2017年5月28日 18:00
「かわいそうな人へ愛の手」を出す前に、できることがある気がしている障害者の私。
だからって、「障害」と「頑張る」が必ずしも結び付くわけではないよね、ということを言いたいだけなのだ。
でもそれを直接言ったもんなら、優しいお人からはこんな答えが返ってくるのだ。
「障害があると、そうではない人にはわからない辛さがあるんでしょう?だからやっぱり頑張ってますよ!」
ああ、まぁね、そうね。
感覚過敏とかね、ほんと辛い。確かにこれは、ない人にはわからない辛さだろうな。
とはいえ、「だから頑張ってる」にはならないと思うのよ。
障害には、そうでない人にはわからない辛さがあるように、障害のある私には、そうでない人ゆえの辛さはわからない。それ以前に、障害がない人だって頑張っているだろう。
そして、どっちがより頑張っているかなんて比べようがない。
「あなたはかわいそうで不幸な存在」と、他人が決められるものなのか。
Upload By 鈴木希望
障害を表明、あるいは他者に認識できる状態になった途端、人はかわいそうで不幸な存在に見えてしまうということなのか。
見えてしまうのは百歩譲って仕方ないとしても、本当にかわいそうで不幸なのかどうかは、本人が決めることなのではないかと思ってしまう。
もちろん、「かわいそうで不幸な存在として見られていたい」と感じている人もいる可能性があるので、「障害者だってみんな幸せなんです!」と主張する気はさらさらない。そこは個人の問題だから。
前項で述べた、「発達障害」と「頑張る」が必ずしも結びつくわけではないという話同様に、「障害」と「不幸」あるいは「幸せ」も、必ずしもイコールになるわけではない。
いろいろ偉そうなことを書きつつも、自分が全障害者の代表になんてなり得ないということはわきまえているつもりだ。
そして「障害者はかわいそうで不幸だ」とついつい断じてしまう人にも、やっぱりまぁ、それなりの事情があるのかもしれないので、
「えっと、本当に不幸かどうか確認…あ、そこまでしなくてもいいんですが、実のところは当人にしかわからないってことで」
と、やや弱腰の提言をしたい。
先回りの気遣いをする前に
出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10161008984
こう言ってしまうのはなんだが、必要のない気遣いは持て余してしまうのだ。
例えば、自閉症スペクトラムを持つ私には軽度の相貌失認があり、人の顔と名前を一致して覚えることが困難だ。