2022年12月に難病発症を明らかにし、その後のツアーもキャンセルしたセリーヌ・ディオン。彼女の闘病に密着したドキュメンタリー『アイ・アム セリーヌ・ディオン ~病との戦いの中で~』が、Amazon プライム特典対象作品として、動画配信サービス「Prime Video」で6月25日より独占配信されることが発表された(作品の視聴には会員登録が必要)。ファーストルック画像も初公開となった。同作は、世界的なスーパースターが人生を左右する病気と闘う姿を、生々しく飾ることなく描いたドキュメンタリー。彼女のファンへのラブレターでもあり、彼女の人生を導いてきた音楽に焦点を当てると同時に、人間の精神の回復力の強さも描いている。ファーストルック画像の右こぶしを力強く握り締めて正面を見据える姿に、彼女の決意が伺える。本作の監督・製作を務めるのは、病からこどもたちを守るために奮闘する医療従事者の姿を描いたドキュメンタリー『The Final Inch』でアカデミー賞にノミネートされ、聴覚障害を持つ人々が困難を乗り越えた先の発見を描いたドキュメンタリー『Moonlight Sonata』でエミー賞にノミネートされたドキュメンタリーの名手アイリーン・テイラー。製作総指揮は、セリーヌ・ディオンの全米ネットのテレビ初出演番組となった『Celine Dion: These Are Special Times』でエミー賞にノミネートされたデニス・サベージをはじめ、セリーヌやほかの多くの音楽アーティストの作品も手がけている名スタッフが集結している。
2024年04月17日タレントでミュージシャンの桑野信義が11日に自身のアメブロを更新。父親が闘病生活の末に92歳で亡くなったことを報告した。この日、桑野は「突然ですみません」と切り出し「令和6年1月16日に父親である先名信勝が長年の闘病生活の末92歳で人生の幕を閉じました」と父親が亡くなったことを報告。「父親との約束で報告が本日になりました」と説明し「昨日49日法要と納骨を終えました」と明かした。続けて「父が生前お世話になった皆様へ ありがとうございました」と感謝を述べ、父親について「息子の私にとってはトランペットと人生の師匠でした」とコメント。「私の誇りであり尊敬する父親でした」と振り返り「貴方の息子に生まれてよかった」「安らかに眠ってください」と追悼した。また「父が他界した翌々日は函館で日本生命のショーステージでした」と述べ「貴方のことを思いトランペットを吹きましたよ」とコメント。「スタッフの人達に今日はいつもより気合い入ってますねと言われました」と明かし「もちろん父親のことは何も話してませんでしたが終演後ホテルの部屋に戻り朝まで父親を忍びました」(原文ママ)とつづった。最後に「綺麗な音で吹くことを心掛けなさい何故なら音色は譜面に書けないからといつも言われていました」と説明し「決してうるさいトランペッターにならないようにとこれからもその教えを守ります」とコメント。「貴方は私の心の中で生き続けます」とつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「ご冥福をお祈り申し上げます」「悲しいですね」「言葉がみつかりません」「いつまでも見守ってくれると思います」などのコメントが寄せられている。
2024年03月12日2日のブログで、白血病と診断されたことを告白したモデル・ネイボールが21日に自身のアメブロを更新。闘病中の不妊治療について明かした。この日、ネイボールは「僕たち夫婦は、もともと不妊治療をしていました」と明かし、妻について「僕の1つ年上で、いま34歳です」と説明。「2022年11月から不妊治療のクリニックに通っているので、期間は1年ちょっと」だといい「2人とも検査結果は問題なしでしたが、人工授精を6回しても授かりませんでした」と告白した。続けて「そういえば、ここでも血液検査をしました」と述べつつ「感染症の検査なので白血球の数値が出るものじゃなかったんだと思います」と推測。「そろそろステップアップして体外受精を始めようと、妻がクリニックの予約をしていたところで、僕の白血病が発覚しました」と明かした。その後に更新したブログでは「ちょうどその予約日に僕が入院したんです」とクリニックの予約日に自身が入院したことを説明。「不妊治療って女性の生理に合わせて通院するので、簡単に予定を変更できるものではないので」と述べ「妻は僕の入院手続きや、先生からの説明のあと行けるように、1番遅い時間に予約変更していました」と明かした。最後に「同じ日に僕の白血病の先生と、不妊治療クリニックの先生に相談ができました」と説明。「結論!抗がん剤治療を始める前に、大急ぎで精子凍結をすることになりました」と報告し、ブログを締めくくった。
2024年02月22日俳優の坂上忍が4日に自身のアメブロを更新。闘病期間が長かった“家族”が亡くなり突きつけられた現実についてつづった。この日、坂上は「先日の『坂上どうぶつ王国』は.....コウタの回だったんですね」と自身がMCを務める動物バラエティー番組『坂上どうぶつ王国』(フジテレビ系)の天国へ旅立った愛犬の思い出を振り返った回について述べ「なかなかどうして、なんと書いていいのやら」とコメント。「コウタの闘病期間は長かったですから、覚悟はしておかなければいけないと」と自身の思いを明かし「ただ、覚悟といっても.....。実際にコウタがいなくなってしまうと、そこではじめて現実を突きつけられるわけなので.....」とつづった。続けて「一方で、我家はこれだけの大家族ですから.....。止まってはいられない.....という現実もあり」と述べ「そのおかげで、心のバランスをなんとか保てているという側面もあるのかなと」とコメント。「ですが、なにより怖いのは.....。高齢化は進んでおりますから、『立て続けに...』といった恐怖は.....。常に、こころのどこかにあるんです」とつづった。また「それも覚悟の上での大家族ですからね」と述べつつ「若干、彼女さんが心配ですかね」といい、自身について「わたしは外での仕事がメインなので、否が応でも『脳』を切り替えないと責任は果たせません」と説明。妻については「26兄弟さん達と正面から向き合ってくださっていますから.....。わたしのようには、ね」と心配そうにつづった。最後に「とにかく、精一杯やれることをやって.....。愛情を注げるだけ注いで、ひとりひとりを見送らないと」とコメント。「少しでも、『ウチに来てよかった』とおもってもらえるように.....です」と自身の思いをつづり、ブログを締めくくった。この投稿に読者からは「涙が出てきます」「別れは辛いです」「気持ち痛い程わかります」「これからもずっと応援しています」などのコメントが多数寄せられている。
2024年02月04日2015年に子宮頸がんが判明した、とりだまり まどさんの闘病体験を描いたマンガ。おなかの膨らみが大きくなっていることに気付き、婦人科を受診したとりだまりさん。専門施設での細胞診でがんの可能性が高いことがわかり、がんの専門病院で詳しい検査を受けた結果、がんが確定。乳がん患者の女性と友だちになって治療についていろいろ話を聞き、抗がん剤治療に挑む覚悟ができました。収入ないまま生き続けるのもヘビー…入院前に乳がん患者の女性と「がん友」になったとりだまりさん。「がん友」に弱音を吐けたことで、がんであるという事実は変わらないけれど、不思議と気持ちが軽くなりました。そして1カ月後、子宮頸がんの手術をおこなうことに。入院準備で物をそろえる以外にも調整が必要なことがあり……。自分が倒れれば、そこまで。働けなければ、即無収入。それがフリーランス。しかもわが家は夫婦ともにフリーランス。なので、夫婦といえども、簡単には相手に頼れません。なぜなら共倒れになるから。そのつもりで生きてきました。ただ、「治療費が足りなければ貸す」と夫に言われたときは、「よっしゃ、死んだら借り逃げできるな!」とも思いました(笑)。いざとなったら、借り逃げができる。それが夫婦(?)。そう思っているのは私だけかもしれませんが、夫に確かめるつもりはもちろんありません。「違う」って言われても困るから。この先も、そこはあいまいにしたまま生き抜こう。そう思う今日このごろです。ー------------------------フリーランスのため、働けない期間のお金のことが気がかりだったというとりだまりさん。手術だけでなく、手術後の生活やお金についても夫婦で話し合う必要があるのですね。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。監修/天神尚子先生(三鷹レディースクリニック院長)日本医科大学産婦人科入局後、派遣病院を経て、米国ローレンスリバモア国立研究所留学。その後、日本医科大学付属病院講師となり、平成7年5月から三楽病院勤務。日本医科大学付属病院客員講師、三楽病院産婦人科科長を務めた後、退職。2004年2月2日より、三鷹レディースクリニックを開業。著者/とりだまり まどフリーライター。39歳で子宮頸がん(ⅠB2期)が見つかり、子宮・卵巣摘出、薬物療法(抗がん剤・シスプラチン)と放射線治療を経験。治療体験を描いたブログ『今日のもイキイキと弱音を吐きます』をゆるゆると更新中。
2024年01月25日2015年に子宮頸がんが判明した、とりだまり まどさんの闘病体験を描いたマンガ。おなかの膨らみが大きくなっていることに気付き、婦人科を受診したとりだまりさん。専門施設での細胞診でがんの可能性が高いことがわかり、がんの専門病院で詳しい検査を受けた結果、がんが確定。入院手続きの際に乳がん患者の女性に出会い、抗がん剤治療について教えてもらいました。都合にいいとこだけ見て生きていけるタイプ乳がん患者の女性に、抗がん剤治療での吐き気を抑えてくれる薬があることや、治療を受けながら仕事をしている人がいるという事実を知り、非常に力が湧いてきたとりだまりさん。その女性とは仲良くなって、「がん友」になりました。乳がんで抗がん剤を体験したという美人患者さんに、ウィッグについても教えてもらった私。もし抗がん剤をすることになっても、めっちゃいいウィッグを買うことにして、闘病の決意を固めました。そして、ウィッグへの気付き意外にも、さらにうれしい出来事が……。それは、がん告知を受けたその日に、とてもすてきながん友に出会えたことです。どうせハードな治療をするなら、せめてメンタル面くらいはラクラクのラクをしたいじゃないですか……。だって絶対、そこそこしんどいし。そんな私の怠け者マインドに、彼女の極上におおらかな感性は非常にしっくりきたのです。私も体毛が全部抜けたら、エステで全身脱毛したって思おう~。そう考えただけで、くだらな過ぎてちょっと楽しくなれたのでした。------------------------入院前からがん友だちができたことが、非常に心強かったと、とりだまりさん。がんである事実は変わらなくても、不思議と心が軽くなったそうです。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。監修/天神尚子先生(三鷹レディースクリニック院長)日本医科大学産婦人科入局後、派遣病院を経て、米国ローレンスリバモア国立研究所留学。その後、日本医科大学付属病院講師となり、平成7年5月から三楽病院勤務。日本医科大学付属病院客員講師、三楽病院産婦人科科長を務めた後、退職。2004年2月2日より、三鷹レディースクリニックを開業。著者/とりだまり まどフリーライター。39歳で子宮頸がん(ⅠB2期)が見つかり、子宮・卵巣摘出、薬物療法(抗がん剤・シスプラチン)と放射線治療を経験。治療体験を描いたブログ『今日のもイキイキと弱音を吐きます』をゆるゆると更新中。
2024年01月24日20代、30代は元気に動けていたので体の不調を特に意識していませんでしたが、40歳を過ぎたころから疲れやすいと感じるようになりました。自分では「更年期の始まりかな?」と思っていたのですが、実際は病気だったのです。診断される前後の体験をお話ししたいと思います。★関連記事:「体調不良は更年期のせいだと思っていた…」ある日救急搬送され、急性心不全の診断が!【体験談】大学病院で指定難病の診断を受けて私は元気、健康だと思っていたら…20代、30代のころは、飲み過ぎや寝不足など多少の無理をしても全然大丈夫だと思っていました。仕事も夜勤が多くあり、昼夜が逆転した生活になってもどこかに「睡眠を取れば大丈夫」という思いがあって、生活リズムなど気にもしていませんでした。本当に私は元気だなと思っていたのです。しかし、40歳を過ぎたころから寝ても疲れが取れない、1日中体がだるいなどの症状が続くように。突然来た体の変化に私は「更年期の始まりかな?」と思っていました。そして、42歳のときに風邪だと思い受診したら肺炎と診断され、そのまま入院となってしまいました。予想もしていなかった現実…肺炎と診断され入院はしたものの、治ればすぐにでも退院できると思っていました。しかし、1週間以上たっても40度近くまで上がった熱は下がらず、体も動かなくなり、焦りと不安でいっぱいに。そして、原因がわからないまま大学病院へ転院となり、検査の結果、膠原病(こうげんびょう)と診断されました。膠原病は厚生労働省によって指定難病とされていて、治りにくいといわれます。主治医から、これからは病気とうまく付き合っていかなければいけない、生活も変えていかなければいけないと言われました。予想もしていなかった現実に、私は驚がく。ステロイド治療をおこないながら2カ月間入院しましたが、ステロイドの影響でムーンフェイス(顔面が満月のように丸くパンパンに腫れ上がってしまう症状)になり、肩は脂肪が付いて盛り上がり、髪は抜け、体にも力が入らず歩行さえ困難に。家に戻ったころにはまったく別の体に変わっていました。まっ、頑張るか!からの最高の出会い家での療養が始まると、免疫抑制剤やステロイド服薬のため、感染症にかかりやすくなりました。外出もしばらくは避けるようにと主治医から言われ、ぼう然……。しかし、悩んでいても仕方がない、現実を受け止めるしかないと思い始めたら、少し楽しくもなってきました。「まっ、頑張るか」という気持ちで前向きにやっていこうと思ったのです。すると、したいことがいろいろと生まれてきました。例えば、もともと保護犬や馬に関心があったので、犬の保護活動団体や、引退馬の余生を大切にしている協会などを調べ、体調が落ち着いたら触れ合いに行ってみようと思うようになりました。そして自宅療養から1年過ぎたころ、体調も落ち着いてきたので実際に行ってみました。そのとき出会ったのが、多頭飼育崩壊からレスキューされた少し大きめのチワワ2匹です。最初はとてもおびえていたのですが、触れ合っていくうちに懐いてくれるようになりました。そして私の中で「この子たちと一緒にいたい」という気持ちが強くなり、ついに家に迎え入れることに。犬たちは私の心の支えとなり、ひきこもりがちな日々から楽しい日々に変えてくれました。最高の出会いでした。まとめ健康が当たり前と思っていました。でも、病気を経験したことで、更年期と思い込んでいないで病院に行って検査をおこなうことの大切さを知り、以前なら考えもしなかったことを考えられるようになりました。元気でいられることに感謝しながら、諦めず、日々を楽しみながら前向きにチャレンジしていきたいと思っています。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。監修/駒形依子先生(こまがた医院院長)東京女子医科大学医学部卒業。米沢市立病院入職後、再び東京女子医科大学に戻り、専門医を取得。同大学産婦人科に入局し産婦人科医として働きつつ、性科学を学び、また東京女子医科大学東洋医学研究所で東洋医学を学ぶ。2019年1月に地元山形県米沢市にて、こまがた医院を開業。【駒形先生からのアドバイス】更年期はあくまで症状一つひとつを精査して、何もなかったときに初めて更年期障害という診断になります。更年期の症状と決めつけずに一つひとつを除外していくようにしないと大きな病気を見逃してしまうため注意が必要です。マンガ/山口がたこ著者/ちんみ(47歳)人生予期せぬことは起こるが、支えてくれる人たちに感謝をしながら、最愛なる愛犬と日々を楽しく過ごしている。
2023年01月15日2012年に子宮頸がんが判明した、はたの有咲さんの闘病後の夫婦生活を描いたマンガを紹介します。約5カ月ぶりの夫婦生活で出血してしまったはたの有咲さん。婦人科で内診してもらった結果、問題はないとのことでしたががんの再発にはたの有咲さんはおびえていて……。★前の話私たち夫婦はこれまでレスとは無縁で、それなりに夫婦生活もありました。しかし、私が子宮頸がんになったことをきっかけに、夫婦生活は変化しました。子宮頸がんの治療後、初めておこなった夫婦生活で私はあまり濡れず、挿入時には痛みを感じ、出血までしてしまいました。出血したので婦人科で内診してもらったところ、特に問題はないとのことでした。しかし、私はがんが再発するのではないかと不安に……。それなのに夫のケンジから「よかったやん、なんともなくて」と言われてしまい、私のことを考えてくれていないんだと不満爆発!その翌年、ケンジからまた夫婦生活の誘いがありました。ケンジにはたくさん支えてもらったし、少しは気持ちに応えてあげたいと思いました。出血はなかったものの、なかなか濡れないし挿入されると痛い! ケンジとの夫婦生活は、私にとって苦痛になってしまいました……。ケンジは私に気をつかっているのか、夫婦生活は1年に1回と決めているようでした。それについて私は申し訳ないと思うものの、がんの再発が怖いという気持ちが強くありました。そういった気持ちのすれ違いから、私たち夫婦の関係は冷え込んでいくことになりました。ー--------------夫婦にとって夫婦生活は避けては通れない道。はたの有咲さん夫婦がお互いの気持ちを尊重しながら、自分たちに合う夫婦生活のスタイルを見つけられるといいですよね。■コミックス情報「子宮頸がんとセックスレス」著者:はたの有咲定価:150円(税抜)出版社:秋水社ORIGINAL★関連リンク:「子宮頸がんとセックスレス(1)」(WEB)秋水社公式ページ(外部サイト)©︎はたの有咲/秋水社著者/はたの 有咲(52歳)マンガ家で3姉妹の母。子宮頸が(IB1期)の治療から11年が経過。治療経験を描いたマンガを描いている。「mini SUGAR」にて4コママンガを連載中。
2022年12月24日2012年に子宮頸がんが判明した、はたの有咲さんの闘病後の夫婦生活を描いたマンガを紹介します。子宮頸がんの治療を終え、約5カ月ぶりに夫婦生活を再開したはたの有咲さん夫婦。問題なく夫婦生活ができると思っていたものの、激痛がはたの有咲さんを襲って……!?★前の話私は術後で不安はあったものの、ケンジと約5カ月ぶりに夫婦生活をおこなうことに……。するとなかなか濡れず、挿入時には激痛が!子宮の全摘手術から2カ月がたち、夫婦生活を再開しても問題がなくなりました。夫のケンジから「そろそろいいよね?」と夫婦生活の誘いがありました。夫婦生活後、ケンジが後始末をしてくれたのですが血が出ていたようで、私はがんが再発してしまうのではないかと不安になりました。婦人科で内診を受けましたが、傷口が開いたりしていることもなく異常はないとのことでした。ケンジに問題がなかったことを伝えると「よかったやん。なんともなくて」と楽観的なひと言が。そうじゃないでしょ! と私はケンジが私のことを何も考えていないように感じてしまいました。子宮頸がんの原因であるヒトパピローマウイルスは性行為から感染します。もし私がまたがんになってしまったらどうするの? また治療を受けることになるのに!当時の私は自分の体のことで頭がいっぱいで、ケンジの気持ちを考えてあげられませんでした。そして私はケンジに向かって「もうヤラんといたらよかった!」と夫婦生活を拒否する発言をしました。このことがきっかけで、私たちはこの後6年間レスになってしまったのです。ー--------------はたの有咲さん夫婦はコミュニケーションのために夫婦生活をおこなったはずなのに、かえって夫婦仲を悪くしてしまいました。どうやって夫婦でコミュニケーションを取るのかは難しい問題ですよね。■コミックス情報「子宮頸がんとセックスレス」著者:はたの有咲定価:150円(税抜)出版社:秋水社ORIGINAL★関連リンク:「子宮頸がんとセックスレス(1)」(WEB)秋水社公式ページ(外部サイト)©︎はたの有咲/秋水社著者/はたの 有咲(52歳)マンガ家で3姉妹の母。子宮頸が(IB1期)の治療から11年が経過。治療経験を描いたマンガを描いている。「mini SUGAR」にて4コママンガを連載中。
2022年12月23日■忍び寄るガンに気づかず過ごしていた日々漫画家のやよいかめさんの夫はいわゆる転勤族。愛知で4年過ごした後、2歳と0歳の子どもを抱えて岩手に引越し、7年経ってようやく落ち着いてきたころに、また福島への転勤になってしまったのです。最初に自覚症状があったのは冬だったこともあり、風邪と勘違いして病院へ行くのが遅れてしまったそう。このとき、すぐに受診しておけば良かったと今でも後悔していて、少しでも異常を感じたら早めに受診してほした方がいいと、作者のやよいかめさんは言います。■ただのポリープだと思っていたらガンだった引越しがひと段落して、耳鼻科に行ったのが春。2回目の受診で、鼻の中にポリープがあると言われ、大きな病院へ行くことをすすめられます。その検査ですら説明は恐怖だったそうです。しかし、本当の恐怖はここからでした。1週間後に検査の結果を聞きに行くとまさかの言葉が…「ポリープだと思っていたのに、まさかガンだったなんて…」いきなりの告知に時が止まった気がしたやよいかめさん。このあとすぐに夫に報告をし、子どもたちにどう伝えるかなどの話し合いや、治療の体験談などが始まります。やよいかめさんはどんなふうにガンを乗り越えたのでしょうか。こちらは投稿されたエピソードを元に2020年10月22日よりウーマンエキサイトで公開された漫画です。漫画に集まった読者からのコメントをご紹介します。■「子どもが小さいときに病気になった」 みんなの体験談は?コメントで一番多かったのが、自分もガンになったという告白でした。小さな子どもを抱えながらがんばるママたちの体験談をご紹介します。・子どもが小学入学したばかりと小学4年生の時に私に乳ガンが見つかりました。 何度検査しても判定が出ず、瘤のようにどんどん膨らむ胸が怖かったです。結局、手術になり、それでも見つからなかったので安心してたら、2週間後の検診で、やはり癌だと言われました。サラッと。「 風邪ですね」くらいの感覚で。 とにかく、子どものことしか考えられなかった。どうしようと思いながら、 医師の話を聞いていました。治るかわからない点滴の副作用と脱毛は本当にしんどかった。・3人子どもがいる母親です。 一番下の息子を産んで1ヶ月で、私に舌癌が発覚しました。 赤ちゃんを母親に預けての入院、産後でおっぱいも張るのに検査、治療のためおっぱいを止めないといけなかったり、なにより子どもたちがみんな小さかったので、会いたい気持ちと心配で毎日泣いていたのを思い出します。・子どもが産まれて1ヶ月が経ち、検診に行ったら卵巣嚢腫が見つかりました。息子は、母乳で育てると決めていましたが、手術前の検査で母乳をあげることはできず、膿腫も大きかったので、手術の日までに捻転にならないか心配でした。・15年程前、子どもたちが小学3年生・年長・年少のときに、嗅神経芽細胞腫になりました。抗がん剤、放射線、手術と一通りやりました。 2年ほど治療で入退院を繰り返し、10年を超える経過観察後、ようやく寛解となり現在に至っています。・子どもが10ヶ月になったときに、保育園に預けるため卒乳しました。ところが、半年たっても右乳だけ張り続けていたため、軽い乳腺炎だと思い揉みしだいたところ、乳首から茶色い乳がでてきました。マンモグラフィーを受けたところ、右乳房の画像が真っ白になっていました。医師から「乳癌の可能性があるから精密検査を受けるように」と大きな病院を紹介され、2週間後に結果を聞くと「右乳乳癌、ステージ0だけど全摘が必要」と言われました。初めてのがん検診から約3ヶ月後に、右胸の全摘手術と乳房再建を行いました。ところが、その後の病理検査では、ステージ3に上がってしまいました。急きょ抗がん剤治療と乳房再建の中止を迫られる状況に。現在、仕事は傷病休暇と休業を取得しながら、乳房再建は継続、抗がん剤治療は隔週で行っています。・私も同じように鼻詰まりで子どもと一緒に耳鼻科を受診したら、匂いの神経にガンができていました。上の子は年長、下の子はまだ1歳でした。ドン底につきおとされたような気持ちになりましたが、2人がいるから生きなきゃとやよいかめさんと同じ感情になりました。12時間もの手術、2週間の抗ガン剤と3ヶ月間毎日病院に放射線に通いましたが、子どもが「ママ頑張れ!」と応援してくれたこと。「娘のランドセル姿が見たい。息子がどんどん可愛くなる笑顔をこの先も見たい。絶対生きてやる!」という思いが活力につながりました。4年経っても検査で不調もなく元気に過ごしてます。このまま自分を大切に、家族みんなが元気でいられるよう信じて生きていきます。頑張れたのは周囲の助けがあったから病のママたちを救ってくれたのはやっぱり家族。ここからは、みんなの助けがあったからこそ頑張れたというコメントをご紹介します。・幸い実家・兄・姉も近くにいたので、助けてもらってなんとか乗り越えられたかな。その都度、とことん話しあったから乗り越えられたのかなと思います。・上の子ども2人は主人の両親に預け、下の乳児は実母に預けて、支えてもらいました。 抗がん剤治療と手術で2ヶ月間の入院でしたが、子どもたちを面会に連れてきてもらったり、外出許可が出たら主人も一緒に出かけたりして過ごしました。 そんなことがあったのも、もう14年前です。 転移もなく定期検診のみで経過しており、感謝です。・母が息子の写真を送ってくれたり、息子を連れて来てくれたのが励みになりました。・闘病中の事は正直あまり記憶になく、入院中私の世話をしてくれた両親と、子どもたちの世話をしてくれた義母には心配をかけたと思います。 子どもたちのためにも元気になろうと思って頑張りました。・子どもはまだ1歳。 抗がん剤投与直後から48時間は、私の汗や尿から濃度が高いまま排出されるので、乳幼児と触れないほうがいいと病院関係者から言われました。それに薬の副作用で一週間は、悪心・嘔吐・だるさなどで育児なんてできる状況にないです。そのため、子どもの世話は夫が全て担うことに。義実家の手助けや保育園にも事情を話し、土曜保育もお願いしながら乗り切っているところです。育児に家事にと忙しい毎日…ママたちに送られたメッセージもそして、子どもや夫のためにと頑張りすぎているママたちへ「もっと自分を大切にして」というメッセージも多くありました。子どもだってママが元気なことが一番うれしいはずですよね。・私の母の口癖は「あなたが元気じゃなきゃ家庭がまわらなくなるのよ!」です。私も昔は家族が元気でいてくれるのなら自分が犠牲になってもいいという考えでしたが、年齢を重ねるにつれ少しずつ出てくる体調の変化に「私が元気じゃなきゃ!」と思うようになりました。今は母の言葉を忘れず、家族のために自分の体にも気をつかうようにしています。・子どもや夫が元気ならそれでいいわけじゃなかった。自分がいなかったら、この家族の笑顔は見られないのだから、自分を大切にしようと心から思います。 産後にしんどい思いをしてる方、体調崩してなかなか治らない方は、たくさん手抜きをしたり、家族や友人に助けを求めてもいいと思います。病気になったほうがよほど周りは大変になってしまいますから。実際の闘病生活が描かれたやよいかめさんの作品を読むと、「今は忙しいし」「まだ症状が軽いから…」といって、病院に行くのが遅れてしまうと後々大変なことになる可能性が潜んでいると思い知らされます。少しでも体調がおかしいなと思ったら、ママも病院に行くことが大切ですね。▼漫画「鼻腔ガンになった話 」
2022年09月27日20代、30代は元気に動けていたので体の不調を特に意識していませんでしたが、40歳を過ぎたころから疲れやすいと感じるようになりました。自分では「更年期の始まりかな?」と思っていたのですが、実際は病気だったのです。診断される前後の体験をお話ししたいと思います。私は元気、健康だと思っていたら…20代、30代のころは、飲み過ぎや寝不足など多少の無理をしても全然大丈夫だと思っていました。仕事も夜勤が多くあり、昼夜が逆転した生活になってもどこかに「睡眠を取れば大丈夫」という思いがあって、生活リズムなど気にもしていませんでした。本当に私は元気だなと思っていたのです。しかし、40歳を過ぎたころから寝ても疲れが取れない、1日中体がだるいなどの症状が続くように。突然来た体の変化に私は「更年期の始まりかな?」と思っていました。そして、42歳のときに風邪だと思い受診したら肺炎と診断され、そのまま入院となってしまいました。予想もしていなかった現実…肺炎と診断され入院はしたものの、治ればすぐにでも退院できると思っていました。しかし、1週間以上たっても40度近くまで上がった熱は下がらず、体も動かなくなり、焦りと不安でいっぱいに。そして、原因がわからないまま大学病院へ転院となり、検査の結果、膠原病(こうげんびょう)と診断されました。膠原病は厚生労働省によって指定難病とされていて、治りにくいと言われます。主治医から、これからは病気とうまく付き合っていかなければいけない、生活も変えていかなければいけないと言われました。予想もしていなかった現実に、私は驚愕。ステロイド治療をおこないながら2カ月間入院しましたが、ステロイドの影響でムーンフェイス(顔面が満月のように丸くパンパンに腫れ上がってしまう症状)になり、肩は脂肪が付いて盛り上がり、髪は抜け、体にも力が入らず歩行さえ困難に。家に戻ったころにはまったく別の体に変わっていました。まっ、頑張るか!からの最高の出会い家での療養が始まると、免疫抑制剤やステロイド服薬のため、感染症にかかりやすくなりました。外出もしばらくは避けるようにと主治医から言われ、呆然……。しかし、悩んでいても仕方がない、現実を受け止めるしかないと思い始めたら、少し楽しくもなってきました。「まっ、頑張るか」という気持ちで前向きにやっていこうと思ったのです。すると、したいことがいろいろと生まれてきました。例えば、もともと保護犬や馬に関心があったので、犬の保護活動団体や、引退馬の余生を大切にしている協会などを調べ、体調が落ち着いたら触れ合いに行ってみようと思うようになりました。そして自宅療養から1年過ぎたころ、体調も落ち着いてきたので実際に行ってみました。そのとき出会ったのが、多頭飼育崩壊からレスキューされた少し大きめのチワワ2匹です。最初はとてもおびえていたのですが、触れ合っていくうちに懐いてくれるようになりました。そして私のなかで「この子たちと一緒にいたい」という気持ちが強くなり、ついに家に迎え入れることに。犬たちは私の心の支えとなり、ひきこもりがちな日々から楽しい日々に変えてくれました。最高の出会いでした。まとめ健康が当たり前と思っていました。でも、病気を経験したことで、更年期と思い込んでいないで病院に行って検査をおこなうことの大切さを知り、以前なら考えもしなかったことを考えられるようになりました。元気でいられることに感謝しながら、諦めず、日々を楽しみながら前向きにチャレンジしていきたいと思っています。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。監修/駒形依子先生(こまがた医院院長)【駒形先生からのアドバイス】更年期はあくまで症状一つひとつを精査して、何もなかったときにはじめて更年期障害という診断になります。更年期の症状と決めつけずに一つひとつを除外していくようにしないと大きな病気を見逃してしまうため注意が必要です。
2021年04月15日日本人の夫と日本で暮らしているアメリカ人のアイシャさん。実は32歳の時に乳がん(ステージ1)の診断を受けました。現在は完治しているそうですが、実際に闘病経験のあるアイシャさんがいつもは英会話を中心に配信しているYouTubeチャンネル『バイリンガルベイビーBilingual Baby』で当時のことを赤裸々に語っています。ピンクリボン月間である10月に、より多くの方に乳がんについて啓蒙をするため、ピンクのものを身に着け、今回のような活動を行っているそう。アイシャさんが乳がんを発見したきっかけは、毎年行う一般的な健康診断だったそう。検査をして、腫瘍が見つかり、悪性の可能性は低かったものの、夫のタカさんの後押しもあり、精密検査を行うことに。不安はありつつも、結果を聞きに病院へ行った2人に、「結果はよくなかった」とお医者さんが伝えます。その後は「今だからこそ語れることなんだろうな」と感じてしまう内容。そこから、2人の戦いが始まります。「人生で一番辛かった」と語るアイシャさん。さまざまな症状も現れ、身体的にきつかったのに加え、精神的な不安から夫婦の危機もあったそうです。お互いのことを気遣いながら、当時の事を話す2人の様子に聞き入ってしまいます。手術の2週間後に完治といわれたアイシャさん。その時の話がとても感動です。ぜひ動画をご覧ください。今でも、定期的に検査を受けているアイシャさん。早期に発見することがとても大切だと語っています。早期発見検診の重要性を改めて感じさせられます。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2020年10月29日昨年2月に閉店した東京・世田谷のテレビスタジオ・東京メディアシティ(TMC)内のカフェ「今昔庵(こんじゃくあん)」のマスター・福田起弘氏が、がん闘病中であることが分かった。旧店舗の閉店からちょうど1年となるきょう7日に新店舗をオープンする計画だったが、今春を目標に後ろ倒しするという。今昔庵のオーナー・井上博之氏と福田氏は、今昔庵の新天地でのオープン準備を進めていたが、昨年11月、福田氏が膀胱がんであることが判明。同12月に手術を行った。さらに、井上氏も心筋梗塞で倒れ、一時は再建の道を断念せざるを得ないと考えたが、福田氏は手術も成功して回復に向けて治療に励み、井上氏も普段の生活が送れるまで回復したことから、再び再建を決意したという。こうした事情により、きょう7日の新店オープンは間に合わなかったが、井上氏は「現在、止めていた準備を再開し、目標は春ですが、できればオリンピックの前までには、『今昔庵』の復活をお目にかけたいと思っております」としている。
2020年02月07日タレントの堀ちえみ(52)が10月20日に、闘病生活をつづったエッセイ『Stage For~舌がん「ステージ4」から希望のステージへ』の発売イベントを都内で行った。各メディアによると、堀は2月に病気を公表してから約8カ月ぶりにファンと交流したという。そんななか、堀は同日に「本当にありがとうございました。」というタイトルでブログを更新。《青山ブックセンター本店にて、発売された私の本、「Stage For~」のサイン会と発表会が、無事に終わりました》と報告した。そしてイベントを無事に終えたことについて、《沢山の愛に包まれて、私は本当に幸せ者だと思いました。皆様に支えていただき、今日の私がいるのです。そして私なりに様々な苦悩もありましたが、このような日を迎える事ができ、いろいろと頑張ってきて、本当に良かったと…心から皆様に感謝》と感謝の気持ちをつづった。この堀の報告にファンからはブログでエールが続々と寄せられている。《ちえみちゃん昨日はサイン会本当にありがとう。ちえみちゃんの元気な姿を見て嬉しくて絶対泣かないと決めてたのでsmileで会うことができました またきっと歌ってくれると信じていつまでも待ってるからね》《ちえみさん お疲れ様でした大盛況ぶりと皆さんの温かさかを何だか伝わってきます。今日はゆっくり休んで下さい》《本出版とサイン会、大変お疲れ様でした 体調もよくなってきてるようで安心しました これからの活躍も期待しております。お体お気をつけて頑張ってくださいませ》「堀さんが患った舌がんは、『ステージ4』と診断されました。堀さんは今年2月に舌の約6割を切除し、太ももの組織を移植して再建するという大手術を受けました。さらに手術後、食道がんも発覚。幸いにも早期発見で短時間の手術で済んだようです。堀さんは現在も発声のリハビリに励んでいますが、声を十分に出すのはまだ時間がかかるでしょう」(芸能関係者)大手術を乗り越え、現在もリハビリに励む堀。2022年にはデビュー40周年を迎える。そんな彼女の“完全復帰”をファンは心待ちにしている――。
2019年10月21日4月22日、公式サイトで岡村孝子(57)が急性白血病のため長期治療に入ると発表された。闘病に伴い、6月から予定されていた6年ぶりのコンサートツアーの中止も決定。実は、彼女が数年前から準備を続けてきたイベントにも参加できなくなってしまったという。「全国植樹祭愛知県実行委員会」の樋口浩司さんは本誌にこう打ち明ける。「岡村さんは16年4月から『LOVEあいちサポーターズ あいち音楽大使』を務めています。そのご縁で、今年6月に愛知県森林公園で開催される『全国植樹祭』のイメージソング制作もお願いしたのです。新曲『と・も・に』は昨年5月に完成しており、岡村さんは当日の式典に参加して歌を披露する予定でした」6月2日の『全国植樹祭』式典は新天皇皇后両陛下にとって初めての地方ご公務であり、早くも注目を集めている。そして岡村は、新天皇と雅子さまの御前で歌うことを楽しみにしていたようだ。樋口さんが続ける。「ふだんのコンサートは夜の公演が多いのですが、式典は午前中に開催予定です。岡村さんは出演しているインターネットラジオ番組で『朝からしっかり声が出るかしら。今から生活を朝型に変えないと!』と話していたそうです……」雅子さまは63年生まれの55歳、岡村は62年生まれの57歳と同世代。雅子さまのご成婚が発表されたとき、30歳だった岡村は93年1月7日付の朝日新聞にこんな祝福のコメントも出している。《誠実でやさしそうな皇太子殿下と、外交分野でのキャリアを積んでいらっしゃる小和田さん。素晴らしいロイヤルカップルの誕生で、私までうれしくなってしまいます。日本をより適切にアピールして下さると信じています》さらに6月9日のご成婚の日にも、岡村は慶祝ソング『フォーエバー・ロマンス』を発表していた。当時から岡村を知る音楽関係者はこう語る。「お二人の永遠の愛を歌い上げたバラードで、日本テレビのロイヤルウエディング特別報道番組のテーマソングにもなりました。岡村さんは雅子さまをずっと尊敬しており、今回も雅子さまの前で歌う機会が与えられたことを本当に喜んでいたのです。それだけに白血病闘病のために辞退しなくてはならなくなったことはとてもつらかったでしょうね……」当日は晴れ舞台に立つことができなくなった岡村だが、撮影された彼女の映像が会場で流される予定だという。「式典まであと1カ月あまり。映像の準備など、私たちも慌ただしく対応を続けています。岡村さんが出演できなくなったことは本当に残念です。しかしお預かりしている楽曲を最大限に活用して、今回の植樹祭を成功させたいと思っています」(前出・樋口さん)これまで数々の苦難を乗り越えてきた岡村。雅子さまへ歌を捧げる夢をあきらめることなく、きっと再び元気な姿でステージに立ってくれるはずだ――。
2019年04月30日12月22日、歌手のmisono(34)がブログを更新。夫でHighsidEのドラマー・Nosuke(29)が「精巣がんによる胚細胞腫瘍で闘病中」と公表したことで、一部から「売名」と言われていることへ反論した。今月16日、自身のブログで闘病中であることを公表したNosuke。その後、misonoがメディアの取材を受けたことについてネット上で「売名行為」との批判が上がっていた。この日、《ちょっと『売名行為』という言葉が、ピックアップされすぎてるように感じるので》とブログにつづったmisono。12月はもともとオフがないなか、公表後に受けた仕事が5つだったと告白。公表したから仕事が増えたわけではないと反論した。にもかかわらず「倖田來未のみならず、また“家族や病気”を利用してる」などの声が寄せられていたというmisono。《自分への誹謗中傷は全然、良いのですが》とした上で、夫にも売名批判が上がっていることへ《これまで…Nosukeは「misonoや倖田來未という名前を、ほとんど掲載して来なかった人」です》とつづった。これに対して、Twitterでは《自分の旦那がガンになってまで売名行為とか言われてmisonoちゃん可愛そうすぎるだろ‼︎》など、応援の声が。また《冷たい世の中だよね》《日本人の思いやりはここまで荒んでいるのか?》など、心ない言葉が増えた社会への批判も上がっていた。「今のネット社会、叩かれる人は何を言っても叩かれる傾向が強まっています。普通のお弁当写真をアップするだけで炎上する芸能人もいるほど、異常な状態です。昔の日本では、闘病中の人やその家族を揶揄するなんてありえませんでした。misono さんにこうした反論をさせなければならなかったこと自体、恥ずべきこと。今回の彼女の勇気ある発言を、もっと広げていかなければならないと思います」(音楽関係者)
2018年12月22日乳がん闘病中の元SKE48・矢方美紀(26)が9月26日、自身のブログを更新。約4カ月間にわたった抗がん剤治療が終了したと報告した。「最初は長いなぁー、、と思ってましたが、気付けばあっという間でした。。」と感想を述べた矢方。いっぽうで「私は治療を通して経験したこと、プラスに考える事が沢山あったから結果良かったと思ってます」と明かしている。「昨年12月に胸のしこりに気づき、乳がんだと判明した矢方さん。アイドル時代は健康自慢だったために、やはりショックは隠しきれなかったそうです。退職も覚悟していましたが、『仕事を辞める必要はない』という医師の言葉が救いに。それを頼りに、治療を頑張ろうと決意したといいます」(医療関係者)女性自身6月5日号では、矢方へのインタビュー記事を掲載。治療のため4月に左乳房を全摘出している彼女だが、摘出を提案された当初の心境について「“全部なくなるのは嫌だ!”という気持ちがありました」と明かしている。それでも心境が変わった理由について、彼女はこう続けている。「“全摘”を決断したのは、取っても“再建”できることを知ったのと、“全摘”しても多くの方が前向きにされていることを知ったから。私は今後の人生のほうが長いので、リンパ節を含む悪い部分を“取ってから作る”ほうが納得できると思いました」4時間にもわたる手術を終えた矢方は、イメージよりも傷が大きかったことにショックを受ける。術後の痛みもあり、さらに落ち込む日々を送っていたが――。しかし転機が起こる。「病室から楽しそうにお花見している人たちを見ていたら、“普通って素敵だな”と思いました。また、入院しているみなさんが、生きるために本当に一生懸命に立ち向かっている。その姿を見ていて、私は胸がなくなったけど“生きる”という大きな目標へ前向きに頑張れる!と思えたんです」抗がん剤治療を終えた矢方だが、ブログでは「10月からは放射線治療とホルモン治療が始まります!」と報告している。不安はまだまだ続くようだが、引き続き頑張ってほしい!
2018年09月27日美と健康を極めて、多くのファンの支持を集めてきた。その並々ならぬ努力の蓄積は、愛する家族の闘病に際しても大きな力を発揮してくれた――。 「’14年8月、病院で母がピロリ菌の検査を受けたところ、担当医から『お母さんはピロリ菌どころか胃がんになっています』と、突然告知されました。それもステージ4。『このままだと、あと3カ月で胃のすべてががんに侵され、腸閉塞になる』と……。それをイタリアにいたときに聞いた私は、頭の中が真っ白になりましたね」 当時の心境をこう振り返るのは “吉本の美容番長”こと、シルクさん。 このたび累計40万部を突破した人気シリーズの4作目となる新著『シルクのべっぴん塾筋膜ゆるトレ』(ヨシモトブックス)を出版した彼女。その本のあとがきで、母・粕谷富美子さん(85)が胃がんで余命6カ月の宣告を受けたことを初めて明かしたのだ。 「がん告知を受けてから1カ月後に胃を全摘しました。ところが腹膜播種といって、すでにいろんなところにがんが散らばっていることがわかりました。担当医からは『余命6カ月~1年を覚悟してください』と言われ、めちゃくちゃショックでしたね。というのも、その半年前の健康診断では、なんの異常もなかったからです。しかし救われたのは、母が『三途の川わたるのに、六文銭があれへん。あんたら持ってるん?』って(笑)。こんなときでもユーモアを忘れない母に勇気をもらい、とにかく苦しみが少ない方向でいこうと決心しました」(シルクさん・以下同) その場にいた2人の妹たちに、「もっと母に生きてもらって、これからの6カ月をみんなで頑張ろう!」と声をかけたのだ。そこから3姉妹が手分けをしながら、胃がんが寛解した人たちなどの本を、片っ端から読んでみた。 「とにかく胃がんに関する、あらゆる情報を3人で集めました。がんは遺伝もありますが、その原因の多くは食事とストレスによるものだと。だからまずは、母の食事を全面的に変えていこうということを決めました」 胃を全摘した富美子さん。これからは、胃腸に負担のかかる普通の食事はできない。 「普通だったら32回かむところを倍かまないといけない。そのためには元の食材を細かくする必要があるので、すぐにフードプロセッサーを買い、食材をすべて細かくして料理を作るようにしました」 野菜ソムリエプロの資格を持つシルクさんだが、食材選びから調味料、そして調理法に至るまで、これまでの食生活を根本から覆すほど猛勉強したという。とくに調理法では、油で揚げる・焼くといった料理が激減。土鍋や蒸し器を使った、蒸す・煮る料理を中心に考えた。 「猛勉強したおかげで、私自身の食生活が間違っていたことに気づきました(笑)。母が退院してからは、まず野菜で食物繊維を取り入れてから、バランスよく魚や肉に移行していきました。発酵食品も必須です。ただし、わずかなミネラルしかない白米はNG。体にすごく負担をかけてしまいますから。穀類は玄米のおかゆが基本です。朝は小松菜やりんごをスムージーにして、毎日飲むようにしました」 そしてシルクさんが、食生活の改善と並行して取り入れたのが、筋力トレーニング。その理由は? 「母は82歳のときにがんの手術をしました。年齢とともに筋力が衰えてくると、家の中で転倒して複雑骨折することもありうる。そこから再び入院となれば、さらに筋力が落ちていく。そうならないために、自分のピラティスインストラクターの知識を生かしつつ、どこでも使えるフレックスバンド(ピラティスで使う伸び縮みするバンド)で、無理なく足腰を鍛えてもらうようにしたのです」 さらに「筋膜」と呼ばれる、筋肉を包み込んでいる膜をゆるめるための簡単なエクササイズも日課に加えた。 「軟らかいスーパーボールを使って、顔や足裏をコロコロと刺激してほぐすだけのトレーニング。顔や足裏の筋膜が癒着すると、濁ったコラーゲンがたまり、顔のシワ、しみ、たるみが増える。それを正常に戻すことで、血流やリンパの流れも改善できます。毎日やっているので、母のおでこにはシワがありません」 余命6カ月を宣告された富美子さんだったが、全摘手術から3年6カ月を経過した今もお元気だ。 「触診するとがんはあるんです。でも、大きくなっていない。抗がん剤の量も通常の半分にしてもらっています。担当医の先生も『奇跡だ』とおっしゃっています」
2018年04月13日ダイエット中の発病で大腸がんの発見が遅れた。急きょ手術したものの人工肛門に。しかしがんと向き合ったら、いらないものがはっきりして生活が身軽に――。 「肛門から数センチのところにがんができてしまったから、手術では肛門の周辺をまるで茶筒を抜くようなイメージで、ざっくり切除。その後、左右のお尻を強引につなぎ合わせたので、お尻の割れ目がなくなっちゃったんですよ」 開口一番にそう語るのは、マンガ家の内田春菊さん(58)。大腸がんが原因で、人工肛門の生活になるまでの経緯をまとめた『がんまんが』(ぶんか社)が注目されている。同作品の表紙に描かれている女性の左脇腹にある、赤いおできのようなものが目を引く。 「穴を開けた脇腹から、体内で切り離した大腸を出しているんです。ここから排せつできるよう、人工肛門の袋を装着しました。慣れれば、意外に楽なんです」(内田さん・以下同) 達観したように見えるほど、時にユーモアを交え、時に淡々と語る内田さん。内田さんは、’15年の年末から抗がん剤治療を開始。’16年4月、がんを切除するため手術に臨む。3時間半の大手術だった。 「人工肛門については、ほぼつけることになりそうだと聞いていましたが、一縷の望みを捨てたくないんですね。そういった意味では、覚悟はできていませんでした。だから入院当日に、人工肛門をつける場所を決めて、おなかにマーキングしたときは“なんで?まだ決まっていないのに”って」 現在、身につけている1枚800円ほどの使いきりの袋や、2日で1回くらい取り替える500円ほどのフィルターなどの器具は、これから一生涯使い続けることになる。 「でも、慣れれば着脱は簡単だし、排せつ物をためる袋は1日1回、取り替えるだけ。袋は中身の見えないタイプもあるんです。お風呂も普通に入れますから、まだ行っていませんが、温泉にだって入れます」 それでも、けがなどで四肢を切断したとき、切断した部分が痛むような“幻肢痛”に悩まされることもある。 「同じようなことを体験しました。おなかが痛くなると、ないはずの直腸あたりが痛むことはあったりします。でも、出る爽快感は味わえなくても、散々悩まされた便秘の苦しみからは解放されました。将来、介護生活になっても、おむつの取り替えの必要はないし下の世話は楽だなんて思ったりして(笑)」 患部も、息子が「梅干しみたい」と表現したそのままの形状だ。 「おなかから取り出した大腸の表面はクニャクニャしていて、お風呂に入ると色が白くなったり、体調を崩すと赤い点々が出てきたり。けっこう“表情”があって、今は愛おしい存在です」 自分の体を受け入れ“無理はしない”ことも心がけるようになった。依存症のように飲んでいたお酒も、やめてから1年ほどたった。 「医者から『がん患者にお酒までやめろとは言えない』と言われていましたが、飲みすぎは何しろ大腸に悪いし、絶対に再発は防ぎたいので。そもそも悩みを忘れるためにお酒を飲んでいましたが、それで解決するわけではないから。結局同じことで翌日はまた落ち込むんですね。だったら、最初から悩みに向き合い、受け流していけばいいんですね」 酒と同時に、これまで絶やさなかった恋愛も卒業。 「私の男性遍歴を知っている親しい友人からは『絶対無理でしょ』って言われますが。親からの虐待があって、そこで男性に愛情を求めていた部分もあったんですけどね。4人の子どもに恵まれたし、閉経して、もう出産することもないから必要ない気がするんですよ。がんになっていろいろ割り切れたから、酒も恋愛も捨てられました。人生で重荷だったことが2つも消えて、身軽になりました」 がんと共存していくなかで、これまでの悩みも小さく思えるようになった。そうすると、がんを前向きに捉えられるようにもなった。 「当初は人工肛門のことを描く自信はなかったし、迷いもありました。でも今では“大ネタもらっちゃったな”という思いです」 そして現在は、続編としてストーマ(人工肛門の総称)生活を描いた「すとまんが」を執筆中だ。 「今、がんになって改めて感じるのは、これまでと変わらず子どもに囲まれて、マンガを描けることが本当に幸せだということ」 自分の体に変化があったからこそ、当たり前と思っていた日常に幸せがあるのだと再確認できたのだった。
2018年04月08日1月30日に亡くなった有賀さつきさん(享年52)。人知れず闘病生活を送っていたが、有賀本人は死期を悟っていたようだ。 有賀さんは昨年末までに銀行口座などを整理し、年明け以降の仕事も家族の介護などを理由に断っていたという。フジテレビに同期入社した八木亜希子(52)は訃報を受け6日、同局の「とくダネ!」にVTR出演。昨年は有賀と会う機会がなかったが、年末まではLINEでやり取りをしていたと明かした。 「もちろん彼女はそういうこと(=病気のこと)を言わない人なので、全然そういう様子はなくて。昔からあんまり人に辛いこととかを言わなかったり、なんでも1人でやってしまったり、頼らない人なので…」 とはいえ、周囲の人間はその異変に気づいていた。有賀の先輩にあたる山村美智(61)は6日、自身のブログをアップ。昨年7月、有賀さんに「痩せた?」と指摘したときのことをブログで回想している。 「痩せすぎなようにも、少し思ったけれどいつもダイエットに失敗した話を聞いていたので良かったね、と答えると彼女は、嬉しそうに笑ってくれました」 髪質の不自然さにも気づいていたが、有賀さんは「これ、カツラなんですよ!」「カツラ、便利ですよ」とすかさず返したそうだ。 山村は「とくだね!」に5日、電話出演。当時は有賀の体調について心配になったものの、明るく振る舞う様子を見て「仕事に対する意欲や、頑張って生きていかなきゃという思いがヒシヒシと伝わってきました」と語った。 昨年2月、有賀さんにとって最後の更新となったブログには「私は抱え込むタイプなんです、、、」とある。その言葉は、彼女の心の叫びだったのかもしれない。
2018年02月06日『所属事務所提供』 2カ月半に及んだ入院生活を本誌“病床インタビュー”で明かしてくれた南部虎弾(65)。8時間に及ぶ心臓手術と生死の境をさまよった闘病生活を支えているのが由紀夫人(47)だ。 「カミさんは、入院期間の75日のうち70日は病室に通ってくれていますね」 これまで家族についてほとんど語ったことがない南部。今回、初めて愛妻との暮らしを本誌に明かしてくれた。 「出会いは、まだ彼女が下田(静岡県)の高校生だったころ。当時、友人に連れられて僕が所属していたダチョウ倶楽部の公演を観に来たのが、最初です。私が36歳、彼女がおそらく19歳のときから付き合い始めて。結婚したのは、ちょうど電撃ネットワークがデビューしたのと同じ90年でした」 新婚時代は、夫人が下田に暮らし、東京で仕事する南部とは別居状態が続いた。 「やっと一緒に住めるようになっても、お風呂もなく鍵のかからないような6畳一間で2年ほど結婚生活をしていましたよ。電撃ネットワークもまだ売れていなくて、当時はかなり厳しかったです」 そんな下積み時代を支えてくれた夫人は、今回の入院でも献身的に看護してくれた。 「疲れてしまうだろうから、カミさんに『たまには休みなさい』と言うんですが。病院内を見ていると、入院患者にはご高齢の男性も多い。でも、看護師さんのお尻を触ったりしていますよ(笑)。私はそんなことはしないですけれど、カミさんには『たまには(私のお尻を)触らないとダメよ』なんて言われます。いまは寝ている時間が多いので、体をほぐしてほしくなるんです。それで、カミさんには肩や腰をマッサージしてもらっています。私は、カミさんをマッサージ機か何かと間違えているのかもしれませんが、それはそれは大切にしていますよ」 照れ隠しか、憎まれ口を叩いた。結婚して27年、ずっと夫婦だけの2人暮らしだそう。 「子供はいません。もしかしたら子供がいないから上手くいっているのかもしれませんね」 夫人の手厚い看護もあって、徐々に体調は回復し、退院も近そうだ。 「退院したら、カジノができたシンガポールにひさしぶりにカミさんと行きたいですね」 おなじみの過激なパフォーマンスからは想像できない、“愛妻家”の素顔を披露した南部だった。
2017年06月13日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が18日、「ふと、、、」というタイトルで自身のブログを更新した。麻央は「闘病されていた方の訃報にふれると自分のなかのどこかの小枝がポキって折れるような気持ちになります」と心境を吐露。「面識がなくても、遠い遠い方でも、どこかで 不思議に 仲間意識というか、あるのだと思います」とつづった。そして、「だから私も 癌を公表しているものとして少しでも長く生きていきたいです」と続け、「そんなことをふと思いました」と記した。ブログでは名前は書かれていないが、胆のうがんで闘病していた俳優の渡瀬さんが多臓器不全のため14日に死去したことが、16日に報じられた。
2017年03月18日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が29日、自身のブログを更新し、体重の変動を明かした。「体重」というタイトルで更新した麻央は、栄養について書かれた資料の写真をアップし、「改めて、大切な栄養を勉強」とコメント。「この1年間で11キロの体重変動がありました。病気で、何故か人生で一番太った状態(むくみもあるのかな?)と一番痩せた状態を体験しています」と明かし、「以前は、体重計にはのらないずぼらな性格でしたが、最近は特に、確認をするようにしています」と記した。そして、「私は、ベスト体重プラス2キロを理想に考えています」と打ち明け、「何かあると、すぐに減ってしまうので、闘える蓄えを常にもっておくためです」と説明。「これから4キロ太ることがまず目標です!」と宣言し、「太るのが目標だなんて、3年前の私が聞いたらひっくりかえるでしょう」とつづった。
2017年01月29日お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(53)が、25日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:00~10:55)で、乳がんの闘病生活をブログから発信し続けているフリーアナウンサー・小林麻央(34)の姿勢をたたえた。今月1日にブログ「KOKORO.」を立ち上げ、がんが見つかるまでの経緯やその後の心境などをつづっている麻央。この日、ゲスト出演したWBC世界スーパーバンタム級世界王者・長谷川穂積選手の試合展開に触れ、「攻撃は最大の防御」とコメントした。そして、「暗くなっていてもしょうがないから、こうなったら打って出るぞというのがこのブログなんでしょうね」と麻央の真意を察し、「お子さんへの思いとかもあるんじゃないでしょうかね。暗い思いにさせたくないとか」と推測した。がんの転移についても打ち明けるなど、多くの人の心を揺さぶる麻央のメッセージ。松本は「なかなかできない」と正直な感想を口にし、その存在を「偉人に近い感じ」と表現した。
2016年09月25日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が6日、自身のブログを更新し、今後、乳がんと診断されたときのことや治療について、ブログで書いていくと伝えた。麻央は「今後、乳癌がわかったときのことや治療のことなど少しずつ書いていきます」と宣言。「『知らぬが仏』で本当に知らないで生きていられたら穏やかで幸せなこともたくさんあると思います。不安や怖れ、時に、憎しみや怒りが生まれるときは、特にそうです」とつづり、「私は、病気になって初めて知った感情がありました。31年間も知らないで生きてきた感情があったのです。しかも、いっぱい。そして、皆さんのコメントを読んで知る感情も、たくさんありました」と明かした。続けて、「もしかしたら、今後、私のブログを読んで、悲しく感じたり、知ってしまうことで不安になってしまったり、何かを思い出し怒りを感じてしまう方もいるかもしれません」とした上で、「でも、私の体験をどんな形でも、活用してくれる方がいたらと願い、書きたいと思います」と自身の決意を伝えた。
2016年09月06日歌舞伎俳優・市川海老蔵(38)の妻で乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央(34)が1日、新ブログ「KOKORO.」を開設した。「なりたい自分になる」というタイトルで、「今日から、ブログを書くことにしました。家族はとても、驚いています」と報告。先生の「癌の陰に隠れないで」という言葉に心が動かされたといい、「力強く人生を歩んだ女性でありたいから子供たちにとって強い母でありたいからブログという手段で陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました」とブログを立ち上げた思いを明かし、「一度きりの人生なので、なりたい自分になろうと決意できたことはうれしいです」とつづった。また、「時間の経過とともに、癌患者というアイデンティティーが私の心や生活を大きく支配してしまっていたことに気がつきました。元気になったら元の自分や生活に戻れるのだからそれまでは、誰にも知らせず、心配をかけず、見つからず、、、と思ってきました」と自身を振り返った麻央。病気が公になって環境が大きく動き出したことで、「これまで以上に病気の陰に隠れようとして心や生活をさらに小さく狭いものにしてしまいました」と、さらに陰に隠れるようになったことも明かした。さらに、「癌になってから1年以上が経ち、いつものようには身体が動かなくなった時元気いっぱいの娘や息子を前に途方に暮れる思いでした」という心境も告白。「子供に、『いつも一緒にいられなくてごめんね。何にもしてあげられなくてごめんね。』と胸を痛めてるママがいたら、あなただけでなく、私も同じですと伝えたいです」と同じように苦しんでいる母親に向けてメッセージを送った。
2016年09月01日90年代の人気TVシリーズ「ビバリーヒルズ高校白書」でブレンダ・ウォルシュを演じたシャナン・ドハーティが乳がんで闘病中だが、インスタグラムを介して闘病生活をシェアする彼女に激励の声が寄せられている。「バフィー~恋する十字架」のサラ・ミシェル・ゲラーがシャナンとのツーショットをインスタグラムにアップした。45歳のシャナンは昨年8月に乳がんで闘病中であることを公表し、今年5月には乳房の1つを切除、いまも治療を続けている。先月には抗がん剤の副作用で髪が抜けてしまうことへの対策として髪を剃り落とし、その過程を6回に分けてインスタグラムにアップした。「Entertainment Tonight」のインタビューで「結婚の絆は以前から常に強かったけど、(乳がんになったことで)1,000倍強くなった。夫なしでは、これを乗り越えることはできなかったわ」と語った。現在受けている全8回の抗がん剤治療は10月まで続く。「良い日もあれば、悪い日もある。治療の4、5日後は本当に本当につらいの」と言うシャナンは「先のことがわからないのが一番こわい」と明かす。「痛みも、乳房を失って生きることも、なんとかすることはできる。ただ、自分の未来についての不安、そして自分の未来が愛する人たちにどんな影響を与えるかを思うと不安になる」。不安に揺れる心を隠さず、それでも強い気持ちで病と向き合い、闘病生活についてSNSで発信するシャナンに対してファンはもちろん、「ビバヒル」共演者だったジェイソン・プリーストリーや、サラ・ミシェル・ゲラーなどセレブの友人たちもエールを送っている。9日(現地時間)にはサラ・ミシェルが、頭にピンクのスカーフを巻いたシャナンとのツーショットをインスタグラムに投稿。「私の月曜日の女神(実際は毎日のミューズでもある)は勇敢な友人、シャナン・ドハーティです。私はずっと、彼女は最も誠実な友人の1人だと言ってきました。彼女は人生最大の試練に直面していますが、その試練を1度も会ったことのない友人たちとシェアすることで、同じく闘病中の人々を勇気づけています」とシャナンの勇気を讃えた。(text:Yuki Tominaga)
2016年08月10日ロバート・ダウニー・Jr、クリス・エヴァンス、グウィネス・パルトロウが、がん闘病中の『アベンジャーズ』ファンをお見舞いに訪れたという。マーベル好きのライアン・ウィルコックスさん(18)がその中でもクリス演じるキャプテン・アメリカの大ファンだと知ったグウィネスが、自身がペッパー・ポッツ役で出演した『アイアンマン』の主役であるロバートも合わせてカリフォルニア州サンディエゴの入院先を訪問しようと企画したのだという。グウィネスはライアンさんが2人の憧れの俳優と写った写真と共に「今日ライアン・ウィルコックスにはちょっとしたサプライズがありました。クリス・エヴァンスとロバート・ダウニー・Jr、ありがとう。そしてウィルコックス家のみなさん、お世話になりました!」とその様子を報告している。以前にグウィネスは、インスタグラムで今回の企画を実現させると宣言していた。その際には「彼はキャプテン・アメリカとアベンジャーズが大好きなの。だからライアンにアベンジャーズの出演者、特にキャプテン・アメリカを演じているクリス・エヴァンスと会わせてあげたいの。病状は思わしくないけど、元気づけるすごくいい方法だと思うし、自分のヒーローに会える人生最高の時間となると思うの!」とコメントしていた。今回の訪問の後、クリスはツイッターで「今日ライアン・ウィルコックスという真の戦士と握手を交わすことができたよ。彼はこれ以上ないくらいにクールな男だったね。ウィルコックス家のみなさん、お世話になりました! そして今回のことを実現させてくれたロバート・ダウニー・Jrとグウィネス・パルトロウに大きなハグとキスを送るよ!」と報告していた。(C)BANG Media International
2016年05月25日ロバート・ダウニーJr.とクリス・エヴァンズ、グウィネス・パルトロウが、闘病中の『アべンジャーズ』シリーズのファンの少年のもとをサプライズ訪問した。3人は23日(現地時間)、カリフォルニア州サンディエゴに住む18歳のライアン・ウィルコックスさんを訪ねた。『アべンジャーズ』シリーズの大ファンで、中でもクリスが演じるキャプテン・アメリカが大好きだというウィルコックスさんは、現在がんで闘病生活を送っている。ロバート扮するアイアンマンの秘書ペッパーを演じているグウィネスは自身のインスタグラムのアカウントに、ウィルコックスさんとクリス、ロバートの3ショットをアップ。「今日、ライアン・ウィルコックスにちょっとしたサプライズがありました。ありがとう、素晴らしいクリス・エヴァンズと私の仕事のパートナーであるロバート・ダウニーJr.。そしてウィルコックス家のみなさんのおもてなしに感謝します」とコメントした。実は2週間ほど前にグウィネスは、ウィルコックスさんの友人がインスタグラムで『アべンジャーズ』シリーズのキャストとウィルコックスさんが対面できるよう拡散を呼びかける投稿を見つけ、ロバートとクリスに「私が運転するから、一緒に出かけない?」と呼びかけていた。多忙な3人ながらスケジュールを調整、ウィルコックスさんの夢が実現した。クリスは訪問後にツイッターで「今日、僕はライアン・ウィルコックスという名の真の戦士と握手することができました。彼は僕が望む以上にクールだ。ご家族のおもてなしに感謝します!そして、これを実現させてくれた大好きなロバート・ダウニーJr.とグウィネス・パルトロウにハグとキスを!」とツイートした。(text:Yuki Tominaga)
2016年05月25日人気TVシリーズ「ダウントン・アビー」のミシェル・ドッカリーの婚約者が13日(現地時間)、がんと闘病の末、34歳の若さで亡くなった。20世紀初頭のイギリスの貴族の館の生活を描いた人気シリーズで、舞台となるクローリー家の長女・メアリーを演じるミシェルの婚約者、ジョン・ディニーン氏はアイルランド出身でファイナンシャルPRの仕事をしていたが、がんの診断を受けた後は故郷に戻り、両親と過ごしていた。2人は2013年9月、ミシェルと「ダントン・アビー」で共演しているアイルランド出身のアレン・リーチ(トム・ブランソン役)の紹介で知り合い、今年2月に婚約した。ディニーン氏がアイルランドのコークにあるホスピスで息を引き取った際、ミシェルも最期を看取ったという。ミシェルの代理人は「(ディニーン氏の)家族は皆さんから受けた支援や優しさにとても感謝していますが、身内で喪に服すために、そっとしておいてほしいと願っています」とコメントを発表した。(text:Yuki Tominaga)
2015年12月16日