭和元禄落語心中』での天才落語家役も記憶に新しい、俳優の山崎育三郎。今春には尾上松也、城田優とエンタテインメント集団「IMY」を旗揚げするなど舞台を主軸に、近年は映像界にも進出。その他、番組MC、声優を務めるなど多方面で存在感を発揮中だ。2020年は、最新カバーアルバム『MIRROR BALL ’19』を携え、全国ツアーで幕を開ける。「山崎育三郎」チケット情報アルバムは、50年代から90年代までのヒットソング全13曲を収録した名作選。各時代の名曲をミラーボールミュージックとして令和に蘇らせるというコンセプトのもと、音楽プロデューサーにヒャダインを迎えた。例えば、舟木一夫『高校三年生』はヒップホップ調に、ミュージカル映画でお馴染み『雨に唄えば』では山崎の声を男女2役に加工し、ユーロビート調に仕上げるなど、異色の仕上がりとなっている。「ミュージカルではバラードを朗々と歌い上げるイメージが強いと思いますが、コンサートを重ねる中で、次はアップテンポの盛り上がる楽曲を作りたいとの思いがずっとありました。どの曲も1度聴いただけで忘れられないフレーズがあるのは、名曲の強み。僕が選んだのは、祖母や母の影響で大好きになった、美空ひばりさんの『お祭りマンボ』。ヒャダインさんには、令和の若者に響くカッコいいアレンジをとリクエストしました」。ヒャダインの一押しは、70年代女子プロレス界のアイドル、ビューティ・ペアの名曲『かけめぐる青春』。城田優とのデュエットを強くすすめられた。「最初の打ち合わせの段階から、“もうふたりで歌っている姿が見えているから”と言われて。優も『やる!』とすぐに返事をくれました。僕らは普段からハモって遊んでるので、レコーディングも一発でキレイに録れて、ヒャダインさんも『いいね、これこれ!』という感じ(笑)。毎回そんな風に誉めていただけるので、僕もだんだん解放されて、新たな一面を引き出してもらえました」。コンサート当日は、ミュージカル俳優ならではの演出にも期待してほしいと話す。「『お祭りマンボ』のミュージックビデオでは、僕がエルヴィス・プレスリー風に登場し、バブル時代の肩パットスーツから、ヒップホッパー、ギャル男を経て、現代の高校生のTikTokまで、時代を象徴する衣裳やダンスを使い、アルバムのコンセプトを表現しました。コンサートでも時空を超えて旅するような、ストーリー性のある構成でお届けできるのが僕の強みかなと。ミュージカル俳優の仲間をダンサーに迎え、弾き語りや、タップダンスも踊ります。『お祭りマンボ』ではお客様と一緒にワッショイ!コールで盛り上がりたいですね」。大阪公演は2020年1月12日(日)にフェスティバルホールにて開催。チケットは11月2日(土)一般発売開始。取材・文:石橋法子
2019年11月01日9月29日、ドキュメンタリー番組『NHKスペシャル AIでよみがえる美空ひばり』(NHK総合)が放送された。没後30年を迎える美空ひばりをAI技術によって蘇らせ、一夜限りの新曲披露コンサートを開催。ネット上ではファンはもちろん、美空ひばりを知らない世代からも“AI美空ひばり”を絶賛する声があがっている。番組ではNHKやレコード会社に残る膨大な音源と映像をもとに、最新のAI技術を駆使して美空ひばりを復活させる企画に挑戦。AIはひばりの超人的な歌唱力や表現力を数値化し、さらには歌唱中の目や口の動きを抽出。4Kの3Dホログラム映像で、等身大のひばりを出現させた。またAIで蘇ったひばりによる一夜限りのコンサートを行うべく、彼女の生前最後の曲「川の流れのように」を手がけた秋元康(61)が新曲「あれから」をプロデュース。ひばりをリスペクトする天童よしみ(65)が振り付けを考案し、ひばりの晩年の衣装をすべてデザインしてきた森英恵(93)がコンサートの衣装を担当した。こうして作り上げられた“AI美空ひばりコンサート”に、駆けつけた一般のファンは皆号泣。間奏で「お久しぶりです、あなたのことをずっと見ていましたよ。頑張りましたね。さぁ、私の分までまだまだ頑張って」と優しい笑顔で会場に語りかけるAIひばりの姿に、客席に招かれた養子の加藤和也さんが涙する場面もあった。ネット上でもファンから“AI美空ひばり”の歌声に心打たれたという多数のコメントが。《AI美空ひばりを見て、涙がとまらない…》《凄かった! 本当に美空ひばりさんが新曲を歌っていた!この曲、欲しい!!やっぱりひばりさんは良いなぁ…》《AI美空ひばりさんすごかった! AI技術ももちろんすごいけど、美空ひばりさんを蘇らせたいというたくさんの方々の想いと熱意がすごい!!感動…!!!》また当時の美空ひばりを知らない若い世代からも、令和の時代に再現された「昭和の歌姫」の圧巻の歌声を絶賛する声が多数あがっていた。《NHKスペシャルでAIの美空ひばりをやってた。なんかわからないけど感動して泣きました。ひばりさん、、リアルで会ってみたかったです…》《私は美空ひばりをリアルタイムで聴いたこと無いし、曲もちゃんと聴いたことが無いのにもかわらず、AI美空ひばりの新曲の声にボロボロ涙が出た。人工歌声で感動できるって、生の美空ひばりの歌声はどれだけ人の心を動かす力があったんだろうと思う》
2019年09月30日キュートなフォルム、卵の優しい味わい、ほろ苦いカラメルソース…。お店によって個性も異なる「プリン」。今日のおやつに、旅の思い出に。全国各地で食べたいとっておきのプリンを集めました。1.カラダにも嬉しいなめらかプリン〈GLUTEN FREE CAFE Tama Kuchen〉/二子玉川グルテンフリーのパンやスイーツ、ハーバルセラピストの小野光子さんが調合したハーブティー700円がズラリ。生乳の風味を生かした飛騨牛乳で作るなめらかなプリンに、旬の果物と生クリームでデコレーションを施した「ノンホモプリン季節の果物添え」580円が人気。〈GLUTEN FREE CAFE Tama Kuchen〉東京都世田谷区玉川3-20-1 名川ビル1F03-6805-744310:00~19:00無休12席/禁煙(Hanakoシティガイド『ほっとする、二子玉川。』掲載/photo: Kenji Nakata model: Har, Aoi Tokuda)2.進化系スイーツ「奇跡のスフレパンケーキプリン」!〈FLIPPERS STAND〉/新宿スフレパンケーキ専門店〈FLIPPERS〉は、新業態となるテイクアウト型スフレパンケーキプリン専門店〈FLIPPERSSTAND〉の一号店〈FLIPPERS STANDNEWoMan新宿店〉。厳選素材を使って丁寧に焼きあげる繊細な生地と、卵の魅力を凝縮したカスタードプリンを掛け合わせた「奇跡のスフレパンケーキプリン」。生地の中に自家製クリームをフィリングし、焼き立てのしっとり感とふわふわ食感を実現しました。スプーンを入れるとクリームがとろりと顔を出し、生地とプリンを一体化させるように包み込みます。スフレパンケーキ、メープルバタークリーム、キャラメルソース、カスタードプリンが織りなす4層が、優しい風味と共に時間差でとろけ出す、進化系スイーツです。「奇跡のスフレパンケーキプリン プレーン」500円。滑らかなカスタードプリンの上に、メープルシロップと発酵バターを煮詰めたオリジナルのメープルバタークリームをフィリングしたスフレパンケーキを合わせました。キャラメルソースがアクセントになった、シンプルながらも素材の魅力をダイレクトに感じられるシグネチャー商品です。3.ちょっと秘密めいた入り口に吸い寄せられるカフェの自家製プリン。〈JENTECO LABO〉/鎌倉御成通りの中ほど、ふと目の端に入るうなぎの寝床のような細長い路地。トキメキを抑えつつ入った先は、カウンターをメインにした、レトロモダンなカフェ。ミントグリーンの壁に無骨なパイプ椅子、真空管のようなライトに木の天板。こちらの内装はすべてオーナーとスタッフの手作りによるもの。「自家製プリン」(300円)、「アイスコーヒー」(400円)、ほかに「スロージュース」(500円)メニューはコーヒーとスロージュースと手作りデザート。鎌倉歩きでのひと休みにちょうどいいサクッと過ごせる空間だ。(Hanako1172号掲載/photo : Tomoya Uehara text : Chiemi Makita)4.昔ながらの製法で作られる、どこか懐かしい味。〈スマート珈琲店〉/京都創業は昭和7年。プリンのほかにフレンチトーストや、ふわふわのタマゴサンドウィッチなど卵を使ったメニューが充実。昔ながらのレシピで作られるプリンは、蒸し焼きならではのプリッとした弾力が魅力。たっぷりのカラメルが卵の優しい生地を引き立てている。かつて子役時代の美空ひばりが大好きだったというエピソードがあるホットケーキも、当時から変わらないレシピで作られている。〈スマート珈琲店〉京都府京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町537075-231-65478:00~19:00無休38席/喫煙(Hanako1176号掲載/photo : Natsumi Kakuto, Noriko Yoshimura, Yoshiko Watanabe text : Kahoko Nishimura, Mako Yamato, Atsuko Suzuki)5.尾道名物のプリンとコーヒーでひとやすみ。〈ヤマネコ ミル〉/尾道尾道駅から歩いて5分ほどの海沿いにあるカフェ。〈ヤマネコカフェ〉や〈おやつとやまねこ〉といった系列店でも人気の「やまねこ印の尾道プリン」324円は、尾道土産の定番。瀬戸内レモンを使ったシロップがクリーム系のプリンと相性(Hanako1174号掲載/photo : Yoshiki Okamoto text : Rio Hirai)
2019年09月23日中村メイコさん(85)わずか2歳8か月で子役として映画デビュー。以来、人気女優として83年。洋服や着物、靴、アクセサリーなどを人の何倍も所有し、「買い物ほど楽しいものはないわよね。それに、女優だから同じ物は身につけられないでしょ?」ころころと笑う中村メイコさん。その老い支度は5年前の80歳のとき。夫・神津善行さんのユーモアあふれるひと言から始まった。■トラック7台分の私物を手放した「“君は何でもたくさん持っている。それをそろそろやめないか?もし君が先に死んじゃったら、僕は君の山のようなパンストに埋もれながら、それをどうするか考えなきゃならない。そんなじいさん、嫌だろう?ついては生活を縮小しよう”。キタ───!と思いました(笑)。そして、そのとおりだとも」長女で作家の神津カンナさん、次女で女優の神津はづきさん、長男で画家の善之介さんはとうに独立。約30年前に建築した2階建て+地下という、まるで体育館のような大邸宅は、夫婦2人暮らしにはあまりにも広すぎた。生前整理をして生活と持ち物を縮小化。老夫婦でも暮らしやすいコンパクトな家に住み替えることに。まずは、作曲家である善行さんの魂ともいえるグランドピアノから敢行。大親友の美空ひばりさんも遊んだであろうビリヤード台もいさぎよく。メイコさんの10畳×3部屋の衣装部屋は、まるで百貨店のバックヤード。“東京のイメルダ”とも言われた靴はもちろん、帽子、花瓶……ありとあらゆるものを、なんとトラック7台分手放した。愛着あるものを捨てる際の寂しさは、まったくなかったとメイコさん。「私は2歳から役者ですから、セットに合わせる名人なのね。役者って今日、初めて入った家のセットでも、長年使い慣れているように演技しなくちゃダメでしょ?“ここで”と言われたら、“はい、わかりました”と何食わぬ顔で演技するの。だから、ものを捨てて小さい家に越すことは、違う世界に行けるような感じがして、ワクワクしたの」メイコさんがものを手放す際の基準は、年齢。「“あと何年生きるか?そのためには何がどれくらいあればいいのか?”と考え、捨てていきました。例えば、ハイヒール。口やかましい娘が2人もいますから、“80歳がそんな高いヒールで歩くものじゃない!”と言われ、確かにそのとおりだなと」写真撮影に必要な2、3足だけを残し、残りは全部手放した。「いくら高価なブランド品でも、流行遅れのものを身につけるなんて嫌。古くさいデザインのオーストリッチのカバンよりも、トレンドの千円のバッグのほうがかわいいじゃない?」そんな性格も片づけを後押しした。メイコさんの断捨離は週単位。「今週は“思い出を捨てる週”“手元にあるものを捨てる週”“母親としてのものを捨てる週”など、テーマを決めて淡々と捨てていくことも大事ね」映画の台本など、捨てたら2度と手に入らないであろうものも未練なく。「私、思い出のものを手にしながら“あのシーン、うまくできたかしら?”とか全然、振り返らないの。そんなこと考えていたら前に進めないでしょ?」そんなメイコさんでも、捨てるのに躊躇したものがあったという。「やっぱり親友のひばりさんにまつわるもの。おそろいの着物とかね。最後の最後まで捨てられなかったけれど、しかたないの。人間ってね、しかたがないことばかりに向き合って暮らしているの。例えば、今晩のおかずににんじんを切ることだってそう。みずみずしく、きれいに茂った葉っぱを勢いよくザクッと切る。すごく残酷なことでしょう?自分の生活は、たとえ残酷でもバン!と切っていかないと、とめどなく膨らむばかりになってしまうから」世は『ヤフオク!』や『メルカリ』などネットでの個人間売買が盛況だが、微塵も考えなかったという。「それをしたら、(ひばりさんとの)友情を裏切ることになるから」■最期は病院で迎えたい10週をかけ、メイコさんのお片づけは完了。「ガランとした部屋に立ち、“ああ、これでいつでも死ねるな”と思ったときのすがすがしさ、気持ちのよさったら!これは、神様がくれたいちばんのプレゼントだと思ったの。ものを手放すことで、私はすがすがしさを手に入れたんだと思うわ。女の人って、どうしても思い出にがんじがらめになるもの。“これは息子が初月給で買ってくれたものだから”とか。でも人生って、年齢に合わせてそぎ落とさないと前に進まない。私、このごろしみじみと思いますよ」現在は4LDKのマンション暮らし。とても居心地がよく、快適だと微笑む。「でも私、最期は自宅じゃなく、病院で迎えたいの。だって、死ぬときのセットとして、いちばん似合うじゃない?女優が死を演じるかのように旅立ちたい。生活感ある日常の中に、看護師さんがウロウロするような非日常が持ち込まれたら、家族はつらいでしょうからね。セットのような病室で、悲壮感なく、周りに迷惑をかけずに臨終を迎えたいわ。それが私の今の夢かしら?」死ぬまで女優とはこういうことか─。《PROFILE》なかむらめいこ。女優。2歳8か月で『江戸っ子健ちゃん』(1937年)で銀幕デビュー。以来、映画、テレビ、舞台などで活躍。
2019年09月19日小椋佳さん(75)「家内に葬式をあげる煩わしさを味わわせたくない。自分ですませておけば、本当に死んだときにやらなくてもいいじゃないですか。葬式らしい形でもよかったんですが、まあ50年間、歌ってきたのでステージをそのまま葬式にしちゃおうと生前葬コンサートを思いつきました」そう語るのは、『シクラメンのかほり』『愛燦燦』など数々のヒット曲で知られるシンガー・ソングライターの小椋佳さんだ。■“人生完結したな”2014年9月、東京・渋谷のNHKホールで4日間に及ぶ『小椋佳 生前葬コンサート』を行った。70歳だった。「毎日違う曲で全100曲。緊張も特別な思いもなく、いつもどおりいいステージにしたいと思っただけ。ただ、4日間終わって“人生完結したな”という思いはありましたね。生ききったというか。神田紘爾(本名)の人生は十分満喫したなと。だから、コンサート終了の翌日に死んでいれば、いちばんよかったんだろうけどね(笑)」生前葬コンサートの準備は前年から。まずは、自らが作った2000曲以上の楽曲から、100曲をセレクトした。「悩みはしなかったけど、時間は1か月ほどかかったかな。セットリストが決まってから、それぞれの曲のエッセイの執筆を始めました。僕は日記をつけているヒトなので、作った歌の当時の日記を読みながらね」NHKホールは、小椋さんが’76年に初めて公に姿を現した場所。以来、ツアーの初日か最終日には必ずそのゆかりのステージに立ってきた。「通常は2日間しか貸さないそうですが、粘りに粘って。4日間満席だったけど、興行的には儲かりはしなかった。かかる経費が膨大でしたから」かつて小椋さんはバリバリの銀行員の傍ら、シンガー・ソングライターとして活躍する異色の存在だった。東京大学法学部卒業後、日本勧業銀行(のちの第一勧業銀行、現・みずほ銀行)に入行。「高校の終わりから歌は作り始めてはいましたが、大学に入ってから“何か創作活動をしなくちゃいけない”と焦り、いろんなことをやりましたよ。小説を書いたり、絵を描いたり。でも全然ダメで。挫折ですよ。何をやっていいかわからなかった。銀行に入ってからも、芸術の世界で活躍する人たちと友達になったり、ミニコンサートのようなことをやったり。人の音楽活動の演出台本を書いたりもしましたね」そんなある日、ラジオで披露した歌がきっかけで劇団『天井桟敷』のレコードに歌手として参加。その歌声がレコード会社のプロデューサーの耳にとまる。そして’71年、『しおさいの詩』(B面は『さらば青春』)でシングルデビュー。その甘い歌声と繊細な曲が人気を集めるように。一方で銀行マンとしても出世街道を突き進み、浜松支店長、本店財務サービス部長などを歴任。“もっとも頭取に近い男”と評されるまでに。二足のわらじをはき続けたが、’93年に退行した。「50歳になろうとするころです。僕が“辞める”と言い出したら、頭取から3回料亭に呼び出されました。“何で辞めるんだ、これからじゃないか”とね。それでも辞めたのは、銀行員はやり尽くしたから。十分、体験したってことです」それから25年、シンガー・ソングライターとして曲作り、そしてコンサート活動を続けてきた。今でも月3回はコンサートで歌い、そのどれもが満席だ。■死んでもおかしくない状況だったその一方で、小椋さんは2000年に胃がんを発症し、胃の4分の3を切除している。「以来、ほとんど食べられない。寿司屋さんに行ってもシャリはダメなんだから。食べる楽しみがなくなったのは寂しいことですよ」’12年には劇症肝炎で生死を彷徨っている。「オーチャードホールでのコンサートが決まってたんだけど、その1週間前から肝機能障害で入院していて。病院を抜け出して2日間舞台に立って、終わったとたんに担ぎ込まれましたよ」死んでもおかしくない状況だったと、のちに医師からは言われた。「周りもみんな“もうダメだ”と覚悟を決めたそうです。投薬治療でよくなりましたが、ずっと車椅子生活でしたよ」医師から心臓手術の予告もされているが、インタビューの間、小椋さんは絶えずタバコを吸っていた。「1日50本くらいかな。もう50年吸ってますから、やめられない。夢?今さらないですよ。ある意味では、そういうのは果たしちゃったから。75歳にもなってステージをやれて、お客さんが会場を埋めてくれる。そもそも、歌で生計が立てられている。僕はなんて恵まれた男なんだろうと思いますよ。あとは家族、友人に囲まれているときには幸せを感じますね」小椋さんは、現在の生活を“余生”と表現する。「70歳のときに遺書も書いたし、洋服や膨大な蔵書も処分した。死に支度はそのときに全部やっちゃったんです。そうそう今、青山墓地(東京)に申し込みをしています。やっぱり、家族のそばがいいからね。戒名はいらない。それは絶対譲れない。無駄だから。でも、墓石はちょっと変わった形のものがいいかな。歌を刻むか?それは家族が決めればいいことで、僕は何だっていいんですよ」小さく微笑むと、小椋さんはまた紫煙をくゆらせた。《PROFILE》おぐらけい。シンガー・ソングライター、作詞家、作曲家。’71年『しおさいの詩』でデビュー。3作目のアルバム『彷徨』は100万枚を突破。布施明、中村雅俊、美空ひばりなど多数のアーティストへ作品を提供
2019年09月18日7月9日、ジャニーズ事務所はジャニー喜多川社長が解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血のためこの世を去ったことを発表した。享年87。葬儀・告別式は“子供”であるタレント達とJr.のみで執り行う家族葬になるという。事務所発表によるとジャニーさんは6月18日11時半ごろに自宅で体調の異変を訴え、病院へ向かおうとしたところ意識不明になり救急搬送。集中治療室で救命措置を行い、一般病棟へ移っていた。その後もジャニーさんが寂しい思いをしないよう、タレント達が入れ替わり立ち代り病室を訪問。ときに危険な状態に陥ったが、そのたびにタレントたちが呼びかけると容体が回復したことも。最後は最愛の子どもたちに見守られながら、2019年7月9日午後4時47分に人生の幕を下ろしたという。1931年、父の仕事の都合で米国・ロサンゼルスに生まれたジャニー社長。戦時中は和歌山で空襲に巻き込まれ、宿泊先の旅館で防空壕に入れず、逃げ出したところ、防空壕に避難した人は大勢亡くなったという。終戦後はロスの自宅に帰り、仏教寺院のマネージメントを担当していた父をサポートした。当時は日本のスターが多く訪米し、寺院を劇場として利用していたそうだ。「当時11歳の美空ひばりさんもその一人でした。ジャニーさんはこうした経緯からショービジネスの世界に魅せられたそうです。日本に戻り、米軍の通訳として仕事を始めたころ、運命の出会いがあったんです」(舞台関係者)ジャニー社長が最初に芸能界でデビューさせたグループは62年の『ジャニーズ』だった。27年前、本誌にその経緯を語っている。「“ジャニーズ”というのは、少年野球のチーム名だったんです。当時僕は在日米軍の住宅に住んでいたんですが、塀を乗り越えて野球しにくる中学生がいて、僕がその子たちを集めてチームをつくったんです。それがきっかけ。そのチームの子と『ウエストサイド物語』を見に行ったら、みんな興奮して『僕たちもああいうのをやってみたい!』と言い出して」以後、フォーリーブス、たのきんトリオ、光GENJI、SMAP、TOKIOらを輩出したジャニー社長。アイドル育成の極意を当時、本誌にこう語っていた。「僕はひと山いくらで売り出すためにグループをつくっているんじゃない。個々のキャラクターを生かすために組ませているんです。“18歳までに基礎を教えれば育つ”というのが僕の信念。才能を磨いて輝かせるのがわれわれの仕事です。これからは、日本発の世界に通用するアーティストがどんどん育っていくことでしょう」ジャニー社長は12年に、ギネスブックに『最も多くのコンサートをプロデュースした人物』『最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物』『最も多くの音楽チャート1位獲得アーティストを生み出した人物』の3分野で登録されている。ジャニーズタレントの実績を世界配信したいという意図でテレビ初出演した6年前の『NHK WORLD』の全編英語放送番組で、ジャニー社長はこうも語っている。「私が何かをすることが大事ではなく、次の世代が若い世代につなげていくのです。今、そういう作業に直面しています。(私がいなくなった後もジャニーズ事務所は)もちろん続いていくでしょう。その瞬間になっても、あれこれ言うことはありません。見届けるだけです。彼らには十分な経験がありますから、私がいなくなっても大丈夫ですよ」
2019年07月10日美空ひばりさんと関口範子さん。昭和36年から付き人として身近に仕え「お嬢さん」「おのり」と呼び合う仲だった歌謡界の女王・美空ひばりさんが亡くなって30年。命日の6月24日、横浜の港を見下ろす高台にある墓地でしめやかに法要が執り行われた。長男でひばりプロダクション社長の加藤和也氏、バス3台を連ねてやってきた後援会のメンバー130人、さらには一般のファンも訪れる中、ひっそり参列したのが「付き人」の関口範子さん(79)だ。昭和36年から28年間にわたって美空ひばりさんに仕え、その最期を看取った関口さんが初めて明かす秘話とは……。■「病室の表札をどうしようか」ひばりさんが東京・順天堂大学病院に入院したのは、平成元年3月15日のこと。前年の東京ドームコンサートであざやかに復活を遂げたひばりさんは、この年全国28か所を回るツアーをスタートさせた。しかし体調はすぐれず、2月7日の九州厚生年金会館での公演を最後に済生会福岡総合病院に緊急入院する事態に。その後、自宅療養を経て東京で再入院したのだ。「九州から東京に戻る際にはヘリコプターを利用したのですが、エンジンとプロペラの轟音が機内にも響きわたり、お嬢さん(ひばりさん)はじっと目をつぶっていらっしゃいました」(関口さん、以下同)残りのツアーはすべて中止に。さらには、この年オープンする「横浜アリーナ」のこけら落としコンサートの中止も発表されたので、ひばりさんの容態が悪いことは各方面に知れ渡っていた。それでも当初、ひばりさんの入院は極秘扱いとされた。「なので、病室の名札をどうしようか、という話になりました」ひばりさんの本名は加藤和枝だが、「名札が加藤だと、すぐわかってしまうからどうしようかと。お母さん(故・喜美枝さん)の旧姓・諏訪でも、マスコミの人には気付かれてしまうしね、というような話をしていた時に、お嬢さんが高倉健さんのことを言い出したんです」ひばりさんと高倉健さんとの交流は、昭和32年の映画『青い海原』から。当時20歳で人気絶頂のひばりさんが、売り出し中の若手だった健さんを相手役に迎える形だった。以来、映画『べらんめぇ芸者』シリーズなど13本もの作品で共演している。また、健さんがひばりさんの親友・江利チエミさんと結婚していたこともあり(昭和34〜46年)、プライベートでも近しい間柄だ。「お嬢さんが“健ちゃんの名前は小田っていうのよね”とおっしゃるので、“そうです。高倉健は芸名で、小田剛一さんという本名だったと思います”と私が答えたら、“じゃあ、健ちゃんの名前から小田にしようか”ということになって、小田という名札をつけてもらっていたんです」こうして、順天堂大学病院の特別室の前に“偽名”のネームプレートが出されることになったが、その由来を知る人は少ない。律儀なひばりさんは、そのことを健さんに伝えようとした。■最後の電話で伝えたかったこと「お嬢さんから“健ちゃんに電話して”と言いつかりました。ところが、高倉さんは歯医者さんに行かれてたらしく留守だったんです。高倉さんは後日折り返してくださったんですけど、その時はお嬢さんの具合が悪くなっていて、電話に出られなかったんです」一時はベッドの上で絵を描いたり、屋上を散歩したり、回復に向けて意欲を見せていたひばりさんだったが、6月13日に人口呼吸器が付けられてからは意識を失ったまま。そして6月24日未明、眠るようにこの世を去った──。1年後、主を失った美空ひばり邸に、高倉健さんから届け物があった。黒い漆塗りの箱に入ったお線香だった。「それから毎年欠かさず、お嬢さんの命日にお線香が届くようになりました。高倉さんはずっとお嬢さんのことを気にかけていてくださっていたんです。お墓参りにも行ってくださっていたようで、和也さんがばったり会って“お前も頑張れよ”と励まされたこともあるとおっしゃっていました」平成5年、京都嵐山に「美空ひばり館」がオープンした時も、健さんはお忍びで現地を訪れた。「いつものように1人でふらりといらっしゃって、“いいよ、出迎えなんていらないからね”と、本当に気さくなんです。階段のところに水が流れる『川の流れのように』という展示のコーナーがあったのですが、“ここはお嬢を感じるなぁ。鳥肌が立っちゃうよ”と、おっしゃっていました」病室からかかってきた最後の電話に出られなかったことは、健さんもずっと気にかけていた。「“あれは何の用だったんだろう?”と何度も聞かれたんですが、私もどうお答えしたものかわからなくて……。でも、やっぱり“名札”のことだったと思うんです。お嬢さんはそのあたり律義だから、直接ご自分でお伝えして“勝手に名前を使ってごめんなさいね”と言いかったんじゃないかと思います。こんど高倉さんに会ったら、このことをお伝えしなければ、と思っていたのですが、叶わないまま、高倉さんも亡くなってしまいました」ひばりさんの没後30年にして、初めて秘話を明かしてくれた関口さん。先ごろ出版された書籍『美空ひばり恋し お嬢さんと私』には、ほかにも生前の2人の交流エピソードが綴られている。
2019年06月24日