中森明菜「あっ、そうか……、40周年かぁ。もう、そんなに……」過ぎた時間の長さを噛み締めるように思いを馳せるのは、中森明菜の実兄だ。今年5月1日でデビュー40周年を迎えたが依然、表舞台からは姿を消したまま……。「2017年のディナーショーを最後に、活動を休止しています。その後もファンクラブの会報誌だけには直筆のメッセージを載せていますが、活動再開についての予定はありません。今は都内マンションに、恋人でもあるマネージャーと住んでいるといわれています」(スポーツ紙記者)都心の住宅地にある地上6階建てのマンション。近くにはスーパーやコンビニがあり、少しは目撃されてもおかしくないはずだが、「まったく見たことないんです。噂だけで、実際は住んでいないんじゃないかしら」と、近隣住民の女性。人前から姿を消したままの明菜は今、どうしているのか─。華々しく、輝く時期もあったが、これまでの彼女の歩みは不遇の連続だった。そんな明菜を今も心配し続けているのは、彼女の家族だ。「母の葬儀で明菜と会ったのが最後です」穏やかでありながらも、はっきりとした口調で語るのは、冒頭の3つ上の実兄だ。昨年末に起きていた実父の変化明菜は東京都清瀬市の出身で、6人きょうだいの上から5人目として育った。「明菜は母のことが大好きでした。小学4年生ぐらいまで母と一緒に寝ていましたから。鹿児島から歌手になるために上京した母は、明菜が歌手になったことをそれはもう、喜んでいました」(実兄、以下同)明菜がスターになることは、兄にとっても誇らしかった。「すっごくうれしかったですよ。明菜がデビューした当時は、知り合いからサインをよく頼まれました。レコードも明菜がくれるんですけど、妹を応援したくて自分でも買っていました」かつてを思い出すように目を細め、うれしそうに語るが、父親について話が及ぶと、表情が曇った。「昨年の暮れに父は入院したんです。耳が遠くなって、自宅でふさぎ込むようになったんですが“このままでは歩けなくなるから”と長女が散歩をさせていたんです。それが散歩中に転倒してしまい、肋骨と右手を骨折してしまって」これにより、新たな問題も起きた。「以前から認知症の症状は少しずつ出ていたんですが、入院したことで進んでしまって。なので今後は介護付き老人ホームに入所する予定です。サポートがないと生活が難しい状態。もう、家には戻れないと思います」明菜には連絡していないというが、これには複雑な事情がある。明菜とは年子の妹・明穂さんが2019年に病気で他界したときのこと。「明穂が亡くなったときに連絡しましたが、葬儀には来てくれなかった。だから、父の話を聞いてもお見舞いには来ないんじゃないかな……」静かにため息をつくと、こんな思いを続けた。「明穂も1987年にデビューしてテレビに出るようになったのを、明菜は好ましく思っていなかったようで、関係が悪くなっていました。それまではすっごく仲がよかったんですが。明穂本人の希望もあって、遺骨は山に散骨しました。お墓はありませんが、せめて実家の仏壇には手を合わせてほしいです」明菜が家族と距離を置いた理由1995年、明菜の母親はがんで他界し、彼女は中森家の戸籍から自ら籍を抜いた。それから27年間、家族との関係は“断絶”したまま。なぜ明菜は、父親やきょうだいとも距離を置いたのか。「明菜は、僕たちが彼女のお金を使い込んだと思っているんです。当時所属していた事務所の『研音』から税金対策で“お店を始めたらどうですか”と助言をいただいたんです。それでカラオケスナックを経営していましたが、明菜は私たちの給料に自分のお金が流れていると思っていたようで。実際は売り上げからごく普通の金額を給料としてもらっていただけなんです」1987年、中森家は埼玉県内に地上3階建てのビルを建てているが、これにも明菜は疑問を持った。「たしかに明菜のお金ですが、これは税金対策で建てたビル。そこで私たちが中華料理店などを開いたのですが、明菜はこの開店資金も自分のお金が使われたと思ったようです。でも、そうではない。父の実家は結構裕福な農家で、祖父が亡くなったときに多額の遺産が入りました。お店を作るのも備品をそろえるのも、全部遺産で賄っていたのです」さらにはこんな親心があったと明かす。「このビルは、いずれ明菜の手に渡る予定でした。芸能界で稼げていても、いつか歌えなくなって、売れなくなる日がくるかもしれない。父はそう思い、明菜が老後に家賃収入で生活できるようにと思って建てたのです。結局は売却してしまいましたが」娘を思う気持ちが裏目に出た。明菜は家族への“不信感”を募らせていくが、それを植えつけた“犯人”がいた。「事務所に聞いた話だと、最初のマネージャーが明菜のお金を持ち逃げしたそうなんですが、それを“家族が使い込んだ”と明菜に吹き込んでいたというんです」関係者は「明菜について話さない」当時の『研音』関係者に改めて聞いたが、「明菜には2人の現場マネージャーがいましたが、そんな話は聞いたことがありません。私が辞めた後のことだと思います。よっぽどやましいことでもあるのか、事情を知る関係者はみな“明菜については話さない”と言っています」と答えるだけだった。それでも兄は、幸せだった明菜の笑顔をよく思い出すという。家族が営むカラオケスナックに、当時恋人だった近藤真彦と訪れたときのこと。「僕が調理をしていて、ラザニアを作って出したんですよ。すると明菜は“おいしい!!”ってすっごく喜んでくれてね」(前出・実兄、以下同)結婚するかもしれない。そんな思いを持ったと話すが、現実は残酷だった。1989年7月、明菜は近藤の自宅マンションで自殺未遂を図った。「あのころマッチが明菜から別の女性タレントに乗り換えたようなんです。松田聖子さんではありません。明菜も最初は浮気だと思っていたのに、乗り換えられたとわかって刃物でひじの内側を……」自殺未遂をした年の12月31日、常連だったNHK紅白歌合戦の裏番組で緊急会見を開き、明菜はこう語っている。「私が仕事をしていくうえで、いちばん信頼していかなくちゃいけない人たちを信頼することができなくなってしまった」現在の明菜は「話したくない」家族や恋人に裏切られ、明菜は人間不信の螺旋に落ちていく。「今はもう、明菜と直接話すこともできていません。事務所に何度も連絡し、明菜と話したいと伝えても、一緒にいるマネージャーが“明菜が話したくないと言っているので”と繰り返すだけ。父は今も明菜のことを心配し“元気にしているのか”“ビルを売らなければよかったのに”と呟くように話しています」大好きだった母親の墓前には手を合わせているのか。「明菜はお墓の場所を知らないはずなので、行ってないと思います。母の死に目に会えていないんです。前日には来たのですが、当日は仕事で来られず、すごく悔やんでいました。だからこそ父には会ってほしい。入院中の父は今年88歳になりましたが、どこの病院にいるかも明菜は知りません。残された時間は長くないので、一度でもいいから来てくれればと思うのですが」家族なんだから─。そんな言葉が聞こえた気がした。「また明菜が元気に歌う姿を見られることだけは、いつも心から願っています」この一縷の望みが明菜に届けばいいのだが─。
2022年05月10日「明菜は毎回、死ぬ気で歌っていた。過酷な芸能界で命を削ってきた。デビューしたころ、多忙な彼女は番組で出番が終わると、横でウトウトすることもありました。指で肩をつつくと、目を覚まして笑うんです。その笑みが何のゆがみもなくて、純真無垢だった。芸能界にいちゃいけない笑顔だなって」同じ’82年デビュー組の川田あつ子(56)は、間近で見てきた印象を思い返す。5月1日、中森明菜がデビュー40周年を迎える。なぜ、彼女は多数のライバルをはねのけ、時代を切り開けたのか。そしてなぜ、活動を休止しているのか――。明菜の歌はデビュー前から聴く人の魂を震わせてきた。’79年、中学2年の少女は山口百恵らを輩出した『スター誕生!』(日本テレビ系)に応募した。同番組の地区予選の審査員兼ピアノ伴奏を務め、のちに明菜を指導するヴォイストレーナーの大本恭敬氏(86)はすぐに素質を見抜いた。「鼻にかかった声に独特の艶っぽさと憂い、低音の魅力を感じました。ただ、通過後の本選で歌った岩崎宏美の『夏に抱かれて』は音域の広い難しい曲で、自分のよさを生かしきれなかった」不合格となった明菜は翌夏、再度挑戦して松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌う。審査員の松田トシは「顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも歌っていたほうがいいんじゃない?」と酷評した。明菜は「スタ誕では童謡を受け付けてないじゃないですか」と毅然と反論した。2度の不合格をバネに、翌年3回目の挑戦で番組最高得点を出し、本選を通過。’81年11月18日の決戦大会で11社のプラカードが上がり、事務所は研音、レコード会社はワーナー・パイオニアに決まった。ワーナーの邦楽宣伝課の富岡信夫氏(70)がプロモーションに使える材料を探すため、明菜にアンケートを記入してもらうと、「尊敬する人物」に「矢沢永吉さん、桃井かおりさん」と書かれていた。■デビュー直後のコンサートで『帰らないで!』と泣きながら歌っていた「16歳で2人の名前を挙げるコを初めて見た。新しいカルチャーを作りそうなセンスを感じました」歌手デビューという夢をつかんだ明菜は、東京・恵比寿にある大本氏の自宅でレッスンを重ねた。「周囲は『第二の山口百恵』に育てようという雰囲気がありましたが、百恵に似ないように独自の『個声』と『表現』を徹底的に磨きました。明菜には『ア』『オ』の間の声に独特の響きがあった。この特徴を鍛えると、下からすくうようなビブラート、花が咲くような表現ができるようになった。これが、明菜のオリジナリティになりました」’82年5月1日に『スローモーション』でのデビューが決まったが、メディア露出は難航した。当時、研音もワーナーも大手ではなかった。状況を冷静に分析した富岡氏は、地方のテレビ局やレコード店を地道に回る“演歌作戦”を敢行した。「札幌や福岡など7大都市をデビュー前に2周しました。仕事があるわけではなく、ただ単に挨拶回りをしました。明菜さんは嫌がらずにやってくれました。『なんとしても売れたい』という気持ちが全身から伝わってきました」デビュー4日後の5月5日、としまえんの野外ステージで複数のアイドルが出演するコンサートが開催された。明菜の出番になると、雨脚が強まった。観客が去ろうとすると、悲痛な叫びがこだました。「『帰らないで!』と泣きながら歌っていた姿を見て『たいしたものだ』と感心しました」(大本氏)いかに数少ないチャンスで人を引きつけるか。明菜にとって、すべてが勝負だった。一方、納得できない仕事には抵抗した。アイドル誌『平凡』で自宅の部屋を紹介する特集があった。出演の意味を理解できない明菜はスタッフ5人を前に、撮影を拒否した。困り果てた編集者から電話を受けた富岡氏が会社から急行すると、明菜は不満顔で「なんでやらなきゃいけないの。矢沢さんは出ないでしょ?」と述べた。富岡氏はこう説得した。「矢沢さんはメディアに出ない。その代わり、全国の小さな街でライブをして、自分の歌を伝える。君は今、同じやり方をできない。だから、テレビや雑誌を通して自分を伝える。部屋を見た読者が君に興味を持って、歌を聴いてくれるようになる。方法は違うけど、矢沢さんと同じことをしているんだよ」納得した明菜は満面の笑みでカメラに収まった。「理由を説明すれば、全力で取り組んでくれる。一つひとつの仕事に妥協しないコでした」(富岡氏)明菜は2曲目『少女A』で9月16日、『ザ・ベストテン』(TBS系)に初登場。一気にスターダムへ駆け上がっていく。作詞した売野雅勇氏(71)が述懐する。「実際に歌を聞くと、自分のイメージを超える歌い方をしていた。『少女A』は明菜ちゃんが歌ったから、売れたと思います。彼女は感情の幅が広くて繊細なので、いろんな歌を歌える。アイドルの歴史を塗り替えた歌手で、誰よりもスターの存在感を持つ女性です」その後、明菜は来生えつこ・たかお姉弟の『セカンド・ラブ』『トワイライト』という聖少女系、売野氏作詞の『禁区』『1/2の神話』というツッパリ系の歌を交互に発売し、ヒットを飛ばしていく。「ああいう詞を書ける歌手がほかにいなかったから、すごく楽しかった。アルバムのレコーディングで初めて会ったとき、驚くほどきれいでかわいかったですよ。ただ、愛想はよくなかった(笑)。きっと僕の詞があまり好きではなかったのだと思います。でも、嫌な気持ちにはならなかった」(売野氏)四方八方に笑顔を振りまき、大人の立てた戦略に素直に従う。当時のアイドルは、周囲の作った虚像の世界に置かれていた。だが、明菜は違っていた。川田が回顧する。「私はその枠から踏み外しちゃいけないと思っていたし、自分の意見は言えなかった。取材で困ったら『よくわかりません』と答えなさいと教わりました。明菜は周りと同化しないタイプで、独特な世界観を持っていましたね」1,500人以上のタレントを指導してきた大本氏が話す。「強くて芯のあるコで、レッスン中も自分をごまかさなかった。たくさんのアイドルがいましたけど、“中森明菜”という自分を持っているコは彼女しかいなかった。唯一無二、孤高の存在感があった」■久しぶりの再会に「泣きながら『先生に会いたかった』と」人を寄せつけない雰囲気を醸し出す一方、困った人を放っておけない一面も持っていた。『ザ・ベストテン』で’85年から司会を務めた小西博之(62)が振り返る。「僕が始めて4週目、(司会の)黒柳徹子さんがお休みだったんです。すごいプレッシャーですよ。その日、6位のサザンオールスターズは欠席でした。歌い終わった明菜ちゃんが横に来てくれて『申し訳ございません』と視聴者のために一緒に頭を下げてくれた。本当にうれしかった。ほかの日も、僕が何か間違えるとCM中に『コニタン頑張ってね!』と優しく声をかけてくれた。困ったらすぐ手を差し伸べてくれる下宿先のお姉さんのような存在でした」多忙を極めるなか、明菜はリハーサルにも必ず顔を出し、わずか3分の歌唱に魂を振り絞った。「あるとき、控室から『なんで衣装が届いてないの!』と怒る明菜ちゃんの声が漏れてきました。スタッフが言い訳すると、『じゃあなんで前の日に無理って伝えないの?』って。まさにそのとおりですよね。『私は命懸けて歌ってるの。手抜いちゃダメよ!』と聞こえてきて、自分も身が引き締まりました」’85年に『ミ・アモーレ』、’86年に『DESIRE -情熱-』で2年連続日本レコード大賞を受賞。明菜は名実ともに“歌姫”となった。だが、人生は過酷だ。’89年には自殺未遂、’90年代には度重なるトラブルに見舞われ、世間を騒がせた。そのころ、大本氏は六本木のバーで深夜に明菜と偶然再会した。「泣きじゃくりながら抱きついてきたので、しばらく『よしよし』と子供をあやすようにしていました。『元気か?』『先生に会いたかった』と言葉を交わした記憶があります。明菜は、一緒にいた私の家内にも『ママ?』と同じように抱きついて泣きじゃくっていました」余計な言葉などいらない。大本夫妻はただ明菜を優しく包んだ。よく一緒に食事やカラオケに赴いていた川田が思い返す。「いつだって、私の知っている明菜の笑顔はデビューのときと同じで純真無垢でした」■《あんまり幸せだといい歌にならない》数々の困難に遭った明菜には悲劇のイメージがついた。後年、本人は《中森明菜というキャラクターは、あんまり幸せだといい歌にならない》(『スポーツニッポン』’03年5月1日付)と漏らした。衝撃的な発言にも取れるが、川田と売野氏はこう分析する。「俯瞰で自分を見られる。これが彼女のすごさなんですよ」(川田)「普通の人を理解するような感覚で、明菜ちゃんの気持ちを勝手に捉えちゃいけない」(売野氏)’02年、20周年の明菜は復活を遂げる。カバーアルバムがヒットし、『NHK紅白歌合戦』にも復帰。当時、取材でこう語っていた。《歌って、思い出を作ってくれるじゃないですか。時間もそうだし、呼吸、空気、香りも…。その歌に、宝箱のように、ある瞬間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提》(『日刊スポーツ』’02年12月15日付)’17年から活動休止中の彼女の心境を、川田が推し量る。「ファンへの感謝が強い人ですし、『万全の状態で表に出たい』という葛藤があるのかもしれない。とことん自分に向き合って妥協しないから……。周りが完璧だと褒めても、自分が納得できなければ満足しなかった。友としては、彼女が本当に歌いたくなるまではそっとしてあげてほしいな」それでも、「明菜待望論」は根強い。40周年記念の番組やリリースが相次いでいるのはスターの証しだ。歌の師である大本氏は断言する。「年齢を重ねたからこそ出せる味や歌声がある。それが自然だし、それでいい」いつになっても構わない。孤高の歌姫が解き放つ今の歌声をファンは待っている。(取材・文:岡野誠)
2022年05月01日中森明菜のヘアスタイル、あなたの“お気に入り”は?「ここ何年も歌っている姿を見ることができないのは寂しいです。早く元気な明菜さんが戻ってきてほしい……」(東京都 53歳 専業主婦)最後に中森明菜が公の場に姿を見せたのは’17年のこと。デビュー35周年を迎え、全国でディナーショーを開催した。そして今年の5月1日、デビュー40周年─。しかし、本人を直接見られる公演などの発表はない。それでも彼女の復帰を待ち望むファンの声は多い。また、最近では’80年代、’90年代の音楽やファッションを好む『昭和レトロ』が、週女世代にとっては懐かしくもあり、思い出も多いことだろう。そこで全国の40代~50代1000人にアンケートを実施。中森明菜のヘアスタイルの人気ランキングを調査した。そして、ファッション誌や数々の広告でヘアメイクを担当してきたNAYAさんに明菜のヘアスタイルについて解説してもらい、その魅力に肉薄!◆◆◆320票を集め、トップに輝いたのは『難破船』のミディアムロング。「『難破船』や『TANGO NOIR』のロングヘアが、すごく色っぽくて好きです。まねをしたかったのですが、自分とは素材が違いすぎて……。できませんでした」(東京都 50歳 専業主婦)こんな声が届いたが、NAYAさんによると、「まねしやすい髪型」だそう。「『難破船』の髪型は、毛先だけをワンカールした、シンプルなヘアスタイルですね。作り方としては、全体をストレートアイロンでサラッと熱を通して、毛先だけ太めのコテで巻きます。『TANGO NOIR』のヘアスタイルは緩めなソバージュを全体にかけて、前髪を持ち上げる感じですね」(NAYAさん)プロだから仕上げられる“外巻き”298票と、『難破船』に迫ったのが、デビュー2年目にリリースした『セカンド・ラブ』のいわゆる“明菜ちゃんカット”のレイヤー。「デビュー当時の、黒ロングの外巻き髪がすごく可愛かったのが記憶にあります」(兵庫県 48歳 専業主婦)「小学生のとき、自分も含めて周りの友達はみんなサイドを流してまねしていました」(大阪府 48歳 専業主婦)と、当時を振り返る人が多い。「初代チャーリーズ・エンジェルの、ファラ・フォーセットを彷彿させる、女性らしさの中に強さも感じさせる髪型です。サイドを強くカールするのが特徴。少し大胆にコテでサイドを外巻きにします」(NAYAさん)いかにも“アイドル”的な可愛い髪型だが、このヘアスタイルをまねしたところ、こんな失敗談も─。「当時、サイドを外巻きにしてまねしていたのですが、コテの性能が今ほどよくなくて。髪の毛が傷んで茶色になってしまいました」(神奈川県 55歳 会社員)明菜もこの髪型で苦労していたのだろうか?「当時のインタビュー記事で明菜さんが“普段はパーマをかけている”と話していました。だから、ブローだけであの外巻きを仕上げることができたのでしょう。ストレートの髪の毛をコテだけで外巻きにしたら、かなり傷んでしまうと思います」(NAYAさん)この時代、同じようにトップアイドルとして活躍していた松田聖子の“聖子ちゃんカット”も人気があった。ぱっと見、似ているのだが、NAYAさんは「狙っているものの違いがはっきりしている」と、こう続ける。「改めて見て思ったのですが、聖子さんのヘアスタイルは“可愛らしさ”を重視しているんです。髪の巻き方も、深く巻いて全体的にカールを強めにしている。対して明菜さんは、ブローでサラッと仕上げる大きめのカール。シックな感じにまとめているように思います」下手すると“こけし”、高難易度の明菜ボブそして154票を集めたのは、リリース当時も髪型と衣装が話題になった『DESIRE─情熱─』。「あのカツラと衣装が衝撃的でした」(北海道 50歳 会社員)「小さいころ、『DESIRE』の衣装がどうしても着たくて、母にお願いして浴衣や着物をリメイクして同じようなものを作ってもらいました。それを着て明菜ちゃんごっこをしていたのがいい思い出です」(青森県 42歳 会社員)明菜自身が衣装などセルフプロデュースしたとも報じられ、バックダンサーも明菜と同じボブのウィッグをつけていた。「ミディアムボブで、一直線の前髪が特徴のウィッグですね。一直線のパッツン前髪が艶っぽい女性像を演出しているように思えます。この髪型を一般の人がやろうとすると、難しいというわけではないですが、かなり個性的な印象になると思います」(NAYAさん)この言葉のとおり、アンケートのコメントにはこんな声も。「彼女をまねて、前髪パッツンのおかっぱにしたら、周りからすごく不評で……。まあ、自分でも似合わないと思っていたのですけど」(千葉県 52歳 専業主婦)こんな声に対してNAYAさんは、「下手すると、こけしみたいになってしまいますよね(笑)。地毛でああいったきれいなボブに仕上げるのは難しいんです。明菜さんの場合も、ウィッグなのでうまくいってたのかもしれません。あと、あの衣装だから素敵に見えるという部分もあるのでは」そして122票の『禁区』と106票の『少女A』は、どちらもまとめ髪。しかし、ちょっと雰囲気が違う。「『禁区』のヘアスタイルは、髪全体をコテで巻いた後、高めの位置でラフにまとめて、前髪と顔周りをふんわりさせた、可愛らしいポニーテール。『少女A』は髪にボリューム感を出すだけの軽いパーマをベースに、毛先が外にはねるようにブロー。女の子らしさを出して、片側の耳上の髪の毛だけを縛ります。元気でやんちゃな感じが出ていますね」(NAYAさん)『禁区』のポニーテールにはファンの思い入れが強いようで、コメントも多かった。「ポニーテールの形が独特で可愛かった。合わせているイヤリングも特徴的で、友達とよく話題にしていました」(岡山県 47歳 教師)「明菜ちゃんのポニーテールが大好きで、髪型や洋服などをまねて休みの日にお出かけしていました」(岡山県 57歳 専業主婦)「高校時代、明菜さんをまねしてパイナップルポニーテールにしていました」(京都府 53歳 パート)高い位置で髪をまとめ、その形が似ていることから『パイナップルポニーテール』と呼ばれていたようだ。NAYAさんは「この呼び方は初めて聞いた」と笑うが、明菜のポニーテールは、今も撮影の現場で話題になるという。「最近、’80年代や’90年代のファッション人気が来ていて、撮影のときにポニーテールで高めの位置で髪の毛を結んだり、明菜さんが当時やっていたようなピンクパールのリップなども使ったことがあります」(NAYAさん)明菜と同時代を生きてきた人たちはもちろん、’80年代を知らない世代にも受け入れられる彼女のセンス。NAYAさんは、改めて明菜に対する印象をこう話す。「自立した女性というイメージを最初から作り上げているんだな、と。媚びてないですよね。デビューして、ポニーテールくらいまでは“可愛らしい”を意識していたかもしれませんが、かなり早い段階からご自身の意見をスタッフに伝えていた、なんて話を聞くと、自分が進みたい方向がわかっていたのでしょう」5年間、ファンの前に姿を見せていない明菜。彼女を慕うファンたちの声は、届くのか─。〈取材・文/蒔田 稔〉
2022年05月01日中森明菜(1989年)今年、デビュー40周年を迎える中森明菜。5年前から、公の場にはいっさい、姿を見せていない。公式HPには、デビュー記念日となる5月1日からWOWOWで過去のライブ映像を放送することが告知されているだけ。なぜ、彼女は姿を消してしまったのかーー。「彼女の歌を聴いたときは鳥肌が立ちました」そう証言するのは当時、レコード会社『ワーナー・パイオニア』で、明菜のプロデュースを担当した小田洋雄氏だ。明菜を初めて見たのは、桜田淳子や森昌子、山口百恵などを生み出した人気番組『スター誕生!』(日本テレビ系)だったという。「決勝戦の前に、関係者だけで行われる下見で明菜を見たのが最初です。歌詞に対する理解度が深く、歌に説得力がありました。彼女が持つスター性と歌唱の表現力は別格。天性の才能を持っている15歳だと強烈に感じました」明菜は、1981年7月に行われた『スタ誕』の決勝で合格。芸能プロダクション『研音』に所属し、『ワーナー』と契約を結んだ。“花の82年組”に埋もれた明菜1982年5月、ファーストシングル『スローモーション』でデビューを飾ったが、当初は思うようにいかなかった。日本歌手協会の理事長で音楽評論家の合田道人氏が語る。「今でこそヒットした曲のように思われていますが、『スローモーション』のオリコンランキング最高順位は30位。新人にしては十分な結果かもしれませんが、そこまで爆発的なヒットではなかった」アイドル豊作年である“花の82年組”のひとりとしてデビューした明菜の同期には、シブがき隊、小泉今日子、石川秀美、早見優、松本伊代など、そうそうたるメンバーがそろっていた。「みんな、明菜ちゃんよりも先にデビューしていたこともあり、すでにすごい人気だったんです。後発で、楽曲がヒットしたわけでもない明菜ちゃんの存在は、埋もれてしまっていました」(合田氏、以下同)しかし、ここで人気に火をつけたのが1982年7月にリリースしたセカンドシングル『少女A』。「これはオリコンランキングの最高順位は5位。人気アイドルとなっていくのですが、その年、レコード大賞の新人賞を明菜ちゃんは受賞することができなかった」そう話すと、合田氏は1枚の新聞の切り抜きを取り出した。そこには、《『少女A』で人気上昇中だった中森は、ヒット性、歌唱力以外の仕事に対する姿勢、将来性などの評価が低く、落選に繋がった》と書かれている。デビュー間もない明菜だったが、それだけ“素行”が悪かったのか。「これは明菜ちゃんが『少女A』を歌うのを嫌がったというエピソードが関係していると思われます。『少女A』は、当時のツッパリや暴走族を連想させるような楽曲でした。彼女としては清純な『スローモーション』でデビューしたのに、ツッパリの曲を“歌いたくない!”と反発したことが“新人なのにワガママだ!”となって、新聞に書かれたのでしょう」サードシングル『セカンド・ラブ』ではオリコン1位を獲得。トップアイドルへの階段を駆け上がった。が、次第に彼女への悪評も増えていく。「デビューしたての新人なのに、現場で気に入らないことがあるとふてくされ、スタッフの言うことも聞かないなんて話はよく耳にした。スタイリストが用意した衣装が気に入らなくて、自分で買いに行ったりとか」(芸能プロ関係者)“育ての親”が明かすの明菜の素顔人気が出て、慢心したのか。当時、明菜のマネージメントを担当し『研音』の部長でもあった角津(つのづ)徳五郎氏は、「確かに“明菜はワガママだ”とか“めんどくさい子だ”と言う人はいっぱいいましたけど、私はそう思ってはいませんでした。本人もそうとう勉強していましたから、いいモノを作ろうと一生懸命だったのです。はっきり意見を言う子でしたからね。“まだ小娘のくせに生意気だ”と思った人はいたかもしれませんが」明菜は自分がやりたいと思ったことを、強く主張してきた。時には言い合いになることもあったという。「だからといって関係性が悪くなるようなことはありませんでした。ただ、デビューしたてのころ、明菜がコンサートで自分が選んだ曲を歌いたいというので、許可したんです。しかし、当日になっても歌詞を覚えきれていなかったことがありました」(角津氏、以下同)角津氏が烈火のごとく怒鳴りつけると、明菜は会場から飛び出した。戻ってきたのは3時間後のことだった。「“どうするんだ?”と聞くと“歌う”と言うんです。歌詞も覚えてないくせに……と思ったら、ちゃんと歌えるんですよ。逃げ出したのかと思ったら、こっそり練習していたんです。海外の歌だったのですが、英語の発音もうまくって(笑)」デビュー当初から明菜が出演していた音楽バラエティー番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)のプロデューサーだった丸山明慶氏も、当時の明菜を知るひとり。「『ヤンヤン』は歌だけではなく、コントやドラマなどのコーナーもありました。そこにさまざまな新人アイドルを起用していたのです。明菜もそのひとりでしたが、彼女の新曲は必ずどこよりも先に流すことにしていました」(丸山氏、以下同)画面には《独占!明菜の新曲》とテロップを流し、放送していた。「人気番組だった『夜のヒットスタジオ』を作っていたフジテレビは、怒り心頭だったと明菜の事務所からは聞いていましたが、絶対に譲らなかった。番組は毎週火曜日収録で日曜放送だったのですが、1回だけどうしてもスケジュールが合わず、他局に先に流されてしまいそうになったことがあったのです」そこで急きょ、土曜日に収録を行うことにしたという。「明菜は“どうしてほかのタレントはいないんですか?”と言うんです。説明すると、彼女はセットの真ん中で“お休みかもしれないのに、私だけのためにありがとうございます”と言って、スタッフひとりひとりに向かって頭を下げたんです。それを見て、本当にいい子だなと……」松田聖子の曲を披露した明菜明菜はそこで、ある曲を歌ったという。「セットチェンジの合間でした。スタジオの真ん中で松田聖子さんの曲を歌ったんです。それが本当にうまくって。うちにはモノマネのコーナーもあったので“明菜、今度番組でも歌ってよ”と言うと“あれは聖子さんの歌だから……。私が聖子さんの歌をステージで歌っちゃいけないと思ってます”と言うんです。なかなかしっかりしたことを言うなと思いましたね」『ヤンヤン』は、明菜のお気に入りの収録現場だった。コントではハリセンで明菜の頭を叩くことも。丸山氏は、「明菜みたいな売れっ子がよくやってくれたと思います。何も文句を言わず、逆に率先してやってくれたぐらいです」時には事務所から、「収録が入っていないから明菜が怒っている」と、丸山氏に電話があったほど。前出の角津氏も、こう証言する。「番組を見た他局のスタッフからオファーもありましたが、明菜は“そんなのやらない”と言うんです。コミュニケーションの問題だったと思います。『ヤンヤン』では、自分がとても必要とされていると感じていたのでしょう」ただ、『ヤンヤン』には近藤真彦が出演していたことも、明菜にとっては特別だった。「うちの番組は『学校の放課後』ともいわれていて、年の近いタレントがいるから、話せて楽しかったんでしょうね。なにより明菜は“マッチに会うために歌手になった”とも言っていました。コントでマッチを抱きしめる役のとき、明菜も顔がにやけていました」(丸山氏)近藤と少しずつ距離を縮め、ふたりはほどなくしてひそかに交際をスタートさせた─。が、幸せな時間は長くは続かなかった。近藤真彦との一件から周囲と距離1989年7月11日のこと。明菜は近藤の自宅マンションで手首を切って自殺を図った。当時を知る芸能ジャーナリストの石川敏男氏は、明菜の自殺理由についてこう話す。「同年2月、マッチが松田聖子とニューヨークで密会し、キスしている写真が週刊誌に掲載されたのです。明菜さんはそれでマッチと揉めた末、自殺を図ったのです」同年12月31日。NHK紅白歌合戦の裏番組で、明菜は復帰を報告する緊急会見を開いた。そこで、自殺理由について問われると、「なんて愚かな……、なんてバカなことをしたのか……」と、涙ながらに口にした。事情を知る、とある芸能プロの幹部は、「当時、マッチはモテ男でしたから、何人もの女性タレントとウワサがあった。破局のきっかけとなった報道の前からマッチの女性問題でふたりの関係はこじれていた。明菜には積もり積もったものが、あったのです」ここから明菜は、少しずつ表舞台から姿を消していく。「金銭トラブルや事務所との関係悪化、周囲の裏切りを受け、次第に人と距離を置くようになっていきます。1995年には実母が亡くなって、明菜さんは中森家の戸籍から自分だけ籍を抜いてしまう。“家族がお金を使い込んでいる”と思っていたようですが、一方で、明菜さんの家族は“事務所がそう吹き込んだ”と主張。しかし、真相はわからないまま。2019年には妹の明穂さんが病気で亡くなりましたが、葬儀にも姿を見せていません。25年以上、家族との関係は断絶したままです」(スポーツ紙記者、以下同)実父が昨年暮れに入院していたいちばん身近な家族とまで距離をとり、彼女はひとりになってしまった。狂った歯車は直らないまま、明菜は暴走していく。前出の石川氏は、「ファッション誌の撮影の際、明菜さんは編集者を高級ブランド店に連れていき、棚の端から端まで全部買い占めようとしたことも。仕事をドタキャンすることも増えていき、精神状態は悪化。悪循環に陥っていくのです」その後もドラマの主演を務めるなど、活動の幅を広げた時期もあったが、彼女の心は次第に壊れていった。「2010年に体調不良のため無期限活動休止を発表。2014年の紅白に出場してから、活動を再開するも、2017年のディナーショーを最後に、表舞台からは完全に姿を消してしまった」もう一度、彼女が歌う姿を見たい。なによりも、それをいちばん願っているのは、家族のはず。実父に話を聞こうと、都内にある実家を訪ねると、雨戸は閉ざされ、郵便物は地面に散乱している。引っ越してしまったのだろうか。近隣住民に話を聞くと、「お父さんは昨年暮れに体調を崩して入院されたそうです。明菜さんが来たかって?それは、わかりません……」80代になる実父が入院しても、彼女は会いに訪れることはないのだろうか─。
2022年04月30日抜群のセンスと数々のヒット曲で日本歌謡界のトップスターに君臨し続けた中森明菜(56)がまもなくデビュー40周年を迎える。ここ数年は公の場に姿を見せていないが、デビュー日の5月1日、並びに6月17日には40周年を記念してWOWOWで過去のライブ映像が配信されるなど、今もなおその人気は衰えていない。しかし、’89年に自殺未遂を起こして以降、90年代には事務所トラブル、’10年に無期限活動休止を発表するなど波乱の多い人生でもあった。’81年、15歳で『スター誕生!』で山口百恵の『夢先案内人』を熱唱したことをきっかけに芸能界入り。翌’82年に“ちょっとエッチな美新人娘”というキャッチフレーズでデビューし、同年発売した2枚目のシングル『少女A』ですぐさまブレイクを果たした。松田聖子を代表とするそれまでの可愛らしいアイドル像とは異なる、明菜の不良っぽい雰囲気と歌声は、多くの人を魅了。瞬く間にトップアイドルの座へと登り詰めたのだ。‘85年の『ミ・アモーレ』と、その翌年に発売した『DESIRE-情熱-』では、史上2例目となる2年連続の日本レコード大賞受賞の快挙を達成。その後も数々の賞を受賞し、明菜はアイドルとしての絶頂期を迎えることになる。何もかも順調に見えた明菜だが、プライベートでは悩みを抱えていたようだ。’89年7月11日、当時交際していた近藤真彦(57)の自宅で左肘の内側を刃物で切って自殺を図ったのだ。帰宅した近藤に発見された明菜は、病院へと緊急搬送され一命を取り留めた。明菜は近藤と共に’89年12月31日の大晦日に、一連の騒動に関する会見を開いたが、その会見は”結婚を連想させる金屏風の前での謝罪”という異様なものに。明菜の辛そうな面持ちに、世間からは心配の声が相次いだ。その後、近藤とは破局した。この件を境に、明菜の周りではトラブルやスキャンダルが多数報じられるようになる。女優として活躍したり、『Dear Friend』(‘90年)などのヒット曲を発売したりする一方で、事務所やレコード会社の移籍を繰り返す。その後、徐々に活動の範囲を絞っていった明菜。’10年には体調不良により無期限の活動休止を発表したのち、’14年末に『紅白歌合戦』に出演。’16年からはカバー・アルバムを発売するなど本格的に再始動したが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。デビュー40周年を迎える今年、明菜の歌声を聞くことはできるのだろうかーー。
2022年04月30日1982年5月1日にシングル「スローモーション」で衝撃のデビューを果たした中森明菜。数多くの名曲を世に送り出し、1985、1986年には2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、いまや日本を代表する伝説の歌姫となった彼女。MUSIC ON! TV(エムオン!)では、今年デビュー40周年を迎えることを記念して、過去のライブ作品から「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」「Live in '87・A HUNDRED days」「Live in '88・Femme Fatale」「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」の4ステージを4時間30分にわたって、デビュー日である5月1日に一挙放送!「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲の数々が、圧倒的な歌唱力で歌い上げられる華やかなステージをお見逃しなく!\4ライブ、4時間30分放送/■■番組情報■■M-ON! LIVE 中森明菜 「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」<放送日時>2022/5/1(日)13:00~14:00<番組内容>1985年9月22日、東京・東京厚生年金会館で開催されたライブの模様を放送。代表曲「飾りじゃないのよ涙は」をはじめ、「十戒(1984)」など華やかなライブステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '87・A HUNDRED days」<放送日時>2022/5/1(日)14:00~15:00<番組内容>1987年に行なわれたツアーより、10月17日の東京・東京厚生年金会館公演の模様を放送。アルバム『CRIMSON』『BITTER AND SWEET』『不思議』からの楽曲を中心に、「飾りじゃないのよ涙は」などのヒット曲も楽しめるステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '88・Femme Fatale」<放送日時>2022/5/1(日)15:00~16:00<番組内容>1988年10月26日の東京・中野サンプラザ公演の模様を放送。「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」といった昭和懐メロや洋楽のカバー曲も楽しめる、バラエティー豊かな彼女のステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」<放送日時>2022/5/1(日)16:00~17:30<番組内容>1991年7月27日・28日に千葉・幕張メッセで行われたスペシャル・コンサート。「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲を圧倒的な歌唱力でお届け。以上MUSIC ON! TV(エムオン!)は、スカパー!、J:COM、ケーブルテレビ、ひかりTVなどでご覧いただける音楽チャンネルです。詳しくは、MUSIC ON! TV(エムオン!)公式サイト( )まで。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年04月26日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、憧れていたアイドルの話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう--。■ファッションの斬新さは今も色あせません『DESIRE-情熱-』(’86年)は、中森明菜にとって14枚目のシングルとなる。同曲が採用され、明菜自身も出演していたCDコンポ(パイオニア)のCMが、記憶に残っている人も多いはず。レコードには、楽曲への自信の表れなのか「このレコードは可能な限り大音量でお聴きください」という注意書きが記されていた。「前年に発表した『ミ・アモーレ』(’85年)に続き、2年連続で日本レコード大賞を受賞するという、史上2例目となる快挙を達成。明菜さんを、アーティストとしての絶頂期へと押し上げた名曲です」こう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。まず、この楽曲でインパクトを与えたのは、ボブのウイッグを身につけたヘアスタイル、そして独特のファッションだった。「レコード(CD)のジャケット写真は着物姿でしたが、歌番組などで歌うときは、着物をアレンジしたような、和テイストをふんだんに盛り込んだ洋装。日本の文化を感じさせたためか、外国人の間でも評価が高かったようです。ファッションの斬新さは約35年を経た今も色あせていません。いまだにコスプレ用の衣装がアマゾン・ドットコムでも販売されているのが、その証しでしょう。アイドルのイメージが周囲のスタッフによって作り上げられていた時代、明菜さんはメークやファッションなどで、自分自身をプロデュースしました。曲によってガラリと印象が変わるのはそのため。翌年の『難破船』などは、まったく別の歌手のようでした」観客から『はっ、どっこい!』と合いの手が入るサビの部分のアクションも特徴的。「上半身を揺らし、大きく屈むパフォーマンスは、野球のピッチングフォームから着想を得たという逸話も。カラオケを楽しむ若者が増えてきたころだったため、こうした振付も含めて愛されました。私自身、パイオニア協賛のカラオケ大会で、この曲を歌って準優勝したことがあるくらい(笑)」同曲が発表された’86年は、バブル絶頂期へと上り詰めていく時期。「今振り返ると当時は、右肩上がりの景気に誰もが浮かれていました。それが“バブル”で、近い将来“崩壊”するとは予見できなかった半面、どこか短期的な、はかなさを感じていた人もいたはず。そんな時代の中、ある意味、刹那的ともいえるサビの部分の歌詞も、人々の心に刺さったのかもしれませんね」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年04月17日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、カラオケでよく歌った曲の話。活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。■今でも解釈の幅が広がり続ける名曲「松田聖子さんの曲は、デビュー当初は大人の恋愛への憧れとドキドキ感、次第に失恋の胸の痛み、そして失恋が美しい思い出へと変化していくことを歌った『SWEET MEMORIES』(’83年)へと、ファンとともに大人の女性の歌に成長していきました。そして’86年、聖子さんの13枚目のアルバム『SUPREME』に収録されたのが『瑠璃色の地球』です。歌詞は恋愛要素も感じさせますが、『地球』というタイトルに、荘厳な曲調も相まって、単なる恋愛を超えた、もっと広い意味での愛や希望を感じさせます」そう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。『瑠璃色の地球』の作詞は松本隆、作曲は『風立ちぬ』(’81年)のB面曲『Romance』や井上陽水の『少年時代』(共作・’90年)を手がけた平井夏美(川原伸司)。レコーディング時、聖子は妊娠中だったといわれている。「だからこそ、その歌声からは懐ろの深い、無償の愛が感じられるのではないでしょうか。’80年代後半はバブル特有の拝金主義時代とも言われ、“造っては壊す”や勝ち組・負け組があからさまな競争社会でもありました。ゆえに、余計にこの曲が人々の心に染み入ったのかもしれません」NHK紅白歌合戦では出産後初めての出場だった’86年に続き、’01年、’20年にも同曲が歌われた。「’01年のときは、かつて交際の噂が報じられたシンガーソングライターの原田真二さんがピアノで伴奏したこともあり、話題になりました」その後、多くのアーティストに愛され、辛島美登里、沢田知可子、広瀬すず(アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の劇中歌)らがカバーしてきた。とりわけファンを驚かせたのは、中森明菜がカバーアルバム『ZERO album~歌姫2』(’02年)で同曲を歌ったことだった。また’10年4月には、宇宙飛行士の山崎直子さんの、国際宇宙ステーションでの“目覚ましソング”に選ばれた。「さまざまなアーティスト、さまざまな場面によって歌い継がれ、時代の移り変わりとともに『社会貢献』『ロハス』『貧困と格差』『環境問題』など、解釈の幅も広がりました。40年近く前の曲ですが、現在、国際的に提唱されているSDGsの理念にも通じます。まさに聖子さんの代表曲といっても過言ではないでしょう」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年03月27日小泉今日子今年でデビュー40周年を迎え、31年ぶりの全国ホールツアーを実施するなど本格的に音楽活動を再開させた小泉今日子。そんな彼女が伝説のアイドルになれたワケとはーー?’89年にリリースされた話題のシングル『Fade Out』を制作し、今でも彼女と親交があるという近田春夫に聞いた。芸能人っぽくない“一面”も「日本のハウスミュージックと銘打って日本で作られたのは、あの曲が最初。その直後の’90年に寺田創一さんがリミックスした『サンシャワー』という曲が出ましたが、当時は日本語のハウスは、その2曲しかありません」’89年にリリースされた小泉のシングル『FadeOut』は、当時では珍しいハウスのリズムを取り入れた話題曲。制作したのは近田春夫氏だ。「共通の知人で仲よくしているカメラマン夫妻がきっかけで、小泉さんが僕の音楽を知ってくれたようで。最初に小泉さんと会ったのは表参道のカフェでした」昨年、近田氏はデビュー50周年と古希を迎えた。その記念イベントで小泉に出演を依頼。それをきっかけに、最近では小泉とラジオに出演するなど、再び親交を深めている。「僕と仕事したのは、ほかのアイドルとは違うものをやりたいという意識があったからでしょう。度胸があって、どっしり構えてくれました」小泉の新しいことを恐れないという姿勢がうかがえる。「自分で会社を作って、出演する立場から、映画や舞台を作る裏方の立場にもチャレンジしています。今はそのことにものすごく燃えています」小泉本人が仕事のメールを送るなど、会社員のような作業もしているという。「自分が全体を仕切ってやっていく立場となると、人間関係でも人望がないとできないこと。今回のツアーで、グッズなどを全部、本人がデザインしているけど、どれが売れ行きがいいかなどの経営者視点もあります」タレントの“お嬢様芸”ではできないことだ。「会社の経営者として非常に落ち着いた目で“小泉今日子”という商品を客観的に見ている。それはすごいと思う一方で、普段は芸能人っぽくないというか、気さくな友達のよう。自分で車を運転して、電車も乗ったりしています」一般の人と変わらない部分があるからこそ、時代や世の中が求めるものを客観的に捉えられるのかもしれない。「事務所にいたときは、誰かが形にしてくれたこともあったでしょうが、今は自分のアイデアを自分の力で形にしている。大変そうだけど生き生きして見えます」独立して多忙でも、充実しているという。過去に出会ってきた逞しい人たちの影響も大きいと指摘する。「筒美京平さん、秋元康さん、内田裕也さんといった芸能界の人だけでなく、普通の友人などでも、いい知人や仲間を持っている。いろんなことを吸収したんでしょうね」さまざまな才能を発揮する小泉だが、近田氏はいちばんの魅力を“声”だと断言した。「彼女は歌声もしゃべっている声も素敵なんです。一緒にレコーディングなどをして思うのは、やっぱり小泉今日子は声なんだって。人間性やほかの才能をよくクローズアップされますが、まずは声。聖子ちゃんや明菜ちゃんもそうだけど、伝説的なアイドルになる人は声がいい人ですよ」近田春夫’51年2月25日生まれ。東京都出身。ミュージシャン、作曲家、プロデューサーとして多岐にわたり活躍し、ラジオ番組『TOKYO M.A.A.D SPIN』(J-WAVE)では小泉とともにナビゲーターを務めている
2022年03月19日東出昌大、中森明菜東出昌大が所属していた芸能事務所『ユマニテ』を2月14日付で退所していたことが明らかになった。退所にあたって所属事務所の出したコメントには“契約終了”とあったが、その内容と状況からみて、東出が“クビ”になったと感じる向きもある。『東出昌大についてお知らせいたします』というタイトルの付いた声明文には、唐田えりかとの不倫、そして元妻・杏との離婚後も支え続けてきたがゆえの、複雑な思いが込められている。《昨年秋、東出の配慮に欠ける行動でその再生への道は頓挫いたしました。その時私たちが感じたものは怒りというよりも、徒労感と虚しさでした。そして熟慮の末に、これ以上共に歩くことはできないという結論に達しました》“昨年秋”とは、『週刊文春』に報じられた「ロケ現場の広島にハーフ美女を呼びつけていた」ことであるが、この文面からは怒り以上の何かを読み手に感じさせる。これまで、不祥事を起こして契約解除になった芸能人は数あれど、退所発表で事務所がここまで感情を顕にしたケースはほとんどない。事情は異なるが、唯一思い出されるのは、中森明菜のケースだ。1999年11月、明菜が所属していたレコード会社『ガウスエンタテインメント』の斎藤至廣社長(当時)が記者会見を開き、前代未聞の“引退勧告”をしたことがある。タレントに非情な事務所のレッテル《これ以上の犠牲者を出してはいけません。中森明菜はこの業界に置いてはいけないタレントです》そんな衝撃的な言葉を放ったのにはワケがある。自殺未遂に暴力沙汰、宿泊先のホテル代を滞納、仕事の予定をキャンセルするなど芸能界の問題児だった彼女を周囲の反対を押し切り、『ガウス』が“引き取る”かたちで契約したのが1998年1月。中森明菜というアーティストの才能が埋もれてしまうのがあまりにも惜しい、と救済の手を差し伸べたのも束の間──宣伝担当者が新曲の宣伝のためにテレビ番組出演を決めても出たがらない、シングル『Trust Me』、アルバム『will』はレコーディングこそすれ、明菜がPVを撮るスケジュールを出さずに撮影ができないなど、トラブルが重なった。その後、連絡がとれなくなったことでついに、斎藤社長は怒りの会見を開くこととなった。「当時は、“やはりあの明菜をマネジメントすることはできなかったか……”と周囲やマスコミも同情する流れがありましたが、本来はそのような会見を開くことが自身にとってネガティブに働くところも大きい。“タレントに非情な事務所”とのレッテルを貼られてもおかしくないからです。所属するほかのタレント、今後新しく入ってくるであろうタレントの卵たちにもいい影響は与えないでしょう」(芸能プロ関係者)『ユマニテ』が東出に出した感情的な文書も、ネット上で大きな話題になった。もちろんそのなかには、同事務所にむけられた同情の声もあったが、《東出昌大、退所の事務所コメントが話題「ブチ切れ通り越してる声明で草」「ここまで赤裸々に書くってなかなか」》(中日スポーツ)《東出昌大 事務所からも絶縁通告…「ここまで書かれるなんて」と波紋》(女性自身)と、ネットニュース上で大いに物議を醸すことに。事務所社長があえて名前を出してコメントした“愛情”「ここの社長は職人気質で女性スキャンダルが大嫌いだと聞きました。また所属俳優をとても大切にしているからこそ、裏切られた感が強かったんでしょうね。それに東出さんは不倫騒動に関しては反省していたようですが、ロケ現場に恋人を呼んだことに関してはなぜ非難されるのか理解できていなかったそうです」(芸能プロ関係者)しかし、老舗芸能プロ幹部は『ユマニテ』のとった行動に対して、別の真意を受け取ったという。「あの社長の言葉は一見辛辣のように見えて実は愛があるようにも見えるのです。“契約解除の運びになりました”と簡潔な文書でまとめることもできるのに、あえて、《畠中鈴子(ユマニテ代表取締役)コメント》として、ネガティブな反響もあるような言葉を世に出した。あえてボロクソにいうことで、“そこまでいうことはないだろう。可哀そうだ”と東出を擁護する声も聞かれるようになりました。業界内からはきっと、ひとりで放り出された彼に“手を差しのべる人”も出てきやすくなる。他の事務所彼を拾うとして、きっと、“事務所を追い出されたから”という理由があったほうが行動に移しやすい。つまり、あのコメントは事務所社長の最後の親心なのではないでしょうか」(芸能プロ関係者)先の中森明菜の会見。斎藤社長はこう締めくくった。《明菜を潰してしまえとか、干してしまえなどという意味ではなく、半年くらい一人で考えて、更生して欲しいと思っています。ファンやスタッフがあっての自分だということに本人が気づいてくれたら、もう一度手をさしのべようと思っています》東出はもう一度立ち上がることができるか──。<芸能ジャーナリスト・佐々木博之> ◎元フライデー記者。現在も週刊誌等で取材活動を続けており、テレビ・ラジオ番組などでコメンテーターとしても活躍中
2022年02月20日「花の中三トリオ」(上段左から桜田淳子、森昌子、山口百恵さん)、下段は中森明菜とピンク・レディー山口百恵さん(63)、森昌子(63)、桜田淳子(63)、岩崎宏美(63)、片平なぎさ(62)、ピンク・レディー、石野真子(61)、小泉今日子(56)、中森明菜(56)……。彼女たちには共通点がある。ピンと来る人は多いだろう。全員、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』(1971年~1983年)の出身者である。この番組へ出場を申し込んだ人は約200万人。その中からデビューを遂げた人は88組91人いる。終了から38年目が過ぎたものの、現在も現役で活躍する人が少なくない。これほど成功を収めたオーディション番組は後にも先にも存在しない。どうして数々のスターを生むことが出来たのだろう。また、どうして番組は消えたのか。■日テレと渡辺プロの“関係”当時の事情を知る元日本テレビ幹部と元大手レコード会社幹部に聞いた。まず、「『スタ誕』が生まれた経緯には大人の事情があるんです」と語るのは日テレ元幹部。背景には次のような話があったという。 『スタ誕』の誕生前、日テレには『タレントスカウトショー あなた出番です!』(1966年~1969年)というオーディション番組があった。制作に深く関わっていたのは当時の芸能界に君臨していた芸能事務所の渡辺プロダクション。ここで発掘された新人はすべて同社からデビューした。「ウチとしてはほかのプロダクションともお付き合いしたかった上、そもそも当時は渡辺プロへの不満が溜まっていた。そんな下地があったので、渡辺プロを除いた約40社のプロダクションとレコード会社に参加してもらい、『スタ誕』をつくったんです」(同・元日テレ幹部)ケンカを売られた渡辺プロも黙ってはいない。新しいオーディション番組をフジテレビと一緒につくった。『君こそスターだ!』(1973年~1980年)である。放送時間帯も『スタ誕』が日曜午前11時だったので、それより早い同10時からとした。 『君スタ』からは林寛子(62)、高田みづえ(61)、石川ひとみ(62)たちがデビューした。所属先は必ずしも渡辺プロではなく、さまざまだった。日テレと渡辺プロには確執が生じていたが、渡辺プロと大半のプロダクションにはわだかまりがなかったからである。当時の芸能プロには渡辺プロ出身者が多かったことが大きく影響した。日テレと渡辺プロの対立は図らずもオーディション番組の黄金期を招く。「審査員も張り合い、『スタ誕』の顔が作詞家の阿久悠さんだったのに対し、『君スタ』はライバルのなかにし礼さんを起用。充実していました」(同・元日テレ幹部) 『スタ誕』の場合、予選大会の通過者が決勝大会に進み、プロダクション、レコード会社が「獲りたい」と思うと、社名入りのプラカードを上げた。この仕組みが功を奏したとよく聞く。「視聴者が見ている前で獲得を宣言するから、みんな責任感が増すんですよ。視聴者が将来を期待した人を失敗させる訳にはいきませんから」(元レコード会社幹部)■アイドルが“儲かった”時代ちなみにもっとも多くプラカードが上がったのは桜田淳子の25本。1972年9月、4回目の決勝大会でのことで、当時の桜田は14歳だった。同い年の百恵さんが応募したのはその直後。自分と妹を1人で育てていた母親を経済的に助けようと考えてのことだった。百恵さんのプラカードは20本。7年間におよんだ百恵伝説の幕開けだった。透明性が確保された番組のようで、実は決勝大会前に下見の機会が設けられていた。ここでプロダクション、レコード会社は「あの子を獲り、こんな路線で売ろう」などと作戦を練った。また、プラカードが複数上がった場合、本人と家族が各社と面接し、待遇や条件を吟味。その上で所属先の最終決定は日テレ側が行なった。「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)例えば1981年には3月に小泉今日子が決勝大会で合格。その4か月後の7月、中森明菜がやはり合格したが、日テレの意思によって2人は同じプロダクション、レコード会社にはならなかった。「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)すべてはプロデューサーの故・池田文雄さんの考えだった。中学から大学まで慶応で音楽に没頭し、大学時代はダーク・ダックスと一緒に男性合唱団の活動をした人だった。時代も『スタ誕』に味方した。「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)たしかに百恵さんはレコードが売れたのみならず、主演映画13本はすべてヒットした。1980年代から90年代の小泉今日子はCM女王の名を欲しいままにした。では、どうして『スタ誕』は消えたのか。「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)有望なアイドル志願者が流出したことが一番の理由になり、1970年代には15%を超えていた世帯視聴率が、80年代に入ると10%に届かなくなった。これでは存続が難しかった。役割を終えた『スタ誕』が消えるのは歴史の必然だった。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年02月11日(左から)中森明菜、堂本剛、薬丸裕英ある日突然、片耳が聞こえなくなる「突発性難聴」片側の身体に痛み、かゆみが生じる「帯状疱疹」コロナ禍でこんな症状が増えているという。この病気、治療にタイムリミットがあるんです。放置して重症になる前に知っておきたい初期症状。■ストレスが引き金!? 【帯状疱疹】コロナ禍で患者の急増が懸念されている2つの病気をご存じだろうか?いずれもストレスが原因。自粛生活を余儀なくされ、仕事や収入で不安を抱えている人が多い今だからこそ気をつけたい。気づいたころには手遅れの可能性もある、見過ごしたくない2つの病気に迫った。「子どもとプールで遊んでいたら、突然おでことまぶたがこれまで経験したことがない猛烈なかゆみに襲われ、その後、赤いポツポツが左半身のあちこちに出て、顔は『四谷怪談』のお岩さん状態。かゆみだけでなく痛みも伴うようになったので病院へ行ったところ、帯状疱疹と診断されました。そのころ会社で異動があり、慣れない仕事で忙しく、さらに子どもの学校のPTA役員にもなったので、疲れとストレスがたまっていましたね」そう語る30代のKさん。激しいかゆみと痛み、そして恐ろしく腫れ上がった顔は今も忘れられないと言う。「帯状疱疹は誰もが発症する可能性がある」と医師の秋津壽男先生は注意を促します。「帯状疱疹は小児期に感染した水疱瘡のウイルスが神経節に潜み続け、身体の免疫力が下がったときに暴れだすのが原因です。皮膚に赤い点のような水疱性の湿疹が連続し、帯状になることからその名がつきました。ちなみに歴史上の人物が何の病気で亡くなったのかを探る歴史病理学の研究者によると、お岩さんも帯状疱疹だったのではないか、という説もあるそうですよ」発疹に加えかゆみや痛みが出る帯状疱疹、どんな初期症状があるのだろうか?「帯状疱疹は皮膚の神経の病気なので、赤いポツポツが出る3日前くらいから、皮膚を触るとヤケド直後のようなピリピリ感があったり、その部分を押すと芯のあたりが痛いといった不快な初期症状が出ます。また人間の身体の神経は左右に分かれているため、右半身、もしくは左半身にだけ出るのも帯状疱疹の特徴で、脇や太もも、顔などは神経の幅が広く、幅20センチほどの発疹が出るので、症状の範囲がかなり広くなります。治療をせず放っておくと、ヤケドの痕のような状態になったり、帯状疱疹後神経痛になって、何年もペインクリニックへ行くほどのつらい症状が出ることもあります。さらに顔に出た場合、目の中にウイルスが入るとヘルペス性角膜炎を起こして角膜が壊れ、失明するケースもあります。もっと怖いのはウイルスが脊髄や脳に入って髄膜炎を起こし、身体にまひが残ったり、死に至ることもあるんです」(秋津先生)なんとも怖い帯状疱疹、予防する術はあるのか?「発疹が出たら、ブツブツが3つくらいまでの早い段階で病院へ行ってください。ウイルスを殺す薬(内服、点滴)があるので、早ければ早いほど効果があります。また昨年『シングリックス』というワクチンが出て、これを2回打てばかなりの確率で予防できるようになりました。ただ保険がきかないので1回2万円、それを2回なので4万円ほどと高額なのがネックですが、身近な人が帯状疱疹で顔が腫れ上がった状態を見て接種を決める方も多いですね」(秋津先生)帯状疱疹は免疫力が下がることが発症原因。疲れやストレスをためないことがいちばんの予防法なのだ。「ストレスをためないためにはどうしたらよいかとよく聞かれますが、私が患者さんにいつも言っているのは完璧を目指さず『100点を目指さず、60点でいい』ということ。そして『病気のときは人のことを考えずにわがままになりなさい。不義理をしなさい』と言っています。とにかく疲れをためず、適度にサボり、ポジティブシンキングをしてください」(秋津先生)●帯状疱疹(1)皮膚がピリピリするなど痛みや不快感があったら注意!(2)発疹が出たら、ブツブツが3つくらいまでの間に病院へ!(3)ワクチンで予防する選択肢もあり。とにかく疲れやストレスをためないこと!■原因はいまだ不明! 【突発性難聴】「朝起きたら右耳が詰まっている感じがあって、耳抜きをしても治らない。おかしいなと出勤途中にネットで調べると、どうやら突発性難聴の症状。ためしにイヤホンで右耳と左耳を聞き比べたら、やっぱり右耳がおかしい。打ち合わせをしたら、男性の声が聞こえづらい。これは変だと思い、会社帰りに近くのクリニックへ行ったところ、やはりそうでした。治療のかいあって、今では問題なく聞こえています。私はコンサートへ行ったりなど音楽を聴くのが大好きなので、本当に早く行ってよかった」そう語るのは40代のHさん。一方30代のAさんもHさんと似た不調に悩まされていたが症状を放置したため、今も左耳が聞こえづらい状態のままだそう。「おかしいなと思ったときにすぐに行けばよかった」と悔しさをにじませる。「突発と名前がついているとおり、昨夜までなんともなかったのに朝になったら片方の耳が聞こえなくなっていた、という方が多い病気です。原因はストレスや疲れではないか、耳の奥にある音を聞く蝸牛という器官の細胞が炎症を起こすからではないかなどといわれていますが、今の段階では不明です」(秋津先生)原因不明なので予防法もなし。片耳がおかしいなと思ったら、選択肢は「すぐ病院へ」のみ!■帯状疱疹と突発性難聴は一刻を争う病気「突発性難聴は、症状に気づいてから3日以内、遅くとも1週間のうちに治療を開始しないと、聴力がそのまま失われることがあります。治療をすると3分の1の人は元どおりになりますが、3分の1は前に比べて聴力が落ち、残り3分の1がまったく聞こえなくなってしまうといわれます。厄介なのは、耳は2つあるので、突然聞こえなくなっても気がつかない人もいるんです。なので『おかしい』と思ったら携帯電話を右耳と左耳交互に当て、音が聞こえるか試してみてください。片耳を手で押さえただけでは音が回り込んで聞こえる場合があるので、この方法がおすすめです」(秋津先生)初期症状には「耳鳴り」「聞こえにくい(高音から低音まで聞こえなくなる音の高さは人それぞれ)」「耳が詰まった感じ(耳閉感)」だそう。もし耳鼻科が近くにない場合は、内科などがある病院であれば薬で応急処置してくれる場合もある。「突発性難聴は誰でもなる可能性がありますから、とにかく早く気づくことが大事。余談ですが、片目が見えていないまま過ごしている人も多いんですよ。なので毎朝起きたら『右目OK、左目OK、右耳OK、左耳OK、はい、じゃあ今日も頑張りましょう!』と、目と耳を個別にチェックしてください。帯状疱疹も突発性難聴も、救急車を呼ぶ病気ではないけれど、『おかしいな』と思ったらすぐ、夜なら翌朝一番で、仕事を休んででも病院へ行ってください」(秋津先生)コロナ禍で病院へ行くのをためらってしまう人も多いが、帯状疱疹と突発性難聴は一刻を争う病気。もしこんな症状が出たら、何をおいても病院へGO!●突発性難聴(1)突然片耳だけ聞こえづらい、詰まった感じ、耳鳴りがあればすぐに病院へ!(2)症状が出たら3日以内、遅くとも1週間以内に病院へ!(3)予防法はなし!両耳が聞こえるかどうか毎朝チェック!■帯状疱疹や突発性難聴を患った芸能人◆突発性難聴●完治した人・相田翔子(51)26歳のころに発症。相田はメニエール病も発症したことがあり、完治したという●残念ながら……症状が残ってしまった人・堂本剛(KinKi Kids)(42)’17年に左耳に発症。「完全に治ることはない」とファンにコンサートで告白した・浜崎あゆみ(43)’00年に左耳に発症。コンサートツアーを延期したものの完治に至ってはいないという・藤あや子(60)’10年に左耳に発症。仕事をすべてキャンセルし治療に専念した・大友康平(65)’12年に発症。手術をしたというが症状は改善されていないという◆帯状疱疹●完治した人・薬丸裕英(55)今年に入り発症。左目の上部、下部の痛みがきっかけで早期に気づいたという・道重さゆみ(32)’14年に発症。背中と腹に赤いブチブチができたと報告。休養し完治したという●残念ながら……症状が残ってしまった人・中森明菜(56)’10年に発症。この病気がきっかけとなり無期限活動休止に入った・ハイヒールモモコ(57)’18年に発症。あごがピリピリしたことで気づいたという。3年たった今も症状は続いている教えてくれたのは……秋津壽男先生総合内科専門医。和歌山県立医科大学卒。品川・戸越銀座に秋津医院を開業、地域密着の診療を行っている。『主治医が見つかる診療所』(TXN系)にレギュラー出演中。著書に『放っておくとこわい症状大全―早期発見しないと後悔する病気のサインだけ集めました』(ダイヤモンド社)などがある。《取材・文/成田全》
2021年10月26日(左から)谷村新司、中森明菜、松田聖子、五木ひろし東京五輪が終わり、大きなイベントはもうない……いやいや、今年はディナーショーがありますよ!昨年はコロナ禍でさまざまな自粛を強いられる日々が続いたが、今年は開催する芸能人が多数いる。衆議院総選挙が間近に迫ったいま、ディナーショー総選挙も投票開始だ!!■デビュー50周年は価格も強気に6万6000円でお値段ランキング1位を獲得したのは、谷村新司。週刊女性では長年にわたって芸能人ディナーショーを取り上げているが、常連の谷村が1位を獲得するのは初めてのこと。開催する帝国ホテルに問い合わせると、「谷村さんが来年デビュー50周年を迎えることもあり、今年はより特別なショーにさせていただきたいと考えております。今年のコンセプトは“上質な音楽と上質な料理、そしてサステナブル”。フルコースの中に、サステナブルな要素を取り入れるだけでなく、帝国ホテル料理長と谷村氏が話し合い、試作会を経て作り上げたスペシャルメニューをご提供させていただきます」(帝国ホテル広報)5万9000円で2位にランクインしたのは今年6月にYouTubeチャンネルを開設した由紀さおり。今年で73歳になる。「谷村さんと同様に目玉は帝国ホテルシェフが作る特別メニューです。それだけでなく、10回目となる今年は、今までのディナーショーの歴史を表現したデザートプレートを由紀さんと帝国ホテルシェフで作り上げる予定です」(同・帝国ホテル広報)どんな料理が出るのか、想像するだけで涎が止まらない。ディナーショーの生みの親である、五木ひろしが今年は5万5000円で3位に。「五木さんのディナーショーは毎年構成をガラッと変更して行います。食事も五木さんが食べてOKした食材を使用している。それだけ強くこだわり抜いたショーなのです」(芸能プロ関係者)■常連陣もクリスマスを彩る5万2000円で4位に並んだのはさだまさし、高橋真梨子、玉置浩二。さだは10月13日に開催したコンサートで通算4500回公演という、前人未到の記録を打ち立てた。高橋は40年以上続けてきた全国ツアーを昨年で最後にする予定だったが、コロナで延期に。今年も延期が相次ぎ、再び持ち越し。ただ、ディナーショーは来年以降もオファーがあれば行う予定だというからひと安心だ。昨年に心臓の手術をした玉置浩二だが、順調に回復し今年は全国ライブツアーを開催している。それも妻である青田典子の支えがあってこそ。「今年で結婚11年を迎えた玉置さんと青田さん。青田さんはベタ惚れで、ライブなどでは客席に座って音響チェックや玉置さんがステージでどう見えるのか確認している。現場には今も夫婦で肩を組んでいらっしゃいます。家では青田さんが健康を考えた料理を作って支えているそうですよ」(音楽関係者)クリスマスには愛の“メロディー”を奏でてほしい。“新御三家”の長男・野口五郎は今年でデビュー50周年。「9月に行われたコンサートでは、’18年に亡くなった次男の西城秀樹さんと過去に録音した歌を流し、それに合わせて野口さんが歌うなど、ふたりの共演が実現。思わず涙を流すファンの方もいたそうです。ディナーショーでも、大親友だった西城さんとの思い出が語られるかもしれませんね」(同・音楽関係者)野口に続き、末っ子の郷ひろみは来年が50周年。昨年はコロナ禍のためディナーショーは開催せず、ライブツアーを敢行。ただ、今年は無事に開催されるよう。■気になるアイドル達は昨年、デビュー40周年だった松田聖子。今年は“続・40周年”と銘打ち、10月20日には記念アルバムが発売される。10月24日には東京・日本武道館でコンサートツアーのラストを飾る。だけど、その後の予定は発表されていないまま。ディナーショーはどうするのか。昨年開催したホテルに確認すると、「お問い合わせはたくさんいただいているのですが、現時点では、まだ何も決まっていません」(ホテル広報)とのこと。芸能レポーターの川内天子さんは、「昨年末に開催予定だったカウントダウンライブは東京都の要請で中止になってしまった。だからこそ、ディナーショーはやらず今年こそ年末にライブを行うと思います。それも各都市で31日に向けてライブを行いつつ、最後に東京で年越しをするという2つの意味でのカウントダウンをするとかね。特別な年にしようと聖子ちゃんはすごいプランを打ち出してくれるはず」聖子ときたら、気になってくるのは中森明菜。今年でデビュー40周年を迎え、記念サイトも立ち上がったのだが、活動は何もないままで……。「今年だけでなく、今後はもう表舞台には出てこないような気がします。彼女は働かなくても印税などの収入で生活できるお金は十分あるでしょうから。ただ、ファンはとにかく明菜ちゃんが歌っている姿を見たいのです。それはディナーショーでなくても、収録でもいい。年齢のこともあるので、もし出てくるなら45周年が最後のチャンスになると思います」(同・川内さん)明菜の所属事務所にディナーショー開催についてメールで問い合わせたが、期限までに回答はなかった。歌う明菜の姿を見られる日は、いつになるのか……。■初参戦のグループも今回、ディナーショー初参戦となったのは甲斐バンドだ。「’19年には結成45周年を迎えた甲斐バンドは、日本で初めてスタジアムでのコンサートを開催したロックバンド。今でこそ当たり前ですが、当時のインパクトは大きかった。ほかのアーティストたちのライブ活動に影響を与えました。そんな甲斐バンドがディナーショーに参戦というのだから、どんなショーになるのか楽しみです」(前出・音楽関係者)再び新たな歴史をつくるのか。純烈も開催予定だが、名古屋公演のチケットはすでに完売。しかし、『東京プリンスホテル』で行う公演のチケットの一般販売は10月22日から。要チェックだ。演歌界の貴公子・山内惠介も開催予定。今年でデビューから20周年を迎えた。きっと特別なショーになるはず!「コロナの感染者数が落ち着いていても、いつどうなるかわかりません。まずは安心・安全に開催できることを最優先に考えております。昨年はファンのみなさまとお会いできる機会が少なかった。だから今年のディナーショーでは山内の代表する楽曲を歌ってお届けしたいという思いを、強く持っています」(山内の所属事務所関係者)ほかのディナーショー常連たちの動向も気になるところ。■あの常連は今年も開催せず工藤静香は来年でデビュー35周年を迎える。毎年開催していたホテルは、今年頭に閉館……。もうディナーショーをやらないの!?工藤の所属事務所に問い合わせると、「今年もディナーショーのお話はいただいていたのですが、コロナで見通しの立たない状況でしたから、申し訳ないのですがお断りさせていただいていました。来年は35周年を迎えますから、そこで開催できればと思っています」(工藤の所属事務所)“私について”語ってくれる日は、来年までおあずけだ。今年8月に、事務所社長と結婚をした華原朋美はどうだろう。今年3月には長男と一緒にディナーショーを行っていたけれど……。「開催はしたいのですが、テレビ出演が忙しく、今はまったく考えられていないんです。歌番組の出演が多く、練習する必要もあるため、時間がとれなくて……」(華原のマネージャー)結婚して、幸せいっぱいの朋ちゃんの姿が見られることを期待したい!!今年で50歳という節目の年を迎えたのは酒井法子。事務所から独立し、YouTubeチャンネルも開設した。激動の1年だったが、ディナーショーのほうはというと、「今年は映画やドラマ、舞台などで活動し、女優としての演技を見ていただきました。記念すべき独立の年の最後は、歌で締めくくらせていただきたいと思い、開催するに至りました」(酒井の所属事務所)価格は料理のコースによって値段が変わるようで、3万5000円から、最高で7万円を予定しているという。今年も素敵なショーが出そろった。ディナーショー総選挙、あなたの清き一票は、どの芸能人に投票したい?
2021年10月25日『夜のヒットスタジオ』に出演する中森明菜今年5月、デビュー40周年目を迎えた中森明菜。後に“花の82年組”と呼ばれる女性アイドル当たり年に『スローモーション』でデビュー。『少女A』『飾りじゃないのよ涙は』などヒット曲を連発し、1985年『ミ・アモーレ』、1986年『DESIRE‐情熱‐』で2年連続となる『日本レコード大賞』を獲得。女性ソロ歌手として史上初の快挙だった。■“現在の明菜”がいない記念ボックスそんな時代を代表する歌姫の、大切な節目の年にオープンした特設サイトには、40年分の楽曲やレコードジャケットなどのディスコグラフィーだけでなく、ライブ映像まで、明菜の華々しい足跡がまとめられている。6月には、デビューからの10年間に発売された全シングルレコードなど30枚をセットにした限定BOXも発売になった。「税込4万8400円という高額商品ですが、売れ行きは好調だと聞きました。いまだに根強いファンがついているのは“さすが歌姫”ですよ」(音楽誌編集者)だが、この5万円近い記念ボックスのどこを探しても“現在の明菜”はいない。収録されている楽曲はすべて過去のもの。7月に56歳になった明菜の近影やファンへのメッセージもない。いや、それどころか4年近く、明菜は人前で歌うことはおろか、人々の前に姿すら見せていないのだ。「2010年に芸能活動の無期限休業を発表して以来、心身ともに不安定な状況がずっと続いていますよね。2014年の紅白出演は、サプライズゲストという形の事前収録した映像でした。2016年と2017年と2年連続でディナーショーを行い“すわ完全復活か!?”と業界の人間は色めき立ったんですが、結局それが最後に。また、ひきこもってしまい、ほとんど消息不明に近い状態ですからね……」(前出・音楽誌編集者)40年来のファンだという女性も落胆する。「明菜ちゃんの大きな節目だったから“今年こそきっと新曲を出してくれるはず”“せめてディナーショーはやってくれるはず”と期待しているんですけど……」■自信がもてなかった中森明菜名実ともに時代のトップだった歌姫を、誰が壊してしまったのか――。当時の明菜をよく知るレコード会社関係者が振り返る。「所属事務所やレコード会社との相次ぐ移籍トラブル、信頼していたスタッフや身内に騙されたりなんてこともありました。もちろんマッチとの大失恋、自殺未遂騒動も大きなダメージだったと思います。もし、あんなことがなかったら明菜さんの歌手人生はだいぶ違っただろうと思いますしね」だが、いちばんの原因は、「いま思えば、明菜自身にあったんじゃないかという気もします。彼女はレコ大も獲って、どんなに売れても、どこまで人気者になっても、自信が持てなかったんだよね……」(前出・レコード会社関係者)それを感じさせる明菜の発言はいくつもある。過去の雑誌インタビューで、彼女は歌手という仕事に対する偽らざる気持ちをこう語っている。《目の前の人たちがうれしそうな顔をしているから、私は歌うだけ。(中略)仕事に対してすすんでトライしようとか、才能をどんどん伸ばしていきたいというのがないから》(『JUNON』1992年1月号)そもそも明菜が歌手になったのも、自分自身のためではなく“家族のため”だった。《歌手になりたい!っていう願望じゃなくて、タレントさんになればお金持ちになれると思ったから。小さいころから、みんなが「お歌が上手ネ」っていってくれたから、じゃあ“スタ誕”に出て歌手になって、家族に車を買ってあげようと、そういうことしかなかったの。(中略)後悔はすごいですよ。何で私、歌手になっちゃったんだろうって……》(同)別の雑誌では、6年に及んだマッチとの恋愛を振り返りながら、こう自嘲している。《結局、女としてっていうより、人間として自信がないのね。いつまでたっても自信が持てないもの、私。“有名になった明菜ちゃん”からは、そんなこと想像できないって言われる。でもホントにダメなのね。もう自信のなさが染みついちゃってる》(『with』1993年11月号)歌手としてだけでなく女優業にもチャレンジした1992年、フジテレビ系“月9”ドラマ『素顔のままで』に主演。最終回視聴率31.9%を叩き出してみせたアーティストとは思えない発言だ。「“23歳で結婚して25歳でママになったら、今の仕事なんてしたくない”っていつも言っていましたからね。そういう結婚願望……マッチとの恋愛も“自信がなくても歌い続けなくちゃいけない”っていう葛藤から生まれてきたのかもしれません」(前出・レコード会社関係者)その葛藤の中で、今も明菜はもがき続けているのかもしれない。だが、それでも“歌姫復活”を待ち続ける人たちがいる。「40周年は、やっぱり本人の姿を見られなさそうで残念ですけど、私たちは待つのには慣れていますから(笑)。きっといつか、また歌ってくれるって」(前出・ファンの女性)その日を信じて――。
2021年09月23日2009年、レースから帰宅したマッチは真っ先に妻と長男のもとへ《44年という長きにわたってお世話になった、わが家でもあるジャニーズ事務所から巣立つ決断に至ったのは、“このたびの件”がきっかけになったことは間違いありません》9月7日、『松井佐祐里“new normal”の小部屋』(文化放送)にて、コメント発表という形で特別出演した近藤真彦。今年4月をもってジャニーズ事務所から退社に至った理由を初めて公式の場で語ったのだった。昨年11月、25歳年下女性との約5年間にわたるマッチの不倫疑惑を『週刊文春』が報じた。すると間もなく、ジャニーズから活動自粛処分を言い渡されるも、本人が会見を開くことはなかったーー。「文春の取材では、“俺は揉み消せる力がある”などと豪語していたとされていますが、時代錯誤もいいところ。アイドルとしては絶対に避けたい不倫劇だけに、さすがのジャニーズも許すはずがなく、マッチは渋々従ったのでしょう。そして処分が解かれる前に事務所を退所する、という離れ業をやってのけた。自身が監督を務める『KONDO Racing』が本格的にシーズンインする5月が迫ってのことでした」と、芸能リポーター。その後も6月にはチームをサポートする企業のゲームPRイベントに“近藤監督”として出席し、7月の誕生日には“芸能人”としての復帰を見越して、チームの公式HP上に11月のコンサート開催を発表。そして今回のラジオ番組で《僕、近藤真彦、今後新たな気持ちで本業、芸能活動、レース活動と向き合い、進んでいく決意です》との気持ち表明し、完全復帰をアピールしたのだ。■苦境にあったジャニーズの救世主普通なら“どの面さげて”と言われそうな宣言だが、各スポーツ紙やウェブ媒体はこぞって復帰ニュースを取り上げた。“後ろ盾”だったジャニーズ事務所を離れ、ジャニー喜多川さん、メリー喜多川さんが亡くなったにもかかわらず、挙動が注目され続けるのはナゼかーー。「たしかに“ジャニーズの長男”だった頃には“忖度”が働いて、マッチの動向を報じなければいけない空気があったと思います。が、そのような義理がなくなった今は各社の判断次第。それでも、こうして追いかけられる近藤真彦。かつて一世風靡したスーパースターというだけではない、マスコミも放ってはおけない魅力があるのでしょう」(前出・芸能リポーター)近年、若手グループがひしめくジャニーズにおいて、“やたらと偉そうなオジサン”のイメージが強かったが、かつては時代を代表する大スターだったマッチ。田原俊彦、野村義男らとの「たのきんトリオ」は芸能界を牽引し、中でもマッチは各音楽賞などを総なめする活躍ぶりで、フォーリーブス解散以降、苦境にあったジャニーズの救世主となった。一方で、人生を左右する悲劇が襲う。彼が22歳の頃に、最愛の実母を交通事故で亡くしてしまったのだ。その後しばらくは、舞台でスポットライトを浴びて「マッチで〜っす!」とおどける一方で、「人知れず泣いていた」とは老舗芸能プロ幹部。「小さい頃からお母さんっ子で、“好きなことをなさい。でも、人様には迷惑をかけないようにね”と教えられていたマッチ。きびしくもやさしかったお母さんを思いつつ、夜は自宅で毎日のようにお酒を飲んでは泣いていた。そんな震える姿をそばで見ていたからこそ、メリーさんは母親がわりとして“息子を守らなければ”、と必死になっていたのでしょう。まあ、周囲から見たら甘やかしすぎていた、とも言えなくはないですが」1994年に田原俊彦が退社すると、名実ともに“ジャニーズの長男”になったマッチ。メリー氏からの一層の寵愛を受けるとともに、一方で並行していたレース業に本格的にのめり込んでいく。実のところは、母親に管理された世界から逃れたかったのかもしれない。■「マッチならしょうがない」と許せる実際の彼はというと、いわゆる“長男”タイプではなかったとも。テレビ局プロデューサーがその素顔を明かす。「奔放でやんちゃ、お調子者の次男坊タイプで、マッチも実際に“本当の長男はヒガシ(東山紀之)だよ。アイツには頭が上がらない”とこぼしていましたね。おそらくは本人も“長男”と呼ばれることが重荷になっていて、それでもメリーさんの手前、それらしく振舞うしかなかったんじゃないかな。でも、人懐っこくて人たらし、人見知りもせずに誰とでも打ち解けられる性格は天性のもの。ちょっと横柄で図々しいところもあるけども、“マッチならしょうがないか”と許せてしまう憎めない少年っぽさがある(苦笑)」そんな性格はレースチーム設立にも生かされた。そして不倫スキャンダル後も、彼からスポンサーが離れることはなかったという。長年のパートナー関係にある『日産』は、傘下の『日産自動車大学校』の生徒をマッチのチームに参加させるプロジェクトを推し進めるなど、むしろ関係は良好のようだ。「マッチのレース愛は本物です。もちろんお叱りは受けたでしょうが、彼らは“ジャニーズのマッチ”ではなく、“近藤真彦”に惚れ込んでいるわけで信頼関係が損なわれたわけではない。奥様も今回のことは許しているみたいですしね。実際、彼と関わったらわかるんですが、惹きつける不思議な“人間力”をもっていて、まるで“子犬”のように守らないといけない気持ちになる。だからこそマスコミも見捨てる気にはなれないんですよ」(前出・テレビ局プロデューサー)かつてマッチが23歳の頃、『週刊女性』のインタビューで「将来の夢」を聞かれて、このように答えていた。《予想もつかない男になっていたい。どういう男かというと、子供っぽい大人》“ジャニーズの長男”から解放され、1人の男としてリスタートしたマッチ。その夢は叶っているのだろうか。
2021年09月11日『週刊女性』の直撃取材に笑顔で答える華原朋美(’21年8月)華原朋美(47)が結婚した。相手は所属事務所の社長兼マネージャー。会見では、「抱き合ったときに、肌と肌が合う」などときわどいおのろけも披露した。また、衣裳がかつてのライバル・安室奈美恵が結婚会見で着ていたものとそっくりだと話題に。相変わらず、ニュース映えする芸能人だ。それにしても、小室哲哉(62)との破局はかれこれ22年前。紆余曲折を経て、2019年には未婚のまま一般男性とのあいだにもうけた男児を出産した。その子にも、新しい父ができたわけだ。■華原で思い出す「中森明菜」と「宮沢りえ」破局といえば、彼女が小室と別れた1998年から遡ること約10年、中森明菜と近藤真彦(’89年破局)、宮沢りえと貴乃花(’93年破局)と大物カップルの破局が相次いだ。いずれも女性の側が不幸に見える構図であり、三者とも、破局が尾を引くようなつらい時期をすごした。特に華原は小室のプロデュースによって世に出た存在。公私ともに頼りにしていたパートナーを失い、迷走が始まった。心身の不調に陥り、睡眠薬や精神安定剤などのクスリにも依存して、休養と復帰を繰り返す。自ら作詞した『あきらめましょう』という意味深な曲を歌ったりしたが、あきらめきれないものがあったのだろう。30代半ばには家族の協力により、閉鎖病棟で「薬を抜く」ための隔離治療を受けた。2013年の『24時間テレビ』(日本テレビ系)では、その葛藤と回復までの過程が紹介され、代表曲の『I’m proud』を歌唱。兄が当時を振り返り、「フラフラ下着一枚で道路出て行ってしまうこともありました。ラムネを食べるようにボリボリと服用してしまう」という状態だったと証言した。さて、この芸能界三大破局の「悲劇のヒロイン」3人のうち、最初にスランプを抜け出したのは宮沢だろう。激やせや自殺未遂疑惑といった騒動を乗り越え、演技派女優としての評価を獲得。実業家と結婚して、母にもなった。その後、離婚したが、森田剛と再婚。安定した活動を続けている。かと思えば「おひとりさま」的な人生を歩んでいるのが中森だ。歌手としての人気は健在で、2014年の『NHK紅白歌合戦』で4年5か月ぶりの芸能活動復帰は大いに注目された。もっと精力的な活動を期待する声も大きいが、体調も思わしくなさそうで、2017年に開かれたディナーショーを最後に表舞台には姿を現していない。2019年に亡くなった妹の中森明穂さんの葬儀にも来ることはなかった。そんなふたりの中間にいる印象なのが、華原。明治天皇の玄孫として知られる竹田恒泰らと浮名を流したあと、前述のように子供も産み、結婚も果たした。「明菜型」ではなく「りえ型」へと一歩近づいたようにも思える。ただ、彼女の未来が順風満帆だと予想する人はそう多くないのでは。筆者が不安を覚えるのも、結婚会見の様子からある伝説的芸能人のことを思い出したからだ。元祖アイドル、天地真理(69)である。■真理ちゃんと朋ちゃんの共通点1970年代前半、オリコン1位曲を連発して「白雪姫」の愛称で親しまれた真理ちゃん。その大ブレイクは四半世紀後にJポップの「シンデレラ」ともてはやされた朋ちゃんとダブる。そして、天地もまた、心身の調子を崩し、奇行が取り沙汰されるなどしたあと、入院して休養することに。その後、復帰しても全盛期の人気はなかなか戻らなかった。ただ、’86年に実業家と結婚して娘を生んだあと、バラエティーで再注目。いじられキャラのママタレとしてけっこう面白がられた。夫婦生活は10年で破綻したが、離婚会見時のふくよかな容姿をイジられたことからダイエットをして、それも話題になったものだ。離婚直前、筆者が取材した際にはカメラマンに向かって「悪かったわね、こんなになっちゃって」と冗談で笑わせたり。その開き直った明るさも、最近の華原と重なるのである。ちなみに、天地を育てた酒井政利プロデューサーはスターの条件として「幼児性とファナティシズム」を挙げている。要するに、子供っぽさと何かに熱中できる一途さということだろう。そのあたりも天地と華原は共通している。そんなスターとしての抜群な適性が、実生活にも向いているとは限らないというのが難しいところ。それゆえ、華原の未来にも不安を覚えてしまうわけだ。とはいえ、結婚会見で華原はデビューからの日々を振り返り、こう語った。「26年間の中でいろいろなことがあって、でも今はすべて幸せに思える自分が生まれました」そんな気持ちでこれからも生きていければ何よりだ。ここは月並みながら「末永くお幸せに」というはなむけの言葉を贈りたい。PROFILE●宝泉薫(ほうせん・かおる)●作家・芸能評論家。テレビ、映画、ダイエットなどをテーマに執筆。近著に『平成の死』(ベストセラーズ)、『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)、『あのアイドルがなぜヌードに』(文藝春秋)などがある。
2021年08月27日キュートなTシャツを着こなして熱唱する近藤真彦(1982年)「あのころは、本当に忙しかった。朝の5時に眠りについて昼前まで寝ていて、14時から打ち合わせ、という日々の繰り返しで。遊びに行く時間なんてなかったよ」1980年代に中森明菜、チェッカーズ、河合奈保子、荻野目洋子、矢沢永吉など数々のヒット曲の作詞を手がけてきた売野雅勇は、そう振り返る。チェッカーズがブレイクした’84年ごろ、どのように過ごしていたのか尋ねてみたのだが、確かに、この年の売野は男性ボーカルだけでもチェッカーズ、近藤真彦、シブがき隊、吉川晃司のヒット・シングルをほぼ同時期に手がけているのだ。■マッチの“問題作”も担当中でもマッチこと近藤真彦は、シングルでは通算13作目となる『一番野郎』(’84年3月発売)からの起用だった。初期のがむしゃらな少年のイメージよりも、さらにコミカルな『ケジメなさい』や、大人の哀愁を見せ始めた『夢絆(読み:きずな)』『大将』といったものまで、近藤が’87年の『愚か者』で硬派な男像を定着させるまでの過渡期を中心に、アルバムを含め全17曲を提供している。当時のマッチと言えば、’80年末のデビュー曲『スニーカーぶる~す』以降、寺尾聰の『ルビーの指環』で阻まれた2ndシングル『ヨコハマ・チーク』以外は常にオリコン1位を獲得してきた大ヒット・アイドルだった。その最中(さなか)に、どうして彼の楽曲を手がけることになったのか。「『一番野郎』は、筒美京平先生からのご指名だった。(当時ディレクターの)小杉理宇造さんから、“タイトルはこれでお願いします”って指定されて作ってみたんだけど、これが問題でね……(苦笑)。というのは、歌詞を作ってる段階で京平先生から“『一番野郎』ってさ……、一発野郎=一発やろう、ってこと?下品すぎない??”って言われたんだ。それで先生が“こんな詞、書けないって小杉くんに言ってよ”とか、“もうこの曲、引き上げようかな”ってかなり怒ってたんだけれど、なぜかウヤムヤになって発売されたんだよね。ちなみに、この曲のB面のタイトルは『ムシャクシャするぜ』。今から考えてもちょっとハジけているよね、このシングルは」そんな小競り合い(?)をよそに、本作でも無事にオリコン1位を獲得し、続くシングル『ケジメなさい』でも売野は続投することに。「今度も小杉さんのアイデアで、『ケジメなさい』というタイトルで書いてほしいと言われて。 《ミジメジメジメと》《致命傷だネ優しさはワッショイ!ワッショイ!》とか、この歌は言葉遊びが多いけれど、こういうのは、ぜんぜん嫌いじゃないね。どちらかといえば得意かもしれないな。そういえば、小杉さんからはシブがき隊に書いた『サムライ・ニッポン』について、“あれは、マッチに歌わせてほしかった。マッチだったら1位にできたはず”って後から言われたよ(笑)」コミカルな内容が、アイドルファン以外にも幅広く浸透した結果、レコード売り上げのほか有線放送、ラジオ、はがきの各部門のリクエストも総合した『ザ・ベストテン』(TBS系)では2年前の『ハイティーン・ブギ』以来となる4週連続1位を獲得。新たなマッチ像を印象づけた。■マッチとトシちゃんに書きたい曲はそして翌年、近藤はレコード会社をRVC(当時)からCBSソニー(当時)へ移籍。年齢も20歳となり、徐々に大人路線を模索しようとしていた。そのころ、再び売野が起用される。「『絆』というタイトルで(男の哀愁や切なさについて)書いたんだけど、ジャニーズ事務所の中でとても評判がよくて。作曲を担当された鈴木キサブローさんのメロディーを聴いたら、こういう歌詞が自然にできたんだよね。後からメリー喜多川さん(藤島メリー泰子、’21年8月逝去)に、“「夢」という字を足して『夢絆』というタイトルにしてほしい”って言われて変えたんだ」この『夢絆』は、オリコン連続1位記録は途切れたものの、『ザ・ベストテン』では『ケジメなさい』以来3作ぶりに1位を獲得。アイドルから大人の男への布石となったであろう。ちなみに、この作品の評判から、売野は『夢絆』を収録したアルバム『SUMMER IN TEARS』でも、6曲の作詞を担当している。また、続くシングル『大将』については、「『大将』とは、矢沢永吉さんのことだよ。当時、マッチが矢沢さんのファンで、“大将”って呼んでいたことをモチーフに書くことになった」近藤はこの1曲で大人路線を確立したことが業界内で評価を受け、第16回『日本歌謡大賞』も受賞している(大将と大賞を掛けたかどうかは定かではない)。余談だが、同年の秋、コミカルな路線が多かったシブがき隊が突然、『KILL』(売野雅勇作詞、林哲司作曲)でシリアスな失恋ソングに挑んだのは、先輩であるマッチが『夢絆』でイメージチェンジを成功させたことに影響を受けたようにも思える。近藤の印象について売野に尋ねてみると、こんな答えが返ってきた。「マッチとは、’84年ごろにレコーディングスタジオで初めて会ったんだけど、いやぁ、面白いヤツだと思ったよ。男っぽくてガキ大将、やんちゃでフザけてばかり。大人たちにイタズラばかりして、常に話の中心になる人気者タイプだね。レコーディング中も一生懸命、自分が見た夢の話をずっとしていて、銀玉で打たれたシーンをこと細かにしゃべっていてね。トークが上手だなって思ったよ。彼のように、可愛くて愛嬌(あいきょう)もある男はいそうでいないね。それからずいぶんたって、5年くらい前に、彼のラジオ番組のゲストに呼んでくれたんだけれど、久しぶりに会ったらさらにイイ男になっていたね。マッチには、ヒロイズムの強い『愚か者』路線もいいんだけど、それとは別にスタンダード感のある男の歌も合うんじゃないかな。フランク・シナトラや石原裕次郎のような、おしゃれで正統派の男の歌を書いてみたい。彼がそれまで見てきた、スターにしかわからない栄光と恍惚、孤独と悲哀があるはずだから、破天荒なだけじゃなくて、自分で自分に課したものに向き合ってきた、裸の魂の姿を歌にしたいかな」また、売野は近藤だけでなく、近年の田原俊彦にも創作意欲がわいているそう。「2年前、トシちゃんのマネージャーにコンサートに誘ってもらって行ったんだ。これまで観たことがなかったけれど、トシちゃんがMCで“売野さん、来てますよね?”って会場に呼びかけるから驚いたよ(笑)。そのとき、彼は還暦の前年だったんだけど、あれだけ歌って踊って、やっぱりトシちゃんは大したもんだよ。彼にはスウィング系の楽曲を書いてみたいね。グレン・ミラーみたいなシャレたアレンジのね。60代のヴォーカリストが歌う最高のポップスは、ビッグバンドなんだよ。シブくなくていいのよ、ゴージャスならね。それができるのは、田原俊彦しかいないんだよ。方向さえ間違えなければ、この時代にミリオン級のヒットを飛ばすよ。予言しておきます」実は、田原俊彦にはシングル『シャワーな気分』(’83年5月発売)のときに、筒美京平から作詞を頼まれていたのだという。「その前に書いた野口五郎さんの『過ぎ去れば夢は優しい』を京平先生がとても気に入ってくれて、次はトシちゃんでって、『シャワーな気分』のメロディーを渡されて。でも、レコード会社からはOKが出なくて、その後に書いたのは、アルバム『波に消えたラブ・ストーリー』に入っている京平さんが作曲した2曲(『裸足のミステリー』『水の中のヴィーナス』)と、タイトルがもう決まっているところに歌詞を依頼されたシングル『エル・オー・ヴィ・愛・N・G』だけかな」そういう経緯もあって、田原にも挑戦したいという思いが募っているようだ。■KinKi Kidsは「生々しさNG」?さらに、売野は’90年代にデビューしたKinKi Kidsについても2曲手がけていて、特にそのうちの1曲であるアルバム曲『イノセント・ウォーズ』(作曲:坂本龍一)は当時、シングル発売が予定されていたことが、これまでいくつかのメディアでも報じられてきた。「ああ、『イノセントウォーズ』は、シングル候補だったんだよ。というか、ほぼセカンド・シングルになるはずだった。彼らが主演するドラマ『ぼくらの勇気未満都市』(読み:みまんしてぃ/日本テレビ系)の主題歌用にと依頼されて書いたんだ」確かに、デビュー・シングル『硝子の少年』が松本隆×山下達郎という、歌謡界の大御所と一流アーティストのコラボだったので、その第2弾として、売野雅勇×坂本龍一に依頼があっても不思議ではない。坂本龍一は、’97年初めの日本テレビ系ドラマ『ストーカー逃げきれぬ愛』の音楽を担当し、英語詞の主題歌『The Other Side of Love』も70万枚を超える大ヒットを記録。その日本語詞カバーとなった中谷美紀の『砂の果実』も、売野雅勇が作詞し30万枚近いヒットとなっていることから、これは自然な流れにも思える。「ドラマの内容や、彼らの年齢も考えて《20歳を過ぎた大人は信じないさ》って歌詞にしたんだけど、坂本さんも気に入っていた。最初は、坂本龍一らしいメロディアスなイントロだったんだけど、シングルになるんだからと言われて、ダッダッダ~って派手な(ディープ・パープル『Smoke on the Water』風の)イントロに変えたんだ。急きょ、予定が変更となったのは、内部的な事情なのか、誰かの好みだったのかはわからないけれど……。確かに、最終的に決まった『愛されるより愛したい』のほうが、大衆的でわかりやすいかもね。でも、普通だな。坂本さんのあんなカッコいい曲をシングルにしないなんて……って、今でもため息をつくことがあるよ。1年に1回くらいだけど(笑)」そして、売野はその約20年後にも、KinKi Kidsに『哀愁のブエノスアイレス』(’18年1月発売、シングル『Topaz Love』のカップリング)を書いている。「この曲は、ディレクターから突然、依頼の連絡があって驚いたね。林(哲司)さんから素晴らしいメロディが送られてきて作詞したんだけれど、書き直した記憶があるな。おそらく、KinKiには“生々しくならないように”という一貫したマナーがあって、例えば、最初に書いていた《2人で暮らした部屋》といったリアルな情景に対して最初はNGが出た。そういう箇所がほかにも3か所くらいあって、スマートな内容に書き直したんだよね。俺はこの“ブエノスアイレス”という言葉の響きが好きだし、なぜか前から行ってみたくて。だから、自分がプロデュースしているMax Luxにも、中西圭三君にバラードの曲をつけてもらって、別の『ブエノスアイレス』という詞を書いたほど。KinKiの2人は、まさに哀愁と表現力があるよね」ちなみに、売野の歌詞には、“車”ではなく“クーペ”がよく登場するのだが、地名では“六本木”がとても多い。タイトルだけでも『六本木純情派』(荻野目洋子)、『六本木レイン』(研ナオコ)、『六本木ショット』(矢沢永吉)、『六本木慕情』(鈴木雅之)、『六本木界隈・夢花火』(山内惠介)など10作ほどあり、もちろん作詞家別でもダントツの多さだ。「六本木というワードは、促音が入っていて、言葉にリズムがあってハマりやすいんだよね。街にもドラマがあるしね。当時、よく通った井上大輔先生のご自宅があったり、筒美京平先生がしゃれた隠れ家のようなお店に連れて行ってくれたりしたことも、六本木が多い理由かな。京平先生とは仲がよかったよ。親友みたいにね。2人きりでアフリカ旅行に出かけたこともある。ルイ・ヴィトンのいちばん大きなスーツケースを2つ持ってきて、中は全部、服だよ。朝昼夜と1日に3回も着替えるんだ。知り合いの中でいちばんオシャレで、エレガントな方だったね。京平先生からは、“詞の勉強よりも、映画を観たり、旅行に行ったり、本を読んだりするほうがいいよ”って最初の食事会で言われたね。それが血となり肉となるからねと。その教えは忠実に守ってきたよ。“作家というのは、作品に品性とか中身がすべて出ちゃうから”って。あのころの10歳違いは、ずいぶんと大人だからね。先輩にも恵まれたよね。いまでも感謝しているし、尊敬している」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月26日当時、多くの女子のハートをわしづかみにしたチェッカーズ(1988年)「実は、チェッカーズは(デビュー約4か月前の)1983年5月ごろ、『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』と、最初のシングル3枚分(全6曲)をまとめてレコーディングしていたんだ」(売野雅勇・以下同)このうちの2作目シングル『涙のリクエスト』や、5作目シングルの『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』など、チェッカーズの初期の大ヒット曲を手がけた作詞家・売野雅勇はこう話す。売野はチェッカーズに、シングル表題の10曲を含む30曲以上もの楽曲を提供している。■『涙のリクエスト』が勝負の1曲だったチェッカーズは福岡県久留米市で結成された男性7人組のバンドで、’81年にヤマハの音楽コンテストで入賞し、’83年の3月に上京。その直後から、ヤマハのディレクターに頼まれて歌や演奏を教えていたのが、彼らのプロデューサーでもあった作曲家の芹澤廣明だ。そして、いざ曲を作ろうという段階で作詞を依頼されたのが、前年に芹澤とのコンビで中森明菜の『少女A』をヒットさせた売野だった。なお、デビュー曲となった前述の『ギザギザハートの子守唄』(作詞:康珍化、作曲:芹澤廣明)は、「ゆるやかなテンポで始まるよりも、もっと強烈な個性のある曲でデビューさせたい」と考えた芹澤が、以前に真田広之用に書いてボツになっていた曲を持ってきたのだという。売野によると、「ホントは、俺もその曲に新たに詞を書いてみたのだけれど、康さんが書いた歌い出しの《ちっちゃなころから悪ガキで15で不良と呼ばれたよ》のインパクトには敵わなくて結局、採用されなかったね(苦笑)。B面の『恋のレッツダンス』は、もともとはメンバーの武内享くんが書いていて、アマチュア時代から人気だった曲。だから、原型の初々しい気持ちを生かすかたちで書いた気がする。完成度はなかったけど、変える必要もないくらいのキュートな歌詞だったね」とのこと。ちなみに、この『ギザギザハートの子守唄』は、’83年9月に発売されるもオリコンTOP100にはなかなか入らず、チェッカーズ自身も焦りを感じていたようだ。その様子は、メンバーである高杢禎彦の著書『チェッカーズ』(新潮社)および売野雅勇の著書『砂の果実』(朝日新聞出版)にもつづられている。筆者も発売当時、ブレイク前の新人が中心となった音楽番組『アイドルパンチ』(テレビ朝日系)に彼らが毎週のように出演していたのを何度か観たが、エンディング間際に1コーラスだけ歌うといった、雑な扱われ方をされていたのが記憶に残っている。ところが、続く2作目の『涙のリクエスト』(’84年1月発売)は、まだブレイク前にもかかわらず、シングルジャケットが6ページのミニ・ピンナップ仕様で、トップアイドル並みの扱いになっている。つまり、レコード会社としては、ここで勝負に出ることを決めていたのだろう。「もともと『涙のリクエスト』の前評判はとてもよかったんだよ。ただ、バース(曲本編に入る前の序章部分)から始まるし、デビュー曲にするにはちょっとインパクトに欠けるってことで、セカンド・シングルになったんだよね(笑)。この『涙のリクエスト』は、彼らに初めて詞先(曲ができる前に作詞をすること)で書いた2作のうちのひとつなんだ。そのとき一緒に『テレヴィジョン・ベイビー』ってタイトルの歌詞も作った。順番からいくとこっちが先に書けたし、自分としては本命だと思っていたよ。なぜかって言うと、歌詞についての最初の打ち合わせでヤマハのプロデューサーから、“《未来のオールディーズ》ってコンセプトで、サウンドは(そのころはやっていた)ロンドンのニューウェイヴ」と言われていたんだ。でもね、彼らのデモテープを聴くと、基本的にドゥー・ワップ・グループ(’50年半ばにアメリカで隆盛した合唱スタイルの一種)だったからさ、本当にニューウェイヴでいいのかなあという疑問もあって、念のために”押さえ”のつもりで、ラッツ&スター(旧名:シャネルズ)にも通じるような純粋なオールディーズの基本イディオムを使って書いたんだよ。2作を提出したんだけど、芹澤さんが『涙のリクエスト』を気に入ってくれて、そっちだけに曲をつけたんだね」芹澤の大英断は見事に当たり、発売4週目には初のオリコンTOP20入りを果たし、音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の注目作を紹介するコーナー“スポットライト”に登場。その2週後には、オリコン、『ザ・ベストテン』ともにTOP10入り。さらに、3週後には『ザ・ベストテン』で1位に上りつめ、7週連続の1位となった。オリコンでは、初登場作品に阻まれ最高2位どまりとなったが、6週連続でTOP3入りを維持。累計約67万枚を売り上げ、年間第4位となる大ヒットを記録した。■“2曲目×売野=成功”の神話が誕生そして、3作目のシングル『哀しくてジェラシー』が発売されるや否や急上昇。それとともに、徐々にチャートを上げていた『ギザギザハートの子守唄』もTOP10入りし、当時としては非常に珍しい“3曲同時にTOP10入り”を、レコード売り上げ、『ザ・ベストテン』ともに達成する。その後の快進撃は、多くの人が知るところだろう。「だからね、『少女A』も『涙のリクエスト』もセカンド・シングルだから、当時“2曲目を売野雅勇に書かせたら売れる”っていうのがヒットの法則みたいに言われて、ちょうどよかったよ。結果オーライってやつだね(笑)」ここから、’86年に発売の『Song for U.S.A.』 まで大半のシングルを売野が手がけているが、同年までに出た4枚のオリジナルアルバムでも、収録曲の約半数は売野が作詞している。売野はその1stアルバム『絶対チェッカーズ!!』についても、興味深い2つのエピソードを語ってくれた。ひとつは、鶴久政治がリードボーカルをつとめた楽曲『HE ME TWO(禁じられた二人)』について。男性カップルの恋愛をテーマにした曲だが、当時としてはかなり異色の内容だった。「以前から、自分が好きになる作家や芸術家にゲイが多くて、逆に“なんで俺だけそうじゃないんだろう”って不思議に思うくらいだった。それだけ自分にとっては身近な存在だったから、このテーマの曲を書いたんだ」この少し前、郷ひろみに書いた『2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-』でも《抱きしめて男を女をハーフを》というフレーズがあり、その根底に深い人類愛を感じさせる。そして、もうひとつは、続くシングル『星屑のステージ』にまつわる話。これは、もともとアルバム用の1曲だったという。「『星屑のステージ』は、ちあきなおみの『喝采』をヒントに作ってほしいと言われてね。俺は、アイドルには私小説的な歌詞を書くから、作品と彼らの軌跡が互いに接近してくるのだけれど、この詞を書くときには主人公たちと、彼らのライブハウスに来ていた女の子との架空のストーリーが浮かびあがってきたんだ。ヒントとすべきが『喝采』だから、その女の子はもうこの世にいない、という設定にして」(※『喝采』の歌詞は、“大切な人との死別”が大きなテーマとなっている)そのドラマティックな設定と、悲しい歌詞でも前向きな気持ちにさせる藤井フミヤの歌声、メンバーのコーラスや演奏の力強さも相まって、初のバラード・シングルながら『ザ・ベストテン』では7週連続の1位となった。■生みの苦しみの先につかんだ栄光そうして迎えた5作目のシングルが『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』だが、当時ノリに乗っていたと思いきや、超難産の1作だったという。「『ジュリア~』は5回書き直したけど、それは未だに更新されない自己最高記録だね(笑)。最後のかたちが100点だとしたら、最初に出した原稿は、後から振り返ると50点くらいだったかな。芹澤さんに何度もダメ出しされて。彼はもともと歌手だから、自分が歌って気持ちいいか、カタルシスがあるかどうかが大事で、心に突き刺さらないとOKが出ないんだ。普通、そこまで何度もNGだと他の作詞家に変えちゃうんだろうけど、俺が最初に書いた《キャンドル・ライトがガラスのピアスに反射(はじ)けて滲む》という出だしのフレーズのグルーヴ感が、誰にも敵わないくらい圧倒的だったんだよ。全体をこのノリに合わせればイイ歌になる、って確信してくれていたみたい」5回も書き直したかいあって、どのパートも印象的なフレーズに仕上がった『ジュリアに傷心』は、オリコン調べではチェッカーズの中で唯一70万枚を超えるセールスとなり、’85年度のオリコン年間ランキングでも1位に。また、’00年代に始まった音楽配信でも10万以上のダウンロードを記録しており、まさに“記録にも記憶にも残るヒット曲”となったと言えるだろう。その後も売野は『あの娘とスキャンダル』や『俺たちのロカビリー・ナイト』『OH!POPSTAR』と、彼らのリアルなイメージを投影した歌詞を手がけ、順調にヒットを飛ばしていった。ここでも、印象深いエピソードをひとつ。「そういえば、9枚目のシングル『神様ヘルプ!』(作詞:康珍化)のときに、俺もその同じメロディで詞を書いていたんだ。でも最終的に康さんの『神様ヘルプ!』をシングルにするからって、ボツにされたんだよね。その歌詞には自信があったからね、ちょっと残念というか、“え!?”って感じだよね。しかし、そういうのはよくあることだから、決してメゲたりはしないんだよ。もちろん、俺の作品のほうが絶対いい、なんてことも言わないさ。それが作詞家ってもんだよ。ボツのことなんてすっかり忘れたころ、真夜中だったけど、自宅近くのコンビニに入ったとき、聞き覚えのある歌詞が流れてきて、“俺の詞に似てるな”、“こうやってフレーズを並べれば、売野雅勇風にできるんだ”と妙に感心していたんだ」2コーラス目が流れてくると、フミヤの歌声だとわかり、「これは俺が書いた『ひとりじゃいられない』という歌だ!」とやっと気づいた。同時に、ずいぶん前に芹澤から「ボツにしたけれど、お蔵入りにするにはもったいないので、別のメロディーをつけてシングルのB面に入れましたから悪しからず」と言われていたのを思い出したという。(詳しい記述は、前述した売野の著書『砂の果実』にもあり)ちなみに、この『ひとりじゃいられない』の歌詞には、人を思いやる真っすぐな気持ちが込められており、フミヤの温かい歌声ともリンクして、女の子が胸キュンしそうなミディアム・バラードに仕上がっている。それはまるで、メンバーからファンに宛てた1通のラブレターのようだ。筆者が担当するランキング番組『渋谷のザ・ベストテン』(渋谷のラジオ)でも、チェッカーズ限定のランキング投票を実施したところ(全2060票)、ファンリクエスト部門では8位と、シングルB面曲としては異例の人気に。実際のA面だった『神様ヘルプ!』を大きく上回っている。■フミヤに言われた忘れられない言葉とはその後、シングルでは11作目の『Song for U.S.A.』(’86年6月発売)を最後に、売野×芹澤コンビでのチェッカーズへの楽曲提供は終了。12作目の『NANA』からチェッカーズはセルフ・プロデュース期に突入し、’92年に解散した。しばらくしてフミヤがソロで活動し始めたものの、彼はチェッカーズ時代のセルフカバーを歌う際、弟の藤井尚之が作曲したものをメインとしており、芹澤廣明の作品は“ひとりじゃ歌えない”と事実上、封印してきた。しかし、コロナ禍を憂いたフミヤは「人々に元気を届けられるなら」と芹澤氏に相談し、’21年の特別番組『激レア!藤井フミヤギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)にて約29年ぶりに芹澤作品を披露し、その後のツアーでもセットリストに組み込んでいる。このことを、売野はどう思っているのだろうか。「最近、フミヤくんがまた当時の歌を歌ってくれるようになって、本当にうれしい。最高だよ! 歌にとっても、封印されてしまうのは、かわいそうだからね。俺の中でチェッカーズの1番ソングはやっぱり、ひときわ苦労した『ジュリアに傷心』だろうね。12インチ・シングルだった『ブルー・パシフィック』も好きだし、シングル以外なら、アカペラの『ムーンライト・レヴュー50s』かな。それと『ローリング・ダイヤモンド』の、ちょっと不良っぽい歌詞も気に入っているよ。チェッカーズの魅力はズバリ、“キュートな不良性”。不良なんだけど汚れたイメージがなくて、オシャレなんだよね。フミヤくんは洋服が大好きみたいで、“最初の河口湖のレコーディング合宿のとき、売野さんは真っ白なスーツで来ましたよね”って言い張るんだよ。そんなはずはないんだけど、会うたびに言われた。それに、“いつも、どんな服を着ているの”って、ブランドのこともよく知っていて尋ねられたね。当時、俺は古いベンツに乗っていたんだけれど、チェッカーズの初コンサートで所沢まで乗っていくつもりが、途中でバッテリーが上がっちゃって、行けなくなって悔しかったことまで思い出しちゃったよ(笑)」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月20日(写真左から)荻野目洋子、河合奈保子中森明菜の初期の代表曲『少女A』『十戒(1984)』『1/2の神話』や、チェッカーズの人気曲『涙のリクエスト』『星屑のステージ』をはじめとして、ラッツ&スター『め組のひと』、菊池桃子『Say Yes!』、矢沢永吉『PURE GOLD』など、数々の大ヒット曲を生み出してきた作詞家・売野雅勇。以前、売野は週刊女性PRIMEのインタビューで《明菜ちゃんは、僕が主人公(=明菜)を想像して書いた物語を遥かに超えていくからね。(中略)あれは、計算というよりも本能で表現しているんじゃないかな。天才的だよね》と、明菜が作り出す世界観を絶賛していた。■筒美京平が荻野目洋子をリクエストそして、売野が中森明菜と並んで“表現力のある歌手”として挙げたのが荻野目洋子だ。荻野目は1984年にデビューし、’85年末のシングル7作目『ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)』で大ブレイク。売野は翌年に発売した次作シングル『フラミンゴ in パラダイス』を皮切りに、『六本木純情派』『ストレンジャーTonight』など、オリコンTOP10にランクインした9曲の作詞を手がけている(うち3曲が1位。麻生麗二名義で作詞した『スターダスト・ドリーム』を含む)。「荻野目さんは一見、不器用そうだけど、何を歌っても“切なさ”の成分がある。そして、おとなしくて上品で、ちゃんと育てられた人ならではの“哀愁”もただよう。何かへの渇望みたいなものが、どの歌にも強く出ていて、彼女の人生が宿っているように聞こえるんだ。だけど、どの歌も品位を損なわない。そこが素晴らしい」(売野雅勇・以下同)確かに、筆者が’14年に荻野目にインタビューした際も、1秒でも長く画面に映りこもうと自己アピールする昨今のTVタレントとは対照的に、ひとつひとつの質問に対して真摯に受け答えする彼女の姿に、ストイックに生きるトップアスリートに近いものを感じた。よって、その印象にも納得がいく。売野は’20年に亡くなった作曲家・筒美京平についても、驚きのエピソードを教えてくれた。「実は、荻野目作品は京平先生から書きたいって言われたんだ。何作か(彼女への作詞提供が)続いていたころ、先生から“荻野目さんに曲を書きたいから、レコード会社に頼んでくれない?”って言われて。だから、’87年発売のアルバム『246コネクション』は先生の希望から生まれたんだ」『246コネクション』は、売野雅勇によるプロデュース。国道246号沿線及び避暑地に関するタイトルや歌詞が中心のコンセプトアルバムで、収録された11曲のうち10曲を筒美京平が作曲している。青山界隈やリゾート地を舞台としたバブルに向かうまばゆい景色が、洋楽のエッセンスを取り入れたメロディーと、当時のファッションを凝縮した歌詞のすみずみから感じられる名盤だ(オリコン週間最高位2位、年間25位)。荻野目洋子の売野雅勇による作詞曲が続いた’86年末から’87年春ごろまでの筒美は、少年隊『バラードのように眠れ』『stripe blue』、中山美穂『WAKU WAKUさせて』『派手!!!』、C-C-B『ないものねだりのI Want You』、本田美奈子『Oneway Generation』、小泉今日子『水のルージュ』と、オリコンTOP3級のヒットを大量に生み出していた。そんな多忙を極めた充実期に、更なるヒット作りに挑んでいたとは、筒美の飽くなき探究心には驚くばかりだ。「俺が作詞、京平さんが作曲して『246コネクション』ができたわけなんだけど、どれも曲がいいよね!その中の『軽井沢コネクション』はシングルのつもりだったのに、(荻野目洋子が所属する事務所・ライジングプロの)平哲夫社長から“これじゃまだ弱い”とダメ出しされてしまって。そこで、追加で書いてもらったのが『さよならの果実たち』という曲なんだ」先行シングルとして追加で書かれた『さよならの果実たち』(’87年6月発売)は、真夜中の都会をさまよう若者の心の渇きを歌ったミディアム・ナンバーだ。荻野目が力強くも切なく歌うことで、その孤独をより際立たせ、日曜日に発売とオリコン集計が不利ながら、シングル12作目にして初のオリコン1位を獲得した。「京平先生は、荻野目ちゃんをヒットさせる自信があったんだと思う。次のシングル『北風のキャロル』(同年10月発売)が完成したときなんか大満足で、“やっぱ僕たち、プロだよね~”って笑っていたんだよ」なお、この’87年の秋冬は中森明菜『難破船』、森川由加里『SHOW ME』、桑田佳祐『悲しい気持ち』、少年隊『ABC』、光GENJI『ガラスの十代』、南野陽子『はいからさんが通る』などロングヒット作が目白押しだったことで、『北風のキャロル』についてはオリコン最高2位、累計売り上げ11.7万枚と、当時の荻野目の中では地味なセールスだった。しかし、筆者が担当するラジオ番組『渋谷のザ・ベストテン』(渋谷のラジオ)で’20年6月、ファンリクエスト投票(総数703票)を実施した際、『ダンシング・ヒーロー』を僅差で抜いて1位となった人気曲である。荻野目の持ち味である出だしの低音から、サビの高音に向かうにつれて、寂しさがこみ上げてくるという構成は、あらためて聞いてみると歌声、歌詞、メロディー、演奏といずれの面においても洗練されている。■河合奈保子は「人間ばなれしている」さらに、“別格で歌のうまい人物”として、売野からは河合奈保子の名前が挙がった。中森明菜や荻野目洋子と同じく’80年代からアイドルとして活躍し、’80年代後半以降はシンガーソングライターとなった河合に対して売野は、『UNバランス』『コントロール』『唇のプライバシー』『デビュー~Fly Me To Love~』『涙のハリウッド』など、11作ものシングルA面の作詞を手がけている。売野の起用は、筒美京平からのプッシュで決まったそうで、売野雅勇が作詞、筒美京平が作曲を担当した最初のシングル『エスカレーション』は、河合のシングルにおいて最大セールス(オリコン最高3位、累計売り上げ約35万枚)を記録した。また、サビの部分で絶叫スキャットの入る『ジェラス・トレイン』や、全作詞:売野雅勇、全作曲:筒美京平で統一したアルバム『さよなら物語』『スターダスト・ガーデン-千・年・庭・園ー』は、名曲・名盤として、音楽をこよなく愛するリスナーの間でも語り継がれている意欲作だ。天真爛漫かつ明朗なポップスで一連のヒットを放ってきた彼女に、挑発的な態度を取らせたり、失恋による深い悲哀を歌わせたり、さらには、天使や神の視点での幻想的なシーンを歌わせたりと、売野はそれまでのイメージとは異なる歌詞を多数、提供してきたが、それらはすべて奈保子を信頼していたからだったようだ。注釈すると、前出の『スターダスト・ガーデン』は、全体としてリゾート・ポップスのような明るい雰囲気に包まれながらも、さまざまな時代の異国での出来事が描かれている。しかも主人公は、その情景を外から見守っているような描写のものが多い。それを売野は“天使のような視点”と表現しているのだろう。アルバムのラストに収録された『千年庭園』での《人は宇宙(コスモス)の花片(はなびら)》という歌詞を何の淀みもなく歌う奈保子は、確かにアイドル歌手の域を超えている。「河合奈保子ちゃんは歌唱力が圧倒的で、なんでも歌えちゃう。だからこそ、彼女ならではの色が出にくかったのかもしれないけれど、それも彼女の才能だよ。あれだけ歌いあげてもエレガントでいられるなんて、人間ばなれしているよね。だから、彼女には歌謡曲じゃない文芸路線のアルバム(前出の『スターダスト・ガーデン』。’85年3月発売)を書いたんだけど、ああいった天使のような視点を取り入れたものは彼女以外にはできないし、そう簡単に歌いきれない。このアルバムは当時、さほど評価されなかったのかもしれない。でもその後、耽美な世界をポップスの中で描くことを極めて、やっと実を結んだのが、10年後くらいに中谷美紀さんに書いた一連の作品(『MIND CIRCUS』『砂の果実』『天国より野蛮』など)。奈保子ちゃんと中谷さんは(歌い方や容姿などが)似ていないようでいて、詞の世界観は互いにとても共通しているんだ。2人も、ファンの人たちも、僕の歌詞の世界を愛してくれたしね。だから、成長のキッカケを作ってくれた奈保子ちゃんには、すごく感謝しているよ。最高のシンガーとしてね」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月14日1984年に行われた第3回『メガロポリス歌謡祭』で見事ポップス・グランプリを受賞した中森明菜「『十戒(1984)』のメロディーには俺が作る前に、ユーミンが書いた歌詞が付いていたんだよ。すごくいい歌詞だったみたいだけど、方向性が違ったからボツにしたんだって。俺も(その歌詞を)見たかったんだけど、ディレクターがちゃんと読ませてくれなくて。どうしても、ってお願いしたら最初の1、2行だけ教えてくれた。『ガードレールに腰掛けて、ポニーテールをほどいた』みたいな歌詞だったかな。“中森明菜”を意識してカッコいいでしょ?」(売野雅勇・以下同)そう語るのは、作詞家の売野雅勇。『少女A』『1/2の神話』『禁区』など、中森明菜の初期のヒット曲を手がけた彼が、『禁区』以来3作ぶりとなる『十戒(1984)』を作詞したときのエピソードだ。当時、彼女のディレクターを務めた島田雄三からは、「次のシングルは強い女性路線で」と売野が発注を受けていたところ、作曲を担当した高中正義が、自身の判断で松任谷由実と話を進めていたらしい。つまり、発注の段階で何らかの誤解が生じ、作詞の依頼が重複していたそうだ。■“明菜ビブラード”が響く攻めの1曲売野が書いた『十戒(1984)』は、軽いノリの男子に対し《愚図ね》《過保護すぎたようね》《発破かけたげる》《限界なんだわ坊や》と歌い、ラストに《イライラするわ》でトドメを刺すという、現代ならパワハラだとも言われそうなほど攻撃的なフレーズが続く。ちなみに、タイトルを“じっかい”ではなく“じゅっかい”と読ませたのは、単に売野がそう読むのだと思っていただけで、特に思い入れはなかったとのこと。「これは、高中さんの曲に俺が後で歌詞をつけたんだ。ギターのインスト曲みたいなカッコいい作品がすでにできあがっていたから、言葉は当てにくかったかな。でも、『十戒(1984)』は強い言葉で相手を切り続けるようなサディスティックな内容だから、割とすぐに完成したよ。こういう路線はメチャクチャ得意なんだよね(笑)。実際、わずか2、3時間で書きあげちゃった。当時ちょうど、河合奈保子さんのレコーディングでロサンゼルスに連れていってもらったのだけれど、時間が余っていたからメキシコに遊びに行って、その滞在中に余裕で仕上げちゃったくらい。この歌詞に出てくるような言葉のアイデアは、コピーライター時代に鍛えられたのかもしれないね。もちろん、明菜ちゃんが歌う前提で書いたんだよ!」当の明菜も、いつも以上に緩急をきかせ「イライラするわ~~~!!」と強めのビブラートで熱唱。さらに、レースを基調としたスカートやノースリーブのシャツ、手袋にショートブーツなど全身黒づくめの衣装をまとい、あえて笑顔を封印してパフォーマンスするなど、当時19歳にして、その確かなセルフプロデュース力を最大限に発揮した。しかも、クールな雰囲気で歌い終わったあとに満面の笑みを見せる姿も、今ならば“ツンデレ”と言われそうなほど魅力的に映ったことだろう。その結果、発売1週目と4週目にオリコン1位を獲得し、レコード売り上げは累計61万枚以上で年間6位を記録。有線やラジオ、はがきリクエスト状況を総合して順位を決める『ザ・ベストテン』(TBS系)では5週連続で1位となり、年間8位にもランクインするなど、いずれも売野が手がけたシングルの中で最高レベルを誇る人気曲に。しかし、売野が明菜に手がけた曲はこれが最後となった。「明菜ちゃんがセルフプロデュースに目覚めてきたことで、コンセプト重視で進めてきたディレクターさんが、彼女のことをコントロールしづらくなってきたみたい。もちろん、その要因は、俺の歌詞にもあるんだろうね。でも『十戒(1984)』や、その前の『禁区』の歌詞も、本人は好きだと聞いていたよ。カッコいい曲ばかりだから、もちろん俺も大好きだね。自分の作詞曲を集めた35周年記念のCD BOX(『Masterpieces~PURE GOLD POPS~』)にもたくさん入れるつもりだったんだけど、レコード会社のスタッフ間で行き違いがあったようで、入らなかったのが残念で」■中森明菜に今だから書きたい曲はその後、明菜はそれまで自身のヒット作を支えた作家の起用を極力避け、異国情緒のある楽曲や、都会で暮らす大人の女性を象徴した楽曲などに挑戦する中で、衣装や振りつけも含めたプロデュース能力を発揮。女性アイドルというより、1人のアーティストとしての才能を開花していった。そこでの明確なコンセプト作りには、初期に売野作品を歌ったことも多分に影響しているだろうし、売野のほうも明菜作品を手がけたことで、荻野目洋子の『六本木純情派』『さよならの果実たち』など、女の子の孤独と純情が裏表一体となった作品でも成功を収めたのだろう。明菜のことを、売野はどう見ていたのだろうか。「彼女のような女の子は、ギリギリのところで生きていると思う。自分の許容量と振れ幅のバランスが取れていない部分があるから、かまってあげたくなるんだ。今50代となった明菜ちゃんに、また何か書いてみたいね。彼女はきっと、戦争みたいな日々もくぐり抜けてきたわけでしょ。さまざまなことを経験してきた彼女だからこそ、“人生には生きる価値があるんだ”というような歌詞を。明菜ちゃんは、俺が主人公(=明菜)を想像して書いた物語を遥かに超えていくからね。歌の中で1人の女性がリアルに動いているのが、声色や言い回しのひとつひとつから感じとれる。あれは、計算というよりも本能で表現しているんじゃないかな。天才的だよね」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月04日ステージで歌唱する中森明菜「『少女A』がヒットするなんて、当時はまったく想像できなかった。本当に数奇な巡り合わせで生まれた曲なんだ。でも、(歌詞をまとめた)原稿用紙の表紙に書いた初期タイトル『少女A(16)』が非常に強くて、あの言葉のパワーによって運命が決められていたのではないかと思うほどで、不思議でならなかった」(売野雅勇、以下同)■「じれったい」のサビは後から生まれた1980年代を中心に数多くのヒット曲を放ってきた中森明菜が、7月13日で56歳の誕生日を迎えた。デビュー40年目でもある2021年は、アナログレコード30枚をまとめたBOX『ANNIVERSARY COMPLETE ANALOG SINGLE COLLECTION 1982-1991』がオリコンアルバム週間98位にランクイン。また、日本テレビの音楽特番『THE MUSIC DAY』が実施した「1万人が選ぶ世代を超えた最強アイドルランキング」でも、松田聖子、モーニング娘。、AKB48に次ぎ第4位に。いずれも’17年以降は表立った活動がないことを考えると大健闘の数字で、まさに“記録にも記憶にも残る歌姫”と言えるだろう。彼女の最初のシングルヒットが、2作目の『少女A』(オリコン最高5位、累計約40万枚)。いわゆる“ツッパリ系”歌詞の歌謡ロックチューンで、当時、本人がレコーディングを嫌がったというのは有名な話だろう。とはいえ、その後2年間にわたって同じ作詞家の売野雅勇を起用することで『1/2の神話』、『禁区』、『十戒(1984)』と大ヒット曲を放ち、結果として、彼女がトップスターに躍り出る大きなきっかけとなった。その対極となる『スローモーション』『セカンド・ラブ』『トワイライト』といった来生えつこ・来生たかお姉弟コンビが描いた穏やかな路線も、彼女の大きな持ち味となったのだが、もし『少女A』でなく、当初に予定されていた来生姉弟による同路線の『あなたのポートレート』がシングルとなっていたら、続く2年間で彼女のファンはここまで広がらなかっただろう。売野が中森明菜に書いた9曲のうち4曲がシングルA面に採用されたことからも、それだけインパクト抜群の作品を書き上げたのだ。それにしても、冒頭の売野の言葉にあるように、この『少女A』は“さまざまな偶然が積み重なって生まれた”というのも興味深い。その経緯は売野雅勇の著書『砂の果実80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)に詳しいが、売野自身も、まるで運命に導かれるように作詞家人生がスタートしたことを明かしてくれた。◆ ◆ ◆1982年の3月、中森明菜が当時、所属していた事務所が新たな楽曲候補を募集していることを知った売野は、周囲の勧めもあり、初めてアイドルの歌詞を書いた。応募したのは、歌詞に曲もつけて提出する形式のコンペティションだった。「最初に、別の作曲家によるフォーク路線のメロディーをつけて出したものはボツになったのに、なぜか歌詞だけが生き残ったんだ。そこで、別のメロディーを詞に乗せて再提出することになり、同じ事務所だった芹澤廣明さんに頼む際、“一から作るのは大変だから、芹澤さんのストック曲の中から選んでみて”とマネージャーに言われて。ちょうどその中に、漫画家の先生が先に歌詞をつけていたものが残っていたんだ。その人も俺も、小節数を意識しない、作詞家としては素人の書き方をしていたから(笑)、Aメロがやたらと長い曲でね。メロディーが、僕の詞ともピタリとハマった。そして、元々あったサビの『ねえあなたねえあなた』という部分を『じれったいじれったい』という歌詞に変えたら、ほぼ完成形となったんだ」その後、タイトルの微調整や歌詞の1番と2番の入れ替え、さらに、(歌うことを嫌がった)明菜自身を説得することで、ようやく1度だけレコーディングを決行。CDジャケットに写る明菜も、当時の心境が顔に出たのか、やけにふてくされた表情となっている。それが歌詞の世界観をよりリアルに伝えることになり、『ザ・ベストテン』(TBS系)でも、新人アイドルとしては異例の11週連続ベストテン入りを記録したのだろう。しかし、そのランクイン中も明菜は「『少女A』よりも『スローモーション』が好き」と口にするほど、拒否反応を示し続けていた。「なにしろ楽曲が『少女A』に決まったときから、ピリピリしていたからね。確か、『キャンセル!』(『少女A』 の後に出た2ndアルバム『バリエーション〈変奏曲〉』収録曲)のレコーディングのとき、当時のディレクター・島田雄三さんが僕を気遣ってスタジオで彼女と会わせてくれたんだけど、本当に形式的にサッと一言二言、交わしただけで。目も合わせてくれなかったかな。“あっ、この子は俺のこと、キライなんだな”って(笑)。『少女A』も、シングルでヒットさせるためには仕方ないって思って、歌ったんじゃないかな。でも、悪い子だとはまったく思わなかったね。寂しがり屋というか、人懐っこいところが本当はあるんだと、なぜだかすぐに分かった。冷たいとか、意地悪な人という印象もなく、むしろ自分に近いものを感じたね。だから、嫌な思いは全然していないよ。あの対面で彼女の二面性や純粋な部分を感じられことが、『1/2の神話』の作詞につながったんだと思う」■『1/2の神話』『禁区』制作の背景シングル4作目となった『1/2の神話』は、しっとりとしたバラードの前作『セカンド・ラブ』とは打って変わって、激しいロックチューン。売野のワークショップ仲間で、まだデビュー前だった大沢誉志幸が作曲を手がけたが、売野にとっても大沢にとっても初のオリコン1位(6週連続)、『ザ・ベストテン』でも7週連続1位となった。「この『1/2の神話』は最初、『不良1/2』ってタイトルにしていたんだけれど、レコード会社から『1/2の神話』に変更されたんだ。でも、歌詞はそのままで、むしろ歓迎されたんじゃないかな。とにかくタイトルだけ変えたい、と。そういえば、『禁区』(シングル6作目)のときも、“明菜が拒否反応を出すだろうから、タイトルだけ変えてくれ”って。歌詞にこのワードが出てくるのはいいけれど、タイトルになったときに彼女が抱く印象が気になっていたみたい。それを恐れて、仮に付けさせられたのが『芽ばえ』だった。“発売する直前に、『禁区』にすり替えるから”ってディレクターに言われてね」ちなみに、売野が中国に行った際、倉庫に大きく書かれた“進入禁止”を意味する“禁区”という文字があまりに衝撃的で、タイトルに使ったのだという。その『禁区』がどのようにして生まれたのかも語ってもらった。「『禁区』を作ることになったときに、作曲を担当した細野(晴臣)さんと会って、詞を先に書いたものと、曲を先に書いたものをそれぞれ作って交換しようということになって。そのときに詞先で誕生したのが『禁区』。だけど、細野さんが曲先で作ってくれたものが、なぜだかボツということで、俺には渡してくれなかった。そのメロディーに松本隆さんが詞を付けたのが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が歌った『過激な淑女』だよ。だから、(ちまたでウワサされたように)松本さんが明菜向けに書いた歌詞が、明菜サイドの問題でNGになった、というわけではないんだ」この年は、YMOが春ごろに化粧品キャンペーンソング『君に、胸キュン。』で再ブレイクしたり、細野が作曲を手がけた松田聖子の『天国のキッス』や藤村美樹の『夢・恋・人』がヒットしたりと、細野晴臣らしいテクノポップスが大衆に受け入れられていた。そこに、売野雅勇が明菜に当て書きした、“強気さのなかに秘める純粋な部分”がよりクローズアップされた歌詞や、これまでよりも緩急を効かせた明菜の歌唱が意外なハマり方をして、従来のツッパリ路線ともテクノ歌謡とも一線を画する楽曲が生まれた。その結果、アイリーン・キャラの『フラッシュダンス』や杏里の『CAT’S EYE』など、その年に大ヒットした映画とアニメの主題歌がヒットするなかでオリコン1位を1週獲得、洋楽曲を含まない『ザ・ベストテン』では、返り咲きを含み合計7週1位に。■明菜と売野、実は近しい存在 !?なお、’83年から’84年にかけては『禁区』のほかに、『ルネサンス―優しさで変えて―』、『モナムール(グラスに半分の黄昏)』、『100℃バカンス』と合計4曲が、作詞・売野雅勇、作曲・細野晴臣のタッグで作られている。ここでの4曲は、それ以前の強さを押し出した歌唱から変化を見せているので、明菜自身もそれなりに理解を示していたのではないだろうか。「細野さんがメロディーをつけてくれたものは、デモテープの段階から“もろYMO”って感じがして完全な状態で、めちゃくちゃカッコいいんだよ!この時期の曲は、アルバム用に依頼されて、曲が先に作られたあとに詞を書いたんだと思う。でも、その前の『キャンセル!』や『思春期』(ともにアルバム曲)は、もともとはシングル狙いで書いたね。あと、レコーディングはしなくて幻になったけれど『接吻(キス)』という作品も、そのころに書いたよ」明菜自身は、この後『十戒(1984)』(1984年7月発売、シングル9作目)を最後に売野雅勇作品から離れていった。しかし、この2年間、“自分が好きな曲”と“ヒットする曲”の違いを認識することで、プロとしての自覚をより強く持ったのか、アイドルと呼ばれつつも自身の衣装や楽曲などをセルフ・プロデュースし始めるなど、本格的なアーティストとしての側面も垣間見えるようになった。彼女の新たな魅力が開花したという点から見ても、やはり、売野雅勇との出会いは大きいはず。そう考えると、中森明菜の『少女A』は、日本の歌謡曲史をひも解くうえでも重要な1曲と言えるだろう。「俺にとっては『少女A』がすべての始まり。明菜や俺、芹澤さんを始めとして、いろんな人の人生を背負った楽曲になったと思う。それと、俺はだいたい不良が好きなんだよね。決して本格的な不良じゃなくて、(心に葛藤を抱える)“不良っぽいやつ”が。周りの友達もそんなのばかりで、優等生はむしろ嫌いだったんだ。だから、明菜ちゃんの歌い方はすごく伝わるものがあるし、俺と彼女は、本当は近いものを持っている存在だと思っているよ。もし、中学のときとかに同じ学年だったら、告白していたかも……なんて(笑)」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、河合夕子『東京チーク・ガール』、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子などに数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年07月13日2021年1月から放送される『電波少年』(wowowホームページより)これまでになかった突撃企画で大人気だった、伝説のバラエティー番組『電波少年』シリーズ。無名状態から、一躍人気者になった出演者も多いもの。彼らに忘れられない、トラウマ級の思い出を語ってもらいました。あの衝撃&爆笑&感動が今、よみがえる!?今年1月より、松村邦洋と松本明子が司会を務める『電波少年W〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』(WOWOWプライム)の放送が突如としてスタートした。「テレビの記憶を掘り起こす」がコンセプトの同番組には、元猿岩石の森脇和成やカラテカの矢部太郎など『電波少年』(日本テレビ系)出身者がゲスト出演することもあり、番組内で語られる当時のハチャメチャな秘話には今も驚かされる。そこで今回は『電波少年』の出演者たちから話を聞き、その衝撃度を振り返りたい!■ガチすぎトラブル、番組存続の危機にそれまでほぼ無名だったタレントを無謀な企画に抜擢するのは同番組の十八番。「電波少年的東大一直線」で大学受験に挑んだ坂本ちゃんは、ロケが始まる前日まで一般視聴者とまったく同じ感覚だったという。「実は私の前に1人、別の芸人さんが同じ企画にチャレンジしていたんですけど、ギブアップして脱落したんです。そんなこととはつゆ知らず、『へ~、東大を目指す企画が始まったんだ』と思って『電波少年』を見ていたら、翌日に私が番組の用意した部屋へ連れて行かれ、大学受験に向けた勉強が始まったんです。毎日ある小テストで合格点を出さないとごはんが食べられないルールなんですけど、正直、カメラの回ってないところで食べさせてくれるのかな? と思っていました。だけど、まったくくれない。『電波少年ってここまでガチなんだ!』とは衝撃でしたね」(坂本ちゃん)この番組がガチということを最も身をもって知っているのは松村邦洋だろう。「今、『世界の果てまでイッテQ! 』(日本テレビ系)でイモトアヤコちゃんがコモドドラゴンと競走しているけど、『電波少年』のほうは観光用ではなくガチの野生のコモドドラゴンと戦いに行きました。コモド島に行って2000メートルあるって言うので『2キロくらい歩くのは大丈夫ですよ』って言ったら、距離じゃなくて標高が2000メートルだからびっくりしました。『近所の散歩の2000メートルと全然違うなあ』と思ってバテ始めると、スタッフさんから『早く行けよ!』と棒で突っつかれて犬以下でしたね(笑)。演出もメチャクチャで『コモドドラゴンがこう行ったら松村がこっちに行って、コモドドラゴンがこう行って~』って、コモドドラゴンはそのとおりに動きませんから(笑)」(松村)■ラクダも倒れるほどの暑さ『電波少年』恒例のヒッチハイク旅では、多くの若者が世界の危険な地域に足を踏み入れた。朋友(パンヤオ)の伊藤高史がスーダンのバユダ砂漠で熱中症にかかり、白目をむいて気を失った事件は番組そのものの危機でもあった。「あの瞬間は気絶していたので記憶がないんですけど、僕が死んでたら番組は絶対終わってましたよね(笑)。あのとき、実は僕が倒れる前にラクダも倒れているんです。そしたら、人が寄っていくから助けるのかなと思ったら、死んでいたからバッサリ切って干し肉にして、それを僕たちも食べました。ラクダが死ぬような環境なのによく死ななかったと自分でも思います(笑)」(伊藤)■ピストルで撃たれ命の危機に……命を失いかけたのは伊藤だけではない。同じくヒッチハイク旅に挑戦したドロンズ石本がミネソタ州での危険な経験を語ってくれた。「町はずれでヒッチハイクしていたら、2人組の男が『アジアへ帰れ!』みたいなことを言いながら近づいてきて、よく見たら右手にピストルを持ってるんです。すぐに崖沿いに飛び込むと、『パン、パン!』って銃声だけが聞こえてきて。僕も相方も弾が当たっていないことを確認し、近所の小屋に逃げ込んだら、そいつらは外でずっと僕たちのことを探しているんです。小屋の中にたまたま斧があったから、それを握りしめて『来たらやるしかない』と入り口のところで待ち構えていました。15~20分くらいじっとしていたんじゃないかな」(石本)ドロンズといえば、ロバのロシナンテと北海道~鹿児島を歩いた日本縦断紀行も忘れられない。「あのときはヒッチハイクより、ロシナンテが周りの人をケガさせないように防ぐことのほうが大変でした。旅も後半あたりになるとロシナンテ人気が高まり、東京に着いたら同行ディレクターが〆谷(浩斗)さんという有名な人に代わりました。あの人からは『お前らじゃねえんだよ、ロシナンテが有名なんだよ。お前らがロシナンテを守れ』と言われて、相方(大島直也)がロシナンテの綱をちょっと緩めると『ロシナンテが子どもを襲ったらどうすんだ! 』とボコボコに殴られていました(笑)。〆谷さんからは『ロシナンテが誰かをケガさせたらお前らの責任だ』なんて言われたけど『いやいや、これをやらせてる番組のせいでしょ!』って言い返したら、さすがの〆谷さんも笑ってましたね(笑)。それまでは自分たちのための旅だったけど、ロシナンテとの旅は尽くす側だったので人間として成長できました」(石本)ちなみに、ロシナンテと朋友のチューヤンは一時期同じ芸能事務所に所属していたことが。ロシナンテのほうが先にテレビ出演をしていたため、チューヤンはロシナンテのことを「先輩」と呼んでいたという。■無名の若者たちが番組を通じて成長『電波少年』には危険な衝撃もあれば、ポジティブないい意味での衝撃もある。坂本ちゃんは番組を通じ、憧れのアーティストとの邂逅を果たした。「小テストで100点を取るといろいろなものをもらうことができるルールで、あるときは昔から大好きな槇原敬之さんのCDアルバムをゲットできたんです。そこで、槇原さんの『遠く遠く』という曲を初めて聴いたんですね。久しぶりに耳にする音楽だったのもあって、曲が始まった途端、感動の衝撃で号泣してしまいました。それからは、番組で事あるごとに『マッキー、マッキー』と言うようになりましたね。『電波少年』の挑戦企画って、有名なミュージシャンが応援歌を作ってくれたじゃないですか。だから、アピールしていたら槇原さんが曲を作ってくれるかなあと思っていたんですけど、ずっと部屋の中にいたから槇原さんが(覚醒剤取締法違反で逮捕後に)謹慎中だったことを知らなくて。でも、その後にコンサートに呼んでいただき、『レコード会社よりも僕のことを宣伝してくれてありがとうございます』とお礼を言われました。実は、勉強中に槇原さんが復帰アルバムを出されて、そこに収録された『Ordinary Days』という曲には『ちょうど蝉が鳴き始めた』『賢くなって自分を守れ』という歌詞があるんです。今でもあの曲は私に対しての応援ソングだと思っています」(坂本ちゃん)無名のタレントが一気にスターダムに上り詰める現象が『電波少年』ではよく起こった。つまり、ビッグな芸能人との接触が激増するということ。ヒッチハイク旅を終えて帰国した朋友の伊藤は、激変した環境の中である失敗を犯している。■スターとの遭遇で混乱も……「ドラマの衣装合わせで日テレに行き、ひと通り終えて外に出たら中森明菜さんがニコニコしながら僕に『おはようございます』って挨拶をしてきたんです。でも、あまりに突然のことに僕は『あっ、どうも……』と言っただけで立ち去ってしまったんです。でも、後でよくよく思い返したら明菜さんが『電波少年』にゲストで出たとき、電話でお話ししているんですよ。それを明菜さんは覚えていて、僕を見かけたから衣装合わせが終わるのを待っていてくださったんです。でも、僕たちは必死で旅をしていたし、明菜さんとお話しさせていただいたのは旅が始まってまだ3~4回目くらいの序盤だったから、そのことをすっかり忘れていて。『あれ、なんで明菜さんが僕に挨拶してんの!?』と混乱してしまったんです。すごい失礼なことをしてしまったと、後で事務所を通じ謝罪の連絡を入れさせていただきました。明菜さんもいろんな仕事をされていて、いろんな人と会うわけじゃないですか。でも、僕と電話したことを覚えてくださっていた。改めて、明菜さんのことを尊敬しましたね。逆に感謝を忘れている自分がダメだなと思いましたけど(苦笑)。『芸能人はこうあるべきだ』とあのときに教わりました」(伊藤)■うまくいくのは見たくない無名の若者たちは『電波少年』の企画を通じ、テレビを知っていった。ドロンズはヒッチハイク旅の中でバラエティーの何たるかを理解していく。「旅の資金を稼ぐため、路上でコントや大道芸をやるようになったんですが、1回で1万5千円くらいが集まるんです。ホテルは2千円くらいで泊まれるので、結構な稼ぎになる。でも、稼ぎすぎて同行ディレクターからは『やめてくれ』とストップが入りました(笑)。『ゴールまでずっと、お前らがコントばかりやって稼いでいるのを見て誰が楽しいの? 』と言われて、こっちは生きるために必死だから『そんなの知らないですよ』と言い返したんだけど、そこで初めて『テレビってそうなんだな』と理解し、それからはその国だから経験できる仕事をするようになりました」(石本)■個性的なスタッフの元で成長初期に司会を務めた松村も番組を通じて成長したタレントのひとりだ。彼はこの番組のスタッフを“精鋭”と呼ぶ。「ほかのディレクターでは〆谷さんがやっていたような仕事なんて絶対にできません。ほかの番組にあんな人はいないです。僕はスタッフにずっと怒られていましたけど、それ以上にスタッフがいろんなところで怒られていたと思うんです。番組がすごいことになったのは、スタッフに個性的な人が集まっていたから」そもそも、『電波少年』はウッチャンナンチャンが映画を撮影するため、電波の前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』を休止する間の穴埋めとして7月に始まったという。「そつのないスタッフは4月の時点で、すでにほかの番組に関わっている。7月にやってくれそうなスタッフは『あの人は優秀かもしれないけど問題もあるよ』と陰で言われる人たちばかりなんです(笑)。だから、穴埋めに癖のある人たちが集まり、その人たちをプロデューサーの土屋(敏男)さんがまとめたのがよかったんじゃないですかね。もし『電波少年』がなかったら、僕は芸人としてものまねにもっと真剣に取り組んでいたと思います。それで2~3年たってもダメで、山口に帰っていたかもしれない。『電波少年』のおかげでタレント生命は延びた気がします。芸歴33年、上島竜兵さんみたいに『33年、代表作なし!』というのもいいかもしれないけど、幸い『そうだ、俺には電波少年があったんだ』と思うことができる。そういう意味では、『電波少年』っていうのはありがたい番組だったなあと思います」(松村)初期『電波少年』のキーパーソンを直撃■〆谷ディレクターとの別れはあのかも……『電波少年』のロケで「自分は犬以下だった」と語る松村。番組の方向性として「松村を甘やかすな」という基本線があったそうだ。「途中からロケにADを連れて行かなくなったんですね。〆谷さんがADを怒るとそっちにエネルギーが行き、僕には普通に接するようになるから『これはいかん』と」そんな〆谷もドバイの砂漠で車が故障し、さまようことになったときは松村に優しかった。「妙に〆谷さんが優しいから『これは本当に危ないんだな』と実感しました。家がどこにあるかわからないような砂漠を歩きながら口から出まかせに『助かる、助かる。向こうにある家の瓦が1枚1枚見えるよ』なんて言うから、オスマン・サンコンさんみたいに遠くが見える人なのかなと。さすがに僕も助からないと確信し、『もう偉そうに呼び捨てにされるのも嫌だな』と思って反発したのを覚えています。『どうせ助かんねえんだよ』とか悪態をついていたら、救助が来て奇跡的に助かったという(笑)。うれしくなって思わず駆け寄って行ったら砂で足の裏が熱くて『アチャチャチャチャ! 』ってなったんですけど、カメラで撮れていなかったから『もう1回やれ! 』と言われ、『アチチチチ! 』って何回も必死にやりました。実は、それが〆谷さんとの最後のロケで、次から別のディレクターに変わったんです。もしかしたら、あのときに反抗的な態度をとったのが理由かもしれませんね。いや、わかんないですけど、ひょっとしたら」松村邦洋(まつむら・くにひろ)●1967年、山口県出身。大学在学中に片岡鶴太郎に見いだされて芸人の道へ。高田文夫のものまね「バウバウ」やビートたけしのものまね、『進め! 電波少年』出演で大ブレイク。幅広いレパートリーのものまねで活躍中。伝説の番組『電波少年』シリーズおもな出来事▼1992年・『進め! 電波少年』放送開始。・松村邦洋のアポなし、突撃取材が話題になる。「村山富市の長い眉毛を切りたい」「羽生善治と将棋をしたい」「渋谷のチーマーを更生させたい」「牛のゲップを吸い切りたい」など。▼1993年・番組のマスコットとして、アイドル「電波子」がデビュー。その後妹分としてオーディションにより電波子2〜28号も登場。▼1996年・「猿岩石」(有吉弘行、森脇和成)による「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」がスタート。・ドロンズ(ドロンズ石本、大島直也)による「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」がスタート。▼1998年・『進め! 電波少年』をリニューアルする形で『進ぬ! 電波少年』がスタート。松村がレギュラーからはずれ、松本明子の単独司会に。・「朋友(伊藤高史、チューヤン)」による「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」がスタート。・「電波少年的懸賞生活」がスタート。「人は懸賞だけで生きていけるか? 」をテーマに芸人のなすびが目標金額を目指した。・4月、兄弟番組『雷波少年』が日曜朝の枠でスタート。・「ドロンズのドンキホーテ! 日本を行く!」が『雷波少年』でスタート。ドロンズがロバの「ロシナンテ」とともに日本列島をヒッチハイクしながら進む企画。・「電波少年的無人島脱出」が『電波少年』でスタート。Rまにあ(しゅく、中島ゆたか)が自力で筏を作って無人島を脱出するという内容。これは後に「スワンの旅」(スワンボートに乗って旅をする企画)へつながっていく。・「雷波少年系ラストチャンス」スタート。「オリコン初登場20位以内に入らなければ即解散および音楽業界から足を洗う」というルールの企画にSomething Elseが挑戦。▼1999年・1月、『電波少年』の司会をチューヤンに託して松本が一時司会を降板するも4月に復帰し、松本とチューヤンの2人で進行するように。・当初は司会者のいなかった『雷波少年』の司会を4月よりチューヤンが『電波少年』と兼任することに。・チューヤンが『電波少年』の企画「80日間世界一周」に参加するため、ロシナンテが10月より代理として進行役を担当。・「雷波少年系ラストツアー」スタート。半年でロシアを横断する間に運命の1曲を作って日本武道館で公演を行い、1万人の観客動員がなければ解散して音楽業界から足を洗うという企画にBluem of Youthが挑戦。▼2000年・華原朋美が全米でCDデビューすることをゼロから目指すという「電波少年的全米デビューへの道」がスタート。この企画で作られた曲『Never Say Never』は15万枚のヒットに。・「電波少年的東大一直線」がスタート。坂本ちゃんが東大出身の家庭教師ケイコ先生とともに東京大学合格を目指す企画。・矢部太郎が挑戦した企画「電波少年的○○人を笑わしに行こう」がスタート。さまざまな国の言葉を習得してその国の人を笑わせるというもの。応援歌はTM NETWORKが制作。▼2001年・15人の女性がいきなり無人島に連れて行かれる「電波少年的15少女漂流記」がスタート。当時まだ無名の森三中・黒沢かずこや、いとうあさこが参加。▼2002年・『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』が土曜夜の1時間枠でスタート。「1クール平均視聴率が13%に達しなければ終了する」という公約をクリアできず、終了。▼2021年・『電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』(WOWOWプライム)がスタート。ドロンズ石本1973年、広島県生まれ。1996年に大島直也とのコンビ「ドロンズ」で『進め! 電波少年』のヒッチハイク企画に挑戦して人気者に。2007年より東京・恵比寿で「馬肉屋たけし」を経営。実業家としても活躍している。伊藤高史1976年、宮城県生まれ。『進ぬ! 電波少年』ヒッチハイク企画に朋友として挑戦。「劇団ウルトラマンション」を主宰。現在は俳優・脚本家として活躍中。TOブックス『リタイヤした人形師のMMO機巧叙事詩@COMIC』ストーリー協力。坂本ちゃん1966年、山梨県生まれ。2000年に出演した『進ぬ! 電波少年』の企画「東大一直線」でブレイクし、日本大学文理学部など8校に合格して日本大学に入学。芸能活動の傍ら、個展を開催するなど精力的に活動中。(取材・文/寺西ジャジューカ)
2021年06月20日ジャニーズではなくなった近藤真彦歌手でタレントの近藤真彦(56)が、ついに記者会見に登場することが決まった。事実上の、タレント活動の再開になる。昨年11月、週刊文春に25歳年下の女性との不倫が報じられ、芸能活動とレース活動を自粛していたが、4月いっぱいで所属するジャニーズ事務所を退所したことで、ジャニーズ事務所による“強制自粛”というおとがめは、効力を失っていた。■ひとつだけ問題あり実際、今月16日には、大分・オートポリスで行われた「スーパーフォーミュラ」第3戦の決勝レースで、自身がオーナーを務めるレーシングチーム『KONDO Racing』の監督として指揮を振るい、まずはレース業への復帰を飾った。その際、レース場の最寄りの空港でメディアの取材に応じた近藤は、芸能活動の再開について、「焦らず、徐々に、少しずつできれば」と語っていた。近藤の念頭にあるのは、ファンの前で歌を披露するライブ活動だったが、それに先駆け、自身がイメージキャラクターになり、芸能活動を再開することを決めた。事情を知る芸能関係者が明かす。「セガサミーグループのサミー株式会社が、新たなカードゲームのトーナメントを仕掛けることになったそうです。アメリカではポーカーのトーナメントが大人気ですが、それに匹敵する新しいカードゲームの流れを作る。そのPRに近藤が一肌脱ぐという流れです」セガサミーホールディングスは長年、『KONDO Racing』を全面的に支援してきた。チームの公式サイトにも、パートナーとして名前が見て取れるため、同社に近藤の起用の経緯について問い合わせたが、期日までに返答はなかった。「近藤としては断る理由のない、断れない、ありがたい仕事なのです。ただひとつ問題がありまして……」と前出・芸能関係者が眉をしかめるのは、近藤が会見に登場することによる混乱だ。こう続ける。「不倫騒動以来、初めての会見になりますから、どれだけのメディアが集まるのかわからない。それをさばけるのか。近藤の近くにいる人間はレース畑の人間ばかりで、芸能の事情にはまったくというほどうといんです。どんな媒体を呼ぶのか、どんな進行をすれば不快感をもたれないでメディアをさばけるのか。暗中模索ですよ」芸能リポーターや記者が、ジャニーズの後ろ盾のない近藤に対し、容赦ない質問を浴びせるのは容易に想像できる。質問にどう向き合い、どう答えるのか。ジャニーズ事務所を退所した際、文書でコメントを発表したが、後輩の東山紀之(54)に、「退所の仕方に疑問が残る」「薄っぺらい」とバッサリと切り捨てられていた。そんな近藤にとっては、1989年の大みそか夜10時から行われた、歌手の中森明菜との“金屏風会見”並みに極めて重要な意味を持つことになる今回の会見。モヤモヤしたままのファンや、先輩に失礼な言葉を浴びせた東山を納得させることができるのか。近藤が怖気づいて会見を辞退することがなければ、事態は予定どおり進む。会見開催日の予定は6月9日だ。〈取材・文/薮入うらら〉
2021年05月28日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に影響を与えられた映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、「’80年代」を振り返ってみましょうーー。「私にとって“忘れられない’80年代”といえば、高校時代に映画館で見た『フラッシュダンス』(’83年)。あの作品に出合わなかったら芸能界に飛び込む勇気は持てなかったし、いまの自分はなかったって思うんです」こう語るのは、女優の羽野晶紀さん(52)。小学校のころはいわゆる“カギっ子”で、青果店を切り盛りする共働きの両親が帰宅するまで、テレビをつけっぱなしにして待っていたという。「学校から帰ると毎日、お風呂洗い、夕飯の下ごしらえなど、親に言われたことを済ませながら、両親が帰ってくる夜の7時半ぐらいまで、ドラマの再放送を中心に見ていました」両親が帰宅すると、チャンネル権を握る父親は刑事ドラマ、羽野さんは歌番組、と意見が分かれることもあったが、一家が共通して楽しみにしていたのは、土曜の夜8時からの『8時だョ!全員集合』(’69〜’85年・TBS系)と、続く9時からの『Gメン’75』(’75〜’82年・TBS系)だった。「世界観がすごくカッコよかった『Gメン』は、芸能界への憧れを抱くきっかけにもなりました」中学時代には松田聖子や中森明菜、小泉今日子といったアイドルが続々とデビューし、その思いはますます強くなっていく。「それで中3のときに、父に『私も芸能界に入りたい』って言ってみたんです。当然『何を言っているんだ!?』という反応で、芸能界のことをよくわかっていないものだから、『宝塚歌劇団に入らなければ、芸能人にはなれない』と。父にしてみれば、小柳ルミ子さんのように、スターは宝塚で学んで、なる職業だと思っていたみたいです。今のようにスマホで簡単に情報を得られる時代ではなかったから、私も父の言葉を信じ、高校受験時の面談で、先生に『宝塚音楽学校を受けたい』と話してみたんです。そうしたら『もうとっくに願書を締め切っている。そういうことは早く言いなさい』と。すごくがっかりしたのを覚えています」芸能界をあきらめかけたそのころ、映画館で見たのが『フラッシュダンス』だった。物語はダンサーを夢見る18歳の女性が主役。養成所のオーディションにチャレンジしたいが、バレエ経験がないために臆してしまう。だが、さまざまな人との出会いと別れのなかで成長し、オーディションに臨むというもの。「倉庫みたいなところで、大きな犬と一緒に生活するっていう主人公の暮らしぶりも、10代の私にはカッコよく映りました。今では“そんなことはないだろう”って思えますが(笑)」そしてなにより、映画の主人公と自分自身を重ね合わせることができたという。「芸能界への唯一の登竜門と思い込んだ宝塚音楽学校へは願書すら出せず、バレエも音楽の経験もなくて、“私には何もないな”って思っていたけれど、チャレンジする主人公の姿を見て、すごく勇気がもらえたんです」「女性自身」2021年6月1日号 掲載
2021年05月24日俳優の田村正和さんが亡くなっていたと5月18日に発表された。77歳だった。数々の作品で名演を残してきた田村さん。その中でも’94年から放送され、10年以上続いた主演ドラマ『古畑任三郎』(フジテレビ)は代表作の一つと言えるだろう。「同作は、田村さん演じる警部補・古畑任三郎が巧みに犯行を解明していくというストーリー。田村さんの存在感はもちろんのこと、犯人を追い詰めていく展開やユーモラスなやりとりも人気の秘訣でした。また犯人役に中森明菜さん(55)や明石家さんまさん(65)、さらにSMAPといった豪華キャストが登場したことも話題に。第3シリーズまで放送され、視聴率20%以上は当たり前。最高で34.4%を記録しました」(テレビ局関係者)そんな同作の脚本を務めたのが三谷幸喜(59)だ。昨年に三谷が『朝日新聞』で寄稿した小説『一瞬の過ち』に、古畑任三郎が刑事役で登場。大きな反響を呼び、いまだ根強いファンがいることを証明した。「三谷さんの書いた脚本を見て、田村さんは古畑任三郎のイメージを膨らましていったそうです。そのため三谷さんは『古畑任三郎は僕と田村さんの共作だ』と話していました。名キャラクターを一緒に編み出してくれて、感謝しきりともいいます」(前出・テレビ局関係者)いっぽう、田村さんは三谷をリスペクトしていたという。「田村さんのマネージャーは当初、刑事ものに難色を示していました。ところが脚本を読んだ田村さんは、『これは面白い!ぜひやりたい』と即答したんです。撮影中も『よくこんな面白い本が書けるな』と感心しきりでした。また『三谷くんが僕の新しい魅力を引き出してくれた』と喜んでいましたね」(前出・テレビ局関係者)名作を作り上げた“同志”である2人。その絆は永遠だ。
2021年05月20日田村正和さん(2012年)俳優の田村正和さんが4月3日に都内の病院で心不全のため亡くなっていたことが明らかになった。葬儀、告別式は親族のみで行われたという。1967年のデビュー後、時代劇からトレンディードラマ、はたまたコメディーまで数多くの作品に出演し、独特の風貌と確かな演技力でお茶の間を楽しませていた田村さん。中でも代表作の一つとして、視聴者が毎週テレビの前で放送を待っていたのが『古畑任三郎』(フジテレビ系)だ。脚本家・三谷幸喜の名前を広く知らしめた同作は1994年4月の第1話から、田村さんが最後にメイン出演した2006年1月の『古畑任三郎ファイナル』まで10年以上にわたって放送された人気シリーズ。「視聴率も2シーズン目以降は20%は当たり前で、時に30%超えを記録する回もありました。放送翌日には“モノマネ古畑”がそこかしこにいたものです(笑)。ゲストの犯人役も第1回の中森明菜さんに始まり、菅原文太さん、明石家さんまさん、福山雅治さん、SMAPにイチローと各ジャンルの大物ばかりが登場。ほとんどの方が出演オファーを快諾、それだけやりがいのある、楽しみな現場だったと」(テレビ誌編集者)ファイナルから2年後の2008年に制作、放送された特別版『古畑中学生』では、古畑任三郎の中学生時代を山田涼介が演じ、オープニングには田村さん本人も出演。これが田村さんが演じる、最後の“古畑任三郎”の姿となったのだ。「フジ局内にもファンが多く、古畑に影響されて“ドラマを作りたい”と入社を志した局員も多かったと聞きます。そんなキラーコンテンツの終了を惜しむのは当然のことで、以後も三谷さんにシリーズ続編やスペシャル版の制作を打診したそうです。が、ドラマや映画、そして本業の舞台と多忙を極めていた三谷さんは、“もう終わったんですから”と新作を断り続けたと聞きます。一方の田村さんも60代半ばに差し掛かり、世間で言えば定年にあたる年だけに“いや、もうやらないよ(苦笑)”と。それからは主に単発のスペシャルドラマを選んで出演するようになりました」(テレビ局編成部スタッフ)そして2018年2月に放送された『眠狂四郎 The Final』(フジテレビ系)を最後に、静かに表舞台から姿を消していった田村さん。これが遺作となったわけだが、実は昨年に『古畑任三郎』再始動の動きがあったのだという。■三谷が「古畑」の新作を執筆きっかけは昨年4月、朝日新聞に掲載された三谷の短編小説『一瞬の過ち』だった。全4回からなる同作の主人公は《毛量が多くやけに襟足が長い》黒いスーツを着た細身の男。そう、古畑任三郎だ。そして犯人は「脚本家の三谷」と、ファンにはたまらない“掟破り”のストーリーだ。「突然の“古畑熱”の再燃に制作サイドも見過ごすわけにはいかず、“なんとかドラマ化を”と持ちかけられたようですが、三谷さんはというと“そんなつもりでは”と。三谷さんとしては、コロナ禍で舞台やイベントなどの中止が相次ぐ中で、少しでも明るい、楽しい話題を提供したい思いからペンをとったのだそう。それに近年、心臓に持病を抱えていた田村さんの容体は三谷さんもご存知だったはず。ならば主役を変更して、というリニューアルという声もあったみたいですが、今までも“古畑任三郎は絶対に田村さん”と譲らなかった三谷さんは了承しなかったでしょう。“たられば”になりますが、もしも田村さんがお元気だったならば、オファーを受けてくださったとしたら、三谷さんも喜んで『古畑任三郎』を復活させたのではないでしょうか」(前出・テレビ局編成部スタッフ)田村さんは「古畑任三郎」になれる唯一無二の俳優だった。
2021年05月19日’81年、15歳で『スター誕生!』に出演。翌’82年にデビューし2枚目のシングル『少女A』で不良っぽい歌詞と歌声が話題となり、その後も数々のヒット曲でトップスターに君臨した中森明菜(55)。しかし、自殺未遂騒動を起こした’89年以降は、公私ともに波瀾万丈な人生に。今年でデビュー40年目を迎えた伝説の歌姫の軌跡を本誌秘蔵写真で振り返るーー。■’82〜’88年・デビューから一躍スターダムへ駆けあがった’82年、『スローモーション』でデビュー。続々とヒット曲を飛ばし、『ミ・アモーレ』『DESIREー情熱ー』で2年連続レコード大賞を受賞。【’83年11月】あどけない表情で紅白初出場の会見へ【’86年12月】FNS歌謡祭2年連続受賞で号泣【’87年2月】『夜のヒットスタジオ』で熱唱!【’87年3月】ゴールドディスク大賞“記念すべき第1回”で受賞■’89〜’09年・衝撃の自殺未遂から事務所移籍まで波乱の10年’89年、当時交際していた近藤真彦(56)のマンションでの自殺未遂が発覚し、1年間活動を休止。その後は女優としての活躍も著しかったが、事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、トラブルやスキャンダルが絶えなかった。【’89年7月】切ない表情で『LIAR』を歌ったメガロポリス歌謡祭【’91年11月】中村芝翫夫妻の披露宴でおちゃめなびっくり顔【’92年6月】メガロポリス歌謡祭で復活のスマイル【’92年11月】NYで撮ったサイン入り写真【’02年12月】デビュー満20周年で14年ぶり紅白出場■’10年〜・芸能活動休止から現在に至るまで’10年、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。’14年末の『紅白歌合戦』にNYのスタジオから中継出演し活動再開が期待されたが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。「女性自身」2021年5月25日号 掲載
2021年05月17日中森明菜デビュー40周年を記念して、中森明菜のスペシャルサイトが5月1日に開設された。サイトは明菜がワーナーミュージック時代にリリースしたシングルやアルバムの解説や各ストリーミングサイトへのアクセス、YouTube上に公開されている動画、さらに「再生回数順ランキング」や「隠れ名曲」のプレイリストなど充実の内容だ。6月9日には、ワーナーから発売された7インチシングル(28枚)と12インチシングル(1枚)、カセットテープ(1本)を収録した全30枚のボックスセットが発売予定で、40周年を機に、中森明菜の魅力があらためて再認識されそうな雰囲気も漂う。■松田聖子とは好対照な存在「何度も休止と再開を繰り返しながら活動する明菜ですが、2014年『紅白歌合戦』にサプライズ出場し、その後も何枚か新作をリリースしましたが、2017年の全国ディナーショー以来、表立った芸能活動は行っていません。しかし、今も根強い人気を保っているため、第2のちあきなおみ(’92年に夫と死別して以降、活動休止をし事実上引退)になりつつある状態です」と、ある芸能ジャーナリストは言う。表舞台に立たなくなったいまでも作品は作られ、売れ続けている。また、以前交際していた近藤真彦が話題にあがるたびに明菜の存在も注目され、同情の声とともに歌唱力が賞賛されるという、不思議な“露出”を繰り返す。それは明菜にはいまでも魅力がある証拠とも言える。では、多くの人を惹きつけてやまないその魅力とは何なのか。「なんといっても数々のヒット曲、その多彩な曲調と世界観、そしてそれらを歌いこなす表現力と存在感ですね。ヤンキーブームの中、初期の山口百恵を彷彿させるようなセカンドシングルの『少女A』の衝撃、その直後に出した3枚目は、一転してバラードの名曲『セカンド・ラブ』をリリースし、現在のアラフィフ世代を中心に多くの人の心をつかみました。キラキラした永遠の王道アイドル・松田聖子と好対照な存在となったことも大きいですね。当時の十代は男女問わず『聖子派』『明菜派』でその魅力を競い合ったりもしました」(同ジャーナリスト)『北ウイング』『十戒』『飾りじゃないのよ涙は』『ミ・アモーレ〔Meu amor e・・・〕』『DESIRE-情熱-』『難破船』……多くの人に愛された中森明菜のヒット曲は数多い。「2000年代に入ってからは松田聖子や山口百恵の曲をカバーし、歌手としての実力を再認識されました。それらを収録したアルバムはシリーズ化されヒット。その後には、パチンコ台にも採用され、これがヒットしたことも、息長く、幅広い層に知られるひとつの理由にもなります」(同前)また、あるアイドルウォッチャーは同期である「82年デビュー組」を見わたして、明菜の魅力を力説する。「小泉今日子やシブがき隊、早見優、堀ちえみ、石川秀美など、中森明菜と同じ82年デビューのアイドルは、その活躍ぶりから“花の82年組”と呼ばれました。明菜はその中でも当時から実力が認められ、ひとつ飛び抜けた存在でした。実際に仲のいい同期のアイドルはいたものの、どこか孤高の存在のように見えたところがあるように感じました」■“悲劇なヒロイン”的な面も魅力的明菜の特異性は、歌手としての評価以外にも見受けられた。昨年11月、25歳年下の女性との不倫の末に活動自粛をし、そのまま40年以上在籍していたジャニーズ事務所を退所した近藤真彦との過去の交際だ。「その交際は常に注目されていました。その後に起こった数々の騒動の衝撃の大きさは、今もなお語り継がれるほどです。その大きさゆえに、自由奔放な芸能活動を送ることができなくなってしまったところもあるかもしれません。しかし、“悲劇のヒロイン”的な面に魅力を感じる人も少なくないと思います」(同前)実際、近藤真彦の話題が上がるたびに、明菜をあらためて扱うニュース記事も複数見受けられた。やはり明菜の注目度は今もなお、高いと言える。前出の芸能ジャーナリストが言う。「いまでも明菜の復活、また歌う姿を実際に見たいというファンはたくさんいると思います。この40周年を機に、配信でもいいから大きなサプライズを期待したいところです」明菜の数々のヒット曲に浸り、まずはその魅力に再び触れてみたい。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2021年05月16日世の中には「ヤバい女=ヤバ女(ヤバジョ)」だけでなく、「ヤバい男=ヤバ男(ヤバダン)」も存在する。問題は「よいヤバさ」か「悪いヤバさ」か。この連載では、芸能人や有名人の言動を鋭くぶった斬るライターの仁科友里さんが、さまざまなタイプの「ヤバ男」を分析していきます。1985年1月公開の映画『愛・旅立ち』でW主演した近藤真彦と中森明菜第16回近藤真彦「オトコは度胸、オンナは愛嬌」ということわざを聞いたことがありますか?これは「男性は物怖じせずに勝負する度胸が大事、女性は笑顔が大事」という意味ですが、実は反対で「オトコは愛嬌、オンナは度胸」なのではないかと思うのです。男性こそ、周囲に甘え、かわいがられることを目指す。そんなオトコらしくない……と思う人もいるかもしれませんが、オトコらしさで社会を生き抜くのはものすごい倍率が高い。それなら、いっそ「人がしないこと」をして「かわいいやつだ」と思われたほうがトクではないでしょうか。天性のものなのか、それとも手段なのか。マッチこと近藤真彦はとても「女性に甘えるのがうまい人」なのではないかと思います。■メリー喜多川氏とマッチの関係4月30日、近藤真彦(以下、マッチ)が40年以上在籍していた、ジャニーズ事務所を退所することを発表しました。昨年11月『週刊文春』に25歳年下女性との5年にわたる不倫を報じられたマッチ。同誌によると、マッチは不倫相手の女性に、もし不倫がバレても「もみ消せる権力を持っている」と言っていたそうですが、マッチは不倫を認め、事務所は無期限の謹慎を言い渡します。マッチが言ったとされる「不倫をもみ消せる権力」を持っているのがジャニーズ事務所のことを指すのか、それともそれだけの権力を持つ人と親しいという意味なのか詳細は不明ですが、多数の人気アイドルを輩出するジャニーズ帝国の“女帝”・メリー喜多川氏がマッチをかわいがっていたことはよく知られていることでしょう。『週刊文春』(2015年1月29日号)のインタビューに応じたメリー氏は、実娘である藤島ジュリー景子副社長(当時)とSMAPのマネージャーであるIさんの二人が“社長候補”と書かれたことについて「もし、ジュリーとI(※編集部注:文春での報道は本名)が問題になっているのなら、私はジュリーを残します。自分の子だから」と不快感をあらわにし、なんとインタビュー場所にIさんを緊急招集するヤバい展開に。そこで「うちのトップは誰?」と質問、Iさんに「近藤真彦です」と答えさせるなど、次期社長はジュリー氏、事務所のトップは近藤真彦と強調します。メリー氏のマッチへの思い入れは凄まじく、同誌で「(ジュリー氏を)タレントと結婚させるんだったらマッチしかいない。亡くなったマッチのお母さんのことが、すごい好きでね」「マッチのお母さんは二人を結婚させるつもりだったんだもの」と仰天秘話を告白。マッチは実母を交通事故で亡くしていますが、2010年にマッチが出演した『中居正広のキンスマ波瀾万丈スペシャル』(TBS系)によると、マッチ母は事故の際、大病院への搬送を拒否。自分が事故を起こしたことが明らかになれば、マッチや事務所に迷惑がかかると判断したからだそうです。身を挺して息子や事務所を守ろうとしたマッチ母に対し、メリー氏は先のインタビューで「私がマッチの面倒を見るのは当たり前だと思う……話しているだけで涙が出てきちゃう」と語っていました。■マッチは“情の濃いオンナ”と相性がいいショービジネスにおいて重要視されるのは、“セールス”です。芸能事務所は営利企業ですから、タレントが稼いでくれないことには、共倒れになってしまう。それでは、“情”の部分が全く必要ないかというと、それもまた違うと思うのです。「ご恩と奉公」という言葉がありますが、事務所はタレントを愛し、タレントも所属事務所の恩に報いたいと思ってもらわないと事務所の先行きは明るくないでしょう。明石家さんまは2019年にMBSラジオ『ヤングタウン土曜日』で、メリー氏の情にまつわるこんなエピソードを披露しています。さんまがメリー氏とばったり会うと「うちの子どもたち(所属タレントのこと)が本当にお世話になって」というお礼を言われ、「一緒のレストランになると、全部はろてくれはる。こっちがどれだけの人数であろうと払ってくれる」とメリー氏の太っ腹加減を明かしています。メリー氏のマッチ愛も、セールスでの評価というより、マッチのお母さんに対して、同じ子どもを持つ母親として強く共感する“情”のように感じます。弟である故・ジャニー喜多川氏と二人三脚で、たった一代で帝国を築いた人ですから、並みの女性であるわけがありません。切った張ったもいとわないような芸能界を渡り歩ける強さや冷徹さがある一方で、愛するものはどこまでも守るという優しさが同居している人なのではないでしょうか。こういう情の濃い人と相性がいいのは、放っておいても大丈夫なまじめタイプよりも、自分が目をかけていないとちょっとヤバい、わがままな甘ったれなのではないかと思います。そういう意味で、メリー氏とマッチはすごく相性のいい組み合わせだったと思います。そういえば、マッチの周りにもう一人、情の濃いオンナがいましたね。■明菜にチャンスが巡ってきた過去のことを蒸し返してなんですが、マッチと中森明菜が交際していたことはよく知られている事実です。かつて明菜が「お母さん」と呼んでいたディレクター、木村恵子氏が書いた『中森明菜哀しい性』(講談社)という本があります。木村氏は一時期、明菜のビジネスパートナーだった人物で彼女の写真集を制作していたのですが、決裂。木村氏は明菜側からの一方的な契約破棄の無効と損害賠償を求めて提訴しました。裁判を起こすまでにこじれた関係性の人をよく書くわけはなく、そのあたりを頭にいれて読む必要がありそうですが、明菜は「好きになったら命がけ」のようです。信用したスタッフに実印を簡単に預けて金銭トラブルに巻き込まれてしまう。貧乏性で自分には全くお金を使わず、シャネルの偽物を身に着けていたりするのに、マッチには一着100万円もするスーツを何着も買ってあげたり、マッチに頼まれるままに「マンション購入資金」として7000万円ものお金を渡すなど、金銭的にだいぶ貢いでいたようです。一緒に暮らしていたころは、マッチの帰りが遅いとマンションのエレベーターの前や、玄関で座って待っていたそうですが、ここまで来るとちょっとヤバい感じもします。しかし、ここまで思い詰めて相手を好きになるタイプの女性は、“おねだり”も「それだけ信用されている、頼られている」と思って嬉しかったのかもしれません。しかし、こういう関係はお互いに精神的、金銭的に消耗しますから、あまり長続きしないでしょう。明菜は自殺未遂事件以降、トラブル続きで、ファンの期待するような復活を遂げているとは言えないでしょう。明菜自身の判断力にも問題はあるような気がしますが、個人的にはメリー氏と明菜という二人の情の濃いオンナがマッチというヤバい甘え上手を愛した結果、業界に影響力がない明菜が“位負け”してしまったように見えて仕方がありません。しかし、メリー氏も齢90を超え、いつまでもマッチを守ってあげられなくなったのでしょうか。不倫をもみ消せる権力があると豪語していたマッチですが、今はSNSがありますから、一般人とて情報を拡散することはできてしまいます。この状態をジャニーズ事務所、もしくはメリー氏の影響力が弱い時代になってきたとみるならば、明菜にチャンスが巡ってきたということではないでしょうか。何もテレビに出たり、大きな会場でコンサートをする必要はないのです。今はYouTubeがありますから、彼女の望む形で歌う姿を見せることもできるはず。表立った活動をしていないのに、人々の記憶から消えることなく、再起が望まれる歌手は、明菜をおいてほかにいないでしょう。ちょうど今年は明菜のデビュー40周年。時代は明菜に味方していると私は思います。今こそ、明菜の歌手としての底力を見せてほしいものです。<プロフィール>仁科友里(にしな・ゆり)1974年生まれ。会社員を経てフリーライターに。『サイゾーウーマン』『週刊SPA!』『GINGER』『steady.』などにタレント論、女子アナ批評を寄稿。また、自身のブログ、ツイッターで婚活に悩む男女の相談に応えている。2015年に『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)を発表し、異例の女性向け婚活本として話題に。好きな言葉は「勝てば官軍、負ければ賊軍」
2021年05月15日中森明菜「世間は外出自粛で、人と会うのもはばかられる日が続きますが、彼女にとっては、どこ吹く風、なのかもしれませんね」(ワイドショーデスク)東京を含めた6都府県に5月末までの緊急事態宣言が発令される中、ひっそりと“メモリアルイヤー”を迎えた歌姫がいる。’82年5月1日に歌手デビューした中森明菜だ。「デビュー40周年目に突入ということで、レコード会社から過去作品を集めた豪華レコードBOXが発売されますが、当の本人は“消息不明”のような状態になっています」(前出・デスク)一方で、昨年から無期限謹慎になっていた近藤真彦が、GW期間中の4月30日に突然、40年以上も所属していたジャニーズ事務所の退所を発表。「その翌日が明菜の記念日というのは、ふたりの因果みたいなものを感じますよね……」(芸能レポーター)交際を公にしていたふたりだったが、’89年にマッチの自宅マンションで明菜が自殺未遂を図る。一命をとりとめた明菜だったが、同年の大みそか、ふたりは会見に臨む。「金屏風の前で“正式な破局発表”なんて、今でも日本の芸能史に残る語り草ですよ」(同・レポーター)■実父に聞いてみると……’10年から活動休止していた明菜だったが、’14年の紅白で復活。’16年と’17年にディナーショーを開催したが、再び姿を見せない日が続いている。明菜は今、どこで何をしているのか─。長年、宣伝担当を務めているレコード会社の幹部に聞いてみるも、「ディナーショーで会って以来、連絡はありません。40周年に彼女が何かするという話もありませんね」デビュー当時から衣装を担当し、公私ともに仲がよかったといわれるスタイリストにも近況を尋ねたが、「20年以上、私も会っていないんですよ」明菜の所属事務所で役員を務めている会計士に聞くも、「私は経理しか担当していませんので、わかりません」明菜が数年前から住んでいるという都内マンションは、’05年に新築された6階建て。1棟まるごとを明菜の所属事務所の社長でもあるマネージャーが所有。4階フロアにマネージャーが、5、6階に明菜が住んでいるというのだが、「長年こちらで暮らしていますが、中森明菜さんなんて1度も見たことありません」とは、近所の主婦。そこで、このマンションの管理会社に聞いてみるも、「4階から6階に、どなたが住んでいるかはお答えできませんが、同じ人が長らく住み続けているはずです」音信不通は家族であっても同様。20年以上、明菜と絶縁状態になっているという80代の実父が肩を落として明かす。「’19年に明菜の妹が亡くなったとき、姉が葬式の連絡をしたのですが、明菜からは音さたなしで……。いつから、こんな薄情になってしまったのか。兄も姉もあきれてますよ」明菜と会える日が“解除”されるのは、いつ─。
2021年05月13日