令和の時代からみれば「昭和」は未知の世界かもしれません。とはいえ、恋愛では盛り上がる要素もいっぱいあったようです。今回は、昭和の頃の恋愛観のなかから1つ、「婚約指輪」についてのエピソードをご紹介します。プロポーズは給料3か月分の指輪「男性側が給料3か月分くらいの豪華な婚約指輪を用意してプロポーズ、というイメージが一般的でしたね。旦那さんは頑張って本当に3か月分のものを買ってくれましたが、今考えると、その分を他に使っても良かったかな~なんて思ってしまいます」(主婦/50代女性)▽ そんな指輪を見せられたらプロポーズも断れないかもしれませんね。ドラマの中でもキラキラ豪華な指輪のシーンは定番でした。
2022年05月09日令和の時代からみれば「昭和」は未知の世界かもしれません。とはいえ、恋愛では盛り上がる要素もいっぱいあったようです。今回は、昭和の頃の恋愛観のなかから1つ、「タバコ」についてのエピソードをご紹介します。男性のタバコ姿がかっこいい「映画やテレビの中で、タバコをかっこよく吸う男性が素敵だと言われていました。ちょっとワルっぽいところが良かったのかもしれませんね!でも、私の娘は『タバコ吸わない彼氏がいい』と言っているので、今の時代とは逆のイメージみたいですね」(パート事務/40代女性)▽ 今のように電子タバコも存在していなかったのでワイルドな感じです。ちょっと渋い雰囲気が大人っぽく見えたのかもしれませんね。
2022年05月08日令和の時代からみれば「昭和」は未知の世界かもしれません。とはいえ、恋愛では盛り上がる要素もいっぱいあったようです。今回は、昭和の頃の恋愛観のなかから1つ、「食事代」についてのエピソードをご紹介します。男性が奢ってくれて当たり前「バブル時代は男性のお給料がすごく良かったんです。だから、ちょっとデートしたら食事などは男性が奢ってくれるのが当たり前。女性はお財布さえ出さなかったと思います。しかもほどんどの男性が車を持っていたので、お迎えだけに来てくれる男友達もいたんですよ」(販売/50代女性)▽ 食事を奢ってくれる彼という意味の「メッシー」、送り迎えをしてくれる彼「アッシー」なんて言葉があったほど!男性の方も彼女のために忙しかった時代のようですね。
2022年05月07日令和の時代からみれば「昭和」は未知の世界かもしれません。とはいえ、恋愛では盛り上がる要素もいっぱいあったようです。今回は、昭和の頃の恋愛観のなかから1つ、「電話」についてのエピソードをご紹介します。好きな人と長電話はハードル高め「スマホがない時代、好きな人と話すためには家電話にかけるしかなくてハードル高めでした。しかも長電話したら家族にバレバレ!電話代の請求を見た母親から『あなた誰とこんなに長くしゃべったの!』と怒られるほど。でもドキドキしなら好きな人に電話した学生時代が懐かしいです」(営業/40代女性)▽ スマホがあれば簡単にできちゃう彼とのやりとりですが、昔は繋がるだけでも大変だったのです。でも、彼と会話できたという達成感はありそうですね!
2022年04月29日17歳の誕生日。炉端焼きを囲んだ場で、ケーキではなく鯛の活き造りで祝った(’76年1月)撮影/週刊女性写真班山口百恵さん(63)が、往年の大女優・原節子さんの存在に近づいてきた。いや、もう追いつき、追い越しているかもしれない。実力や実績などの比較ではない。伝説の人としての大きさである。“伝説の人”と言われる所以1935年に女優デビューした原さんは小津安二郎監督の映画3部作『晩春』『麦秋』『東京物語』に出演したことにより、確固たる人気と評価を得たが、42歳だった1962年に何のコメントも出さぬまま引退。以降、表舞台から去り、伝説の人になった。原さんが2015年に95歳で他界すると、新聞各紙は1面で報じ、テレビ各局のニュースもトップで報じた。引退から53年も過ぎていたことを考えると、超破格の扱いだった。なにしろ、訃報を伝えた記者の大半は原さんの引退後に生まれたのであり、原さんの現役時代を知る人も70代以上に限られていたのだから。伝説の大きさを物語っていた。一方、21歳だった1980年に引退した百恵さんも原さんに匹敵する存在と言っていい。引退から約42年が過ぎたものの、昨年から今年4月1日までの1年間に朝日、読売、毎日、産経の4紙は計82件も百恵さんに関する記事を掲載した。半面、引退した年に産声をあげた記者であっても42歳か41歳。記者の多くはその活躍を目にしていないのだ。記事を読む側も同じ。人口約1億2500万人のうち、百恵さんの現役時代を知らない45歳以下の人は5000万人を超えている。それでも百恵さんの知名度や人気、存在感は衰えを知らない。百恵さんの動向が報じられるたび、大きな話題になる。記者も読者も伝説を追い続けている。興味深い調査結果がある。日本生命が昨年、約1万7000人を対象に「母親になってほしい著名人は誰ですか?」というアンケートを行ったところ、百恵さんは4位だった。1位は吉永小百合(77)、2位は天海祐希(54)、3位は草笛光子(88)、5位は石田ゆり子(52)だった。みんな現役組である。ベスト10まで見ても引退しているのは百恵さんのみ。ドラマや映画などで頻繁に顔を見る多くの女性芸能人より百恵さんのほうが慕われているのだ。百恵さん本人がどう考えようが、伝説の人は強い。人々の記憶の中では姿を消した人気絶頂時のままだからである。輝いている。現役組にとっては同じ土俵で戦える相手ではないので、対抗するのが難しい。引退後は一切表に出ないよく知られている「理想の有名人夫婦」(明治安田生命調べ)アンケートでは夫の三浦友和(70)と共に2020年まで15年連続でトップ。V15を機に殿堂入りし、ランキングの対象外となったものの、そうでなかったら、ずっとトップを続けたのではないか。「母親になってほしい著名人」と「理想の有名人夫婦」に選ばれる理由に限ると、引退後のことも影響しているはずだ。1989年4月、このほど女児の父親になった長男・三浦祐太朗(37)の幼稚園入園式で、一家3人がカメラマンにもみくちゃにされると、百恵さんは必死の形相で祐太朗を守り続けた。その頑ななまでの対応を批判する取材者も一部にいた。だが、世論は我を忘れて子どもを守る百恵さんを圧倒的に支持した。伝説化は加速した。祐太朗に子どもができたので、ワイドショーは百恵さんを取材しようとしており、実現の可能性もあると一部週刊誌が伝えている。もっとも、現実的には可能性ゼロだ。自分の子どもが生まれたときや恩人の死のときすらコメントしていないのだから。昨年7月、歌手としての育ての親である元CBS・ソニープロデューサーの酒井政利さんが亡くなったときも沈黙を守った。引退したからには一切表に出ないのが百恵さんの流儀なのだろう。原さんも一緒だった。取材を申し入れられるたび、「そっとしておいてほしい」「これが私の選んだ生き方です」などと言い、ノーコメントを通した。小津監督と共に恩人である黒澤明監督、成瀬巳喜男監督の死去の際にもコメントしていない。なぜ2人の存在は色褪せないのか。無論、実力も実績も十二分にあったことが前提にあるが、日本人が潔さに強く惹かれるのも理由に違いない。桜が好まれる一因もパッと咲き、瞬く間に散ってしまうから。芸能人も人気絶頂期に姿を消すと、代えがたい美しさを感じるのだろう。きっかけは「家族のために」世代もタイプも違う原さんと百恵さんだが、共通点もある。原さんは2男5女の末っ子として生まれ、家庭の経済的な事情で女学校を中退し、映画界入りした。原さんは現役女優時代、周囲に「望んで女優になったわけではない」と語っていた。一方、百恵さんは1972年、13歳でオーディション番組の日本テレビ『スター誕生!』に出場し、翌1973年にデビューした。女手1つで自分と妹を育てていた母・正子さん(1989年死去、享年60歳)に楽をさせてあげたいというのが動機だった。原さんのデビューは15歳。百恵さんは14歳だった。昭和、平成、令和と時代が変わろうが、家族のために働こうとする10代を笑う人間はいない。応援したくなる。その後、見事に目的を果たし、引退したことも伝説化に拍車を掛けた。芸能界との決別を自分で決めたところも2人は一緒。原さんの引退は小津監督の死去と同時期であることから、その関連性を指摘する説も生まれたが、親族も映画関係者も口々に否定した。原さんの評伝の決定版と名高い『原節子の真実』を書いたノンフィクション作家の石井妙子さんも「女性が自分で下した大きな決断を、異性の影響だとして見ようとする傾向は、なんとも浅はかであるし、原節子に対して失礼」(2017年9月10日付産経新聞)と断じている。百恵さんも友和から引退を促されたわけではない。結婚を前に「芸能界を辞める」と言った百恵さんに対し、友和は考えた末に「よし、わかった」と答えた(三浦友和著『相性』)。自分の努力で登り詰めた頂点の座から、自ら降りたことも人々を引き付け続けるのだろう。原さんの伝説は本人の意向に関わりなく、引退から時が過ぎるほど大きくなっていった。本人の実像が見えないほど伝説は膨らむ。百恵さんの伝説が同じ道を辿るのは間違いない。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年04月16日『あのねのね』の原田伸郎と清水国明《ネコ ニャンニャンニャンイヌ ワンワンワンカエルもアヒルもガーガーガー》フォークデュオ・あのねのねの1979年のヒット曲『ネコ、ニャンニャンニャン』が、突如として今年に入りTikTok上で大バズリ、43年の時を超えて配信リリースされたことが話題となった。TikTokが昭和の名曲を蘇らせるTikTokが火付け役となりヒットに結びついたといえば、なんといっても2020年の瑛人の『香水』、そしてYOASOBIの『夜に駆ける』が思い浮かぶ。さらに、Ado『うっせぇわ』、ひらめの『ポケットからきゅんです!』、優里『ドライフラワー』、さらに「ウマ娘」の楽曲『うまぴょい伝説』などなど、TikTok発信がきっかけでヒットが拡大することは、当たり前の現象になっている。曲に限らず小説や雑貨、さらには食品などZ世代を中心に爆発的に売れることが相次ぎ、それらを“TikTok売れ”という言葉も浸透してきている。そのひとつが冒頭のあのねのねの曲など、昭和や平成中期あたりまでの懐メロ群だ。「倖田來未さんがカバーしたラッツ&スターの『め組のひと』、大塚愛さんの『さくらんぼ』、相川七瀬さんの『夢見る少女じゃいられない』、それからアニメ『うる星やつら』の『ラムのラブソング』など、印象的なサビのフレーズが切り取られ、それに合わせてダンスする動画が大量に投稿されました。さらに、かつての大ヒット曲だけでなく、活動休止中だった青森のローカルアイドルグループ・青森ナイチンゲールの曲が突如“発掘”され、バズったことでグループが再始動する現象も起こっています」(ITメディア関係者)最新曲ではなく、なぜ若者は古い曲を見つけ、さらにそれがバズるのか。音楽関係者に聞いた。「サブスクの浸透や、CDよりも動画サイトで音楽に親しむ層の音楽の聴き方は、従来の世代と根本から違っている部分もあることがひとつあると思います。“おすすめ”で選曲され、タイムライン上の曲を聴くのが基準になっているため、アルバムを買って1枚をじっくり聴くようなスタイルは合わないと感じる人は増えています。ウェブ上ではショップに並んだ音楽に比べ、過去の楽曲も等価値であることや、国民的ヒットが生まれにくい時代の耳には、昭和や平成初期の名曲が逆に新鮮に感じられることもあるようです」それが必ずしもチャートに入るようなヒットにつながるとは限らない。それは、今の若者ならでの理由があると前出の関係者が分析する。「昭和世代がこぞって情緒を感じた名曲のイントロも、 “長い”と感じる層が出現してきています(笑)。要は印象的なフレーズの数秒だけ欲しいのであって、1曲3分〜4分、全部聴きたいというわけではないんです」とはいえ、“TikTok売れ”なる言葉の出現により、古きよき時代のヒット曲が再び注目を集め、世代を超えて楽しむことができる。あのねのねがコンビとして歌番組に出演する可能性もあるかも、しれない。〈取材・文/渋谷恭太郎〉
2022年04月01日時の移り変わりとともに、人々の生活も変化するもの。中でもファッションは、目に見えて時代の変化を感じ取ることができます。『明治モダン』『大正ロマン』に加えて、1989年に幕を閉じた昭和時代は『昭和レトロ』と呼ばれる、令和の現代。阪田マリン(@marin_syowasuki)さんが投稿した写真は、まさに美しい昭和レトロを感じる1枚でした。喫茶店で男性が『昭和の香り』を感じた理由ある日、喫茶店でひと息ついていた阪田さん。すると隣席に座っていた男性客たちが、こういっているのを耳にしたといいます。「見てみ。横、昭和やで」もちろん、この出来事が起こったのは令和の時代。すぐ隣に昭和時代が広がっているというのは、一体どのような意味なのでしょうか。そう疑問に思った人も、阪田さんが投稿したこの写真を見れば納得するはずです。この格好で喫茶店に行ったら隣の2人組のおじさんが『見てみ、横、昭和やで』と言っているのが聞こえて嬉しくなった pic.twitter.com/jBsXWMxhYV — 阪田マリン(21) (@marin_syowasuki) March 18, 2022 阪田さんが着ているのは、バブル期に流行した、鮮やかな色合いのスーツ!もちろん、下はミニスカートの組み合わせです。昭和のファッションを愛好し、普段からこういった服装をしているという阪田さん。きっと隣席の男性たちは、まさに『昭和レトロ』の時代が青春だった人なのでしょう。阪田さんの姿に、昭和の香りを感じたようです!投稿は拡散され、多くの人から反響が上がっています。・これは二度見不可避だわ。「冷コください」ってオーダーをしてそう!・再現度がすごい!20代の頃に、こういう女性をたくさん見たなあ。・懐かしすぎる。写真がインスタントカメラ風なのも素敵だなあ。また、若い人からは「こういう服装って、かわいい!」「また流行ってほしい」という声も。ファッションの流行は1周するといわれています。今は『レトロ』とされている髪型や服装も、いつかリバイバルするのでしょうか![文・構成/grape編集部]
2022年03月20日’74年に行われたコンサートでは、彼に少しでも近づきたい女性が身を乗り出して応援した 歌手の西城秀樹さんが63歳の生涯を閉じてから5月で4年が経つ。生きていたら3月下旬にデビュー50周年を迎えるはずだった。もっとも、ファンたちは天国の秀樹さんに向かって50周年を盛大に祝う。4月には神奈川県民ホール(横浜市)とオリックス劇場(大阪)で映像での50周年コンサート『HIDEKI SAIJO CONCERT 2022 THE 50』が行なわれる。すでに大入りが確実視されているという。ファンを楽しませる“エンターテイナー”ファンクラブも解散されていない。3月には50年の軌跡を収めた7枚組DVDもソニーミュージックからリリースされる。なぜ、秀樹さんのファンは熱いのか。芸能ジャーナリストの渡邉裕二氏が解説する。「ヒット曲が多かった上、秀樹さん自身が熱い人で、いつも時代の先端を走る人だったことも大きい。今では当たり前になったマイクスタンドを使ったパフォーマンスも西城さんが1974年に『薔薇の鎖』を歌った際にやったものです」同じ年には球場でのワンマンコンサートを日本人として大阪スタヂアムで初めて行った。当時、ほかの歌手たちは音響面や集客面、警備面などを不安視し、球場の使用には二の足を踏んでいた。「1979年には『YOUNGMAN (Y.M.C.A.)』を大ヒットさせましたが、ファンと一緒に楽しめる振り付けを採用したのも、秀樹さんが初めてなのはご存じの通りです」(前出・渡邉氏)そんな秀樹さんの姿勢にはサザンオールスターズの桑田佳祐(66)も早くから敬意を示し、1995年のサザンのコンサートに特別ゲストとして招いて、「素晴らしいエンターテイナー!」と讃えた。ファンを大切にする人でもあった。秀樹さんのコンサートに携わった経験のあるホール関係者が語る。「秀樹さんは公表されただけで3回、脳梗塞で倒れたが、毎回、なるべく早く復帰しようと努めていた。ファンが待っているのが分かっていたからね。あの人くらいになると、カネじゃ動かない」倒れたのは2001年と2003年と2011年とされていた。だが、秀樹さんの没後に夫人が著書で明かしたところによると、計8回も脳梗塞を発症していた。「楽屋でつらそうなこともあった。ステージ上で歌や動きがぎこちないことも。話すだけでもしんどそうで、杖を使わずに歩くのが難しいこともあったので、当たり前です。でも秀樹さんのファンにはそんなことはどうでもよかった」(前出・ホール関係者)2016年、東京・中野サンプラザホールなどで行われたデビュー45周年記念コンサート『HIDEKI SAIJO 45th ANNIVERSARY CONCERT 2016』での秀樹さんは、体を思うように動かせない一幕があったが、懸命に歌い、踊った。それを見てファンたちは熱狂。号泣するファンも続出した。何があろうが全力で生きる秀樹さんの姿に、ファンは胸を打たれていた。「秀樹さんのコンサートで勉強させてもらったと思うのは、ファンというものは単に歌を聴きに来ているんじゃないということ。アーティストの生き様も見たいと思っている。コンサートで『声が出ていない』とか『口パクだったんじゃないか』などと言っているうちは本当のファンではない気がする」(前出・ホール関係者)秀樹さんのファンは彼の生き方に惚れ込んでいた訳だ。いまだ熱いのもうなずける。取材で見えた、人柄の良さサザンの桑田が敬うくらいだから、歌もうまかった。TBS『ザ・ベストテン』(1978年~89年)の司会を務め、さまざまな歌手と接してきた黒柳徹子(88)も「あんなに歌のうまい人はいない」と歌唱力を絶賛していた。具体的に歌がどう、うまかったのか。秀樹さんがデビュー時に所属していたビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の元制作スタッフが解説する。「『情熱の嵐』(1973年)のようなシャウト系の歌も『ブルースカイブルー』(1978年)みたいなバラードも完璧に歌えた。発声のコントロールがきちんとできていたからです。シャウト系もバラードも歌える人は数少ない。どちらも歌うのは難しいんです。かなり高い歌唱力を持っている人でないと無理」またシャウト系の歌には歌唱力が表れやすいそうだ。「うまくない人が歌うと、がなっているように聴こえてしまいますから。秀樹さんは違った。しっとりしたバラードもうまく、味もあった。デビュー時点から歌のうまい人でしたが、経験を積むうち、よりうまくなりました。売れてからも一生懸命やる人でしたから」(前出・元ビクター制作幹部)人柄が良かったこともファンを惹き付け続ける理由だろう。筆者が秀樹さんとお会いしたのは2013年5月だった。TBSの名作ドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年、パート2は翌75年)についての座談会出席をお願いした。秀樹さんの父親・貫太郎役だった故・小林亜星さんと同局の演出家だった故・鴨下信一さんが同席した。秀樹さんは時折、声を出しにくそうな場面があった。それでも笑顔を絶やさず、「このドラマが成功したのは、貫太郎役が亜星さんだったからだよ」と小林さんを讃えて、一方で鴨下さんを立てた。秀樹さんの人気がこのドラマを支えていた一面もあるのに、自分のことはほとんど語ろうとしなかった。4月の50周年コンサートをファンは心待ちにしているだろう。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年03月01日「花の中三トリオ」(上段左から桜田淳子、森昌子、山口百恵さん)、下段は中森明菜とピンク・レディー山口百恵さん(63)、森昌子(63)、桜田淳子(63)、岩崎宏美(63)、片平なぎさ(62)、ピンク・レディー、石野真子(61)、小泉今日子(56)、中森明菜(56)……。彼女たちには共通点がある。ピンと来る人は多いだろう。全員、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』(1971年~1983年)の出身者である。この番組へ出場を申し込んだ人は約200万人。その中からデビューを遂げた人は88組91人いる。終了から38年目が過ぎたものの、現在も現役で活躍する人が少なくない。これほど成功を収めたオーディション番組は後にも先にも存在しない。どうして数々のスターを生むことが出来たのだろう。また、どうして番組は消えたのか。■日テレと渡辺プロの“関係”当時の事情を知る元日本テレビ幹部と元大手レコード会社幹部に聞いた。まず、「『スタ誕』が生まれた経緯には大人の事情があるんです」と語るのは日テレ元幹部。背景には次のような話があったという。 『スタ誕』の誕生前、日テレには『タレントスカウトショー あなた出番です!』(1966年~1969年)というオーディション番組があった。制作に深く関わっていたのは当時の芸能界に君臨していた芸能事務所の渡辺プロダクション。ここで発掘された新人はすべて同社からデビューした。「ウチとしてはほかのプロダクションともお付き合いしたかった上、そもそも当時は渡辺プロへの不満が溜まっていた。そんな下地があったので、渡辺プロを除いた約40社のプロダクションとレコード会社に参加してもらい、『スタ誕』をつくったんです」(同・元日テレ幹部)ケンカを売られた渡辺プロも黙ってはいない。新しいオーディション番組をフジテレビと一緒につくった。『君こそスターだ!』(1973年~1980年)である。放送時間帯も『スタ誕』が日曜午前11時だったので、それより早い同10時からとした。 『君スタ』からは林寛子(62)、高田みづえ(61)、石川ひとみ(62)たちがデビューした。所属先は必ずしも渡辺プロではなく、さまざまだった。日テレと渡辺プロには確執が生じていたが、渡辺プロと大半のプロダクションにはわだかまりがなかったからである。当時の芸能プロには渡辺プロ出身者が多かったことが大きく影響した。日テレと渡辺プロの対立は図らずもオーディション番組の黄金期を招く。「審査員も張り合い、『スタ誕』の顔が作詞家の阿久悠さんだったのに対し、『君スタ』はライバルのなかにし礼さんを起用。充実していました」(同・元日テレ幹部) 『スタ誕』の場合、予選大会の通過者が決勝大会に進み、プロダクション、レコード会社が「獲りたい」と思うと、社名入りのプラカードを上げた。この仕組みが功を奏したとよく聞く。「視聴者が見ている前で獲得を宣言するから、みんな責任感が増すんですよ。視聴者が将来を期待した人を失敗させる訳にはいきませんから」(元レコード会社幹部)■アイドルが“儲かった”時代ちなみにもっとも多くプラカードが上がったのは桜田淳子の25本。1972年9月、4回目の決勝大会でのことで、当時の桜田は14歳だった。同い年の百恵さんが応募したのはその直後。自分と妹を1人で育てていた母親を経済的に助けようと考えてのことだった。百恵さんのプラカードは20本。7年間におよんだ百恵伝説の幕開けだった。透明性が確保された番組のようで、実は決勝大会前に下見の機会が設けられていた。ここでプロダクション、レコード会社は「あの子を獲り、こんな路線で売ろう」などと作戦を練った。また、プラカードが複数上がった場合、本人と家族が各社と面接し、待遇や条件を吟味。その上で所属先の最終決定は日テレ側が行なった。「この慎重さも結果的にはよかった。ミスマッチが極力防がれた。また、日テレが有望な人材を特定の会社に集中させなかったから、お互いにライバルなのに各社から不満が出なかった」(同・元レコード会社幹部)例えば1981年には3月に小泉今日子が決勝大会で合格。その4か月後の7月、中森明菜がやはり合格したが、日テレの意思によって2人は同じプロダクション、レコード会社にはならなかった。「本当は多くの社が2人とも欲しかったんです。図抜けた存在でしたから。けれど日テレがそれを許さなかった」(同・元レコード会社幹部)すべてはプロデューサーの故・池田文雄さんの考えだった。中学から大学まで慶応で音楽に没頭し、大学時代はダーク・ダックスと一緒に男性合唱団の活動をした人だった。時代も『スタ誕』に味方した。「くしくも1970年代、80年代は各社がアイドルに力を注いだんです。理由は単純明快。アイドルは絶好のビジネスでしたから。それまで主流だった歌謡曲の歌手や演歌歌手、フォーク歌手と違い、レコードが売れるだけでなく、ドラマや映画もつくれる。CMの仕事も来る。あの時代、芸能人でもっとも商品価値が高かったのはアイドル。各社とも『スタ誕』から目が離せなかった」(同・元レコード会社幹部)たしかに百恵さんはレコードが売れたのみならず、主演映画13本はすべてヒットした。1980年代から90年代の小泉今日子はCM女王の名を欲しいままにした。では、どうして『スタ誕』は消えたのか。「ホリプロ・スカウトキャラバンが1976年に始まるなど各社が自前でオーディションをやるようになり、『スタ誕』に出るメリットが乏しくなりましたからね。各社としてみたら、ウチに仕切られるより、やりやすいし、アイドル志願者もプロダクションやレコード会社のオーディションのほうが歌手デビューや映画出演などの近道と考えた」(同・元日テレ幹部)有望なアイドル志願者が流出したことが一番の理由になり、1970年代には15%を超えていた世帯視聴率が、80年代に入ると10%に届かなくなった。これでは存続が難しかった。役割を終えた『スタ誕』が消えるのは歴史の必然だった。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2022年02月11日2022年1月1日、漫画家の高橋留美子さんの代表作『うる星やつら』の再アニメ化が発表され、話題になりました。『うる星やつら』が再アニメ化決定!令和あたる&ラムに「声も違和感ない」「楽しみすぎる」そのほかにも、過去作品のリメイクや続編発表などが盛んに行われている近年。空気の人(@Aoi_oxo)さんが、Twitterへ投稿したツイートが「面白い」と注目を集めています。1990年の人が、「2022年からタイムスリップをしてきた」という未来人に、「最近やっているアニメは?」と質問すると…。1990年にタイムスリップ『2022年から来た、何か質問あるか』「どんな新作アニメをやってる?」『最近だと銀河英雄伝説、タイムボカン、ムテキング、宇宙戦艦ヤマト、ガンダム、ゲッターロボ、ルパン三世、それと、うる星やつら』「おまえ、偽者だな!」— 空気の人その3 (@Aoi_oxo) January 2, 2022 名前が挙がったのは『銀河英雄伝説』『宇宙戦艦ヤマト』『ゲッターロボ』など、1970~80年代に流行した往年の名作ばかり!1990年の人が「偽物だ!」と疑ってしまうのも仕方ないかもしれません…。こちらの投稿のコメント欄には、共感の声が多く寄せられ、「この作品もある!」と盛り上がっていました。・笑った。これは疑われても仕方ない!・本当なんです!信じてください!!・ちなみに特撮は『仮面ライダー』と『ウルトラマン』です。過去に放送されていたアニメが、再び新作として制作されるリメイクアニメ。旧作も、いまだに色あせない名作であるがゆえに、ファンからは絵柄や声優の変更などに、賛否の声が生まれやすいのは事実です。しかし、リメイクが作られることにより、世代を超えて愛されて続けていくことは間違いないでしょう。2022年、『うる星やつら』に続く、新たなリメイク作品の発表はあるのでしょうか。楽しみに待ちたいですね![文・構成/grape編集部]
2022年01月05日Mr.マリックかつて注目を集めた有名人に「ブレイク中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー。当事者だから見えた景色、聞こえてきた声、当時は言えなかった本音とは? 第33回は’80年代後半に「キテます! 」の決めゼリフで超魔術ブームを巻き起こしたMr.マリック。“ハンドパワー”でも治せなかった病と悩みとは――。バブル経済で日本中がイケイケだった’80年代後半に突如現れ、“超魔術”ブームを巻き起こしたMr.マリック。本格的にマジックを始めたキッカケは運命的な2つの出会いだった。「中学2年生のときに東海地区のテレビにも出ていた天才マジック少年が、僕のクラスに転校してきたんです。河原の小石を投げて、空中で消してしまうような大人顔負けの技術を持っていた子だったのですが、たまたま隣の席になって。それで休み時間になると、マジックを教えてもらうように」クラスメイトが簡単なマジックにも苦戦する中、なぜかマリックだけはすぐに次々と技を習得していった。「もともと素質があったんですかね。その男の子も僕を気に入ってくれて、アシスタントのようにマジックのイベントなどに連れていってくれるようになりました」別々の高校に進学したことでマジック少年とは疎遠になり始めたころ、近所の歯科医院にマジック業界でも有名な歯科医がインターンで赴任してきたという。「沢浩さんという有名なアマチュアマジシャンの方が、僕がよく見に行っていたマジックサークルにいたんです。話をしたところ、今度インターンで行く歯科医院が実家の近所ということがわかって、そこから毎日のように通って教わるようになりました」沢は歯科医だけあり、専門的な機械で作った道具を使う創作マジックで知られていた。そんな彼から、ノウハウを学ぶことに。「マジックの基礎を中学で学び、高校でオリジナリティの大切さを学びました。地元での偶然的な出会いが大きな財産になりましたね」しかしプロになれるとは思っていなかったこともあり、高校卒業後は瞬間湯沸かし器で知られるメーカーに就職。「新入社員は現場に出て、無言で黙々と作業をさせられるんです。そんな生活の息抜きだったのが、名古屋のデパートで行われていたマジック道具の実演販売を見ること。毎週のように通っていたら、ディーラーさんと仲よくなって。ある日、“販売員に空きが出るから、興味があるならやってみない?”と声をかけられて。退屈な日々を過ごしていたこともあり、二つ返事で転職しました」実演販売を始めると、再びマジック熱が高まりプロの世界に興味を持ち始める。「プロになるには、当時のマジック界を牽引していた初代の引田天功さんに会うしかないなと。それで天功さんが主宰していた『ハトの会』に顔を出しているうちに、自宅に遊びに行けることになったんです。プロで食えるようになりたいと相談したら、“一流になる気がないなら、みじめになるだけ”と言われてしまって……。一流になるにはどうすればいいかと考えた結果、世界大会で優勝することだろうと思い至り、マジック大会に片っ端から参加しました」東海地区での優勝を皮切りにとんとん拍子で日本代表になったマリック。21歳で世界大会で優勝するも、そこで大きな挫折を経験することに。「マジック大会の後、世界中のプロが集まるショーを見たら、アマチュアの僕たちとレベルが違いすぎて、井の中の蛙だったことに気づいたんです。帰国後は実演販売の会社も辞めて、フリーターのような生活を送っていましたね」実家のある岐阜県でフラフラし始めて1年がたったころ、実演販売を行う会社から再び声がかかる。「手品グッズだけでは儲からないからと、CMで話題になっていた謎の生物・シーモンキーを扱うことになり、東京での販売員を探していたんです。お金も尽きていたので、住む場所のアテもないまま上京し、実演販売の仕事を再開することに」シーモンキーと一緒に新しいマジック道具も販売し始めると、こちらも飛ぶように売れたという。■専門店『マリック』をオープン「実演販売と平行して30代のときにマジックグッズ専門店をオープンしました。そのときの名前がマジックショップ『マリック』。20代のときから個人レッスンをするときにはそう名乗っていたのですが、公に使ったのはこのときからです」ショップに『新春かくし芸大会』(フジテレビ系)のスタッフが小道具を買いに来た縁で、テレビの世界に足を踏み入れる。「道具を買いに来たスタッフの方に“直接、タレントに指導してくれないか”と頼まれて、テレビ局でタレントさんに教えるようになったんです。でもタレントさんはマジックのプロではないから、全然できないんですよ。“私がやったほうが何倍もすごいマジックができますよ”と提案したところ、“無名な人がやっても意味がない”と相手にしてもらえなくて。それなら自分の名前を売るしかないなと」名前を売るために目をつけたのがホテルでのショー。ホテルに自ら売り込みに行くと、ショー専門の事務所を紹介してもらい、有名ホテルチェーンでショーをやらせてもらえることになった。「大阪のホテルでショーをしたところ、それを見たテレビ大阪の方に番組に呼んでもらったんです。そのときにテレビは画面内でマジックが完結しないとダメだということを学びました。手がフレームアウトしちゃうと、映っていないところでマジックのネタを仕込んでいると視聴者に思われてしまいますからね」そして東京・浅草のホテルでショーを見た日本テレビのスタッフに誘われ、人気深夜番組『11PM』に出演したところ、一躍注目を集める。■決めゼリフは偶然誕生「大阪の番組では“超能力マジック”と紹介されていたので、視聴者的にはどっちつかずに見えたんでしょうね。『11PM』のスタッフに“黙っていたら超能力ですね”と言われたことから、“超不思議現象”と言ってマジックを披露したところ大ウケ。その後、木曜スペシャルで“超魔術”と名付けられ、見せ方や紹介する言葉の大切さを実感しました」馬券を的中させたり、パチスロ台で7の絵柄をそろえてフィーバーさせるといったテレビ的なマジックショーを次々に披露したところ話題を呼び、大ブームに。「お店と協力して、あとは絵柄をそろえるだけの状態にしたところで“ハンドパワーです”と言ってそろえていました。だからパチスロファンにはすぐに見破れたようで、“あんなのインチキだ!”といったクレームの電話もかかってきたみたいです。とはいえ、インパクトも大きかったようでどんどん盛り上がっていきました。当時はグレーゾーンが許された時代でしたが、今なら絶対に無理でしょうね……(苦笑)」『ハンドパワー』や『キテます!』といった決めゼリフも、偶然から生まれたものだったと振り返る。「マジックショーでお客さんをステージにあげたところ、“この不思議な力はハンドパワーですか?”と言われ、便利な言葉だなと使わせてもらいました。それで“ハンドパワーです”と言いながらマジックを披露した際、別のお客さんが“ハンドパワーがキテます!”と言ったので、それも使わせてもらうことに(笑)。結局、自分が頭で考えたものより自然なリアクションなどから発せられた言葉のほうが、キャッチ―なものが生まれるんですよね」売れっ子になって3年ほどたったとき、ストレスから顔面麻痺になってしまう。「次々に新ネタを作らないといけないストレスが身体に出てしまったみたいです。最初は顔の右側の神経が切れたのですが、治り始めたと思った矢先に今度は左側の神経が切れて……。病院に行っても“いつ完治するかはわからない”と言われてしまいましたが、番組の収録は休めない。だから本当に症状が酷いときはスタッフに話せる状態ではないということを明かして、ほぼ無言で収録を乗り切ったこともありましたね。神経麻痺でまばたきができないから、セロテープでまぶたを閉じさせたりしていたのですが、もともと大きなサングラスをしていたこともあり、なんとかマスコミにもバレずにすみました。当時はマジックのネタだけでなく、病気のことも隠している状態でしたね」決まっていた収録をこなしたあとは仕事をセーブ。顔面麻痺がバレづらい、薄暗い会員制のバーでショーを再開させると、そこで新たな出会いを果たす。■テリー伊藤との出会い「そのバーにテリー伊藤さんが来ていたんです。“最近テレビで見かけないけど、バラエティーに興味ある?”と誘われ、当時若者に人気だったテレ東系の『浅草橋ヤング洋品店』に出演することになりました」人気企画『中華大戦争』などでブレイクした周富徳・周富輝兄弟など番組発のスターとともに、マジックとは関係のないロケに挑戦。「マジック以外のバラエティーはやったことがないから、最初は何もできなかったですね。そんな僕を見かねてか、テリーさんが“テレビに出るならバカにならなきゃダメだよ!”とアドバイスをしてくれました。それで苦手な歌に挑戦したところ、喜んでもらえて。完璧なものを見せることだけが、視聴者を楽しませることではないんだなと、身をもって痛感しました」これまでにない形でテレビに出るようになったところ、今度は日本テレビの有名プロデューサーから声がかかる。「笑福亭鶴瓶さんが司会を務めていた『投稿!特ホウ王国』という番組で、Mr.マリックを逆さから読んだ栗間太澄(くりま・たすみ)という謎の郵便局員というキャラクターで出ることに。決めゼリフは“手力です!”だったり、セルフパロディをしたことがウケて、テレビの依頼がまた増えるように。顔面麻痺でテレビから消えそうになっていたところ、違うジャンルの人たちから声をかけてもらったことで、復活できるとは思っていませんでした」一度は消えかけた彼に芸能界で大事なことを聞くと、言葉を噛みしめ、こう答えた。「とにかく飽きられないことですね。僕の場合はバラエティー番組に出て、これまでとはまったく違うギャップを見せたからこそ、超魔術を知らない若い世代にもウケて、知ってもらえた。もし、自分にはバラエティーは無理だからとテリーさんの誘いを断っていたら、テレビの世界では淘汰されていたでしょうね」現在はYouTubeでチャンネルを開設。ときにはネタ明かし動画も公開するほか、依頼があればネタ番組にも積極的に出演する。「僕らの世代は初代・引田天功さんに憧れてマジシャンを目指す人も多かったですが、今の世代は特定のマジシャンに憧れる人は少ないように感じます。だからいろいろなことに挑戦して、“マジシャンになりたい!”という人を増やすことが自分の使命なのかなと。今はYouTubeなどでマジックのネタは簡単に見つかるけど、自分のモノとして習得するのはまた別。若い世代に自分が持っているノウハウを伝えていくためにも、次世代のマジシャンの発掘や育成に力を入れていきたいと思っています。そして、人気タレントに負けないスター性のあるマジシャンが育ってくれたらうれしいですね」
2021年12月19日小松政夫さん「福岡の山笠祭りには毎年参加していました。7月1日から15日まで開催されるのですが、夫は“この期間は絶対に仕事を入れるなよ!”と毎年言っていました」手に持った写真を見つめて目を細めたのは、小松政夫さんの妻・朋子さん。’20年12月7日に亡くなってから1年を迎えた。■浮気した夫を蹴り飛ばした!毎年『博多祇園山笠』を楽しみにしていたという小松さんの故郷は福岡県。父親は洋菓子店を営む、裕福な家庭で育った。しかし、小松さんが中学生のときに一転する。「父親が病気で亡くなったのです。それで生活は一気に苦しくなった。小松さんは定時制高校に通いながら働いて、家計を支えていました。高校卒業後は俳優を目指して上京しますが諦めて、自動車販売店に就職。トップセールスマンとして、月収12万円を超えることも。当時の大卒初任給が1万円でしたから、高給取りでした」(芸能ライター)だが、週刊誌の求人広告が小松さんの転機となった。「植木等さんの運転手募集という求人に飛びついたのです。給料は下がっても、まったく後悔はなかったそう。植木さんと初めて会った日に“君はお父さんを早くに亡くされたそうだね。これからは私を父親と思えばいい”と言われて一生ついていこうと思ったと話しています。運転手として3年10か月を迎えたとき、植木さんが渡辺プロの社長に頼みデビューすることができたのです」(同・ライター)植木さんのことを“親父さん”と呼び、慕った。デビューを果たし、ヒット曲『しらけ鳥音頭』や『小松の親分さん』といったギャグで人気を博し、一躍お茶の間の人気者に。このころに出会ったのが、妻の朋子さんだ。「新宿にある『どん底』という居酒屋に友達と行ったときに、声をかけられて知り合いました」(朋子さん、以下同)少しずつ距離を縮めて、結婚。’76年のことだった。「結婚してみてわかったのですが、すっごく遊びまわるんです。浮気したこともありました。そのとき夫は酔っぱらっていたから蹴っ飛ばしてやりましたね(笑)。初めは芸能人ってみんなこうなのかしらって思っていたんですが、あるとき、やっぱりおかしい!と思ってピシャリと言ったんです。亭主関白でしたが、いつの間にか立場が逆転してました(笑)」お酒が大好きだった小松さん。大人数を引き連れて、自宅に帰ることもしばしば。「毎週30人近く連れて帰ってきた時期がありました。本人は酔っぱらって先に寝ちゃうし、私は食事を作ったり、知らない人の話し相手を朝までしたり……。飲み屋さんを開いていたら儲かったと思います(笑)。毎回もう勘弁!と思っていましたが、次の日には“昨日はありがとう”と必ず言ってくれました。だから、しょうがないなって許しちゃって」妻に支えられ、仕事にも精を出し、俳優としても活躍。■「次はどんな映画をやろうか」’19年には主演舞台『うつつ小松政夫の大生前葬』を上演。小松さんの娘役として共演した女優の棚橋幸代が、その人柄について明かす。「小松さんはお芝居に対して真摯に向き合う方で“あそこをうまく演じられないんだよ”“あの場面はこうしたほうがいいんじゃないか”って、いつも稽古後にいろいろお話ししてくれました。ご病気を患っていたはずなのに、そんなそぶりはいっさい見せずに。公演の打ち上げで、出演した女性陣みんなで小松さんを囲んでハグしたんです。そしたらボロボロと泣いて喜んでくれたんです」周囲のことも常に気にかけていた人だった。昨年の夏にはこんな連絡があったという。「久しぶりに電話をくれて“元気にしてる?また舞台のみんなで飲みたいね”ってお話ししていたんです。元気でよかったと思っていたから、訃報を聞いたときはショックで涙が止まりませんでした。コロナで会えなかったのが本当に悔しい……」(棚橋)長年にわたって小松さんと親交があった映画監督の坪川拓史氏も、いまだ悲しみを抱えるひとりだ。「僕の映画5本にすべて出演してくださっているのですが、撮影が終わると“次はどんな映画をやろうか”と小松さんは必ず言ってくださった。ふたりで話して、映画を作ってきたんです。小さいころにテレビで見ていた憧れの人と映画を作れて本当に幸せでした」出会いは、坪川氏が小松さんに自身の映画への出演オファーをしたことがキッカケだった。当初は断られたが諦められず、小松さんが出演する舞台の楽屋に押しかけた。熱烈なアプローチに根負けした小松さんが「わかった」と話したのが21年前のこと。今も昨日のことのように思い出すという。「小松さんが亡くなる数か月前に電話で話したときも、次の映画の話をしました。その脚本も完成しているんですが、小松さんの役をほかの人にお願いして撮影するって気持ちになれなくて……。今も脚本を書くときに、小松さんにどんな役をやってもらおうかと考えてしまいます。僕が映画を作る理由のひとつがなくなってしまった。心にポッカリと穴があいてしまった感じです……」(坪川氏)■部屋から出てきた大量の「空きビン」そして、知られざる小松さんの魅力について続ける。「“バナナの叩き売り”の口上や“泣き売”を演じてくれたり、昔の座敷唄を教えていただいたこともありました。ギャグだけでなく、本当にさまざまな芸に精通していた人なのです。そんな小松さんの一面を、今後はもっと伝えていきたいと思っています」’19年に肝細胞がんが発覚したが、周囲には何も伝えていなかった。どうしてなのか。朋子さんによると、「病気を治して、まだまだこれから舞台をやろうと考えていたのだと思います。いつも舞台の話をしていましたから。アルコール性の肝細胞がんと言われていたので、本人も身体のことを考えてか“酒はもうやめた”と話していました。それが昨年の11月に、急激に体調が悪化したんです」抗がん剤治療を行い、目に見えて衰弱していった。「病院で寝たきりになり、声も出なくなっていました。12月6日には眠っていたんですが、突然“おい!今日は帰るぞ!!”って大きな声で叫んだんです。ビックリして起こそうとしたんですが、起きなくて……。コロナ禍で付き添いが病院にいられる時間も限られていましたから、しょうがなく家に帰ったんです」翌7日の午前5時に病院から電話があった。駆けつけたが意識はなく、そのまま息を引き取った─。「家に帰りたかったんだと思うと、かわいそうなことをしたなって……。1年たちましたけど、今も亡くなった実感がわかなくて。地方公演に行っている気がしたり、“ねえ、あれはどうしたっけ?”と話しかけちゃったり。でも、誰もいないことに気がついて、現実に引き戻されます」他界後、小松さんの部屋を片づけていた朋子さん。小松さんが隠していた“あるモノ”を見つけたと明かす。「お酒の空きビンがゴロゴロと出てきたんです。紙コップも置いてあって。コロナですから、誰かが家に来たわけでもない。昨年の夏はふたりっきりで食事していましたが、お酒も飲まないので、本当にやめたんだと思っていたんです。そんなに飲みたかったのなら、言ってくれれば堂々と飲ませてあげたのに……」お墓は、夫婦で旅行した際に見つけた、湖を望む霊園に建てたという。春には、しだれ桜が満開になる。
2021年12月07日当時、多くの女子のハートをわしづかみにしたチェッカーズ(1988年)「実は、チェッカーズは(デビュー約4か月前の)1983年5月ごろ、『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』『哀しくてジェラシー』と、最初のシングル3枚分(全6曲)をまとめてレコーディングしていたんだ」(売野雅勇・以下同)このうちの2作目シングル『涙のリクエスト』や、5作目シングルの『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』など、チェッカーズの初期の大ヒット曲を手がけた作詞家・売野雅勇はこう話す。売野はチェッカーズに、シングル表題の10曲を含む30曲以上もの楽曲を提供している。■『涙のリクエスト』が勝負の1曲だったチェッカーズは福岡県久留米市で結成された男性7人組のバンドで、’81年にヤマハの音楽コンテストで入賞し、’83年の3月に上京。その直後から、ヤマハのディレクターに頼まれて歌や演奏を教えていたのが、彼らのプロデューサーでもあった作曲家の芹澤廣明だ。そして、いざ曲を作ろうという段階で作詞を依頼されたのが、前年に芹澤とのコンビで中森明菜の『少女A』をヒットさせた売野だった。なお、デビュー曲となった前述の『ギザギザハートの子守唄』(作詞:康珍化、作曲:芹澤廣明)は、「ゆるやかなテンポで始まるよりも、もっと強烈な個性のある曲でデビューさせたい」と考えた芹澤が、以前に真田広之用に書いてボツになっていた曲を持ってきたのだという。売野によると、「ホントは、俺もその曲に新たに詞を書いてみたのだけれど、康さんが書いた歌い出しの《ちっちゃなころから悪ガキで15で不良と呼ばれたよ》のインパクトには敵わなくて結局、採用されなかったね(苦笑)。B面の『恋のレッツダンス』は、もともとはメンバーの武内享くんが書いていて、アマチュア時代から人気だった曲。だから、原型の初々しい気持ちを生かすかたちで書いた気がする。完成度はなかったけど、変える必要もないくらいのキュートな歌詞だったね」とのこと。ちなみに、この『ギザギザハートの子守唄』は、’83年9月に発売されるもオリコンTOP100にはなかなか入らず、チェッカーズ自身も焦りを感じていたようだ。その様子は、メンバーである高杢禎彦の著書『チェッカーズ』(新潮社)および売野雅勇の著書『砂の果実』(朝日新聞出版)にもつづられている。筆者も発売当時、ブレイク前の新人が中心となった音楽番組『アイドルパンチ』(テレビ朝日系)に彼らが毎週のように出演していたのを何度か観たが、エンディング間際に1コーラスだけ歌うといった、雑な扱われ方をされていたのが記憶に残っている。ところが、続く2作目の『涙のリクエスト』(’84年1月発売)は、まだブレイク前にもかかわらず、シングルジャケットが6ページのミニ・ピンナップ仕様で、トップアイドル並みの扱いになっている。つまり、レコード会社としては、ここで勝負に出ることを決めていたのだろう。「もともと『涙のリクエスト』の前評判はとてもよかったんだよ。ただ、バース(曲本編に入る前の序章部分)から始まるし、デビュー曲にするにはちょっとインパクトに欠けるってことで、セカンド・シングルになったんだよね(笑)。この『涙のリクエスト』は、彼らに初めて詞先(曲ができる前に作詞をすること)で書いた2作のうちのひとつなんだ。そのとき一緒に『テレヴィジョン・ベイビー』ってタイトルの歌詞も作った。順番からいくとこっちが先に書けたし、自分としては本命だと思っていたよ。なぜかって言うと、歌詞についての最初の打ち合わせでヤマハのプロデューサーから、“《未来のオールディーズ》ってコンセプトで、サウンドは(そのころはやっていた)ロンドンのニューウェイヴ」と言われていたんだ。でもね、彼らのデモテープを聴くと、基本的にドゥー・ワップ・グループ(’50年半ばにアメリカで隆盛した合唱スタイルの一種)だったからさ、本当にニューウェイヴでいいのかなあという疑問もあって、念のために”押さえ”のつもりで、ラッツ&スター(旧名:シャネルズ)にも通じるような純粋なオールディーズの基本イディオムを使って書いたんだよ。2作を提出したんだけど、芹澤さんが『涙のリクエスト』を気に入ってくれて、そっちだけに曲をつけたんだね」芹澤の大英断は見事に当たり、発売4週目には初のオリコンTOP20入りを果たし、音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の注目作を紹介するコーナー“スポットライト”に登場。その2週後には、オリコン、『ザ・ベストテン』ともにTOP10入り。さらに、3週後には『ザ・ベストテン』で1位に上りつめ、7週連続の1位となった。オリコンでは、初登場作品に阻まれ最高2位どまりとなったが、6週連続でTOP3入りを維持。累計約67万枚を売り上げ、年間第4位となる大ヒットを記録した。■“2曲目×売野=成功”の神話が誕生そして、3作目のシングル『哀しくてジェラシー』が発売されるや否や急上昇。それとともに、徐々にチャートを上げていた『ギザギザハートの子守唄』もTOP10入りし、当時としては非常に珍しい“3曲同時にTOP10入り”を、レコード売り上げ、『ザ・ベストテン』ともに達成する。その後の快進撃は、多くの人が知るところだろう。「だからね、『少女A』も『涙のリクエスト』もセカンド・シングルだから、当時“2曲目を売野雅勇に書かせたら売れる”っていうのがヒットの法則みたいに言われて、ちょうどよかったよ。結果オーライってやつだね(笑)」ここから、’86年に発売の『Song for U.S.A.』 まで大半のシングルを売野が手がけているが、同年までに出た4枚のオリジナルアルバムでも、収録曲の約半数は売野が作詞している。売野はその1stアルバム『絶対チェッカーズ!!』についても、興味深い2つのエピソードを語ってくれた。ひとつは、鶴久政治がリードボーカルをつとめた楽曲『HE ME TWO(禁じられた二人)』について。男性カップルの恋愛をテーマにした曲だが、当時としてはかなり異色の内容だった。「以前から、自分が好きになる作家や芸術家にゲイが多くて、逆に“なんで俺だけそうじゃないんだろう”って不思議に思うくらいだった。それだけ自分にとっては身近な存在だったから、このテーマの曲を書いたんだ」この少し前、郷ひろみに書いた『2億4千万の瞳 -エキゾチック・ジャパン-』でも《抱きしめて男を女をハーフを》というフレーズがあり、その根底に深い人類愛を感じさせる。そして、もうひとつは、続くシングル『星屑のステージ』にまつわる話。これは、もともとアルバム用の1曲だったという。「『星屑のステージ』は、ちあきなおみの『喝采』をヒントに作ってほしいと言われてね。俺は、アイドルには私小説的な歌詞を書くから、作品と彼らの軌跡が互いに接近してくるのだけれど、この詞を書くときには主人公たちと、彼らのライブハウスに来ていた女の子との架空のストーリーが浮かびあがってきたんだ。ヒントとすべきが『喝采』だから、その女の子はもうこの世にいない、という設定にして」(※『喝采』の歌詞は、“大切な人との死別”が大きなテーマとなっている)そのドラマティックな設定と、悲しい歌詞でも前向きな気持ちにさせる藤井フミヤの歌声、メンバーのコーラスや演奏の力強さも相まって、初のバラード・シングルながら『ザ・ベストテン』では7週連続の1位となった。■生みの苦しみの先につかんだ栄光そうして迎えた5作目のシングルが『ジュリアに傷心(ハートブレイク)』だが、当時ノリに乗っていたと思いきや、超難産の1作だったという。「『ジュリア~』は5回書き直したけど、それは未だに更新されない自己最高記録だね(笑)。最後のかたちが100点だとしたら、最初に出した原稿は、後から振り返ると50点くらいだったかな。芹澤さんに何度もダメ出しされて。彼はもともと歌手だから、自分が歌って気持ちいいか、カタルシスがあるかどうかが大事で、心に突き刺さらないとOKが出ないんだ。普通、そこまで何度もNGだと他の作詞家に変えちゃうんだろうけど、俺が最初に書いた《キャンドル・ライトがガラスのピアスに反射(はじ)けて滲む》という出だしのフレーズのグルーヴ感が、誰にも敵わないくらい圧倒的だったんだよ。全体をこのノリに合わせればイイ歌になる、って確信してくれていたみたい」5回も書き直したかいあって、どのパートも印象的なフレーズに仕上がった『ジュリアに傷心』は、オリコン調べではチェッカーズの中で唯一70万枚を超えるセールスとなり、’85年度のオリコン年間ランキングでも1位に。また、’00年代に始まった音楽配信でも10万以上のダウンロードを記録しており、まさに“記録にも記憶にも残るヒット曲”となったと言えるだろう。その後も売野は『あの娘とスキャンダル』や『俺たちのロカビリー・ナイト』『OH!POPSTAR』と、彼らのリアルなイメージを投影した歌詞を手がけ、順調にヒットを飛ばしていった。ここでも、印象深いエピソードをひとつ。「そういえば、9枚目のシングル『神様ヘルプ!』(作詞:康珍化)のときに、俺もその同じメロディで詞を書いていたんだ。でも最終的に康さんの『神様ヘルプ!』をシングルにするからって、ボツにされたんだよね。その歌詞には自信があったからね、ちょっと残念というか、“え!?”って感じだよね。しかし、そういうのはよくあることだから、決してメゲたりはしないんだよ。もちろん、俺の作品のほうが絶対いい、なんてことも言わないさ。それが作詞家ってもんだよ。ボツのことなんてすっかり忘れたころ、真夜中だったけど、自宅近くのコンビニに入ったとき、聞き覚えのある歌詞が流れてきて、“俺の詞に似てるな”、“こうやってフレーズを並べれば、売野雅勇風にできるんだ”と妙に感心していたんだ」2コーラス目が流れてくると、フミヤの歌声だとわかり、「これは俺が書いた『ひとりじゃいられない』という歌だ!」とやっと気づいた。同時に、ずいぶん前に芹澤から「ボツにしたけれど、お蔵入りにするにはもったいないので、別のメロディーをつけてシングルのB面に入れましたから悪しからず」と言われていたのを思い出したという。(詳しい記述は、前述した売野の著書『砂の果実』にもあり)ちなみに、この『ひとりじゃいられない』の歌詞には、人を思いやる真っすぐな気持ちが込められており、フミヤの温かい歌声ともリンクして、女の子が胸キュンしそうなミディアム・バラードに仕上がっている。それはまるで、メンバーからファンに宛てた1通のラブレターのようだ。筆者が担当するランキング番組『渋谷のザ・ベストテン』(渋谷のラジオ)でも、チェッカーズ限定のランキング投票を実施したところ(全2060票)、ファンリクエスト部門では8位と、シングルB面曲としては異例の人気に。実際のA面だった『神様ヘルプ!』を大きく上回っている。■フミヤに言われた忘れられない言葉とはその後、シングルでは11作目の『Song for U.S.A.』(’86年6月発売)を最後に、売野×芹澤コンビでのチェッカーズへの楽曲提供は終了。12作目の『NANA』からチェッカーズはセルフ・プロデュース期に突入し、’92年に解散した。しばらくしてフミヤがソロで活動し始めたものの、彼はチェッカーズ時代のセルフカバーを歌う際、弟の藤井尚之が作曲したものをメインとしており、芹澤廣明の作品は“ひとりじゃ歌えない”と事実上、封印してきた。しかし、コロナ禍を憂いたフミヤは「人々に元気を届けられるなら」と芹澤氏に相談し、’21年の特別番組『激レア!藤井フミヤギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)にて約29年ぶりに芹澤作品を披露し、その後のツアーでもセットリストに組み込んでいる。このことを、売野はどう思っているのだろうか。「最近、フミヤくんがまた当時の歌を歌ってくれるようになって、本当にうれしい。最高だよ! 歌にとっても、封印されてしまうのは、かわいそうだからね。俺の中でチェッカーズの1番ソングはやっぱり、ひときわ苦労した『ジュリアに傷心』だろうね。12インチ・シングルだった『ブルー・パシフィック』も好きだし、シングル以外なら、アカペラの『ムーンライト・レヴュー50s』かな。それと『ローリング・ダイヤモンド』の、ちょっと不良っぽい歌詞も気に入っているよ。チェッカーズの魅力はズバリ、“キュートな不良性”。不良なんだけど汚れたイメージがなくて、オシャレなんだよね。フミヤくんは洋服が大好きみたいで、“最初の河口湖のレコーディング合宿のとき、売野さんは真っ白なスーツで来ましたよね”って言い張るんだよ。そんなはずはないんだけど、会うたびに言われた。それに、“いつも、どんな服を着ているの”って、ブランドのこともよく知っていて尋ねられたね。当時、俺は古いベンツに乗っていたんだけれど、チェッカーズの初コンサートで所沢まで乗っていくつもりが、途中でバッテリーが上がっちゃって、行けなくなって悔しかったことまで思い出しちゃったよ(笑)」(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)【PROFILE】うりの・まさお◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。’90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。
2021年08月20日山口百恵さん(左)と藤圭子さん(右)「百恵さんは歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」かつて筆者の取材に対し、そう語っていたのは音楽プロデューサーの酒井政利さん。山口百恵さん(62)や郷ひろみ(65)、松田聖子(59)らを担当した希代のヒットメーカーだが、7月16日に心不全のため都内の病院で逝去した。85歳だった。筆者が初めてお会いしたのは30年以上前。以来、昨年までアイドル論や歌謡曲論を繰り返し教えてくれた。その一部を再録したい。(文/高堀冬彦)■百恵さんのデビュー曲にフォークソング調が選ばれたワケ酒井さんは350人以上のアーチストを担当したものの、中でも百恵さんは思い出深かったようだ。「初めて百恵さんとお会いしたのは彼女のデビュー前の1973年でした。礼儀正しく真面目な人でしたね。それは1980年の引退時までずっと同じでした」出会ったときの百恵さんはまだ13歳。だが、既にプロ意識を感じたという。百恵さんは自分と5歳年下の妹を女手1つで育ててくれていた母親に楽をさせたくて歌手になったことで知られる。それも背景にあったのだろう。「いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのを覚えています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」ただし、酒井さんたちは売り出しには苦労した。「デビューした当初は音域がやや狭かった」からだ。このため、1973年5月デビュー曲にはフォークソング調の『としごろ』を用意した。「あの歌は音域が狭くても歌えるのです。もっとも本人が積極的にレッスンを受けてくれて、すぐに音域を広げましたけどね」それを見極めた上で酒井さんが2枚目に用意したのが同年9月の『青い果実』だった。10代の性をテーマにした際どい歌詞だったが、百恵さんは躊躇せずに歌った。これにもプロ意識を感じさせたという。未だ人気がある百恵さんの最大の魅力は何なのか。この問いに酒井さんはこう答えた。「光と影の両面を持つ人であるところです」高い歌唱力を持っていたし、哀愁ある低い声も魅力的だったものの、光と影があったから伝説の人になったと解説した。「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増すんです。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合います」たしかに百恵さんは歌う楽曲の幅が広かった。阿木燿子さん(76)が作詞し、夫の宇崎竜堂(75)が作曲した『乙女座 宮』(1978年)や同じ夫妻がつくった『しなやかに歌って』(1979年)、などは明るく軽快。光を思わせた。山口百恵一方、さだまさし(69)が作詞・作曲した『秋桜』(1977年)や谷村新司(72)による『いい日旅立ち』(1978年)などは哀感に満ちていた。影を強く感じさせた。さまざまな楽曲を歌えた理由はほかにもある。「大変な努力家だった」という。「新曲のレコーディングの際、『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていました」音楽的センスも良かった。百恵さんは阿木さん、宇崎さんの楽曲で数々のヒットを飛ばしているが、2人の起用を提案したのは百恵さん自身だった。「あるとき、私のアシスタントに対し百恵さんが『きのうの夜、(宇崎さんがリーダーの)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウンタウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、さっそく宇崎さんに連絡を入れたのでした」あとになって酒井さんは気づいた。「百恵さんは、阿木さんと宇崎さんに楽曲をつくってもらいたかったから、アシスタントにダウンタウンの話をしたんです。百恵さんは出しゃばるようなことをしない人でしたから、間接的に自分の考えを伝えたんですよ」阿木・宇崎夫妻による第1弾『横須賀ストーリー』(1976年)は記録的ヒットになった。「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横須賀でも横浜でも良かったんですけどね(笑)」その後、百恵さんは引退。人気絶頂時の1980年のことで、活動期間は僅か8年。まだ21歳だった。酒井さんはさぞ残念だったのではないか。「いいえ。残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」この言葉に偽りはなかっただろう。酒井さんは誰にもやさしい人だった。だからアーチストが直接プロデュースを頼んできたこともある。8年前に62歳で亡くなった故・藤圭子さんもそうだった。■「天才だった」藤圭子さん藤さんは1979年に1度は芸能界を引退したが、1981年に藤圭似子の名前で復帰すると、酒井さんにプロデュースを依頼した。「すべてお任せします」藤さんはそう言ったが、結局ヒットは出なかった。1974年に喉のポリープを切除し、魅力だったハスキーボイスが失われていたことが大きな痛手となった。「でも天才でした。デモテープを一度聴かせるだけで、すぐに歌をおぼえてしまった。しかも絶対に音をはずさなかった。驚きましたね。類い稀なる才能の持ち主でした」それから約8年後、藤さんの愛娘・宇多田ヒカル(38)が5歳になるころ、酒井さんは母娘とアメリカで会った。その時、藤さんが「この子は天才なのよ」としきりに訴えるので、「意外と親バカなんだな」と内心で笑っていたという。だが、藤さんの言葉は本当だった。「天才には天才が分かるんですね。恐れ入りました」酒井さんはまだプロデューサー業を続け、昭和のアイドル、歌謡曲を語るつもりだった。酒井さんの最初の大ヒットは前回の東京オリンピックと同じ1964年に発売された『愛と死をみつめて』(歌・青山和子)。このため、酒井さんは「次のオリンピックまでは頑張りますよ」と口癖のように言っていた。だが、その直前に惜しまれつつ逝った。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2021年07月20日東京ステーションギャラリーで『コレクター福富太郎の眼 昭和のキャバレー王が愛した絵画』が開かれています。昭和時代、キャバレー「ハリウッド」を創業し、全国に44店舗も展開した実業家の福富太郎(1931~2018)。テレビのワイドショーなどでも活躍した彼が熱心に集め、大切にしていたハイクオリティの絵画作品をご紹介します。キャバレー王、福富太郎って?【女子的アートナビ】vol. 205本展では、福富太郎が収集したコレクションのなかから、日本画や昭和期の油彩画など約80点を展示。鏑木清方など有名な画家の美人画から、あまり知られていない画家の作品まで、さまざまな作品が紹介されています。福富太郎とは、いったいどんな人なのでしょう?東京の品川で生まれ育った福富太郎(本名:中村勇志智)は、第二次世界大戦末期の少年期、米軍の空襲にあい、家とともに父親が大切にしていた鏑木清方の掛け軸を失います。戦後、東京オリンピック景気を背景にキャバレー「ハリウッド」を全国展開させ、実業家として成功をおさめた彼は、絵の収集を開始。少年期の経験から、まず鏑木清方の作品を集め、さらに当時あまり知られていなかった作家たちの作品も収集していきました。また、福富は絵を集めるだけでなく、美術に関する文章を雑誌に連載したり、美術史家と対談をしたりと美術評論家のような活動も展開。さらに、昭和期のワイドショーや深夜番組などにもたびたび出演し、テレビやラジオなどのマスメディアでも活躍。さまざまな顔をもつ多才な人物でした。駆け落ちに失敗…では、福富太郎はどんな絵が好きだったのでしょう?美人画を多く集めたことで知られていますが、単に見た目が美しい女性の絵にはあまり興味がなかったようです。娼婦や駆け落ち、心中をはかろうとする女性の姿など、妖艶で少し陰のある女性を描いた作品を好んだようで、展示会場は一種独特のあやしげな雰囲気が漂っています。そのなかから、本記事では3点ご紹介。(所蔵はすべて福富太郎コレクション資料室)まずは駆け落ちに失敗した女性を描いた池田輝方の《お夏狂乱》。但馬屋の娘、お夏と使用人の清十郎は駆け落ちしようとしたところ捕まり、清十郎は死刑、お夏は恋しさのあまり狂乱した、という実話をもとにした物語を題材にした作品です。狂乱して座り込み、放心したようなお夏の表情が、悲しくも美しく描かれています。娼婦、心中する女…続いてご紹介するのは、娼婦を描いた秦テルヲの《妊(はら)みの祭》。この画家は、私娼(公認されていない娼婦)たちが集まる場所に出かけ、美化しないリアルな女性像を描くことを得意としていました。売春婦をモチーフにした絵を収集したいと思っていた福富は、秦テルヲの作品テーマに共感。「どっしりとした女の重みがひしと感じられる」と彼の女性像を高く評価していました。最後は北野恒富の《道行》。近松門左衛門の『心中天網島』を題材にした作品で、許されぬ恋をしている男女が死に追いやられていく物語の一場面が描かれています。この作品について、学芸員の田中晴子さんは次のように語っています。「この絵はいろいろな解釈ができます。例えば、これから死のうとして歩いて行く二人の姿は生気が失われているように見えますが、よく見ると女性の手の指がピンクで、足の指にも色っぽさのある赤みが残っており、生きている温かみも感じられます。ぜひ、この絵の前でゆっくりとイマジネーションを働かせてみてください」東京ステーションギャラリーは6月1日から再開館しています。6月27日まで無休で開かれていますので、ぜひ足を運んでみてくださいね。Information会期:~6月27日(日)会場: 東京ステーションギャラリー開館時間: 10:00 - 18:00*入館は閉館30分前まで休館日: 再開館(6/1)から閉幕(6/27)まで無休観覧料: 一般¥1,200、高校・大学生¥1,000
2021年06月02日『裸の大将放浪記』で知られる山下清画伯女優・冨士眞奈美が古今東西の気になる存在について語る当企画。今回は、名だたる画家とのユニークな交友について。■日本洋画界の巨匠がモデルに指名年を重ねるにつれ、わかってくること、理解できることが増えていく。若い時分というのは、なかなかモノの価値というのがわからない。そのひとつに、絵の価値があるのではないかと思う。かつて、『週刊朝日』が多士済々の15人の画家に表紙を描いてもらい、読者による人気投票を行う「表紙コンクール」という企画を、定期的に開催していた。東郷青児さん、三岸節子さん、梅原龍三郎さんなど名だたる画家たちが表紙を描くのだけれど、条件として必ず画家自身が選んだモデルを1人だけ立てて表紙用に描く──。高峰秀子さん、原節子さんといった超有名な女優さんが選ばれる中、どういうわけかNHKに所属したばかりの新人女優である18歳の私に白羽の矢が立った。しかも、矢を立てたのは、日本の洋画界に多大に貢献された小磯良平さん。あの迎賓館の大広間の壁画「絵画」や「音楽」を制作し、後に文化勲章を受章する巨匠が、なぜ名もないひよこを選んだのか、今になってもわからない。当時の私は、もっとわからない。「小磯さんという先生はどうやらすごい人らしい」、その程度の理解しかない私は、言われるがままアトリエのある逗子に3回ほど通い、表紙はできあがった。「表紙コンクール」すらよくわかっていない私の心とは裏腹に、小磯先生が描いた表紙は1位に選ばれた。『少女像』という形で、今でも時折展示されていると仄聞(そくぶん)する。描き終わった後、画家の先生はそのデッサンをくださるとおっしゃったんだけど、価値というものがわからなかった私は、忘れていただかなかった。今だったら、飛び上がって、喜んでいただくのに。■山下清、鹿に乗ってはいけないと言われ……もうひとつ、絵にまつわる印象的な思い出がある。1960年から2年間、日本各地の民謡・舞踊・郷土芸能を、ミュージカルで紹介する番組『東は東』のホスト役を滝田裕介さんが、ホステス役を私が務めていた。毎週30分間、生放送する中で、山下清さんがガラス板に白いペンキで絵を完成させるというコーナーがあったので、山下さんとは2年間、いろいろな場所にロケでご一緒した。時には、山下さんと自衛隊を訪問して、一緒に戦車に乗ったり。奈良に行ったときは、マネージャーである弟さんが、「鹿に乗っちゃいけないよ」と注意したにもかかわらず、目を盗んで鹿に乗って、転倒したり。山下さんは、笑うととってもかわいくて面白い方だった。でも、最後まで私の名前を覚えてくださらず「お、沖縄の女だな」と言われたことを覚えている。静岡県・三島市出身なんだけど、山下さんはお構いなし(笑)。一度、山下さんのお誕生日に何かプレゼントをしたいと思って、「何が欲しいですか?」と尋ねると、「カラーテレビ」と即答されて固まったことがある。当時のカラーテレビは数十万円する超高級品。安月給の私にはとうてい手が届かない。そこで、「もしカラーテレビをプレゼントしたら、私には何をお返ししてくださる?」と聞いてみると、「色紙」とひと言口にして、マジックペンを取り出した。山下さんは、即興で色紙に花を描くと、「はい、これは3000円だな」といって私にプレゼントしてくれた。今や当時のカラーテレビよりも、はるかに価値がある色紙をいただいて、私はとてもうれしかった。大事に飾っていたのだけれど、色紙だから経年劣化する。どうしようと思っていたら、飲み仲間である東京・新宿「どん底」のオーナーの矢野智さんが、「いいんだよ、こうすれば」と言いながら、山下さんが描いた花の下に、勝手に道を書き足してしまった。文字どおりの“道楽”。色紙の価値はパッとなくなってしまったが、その色紙だって世界にたったひとつだけ。モノの価値って、結局は自分次第だと思う。冨士眞奈美●ふじ・まなみ静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。(構成/我妻弘崇)
2021年05月12日じゃむ猫(@jamnekodd)さんがTwitterに投稿した1枚の写真に、驚きの声が相次いでいます。東京都江東区にある『中川船番所資料館』を訪れた、じゃむ猫さん。施設の入り口には現役の公衆電話が置かれていました。しかし、公衆電話の前には、読んで驚くフリップが置かれていたのです。その様子を撮影した写真をご覧ください。ダイヤル式の電話体験ができます!中川船番所資料館の入口にあった公衆電話(現役機)なんだけど、こんな「ダイヤル式の電話体験ができます!」ってフリップがついてまして。もう体験型アトラクション扱いなのですか。びっくりですよ! pic.twitter.com/JmgDKFZcyU — じゃむ猫 (@jamnekodd) April 11, 2021 ダイヤル式の公衆電話を置いていた施設。今では、同じ公衆電話でもボタン式のものが普及しています。そのため、ダイヤル式の電話体験という一種の体験型アトラクションのような文言が書かれていたのでしょう。時代の流れに驚いた、じゃむ猫さんは「びっくりですよ!」と驚きをあらわにしました。写真を見た人たちからは、「昭和の人間は泣く」といった声の一方、「自分は子供に教えてあげられないかも」といった声が上がっています。・40代の大人だけど、子供に教えてあげられないかも。・子供と一緒に来た親も、使い方が分からないかもしれないですね。・昭和の人間は泣いてしまう。まだこのダイヤル式を現役で使っているというのに…。・ボタン式の公衆電話でさえ、子供は使い方を知らないかもしれないね。懐かしいと思う人がいる人もいれば、ボタン式の公衆電話の使い方が分からないという人も中にはいるでしょう。時代の流れとともに物も変化していきますが、公衆電話はもしもの時のために全世代が使えるよう、子供にも教えておきたいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年04月13日岩崎宏美2020年でデビュー45周年を迎えた岩崎宏美(62)。昨年12月には2枚組のベストアルバム『LIVE BEST SELECTION 2012-2020 太陽が笑ってる』を発売し、4月から延期となっていた45周年記念コンサートもようやく実現。この模様を収録した映像ソフトが、今年3月24日に発売となる。出産や育児、ポリープの手術、さらに、このコロナ禍などで一時的にペースがゆるやかになった時期はあるものの、45年間にわたって歌手活動を続けているのは見事だ。「アイドル出身の女性歌手で、還暦を過ぎても現役」という点で、彼女は類まれな存在だろう。■紅白歌合戦には14年間連続で出場岩崎の代表曲といえば、火曜サスペンス劇場の初代エンディングテーマと曲となった壮大なバラード『聖母(マドンナ)たちのララバイ』(1982年)、売上枚数が約89万枚(オリコン調べ)となり自己最高を記録した『ロマンス』(’75年)、そして’77年の発売ながら、今でも秋になるたびテレビやラジオで頻繁に流れる不朽の名作『思秋期』など。近年における昭和歌謡の特番などで彼女を知った若い世代にとっては、この3曲だけがヒットしたという認識かもしれない。また、平成でもっとも歌われた昭和の女性歌唱曲(JOYSOUND調べ)となった『タッチ』(’85年)を歌う、妹の岩崎良美のほうになじみがある読者も多いだろう。しかし、宏美はシングル2作目の『ロマンス』から12作連続でオリコンTOP10入りを果たし、春の“センバツ”の入場行進曲に女性ソロで唯一、2度選出され(『センチメンタル』と『聖母たちのララバイ』)、NHK紅白歌合戦には、出産および育児で欠場するまで14年連続で出場するほどの、長期的なヒット歌手なのである。さらに、’80年代に「最近の若い人は基礎がなっていない。歌手ではなく“カス”だ」と一刀両断してきたシャンソン歌手の淡谷のり子や、著書で大半の歌手を猛烈に批判した指揮者のダン池田からも、若いころから“例外的にうまい歌手”だと認められている。また、’20年に放送されたバラエティー番組『林修のニッポンドリル』(フジテレビ系)では、絶対音感を持つボイストレーナー100人が厳選した“本当に歌がうまい国宝級歌姫ランキング”で7位に入り、還暦を越えた現役歌手の中で最高位をマークするなど、実力と実績が伴う数少ない存在なのだ。そんな正統派の歌手である宏美だが、本人のキャラクターはまさに竹を割ったようにサバサバとしている。それでいてユーモラスで、人情深くもあり、まさに生粋の江戸っ子を思わせるような“男前”であることが、CDのセルフライナーノーツやコンサートのMCからも垣間見ることができる。彼女自身も「歌ったり、ステージでドレスを着たりしなければ、自分は男じゃないかと思う」と語っているほどだ。ここでは、正統派として語られない部分の、いわば“裏面のエピソード”を年代ごとに振り返ってみよう。1. 「輝け!日本おてんば大賞」(’70年代)宏美は中学のころから、オーディション番組『スター誕生!』でも辛口コメントで挑戦者たちを泣かせまくったソプラノ歌手の松田敏江に師事してきたが、その一方で剣道を習い、3歳下の妹・良美を引き連れ、近所でもガキ大将的な存在だったという。そのかいあって(?)、’75年にテレビ番組の企画『日本おてんば大賞』で優勝を果たす。これは山口百恵、桜田淳子、片平なぎさ、伊藤咲子、黒木真由美といった当時のアイドルたちが棒高跳びや腕相撲、ボール投げ、トイレットペーパー早巻き対決などを競う企画で、岩崎はその大半で好成績となったのだ。特に棒のぼりでは「“あーん、登れなーい”という周りの女子たちの手前、“このへんでやめておこう”と思ったのに、結果的にダントツとなった」らしい。かくしてデビュー後、岩崎が最初にもらった賞となり、今でもコンサートなどで話のネタとして観客を和ませている。なお、かつて宏美はレコード会社の決算期に合わせて毎年のように発売されるベストアルバムについて「同じようなベストばかり出すなんて、ファンの人たちのことをどう思っているの!?」と会社のディレクターに対してすごい勢いで怒ったこともあるそうで、こうした正義感の強さも、まさに昭和のガキ大将気質そのものだろう。■歌い継がれるうちに当時より人気が上昇2. 「『シンデレラ・ハネムーン』はコロッケにあげました(笑)」(’80年代)14作目のシングル『シンデレラ・ハネムーン』(’78年)は作詞:阿久悠、作曲・編曲:筒美京平というゴールデンコンビによる楽曲。「♪日暮れに始まり夜更けに別れる〜」という、何やらわけありの男女の恋をディスコ調に歌ったアッパーチューンだ。岩崎宏美ならではのダイナミックな歌唱や、手をぐるぐる回す派手な振り付けが印象的で、その年の紅白歌合戦で見せた超早回しでのパフォーマンスは、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブが語り草にするほど。だが、当時はオリコン最高13位にとどまり、レコードの売り上げも岩崎の中で17番目(累計約15万枚)と、決して高くはなかった。しかし、’80年代前半に、コロッケがあごを突き出して得意げに歌い踊るというモノマネを披露して、お茶の間の人気が急上昇。そのあおりを受け、宏美のコンサートではこの曲の♪チャラチャチャチャーンというイントロが鳴るだけで、客席からクスクスと笑い声が上がるようになり、以降は岩崎も「『シンデレラ・ハネムーン』はコロッケにあげました(笑)」と言って、’00年代に入るまでコンサートでは封印していた。現在は黄色いハチマキを巻いた親衛隊のかけ声を伴って、大半のコンサートでクライマックスを盛り上げるとても重要なナンバーで、カラオケ人気も岩崎の中で4番手と非常に強く(JOYSOUND、2020年調べ)、当時の売り上げよりも、歌い継がれることの重要性がよくわかる。なお、かつて良美がコロッケに向かって「お姉ちゃんは、そんな顔をしていないもん!」と怒って反論した、という姉妹愛の強さを示すエピソードもつけ加えておこう。3. 離婚後、シティポップのアルバムとミュージカルの薄幸な役で奮闘(’90年代)岩崎は’70年代に阿久悠、筒美京平、三木たかしなど歌謡曲の重鎮たちが手がけたヒット作を数多く歌い、’80年代には『聖母たちのララバイ』をはじめとする大人のポップスや、2枚の海外録音アルバム(うち1枚はデヴィッド・フォスターやスティーヴ・ルカサーなど有名ミュージシャンが多数参加)を発表。さらに’88年に結婚してからは『誕生』『家族』『きょうだい』というタイトルがついた胎教・育児系の三部作を発表したのち、’95年に離婚した(’09年に再婚)。その後、2人の子どもとは離れて暮らすこととなり、会えるのは2か月に一度の面会のみで、寂しさのあまり子どもたちの住むマンションの下まで車を走らせて泣いた日々もあったようだ。■経験を糧に着々とスキルアップそして、この時期に発表されたのが『SHOWER OF LOVE』(’97年)というアルバム。角松敏生や吉田美奈子、SING LIKE TALKINGの佐藤竹善や藤田千章らが参加して、宏美が軽やかなシティポップやAORサウンドに挑んでいる。繊細な声でつぶやいたり、裏声を多用したりして、くつろいで聴ける曲が多いのも特徴だ。また、9年ぶりにミュージカル『レ・ミゼラブル』に出演。子どもと一緒に暮らせなくなる母親の役を自らの体験を通して演じ、最大の見せ場である『夢やぶれて』での絶唱が大きな評判となった。現在は2人の子どもとも自由に交流しているそうだが、彼女の歌がより慈愛に満ちた深いものとなったのは、この’90年代のつらい体験があったからだろう。’00年代以降は、ポリープの除去や更年期障害、甲状腺障害などさまざまな困難を乗り越えながらカバー・アルバム『Dear Friends』(’03年)を発表し、これまで8作も続くほどの人気シリーズに。近ごろでは「のどにも寿命がある」ということを悟り、デビュー時のような強く張った高音は出さなくなったかわりに、筒美京平が早くからその魅力を見抜いていた響きのある低音から、離婚後に多用しはじめた優美に包み込むような裏声まで、幅広い音域を駆使するように。さらには歌謡曲のみならず、クラシックやジャズのアーティストとの共演を成功させるなど活躍の場を広げ、還暦を過ぎてもなお、歌い続けている。近年、昭和歌謡が再評価されているなかで、山口百恵、太田裕美、西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎らトップクラスとともに名前が挙がるのが岩崎宏美だと言えるだろう。当時の楽曲は歌詞もメロディーも口ずさみやすく、決して言葉や音符の数が多くはなくとも深い魅力を生み出していたのは、どの曲もドラマ性のある歌声で歌われていたからだ。逆に、岩崎宏美が近年のJ-POPをカバーするとしたら、そのドラマティックな歌声を味わう余韻なく言葉が詰め込まれることで、ときとして情報過多になってしまうのではないだろうか。だからこそ昭和歌謡は魅力的であり、それを忠実に歌い継ぐことのできる数少ない伝道師として、今後も岩崎宏美の活躍を祈っている。なんなら、紅白歌合戦にも30年以上ぶりに復活してほしいくらいだ。この歌謡曲ブームで、そんなふうに願う人がもっともっと多くなることを大いに期待している。(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
2021年01月20日1985年にエポック社から発売されて以来、多くの人に愛され続けている『シルバニアファミリー』。子供の頃、『シルバニアファミリー』のかわいい動物の人形とドールハウスで遊んだことがある人もいるのではないでしょうか。『シルバニアファミリー』ならぬ『シルバニア団地』…?2020年11月17日、KanaFett(@kanafett)さんがTwitterに投稿した写真に「なつかしい」「素敵」といった声が寄せられています。投稿者さんは、『シルバニアファミリー』を使って、昭和の暮らしぶりを再現した『シルバニア団地』を作ったのだとか。その写真がコチラです。畳の上で晩酌をする父親や、ベランダで布団を干す母親。どれも、どこかなつかしい雰囲気でホッとしますね。投稿者さんは、この『シルバニア団地』のほかにも『シルバニアファミリー』のドールハウスを改造して昭和風にリメイクすることもあるそうです。その写真がコチラ。シルバニア団地見てもらえて嬉しい…✨シルバニア団地は一から作ったお家だけど、シルバニアのお家を昭和風にリメイクするのも楽しいのでオススメです…ただ、どんどんお家が増えていくので注意です…笑 pic.twitter.com/tfgkE8sHld — KanaFett (@kanafett) November 16, 2020 日本人になじみのある光景を再現したドールハウスに、さまざまな声が寄せられました。・昭和の台所は、まさにこんな感じ!実家を思い出します。・子供の頃を思い出してなつかしいな。細部まで作り込まれていて素敵です!・素晴らしい。『シルバニアファミリー』が大好きなのですが、こういう日本風のドールハウスもいいですね!かわいい!『シルバニア団地』の写真に、両親や祖父母と過ごした時間を思い出した人もいるでしょう。昭和や平成など、人々が暮らしてきた生活を、かわいらしい形で表現できるのは素敵ですね。[文・構成/grape編集部]
2020年11月22日クイズ!脳ベルSHOW「テレビがつまらなくなった」「若者のテレビ離れ」だのといわれている昨今。どっこい、世間から熱い支持を受けているお化け番組があるんです!それがBSフジの『クイズ!脳ベルSHOW』。松本人志、徳光和夫、伊集院光、有田哲平など、番組ファンを公言する芸能人たちも多く、出演志願も多数届くとか!そんなテレビの可能性を掘り起こし続けている当番組の魅力を伝えます!昭和の底力を持つもの同士による奇跡のコラボ連載。読み逃しなく!■“頭を使うこと”の楽しさを思い出させてくれる“今、いちばん面白いBS番組”と言われている『クイズ!脳ベルSHOW』(BSフジ)。2015年からスタートし、今や本家フジテレビの地上波でも、早朝4時から帯で再放送されるほどのお化けクイズ番組に!といっても、知識を競い合う地上波のクイズ番組とはひと味もふた味も違うんです。誰でも楽しめる脳トレ的なクイズを出題し、“頭を使うこと”の楽しさを思い出させてくれるのが、この番組の人気の秘訣。そして、40~90代の多彩なゲスト(総ゲスト数はのべ2000人以上!)が登場する様子は「この番組でしか見ることができない奇跡のコラボレーション」と呼ばれる番組の醍醐味になっているほど。今回は、そんな脳ベルSHOWでおなじみのゲストの方々に、“脳ベル愛”について語っていただきました!●大木凡人出演者が生き生きとする“昭和の同窓会”のような番組かつて共演した方や、ステージで司会をさせていただいた歌手の方に会って、「元気だった~!?」って声をかけ合う、われわれにとっては同窓会のような番組です。出演者が生き生きとしているのが、この番組のすごいところ。「私たちが集まるためにこういう番組ができたのかな」って感謝しかないですね。「脳ベル、見たよ」と声をかけてくれる人たちも、みんなにこやかに話しかけてきてくれるんです。演者も視聴者も一緒になって楽しんでいるんだなってうれしくなっちゃうよね。クイズだけじゃなくて、「脳ベルヒットスタジオ」では口上を述べさせていただいたり、この番組に出ると脳みそが柔らかくなりますね。口上って、詩心がないとできません。「ネオンの影の路地裏の、恋物語を五線の譜にたどるは~♪」とかね。自分が勉強した詩集を引っ張り出して、何を言おうかなと考える。11月21日にサンシャイン劇場で行われる「脳ベルヒットライブ」も楽しみ。JAGUARさんや森口博子さんに対して、“大木凡人がどんな口上を言うのか”楽しみにしていてください。MCは、マスターオブセレモニーの略です。私も数々のMCをしてきましたが、岡田圭右さんのMCは、まさにマスターですよ。雰囲気と一体化する彼がいると、安心するしホッとする(笑)。脳ベルSHOWは、本当に楽しい現場です。それを、みなさんと分かち合えるのが待ち遠しい!おおき・ぼんど1945年、愛媛県生まれ。日本の司会者・タレント・レポーターとして、数々のテレビ番組、ラジオ番組、ステージなどで活躍する。日本司会芸能協会会長。10月下旬より、YouTubeに『大木凡人の凡チャンネル』を開設。■回答者の素のキャラを引き出す魔法は……●大沢逸美『あきたこまち』は美しい輝かしい“コメ”です!最初のころは、それこそ脳みそフル回転!で疲れ果てましたが、今では岡田さんや共演者の方々とのトークを楽しませていただいています。スタッフさんたちも温かい雰囲気で迎えてくださるので「ただいまー。“コメ”もらいにきたよー!」と、リラックスして挑める番組です。’18年の出演時に週間チャンピオンとなり、あきたこまち15kg(5kg×3袋)をいただきました。お米の美味しさに加えて、優勝賞品というご褒美は、何とも美しい輝かしい“コメ”なのです!番組を通して「今回も、コメをゲットしてください!」と、応援してくださる方々もいらっしゃいます。クイズの解答には必死になりますが(“コメ”がかかっていますし!)、ジャンルの異なる先輩方とご一緒させていただける番組です。また、「脳ベルヒットスタジオ」のコーナーが大好きで、出番がなくても必ずスタジオの隅で観賞しています。川野良子アナは歌がうまいうえに、本当に楽しそうに歌うお姿が魅力的。出題のヒントではついポロリ!してしまう、とってもチャーミングな方。回答者の素のキャラを引き出す魔法は、岡田さんと川野さんの絶妙な距離感によってなせる技だと思います。おおさわ・いつみ1966年、北海道生まれ。第7回ホリプロタレントスカウトキャラバンのグランプリとしてデビュー。母親を11年にわたり介護した体験をもとに講演活動も行っている。●谷 隼人“悔しい” “悲しい” “キツイ”の3Kに翻弄されています懐かしい人たちが次々と出るから、僕も見ていて楽しいんだけど、答えられないと悔しくてたまらない!「なんて俺はバカなんだ!」と落ち込んでしまう(苦笑)。でも、ちょっと自慢したいんだけど、特番の『11時間テレビ』で都道府県対抗クイズ合戦があるんだけど、その第1回で僕らの「九州沖縄代表」が優勝したんだよね!すごいでしょ?仲間のおかげなんだけど、お米をもらってうれしかったなぁ。あと、やっぱり岡田君と川野さんの進行力、持っていき方がすごい。まさに“オカダ・ワールド”ですよね!みんなを楽しませる力が素晴らしい。毎回、感心しています。この番組、けっこう見ている人がいるんだよね。だから「谷さん、見ましたよ!」「次いつ出るの?」なんてよく聞かれます。見てくれるのはうれしいんだけど、僕にとっては問題がわからなくて“悔しい”、答えられなくて“悲しい”、次々にわかんない問題が出てくるから“キツイ”の3Kなんですよ!そんな困っている谷隼人を応援してください!たに・はやと1946年、鹿児島県生まれ。1961年、子役としてデビュー。その後、日活のニューフェイスを経て、東映に入社。『キイハンター』『風雲!たけし城』などテレビでも活躍。女優・松岡きっことのおしどり夫婦としても有名。■脳ベルSHOWは着目点がわかってる!●マッハ文朱『脳ベルSHOW』は「人間死ぬまでが現役」を教えてくれます何ごともダイナミックで面白い時代“昭和”を知っている世代の人たちは、懐かしく誇らしく思え、また、知らない世代の人たちは刺激を受け、これから先の大きなヒントにつながる──、そんな昭和をありとあらゆるジャンルで取り上げ、きちっと脳も活性化させてくれる構成内容になっており、うなっております。番組中でもお互いに安心してツッコめる!ツッコまれる!!そんな昭和リズム&ギャグでやりとりができるのも楽しい。岡田さんは、ちんぷんかんぷんな答えや言動に対しても私たちを嫌な気分にさせずに、いつもちゃんと私たちが立つようにしてくださる。川野さんのゆるキャラにも似たキャラクターも最高です。私は「どうやってその商品が生まれ、それをヒットさせたのか?」のコーナーが大好き。マッチ棒はとにかく苦手。お金の合計は3問中1問は必ず、おっちょこちょいで見落として不正解……性格を直したいです(笑)。「シニアだから」とか、「昭和の時代の方々だから」なんて、世の中では“古い”“昔”と一括りにしたがりますが、「人間死ぬまでが現役」でよいのでは?脳ベルSHOWは着目点がわかっていらっしゃる!私自身、大大ファンの番組です。まっは・ふみあけ1959年、熊本県生まれ。15歳で全日本女子プロレスに入門。長身のルックスとスター性で人気スター選手となるも、2年8か月で引退し、タレントに転向。2013年、20年ぶりに芸能活動を再開し、多岐にわたって活躍中。●杉浦 幸すごろくに行きたい!脳ベルSHOW愛は誰にも負けません老若男女関係なく答えられるクイズ番組なので、知識を問わず見ている方も参加できるところが、この番組の魅力だと思います。放送されないところでも、とても楽しいMCのおふたりなので、出演者みんながリラックスできて楽しいです。子どものころから勝負事は1番を目指してたので(笑)、「クイズ!すごろく大逆転」は最終決戦の場!何度も「奇跡のアイディアクイズ!その時どうした?」で逆転をされ、すごろくに行けなかったのは本当に悔しくて……。特番のときチーム戦で初めてすごろくに進んで優勝したときはとてもうれしかったです!年齢を重ねると頭が固くなったり、何かにとらわれて思い込みなどで柔軟性がなくなり、答えにたどり着くまで時間がかかります。でも自分の中で難しく考えたり簡単と感じたりするのは、柔軟性の問題。それによって難易度が変わるのでみなさんも頭を柔らかくして参加してみてください。私は脳ベルSHOW愛は誰にも負けません!今度は個人戦ですごろくまで行って優勝、1番を目指します!すぎうら・みゆき1969年、東京都生まれ。1985年、主演ドラマ『ヤヌスの鏡』でデビュー。清純派アイドルとして人気を博す。翌年にはシングル『悲しいな』で歌手活動を開始。自身が厳選した犬グッズを扱うセレクトショップ「mauMina」(マウミーナ)を展開中。◆『クイズ!脳ベルSHOW』はこうして作られている!(11月9日~OA分)この週の前半の回答者は、川柳作家のやすみりえ、歌手の浜博也、マッハ文朱、俳優でジャズ歌手の寺泉憲の4名。このごった煮感、まさに『クイズ!脳ベルSHOW』の神髄!後半の回答者は、格闘家の菊田早苗、元タカラジェンヌの姿月あさと、おネエタレントで最近は落語もこなす日出郎、女優の神保美喜。この4人が登場する夢って吉兆なの?悪夢なの!?出題者としてトランプマンが登場。回答者はもちろん、出題者まで盛り上げる岡田のプロ司会者ぶり!(取材・文/我妻アヅ子)◆『クイズ!脳ベルSHOW』どんな番組?「なぞなぞ」、「過去のヒット商品を思い出す」といった、誰でも楽しめる絶妙な脳トレクイズに、昭和のスター、スポーツ選手、俳優、文化人など多彩なゲストが挑戦。白紙回答、カンニングまがい(!?)の言動など自由すぎる内容&喜怒哀楽をあらわにしてクイズに熱狂するゲスト陣の姿が、「地上波のクイズ番組よりも面白い!」と話題に。1日15分、毎日の脳トレ習慣が身につく、番組と連動したドリルも大好評発売中!放送時間:BSフジ月~金22:00ー22:55再放送:フジテレビ月~金4:00ー4:55◆待望の公開収録が決定!「脳ベルヒットライブ」『クイズ!脳ベルSHOW』に登場した有名人の中から、選りすぐりの総勢15名に今なお愛される昭和のヒット曲を歌っていただきます!11月21日(土) 会場:サンシャイン劇場 全席指定:5500円(税込み)司会:岡田圭右、川野良子口上:大木凡人ゲスト:氏神一番、JAGUAR、森口博子ほか問い合わせ先:BSフジイベント event@bsfuji.co.jp
2020年11月13日『スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~』DVDBOX発表記者会見荒唐無稽な設定に大げさなセリフ。春にヒットしたドラマ『M~愛すべき人がいて』(テレビ朝日系)を見て、大映ドラマを思い出した人は多いのでは。そこで、懐かしのあの爆笑セリフを集めてみました!■笑っちゃうような名セリフ満載!“大映ドラマ”とは、大映テレビが制作したドラマのこと。’70〜’80年代に荒唐無稽な設定と過剰な演出で人気を集めたが、’90年代に入るとトレンディードラマが主流に。しかしここにきて、『M~愛すべき人がいて』(テレビ朝日系)や『半沢直樹』(TBS系)に大映ドラマを思い出した視聴者は多い。「約束のところへ行けない、誰かに会えなくなる、といった問題や試練がありつつも、毎回それをクリアする楽しさがあります。セリフもトンチキなものばかりではなく、人として生きるための根源的な問いかけもあるので、面白いだけではなく“感動”も味わえるんです」と、大映ドラマの魅力を語ってくれるのは、週刊女性ドラマ座談会メンバーでライターの成田全さん。続けて同メンバーでドラァグクイーンのエスムラルダさんも、「やはり大映ドラマって少年院、スポ根、大富豪と超貧乏、多重人格など設定自体が非日常だからこそ、非日常的な名ゼリフがちゃんと生きるんですよね」大映ドラマはアイドルの登竜門ともいわれた。デビューしたばかりの堀ちえみ(スチュワーデス物語、花嫁衣裳は誰が着る、スタア誕生)、小泉今日子(少女に何が起ったか)など若いアイドルが主役を務めることが多かった。「新人アイドルのつたない芝居でも成立したのは、ベテラン俳優たちがしっかりと脇を固めていたから。さらにTBS系は芥川隆行、フジテレビ系は来宮良子がナレーションを担当し、心情や流れをしっかりと補強してくれる。どんな無理やりな展開やセリフが繰り出されても物語に嘘っぽさが生まれず、安心して見られる作りになっています」(成田さん)主題歌も大映ドラマの魅力のひとつ。TBS系は麻倉未稀、フジテレビ系は椎名恵が多く担当した大映主題歌。ほかにも小比類巻かほる、葛城ユキ、未唯など実力派ぞろい。「電子ドラムがけたたましく鳴り響く『スクール☆ウォーズ』の主題歌『ヒーロー』のように、イントロが印象的だったり、ロック系の曲のインパクトが強烈で、それが鳴るだけで血沸き肉躍る感が醸し出される。毎回、歌をバックに物語の概要がナレーションで説明されるのも大映ドラマの特徴ですね」(成田さん)そして半沢直樹同様、最終回では視聴者をスカッとさせてくれるのだ。「『スクール☆ウォーズ』は花園出場、『ポニーテール』はバンドとして成功するといったテーマが最後までブレず、最終回では苦労が報われたり、夢がかなうというカタルシスがたまりません!」(エスムラルダさん)多くの笑いと感動を与えてくれる“大映ドラマ沼”にどっぷりハマりませんか?■『スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~』(TBS系)’84年~’85年 出演/山下真司、岡田奈々、下川辰平、名古屋章、松村雄基、伊藤かずえ、岩崎良美、梅宮辰夫、和田アキ子、北村総一朗、坂上二郎ほか◇主題歌/『ヒーロー』麻倉未稀◇あらすじ◇高校ラグビー界の無名のチームが、荒廃の中から健全な精神を培い、数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を描く●脳腫瘍で自暴自棄のイソップ(高野浩和)はトルエン漬けに。しかし滝沢(山下)に諭され、不良とひと悶着あった後に更生を誓う「僕、何よりもトルエンが気持ちよくなってしまっているんです。僕、もうどうだっていいんです!」●光男(宮田恭男)と滝沢(山下)をしごく、悪い先輩を白馬で蹴散らす圭子(伊藤)「馬上から失礼します」●ロックバンド『黒騎士』のボーカル・名村直(鶴見辰吾)が自らバンドの方向性を説明するも意味不明!「俺たちのロックはよ、怒りと悔しさを涙のスパイスで味つけした五目そばなんだよ!わかるだろ?いや、わかんなくてもいいけどさ!」■『少女に何が起ったか』(TBS系)’85年出演/小泉今日子、市毛良枝、風間杜夫、辰巳琢郎、松村達雄、岸田今日子、長門裕之、石立鉄男、宇津井健ほか◇あらすじ◇北海道の漁村で育った少女(小泉)が母の死を機に、自分の出生の秘密を確かめるため上京。天才ピアニストであった亡き父の娘である証を求めてピアニストを目指す。●祖父であるはずの東学長(松村)に「憎んでいるのか?」と聞かれた雪(小泉)のトンチキな返し!「子どもの時から、憎いジジイ、憎いあん畜生だと思ってます!」●勝手にドレスを着られて怒り心頭の美津子(賀来千香子)が雪の服を脱がせようとしながらの捨てゼリフ「ニセモノの泥棒猫!」●毎晩12時に現れては雪を捜査していた川村刑事(石立)。さんざんひどいことをしてきたが最終回にはいい人に「もう夜中の12時には会えない。ちょっと寂しいが、元気でな。薄汚ねぇシンデレラ……。いや、とってもかわいいシンデレラ」●コンクールの練習をしたいのに、鍵をかけられてピアノが弾けない雪の怒りが爆発!「ダメだ! 紙の鍵盤だと、指が沈まないし、ますます滑って転んじゃう! 16分音符がまるで叩けない! 本物のピアノが弾きたい! ピアノが弾きたい!」●最終回、田辺百合子(高木美保)率いるお嬢様軍団と、雪が筆頭格の特待生軍団が和解。お嬢様たちの「野良猫ガッツ」に対し、お株を奪われた特待生側が「エレガント、お上品」と返す地獄のようなコール合戦が続く中、雪と大津(辰巳)が見つめ合ってドラマ終了!「みなさん、私たち、あなた方特待生、野良猫の強さを見習うことにしたの」「野良猫……野良猫ガッツで頑張ろう!」「エレガント! お上品!」■『不良少女とよばれて』(TBS系列)’84年出演/いとうまい子、伊藤かずえ、国広富之、岡田奈々、名古屋章、山本學、松村雄基、比企理恵、中条静夫、三ツ矢歌子、山田邦子ほか◇あらすじ◇原笙子の実録『不良少女とよばれて』をドラマ化。「あなたさえ生まれていなければ」という言葉から非行に走り、傷つき荒れ狂った日々を送る少女(いとう)。彼女がひとりの青年の愛によって目覚め、舞楽の一人者に成長するまでの姿を綴る。●少年院へ達也(国広)に舞楽の稽古に来てもらいたい笙子(いとう)にモナリザ(伊藤)が放った珍妙なたとえ「恋は壊れやすいのよ、ビタミンCのようにね」●麻里(比企)の死を留置場で知った朝男。ヘラヘラする同房のおっさんを張り倒して投げつけたセリフ「バカ野郎! 人が死んだらよー、世界中はそのひとりのために泣くべきだぜ!」●タイマンをする笙子(いとう)とモナリザ(伊藤)のセリフ「たとえ死んでも恨みっこなしだよ?」「ああ。生き残ったほうがくたばったやつの骨壺を蹴飛ばすまでさ」■『ポニーテールはふり向かない』(TBS系)’85年~’86年出演/伊藤かずえ、フランキー堺、梶芽衣子、高橋昌也、鶴見辰吾、松村雄基、高橋かおり、坂上忍、片平なぎさ、野々村真、石井めぐみ、国広富之、岡田奈々、松崎しげる、比企理恵、ケント・ギルバート、名古屋章ほか◇あらすじ◇3歳で母と別れた未記(伊藤)は非行に走り何度も補導され父から禁じられていたドラムスティックで4人のヤクザを骨折させ女子少年院に、18歳となった未記は父の死を知り不良の世界に戻ろうとするがー。ライブハウスのボーイ晃(松村)と医大生のプレイボーイ邦男(鶴見)と世界に通用するロックバンドを作り上げようとする。●ケント・ギルバートの弾いたピアノをほめた未記(伊藤)にケチをつける田丸晃(松村)「脳みそスパゲティになっちゃってるのか?」●自慢げに言い放つ脇田(野々村)だが、この数話後に……「俺はこのハチミツみたいな甘いマスクとボイスで、ライブでの人気はちょっとしたもんだった」●交際相手の実家のヤクザたちにひどい目に「顔だけは!顔だけは殴らないでくれ!」●しつこくつきまとう元彼女で未記(伊藤)の異父妹に邦男(鶴見)が言った暗喩?「僕は君にはもう蚊の死骸ほどの愛情も持ってない」■『ヤヌスの鏡』(フジテレビ系)’85年~’86年出演/杉浦幸、風見しんご、宮川一朗太、大沢逸美、山下真司ほか◇あらすじ◇普段はまじめな優等生の裕美(杉浦)が時に凶暴な不良少女ユミに豹変してしまう。2重人格の女子高生を描いた青春ドラマ。●トルエン狂いの子に涼子(大沢)が放った名ゼリフ「ゆがんだ街がまっすぐ見えるとでも思ってんのかよ!」●大沼ユミ(杉浦)が泣いている祖母(初井言榮)に放つパンチの効いた名ゼリフ「ババアが泣けば足元からウジがわくっていうじゃないか!」●祖母(初井)がたびたび裕美(杉浦)にかけるセリフ「お前には淫蕩な血が流れておる」■『スチュワーデス物語』(TBS系)’83年出演/風間杜夫、堀ちえみ片平なぎさほか◇あらすじ◇訓練生(堀)と教官(風間)を中心にしたラブストーリー。教官のハートを射止めるまでさまざまな試練がヒロインをおそう。●失敗ばかりの千秋(堀)がことあるごとに発するセリフ「私はドジでのろまな亀です!」●教官(風間)への思いを募らせる千秋(堀)を励まそうとする練習生仲間たち。千秋を囲み拳を上げながら「やるっきゃない!」をエンドレスリピート!「やるっきゃない!やるっきゃない!やるっきゃない!」■『乳姉妹』(TBS系)’85年出演/鶴見辰吾、伊藤かずえ、渡辺桂子、松村雄基、岩本多代、名古屋章、岡田奈々ほか◇あらすじ◇18年前、時を同じくして生まれた2人の少女が入れ替わってしまう。一方は貧しい漁村の漁師の娘(渡辺)、一方は大財閥のひとり娘(伊藤)として育てられ、やがて2人は運命的な出会いを果たすが……。●しのぶ(渡辺)と過去に会ったことがあると友人に言われた千鶴子(伊藤)お嬢様がひとこと。本当は乳姉妹なのに……「ゆきずりの人の顔など私はいちいち憶えてはいないわ」●楽し気に踊る父親としのぶ(渡辺)の姿が脳裏に浮かんだ千鶴子(伊藤)は日記にバツ印を書きなぐる。「嫉妬は、もっとも非生産的な情念だ」●川の中まで追いかけてくる路男(松村)に対して千鶴子(伊藤)が「あなた、何者よ?」と尋ねた返しがこれ。海鳴りとはなんなのかは劇中で最後まで明かされなかった。「俺は海鳴りだ!!」(取材・文/江藤エマ)
2020年11月09日結婚を機に女優を引退する山口のため、原の呼びかけで製作された映画『東京の休日』で共演したふたり。山口は米国帰りの新進デザイナー役、原はファッション界の重鎮役を演じ、上原謙、八千草薫、司葉子、宝田明らが出演した『東京の休日』(C)1958東宝ともに1920年に生まれた女優、原節子と山口淑子が生誕100年を迎えた。戦前、戦中、戦後の激動期を生き芸能史に残る、ふたりの軌跡――。■家庭の事情で女優に“永遠の処女”引退昭和を代表する2大女優、原節子と山口淑子の生誕100年を記念した特別展が、神奈川県の鎌倉市川喜多映画記念館で開催されている。原は、1920年6月17日生まれ。山口は、1920年2月12日生まれ。ふたりに共通しているのは、年齢だけではない。戦前に自らの意思ではなく芸能界にデビューし、戦中は国家に翻弄され、戦後は大女優として地位を確立する。しかし、原は42歳で引退宣言することなく表舞台から去り、山口は女優を引退し、ジャーナリスト、政治家の道を歩み、同じような境遇とともに、対照的な生き方をしている。原は、裕福な家庭に生まれたが世界恐慌のあおりで家業が傾き、女学校を中退して14歳で女優に。16歳でヒロインに抜擢された日独合作映画『新しき土』で一躍、注目された。戦時中は、政府に要請され供出運動参加や国策的な戦争映画への出演が増えた。敗戦後は、復員してきた兄弟や家族を支えるために女優を続けざるをえなかったが、黒澤明監督『白痴』、小津安二郎監督『麦秋』、成瀬巳喜男監督『めし』など巨匠の期待に応え、不動の大女優に。“永遠の処女”ともいわれ、42歳のときに映画『忠臣蔵花の巻・雪の巻』を最後に“引退”。再び表舞台に立つことはなく、2015年9月に95歳で亡くなった。■「李香蘭」として人気に司会者、政治家に転身日本統治下の満州で生まれた山口は、中国人歌手「李香蘭」として13歳でデビューし、日本の国策映画会社、満映から“日本語の堪能な中国人女優”として売り出された。日中戦争が勃発すると、日本の植民地政策のプロパガンダに利用されながらも東アジアのスターとして人気に。1941年に有楽町・日劇でのリサイタルではファンが押し寄せ劇場のまわりを行列が取り巻く“日劇7回り半事件”と報じられた。’45年に中国で終戦を迎えると売国奴を意味する漢奸を疑われたが、日本人であることが証明され翌年、帰国。本名の山口淑子として活動。黒澤明監督『醜聞〈スキャンダル〉』などに出演したほか、シャーリー・ヤマグチの名でアメリカでも活躍。 ’58年に2度目の結婚を機に女優を引退。’69年にワイドショー『3時のあなた』の司会者となり、 ’74年に政治家に転身。 ’92年に政界引退後も従軍慰安婦問題に取り組み、2014年9月に94歳で亡くなった。ふたりの歩みを知ることができる特別展には写真、ポスター、衣装など250点を展示。「時代に翻弄されながらも主体的に生きた、ふたりの女性の姿を感じてほしい」(同館学芸員の阿部久瑠美さん)【特別展開催中】特別展「生誕100年 激動の時代を生きた二人の女優―原節子と山口淑子」/鎌倉市川喜多映画記念館にて12月13日まで/特別観覧料:一般400円、小・中学生200円/開館時間9時~17時(入場は16時まで)/電話番号:0467-23-2500
2020年10月30日時が流れるにつれて、生活様式や考え方など、世の中のいろいろなものが変化を遂げます。10歳以上年齢が離れている人と会話をした際、ふとした瞬間にジェネレーションギャップを感じてショックを受ける人は少なくないでしょう。そして、ふと思い返すのです。時代の流れとともに消え去った、懐かしいいろいろなことを…。河野太郎大臣が投稿した『時代の流れが分かる投稿』に共感の嵐菅内閣の行政改革・規制改革担当相に就任した、河野太郎大臣。以前からTwitterで多くの人とコミュニケーションをとったり、ユーモアあふれる発言をしたりと、若者からも親しまれています。2020年10月6日、河野大臣が投稿した内容に対し14万件を超える『いいね』とともに、昭和世代から共感の声が寄せられました。チャンネルは回さず、ダイヤルも回さず、ビデオは巻き戻さず、レンジはチンせず、蛍光灯は紐を引っ張らず、お風呂屋さんに富士山はなく、アイドルはブラウン管の向こうにおらず、ディスクはフロッピーでなくなり、カセットテープで音楽を流さず、ウェーイ— 河野太郎 (@konotarogomame) October 6, 2020 現代ではチャンネルをリモコンのボタンで押し、電話はボタンやタッチパネル操作に。映像媒体はデータが中心になり、電子レンジは「チーン」ではなく主に「ピピピ」に…。きっとこれらの時代の変化に、多くの昭和世代が「分かる…」と、うなずいてしまったことでしょう。時代が変わった今でも、ついつい「チャンネル回して」や「ちょっと巻き戻して」や「レンジでチンして」などの言葉を発してしまう人は多いのではないでしょうか。懐かしさを感じてちょっぴり切なくなる河野大臣の投稿は拡散され、昭和世代からいろいろなコメントが寄せられました。・昭和生まれだからじわじわ来た。この文章をラップ調で歌いたい。・自宅に固定電話がない人が増えたせいか、受話器のマークが分からない子供もいるそうですね。・河野大臣、朝の5時になぜそんな投稿を!?乗っ取られましたか?ウェーイ。近い将来、「チャンネル回すって何を回すの?」「ディスクを巻き戻すって何?」と真剣な表情で聞かれる日が来るのでしょう。そんな場面に直面した時、私たちはジェネレーションギャップに衝撃を受けて固まってしまうかもしれませんね…。[文・構成/grape編集部]
2020年10月10日(c)TBSBS、CS、動画配信サービスで放送される昭和のテレビ番組が人気を集めている。コロナ禍でステイホームが定着し、全世代においてテレビの視聴時間が増加していることから、往時を知る世代には懐かしく、平成世代には新鮮に映っているのだろう。CS放送のTBSチャンネル2でも、音楽番組の金字塔『ザ・ベストテン』(1978~89年)の再放送を6月より開始。第2弾として、アイドル全盛期の’82年5月6日に放送された回が9月24日の21時からオンエアされることが決定し、大きな話題を呼んでいる。今なお熱き注目を浴びる『ザ・ベストテン』とは、どのような番組だったのか。約10年間、制作に携わった宇都宮荘太郎氏に、舞台裏のエピソードを聞いた。■人気歌手のスケジュール確保に奔走「学生時代はモダンジャズ研究会で活動していて、『サウンド・イン“S”』(’74~’81年)のようなジャズや洋楽系の音楽番組を作りたくてTBSに入社しました。ラジオ制作を経て『ザ・ベストテン』の担当に異動したのは ’79年。まずADを務めた後、ディレクターやアシスタントプロデューサーとして番組に関わることになります。担当初期で忘れられないのは、郷ひろみさんが『マイ レディー』で1位になったとき(’79年12月13日)。局内でドラマの撮影中だった郷さんを私が呼びに行って、Gスタジオ(『ザ・ベストテン』の放送拠点となった、TBS旧社屋で最大面積のスタジオ)で歌ってもらう段取りだったのですが、撮影が押して1位の発表に間に合わなかったんです。司会の久米(宏)さんが何度コールしても郷さんは現れず、一旦CMを入れて、その後に歌っていただいたんですが、歌の途中で番組が終了してしまって(苦笑)。その後も冷や汗もののハプニングは何度もありましたが、それは生放送ならではの醍醐味(だいごみ)でもありましたね」’78年1月に放送を開始した『ザ・ベストテン』(木曜21時~)は「視聴者からの葉書リクエスト」「レコード売り上げ」「ラジオ各局へのリクエスト」「有線放送」の4要素で総合ランキングを決定。プロデューサーが出演者をキャスティングする従来の方式とは異なり、“今売れている10曲”をカウントダウン形式で発表する画期的な構成で、たちまち高視聴率を連発する看板番組となった。「ランキングは放送前週の火曜日に確定するので、そこから出演交渉に入ります。ベストテン入りする可能性が高い方、例えば’80年頃でいうと沢田研二さん、西城秀樹さん、山口百恵さんたちのスケジュールはあらかじめ2か月先まで確認しておいて、それをもとに所属事務所と調整。携帯もメールもない時代ですから、すべて固定電話でのやりとりです。テレビ出演に消極的だったニューミュージック系の方には、視聴者の声を反映した公正なランキングであることを粘り強くお伝えして、その結果、松山千春さん、甲斐バンドの皆さん、長渕剛さん、松任谷由実さんたちにご出演いただくことができました」番組宛てのリクエスト葉書は多いときで週に20万通以上。集計には約10名のアルバイトがあたり、組織票を防ぐため、同じ筆跡や消印のものは除外していたという。トークのネタとして、葉書に書かれた質問が採用されることもあったが、それを選ぶのは放送作家の仕事。そのひとりが、若き日の秋元康であった。「五木ひろしさんが『おまえとふたり』で1位になったとき(’80年1月24日)のことです。リクエスト葉書でエベレストのセットを作り、それを登っていただこうとしたんですが、五木さんは“土足では上がれません”と。本番では裸足になって、感激の涙を浮かべながら葉書の山を登られたことがありました」■生演奏・生歌を徹底し現場は“超真剣”こうした演出は、ときには未明まで及ぶ構成会議を経て、その回の担当ディレクターが決定。並行して美術デザイナーとセットの打ち合わせを行ない、スタジオに来られない歌手については、中継の手配も進めなくてはならなかった。台本は前週の金曜日に準備稿、放送3日前の月曜日に改訂稿、放送前日の水曜日に決定稿と毎回、3種類を作成していたという。「サプライズがある際には、さらに『別冊台本』を用意して、当事者の歌手には決定稿を見せないように工夫していました。田原俊彦さんが『哀愁でいと』で初めて1位になったとき(’80年8月28日)は、ドラマ『3年B組金八先生』の同級生たちがお祝いに駆けつけたんですが、田原さんには本番まで秘密。リハーサルなどで両者が鉢合わせしないよう、細心の注意を払いましたね」放送当日の木曜日は、本番が始まる9時間半前の午前11時30分から、カメラを使わないドライリハーサルを開始。14時から音合わせが始まり、このタイミングで約40名のビッグバンドがスタジオ入りしていた。スタッフはGスタだけで約120名(バンドを含む)。中継が入るとさらに膨らんだ。現在の音楽番組ではカラオケの使用と口パクが盛んに行なわれているが、『ザ・ベストテン』では生演奏、生歌が原則。その真剣さと熱気がブラウン管越しに伝わったからこそ、多くの視聴者の心を掴んだのだろう。「八神純子さんや久保田早紀さんなど、自前のバックバンドと一緒に出演される方は、セットでバンドの姿が見えない場合でも、必ずGスタで生演奏をしていました。中継の際も、あらかじめGスタでビッグバンドが演奏したオケをもとに歌っていただいたんです。それは、歌手が持ち込むレコードと同じ音源のカラオケを使ってしまうと音がビビッドでなくなるから。“生放送なんだから生を重視しよう”という、我々のこだわりがあったんです」「追いかけます、お出かけならばどこまでも」。この合言葉のもと、ベストテン入りした歌手を全国どこでも追いかけて、その場で歌ってもらうのも『ザ・ベストテン』の魅力だった。放送初年度の’78年7月6日にはニューヨークからの衛星生中継も敢行。通信環境が今とは比較にならないほど脆弱(ぜいじゃく)だった当時、報道以外の番組で海外からの生中継を実現させたことは大きな反響を呼んだ。「番組が始まったころは国内中継でさえ、そう簡単にはできない時代。まして海外中継ともなれば、半年ほど前から技術陣との綿密な打ち合わせを重ね、ようやく実施という大プロジェクトでした。ですから、リハーサルで回線が繋がるとスタジオ内で“やったぞ!”と拍手と歓声が沸き起こっていましたね。当然、そのための費用もべらぼうにかかったわけですが、番組の評判がどんどん上がり、視聴率も30%以上が当たり前という状況になり、予算を大幅にオーバーしても何とか許されていたわけです」■「耳に突っ込むのはおやめなさい!」国内の中継においても、当初は全国のネット局が「1曲3分の歌のために中継車を出すのか!」と反発。しかし、それも番組の人気が上がるにつれ、むしろ積極的に協力してもらえるように変化していったという。では、ここからは宇都宮氏の記憶に残る中継名(迷?)場面を語ってもらおう。「近藤真彦さんが『ホレたぜ!乾杯』で1位になったとき(’82年11月4日)、東京・本郷の旅館に宿泊していた修学旅行生の前にサプライズで登場していただいたことがあるんです。秋元(康)さんのアイデアだったんですが、女子高生たちがパニック状態になってしまって……。もみくちゃにされた近藤さんは大変だったと思います。それから、中山美穂さんの『JINGI・愛してもらいます』が10位にランキングされた回(’86年8月21日)。その日は新幹線で移動中の歌手が途中停車した駅のホームで歌うという、ベストテン名物の新幹線中継だったんですが、イヤホンの不調でオケが聴きとれなかった中山さんの耳に、中継スタッフの私が別のイヤホンを差し込むところがテレビにばっちり映ってしまった。それを見た司会の黒柳(徹子)さんから“宇都宮さん、耳に突っ込むのはおやめなさい!”と叱られたこともありましたね(苦笑)」今をときめく人気歌手の姿を目撃できるとあって、中継先は常に黒山の人だかり。にも関わらず、大きな事故が一度も起きなかったのは奇跡と言ってもいいかもしれない。その中継と並んで、視聴者の人気を集めたのが、他の音楽番組では見られない豪華でユニークなセットであった。「セットについては、スタジオ入りする歌手が決まった段階で担当ディレクターと美術部のデザイナーとが曲を聴きながら構想を練り、セットデザインの決定後には平面図とデザイン画をもとに技術・美術の担当者と細かく打ち合わせを行ないました。セット作りは3~4人のデザイナーがローテーションで担当していましたが、みなさん素晴らしいセットを作ってくれました」■『ルビーの指環』特注グッズでお祝い番組では1位のお祝いに歌手の望みを叶(かな)えたり、趣向を凝らしたプレゼントが贈られたりすることも多かった。愛煙家だった寺尾聰が『ルビーの指環』で3週連続の1位を獲得した’81年4月23日には、パッケージに寺尾の似顔絵があしらわれた特製タバコ500箱がプレゼントされている。「寺尾聰さんは当時『ハイライト』という銘柄を好んでいらしたので、専売公社(現JT)にお願いして、特別パッケージのハイライトを作ってもらいました。作製に時間がかかりますし、まさかあれだけ長期間1位を獲得するとは予想できませんでしたから(最終的に番組最長の12週連続1位を達成した)、“納品されるまでは1位でいてくれよ”と、気が気じゃありませんでした(笑)」「リクエスト重視」「追っかけ中継」「豪華セット」など、従来の音楽番組の常識を覆(くつがえ)す発想で圧倒的な人気を獲得した『ザ・ベストテン』は、松山千春が『季節の中で』でテレビ初出演を果たした’78年11月16日に初めて視聴率30%を突破。’81年には年間51回中50回で30%以上を記録し、同年9月17日には、最高視聴率41.9%をマークした。「今では考えられないことですが、当時は視聴率が30%そこそこまでに“下がる”と上司から“演出が悪かったんじゃないか”と叱られて(苦笑)。注目が高まるにつれ、事務所からの売り込みも激しさを増しましたが“ランキングは絶対にいじらない”というベストテンイズムは曲げませんでした」しかし、盤石の強さを誇った『ザ・ベストテン』も家庭用ビデオが普及した’80年代後半に入ると、視聴率は徐々に低下。個人用のステレオやウォークマン、テレビなどで音楽を聴くようになって、国民的なヒット曲が生まれにくくなったことも背景として挙げられよう。そして元号が「平成」に変わった’89年9月、番組は第603回をもって、11年8か月の歴史に幕を下ろした。「担当した約10年間、いろんなトラブルやハプニングがあって、毎週お祭り状態でしたが、生放送のいいところは木曜22時になれば何があっても終わること。本番が終わったら、すぐに次の放送に頭を切り替えることができました。今振り返ると、番組の成功は司会者の力に負うところが大きいですね。進行が押してあと5秒しかないような場面でも久米さんがうまくまとめてくれましたし、黒柳さんには番組の顔として最後までご出演いただけた。本当に感謝しています」(取材・文/濱口 英樹)【PROFILE】宇都宮荘太郎◎1953年、東京生まれ。早稲田大学ではモダンジャズ研究会に所属し、全国各地で演奏活動を行う。’77年、TBSに入社。ラジオ制作を経て’79年より『ザ・ベストテン』を担当。日本レコード大賞、東京音楽祭などの音楽番組や、『そこが知りたい』などのドキュメンタリー番組を中心にディレクターやプロデューサーを歴任。TBS退職後はNPO法人『音楽のすゝめ』の理事などを務める。【INFORMATION】伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』1982年5月6日放送回9月24日(木)午後9:00CS放送 TBSチャンネル2にて放送今後も伝説回・神回を放送予定!ご視聴のお問い合わせは、TBSチャンネルカスタマーセンターまで電話:0570-666-296
2020年09月17日妖艶な雰囲気をまとってステージに立つ中森明菜(’87年)’80年代女性アイドルの頂点の座に君臨し、今も昭和を振り返る番組などでは、松田聖子とともに特集が組まれることの多い中森明菜。彼女はシングル21作で週間チャート1位を獲得したことに加え、1985年に発売した『ミ・アモーレ』と’86年の『DESIRE -情熱-』で、女性歌手で初めて日本レコード大賞を2年連続で受賞。’78年~’89年に放送された人気番組『ザ・ベストテン』でも、69週にわたって1位に輝くという最多記録を打ち立てた。さらには’83年~’87年、5年連続で日本有線大賞最多リクエスト賞を受賞するなど、輝かしいヒット記録を打ち出している。上記の功績からも、明菜は名実ともに日本を代表する歌姫のひとりと言え、彼女の楽曲を一度も耳にしたことがないという人は少ないはずだ。しかし、その知名度に対し、彼女のシングルB面曲が語られることは意外にも多くない。例えば、同時代にトップアイドルとして明菜と双璧をなしていた聖子は、音楽番組『レッツゴーヤング』のワンコーナーソングだった『Eighteen』、卒業ソングの名曲と語り継がれる『制服』、『サントリーCANビール』CMソングの『SWEET MEMORIES』、ドラマ『青が散る』主題歌の『蒼いフォトグラフ』など、(タイアップや両A面シングルの影響もあるだろうが)コアなファン以外にも人気のB面曲が大量にあり、明菜との違いは歴然としている。しかし明菜のほうも、シングルB面が手抜きというワケでは決してなく、むしろA面にしてもおかしくないような名曲が詰まっている。現に、’82年~’91年に発売された26枚のシングル(12インチを除く)のうち、A面とB面の作詞家×作曲家が完全に一致しているのは’84年の『北ウイング』(康珍化×林哲司)1作のみで、大半がどちらをA面にするか競うかのように作られており「こちらがA面でもよかったのでは?」というファンの意見も少なくない。そこで、今回は当時を知らない方々にも深く知ってもらう手がかりとして、数ある名曲の中から4曲をピックアップしてみた。■低音のカッコよさ、言葉の説得力の高さまず、’82年に発売された1stシングル『スローモーション』のB面『条件反射』(作詞:中里綴/作曲:三室のぼる/編曲:船山基紀)を挙げたい。本作は、新たな恋の予感をしっとりと歌いあげるA面と異なり《追いかけるほど好きじゃないわ》《どっちつかずで苛立つばかり》など挑発的な歌詞が印象的。オリコンや『ザ・ベストテン』はじめ各種ランキングで初のTOP10入りとなった2ndシングル『少女A』にも通じるツッパリ歌謡風で、中低音の歌声にゾクゾクさせられる。明菜本人は『少女A』よりも『スローモーション』を好んでいたと『ザ・ベストテン』で公表したのは有名な話だが、そもそも山口百恵の『夢先案内人』を『スター誕生!』で披露してデビューを勝ち取っただけあって、明菜は低くつぶやくような歌い方が得意だったことが、この『条件反射』からも改めてよく分かる。明菜のスタッフも“しっとり系”と“ツッパリ系”の双方で彼女の魅力を感じ取っていたからこそ、『スローモーション』のジャケットは清楚な衣装で真っすぐこちらを見つめる明菜の写真を使いつつ、それをリード曲とする1stアルバム『プロローグ〈序幕〉』では、白のトレーナーを着て、斜に構えガンを飛ばすようなカットを採用したのではないだろうか。次に、そこから約3年経った12作目のシングル『SAND BEIGE -砂漠へ-』のB面『椿姫ジュリアーナ』(作詞:松本一起/作曲:佐藤隆/編曲:井上鑑)。もの悲しい笛の音から始まるエキゾチック路線の歌謡曲で、《舞台が済むと売れ残りのワインの瓶を売り歩く》《笑いながら泣いて歌い踊る私は踊り子愛もない》という薄幸な女性を、わずか19歳にて見事に演じ切っている。それ以前にもつぶやく、またはささやく感じで歌唱するバラードをシングルのB面で取りあげていたが、本作から言葉の説得力が格段に増している。’85年の明菜は、7作目のアルバム『BITTER AND SWEET』で井上陽水作詞・作曲の『飾りじゃないのよ涙は』をはじめ角松敏生、ASKA、EPO、吉田美奈子など個性的なソングライター提供の楽曲を次々と“明菜流”に歌えるようになり、アイドルというよりもアーティスト色を一気に強めていった。■B面曲もテレビ番組でよく歌われたそして、その翌年に発売となる14作目のシングル『DESIRE -情熱-』のB面『LA BOHEME』(作詞:湯川れい子/作曲:都志見隆/編曲:椎名和夫)は、もっとも聞き捨てならない(?)B面曲と言えよう。『DESIRE』は当初B面になる予定だったが、明菜が「着物風の衣装で歌いたい」と強く望んだことでA面となり、洋風にアレンジされた着物×前下がりボブのウィッグという出で立ちと歌自体のインパクトもあって、後年にも残る歴史的なヒットとなった。20歳という若さでその時代を見抜くセンスには、驚かされるばかりだ。しかし、B面にまわった『LA BOHEME』も、ギターがうねりまくるハードロック調のなか、不器用にしか人を愛せない“さまよい人”を熱唱パフォーマンスで魅せる明菜が実に見事。4分間通して聴けば、誰もが「これがB面なの!?」と、驚くのではないだろうか。実際、本作は彼女のコンサートでも、上述の『DESIRE』や『十戒(1984)』などのアッパーな大ヒット曲と並べて歌われることが多かったし、’19年におけるカラオケの彼女の人気曲ランキング(JOYSOUND調べ)でも、シングルB面の中でダントツの、29位となっている。余談だが、筆者には今から30年ほど前、明け方の電車で酔いつぶれた女性が「♪貴方も同じラ・ボエーム~」と、泣きながらサビの最後部分を口ずさんでいた記憶が強烈に残っている。彼女も哀しい恋をしていたのだろうか……。ラストの曲を紹介する前に、このころから『薔薇一夜』(シングル20作目『AL-MAUJ』B面)や『BILITIS』(シングル22作目『I MISSED THE “SHOCK”』B面)など、音楽番組で何度も披露されるB面曲が多くなったことにも触れておきたい。この流れからも「A面B面、どちらの曲も好きになってほしい」という明菜の強い意向が読みとれる。喪失感の迷宮をさまようような『I MISSED THE “SHOCK”』が11週間にわたってオリコンTOP20入りと、その前後の楽曲よりもロングヒットとなったのは、ノリのよいテンポでビブラートを利かせる『BILITIS』のテレビ歌唱効果も存分にあったのだろう。では、最後の1曲に話を移そう。’91年のシングル『二人静 -「天河伝説殺人事件」より』のB面曲『忘れて…』(作詞:中森明菜/作曲:羽佐間健二/編曲:小野沢篤)も、明菜を語るうえでは避けて通れない(この当時アナログレコードは発売されていなかったので、正確にはB面ではなくカップリング曲である)。3分弱の短いバラードだが《鏡に映る私の肩には彼との思い出消えかかっていた》という自作詞と切ない歌声に、どうしても彼女のプライベートを重ねて聴いてしまう人も多いことだろう。なお、ユーチューブでも無料で公開されている’91年のライブ『~夢~’91 AKINA NAKAMORI Special Live』のラスト(74分~)では、本作の歌詞をアレンジして《いろんなこと心配かけて心から許してほしい(中略)忘れないで忘れないでみんなへのこの想い変わらない》と、涙ながらに言葉を噛み締めながら歌っている。ステージ上やレコーディングでは完璧主義でありながら、ファンを大切にしたい、という想いもひしひしと伝わってきて、これも彼女が今もなお愛され続ける大きな理由のひとつだろう。コンサートでも、クールに歌い切った後、MCでは『Dr.スランプ』の主人公・アラレちゃんのような幼い声を作って、ファンの言葉に耳を傾けながら延々と喋っていたのも懐かしい。以上、初期10年間のシングルB面の中から、いくつか注目作を挙げてみたが、それ以降のオリジナルアルバムも傑作ぞろいなので、また機会があればご紹介してみたい。明菜の音楽に触れてみると、彼女のように「全身全霊で自分を表現したい」という若手の女性歌手がもっと現れる世の中になってほしいなと、心から願ってしまう。(文/音楽マーケッター・臼井孝)
2020年09月04日中島唱子。『ふぞろいの林檎たち』のスタッフや出演者とは、今でも同窓会を行うほど仲がいいとかかつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは?今回は、’80年代~’90年代に社会現象を巻き起こしたドラマ『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)で一躍、ブレイクした中島唱子(54)。“ぽっちゃり女優”の元祖とも言える彼女が、女優を続けようと思ったある人からの言葉とは──。■『ブスのオーディションを1位で合格』と紹介された’83年にスタートし、’97年までにシーズン4まで放送された人気ドラマシリーズ『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)の谷本綾子役で一躍ブレイクした中島唱子。女優デビュー作ながら当たり役をつかんだ彼女だが、きっかけは少し変わったオーディションだった。《容貌の不自由な人を募集します》今から37年前、TBSに貼り出された1枚のビラ。身長が高すぎたり、太っていたり……と、肉体的コンプレックスを抱える人を求めるその募集こそが、『ふぞろいの林檎たち』のオーディションだった。「当時、所属していた劇団のマネージャーがTBSを歩いていたら締め切りの日に偶然そのポスターを見たそうで。それで慌てて私のプロフィールを持って行ったそうです」トントン拍子で最終オーディションにも合格。その翌日、新聞で『ブスのオーディションを1位で合格』と紹介されている自分の写真を見つけた。「その記事を読んで、初めてオーディションの内容を知ったんです」中島の落ち込んだ様子に気づいたスタッフに、こう気持ちをぶつけたという。「この役をもらえたのは、私が不細工で太っていたからですか?もし、そうだとしたら、恥ずかしくてテレビに出られませんと伝えました」その後、すぐに脚本家の山田太一氏から伝言が届く。「容貌だけであなたを選んだわけではありません。オーディションのときのあなたは誰よりも輝いていました。誰よりもかわいく描きますから、オーディションに来たときの気持ちで演じてくださいと言われ、前向きになることができました」■孤独な少女が芝居の世界に魅了されて父親の浮気が原因で7歳のときに両親が離婚。幼少期は父方の祖母と一緒に暮らした。14歳で父親が他界。その後は、再婚した母親のもとで暮らすことに。そんな複雑な家庭環境で育った孤独な彼女は、芝居の世界に魅了されていった。「ドラマや映画を見ながら、自分もいつもその世界にいました。架空の世界で生きる人たちに魅了されて、ひとり芝居を誰もいないところでしていましたね」15歳のとき、高校入学と同時に劇団に入団。そんな彼女が、女優として頭角を現すのは必然だったのかもしれない。デビュー作の『ふぞろいの林檎たち』は今も語り継がれる名作に。中島の初々しい演技も好評となり次々と仕事が舞い込むも、肉体的コンプレックスを抱えながら女優を続けることに葛藤を感じていた。「若いころは周りのきれいで輝く人たちと一緒に仕事をするのがとてもつらかったです。やせたらもっといい役もできるのだろうか?と、無理なダイエットをしたことも」そんなとき、演出家に言われた言葉にハッとしたという。「“20代でキラキラしているスターでも、30代にほとんど消えていく。40代まで残れたら本物だよ”って。ルックスに関係なく芝居がうまい人しか残らないとアドバイスされて、それから人と比較して卑下することをやめました」■憧れの俳優の恋人役に長らく抱えていた悩みを解消してくれたのも『ふぞろいの林檎たち』だったようだ。「20代、30代……と設定の変化だけでなく、同じ役で私自身も成熟できたのは貴重な体験です。柳沢慎吾さん演じる実と結婚したり、回を重ねるたびに私の役が幸せになっていくのも、見た目の美しさだけでない幸福の形が描かれていたり、本当によい作品に出させてもらったなって」劇中では柳沢と結婚するという役どころだが、実際に中島は柳沢のファンで思いを寄せていた。「オーディションを受ける前から彼のファンだったんです。 憧れの俳優さんの恋人役だったので、あの役を演じていたときは毎日がシンデレラのような気持ちでしたね」現在はニューヨーク在住のミュージシャンと結婚しているが、自宅にも柳沢とのツーショット写真を飾るほど“柳沢愛”は現在進行形だ。「私の出版記念のイベントで柳沢さんに司会をやってもらったのですが、そのときのツーショット写真が夫との写真よりもたくさん飾ってあるんです。最近では、日本にいるときは、頻繁に電話で話していて、家族のような存在になっています」’18年に制作されたNetflixオリジナルドラマ『宇宙を駆けるよだか』では、ここ数年、人気を集めているぽっちゃり女優・富田望生の母親役を演じた。「私がデビューした当時は、ぽっちゃりしていると役がかなり限定されていたので、富田さんの活躍を見るといい時代になったなと思います」■毎回デビュー作のつもりで挑んでいる新型コロナの影響で放送が延期になっていた、NHKのBS時代劇『明治開化 新十郎探偵帖』も、12月から放送することが決定している。「今回のドラマは私の大好きな明治時代のお話だったのでワクワクして撮影に臨みました。外国からたくさんの文化が入ってきて、日本が大きく動き出す時代を舞台に魅力あふれるキャストで、いままでにない時代劇が新鮮に描かれています。共演の俳優さんたちもほとんどが、初めての人たちで新鮮で刺激的な現場でした」個性派女優として確固たる地位を確立した中島だが、本人はそう感じていないようだ。「どんなベテラン俳優でも作品が替わればゼロからのスタートになる仕事なので、新しい作品に入るときは毎回デビュー作のつもりで挑んでいます。時代の変化とともに撮影現場の環境も変わっていきますし、新しい技術も俳優さんもどんどん変化しています。だからこそ、時代に合わせられる柔軟性と確固とした独創性も、同時に求められている気がします」そんな中で、彼女の演じるうえでのポリシーとは?「大事なことは、常に新しい自分を創り上げる挑戦をやめないことだと思います。日常を丁寧に過ごすことが、次のチャンスが来たときに、より豊かに役と向かい合える原動力になります。“この役は中島唱子にしかできない”と思ってもらえるように、自分を磨き続けたいですね」
2020年08月29日(左から)河合奈保子、柏原芳恵2020年にデビュー40周年を迎え、今なお“永遠のアイドル”として活躍し続ける松田聖子。彼女がデビューした’80年は、聖子とさまざまな面でトップを争った田原俊彦のほか河合奈保子、柏原芳恵、三原順子(現・じゅん子)、岩崎良美、さらにアイドル以外では松村和子や山下久美子など、デビュー後2、3年でブレイク(TBS系『ザ・ベストテン』やオリコンにTOP10入り)する歌手が大量に出現する、大豊作の年でもあった。そのなかで、5年以上にわたってTOP10入りを果たした女性アイドルが松田聖子、河合奈保子、柏原芳恵の3人だ。聖子はいまだに特番が組まれるほど国民的アイドルとして認知されているが、奈保子と芳恵については、長期的に支持されていたにもかかわらず、あまり紹介されていないのではないか。そこで今回、聖子という絶対的エースが君臨し、また、その2年後には中森明菜や小泉今日子をはじめ強力なメンツが次々とデビューするなかで、奈保子と芳恵が“アイドル戦国時代”をどうサバイブしてきたのか、改めて2人の活躍ぶりを追ってみたい。■“ナオナオ”、“ヨシヨシ”と呼び合う関係まず、共通点を見ていこう。第一に、奈保子が’63年7月24日生まれ、芳恵が’65年10月1日生まれで、どちらも大阪府出身であること。テレビではほとんど関西弁を話さなかったが、2人の愛嬌のよさは関西出身であることが関係しているのかもしれない。第二に、オーディション出身であること。奈保子は西城秀樹の弟・妹分を募集するオーディションでの優勝を経て、芳恵はテレビ番組『スター誕生!』(日本テレビ系)のグランドチャンピオンを経て、ともに’80年6月1日にデビュー。1stシングルはそれぞれ『大きな森の小さなお家』と『No.1』だが、両者とも単なるビジュアルだけではなく、歌唱審査で高評価されたことも大きな決め手となっていることが、2人の長期的な活躍に少なからずつながっている。そして、ともにグラマラスな体型であったことも多くの人の記憶に焼きついているのではないだろうか。ほかの同期ではなく、この2人を組ませたグラビア特集が増え、互いに“ナオナオ”、“ヨシヨシ”と呼び合う関係になっていったのは自然なことだろう。さらに2人は、“デビュー2年目に本格的にブレイクした”という点も共通している。奈保子はデビュー翌年の5作目シングル『スマイル・フォー・ミー』でオリコンTOP10入りを果たして以降、合計21作品がTOP10に入っている。本作は、彼女の明るさを存分に発揮したノリのいいポップスで、’15年にレコード会社で実施された人気投票でもシングル部門第1位を飾った代表曲だ。対する芳恵は、7作目のシングル『ハロー・グッバイ』で初めてオリコンTOP10入りしたのち、合計18作品がランクイン。もともとはアグネス・チャンのシングルB面に収録されていた楽曲だが、芳恵の歌声が醸し出す若さと翳(かげ)りの絶妙なバランスや「紅茶のおいしい喫茶店~」 というキャッチーな出だしもあり、ブレイクを果たした。このように、何かと共通点の多い2人だが、逆に決定的に異なるのは「パブリック・イメージ」だろう。■体重バレ&歌妨害でも笑顔の奈保子奈保子は、まさに健康美の象徴的存在だった。その愛くるしい笑顔と何でも「ハイ!」と元気に返事してしまう屈託のなさが印象深い。かつて黒柳徹子から「あまりハイハイ言うんじゃありませんよ」とたしなめられた直後、また「ハイ!」と答えてしまうほどのおてんばさを見せつつも、いざ歌い出すとその丁寧な歌唱でファンを魅了した。実際、レコーディングにおいては初見でも楽譜が読めたそうで、数年後にはコンサートでピアノ弾き語りをするなど、早期から音楽的才能を開花させていた。ビキニの水着が映えるプロポーションでありながらハツラツとしたキャラクターで、初期の奈保子のシングル曲に「ふるえる胸の奥の奥なの」(『大きな森の小さなお家』)、「胸がキュンとなるの」(『ヤング・ボーイ』)、「感じてマイハートこの胸は」(『17才』)、「もっと愛を教えてそうよときめく胸に」(『スマイル・フォー・ミー』)、「不思議な胸さわぎ」(『ムーンライト・キッス』)など、デビューからの9作品中、7作もの歌詞に“胸”をそれとなく登場させたのは、単なる偶然ではないだろう。もっとも、当の本人は胸もとより体重を気にしていたらしい。’83年に放送された『ザ・ベストテン』では、聖子と奈保子が同じ体重計に乗り何キロになるか、という恐怖の演出が。2人の合計は90キロ台後半と出たが、後日『笑っていいとも!』(フジテレビ系)にて聖子が「(私は)42キロ」と明かし、おのずと奈保子の体重が50キロ超だと答え合わせされてしまった事件もあった。そんなことがあっても、誰を責めることもなく、八重歯を見せながら笑顔で乗り切るキャラクターもまた、彼女の大きな魅力だった。全国キャンペーンや両A面の効果で初のオリコン1位となったシングル『デビュー』をNHK紅白歌合戦で披露したときのハプニングを憶えている人も多いだろう。彼女の前に歌唱していた男性歌手が火気を伴うド派手なパフォーマンスをやらかし、結果的に奈保子の登場を妨害。楽曲の頭サビ部分が歌えなくなってしまったのだ。しかし、これについても彼女からネガティブな発言は一切なかった。それでいて、音楽的には目覚ましく成長を遂げたのも彼女のすごいところだ。’82年に竹内まりや作詞・作曲のバラード『けんかをやめて』がヒット。’83年には中森明菜の『少女A』を手がけた作詞家・売野雅勇と大御所の作曲家・筒美京平を起用した「胸の鼓動を素肌に感じるくらい抱きしめて」という挑発的な歌詞の熱唱型ポップス『エスカレーション』で、自身最大の累計売上げ35万枚以上を記録。’84年にはデヴィッド・フォスターら錚々(そうそう)たるミュージシャンが参加した海外録音アルバム『デイドリームコースト』を発売するなど、アーティストとしての意識も高めつつ、’86年にはついに全曲自作のアルバム『スカーレット』を手がけた。一方、芳恵はといえば、常に実年齢以上の色気をまとっていた。当時、ひらがな名義の“柏原よしえ”で歌った『No.1』では、わずか14歳ながら、ナナメ45度に身体をくねらせた肩越しから独特な憂いのある色気を放っている。それが、’90年代以降の写真集やイメージビデオでの活躍にもつながったのだろう。’82年の17歳の誕生日に“柏原よしえ”から本名の“柏原芳恵”表記に変更して以降は、谷村新司や宇崎竜童、松尾一彦(オフコース)、松山千春など、シンガーソングライター提供の楽曲路線に挑む。■天皇陛下から芳恵にバラのプレゼントなかでも、’83年にリリースした中島みゆき作詞・作曲の『春なのに』は「春なのにお別れですか」という哀しい歌詞とマイナー調のメロディー、服部克久によるオーケストレーション、何より切ない恋心を芳恵が繊細に表現することで多くの共感を呼び、累計売上げ38万枚以上の『ハロー・グッバイ』に次ぐ大きなヒット(累計33万枚以上)となった。今でも春先になると音楽配信やカラオケなど各チャートで上昇する卒業ソングの定番となっており、まさに“記録と記憶のヒット曲”といえるだろう。ちなみに、中島みゆきが作詞・作曲の両方を手がけた楽曲でもっとも多くTOP10級のヒットを出したのは、研ナオコでも工藤静香でもなく、柏原芳恵だ(『春なのに』『カム・フラージュ』『最愛』『ロンリー・カナリア』の4作)。その後、’85年9月には当時19歳にして不倫ソング『し・の・び・愛』を歌ってオリコンTOP10入りを果たし貫録を感じさせたが、それを先輩格だった高田みづえの結婚披露宴で「抱いて抱いて抱きしめて」と色っぽく歌ったことは衝撃大。いくらプロモーションの時期とはいえ「なぜ結婚式で歌うのか。まるで高田の夫・若島津の愛人かと誤解されるのでは……」とハラハラしつつ、その肝の座り方には感心したほどだ。’86年秋には、かねてからファンを公言されていた浩宮徳仁親王(現・天皇陛下)がリサイタルで芳恵に一輪のバラを贈られたことも大きな話題に。’87年にはレコード会社移籍第1弾としてリリースした『A・r・i・e・s』をジュディ・オングばりの白い孔雀風ドレスを着て熱唱していたので、いつかジュディとの共演などがあれば、おもしろい気もする。最後に、2人のシングル総売上げを比較すると奈保子が約430万枚、芳恵が約350万枚(オリコン調べ、デュエット作を含む)。いずれも400万枚前後だが、奈保子はアルバムセールスも200万枚以上とアルバム・アーティストとして高く評価されたのに対し、芳恵は有線リクエストで『ハロー・グッバイ』『春なのに』『カム・フラージュ』『最愛』の4作が年間TOP100入り。その光と影の双方を感じさせる歌声が街中に浸透していったと考えられる。奈保子は’96年の結婚、翌年の出産を機に芸能活動を休みつつも、’06年に彼女らしい優しいメロディーのピアノ・インストゥルメンタル集『nahoko音』を発売。さらに’12年には彼女の真骨頂であるライブビデオをDVDで復刻し、週間TOP30に5作も同時ランクインと、人気絶頂だったAKB48に並ぶ記録を打ち立てた。また、’16年には写真集『再会の夏』が現役勢に交じって週間TOP5入りをするほどの人気。その純粋なキャラクターは、平成のアイドルファンをも釘付けにしているのかもしれない。芳恵のほうも、’90年代はビデオや写真集を多数発表しつつ、’00年代から再びオリジナルシングルやカバーアルバム3作を発売。切なく甘い歌声は健在だ。’20年には本人作詞のデビュー40周年記念シングル『KU・ZU~ワタシの彼~/ A・RU・KU』を発売し、10月には40周年記念コンサートも予定。今なお現役歌手として活躍している。このように、奈保子と芳恵は聖子ほど目立った脚光は浴びないながらも、その愛されぶりはとても高く、音楽シーンにおいてもそれぞれの個性を発揮し、“実力派”と呼ぶにふさわしい活躍を見せた。昭和ポップスが見直されている昨今、テレビで見かける以上に多くの実績を残したといえる2人の楽曲を今一度、楽しんでみては?きっと、新たな魅力に取り憑かれるはず!(取材・文/音楽マーケッター・臼井孝)
2020年08月07日子供の頃に流行った『遊び』は、世代によってさまざまです。昭和60年(1985年)生まれの、てしてる(@hamchan18)さんは、小学生の時に好きだった遊びについてTwitterに投稿。反響を呼んでいます。投稿者さんがハマっていたのは、どんな遊びだったかというと…。昭和60年生まれ35歳なんですがー小学生の頃にすごく好きな遊びがあって、コレなんやけど、同じ遊びしてた人います?当時を思い出して書いてみた。 pic.twitter.com/fpUv233Rjr — てしてる (@hamchan18) July 25, 2020 紙に描かれた顔のパーツを友達に選んでもらい、顔の絵を完成させるという遊び。選ぶパーツと組み合わせによって、かわいらしい女の子の顔になったり、面白い顔になったりします。ネット上では同年代の人から共感の声が相次ぎました。・私も60年生まれで、毎日バカみたいに笑っていた日々に思いを馳せました。・生まれは後輩ですが、この遊びをしてました!懐かしいですね。・私は58年生まれです。懐かしすぎる。そして再現力がすごい!「マイナーな遊びかと思っていたから、知ってる人いることにびっくり」とつづった投稿者さん。それだけ流行っていたのかもしれませんね。令和の小学生にも教えたら、意外と楽しんでもらえそうです。[文・構成/grape編集部]
2020年07月27日時代の変遷によって男女の出会い方は異なるの?結婚に至った令和流の出会い方を紹介することにしましょう。マッチングアプリでの出会い令和流の男女の出会いに欠かせないのがスマートフォンです。スマートフォンにアクセスすれば、すぐにそこから出会いが広がります。令和流の出会いのきっかけとなりやすいのが、マッチングアプリです。マッチングアプリは誰でもはじめは無料で登録することができ、徐々に有料サービスに移行できるのが優れたところですね。女性ばかりの職場で出会いがなく、かといって婚活をしていることを誰にも知られたくないとき、マッチングアプリならスマートフォンで密かに婚活をすることができます。実際に、マッチングアプリで出会い、その後トントン拍子で結婚に至ったというカップルは少なくないようです。ネットで出会って結婚に至る出会い方は、まさに令和流と言える出会いの一つとして浸透しています。趣味のオフ会を通じた出会いさらにもう一つ、ネットを通じた出会い方には、趣味のオフ会で出会うという方法があります。平成の時代には、ネットのオフ会というと、どこか怪しげな雰囲気がつきものでした。しかしながら、ネットを通じたオフ会が全国各地で開催されるようになり、健全な人と人との出会いの場として受け止められるようになりました。アニメ同好会やキャンプ、登山など多種多様な趣味のサークルがネット上で展開されていて、誰でも気軽に参加することができるのが魅力だと言われています。定期的に趣味を通じたオフ会が開かれて、希望者は自由に参加することができます。好きなことや趣味を通じたオフ会では、共通の話題で盛り上がることができるのが魅力!そのため、すぐに打ち解けて意気投合することができ、気がついたら結婚に至っていたというケースも珍しくないようですよ。婚活パーティーでの出会い令和流の出会い方は、自主性が重んじられる傾向が強いです。昭和の時代のように、世話好きな親戚のおばさんがいて、無理やりセッティングされたお見合いに出席したら、なんとなく結婚していた、なんてことは起こりにくくなっています。なぜならば、個人主義が浸透し、結婚するもしないもすべて自主性に任せられる様になったからです。そこで、結婚をしたいと考えている女性たちは、自主的に婚活パーティーに参加する傾向が強いといいます。婚活パーティーには自主的に参加を希望した人が集まってくるので、結婚という共通の目的意識のある男女集まり、自然と結婚に発展しやすい雰囲気があるようです。
2020年04月19日『ハクション大魔王2020』(C)タツノコプロ・読売テレビ「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」くしゃみをすると魔法の壺から飛び出してきて、ご主人様の願いを叶えてくれる“ハクション大魔王”。’69年10月に放送されて以降、何度も再放送され、スピンオフ作品も誕生した昭和生まれの大人気アニメが、50年の時を超え『ハクション大魔王2020』(読売テレビ・日本テレビ系)として令和に復活!!■アクビとカン太郎の成長を楽しんで!「『ハクション大魔王』の放送終了後、娘のアクビを主人公にした『よばれてとびでて!アクビちゃん』などのスピンオフ作品や、『ZIP!』のあさアニメコーナーで放送した約1分ほどのフラッシュアニメーション『おはようハクション大魔王』といった作品を放送してきました。ただ、オリジナルの続編的な企画は上がっては消えを繰り返し、なかなか実現できなかったんです。昨年がちょうど作品の50周年というタイミングだったんで、いろいろなことがマッチングできリリースすることが決まりました」(タツノコプロ・モギシンゴさん)令和版の主人公はアクビ。王位を継ぐための修行として人間界にやってくる彼女のご主人は、小学生のカン太郎。オリジナルでハクション大魔王のご主人様だった与田山カンイチの孫だ。「オリジナルの大事な部分を引き継ぎながら、いまの子どもたちにも見てほしいので、時代錯誤なイメージが残らないよう心がけました。もちろん、昔の作品を楽しんでいただいた方にも違和感なく見ていただけるよう工夫しております。新加入のメンバーも前作に負けず劣らずの個性派ぞろい。もうひとりの主人公・カン太郎が悩みながら成長する姿がストーリーの軸になっています」(タツノコプロ・中嶋俊介さん)「本作品もオリジナル同様にドタバタコメディーというコンセプトは踏襲しつつ、ときにはカン太郎たちの姿にグッとくる、そんな作品を目標にしております。放送が終わったあとに、親子、おじいちゃん、おばあちゃんの3世代で話題にしてくれるようになったらと思っています」(タツノコプロ・モギシンゴさん)【INFORMATION】『ハクション大魔王2020』4月11日スタート!毎週土曜日夕方5時30分~公式サイト『ハクション大魔王 傑作回COMPLETE DVD BOOK』(ぴあ刊)4月10日発売、1500円+税オリジナルの全104エピソードから爆笑&感動の20エピソードを厳選!
2020年04月11日