---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○二十歳過ぎれば、ただの人自分の価値は、自分で決める、自分が決める。子供の頃はそう思っていた。進歩的な家庭教育の賜物であるとも言えるし、井の中の蛙、幼さゆえの思い上がりであるとも言える。たとえば子供の頃のほうが、テストの点数をずっと気にしていた。私にはこの漢字テストで100点満点を取る力がある。私は私の価値をそう認識している。けれど実際には取れない。どうしてそんなことが起こるのだろう? 私の能力はもともと90点分しかなくて、足りない10点分の価値は、私が見誤っていたのだろうか? なぜだ、なぜなのだ……!大人になった今は、小学生でも間違えないような計算ができなかったり、中学生のとき暗記した世界戦争について何一つ憶えていなかったり、赤点で廊下に立たされるような出来事がいくら続いたって、結構へっちゃらである。泣きたくなるほどへっちゃらで、だからヘラヘラ笑っていられる。神童や天才児だったわけでもないのだから、満点なんて取れてもマグレのうちだ。過去の出来事についてもそんなふうに考えが改まった。自分が愚かな怠け者であること、ちょっと何か身につけても全部ザルのように抜け落ちてしまうこと、同じ失敗を繰り返すこと、隣の誰かよりも劣っていると思い知ること、そのどれもが、許せなかった幼い一時期がある。本来ならば100点満点が取れたはずなのに、いったい何が私の価値を減じさせたのだろうか? と考えて、漠然と他者に責任転嫁することもしょっちゅうだった。自分の価値は、自分で決める。自分がどんな人間かは、自分が一番よくわかっている。物心ついて、自意識が肥大し、上り調子でそんなふうに考えている時期がたしかにあった。ずっと右肩上がりだったその線グラフが、ポキリと折れた瞬間もあった。折れてみた後で初めて、今まで登っていた坂道がピークを迎えたのだと気づく。○あねさんと生徒会長女子校の文化祭は部外者の入場を厳しく取り締まり、在校生の署名入りチケットがないと校門をくぐることも許されない。色気付いた生徒たちは、家族や親戚の分だと偽って発行したチケットを、恋人や男友達に渡して招待する。我々その他大勢の生徒はとくに呼ぶ相手もいないのでチケットを余らせてしまい、彼氏持ちから「どうせ使わないなら」無記名のまま譲ってほしいとせがまれる。こうして非モテが定量化される。もちろんタダでとは言わない。こうして非モテは換金もされる。誰か雌のリア充の手に渡ったチケットが校外の誰か雄のリア充に手渡され、文化祭当日は結構な数の血気盛んな男子たちが、禁を破って女子校構内をうろつくこととなる。高校一年生のときの文化祭といえば、私は文芸部の部長として展示の設営や接客、同人誌の頒布に追われて忙しく過ごしていた。そしてその合間に、生まれて初めて他校の男子にナンパされた。雌のリア充から雄のリア充の手に渡ったチケットが、巡り巡ってダブついて、どこかで非リア充の雄にも行き渡ったのだろう。という感じの男子だった。詰襟の着こなしは可もなく不可もなく、黒髪に眼鏡で勤勉そうな、ごく普通の冴えない男子高生だった。ルーズソックスもうまく履きこなせていない冴えない女子高生だった私に言われたくないだろうが、彼が私に目をつけたのも、何となく理解できる。自信満々の笑顔とともに私を呼び止めたその男子高校生は、まず懐から名刺を差し出した。名前の左上には、とある有名な大学の、聞いたことがない付属高校の、生徒会長であると書いてあった。我が校の文化祭もちょうど近々開催なので、今日は「取材」に来たのだと、彼は言った。背後にはもう二人の男子生徒がいて、おそらくは副会長と書記だったりするのだろう。三人組の男子に文芸部の展示を適当に解説して回った後、なかなか立ち去ろうとしない生徒会長が、「取材のお礼に我が校の文化祭へも招待したいので、連絡先をくれないか」と言ってきた。仕方なく、適当な紙に自宅の電話番号を書いて渡した。控え室でメモを作っていると、休憩中の後輩たちが目を輝かせながら「先輩、今の人にナンパされたんスか!」「どこの高校ですか! デートするんですか!」「電話番号、渡すんスかああああ!」と食いついてきた。そのとき急に、素っ裸で往来に立たされたような恥ずかしさが襲ってきたのを、よく憶えている。当時の私は自分自身のことを、男でも女でもない存在だと思っていた。制服以外でスカートを穿く機会はなかったし、靴やカバンなどもメンズブランドをよく買って、カラオケでは男性ボーカルばかり歌っていた。男になりたいとか男物が好きだというのではなく、女になれないし女物に違和感があったから、そうなった。女子校生活が10年も続けば、よほど注意深く「女の子らしさ」を維持しない限り、自然と性別があやふやになる。学内では心にサラシを巻いて「男役」として振る舞っていた。そのほうが生きやすかったからだ。私と同じく、あまりの男っ気のなさに自分が女であることを忘れてしまったような後輩たちに聞かれた「ナンパされたんスか!」は、そのサラシがほどけていくような言葉だった。○恋とは似て非なるものああそうか、本物の人間の雄がやって来て、雌としての私を値踏みして、それで連絡先を交換しようというのだな。これは、女子校の中で「男役」である私の下駄箱に同性の後輩たちがラブレターを投げ入れるのとは、別の現象なのだ。不思議な感覚だった。自分ではまったく受けたつもりのない試験の、合格通知だけをいきなりもらったような気分である。周囲は祝福してくれるが、何を喜んでいいのかわからない。100点満点を取るなんてすごいわね、と言われたって、私にはそもそも、自己採点の基準がない。「男役」としてのポテンシャルは自覚していたけれど、「女」としての価値を自分で測定してみたことがなかった。普段は滅多に接する機会のない同世代の男子と偶然親しくなって、見知らぬ学校の文化祭に誘われる。そのこと自体はとてもワクワクする。声を掛けてもらって嬉しかったし、行ったら楽しいに違いない。恥ずかしく思ったのは、別のところだった。ここで私は、この男の品定めに女として応じたことになる。他者に決められた自分の価値を、承諾することになる。ああそうか、学校で繰り返し受けさせられるテストも、素人がアイドルに生まれ変わるというオーディションも、トレンディドラマで観る恋愛も、全部、そういうことだったのか。私の価値を、私以外の誰かが決める。人生はその繰り返しなのだ。100点満点が取れるかどうかを決めるのは、私自身じゃなくて、私のことをまったく知らない、別の誰かなんだ。そう思った途端に、恥ずかしくて顔が赤くなったのは、自分がその年齢になるまで、そんな世の中の仕組みにほとんど無自覚でいたからだ。後輩たちがはやしたてるように、そのナンパな生徒会長が異性としてカッコよかったからではない。いやむしろ、そこまでカッコよくないから赤面した。えー、あいつに決められたらたまったもんじゃねーよぉー!まだ携帯電話もない時代、流行りのポケベルも持っていなかった。何度か自宅に電話がかかってきて、そのたびに大騒ぎして親から受話器を奪い取り、少し話をしてから切った。もう連絡してこないでほしい、と私から断りの電話を入れたのは、新宿西口の公衆電話からだった。ドキドキしながら初めてこちらから電話を掛けると、向こうの家でもまったく同じ、親と子の大騒ぎが起きていた。これ以上、あなたの求めには応じられない。くどくど伝えると、「そうですか、わかりました」と言って、あっけなく電話は切れた。彼はあちこちの文化祭で、もっと大勢の女の子に数えきれないほどの名刺を配っていて、自分はそのうちの一人に過ぎないのだということがよくわかった。向こうはただ、手当たり次第に女子をナンパしただけだ。自分から積極的に電話もしてこなかった私のことなど、メモに走り書きした名前さえ忘れて応対していたかもしれないのだった。かくして、デートもキスもセックスも何もなく、ただただ「ナンパ」の象徴としてのみ、この男は私の人生に一石を投じたのである。同時期に、もっとずっと好きになった片想いの相手というのもいるのだが、そんな「節目」は私だけのものとして取っておく。○大人になるほど、わからないこの生徒会長を境に、あちこちで「ナンパ」を受けては、「私の価値が、この男に決められることを、承諾できるだろうか?」と我が身に問うてきた。自分から惚れ込んで好きになった男の子に、自分の価値を少しでも高く見せたい、40点分しかない能力を120点くらいだと錯覚させたい、と思い悩んでいるときの気持ちとは、まるで正反対の冷たい感情だった。君が何者でも構わないから、僕に束の間の楽しみを提供してくれ、とお茶に誘ってくるのが、ナンパの基本姿勢だ。生涯を共にする運命の相手を探す男など、道端には滅多にいない。その後、大学へ進学すると、今でいう「意識高い」系の学生がうじゃうじゃ集まっていて、校章や校旗の図版、サークルの肩書きなんかを刷り込んだ手作り名刺を持ち歩いては、社会人の真似事をして配り合っていた。私は彼らのことが大嫌いだった。どうしてまだ学生のくせに、誰彼構わず名刺を渡すんだ。本当にその人と深く知り合いたいと思っているなら、相手の価値基準に合わせて個別に柔軟にアプローチを変えていくべきだろう。自分でもわからない自分のことを、ゼロから丸ごと理解してもらえるように。自分で自分の価値を決められると考える、あらかじめ価値を釣り上げて売り出すことができると考える、オールマイティーの最強札を持っていると信じて疑っていない人が、見知らぬ女の子たちに、まず生徒会長の名刺を出す。そして「僕に選ばれた君が、僕の価値を決めてくれていいんだよ!」と言うのだけど、よく考えてみるとその物言いは、初手から他者による相対評価に聞く耳持たない態度である。自分の価値は、必ずしも自分だけで決められるわけではない。あちこちで好き勝手に値踏みされ、品定めされて、自分でもびっくりするような評価が、ついたりつかなかったりする。自分のことは自分が一番よくわかっている、なんて幻想なんだな、と思った。他人からどんなふうに見えているかなんて、わかっているようで、わかっていない。そして、お互いに対する認識のズレを手探りで少しずつ調整して合わせていく作業は、おそろしく手間がかかる。「ナンパ」を境にすっかり自分の絶対的価値がわからなくなってしまった私は、初めて会う人に手渡す名刺に、何をどこまで刷り込めばよいのか、大人になった今でも、よくわからない。他者に価値を判断してもらう、そんな行為のやりとりを意識しすぎたせいか、高校一年生くらいから突然、試験でやたらと緊張するようになり、成績が下がった。「私なら、きっと満点が取れるに違いない」とテストに臨んでいた子供の頃の無根拠な自信を、今は懐かしく感じるばかりである。<今回の住まい<五人家族で住む小さな一軒家で、犬を飼い始めたのはこの頃だった。妹がどうしてもと欲しがって連れてきた小さな仔犬が、ぐんぐん大きくなって最終的には老いた父親のよき相棒となり、数年前、大往生した。普段は幸福そうにおとなしく寝てばかりいるのだが、数年に一度、散歩のときにド派手な大脱走を試みるという不思議な癖を持っていた。玄関先の壁紙をかじってボロボロにしたこともある。映画『ショーシャンクの空に』を観ると彼のことを思い出す。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年01月09日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○エレキギターは不良の楽器母校の中高一貫女子校は、校則らしい校則もない自由な校風だったが、ところどころ謎の禁則があった。その一つが、「中学一年生からクラブ活動は必須、ただし軽音部は中学三年生以上のみ入部を許可する」というもの。文化祭でバンドを組むのに憧れていた私は、出鼻を挫かれる想いだった。納得できない、吹奏楽部とか聖歌隊とかじゃないんだよ、中一から軽音部に入りたいんだ、ギター振り回して壊したりキーボードに乗って暴れたり、屋上か歩行者天国でゲリラでギグしてポリ公と流血沙汰になりながら武道館そして東京ドームへ駆け上がり失神するファンにダイブしながら脳内麻薬にラリッて30歳で死ぬような部活がしたいんだ!……と当時の心情を書いてみて、「なるほど、中二病の諸症状が落ち着く年齢までみだりにエレキを許可しない学校は正しい」とわかった。今わかった。1994年に14歳の中学三年生になってみると、私は音楽を「聴く」ほうに忙しく、「演る」軽音部を志望する気持ちはだいぶ萎えていた。前年末にD-projectのラストアルバムが出た感傷に浸る間もなく、4月にTMNの終了宣言、trfがアルバムを二枚出してEUROGROOVEがデビュー、スカパラは『FANTASIA』、坂本龍一は『sweet revenge』で井上陽水は『永遠のシュール』、LUNA SEA「ROSIER」大ヒットからのLSB、L’Arc-en-Cielがついにメジャーデビュー、ORIGINAL LOVE『風の歌を聴け』と小沢健二『LIFE』とTHE BOOM『極東サンバ』、年末に出たのがNOKKO『colored』、「尾崎家の祖母」がCD化したのも、テレビ番組で鈴木祥子に一目惚れしたのも、この年だ。同じ学年のオシャレで社交性の高いロック少女たちが軽音部に入るとの情報も耳にして、昼の弁当を食う仲間も探せずにやおい同人誌の貸し借りと執筆に明け暮れる自分が、彼女たちと一緒に肩組んでステージに立つ姿が到底想像できなかったのもある。NHK『土曜ソリトンSIDE-B』が始まるのはもう1年ほど後のことだが、「イエモンのコピーバンドとかじゃなく、宅録系の部活動があればいいのになぁ」なんて思っていた。○少し気が多い私なりにタワーレコード渋谷店がまだ東急ハンズの向かいにあった頃で、最初はavex traxの無料配布冊子『beatfreak』が欲しくて通っていた。ジュリアナ死せどもディスコは死せず、行ったこともないクラブの名を冠したコンピレーション盤を聴きあさる毎日だ。あるとき奥のほうのこぢんまりした一角に立ち寄ると、煌びやかなダンスミュージックと違って手作り感満載、おそろしく地味でどことなくフレンチで見るからに喧嘩の弱そうなジャケットばかり並んだコーナーがあった。その試聴機で聴いたカヒミ・カリィのマキシシングルが、私と「渋谷系」との出会い。あの街が渋谷系ムーブメント一色に染まっていたなんて、あまりにも美化されすぎた思い出ではなかろうか。現実にはWANDSとZARDにtrfが加わる三国無双を、夏はTUBEが抱きしめて、定期券で途中下車する門限20時の中学生は、同じ街のいつどこでブギーバックがシェキラッているのか皆目見当もつかなかった。音楽雑誌の解説を頼りにサンプリングの元ネタを学び、好きなミュージシャンが私淑するミュージシャンを辿って聴き、国境も時代も越えて、ただ無料試聴機の前で毎日毎日、空想地球一周旅行をしては19時台の地下鉄で帰っていたよ。人生において「しないこと」を積極的に決めるようになったのは、この頃だ。たとえば、どのバンドのファンクラブにも入会しない。理由は、お小遣いが限られているから。あるいは、ファッションを自己表現に用いない。理由は、セントジェームスのボーダーを着てボンテージパンツにレペットのバレエシューズを履いて、生写真でデコった黒いミニトランク持ってテクノカットの頭にポークパイハットを被る、わけにはいかないから。中二病の初期症状が抜けたこの時期、同時並行で雑食的に音楽を聴くことで気づいたのは、「私のような人間は、どうやら、周囲に私しかいないようだ」ということだった。教室の級友たちは大抵、好きなバンドを一つ二つに絞り込み、全身全霊でそのバンドを追いかけ、肌身離さずグッズを身につけていたが、私はどうしてもそうなれない。だからどんなにヴィジュアル系を愛しても「奴隷」を名乗ったりはできないし、どんな服装を纏ってもちぐはぐに感じる。しかしながら、その曲がりくねった垢抜けない分裂気味な道筋こそが、私が私である所以だろうとも思った。「何者かのレプリカになりきろうとして、それが無理だと諦める」年頃だったのかもしれない。そういえば、コスプレも早々に「しないこと」リストに入れた。この世のものではない別次元の誰かに完璧になりきったその後、さて自分の手元に何が残るのかと考えると、空洞を覗き込むような恐怖があった。もしあのとき、勇気を出して空気を読まず、軽音部に入部して不良の音楽を始めていたら。手を差し伸べる側(最近は「咲く」って言うんですってね)でなく、スポットライトを浴びる側に立っていたら。机上でペンネームを名乗るだけでなく、公衆の面前で自分ではない誰かを演じる快感をおぼえていたら。それはそれで人生が大きく変わっていたに違いない。けれど、私にとって14歳は、何かを「始める」節目ではなく、さまざまなことを「しなくなる」節目だった。○継続は力、断絶は便所飯「する」「やってみる」「続ける」も勇気の要ることだが、「しない」「断る」「やめる」というのも、それはそれで大変だった。本当はしたかった、でも、やらない。本当は続けたった、でも、終わらせる。それでいいんだ。それがいいんだ。自分の中で何か辻褄が合わなくなると、理論武装に必死だった。購買で買う昼食のパン代をこっそりケチってCD代にあてる、みんなが教室で弁当を囲む昼休みを空腹に耐えて一人で適当にやり過ごす。放課後も誘いを断って一人で帰ってヘッドフォンを耳に当てる。生活から無駄を省いて合理化すると、真っ先に消えていくのは最も非効率なもの、すなわち友達と過ごす時間だ。私のような人間は、どうやら、私しかいないようだ。「ボーカル以外全部募集」しても、誰ともバンドが組めないようだ。それぞれと少しずつは話が通じるが、すべてを完璧に分かり合える相手は見つからない。それでいいんだ。それがいいんだ。わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ。あっという間に、夢に見たバンド結成やメンバーとの連帯とはずいぶん遠いところまで到達してしまっていたが、時すでに遅し。購買で一番安かったのは小ぶりのミルクパンで一個40円くらい、昼食代わりにしたときの腹持ちも値段も、だいたいビスコと同程度。たまにレストランで似たものを供されると、今もスカスカと孤独な制服の味がする。ちょうどその頃、たまたま帝国劇場で鹿賀丈史主演のミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、「こんな芝居を作りたい」と感動に打ち震えた。同じ芝居を観て、私も舞台に立ちたい、パフォーマーになりたい、と志す少年少女も大勢いただろうけれど、私はジョン・ケアード演出の回り盆とバリケード、そしてまばゆい光のカーテン、あのすべてを客席からいつまでも観ていたいと思った。本音を申せば、子供の頃から極度のアガリ症なのである。とにかく本番に弱く、いくら練習しても人前で実力を発揮できたためしがない。学芸会ではたった一つの台詞をトチるし、ピアノの発表会ではうっかり押さえた不協和音に硬直するし、そのことにいちいち凹んで今なお立ち直れていない。自分を実物以上によく見せようという邪心が強すぎるのだろう。つねに人の目が気になって、無心で役を演じきるとか、観客に身を委ねて心を裸にするとか、そんなことがうまくできないのだった。誰の目も及ばないところでなら、アガらずに物事に没頭できる。表舞台がうまく運んで熱狂に包まれるその裏で、スーッと冷静な俯瞰視点をもって全体を把握する瞬間が訪れる、その感覚が好きだった。演出スタッフならまだしも、ロックバンドとか、舞台役者とか、明らかに向いてないよね。と、自分自身をスーッと俯瞰できるようになった。選ばなかった、選べなかった、その「節目」の先はわからないが、英雄に自己を同一化させるような感覚を、中一で抱いて、中三で捨てたのだ、というふうにも解釈できる。同じものになりたくてステージへ手を伸ばすんじゃないんだな。自分とは違うものだから、違うものとして、さらに憧れが強くなるし、もっと欲しくなるんだ。自分から一番遠くにある存在が、一番パワーをくれるんだ。○サーチライトのつもりで2014年12月17日、日本武道館でTHE BOOM最後のライブを見届けた。13歳のとき夢中になって約20年追いかけてきたロックバンドが、デビュー25年の歴史に幕を下ろす。最後のMCでは、ちょうど光と闇について触れられていた。「最初はプロの音楽家になりたくて、でもその方法がわからずに、真っ暗闇の中を必死でもがいていた。ひとたび光の中へ引き上げてもらうと、今度は自分たちの浴びるスポットライトがあまりにも眩しくて、何も見えない中を走って突き抜けるしかなかった」と。大人になった今、約20年前のことを思い出すと、とても重要な年だったのだなぁと感じる。1994年は今も大好きで聴いているいろいろな音楽がリリースされた年で、子供が大人に切り替わる14歳という年齢の私は、そのすべてを満遍なく愛そうと努めた、分裂気味な日々だった。「青春」という言葉の意味や長さの解釈はさまざまだが、「したこと」より「しなかったこと」のほうを多く思い出したりする。全然オシャレしなかったな、恋愛もまったくしていなかった。親に許されずライブにも行けなかったし、いきなり光を当てられるような晴れがましい体験もなかった。陽の当たる場所を歩く思い出がまったくない、根暗で地味な毎日だった。自分はスポットライトを浴びる人間にはならないのだろうと諦めていた。でも、絶望もしなかった。今はただ時間が足りないだけ、ミルクパンとビスコで飢えをしのぐだけ、でも大人になれば、もっといいことが待っていると信じていた。私には到底手が届きそうにない、光の中をがむしゃらに突き抜けていくような音楽が、それを約束してくれていた。好きなバンドを一つか二つに絞り込んで、他への浮気は「しない」と決めていた友達の心境だって、きっと似たようなものだったろう。20年経った今も、アガリ症はまったく治せていない。でも、与えられた場所でこちらに向かって照らされた光には、全力で応えたいと思う。仕事を持つようになって、誰も見ていないところでおそろしく地味な裏方作業をするときでも、まるでステージに上がっているような高揚をおぼえることが幾度かあった。昔の自分に教えてあげたい。選べなかったチャンスも、選ばなかった道もあるけれど、自分ではない誰かからもたらされたパワーやタイミングには迷わず乗って行こう、「闇に隠れる」こと、「光から逃げる」ことは、絶対に「しない」ぞと、そんなふうに思っている。<今回の住まい<思春期になっても個室が持てなかったので、姉妹共同の子供部屋にバリケードを築いていた。低めの本棚をぐるりと並べてプライベートスペースを作るのに熱中していた。ミュージカル部に入部し、スカート丈をどんどん短く、眉をどんどん細くして、安室奈美恵と同じ厚底ブーツを履くようになった二歳下の妹が、『レ・ミゼラブル』の貧乏学生よろしく砦に立てこもって出てこない姉の私につけた渾名は「穴熊」。今ならさしずめ「雪の女王」だろう。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年12月19日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○名前をつけてやる入江紀子の漫画『のら』の主人公には、名前がない。天涯孤独で戸籍や住民票を持たず、住所不定かつ年齢もよくわからない、野良猫のような女の子が、さまざまな人の日常生活に「居候のプロ」として一時的にもぐりこみ、そしてまたふと居なくなる、短編連作集である。私が初めて読んだのは創刊間もない『コミックガンマ』誌上で、時系列を辿るとおそらく12、13歳の頃だったと思う。中学生になりたての時期、作中にもたくさん登場する普通の少年少女と同様、漠然と家出したくてたまらない時期だ。生まれた家庭と育ての両親に縛られた生活を捨てて人生をリセットし、自由気ままに生きられたらどんなにいいだろう、と思っていた。そして作中の人々と同様、「のら」が語る不思議な言葉に耳を傾けてその考えを改め、結局は自分の人生に戻っていく。「名前、ないの。すきに呼んで」――コミュニケーションの第一歩として名前を問われると、「のら」は大抵、こう答える。作中の登場人物たちは、訳アリで本名を隠したがっている家出娘だろうと勝手に慮り、適当な名前をつけて呼びはじめる。連作を読みつぐ読者だけが知っている。彼女には、本当に、故郷も家族も名前も、何もないのだ。それはつまり、自分自身の人生を持たないということでもある。フーテンのフー子と呼ばれれば出たきり戻らず、男と対になる名前がつけば彼に恋をする。小説に書かれて広く読まれるようになると、また本人の姿が消える。まるで最初からノンフィクションの現実世界には存在していなかったかのように。誰かの生活にほんのちょっと割り込んで好意に甘え、どこにも根を下ろさずに、宿のない日は一晩中、街を歩き続ける。車寅次郎のような男が惚れる男の放浪者と同じようにはいかず、「のら」は野宿中の公園でレイプされたり、引きこもりの家に軟禁されたりもする。彼女のように生きていけたらいいなぁと憧れる一方で考える、もし本当に私が彼女なら、きっと早々にくだらない理由で野垂れ死にするだろう。なぜなら、私には私の名前があるから。それはすなわち、私は私自身の、一続きの人生を持っているということである。始まりも終わりもなく、たくましくて儚く、おそろしく強運な「のら」のブツ切れになった人生とは違い、私には、ずっと呼ばれる続ける名前がある。たとえ親から授かったものであろうとも、それは死ぬまで「私のもの」だ。私には私の名前と人生があり、その背負い込んだ荷物を必死で守ろうとする限り、どこを彷徨ったって野良にはなれずに、手前で死ぬだろう。あたたかい灯りの点る屋根のついた家と自動的に出てくる晩ごはんを噛み締めながら、中学生の私はそんなふうに考えていた。○誰が殺した黒歴史私の人生には、名前がついている。名前がその人間を規定する。『のら』を読んでいた12歳は、そう気づいた年頃だった。名前とは自己と他者とを区別するだけでなく、私が生きる道筋の「連続性」を示すものでもある。12年分引きずってきた荷物の重みは、今すでに結構しんどい。みんなとお揃いのランドセルを下ろして、通学カバン自由の中高一貫校へ上がり、伸びた背丈のぶんだけ目方も増えて、干支が一巡りすれば、「たった12年で、こんなに人生が重くなるの?」とそろそろ気づく年頃だった。進学した私は、小説が書きたくて文芸部に入部した。部員が執筆した詩や小説を手作りの文芸誌にまとめて、文化祭で来場者に頒布するのが主な活動だ。作品を発表する際、本名を使用する部員は一人もいなかった。みんな原稿の中身以上に凝ったペンネームをつけて、時には複数のペンネームを持つことで複数の人格を使い分けたりもした。部活だけではない。雑誌やラジオ番組へのハガキ投稿、同人誌即売会への出展や、バンドのおっかけ。学校で禁止されていたさまざまな課外活動をするとき、私たちはいつも、専用の架空の名前を作ってそれを名乗った。辞書で引いた難訓漢字、好きなキャラクターから一文字、尊敬する文豪と同じイニシャル、画数占い、相性占い、欧文の綴りまで気にして、中二病全開でいろいろな名前を考案した。思いついた名前の数が思いついたお話の数を上回ったら、物語の登場人物にどんどんつけてみたり、書き進めるうちに気に入ってやっぱりまた自分で名乗ったり。自分ではない自分の名前を、人格を、人生を、物語を作り出すことに熱中した。10代の頃に考案したこれら複数のペンネームを、私は未来永劫、明かすことはないだろう。当時の私がGoogleの検索範囲に及んで現在の私と紐付き、永久に消せなくなることなど、あってはならない……。まぁ「黒歴史」とまでは言わないけれど、「あのキラキラした名前の軽やかな彼女たちは、かつては私の一部だったが今はもういない、銀の銃弾に心臓を撃ち抜かれ、塵となって消えました」と言っておきたい。だから、いい大人になってから突如として珍妙なハンドルネームを名乗り、インターネット上で面白おかしく反社会的かつ非現実的な振る舞いを謳歌して、もう戻ってこられないところまで行き着いた時点でいきなり「ネット人格と実人生とが乖離しすぎてしまった」「素性を明かして本業の宣伝活動もすべきか悩む」「やっぱり改名したので過去のことは忘れてほしい」「母親にバレそうなので来月アカウントを消す」などと往生際の悪いことを口にする人たちを見ると、少しは同情するけれども、あまりにも無防備すぎるだろ、と腹立たしくもなる。そうした自意識の統合作業というものは、せいぜいが中学生くらいまでの間に手痛い経験を済ませておくべき、いわば義務教育の範疇ではなかろうか。オフ会で自己紹介するとき、職場の上司にバレたとき、呼ばれて恥ずかしくなるようなハンドルネームはつけないに限るし、実名顔出しでマスコミ記者会見を開いたって胸を張って堂々と同じことを口にできる、そんな発言しか書かないのが、何よりの護身術である。閑話休題。○なんだかそれは特別な響き高校へ上がって部長を務めていた頃だろうか。新入部員の後輩に、「部内誌の原稿って、本名で書いちゃいけない決まりでもあるんですか……?」と怪訝な顔をされたことがある。心のきれいな少年に「王様は裸だ」と言われたような気分だった。どうせ部員数も頒布数も少ないし、筆跡や文体ですぐバレるし、内輪しか読まないのだから、最初から本名で書いても同じではないか。そうツッコミを入れられる12歳を眩しく感じた。数ヶ月後、その子もまた、初めて作った意欲的なキラッキラのペンネームを冠した処女作を提出して「こちら側」へ渡ってきたのだが、少し申し訳ない気持ちになったのを覚えている。「だって、本名だと気恥ずかしくて書けないような物語も、ペンネームなら自由に書ける気がするじゃない?」「親が勝手につけたダサい本名なんか知られたら、せっかく作った夢物語が壊れるじゃない?」「漱石も、鷗外も、吉本ばななもペンネームだよ、そのほうがプロの作家っぽくてカッコイイでしょ?」……どう答えてみても、露見するのは裏返しになった「本名で生きる自分」の冴えない現実。ペンネームをかぶせることによって覆い隠したい、恥ずかしさ、不自由さ、ダサさ、夢のなさ、素人臭さ、子供っぽさ、カッコ悪さ、なのである。一方で、こんなこともあった。大好きなバンドのラジオ番組にファックスを送ったら、一人がその投稿を読み上げ、「ラジオネーム、◯◯◯ちゃん。へー、かわいい名前ですねー」と言ったのだ。妹と聴いていた私は、文字通り、子供部屋で飛び上がって狂喜した(かわいい中学生ですねー)。自分が送った質問に対する回答などろくすっぽ聴いていなかった。今、褒められたのは、私が自分で考えた、私の名前だ。学校の成績や素行や身だしなみといった「正解」を知っている設問で花マルをもらっても、褒められているようには感じなかった。洋服や髪型はまだ親の厳格なコントロール下にあったから、容姿外見にお世辞を言われても自分の手柄とは思えなかった。小遣いで買った文房具などを友達から羨ましがられるのは、それに比べればかなり気分がよかったが、所詮は既製品の消費に過ぎない。同じ店で同じ金額を払えば、友達も明日から同じものが手に入る。ああ、だけど今、この人が褒めてくれた名前は、何もないところから自力で作った、紛うことなき「私のもの」だ。ありがとう、谷中敦!この世界のどこかにいる、まだ見ぬ誰かに、私のことを見つけてほしい。気づいて、認めて、評価して、褒めてほしい。だけど「本当の自分」のことは知られたくない。私の最も魅力的なところ、一番いいカッコ、学校や保護者の手を離れて私自身が自由にコントロールしている私の姿だけを、見てほしい。「コーデリアが無理なら、せめて最後にeのつくAnneと呼んで」。10代はつくづく、毎日が自己顕示欲との戦いだったなぁ、と思う。○そして誰でもない私に名前のない女の子に憧れて、たくさんのペンネームを命名していた頃。それは「人生をリセットしたい」と思っていた頃だ。心機一転の中学進学といっても、小学校までと何も変わらない。きっと高校もこの調子だろう。激しい受験を勝ち抜いてきた外部生にも、燃え尽きたような表情の子が少なくなかった。そして中二病に集団感染した。ギャルからオタクまで、教室内のどのグループにおいても、絶望と頽廃と死を匂わせるものがやたらと流行していた。主人公が無残に殺されて終わる漫画、30以上を信用せずに20代で命を絶ったロックシンガー、銀の皿に載せた愛する男の首を所望する姫君の話、愛する姫君のため自分の両眼を潰した男の話、盗んだバイクで走り出して死んだとってもいい奴の話。デカダンに殉ずればよいのだ、どうせ私が19歳の夏にはノストラダムスの予言が的中して、みんなみんな終わるのだから(かわいい中学生ですねー)。たくさんの使うあてのない「名前」を作る行為は、そんな死を想う毎日の中で唯一、なんだかとても生産的で創造的な営みである気が、していた。私の人生には、名前がついている。私一人にたくさんの名前がつけば、私は一度にたくさんの人生を生きることになる、気がする。与えられた運命を超えた存在になれる、気がする。なぜなら、名前がその人間を規定するから。死のう、死のう、死ね、殺せ、殺せ、殺してくれ、と考えながら一方で、生きよう、生きよう、生きよう、といくつも名前を作っていた。自分の名前を大切にすることは、自分を大切にすることだ。自分が作った、まるで自分でないようなキラッキラの名前を大切にすることは、そのキラッキラの誰かに生命を与え、人生を与え、そしてそれを我がことのように大切にすることだ。「私が私として、手段を問わず、この生を全うする」ことに幾許かの愛着を抱き、ちょっとうんざりして投げやりな態度を見せながらも、改めてこだわりはじめたのが、ちょうど12歳だった。昔の子供が「元服」して「世に出る」ために「名を改める」のがこの年頃からというのは、なんとなく頷ける気がするし、昔の子供もこの年頃に、自分の引きずる荷物の重みに、初めてびっくりしたのかもしれない。そしてやっぱり、人にはとても読ませられない恥ずかしい日記とか、綴っていたのだろう。今も昔も、名もなき野良猫になれない人間は、そうやって人生に折り合いをつけていく。<今回の住まい<この頃、実家の改築が終わるまでの期間、5人家族で父方の祖父母の家に間借りしていたことがある。元は叔母のものだった部屋や祖父の書斎、応接間をあてがわれ、入浴や食事のタイミングをずらし、実家とは違う慣れない生活臭が漂う家に、縮こまるようにして暮らした。本当はビートルズが聴きたかったのに荷物にはジョン・レノンのCDしかなく、仕方なく「Mother」ばかり聴いて発狂しかけたのを懐かしく思い出す。以来、ポール派である。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年12月05日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○イケナイコトカイ?片方の手のひらにすっぽり隠れる大きさの小さなオモチャを、ふと思い立って盗もうとしたことがある。大手製薬会社のノベルティで、水色のプラスチック製、用途は忘れたが平べったいハート形をしていた。特別に欲しかったわけではない。友達の家で遊んでいるとき、一人きりになるタイミングがあった。今のうちに部屋にある何かを盗んで持ち去っても、誰にも気づかれない。今なら「完全犯罪」が可能なのだと気づいて、つい実践してみたくなったのだ。下着の中に隠そうと、試しにパンツのゴムに挟んでみると、プラスチックの肌触りはひんやり冷たく、立ち上がって歩く前につるつると動いた。こんな不安定なものを身につけて、親の迎えが来るまで素知らぬ顔で過ごすのは難しそうだ。諦めかけたところへ友達が戻ってきた。もう服の下からオモチャを取り出せない。口から心臓が飛び出しそうになった。それから、おそろしく不自然な体勢でトイレに立ち、鍵のかかった個室でオモチャをスカートのポケットへしまいなおし、どうにか元あった場所へ戻すまでの数十分間、生きた心地がしなかった。あれは9歳か10歳の頃だろうか。一度でいいから自分も「盗み」をしてみたかったのだ。怪人二十面相にアルセーヌ・ルパン、あるいは『キャッツ・アイ』に『怪盗ルビイ』。スリル満点の大仕事をやり遂げる大泥棒は、いつだって子供のヒーローである。衆人環視の前でボールを消し去ったり、ハンカチを抜き取って花束に変えてみせたりするマジシャンにも憧れた。他者を出し抜くあざやかな手口。私だけが知る秘密のカラクリ。そんなものが欲しかった。水色のオモチャを掌中にすることで、手に入る気がしていた。でも、実際の私は不器用で浅はかで小心者で、大胆不敵な怪盗や義賊、あるいは魔術師とは、まったく違う人間だと思い知った。オモチャを隠し持ったまま、堂々と顔を上げることすらできない。怖かった。友達にバレることや、警察に捕まることより、「自分の手に負えないことをしでかしてしまった」のが怖かった。もっとうんと幼い頃から、遅刻の言い訳をでっちあげたり、仮病を使ったりすることはあった。周囲の大人が取り合わずに聞き流した小さな嘘については、罪の意識などまったく持っていない。一方で妙に馬鹿正直なところがあり、知ったかぶりや見て見ぬフリができずに「そんなことしちゃいけないんだよー」と他者を咎めては、級友に煙たがられていた。水色のオモチャの窃盗は、私が生まれて初めて「罪」だと自覚して、それでもした、イケナイコトだ。実際の成功失敗に関わらず、友達の家からは価値ある品物が損なわれ、私の心からも何か大事なものが奪われて、たとえ品物を戻したところで「二度と取り返しがつかない」のがわかった。誰も傷つけない仮病や遅刻の言い訳とは違う。「罪」の味は自分の舌にこそ苦かった。○テレクラモグラネグラ小学校高学年になると、新たな犯罪に手を染めるようになった。今度は組織的かつ計画的な犯行だ。同じクラスの友達と数名で、公衆電話からダイヤルQ2のツーショットダイヤルにアクセスし、素性を偽って電話口に出てきた大人の男性客と会話してデートにこぎつけ、待ち合わせ場所に現れた人物を物陰から特定して嘲笑う。スケベ心を丸出しにした大人がのこのこ顔を出したところを懲らしめる、この遊びを「もぐら叩き」といったような隠語で呼んでいた。要するにテレクラを使った「釣り」である。ツーショットダイヤルとは、女性客は無料、男性客は有料で電話を掛け、見ず知らずの相手と一対一の会話を楽しむサービスのこと。当時、さまざまな犯罪の温床として社会問題となっていた。援助交際という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)する前、1991年頃のことだ。揃いのランドセルを背負った私たちは、街中で配られる卑猥な色のビラを片手に、この「タダで遊べる暇潰し」に興じた。途中で子供のいたずらとバレれば、怒った相手は電話をブチ切ってしまう。鼻息荒くいきなりテレフォンセックスを持ちかけてきたり、来週会おうと電話番号を訊きたがる男にも用はない。どれだけ会話を引き延ばし、いかに架空の女性像を信じ込ませ、その日の放課後のうちに指定場所まで呼び出せるかが、ゲームのキモだった。たとえば我々がでっちあげた「少女」像は、中央線沿線に住む16歳の高校2年生。声が幼いのがコンプレックス。身長は154センチで、背の割に胸は大きいが、スリーサイズは内緒。肩まである髪は生まれつき茶色っぽく、牧瀬里穂に似ていると言われる。都内の女子校に通っているが、バスケ部も授業もサボりがちの劣等生。今日すぐ遊んでくれるお兄さんを探している。年上好きだけど、彼氏にするなら23歳以下限定。ゲームセンターに行きたい、映画はイヤ。制服から私服に着替えて、30分後くらいに渋谷か新宿駅で待ち合わせはどう?お互いに外見の特徴を伝えあって電話を切り、通学定期券の圏内に住む子だけが指定場所を偵察に行った。待っているのは大抵がどう見ても20代には見えない中年男で、「キショイ! デブじゃん!」「誰が石黒賢似だよ!」などと物陰に隠れてゲラゲラ笑い飛ばす。意外にカッコイイ大学生風の男が来れば、「えっ、あんな人でもカノジョいないんだ、まさか本物の慶應ボーイ?」「でも小学生に騙されてやんのー、バッカでぇー」と、それはそれで大騒ぎである。待ちぼうけを食らって激昂した大人に見つかれば、捕まって想像を絶する酷い目に遭わされる危険性だってある。しかし実際に現地まで来る男たちはみな「少女」の話を信じ込んでいたから、バレることはなかった。これぞ「完全犯罪」だ。イケナイコトだとわかっていた。それでも、した。すごく楽しかったのだ。○気分はシナリオライターこの遊びを発案したグループの中心人物は、今で言う「脱オタ」組だった。宮崎勤の逮捕以後、オタクに対する世間の風当たりが一気に強くなり、かつて一緒に漫画やアニメにハマッていたはずの級友たちは、いっせいに光GENJIやウッチャンナンチャンなど男性芸能人のファンに転向していった。ちょうど10歳を過ぎて色気付く年頃に重なったのもあるだろう。少女漫画雑誌を捨ててローティーン向けファッション誌を買い、下敷きやラミカの代わりにアクセサリーやコスメを揃えはじめ、「えー、高学年にもなって、まだアニメなんか観てるのー? 生身の男に興味はないの?」と、オタクのまま生き続けることを選んだ我々を蔑んだ。蔑むために、側に置いていた。ブスでオタクでノロマでダサい私は、彼女たちをピラミッドの底辺から支える引き立て役だ。ドッヂボールでは外野、ドロ警では見張り、トランプでは人数合わせ。対等な立場で発言が許されるのは、この「もぐら叩き」くらいだった。実際の電話口に出るのは仲間内で一番大人っぽい声の子だが、私はその人物設定を練り上げる係として重宝された。「駅での待ち合わせ」に誘い出すなら「クリスマス・エクスプレス」のCMみたいな美少女がいい。もう少し不良っぽく話したほうがエロい。大人向けの小説や漫画を貪り読んでいた私は、男心をそそるリアルな「少女」像を作り出すのに熱中した。我々は、小学生にしてすでに「女」である自分に価値があることを、それがもう数年後、女子高生や女子大生になったときに最高値をマークすることを、ちゃんとわかっていた。冴えない男を往来でビンタしたり、熱烈なプロポーズをこっぴどく拒絶したり、出世街道やお立ち台や玉の輿に乗って高笑いしたり、そんなトレンディドラマに描かれる「女」たちのように。急ぎ足で大人の階段を上りはじめた我々にとって、これは「生身の男を手玉に取る」快感を手軽に味わえるゲームだった。コロッと騙された大人の男を「バカだなぁ」「ざまあみろ」と声に出して笑うとき、復讐心が満たされるような気持ちもあった。制服を着て電車通学していると、朝の満員電車でほとんど毎日のように痴漢被害に遭う。どんなにちゃんとした格好の大人でも、一皮剥けば人間のクズだ。痴漢と同じくスケベ心に翻弄される男どもを笑いながら、「騙される大人が悪い」と思った。待ち合わせをすっぽかされるなんて、よくあることでしょ? 見ず知らずの「女子高生」と約束して、いきなりデートしてエッチなことできると思ってるほうが、頭おかしいんじゃないですか?○マリア様がみてる街中の電話ボックスに小学生が長時間たむろしていると目立つので、校舎の玄関ホールにある公衆電話を使うことが多かった。ホールの奥には聖母子像が鎮座していて、その眼差しに見つめられながら「性」を売り物に「罪」に手を染めるのは痛快だった。おい、神様、裁けるもんなら裁いてみろよ。そんなふうにも思った。母校では、善悪の判断基準はつねに神の子イエズス・キリストとともにある。教師たちは校則にもとづき生徒を指導したが、道徳の授業を受け持つ修道女たちは、服装の乱れから不正行為まで、「神様は、あなたがたの犯した過ちを悲しんでおられます」とだけ教え諭した。これがどうにもモヤモヤする。人と人の間で定められたルールを破れば「罪」に「罰」が与えられる、という理屈はわかる。しかし「神様が悲しむ」と言われたって、ちっとも心に響かない。ちょうど同じ頃、保健体育の授業で性教育が始まった。キリスト教においては、出産時に女が味わう痛みは、アダムとイヴが犯した原罪への罰とされる。毎月毎月、股の間から血が流れるのが「赤ちゃんを産むための準備」ならば、これもまた私たちが耐えるべき「罰」なのか、と思った。男性顔負けの自立心を養い、勤勉を是として社会進出が奨励される校風の中で、「女は、女であるというだけで、あらかじめ汚れた罪深い存在である」という価値観もまた刷り込まれていった。ブスでオタクでノロマでダサい。女子校生活の時点でピラミッドの底辺にいる私は、卒業したらもっと大きな男女混合ピラミッドの、最底辺の最底辺まで落ちるだろう。そりゃあ勉強は頑張るけど、「女」ってだけで背負うハンデが多すぎやしないか。修道女の話を聞き、聖書を読めば読むほど、「どうせ、いずれは地獄に堕ちる身だ」としか考えられなくなっていた。理由なき反抗。禁じられた遊び。大人に言わない秘密を持つこと。強者を出し抜き、逆手に取って利用すること。あの頃の私たちが夢中になったのは、そんなゲームだ。「高学年にもなって、まだアニメなんか観てるの?」と私を嘲笑った級友のように、私は、過去の自分を嘲笑っていた。友達の家でプラスチックのオモチャを盗んだくらいでドキドキしてたなんて、とんだお子様ね! 「罪」とは、「二度と取り返しがつかない」こと。それはいったい何だろう。待ちぼうけを食らわされた男たちがロスした時間のことなんかどうでもいい。私たち自身が、イケナイコトをして、それを楽しんで、永遠に失うものって何だろう?それは、幼く無垢でいられた子供時代、そのものだよ……。タイムマシンに乗ってそんな模範解答を伝えに行ったところで、反社会行為に夢中のガキどもからは「ハァ? バッカじゃないの?」と笑い飛ばされるに決まっている。当時の我々にとって、それは宝物なんかじゃなく、むしろ、何よりも早く手放したいものだった。親が選んだ子供服を脱ぎ散らかすように、とっとと捨てたくてたまらなかった。「じゃあ、大人になることは、罪なの?」と問い返されたとき、どんな顔をしたらいいのか、私にはまだその答えがわからない。<今回の住まい<ダイヤルQ2のアダルトチャンネルが爆発的人気を博したのは「自宅の固定電話から店舗型テレクラと同じことができる」からだったという。1991年、我が家の電話は、ジーコジーコとダイヤルを回す黒電話だった。というか、最初にネット回線を引き込んだ後も、21世紀になっても、電話は黒電話だった。壁から伸びた電話線を手繰って、子供部屋の入り口まで引っ張るのが精一杯だった。コードレス電話の子機を自分専用として使っている子が大層羨ましかったものだ。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年11月21日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○トムヤムクンよりフカヒレを初めての海外旅行は、7歳のときだ。父親が仕事の関係でタイに単身赴任していた。小学校二年生の夏休み、母親と幼稚園児の妹と三人で、父の暮らすバンコクを訪ねることになった。パスポートの準備など旅行の手配はすべて大人任せだったから、行く前のことは何も憶えていない。初めて飛行機に乗って空を飛ぶ興奮も、あまり記憶にない。でも、初めて外国に到着してからのことは、とても鮮明に憶えている。すべてが目新しかった。まず最初に驚いたのは、父親がメイド付きで庭にプールのある豪邸に暮らしていたことだ。会社が用意したごく一般的な「社宅」なのだが、東京のウサギ小屋に残されて暮らす母娘三人にしてみれば、父が一人でこんなに優雅な生活を送っているのは、すごく不公平な気がした。母親は鼻息荒く「今夜はフカヒレ専門店に行くわよ!」と宣言した。「東京じゃ食べられないんだから!」というわけで、華僑が経営する外国人向けの高級レストランで、私は生まれて初めてフカヒレを食べた。大人たちが口々に言う「物価が安い」国というのは、なんと素晴らしい国だろうと思った。フカヒレ専門店から少し歩いてタクシーに乗り込むまでの間に、道端で何人もの物乞いを見た。これが二番目の驚きだった。ボロをまとって痩せ細った身体を地べたに転がす彼らの中には、子を抱いた母もいれば、手足の欠損した者もあった。イエス・キリストが手かざしで治したという貧しい病人たち、あるいはマザー・テレサが看取ったという死を待つ人々、子供向けの絵本に描かれた、大昔の話のように思えたそれらが、目の前にあった。たらふくフカヒレを食べた私は、大人たちから、彼らにその場限りの施しを与えてはならないと言われた。これもまた初めての海外だった。アユタヤやチェンマイ、プーケット、行く先々で土産物屋が声をかけてきた。一昔前の人気歌手やテレビ番組、あるいは戦国武将などの名を連呼しながら、ニホンジン、コレ好キ、ミンナ買ウ、と、まったく欲しくないものを薦めてくる。異国の地で見知らぬ人から片言の日本語で話しかけられるのは、不思議と嬉しいものだ。きっと以前にもここへたくさんの日本人が来て、彼らに少しずつ新しい日本語を教え、去っていたのだろう。その見えない足跡のようなものが面白かった。一方で、観光名所の看板に、タイ語と英語のWELCOMEのほか、「いらつしかいませ」などと書いてあるのには興が削がれた。日本語で話しかけられると嬉しいのに、店の看板に日本語があるのは嬉しくない。子供だからその気持ちをうまく説明できなかったが、つまり「異国情緒が感じられない」ということだ。日本と似たような環境で日本と同じような体験をするより、ここでしかできないことをして、読めない看板や伝わりにくい言葉のあやふやさで、存分にコミュニケーション不全を味わいたい、と思っていた。○金髪碧眼、バナナの皮リゾートホテルにも何泊か滞在した。ヨーロピアンスタイルの建築に、アジアンテイストを加えたインテリア、見渡す限りの西洋人観光客。ホールでは舞踊や影絵芝居などのパフォーマンスもあり、郷土菓子の屋台も出ていて、ディズニーランドのようだった。キッズ向けの催し物の前で、一人で佇んでいる女の子がいた。絵に描いたような金髪碧眼、水色のワンピースを着て、年格好は私と同じくらいだ。声をかけ、オモチャを分け合って一緒に遊んだ。英単語を組み合わせて話しかけると、無口なその子がにっこり微笑む。「私の英語が通じてる!」と嬉しかった。初めての海外旅行で、青い目の友達と仲良くなったら、日本へ帰ってからも文通ができるかもしれない。国際人への第一歩だわ……。ほどなくして母親らしき白人女性があらわれ、水色のワンピースの彼女を猛然と私から遠ざけ、離れた場所へ連れて行ってものすごい剣幕できつく叱っていた。母親の早口はまったく聞き取れなかったけれども、何を叱っているのかは幼い私にも不思議と理解できた。「あんな子と遊んじゃいけません! 何かされたらどうするの! 怖い目に遭うところだったのよ! どうして逃げなかったの!」……アイムソーリー、ママ、と小さな声が聞こえ、私のペンパル候補は名前も告げずに姿を消した。私の母親も、付かず離れずその光景を見ていたようだ。「あいつらオーストラリア人でしょう、本当に腹が立つわ、白豪主義者めが!」と、烈火のごとく怒っていた。「あなたが何一つ悪いことをしていないのに、あなたがそこに居るだけで責められる、目も合わせない、話しかけようともしない。よく覚えておきなさい、これが差別よ」と母は言った。「あなたとあの子が仲良く遊びたいと思うなら、あの母親みたいな連中を地球上から追い出さなくちゃいけないわ。有色人種のあなたと、白人のあの子が、二人で一緒にそれをするのよ。次に同じ仕打ちを受けたら、もっと怒って、戦いなさい!」。テレビでは連日「アパルトヘイト」のことを報じていた。遠い国で、黒人たちが白人と同等の権利を求めている。そのために殺されてしまう人もいるのだと。しかし貿易相手国である日本の人々は「名誉白人」扱いなのだそうだ。バナナと同じで、顔は黄色いけど、中身は白い。なんだ、だったらセーフじゃん、黒人と違って私は殺されないんだもの。そんな幼い慢心を、手の届く距離で受けた実際の仕打ち、友達になれたはずの女の子を失った悲しみが、すっぽり覆い尽くしていった。「次」なんて二度と来なければいいのに。ディズニーランドみたいなリゾートホテル、汚物のように私を処理した白人の母親、宝物のように私たちを扱った父の社宅のタイ人メイド、フカヒレ専門店の外にいた半身のない物乞い、お金持ちの西洋人に植民地主義的悦楽をもたらすユートピア、小金持ちの日本企業が揉み手しながらゴリゴリ進出するアジア、黄金色に輝く寺院、ドブ色をした聖なる川、100円相当で100円以上のものが買える通貨、戦争のとき身一つで国を捨ててきたのだと微笑む元ベトナム人、見たこともない果物があちこちに生っている森、明らかに藤子不二雄が描いたものではないドラえもん、ただ言葉だけが通じない人々、ただ心だけが通い合えない人々、生まれ育った場所でそこが世界の中心だと信じて生きて死ぬ人々、故郷を離れて世界中を旅して回る人々。すべて、たった数週間、たった一つの国を訪れただけで、初めての海外旅行で見聞きしたことだ。盛りだくさんの旅だった。○たとえ私が見ていなくても二度目の海外旅行は9歳のとき、同じように夏休みを利用して、北米大陸の各地を回った。今回も母娘三人、両親の学生時代の友人を訪ねて歩く旅だった。私はもうだいぶ英語がわかるようになっていた。学校で習ったわけではないけれど、身振り手振りや抑揚、声質などを注意深く観察していれば、どんなことを言っているのか、だいたいの見当はつく。東海岸にある、とある高級住宅地に滞在したときのこと。両親の親友の実家にあたる豪邸で、一階から最上階まで真っ白に塗られた吹き抜けが見事だった。普段は年老いた母親が一人で暮らす、そのお屋敷の優雅な吹き抜けに、「どうして私の大事なゲストルームを、あんな小汚いアジア人の母娘に使わせてやらなくちゃいけないの!おまえが連れてくる友人は昔からロクなのがいないわ!」と怒鳴り散らす老婆の声が、とてもよく響いた。吹き抜けの最上階にある手すりの間から、それを眺めていた。日本に帰国してみると、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が、現行犯で逮捕された、という報道にびっくりした。1989年夏の出来事だ。今田勇子と名乗っていたのはやはり男性で、名前を宮崎勤といった。首都圏の小学校に通う女児だった私たちは、一連の事件のために非常な緊張を強いられていた。二学期からはあの窮屈な集団登下校が終わるかと思うと、ホッとする気持ちだった。もう一つ、9歳の私は、別のところでホッと安堵していた。それは、「私が留守にしている間にも、日本という国は、ちゃんと回っている」ということだ。私がアメリカやカナダに余所見をしていたって、警察はちゃんと働いて宮崎勤を捕まえるし、平成元年はガンガン前へ進んでいる。なんだか拍子抜けした気分だった。眠るために目を閉じたら、それで世界が消えてなくなってしまうのじゃないか、と不安で寝られなくなるような、そんな年頃だ。私がちゃんと見つめていなければ、日本はどうにかなってしまうと思っていた。少し前、天皇陛下の容態が思わしくないと聞いたときもそればかりが気になって、「昭和」が終わる瞬間を見逃してはなるものかと、「今年中かな、来年になるかな?」と聞いて回っては大人たちに「不謹慎だ」と怒られる子供だった。でも別に、私一人が居なくたって、私が見つめていなくたって、日本は変わらずに動いているんだ、なぁんだ。……現在に至るまでの私の、この国への決定的な無関心の端緒となる感覚も、海外旅行で培われたものといって過言ではない。○なんでも見てやろうプーケットの海、カナダの国立公園、あるいはスミソニアン航空宇宙博物館、地球には、宇宙には、もっと広大な空間が広がっていて、そこにあるすべてのものが、たとえ私が全部をちゃんと見ていなくたって、同時並行的に、どんどん未来へ向かって進んでいる。そして、自分がどこの何にフォーカスして見つめるかは、自分で好きに決めていいんだ。そう気づいてから、家のトイレに貼ってある世界地図を眺めるのが楽しくなった。世界各国の国旗と首都を暗記するゲームに熱中した。狭苦しい子供部屋の勉強机の脇には、アフリカの地平線を写真におさめたポストカードを貼った。この見知らぬ地平線が、我が家のこの子供部屋まで、ずっと続いているのだ。「世界は広い」「世界は近い」と思い出させてくれる写真なら、何でもよかった。その翌年に弟が生まれ、海外旅行はしばらくおあずけとなったが、ベルリンの壁が崩壊するのも、湾岸戦争のライブ中継も、「世界は広い」「世界は近い」と唱えながら見ていた。宮崎勤事件で大騒ぎの夏休みが終わった二学期から、学校の教室では特定の生徒をターゲットにした迫害が始まった。「オタクは汚い犯罪者だから、私の使う椅子には座るな」。黒人専用座席みたいだ。なんだ、だったらアウトじゃん、ここにだって差別はあるじゃん。その気になれば、私はどんな地平線までも逃げて行ける。しかし、ただ逃げ回るだけでは、行った先でまた差別主義者とかち合うだけだ。「次」こそは怒って戦えと言うのなら、私の「次」は、「今」なんだ。「世界は広い」「世界は近い」初めてそう知ったときに感じた、その「世界の広さ」や「世界の近さ」のイメージは、その人の人生に、一生つきまとうものだと思う。日本しか知らずに育った人は、日本だけをひたすらに見つめて、大人になっても日本の外にはなかなか目を向けようとしない。自分がちょっとでも目を離したら、日本が世界に取り込まれてしまうのではないかと怯えて、用もないのに日の丸の旗を掲げたがる。「あなたたちのために、なるべく早いうちに、海外へ連れて行こうと思ったのよ」と父母は言った。もしもこれから私が子供を作ることがあったら、同じことを考えるだろう。行き先なんか、どこでも構わない。まだ行ったことのない場所が、自分の踏みしめるこの地面とつながっている。ここにはないものが、そこにはある。その実感を得る瞬間は、早ければ早いほどいいと、私もまた思っている。<今回の住まい<初めてアメリカを旅して愕然としたのは、土地の余りっぷり、家のデカさだった。大都会の小さなアパートメントで暮らす人に親近感を抱いていたら、車でちょっと行った郊外に本宅があって、我が家がすっぽり入るほどの「趣味の部屋」を持っている、といった調子だ。そんななか、カナダで泊まったビジネスホテルには屋根裏のようなメゾネットがあり、子供用エクストラベッドを置いて眠った。低い天井が東京のせせこましい家の二段ベッドのようで懐かしく、逆にホッとしたのを憶えている。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年11月07日“育乳”ブラジャー「エクサブラ」理想のバストラインを目指す女性に朗報です。10月29日、ファンジェリーは、“育乳”ブラジャー「エクサブラ」をリニューアルしたと発表しました。「エクサブラ」とは、着用するだけで大胸筋に働きかけてバストアップの運動ができるという“育乳”ブラジャー。加齢や出産などで垂れてしまったバストを美しいラインへと整えてくれる優れモノです。時間のない女性でも手軽にバストメイクできると評判で、補正下着にありがちな不快感や窮屈感もなく、ストレスを感じずに着用できると多くの女性の支持をうけています。より快適、より効果的今回のリニューアルでは、より快適に、より効果的をコンセプトに様々な改良が行われました。まず、見た目にこだわり全ラインナップの定番カラーをオールチェンジ。モードな「チョコ」とクラシカルな「バニラ」は肌馴染みもよく、胸元を華やかに見せてくれます。また、報告されていた不具合を修正しパターンを一部改良。これで様々なサイズのバストをより一層美しく見せることに成功しました。さらに、製品表示の布タグを排除し印字方式を変更したことで、布タグが肌にあたる不快感を一掃しました。美しいバストラインは女性としての自信につながります。あなたもリニューアルされた高機能ランジェリー「エクサブラ」で“育乳”をはじめてみてはいかがでしょうか。【参考】・ファンジェリー プレスリリース(PR PRESS)・エクサブラ・オンラインショップ
2014年11月01日映画『想いのこし』のスペシャルイベントが10月20日(月)、都内で開催され、主演の岡田将生に子役の巨勢竜也、平川雄一朗監督、劇中の岡田さんらのポールダンスを指導したポールダンス世界チャンピオンのREIKO、同じくダンサーのeMy、MOMO、主題歌を歌う「HY」が来場した。岡田さん、共演の広末涼子が劇中で激しいポールダンスを披露することで、制作時から話題を呼んでいた本作。金と女に目がないガジロウは事故に遭い、軽いケガを負うが、その事故で死んでしまったポールダンサーのユウコと彼女の仲間たちがなぜか彼にだけ見える形で現れる。ユウコらが提示する金に釣られ、ガジロウは彼女らのこの世への未練となっている想いのこした願いをひとつずつ叶えていくことになるが…。この日のイベントは、REIKOさん、eMyさん、MOMOさんの華麗で力強いポールダンスショーで幕を開けた。日本ではあまり知られていないが、ポールダンスはオリンピック競技の候補としてエキシビジョンマッチが行われる“スポーツ”の側面を持つかなり激しいダンスであり、彼女たちの華麗な舞に観客は圧倒された様子だった。その後、監督と共に登壇した岡田さんも「ホントにすごいですね!力強くてエロい!」と興奮気味。岡田さんも劇中で披露しているが「僕もエロくできたか心配になってきました…」と苦笑を浮かべる。だが実際には岡田さんは、普通は1年で覚える大技を、撮影スケジュールもあって猛練習の末に1か月半でマスターしなくてはならなかったそう。「練習できる時間が限られていて、広末さんと一緒にREIKO先生に教えてもらったんですが、最初は(ポールに)のぼることすらできなかったんですよね…」とふり返る。体を支えてポールに密着する内股は擦り切れてボロボロになったそうで「『もののけ姫』の(呪いを受けた)アシタカの腕みたいになってました(苦笑)。『やる』と言ったけど、軽かったなぁ…何でこんなことに…って思っちゃうくらいだった」と苦労をのぞかせた。そんな、岡田さんの過酷な撮影での“支え”となったのが、広末さん演じるユウコのひとり息子を演じた子役の巨勢くんの存在。岡田さんは「ホントにかわいいんですよ!子ども大好きです」と語るが、平川監督曰く「広末さん以上に巨勢くんのことを好きになっちゃって、広末さんに嫉妬してた。めんどくさい奴だった」とのこと。この日はその巨勢くんも来場したが、岡田さんはひと目見るなり相好を崩す。巨勢くんの大人びた口調に岡田さんはタジタジで「お前、大人だな。すごいな…」、「(自分と)同い年だろ?」とどっちが年上か分からないようなやりとりを見せて笑いを誘っていた。クランクアップ後に、岡田さんが巨勢くんを誘って後楽園ゆうえんちに遊びに行ったこともあったそうだが、巨勢くんが「岡田さんはリードしてくれて、頼れるお兄さんでした」と語るとさすがに岡田さんは「そりゃそうだろ!オレ25歳だぞ!」と苦笑交じりに語り、会場は笑いに包まれた。この日は、本作のために映画を観て主題歌「あなたを想う風」を書き下ろした「HY」も駆けつけ、舞台挨拶後には同曲を生で披露し、会場に詰めかけた観客は彼らの演奏と歌声にうっとりと酔いしれていた。『想いのこし』は11月22日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2014年10月20日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○駆け込みマドレーヌ小学校の入学式に、遅刻した。理由は思い出せない。単純に親が時間を読み違えただけだったと思う。母に手を引かれて校門をくぐる、ピカピカの一年生、登校初日。その感慨はまったく記憶にない。当然だ。門の前で記念撮影などする間もなく、下足箱の位置を覚える暇もなく、急かされながら小走りで、集合場所へ辿り着いた。母親はそそくさと私の手を離し、講堂の父兄席へ去って行った。教室前の廊下には、クラスメイトたちがずらりと並んでいる。式典が始まる時刻に合わせて整列したのだ。私立小学校の新入生、女ばかり約40名の小さな子供が、同じ制服を着て、二列に並んで担任教師の指示を待ち、じっと立っていた。その光景は、絵本『ちいさなマドレーヌ』を思い起こさせた。パリの寄宿学校に通う女児たちのお話だ。修道女に引率されてお行儀よく散歩に出かけた先々で、破天荒な主人公だけが何か事件を発生させ、場全体がドタバタと乱される。みんなと同じ制服を着ているはずなのに一人だけ悪目立ちする、今の私はマドレーヌそのものだと思った。二列に並んだ女の子たちは、それぞれ隣の子と手をつないでいた。一人だけ、誰とも手をつながずにいる小柄な子がいた。担任教師に促されて私が彼女と手をつないだ途端、行列は講堂へ向かって前進し、到着と同時に式典が始まった。別れ際に母親は息を弾ませて「ギリギリ間に合ったわね、よかった!」と言っていたが、ちっとも間に合っていないし、全然よくなかった。他ならぬ我々の遅刻が、入学式の開始そのものを遅らせていたのだ。大人も子供も校長先生も、みんな私の登場をじりじり待っていた。それはまるでプリンセスのような気分、私だけが「特別」……同じシチュエーションを、そんなふうにポジティブに捉える子供だっているのだろう。私はそうは思えなかった。自分だけは許される、という特権意識より、みんなを待たせて我慢を強いた精神的負担のほうが大きく、小さな胃が痛くなった。私にはプリンセスの素質がないんだなぁ、と思う。日々、気に病むことの矮小さが小市民レベルであり労働者階級的であり、痛恨のミスがお給金、ならぬ周囲の評価に及ぼす悪影響ばかりを考えてしまう。自分を中心に世界が回ると信じている王侯貴族のようには、逆立ちしたってなれっこない。○学校に入っては学校に従え我が家の両親、とくに母親は世界標準時よりも自分の体内時計を信じるような人で、大遅刻をかましても「主役はいつも遅れてやってくるものよ!」と豪語する根っからのプリンセス、非常に強靱(きょうじん)なメンタルの持ち主である。時間にルーズな保護者がいつも堂々としていたから、それまでは、何かに遅れてもまったく気が咎めなかった。でも今日からは、幼稚園とはわけが違う。私が一人でこの社会集団に属し、私の遅刻は、私自身の責任になる。親の送り迎えなしにきちんと通学し、チャイムが鳴る前に自分の席につく。その義務を怠れば、保護者ではなく私が責められるのだ。ママが「よかった」と思っても、私はそれじゃ「よくない」よ……。大袈裟に言えば、家庭教育の中で世間一般とは少々ズレた価値観を植えつけられてきた子供が、新たな社会集団への所属を機に新たな価値観を得た、そんな「節目」だった。世の中には、私のまだ知らない、親からは学べない、想像も及ばない規律に従って回っているシステムがある。その渦の中へ飛び込むことが決まったなら、約束事をきちんと把握してその通り振る舞わなければ、最後まで泳ぎきることができない。厄介事を起こすマドレーヌが、その奇行ゆえに他の女児たちと明確に区別される、あの絵本が好きじゃなかった。あんなふうにして物語のヒロインになるのは御免だ。私はプリンセスでも、問題児でもない。目立たず平和に穏やかに、優等生としてソツなく学校生活を送るんだ。……と固く決意したものの、カエルの子はカエル。その後の私の学校生活は、間を取って「優等生で問題児」といったような評価に落ち着いていった。朝礼のある曜日は、三度に一度は遅刻した。夏休みの宿題には締切を過ぎてからようやく着手する。保護者のサインが必要な提出物はさらに遅れ、家で紛失した書類を期日を過ぎて再発行してもらったこともある。低学年の頃は、校庭の外まで遊びに出て昼休み終了のチャイムを聞き逃し、授業をサボッた罰で教室の隅に立たされた。林間学校では消灯時刻を過ぎた深夜に遊んでいたのが見つかり、反省文を書かされた。「時間通りに行動できなかった」ことへの謝罪ばかりを、何度も何度も重ねる羽目になった。時間なんか守らなくていいや、と思っていたわけではない。ただ、私が私のペースで物事を運ぼうとすると、いつも団体行動から何拍かズレてしまう。「どうして決められた時間を守れないの!」と叱られながら、内心「だって、入学初日にさえ遅刻したんだぜ……?」と思っていた。それを言い訳にするつもりはないが、次第に諦めも生まれる。きっと私はこれからも一生、人を待つより、待たせることのほうが多いんだ、ママと同じように、ママ以上に胃を痛めて。叱られるたびに、そう思った。○わかっちゃいるけどやめられない学校とは、てんでんばらばらに生まれ育った子供たちを集めて、「悪いところ」を「より良く」矯正させるための施設である。建前上は、それぞれの子供の「良いところ」をスクスク伸ばすことが先決とされているが、もしそれが本当なら、こんな私だってもっと自己肯定感の強い人間に育ったはずである。給食を残さず食べても、サボらずに掃除をしても、授業やホームルームに積極的に参加しても、どの科目のテストで満点を取っても、他にどんな良い行いをしようとも、それらはすべて私にとって、できて当たり前、褒められることではなかった。「どうして決められた時間を守れないの!」と怒られた記憶ばかりが残っている。私だけではない。ある子は給食で苦手なおかずを食べられず、ある子はテストで及第点が取れず、ある子は忘れ物が多く、ある子は黙って座っていられない。みんなそれぞれに、何かが「できる」子ではなく、何かが「できない」子として、教育的指導を受けた。ガタガタに崩れた歯並びを矯正して笑顔の素敵な美人になるように、私だって私なりに、「できない」を克服したいとは思っていた。毎朝、同じ時間に起きて、同じ満員電車に乗り、始業時刻より早く席に着き、提出日に宿題を出し、門限までに下校する。そんな生活を繰り返せば、悪い部分は自然と治ると信じていた。でも、生のセロリが食べられるようになっても、逆上がりの実技試験をかろうじてクリアしても、見ず知らずの大人に敬語をきちんと使えるようになっても、私は朝起きられず、期日までに宿題が終わらず、時間にルーズなままだった。集団の規律がいくら縛りつけても、私の身体を調律することはできないままだ。学年が進むにつれて、私にとってこの遅刻癖は「どうしても矯正できない」ものなのだろう、と悟るようになった。「悪いこと」だとわかっていて、改めたいとも思っているのに、罰せられてなお、犯してしまう。ほとんどビョーキ……これが、私なんだ。社会との間に横たわるすべてのズレを、完璧に矯正しつくすことは、できない。それを認めて、なんとかルールと折り合いをつけていくしかない。学校とは、そんな諦めを身につけさせてくれる施設だった。○体内時計と社会時計大人になった今でも、友人同士の待ち合わせから、重要な仕事のミーティングまで、私はしょっちゅう遅刻する。いつも他人を待たせてしまうことを、本当に申し訳なく思っている。一方で、時間厳守を何より重んじるパンクチュアルな人間たちが、いったいどれだけ私のルーズさに腹を立てているのかは、正直きちんと理解できていない。そりゃたしかに遅れて迷惑かけたけど、すっぽかしたわけじゃないんだから、まぁいいじゃないか、死ぬわけじゃなし……という気持ちも、どこかにある。現在の私は、自分が抱えているこの「反社会性」を、もう、昔ほどには恐れていない。もっと小さな子供だった頃は、完治できない「悪いところ」を見つけてしまうこと、それ自体が恐ろしかった。いつの間にか自分の中に棲みついた、その悪魔と一度でも目が合ってしまえば、自分は絶対に「優等生」になんかなれないのだと、勝手にそう思い詰めていた。上手に褒めて伸ばしてもらえたら「個性」などと評されていたかもしれない、そんな出る杭のような部分を、幼くて賢い子供たちは、他ならぬ自分自身で一つ一つ打ち、押し潰していく。大人たちにバレる前に、みずからの手で悪魔を祓おうとする。みんなで同じ制服を着て、みんなで同じ学校に通って、みんなと同じ時刻に間に合って、みんなと同じ、先生に叱られない、誰にも見咎められない、のっぺらぼうの生徒になれると、そのことにホッと安心する。そんなことを繰り返して、ろくでもない学校に過剰適応したって何にもならないし、大きくなってもただ社会を動かすだけの歯車、つまらない人間になってしまうだけだよ。……すっかり反社会的存在となった現在の私はそう思うのだけど、6歳の私は、今よりもっとずっと真面目な「優等生」志望者だったのだ。入学式の後、帰りの道端で母親がようやく写真を撮ってくれた。まだ花開かぬ桜並木の下、新しい制服を着た幼い私が気をつけの姿勢で立つその一葉は、今も私の手元にある。逆光が眩しくて、少し顔を歪めて目を細めている。幸先悪いスタートを切ったけれども、なんとか無事に義務を果たし終え、ホッと満足げな表情だ。どんなビョーキや悪魔を抱えていようとも、根は「良い子」だったはずだよな、と思う。マドレーヌも、そんなお話だった。「ソツなくこなす」と「悪目立ち」の狭間を行き来しながら、小市民の私は今日も、駅から猛ダッシュで目的地へ向かう。大粒の汗をかいてまで全速力で走るのは、誰かに課せられた懲罰だからではない。どうしても矯正できずにここまで来た「悪いところ」、そのさらに奥から自然と立ち上ってくる、待たせた相手への誠実な気持ちのあらわれだ。それを言い訳にするつもりはないが、せめて精一杯、走る。一秒でも早く。人を待つより、待たせることのほうが多い人生だけれど、もうこれ以上、自分の「良いところ」を失わないように。<今回の住まい<低学年のとき、担任教師に住所を告げると「東京にそんな地名あったかしら?」と返された。私鉄沿線の小さな駅なので無理もないが、私の報告を聞いた母親は「まぁ失礼ね、自分は都下から通勤してるくせに!」と言った。子供心にも、その威張り方はどうかと思った。地方出身者が「23区内」や「山手線圏内」に特別なステータスを見出しているのを見ると、今も大変気恥ずかしい。担任の住むその町が、母が田舎から上京したての頃に下宿していたアパートから程近いことを、少し後になって知った。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年10月17日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○初めての恋が、墓場まで続く「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)がある。三歳児のときの性分は、百歳になるまで変わらない、といった意味だ。「What is learned in the cradle is carried to the tomb.(ゆりかごで身についたことは、墓場まで運ばれる)」という言い方もある。数えで三つは、満年齢で一、二歳。物心つく以前の「三つ子の魂」も、ゆりかごの中での出来事も、大人から授かった体系立った知識ではなく、自然とついた癖や、性分のようなもの。生まれる前から先天的に備わっているわけではないが、後天的と呼ぶほどのものでもない。たとえば誰かを特別に好もしく思ったとき、平たく言うと、恋愛感情を抱いたとき。私はいつもこの諺を思い出す。誰に教わったわけでもないのに、まだ恋も知らぬうちから、気づいたら既にそうだった、私だけの「好みのタイプ」がある。大抵は男性で、世に言う「男らしさ」に少し欠けている、あるいは、その手の固定観念から解き放たれている。しかも向こうは私が「好み」ではない。「私のことを何とも想っていない、男っぽくない男の子」というのが、三つ子の頃から、おそらく百まで希求してやまない、恋愛対象の基本形だ。理想が実像を伴ったのは、3歳11カ月の大晦日。特別に夜更かしを許されてNHK「紅白歌合戦」を観ていた私は、軍服を模した衣装でスモークとサーチライトの中を歌い踊る沢田研二に、初めての恋をした。特定の異性をかっこいいと感じたのは、それが初めてだ。歌詞の内容も聞き取れず、夢か現実かもわからなかったが、居間に鎮座するこのテレビという箱は「かっこいいものを映す装置」なのだと強烈に思い知った。以来、チャンネルを回しながらブラウン管に映る「かっこいいもの」を探した。1980年、名曲「TOKIO」発売から3週間後に東京で生を享けた私が、約4年かけてゆりかごの中で導いた結論は、「男は、化粧が濃ければ濃いほど、都会的でかっこいい」というものだった。以来、マッチョな益荒男に恋をしたためしがない。○忘れられない文化系メガネ男子4歳の春を迎えると近所の幼稚園に通いはじめ、私は驚愕の事実に直面する。年中組の教室には、ジュリーやYMOやデヴィッド・ボウイみたいな、アイシャドウが虹色にきらめく男子はいなかった。まぁ当然である。初めての集団生活で「好きな男の子はいるの?」と訊かれるたび、仏頂面で「ここにはいない」と答えていた。自慢じゃないが、当時の私は男によくモテたのだ。人生で最もリアルが充実していた時代だ。しかし、言い寄る男児たちは誰も彼もがイモくさく、ジュリーには程遠い。もっと電飾やパラシュートや袖のふくらんだシルクブラウスが似合いそうな、化粧を施せば妖しく大変身しそうな、美しい容貌の男はいないのか。よくよく教室を探してみると、これが一人だけ見つかった。Kくんは小柄で線が細く、肌の色が白く、髪質は柔らかで、いつも室内で絵本を読んでいた。運動会やお遊戯では目立たないが、その影の薄さがまた存在の透明感を高めている。たしか眼鏡も掛けていたと思う。あるいは記憶を都合よく捏造しているのだろうか。いずれにせよ、現在に至るまで私の「メガネ男子萌え」の原点にあるのは、この彼への憧れなのである。忘れられない出来事がある。同じクラスには、ジャイアンとブタゴリラを足して二で割ったような、典型的なガキ大将の男児がいた。彼らは室内でも戦隊ごっこやプロレスごっこをする。力任せに暴れ回るので、女児たちのおままごとテリトリーを平気で侵犯してくる。ガキ大将が級友を投げ飛ばしてくるたびに、女児たちは仕方なく場を譲り、逃げて行った先でまた新しくおとなしくおままごとを始める。あるとき、ままごとの民が祖国を追われてディアスポラ先に選んだのは、Kくんたちが読書やお絵描きなどの文化活動を営む一角だった。プロレス男子から逃げてきた我らままごと女子のリーダーが、「本日これよりこの土地は我々が領有するので、即刻明け渡すように」と一方的に通達した。教室内の力関係は「プロレス男子>ままごと女子>文化系男女」であり、強き者が弱き者からとことん奪い尽くすのが世の常だ。強奪と迫害の連鎖。Kくんたちが無言で絵本を片付けようとする姿を見て、私はままごと女子の一員として、どうにも我慢ならなかった。細かな経緯は忘れたが、気がついたらガキ大将の一派に殴り込みをかけて宣戦布告していたのだ。「貴様たちが所構わずドンパチ始めるせいで、我々のままごとスペースが蹂躙され、結果、Kくんたち罪もない人々までもが苦しめられている。これは教室内に平和を取り戻すための戦争である」というのがその理屈。愛する人が心穏やかに暮らす日常、その未来は私が守る。たとえこの手が血に染まっても構わない。それに、災厄を退ける勇猛果敢な姿を見れば、もしかしたらKくんが「かっこいい」私に惚れて、晴れて相思相愛になれるかもしれない。……当時は本気でそう思っていたのだ。我ながら、ルーシーとペパーミント・パティを足して二で割ったような、厄介な恋する女児だったと思う。もちろん園児のやることだから、最終的には好戦的な男女が入り乱れて、プロレスどころではない掴み合いの大乱闘。先生が仲裁に入る頃には、教室の隅で震えるKくんが私を見る目は、野獣に怯える小動物のそれになっていた。○私は最低、あなたは最高「三つ子の魂百まで」という諺がある。誰かに恋愛感情を抱いたとき、それがうまくいかなくなったとき、私はいつもこの諺を思い出す。狼狽と恐怖に顔を引きつらせた男。ためいき一つ残して去っていった男。「君には僕よりもっとふさわしい相手がいるはずだよ」と慰めてくれた男。Kくんに似たいろんな男を好きになり、彼らのように生きたい、彼らに似合う私でありたい、と思って行動してきたのに、どれもこれも実を結ばなかった。私がジュリーを好きになったように、彼らにも、私のことを好きになってもらいたかった。でも、その方法がわからなかった。好きでもないガキ大将の襟首を掴むことは簡単なのに、静かに絵本を読む彼らの眼鏡には、指一本、触れられなかった。私の汚れた手で乱暴に触ると、美しい彼らの存在が、はらはらと壊れてしまうかもしれないと思ったから。外に出て真っ黒に灼けるまで遊び、裏山の池で泥まみれになってザリガニを釣り、昆虫を捕まえようとして叩き潰し、時にガキ大将と掴み合いの喧嘩をしながら、私は「綺麗な男の子」が好きだった。Kくんだけは、真っ白のまま、穢したくないと思っていた。彼と、彼の住む世界にだけは、きちんとこの手を石鹸で洗って殺菌消毒してからでないと、触れてはならないと思っていた。これが私の「初恋」だ。Kくんの両親が営む歯科医院は今も我が家の近所にあり、帰省すると前を通ることもあるのだが、私は卒園後、彼と会ったことは一度もない。ひょっとしたら本当は、メガネ男子でも美少年でもなかったのかもしれない。それでもいい。私の記憶の中でだけ、彼はずっと「綺麗な男の子」であり続ける。彼があの綺麗な彼のまま、この地球のどこかに存在し続けていてくれたら、私はそれだけで生きていける。卒園の頃になって、母親が好きでよく聴いていた荒井由実「卒業写真」の歌詞を、完璧に理解できた瞬間がある。「変わってゆく私を、あなたは時々、遠くで叱って」とお願いしたくなる男の子。その最初は、Kくんだった。二度と会えなくても、思い出すだけで、汚れた手を石鹸で洗いたくなる男の子。そんな気持ちをこんなふうに歌えるユーミンは、天才だなと思った。思い出の中で白く綺麗に光り輝き、すでに顔もぼやけてしまったKくんの存在は、特定の宗教をもたない私にとって、もはや恋愛というより信仰の対象に近い。○「よそはよそ、うちはうち」幼稚園や保育園というのは、同世代の子供と初めての共同生活を送る場所だ。同じ家庭に育つきょうだいとはまた別の意味で、自分と他者との「違い」に気づかされる場所でもある。生まれが違う、育ちが違う、家庭環境次第で性格や倫理観も違う。もっと言えば、親の経済力によって金銭感覚が、学歴や職歴によって向学心が、その他、人生におけるさまざまな価値観が、すでにして決定的に違うのだ。運転手つきの黒塗りのクルマで送り迎えされているご令嬢もいたし、幹線道路を一人で渡って雨漏りのするボロ屋へ帰る私のような園児もいた。親が「お受験」させるために遠方から越境してくる子もいたが、女の子はいい学校へ行くと嫁の貰い手がなくなる、とのたまう父兄もいた。我が子には有害な食材を与えないと徹底する親もいて、私が園庭の蛇口から水を飲んだら白い眼で見られたこともある。小さな「違い」が積み重なると反発が起きる。そもそもなぜ、私たちはここにいるのだろうか。ただ年齢が同じで家が近所だったというだけで、一緒に狭い空間に閉じ込められ、つねに比較されながら『幼馴染』と呼ばれるなんて、たまったもんじゃないぜ……その後の学校生活でもさんざん味わう羽目になる、あの感情が最初に芽生えたのも、幼稚園でのことだった。しかし一方で、級友たちとの間に「違い」があって初めて、私は自分自身の「欲望」を具体的に知るようにもなった。あの子のお家はリビングの照明がお城みたいなシャンデリア、私もお金持ちの家に生まれたかった。あの子のママが作るお弁当はいつもとっても美味しそう、私も料理上手のママが欲しかった。Kくんは色が白くて目鼻立ちが整っていて理知的で物静かで上品で、見惚れるほどかっこいい。私もKくんみたいになりたい、Kくんに似合う女の子でいたい。でも、できない。きょうだいと一つのオモチャを奪い合うのとは意味合いが異なり、もっと広い意味で「自分にはないもの」を求めるようになった。「差」のあるところに「欲望」が生まれる。その欲望は、満たされないほど燃え上がる。それが愛でも、憎悪でも、「自分にはないもの」への荒ぶる気持ちを鎮めて飼い馴らすのは本当に難しい。そういえばスイス人の血を引く級友がいて、彼女はそれだけのことでいじめられていた。みんな童話の絵本で見た金髪碧眼のプリンセスには憧れてなりたがっていたのに、すぐ横にいる色素の薄い彼女のことは「違う」子として泣かせてばかりいた。私だって、我がものにならないKくんを、いつ傷つける側に回っていたともしれない。「三つ子の魂百まで」という諺を思い出す。他の誰かを羨むたびに、両親からさんざん聞かされた「よそはよそ、うちはうち」という言葉とともに。世の中から「違い」をなくそう、と言う政治家や教育者もいるだろう。でも私たちは、まず「違い」を知らなければ、「今とは違う自分になりたい」と願うようにもならない。格差と不満に気づいて己の「欲望」を正しく知ることは、それはそれで大事なことと思うのだ。人は、誰に教えられるわけでもなく「自分にはないもの」に惹かれる。これは、ゆりかごの中で身につけた習性なのかもしれない。どんなにきれいに石鹸で手を洗っても、実際にはほとんどが手に入らない。フラレる前に終わった失恋。よそはよそ、彼は彼、私にないものをいくら欲しても、そのまま望む通りには得られないのだと思い知った、初めての「節目」は、4歳の恋だった。ちなみに私、今までの人生で「一目惚れした相手がゲイ男性だった」という確率が非常に高い。三つ子の頃から「私のことを何とも想っていない、化粧映えする綺麗な男子」ばかりを選んでいるのだから、当然といえば当然なのだが……もちろんいずれも、フラレる前に消える恋だ。きっと百まで、墓場まで、この調子なのだと思う。<今回の住まい<私が生まれ育った街は幹線道路を挟んで貧富の差が激しく、「富」の地区には有名芸能人の豪邸なども立ち並んでいた。幼稚園のクラスメイトのお屋敷に招かれると、天井が高く煌びやかな装飾で、グランドピアノが一台置いてあるだけの広大な空間があった。今は何にも使っていないの、と言われたそこが「ボールルーム」の名残だと気づくのは、大人になってからである。私は「貧」地区の出身です。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年10月03日俳優の役所広司と岡田准一が10月1日、共演作『蜩ノ記』の特別試写会に出席した。岡田さんが「試写を観ていたら、横で役所さんが号泣されていた」と暴露すると、役所さんは「岡田君だって泣いていましたよ」と反撃。劇中同様、強い師弟愛(!?)を披露した。前代未聞の不祥事を起こした戸田秋谷(役所さん)は、10年後の夏に切腹し、その日までに藩の歴史である「家譜」を完成させることを命じられる。一方、城内で刀傷沙汰を起こした藩士の檀野庄三郎(岡田さん)は、秋谷の監視役を命じられるが、そのひたむきな生きざまに心揺さぶられる。第146回直木賞を受賞した葉室麟の小説を原作に、役所さんと岡田さんが初共演を果たした。この日、役所さんと岡田さんに加えて、共演する堀北真希、原田美枝子、小泉堯史監督が出席し、「涙活(るいかつ)試写会」と銘打って開催された試写会。 涙活とは、意識的に泣くことで心のデトックスを図る活動だといい、涙活プロデューサーの寺井広樹さんが提唱するもの。このたび、『蜩ノ記』が世界に涙活を広める「全米感涙協会」認定映画第1号となったことを記念し、役所さんに涙のしずくをモチーフにした特製トロフィーが授与された。「今日、(イベントの進行)台本を読んで『これ、ギャグかな』と思った」と役所さん。それでも寺井さんから実際にトロフィーを受け取ると、「結構重いですね。今日映画を観てくださったみなさんの涙とどっちが重いかなあ…。とにかく認定第1号ということで光栄です」と涙、ではなく笑みを見せていた。涙といえば、岡田さんは先日、主演を務めたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮了会見での“男泣き”が大きく報じられたばかり。岡田さん本人も「つい最近、泣いてしまって」と照れ笑いを浮かべた。また、本作に関しては「小泉監督のために、日本映画界のベテランスタッフさんが集まった。まるで日本映画の歴史を目の当たりにするようで、現場にいるだけで泣ける思いだった。本当に、すごい人ばかりだったんですよ」と涙のエピソードをふり返った。『蜩ノ記』は10月4日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:蜩ノ記 2014年10月4日より全国にて公開(C) 2014「蜩ノ記」製作委員会
2014年10月01日(画像はプレスリリースより)北海道で育乳セミナー2014年8月18日、株式会社CECILは北海道にて育乳セミナーを行うと発表した。講師はバストのカリスマ戸瀬恭子氏。定員は1回5名で、料金は税別1万円となっている。内容は、バストアップに必要な、美肌(土台作り)、正しい食生活、女性ホルモン、下着の正しい選び方と付け方、大胸筋の鍛え方、セルフマッサージに関することから、乳がんや子宮がんの話までと幅広い。戸瀬恭子氏による施術も今回、「施術」も行われ、育乳セミナー講師の戸瀬恭子氏が担当する。バストメイクドレナージュは税別52,500円、個別指導52,500円、両方を行うと97,000円となる。施術日程は9月27日(土)10:00~12:00、13:00~15:00、9月28日(日)16:00~18:00、9月29日(月)9:00~11:00。予約が必要。詳細は下記にてご確認を。問い合わせ先(株)CECIL〒455-0813愛知県名古屋市港区善進本町19ーBTEL052-384-7277tose461227@yahoo.co.jp(プレスリリースより)【参考】・CECILプレスリリース
2014年08月21日「V6」の岡田准一が主演する感動巨編『永遠の0』の完成披露試写会が2日、東京・有楽町の東京国際フォーラムで行われ、岡田をはじめ、三浦春馬、井上真央、濱田岳、新井浩文、染谷将太、三浦貴大、上田竜也、山崎貴監督が舞台あいさつに立った。岡田は「命を削りながら、大切に撮影した作品。たくさんの愛が詰まっている」と胸を張り、駆けつけたファン5000人に作品をアピールしていた。その他の画像原作は現在までに累計発行部数400万部を突破している百田尚樹氏の同名小説。特攻により戦死した天才パイロット・宮部久蔵(岡田)の60年間封印された真実が、現代を生きる孫の健太郎(三浦春馬)によってひも解かれる。岡田が演じるのは天才零戦パイロットでありながら、“海軍一の臆病者”と呼ばれた謎多き男という役どころで「当時を生きた方々に認めていただきたいという気持ちもあり、しんどい役ではありました」と振り返り、「壮大な愛を受け継いでいく物語。皆さんにとっても大事な作品になれば」と語りかけた。片や、現代を生きる青年を好演した三浦は「すごく刺激を受けた」と、橋爪功、平幹二朗、今年5月に亡くなった夏八木勲らベテラン勢との共演に感激しきり。4年前に他界した祖父は、戦時中に多くの仲間を失ったと明かし「自分のルーツに触れる機会にもなった」としみじみ。久蔵の妻・松乃を演じる井上は「戦争ものを敬遠される方もいると思うが、誰かを大切に思う気持ちは、時代を超えて共感できる。ぜひ女性にも観ていただければ」と話した。人気コミック「寄生獣」の映画化でも話題を集める山崎監督は、「悔しいほどに感動して泣いてしまった。ぜひ映画化という形で“対抗”したかった」と原作との出会いを述懐。2012年夏、猛暑の中で撮影に臨んだスタッフ、キャストの労をねぎらっていた。『永遠の0』12月21日(土)、全国東宝系ロードショー
2013年12月03日映画『宇宙兄弟』の大ヒット御礼舞台挨拶が5月15日(火)、都内劇場で行われ、小栗旬と岡田将生、森義隆監督が登壇。最後にサプライズで小栗さんが用意した手紙に、岡田さんが感動して涙する一幕もあった。「週刊モーニング」(講談社刊)にて連載中の人気同名漫画の映画化で、仕事をクビになり、かつての夢だった宇宙飛行士を目指して奮闘する兄のムッタ(小栗さん)と、現役宇宙飛行士で月面に旅立つ弟のヒビト(岡田さん)の姿を描く。この日の舞台挨拶は、5月5日(土・祝)の初日舞台挨拶終了後に岡田さんが「また舞台挨拶をやりたい」と言い出したことから実現したそうで、なんと小栗さん自らがMCとなって進行役を務めた。森監督は「予定がなかったのでひと息つくために沖縄に行こうと思ってたんですが、飛行機をキャンセルして来た」と明かし、これには言い出しっぺの岡田さんも「複雑ですね、嬉しいけど…」と苦笑いを浮かべていた。昨年4月に撮影が始まり、1年余りが過ぎてこの日の舞台挨拶が本作に関わる最後の仕事となるが、岡田さんは「撮影が終わって宣伝をずっとやらせてもらって、1年くらい『宇宙兄弟』のことを考えている自分がいた。よかったなと思うし、楽しい日々でした」と述懐。これに“MC”小栗さんから「当たり障りのないコメントですね」とツッコミが入り、会場は笑いに包まれた。小栗さんは「いまだから言えるけど」と前置きした上、現場の雰囲気について「クランクインして、1か月経たないくらいで岡田くんが入って来たんですが、僕のところに近づいてきて『この現場ってずっとこういう感じなんすか?』って。いろんな人が『こんなんじゃダメだ。こうするぞ!』という感じで、監督はそこでひとりで戦っていて、現場は殺伐としてたんです」と明かす。岡田さんも「気まずかったです(苦笑)」と頷きつつ、「監督が戦ってる姿を見て、僕も戦おうと思った」とふり返った。そして、最後の締めの挨拶になって、岡田さんは「旬くん、今日僕は手紙を書いてきました」とニッコリ。「これまで時計を盗まれたり、指輪にドレッシングかけて口の中に入れられたりしたけど(苦笑)、お世話になったので」とポケットから白い封筒を取り出した…が!観客の前で読むのが急に恥ずかしくなったのか「やっぱり家に帰って見てください」と言い出して、客席からは「えー?」とブーイングが…。何とか思い直して岡田さんは照れながらも手紙を朗読。「本当の兄貴ができた気持ちでした」と小栗さんへの思いを伝えた。これには小栗さんも「素敵な“弟”を持って幸せです」と語った。さらに小栗さんは「実は僕も手紙を書いてきました!」とニヤリ。実は岡田さんが手紙を書いてきたことを事前に知らされ、サプライズ返しとばかりに小栗さんも手紙を執筆してきたとのこと。サプライズを仕掛けたつもりが、逆に自分だけ何も知らされていなかった岡田さんは驚愕の表情で「何だよぉ…」とうなだれた。小栗さんは“兄”として「キミが隣にいてくれてよかった」と岡田さんへの感謝の思いをユーモアたっぷりに伝え、岡田さんはこらえきれずウルウル…。慌てて涙をぬぐい、客席は温かい拍手に包まれた。『宇宙兄弟』は全国東宝系にて公開中。■関連作品:宇宙兄弟 2012年5月5日より全国東宝系にて公開© 2012「宇宙兄弟」製作委員会■関連記事:小栗旬&岡田将生、『宇宙兄弟』興収30億円も射程圏内のロケットスタートに浮き足立つ!『宇宙兄弟』新井浩文×濱田岳インタビュー「目をつけるとこが一緒なんです(笑)」【シネマモード】日本の「家族」を感じる映画vol.2『宇宙兄弟』×兄弟の関係『宇宙兄弟』&『ガール』の監督が登壇! NCWクリエイティブセミナーに6名様ご招待岡田将生×小栗旬主演『宇宙兄弟』試写会に30組60名様をご招待
2012年05月16日榮倉奈々、岡田将生からの突然のプレゼントに涙!11月10日、映画「アントキノイノチ」公開を記念し、都内で開催されたセレモニーに、主演した榮倉奈々、岡田将生が出席した。榮倉と岡田は「アントキノイノチ」公開を記念するため一般公募された【ラブレターツリー】の設置セレモニーに出席。岡田からの突然ののクリスマスプレゼントに、榮倉が涙ぐむ場面があった。岡田からのサプライズプレゼントはスノードーム岡田からの榮倉へのサプライズプレゼントは、劇中の印象的なシーンで登場する観覧車の模型が入ったスノードームだった。映画コムによると岡田は「2月から一緒にやってきましたが、すごく助けられました。本当に一緒にやれてよかったし、また違う作品でも会えたらうれしい。ありがとうございました」と照れくさそうに感謝の言葉を榮倉に伝え、スノードームを手渡した。榮倉の瞳に涙が思いがけないプレゼントに驚いた様子の榮倉は、涙を静かにぬぐい「(作品への)思いが強いだけに、全てのことに100%届けようと一緒にがんばってきたのでうれしいです。ありがとう。恥ずかしい(笑)」と感激で一杯の胸の内を語ったという。映画「アントキノイノチ」とは?歌手のさだまさしによるベストセラー小説を映画化。遺品整理業という特殊な仕事を通して「命」の重さ、人と人が繋がる尊さを描いた作品だ。また、榮倉は「アントキノイノチ」の公式サイトで「生きるということ、社会と関わるということ。日々、自問自答しながら前進したいと望む姿は同世代として、とても興味深いです。瀬々監督も岡田将生くんも初めてご一緒させていただくので、どんな風にコミュニケーションを取って撮影が進んでいくのか、今から楽しみです。」と、コメントを残している。「アントキノイノチ」初日舞台挨拶のお知らせ●11月19日(土)●場所:丸の内ピカデリー11回目 午前9:20の回、上映終了後/2回目 お昼 12:50の回、上映前●[登壇者]岡田将生、榮倉奈々、原田泰造、松坂桃李、瀬々敬久監督(以上すべて予定)●場所:MOVIX亀有1回目12:30の回、上映終了後/2回目15:45の回、上映開始前●[登壇者]岡田将生、榮倉奈々、松坂桃李、瀬々敬久監督(以上すべて予定)「アントキノイノチ」公式サイトより元の記事を読む
2011年11月12日「一生懸命、自分の中から言葉を探してる」と岡田将生は言った。作品や役柄についてではなく、そのときのインタビューについて語った発言なのだが、俳優・岡田将生の生き方そのものを表していると言える。10代の頃から誰もが羨むような輝かしい成功の階段を上り続けてきたように見えるが、その陰で常にもがき、自らと向き合ってきた。だからこそ、映画『アントキノイノチ』で演じた主人公の杏平に対して、まず何より感じたのは強い共感だった。壊れた心を少しずつ再生していく杏平を演じながら岡田さんは何を探し、何を伝えようとしたのか?その内なる思いを明かしてくれた。10代の自分とリンクした、杏平の心の葛藤映画冒頭、裸で民家の屋根の上に座り込み虚空を見つめる岡田さんの姿が映し出される。高校時代のある出来事がきっかけで、心を壊してしまった杏平。22歳の岡田さんは、自らが10代の頃から感じてきた思いを重ね合わせながら物語と向き合っていった。「ふと『何でおれは生きてるんだろう?』とか『これからどんな大人になって、どういう社会で生きていくんだろう?』ということを考えることが10代のときから僕自身ありました。漠然とした不安を感じながら俳優という仕事をさせてもらって、その中で僕はこの仕事が好きだと気づいて続けられている。でも杏平くらいの頃は何も分からずにいて、そのリアルさに『おれもそうだったな』とリンクしました」。ある悪意に疲弊し自ら命を絶った友人。その悪意の矛先が今度は自分に向けられることへの恐怖と戸惑い。そして期せずして発見した己の内にある憎悪と周囲の無関心――。そうしてバラバラになった心を、杏平は遺品整理業という仕事を通じて再生させていく。こうしたひとつひとつの心の動きを岡田さんは丁寧に演じている。「僕自身、いじめられた経験もあるし、それがどんなにつらくて嫌なことか分かっています。僕はまだ22歳ですが、そういうところを若い人にきちんと伝えたいと思ったし、『分かりたい』って思う自分がいました。何より、生に対してもがき、苦しんでいる姿、少しずつ杏平が前に進んでいく姿がいいなと思えたんです」。演技の面でポイントとなったのは杏平が生まれつき抱えている吃音(きつおん)。杏平の周囲との距離感やもどかしい思いが伝わってくる。一方で岡田さんは「映画を観る方に届いたらいいなと思った大切なセリフ」に関しては監督に対し、あえて吃音を含ませずにストレートに表現することを提案したという。「榮倉(奈々)さん演じるゆきが過去を告白するシーンでの、杏平の『自分がどうして生きてるか分からない』というセリフはすごく好きで、それを吃音で言うべきかどうか悩みました。あとは文化祭で杏平がみんなに問いかけるシーン。あの心からの叫びでも吃音が出てないです。あのセリフを噛んで言ってしまうと、ただもがいている一人の生徒に見えてしまい、(周囲への思いが)伝わらないと思ったんです」。ちなみに全編を通じて岡田さんのモノローグが入るのだが、こちらも吃音はなく、落ち着いた口調で語られている。物語の中でもがき、葛藤する杏平とは違う人物のようにも感じられるが…。「あのモノローグは現在よりもずっと先の杏平という設定で、少し達観した立場から語ってるんです。僕は最初、そういう風に思ってなかったんですが、監督から成長した杏平が過去をふり返るような形にしてほしいと言われて『あぁ、なるほど』と思いました」。「これまで良い出会いがたくさんあったし、それを必然と思いたい」先述の榮倉さん演じるゆきの告白のシーンを「『いま生きてるんだな』、『息して、目の前の人と話してる』というのを感じながらその場にいた」と述懐。ゆきと杏平の出会いをこんな言葉で説明する。「杏平にとってはいい時期に巡り合えた同じ傷を抱えた女性。巡り合わせなのかなと思えました。原作の小説や台本を読んだときから僕は親のような気持ちで『お前、ゆきちゃんと出会えて本当によかったな』って思ってました(笑)。それは巡り合うべき人だったし、傷をなめ合うのではなくて、一緒に一生懸命考えて、“生きていく”ということを見出せる人。僕自身、これまで良い出会いがたくさんあったし、それを必然と思いたい。色々なところに行って色々な人と会って、新たな発見を求めている自分がいるんです。それはいまでも思っているし、だからこそ現場が好きなんです」。「終わったときは寂しくて、永島杏平という役から離れるのが嫌だなと素直に思えた」と岡田さん。クランクアップを迎えたその足で美容院に直行して髪を切り、気持ちを切り替えたというエピソードからも役柄への強い思い入れがうかがえる。ゾクリとするような歪んだ笑みを浮かべて悪意を体現した昨年の『悪人』、己の内の悪意と憎悪に押し潰されて心を壊していく今回の『アントキノイノチ』と、強く役柄を引きずってしまいそうなヘビーな作品で際立った存在感を放っているが、出演作品を決める基準は?「僕自身は作品選びにはタッチしてないです。ただ、マネージャーや事務所の人には『こういう作品をやってみたい』ということは普段から少し伝えています(笑)。20歳を超えてから、高校生を離れて次のステップとして社会派というか、メッセージ性の強い作品に携わりたいという思いはありましたね。いまも違うジャンルの映画を観ると『こういうのをやってみたい』とか思います。いまは…しばらく恋愛映画から離れていたんですが、『ラブ・アクチュアリー』を観て幸せになったので(笑)、ハッピーエンドのラブストーリーをやりたいと言ってます」。探しているのはきっと言葉だけではない。時に疾走し、立ち止まり、泣いて、叫んでまた歩き出し…。岡田将生の旅はまだまだ終わらない。(photo:Yoshio Kumagai/text:Naoki Kurozu)■関連作品:アントキノイノチ 2011年11月19日より全国にて公開© 「アントキノイノチ」製作委員会■関連記事:岡田将生のサプライズプレゼントに榮倉奈々、思わずウルリシネマカフェ読者ゴコロなんでもベスト5(第20回)“ほっとけない男子”俳優は?【TIFFレポート】岡田将生&原田泰造通訳付き映画祭公式上映にハイテンション!【TIFFレポート】映画祭開幕!ミラジョヴォら美しき女優陣のファッションに釘づけ岡田将生、釜山映画祭でサイン攻め!『アントキノイノチ』への特別な思い明かす
2011年11月10日来年のNHK大河ドラマ「平清盛」で岡田将生が演じる源頼朝の姿が初めて公開された。物語の語り部でもある頼朝を演じての岡田さんのコメントも到着した。武士の棟梁として平家一門の栄華と繁栄を築いた平清盛(松山ケンイチ)の生涯を全50回で描き出す本作。頼朝は、清盛と覇権を争い敗れ去った源義朝を父に持つ源氏の正統な後継者。父が敗れた際になぜか清盛は頼朝を殺さずに罪人として伊豆に流す。尊大な父の憎き仇・清盛を倒すことを夢見て頼朝は鍛錬を重ね、39歳で鎌倉にて決起。やがて壇ノ浦で平家を打ち滅ぼし、源氏の棟梁として幕府を興す。1月8日(日)の第1回目の放送では、まず誰よりも最初に頼朝が映し出される。平家を滅ぼして歓喜する兵たちを見ながら頼朝は「平清盛とはいかなる男だったのか?」、「私はあの男に本当に勝ったのだろうか…」と自らに問いかける。そこから頼朝の目線で、創成期の武士たちの物語、そして武士として初めてこの国の覇権を握った清盛という男の偉大さが綴られていく。今回、初めての大河ドラマ出演となった岡田さん。実際に参加してみての感想を尋ねると「まず、ロケの規模の大きさにビックリして、本当に凄いなあと思いました。かつらも衣裳もすごく凝っていて、気持ちが上がって、役にすんなり入れました。すんなり入れた分、思っていたより緊張せず楽しんでやれました」と手応えをつかんだ様子だ。第1回放送で誰よりも早く登場することになるが「台本を読んだ時点でそのことを知り、とても恐縮しています」とも。決起の時点で39歳、平家滅亡のときにはすでに40歳を超えているため、今回、解禁となった写真でも頼朝は白髪交じり。凛々しさとどこか憂いを感じさせる表情が印象的な岡田版・頼朝。史上最年少で務めるナレーションにも期待したい。「平清盛」は2012年1月8日(土)よりNHKにて全50回で放送。■関連作品:アントキノイノチ 2011年11月19日より全国にて公開© 「アントキノイノチ」製作委員会■関連記事:岡田将生&榮倉奈々、トロフィーの重みで受賞を実感!『アントキノイノチ』モントリオールで高評価岡田将生は仏語でスピーチ決めた!ヴェネチア、モントリオールにトロント…世界の映画祭での邦画の奮闘に期待!冒頭でいきなり全裸…?岡田将生の様々な表情に注目の『アントキノイノチ』予告編榮倉奈々、岡田将生は「小学生」!?「もう22歳なんですけど」と本人苦笑
2011年09月27日岡田将生と榮倉奈々主演で、さだまさし原作の同名小説を映画化した『アントキノイノチ』の完成報告会見が10日に都内で行われ、岡田、榮倉をはじめ、原田泰造、松坂桃李と瀬々敬久監督が登壇した。その他の写真本作は、それぞれ過去のトラウマで心を閉ざしてしまった杏平(岡田)とゆき(榮倉)が遺品整理という命と向き合う仕事を通して出会い、次第に心を通わせ“自身と人とのつながり”について向かい合う姿を描いた作品。撮影中に東日本大震災が発生し、瀬々監督は「このまま撮り続けてもいいものかと考えたが、震災後に命の大切さや絆が大事だと語られるようになったので、この映画を通してよりみなさんに伝われば」とあいさつ。“命の大切さ”を訴える本作についてキャスト陣も「この時期に参加できてよかった」と口を揃えた。その瀬々監督の印象について榮倉は「私の顔を見ながら“岡田さん”と呼ぶので、まず監督に名前を覚えてもらうのに必死だった」と話し、松坂も「岡田くんとのシーンでは“松岡くん”と言うからどっちを呼んだのか分からなかった」と暴露。岡田は榮倉との初共演について「僕より2歳上だけど、とても話しやすくて心が和らいだ」と話す一方で、榮倉は「岡田くんはとても純粋で、小学生と話してるみたいだった」とコメント。岡田は赤面しながらも「僕もう22歳なんですけど…でも嬉しいです」と複雑な表情を見せる場面もあった。本作は第35回モントリオール世界映画祭のワールド・コンペティション部門で正式出品が決定し、現地時間19日に予定されている公式上映には岡田、榮倉、瀬々監督が登壇する予定で、岡田は「世界の方々に見てもらえると思うと嬉しい。映画祭を楽しみながら、みなさんと映画を共有できたらいいな」と喜びの表情を浮かべた。『アントキノイノチ』11月19日(土)全国ロードショー
2011年08月10日