---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○2015年7月3日今は、Amazonで何でも買える時代になった。しかも、どれも安い。数千円で二組のマットレスを買い、フローリングに直に敷いて寝てみるとちょっと身体が痛いかなということで、追加した敷き布団も数千円、数日と待たずに届いた。たかが二箇月、されど二箇月、必要最低限で暮らすとはいえ、寝覚めが悪くてはいけない。新婚のとき奮発して買った贅沢なダブルベッドは、すでにこの部屋にはない。今は、毎日毎日、階下のゴミ集積所へ二袋分くらいのものを捨てに行く。一日二袋というのはちょっと頼りないペースだが、毎日毎日コツコツ捨て続けることのほうが大切だ。未練が断ち切れずにいるものは、部屋で組み立てた巨大な段ボール箱に放り込んでおく。機会があればまだ着たいと思う服、廃番で二度と買えない使い古しの文房具、古書店で値はつかないが私にとっては大切だった小冊子の類。数日経って、わざと乱雑に放り込んだ箱の中を覗くと、渦巻いていた未練が少しだけ減じているのを感じる。目をつぶって、次はゴミ袋に放り込む。今は、引き出しの奥に溜め込んでいた日用品のストックをばんばん出している。旅行するたびつい持ち帰っていた宿のアメニティ、シャンプーやコンディショナーの小ビンを、シャワーの脇にずらりと並べて順番に使いきっていく。家族と旅しているときは持ち帰るのが当たり前で、恋人と旅すると「貧乏性だなぁ」と笑われ、女友達と旅すれば「えっ、私は自分で選んだ香りのしか使わない、絶対」と呆れられた、さまざまな小ビン。一人暮らしの頃は近所の銭湯へ通うときの必需品だったのだが、今は、銭湯へ行くより旅に出る頻度のほうが増え、いつの間にかものすごい数が余るようになった。ティッシュペーパーの買い置きも、全部は使い切れないだろう、今からでは。今は、やたらと眠くて、残された日数には限りがあるのに、取り返しのつかない一日を、なぜかたっぷり寝過ごしてしまったりしている。あちこちのカレンダーに掲げられている七月のイメージといえば夏休み、縁側にスイカ、花火、ビアガーデン。しかし実際は梅雨時のじめじめした空気が重く身体にまとわりついて、長靴を履くかどうかでその日の服装が決まり、袖のない服には冷房除けのカーディガンを羽織り、でも蒸し暑さに気持ち悪くなって脱ぐ、帰宅すると除湿機をかけてうとうと寝てしまう、晴れたらもうちょっとしゃんとして頑張ろうと思う、そんな日々が続く。気候変動の影響もあるにはあるのだろうけど、子供時代の思い出に残る七月の輝かしさとはずいぶん違う。大人の七月には、まだ六月がのさばっている。下手すると五月病だって治っていない。今週から下半期? 冗談でしょ!今は、一つ前の「節目」と来るべき「節目」の、狭間の時期を過ごしている。住まいを選び替え、引っ越しをするたびにテンションが上がり、こんなに楽しいことはきっといつまでも色褪せず私の記憶に残るだろう、と思うのだけど、喉元過ぎると熱さを忘れて、すっぽり三箇月分くらいの記憶がない。狭間の時期は、慌ただしい。常ならざる状態が長く続いているのに、その有様を日記に書きとめておく暇もない。後になって鮮やかに思い出すのは「節目」「節目」の出来事だけで、その途中をつなぐ期間どんなふうに過ごしていたのか、「初めて」の一歩手前にどんな気持ちでそこへ踏み出していったのか、人は簡単に忘れてしまう。今は、今で、これまで通り過ぎてきた「節目」とは違う。ここから先に起こることは、まだ自分のものになっていないし、先取りして体験として書くことはできない。0歳からの人生を書き続けて、とうとうそんな地点にまで追いついてしまった。今、から、ちょうど一箇月後には、私はまた新しい場所へ引っ越している、予定である。ただし、月末に大使館からちゃんとビザが下りていればの話。次なる「節目」、初めての海外生活が始まる。○まだ見ぬ日々へ「今すぐやるべきこと」リストに則って行動の優先順位を決めていたのは、20代半ばくらいまでだったろうか。大学を卒業した頃か、就職先で落ち着いた頃か。それまでは、いついかなるときも、すべきこと、優先度の第一位が、はっきり決まっていたように思う。無事に春学期の単位を取得すること、月末までに目標金額を貯めること、一生使える書類用キャビネットを見つけること、といった明確なゴールがあり、もちろんそれなりに迷いはあったが、おおまかな方角は見失っていなかった。ところが30歳を待たずに、「あと人生でやってないこと、なんだろう?」と指折り数えるようになった。そんなに波乱万丈な人生を歩んできたわけでもなく、何か特別な経験を豊富に持ち合わせているわけでもないが、一生使えるキャビネットは見つかり、似合わない流行りの服は着なくなり、他人を羨むことが減った。あれもこれもやっちゃったよなー、何度でもやりたいとは思わないよなー、やる前からしなくていいやとわかることも増えたなー、じゃあ、あと、何をすればいいんだろう?人生経験値を上げる「節目」には、ネガティブなものも多い。骨折で入院したことはないけど打撲でギプスはめただけで十分、就職はしてよかったけどリストラは避けられるなら避けたい、「やるべきこと」リストは減り、「やりたくないこと」リストは増え、「やってみたいこと」を別項として立ててみると、数えるほどしか残っていなかった。その一つが「海外留学」である。学生時代の友人たちが次々に各界で実績を上げ、そのうち幾人かは学校へ戻って教鞭を執るようにまでなった30代半ば、私だけもう一度「学生」の身分に戻るというのは、我ながらカッコ悪いような気もするのだが、「カッコつける」というのは若い時分にさんざんやってもう「やりたくないこと」リストに記されている項目なので、深く考えないことにした。18歳で大学に入学した頃、親と同じ年くらいの社会人学生たちと机を並べていたことも思い出す。彼らの情熱や貪欲さは、カッコよかった。大学に入り直そう、と決めるやいなや、「やるべきこと」リストがみるみる埋まった。まずはTOEFLの勉強、参考書と耳栓を買って塾に通い、入学試験の課題制作やポートフォリオを作り、ビザ申請のためあちこちへ書類を提出し、成績証明書をもらいに十数年ぶりに卒業した大学キャンパスへ出向き、会ったことのない人々と知り合い、仕事を整理して引っ越しを進める。20歳の同級生と机を並べ、比較され批評され助け合い、還暦過ぎの教授にひとまとめに「ガールズ!」と呼ばれ、「あなたは誰?」ではなく「将来は何になりたい?」と尋ねられて面食らい、新しく必要なものを学割で買う。「やるべきこと」リストに振り回されて、あっという間に季節が過ぎていく、それは仕事も学業も同じなのだが、こんなふうに明確にゴールの見える毎日は久しぶりだった。少女時代はその、あらかじめ誰かにゴールが定められている感じを窮屈に思っていたが、世の中のままならぬことを数多体験した大人にしてみれば、やればやっただけ前に進むこの感じも、それはそれで楽しい。今は、ちょうど大学から入学許可書が発行されて、申請したビザが下りるのを待っているところである。もう飛行機のチケットを取ってしまったのに、なかなか書類の手続きが前に進まず、気が逸っている。大きな家具はすでに船便で送ってしまったので、部屋の中はがらんとしている。耳栓と参考書は持っていくが、敷き布団とマットは使い捨てていく。スケジュール帳もがらんとしていて、今月までの予定はすべて日本語でびっしり記されているのに、来月からの予定は母語に翻訳されぬまま書きなぐってあり、ほとんど埋まっていない。花火とビアガーデン、この夏は行けないかもしれない。渡航先でもろもろの手続きが終わり、住まいと身分が定まるまでは、仕事の予定さえ立てることができない。「女の節目」の連載も、しばしお休みをいただくことになる。「今」の状態が落ち着いたら再開して、ここから先は、私たちを待ち受ける「まだ見ぬ」人生の節目について、考えていきたい。過去を振り返るターンから、未来へ想いを馳せるターンへ。「あなたはどちらを選択した?」ではなく、「将来はどちらを選択すると思う?」に答える、「今」の一歩先へ。<今回の住まい<人生経験値という意味で、私に圧倒的に足りていないのは「住まい」の要素である。ずっと実家暮らしをしている友達がいて、生まれてから一度も引越をしたことがないと言う。「えーっ、信じられない、一人暮らしは楽しいよ、一度くらい経験しなよ、もったいない!」なんてドヤ顔で吹かすのだけれども、私はといえば、日本の、東京、しかも23区内のごく一部分にしか住んだことがない。日本そして世界のあちこちに住んだことのある友達たちから「えーっ、信じられない、一度くらい違う街に住んでみなよ、もったいない!」と言われ続けて幾星霜、ついに住まいを替えることになった。経験は多ければよいというものでもない、一つの家に長く住み続けるよさだってあるけれど、新しい出来事が増えればワクワクする。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年07月03日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○華燭の典に招かれて一緒に育った幼馴染、タメ口をきく大学の同輩、両親の友達の息子や娘。「同年代」のよく知る人々が、次々に結婚していったのは20代後半のことだ。大学入学と同時にサークル内で付き合いはじめた彼氏と、学部卒業と同時に結婚した女友達の結婚式に招かれたのが一番最初で、つまりあれは22歳くらいか。当時の私はまだその意味がよくわかっていなかった。毎年の同窓会と似たような感覚で結婚披露宴へ出向き、必死でマナーブックを読み込んだにも関わらず、ずいぶん無礼な態度を取った。そこから続く数年間、私はいつもクローゼットに、よそゆきの膝丈ワンピースを欠かさなかった。花嫁衣装の白色と被らない、といって極端にドギツい色柄でもない、ちょっと光沢があってお嬢さん風に見えるデザインの、地味なやつ。同じ友達と招かれた別の式と被らないように、スペアをもう一着。肩を露出させないふわふわした羽織りもの、口紅とデジカメを入れて満杯の小さなハンドバッグ、普段は絶対に履かない肉色のストッキングと、足をすっぽり覆う形状のピンクのパンプス。ご祝儀袋も買い置きがあり、香典袋や数珠と一緒にしまってあるが、出番の数は桁違いだった。最近はようやく、着たい服を着て行って祝いたいように祝うようになったが、当時はなんだか、それが許されない張り詰めた空気があった。派手なドレスを選べば周囲から浮くだけでなく、高砂からも歓迎されないように感じる。「親友を心から祝福する、独身未婚の新婦友人代表」には、着るべきワンピース、羽織るべきボレロ、撮るべき集合写真と、泣くべきタイミングがあるのだ。茶番は承知だ、今日くらいは私の晴れ舞台、一世一代のコスプレに上手に付き合え。そんな無言の圧力を感じて、練りに練ったスピーチ文を、2オクターブくらい高い声で読み上げたりもした。私にとってはただのよくある土曜のパーティー、交際費から割り切れぬ額の札を抜き出して、おいしいフルコースを堪能し、大変身した友達の写真をパシャパシャ撮って、同じテーブルについた旧友たちと近況報告し合い、引き出物の包みを物色しながらトボトボ帰る。それだけ。でも、彼ら彼女らにとっては、一生に一度あるかないかの、大きな大きなセレモニー。誕生日パーティーなんかよりもっとずっと、彼ら彼女らの求めるものを真摯に演じてやらねばならない。ビンゴ大会にはしゃぎ、初対面の新郎友人たちの集団と楽しくもない三次会へ流れ、訊かれれば連絡先を教え、一種独特なそれらのノリに、応じ続けなければならない。ずっと独身でいるつもり、だったアラサーの私にとって、「結婚」とはすなわち、こうした「結婚式」のことだった。「結婚」と言われれば、まず白くて長いヴェールやブーケトス、一対の指輪を横たえるピロー、ステンドグラスにキャンドルサービス、一口サイズの焼き菓子、大騒ぎの宴のあとで役所の夜間窓口へ届けられる婚姻届、けっして連絡など寄越しやがらない三次会で隣に座った新郎友人、などを想起した。「20代未婚の新婦友人」とは、そういうものなのだ。○いつまでも変わらぬ友をもちろん、自分で経験した今となっては、「結婚」という言葉からまず想起されるものも変わる。それは、かけがえのない相手との共同生活におけるさまざまな助け合いの精神……具体的に言うと、朝食後にトイレへ入る順番を譲り合う駆け引き、便座から宅配便業者の鳴らす呼び鈴の応対を頼む怒鳴り声、受け取ったAmazonの箱の重みから今度は何をポチッてどんな無駄遣いをしたのだと勘繰り合う応酬、罪滅ぼしとして請け負う朝食の皿洗い、といったような、一連の他愛ない日常である。だから、たまに実家へ帰省した際、居間の写真立てにウエディングドレス姿が飾られていると、ほんの2年前の出来事なのに我がこととは思えなかったりする。我がことだけではない。いつでもやたら物持ちのよい私は、部屋を片付けていて友人からの結婚披露宴の招待状を発見し、今はもう小学生になった息子の送迎に追われている共働き夫婦が、かつて恋人同士としてこんなに手の込んだカードを何百通と自作していた夜もあったのかと、何度でも驚くことがある。みんなで、せーので、熱に浮かされたように迎えた、あの「節目」。ひとたび過ぎてしまうと、考えれば考えるほど、「なんであんなことしたんだろ……?」と我に返る、あの「節目」。といって、何もかもがただ形式的で一過性で無意味だった、とも言い切れないのが、この節目である。1日限りのブライダルパーティーが見せる華やかさ、狂乱の裏に隠れてその刹那にはよくわからないが、日が経てば経つほど、「二度と戻れない橋を渡ってしまった」という手応えをしみじみ感じるようになる。まぁ、無自覚な人はずっと無自覚なまま、何年でも平和な結婚生活を送るのだろうけれど、気づいた人は、ずっと気にかけずにはいられない。20代後半、同じ世代の何人かの男友達が、立て続けに結婚することになった。時代の流れもあったのだろう、彼らの多くは「地味婚」を選び、披露宴には田舎の親族だけを集めるので、仕事仲間や友人には電子メールによるご報告だけで済ませたい、と書き送ってきた。ハガキで返す披露宴の招待状と違い、長々と返信が書けるので、私はよくこんなふうに返した。「おめでとう、おめでとう、どうぞ今後とも、今までと変わらぬお付き合いをお願いします。結婚すると、みんな生活がすっかり変わってしまうものだけれど、せめて我々は、何があっても末長く友達でいましょうね。素敵なパートナーとの新婚生活も、そりゃあ楽しいことでしょう、でも、たまには昔のみんなといつもと同じように一緒に飲みに行けたりしたら、嬉しいです」もちろん「是非!」とレスポンスが来るのだが、実際は、なかなか実現しない。あまりに実現率が低いので、誰にでも同じように、ヤケクソで書き送った。これを「男女の間に友情は成立するか」という大きな議論にまで発展させるつもりはないが、やっぱりちょっと寂しい。この話、異性のほうが露骨だけど、同性の友人もまた然り。「20代独身の新郎新婦友人」は、仲良く遊んでいた貴重な友達たちを、(時に顔も名前も知らなかったりする)配偶者たちに、一人ずつ奪われていくような心持ちになった。長い年月かけて大事に大事に開拓してきた私の交友関係の地図が、他人の手で、みるみる書き換えられていく。新郎の身に、新婦の身に、そして友人である私の身にも、取り返しのつかないことが起きたのだ、と、舞い込んでくる「結婚」報告をそんなふうに捉えるようになったのは、いつ頃からだろうか。彼が、彼女が、私が、どんなに「今までと変わらぬお付き合い」を望んでいようとも、「結婚」という節目がやってきて、魔法の杖を一振りするだけで、大きくその実現が阻まれる。やがて子供が生まれ、よそんちの子ほどみるみる育ち、我々の生活はぐんぐんかけ離れて、私の交友関係の地図には、見知らぬ街が生まれたり、消えたり。彼が、彼女が、私が、ずっと変わらずに昔のままでいることなんて、できないんだなぁ。強烈にそう感じるのが、友人たちからの「結婚」報告だった。たとえ私自身が「結婚」しなくたって、一人で踏ん張って変わらずに止まろうと思ったって、誰かと誰かの間に生じる関係性は、どうしたって変わらざるを得ない。私の人生は、私だけのものじゃない。私が好き勝手に脳内で設計した通りに、ずっと変わらぬ人間関係を築き続けることなど、到底できるはずもない。立て続けに届く他者からの「結婚しました」ハガキは、そんな通告と思えた。自分まで結婚してしまった今となってはすっかり喉元を過ぎているのだけれど、当時、20代後半独身の私にとって、それを認めるのはとても覚悟の要ることだったのだ。○半分になるか、倍になるか私の人生は、もう私だけのものじゃない。自分自身が結婚する際にも、当然、そう思わされた。結婚しようという話になってから、私と夫は毎日のように「どうしよう?」「どうしたい?」「どうする?」「それでもいい?」とお互いに問いかけ続けた。単独行動するときにはおそろしく決断の早い二人である。歩くのも早いし、会話のテンポも早い、昼の定食メニューから食べたいものを選ぶのも早い、そして結婚を決めるのも早かった。ところが結婚前後は探り合いの日々が続いた。「これ、食べてみたい? とったら二人で分ける? それとも一人で一皿食べたい? 全然別のメニューがいい? やっぱり店を変えるべきだった?」といった会話が繰り返された。引っ越しのタイミング、家具の選定、家事の分担、パーティーの招待客リスト、一人で招かれた場所へ配偶者同伴で行くか否か、二人で受けた誘いに本当に二人で出向くか否か、などなど。「えーっ、結婚したら、こんなことも自分一人で決められなくなるの!?」と、驚きの連続だった。たとえばウエディングドレスだって、「着せてあげないとかわいそうだわ」という新郎母の一言で着ることになり、「花嫁なんだからもっと初々しいデザインになさい」という新婦母の一言で直前に決定をまるごと覆し、親族だけを集めた結婚披露パーティー当日、いかにもなウエディングケーキに入刀するドレス姿の新郎新婦は、「最終的に、これでいかがですかね? これで、ご来賓の皆様全員にご満足いただけましたでしょうかね?」という、なんとも探り探りの表情で写真におさまり、それが今なお、実家の居間の写真立てに燦然と飾られている。すごく象徴的。そんなふうに意思決定する人生はイヤだなー、と思うなら、あなたは結婚はしないほうがいいのかもしれない。「人は一人では生きられない」という物言いを、私はあんまり信用していない。かつて、かなりの長きにわたり「一人で生きていこう」と決め、その算段を整えていたからこそ、力説しておきたい。生きていこうと思えば、一人でやってやれないことはないのだ。きっと。ただ、世の中には、他人との間にコンセンサスを得なければ決められないことが、文字通り山のようにあるのだ。それらを一つ一つ、互いに様子を探り探りしながらやっつけていく過程こそが、人生である、と言えるかもしれない。「だったら、誰か他人と一緒に生きていくのだって、そこまでストレスフルなことでもないかもしれないよ?」とは、言いたくなる。前の段落と完全に矛盾していますけど。結婚した人って、すぐこうやって他人にも結婚を勧めてきてウザいですよね?はい。彼の人生も、彼女の人生も、私の人生も、結婚によって今までとは明らかに変質し、昔と比べて、まるで半分になってしまったような気がする。一方で、少なくとも私の人生は、表面積はそのままに、奥行きだか高さだかが、二倍三倍に拡張したような気もする。胎に子供を抱えているわけでもないのに、「もう私一人の人生ではないのだな」などと思う。誰彼構わず「変わらぬお付き合い」を望んでいたかつての私に、どうにかして諭したい。やっぱり結婚は、人生を大きく変える「節目」の一つであり、彼も、彼女も、私も、「自分一人で下す最後の決断」だと思って、覚悟を決めて臨むべきなんじゃないだろうか。役所に提出した婚姻届、それ自体には何の意味もないが、今までと同じでは到底いられないことが、今の私にはよくわかる。丸井で買ったピンクのワンピースを着た年若い新婦友人代表が、てんとう虫のサンバを踊りながらマイク越しに「ズッ友だよ!」とかのたまう結婚披露宴、あの翌日から、「結婚」が始まるのだ。<今回の住まい<結婚の話が進み、結婚するなら一緒に住もうということになり、新居を探すことになった……のだが、その辺りの顛末については拙著『嫁へ行くつもりじゃなかった』で存分に書いた。今も住んでいるマンション、夫のオットー氏(仮名)は内見に足を踏み入れてまず、「この規模の平米数で、脱衣場に洗面台が二つ並んでるのはすごい! 贅沢!」と感激し、それでほとんど決まったようなものだった。洗面台なんて交代で使えば二人に一つで足りるじゃん……? と訝っていたのだが、その後、旅先で洗面台が一つの宿に二人で泊まるたび、ものすごーく不便を感じるようになった。こればかりは経験してみないとわからない。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年06月12日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○自転車でおいでよ有給休暇をとって自転車に乗り、自宅から数キロ離れた実家に程近い銀行支店へ行き、大学と大学院、あわせて6年間分の学費ローンを繰り上げ返済した。修士課程修了から10年、34歳までかかる予定だった借金の完済を30歳で達成したお祝いに、近所の店で一人、アイスレモネードを飲んだ。そんな一日の感慨をブログに綴ったのが、2010年9月のことである。同じ話を繰り返して書くつもりはないのだけれど、この「貸費奨学金として機能する教育ローン」という仕組みは、私の20代を本当によく支えてくれた。たしか、途中で退学したり前科者になったりすると即刻全額返済という規定があったのだ。卒業と同時に月々の返済が始まるので、よほどの一攫千金がない限りは手堅く就職するのが無難だろうとも思うようになった。こうした「枷」がなかったら、どこまで道を踏み外していたことか。「この世に自分ほど信じられんものがほかにあるか!」は横島忠夫の金言にして私の座右の銘だが、自分と違って、お金は裏切らない。諦めが早く怠惰な自分と違って、どこまでも謹厳実直かつ執拗に私を追いかけてくる。たかが数百万、されど数百万。当時、生では見たこともない桁の金額だ。完済予定日に書き込まれた「2014年」という想像もつかない遠い未来。19歳当時の私は真剣に、34歳までに自分が死んでいるか、地球が滅びている可能性のほうがずっと高いと思っていた。どっこい生きてる、30歳。10代のとき買ったTシャツを着て、10代のとき住んでいた町の銀行通りで、すっぴんに汗だくでアイスレモネードを飲んでいる。あの頃と何も変わらないのに、今日からはまるで大きく違う。借金から解放されるこの喜びは、借金を背負ったことのない人には、きっと理解できないだろう。お金が私を縛り、お金が私を戒め、そして今、お金が私に新たな自由をくれた。さっき実印を捺した書類一枚で長年の定期預金はすべて消え、次の給料日まで文字通りの残高ゼロだが、引き続き定職には就いているし、またコツコツ積み立てていけば、スイス製のちょっといい自転車を買える程度の余裕はある。さて、次に何をしようか。○台湾はあまりに遠し倹約家というわけでもないが、浪費家というわけでもない。ものすごくお金のかかる特別な趣味を持っているわけでも、習い事をしているわけでもない。オタクだから金遣いが荒いようにも見えるが、他の同年代の女性がファッションや美容に注ぎ込む金額を思えば大したことはないだろう。それで、今までの月々の学費返済と同じだけ手元に残るとしたら、私は何ができて、何をしたいと思うのだろうか。最初に思いついたのが、「旅に出たい」だった。当時よく飲み歩いていた街の安居酒屋は、どこもかしこもトイレの個室にピースボートかワーキングホリデーかその両方のポスターがべたべた貼ってあった。あれは本当に賢いプロモーション戦略だと思う。とくに目的もなく生き、どこにも身の置き場がなく呑んだくれている若者の、泥酔した脳への刷り込み効果は絶大である。海外への一人旅をしたことは一度もなかった。父親の定年祝いで家族旅行したのが最後、場所はインドネシア・バリ島のリゾートで、帰省しての家族サービスと大差なかった。スケジュールも実家任せ、出発前日まで校了で慌ただしくしていた私は、渡航先を「パリ」と勘違いして荷造りしていたくらいだ。実家に変圧器が要るかと問い合わせて発覚したのだが、パリとバリは電圧が同じだったりする。ともあれ、手始めに、一人で台湾へ行こうと思った。台湾を舞台にした小説を読んで以来ずっと興味を持っていたし、高速鉄道の開通後、ちょっとしたブームが起きて雑誌の特集などもよく組まれていた。行ってきた人たちが口を揃えて熱っぽく魅力を語り、その多くが気軽な一人旅であることも背中を押した。会社には夏期休暇の申請を出し、ガイドブックをいくつも買い込んで、仕事の合間にうきうき眺め、印をつけたりもした。ところが結果的にこの旅は実現しなかった。どうしても外せない用事が入ってしまったのだ。一緒に働いている人々から、大変申し訳ないが夏期休暇は数日ずらして取ってほしい、と頼まれて、実際そのようにした。たいした料金でもないのにバカみたいに早くから取っていた割引チケットは無駄になり、ホテル代なども含めると、正規料金との差額より高いキャンセル料が発生した。有楽町の交通会館の前で、歩きながら携帯電話で旅行会社とやりとりをしたのをよく憶えている。真夏日だったが、せいぜい6月か7月初旬だろう。ランチタイムのOLはみんな日傘を差していて、私だけ手庇で直射日光を避けつつ、アスファルトからの反射熱に焦がされていた。台湾の夏はもっと暑いと聞く。行きたいな。仕事だからしょうがないけど。電話口で「ご予約の取り直しをなさいますか?」と尋ねられ、私は「いいえ、結構です」と答えた。数日遅れて本当に夏期休暇が取れるなら、その日の朝に正規料金を握りしめて乗れる飛行機に飛び乗って、それで台湾に行こう。そうすればいいんだ、私にはお金があるんだから、労働組合であれだけ闘争した甲斐あって、ボーナスだって入るんだから!結局そんなことはせず、その年の夏休みはクーラーの効いた自宅の部屋に閉じこもり、漫画を読みDVDを観ていつものようにダラダラ過ごした。お金があっても時間がない。時間があっても管理できない。遊びに出かける気力もない。そしたら私、ずっとこのまま、こうやって生きて死ぬんだろうか。幻に終わった一人旅が私にもたらしたショックは、旅先で受けたであろうカルチャーショックより、ずっと大きかったと思う。○仕事は、お金のため、ならずもちろん、こんなことで会社を辞めたわけではないけれど、会社を辞めようと決めた際、このときのこともよく思い出した。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という自問を繰り返すようになったのは、入社時からずっと志望していた編集部に晴れて転属となって以降のことだ。私の望みは、出世もせず転職もせず、同じ職場環境でずっと自分の好きな本を作り続けること、それだけだった。独立や起業の夢を語る同世代の話も、自分とは無関係な遠い出来事として聞き流していた。なぜなら私の望みはすでに叶っているから。あとはこれを定年退職までしぼませないように、さらに大きく素敵にふくらませていくだけだ。「本当に?」と問われたら、YESと答える自信があった。「では、何のために?」と問われると、途端に足元がぐらついた。「決まってるじゃん、働くのは、お金のためにだよ」ときっぱり答える友人たちがいた。妻子や親を養っていたり、開業の準備をしていたり、あるいは、テストの点数を競い合う学生と同じ感覚で「35歳までに2億!」などと目標を掲げていたり。私よりずっと大きな借金を抱えている友人も少なくない。学費を払い、クルマや家を買い、先祖代々の負債を肩代わりすればそうなる。彼らの姿を見て、私はもはや「お金のため」という動機を失ったのだと思った。とっとと手放せて喜んでいたはずが、ひとたび消えると、私はそれ以外に動機なんか持っていなかったんじゃないか、と不安になる。仕事終わりにジョッキで生ビールを呷り、「この一杯のために生きてる!」と言う人がいた。私は違う。「好きな仕事に就けているのなら、些細なことに文句は言わずぐっと我慢できるはずだ」と言う人がいた。私は違う。「名の知れた企業で正社員という肩書きを得て、それだけでも羨まれる時代なのに、贅沢な悩みですねー」と鼻で笑う人もいた。私はそうは思わない。自分で決断して、自分で選択して、自分なりに納得していたはずのことを、まったく納得できていないどころか、一番大事なところに今までフタをして生きてきてしまったのではないか? と考え始めると止まらなくなった。そのフタには、19歳の私の筆跡で「お金のため」と書いてあり、横には丁寧に実印も捺してあったのだろう。でも、ぶっちゃけそこまで困窮しているわけじゃないし、めちゃくちゃ高給取りなわけでもない。時給換算で単純比較すればウェイトレスや家庭教師のアルバイトをしていた学生時代とそう変わらない稼ぎ方で、その極めて非効率な職種を好きで選んだのは私自身であり、そして、そんな状況にあっても学費くらいなら払い終えることができた。「お金のため」ならいくらでも阿漕になればよかったものを、私にはもうそのフタもない。といって現状、自由気ままな一人旅にさえ出られない。しかも私を縛っているのは、目の前にある仕事の忙しさなんかじゃないことは明白だ。独り身で健康で、好きな仕事をして週末は寝て過ごす時間もあって、こんなにどうにでもなりそうな人生なのに、実際にはまったくどうにもならない、ように思える。なんでだ!?○帰りたくなる旅転職の誘いを受けたのは31歳のときで、リスクは増すが、年収は今と同程度という条件だった。実際に会社を移ったのは32歳になってからで、その前後にあちこち旅をした。退社から入社までの二週間は、ニューヨークへ行った。一冊目の本(『ハジの多い人生』)に書いたので、同じ話を繰り返すつもりはやっぱりないのだけれど、「私はこのために生きて、死ぬんだな」という実感が得られた、初めての海外一人旅だった。両手で一度に運べるだけのカバンを二つ持ち、ラブホテルを改装したような安宿に連泊し、日中は町をうろうろ歩き回り、昼食と夕食は必要最低限にして朝食と観劇にだけうんとお金を使い、下着は手洗いしてワンピースはランドリーに出し、靴を履きつぶして量販店でまったく違うかたちの靴を買い求め、降りる駅を決めずに長距離列車に乗って郊外へ出かけ、たまたま来ていた周遊バスに運ばれて時間を忘れては慌ててタクシーで目的地へ引き返し、気に入った場所があれば腰を下ろして、日が暮れるまで日記を書いていた。傍目には貧相な旅だが、私には贅沢な旅だった。「この瞬間のために生きてる!」といった類の派手な喜びはなかったが、「地球のどこに生きても、このくらいの暮らしが保てるようでありたい」と思った。小遣い帳をつけるのは三日で放り出したが、途中で資金が尽きることもなかった。できないこと、諦めたこともあるが、やってやれなくもなさそうなことは全部やり、ごくごく個人的な満足を得た。ニューヨーカーの知人はたくさんいるのに、結局、誰とも会わなかった。会えなくて寂しいとも思わなかった。何よりの収穫は、「あー、日本に帰りたくないなぁ」と思わない初めての旅だった、という点だ。むしろ「帰ったら、私は私の仕事を頑張ろう」なんて、殊勝なことを幾度も考えたりする旅だった。たとえば傍らに旅の友、気心知れた話し相手がいたら、とてもそうは思わなかっただろう。旅先の景色が二倍美しく見えるぶん、惜しむ気持ちもそれ以上に増えて、暴飲暴食と解放感で日頃のストレスを晴らしただけ、帰国後は余計に落ち込んでいたに違いない。子供の頃から「一人になる」のが好きで、人生に占めるその割合を、なるべく増やせるようにと思って生きてきた。ただそれだけのことだったと気づくのに、30年以上かかってしまった。「私はいったい何のために働いているんだろう?」という問いかけへの答えはまだ保留中ではあるが、お金を稼ぎ、時間を作り、縛りや戒めを一つ一つ解いてゆきながら、自分の答えを見つめ直すことはとても大切だ。あの旅を境に、「一人になるため」が、私の暫定の回答となった。<今回の住まい<31歳で転職を決めた、とあるのは2011年のこと。3月11日の東日本大震災の揺れは、東銀座で受けた。その日の予定をすべて切り上げて会社へ戻り、テレビで津波の映像を見て言葉を失い、銀座の店に行列してスニーカーを買って、支給されたヘルメット片手に数時間かけて徒歩帰宅した。間取り1Kの部屋では雪崩のように本が崩れ、ベッドの上にも散乱していた。眠っている間に書架に押し潰されてもおかしくないと思った。6月には同じ町の2Kの賃貸へ引っ越して、書斎と寝室を分けた。できることは、すぐやろう、後悔しないうちに。怠惰な私でさえそう思う出来事だったのだ。一人旅は実現しなかったが、新居でダラダラ過ごした。そんな夏だった。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年05月22日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○クララが立った!以前にも書いた通り、私の初恋の相手は色白で線の細い男の子だ。元気に幼稚園へ通っていた彼の実際の健康状態は記憶にないけれども、幼い私は彼の「病弱そうな」佇まいに惹かれていた。もっと言えば、もともと自分の中にあった「病弱」幻想にぴったりの憑代(よりしろ)として、手近にいた彼を好きになっただけかもしれない。生まれてこのかた大きな怪我や病気をしたことのない私は、だからこそ「病弱」な人々に見果てぬ夢を描き、憧れ、羨んでいた。それはたとえば、バーネットの小説『秘密の花園』に出てくる車椅子の少年コリンのような男の子、ちばてつやの漫画『ユキの太陽』に出てくる社長令嬢の岩淵早苗ちゃんのような女の子。児童向け作品のおてんばヒロインに感情移入しながら私は、「自分にはないもの」を持った臥せりがちの美少女美少年に惹かれ、彼ら彼女らと親密になりたいと願っていた。美しく裕福で儚げな、籠の鳥。二本の足で立ってどうとでも歩いていける野生児の私と違って、誰かの支えや特別なしつらえを伴わなければ命をつなぐことも難しい存在。モヤシッ子が筋骨隆々のマッチョなヒーローに憧れるように私は、触れなば落ちん、という風情の瀕死のヒロイン(年齢性別不問)にグッとくる。裏返せば、それだけ自分が頑丈だったのである。学校の図書室で借りて読む本の中では、貴婦人がしょっちゅう気絶しては気付薬を嗅がされ、お嬢様はサナトリウムで肺病と闘い、戦場から生還した勇者は古傷の疼きや幻肢痛に悩まされている。私はそのどれも経験がない。「朝礼の最中に貧血で倒れる」とか「手術のために入院する」とか、一度やってみたいなぁ、松葉杖で登校できれば最高……と思案しながら車道を横切っていたら通りかかった軽自動車にハネられ、ボンネットに乗り上げるまでの交通事故に遭った。き、キター! と大興奮のまま整形外科へ担ぎ込まれたものの、診断は「全身打撲」でその日のうちに家へ帰され、「えー、骨折じゃないのー」と不服を申し立てるような小学生だった。小児喘息で入院した経験のある級友からは、「病院生活って、あんたが思ってるようなイイもんじゃないんだから!」とさんざんなじられ、しばらく口をきいてもらえなかった。経験をもって発せられる言葉の重みがグッと胸に響く。彼女がたった一人で克服したその苦労を、みずから勝ち取った生きる喜びを、同じ年の私はまったく知らない。自由と不自由、健康と不健康、生と死。片方しかない自分がひどくアンバランスに思え、ますますもう一方を「経験」したくなった。今度は『王子と乞食』めいた話だ。そして、「おまえさん、そんなに病弱なお姫様になりたいんだったら、あたしがその夢を叶えてやろうかえ……?」と、森で悪い魔法使いにそそのかされたわけでもなかろうに、二十歳を過ぎてからの私は、急速に自身の健康を損ねていくことになる。○錠剤、噛み砕いて最初の異変は婦人科系だった。10代までは何とも感じなかった生理痛が20歳を過ぎるとみるみる悪化して、月経前はほとんど毎月、激痛で半日以上ベッドから起き上がれなくなる。風呂場で脚の力が萎えたまま意識を失ったり、往来で突然ぶっ倒れて救急車で運ばれたり、ありとあらゆる失態を演じたが、検査をしても具体的な原因がわからない。子宮内膜症も筋腫の類も見つからず、月経前症候群(PMS)の一種、自律神経失調症のようなものだろうという診断で、市販の鎮痛剤を多めに服用することでしのいできた。性交渉のときさえピンと来ない子宮という臓器のかたちが、くっきりわかるような鋭い痛みである。志賀直哉の小説『赤西蠣太』に侍が自分で自分の腹を割いて腸捻転を治した逸話があって、激痛に床をのたうち回りながら私はいつもこのくだりを思い返していた。今すぐこの腹かっさばいて、子宮を取り出してじゃぶじゃぶ丸洗いできたらどんなにいいか。朦朧とする意識に屈して台所の包丁を持ち出さないよう、必死で堪えていた。症状が出ている最中は寝たきりで、寝具もすべて取り替えるほど大量の汗をかく。服を着替えて病院へ行くのは、すべてが終わった後だ。正午を過ぎてから勤め先に病欠の電話を入れたり、そのくせ半日経った夕方にはケロリと遊びに出かけたり、すこぶる元気そうなのに「大事をとって」翌日の予定を急遽キャンセルしたりするもので、周囲からはまぁ、サボッていると誤解されたことだろう。「生理痛なんて子供を産めば治るもんだ」という謎のアドバイスもしょっちゅう受けた。たしかに体質が変わることもあるだろうが、出産は「治療」ではない。いかに「病気」扱いされないかという話である。次に悩まされたのは不眠症だ。おそろしく寝つきが悪く、眠りに就ける時間帯がズレてきて、翌日以降の日常生活に支障を来す。もともと夜型のロングスリーパーだったのが、編集者という職業柄、どうしても「夜討ち朝駆け」状態になる。私はそこで短時間睡眠に切り替えることができなかった。数十時間覚醒して十数時間睡眠する不規則な生活を続けながら、「ひとたび寝てしまったら定刻に起きられなくなるかもしれない」という恐怖でどんどん眠れなくなり、何をするわけでもなく徹夜状態で朝の仕事へ行く日々が続いた。今夜もまた前夜と同じように眠れないのではないか、眠れないと取り返しのつかない粗相をするのではないか、不安でさらなる緊張を強いられ、症状がひどくなる。のちのち「概日リズム睡眠障害」という言葉を知ることになるのだが、20代後半の当時はまだ、「自分はもしかして、うつ病なのではないか?」とも疑っていた。仕事の合間に精神科や心療内科をハシゴして、よりどりみどりの睡眠薬を処方してもらう。働くために薬が必要なのか、薬代のために働いているのか、なんだかよくわからない状況だったが、尊敬する上司も一緒に仕事する仲間もみな何かしら身体に「故障」を抱えながら私以上の激務をこなしているのだから、それが当たり前だと思っていた。○脳病院へまゐります。「眠れなくて精神科へ通ってるんだ」と言うと、あちこちでギョッとされる。「待合室には頭のおかしな人たちがたくさんいるのか?」と真顔で訊かれたこともあった。別の科にかかるならまず受けないであろうそうした偏見の眼差しよりも、私は、自分の不健康を放置しておくことのほうが、よっぽど怖かった。尊敬する上司、一緒に仕事する仲間、友人の友人、飲み屋ですれ違った客。素人目にも明らかに重篤な精神の病を抱えていると思われる人たちが、周囲にたくさんいた。そのほとんどに自覚症状がなく、自分は「マトモ」と信じきったまま、病的な言動で他者を振り回しては疲弊させていた。私も傍目にはあんなふうに見えるのかもしれない。睡眠を、心身を、自分をコントロールできず他人に迷惑をかけている現状を、一刻も早く脱したい。とはいえ、吐いて下痢をしたとか、骨が折れて血も出たとか、目に見えてわかりやすい患者とはわけが違う。医師の見立てはてんでばらばら、新しい診断を下されるたびに右往左往して、なかなか腰が落ち着かなかった。仕事があると朝一番の診療予約しかとれず、となると数度に一度は薬が効きすぎてすっぽかす。「ちゃんと時間通りに来てくださいね」「いや、だからそれを治したいんですってば!」で押し問答となった医院もあった。精神安定剤を服用すると気分が悪くなる。副作用が少ない入眠導入剤でも寝起きにひどいめまいに襲われる。中途覚醒はしないのに、それを抑える薬が不思議と効く。かたや、ある医師に「気休めですよ」と一笑に付された光療法は、かなり効果的だった。行き着いたのは結局、最寄駅の駅前にある小さな小さな心療内科で、階下の薬局のために処方箋を書くのがお仕事、というようなナメきった態度の小太りの院長だ。「まぁ、うつ病ではないですよ。寝れば治るんだから」「休職の診断書を書いてあげてもいいけど、あなたは会社行けないと悪化するタイプだよね。社畜乙」「本当に薬飲むの向いてないねー、でも漢方はもっと向いてないだろうね」といった脱力系の挑発口調は、私の意欲を覿面に削ぎ、代わりに少しの元気をくれた。仕事熱心には程遠く、「ヤブ」と呼んで差し支えない医者だったと思う。毎朝同じ時間に起きられるようになった今でも、それが彼のおかげだとは到底思えない。だが、会計窓口で三割負担の医療費を支払いながらいつも、腕のいい占い師にかかっているような気分だった。あるいは、いつ引いても絶対に「凶」だけは出ないおみくじ。自分のことは自分ではわからない。素直に他人に意見を仰ぎ、身を委ねるのが一番だなと、初めて思った。40度の熱を出しても、交通事故に遭っても、そんなふうに感じたことはなかった。○自覚と無自覚のあいだかつて私は健康優良児だったが、もはや健康は不断の努力で「維持」しなければ簡単に失われてしまうものとなってしまった。その「節目」が、心身の不調に悩まされながらビクビクしていた20代後半にあった。氷の入った冷たいドリンクを飲まなくなったのも、常温の水を1日2リットル飲むようになったのも、真夏でも靴下や腹巻を身につけてカイロの買い置きを欠かさなくなったのも、婦人科系疾患の大敵「冷え」への対策であるし、どうせ眠れないのだからと毎日のように夜遊びや暴飲暴食を繰り返していたのは20代半ばまで、時間帯で食べるものを節制して、主食を玄米に切り替え、カフェインや刺激物の摂取にも敏感になった。頭痛や腰痛を併発しないように寝具や照明にもお金を注ぎ込み、有酸素運動が大事と言われればフィットネスジムにも入会した。入会だけは、した。そして、小児喘息で入院していたクラスメイトは、あんなに小さな子供の頃から、こんなふうに「健康」に気を遣っていたのだろうか、などと考えたりもした。新しくとる何気ない行動の一つ一つが、脆く壊れやすい自分の心身を損ねやしないかと、いちいち考えながら生きるのはどんな気分だろう。彼女の「節目」は私と違って、うんと早くに訪れたのだ。自分からみすみす健康を手放したがるやつがあるか。今ならその怒りに寄り添える気がする。一方で、私と彼女の歩んだ半生は、すでにしてずいぶん違ってしまっているよね、とも思う。親元を離れて暮らすようになってから、久しぶりに親と会うたびに健康を心配され、いつも「あなたはもともと、小さい時から虚弱だったからねぇ」と言われる。言われるたびに驚く。彼らの思い出話の中の私は、季節ごとに高熱を出して寝込み、アトピーなど皮膚のトラブルが絶えず、少しの傷でも出血が止まらず、採血しただけで体調を崩し、何度も腎臓の精密検査を受け、運動が苦手で直射日光に弱い、そんな子供だというのだ。それでも私が「健康優良児」を自認して育ったのは、たまたま、子供のうちに大きな怪我や病気をせず、生死をさまようほどの経験をせずに済んでいたから。ただ、それだけのことなのだと、何度でも驚く。憧れに憧れていた「手術」の初体験は32歳のとき、日帰りで受けた視力回復のレーシック手術だった。「入院」はまだしたことがない。できればこのまま、せずに生きていきたい。ようやくそう思うようになった。<今回の住まい<もともと根暗な性格で、外に出て遊ぶより室内で本を読むほうが好き、そんな人間が心身に不調を来たして引きこもりがちになると、快活な人々より症状の発見が遅れることがあるのかもしれない。26歳のとき引っ越した先は、小さな中庭に面した一階で、縦に細長い間取りの1Kだった。日中でもほとんど陽が射さず、電気を点けてもつねに薄暗いこの部屋を「穴倉みたいで落ち着くし、家具が置きやすいし、何より蔵書が日に灼けないのがいい!」と大変気に入って選んだ。もしタイムマシンがあったら契約の前日に乗り込んで、当時の自分にもう一度、熟考を促したい。どんな性格の人間だろうと、お日様の光は、とても大切です。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年05月08日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○歩の子、金の子、カエルの子幼い頃から「将来は弁護士になる」と公言する幼馴染がいた。理由は「私のパパはとても立派な弁護士だから」。父親と同じ名門私立大学に推薦入試で合格し、首席で卒業して、在学中に司法試験に受かるのが目標だと言っていた、のだと思う。最初に聞いたときは私も子供すぎて意味がわからなかった。かつては男児にしか許されなかった道だろうが、私が生まれ育った時代、私が育った環境の周囲では、医者の娘は医者を、政治家の娘は政治家を、教師の娘は教師を、自然と志していた。恵まれた家庭に育った勉強のできる女の子が「尊敬する父のちょっと上を行く、けれども父の轍からはハミ出さない」キャリアを築く。あるいは偉大なる父に反発してイエを飛び出し、きっかり180度逆の道を歩むことで激しく自己主張する。それに比べてうちは、私は、なんだか冴えないな、という気がしたのは、父親がどこにでもいるサラリーマンだったからだ。満員電車で会社勤めする父、子育てに専念する主婦の母、三人の子供、ローンを組んで中古で買ったマイホーム。「サラリーマンの子は、ほとんどがサラリーマンになる。彼らは父の背中を見て、サラリーマンになるのが当たり前と思って育つからだ。かくて世の中にはサラリーマンがどんどん増えていく」。起業したとある知人は、よくそう言って笑う。企業に雇われ組織に従う「社畜」に対し、かなり棘のある言い方だ。「変ですよね、医者や政治家と違って、世襲するメリットなんかないのに……」と力無く笑い返す私もまた、サラリーマンの娘であるサラリーマンだった。幼馴染は本当に父と同じ法学部の推薦枠を取った。どこかしらの医学部へ入った友達にはやっぱり医者の娘が多かった。進学先を決めると同時に将来就く職業の専門性まで自動的に決まる彼女らは、趣味嗜好とその場のノリで学部を選択した私とはまるで別種の生き物と思えた。将棋の駒でいうと「金」とか「銀」とか「桂馬」とか。私は「歩」の娘で、モラトリアム期間にほっといたらやっぱり自然と「歩」に育ち、このままコツコツ進んで、成れたら「と金」になる、という人生なんだなと思った。職業に貴賎があるとは思わないが、駒によってレアリティは違う。使い方、使われ方、活躍の仕方、場に出る数、資格の有無も違う。しかしパッと見て最弱であるはずのこの駒が、「歩のない将棋は負け将棋」などとも言われる。出版社へ新卒入社し、サラリーマンになりたての私の気概は、まぁ、だいたいそんな感じだった。○もしも空気が読めたなら一張羅のスーツを着て入社式へ出向き、数日間の眠たい座学を経て、身体を動かす最初の仕事は、書店研修だった。「とにかく動きやすい服装で来てください」と言われた通り足元はスニーカーで、エプロンを掛けて店頭で働いた。カリスマ書店員が何をもってカリスマと崇められているのか間近で観察しつつ、激務で腰を壊したベテランに代わり無数の段ボール箱を運び、裏の在庫置場でベストセラーコミックの新刊にビニールシュリンクをかけ続けてナチュラルハイになる日々が約一ヶ月続いた。いったい自分がどこに就職したのか忘れかけた頃にお迎えが来て、次は倉庫での研修期間だった。鳴った順に電話を受け、注文を聞いて複写式の短冊伝票に書き込み、整理して処理すると、また電話が鳴る。これまたナチュラルハイになる職場だ。御奉公先である書店には失礼があってはならないと緊張して割と早めに出勤していたが、倉庫では9時出社だと言われ、しかし9時に行くといつも私が一番遅かった。数日経って部長から「新人は、だいたい10分前には来ておくといいと思うよ」と言われた。同期入社のもう一人は毎朝、始業15分前には着席していたようだ。どうして10分前に出社すべきなのか、10分前という目安は何で決まっているのか、理由はよくわからなかったが、言われた通りにすべきであるということだけは、さすがの私にも理解できた。なぜなら私はこの春から「会社組織」に属しており、その最下層に位置するフレッシュマンであるから。定刻までにタイムカードを押しさえすればいいアルバイト先では今までそんな指導を受けたことはなかった。なるほど、これが「会社」か。取締役が書いた原稿をもとに文書を作成する雑用が回ってきたとき、本人から感想を求められて「はい、よく書けてると思います!」と元気に答えたら、「上司に向かってその物言いは何事か」「良し悪しを判断するのはおまえじゃない」と、周囲の先輩に怒られた。昼食を食べ損ねた午後一番の会議室にコンビニのパンとペットボトルを持参したときも、「アメリカの大学生か」「おまえにはまだ早い」と怒られた。そんなの最初から就業規則にでも書いておいてくれたらいいのに、不文律が多すぎるよ、と思いながら、読めなかった空気のあれこれは自分で手帳にメモしておいた。注意されたことは一つ一つ、以後気をつけるようにしたが、何年経っても結局、言われるまで気づけないことも多かった。自分と似たタイプの後輩社員が入ってきて組織内でオロオロしているとなんだか嬉しくなって、わざと注意せずにそっと放置しておいたりもした。もちろん別の先輩に「ああいうのは岡田がちゃんと教えないと!」と、また怒られた。みんなどこで教わってくるんだろう?○ケーキ・ケーキ・ケーキ (ドリンク50円引き)続いては営業研修。取次会社との打ち合わせに出向いたり、書店を回って直接に注文を取り付けたりする。新人は各部署の先輩社員が通常業務をするのに、金魚の糞よろしくヒラヒラついていくだけだ。取引先とのアポイントメントを軸に首都圏を動き回る販売促進部員たちは、移動時間と待ち時間がとても長い。普段はほとんどが単独行動で、金魚の糞がついてくるのはよい暇つぶしになるようだった。「次の約束もこの近所で、しかも夕方からだから、ちょっとお茶でもして時間潰そうよ。え? 帰社なんかしなくていいでしょー、やだなぁ、まさか君がついて回ってる他の先輩って、そんなに真面目に働いてるの? ……マジで? そりゃまずいな。じゃあ他の部員には、俺がこうしてサボってることは内緒ね。ケーキもおごってあげよう。総務部に出す研修報告には『移動時間を利用して大変ためになるご指導を賜った』って書いといてね!」どの先輩社員もみんな同じように言うのが面白く、ほとんどすべての人と内緒の約束をして喫茶店での長い長い「座学研修」に付き合い、おしなべて口止め料にあたる昼下がりのケーキセットや何かをごちそうになった。実際こうした時間を共に過ごすうちに業界の実情についてよく学び、異動や転職を経た今もなお非常に役立つお話も多々伺ったので、そこだけはハッキリ書き記しておく。マジで。平日日中、外回りの営業マンが立ち寄るような喫茶店では、いろいろなサラリーマンを見かけた。天井へ向けた顔におしぼりを乗せたまま爆睡している背広の男、社外秘と思しき紙資料をテーブルいっぱいに並べてあれこれ印をつけているのが丸見えの背広の男、灰皿に火のついた煙草をなげうったまま携帯電話を両手で掲げて虚空に向かってペコペコ平身低頭する背広の男、同じく電話を受けつつ小さな手帳にびっしり予定を書き入れつつ、社名入り封筒を胸に抱えたまま、ついでに脂取り紙で化粧直しも済ませている背広の女。学生のときは気づかなかったが、これらのどこまでを仕事と呼び、どこからをサボりと呼ぶのかは、なかなか判断しづらい光景である。「おごってやるよ」と言った先輩の幾人かは、どんな店でも社名の領収書を切っていた。一方で、自腹を切ってケーキセットや豪華な昼食をおごってくれる先輩もいて、「本当におごってくれるんですか?」と驚くと、「何言ってるの、こんなことで会社の経費は使えないでしょ……」と驚き返された。言われてみると、他の先輩が切った領収書とて、本当に後日精算して経費で落とされたかは定かでない。新入社員の前で、それぞれに吹き荒れる、先輩風。身を任せているうちに、約三ヶ月の研修期間が終わった。○一歩千金の夢入社採用面接では口が裂けても言えなかったが、私が就職した本当の理由は、「人生一度でいいから、サラリーマンというものを経験してみたかった」である。なぜなら、一番身近な大人である父親がサラリーマンだったから。よく就職相談に乗ってもらった大学の恩師もまた、長年サラリーマンを経験して独立した勤め人だった。恩師からは「最初の10年は、同じ会社で頑張りなさい」と繰り返し言われた。私が通っていた大学は、日本企業に入った卒業生の離職率が異様に高いことで知られていた。しかし私は、10年と言わず、許されるなら定年退職するまで、この会社に勤めたいと思っていた。「と金」には「と金」の強さがある。それは私自身が最も苦手とするタイプの強さだった。定められた華美すぎない服装。10分前出社。朝礼での報告・連絡・相談。相手の階級に合わせて使い分ける言葉遣い。使途を明確にして経費で落とす領収書。空気を読んでこなす雑用。これは「会社員」というよりは「社会人」の基本かつ暗黙のルールなのであるが、ほっといたらそんなもの私には一生身につかないことは、火を見るよりも明らかだった。手のつけられない放蕩息子を寄宿学校へ預ける親のように、私は私自身を早く「会社」に預けてしまいたかった。きっと「会社」なら、私の最も弱い部分をビシバシ鍛え上げてくれるだろう。一番身近な大人にみちあふれ、大学出たての私に圧倒的に足りない強さを、授けてくれるに違いない。つまり、私は私なりに、疑いの余地なく弁護士を志していたファザコンの幼馴染と同じように、身近なサラリーマンの働く姿を尊敬していた、ということである。個性を没し、自分を捨てて、会社組織の中で「歯車」として働くことは、つねに苦しみを伴う。同じ場所で毎日毎日働き続けていれば、追い追いそのことにも気づいてしまう。先輩社員たちが私を息抜きへ連れ出してくれた理由もその辺りにあるのだろう。しかし、大きな大きな営みの中の小さな小さなピースの一つとして働くことは、時に喜びをもたらすこともある。私がかけたビニールシュリンクが、私が書き込んだ注文伝票が、個人名ではなく会社の名前で切った領収書が、小さな小さな一つ一つが、この社会を動かしている。私はその喜びのほうを信じて「選択」したのだ。会社の裏口から歩いて一番近くにあるチェーンの喫茶店は、壁にそってずらりと一名掛けの席が並んでおり、店内の照明をわざとらしく暗めに落としていた。都会のオフィス街では、たまにそんな店を見かける。試用期間を終えて編集部に配属となった私は、勤務時間中に疲労が限界に達するとそこへ行き、一名掛けのソファ席で壁にもたれてコーヒー1杯分の仮眠をとった。営業研修のときに見た、天井へ向けた顔におしぼりを乗せたまま爆睡している背広の男を思い出しながら。「金」や「銀」や「桂馬」が仕事中にどうやって休憩をとり、どうやって社会を動かすお役目から一時休場するのかは知らないが。盤側の駒台に乗ってふたたび自分の出番を待つ「歩」の駒を思い浮かべながら、私はそうして目を閉じた。<今回の住まい<初任給は、ほとんど貯金して引越資金に使った。就職と同時にふたたび部屋探しを始め、配属直後に一人暮らしを始めたのだ。都心の一等地にあって墓地の裏手、真四角の間取りの東と南に大きく窓が開き、路地を挟んだ向かいの家の寝室が丸見えの木造アパートだった。和式便器から改装したと思しきバストイレは別だが、収納と洗濯機置場がない。週末は近所の銭湯にあるコインランドリーまで、ゴムバケツいっぱいの洗濯物を抱えて往復した。一等地ゆえ近くには結婚式場もあり、日曜日はきらびやかに着飾った晴れ着姿の男女とすれ違った。ゴムバケツを抱えた部屋着姿の私はしかし、親元から独立した喜びをかみしめていた。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年04月24日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○あなたもどうか、わたしを取って昔の日記を後になって読み返すのはなかなか面白いもので、しかし本当に知りたい肝心なことが書いていなかったりする。私は2000年前後からホームページ無料レンタルのサービスを使って日記を書いていた。二度と再現不可能な若さと勢いがあって、ログを読み返すと飽きない。手前味噌ながら、もし今こんな女子大生ブロガーがいたら、ちょっと原稿を頼んでみたいな、とさえ思う。なぜなら私は2004年に就職して、それからは出版社勤務の編集者になったので。探していたのは2003年初夏の日記だ。就職活動中に何を書き残していたのか知りたかったのだが、2月、3月、4月、5月と書いて、次は内定式を済ませた10月まで飛んでいる。本命企業の選考過程についてはいっさい伏せてあった。おまえ、案外ちゃんとしてるじゃないか。就職した春には過去の日記や趣味のページなどを閉鎖して、以後はインターネット上で無責任な発言をするのは控えよう、ときっぱりケジメをつけたりもした。すぐ戻ってきちゃったけど。それにしても、当時の私はあの日のことも何も書かなかったのか、と驚く。「初めての、就職」でお世話になった、私が社会人としての第一歩を踏み出したその出版社の、面接をすっぽかそうとしたときのことを。「え、その日じゃないとダメなんですか? どうしても大事な用があって、朝から大学院の研究室に居ないといけないんですけど。一次面接ってまだ人数も多いでしょうし、数日に分けて実施するんですよね。翌日か前日の組に入れ直してもらうことって、できませんかねぇー?」研究室棟の階段の踊り場で受けた電話の向こうで、総務部の男性が言葉を失い、息を飲む音が聞こえた。いや、ちょっと、そういうことは、していないんですよ、と言われて、私の継いだ二の句は、こうだ。「でも、どの日に誰を面接するかって、御社が機械的に決めたことですよね。もし他に指定の日時では都合が悪いという受験者がいたら、その方と私のアポイントを入れ替えるのはどうでしょうか。それだとすごく助かります。そういう人も、いなくはないと思うんですよね」電話を切って研究室に戻ると今度は教授に呆れられ、「こちらの用事はいくらでも動かしていいから、言われた通りの日に行きなさい。会社員になるって、そういうことですよ」といったようなことを諭された。当然、総務部から二度目の連絡はなく、私はうんざりした思いで、指定された日時をあけて面接に出向いた。○僕はここで見ていよう、君が堕ちていくところを新卒採用試験を受け始めたのは、2002年末からだ。私にとって「サラリーマン」は最もなるのが難しい職業と感じられ、だからこそ、会社員に憧れていた。何せ、自分で好きに名乗る肩書きと違って、自分以外の誰かに選ばれなければならない。卒業後すぐフリーランスになったり、バイト先でそのまま働く選択肢もなくはなかったが、まずは挑戦してみたかった。とくに公共放送の番組制作に興味があって、予行演習のつもりで民放テレビ局を何社か受けた。東京在住なので交通費などたかが知れているし、受験料を取られるわけでもないのだから、本番前にいくらか場数を踏んでおいたほうがよいと思ったのだ。最初に採用が始まるのはアナウンサー職で、パステルカラーのツイードジャケットが咲き乱れる華やかな面接会場では、ふわふわした女子学生がキラキラ輝きながらハキハキした黄色い声でしゃべり続ける合間に、学ランに腕章をつけた体育会系男子学生が応援指導のパフォーマンスを実演していた。「スナップ写真」とある欄に、祖母の家の門前で撮ったようなやつを貼りつけてきたのは私ともう一人二人だけで、残りはみんな伊勢丹写真室と思しき、斜めに構えた上目遣いの笑顔が眩しいブロマイド、もといポーズ証明写真だった。「制作職の試験も、この調子で頑張ってね」とにっこり微笑まれて落ちた。お台場にあるテレビ局の二次面接も忘れがたい。対峙したのは真っ黒に日灼けしてハワイの空色したピンストライプシャツの裾をまくり、第四ボタンくらいまではだけて胸毛と金鎖をのぞかせたチョイ悪オヤジだった。すごい、これでピンクのセーターを肩から羽織ってたら完璧じゃん! ギロッポン! と快哉を叫びたくなるほどの絵に描いたようなギョーカイ人である。受けた質問は「オトコとオンナが同じ仕事を同じようにできると思う~?」で、私の回答と選考結果は言うまでもない。本命の公共放送も最終面接近くまで進んだが、「『ラジオ深夜便』か『名曲アルバム』を作る部署に骨を埋めたい」とフレッシュには程遠い正直な夢を語ったら見事に落ちた。同じ頃、ある民放子会社から内定を受けた。そこでの業務が志望と合致していないことは、自分が一番よく知っていた。焦燥感をバネに次なる本命、総合出版社の編集職に焦点を合わせたものの、結果は惨憺たるものだ。面接に進むと決まって何か失敗する。ありえない失言を漏らしたり、資料を取り違えたり。朝の満員電車内で体調を崩して救急車で病院へ搬送され、試験会場に辿り着けなかったこともあった。リスケジュールされた面接は形ばかりで、「編集者は身体が資本ですからね」と労われて終わった。件の中堅出版社から一次面接の連絡を受けたのは、そんな折りだ。本命とか滑り止めとか関係なく、なんだかもう、就職活動のすべてが面倒に思えてきたタイミングだった。大学院での研究だって暇というわけではないのに、あちこちの企業から降ってくる唐突な指令に振り回されてはフラレ続け、すっかり嫌気がさしていた。それでつい、愚痴を漏らしてしまったわけだ。どうして私の都合を考えてくれないんですか? と。○何人採るのか? 男女何人か? 何人採るの?やつあたりでプリプリしながら臨んだ面接は、これまたひどい出来だった。筆記試験の作文はなぜこの題材かとか、どうして履歴書の写真でスカーフを巻いているのかとか、最近読んだ本はとか、他愛ない質問ばかりなのに、答えに窮して何十秒も硬直してしまった。地下鉄京橋駅へ下りる階段の手前で研究室に電話をかけ、「せっかく先生に融通してもらったけど、今日のは落ちたわー。夕方までに戻ります」と告げたとき、ふと、それまでにない不思議な清々しさを感じた。しこうして私は、その不出来な面接を通過した。二次面接はおとなしく指定された通りの日時に赴くと、廊下で順番を待つ間、たまたま通りかかった女性社員が、なぜか私にだけ微笑んだ、気がした。首の皮一枚で一次選考をくぐり抜けたはずの私の、二次面接の評価は、満点だったのだそうだ。三次が最終面接で、同じ日に健康診断も受けた。十数名が一度に呼び出され、京橋の本社ビルから銀座にあるクリニックまでカルガモのように行進して往復し、近所の定食屋でライバル全員が膳を並べて昼食をごちそうになり、午後、順番に役員面接をしたら終わり。大手出版社と違って小さいところは話が早くていいなぁ、と思った。十数通目の履歴書を送った先で、同時に受けていたのは児童書の出版社と、刊行物の多い大手化粧品メーカーの宣伝部。この三つ全部に落ちたら、就職活動は中断して何か別の道を探ることに決めていた。決めた途端に、京橋の出版社は次の電話を掛けてきた。やっぱり小さいところは話が早くていい。一次面接のときと同じ、渋い声の男性だ。今度は大変マイルドな口調で、しかも半笑いだった。ちょっと待て、これは内定の連絡じゃないのか、なんでこのオッサンはこんな大事なときに半笑いかよ、と訝りながら、恵比寿駅へ続く道すがら、壁の隅に寄って必死で用件を聞き取ろうとする。「あのね、あなた、健康診断の尿検査で引っかかってましてね……うん、おしっこです。今から言う診療所に行って至急、再検査を受けてもらえませんか/ 一応、その検査結果が出てから、皆さんへ合否連絡となりますから。みんな、あなた待ちなんですよ、うん、あなたの尿待ち」慌てて再検査を受け、あっという間に内定が出たわけだが、「あのときはさー、岡田くんの尿待ちでさー、俺も参ったよー! 我が娘のようにハラハラしましたよ!」と入社後もさんざんネタにされた、渋い声の総務部人事担当は、偶然にも幼馴染の実の父上だった。もちろん、そんなことで1,000人中2人しか採らない会社に入れるわけもなく、ひたすら「ご縁」としか言いようのない出来事である。○偶然が重なり続けて道が出来てゆくもし私が面接日についてもうちょっと強い口調でゴネていたら、そして採用担当がもうちょっと狭量で短気な人だったら、クレーマー扱いで落とされていただろう、とは思う。面接官に「なんでスカーフ巻いてるのか訊いて」と告げたのは別の社員で、「手持ちのシャツを全部洗濯に出しちゃってて、襟のないインナーだけだとスーツが貧相に見えたので……」という回答が、当日の凍るような沈黙よりもウケたらしい。通りすがりの女神に微笑まれた二次面接では、「もし上司と編集方針が合わなかったら?」と問われ、「徹底的に戦います!」と答えた。彼が社内で最も好戦的な編集部長で、普段着もミリタリーベストであるということは、入社後に知った。そんないくつもの偶然が、もしも他のところで違うふうに重なっていたら、私は今頃、テレビ局や、他の出版社で働いていたかもしれない。まぁ、女子アナはないにせよ。何か私にしか持ち得ないもの、個性だとか、能力だとか、実績だとか、そんなものが評価されてこの会社に迎え入れられたとは、到底考えられなかった。すべては運だ。尿検査を待つ診療所で私は初めて、「どうせ落ちるんだろうなぁ」を超えて、「ここ落ちたくないなぁ」と思った。先の見えない競争に疲れ果て、どうせ選ばれないのなら大学の用事を優先させたいとさえ考えていたけれど、これだけやらかしてもまだ落とされないってことは、入ってからも好きに仕事させてもらえる職場環境に違いない、と思った。実際その通りだった。児童書の出版社と化粧品の宣伝部には落とされ、民放子会社の内定は辞退した。他のあらゆる可能性を切り捨てて、たった一つの未来を選ぶ。就職先を決めるというのは、とても大きな人生の「節目」である。しかし、あれだけ頑張って身構えて、窮屈なスーツに身体を押し込み、ダメモトと知りつつ果敢な挑戦をした……にも関わらず、人生にとってこんなに大事な「節目」が、結局「ご縁」なんてもので決まったりもするんだよなと、今は思う。よく、意識の高そうな先輩社会人たちが、ケツの青そうな学生どもに向かって、「自分は就職活動からじつに多くの学びと気づきを得た。すべての出会いに感謝」なんて説教をするのだけれども、私はといえば、言えてせいぜい「偶然を楽しむ心の余裕って大事だよ」くらいだ。当時のウェブ日記に、もっともらしい「シューカツの総括」など書いていなくてよかったかもしれない。定年まで勤め上げるつもりで入った会社から、たった8年で転職するなんてことも、我々の身には簡単に起こる。<今回の住まい<今はもう廃れているのかもしれないが、当時は「就職活動中、現住所の欄には、首都圏に実家があるならそちらを書いたほうが有利」という、謎めいた不文律があった。実家住まいの人間のほうが採用しやすいということなのだろうか。私だったら、学生時代から仕送りに頼らず、必要なだけ自活できている人間のほうが好印象だけどなぁ、と不思議に思っていた。その後、内定が出てから妹との二人暮らしを解消し、一時的に実家へ戻ったが、かつての子供部屋にもう私の暮らすスペースはなく、初任給から夏のボーナスまでを引越費用に宛ててふたたび家を出ることになる。住宅手当は月六千円。これがどこから出てきた数字かも謎のままだが、労働組合の先輩闘士諸氏の血と汗と涙の結晶であろう。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年04月10日スポーツ飲料ブランドでおなじみの「アクエリアス」が、アクティブな育児=略して“アク育”をサポートする活動をこの春に開始した。“アク育”とは「親子でカラダを動かし、こどもをアクティブに育てよう!という趣旨で、「アクエリアス」とともに“アク育”をサポートするアクティブ育児アンバサダーとして、教育評論家の尾木ママさんが就任している。3月20日には東京・赤坂サカスで行われたイベント「ママサカス」内にて、“アク育パーク supported by AQUARIUS”が設置された。多くの来場者が“アク育”を実際に体験する中、傍でその様子を見守った教育評論家の尾木直樹氏(尾木ママ)に、“アク育”の重要性について話を伺った。――今日、実際に“アク育パーク supported by AQUARIUS”をご覧になられて、どのような感想を持たれましたか?今回、ママサカス内の敷地に本物の芝を敷き詰め、フラフープやケンケンパの縄、ボールなど、シンプルな遊び道具を置いただけなのですが、見ていると子どもたちは想像していたのとはまったく違う遊び方をするんですね。例えば、一番人気だったサンドバッグ型のバルーン。意外や意外に子どもたちはみんなあれに乗るんですね。時にはパパやママも一緒に乗っていたり。だから子どもっていうのは非常に発想力が豊かで、自分で創意工夫して大人では考えつかない方法で遊ぶんだなぁと。改めて子どもの面白さを発見しました。子どもというのは本当に先入観なしに遊びますよね。僕なんかのほうがむしろ先入観があって、なんでそんな遊び方するんだよ?壊れるだろうって思うんですけど。子どもにとっては壊れることはなんともないことなんだなと。そこにある子どもの可能性に気付かされました。僕は子どもの教育を専門でずっと仕事をしてきているのに、子どもから学んでいるわけです。子どもって7~8割の子がちゃんとしたルールじゃないよってね。人工芝じゃない土の芝生の上で安全だし、伸び伸びと思いっきり遊べるので、やっぱり能力や子供らしさが引き出されているなと感じました。それをお母さんたちにも子どもと一緒に体験しながら味わってほしいんです。親子で一緒に楽しく遊んだり、運動したり、アクティブな毎日を送ることで、カラダを動かすことを楽しんでもらうことが“アク育”のテーマで、それが芝生をちょっと敷いただけでも引き出されるんだなと。そういったことを垣間見ることができました。――今、“アク育”が求められているのにはどうした背景があるのでしょうか?昨今、子どもたちの運動不足が問題となっています。2013年に実施した文科省のデータによれば、小学5年生の女子の約4人にひとりが体育の時間以外で1週間のうちで身体を動かしている時間はトータルで30分以下なんです。――例えば10年前や20年前の子どもたちに比べると、運動量が減っているということなのでしょうか?相当減ってきています。万歩計で歩数を調査してみると、今の子どもたちはだいたい1日2万3000歩ぐらい歩くんですが、1万歩を切るぐらいの子も多いんです。でも、歩数だけに特化して話してしまうと、例えば、図書室で本ばかり読んでいる子はどうしても少なくなってしまうので、それが100%いけないとは言えないのが少し難しいところです。“アク育”で大事なのは、“親子で一緒にカラダを動かす”ということなので、そこで実際に運動をするというのも大事ですが、家事や家族関係の部分で活動的に動くというのもひとつですので、幅広く考えてもらえればと思います。例えば台所仕事や、ちょっと拭き掃除をするだけでもいい運動になりますよ。――子どもたちの成長にとって、どうして“アク育”が大事なんでしょうか?子どもたちにとって大切なのは原体験なんです。僕はいつも8つの体験って言っているんですけど。火の体験、石の体験、水の体験、木の体験、土の体験、動物の体験、草の体験、ゼロの体験ですね。例えば今日の“アク育”パークだと土の体験と草の体験になるんです。土の中に小さい虫を見つけたり、芝の香りを感じたり。もっと大きな野原へ行けば、草笛を吹いたり、笹船を作って流したりとか。ゼロ体験というのは、極限状況の真っ暗闇の中で満天の空を眺めて、人間の存在の小ささや、自然の凄さを感じることです。運動不足の解消というのもありますけど、こういう原体験を通して学ぶことが大事なんです。そしてそれを親と一緒にやるというのが“アク育”のポイントなんです。というのも、例えば子どもが躓いてしまったときに、特に“アク育”では身体を動かしますから躓くことがいっぱいあって、そういうときに親が見本を見せてあげることや、アドバイスをしたりすることで、子どもが失敗を克服する達成感を得られることが重要なんです。そして、そういった達成感や成功体験が自己肯定につながり、成長する力の土台になるんですよ。すると、そのうちに子どもは自発的に工夫するようになり、創造力や向上心に発展していきます。これを“レジリエンス”と言いますが、要は"折れない心"です。一度失敗しても、「こないだパパとやって工夫してやってみたらできたんだからこの問題だってできるはずだ」というレジリエンスが非常に鍛えられてくるんです。人生、死ぬまでたくさん心が折れるような場面があるわけですが、そこでいちいちくじけていてはダメなんです。ですから、そういうときに自分自身を見つめる心、そして過去の成功体験を思い出せば、挫折はしないんです。そういうのも、親が一緒に居てくれると、子どもはすごく安心して、伸び伸びとやれるんですよ。――教育に長年携わっていらっしゃる中で、“アク育”を家庭で実践しているお子さんと、そうではないお子さんとで差は感じられますか?それは、もう歴然です。僕でなくても、見たらわかります。それぐらい違いますよ。具体的には、やっぱり“アク育”やってきている子は発想力が豊かです。ちょっとした工夫する力がスゴイんですよ。今日の“アク育”パークの芝生だけでも、いろんな工夫をしているわけでしょ。あれだけでも全然違うんですよ。例えば、「ホッチキスがないからもうできない」じゃないんです。工夫しちゃうんですよ。ないものはつくるんです。あるいは、「こういうふうに発想を変えたら、なくてもできちゃう」という発想をするんです。それはもう歴然たるものがあります。――メンタル面での違いは感じられますか?とても違いますね。“アク育”には失敗は必ずつきものですよね。落ちて痛い思いをしたり、何回やってもできなかったり。それなのに、隣で自分より小さな子が上手にこなしていたりするのを悔しい思いをしながらガマンして見ているだけでも鍛えられるんです。先ほども言いましたが、それがレジリエンスという、折れない心です。こういうときに、お母さんやお父さんが傍にいると「ホラ、あの子見てごらん」と。「こういう風に、こうやればやりやすいんだよ、できるんだよ」とか。そんなふうにして親がやって見せることで、子どもも「なるほど」と思って乗り越えるわけですよ。それは発想力にもなりますよね。動きを観察したり、分析する力もつきます。そして、自分でも実際にやってみようと模倣する力も。そうやって工夫して成功すれば、大きな達成感が得られ、さらにもうひとつステップアップして違う方法を工夫してみようと思うようになるんです。なので、いろんな能力が開拓されていきます。――“アク育”の重要性や必要性は多くの親が頭では理解していながらも、仕事が忙しかったり、疲れていたりで、実践が難しいこともあります。また、都会で暮らしていると近所になかなか遊び場所がなかったりということもあります。そういう場合はどうしたらいいでしょうか?生活の質を上げていこうという方向さえ向いていれば、工夫というのは考えればいくらでもあるわけです。そんな中で子どもとどういうふうに一緒にやるかを考えていけばよいのです。確かに都会の場合は、ちょっとボール遊びをするにしても、「ボール遊び禁止」という看板があったり。そういったお母さんたちの苦悩もわかります。だから、日曜日ぐらいは思い切って足を伸ばして遠出をしてみたりね。あるいは、パパやママもTシャツとジャージに着替えて「あそこの公園まで行って遊ぼうと思うんだけど、ランニングで行くぞー!」とかね。工夫すればできます。それから、子どもに相談してみるといいですよ。「ママもパパも帰り遅くなっちゃって、一緒に“アク育”できないけれども、なにかアイディアを考えてくれる?」と言うと、意外と、子どもが考えてくれると思います。“アク育”が大きくなってからの子どもの学力の伸びにも効果があるということは、実は脳科学的にも明らかになってきています。「どうすれば頭がよくなりますか?」って訊かれると、「とにかく遊ばせなさい」と答えます。昨今の子どもたちの運動量や“アク育”の低下の一因には、習い事の多さが背景にあります。幼稚園や保育園から習い事を始めても、小学5年生になればだいたい皆同じレベルになります。それよりも子どもと親子で身体を使って遊ぶ、“アク育”を実践してください。親子一緒に遊んだ後は、カラダの水分バランスを整えることも忘れないでくださいね。――ありがとうございました。教育・子育て界のご意見番・尾木ママさんも推奨する“アク育”。気候も暖かくなり、大人の心も体もアクティブに気持ちが向かいやすくなるこれからの季節。これを機に、家庭でも取り入れてみてはいかがだろうか。
2015年03月24日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○嘘なんて誰もついてない学生時代、アルバイトが楽しくて仕方なかった、という話は以前にも書いた。学校とはまるで違う社会集団に所属することの新鮮さが、その最たる理由だった。仕事で結びつく関係性には、仕事で結びつく関係性ならではの、それまで体験したことのない価値観や倫理観が生じる。たとえば、社会に対して「嘘」をつかずに、うまいこと「方便」を用いる、といった手口については、学生時代に知り合った大人たちから、じつに多くを学んだ。ある企業が運営する商用サイトの「仕掛人」として、テレビ番組に出演したことがある。職場でカメラを向けられ、本名で、顔を出して、取材に応じた。実際にオンエアされた映像のテロップ、私の氏名の右上に冠された肩書には、そのサイトの「プロデューサー」と記されていた。何も知らずに番組を見た誰もが、私のことを、その運営企業に長年勤める正社員の女性管理職の凄腕の責任者だと、そう勘違いしたことだろう。実際には22歳の大学院生、時給1,000円程度で週2日出勤するだけのアルバイトだったのだけれど。ほとんどの社員が開発に専念するなか、そのサイトの骨組みではなく肉付け、コンテンツ部分を熟知している人間といえば、日々の細かな更新作業を担当するバイトの私であったのは間違いない。リニューアル時には積極的にコンセプトの提案もした。「君は普段、この肩書に十分見合う仕事をしているよ」と、取材クルーに差し出すための「プロデューサー」名刺を刷ってもらったときは嬉しかった。広報担当は「俺が出演してもいいけど、対外的には、君みたいな若い女の子が作っているイメージを打ち出したいんだよね」と言った。別の上司は反対に、「落ち着いて見えるから大丈夫。眼鏡で出たらもっとベテランに見えるよ」と言った。最終的にテレビに映った自分は、金属チェーンの下がった眼鏡を掛け、低めの声で立派なことをボソボソしゃべる、推定40代前半くらいの偉いオバサンに見えた。その会社にいた誰も「嘘」なんかついていない。名刺が刷り上がった日から私の肩書は本当に「プロデューサー」になったのだし、短いインタビューでは実年齢など訊かれないから答えなかっただけだし、身分を偽って何か悪いことをしたわけでもない。オンエア翌日になると、同僚は「うまくいったね!」と全国放送の宣伝効果を祝っていた。CMの世界では、ラーメンからたちのぼる湯気や、グラスにトクトク注がれるビールの音、女優の肌色を一変させるファンデーションなどは、すべて作り物の映像だという。それと同じことをしただけだと思えば、たしかに面白い体験だった。○ガラスの仮面、透明なレイヤー掛け持ちしたアルバイトの数だけこうした「方便」があった。中学受験生向けの塾講師のバイトでは、「なんでも知ってるフリ」が求められた。小学生の生徒たちは、私が全科目のありとあらゆる疑問に答えられると思って話しかけてくる。大人への尊敬を損ね、講師として侮られるような態度をとってはならない、すぐに保護者に告げ口されてクレームが来るぞ、と釘を刺されていた。バレないように手元の答案解説をチラチラ見る技術が向上し、板書しながらあの「後ろにも目が付いてるんだぞ」という決め台詞を言ってみたりもした。また別の勤め先、ダイニングバーでは、女性店員の個人情報をしつこく聞き出す常連客でもいたのか、「大学生であることを客に教えないように」と言われた。先輩ウェイターの半生を参考に「将来は店を構えたいと思っている、バーテンダー見習いのフリーター」という裏設定を作り、何か質問されたら、それにそって曖昧に受け答えた。アーティストの事務所で働いたときは、断りづらい仕事が舞い込んでくると「秘書プレイ」を指示されて折り返しの電話を掛けた。「あいにく御多忙のセンセーはたとえギャランティがご提示の倍額でもお受けできかねますザマス。お引き取りアサーセ!」みたいなやつだ。電話口にいるのはTシャツにジーパン姿の学生バイトなのだが、横で聞いていたアシスタント仲間にも上手だと褒められた。テレクラにいたずら電話を掛けていた経験も何かしら役立ったのだろう。赤の他人に向けて顔の角度をちょっと変え、彼らの望む姿を演じてやるのだけれど、それにきちんと対価が支払われ、私の元にも「嘘ではない」手応えが残る。小学生たちのキラキラした瞳に反射する「なんでも知ってる岡田先生」や、「君が店を持ったら遊びに行くよ」と微笑むバーの常連客の先に、今とは別の人生が豊かに広がっていくように思えた。就職活動をせずこのままバイト先に雇われ続けたら、いつか本当に「プロデューサー」の肩書が似合う管理職になる未来だって、あるのかもしれない。なにか罪を犯した逃亡者が、落ちのびて行った先で新しい生活を獲得し、周囲には過去のことをまったく悟られずに別の顔をもってコミュニティに溶け込む、といった展開を小説でよく読む。たとえば『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンなどもそうだが、子供の頃はそれを「嘘をつき続けるのは、つらいだろうな」と思って読んでいた。すぐやめられるママゴト遊びと違って、いつ終わるともしれない一生を「本来の自分」を偽り、別の人間として生きるのは、つらいだろうなと。22歳の頃、その感覚が変わった。「きっと彼らも、新しい生活の中で、今の私と同じような手応えを感じていたのだろう」と思うようになった。「誰にも嘘はついていない、ただ、訊かれていないことを言わずにいるだけだ、みんなをちょっと錯覚させるだけだ」と己に言い聞かせながら、赤の他人たちによって「本来の自分」とは違うキャラクターをするする引き出され育て上げられていく過程に、バルジャンだって幾許かの喜びをおぼえていたのではないか。○昼間のパパはちょっとちがうNHKの教育番組『ピタゴラスイッチ』に「ぼくのおとうさん」という歌がある。「会社へ行くと会社員、食堂入るとお客さん、歯医者に行くと患者さん、うちに帰ると僕のお父さん」という調子で、子供の目線から、父親にあたる人物が持つさまざまな姿を歌っている。忌野清志郎「パパの歌」に、平野啓一郎の分人主義のエッセンスを足したような歌である。大学時代お世話になった恩師の作った歌で、卒業して社会人になってからテレビでこの歌を初めて聴いた朝、私はなぜだか部屋で一人、号泣してしまった。「ぼく」がその人物の「おとうさん」以外の側面についてもちゃんと知っていて、その人物が四六時中「ぼく」の「おとうさん」でいるわけではないことも理解して、それでも、自分との関係性からは遠く離れたあちこちで大半の時間を過ごす彼を「おとうさん」として丸ごと愛しているのが、よく伝わってきたからだと思う。感銘を受けた理由は分析できても、泣くほど感極まった理由については、今もよくわからない。きっと社会人になりたての頃で、「会社に行くと会社員」という言葉の重みが身にこたえていたからだろう。こうなると「パパの歌」というより友部正人「働く人」に近い。こちらは「1日のうち3分の1働けば、残りの3分の2は私のものになる、はずなのに、3分の1と3分の2が私には逆さまに思える」といった歌詞だ。「ぼく」と「おとうさん」はいったい一生の何分の1を共に過ごせるのだろう、と考えると、そのあまりの短さにせつなくなる。自分でも知らぬうちに引き出される側面は、画像編集ソフトを使っていくつものレイヤーを重ねられているようなもので、色や効果の組み合わせは一つではない。もしかして世の中の大半の出来事は、「本来のわたし」以外の部分、内側の骨組みではなく外側の肉付け、赤の他人の手で重ねられたレイヤーがもたらす「錯覚」や「勘違い」によって形成される部分のほうが、多いのではないか……?そう気づいた「節目」が、22歳の頃だった。学部を卒業して同じキャンパスの敷地内にある大学院の修士課程1年生になった年齢で、みんなが4年で卒業する大学に、やり残した研究プロジェクトのある私だけ、6年制で通う感覚だった。学びたいことがあって大学へ入ったが、正直なところ、思っていたのとは違う出口に辿り着きつつあった。不用意に複数のレイヤーを一つに「統合」してしまうと、混じり合ったさまざまな要素を、後から元に戻すことはできなくなる。私の人生のレイヤーは、いつの間にすべて「会社に行くと会社員」に「統合」されてしまったんだろう? 20代半ばになった社会人の私は、ふらふら不安定な存在としてあちこちで「嘘も方便」を楽しんでいた22歳の私を、ちょっと恋しく思ったのかもしれない。○Taxi Driver Wisdomこの頃を境に、得意になったことがある。おしゃべり好きなタクシーの運転手の身の上話を聞いてやることだ。バイトのおつかいで領収書を切って乗る機会が増え、私のことをすっかり「大人」だと信じ込んでいる運転手たちと、さまざまな話をした。こちらの個人情報を根掘り葉掘り訊いてくるような人や、他の客の愚痴ばかり聞かせてくる人だと困ってしまうのだが、これはという人にうまく水を向けると、この仕事に就く前はどんなふうだったのか、どうやって今のように東京の地図に詳しくなったのか、噺家のように芝居がかった口調で教えてくれる。苦労話はどれも盛り気味で、みんなバブルを懐かしみ、「そりゃあ、生まれながらにタクシーの運転手って奴ぁ、いやしませんよ」と笑う。生まれながらに私が私だったと思っているのも、私の「勘違い」じゃないだろうか?こちらも適当に話を合わせながら、嘘にならない程度の言葉を返す。「こないだ仕事でちょっとテレビに出る機会があったんですがね」と言えば凄腕プロデューサー、「私なんて所詮は使いっ走りザマスのよ」と笑えば高飛車な秘書、「よそさまの子供をお預かりするのは骨が折れます」と言えば塾の先生。タクシー乗ったら、お客さん。いろいろな自分の側面があって、それはどれも他ならぬ私自身であるが、バラバラになったそれを全部つなぎ合わせてみても、元の自分とそっくり同じにはならない。なぜならそれらは、鏡に映った見たいものだけを見ている「本来のわたし」とは異なる、赤の他人たちに引き出されてみるみる勝手に育つ別の何かだから。22歳のある週末、バイト先の同僚と一緒にちょっとパリッとした服装で次の仕事現場へ向かう途中、タクシーの運転手に「今日はおでかけですか、いいですなぁ、お子さんは誰かに見てもらってるんですか?」と話しかけられたことがある。カノジョがいるのかもよく知らない相手と、ただ性別が男女で服装が揃っているというだけで、子持ちの若夫婦と間違われたのだ。後部座席で顔を見合わせた後、私は「あ、はい、母が実家に……」と口に出していた。たしかに私の母は、この時間帯なら、実家にいるだろう。嘘はついていない。というか、何も言っていないに等しい。それでも運転手は勝手に行間を読み、すっかり納得して会話を切り替え、2歳になる孫の話を始めた。同僚は笑いをこらえるのに必死だった。自分でも呆れるほど、呼吸するように「嘘」……いや「方便」を使える大人になったものだなと、そのとき思った。「違うんです、『本当のわたし』は、違うんです!」と訂正したところで、何も変わりはしない。<今回の住まい<二歳下の妹が大学合格し、どちらも遠距離通学だった我々姉妹は、交通の便が良い駅に下宿を見つけて二人暮らしを始めた。五人で暮らすには実家があまりにも狭すぎたからだ。振り分けタイプの2DK、生まれて初めて手に入れた5畳の個室。それまで母に任せきりだった家事を二人で分担するのも新しい発見に満ちていた。いつでも鍋料理を作りすぎる姉、何でもマヨネーズで味付けする妹、洗濯好きの姉、毎日でも布団を干したがる妹。きれい好きの倹約家と生活を共にして、私は心底「妹みたいなお嫁さんが欲しい!」と思った。ちなみに妹は「姉と二人暮らしなんて二度とごめんだ」と言っている。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年03月20日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○産婦人科で宴会しようか?この国では未成年者の飲酒は法律で禁止されているのだけれども、私が育ったのは漫画『エスパー魔美』の佐倉家のような家庭だった。つまり、たまに銀座までお出かけして、「メキシム」みたいなちょっといい店で食事をするときなどに、親から子へ酒のグラスが勧められるということが、よくあった。しょっちゅうあった。いや、ごめん、うん、ほとんど日常だった。一応ぐぐって、どうやら時効であるらしきことを確認したので、一応謝ってから、そのことを書く。親の言い訳バリエーションにはいろいろあって、「西洋圏では子供だって飲んでる」というのがその一つだ。これはさすがに子供にでもわかる嘘だった。「聖書の時代には大人も子供も水の代わりに葡萄酒を飲んでいた」もよく聞いた。こちらは大人になってから、ある識者に「当時の葡萄酒は今よりアルコール度数が低く、水割り葡萄ジュースのようなもので……」と呆れられるまで信じていた。どうしてそうまで我が子に酒を飲ませたいのだろう。子供心に疑問だった。きっと、お酒を飲むのがあんまり楽しいので、それを自分の子供たちにもおすそ分けしたくてたまらないのだろう、と想像した。うちの両親は食事をしながら酒を飲むのが好きだ。とりたてて美食家でもなければ、高級酒の銘柄に詳しいわけでもないが、おいしいごはんにはおいしいお酒が必須、と考える二人だった。フレンチやイタリアンならワイン、中華なら紹興酒、和食なら日本酒や焼酎、デザートとチーズには食後酒。「私たちの子ならば、きっと酒好きに育つはずだ」とも言われて育った。安物の赤ワインをどぼどぼ入れて作ったブラウンシチュー、安物の白ワインをどぼどぼ入れて作ったチーズフォンデュ、湯気を嗅いだだけで酔いそうな貝の酒蒸し、果物のコンポートに洋酒たっぷりのサヴァラン、チョコレートボンボン。我が家の食卓に並ぶおいしそうなものは、どれもふんだんに酒が使われていた。「もし体質的に酒を受け付けないなら、盃を渡す前に、料理でそれとわかるはずだ」というのが、また別の言い訳だった。たしかに我々三人姉弟、幼い頃から母の手料理や父の土産を口にして、突然ぶっ倒れたことはない。○命の水の調べ、俗界を抜け出し我が家では、「できる範囲で、子供も大人と同じものを飲み食いする」ことが奨励された。子供だからといってレストランで甘いジュースを注文するのは許されない。代わりにワインを一口飲むのはよいが、生牡蠣やイカの塩辛など、味の強い酒肴は食べさせてもらえない。アルコール耐性を把握した上で、父母は子供に飲酒を強要するのではなく、ただ、ちょっと積極的に勧めてくるだけだった。法律で禁じられている行為ではあるが、まぁ常識の範囲内ではあったろうと思う。女子校生活はなかなかに暗黒色だったので、私の日々の支えは「大人になれば、今よりもっとずっといいことが起こる」という魔法の呪文だった。大人になれば、先生の言うことに従わずに済む、団体行動もしなくて済むし、同級生の顔色も窺わなくて済む。「大人と同じように酒が飲めるのは、いいことだ」という両親の教えがそこに重なって、「早く酒が飲めるようになれば、早く大人になれるんじゃないか」そんな気がしていた。古今東西、こうやって間違ったルートで大人の階段を駆け上がろうとする子供は、少なくないのだと思う。肺癌のリスクが怖くて喫煙にこそ手を出さなかったが、代わりに、中学生くらいからちびちびと父母の晩酌の相手をしていた。どんどん強い酒が飲めるようになって、スモーキーなアイラモルトが好きになり、アブサンやスピリタスも舐めた。さまざまな味の日本酒を飲み比べる愉しみも覚えた。舌が肥え、知識が増えていくのは「早く大人になれたみたいで」嬉しいことだった。「初めてお酒を飲んだのは、いつですか?」という問いには、答えられない。小さい頃から、毎朝伸びる麻の苗の枝葉を飛び越えるようにして、私のアルコール耐性は鍛え上げられていった。「初めてお酒で失敗したのは、いつですか?」という問いにならば、「20歳」と答える。「いやー、どうも、20歳を過ぎたあたりから、めっきりお酒に弱くなっちゃったんですよねー」と。酔い潰れて生まれて初めて街路樹の根元に嘔吐したのも、居酒屋の女子便所で便器に頭を突っ込んだまま寝こけているところを救い出されたのも、あるいは、ぶっ倒れた友達の救急車に同乗したのも、どれもだいたい20歳くらいの、痛恨の出来事だった。毎回毎回、もうお酒は懲り懲りだ、と思った。けれど今でも私は細々と飲酒を続けていて、いつの間にか、「20歳の頃」のような失敗はしなくなっている。○安いウォツカを一本飲み切っても大学に入って初めて「居酒屋」と呼ばれる店へ行き、飲み放題プランで「サワー」や「チューハイ」と呼ばれるものを飲んだ。一口目から気分が悪くなり、こんなもの二度と注文しないぞ、と思った。巨峰サワーのせいじゃない。ただ私が、ほとんどジュースみたいな甘さの、しかし後からしっかり蒸留酒の味が戻ってくるカクテルというのを、家庭で飲みつけなかっただけである。以来、親との晩酌で親しんだ酒を注文するようになった。年少の女子学生が初手からもっきり酒を啜っていると、あるいは一人しか飲まない紹興酒の小瓶に「ぬる燗で」と指示を飛ばすと、周囲は「おまえ……」と絶句する。続く言葉が「もうちょっと女の子らしい酒にしろよ……」であることくらい、私とて理解していた。理解しているからこそ試しに注文してみたのだが、私はこの手の酒、つまりカルピスサワーや梅酒ソーダやカンパリオレンジと、みずからの女性性との間に、結局あまり連関を見出せなかった。なんかキッツイ酒ください! と頼む私の傍らで、ビールを一、二杯で泥酔する人たちがいた。私にはそれが興味深かった。泣いたり笑ったり、いきなり怒ったり、割り勘の精算はおろかまっすぐ歩くこともできなくなっている姿。酔った途端に横暴な態度をとりはじめる先輩がいて、「酒の席で真面目な話なんかするな!」と、酒の席だからこそ盛り上がるはずの会話を強引に中断されたりもした。この人にとって、お酒とは不真面目なものなのだな、と不思議な気持ちになった。九州出身の学友たちにも驚いた。焼酎しか飲まない。私は当初、彼らがお国自慢の冗談として、示し合わせてわざとそうしているのだと思った。でも本当に、焼酎しか飲まない。誰の部屋へ遊びに行っても、買い置きは焼酎。どんな店でも、ボトルで焼酎。ほとんど飲んだことのなかった私は、渡されるまま盃をあけてしたたか酔う。目を回していると「東京者は酒が弱いなぁ」と笑われた。彼らにとって、お酒とはすなわち焼酎なのだな、とこれまた不思議だった。「井の中の蛙、大海を知らず」ではないけれど、親の厳重な監督下において差しつ差されつ「酒が強い」「酒が好き」と思っていたのとは、まるで違う世界があちこちに広がっていた。それが「20歳の頃」に知ったことだ。我が学友の間では下級生に一気飲みを強要するような蛮行もなく、極めて穏やかな宴席ばかりで、「まぁ、それぞれに、飲みたい酒を飲みたいだけ飲もうや」という雰囲気があった。それでもうっかり許容量を間違えたり、混ぜてはいけない酒をちゃんぽんで飲んでしまったり、ということは起きる。あるとき、酒に弱い酒好きの仲間が急性アルコール中毒に倒れ、救急車を呼んですぐ近くの病院へ搬送した。私ともう一人が彼女に付き添ったのは、その居酒屋に集まった中で最も頭がはっきりしていたからだ。同じメンツで飲むときは大抵そうで、みんなから会費を徴収したり、終電の時刻を告げたりする延長線上で、店側や救急隊員と折衝した。いくら飲んでも顔に出ないと言われる私とて、しこたまアルコール摂取した後に変わりはない。急激に酔いが醒めるような出来事が起こると、内臓にも瞬時に負担がかかる。自分が人前で醜態を晒したとき以上に「お酒には、懲り懲りだ」と思った。ムカムカと酒気が胃の腑を盛り上がってきて、「いやいや、まだこれからだ」と言われた気がした。お酒は、20歳になってから、が本番だぞ、と。点滴につながれた彼女の意識回復を待つ間、薄暗い病室にカーテンを引いて、「私、もう成人したんだな」と思った。今までさんざん教習所の中をブイブイ乗り回して、自信満々で怖いもの知らずだったのが、仮免許を取得してやっと公道へ出た途端に、いきなりとんでもないところで事故る。そんな感じだった。私たち成人の酒は、もう、自分で選んで飲むものだ。親と同じ銘柄の酒を注文したって、意味がまったく違うのだ。○自分で踏んづけ、一回転どうしてそうまで我が子に酒を飲ませたいのだろう。子供心に疑問だった。親たちはきっと、楽しみを分けてくれるという以上に、「共犯者」を育てているような気分だったのではないか。老親は、久しぶりに会うたび、酒が弱くなっている。子供の頃、ちょっと積極的に酒を勧められたのと同じだけ、私はいつも、ちょっとだけ積極的に、強い口調で勧告する。「あなたがた、もう若くないんだから、あんまり飲みすぎないほうがいいよ」……ずっと「共犯関係」を築いてきたから、我々子供には、彼らの許容量がよくわかる。そうして互いに見張り合いながら盃を重ねる。そういえば私は、教習所の仮免許を経て晴れて運転免許も取得したが、一度もマイカーを持たず運転はいっさいしない。人呼んで「ゴールデン・ペーパードライバー」なのだけれど、これも家庭内の「共犯」事情が絡んでいる。「外で好きなだけ飲んで食べて、帰りは子供がスイスイーッと家まで運転してくれるというのが、昔からの夢だったの! だって、あなたたちが小さな頃はいつも私が送迎係で、外食してもお酒が一滴も飲めなかったんだもの!」と母は言う。何事も酒を中心に回る我が家の子供はみんな自動車学校へ通わされ、末弟は実際、たまに母のアッシーを務めているらしい。親の都合を押し付けられて子供は育つ。私も渋々、免許は取った。けれど、いくら積極的に勧められようと車の運転はしなかった。だって死ぬのが怖いし、楽しいとは思えなかったから。同じ理由で酒盃の勧めのほうを断る子供も、きっといるのだろう。「大人になって、お酒が飲めるようになれば、きっともっといいことが起こる」というのは、嘘でこそなかったけれど、ちょっと夢を見すぎだったな、とも思う。多くの大人は、さながら「バカになるための水」として、今夜もたくさん酒を飲む。誰かの命令に従うストレスを発散させるために。他人の顔色を窺いつつ、見て見ぬフリして忘れるために。寂しがりや同士が、ただただ座敷でつるむためだけに。私が憧れていた「早くなりたい大人」って、けっしてこんなものじゃなかった。私だってもちろん、どんなに身体に悪くとも、醜態を晒すかもしれないとわかっていても、ただ、飲むのがやめられないってだけなのだ。ひとたび飲み始めると最後まで家に帰りたがらない、というのが私の一番悪い酒癖で、二日酔いに苦しむたび、「なんだか私、酒を飲むと子供みたいになるよなぁ」とさえ思う。大好きなチョコレートボンボンを頬張る幼い自分に、ものすごく冷ややかな目で蔑まれそうだ。<今回の住まい<学生最後の春休み、泥酔して渋谷から乗った東急東横線の終電で、終着駅の元町・中華街まで寝過ごして駅員に叩き起こされたことがある。手持ちの現金では東京の自宅まで帰れない。途方に暮れて深夜のコンビニをうろうろしていると、若い男性に声を掛けられた。そのまま横浜市金沢区にある彼の家までタクシーに同乗し、豪邸の客間の一室に泊めてもらい、翌朝、ご両親と四人で朝食を囲んだ。最寄駅まで送り届けてもらって最後まで指一本触れられなかったのだが、我ながらよくぞ無事だったなと思う。今考えると狐狸の類に化かされたみたいな話だ。「金沢区は善人の住む高級住宅地」というイメージを、私は生涯、持ち続けるだろう。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年03月06日---------------------------------------------------------------------------初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○おでかけしましょBBCドラマ『SHERLOCK/シャーロック』でアイリーン・アドラーがシャーロックに繰り返し送るメッセージの「お食事しましょ」は、「Let’s have dinner」。これだけ聞けば他愛ないが、縷々綿々と続くメールの一つは頭に「I’m not hungry」とつき、それが単なる食事の誘いではないことを窺わせる。「お腹すいてないの。お食事しましょ」。こんなふうに間接的かつ直接的なメッセージを送れたら、どんなにいいか。とはいえ、即座に文意を汲んで「やれやれ、物欲しげな女だ」とニヤニヤされるくらいなら、「空腹じゃないのに食事? ははは、君、おかしいねぇ」と一笑に付す男のほうが、よっぽど好もしい気もする。私自身そういうところがあるから、そう思う。「食事をするのが目的ではない食事をしましょう」。世の中にはそんな誘い文句があふれていて、しかし、気づかない人はまったく気づかない。「食事以外に目的があるのなら、最初からそう言っておいてくれよ!」と憤慨することだってある。いや、私だが。大学時代のある日、先輩にごはんをおごってもらった帰り道、「今夜のこれは、僕としてはデートのつもりなので、最後だけでも、手をつなごう」と言われた。この強引な物言いに不覚にもときめいて惚れてしまったのだが、同時に落ち込みもした。誕生日が近いからメシでもおごってやるよ、と言われて、わーいわーいと普段着でついてきて、ちょっといいレストランでたらふく食って、最寄駅に着いて別れる直前まで、私はそれをデートと認識していなかったのだ。ときめいて、落ち込んで、次におぼえたのは「だったら最初っからそう言ってくれればいいのに。デートだとわかってたら、もっとちゃんと、もう少し、デートのつもりで来たのに!」という、やり場のない憤りだった。とくに何が変わるわけでもないが、両者の間に「私たちは今、ただの食事でなく、デートをしている」という情報が共有されれば、少なくとも双方向性は生じる。あと、私がもっと甘酸っぱい気持ちにひたれる。そういう大事なことは事前申告してくれないと。だって、ごはんだけなら、誰とだって食べるわけだし。○若い心、はずむ今宵、囁くは「初めてのデートは、いつでしたか?」という質問に、だから私は答えを見出せない。初恋ならば、一人でするものだから、好き勝手に定義できる。ファーストキスというのも、行為の定義が明確だから、思い当たる節はまぁ、一つか二つしかない。それに比べて「デート」なる言葉の曖昧さたるや……。件の先輩とデートらしきものをしたのは大学一年生のときだったと思うが、それが「特別」というよりは、それまでの人生18年、身近にほとんど男性がいなかったからに過ぎない。長すぎる女子校生活を終えた私は、当時とにかく男性との接触に飢えていた。それは「モテたい」とは少し異なる、もっとプリミティブな気持ちだ。人類は男と女が約半数ずつのはずなのに、小中高12年間、我々は明らかに本来のバランスを欠いた状態にあった。カバンの中で片方に寄ってしまった弁当箱の中身をトントン叩いて元に戻すように、私はたくさん男友達を作った。すぐ隣に歳近い異性がいて、姿形も育った環境も私とはずいぶん違うけれど、話しかければ言葉が通じ、気が合えば親しくもなれる。そのことに静かに感動した。見知らぬ男子学生たちと円滑にコミュニケーションが取れると、外国人と気軽に交流する国際人にでもなった気分だった。異文化接触には齟齬もつきものである。みるみる増えた異性の友達はほとんどが彼女持ちで、彼らの恋愛相談を聞いてやる代わりに私は、「そういうのやめたほうがいいよ、男はすぐ勘違いするからさぁ」といった教育的指導を受け、さまざまな身の処し方を学んだ。色気の有無にかかわらず、当時の私はあらゆる意味で無防備だった。そうか、今後は男性と二人きりで何かを致すというシチュエーションも増えるのだな。と気づいてからが、また厄介だ。デートには、デートにふさわしい服装がある。あの日、先輩から二人きりで食事に誘われ、一昨日と同じジーンズを洗わずに穿いてきたのは、おそらく失策だったろう。バイト先の同僚に「あんたさ、接客業でスッピンはヤバいでしょ」と言われるのと同じことだ、明日から気をつけよう、二度と同じ過ちは犯すまい。私はもはや、男と女の両方がいる世界の住人だ。わかる、わかるぞ、間違っているのはわかる。だがしかし、「正解」が、わからない。ずっと欲しかったポケベルの代わりに、大学生協の店先で初めての携帯電話を買った。もっとずっと欲しかったノート型パソコンも購入した。厚み3センチ超、月賦で30万円くらいだったが、当時の最高スペックだ。試験に受かり、バイト代を得て、望むものがどんどん手に入る喜びをかみしめていた。一方で、まったき自由が与えられているのに、望むものが何かすらわからないジャンルもあった。「欲しい服を買う、着たい服を着る」の範疇を超え、「デートに誘われたら、それにふさわしい服装を用意して臨む」というのは、その典型事例だった。誰のために着飾るのか、何のために自分をよく見せるのか、そのために、どこにどうカネを使うのか。すべての選択はつながっていて、歯車が一つ足りなくても、思うように動かない。目の前のチャンスに無自覚で、到達したいゴールも不明瞭で、旗色も鮮明にせず、それで「言ってくれなきゃわからない!」もないもんだよな……と、今になれば思う。すべてお膳立てされて手に持たされた弁当箱の片寄りを、自分ではない別の誰かのせいにしていいのは、せいぜい18歳くらいまでだろう。制服のスカートを脱いだら、次はどんな服が着たいのか、着るべきなのか、好かれたくてやることも、嫌われたくなくてすることも、自分で選んで、決めないと。恋愛がうまくいかない原因を自分以外の誰か何かに探すより、まずは胸に手を当てて考えてみることだ。○盛り上がってきた、エイエイオーもうちょっとだけ大人になった今は、「デート」そのものが楽しい。憎からず思っている相手と二人きりで会うことが決まると、私はいつも「わーい、デートしよう、デートだー!」とはしゃぐ。たとえ相手が女性など、恋愛対象外の相手であっても。ただの待ち合わせを「デート」と呼ぶのは、そのほうが気分が上がるからだ。お食事しましょ、お茶しましょ。会うことそれ自体が目的ではない、なんでもない待ち合わせ。お互いたった一人の相手のために、予定を調整したり、店を選んだり、歩調を揃えたり、今のこの時間をちゃんと喜んでくれているか必死で心を読もうとしたり。そんなことが、くたびれつつも楽しいのである。逆に言えば、その楽しささえあれば、相手は何も恋人でなくともよい。そう感じるようになった。二人きりの外出に誘われる。私はすかさず「お、もしかして、デートですね?」と切り返す。「そうそう、デート、デート~!」と楽しそうに応える相手の姿を見て、うん、この人はやっぱり親しいだけあって、私と非常によく似た気質で、そしてやっぱり私のこと、何とも思っていないよね、と確かめる。同性の友達と、職場の同僚と、社会的地位のうんと高い人と、あるいは小さな子供と、カギカッコ付きの「デート」宣言を重ねていくと、「わーい、デートだ、わーい」と笑い合えばそれだけ、会うほどにお互いが恋愛感情から遠ざかっていく。下心つきの「初めてのデート」なら、こんなふうには誘わない。お礼がしたいとか、お祝いがしたいとか、ちょっと用事があるのでついでに声を掛けたらいつの間にか参加者が二人きりになっちゃってとか、何か理由をつけて相手を呼び出す。誘われたほうも誘われたほうで、「ねえ、これって、もしかして、そうなの……かな?」などとは到底言い出せず、何も訊けずに終わることもしばしばである。恋愛の射程距離にばっちりおさまったまま、三度、四度とこうしたことが繰り返されると、モヤモヤが頂点に達して泡とはじけ、五度目には私のほうから、こう切り出している。「次は私が店を選ぶから、また一緒にごはん食べようよ。わーいわーい、デートだー!」……うん、そうだね、デートだね、と応じられたらそこで、始まる前から恋愛が終わる。デートはデート、恋は恋。「んもー、事前に言ってくれればいいのに!」と頬染めていた若き日の私は、どこにもいない。最寄駅のホームに向かう階段を十数段のぼる間だけ手をつなぎ、改札のところでほどいた手をひらひら振って別れた。あの晩の出来事は今でもたまに思い出す。いつだって大切なのは、タイミングだ。誘う前から明言してしまうと、「デート」それ自体が持つワクワクに、恋愛が負けてしまう。といって、言わずにただ逢瀬を重ねていても、それはそれで恋愛に発展しない。「会っている最中に、これはデートであると強引に宣言してしまう」のは、なかなかいい手法だったのではないかと、今は思う。もちろん、まったく気づかない私に業を煮やして、こいつは鈍感だから口で言わなきゃわからないな、と気がついた挙句に、仕方なく言ったのだとは思うけど。○ただの最初、されど最初ところで数年前、一緒にごはんを食べた帰り道、恋人でも何でもない男にいきなり道端でプロポーズされて、それを受けた。もう二年近く一緒に暮らしていて、最近はよく「デート」をしている。ぽっかりお互いの予定が空いた晩に、「じゃあ、デートしようか?」「しよう、デートしよう!」と言い合って食事へ出かけていく。普段着で近所の店へ行って、同じ部屋まで一緒に帰ってくるだけなのだけれども、我々が二人で「これはデートだ」と定義したら、情報が共有され、双方向性が生じて、それは「デート」なのである。こうした新しい言葉の使い方(誤用とも言う)に慣れてくると、じつはそこにこそ、本質が隠れているような気にさえなる。突き詰めればデートとは、ただ「二人が互いに予定を合わせる」だけのこと。親のいないところで待ち合わせ、他の友達たちとの関係性とは別個に待ち合わせ、そうやって「初めて」の体験を迎える前後、その周辺に渦巻いていたあれやこれやは、単に不慣れだから生じていたことに過ぎないのではないか。その一喜一憂は、かつては楽しかったが、大人になると、正直ちょっと疎ましい。たとえば『ムーンライズ・キングダム』という映画があって、素晴らしい作品なので敢えて結末部分には触れずにおくけれど、物語の主軸となる二人の少年少女の壮大な駆け落ちは、あれは「デート」と呼ぶのもはばかられるほど、周辺のあれやこれやが多すぎる。一方で、あの幼い恋の冒険活劇が終わってしまったら、もう「デート」ができなくなるかというと、もちろん、そんなはずもない。「二人が互いに予定を合わせる」それだけで、わけもなくワクワクする気持ちに至るまでには、「初めて」のデートからあれやこれやを削ぎ落とし、紆余曲折、ずいぶん長い時間がかかるものだ。何度も何度も会っているうちに恋心のほうが昇華してしまうことだってあるだろうが、それでこそデート、という気もしなくもない。「初めて」が人生最高の「特別」な体験とは限らない、そんな「節目」なのかもしれない。<今回の住まい<山奥にある大学は、東京のはずれにある実家からもギリギリ通えてしまう距離にあったため、入学当初は片道一時間半、往復三時間以上かけて通学していた。キャンパスの近隣には何もなく、向かいに巨大なゴルフ練習場だけがあった。地方出身の学生たちは、その何もないキャンパスの近くに下宿して、何もない学生生活を楽しんでいた。ほぼすべての部屋を同じキャンパスの学生が借りているようなアパートもあり、宴会を訪ねて行くたび「トキワ荘ってこんな感じかな」と思っていた。そしてまた、トキワ荘に通いで来ていた漫画家たちの気持ちにも想いを馳せるようになった。住んでいないからこそ、住人たちの結束を殊更に眩しく思う。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年02月13日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○新しい世界で、俺はどうなるか志望大学からの合格通知を受け取ったのは、1997年12月のことだった。両親はあまりよい顔をしなかった。高校三年の二学期になってから初めて名前を知った私立大の新設学部へ書類を送り、たった一度の面接で入学を許可された私は、「なんか、志が低い」と評された。「アドミッションズ・オフィス(AO)入試」というこの制度は、今ほど一般的ではなかった。母校からの合格実績はたった一人、部活動と委員会で輝かしい成果を残した模範的優等生だ。職員室には「指定校推薦より狭き門なんだから、岡田さんみたいな生徒には無理」と推薦状の執筆を断られたりもした。私とて勝算があったわけではない。一般入試という正面扉が2月まで閉ざされていて、AO入試という窓が10月からふわふわ開いているのなら、寒い中おとなしく行列してドアが開くのを待つよりも、柵を越えて窓枠をよじのぼって侵入してみようと思ったまでだ。落ちて痛いのは私だけなんだから。当時はまだかなり高い評定平均値が求められたとはいえ、こんな考えの生徒が二人目の合格例となるのだから、優等生の先輩には悪いが「アホでも・オッケー入試」とは言い得て妙である。ほんの数月前までは関西の国立大学が第一志望だった。「今まで進学塾にかけた費用をドブに捨てて、倍近いお金を払って、その私立へ行くのね?」と算盤をはじく親の溜息がチクチク刺さる。売り言葉に買い言葉で、気づけば「うっせーな、全額自分で払やいいんだろ!」と言っていた。17歳の私は、そんな啖呵を切るのも楽しかった。来春になれば、一貫校のエスカレーターをようやく降りられる。しかも卒業までの三ヶ月間、好きなことをして過ごせる。真っ先にやりたいのは「アルバイト」だ。私は学びながら働いて稼いで、ゆくゆくは学費も自力で返済して、自分で自分の未来を作るのだ。○怠けてりゃパンも買えまい自立への第一歩、とはいえ初めての働き口も結局は親に世話してもらった。知人の家で男子小学生の家庭教師、謝礼はたしか、2時間で5000円くらい。「東大生が受験生を教えれば2倍の額なのに」と嘆かれて、「援助交際すれば10倍の額だね」と口答えした。たしかに割のいいバイトだが、期待したほどの高揚感はなかった。岡村靖幸の聴きすぎかもしれない。薄給でいいからもっと面白い仕事がしたいと考えて、近所のベーカリーレストランでウェイトレスを始めた。私にとっての「節目」はこちらのほうだ。店全体を仕切るのが店長、接客の長は副店長、キッチンは料理長の管轄で、彼ら三人の社員から指導を受けて、仕事の心構えを学んだ。手間を惜しまず、いついかなるときもまずお客様のご要望を最優先に据えろ。ただしワンウェイ・ツージョブ以下の非効率な動き方はするな。呼ばれる前にお客様のお側へ出向き、許されるまでお食事を妨げるな。待ち時間も姿勢は崩すな。せかせかするな、ゆっくり動いてテキパキやれ。「ありがとうございます」に過去形を使うな。見えない場所でも指先まで神経を張り詰めろ、お客様の口に入るものに「これでいいや」はない。不用意な言動がお客様の大切な時間を台無しにすると心得て、絶対にそれをするな。「ただ皿を運ぶためだけにおまえを雇っているんじゃない」と言われた。私こそがこの店のホスピタリティそのものである、という立ち居振る舞いを心がけ、理念の体現者たれ、と。平日ランチタイムはいつも百戦錬磨のパート主婦が陣頭指揮を執り、平日夜は若いスタッフが中心でサークル風、ロングシフトの週末は昼も夜も同じ釜から賄い飯を食いつつ、ぶっ続けで働いた。時給が上がり、レジを任され、先輩から「あなた、動ける子ね」と言われると嬉しかった。たまに失敗すれば死ぬほど落ち込んだ。こんなふうに誰かに背筋を伸ばされたことはなかった。こんなふうに己の行いやその成果を誇らしく思い、責任を感じたこともなかった。両親はまたしてもよい顔をしなかった。大学進学を控えた娘が鉄板とパン窯の焦げた匂いにタバコ臭がまじったねばつく空気をまとって帰宅し、800円の時給が30円上がったと喜んでは、頬を上気させながら「お客様の喜びが私どもの喜び」などと唱えはじめたので、「新興宗教にでもハマッたみたいだ」と評された。だとすれば、私はとてもよいところに「入信」したと思う。そこは学校以外に私が初めて所属した社会集団であり、スポーツや稽古事で厳しくしごかれた経験がない私にとって、初めて体験する「体育会系」のプレイフィールドだった。洗練されたマニュアル通りに立ち回り、反復と継続によってキレを身につけ、徐々に上達して理想のフォームに近づいていく喜び。基本の動作にちょっとした機転をプラスすることで万事がスムースに連結していく喜び。互いに声を掛け合い、一人のミスを全員で補いながら完成度を高めていくチームプレーの喜び。個を捨てて大いなるオペレーションの一部に徹し、最高のパフォーマンスを発揮することで、最終的にはまた個として賞賛される喜び。今思えば奇跡のようだが、この店舗にはパワハラも根性論もなく、ただ、素晴らしいチームと論理的な戦術と、合理主義に裏打ちされたしなやかな連帯感があった。○持ち場につけ、抜かるなよもちろん家庭教師のバイトも続けていた。高校出たての小娘が、豪邸に住むお金持ちの大人から「センセイ」と呼ばれ、模範解答の冊子を読み上げながら子供と一緒に問題集を解き、ベビーシッターに毛が生えた程度の世話を焼いて、勤務態度への評価も技術の向上もないまま、高額の月謝やボーナスをもらう。楽勝である。でも、エプロンの腰紐をコルセットのようにきつく締め上げて背筋を支え、皿が冷めることを断固許さないキッチン勢にどやされながらフロアを駆けずり回るあの興奮は、そこにはなかった。私はもっと、不特定多数のお客様と一期一会の勝負を切り結ぶような仕事がいい。毎日毎日、新しい相手に新しいパンを焼き新しい皿を供して、次に何が起こるのかまったく想像のつかない職場がいい。一方で、収入源を一つの職場に頼り、毎日みっちり勤めるのも好きではなかった。ウェイトレスの後はバーでギャルソンを始め、家庭教師は予備校のチューターと個別指導塾の講師に切り替えて、クレジットカードの営業や、スーパーの実演販売、シンクタンクの調査員、ウェブサイトのコピーライターもした。大学へ上がると学業が忙しくなったので、月数日の拘束で数万円、と基準額を決めてそれだけ稼ぐようにした。たとえば家庭教師のバイトだけを週何コマも回していたら、まさか自分がアボカドの実食販売にあれほどの才覚を発揮するとは知らずに一生を終えただろう。東中野のスーパーの片隅で、もしかしてこれが天職か、とさえ考えた。でも、きっとまだまだ、そう思える仕事が世界中にたくさん転がっているのだろう、オラ、ワクワクしてきたぞ、とも考えた。私は自分が生きていけるだけのお金を自分で働いて手にしたいだけだった。大学へ通うとか趣味を楽しむとか、そんな自由を買い取りたいだけだ。もし病んだり老いたりしたら誰かのお世話になるだろうけど、それを雇うお金だって今から貯めておきたいと思っていた。でも一方で、せっかくなら向いていて楽しい仕事のほうがいい、と欲を出すようにもなった。楽して稼ごうと思えば逆に、自分の時間やスキル、可能性を無駄にしていたと思う。それぞれのバイト先で、それぞれに魅力的な人と出会い、それぞれに面白いことが起きた。いつかこのことをどこかで書こう、と思いながら働いた。そのうち一つに編集アシスタントのバイトがある。出版社の人に「今すぐにでもプロの編集者になれるよー」とおだてられたことが、現在に結びついている。○仕事なければそれだけ命が縮む一度に二つまでしか皿を運べず音を立てて客の前に投げ出すウェイトレス、飲み終えると同時にひったくるように空いたグラスを下げるバーテンダー、家畜の群れでも扱うような態度の入場整理係、棒立ちで闇雲に宣伝文句を怒鳴っているだけの売り子。こんなに一生懸命働いているのにどうしてこんなに生活が苦しいんだ、という顔をして、満員電車で他者を押しのけるときだけ瞳をギラギラ輝かせる社畜たち。私たちの多くは、本当は、働きたくなんかないんだ。と人は言う。男も女も老いも若きも、生計のために仕方なく働いて、不当な待遇で使い捨てにされて、好きでもない、やりたくもないことを強いられて一生を終えるのだから、不平不満を顔に出して生きていて何が悪い、と言う。一方で内閣府が、若い女性の専業主婦願望が高まっていると言う。ほらみろ、外へ出て働きたがる女性のほうが少数派じゃないか。やっぱり女は家庭に入るのが一番だ。そんなはした金が何になる? いったい誰が子供の面倒を看るんだ? 家族の幸福を顧みず働くなんて虚しいだけだろう。私には、「最近の若い女性」の「安定志向のあらわれ」と評されるこの専業主婦願望が、正直よく理解できない。みんな本当にそう思ってるんだろうか? どう考えても共働きのほうが生活安定しそうだが。もしかして誰かオッサンに将来の不安を煽られて、誘導尋問に引かれて適当に選んだ回答を、少子化対策に都合よく利用されてるだけなんじゃないの? もし目の前に専業主婦志望の10代女子があらわれたら、「騙されたと思って、まずはバイトしてごらんよ」と言いたい。外へ出て働く仕事も、夫を支えて子供を産み育てる仕事も、「やってみるまで向き不向きがわからない」のはまったく同じだ。ひょっとしたら彼女たちは、「主婦」も「仕事」であるということを、巧みな誘導尋問でごまかされてやしないのか。内でも外でも好きな職種に就けばいいと思うけど、たくさんあるはずの選択肢の大半を、誰かにあらかじめ取り上げられてやしないのか。もちろん別の集団には「育休期間くらい、主夫業に専念してみてごらんよ」と言いたい。話はそれからだ。17歳のとき、近所のベーカリーレストランに、初めてバイトの面接に行った。応対した副店長は私の履歴書を一瞥し、「高校生。今までに、働いたことが、一度もない……」とつぶやいた。厄介なのが来たな、という表情だった。数ヶ月後、別店舗へ異動が決まった彼は「おまえはデキる奴になったな。これからも、自分の仕事を、頑張れよ」と励ましてくれた。あれはきっと、ウェイトレスのことだけを言ったのではない。私たちは誰もが、生活のために仕方なく、貴重な時間をパートに分けて切り売りしながら生きている。でも一方で私たちは、労働によって生かされてもいる。働くことを奪われたら、私はきっと死ぬほどつらい。食いっぱぐれるというだけじゃなく、もっと大きな意味で。初めてのバイトが、そんな職業観を私に刷り込んだ。「神戸屋」チェーンでお代わり自由の焼きたてパンを食べると、いつもそのことを思い出す。私が「働かざる者」から「働く者」になった節目は、あのギンガムチェックのエプロンとともにある。<今回の住まい<実家から徒歩数分の店でバイトを始めるまで、私には「近所の友達」というものがいなかった。一貫校に通うとはそういうことだ。幼稚園の同窓生や学校の級友に家の近い子はいたが、それだけで親しくなるものでもない。大学が近いとか寮があるとか、縁あって近所に住んでいる歳近いバイト仲間と飲みに行くとき、「みんなで集まるのに便利」という理由で沿線すぐ隣駅の店が選ばれて、なんだかそれが嬉しかった。渋谷や新宿ではなく、ここが便利。今はもうバラバラの人生を歩んでいるけれど、私にもほんのひととき「地元」があった。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年01月23日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○二十歳過ぎれば、ただの人自分の価値は、自分で決める、自分が決める。子供の頃はそう思っていた。進歩的な家庭教育の賜物であるとも言えるし、井の中の蛙、幼さゆえの思い上がりであるとも言える。たとえば子供の頃のほうが、テストの点数をずっと気にしていた。私にはこの漢字テストで100点満点を取る力がある。私は私の価値をそう認識している。けれど実際には取れない。どうしてそんなことが起こるのだろう? 私の能力はもともと90点分しかなくて、足りない10点分の価値は、私が見誤っていたのだろうか? なぜだ、なぜなのだ……!大人になった今は、小学生でも間違えないような計算ができなかったり、中学生のとき暗記した世界戦争について何一つ憶えていなかったり、赤点で廊下に立たされるような出来事がいくら続いたって、結構へっちゃらである。泣きたくなるほどへっちゃらで、だからヘラヘラ笑っていられる。神童や天才児だったわけでもないのだから、満点なんて取れてもマグレのうちだ。過去の出来事についてもそんなふうに考えが改まった。自分が愚かな怠け者であること、ちょっと何か身につけても全部ザルのように抜け落ちてしまうこと、同じ失敗を繰り返すこと、隣の誰かよりも劣っていると思い知ること、そのどれもが、許せなかった幼い一時期がある。本来ならば100点満点が取れたはずなのに、いったい何が私の価値を減じさせたのだろうか? と考えて、漠然と他者に責任転嫁することもしょっちゅうだった。自分の価値は、自分で決める。自分がどんな人間かは、自分が一番よくわかっている。物心ついて、自意識が肥大し、上り調子でそんなふうに考えている時期がたしかにあった。ずっと右肩上がりだったその線グラフが、ポキリと折れた瞬間もあった。折れてみた後で初めて、今まで登っていた坂道がピークを迎えたのだと気づく。○あねさんと生徒会長女子校の文化祭は部外者の入場を厳しく取り締まり、在校生の署名入りチケットがないと校門をくぐることも許されない。色気付いた生徒たちは、家族や親戚の分だと偽って発行したチケットを、恋人や男友達に渡して招待する。我々その他大勢の生徒はとくに呼ぶ相手もいないのでチケットを余らせてしまい、彼氏持ちから「どうせ使わないなら」無記名のまま譲ってほしいとせがまれる。こうして非モテが定量化される。もちろんタダでとは言わない。こうして非モテは換金もされる。誰か雌のリア充の手に渡ったチケットが校外の誰か雄のリア充に手渡され、文化祭当日は結構な数の血気盛んな男子たちが、禁を破って女子校構内をうろつくこととなる。高校一年生のときの文化祭といえば、私は文芸部の部長として展示の設営や接客、同人誌の頒布に追われて忙しく過ごしていた。そしてその合間に、生まれて初めて他校の男子にナンパされた。雌のリア充から雄のリア充の手に渡ったチケットが、巡り巡ってダブついて、どこかで非リア充の雄にも行き渡ったのだろう。という感じの男子だった。詰襟の着こなしは可もなく不可もなく、黒髪に眼鏡で勤勉そうな、ごく普通の冴えない男子高生だった。ルーズソックスもうまく履きこなせていない冴えない女子高生だった私に言われたくないだろうが、彼が私に目をつけたのも、何となく理解できる。自信満々の笑顔とともに私を呼び止めたその男子高校生は、まず懐から名刺を差し出した。名前の左上には、とある有名な大学の、聞いたことがない付属高校の、生徒会長であると書いてあった。我が校の文化祭もちょうど近々開催なので、今日は「取材」に来たのだと、彼は言った。背後にはもう二人の男子生徒がいて、おそらくは副会長と書記だったりするのだろう。三人組の男子に文芸部の展示を適当に解説して回った後、なかなか立ち去ろうとしない生徒会長が、「取材のお礼に我が校の文化祭へも招待したいので、連絡先をくれないか」と言ってきた。仕方なく、適当な紙に自宅の電話番号を書いて渡した。控え室でメモを作っていると、休憩中の後輩たちが目を輝かせながら「先輩、今の人にナンパされたんスか!」「どこの高校ですか! デートするんですか!」「電話番号、渡すんスかああああ!」と食いついてきた。そのとき急に、素っ裸で往来に立たされたような恥ずかしさが襲ってきたのを、よく憶えている。当時の私は自分自身のことを、男でも女でもない存在だと思っていた。制服以外でスカートを穿く機会はなかったし、靴やカバンなどもメンズブランドをよく買って、カラオケでは男性ボーカルばかり歌っていた。男になりたいとか男物が好きだというのではなく、女になれないし女物に違和感があったから、そうなった。女子校生活が10年も続けば、よほど注意深く「女の子らしさ」を維持しない限り、自然と性別があやふやになる。学内では心にサラシを巻いて「男役」として振る舞っていた。そのほうが生きやすかったからだ。私と同じく、あまりの男っ気のなさに自分が女であることを忘れてしまったような後輩たちに聞かれた「ナンパされたんスか!」は、そのサラシがほどけていくような言葉だった。○恋とは似て非なるものああそうか、本物の人間の雄がやって来て、雌としての私を値踏みして、それで連絡先を交換しようというのだな。これは、女子校の中で「男役」である私の下駄箱に同性の後輩たちがラブレターを投げ入れるのとは、別の現象なのだ。不思議な感覚だった。自分ではまったく受けたつもりのない試験の、合格通知だけをいきなりもらったような気分である。周囲は祝福してくれるが、何を喜んでいいのかわからない。100点満点を取るなんてすごいわね、と言われたって、私にはそもそも、自己採点の基準がない。「男役」としてのポテンシャルは自覚していたけれど、「女」としての価値を自分で測定してみたことがなかった。普段は滅多に接する機会のない同世代の男子と偶然親しくなって、見知らぬ学校の文化祭に誘われる。そのこと自体はとてもワクワクする。声を掛けてもらって嬉しかったし、行ったら楽しいに違いない。恥ずかしく思ったのは、別のところだった。ここで私は、この男の品定めに女として応じたことになる。他者に決められた自分の価値を、承諾することになる。ああそうか、学校で繰り返し受けさせられるテストも、素人がアイドルに生まれ変わるというオーディションも、トレンディドラマで観る恋愛も、全部、そういうことだったのか。私の価値を、私以外の誰かが決める。人生はその繰り返しなのだ。100点満点が取れるかどうかを決めるのは、私自身じゃなくて、私のことをまったく知らない、別の誰かなんだ。そう思った途端に、恥ずかしくて顔が赤くなったのは、自分がその年齢になるまで、そんな世の中の仕組みにほとんど無自覚でいたからだ。後輩たちがはやしたてるように、そのナンパな生徒会長が異性としてカッコよかったからではない。いやむしろ、そこまでカッコよくないから赤面した。えー、あいつに決められたらたまったもんじゃねーよぉー!まだ携帯電話もない時代、流行りのポケベルも持っていなかった。何度か自宅に電話がかかってきて、そのたびに大騒ぎして親から受話器を奪い取り、少し話をしてから切った。もう連絡してこないでほしい、と私から断りの電話を入れたのは、新宿西口の公衆電話からだった。ドキドキしながら初めてこちらから電話を掛けると、向こうの家でもまったく同じ、親と子の大騒ぎが起きていた。これ以上、あなたの求めには応じられない。くどくど伝えると、「そうですか、わかりました」と言って、あっけなく電話は切れた。彼はあちこちの文化祭で、もっと大勢の女の子に数えきれないほどの名刺を配っていて、自分はそのうちの一人に過ぎないのだということがよくわかった。向こうはただ、手当たり次第に女子をナンパしただけだ。自分から積極的に電話もしてこなかった私のことなど、メモに走り書きした名前さえ忘れて応対していたかもしれないのだった。かくして、デートもキスもセックスも何もなく、ただただ「ナンパ」の象徴としてのみ、この男は私の人生に一石を投じたのである。同時期に、もっとずっと好きになった片想いの相手というのもいるのだが、そんな「節目」は私だけのものとして取っておく。○大人になるほど、わからないこの生徒会長を境に、あちこちで「ナンパ」を受けては、「私の価値が、この男に決められることを、承諾できるだろうか?」と我が身に問うてきた。自分から惚れ込んで好きになった男の子に、自分の価値を少しでも高く見せたい、40点分しかない能力を120点くらいだと錯覚させたい、と思い悩んでいるときの気持ちとは、まるで正反対の冷たい感情だった。君が何者でも構わないから、僕に束の間の楽しみを提供してくれ、とお茶に誘ってくるのが、ナンパの基本姿勢だ。生涯を共にする運命の相手を探す男など、道端には滅多にいない。その後、大学へ進学すると、今でいう「意識高い」系の学生がうじゃうじゃ集まっていて、校章や校旗の図版、サークルの肩書きなんかを刷り込んだ手作り名刺を持ち歩いては、社会人の真似事をして配り合っていた。私は彼らのことが大嫌いだった。どうしてまだ学生のくせに、誰彼構わず名刺を渡すんだ。本当にその人と深く知り合いたいと思っているなら、相手の価値基準に合わせて個別に柔軟にアプローチを変えていくべきだろう。自分でもわからない自分のことを、ゼロから丸ごと理解してもらえるように。自分で自分の価値を決められると考える、あらかじめ価値を釣り上げて売り出すことができると考える、オールマイティーの最強札を持っていると信じて疑っていない人が、見知らぬ女の子たちに、まず生徒会長の名刺を出す。そして「僕に選ばれた君が、僕の価値を決めてくれていいんだよ!」と言うのだけど、よく考えてみるとその物言いは、初手から他者による相対評価に聞く耳持たない態度である。自分の価値は、必ずしも自分だけで決められるわけではない。あちこちで好き勝手に値踏みされ、品定めされて、自分でもびっくりするような評価が、ついたりつかなかったりする。自分のことは自分が一番よくわかっている、なんて幻想なんだな、と思った。他人からどんなふうに見えているかなんて、わかっているようで、わかっていない。そして、お互いに対する認識のズレを手探りで少しずつ調整して合わせていく作業は、おそろしく手間がかかる。「ナンパ」を境にすっかり自分の絶対的価値がわからなくなってしまった私は、初めて会う人に手渡す名刺に、何をどこまで刷り込めばよいのか、大人になった今でも、よくわからない。他者に価値を判断してもらう、そんな行為のやりとりを意識しすぎたせいか、高校一年生くらいから突然、試験でやたらと緊張するようになり、成績が下がった。「私なら、きっと満点が取れるに違いない」とテストに臨んでいた子供の頃の無根拠な自信を、今は懐かしく感じるばかりである。<今回の住まい<五人家族で住む小さな一軒家で、犬を飼い始めたのはこの頃だった。妹がどうしてもと欲しがって連れてきた小さな仔犬が、ぐんぐん大きくなって最終的には老いた父親のよき相棒となり、数年前、大往生した。普段は幸福そうにおとなしく寝てばかりいるのだが、数年に一度、散歩のときにド派手な大脱走を試みるという不思議な癖を持っていた。玄関先の壁紙をかじってボロボロにしたこともある。映画『ショーシャンクの空に』を観ると彼のことを思い出す。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2015年01月09日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○エレキギターは不良の楽器母校の中高一貫女子校は、校則らしい校則もない自由な校風だったが、ところどころ謎の禁則があった。その一つが、「中学一年生からクラブ活動は必須、ただし軽音部は中学三年生以上のみ入部を許可する」というもの。文化祭でバンドを組むのに憧れていた私は、出鼻を挫かれる想いだった。納得できない、吹奏楽部とか聖歌隊とかじゃないんだよ、中一から軽音部に入りたいんだ、ギター振り回して壊したりキーボードに乗って暴れたり、屋上か歩行者天国でゲリラでギグしてポリ公と流血沙汰になりながら武道館そして東京ドームへ駆け上がり失神するファンにダイブしながら脳内麻薬にラリッて30歳で死ぬような部活がしたいんだ!……と当時の心情を書いてみて、「なるほど、中二病の諸症状が落ち着く年齢までみだりにエレキを許可しない学校は正しい」とわかった。今わかった。1994年に14歳の中学三年生になってみると、私は音楽を「聴く」ほうに忙しく、「演る」軽音部を志望する気持ちはだいぶ萎えていた。前年末にD-projectのラストアルバムが出た感傷に浸る間もなく、4月にTMNの終了宣言、trfがアルバムを二枚出してEUROGROOVEがデビュー、スカパラは『FANTASIA』、坂本龍一は『sweet revenge』で井上陽水は『永遠のシュール』、LUNA SEA「ROSIER」大ヒットからのLSB、L’Arc-en-Cielがついにメジャーデビュー、ORIGINAL LOVE『風の歌を聴け』と小沢健二『LIFE』とTHE BOOM『極東サンバ』、年末に出たのがNOKKO『colored』、「尾崎家の祖母」がCD化したのも、テレビ番組で鈴木祥子に一目惚れしたのも、この年だ。同じ学年のオシャレで社交性の高いロック少女たちが軽音部に入るとの情報も耳にして、昼の弁当を食う仲間も探せずにやおい同人誌の貸し借りと執筆に明け暮れる自分が、彼女たちと一緒に肩組んでステージに立つ姿が到底想像できなかったのもある。NHK『土曜ソリトンSIDE-B』が始まるのはもう1年ほど後のことだが、「イエモンのコピーバンドとかじゃなく、宅録系の部活動があればいいのになぁ」なんて思っていた。○少し気が多い私なりにタワーレコード渋谷店がまだ東急ハンズの向かいにあった頃で、最初はavex traxの無料配布冊子『beatfreak』が欲しくて通っていた。ジュリアナ死せどもディスコは死せず、行ったこともないクラブの名を冠したコンピレーション盤を聴きあさる毎日だ。あるとき奥のほうのこぢんまりした一角に立ち寄ると、煌びやかなダンスミュージックと違って手作り感満載、おそろしく地味でどことなくフレンチで見るからに喧嘩の弱そうなジャケットばかり並んだコーナーがあった。その試聴機で聴いたカヒミ・カリィのマキシシングルが、私と「渋谷系」との出会い。あの街が渋谷系ムーブメント一色に染まっていたなんて、あまりにも美化されすぎた思い出ではなかろうか。現実にはWANDSとZARDにtrfが加わる三国無双を、夏はTUBEが抱きしめて、定期券で途中下車する門限20時の中学生は、同じ街のいつどこでブギーバックがシェキラッているのか皆目見当もつかなかった。音楽雑誌の解説を頼りにサンプリングの元ネタを学び、好きなミュージシャンが私淑するミュージシャンを辿って聴き、国境も時代も越えて、ただ無料試聴機の前で毎日毎日、空想地球一周旅行をしては19時台の地下鉄で帰っていたよ。人生において「しないこと」を積極的に決めるようになったのは、この頃だ。たとえば、どのバンドのファンクラブにも入会しない。理由は、お小遣いが限られているから。あるいは、ファッションを自己表現に用いない。理由は、セントジェームスのボーダーを着てボンテージパンツにレペットのバレエシューズを履いて、生写真でデコった黒いミニトランク持ってテクノカットの頭にポークパイハットを被る、わけにはいかないから。中二病の初期症状が抜けたこの時期、同時並行で雑食的に音楽を聴くことで気づいたのは、「私のような人間は、どうやら、周囲に私しかいないようだ」ということだった。教室の級友たちは大抵、好きなバンドを一つ二つに絞り込み、全身全霊でそのバンドを追いかけ、肌身離さずグッズを身につけていたが、私はどうしてもそうなれない。だからどんなにヴィジュアル系を愛しても「奴隷」を名乗ったりはできないし、どんな服装を纏ってもちぐはぐに感じる。しかしながら、その曲がりくねった垢抜けない分裂気味な道筋こそが、私が私である所以だろうとも思った。「何者かのレプリカになりきろうとして、それが無理だと諦める」年頃だったのかもしれない。そういえば、コスプレも早々に「しないこと」リストに入れた。この世のものではない別次元の誰かに完璧になりきったその後、さて自分の手元に何が残るのかと考えると、空洞を覗き込むような恐怖があった。もしあのとき、勇気を出して空気を読まず、軽音部に入部して不良の音楽を始めていたら。手を差し伸べる側(最近は「咲く」って言うんですってね)でなく、スポットライトを浴びる側に立っていたら。机上でペンネームを名乗るだけでなく、公衆の面前で自分ではない誰かを演じる快感をおぼえていたら。それはそれで人生が大きく変わっていたに違いない。けれど、私にとって14歳は、何かを「始める」節目ではなく、さまざまなことを「しなくなる」節目だった。○継続は力、断絶は便所飯「する」「やってみる」「続ける」も勇気の要ることだが、「しない」「断る」「やめる」というのも、それはそれで大変だった。本当はしたかった、でも、やらない。本当は続けたった、でも、終わらせる。それでいいんだ。それがいいんだ。自分の中で何か辻褄が合わなくなると、理論武装に必死だった。購買で買う昼食のパン代をこっそりケチってCD代にあてる、みんなが教室で弁当を囲む昼休みを空腹に耐えて一人で適当にやり過ごす。放課後も誘いを断って一人で帰ってヘッドフォンを耳に当てる。生活から無駄を省いて合理化すると、真っ先に消えていくのは最も非効率なもの、すなわち友達と過ごす時間だ。私のような人間は、どうやら、私しかいないようだ。「ボーカル以外全部募集」しても、誰ともバンドが組めないようだ。それぞれと少しずつは話が通じるが、すべてを完璧に分かり合える相手は見つからない。それでいいんだ。それがいいんだ。わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ。あっという間に、夢に見たバンド結成やメンバーとの連帯とはずいぶん遠いところまで到達してしまっていたが、時すでに遅し。購買で一番安かったのは小ぶりのミルクパンで一個40円くらい、昼食代わりにしたときの腹持ちも値段も、だいたいビスコと同程度。たまにレストランで似たものを供されると、今もスカスカと孤独な制服の味がする。ちょうどその頃、たまたま帝国劇場で鹿賀丈史主演のミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、「こんな芝居を作りたい」と感動に打ち震えた。同じ芝居を観て、私も舞台に立ちたい、パフォーマーになりたい、と志す少年少女も大勢いただろうけれど、私はジョン・ケアード演出の回り盆とバリケード、そしてまばゆい光のカーテン、あのすべてを客席からいつまでも観ていたいと思った。本音を申せば、子供の頃から極度のアガリ症なのである。とにかく本番に弱く、いくら練習しても人前で実力を発揮できたためしがない。学芸会ではたった一つの台詞をトチるし、ピアノの発表会ではうっかり押さえた不協和音に硬直するし、そのことにいちいち凹んで今なお立ち直れていない。自分を実物以上によく見せようという邪心が強すぎるのだろう。つねに人の目が気になって、無心で役を演じきるとか、観客に身を委ねて心を裸にするとか、そんなことがうまくできないのだった。誰の目も及ばないところでなら、アガらずに物事に没頭できる。表舞台がうまく運んで熱狂に包まれるその裏で、スーッと冷静な俯瞰視点をもって全体を把握する瞬間が訪れる、その感覚が好きだった。演出スタッフならまだしも、ロックバンドとか、舞台役者とか、明らかに向いてないよね。と、自分自身をスーッと俯瞰できるようになった。選ばなかった、選べなかった、その「節目」の先はわからないが、英雄に自己を同一化させるような感覚を、中一で抱いて、中三で捨てたのだ、というふうにも解釈できる。同じものになりたくてステージへ手を伸ばすんじゃないんだな。自分とは違うものだから、違うものとして、さらに憧れが強くなるし、もっと欲しくなるんだ。自分から一番遠くにある存在が、一番パワーをくれるんだ。○サーチライトのつもりで2014年12月17日、日本武道館でTHE BOOM最後のライブを見届けた。13歳のとき夢中になって約20年追いかけてきたロックバンドが、デビュー25年の歴史に幕を下ろす。最後のMCでは、ちょうど光と闇について触れられていた。「最初はプロの音楽家になりたくて、でもその方法がわからずに、真っ暗闇の中を必死でもがいていた。ひとたび光の中へ引き上げてもらうと、今度は自分たちの浴びるスポットライトがあまりにも眩しくて、何も見えない中を走って突き抜けるしかなかった」と。大人になった今、約20年前のことを思い出すと、とても重要な年だったのだなぁと感じる。1994年は今も大好きで聴いているいろいろな音楽がリリースされた年で、子供が大人に切り替わる14歳という年齢の私は、そのすべてを満遍なく愛そうと努めた、分裂気味な日々だった。「青春」という言葉の意味や長さの解釈はさまざまだが、「したこと」より「しなかったこと」のほうを多く思い出したりする。全然オシャレしなかったな、恋愛もまったくしていなかった。親に許されずライブにも行けなかったし、いきなり光を当てられるような晴れがましい体験もなかった。陽の当たる場所を歩く思い出がまったくない、根暗で地味な毎日だった。自分はスポットライトを浴びる人間にはならないのだろうと諦めていた。でも、絶望もしなかった。今はただ時間が足りないだけ、ミルクパンとビスコで飢えをしのぐだけ、でも大人になれば、もっといいことが待っていると信じていた。私には到底手が届きそうにない、光の中をがむしゃらに突き抜けていくような音楽が、それを約束してくれていた。好きなバンドを一つか二つに絞り込んで、他への浮気は「しない」と決めていた友達の心境だって、きっと似たようなものだったろう。20年経った今も、アガリ症はまったく治せていない。でも、与えられた場所でこちらに向かって照らされた光には、全力で応えたいと思う。仕事を持つようになって、誰も見ていないところでおそろしく地味な裏方作業をするときでも、まるでステージに上がっているような高揚をおぼえることが幾度かあった。昔の自分に教えてあげたい。選べなかったチャンスも、選ばなかった道もあるけれど、自分ではない誰かからもたらされたパワーやタイミングには迷わず乗って行こう、「闇に隠れる」こと、「光から逃げる」ことは、絶対に「しない」ぞと、そんなふうに思っている。<今回の住まい<思春期になっても個室が持てなかったので、姉妹共同の子供部屋にバリケードを築いていた。低めの本棚をぐるりと並べてプライベートスペースを作るのに熱中していた。ミュージカル部に入部し、スカート丈をどんどん短く、眉をどんどん細くして、安室奈美恵と同じ厚底ブーツを履くようになった二歳下の妹が、『レ・ミゼラブル』の貧乏学生よろしく砦に立てこもって出てこない姉の私につけた渾名は「穴熊」。今ならさしずめ「雪の女王」だろう。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年12月19日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○名前をつけてやる入江紀子の漫画『のら』の主人公には、名前がない。天涯孤独で戸籍や住民票を持たず、住所不定かつ年齢もよくわからない、野良猫のような女の子が、さまざまな人の日常生活に「居候のプロ」として一時的にもぐりこみ、そしてまたふと居なくなる、短編連作集である。私が初めて読んだのは創刊間もない『コミックガンマ』誌上で、時系列を辿るとおそらく12、13歳の頃だったと思う。中学生になりたての時期、作中にもたくさん登場する普通の少年少女と同様、漠然と家出したくてたまらない時期だ。生まれた家庭と育ての両親に縛られた生活を捨てて人生をリセットし、自由気ままに生きられたらどんなにいいだろう、と思っていた。そして作中の人々と同様、「のら」が語る不思議な言葉に耳を傾けてその考えを改め、結局は自分の人生に戻っていく。「名前、ないの。すきに呼んで」――コミュニケーションの第一歩として名前を問われると、「のら」は大抵、こう答える。作中の登場人物たちは、訳アリで本名を隠したがっている家出娘だろうと勝手に慮り、適当な名前をつけて呼びはじめる。連作を読みつぐ読者だけが知っている。彼女には、本当に、故郷も家族も名前も、何もないのだ。それはつまり、自分自身の人生を持たないということでもある。フーテンのフー子と呼ばれれば出たきり戻らず、男と対になる名前がつけば彼に恋をする。小説に書かれて広く読まれるようになると、また本人の姿が消える。まるで最初からノンフィクションの現実世界には存在していなかったかのように。誰かの生活にほんのちょっと割り込んで好意に甘え、どこにも根を下ろさずに、宿のない日は一晩中、街を歩き続ける。車寅次郎のような男が惚れる男の放浪者と同じようにはいかず、「のら」は野宿中の公園でレイプされたり、引きこもりの家に軟禁されたりもする。彼女のように生きていけたらいいなぁと憧れる一方で考える、もし本当に私が彼女なら、きっと早々にくだらない理由で野垂れ死にするだろう。なぜなら、私には私の名前があるから。それはすなわち、私は私自身の、一続きの人生を持っているということである。始まりも終わりもなく、たくましくて儚く、おそろしく強運な「のら」のブツ切れになった人生とは違い、私には、ずっと呼ばれる続ける名前がある。たとえ親から授かったものであろうとも、それは死ぬまで「私のもの」だ。私には私の名前と人生があり、その背負い込んだ荷物を必死で守ろうとする限り、どこを彷徨ったって野良にはなれずに、手前で死ぬだろう。あたたかい灯りの点る屋根のついた家と自動的に出てくる晩ごはんを噛み締めながら、中学生の私はそんなふうに考えていた。○誰が殺した黒歴史私の人生には、名前がついている。名前がその人間を規定する。『のら』を読んでいた12歳は、そう気づいた年頃だった。名前とは自己と他者とを区別するだけでなく、私が生きる道筋の「連続性」を示すものでもある。12年分引きずってきた荷物の重みは、今すでに結構しんどい。みんなとお揃いのランドセルを下ろして、通学カバン自由の中高一貫校へ上がり、伸びた背丈のぶんだけ目方も増えて、干支が一巡りすれば、「たった12年で、こんなに人生が重くなるの?」とそろそろ気づく年頃だった。進学した私は、小説が書きたくて文芸部に入部した。部員が執筆した詩や小説を手作りの文芸誌にまとめて、文化祭で来場者に頒布するのが主な活動だ。作品を発表する際、本名を使用する部員は一人もいなかった。みんな原稿の中身以上に凝ったペンネームをつけて、時には複数のペンネームを持つことで複数の人格を使い分けたりもした。部活だけではない。雑誌やラジオ番組へのハガキ投稿、同人誌即売会への出展や、バンドのおっかけ。学校で禁止されていたさまざまな課外活動をするとき、私たちはいつも、専用の架空の名前を作ってそれを名乗った。辞書で引いた難訓漢字、好きなキャラクターから一文字、尊敬する文豪と同じイニシャル、画数占い、相性占い、欧文の綴りまで気にして、中二病全開でいろいろな名前を考案した。思いついた名前の数が思いついたお話の数を上回ったら、物語の登場人物にどんどんつけてみたり、書き進めるうちに気に入ってやっぱりまた自分で名乗ったり。自分ではない自分の名前を、人格を、人生を、物語を作り出すことに熱中した。10代の頃に考案したこれら複数のペンネームを、私は未来永劫、明かすことはないだろう。当時の私がGoogleの検索範囲に及んで現在の私と紐付き、永久に消せなくなることなど、あってはならない……。まぁ「黒歴史」とまでは言わないけれど、「あのキラキラした名前の軽やかな彼女たちは、かつては私の一部だったが今はもういない、銀の銃弾に心臓を撃ち抜かれ、塵となって消えました」と言っておきたい。だから、いい大人になってから突如として珍妙なハンドルネームを名乗り、インターネット上で面白おかしく反社会的かつ非現実的な振る舞いを謳歌して、もう戻ってこられないところまで行き着いた時点でいきなり「ネット人格と実人生とが乖離しすぎてしまった」「素性を明かして本業の宣伝活動もすべきか悩む」「やっぱり改名したので過去のことは忘れてほしい」「母親にバレそうなので来月アカウントを消す」などと往生際の悪いことを口にする人たちを見ると、少しは同情するけれども、あまりにも無防備すぎるだろ、と腹立たしくもなる。そうした自意識の統合作業というものは、せいぜいが中学生くらいまでの間に手痛い経験を済ませておくべき、いわば義務教育の範疇ではなかろうか。オフ会で自己紹介するとき、職場の上司にバレたとき、呼ばれて恥ずかしくなるようなハンドルネームはつけないに限るし、実名顔出しでマスコミ記者会見を開いたって胸を張って堂々と同じことを口にできる、そんな発言しか書かないのが、何よりの護身術である。閑話休題。○なんだかそれは特別な響き高校へ上がって部長を務めていた頃だろうか。新入部員の後輩に、「部内誌の原稿って、本名で書いちゃいけない決まりでもあるんですか……?」と怪訝な顔をされたことがある。心のきれいな少年に「王様は裸だ」と言われたような気分だった。どうせ部員数も頒布数も少ないし、筆跡や文体ですぐバレるし、内輪しか読まないのだから、最初から本名で書いても同じではないか。そうツッコミを入れられる12歳を眩しく感じた。数ヶ月後、その子もまた、初めて作った意欲的なキラッキラのペンネームを冠した処女作を提出して「こちら側」へ渡ってきたのだが、少し申し訳ない気持ちになったのを覚えている。「だって、本名だと気恥ずかしくて書けないような物語も、ペンネームなら自由に書ける気がするじゃない?」「親が勝手につけたダサい本名なんか知られたら、せっかく作った夢物語が壊れるじゃない?」「漱石も、鷗外も、吉本ばななもペンネームだよ、そのほうがプロの作家っぽくてカッコイイでしょ?」……どう答えてみても、露見するのは裏返しになった「本名で生きる自分」の冴えない現実。ペンネームをかぶせることによって覆い隠したい、恥ずかしさ、不自由さ、ダサさ、夢のなさ、素人臭さ、子供っぽさ、カッコ悪さ、なのである。一方で、こんなこともあった。大好きなバンドのラジオ番組にファックスを送ったら、一人がその投稿を読み上げ、「ラジオネーム、◯◯◯ちゃん。へー、かわいい名前ですねー」と言ったのだ。妹と聴いていた私は、文字通り、子供部屋で飛び上がって狂喜した(かわいい中学生ですねー)。自分が送った質問に対する回答などろくすっぽ聴いていなかった。今、褒められたのは、私が自分で考えた、私の名前だ。学校の成績や素行や身だしなみといった「正解」を知っている設問で花マルをもらっても、褒められているようには感じなかった。洋服や髪型はまだ親の厳格なコントロール下にあったから、容姿外見にお世辞を言われても自分の手柄とは思えなかった。小遣いで買った文房具などを友達から羨ましがられるのは、それに比べればかなり気分がよかったが、所詮は既製品の消費に過ぎない。同じ店で同じ金額を払えば、友達も明日から同じものが手に入る。ああ、だけど今、この人が褒めてくれた名前は、何もないところから自力で作った、紛うことなき「私のもの」だ。ありがとう、谷中敦!この世界のどこかにいる、まだ見ぬ誰かに、私のことを見つけてほしい。気づいて、認めて、評価して、褒めてほしい。だけど「本当の自分」のことは知られたくない。私の最も魅力的なところ、一番いいカッコ、学校や保護者の手を離れて私自身が自由にコントロールしている私の姿だけを、見てほしい。「コーデリアが無理なら、せめて最後にeのつくAnneと呼んで」。10代はつくづく、毎日が自己顕示欲との戦いだったなぁ、と思う。○そして誰でもない私に名前のない女の子に憧れて、たくさんのペンネームを命名していた頃。それは「人生をリセットしたい」と思っていた頃だ。心機一転の中学進学といっても、小学校までと何も変わらない。きっと高校もこの調子だろう。激しい受験を勝ち抜いてきた外部生にも、燃え尽きたような表情の子が少なくなかった。そして中二病に集団感染した。ギャルからオタクまで、教室内のどのグループにおいても、絶望と頽廃と死を匂わせるものがやたらと流行していた。主人公が無残に殺されて終わる漫画、30以上を信用せずに20代で命を絶ったロックシンガー、銀の皿に載せた愛する男の首を所望する姫君の話、愛する姫君のため自分の両眼を潰した男の話、盗んだバイクで走り出して死んだとってもいい奴の話。デカダンに殉ずればよいのだ、どうせ私が19歳の夏にはノストラダムスの予言が的中して、みんなみんな終わるのだから(かわいい中学生ですねー)。たくさんの使うあてのない「名前」を作る行為は、そんな死を想う毎日の中で唯一、なんだかとても生産的で創造的な営みである気が、していた。私の人生には、名前がついている。私一人にたくさんの名前がつけば、私は一度にたくさんの人生を生きることになる、気がする。与えられた運命を超えた存在になれる、気がする。なぜなら、名前がその人間を規定するから。死のう、死のう、死ね、殺せ、殺せ、殺してくれ、と考えながら一方で、生きよう、生きよう、生きよう、といくつも名前を作っていた。自分の名前を大切にすることは、自分を大切にすることだ。自分が作った、まるで自分でないようなキラッキラの名前を大切にすることは、そのキラッキラの誰かに生命を与え、人生を与え、そしてそれを我がことのように大切にすることだ。「私が私として、手段を問わず、この生を全うする」ことに幾許かの愛着を抱き、ちょっとうんざりして投げやりな態度を見せながらも、改めてこだわりはじめたのが、ちょうど12歳だった。昔の子供が「元服」して「世に出る」ために「名を改める」のがこの年頃からというのは、なんとなく頷ける気がするし、昔の子供もこの年頃に、自分の引きずる荷物の重みに、初めてびっくりしたのかもしれない。そしてやっぱり、人にはとても読ませられない恥ずかしい日記とか、綴っていたのだろう。今も昔も、名もなき野良猫になれない人間は、そうやって人生に折り合いをつけていく。<今回の住まい<この頃、実家の改築が終わるまでの期間、5人家族で父方の祖父母の家に間借りしていたことがある。元は叔母のものだった部屋や祖父の書斎、応接間をあてがわれ、入浴や食事のタイミングをずらし、実家とは違う慣れない生活臭が漂う家に、縮こまるようにして暮らした。本当はビートルズが聴きたかったのに荷物にはジョン・レノンのCDしかなく、仕方なく「Mother」ばかり聴いて発狂しかけたのを懐かしく思い出す。以来、ポール派である。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年12月05日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○イケナイコトカイ?片方の手のひらにすっぽり隠れる大きさの小さなオモチャを、ふと思い立って盗もうとしたことがある。大手製薬会社のノベルティで、水色のプラスチック製、用途は忘れたが平べったいハート形をしていた。特別に欲しかったわけではない。友達の家で遊んでいるとき、一人きりになるタイミングがあった。今のうちに部屋にある何かを盗んで持ち去っても、誰にも気づかれない。今なら「完全犯罪」が可能なのだと気づいて、つい実践してみたくなったのだ。下着の中に隠そうと、試しにパンツのゴムに挟んでみると、プラスチックの肌触りはひんやり冷たく、立ち上がって歩く前につるつると動いた。こんな不安定なものを身につけて、親の迎えが来るまで素知らぬ顔で過ごすのは難しそうだ。諦めかけたところへ友達が戻ってきた。もう服の下からオモチャを取り出せない。口から心臓が飛び出しそうになった。それから、おそろしく不自然な体勢でトイレに立ち、鍵のかかった個室でオモチャをスカートのポケットへしまいなおし、どうにか元あった場所へ戻すまでの数十分間、生きた心地がしなかった。あれは9歳か10歳の頃だろうか。一度でいいから自分も「盗み」をしてみたかったのだ。怪人二十面相にアルセーヌ・ルパン、あるいは『キャッツ・アイ』に『怪盗ルビイ』。スリル満点の大仕事をやり遂げる大泥棒は、いつだって子供のヒーローである。衆人環視の前でボールを消し去ったり、ハンカチを抜き取って花束に変えてみせたりするマジシャンにも憧れた。他者を出し抜くあざやかな手口。私だけが知る秘密のカラクリ。そんなものが欲しかった。水色のオモチャを掌中にすることで、手に入る気がしていた。でも、実際の私は不器用で浅はかで小心者で、大胆不敵な怪盗や義賊、あるいは魔術師とは、まったく違う人間だと思い知った。オモチャを隠し持ったまま、堂々と顔を上げることすらできない。怖かった。友達にバレることや、警察に捕まることより、「自分の手に負えないことをしでかしてしまった」のが怖かった。もっとうんと幼い頃から、遅刻の言い訳をでっちあげたり、仮病を使ったりすることはあった。周囲の大人が取り合わずに聞き流した小さな嘘については、罪の意識などまったく持っていない。一方で妙に馬鹿正直なところがあり、知ったかぶりや見て見ぬフリができずに「そんなことしちゃいけないんだよー」と他者を咎めては、級友に煙たがられていた。水色のオモチャの窃盗は、私が生まれて初めて「罪」だと自覚して、それでもした、イケナイコトだ。実際の成功失敗に関わらず、友達の家からは価値ある品物が損なわれ、私の心からも何か大事なものが奪われて、たとえ品物を戻したところで「二度と取り返しがつかない」のがわかった。誰も傷つけない仮病や遅刻の言い訳とは違う。「罪」の味は自分の舌にこそ苦かった。○テレクラモグラネグラ小学校高学年になると、新たな犯罪に手を染めるようになった。今度は組織的かつ計画的な犯行だ。同じクラスの友達と数名で、公衆電話からダイヤルQ2のツーショットダイヤルにアクセスし、素性を偽って電話口に出てきた大人の男性客と会話してデートにこぎつけ、待ち合わせ場所に現れた人物を物陰から特定して嘲笑う。スケベ心を丸出しにした大人がのこのこ顔を出したところを懲らしめる、この遊びを「もぐら叩き」といったような隠語で呼んでいた。要するにテレクラを使った「釣り」である。ツーショットダイヤルとは、女性客は無料、男性客は有料で電話を掛け、見ず知らずの相手と一対一の会話を楽しむサービスのこと。当時、さまざまな犯罪の温床として社会問題となっていた。援助交際という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)する前、1991年頃のことだ。揃いのランドセルを背負った私たちは、街中で配られる卑猥な色のビラを片手に、この「タダで遊べる暇潰し」に興じた。途中で子供のいたずらとバレれば、怒った相手は電話をブチ切ってしまう。鼻息荒くいきなりテレフォンセックスを持ちかけてきたり、来週会おうと電話番号を訊きたがる男にも用はない。どれだけ会話を引き延ばし、いかに架空の女性像を信じ込ませ、その日の放課後のうちに指定場所まで呼び出せるかが、ゲームのキモだった。たとえば我々がでっちあげた「少女」像は、中央線沿線に住む16歳の高校2年生。声が幼いのがコンプレックス。身長は154センチで、背の割に胸は大きいが、スリーサイズは内緒。肩まである髪は生まれつき茶色っぽく、牧瀬里穂に似ていると言われる。都内の女子校に通っているが、バスケ部も授業もサボりがちの劣等生。今日すぐ遊んでくれるお兄さんを探している。年上好きだけど、彼氏にするなら23歳以下限定。ゲームセンターに行きたい、映画はイヤ。制服から私服に着替えて、30分後くらいに渋谷か新宿駅で待ち合わせはどう?お互いに外見の特徴を伝えあって電話を切り、通学定期券の圏内に住む子だけが指定場所を偵察に行った。待っているのは大抵がどう見ても20代には見えない中年男で、「キショイ! デブじゃん!」「誰が石黒賢似だよ!」などと物陰に隠れてゲラゲラ笑い飛ばす。意外にカッコイイ大学生風の男が来れば、「えっ、あんな人でもカノジョいないんだ、まさか本物の慶應ボーイ?」「でも小学生に騙されてやんのー、バッカでぇー」と、それはそれで大騒ぎである。待ちぼうけを食らって激昂した大人に見つかれば、捕まって想像を絶する酷い目に遭わされる危険性だってある。しかし実際に現地まで来る男たちはみな「少女」の話を信じ込んでいたから、バレることはなかった。これぞ「完全犯罪」だ。イケナイコトだとわかっていた。それでも、した。すごく楽しかったのだ。○気分はシナリオライターこの遊びを発案したグループの中心人物は、今で言う「脱オタ」組だった。宮崎勤の逮捕以後、オタクに対する世間の風当たりが一気に強くなり、かつて一緒に漫画やアニメにハマッていたはずの級友たちは、いっせいに光GENJIやウッチャンナンチャンなど男性芸能人のファンに転向していった。ちょうど10歳を過ぎて色気付く年頃に重なったのもあるだろう。少女漫画雑誌を捨ててローティーン向けファッション誌を買い、下敷きやラミカの代わりにアクセサリーやコスメを揃えはじめ、「えー、高学年にもなって、まだアニメなんか観てるのー? 生身の男に興味はないの?」と、オタクのまま生き続けることを選んだ我々を蔑んだ。蔑むために、側に置いていた。ブスでオタクでノロマでダサい私は、彼女たちをピラミッドの底辺から支える引き立て役だ。ドッヂボールでは外野、ドロ警では見張り、トランプでは人数合わせ。対等な立場で発言が許されるのは、この「もぐら叩き」くらいだった。実際の電話口に出るのは仲間内で一番大人っぽい声の子だが、私はその人物設定を練り上げる係として重宝された。「駅での待ち合わせ」に誘い出すなら「クリスマス・エクスプレス」のCMみたいな美少女がいい。もう少し不良っぽく話したほうがエロい。大人向けの小説や漫画を貪り読んでいた私は、男心をそそるリアルな「少女」像を作り出すのに熱中した。我々は、小学生にしてすでに「女」である自分に価値があることを、それがもう数年後、女子高生や女子大生になったときに最高値をマークすることを、ちゃんとわかっていた。冴えない男を往来でビンタしたり、熱烈なプロポーズをこっぴどく拒絶したり、出世街道やお立ち台や玉の輿に乗って高笑いしたり、そんなトレンディドラマに描かれる「女」たちのように。急ぎ足で大人の階段を上りはじめた我々にとって、これは「生身の男を手玉に取る」快感を手軽に味わえるゲームだった。コロッと騙された大人の男を「バカだなぁ」「ざまあみろ」と声に出して笑うとき、復讐心が満たされるような気持ちもあった。制服を着て電車通学していると、朝の満員電車でほとんど毎日のように痴漢被害に遭う。どんなにちゃんとした格好の大人でも、一皮剥けば人間のクズだ。痴漢と同じくスケベ心に翻弄される男どもを笑いながら、「騙される大人が悪い」と思った。待ち合わせをすっぽかされるなんて、よくあることでしょ? 見ず知らずの「女子高生」と約束して、いきなりデートしてエッチなことできると思ってるほうが、頭おかしいんじゃないですか?○マリア様がみてる街中の電話ボックスに小学生が長時間たむろしていると目立つので、校舎の玄関ホールにある公衆電話を使うことが多かった。ホールの奥には聖母子像が鎮座していて、その眼差しに見つめられながら「性」を売り物に「罪」に手を染めるのは痛快だった。おい、神様、裁けるもんなら裁いてみろよ。そんなふうにも思った。母校では、善悪の判断基準はつねに神の子イエズス・キリストとともにある。教師たちは校則にもとづき生徒を指導したが、道徳の授業を受け持つ修道女たちは、服装の乱れから不正行為まで、「神様は、あなたがたの犯した過ちを悲しんでおられます」とだけ教え諭した。これがどうにもモヤモヤする。人と人の間で定められたルールを破れば「罪」に「罰」が与えられる、という理屈はわかる。しかし「神様が悲しむ」と言われたって、ちっとも心に響かない。ちょうど同じ頃、保健体育の授業で性教育が始まった。キリスト教においては、出産時に女が味わう痛みは、アダムとイヴが犯した原罪への罰とされる。毎月毎月、股の間から血が流れるのが「赤ちゃんを産むための準備」ならば、これもまた私たちが耐えるべき「罰」なのか、と思った。男性顔負けの自立心を養い、勤勉を是として社会進出が奨励される校風の中で、「女は、女であるというだけで、あらかじめ汚れた罪深い存在である」という価値観もまた刷り込まれていった。ブスでオタクでノロマでダサい。女子校生活の時点でピラミッドの底辺にいる私は、卒業したらもっと大きな男女混合ピラミッドの、最底辺の最底辺まで落ちるだろう。そりゃあ勉強は頑張るけど、「女」ってだけで背負うハンデが多すぎやしないか。修道女の話を聞き、聖書を読めば読むほど、「どうせ、いずれは地獄に堕ちる身だ」としか考えられなくなっていた。理由なき反抗。禁じられた遊び。大人に言わない秘密を持つこと。強者を出し抜き、逆手に取って利用すること。あの頃の私たちが夢中になったのは、そんなゲームだ。「高学年にもなって、まだアニメなんか観てるの?」と私を嘲笑った級友のように、私は、過去の自分を嘲笑っていた。友達の家でプラスチックのオモチャを盗んだくらいでドキドキしてたなんて、とんだお子様ね! 「罪」とは、「二度と取り返しがつかない」こと。それはいったい何だろう。待ちぼうけを食らわされた男たちがロスした時間のことなんかどうでもいい。私たち自身が、イケナイコトをして、それを楽しんで、永遠に失うものって何だろう?それは、幼く無垢でいられた子供時代、そのものだよ……。タイムマシンに乗ってそんな模範解答を伝えに行ったところで、反社会行為に夢中のガキどもからは「ハァ? バッカじゃないの?」と笑い飛ばされるに決まっている。当時の我々にとって、それは宝物なんかじゃなく、むしろ、何よりも早く手放したいものだった。親が選んだ子供服を脱ぎ散らかすように、とっとと捨てたくてたまらなかった。「じゃあ、大人になることは、罪なの?」と問い返されたとき、どんな顔をしたらいいのか、私にはまだその答えがわからない。<今回の住まい<ダイヤルQ2のアダルトチャンネルが爆発的人気を博したのは「自宅の固定電話から店舗型テレクラと同じことができる」からだったという。1991年、我が家の電話は、ジーコジーコとダイヤルを回す黒電話だった。というか、最初にネット回線を引き込んだ後も、21世紀になっても、電話は黒電話だった。壁から伸びた電話線を手繰って、子供部屋の入り口まで引っ張るのが精一杯だった。コードレス電話の子機を自分専用として使っている子が大層羨ましかったものだ。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年11月21日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○トムヤムクンよりフカヒレを初めての海外旅行は、7歳のときだ。父親が仕事の関係でタイに単身赴任していた。小学校二年生の夏休み、母親と幼稚園児の妹と三人で、父の暮らすバンコクを訪ねることになった。パスポートの準備など旅行の手配はすべて大人任せだったから、行く前のことは何も憶えていない。初めて飛行機に乗って空を飛ぶ興奮も、あまり記憶にない。でも、初めて外国に到着してからのことは、とても鮮明に憶えている。すべてが目新しかった。まず最初に驚いたのは、父親がメイド付きで庭にプールのある豪邸に暮らしていたことだ。会社が用意したごく一般的な「社宅」なのだが、東京のウサギ小屋に残されて暮らす母娘三人にしてみれば、父が一人でこんなに優雅な生活を送っているのは、すごく不公平な気がした。母親は鼻息荒く「今夜はフカヒレ専門店に行くわよ!」と宣言した。「東京じゃ食べられないんだから!」というわけで、華僑が経営する外国人向けの高級レストランで、私は生まれて初めてフカヒレを食べた。大人たちが口々に言う「物価が安い」国というのは、なんと素晴らしい国だろうと思った。フカヒレ専門店から少し歩いてタクシーに乗り込むまでの間に、道端で何人もの物乞いを見た。これが二番目の驚きだった。ボロをまとって痩せ細った身体を地べたに転がす彼らの中には、子を抱いた母もいれば、手足の欠損した者もあった。イエス・キリストが手かざしで治したという貧しい病人たち、あるいはマザー・テレサが看取ったという死を待つ人々、子供向けの絵本に描かれた、大昔の話のように思えたそれらが、目の前にあった。たらふくフカヒレを食べた私は、大人たちから、彼らにその場限りの施しを与えてはならないと言われた。これもまた初めての海外だった。アユタヤやチェンマイ、プーケット、行く先々で土産物屋が声をかけてきた。一昔前の人気歌手やテレビ番組、あるいは戦国武将などの名を連呼しながら、ニホンジン、コレ好キ、ミンナ買ウ、と、まったく欲しくないものを薦めてくる。異国の地で見知らぬ人から片言の日本語で話しかけられるのは、不思議と嬉しいものだ。きっと以前にもここへたくさんの日本人が来て、彼らに少しずつ新しい日本語を教え、去っていたのだろう。その見えない足跡のようなものが面白かった。一方で、観光名所の看板に、タイ語と英語のWELCOMEのほか、「いらつしかいませ」などと書いてあるのには興が削がれた。日本語で話しかけられると嬉しいのに、店の看板に日本語があるのは嬉しくない。子供だからその気持ちをうまく説明できなかったが、つまり「異国情緒が感じられない」ということだ。日本と似たような環境で日本と同じような体験をするより、ここでしかできないことをして、読めない看板や伝わりにくい言葉のあやふやさで、存分にコミュニケーション不全を味わいたい、と思っていた。○金髪碧眼、バナナの皮リゾートホテルにも何泊か滞在した。ヨーロピアンスタイルの建築に、アジアンテイストを加えたインテリア、見渡す限りの西洋人観光客。ホールでは舞踊や影絵芝居などのパフォーマンスもあり、郷土菓子の屋台も出ていて、ディズニーランドのようだった。キッズ向けの催し物の前で、一人で佇んでいる女の子がいた。絵に描いたような金髪碧眼、水色のワンピースを着て、年格好は私と同じくらいだ。声をかけ、オモチャを分け合って一緒に遊んだ。英単語を組み合わせて話しかけると、無口なその子がにっこり微笑む。「私の英語が通じてる!」と嬉しかった。初めての海外旅行で、青い目の友達と仲良くなったら、日本へ帰ってからも文通ができるかもしれない。国際人への第一歩だわ……。ほどなくして母親らしき白人女性があらわれ、水色のワンピースの彼女を猛然と私から遠ざけ、離れた場所へ連れて行ってものすごい剣幕できつく叱っていた。母親の早口はまったく聞き取れなかったけれども、何を叱っているのかは幼い私にも不思議と理解できた。「あんな子と遊んじゃいけません! 何かされたらどうするの! 怖い目に遭うところだったのよ! どうして逃げなかったの!」……アイムソーリー、ママ、と小さな声が聞こえ、私のペンパル候補は名前も告げずに姿を消した。私の母親も、付かず離れずその光景を見ていたようだ。「あいつらオーストラリア人でしょう、本当に腹が立つわ、白豪主義者めが!」と、烈火のごとく怒っていた。「あなたが何一つ悪いことをしていないのに、あなたがそこに居るだけで責められる、目も合わせない、話しかけようともしない。よく覚えておきなさい、これが差別よ」と母は言った。「あなたとあの子が仲良く遊びたいと思うなら、あの母親みたいな連中を地球上から追い出さなくちゃいけないわ。有色人種のあなたと、白人のあの子が、二人で一緒にそれをするのよ。次に同じ仕打ちを受けたら、もっと怒って、戦いなさい!」。テレビでは連日「アパルトヘイト」のことを報じていた。遠い国で、黒人たちが白人と同等の権利を求めている。そのために殺されてしまう人もいるのだと。しかし貿易相手国である日本の人々は「名誉白人」扱いなのだそうだ。バナナと同じで、顔は黄色いけど、中身は白い。なんだ、だったらセーフじゃん、黒人と違って私は殺されないんだもの。そんな幼い慢心を、手の届く距離で受けた実際の仕打ち、友達になれたはずの女の子を失った悲しみが、すっぽり覆い尽くしていった。「次」なんて二度と来なければいいのに。ディズニーランドみたいなリゾートホテル、汚物のように私を処理した白人の母親、宝物のように私たちを扱った父の社宅のタイ人メイド、フカヒレ専門店の外にいた半身のない物乞い、お金持ちの西洋人に植民地主義的悦楽をもたらすユートピア、小金持ちの日本企業が揉み手しながらゴリゴリ進出するアジア、黄金色に輝く寺院、ドブ色をした聖なる川、100円相当で100円以上のものが買える通貨、戦争のとき身一つで国を捨ててきたのだと微笑む元ベトナム人、見たこともない果物があちこちに生っている森、明らかに藤子不二雄が描いたものではないドラえもん、ただ言葉だけが通じない人々、ただ心だけが通い合えない人々、生まれ育った場所でそこが世界の中心だと信じて生きて死ぬ人々、故郷を離れて世界中を旅して回る人々。すべて、たった数週間、たった一つの国を訪れただけで、初めての海外旅行で見聞きしたことだ。盛りだくさんの旅だった。○たとえ私が見ていなくても二度目の海外旅行は9歳のとき、同じように夏休みを利用して、北米大陸の各地を回った。今回も母娘三人、両親の学生時代の友人を訪ねて歩く旅だった。私はもうだいぶ英語がわかるようになっていた。学校で習ったわけではないけれど、身振り手振りや抑揚、声質などを注意深く観察していれば、どんなことを言っているのか、だいたいの見当はつく。東海岸にある、とある高級住宅地に滞在したときのこと。両親の親友の実家にあたる豪邸で、一階から最上階まで真っ白に塗られた吹き抜けが見事だった。普段は年老いた母親が一人で暮らす、そのお屋敷の優雅な吹き抜けに、「どうして私の大事なゲストルームを、あんな小汚いアジア人の母娘に使わせてやらなくちゃいけないの!おまえが連れてくる友人は昔からロクなのがいないわ!」と怒鳴り散らす老婆の声が、とてもよく響いた。吹き抜けの最上階にある手すりの間から、それを眺めていた。日本に帰国してみると、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が、現行犯で逮捕された、という報道にびっくりした。1989年夏の出来事だ。今田勇子と名乗っていたのはやはり男性で、名前を宮崎勤といった。首都圏の小学校に通う女児だった私たちは、一連の事件のために非常な緊張を強いられていた。二学期からはあの窮屈な集団登下校が終わるかと思うと、ホッとする気持ちだった。もう一つ、9歳の私は、別のところでホッと安堵していた。それは、「私が留守にしている間にも、日本という国は、ちゃんと回っている」ということだ。私がアメリカやカナダに余所見をしていたって、警察はちゃんと働いて宮崎勤を捕まえるし、平成元年はガンガン前へ進んでいる。なんだか拍子抜けした気分だった。眠るために目を閉じたら、それで世界が消えてなくなってしまうのじゃないか、と不安で寝られなくなるような、そんな年頃だ。私がちゃんと見つめていなければ、日本はどうにかなってしまうと思っていた。少し前、天皇陛下の容態が思わしくないと聞いたときもそればかりが気になって、「昭和」が終わる瞬間を見逃してはなるものかと、「今年中かな、来年になるかな?」と聞いて回っては大人たちに「不謹慎だ」と怒られる子供だった。でも別に、私一人が居なくたって、私が見つめていなくたって、日本は変わらずに動いているんだ、なぁんだ。……現在に至るまでの私の、この国への決定的な無関心の端緒となる感覚も、海外旅行で培われたものといって過言ではない。○なんでも見てやろうプーケットの海、カナダの国立公園、あるいはスミソニアン航空宇宙博物館、地球には、宇宙には、もっと広大な空間が広がっていて、そこにあるすべてのものが、たとえ私が全部をちゃんと見ていなくたって、同時並行的に、どんどん未来へ向かって進んでいる。そして、自分がどこの何にフォーカスして見つめるかは、自分で好きに決めていいんだ。そう気づいてから、家のトイレに貼ってある世界地図を眺めるのが楽しくなった。世界各国の国旗と首都を暗記するゲームに熱中した。狭苦しい子供部屋の勉強机の脇には、アフリカの地平線を写真におさめたポストカードを貼った。この見知らぬ地平線が、我が家のこの子供部屋まで、ずっと続いているのだ。「世界は広い」「世界は近い」と思い出させてくれる写真なら、何でもよかった。その翌年に弟が生まれ、海外旅行はしばらくおあずけとなったが、ベルリンの壁が崩壊するのも、湾岸戦争のライブ中継も、「世界は広い」「世界は近い」と唱えながら見ていた。宮崎勤事件で大騒ぎの夏休みが終わった二学期から、学校の教室では特定の生徒をターゲットにした迫害が始まった。「オタクは汚い犯罪者だから、私の使う椅子には座るな」。黒人専用座席みたいだ。なんだ、だったらアウトじゃん、ここにだって差別はあるじゃん。その気になれば、私はどんな地平線までも逃げて行ける。しかし、ただ逃げ回るだけでは、行った先でまた差別主義者とかち合うだけだ。「次」こそは怒って戦えと言うのなら、私の「次」は、「今」なんだ。「世界は広い」「世界は近い」初めてそう知ったときに感じた、その「世界の広さ」や「世界の近さ」のイメージは、その人の人生に、一生つきまとうものだと思う。日本しか知らずに育った人は、日本だけをひたすらに見つめて、大人になっても日本の外にはなかなか目を向けようとしない。自分がちょっとでも目を離したら、日本が世界に取り込まれてしまうのではないかと怯えて、用もないのに日の丸の旗を掲げたがる。「あなたたちのために、なるべく早いうちに、海外へ連れて行こうと思ったのよ」と父母は言った。もしもこれから私が子供を作ることがあったら、同じことを考えるだろう。行き先なんか、どこでも構わない。まだ行ったことのない場所が、自分の踏みしめるこの地面とつながっている。ここにはないものが、そこにはある。その実感を得る瞬間は、早ければ早いほどいいと、私もまた思っている。<今回の住まい<初めてアメリカを旅して愕然としたのは、土地の余りっぷり、家のデカさだった。大都会の小さなアパートメントで暮らす人に親近感を抱いていたら、車でちょっと行った郊外に本宅があって、我が家がすっぽり入るほどの「趣味の部屋」を持っている、といった調子だ。そんななか、カナダで泊まったビジネスホテルには屋根裏のようなメゾネットがあり、子供用エクストラベッドを置いて眠った。低い天井が東京のせせこましい家の二段ベッドのようで懐かしく、逆にホッとしたのを憶えている。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年11月07日“育乳”ブラジャー「エクサブラ」理想のバストラインを目指す女性に朗報です。10月29日、ファンジェリーは、“育乳”ブラジャー「エクサブラ」をリニューアルしたと発表しました。「エクサブラ」とは、着用するだけで大胸筋に働きかけてバストアップの運動ができるという“育乳”ブラジャー。加齢や出産などで垂れてしまったバストを美しいラインへと整えてくれる優れモノです。時間のない女性でも手軽にバストメイクできると評判で、補正下着にありがちな不快感や窮屈感もなく、ストレスを感じずに着用できると多くの女性の支持をうけています。より快適、より効果的今回のリニューアルでは、より快適に、より効果的をコンセプトに様々な改良が行われました。まず、見た目にこだわり全ラインナップの定番カラーをオールチェンジ。モードな「チョコ」とクラシカルな「バニラ」は肌馴染みもよく、胸元を華やかに見せてくれます。また、報告されていた不具合を修正しパターンを一部改良。これで様々なサイズのバストをより一層美しく見せることに成功しました。さらに、製品表示の布タグを排除し印字方式を変更したことで、布タグが肌にあたる不快感を一掃しました。美しいバストラインは女性としての自信につながります。あなたもリニューアルされた高機能ランジェリー「エクサブラ」で“育乳”をはじめてみてはいかがでしょうか。【参考】・ファンジェリー プレスリリース(PR PRESS)・エクサブラ・オンラインショップ
2014年11月01日映画『想いのこし』のスペシャルイベントが10月20日(月)、都内で開催され、主演の岡田将生に子役の巨勢竜也、平川雄一朗監督、劇中の岡田さんらのポールダンスを指導したポールダンス世界チャンピオンのREIKO、同じくダンサーのeMy、MOMO、主題歌を歌う「HY」が来場した。岡田さん、共演の広末涼子が劇中で激しいポールダンスを披露することで、制作時から話題を呼んでいた本作。金と女に目がないガジロウは事故に遭い、軽いケガを負うが、その事故で死んでしまったポールダンサーのユウコと彼女の仲間たちがなぜか彼にだけ見える形で現れる。ユウコらが提示する金に釣られ、ガジロウは彼女らのこの世への未練となっている想いのこした願いをひとつずつ叶えていくことになるが…。この日のイベントは、REIKOさん、eMyさん、MOMOさんの華麗で力強いポールダンスショーで幕を開けた。日本ではあまり知られていないが、ポールダンスはオリンピック競技の候補としてエキシビジョンマッチが行われる“スポーツ”の側面を持つかなり激しいダンスであり、彼女たちの華麗な舞に観客は圧倒された様子だった。その後、監督と共に登壇した岡田さんも「ホントにすごいですね!力強くてエロい!」と興奮気味。岡田さんも劇中で披露しているが「僕もエロくできたか心配になってきました…」と苦笑を浮かべる。だが実際には岡田さんは、普通は1年で覚える大技を、撮影スケジュールもあって猛練習の末に1か月半でマスターしなくてはならなかったそう。「練習できる時間が限られていて、広末さんと一緒にREIKO先生に教えてもらったんですが、最初は(ポールに)のぼることすらできなかったんですよね…」とふり返る。体を支えてポールに密着する内股は擦り切れてボロボロになったそうで「『もののけ姫』の(呪いを受けた)アシタカの腕みたいになってました(苦笑)。『やる』と言ったけど、軽かったなぁ…何でこんなことに…って思っちゃうくらいだった」と苦労をのぞかせた。そんな、岡田さんの過酷な撮影での“支え”となったのが、広末さん演じるユウコのひとり息子を演じた子役の巨勢くんの存在。岡田さんは「ホントにかわいいんですよ!子ども大好きです」と語るが、平川監督曰く「広末さん以上に巨勢くんのことを好きになっちゃって、広末さんに嫉妬してた。めんどくさい奴だった」とのこと。この日はその巨勢くんも来場したが、岡田さんはひと目見るなり相好を崩す。巨勢くんの大人びた口調に岡田さんはタジタジで「お前、大人だな。すごいな…」、「(自分と)同い年だろ?」とどっちが年上か分からないようなやりとりを見せて笑いを誘っていた。クランクアップ後に、岡田さんが巨勢くんを誘って後楽園ゆうえんちに遊びに行ったこともあったそうだが、巨勢くんが「岡田さんはリードしてくれて、頼れるお兄さんでした」と語るとさすがに岡田さんは「そりゃそうだろ!オレ25歳だぞ!」と苦笑交じりに語り、会場は笑いに包まれた。この日は、本作のために映画を観て主題歌「あなたを想う風」を書き下ろした「HY」も駆けつけ、舞台挨拶後には同曲を生で披露し、会場に詰めかけた観客は彼らの演奏と歌声にうっとりと酔いしれていた。『想いのこし』は11月22日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2014年10月20日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○駆け込みマドレーヌ小学校の入学式に、遅刻した。理由は思い出せない。単純に親が時間を読み違えただけだったと思う。母に手を引かれて校門をくぐる、ピカピカの一年生、登校初日。その感慨はまったく記憶にない。当然だ。門の前で記念撮影などする間もなく、下足箱の位置を覚える暇もなく、急かされながら小走りで、集合場所へ辿り着いた。母親はそそくさと私の手を離し、講堂の父兄席へ去って行った。教室前の廊下には、クラスメイトたちがずらりと並んでいる。式典が始まる時刻に合わせて整列したのだ。私立小学校の新入生、女ばかり約40名の小さな子供が、同じ制服を着て、二列に並んで担任教師の指示を待ち、じっと立っていた。その光景は、絵本『ちいさなマドレーヌ』を思い起こさせた。パリの寄宿学校に通う女児たちのお話だ。修道女に引率されてお行儀よく散歩に出かけた先々で、破天荒な主人公だけが何か事件を発生させ、場全体がドタバタと乱される。みんなと同じ制服を着ているはずなのに一人だけ悪目立ちする、今の私はマドレーヌそのものだと思った。二列に並んだ女の子たちは、それぞれ隣の子と手をつないでいた。一人だけ、誰とも手をつながずにいる小柄な子がいた。担任教師に促されて私が彼女と手をつないだ途端、行列は講堂へ向かって前進し、到着と同時に式典が始まった。別れ際に母親は息を弾ませて「ギリギリ間に合ったわね、よかった!」と言っていたが、ちっとも間に合っていないし、全然よくなかった。他ならぬ我々の遅刻が、入学式の開始そのものを遅らせていたのだ。大人も子供も校長先生も、みんな私の登場をじりじり待っていた。それはまるでプリンセスのような気分、私だけが「特別」……同じシチュエーションを、そんなふうにポジティブに捉える子供だっているのだろう。私はそうは思えなかった。自分だけは許される、という特権意識より、みんなを待たせて我慢を強いた精神的負担のほうが大きく、小さな胃が痛くなった。私にはプリンセスの素質がないんだなぁ、と思う。日々、気に病むことの矮小さが小市民レベルであり労働者階級的であり、痛恨のミスがお給金、ならぬ周囲の評価に及ぼす悪影響ばかりを考えてしまう。自分を中心に世界が回ると信じている王侯貴族のようには、逆立ちしたってなれっこない。○学校に入っては学校に従え我が家の両親、とくに母親は世界標準時よりも自分の体内時計を信じるような人で、大遅刻をかましても「主役はいつも遅れてやってくるものよ!」と豪語する根っからのプリンセス、非常に強靱(きょうじん)なメンタルの持ち主である。時間にルーズな保護者がいつも堂々としていたから、それまでは、何かに遅れてもまったく気が咎めなかった。でも今日からは、幼稚園とはわけが違う。私が一人でこの社会集団に属し、私の遅刻は、私自身の責任になる。親の送り迎えなしにきちんと通学し、チャイムが鳴る前に自分の席につく。その義務を怠れば、保護者ではなく私が責められるのだ。ママが「よかった」と思っても、私はそれじゃ「よくない」よ……。大袈裟に言えば、家庭教育の中で世間一般とは少々ズレた価値観を植えつけられてきた子供が、新たな社会集団への所属を機に新たな価値観を得た、そんな「節目」だった。世の中には、私のまだ知らない、親からは学べない、想像も及ばない規律に従って回っているシステムがある。その渦の中へ飛び込むことが決まったなら、約束事をきちんと把握してその通り振る舞わなければ、最後まで泳ぎきることができない。厄介事を起こすマドレーヌが、その奇行ゆえに他の女児たちと明確に区別される、あの絵本が好きじゃなかった。あんなふうにして物語のヒロインになるのは御免だ。私はプリンセスでも、問題児でもない。目立たず平和に穏やかに、優等生としてソツなく学校生活を送るんだ。……と固く決意したものの、カエルの子はカエル。その後の私の学校生活は、間を取って「優等生で問題児」といったような評価に落ち着いていった。朝礼のある曜日は、三度に一度は遅刻した。夏休みの宿題には締切を過ぎてからようやく着手する。保護者のサインが必要な提出物はさらに遅れ、家で紛失した書類を期日を過ぎて再発行してもらったこともある。低学年の頃は、校庭の外まで遊びに出て昼休み終了のチャイムを聞き逃し、授業をサボッた罰で教室の隅に立たされた。林間学校では消灯時刻を過ぎた深夜に遊んでいたのが見つかり、反省文を書かされた。「時間通りに行動できなかった」ことへの謝罪ばかりを、何度も何度も重ねる羽目になった。時間なんか守らなくていいや、と思っていたわけではない。ただ、私が私のペースで物事を運ぼうとすると、いつも団体行動から何拍かズレてしまう。「どうして決められた時間を守れないの!」と叱られながら、内心「だって、入学初日にさえ遅刻したんだぜ……?」と思っていた。それを言い訳にするつもりはないが、次第に諦めも生まれる。きっと私はこれからも一生、人を待つより、待たせることのほうが多いんだ、ママと同じように、ママ以上に胃を痛めて。叱られるたびに、そう思った。○わかっちゃいるけどやめられない学校とは、てんでんばらばらに生まれ育った子供たちを集めて、「悪いところ」を「より良く」矯正させるための施設である。建前上は、それぞれの子供の「良いところ」をスクスク伸ばすことが先決とされているが、もしそれが本当なら、こんな私だってもっと自己肯定感の強い人間に育ったはずである。給食を残さず食べても、サボらずに掃除をしても、授業やホームルームに積極的に参加しても、どの科目のテストで満点を取っても、他にどんな良い行いをしようとも、それらはすべて私にとって、できて当たり前、褒められることではなかった。「どうして決められた時間を守れないの!」と怒られた記憶ばかりが残っている。私だけではない。ある子は給食で苦手なおかずを食べられず、ある子はテストで及第点が取れず、ある子は忘れ物が多く、ある子は黙って座っていられない。みんなそれぞれに、何かが「できる」子ではなく、何かが「できない」子として、教育的指導を受けた。ガタガタに崩れた歯並びを矯正して笑顔の素敵な美人になるように、私だって私なりに、「できない」を克服したいとは思っていた。毎朝、同じ時間に起きて、同じ満員電車に乗り、始業時刻より早く席に着き、提出日に宿題を出し、門限までに下校する。そんな生活を繰り返せば、悪い部分は自然と治ると信じていた。でも、生のセロリが食べられるようになっても、逆上がりの実技試験をかろうじてクリアしても、見ず知らずの大人に敬語をきちんと使えるようになっても、私は朝起きられず、期日までに宿題が終わらず、時間にルーズなままだった。集団の規律がいくら縛りつけても、私の身体を調律することはできないままだ。学年が進むにつれて、私にとってこの遅刻癖は「どうしても矯正できない」ものなのだろう、と悟るようになった。「悪いこと」だとわかっていて、改めたいとも思っているのに、罰せられてなお、犯してしまう。ほとんどビョーキ……これが、私なんだ。社会との間に横たわるすべてのズレを、完璧に矯正しつくすことは、できない。それを認めて、なんとかルールと折り合いをつけていくしかない。学校とは、そんな諦めを身につけさせてくれる施設だった。○体内時計と社会時計大人になった今でも、友人同士の待ち合わせから、重要な仕事のミーティングまで、私はしょっちゅう遅刻する。いつも他人を待たせてしまうことを、本当に申し訳なく思っている。一方で、時間厳守を何より重んじるパンクチュアルな人間たちが、いったいどれだけ私のルーズさに腹を立てているのかは、正直きちんと理解できていない。そりゃたしかに遅れて迷惑かけたけど、すっぽかしたわけじゃないんだから、まぁいいじゃないか、死ぬわけじゃなし……という気持ちも、どこかにある。現在の私は、自分が抱えているこの「反社会性」を、もう、昔ほどには恐れていない。もっと小さな子供だった頃は、完治できない「悪いところ」を見つけてしまうこと、それ自体が恐ろしかった。いつの間にか自分の中に棲みついた、その悪魔と一度でも目が合ってしまえば、自分は絶対に「優等生」になんかなれないのだと、勝手にそう思い詰めていた。上手に褒めて伸ばしてもらえたら「個性」などと評されていたかもしれない、そんな出る杭のような部分を、幼くて賢い子供たちは、他ならぬ自分自身で一つ一つ打ち、押し潰していく。大人たちにバレる前に、みずからの手で悪魔を祓おうとする。みんなで同じ制服を着て、みんなで同じ学校に通って、みんなと同じ時刻に間に合って、みんなと同じ、先生に叱られない、誰にも見咎められない、のっぺらぼうの生徒になれると、そのことにホッと安心する。そんなことを繰り返して、ろくでもない学校に過剰適応したって何にもならないし、大きくなってもただ社会を動かすだけの歯車、つまらない人間になってしまうだけだよ。……すっかり反社会的存在となった現在の私はそう思うのだけど、6歳の私は、今よりもっとずっと真面目な「優等生」志望者だったのだ。入学式の後、帰りの道端で母親がようやく写真を撮ってくれた。まだ花開かぬ桜並木の下、新しい制服を着た幼い私が気をつけの姿勢で立つその一葉は、今も私の手元にある。逆光が眩しくて、少し顔を歪めて目を細めている。幸先悪いスタートを切ったけれども、なんとか無事に義務を果たし終え、ホッと満足げな表情だ。どんなビョーキや悪魔を抱えていようとも、根は「良い子」だったはずだよな、と思う。マドレーヌも、そんなお話だった。「ソツなくこなす」と「悪目立ち」の狭間を行き来しながら、小市民の私は今日も、駅から猛ダッシュで目的地へ向かう。大粒の汗をかいてまで全速力で走るのは、誰かに課せられた懲罰だからではない。どうしても矯正できずにここまで来た「悪いところ」、そのさらに奥から自然と立ち上ってくる、待たせた相手への誠実な気持ちのあらわれだ。それを言い訳にするつもりはないが、せめて精一杯、走る。一秒でも早く。人を待つより、待たせることのほうが多い人生だけれど、もうこれ以上、自分の「良いところ」を失わないように。<今回の住まい<低学年のとき、担任教師に住所を告げると「東京にそんな地名あったかしら?」と返された。私鉄沿線の小さな駅なので無理もないが、私の報告を聞いた母親は「まぁ失礼ね、自分は都下から通勤してるくせに!」と言った。子供心にも、その威張り方はどうかと思った。地方出身者が「23区内」や「山手線圏内」に特別なステータスを見出しているのを見ると、今も大変気恥ずかしい。担任の住むその町が、母が田舎から上京したての頃に下宿していたアパートから程近いことを、少し後になって知った。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年10月17日---------------------------------------------------------------------------初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。---------------------------------------------------------------------------○初めての恋が、墓場まで続く「三つ子の魂百まで」という諺(ことわざ)がある。三歳児のときの性分は、百歳になるまで変わらない、といった意味だ。「What is learned in the cradle is carried to the tomb.(ゆりかごで身についたことは、墓場まで運ばれる)」という言い方もある。数えで三つは、満年齢で一、二歳。物心つく以前の「三つ子の魂」も、ゆりかごの中での出来事も、大人から授かった体系立った知識ではなく、自然とついた癖や、性分のようなもの。生まれる前から先天的に備わっているわけではないが、後天的と呼ぶほどのものでもない。たとえば誰かを特別に好もしく思ったとき、平たく言うと、恋愛感情を抱いたとき。私はいつもこの諺を思い出す。誰に教わったわけでもないのに、まだ恋も知らぬうちから、気づいたら既にそうだった、私だけの「好みのタイプ」がある。大抵は男性で、世に言う「男らしさ」に少し欠けている、あるいは、その手の固定観念から解き放たれている。しかも向こうは私が「好み」ではない。「私のことを何とも想っていない、男っぽくない男の子」というのが、三つ子の頃から、おそらく百まで希求してやまない、恋愛対象の基本形だ。理想が実像を伴ったのは、3歳11カ月の大晦日。特別に夜更かしを許されてNHK「紅白歌合戦」を観ていた私は、軍服を模した衣装でスモークとサーチライトの中を歌い踊る沢田研二に、初めての恋をした。特定の異性をかっこいいと感じたのは、それが初めてだ。歌詞の内容も聞き取れず、夢か現実かもわからなかったが、居間に鎮座するこのテレビという箱は「かっこいいものを映す装置」なのだと強烈に思い知った。以来、チャンネルを回しながらブラウン管に映る「かっこいいもの」を探した。1980年、名曲「TOKIO」発売から3週間後に東京で生を享けた私が、約4年かけてゆりかごの中で導いた結論は、「男は、化粧が濃ければ濃いほど、都会的でかっこいい」というものだった。以来、マッチョな益荒男に恋をしたためしがない。○忘れられない文化系メガネ男子4歳の春を迎えると近所の幼稚園に通いはじめ、私は驚愕の事実に直面する。年中組の教室には、ジュリーやYMOやデヴィッド・ボウイみたいな、アイシャドウが虹色にきらめく男子はいなかった。まぁ当然である。初めての集団生活で「好きな男の子はいるの?」と訊かれるたび、仏頂面で「ここにはいない」と答えていた。自慢じゃないが、当時の私は男によくモテたのだ。人生で最もリアルが充実していた時代だ。しかし、言い寄る男児たちは誰も彼もがイモくさく、ジュリーには程遠い。もっと電飾やパラシュートや袖のふくらんだシルクブラウスが似合いそうな、化粧を施せば妖しく大変身しそうな、美しい容貌の男はいないのか。よくよく教室を探してみると、これが一人だけ見つかった。Kくんは小柄で線が細く、肌の色が白く、髪質は柔らかで、いつも室内で絵本を読んでいた。運動会やお遊戯では目立たないが、その影の薄さがまた存在の透明感を高めている。たしか眼鏡も掛けていたと思う。あるいは記憶を都合よく捏造しているのだろうか。いずれにせよ、現在に至るまで私の「メガネ男子萌え」の原点にあるのは、この彼への憧れなのである。忘れられない出来事がある。同じクラスには、ジャイアンとブタゴリラを足して二で割ったような、典型的なガキ大将の男児がいた。彼らは室内でも戦隊ごっこやプロレスごっこをする。力任せに暴れ回るので、女児たちのおままごとテリトリーを平気で侵犯してくる。ガキ大将が級友を投げ飛ばしてくるたびに、女児たちは仕方なく場を譲り、逃げて行った先でまた新しくおとなしくおままごとを始める。あるとき、ままごとの民が祖国を追われてディアスポラ先に選んだのは、Kくんたちが読書やお絵描きなどの文化活動を営む一角だった。プロレス男子から逃げてきた我らままごと女子のリーダーが、「本日これよりこの土地は我々が領有するので、即刻明け渡すように」と一方的に通達した。教室内の力関係は「プロレス男子>ままごと女子>文化系男女」であり、強き者が弱き者からとことん奪い尽くすのが世の常だ。強奪と迫害の連鎖。Kくんたちが無言で絵本を片付けようとする姿を見て、私はままごと女子の一員として、どうにも我慢ならなかった。細かな経緯は忘れたが、気がついたらガキ大将の一派に殴り込みをかけて宣戦布告していたのだ。「貴様たちが所構わずドンパチ始めるせいで、我々のままごとスペースが蹂躙され、結果、Kくんたち罪もない人々までもが苦しめられている。これは教室内に平和を取り戻すための戦争である」というのがその理屈。愛する人が心穏やかに暮らす日常、その未来は私が守る。たとえこの手が血に染まっても構わない。それに、災厄を退ける勇猛果敢な姿を見れば、もしかしたらKくんが「かっこいい」私に惚れて、晴れて相思相愛になれるかもしれない。……当時は本気でそう思っていたのだ。我ながら、ルーシーとペパーミント・パティを足して二で割ったような、厄介な恋する女児だったと思う。もちろん園児のやることだから、最終的には好戦的な男女が入り乱れて、プロレスどころではない掴み合いの大乱闘。先生が仲裁に入る頃には、教室の隅で震えるKくんが私を見る目は、野獣に怯える小動物のそれになっていた。○私は最低、あなたは最高「三つ子の魂百まで」という諺がある。誰かに恋愛感情を抱いたとき、それがうまくいかなくなったとき、私はいつもこの諺を思い出す。狼狽と恐怖に顔を引きつらせた男。ためいき一つ残して去っていった男。「君には僕よりもっとふさわしい相手がいるはずだよ」と慰めてくれた男。Kくんに似たいろんな男を好きになり、彼らのように生きたい、彼らに似合う私でありたい、と思って行動してきたのに、どれもこれも実を結ばなかった。私がジュリーを好きになったように、彼らにも、私のことを好きになってもらいたかった。でも、その方法がわからなかった。好きでもないガキ大将の襟首を掴むことは簡単なのに、静かに絵本を読む彼らの眼鏡には、指一本、触れられなかった。私の汚れた手で乱暴に触ると、美しい彼らの存在が、はらはらと壊れてしまうかもしれないと思ったから。外に出て真っ黒に灼けるまで遊び、裏山の池で泥まみれになってザリガニを釣り、昆虫を捕まえようとして叩き潰し、時にガキ大将と掴み合いの喧嘩をしながら、私は「綺麗な男の子」が好きだった。Kくんだけは、真っ白のまま、穢したくないと思っていた。彼と、彼の住む世界にだけは、きちんとこの手を石鹸で洗って殺菌消毒してからでないと、触れてはならないと思っていた。これが私の「初恋」だ。Kくんの両親が営む歯科医院は今も我が家の近所にあり、帰省すると前を通ることもあるのだが、私は卒園後、彼と会ったことは一度もない。ひょっとしたら本当は、メガネ男子でも美少年でもなかったのかもしれない。それでもいい。私の記憶の中でだけ、彼はずっと「綺麗な男の子」であり続ける。彼があの綺麗な彼のまま、この地球のどこかに存在し続けていてくれたら、私はそれだけで生きていける。卒園の頃になって、母親が好きでよく聴いていた荒井由実「卒業写真」の歌詞を、完璧に理解できた瞬間がある。「変わってゆく私を、あなたは時々、遠くで叱って」とお願いしたくなる男の子。その最初は、Kくんだった。二度と会えなくても、思い出すだけで、汚れた手を石鹸で洗いたくなる男の子。そんな気持ちをこんなふうに歌えるユーミンは、天才だなと思った。思い出の中で白く綺麗に光り輝き、すでに顔もぼやけてしまったKくんの存在は、特定の宗教をもたない私にとって、もはや恋愛というより信仰の対象に近い。○「よそはよそ、うちはうち」幼稚園や保育園というのは、同世代の子供と初めての共同生活を送る場所だ。同じ家庭に育つきょうだいとはまた別の意味で、自分と他者との「違い」に気づかされる場所でもある。生まれが違う、育ちが違う、家庭環境次第で性格や倫理観も違う。もっと言えば、親の経済力によって金銭感覚が、学歴や職歴によって向学心が、その他、人生におけるさまざまな価値観が、すでにして決定的に違うのだ。運転手つきの黒塗りのクルマで送り迎えされているご令嬢もいたし、幹線道路を一人で渡って雨漏りのするボロ屋へ帰る私のような園児もいた。親が「お受験」させるために遠方から越境してくる子もいたが、女の子はいい学校へ行くと嫁の貰い手がなくなる、とのたまう父兄もいた。我が子には有害な食材を与えないと徹底する親もいて、私が園庭の蛇口から水を飲んだら白い眼で見られたこともある。小さな「違い」が積み重なると反発が起きる。そもそもなぜ、私たちはここにいるのだろうか。ただ年齢が同じで家が近所だったというだけで、一緒に狭い空間に閉じ込められ、つねに比較されながら『幼馴染』と呼ばれるなんて、たまったもんじゃないぜ……その後の学校生活でもさんざん味わう羽目になる、あの感情が最初に芽生えたのも、幼稚園でのことだった。しかし一方で、級友たちとの間に「違い」があって初めて、私は自分自身の「欲望」を具体的に知るようにもなった。あの子のお家はリビングの照明がお城みたいなシャンデリア、私もお金持ちの家に生まれたかった。あの子のママが作るお弁当はいつもとっても美味しそう、私も料理上手のママが欲しかった。Kくんは色が白くて目鼻立ちが整っていて理知的で物静かで上品で、見惚れるほどかっこいい。私もKくんみたいになりたい、Kくんに似合う女の子でいたい。でも、できない。きょうだいと一つのオモチャを奪い合うのとは意味合いが異なり、もっと広い意味で「自分にはないもの」を求めるようになった。「差」のあるところに「欲望」が生まれる。その欲望は、満たされないほど燃え上がる。それが愛でも、憎悪でも、「自分にはないもの」への荒ぶる気持ちを鎮めて飼い馴らすのは本当に難しい。そういえばスイス人の血を引く級友がいて、彼女はそれだけのことでいじめられていた。みんな童話の絵本で見た金髪碧眼のプリンセスには憧れてなりたがっていたのに、すぐ横にいる色素の薄い彼女のことは「違う」子として泣かせてばかりいた。私だって、我がものにならないKくんを、いつ傷つける側に回っていたともしれない。「三つ子の魂百まで」という諺を思い出す。他の誰かを羨むたびに、両親からさんざん聞かされた「よそはよそ、うちはうち」という言葉とともに。世の中から「違い」をなくそう、と言う政治家や教育者もいるだろう。でも私たちは、まず「違い」を知らなければ、「今とは違う自分になりたい」と願うようにもならない。格差と不満に気づいて己の「欲望」を正しく知ることは、それはそれで大事なことと思うのだ。人は、誰に教えられるわけでもなく「自分にはないもの」に惹かれる。これは、ゆりかごの中で身につけた習性なのかもしれない。どんなにきれいに石鹸で手を洗っても、実際にはほとんどが手に入らない。フラレる前に終わった失恋。よそはよそ、彼は彼、私にないものをいくら欲しても、そのまま望む通りには得られないのだと思い知った、初めての「節目」は、4歳の恋だった。ちなみに私、今までの人生で「一目惚れした相手がゲイ男性だった」という確率が非常に高い。三つ子の頃から「私のことを何とも想っていない、化粧映えする綺麗な男子」ばかりを選んでいるのだから、当然といえば当然なのだが……もちろんいずれも、フラレる前に消える恋だ。きっと百まで、墓場まで、この調子なのだと思う。<今回の住まい<私が生まれ育った街は幹線道路を挟んで貧富の差が激しく、「富」の地区には有名芸能人の豪邸なども立ち並んでいた。幼稚園のクラスメイトのお屋敷に招かれると、天井が高く煌びやかな装飾で、グランドピアノが一台置いてあるだけの広大な空間があった。今は何にも使っていないの、と言われたそこが「ボールルーム」の名残だと気づくのは、大人になってからである。私は「貧」地区の出身です。岡田育1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。イラスト: 安海
2014年10月03日俳優の役所広司と岡田准一が10月1日、共演作『蜩ノ記』の特別試写会に出席した。岡田さんが「試写を観ていたら、横で役所さんが号泣されていた」と暴露すると、役所さんは「岡田君だって泣いていましたよ」と反撃。劇中同様、強い師弟愛(!?)を披露した。前代未聞の不祥事を起こした戸田秋谷(役所さん)は、10年後の夏に切腹し、その日までに藩の歴史である「家譜」を完成させることを命じられる。一方、城内で刀傷沙汰を起こした藩士の檀野庄三郎(岡田さん)は、秋谷の監視役を命じられるが、そのひたむきな生きざまに心揺さぶられる。第146回直木賞を受賞した葉室麟の小説を原作に、役所さんと岡田さんが初共演を果たした。この日、役所さんと岡田さんに加えて、共演する堀北真希、原田美枝子、小泉堯史監督が出席し、「涙活(るいかつ)試写会」と銘打って開催された試写会。 涙活とは、意識的に泣くことで心のデトックスを図る活動だといい、涙活プロデューサーの寺井広樹さんが提唱するもの。このたび、『蜩ノ記』が世界に涙活を広める「全米感涙協会」認定映画第1号となったことを記念し、役所さんに涙のしずくをモチーフにした特製トロフィーが授与された。「今日、(イベントの進行)台本を読んで『これ、ギャグかな』と思った」と役所さん。それでも寺井さんから実際にトロフィーを受け取ると、「結構重いですね。今日映画を観てくださったみなさんの涙とどっちが重いかなあ…。とにかく認定第1号ということで光栄です」と涙、ではなく笑みを見せていた。涙といえば、岡田さんは先日、主演を務めたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮了会見での“男泣き”が大きく報じられたばかり。岡田さん本人も「つい最近、泣いてしまって」と照れ笑いを浮かべた。また、本作に関しては「小泉監督のために、日本映画界のベテランスタッフさんが集まった。まるで日本映画の歴史を目の当たりにするようで、現場にいるだけで泣ける思いだった。本当に、すごい人ばかりだったんですよ」と涙のエピソードをふり返った。『蜩ノ記』は10月4日(土)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:蜩ノ記 2014年10月4日より全国にて公開(C) 2014「蜩ノ記」製作委員会
2014年10月01日(画像はプレスリリースより)北海道で育乳セミナー2014年8月18日、株式会社CECILは北海道にて育乳セミナーを行うと発表した。講師はバストのカリスマ戸瀬恭子氏。定員は1回5名で、料金は税別1万円となっている。内容は、バストアップに必要な、美肌(土台作り)、正しい食生活、女性ホルモン、下着の正しい選び方と付け方、大胸筋の鍛え方、セルフマッサージに関することから、乳がんや子宮がんの話までと幅広い。戸瀬恭子氏による施術も今回、「施術」も行われ、育乳セミナー講師の戸瀬恭子氏が担当する。バストメイクドレナージュは税別52,500円、個別指導52,500円、両方を行うと97,000円となる。施術日程は9月27日(土)10:00~12:00、13:00~15:00、9月28日(日)16:00~18:00、9月29日(月)9:00~11:00。予約が必要。詳細は下記にてご確認を。問い合わせ先(株)CECIL〒455-0813愛知県名古屋市港区善進本町19ーBTEL052-384-7277tose461227@yahoo.co.jp(プレスリリースより)【参考】・CECILプレスリリース
2014年08月21日「V6」の岡田准一が主演する感動巨編『永遠の0』の完成披露試写会が2日、東京・有楽町の東京国際フォーラムで行われ、岡田をはじめ、三浦春馬、井上真央、濱田岳、新井浩文、染谷将太、三浦貴大、上田竜也、山崎貴監督が舞台あいさつに立った。岡田は「命を削りながら、大切に撮影した作品。たくさんの愛が詰まっている」と胸を張り、駆けつけたファン5000人に作品をアピールしていた。その他の画像原作は現在までに累計発行部数400万部を突破している百田尚樹氏の同名小説。特攻により戦死した天才パイロット・宮部久蔵(岡田)の60年間封印された真実が、現代を生きる孫の健太郎(三浦春馬)によってひも解かれる。岡田が演じるのは天才零戦パイロットでありながら、“海軍一の臆病者”と呼ばれた謎多き男という役どころで「当時を生きた方々に認めていただきたいという気持ちもあり、しんどい役ではありました」と振り返り、「壮大な愛を受け継いでいく物語。皆さんにとっても大事な作品になれば」と語りかけた。片や、現代を生きる青年を好演した三浦は「すごく刺激を受けた」と、橋爪功、平幹二朗、今年5月に亡くなった夏八木勲らベテラン勢との共演に感激しきり。4年前に他界した祖父は、戦時中に多くの仲間を失ったと明かし「自分のルーツに触れる機会にもなった」としみじみ。久蔵の妻・松乃を演じる井上は「戦争ものを敬遠される方もいると思うが、誰かを大切に思う気持ちは、時代を超えて共感できる。ぜひ女性にも観ていただければ」と話した。人気コミック「寄生獣」の映画化でも話題を集める山崎監督は、「悔しいほどに感動して泣いてしまった。ぜひ映画化という形で“対抗”したかった」と原作との出会いを述懐。2012年夏、猛暑の中で撮影に臨んだスタッフ、キャストの労をねぎらっていた。『永遠の0』12月21日(土)、全国東宝系ロードショー
2013年12月03日映画『宇宙兄弟』の大ヒット御礼舞台挨拶が5月15日(火)、都内劇場で行われ、小栗旬と岡田将生、森義隆監督が登壇。最後にサプライズで小栗さんが用意した手紙に、岡田さんが感動して涙する一幕もあった。「週刊モーニング」(講談社刊)にて連載中の人気同名漫画の映画化で、仕事をクビになり、かつての夢だった宇宙飛行士を目指して奮闘する兄のムッタ(小栗さん)と、現役宇宙飛行士で月面に旅立つ弟のヒビト(岡田さん)の姿を描く。この日の舞台挨拶は、5月5日(土・祝)の初日舞台挨拶終了後に岡田さんが「また舞台挨拶をやりたい」と言い出したことから実現したそうで、なんと小栗さん自らがMCとなって進行役を務めた。森監督は「予定がなかったのでひと息つくために沖縄に行こうと思ってたんですが、飛行機をキャンセルして来た」と明かし、これには言い出しっぺの岡田さんも「複雑ですね、嬉しいけど…」と苦笑いを浮かべていた。昨年4月に撮影が始まり、1年余りが過ぎてこの日の舞台挨拶が本作に関わる最後の仕事となるが、岡田さんは「撮影が終わって宣伝をずっとやらせてもらって、1年くらい『宇宙兄弟』のことを考えている自分がいた。よかったなと思うし、楽しい日々でした」と述懐。これに“MC”小栗さんから「当たり障りのないコメントですね」とツッコミが入り、会場は笑いに包まれた。小栗さんは「いまだから言えるけど」と前置きした上、現場の雰囲気について「クランクインして、1か月経たないくらいで岡田くんが入って来たんですが、僕のところに近づいてきて『この現場ってずっとこういう感じなんすか?』って。いろんな人が『こんなんじゃダメだ。こうするぞ!』という感じで、監督はそこでひとりで戦っていて、現場は殺伐としてたんです」と明かす。岡田さんも「気まずかったです(苦笑)」と頷きつつ、「監督が戦ってる姿を見て、僕も戦おうと思った」とふり返った。そして、最後の締めの挨拶になって、岡田さんは「旬くん、今日僕は手紙を書いてきました」とニッコリ。「これまで時計を盗まれたり、指輪にドレッシングかけて口の中に入れられたりしたけど(苦笑)、お世話になったので」とポケットから白い封筒を取り出した…が!観客の前で読むのが急に恥ずかしくなったのか「やっぱり家に帰って見てください」と言い出して、客席からは「えー?」とブーイングが…。何とか思い直して岡田さんは照れながらも手紙を朗読。「本当の兄貴ができた気持ちでした」と小栗さんへの思いを伝えた。これには小栗さんも「素敵な“弟”を持って幸せです」と語った。さらに小栗さんは「実は僕も手紙を書いてきました!」とニヤリ。実は岡田さんが手紙を書いてきたことを事前に知らされ、サプライズ返しとばかりに小栗さんも手紙を執筆してきたとのこと。サプライズを仕掛けたつもりが、逆に自分だけ何も知らされていなかった岡田さんは驚愕の表情で「何だよぉ…」とうなだれた。小栗さんは“兄”として「キミが隣にいてくれてよかった」と岡田さんへの感謝の思いをユーモアたっぷりに伝え、岡田さんはこらえきれずウルウル…。慌てて涙をぬぐい、客席は温かい拍手に包まれた。『宇宙兄弟』は全国東宝系にて公開中。■関連作品:宇宙兄弟 2012年5月5日より全国東宝系にて公開© 2012「宇宙兄弟」製作委員会■関連記事:小栗旬&岡田将生、『宇宙兄弟』興収30億円も射程圏内のロケットスタートに浮き足立つ!『宇宙兄弟』新井浩文×濱田岳インタビュー「目をつけるとこが一緒なんです(笑)」【シネマモード】日本の「家族」を感じる映画vol.2『宇宙兄弟』×兄弟の関係『宇宙兄弟』&『ガール』の監督が登壇! NCWクリエイティブセミナーに6名様ご招待岡田将生×小栗旬主演『宇宙兄弟』試写会に30組60名様をご招待
2012年05月16日榮倉奈々、岡田将生からの突然のプレゼントに涙!11月10日、映画「アントキノイノチ」公開を記念し、都内で開催されたセレモニーに、主演した榮倉奈々、岡田将生が出席した。榮倉と岡田は「アントキノイノチ」公開を記念するため一般公募された【ラブレターツリー】の設置セレモニーに出席。岡田からの突然ののクリスマスプレゼントに、榮倉が涙ぐむ場面があった。岡田からのサプライズプレゼントはスノードーム岡田からの榮倉へのサプライズプレゼントは、劇中の印象的なシーンで登場する観覧車の模型が入ったスノードームだった。映画コムによると岡田は「2月から一緒にやってきましたが、すごく助けられました。本当に一緒にやれてよかったし、また違う作品でも会えたらうれしい。ありがとうございました」と照れくさそうに感謝の言葉を榮倉に伝え、スノードームを手渡した。榮倉の瞳に涙が思いがけないプレゼントに驚いた様子の榮倉は、涙を静かにぬぐい「(作品への)思いが強いだけに、全てのことに100%届けようと一緒にがんばってきたのでうれしいです。ありがとう。恥ずかしい(笑)」と感激で一杯の胸の内を語ったという。映画「アントキノイノチ」とは?歌手のさだまさしによるベストセラー小説を映画化。遺品整理業という特殊な仕事を通して「命」の重さ、人と人が繋がる尊さを描いた作品だ。また、榮倉は「アントキノイノチ」の公式サイトで「生きるということ、社会と関わるということ。日々、自問自答しながら前進したいと望む姿は同世代として、とても興味深いです。瀬々監督も岡田将生くんも初めてご一緒させていただくので、どんな風にコミュニケーションを取って撮影が進んでいくのか、今から楽しみです。」と、コメントを残している。「アントキノイノチ」初日舞台挨拶のお知らせ●11月19日(土)●場所:丸の内ピカデリー11回目 午前9:20の回、上映終了後/2回目 お昼 12:50の回、上映前●[登壇者]岡田将生、榮倉奈々、原田泰造、松坂桃李、瀬々敬久監督(以上すべて予定)●場所:MOVIX亀有1回目12:30の回、上映終了後/2回目15:45の回、上映開始前●[登壇者]岡田将生、榮倉奈々、松坂桃李、瀬々敬久監督(以上すべて予定)「アントキノイノチ」公式サイトより元の記事を読む
2011年11月12日「一生懸命、自分の中から言葉を探してる」と岡田将生は言った。作品や役柄についてではなく、そのときのインタビューについて語った発言なのだが、俳優・岡田将生の生き方そのものを表していると言える。10代の頃から誰もが羨むような輝かしい成功の階段を上り続けてきたように見えるが、その陰で常にもがき、自らと向き合ってきた。だからこそ、映画『アントキノイノチ』で演じた主人公の杏平に対して、まず何より感じたのは強い共感だった。壊れた心を少しずつ再生していく杏平を演じながら岡田さんは何を探し、何を伝えようとしたのか?その内なる思いを明かしてくれた。10代の自分とリンクした、杏平の心の葛藤映画冒頭、裸で民家の屋根の上に座り込み虚空を見つめる岡田さんの姿が映し出される。高校時代のある出来事がきっかけで、心を壊してしまった杏平。22歳の岡田さんは、自らが10代の頃から感じてきた思いを重ね合わせながら物語と向き合っていった。「ふと『何でおれは生きてるんだろう?』とか『これからどんな大人になって、どういう社会で生きていくんだろう?』ということを考えることが10代のときから僕自身ありました。漠然とした不安を感じながら俳優という仕事をさせてもらって、その中で僕はこの仕事が好きだと気づいて続けられている。でも杏平くらいの頃は何も分からずにいて、そのリアルさに『おれもそうだったな』とリンクしました」。ある悪意に疲弊し自ら命を絶った友人。その悪意の矛先が今度は自分に向けられることへの恐怖と戸惑い。そして期せずして発見した己の内にある憎悪と周囲の無関心――。そうしてバラバラになった心を、杏平は遺品整理業という仕事を通じて再生させていく。こうしたひとつひとつの心の動きを岡田さんは丁寧に演じている。「僕自身、いじめられた経験もあるし、それがどんなにつらくて嫌なことか分かっています。僕はまだ22歳ですが、そういうところを若い人にきちんと伝えたいと思ったし、『分かりたい』って思う自分がいました。何より、生に対してもがき、苦しんでいる姿、少しずつ杏平が前に進んでいく姿がいいなと思えたんです」。演技の面でポイントとなったのは杏平が生まれつき抱えている吃音(きつおん)。杏平の周囲との距離感やもどかしい思いが伝わってくる。一方で岡田さんは「映画を観る方に届いたらいいなと思った大切なセリフ」に関しては監督に対し、あえて吃音を含ませずにストレートに表現することを提案したという。「榮倉(奈々)さん演じるゆきが過去を告白するシーンでの、杏平の『自分がどうして生きてるか分からない』というセリフはすごく好きで、それを吃音で言うべきかどうか悩みました。あとは文化祭で杏平がみんなに問いかけるシーン。あの心からの叫びでも吃音が出てないです。あのセリフを噛んで言ってしまうと、ただもがいている一人の生徒に見えてしまい、(周囲への思いが)伝わらないと思ったんです」。ちなみに全編を通じて岡田さんのモノローグが入るのだが、こちらも吃音はなく、落ち着いた口調で語られている。物語の中でもがき、葛藤する杏平とは違う人物のようにも感じられるが…。「あのモノローグは現在よりもずっと先の杏平という設定で、少し達観した立場から語ってるんです。僕は最初、そういう風に思ってなかったんですが、監督から成長した杏平が過去をふり返るような形にしてほしいと言われて『あぁ、なるほど』と思いました」。「これまで良い出会いがたくさんあったし、それを必然と思いたい」先述の榮倉さん演じるゆきの告白のシーンを「『いま生きてるんだな』、『息して、目の前の人と話してる』というのを感じながらその場にいた」と述懐。ゆきと杏平の出会いをこんな言葉で説明する。「杏平にとってはいい時期に巡り合えた同じ傷を抱えた女性。巡り合わせなのかなと思えました。原作の小説や台本を読んだときから僕は親のような気持ちで『お前、ゆきちゃんと出会えて本当によかったな』って思ってました(笑)。それは巡り合うべき人だったし、傷をなめ合うのではなくて、一緒に一生懸命考えて、“生きていく”ということを見出せる人。僕自身、これまで良い出会いがたくさんあったし、それを必然と思いたい。色々なところに行って色々な人と会って、新たな発見を求めている自分がいるんです。それはいまでも思っているし、だからこそ現場が好きなんです」。「終わったときは寂しくて、永島杏平という役から離れるのが嫌だなと素直に思えた」と岡田さん。クランクアップを迎えたその足で美容院に直行して髪を切り、気持ちを切り替えたというエピソードからも役柄への強い思い入れがうかがえる。ゾクリとするような歪んだ笑みを浮かべて悪意を体現した昨年の『悪人』、己の内の悪意と憎悪に押し潰されて心を壊していく今回の『アントキノイノチ』と、強く役柄を引きずってしまいそうなヘビーな作品で際立った存在感を放っているが、出演作品を決める基準は?「僕自身は作品選びにはタッチしてないです。ただ、マネージャーや事務所の人には『こういう作品をやってみたい』ということは普段から少し伝えています(笑)。20歳を超えてから、高校生を離れて次のステップとして社会派というか、メッセージ性の強い作品に携わりたいという思いはありましたね。いまも違うジャンルの映画を観ると『こういうのをやってみたい』とか思います。いまは…しばらく恋愛映画から離れていたんですが、『ラブ・アクチュアリー』を観て幸せになったので(笑)、ハッピーエンドのラブストーリーをやりたいと言ってます」。探しているのはきっと言葉だけではない。時に疾走し、立ち止まり、泣いて、叫んでまた歩き出し…。岡田将生の旅はまだまだ終わらない。(photo:Yoshio Kumagai/text:Naoki Kurozu)■関連作品:アントキノイノチ 2011年11月19日より全国にて公開© 「アントキノイノチ」製作委員会■関連記事:岡田将生のサプライズプレゼントに榮倉奈々、思わずウルリシネマカフェ読者ゴコロなんでもベスト5(第20回)“ほっとけない男子”俳優は?【TIFFレポート】岡田将生&原田泰造通訳付き映画祭公式上映にハイテンション!【TIFFレポート】映画祭開幕!ミラジョヴォら美しき女優陣のファッションに釘づけ岡田将生、釜山映画祭でサイン攻め!『アントキノイノチ』への特別な思い明かす
2011年11月10日来年のNHK大河ドラマ「平清盛」で岡田将生が演じる源頼朝の姿が初めて公開された。物語の語り部でもある頼朝を演じての岡田さんのコメントも到着した。武士の棟梁として平家一門の栄華と繁栄を築いた平清盛(松山ケンイチ)の生涯を全50回で描き出す本作。頼朝は、清盛と覇権を争い敗れ去った源義朝を父に持つ源氏の正統な後継者。父が敗れた際になぜか清盛は頼朝を殺さずに罪人として伊豆に流す。尊大な父の憎き仇・清盛を倒すことを夢見て頼朝は鍛錬を重ね、39歳で鎌倉にて決起。やがて壇ノ浦で平家を打ち滅ぼし、源氏の棟梁として幕府を興す。1月8日(日)の第1回目の放送では、まず誰よりも最初に頼朝が映し出される。平家を滅ぼして歓喜する兵たちを見ながら頼朝は「平清盛とはいかなる男だったのか?」、「私はあの男に本当に勝ったのだろうか…」と自らに問いかける。そこから頼朝の目線で、創成期の武士たちの物語、そして武士として初めてこの国の覇権を握った清盛という男の偉大さが綴られていく。今回、初めての大河ドラマ出演となった岡田さん。実際に参加してみての感想を尋ねると「まず、ロケの規模の大きさにビックリして、本当に凄いなあと思いました。かつらも衣裳もすごく凝っていて、気持ちが上がって、役にすんなり入れました。すんなり入れた分、思っていたより緊張せず楽しんでやれました」と手応えをつかんだ様子だ。第1回放送で誰よりも早く登場することになるが「台本を読んだ時点でそのことを知り、とても恐縮しています」とも。決起の時点で39歳、平家滅亡のときにはすでに40歳を超えているため、今回、解禁となった写真でも頼朝は白髪交じり。凛々しさとどこか憂いを感じさせる表情が印象的な岡田版・頼朝。史上最年少で務めるナレーションにも期待したい。「平清盛」は2012年1月8日(土)よりNHKにて全50回で放送。■関連作品:アントキノイノチ 2011年11月19日より全国にて公開© 「アントキノイノチ」製作委員会■関連記事:岡田将生&榮倉奈々、トロフィーの重みで受賞を実感!『アントキノイノチ』モントリオールで高評価岡田将生は仏語でスピーチ決めた!ヴェネチア、モントリオールにトロント…世界の映画祭での邦画の奮闘に期待!冒頭でいきなり全裸…?岡田将生の様々な表情に注目の『アントキノイノチ』予告編榮倉奈々、岡田将生は「小学生」!?「もう22歳なんですけど」と本人苦笑
2011年09月27日岡田将生と榮倉奈々主演で、さだまさし原作の同名小説を映画化した『アントキノイノチ』の完成報告会見が10日に都内で行われ、岡田、榮倉をはじめ、原田泰造、松坂桃李と瀬々敬久監督が登壇した。その他の写真本作は、それぞれ過去のトラウマで心を閉ざしてしまった杏平(岡田)とゆき(榮倉)が遺品整理という命と向き合う仕事を通して出会い、次第に心を通わせ“自身と人とのつながり”について向かい合う姿を描いた作品。撮影中に東日本大震災が発生し、瀬々監督は「このまま撮り続けてもいいものかと考えたが、震災後に命の大切さや絆が大事だと語られるようになったので、この映画を通してよりみなさんに伝われば」とあいさつ。“命の大切さ”を訴える本作についてキャスト陣も「この時期に参加できてよかった」と口を揃えた。その瀬々監督の印象について榮倉は「私の顔を見ながら“岡田さん”と呼ぶので、まず監督に名前を覚えてもらうのに必死だった」と話し、松坂も「岡田くんとのシーンでは“松岡くん”と言うからどっちを呼んだのか分からなかった」と暴露。岡田は榮倉との初共演について「僕より2歳上だけど、とても話しやすくて心が和らいだ」と話す一方で、榮倉は「岡田くんはとても純粋で、小学生と話してるみたいだった」とコメント。岡田は赤面しながらも「僕もう22歳なんですけど…でも嬉しいです」と複雑な表情を見せる場面もあった。本作は第35回モントリオール世界映画祭のワールド・コンペティション部門で正式出品が決定し、現地時間19日に予定されている公式上映には岡田、榮倉、瀬々監督が登壇する予定で、岡田は「世界の方々に見てもらえると思うと嬉しい。映画祭を楽しみながら、みなさんと映画を共有できたらいいな」と喜びの表情を浮かべた。『アントキノイノチ』11月19日(土)全国ロードショー
2011年08月10日