と彼は言った。涙を拭いながら「そうなのよ」とわたしが答えると、彼は安心したようにハハハッと笑っていた。
■憧れと離れて、「わたし」になった
秋が終わる頃、わたしは退職を願い出て、なんとか受理してもらうことができた。年末までは、この会社でしかできないことを頑張ろうと努めたけれど、本当は退職の日をずっと指折り数えていた。とにかく早くその国から逃げ出したかった。
そして、ようやくその朝が来る。
取引先との挨拶は済ませていたし、あとは局内を回るだけだ。出社し、分厚く重たいコートを脱ぐ。
だけどいつものスーツは着ていない。
わたしはコートの下に、観月ありさを着てきた。タイトなスプリングコートだからワンピースに見えないこともないだろう。ショッキングなピンクの洋服で「お世話になりました」とお菓子を配ると、みんなが驚いた顔で見ていた。構うもんか。立つ鳥だしこのぐらい派手でも迷惑はかけなかろう。「もう戻れない」と思うと、とても心地よかった。
建物を出るとき、振り返ってまじまじとビルを見上げた。
幼い頃から夢を見させてくれた場所。学生時代は夜行バスに乗り何度も何度も説明会や面接に訪れ、その度にここで働きたい、と胸を膨らませた。