20代半ばで知った広汎性発達障害…診断を受けたのは就職後Upload By 桑山 知之「♯見えない障害と生きる」連載第2回は、愛知県名古屋市でグラフィックデザイナーとして働くノビさん(38歳・男性)に話を聞いた。ノビさんは愛知県内の大学を卒業後、印刷会社のデザイナーとして就職した。しかし、ある程度のカリキュラムをこなしていれば一定の評価を得られる学生時代とは違い、入社後ほどなくして壁にぶち当たった。「手が遅いんです。仕事にも時間がかかって、すごく残業してたんです。先輩に『そこまでやんなくていいよ』『うまく手を抜けよ』って言われるんですけど、手を抜くと肝心なところをすっ飛ばしちゃったりして、めちゃくちゃ怒られる。『うまく手を抜く』、その“うまく”ができなかったんです」その後、仕事を辞め個人でデザイナー業を始めようとしたが、それも失敗した。どうにもうまくいかなかった。何かがおかしい。そんな折、大学時代に同じゼミだった友人と再会する機会があった。彼は発達障害だった。「多分お前もそうだと思うから、診断受けてみろよ」。そう言われるまま、ノビさんはクリニックに足を向けた。そこで、広汎性発達障害という診断を受けた。20代半ばだった。発達障害の診断は「許されたような感じがした」Upload By 桑山 知之ノビさんは学生時代、勉強こそ多少できる方だったが、算数だけは異常に出来が悪かった。そして何より、誰かと一緒に何かをやるという楽しみがあまり理解できなかった。「大学時代の友達に久しぶりに会ったら、『学生のときは修行僧のようだった』と言われました。自分の中で正しいと思っていることは譲らないというか、会話を楽しんだり雑談が苦手というか…」思い返せば、幼いころから対人コミュニケーションには難があったノビさん。保育園ではみんながジャングルジムで遊んでいるのを見て「何が楽しいんだ」と思っていた。中学・高校では、仲の良いグループ以外の人間とはほとんど親しくすることができなかった。複数のコミュニティをまたいでいる友人は輪を広げていき、それに乗っかることができなかったノビさんは、やがて遊びに誘われる機会が減っていった。だが20代半ばで発達障害の診断を受け、心が穏やかになったという。「どちらかというとポジティブに受け止めたところがあって、正直ホッとしたんですよ。コミュニケーションもうまくいかなかったことが多くて、自分の努力が足りないとか、自分に責任があると思ってたんですけど、『障害です』『先天的なものです』って言われたときに、なんかこう許されたような感じがしたんですよ」Upload By 桑山 知之3歳児検診で「傾向あり」…伝えてほしかった発達障害というのは、“見えない障害”である。それゆえ、親が自身の常識や価値観を押し付けてしまい、子どもが苦しんでしまうことがままある。発達障害の特性が少しずつ見えてくるのは、3歳児健診であったり、幼稚園や保育園などといった集団生活であることが多い。早期に我が子の特性を理解したうえで親が接していくことで、併発しがちな二次障害を防ぐこともできるだろう。ノビさんは、診断について家族に対し思い切って打ち明けてみた。すると意外な言葉が返ってきた。「けっこう自分としてはそれなりに覚悟を持ってカミングアウトするつもりで、あるとき折に触れて話をしたんですよ。そのときの母の反応が、『あぁ、なんかね、そんな感じだよね』みたいな。なんかそんな気がしてたっていうノリだったんですよ」実はノビさんの母は、おそらく3歳児検診の際、「発達障害の傾向がある」と指摘されていたという。ただ、その段階では保育園で友達と揉めているなどの問題が起きていたわけではなかったため、様子を見ようということになり、そのまま進学、就職まで至ったらしい。その過程でも時折、例えば高校の進路を決めるときには自然がいっぱいあるところがいいんじゃないかという「謎の提案をしてきたこともある」と回顧する。Upload By 桑山 知之「(発達障害かも知れないと)わかってたんならもうちょっと何かこう、訓練とか何かあったんじゃないの?こっちはそれなりに苦労してるんだよ?っていうモヤモヤとした気持ちはありましたね。親は自由な考え方なので、こうじゃなきゃダメとか、レールを敷くような感じは全然なくて、放任主義なんです。それはそれでよかった部分もあるんですけど、もっと関わりがあってもよかったかなと。関係性が薄かったんです」我が子に発達障害かも知れないと伝えることのストレスは非常に大きい。ひょっとしたらノビさんの母はあえて“伝えない”という形を選んだのかも知れない。またそれは我が子を思っての選択だったのかも知れない。しかし成人後、ノビさんは確かに生きづらさを抱えてきた。これはあくまで結果論ではあるが、子どもが生活するうえで違和感を覚えていないか、親はアンテナを張っておく必要があるのかも知れない。再就職失敗、そして離婚…挫折から人の気持ちが分かるようにUpload By 桑山 知之“修行僧”のようだった大学生のころから、ノビさんには恋人がいた。「恋愛偏差値が低すぎた」ため、彼女の方からグイグイと来てくれたのがよかったという。やがて社会人になり24歳で結婚。しかし、個人での事業もうまくいかず、再就職を決意した。「新卒の就職活動と違って、再就職はレールがあるわけではない。面接で自分は必死にアピールしてるつもりでも、面接官から『お前さぁ、今のままでいいと思ってんの?』と説教されて帰ってくる。そうすると、夜の公園でブランコにもたれながら泣いちゃうんですよ。『何やってんだ自分は』って。抑えきれなかったんです」自分自身にそこまで感情の起伏がないため、他人の気持ちが理解できなかったノビさん。人が泣いているのを見ても、本当なのかと疑っていたという。しかし、再就職での挫折を受け、思わず涙をこぼす日々が続いた。それとほぼ同時に、離婚することになった。「本当に胸が潰れるような気持ちをそこで初めて経験しました。あのとき、あの人たちが言っていたつらい気持ち、苦しいとか悲しいっていうのはこれなんだというのが、そこで初めてわかったんです。今までは“自分の中での正しさ”を大事にしていたんですけど、“相手がどう思っているか”を大事にした方がコミュニケーションがうまくいくんだなって」発達障害の僕が生きるための“工夫”診断を受けたことで就労移行につながり、そのままその運営会社に就職したノビさん。現在はさまざまな受託事業のチラシを制作するデザイナーとして活動している。聴覚過敏で特に気になる「人のガヤガヤ声」を遮断するため、最近ではライフル射撃の選手が使うような耳栓をしているという。「努力というよりは、工夫するって感じですね。僕は発達障害以外にもてんかんの持病があって、薬を1日4回飲まないといけないんです。そこで、薬を1錠飲んだら、右腕から左腕にこのブレスレットを1本移していくんです。忘れないようにするっていう努力だとつい忘れちゃうので、仕組みを作るようにしました。このルールを伝えている人なら『朝飲んでないんじゃないの?』とか指摘をしてくれるんです。『この時間は全部左腕にないとダメなんじゃないの?』みたいな」つい忘れてしまうのであれば、仕組みやシステムを変えて、工夫する。診断を受け入れたからこそできる行動だ。他にも、仕事のタスクを付箋で貼っていく中で、優先順位が上がるとその付箋の位置を変えていくことで、見過ごさずに取り組めるといった方法を紹介してくれた。「前にインターネットで見た呟きで、すごいグッと来たものがあって。『みんなすごく我慢してるんだからお前も我慢しろ』って、よくあるセリフじゃないですか。でも、みんなが我慢してるんだったら、システムが悪いでしょって。障害って、みんなが当たり前にできることができないからこそ、“工夫”でなんとかしようと思ってます」Upload By 桑山 知之取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年09月03日約600名が参加!イベントの様子を紹介Upload By 発達ナビニュース2020年7月10日、「発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する~コミュニケーション支援のための6つのポイントと5つのフォーカス~ 」の出版記念イベントをオンラインで開催しました。イベントには、書籍の執筆に関わったLITALICO研究所所長の野口晃菜ほか著者・編集者4人が登壇し、オンライントークセッションを行いました。このイベントには、約600名がリアルタイムで参加。発達障害がある子どものこれからの支援について、関心の高さがうかがえるイベントとなりました。なぜ、この書籍を書こうと思ったのか?Upload By 発達ナビニュース本書の企画から編集までを務めた野口晃菜さんはイベント冒頭で、「本を書くのが苦手で、様々な書籍の執筆の依頼を断ってきました(笑)」と、話しました。そんな野口さんが、今回書籍を企画からやろうと踏み切った理由は3つあるとのことでした。1つ目は、「障害のある人のコミュニケーションの困難さはどこにあるのか?」を発信したいこと。本来、コミュニケーションは「双方向のやりとり」であるため、障害のある人のみに原因があるわけではないはず。それを多くの方にこの書籍を通して知っていただきたいということ。2つ目は、野口さん自身が尊敬している支援者と彼らの支援・取り組みについて知ってもらいたいという想いから。本書では、その7人の支援者が、それぞれの専門性からの支援の事例を紹介しています。3つ目は、発達障害の子どもの支援には、非常に多くの専門家・支援者が関わっているが、共通言語がなく、それぞれの専門性が活かしきれていないという課題感から。本書はこのような想いをもとに、高い専門性がありながらも、誰でも読めるようなわかりやすさがあり、コミュニケーション支援における共通言語と共通のポイントをまとめてあります。イベントでは、著者編集者自らが、自らの専門性に基づき、一歩進んだコミュニケーション支援をするための共通のポイントについて語りました。著者らが大切にしているコミュニケーション支援のポイントとは?Upload By 発達ナビニュースパネルディスカッションでは、本書のサブタイトルにもなっている「6つのコミュニケーション支援のポイント」について、4人の登壇者が自身が特に大切だと思っているポイントを選びトークが繰り広げられました。Upload By 発達ナビニュース緒方さんは6つのポイントの一番最初のポイント”「わからないから知りたい」からスタートする”を選択しました。全ての支援のはじまりになるのは、「この子が何をどう感じているのか?」「その子のこともっともっと知りたい」「お子さんや親御さんは何が大変なんだろう?」という想いがやっぱり大事。親御さんやお子さんが歩んできた歴史を理解したうえで、支援をするということを大切にしていきたいと話しました。Upload By 発達ナビニュース野口さんが選択したのは”誰かに原因を求めても解決しない”でした。「人間、うまくいかなかったとき、どうしても誰かのせいにしたくなる」自分自身もうまくいかなかった時に、子どもや関係者のせいにしたことがあるという野口さんですが、誰かのせいにしてもうまくいくわけではなく、自分が変わらなくてはいけないと気付いたとのことです。自分に対しても同じで、ただ自責しても良い支援ができるようになるわけではないとも話しました。そんな時大切にしているのは、その人の中に原因があるのではなくて、その人と、その人を取り巻く環境の相互作用の中に何かのズレが発生しているという考え方だと言います。Upload By 発達ナビニュース陶さんは全てのポイントが大切だと言いつつも、”キラキラポイントに目を向ける”を選択。「困難を切り抜ける時、キラキラしていることで切り抜けてきている」これは、これまでの支援の経験の中で、利用者から教えてもらったとのこと。生きていくとはそういうことだとも言います。子どもだけの力、先生・親御さんだけの力では難しく、みんなでキラキラするポイントを環境調整して引き出すように支援していくことが大切ではないかと話していました。Upload By 発達ナビニュース井上さんは、”チームで支援する”を選択。お子さんが感じていることのサインを、チームで見逃さないこと。そして、お子さんの本当に伝えたいことは何なのかをチームで考えることが大切だと話しました。また、良いチームは?という問いに対し、「フラットに、違いも踏まえて対話し続けられるチーム」という回答もありました。体験していくしかなくて、気付いた人から啓蒙していくことが大事だということです。Upload By 発達ナビニュースこのレポートでは伝えきれないくらい、興味深い話が多くつまったイベントでした。ご関心がある方はぜひ、アーカイブでイベントの様子をチェックしてみてください。アーカイブはこちらからご覧になれます!Upload By 発達ナビニュース■ イベント概要 ■ ■2020年7月4日(土)に「発達障害のある子どもと周囲との関係性を支援する~コミュニケーション支援のための6つのポイントと5つのフォーカス~ 」が出版されました。これを記念した執筆者達によるオンライントークイベントが開催されました。■ 登壇者プロフィール ■ ■<野口晃菜>博士(障害科学)。小学校6年生の時にアメリカへ渡り、障害児教育に関心を持つ。高校卒業時に日本へ帰国、筑波大学にて多様な子どもが共に学ぶインクルーシブ教育について研究。その後小学校講師を経て、現在障害のある方の教育と就労支援に取り組む株式会社LITALICOにてLITALICO研究所所長として、一人ひとりに合わせた支援・教育の実現のための仕組みづくり、自治体との共同研究、少年院との連携などに取り組む。文部科学省「新しい時代の特別支援教育の在り方に関する有識者会議」委員<陶 貴行>株式会社LITALICOLITALICOワークスシニアスーパーバイザー・LITALICO研究所チーフリサーチャー約15年障害のある方の就労支援に携わっている。元、障害者職業カウンセラーで、専門は職業リハビリテーション、応用行動分析、認知行動療法。公認心理師、臨床心理士も取得している。これまで、障害のある方の就労支援における応用行動分析や認知行動療法による介入や就労移行支援事業所スタッフ向けのスタッフトレーニング(応用行動分析のスキル習得)、障害者の職場定着に影響を与える要因を検討するための調査、インターネット認知行動療法の効果検討等の研究を行ってきている。現在は、アクセプタンス&コミットメント・セラピーの就労移行支援事業所における応用や、就労移行支援事業所におけるオープンダイアローグの実践を行い、その効果を検討する研究を行っている。<井上いつか>株式会社LITALICOLITALICOジュニアアドバイザー言語聴覚士医療・福祉機関で勤務後、現在フリーランス。複数の支援機関でお子さんの療育や自立支援、ご家族や指導者のサポートを行っている。<緒方広海>株式会社LITALICOLITALICOジュニアチーフスーパーバイザー公認心理師臨床心理士さいたま市にて専門職(心理)として約15年間従事。こころの健康センター(精神保健福祉センター)、障害者総合支援センター(発達障害者支援センター)、子ども家庭総合センターなどで、乳幼児から成人期までの精神保健福祉、障害福祉の分野で幅広く心理臨床業務に携わる。現職においても支援に関わる指導員への研修やスーパーバイザーの育成の統括を担当している。
2020年08月06日発達障害当事者との対談連載、スタート発達障害を描いたドキュメンタリーCM「見えない障害と生きる。」でプロデューサーを務めた東海テレビの桑山知之が聞き手となり、さまざまな発達障害の当事者と対談する連載がスタート。連載初回は、このCMにも出演したラッパー・GOMESSを取材し、「家族と発達障害」について語ってもらった。10歳の冬、診断は高機能自閉症…あだ名は“障害者”GOMESSが初めてパニックを起こしたのは、地元のバザーに家族で行ったときのことだった。楽しむ母や姉を横目に公園でうたた寝をしていたところ、ふと首に違和感を覚えた。毛虫だった。GOMESSは、毛虫が大の苦手だった。我に返ると、パニックを起こしたGOMESSは母親によって強く抱きしめられていたという。後日、家族に連れられ赴いた精神病院で、高機能自閉症という診断を受けた。その後、症状が悪化するのを見かねた母は、小学5年の春、担任教師に相談した。自閉症とはどういうものか、子どもにも分かるような資料が朝の会で配られた。「それが成功する可能性もあったと思うんですよ。でも僕の場合は違って。陰で言われてたのは、障害者とか、野獣とか、エイリアンとか……。どんどん学校に行きづらくなりました」そこから5年間にわたり不登校、引きこもり生活を送ったGOMESS。今でこそ母の支えや頑張りが痛いほど分かるものの、当時は「お母さんが余計なことをしたから」と責めてしまったと振り返る。しばらくは母もなんとか学校に行かせようとしたが、GOMESSは強く抵抗した。「本当に悪いことなんですけど、すぐに死をほのめかしてたんですよ。『そんなに言うんだったら学校に行くフリして死ぬけどね?』とか。『生まれてこなきゃよかった』とか、お母さんに直接言わなくてよかったようなこともいっぱい言いました」3歳上の姉とは、自身が引きこもる前はケンカもしていたが、やがてほとんど会話もなくなった。避けられていた。「ずっと部屋で暗い顔してる弟は嫌だったんじゃないですかね」。Upload By 桑山 知之担当医「この子にはできないことがある」親が考える“正規ルート”からの脱却静岡県内の精神病院で診断を受けたGOMESS。代表的な楽曲の一つ『人間失格』にも登場する当時の担当医師“カゲヤマ先生”のある言葉で、家族の接し方は変わっていったという。「カゲヤマ先生がいなかったらうちの家庭はダメだったと思います。お母さんたちに『この子にはできないことがあります。それはできるものじゃないです。無理なものは無理。それをきっぱりと親が諦めてください』と言ってくれたんですよ。そこから僕の生活が楽になりましたね。文字が読めないのも、頑張って読めと言われなくなりましたし、ひどい偏食も理解してくれるようになりました。いつかカゲヤマ先生にお礼を言いたいんですよね」言うなれば「お父さんはスポ根の熱血系で、お母さんは知性と優しさ」だという両親。どちらかが叱るときは、もう一方が必ず優しく包み込んでくれた。特に母は、海外の和訳本を取り寄せるほど発達障害に関する本を読み漁るなど、息子について理解を深めようと努力を惜しまなかったという。GOMESSは「親がしてくれたことはすべて自分のことを思っての行動だった」と当時を振り返りながら、「子としてはすごく理想の両親」と誇らしげに語る。「親が予定していた我が子の“正規ルート”みたいなものからの“外れ方”ってすごく大事だと思うんです。一番まずいのは、子どもが何もしなくなること。どんな形であれ、ポジティブな気持ちで何かやろうとしていることがあるんだったら、止めない方がいいと思います。ポジティブな気持ちを何かに向けてることってけっこう奇跡だから、その奇跡的なポジティブは守ってあげてほしい」進学や就職など、親が思い描く「理想」は少なからずある。しかし、それは必ずしも我が子を幸せにするとも限らない。引きこもっている間も呆けるだけでは退屈だったGOMESSは、親に見守られながら、とにかく熱中できるものを追い求め続けたのだった。Upload By 桑山 知之教科書は読めないが、五線譜は読める色んなものに熱中していく中で、「音楽」へと到達するまでにそう時間は掛からなかった。ワールドミュージックを聴けば、ラテンのリズムについて母に力説していた。文字が読めないゆえ、教科書は読めなかったが、五線譜はすぐに読めるようになった。気づけば自ら音楽を作るようになっていた。「(親としては)本当は学校行かないにしても義務教育で習うものくらいは勉強してほしかったんだと思いますけどね。これだけ熱心にやってるんだからいいか、みたいな。僕は“プレイ”よりも“クリエイト”の方が好きだから、毎日毎日色んなことをクリエイションするようになって。その中で音楽が一番ハマりました」ここでもう一つエピソードがある。「音楽に勉強的だった」頃、ゲームにも没頭していた。裕福な家庭ではなかったため、買ってもらえたのは中古で300円ほどのスーパーファミコンのソフト『RPGツクール2』。その名の通り、命令や画像・音楽を組み合わせ、オリジナルのロールプレイングゲームを作るゲームで、GOMESSはPC版も含めこのシリーズをやり込んだ。そこで音楽素材のため、曲を作り始めたのだという。結果、自作のRPGは完成しなかったが、サウンドトラックはできていた。「親がゲームを止めないでくれたんですよね。それは大きかったですね。だからポジティブな気持ちで何かやってるときは、そういう何かが生まれることがある」姉が好きだというモーニング娘。のCDも借りて聴き、衝撃を受けた。「これめっちゃファンクじゃん!すげぇかっこいい!」と、インストゥルメンタル版のテンポを遅めてビートを乗せ、ラップをする。自然とサンプリングもこなれたものになっていた。Upload By 桑山 知之家族が疲弊…ラップが人生を見つめ直すきっかけに献身的に我が子を見守り続けた親だったが、自分を責め、時に精神的に病むこともあったという。「何年も何年も手を尽くしてくれた結果、頑張った末ですね。俺もズカズカとお母さんに言っちゃうから、お母さんは自分を責め続けちゃって。お母さんが僕よりも程度のひどい引きこもりになりました。部屋から出てこないみたいな。台所とかでたまたま会って、目が合うと下向いてすぐに速足で自分の部屋に帰っていって、扉をバンと閉めるみたいな」当時は自分が正気を保つのに精一杯で、家族に支えられていることに気付いていなかった。ラップを通して、いつしか自己を客観的に見られるようになった。「CDデビューをしたり、テレビに出たり、ライブをしたりするようになってから、精神的自立が始まったのかなと思うんですよね。その辺から少しずつ。歳で言えば18・19歳から20・21歳にかけての4年間くらい。僕にとって過去の清算じゃないですけど、こういう恩恵を受けていたんだなとか、一つひとつ噛み砕いていく時間だったなと思います」第2回『高校生RAP選手権』で準優勝を収め、世間からの注目が彼に集まる中で、姉も存在を認めるようになっていた。家でブツブツとラップをしていた引きこもりの弟が、「お姉ちゃんにとっても、ようやく人として接する価値のある人間になれたのかな」と感じた瞬間だった。Upload By 桑山 知之家族を幸せにするために、僕は幸せにならなきゃいけない自身の人生は「みんなのおかげで運良く素敵になった」と語るGOMESS。一方で、母から「私があなたをフツウに産んであげられなかった」と、我が子に対して罪を感じていることを吐露されたこともあった。自分にできることは何か。答えは明確だった。「手間暇かけて全力注いで頑張って育てた息子が人様の役に立つっていうのは、きっとすごくお母さんにとって誇らしいことの一つだと思うから、実際“罪滅ぼし”はできないにしても、何かお母さんのためになると信じてやっているんです」GOMESSは、ラッパーとしての現在の活動について「罪滅ぼしみたいな気持ち」と表現する。「だから、僕は幸せにならなきゃいけないんだなって。僕が幸せになれば、お母さんが感じてきた罪悪感は消えるんじゃないかなと思うんですよね」Upload By 桑山 知之GOMESSがCM「見えない障害と生きる。」で書き下ろした楽曲『COMMON』は、Apple Musicなどで近日配信予定。本連載では、第2回以降も桑山知之が見えない障害のある人を取材し、社会で生きる上でのヒントを探っていく。平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。・2019年 日本民間放送連盟賞 CM部門 最優秀賞・2019 59th ACC TOKYO CREATIVITY AWARDS フィルム部門Aカテゴリー ACCゴールド・第58回JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール 経済産業大臣賞・第57回(2019年度)ギャラクシー賞 CM部門 優秀賞取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海公式サイト
2020年08月03日娘に「生理」がきたら…広汎性発達障害の娘は、小学4年生。初潮を迎える時期が近づいてきました。娘は感覚が過敏な特性があるので、『生理』がきた時、どうなるのか…母親として気になって仕方がありません。Upload By SAKURA定型発達でも、わが子に「生理」について教えるのは難しいものです。それが発達障害がある娘となると、どうなるのか…パニックを起こすのではないか…ナプキンの感覚を嫌がるのではないか…生理について子どもに話すのは、私にとっても初めての経験です。その時うまく教えることができるのか、という不安があります。思い出してみる、自分の時のこと…。そこで、自分の時のことを思い出してみました。あれは小学生低学年のころ…私は初めて、家のトイレでナプキンを見つけました。Upload By SAKURA母に「これなに?」と聞くと、『気にしなくていい』と言われました。その時の私はそれをオムツだと思い、なんとなく「聞いてはいけないことなのかもしれない…」と、それ以上親には聞きませんでした。そして、小学5年生の時…私は初潮を迎えました。下着に突然血がつき、びっくりして、何かの病気かと思い、トイレで悲鳴を上げました。Upload By SAKURAかけつけた母に「あら!おめでとう!」と言われ、その時初めて『生理』を知りました。母からナプキンの使い方を教えてもらいましたが、初めての感覚が気持ち悪く、お腹も痛い…私はその不快感がおさえられずに、母に気持ち悪いと訴え続けました。私があまりにしつこいので、母に「いい加減に慣れなさい!」と怒られてしまいました。その日の夕食後、ケーキが出てきた時、兄が不思議そうに見ていて、すごく恥ずかしかったことを今も覚えています。Upload By SAKURAその後、学校で女子だけ保健室に集められ、「生理」のことを説明されました。5年生で初潮を迎えていた私の場合、学校の説明は、生理になった「後」でした。学校から説明される前に。最近は初潮が早くなっていることもあって、小学4年生ごろには学校から話があるということを聞きました。娘もそろそろ説明を受ける時期です。Upload By SAKURA私はその前に、娘に『生理』という言葉だけでも教えておこうと思いました。娘は一度聞いたことある話の方が集中して聞くことができるので、事前に話しておけば、学校でされる専門的な説明をより理解できると思ったからです。実際に見せてみる。そこで、いつもは娘と別々にお風呂に入るのですが、わざと自分の生理中に娘と一緒にお風呂に入ることにしました。娘が、流れる血に気がついた時、話をすることにしました。Upload By SAKURA私は専門的なことよりも、『生理』の意味と大切さを、娘に理解してほしいと思いました。娘に怖いこと、嫌なことだと思ってほしくなかったのです。「生理があるから、あなたたちに会えた」娘はその言葉を聞き、「へぇ~大事なんだ…」と言いました。専門的なことより、大事なことだということを教える。体の仕組みなどを理解してもらうというよりは、「生理」というものがあるということ、それが大切なものだということだけ教えたかったので、説明はここまでにとどめました。その後も、ちょこちょこ「生理」について話すようにしています。Upload By SAKURA娘にとってあまり重要ではないのか、忘れていることが多く、その度にお風呂で話した説明を繰り返しています。当時の私があれだけ気持ち悪いと感じたのです。きっと感覚過敏な娘にとっては、もっと気持ち悪いと感じるものになるでしょう。その時がきて娘がどう感じるのか、何を嫌がるのかはわかりませんが、今教えられることは教えて、その時は娘に寄り添い、本人が過ごしやすいようにしようと思っています。
2020年07月22日新生児期はたくさん寝てくれる!と思いきや、なかなか寝なかったり、背中スイッチで何度も寝かしつけを失敗したりして、寝不足と情けなさで何度も涙しました。毎回成功!とはいきませんが、うまくいった新生児期の寝かしつけをご紹介します。 歌を歌ってあげる♪息子が新生児のころは、授乳すればぐっすり寝てくれるときもあれば、なかなか寝付かず、ずっと抱っこしていて心が折れそうになることが何度もありました。 今考えると、抱っこしていてあげたらよかったのですが、初めての育児で昼夜関係なく寝不足だった私はなんとか寝てほしいと思っていました。 そんなとき、友だちからすすめてもらったのが、歌を歌ってあげることでした。私は歌が大好きで、大学生時代には音楽サークルに所属していたので、「大好きな歌を歌うことで自分の心も落ち着くし、赤ちゃんにもその気持ちが伝わるんじゃない?」と友だちに言われました。 さっそくいろいろな歌を歌ってあげると、息子は「アナと雪の女王」の歌で泣き止み、そしてよく眠るようになりました。歌うのすらしんどいときはYouTubeで歌を流していました。今でも息子は歌やダンスが大好きです! おしりをトントンせっかく寝てくれても、ベッドに下ろすとすぐ目が覚めてしまう……背中スイッチ。背中スイッチが1番過敏だったのも1番しんどかった新生児期でした。ネットでいろいろ調べて、息子に1番合っていた寝かせ方は、頭から下ろす、というものでした。 本来はおしりから下ろすのが基本のようですが、ちょっと早いかなと思うスピードで、おしりをトントンしながら頭をベッドに下ろします。そして空いている手でおしりをトントンしたまま、片方の手を引き抜きます。目が開いてもおしりを早めのスピードでトントンを続けると、すんなり寝てくれることが多かったです。 まずはママが落ち着いていること早く寝てほしい、寝ないと次の授乳が……などと焦ってしまうこともありましたが、まずはお母さんが落ち着くことで赤ちゃんも安心し、落ち着いて寝てくれることにつながったように思います。 眠ることだけでも大変な新生児期ですが、なるべくゆったりとした気持ちで赤ちゃんとの時間を楽しみながら寝かしつけることが1番大切なのかなと勉強になりました。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師REIKO 著者:田中さき2歳児、0歳児の男の子ママ。自分の時間も欲しいし、しっかり母親業もしたい、欲張りママ。現在育休中。
2020年07月04日わが家の長女は仮死状態で生まれた影響で、発達障害があります。そのため、2歳離れた次女と同じように子育てをしているような状態でした。そんな長女と次女の子育てと、ある日の長女の行動に感動した出来事をお伝えしたいと思います。 長女は次女よりも手がかかる長女は、そしゃく・言語障害などの発達障害があります。そのため、自分でじょうずに食事ができないため、年齢が上がってからも離乳食に近い食事を作り、赤ちゃんのように食べさせてきました。 また、トイレの感覚もわからないようで、何年もトイレトレーニングを続けたりと、赤ちゃんと同じような状態。2歳離れた妹が生まれたのですが、赤ちゃんの次女よりも長女に手がかかる状況で毎日を過ごしていました。 姉妹同じように子育てをしている状態2歳違いの姉妹ですが、同じように子育てをしているような状態の日々。一緒にごはんを食べさせてあげて、一緒におむつを替えて、一緒に寝かしつけて……。 さらに、次女が2歳ごろになると、魔の2歳児が2人いる状態で、かなり大変な毎日になりました。2人とも「自分でやりたい」という意思が強くなり、お互いにライバル心も芽生え、お世話は大変でしたがその分お互いに成長したようにも感じました。 ある出来事に感動して涙…そんなある日、姉妹たちと公園で遊んでいると、男の子が木の棒を振り回しながら次女のほうに近付いてきました。私が次女のほうに向かおうとすると、近くで遊んでいた長女が勢いよく妹のほうまで走っていき、妹をギューっと抱きしめて、男の子に向かって大きい声で叫んで追い返したのです。その姿を見て、「お姉ちゃんとしての自覚があるんだ……」と私は胸が熱くなり、感動して涙が出ました。 今でも、喧嘩をしたり一緒に遊んだりと、お互いに切磋琢磨しながら、姉妹一緒に成長しています。姉が妹を思いやり、妹が姉を思いやる心がどんどん育っています。これからも、そんなわが子たちの成長が楽しみです。 イラスト/sawawa監修/助産師REIKO著者:石原みどり知的障害を持つ子どもと口唇口蓋裂を持つ子どもの母。波乱万丈で大変なこともあるが、子どもたちと幸せいっぱいに生活している。経験を踏まえ、子育てに関する情報を発信中。
2020年07月02日出産後1カ月が経とうとしていますが、初産のため、寝かしつけの方法がまったくわからず毎日手探りの状態です。これは現在私がおこなっている寝かしつけです。 「背中スイッチ」ってこのこと?授乳を終えてから、吐き戻しがないように縦抱きをするように助産師さんに教えてもらったので、抱っこしているとわが子はぐっすり寝てしまいます。少し時間が経ち、布団にうつしても良いかなと思い動かすと、すぐに泣いてしまいます。 これがよく言う“背中に泣くスイッチがある”ということかなと思っていました。なのでわが子が寝たなぁと思ったら腕枕をした状態で一緒に寝るようにすると、すぐに泣いてしまうということはありませんでした。 スクワットしながら抱っこ泣いているときは、座って抱っこしているだけでは泣き止まず寝てくれないわが子。夫が見つけた方法なのですが、立ってスクワットしながら抱っこしているといつのまにか寝ています。振動がおなかの中にいたときと似ているのかなぁと思いつつ、私たちとしてはダイエットにもなると思いながら寝かしつけています。 私を頼ってくれているんだお昼寝の場合ですが、授乳のあとに寝てくれたあと、お布団に寝かせると泣いてしまうときは、そのまま私もソファーで横になり、おなかに乗せて寝かせています。 助産師さんが「今までずっとお母さんと一緒だったのに急に出てきてひとりで寝てなんて無理な話ですよ。お母さんと一緒だと安心して寝られるんです!」と話してくださったことを思い出しました。私を頼ってくれるそんなわが子を近くで見ていると、とても愛おしく、うれしいです。 まだ生後1カ月しか経っていないので、いろいろ試しながら育児をおこなっています。今は里帰りで実家にいますが、これからは自分たちの家に戻って育児と家事を両立しなければいけません。自分ひとりで抱え込まず、先輩ママにアドバイスをもらうなど、周りの人を適度に頼ることも大事なのではないかと思っています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 イラスト:ののぱ監修/助産師REIKO著者:鈴木 かおり初めての出産を経験。育児に奮闘中。
2020年06月28日子どもの気になるしぐさやクセを「チックかな?」と心配されるママやパパのために、今回はチックについてお話しします。 チックとは?自分の意思とは関係なく、突発的に不規則な動きや発声を繰り返してしまうことをチックと言います。チックの症状には、運動チックと音声チックがあります。症状の始まりは2歳ごろ~高校生ごろまでの年齢とされていますが、小学校へ入学する前後が多いようです。2~3カ月で症状が消えるケースや、チックのパターンを変えながら数年続くケースがあります。完全に消えなかったとしても、大人になるとチックで困ることがなくなったり、軽くなったりする人がほとんどです。下記のような動きを繰り返してしまうことを、「運動チック」と言います。運動チックには、1つの動きが起こる「単純運動チック」と体のいろいろな部分が一緒に動く「複雑運動チック」があります。 【単純運動チック】・目をパチパチさせる(まばたき)・口を開けたり曲げたりする(口をゆがめる)・まぶたをギュッと閉じる・鼻をヒクヒクさせる・目を細める・白目をむく・肩をすくめる・顔をしかめる・首を振る 【複雑運動チック】・人や物に触る・においをかぐ・たたく 下記のような声を繰り返してしまうことを、「音声チック」といいます。音声チックにも、「単純音声チック」と「複雑音声チック」があります。 【単純音声チック】・咳や咳払いをする・鼻をクンクン鳴らす・「ア」「ウ」「オ」「ワ」など大きな声を出す・ほえる、うなるなど 【複雑音声チック】・他者の言ったことを繰り返して発声する・人前や公の場で言うことをはばかれるような汚い言葉を言ってしまう・自分の発した音声や単語を繰り返す チックの原因は?チックになるのは、子どものせいでも親のしつけや育て方のせいでもありません。チックになるのは遺伝も1つの要因として挙げられますが、親子で顔や体格が似るのと同じように脳の体質が似るというもので、おおげさにとらえる必要はありません。チックがなぜ起こるのかは、まだ完全にはわかっていませんが、脳のドーパミンという神経伝達物質のアンバランスが関係していると言われています。そのことが土台にあって心の状態によってチック症状が引き出されます。 チックには、起こる前に動いたり声を出したりしないといられないムズムズする感じがあり、チックを起こすことですっきりする、落ち着くという特徴的な流れがあります。大人になっていくと、前頭葉が成長してチックが起こる前のムズムズする感じが起きてもチックを抑えられるようになると考えられています。 チックの診断と治療は?チックは小児科などチックに詳しい医師が症状を観察して診断します。子ども本人がチックに困っている、チックだけでなくこだわりや落ち着きのなさに悩んでいる、子ども本人はチックに困っていなくても親が心配している場合は、受診して相談しましょう。 チックと診断がついた場合の基本的な治療は、本人と親、家族、その他日常的に関わる周囲の大人がチックについて正しい認識を持ち、チックの症状が起きても気にせず自然に消えていくのを待つことです。 チックは時期や日によって異なります。緊張する学校行事やイベントの前や、疲れや睡眠不足によって一時的にチックの出る頻度が増えることもあり、周囲が心配することもあるかもしれませんが、普段どおり自然に見守ってあげましょう。チックが起こったときは指摘したり、注意したりしないようにすることが大切です。 チックが日常生活に支障をきたして困る場合には、チックが落ち着くように作用する薬を使った治療をおこなうこともあります。 チックについて知ることで、子ども本人が自分のせいじゃないと安心でき、薬を飲まなくてもチックが目立たないようにコツをつかむこともあるので、病院では、それぞれの子どもに合わせた治療を子ども本人や親と相談しながら決めていきます。 トゥレット症候群とは?チック症状があり、運動チックと音声チックの両方が1年以上続く場合を「トゥレット症候群」と言います。トゥレットとは、1885年フランスの神経科医ジル・ド・ラ・トゥレットが報告したことに由来しています。 トゥレット症候群によくみられる合併症(併発症)には、注意欠陥・多動性障害(ADHD)や自閉症スペクトラム障害があります。また、こだわりや不安が強くなり日常生活に支障を来たす強迫性障害(OCD)、昼夜の区別に一致した生活リズムがとれない、睡眠障害などがみられます。トゥレット症候群の場合は、合併症に対する治療もおこなうことでチックを抑えられることもありますが、2つ以上の障害があると互いに症状を悪くすることがあります。 チックはチックの種類や経過期間によって分類されますが、原因が完全に解明されていないため、すべての患者さんに有効な治療方法が確立していません。チックはトゥレット症候群のように、発達障害や強迫性障害を合併していることもあるため、親がたくさんの情報を集めることもあると思いますが、病院で受ける治療から遠ざけるような助言や、「完治する」と断言する民間療法には惑わされないように気をつけましょう。 「チックかな?」と心配になったらもし、わが子が「チックかな?」と思ったら、かかりつけの小児科へ受診して相談しましょう。病院に行くほどではないけれど相談したい場合は、居住地の保健所や保健センターの保健師へ相談することや、子ども家庭支援センターや児童館の相談窓口を利用することをおすすめします。 チックに対してあまり良いイメージが持てず、受診することや医師の診断を受けることをためらう保護者もいますが、子ども本人がチックに困っているのであれば、適切な治療を受けることでチックが良くなることもありますので、自分に自信を持てる環境を整えるためにも早めに専門家へ相談することをおすすめします。くれぐれもチックの症状が出たときに注意しないことが大切です。 まとめチックは脳内での神経発達の異常が原因であり、子どものせいでも、親のせいでもありません。ましてや子どもの「悪い性格(クセ)」でもありません。チックかもしれないと思ったら、症状自体にこだわらず、生活に緊張感や不安なことがないかを見てあげてください。それでもチックで悩むことや子ども自身が困っていることがあれば、小児科の医師や居住地の保健師、子ども家庭支援センターや児童館の相談窓口に相談してみましょう。そして、本人と親、家族、その他日常的に関わる周囲の大人がチックについて正しい認識をもち、チックの症状が起きても気にせず自然に消えていくのを待つことが大切です。 【参考】国立成育医療研究センター「乳幼児健康診査身体診察マニュアル」『乳幼児健診マニュアル 第5版』(医学書院)一般社団法人日本小児神経学会HP東大病院こころの発達診療部HPNPO法人日本トゥレット協会HP公益財団法人難病医学研究財団/難病情報センターHPトゥレット症候群心をはぐくむ子育てQ&A全国情緒障害児短期治療施設協議会(P.24チック)『わかって私のハンディキャップ② トゥレット症候群 チックはわざとじゃないんだ』(大月書店) 監修者:医師 神奈川県立こども医療センター総合診療科部長 松井 潔 先生愛媛大学医学部卒業。神奈川県立こども医療センタージュニアレジデント、国立精神・神経センター小児神経科レジデント、神奈川県立こども医療センター周産期医療部・新生児科等を経て現在、同総合診療科部長。小児科専門医、小児神経専門医、新生児専門医。著者:助産師 古谷真紀一般社団法人産前産後ケア推進協会プロジェクトリーダー。大学病院勤務を経て、2015年より現職。妊娠中や産後の女性のココロとカラダの相談、ママパパ&赤ちゃんのちょっと気になるコトに日々応えています。
2020年06月19日自閉症の長男が10歳になった年に、小さな妹が誕生しました。年が近い上の妹と双子のように育ってきた長男にとって、小さな妹は初めて「自分が守ってあげたい」と思う存在でした。今回は、下の子の誕生によって長男に初めての感情が生まれたこと、その感情が大きな成長につながり、兄妹の絆が深まったエピソードを紹介します。 年の近い妹に依存していた自閉症の長男わが家の長男に障害があることを知ったのは、長女が生まれてすぐの2歳のころ。年齢相応のことが難しく、幼いころから兄妹は双子のように育ってきました。しかし、成長とともに長女が長男を追い越すことが増え、気が付けば兄妹の関係はすっかり逆転! 「しっかり者の妹に甘える兄」。それが当たり前になり、ますます自立から遠のいていく長男の将来を親として不安に感じていました。そんななか、わが家に新しい家族が誕生したのです。 「お兄ちゃんが守ってあげるよ」家族全員立ち会いのもと生まれたのは、とても元気な女の子。8歳の長女は、待望の妹だったため大喜びでした。しかし、10歳の長男は、どうしていいのかわからず戸惑っている様子。 うれしいけれどうまく言葉にできない長男に、「あなたの妹よ」と声をかけると、少し考えて生まれたての妹にこう話しかけました。「はじめまして、赤ちゃん。これからお兄ちゃんが守ってあげるよ」。長男が初めて自分から誰かを守りたいと思った瞬間だと感じました。 次女の誕生で深まった兄妹の絆次女が生まれてから、長男は立派なお兄ちゃんになろうと一生懸命でした。そんな兄の姿を見た長女は、自然と長男を兄として頼ることが増えてきたのです。もちろんうまくいかないこともたくさんありましたが、小さな妹にとって、自慢のお兄ちゃんになりたかったのだと思います。「これは俺にまかせて!」。そう言って、何度失敗してもめげずに、2人の妹を引っ張っていこうとする姿を見せてくれるようになりました。 長男の障害のことがあり、長い間、3人目の子ども産む勇気が持てませんでした。しかし、小さな妹の誕生が兄妹みんなにいい変化をもたらしてくれたことで、改めて「勇気を出して産んでよかった!」と思えました。これからも兄妹3人がなかよく育ってくれることを願っています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 イラスト:(c)chicchimama監修/助産師REIKO著者:戸塚麻心発達障害のある長男、長女、年の離れた次女の三児の母。保育園・アパレルなど幅広い業種を経験し、結婚・出産。子育て中に2級FP技能士を取得し、コンサル会社に勤務。現在は不定期でアシスタント業務をしながら記事を執筆中。
2020年06月09日発達障害に関する質問は、私にだけ…『発達障害』のことを知った娘。前回までの話は一応完結しているのですが、今回は番外編です。発達障害について娘が疑問を投げかけてくるのは、私に対してだけでした。Upload By SAKURA私は、一つひとつ丁寧に答えながら、娘が夫には質問しないことが気になっていました。夫はいつも娘に対して真剣に向き合ってくれますし、療育に対して協力的。できればこのことを夫と共有したいと思っていたのですが、娘が夫に対して発達障害の話をすることはなく...気になってはいましたが、理由を娘に聞くことはせず、時間は過ぎていきました。「なんで秘密にしてたの?」初めて娘が、夫に質問。発達障害について話した日から2か月ほど経った日、娘は夫に向かっていきなり…Upload By SAKURA不意打ちの質問に私は、自分が聞かれたわけではないのに動揺しました。その質問は、私には聞かなかった初めてのものでした。しかし夫は全く動揺せず、まるで世間話をするかのように落ち着いて話し始めました。Upload By SAKURA私はこの夫の言葉を聞いて嬉しくなりました。娘に伝えていた内容自体ももちろんですが、特に嬉しかったのは「パパとママは」という言葉でした。夫の説明の中に隠れた、気づかい。少しでもブレない接し方をしたかった私は、これまでも娘とのやり取りを夫に必ず話して情報共有をするようにしていました。Upload By SAKURAそのため、娘からどんな質問をされたか、どんな会話をしたか、夫が把握しているのは当たり前なのですが…私が単独で娘に話をしていたのに、「パパとママは」という言葉を使った夫。Upload By SAKURA「ママが話したことは、パパと同じ考えなんだ」と言われているように感じ、知らないうちに考えや気持ちも共有できていたことがわかりました。「発達障害は治る?」それから、ちょっと考えた娘が今度は…Upload By SAKURA発達障害が治るか…を聞いてきました。私は、またドキッとしました。一般的には、発達障害は"治る"ということはありません。療育を重ね、やり方を変え、できなかったことが前よりスムーズにできるようになる…ということはあります。しかしそれを娘にどう説明すればいい?すると夫は…Upload By SAKURA聞かれていない私はいちいち動揺しましたが、夫は終始落ち着いて、娘にわかりやすいように話していました。夫の言葉と説明は、私の答え合わせ。今回のことで、私はまた一つ、夫の存在のありがたさを感じました。私はいまだ、娘とのやり取りに失敗して揉めたりしますし、『発達障害の自己認識』に関しては、冷静を装っても中身は動揺してばかりです。しかし、こういう場面でも冷静でいてくれる夫。普段娘のことに対応しているのは私ですが、夫はいつも、私が対応していることのまとめ…というか、決めどころ?というのでしょうか。最後びしっと締めてくれます。これがとてもありがたく、また安心します。私と娘のぶつかり合いの時は、多くを語らず、ダメ出しもせず、見守ってくれる夫。その態度も、私は「夫に信頼してもらっている」と感じ、頑張る糧になります。Upload By SAKURAそして肝心なところや、大事な場面では、大切な言葉を娘に伝えてくれる夫。私一人ではなく、常に黒子のように後ろに夫が構えていて、一緒に向き合ってくれていると感じます。娘とたくさん向き合って、たくさん話した私より、たまに出る夫の言葉のほうが娘に届いているように感じます。私はそれを悔しいとは感じず、私が対応してきたことの丸付け?答え合わせをしてもらっているように感じています。夫と娘の会話を聞きながら、あぁ…大丈夫…私間違ってなかった…と確認しています。Upload By SAKURA
2020年05月13日夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ「コウは発達障害かもしれない」と私から聞いた夫が最初に言った言葉は「え?コウはコミュニケーションとれてるでしょ?」でした。『かわいいわが子にまさか障害があるなんて…』というショックからの否定ではなく、本気で『え?問題なく意思の疎通とれてるでしょ?』と思っていたことから出てきた、夫の素直な反応でした。私も3歳児検診で指摘を受けるまで“コウはコミュニケーションがとれている”と思っていたので「分かる分かる…!」と頷きましたが、今後のことを考えれば呑気に共感している場合ではありません。「分かるー!けど困る~!」と頭を抱えながら、夫にどう理解してもらえばよいのかを考えることになりました。意思の疎通はできているのに?Upload By 丸山さとこコウは、コミュニケーションが全くとれていないわけではありませんでした。「はい」と言って渡したいものを差し出すことや、クレーン現象で“相手にやらせたいこと”を伝えたりすることはできますし、「いいよ」と「駄目」も分かります。でも、「お水ちょうだい」と人に要求して水を貰うことと、ウォーターサーバーのボタンを押して水を得ることの違いが、多分当時のコウには分かりませんでした。「イヤ」と言われて拒否されることと、ブザーが鳴って機能を停止することは、どちらも“音がして水を得られなくなった”という出来事ですが、その理由は全然違います。人間との間には、手順の間違いという言葉では単純に片付けられない“コミュニケーション”が存在しているからです。発達障害について少し知識を得た上で改めてコウを観察してみると、彼にとって要求とは“心を介したコミュニケーション”ではなく、ボタンを押すような行為なのだろうということが分かります。ですが、それを夫に伝えるのはかなり難しいのではないかと思いました。夫は多分定型発達者でコミュニケーションは私よりよほど上手に行えますし意図も汲めますが、気持ちを汲むことに関しては理解の解像度が低いところがあります。あれこれ例えを交えながら説明しつつも、「コウのコミュニケーション能力の遅れに対して、理解してもらうのは難しそうだなー!」と感じました。まずは“分かりやすいところ”から知ってもらう!Upload By 丸山さとこそうして頭を悩ませていたとき、ふと「コウの発達の凹んでいる場所が分かりやすい会話を聞いてもらえばよいのでは?」とひらめきました。コウの会話は基本的にエコラリア(オウム返し)によって行われていたので、挨拶などのやりとりが難しく、3歳になってからも「お名前は?」に対して「お名前は?」と返すような状態でした。 練習によって「お名前は?」「何歳?」などの受け答えができるようになりましたが、多分その練習風景は一般的な家庭のコミュニケーションとは異なるものだったと思います。まず、親が自分の肩に触れながら「お名前は?」と聞きます。次に、コウの肩に触れながら「丸山コウです」と“コウが言うべき言葉”を親が代わりに言います。それをリズミカルに繰り返してコウが「丸山コウです」と言うのを待ち、コウの肩に触れているタイミングで言えたら、素早く“コウが好きな刺激”を与えながら褒めて行動を強化します。そんな風にして“知らず知らずに行っていた療育”の結果、コウは一見すると会話ができる子に見えるようになっていたのですが、それは親の側が会話の歩調を子どもに合わせるからだと私は知っていました。Upload By 丸山さとこ後日「今からする会話を聞いていてくれる?」と夫を呼んだ私は、コウとの会話を始めました。「何歳?」「さんさい。」「いくつ?」「さんさい。」と違う聞き方でもスムーズに答えてみせたコウでしたが、「何歳ですか?」と聞いた時に『何を言われているんだろう?』という顔をして固まってしまいました。「何歳?」は教えられていても、「何歳ですか?」は教わっていなかったため、答えられなかったのです。夫はここにきてついに、「あー…これは確かに何かあるって感じがするな…。」と言い、“発達障害の可能性”に対して納得しました。夫は息子の発達障害をどのように受け容れたのかUpload By 丸山さとこ“息子は発達障害の可能性が高いらしい”と知った後も、夫は発達障害についての知識を積極的に得ようとすることはありませんでした。それはASDとADHDの診断を受けた今も変わることはありません。本やウェブサイトを少し紹介したことはありましたが、いつもパラパラッと見ては興味がわかずに終わるようなので、「無理強いすることもないか」と思い近頃はこちらから特に何かを勧めることはしていません。改めて考えてみれば、診断を受ける前から育児書などを読む人ではなかったのだから、診断を受けたからといって急に「本などを読んで勉強しよう!」とはならないのも当たり前のことなのかもしれません。そんな夫ですが、息子に全く関心や関わりがないかといえばそんなことはありません。公園やプールに連れて行ったりと一緒にお出かけもしますし、将棋を指したりして遊ぶこともあります。それだけでなく、前述のような“療育的な関わり”で挨拶を教えてくれたのも他ならぬ夫でした。痛いところを押さえて「痛い」と言うことも夫が教えてくれたおかげで、私はとても助かりました。そんな夫とコウの関わりを見ていると、「本やウェブサイトを読まなくても、夫はコウそのものから知識を得ているのだな」と感じます。それが夫にとって丁度良い、「発達障害のある息子」との関わり方なのかもしれません。Upload By 丸山さとこ
2020年04月30日発達障害のことを話してから1週間...何度も聞かれる同じ質問。娘に発達障害のことを話してから、1週間。それまで娘から『発達障害』について聞かれることは、全くなかったのですが…1週間を過ぎたころから、娘は3日に1回ぐらいのペースで私に「発達障害って…この家で私だけ?」と聞くようになりました。その度に私は同じ説明をしました。Upload By SAKURA娘は毎回、私の話を聞いたあとはそのまま去って行きます。私は、その表情から娘の気持ちを読み取ってあげることができず、ただ聞いているだけなのか、それとも何か不安を抱えているのかわかりませんでした。娘は『発達障害』をどう思った?このやり取りが何度か続いたため、私は娘が何を思って聞いているのか知りたいと思いました。そこで娘に聞いてみることにしました。Upload By SAKURA娘は、『発達障害』があることが「心配」と感じていました。私が思った以上に、娘は表面上だけではなく、深いところまで考え始めていました。困ったのは『障害』という言葉。今回、娘に説明をしていて私が一番困ったのは…Upload By SAKURAなぜこれが『障害』という言葉なのか、ということ。『障害』という言葉は、子どもにはとても説明しにくいのです。「発達障害」ではない別の言葉ならよかったと、この時ほど感じたことはありませんでした。(発達障害ではなく、個性強め型とか、〇〇タイプとか、「障害」がつかない呼び名にしてほしいと思いました。)恥じるべきことではないのに、人に使ってはいけないという矛盾を上手く説明できない葛藤もありました。Upload By SAKURA最初の説明は、きっとその後の価値観の土台になっていく…。自分の言葉一つひとつの重みを認識するたび、その大きな責任感に身が引き締まる思いでした。受け入れるまで、寄り添う。その後も間隔は少しずつ開いてきていますが、娘は定期的に「発達障害って…この家で私だけ?」という質問をします。Upload By SAKURAその度に、こんな会話をします。ただ、心配なことばかりではなく…Upload By SAKURAこんな前向きな会話も、たくさんあります。娘は、『発達障害』を知ったばかり。何度も質問するのは、まだ受け入れることができていないということなのでしょう。私だって何年もかかったのです。娘もゆっくり受け入れてくれればいいと思って、聞かれる度に何度も答えています。
2020年04月22日“子どもの発達障害”にサッパリ気付かなかった私Upload By 丸山さとこここ数年、テレビや書籍などで“子どもの発達障害”に関する情報を目にする機会も多くなりました。「もしかして発達障害なのでは...?」と薄々不安を感じながら乳幼児健診を受けられる保護者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。息子のコウが乳幼児だった10年前を振り返ってみると、今に比べ積極的に情報を得ようとしなければ詳しく知る機会は少なかったかな?と思います。私はコウの発達に凸凹があることは何となく気付いていましたが、得意・不得意の範囲だと認識していました。1歳半検診で「人間への興味関心が薄い」と指摘され、追加で行われた2歳検診では明確に「コミュニケーションに不安がある」と告げられていたコウでしたが、そこでは“発達障害”という言葉を聞くことはありませんでした。確定診断が難しい年齢であることから、いたずらに親を不安にしないよう気を使われていたのかもしれません。「発達障害の可能性が高いです」とキッパリ言われた3歳児検診Upload By 丸山さとこ3歳の検診では、ハッキリと「発達障害の可能性が高い」と告げられ、心理士さんによる知能検査を受けることと、療育園への入所を勧められました。療育園について教えてもらった私は「コウのためになるのなら是非通いたい!」と思いましたが、コウの保育園入所がようやく決まったところだったので、週5日の療育園通いは私にとってかなり決心が要る選択でした。『仕事はどうしよう……でも療育が必要なのであれば、受けさせないわけにもいかないし……』と迷う私に、相談員の方は「週に1日のコースもあります。そちらには参加できそうですか?」と提案してくれました。仕事の方も、週1日なら何とか都合が付きそう!ということで、療育園に申し込みました。流れで何となく受け入れることになった“息子の発達障害”Upload By 丸山さとこ当時、私はコウに発達障害の可能性があるということで不安や抵抗を感じることはありませんでした。“ありのままの我が子を受け入れる愛情深い母親”だからではありません。状況に対応するだけで一杯一杯だったからです。療育園も週1で通うことにはしたものの、「通っていく中で『やっぱり週5にした方が良さそうだな』と思うことがあれば、仕事を辞めることになるかもしれないな」と考えていました。「何だか急に色々と状況が変わっていくな...。」と思ったことを覚えています。Upload By 丸山さとこ知識があれば、もっと違和感を感じとることができていたら、もう少し療育を意識した関わりができていたのかな?と思ったことはあります。ですが、心配性な私のことなので、躍起になって療育をしようとし過ぎていたかもしれません。全部、今だから言えることなのだろうなと思います。今、息子の発達障害のことをどう思っているのか「発達障害の可能性が高いです」と言われた3歳児検診の頃から早7年、コウは10歳になりました。現在ではASD・ADHDの診断を受け、ストラテラを服用しています。今、彼の発達障害について私がどう思っているかと言えば、そのことを知る前の頃のように「こういう子なんだな」と思っている感じです。気付いていないだけで、心の底では戸惑いや拒絶、迷いなどの、“受け入れたくない気持ち”があるかもしれませんが、意識の上では「それがコウなんだな」という感覚でいる現在の私です。違いがあるとすれば、「彼の中にあるいくつかの要素に名前がついた」というところでしょうか。髪が短い状態に“ショートヘア”という名前があるように“発達障害”という名前があって、“得意なヘアアレンジ・難しいヘアアレンジ”があるように“できること・難しいこと”があって、“おすすめのケア方法”があるように“おすすめの関わり方”があるのではないかな?と、コウの発達障害を認識しています。「発達障害」の言葉で表される特性にも一人ひとり個性はあるけれど、「上手くいかない時に参考になる情報」があるのは凄くありがたいです。発達障害の診断を受けて、得られる情報が増えてよかったなと思います。感性が独特でコミュニケーションの癖が強く、忘れ物がしょっちゅうで、ユニークで、「お母さんの好きなもの折ってあげたい」と言いながら私の部屋を折り紙博物館のようにしていくコウ。彼の中にあるいくつかの要素に強く影響している“発達障害”というものを、7年前より“身近で当たり前なもの”に感じているということが、以前の私と今の私の大きな違いかもしれません。そんな風にしてコウが発達障害であることを知り、受け入れた私ですが、夫はどうだったかと言うと...。Upload By 丸山さとこ『かわいいわが子にまさか障害があるなんて...』というショックからの否定ではなく、本気で『え?問題なく意思の疎通とれてるでしょ?』と思っていたことから出てきた夫の素直な反応に、「分かる分かる...!」と思いながらも頭を抱えるしかない私でした。ということで、次回はそんな夫がどのように息子の発達障害を認め、受け入れるに至ったかを書いていきたいと思います。
2020年04月20日育児につまずき、思い詰めて心療内科を受診した私。そこで医師から投げかけられた言葉は「発達障害の疑いがある」という、私にとって意外な言葉でした。そこで心理テストを受け、結果を受け止めた今の自分の心境をお伝えします。 ほかのママとどこかで比べてしまう現在、私は3歳と0歳の姉妹を育てている2児の母親ですが、上の子も下の子も出産後から両親や親戚などに頼らず、ほぼワンオペで育児をおこなっていました。孤独に育児をしていたこともあってか、ほかのママ友たちと自分を比べると「どうも私は子どもに対する愛情に欠けているのではないか」と思ってしまう自分がいることに気付いたのです。たとえば、子どもとどうやって遊べばよいか本気でよくわからなかったし、一生懸命に育児本を読んでそのようにおこなっても、いまいち乗り気になれない自分がいたりしました。特に下の子を出産したあとの数カ月の間は、上の子に対して感情的に怒鳴るなどひどい扱いをしていたことも事実です。そんなできごとから「私はもしかして産後うつなのでは?」と思い悩み、また慢性的な睡眠障害もあって、思い切って心療内科を受診したのです。 思い切って心療内科を受診心療内科を受診したのは下の子が生後半年を過ぎたころでした。医師からの診断は「適応障害と産後うつ」そして「発達障害の疑いがある」という、私にとっては衝撃的な話でした。恥ずかしながら発達障害というワードだけは聞いたことがありましたが、詳しくは知りませんでした。早速家に帰って発達障害について調べてみたり、セルフチェックテストなどをおこなったりしました。たしかに今までの人生を振り返ってみて対人関係においてのつまずきや、職場でのトラブルなどはあったのも事実だし、いわゆるADDやADHDの方の症状である「忘れっぽさ」や「衝動性の強さ」「こだわりの強さ」はあったように感じました。 愛着障害と診断を受けて後日、2日ほどに渡って精密な発達障害の心理テストを受けたのですが、結果は「発達障害の所見はなし」でした。しかし、私が過去に実親から暴力などの虐待を受けたことがあるということから、「愛着障害の可能性がある」と医師から聞かされました。愛着障害とは、乳幼児期において暴力やネグレクトなどで傷を負い、適切な愛情を持って育てられなかった子どもが、社会人になったときに対人関係や仕事、そして育児などに支障が出る障害のことだそうです。医師からその診断を受けたときは、正直言って「やっぱりな」と思う自分がいました。 まさか自分が発達障害の疑いを持たれるとは思いもよらず、心理テストの結果が出るまではモヤモヤでいっぱいでしたが、発達障害やそのほかの精神疾患などについての勉強にもなりました。客観的に自分が親にされてきたことは虐待だったのだと受け止め、過去の自分と向き合うことで本当の私になれる気がします。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 著者:仲本まゆこ自身の体験をもとに、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2020年04月19日何の心配もなく、すくすく育った長男。気軽に受けた2歳児健診で、言葉の遅れを指摘されました。一歩を踏み出し、発達の専門医の診察を受けて、前向きに考えられるようになった私の体験談を紹介します。 とても育てやすい、ママ思いのいい子初めての妊娠で育児の右も左もわからず、大きな不安を抱えたまま長男との生活が始まりました。ところが、そんな頼りないママを思ってか、長男は何の問題もなく育ちました。 毎月の身体測定でも、成長曲線のド真ん中を走り続け、発育もまったく問題なし! 離乳食にもすぐに慣れ、よく食べてくれました。1歳児健診では、「順調です!」と先生のお墨付きをもらい、母子健康手帳にも「何も悩みはありません」と、自信を持って書いたことを覚えています。 かかりつけの小児科で2歳児健診を受けて…2歳を目前にして、かかりつけの小児科へ任意の2歳児健診を受けに行ったときのことです。これまで通り「順調です!」で、すぐに終わるものと思っていました。少し長い健診ののち、先生から「目は合うし、こちらが言うことはわかっているようだけど、もし2歳半になっても二語文が出なかったら、一度専門のところで診てもらいましょうね」と言われたのです。 言葉は交わさなくても、長男とのコミュニケーションはできていたので、先生からの言葉にとても驚かされました。 焦らず、温かく見守ること確かに同じ月齢の子どもに比べ、長男は言葉が出ていませんでした。2歳半になっても二語文がほとんど出なかったため、子どもの発達の専門機関である療育センターを受診しました。発達のテストの結果、発達障害とまではいかないグレーゾーンの診断。 もうすぐ3歳になる長男は、その後も定期的に専門医のサポートを受けながら、マイペースに成長中です。最初は心配しましたが、専門医からアドバイスをもらい、安心して育児に向き合えています。 周りの子どもと比べたわけではありませんが、長男の発達状況を素直に受け止め、プロに相談したことはよい判断だったと思います。長男の特性をより理解できたことで、以前より楽しく育児ができるようになりました。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 先輩ママの体験談、いかがでしたか?「共感した」「私の場合はこうだった」など、ぜひベビーカレンダーサイトのコメント欄にご感想をお寄せください。また、ベビーカレンダーでは皆さんから募集した体験談を記事でご紹介させていただくことも。ベビーカレンダーに会員登録すると届くメルマガから、皆さんのオリジナル体験談をご応募ください。 イラスト:(c)chicchimama著者:鍜治すみの生後6カ月と2歳、2男の母。長男妊娠時の切迫早産により、9年続けた製薬会社のMR職を退職。前職では主に産婦人科領域製剤を担当。培った知識をフルに活かし執筆活動や育児に奮闘中。
2020年04月14日長男は4歳のときに、子ども発達支援センターで発達検査を受けました。担当の先生からは発達障害のグレーゾーンと言われ、長男への接し方や特性の話を聞きました。乳児期のころから長男のことを育てにくいと感じていたのですが、当時はなぜ育てにくいと感じてしまうのかわかりませんでした。今回は長男が発達障害であるという結果を聞いたときの私の心境をお話ししたいと思います。 子育てがつらいと感じていた日々長男は生後3カ月ころから寝付きが悪く、夜泣きもひどく、育児用ミルクは一切飲まず母乳のみでした。実家は遠く、夫は非協力的で、金銭的な余裕もなかったので、私ひとりで長男の子育てや家事を頑張るしかありません。さらに長男が1歳、2歳と成長してくると、偏食・言葉の遅れ・こだわりが目立ち始めました。 健診では問題ないと言われていましたが、長男の様子に違和感を持ち始めていた夫や義父から、私のしつけが悪いと言われるようになり、私は長男の子育てをつらいと感じるようになってしまいました。 発達検査を受けた結果長男が4歳になる1カ月前、長男の子育てと成長について子育て支援センターに相談に行ったところ、すぐに子ども発達支援センターを紹介され、長男が4歳3カ月のときに発達検査を受けました。 担当の先生からは検査の結果、「発達障害のグレーゾーン」と言われ、知能的に高い部分と社会性の低い部分で2年半の差があるということでした。発達に凸凹があるために、長男には理解できることとできないことの差がありますが、それは性格や環境のせいで「お母さんのせいではないですよ」と言われたのです。 ショックよりホッとした気持ち夫や義父に長男へのしつけが悪いと言われていた私は、「お母さんのせいではない」と言われたとき、体の力が抜けたと同時にホッとしました。 また長男には発達障害という脳機能の問題があると聞き、妙に納得した感覚がありました。脳機能で何かうまくいかないことがあり、感覚などの過敏があるのだとすると、育てにくいと感じていた長男の偏食やこだわりなどをすんなりと理解することができたのです。そして発達障害だと言われても、不思議とショックはありませんでした。むしろ、発達障害のことを、長男のことを、しっかりと理解したいと思いました。 発達検査の結果が出たあとも、夫や義父は長男の発達障害をなかなか受け入れてくれず、私のしつけが悪いと言っていましたが、私は気にしませんでした。発達検査の結果を聞いた日を境に、長男の子育ては「育てにくい」から「理解したい」という方向へ変わっていきました。私のせいじゃなかった、そう思った瞬間のホッとしたときの気持ちは、うまく言葉では表せませんが一生忘れることはないと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 先輩ママの体験談、いかがでしたか?「共感した」「私の場合はこうだった」など、ぜひベビーカレンダーサイトのコメント欄にご感想をお寄せください。また、ベビーカレンダーでは皆さんから募集した体験談を記事でご紹介させていただくことも。ベビーカレンダーに会員登録すると届くメルマガから、皆さんのオリジナル体験談をご応募ください。 監修/助産師REIKO著者:川本 千華発達障害の長男、兄が大好きな次男を育てる2児の母。元ピアノ講師。自身の経験を活かし音楽・発達障害に関するライターとして活動中。
2020年04月11日子どもをうまく愛せない……。そう深く思い悩み、心療内科を受診した私の行き着いた先は「愛着障害の疑いがある」という診断でした。なぜ愛着障害になったのか? それは私自身の生い立ちにありました。 なぜ無性にイライラするの?私は現在2児の母親ですが、上の子どもを出産したときは実家との折り合いが悪く、里帰り出産をしませんでした。したがって、退院してからは自分ひとりで子育てをしなければならず、毎日とても必死だったのを覚えています。そんなストレスフルな環境で、上の子どもが1歳半くらいのときから、子どもに対して無性に腹立たしくなってしまうことがありました。子どもは特にかんしゃくがひどいとか、何か成長に関して大きく気になることがあるといった問題もありません。冷静に考えてみれば、ごく一般的な子どもが、ごくごく普通にママに愛情を求めて泣いたり、自己主張したりしているだけなのに、それだけでもイライラしてしまう自分がいたのも事実です。 2人目もワンオペ。そして精神の限界へ本格的に上の子に対して嫌気がさしてきたのは、下の子を出産したときでした。このときも里帰りはせず、退院直後から3歳になった上の子と新生児をワンオペで見る毎日。もう私の精神も限界に達していたのでしょう。思わず感情的に怒鳴り散らしたり、またある日は突然涙が止まらなくなったり。そんな状態が下の子を出産して半年。私の情緒は落ち着くばかりか、ますます不安定になっていき、ついに意を決して心療内科を受診することに。結果は「適応障害」と「産後うつ」。おまけに「発達障害の疑いがある」とも言われ、後日心理テストを受けることになったのです。 発達障害を調べるテストを受けた私発達障害などを詳しく調べる検査は2日かかりました。1日目は臨床心理士さんとの面談があり、具体的にどのような家庭で生まれ育ったか、また学業成績など客観的な私の過去のデータについて話したのです。2日目はIQテストや、日常生活においてどれほど困難さを感じるかの自己記入式テストをしました。2日合わせて3~4時間ほど費やして、精密に検査をしていただきましたが、結果は「発達障害はない」との所見でした。しかし、私の症状や実親からの虐待などの出来事から「愛着障害である可能性がある」と聞かされたのです。 検査を通してわかったこと「愛着障害」とは、乳幼児期において暴力やネグレクトなど適切な愛情を持って育てられなかった子どもが、社会人になったときに対人関係や仕事、そして育児などに支障が出る障害のことだそうです。愛着障害と聞かされたときは「やっぱりな」と腑に落ちる私がいました。しかし、この検査を通して愛着障害と判明したことで、今までの生きづらさの理由がわかり、それを私の子どもたちに味合わせたくないと強く感じたのです。 イライラの理由が明確にわかったことで、これからは自分のつらかった過去とも向き合いながらも、子どもたちを育てていこうと心に決めることができたので、私は検査を受けてよかったと感じています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 先輩ママの体験談、いかがでしたか?「共感した」「私の場合はこうだった」など、ぜひベビーカレンダーサイトのコメント欄にご感想をお寄せください。また、ベビーカレンダーでは皆さんから募集した体験談を記事でご紹介させていただくことも。ベビーカレンダーに会員登録すると届くメルマガから、皆さんのオリジナル体験談をご応募ください。 イラスト/マメ美監修/助産師REIKO著者:仲本まゆこ自身の体験をもとに、妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆している。
2020年03月30日順調に活躍していたイヤーマフ。聴覚過敏で体調不良を起こしていた娘。試しに使ってみたイヤーマフは、大活躍してくれました。嫌な音を遮断できるということですっかり気に入り、常に持ち歩いて、放課後等デイサービスで集中したいときや学校で一人になりたいとき、家で読書をするときなどに愛用していました。Upload By SAKURAイヤーマフがきっかけで目に留まった言葉。そんなある日、放課後等デイサービスお迎え時…Upload By SAKURA私はドキッとしました。すると、娘は続けて…Upload By SAKURA「自分が発達障害か」を聞いてきました。今まで私は、娘に『発達障害』という言葉を使って娘の特性について話したことはありませんでした。娘の特性について話した経緯。言語訓練に通う理由を聞かれたので…Upload By SAKURA簡単に理由を話しました。娘は「言葉が苦手」というのを、マイナスには捉えなかったようで、気がつけば周りの人に対しても「私はね、言葉が苦手なんだよ」と自ら説明するようになっていました。2年生から特別支援学級に在籍になった娘は、慣れるために1年生の後半から特別支援学級の教室に行くことになりました。そのときに、『特別支援学級に行く理由』を説明しました。Upload By SAKURAその後、2年生から本格的に特別支援学級在籍になったときに、もう一段階詳しい話をしました。Upload By SAKURA娘は気にするどころか、長い時間特別支援学級にいられることを喜んでいました。「障害」という言葉を耳にすることが多くなってきて…それから時間は経ち…2〜3年生になると「障害」という言葉を授業やテレビで聞くことが増え、障害のある人が世の中にいるということを知るようになりました。Upload By SAKURAこのときから私は「いつか娘に『発達障害』について話す日がくる…」と考えていました。どんな状況で聞かれるのか…どんな風に答えようか…想像し、ずっと頭の中でシミュレーションし続けていました。そして、聞かれたときのために決めていたことがありました。そのときのため、決めていた3つのこと。『発達障害』のことを話す最良のタイミングは、聞かれたとき。あまりに幼いときは話す必要はないと思いますが、娘はもう小学生。専門的な話はしなくても、そういう特性について、言葉を選べば説明していいと考えていました。Upload By SAKURA真剣な顔や暗い表情で話してしまうと、これは悪い話だと思われてしまいます。話すときは、普段の会話のときと同じトーンで、なるべく表情は変えない!少しでも誤解を与えたくないと思いました。Upload By SAKURA『発達障害』に対して、「これ以上聞かないで」という対応は絶対したくないと思っていました。聞きたければいくらでも話す、聞いてはダメなことではないと娘に態度で示そうと思いました。Upload By SAKURA何度もシミュレーションして、これは絶対に守ろうと決めていたことでした。シミュレーションは完璧だったはずだけど…しかし、そのときは思った以上に突然やってきました。まさか、イヤーマフから繋がるとは…!イヤーマフを購入したときは、そんなこと想像もできませんでした。Upload By SAKURAあんなにシミュレーションし続けていたのに…いざ聞かれると私の心臓はドキドキ音を立て、動揺が一瞬で全身に広がりました。しかし、動揺してはいけない!返事に間を空けたら、娘に変に思われる!と決めていたことを思い出し、自分に気合いを入れ、ついに娘に話すことにしました。続く…。
2020年03月25日聴覚過敏で、苦しんでいた娘だったが…広汎性発達障害の娘(小学3年生)には、聴覚過敏という特性があります。弟が産まれたばかりのころは、その泣き声を嫌がり、苦しむ姿が見られました。赤ちゃんを大人しくさせることは難しく、私は頭を抱え、苦しむ娘と泣きわめく息子の間でオロオロしていました。Upload By SAKURAしかし娘も段々と弟の泣き声に慣れていき、自分で止めようがない不快な音が聞こえたときにどうすればいいかを繰り返し伝えていったことで、音で苦しむことはほとんどなくなりました。外食時に起きた、原因不明の体調不良。娘が小学3年生になったある日、家族で外食した私たち。食事をしていると、娘の顔色がよくないことに気がつきました。Upload By SAKURAすぐに娘を車へ連れていき、料理を頼んでしまっていたため、夫と娘の付き添いを交代で行いつつ食事を済ませました。車にしばらくいると娘は「気分、良くなった!」とケロッとしていました。後から娘に聞いても…Upload By SAKURA結局原因はわからず、そのままになりました。それからしばらく経ち、また外食したときに「気分が悪い」と言い出した娘。Upload By SAKURAこのときも同じように、しばらくしたらケロッとしていました。帰宅後、この謎の症状の原因を、夫と推理しましたが…Upload By SAKURA娘に聞いてはみたものの…またしても「わからない」の一言。どこか悪いんじゃないかと心配になりましたが、具合が悪くなるのはこのときだけで他のときは元気いっぱいなのです。授業参観で気がついた、体調不良の共通点。娘のこの謎の体調不良が気になりつつ過ごしていたとき、小学校の授業参観がありました。この日私は、特別支援学級の授業を観に行きました。授業参観には他の学年の子も何人かいて、娘が先生と授業を進める中、両サイドで大きな声を出したりしていました。Upload By SAKURAその瞬間、授業参観の光景と外食のことがぱっと繋がりました。もしかして、娘は音がうるさくて気分が悪くなったのかもしれない!そのとき、思い出したあのコラム。学校から帰宅後、すぐに娘に確認すると…Upload By SAKURAやっとわかった原因!そのとき…発達ナビで読んだ、ひらたともみさんのコラムを思い出しました。聴覚過敏で頭痛を訴えていたイロハちゃん。娘も同じではないのだろうか!?私はすぐに動きました。Upload By SAKURA病院にかかったわけではないので、本当に聴覚過敏が原因か、イヤーマフで本当に解消するのか、確信はありませんでしたが、そうかも!と思ったらじっとしてはいられず、試してみたかったのです。届くまでの間に、特別支援学級と放課後等デイサービスに使用許可をもらいました。購入した後の使用許可…って順番めちゃくちゃかもしれませんが、それほど待てなかったのです(笑)イヤーマフの説明書を作成!そして落ち着いた娘。そしてついに届いたイヤーマフ。Upload By SAKURA私は特別支援学級の先生と話して、他の子どもたちが不思議に思わないように、ひらたともみさんがコラムで紹介していたようなイヤーマフの説明書を作ることにしました。説明書には「イヤーマフとはなにか」「娘がなぜこれが必要か」そして「大事なものであること」を書きました。Upload By SAKURAそして、通常学級の教室と職員室に貼らせてもらいました。初日だけいろいろ聞かれたそうですが、説明書のおかげか、その後は娘がイヤーマフを着用してもからかわれたりすることはなかったそうです。Upload By SAKURA周りの声が聞こえないおかげか、特別支援学級の先生は「あーさんの集中力が上がった」と言っていました。イヤーマフは毎日ランドセルに入れて持ち帰り、放課後等デイサービスや自宅でも使用しています。自宅で宿題をする様子を見ても、周りの音が入ってこないので解くスピードが上がったように感じました。娘にとって安心感につながった。外でも使えることを想定していたのですが、イヤーマフを使い始めてから、外食時に周りが騒がしくても体調不良を訴えることはなくなりました。Upload By SAKURA娘にとっては音が不快だということを、私たちが認めて声掛けができるようになったからかもしれません。そして、聴覚過敏自体がそれほど強いものではなかったのかもしれませんが、イヤーマフは娘にとって「いざというときは、音を遮断できる」という安心感にも繋がったようでした。イヤーマフを使いこなす娘を見てほっとした私たちでしたが、このイヤーマフがのちにあーさんにとって…私たちにとって…大きな岐路に立たされるきっかけになるのでした。続く…
2020年03月11日「自分が障害者だって、自分で明かしてはいけないの⁉」――息子の不服げな表情を見て改めて考えた、「障害」という言葉のイメージについて小学4年生の息子が、ある日「腑に落ちぬ」と言わんばかりの表情で帰宅した。彼はADHD(注意欠如多動性障害)傾向もあるASD(自閉症スペクトラム障害)当事者。約1年半の不登校生活を経て復学、最近また休みがちではあるものの、通常学級に籍を置きながら特別支援学級を利用しており、次年度からは特別支援学級への転籍が決まっている。発達障害は「見えない障害」とも言われており、息子や私も、ぱっと見では障害を抱えているとは分かりにくいだろう。そんな息子が4年生になってから、特別支援学級を利用し始めた――通常学級のクラスメイトたちからしたら、不思議だったに違いない。なぜなのかと彼らから理由を聞かれた息子は、「発達障害があって、感覚過敏などがあるから」というようなことを伝えたのだという。すると、「障害者とか、そういうことを言ってはいけないんだよ!」とたしなめられたのだそうだ。息子にしてみれば「質問に対して誠実に答えただけで、なぜ叱られるのだ」という気持ちになるのは当然だ。「誰かの秘密を勝手にしゃべったわけでもないのに…」などと、ブツブツひとりごちていた。「障害って、悪いことだとか隠すべきこと、みたいなイメージがあるからなあ」隠さざるを得ない事情や場面があることを重々知りつつ、私は息子へと言葉を投げかけた。「本当はそんなことないんだけどね」すぐにそう付け加えて。前回も書いたように、「障害」とは「人と社会の間に生じたずれ」だと思っているし、近年はそうした考え方も広がりつつあるが、まだまだ障害という言葉に対するイメージはよろしくない。「障碍」や「障がい」の表記や別の呼称を使おうと行政などが推し進めたところで、本質的なところは何も変わっていないというのが当事者としての印象であるし、「障害」という言葉、あるいは診断名が、揶揄の言葉として使われているのが現実だ。(今ふと思ったのだが、件のクラスメイトたちは「障害などの言葉で人を罵るのはいけないことである」というご指導を、親御さんから受けたのかもしれない。それが頭の中で「障害と言ってはいけない」へと変化した可能性がある)私は学童期にてんかんを発症しているため、「障害者」というラベルを手にしてからの生活はそこそこに長い。本当は良くないのだが、自分が受ける差別にはある程度慣れっこで、障害名で揶揄されたところで「はいはいそうですよ」と聞き流すことができる。最近は「障害という言葉や診断名が揶揄に使われ続けたら、誤ったイメージは広がる一方だな」と考え、冗談さながらの軽口であっても、「その言葉を聞き流すことを、私はやめることにした」とお伝えしているのだが、とにかく、傷つくことはほとんどない。しかし、自分ではない相手にそうした言葉が向けられているのを見聞きすると、なぜだか落ち着いてはいられない。ADHD性による衝動を用いて発言なさった方のもとに駆けつけ、直後にASD性を発動、「発達障害という概念やアスペルガーとも呼ばれている自閉症スペクトラム障害についての簡単な説明と、“頭が悪い”ということについてのあなたの定義を伺ったのち、障害と頭の良し悪しは必ずしも関係しないこと、そして“真に頭の悪い人など存在しないのでは”と私が思うその理由を説明させていただけないだろうか」などと申し上げたい気持ちになるが、そんなことをすれば本末転倒、障害のイメージ悪化に拍車をかけてしまうこと請け合いだ。そのうえ私は気が弱い。そんな大それた行動を起こせるわけがない。歯がゆさを抑えられないまま、「どうしたもんかね……」とうなだれるぐらいしかできないのである。支援に必要な情報である障害を容易に明かせない現状について、「障害」というラベルを長年持ち続けている私が思うこと前項に書いたように、私にとっての障害名は、自分について説明を要する際に使うラベルやカードのひとつであるという認識だ。「努力や我慢では克服できないレベルの苦手がある、ただし、こうした方法なら可能だ」と説明するためのものであり、もちろん診断名を出さない方が話が早そうなときはそうするが、障害を明かすことに抵抗はない。そして私は、「我々はどうやら発達障害というものの当事者であるらしい」と息子には早いうちに告げており、息子も息子で「なるほど。早めに分かっていれば、有事の折に対応もしやすかろう」とばかりにあっさり受け入れていた。「ゲームは夢中になり過ぎて時間を忘れがちだから、アラームをセットしよう」と自ら対策を講じたり、「自分は感情をその場で認識できないことがあるが、あとから友達に気持ちを伝えるにはどうしたらいいのだろう?」と私に聞くなどはするが、普段は自分が発達障害の当事者であることを、さして意識していないように見える。それは私も同様で、こうしたコラムを書くときや、発達障害についての情報に触れるときなどは発達障害当事者であることを意識するが、平時は「自分の一要素」に過ぎず、見えてはいるが注視はしない。しかし、ネットなどでは「子どもへの障害告知は慎重に。本人のアイデンティティーを揺るがしかねないデリケートな問題です」「障害という単語にショックを受けてしまうケースも考えられます」などと書かれており、私はのけぞった。「本人のアイデンティティーを揺るがしかねないデリケートな」障害告知を、「晩ごはんはカレーだよ」ぐらいの軽いノリで済ませてしまったからだ(もちろん、どのような行動特性が該当するかなども説明はしたが)。当時の私が発達障害を抱える方々の現実について、全くの無知であったからこその行動である。物分かりが良く、自ら質問してくれる息子であったことや、障害をネガティブなものと捉えずにいられる環境があったからうまくいっただけ。分かっている。とはいえ何かが引っかかる。『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』の中で、児童精神科医・臨床心理士の姜昌勲氏が下記のように書いていらした。発達障害は、「治療しなければいけない障害」ではなくて、「支援するために必要な病名」であるとともに、「かけがえのないその子の個性」でもあるのですから。「発達障害はニセの病名?」『各分野の専門家が伝える 子どもを守るために知っておきたいこと』(宋 美玄、姜昌功、ほか/星海社新書)P92より「支援するために必要な」情報を聞いた子どもがショックを受けたり、明かした人から不当な扱いを受けたり、ネガティブなイメージを抱かれるのはやっぱりおかしい。「実は発達障害で」「ふーん、そうなんだね」でいいじゃないか。もちろん私は「発達障害の当事者は誰もが、その事実を明かすべきだ」とは思わないし、「実は自分も発達障害で」とこっそり打ち明けてくれた方の話を他人に話す気にもなれない。それは、今の自分が、発達障害に関しては、明かしても差別される機会の少ない環境に身を置いているだけだと自覚しており、かつてはてんかんで「隠しても地獄、明かしても地獄」を体験しているからだ。だからこそ、悔しくてたまらないし、憤りさえも感じている。必要な情報を、誰もが気軽に明かせない現状に。「障害はその人が持つ事実ではあるが、人格そのものではない」と思う私に向けられた、友人からの嬉しい言葉Upload By 鈴木希望ところで私は、かばんにいつもヘルプマーク(外見では分かりにくい疾病や障害のある人が、配慮を必要としていることを知らせるためのピクトグラム)を付けている。私が住む新潟県でも配布されてはいるが、まだまだ認知度が低い印象がある。あるとき、私のヘルプマークを見た友人が、「これは何?」と尋ねてきた。彼女は帰郷してから知り合った人で、発達障害つながりではない。子ども同士が仲良しだったことからつながった、いわゆるママ友だ。私がヘルプマークの概要を簡単に説明して、「私はてんかん発作を起こしたり、発達障害からくる感覚過敏があって、パニック発作を起こす可能性があるんだ。だからそうしたときに適切な対応をお願いできるように、このマークを付けているんだ」と話した。すると彼女は「そうなのかー。てんかんのことも発達障害のことも私はよく分からないけど、手伝えることがあったら教えてね!」と微笑んでくれたのだ。(そう…!これ!これなんだよ!こういう対応が嬉しいの…!)感激屋の私はむせび泣きそうになるのをぐっとこらえて、「うん、ありがとう!お願いするね!」と返した。差別されたくないのはもちろんのこと、同情が欲しいわけでも、特別扱いされたいわけでもない。いつでも誰に対しても助けを乞うつもりはないし、自分ができる範囲内なら、ほかの誰かが困っているときにはサポートだってしたい――私が知る限りではあるが、多くの障害当事者はそう願っている。障害を感じにくい人たちもそうであるように、障害当事者にも純粋な人もいれば卑劣な人もいる。障害を理由に差別されていることを逆手に取ってひらりとかわす、狡猾でありながらもどこかキュートな友人の話もいずれ紹介したいが、それは一旦横に置く。とにかく「障害」というのはその人に関する事実ではあるが、人格そのものではない。「実は発達障害で」「ふーん、そうなんだね」ぐらいの扱いになってほしいと願うのは、傲慢なのだろうか。重要なのはラベルではなく中身。「障害」という言葉のイメージを変えたい私が考えた、あえての遠回りさて、息子の話に戻る。「障害って言ってはいけないのなら、これからどういう風に説明したらいいんだろう…というか、障害は悪いことじゃないんでしょ?なのに…」まだ「解せぬ。世の誤ったイメージのためになぜ自分が厄介なことを考えなくてはならぬのだ」という思いがにじみ出る表情の息子に、私は代替案を伝えた。「最初に障害って言葉を言わないでさ」「え⁉言ってることが矛盾してる!!」「分かってるよ。でも、誤解されるなら最初は避けた方がいいんじゃない?で、今回は特別支援学級を利用している理由を伝えたいわけだよね。だから、例えば“チョークで黒板に書く音で耳が痛くなったり、たくさんの人のひそひそ声で先生の話に注意を向けにくくなって、授業を受けることに障害を感じてしまうから”とか、困っていることの具体的な内容と、“障害というのは、困っていることという意味なんだ”と受け止めやすい言葉で伝えたらいいんじゃないかなあ?」幸い、クラスメイトたちは息子の特性を、なんとなくかもしれないが理解してくれているようなので、これで十分に伝わるだろう。「そのときになったら、そんな説明できるかな…」「じゃあ、“通常学級で授業を受けていると、困ったこと、障害がいろいろ出てくる”とかはどう?そこで質問してもらえたら具体的に言えばいいし、ふーんで終わればそれはそれでいいと私は思うが、どうかな?でも、障害っていう言葉を使う必要はないかなと私は思うよ。伝えたいのは障害の中身であって、障害という単語じゃないんだから」私の提案を受け、息子はまだ納得できていない様子だったが、少し考えてから「そうか…そういうことが障害なんだって後から分かってもらえたらいいのかもな…」と、誰に向けるでもなく、つぶやいていた。「障害」という言葉に付きまとう悪いイメージをなくしたい私が「障害」という言葉を避けるような表現を選ぶのは、息子が申すように矛盾も甚だしく、本末転倒とも言える。しかし、障害を明かさなければならない場面において重要なのは、「障害」というラベル以上に、「なぜそうしたラベルを持たざるを得ないのか」という理由、ラベルを示す人それぞれの困難の詳細についてというケースが多いように私は感じている。ならばそちらを優先させて、追々「障害」という言葉との紐づけを行う方が、遠回りのようだが、実は効率良くイメージの変化へとつなげられる道なのではなかろうか。その前に、発達障害については誤解をなくすことや、地域による情報格差など、片づけるべきさまざまな問題があるのだが…。「障害」という言葉のイメージが変わり、障害のある人たちへの偏見がなくなることに従って、人と社会の間のずれも消えていき、あらゆる人が助けを求めやすい世の中になる――なんて、現状では夢物語だ。しかし、そのような未来が訪れることを、私は願っている。そのためにも私はもっともっと学びたいと思っているし、感覚のアップデートも忘れたくない。
2020年03月08日空気を読むって?広汎性発達障害の娘(小学3年生)には、コミュニケーションが苦手という特性があります。小さいころは人との関わり方がよく分からず、相手の言葉を聞かず、会話が一方通行だったり、自分だけが理解している謎の文章を話したりしていました。Upload By SAKURA定期的な言語訓練や日々の療育で、少しずつ人との関わり方を学んでいき、今では会話もスムーズになった娘ですが、いまだに苦手なことがあります。それは「空気を読む」ということ。その場の雰囲気から、自分が何をすべきか…すべきではないか…相手がしてほしくないことや、望んでいることを察することです。謝って許されたら、それでいいと思ってしまう娘。たとえば、パパに叱られたとき…Upload By SAKURAいいよと言われた直後に、ケロッとして「ゲームしてもいい?」と言ってしまいます。こういった場合、きちんと謝られたらもちろん相手は「いいよ」と許すけれど、大事なものを落とされたことが嫌だったという気持ちはすぐにゼロになる訳ではありません。表情や相手の雰囲気からそれが読み取れていれば、申し訳なさそうな顔をしたり…少し時間を空けてから話しかけたりします。でも娘にとっては、「いいよって許してもらったから、もう終わりでしょ?」ということなのでしょう。空気を読む意味も、理屈もよく分からないのかもしれません。娘の特性を知っている私たちが相手なら、ある程度は容認できます。しかし、学校で友だちと同じような状況になったとき、相手の嫌な気持ちは倍増してしまうかもしれません。「空気を読む」というのは、私自身誰から習った訳でもありません。経験から少しずつ学び、あ…今のはまずかったかな…と感じたり、人の行動を見ながら状況を判断していくものです。娘も経験する中で少しずつ学んでいくだろうと思いながら見守っているとき、私はあることを思い出しました。思い出した、ある新入社員のこと…それは、私が社会人3年目の時のこと…。4月、新入社員の入社初日。その年に入社したばかりの事務の女性社員が2人、定時を知らせる5時半のチャイムが鳴った瞬間立ち上がり、荷物を持って更衣室に向かっていったのです。その日は業務が立て込んでいて、周りにはまだ忙しそうに仕事をしている先輩たちがいます。一瞬何が起きたか分からず、その場にいた同僚に「え?どこいったのかな?…まさか黙って帰ったわけじゃないよね?」と話していると…Upload By SAKURA当時、新入社員の教育係担当だった私は先輩に言われて、慌てて2人を追いかけました。「もしかして…帰るの?」そう聞くと、2人は「はい、定時のチャイムが鳴ったので」と答えました。Upload By SAKURA私が「えっと~…まだ先輩が仕事してるよ?確かに定時にはなったけど、でもこういうときはまわりを見て...」と言うと2人は、言ってる意味が分からないといった表情で、顔を見合わせてキョトンとしていました。私はうまく説明できず、とりあえず「勝手に帰ったらダメだよ。事務所に戻って。」と言いました。2人は私と一緒に事務所に戻りましたが…Upload By SAKURAそのあとキョロキョロしながらときどき私を見て、どう帰ったらいいか迷っているようでした。習っていないから分からなかった。初めての経験に私もパニックになってしまい、どうしたらいいかしばらく考えてしまいました。そして私は、自分が入社するときに社員研修で言われた言葉を、そのまま彼女たちに言うことにしました。Upload By SAKURA私は当時、なぜこんなことを言わなければならないのだろう…社会人なんだから分かるはずだ…と思っていました。しかし、娘が生まれてコミュニケーションを苦手とする特性を知り、空気が読めない…対応がわからず困る…といったことを間近で見ていると、あの子たちも悪気があったわけではなく、それを習っていないから分からなかったのだと思いました。相手の気持ちを読むことを、一緒にやってみる。私は、将来娘が社会に出たときに困らないよう、子どものときからある程度は教えよう!と思いました。しかし「空気の読み方」というのは、説明してもかなり抽象的。「空気を読むってなんなの?どういう意味?」と聞かれても、Upload By SAKURA私自身がちゃんと説明できない状態。どうやって説明したらいいんだ…と考えながら気がつきました。Upload By SAKURA教えるの、"パターン"だ!それと、具体的な対処法だ‼たとえば、誰かを怒らせてしまったとき、「いいよ」という言葉を言われたとしても、相手はまだ完全には許していないかもしれません。すぐに話しかけたら嫌な気持ちがまだ残ってるかも。この場合は...Upload By SAKURA相手の気持ちを想像し、具体的に対応を指示しました。それに慣れたころ、今度は顔を見てから話しかけよう!と相手の顔を見るように教えました。夫に協力してもらい…Upload By SAKURA本来ならちょっと考えられないシチュエーションをつくり、相手の顔色を確認することを教えました。さらに、私の取り込み中に、娘がどうでもいい話題で話しかけようとしていたら…Upload By SAKURA夫が先手を打ち、空気を読むように促してくれたりします。私たちができることは…空気を読む状況は、もちろん1つ教えればいいわけではなく、様々なパターンがあります。私たちにできることは、空気を読む!という状況になったときに、状況を声に出して説明し続けること。そうすることでいつか…大人になったときでもいい、一人で状況を読まないといけないときに私と繰り返した日々が少しでも思い出されて、ほんのわずかでも娘の助けになればいいと考えています。
2020年02月26日娘の寝かしつけに悩んでいた私でしたが、試行錯誤を重ね、その方法が変化してきました。娘が生まれてから保育園入園前の現在(生後9カ月)の変化をお伝えします。 生まれてしばらくは…娘が生まれてからしばらくは、添い寝や添い乳で寝かしつけをしていました。抱っこでは寝るものの、布団に寝かせると泣いてしまうので、布団で寝付いてもらおうとひたすら添い寝、添い乳……。大泣きして寝かしつけに1〜2時間かかることもありました。 生後3カ月ごろになると、昼夜の区別がついてきたのか、寝かしつけの時間が1時間以内に。時間が短くなったのはとてもうれしかったのですが、添い寝していると、私も一緒に寝落ちしてしまうことがほとんどでした。 夫にもできる寝かしつけを寝落ちしてしまうことで家事や自分の時間が取れないことに悩みました。また生後10カ月で助産師の仕事復帰の予定があり、ゆくゆくは夜勤もあるため、夫にもできる寝かしつけをしたいと考えて、寝かしつけの方法を変えることにしました。 まず娘に寝る時間の合図として、入眠儀式を取り入れました。リビングで授乳後、寝室へ移動し、絵本を読み、部屋を暗くして、寝かしつけをすることにしました。添い寝や添い乳をやめて、私は娘の隣に座った状態で頭や眉間をなでたり、手を握ったり、子守歌を歌ったり……。 娘に効果があったのは、少し強めにトントンする方法でした。トントンする場所も、おなかや背中、お尻を試し、お尻が一番良さそうでした。トントンするとだいたい30分以内には寝てくれたのですが、ずっとトントンすることで自分の腕がつらくなってしまっていました。 昼は明るく、夜は暗く娘の寝入る様子を観察すると、娘は目をこすり「眠い」という合図を出したあと、モゾモゾしつつ目を閉じて自分の手首辺りを吸いながら寝付いていました。 そこで、「眠い」という合図が見られたらトントンするのを徐々に減らし、自分で寝付くことができるように見守ることにしました。すると今では、激しく泣くときやあと一歩のところで眠れないときのみトントンしますが、ほとんどは見守りのみで寝付くようになりました。 生まれてからずっと意識していたのは、「昼は明るく、夜は暗く」というメリハリです。今後、娘の成長や保育園入園などの環境の変化で、また寝かしつけ方法を変えていくかもしれません。娘の様子を見ながら、眠りをサポートしていきたいと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 イラスト/sawawa監修/助産師REIKO著者:金子ゆかこ9カ月の女の子のママ。職業は助産師。不妊治療や妊娠・出産・子育てに関する体験談を中心に執筆中。
2020年01月29日広汎性発達障害の娘の友達関係は...広汎性発達障害の娘(小学3年生)は、小学2年生の時から特別支援学級に在籍しています。現在は、国語と算数以外の時間を交流学級で過ごしています。特別支援学級所属になった当初、私は友達関係のことを心配していました。特別支援学級にいることでからかわれたり、いろんなことで少しずつ配慮されることを「特別扱い」と言われるんじゃないかと不安だったのです。しかし、実際の友達関係は私の想像と違いました。わが家には、幸運なことに娘の友達がよく遊びに来ます。今回は私が見た、娘と友達の様子を紹介したいと思います。言い間違いを優しく訂正。娘はまだまだ「て・に・を・は」や、言葉自体の言い間違い、使い間違いがよくあります。そんな時、娘の友達は…Upload By SAKURA言い間違いをバカにすることなく、優しい口調で教えてくれます。これが娘にも合っているようで、私が言ったら反抗してきそうな指摘を、友達だと素直に聞いていました。そんな関係がありがたく、いつも私はお礼を言っています。勘違いも笑ってくれる。娘は、言い間違いも多いですが、聞き間違いも多いです。知らない言葉もたくさんあるので、他の友達同士が話している会話を聞き間違えて、違う意味で捉えてしまったりすることがあります。Upload By SAKURAそんな時も娘の友達は、笑ってくれます。笑うといってもバカにする感じではなく、その場の和みとして捉えてくれた笑いで、娘の聞き間違いひとつで、みんなが長時間笑っていることもあります。聞き間違いがあって大丈夫、そう思うと安心して見守ることができます。人と違うことをしても受け入れてもらえる。遊びの中でも、周りをみたり、場の空気に合わせて行動を選んだりすることが少し苦手な娘。周りと比べて、突拍子のない選択をしてしまうことがあります。Upload By SAKURAあまりに周りとかけ離れた選択をしても、それはそれとして楽しんでくれる友達。娘の特性や性格をわかってくれているような、その言葉かけに驚いてしまうこともあります。好かれている安心感。親がついつい助け舟を出したい場面もあるのですが、普段から仲良しなこともあって、思ったよりなんとかなっていることもあります。Upload By SAKURA私たちがいろんな面で娘に対して不安に感じることは、友達の中ではもしかしたら大したことないのかもしれないと感じることができました。親としてできることは…社会に出ていく前の人間関係の勉強になる学校生活…。友達とのコミュニケーションは私にとってかなり心配となる部分でしたが、娘は思ったよりも楽しそうにやれているようでした。学校ではどうか…担任の先生に聞いてみても、仲良しグループ内での様子は変わらないようで、他の子たちがうまく娘をカバーし、サポートしてくれるようです。私が娘の友達関係で気を付けていることがいくつかあります。1つは…友達が遊びに来るという提案をなるべく断らないこと。近くで友達との関係性を見たい私にとって友達が来てくれることはありがたいので、友達が「あーさんの家に行きたい!」と言ってくれた時や、娘が「友達連れてきてもいい?」と言った時、私はよろこんで「いいよ」と言うことにしています。もう1つは…お礼を忘れないこと。娘に普段から「友達にお礼を忘れないように」と話すことはもちろんですが、娘が助けてもらった時は、その場で私からも娘の友達にお礼を言うようにしています。「いつもありがとうね」「優しいから嬉しいよ」「助けてくれてありがとう」と言葉にしています。そうすることで、"友達の親"という立場からほんの少しだけ近づくことができています。おかげで、子どもたちの世間話や遊びに誘ってもらえることもあります(笑)いい友達に恵まれていることに感謝しつつ、何か起こった時にはサポートできるよう、引き続き出過ぎず…見守っていきたいと思います。
2020年01月22日新しい年の始まりですね!新年あけましておめでとうございます。昨年は、たくさんコラムを書くことができ、そして皆様に読んでもらえて、とても充実した一年でした。今年も、皆様の心に残るコラムが書けるように頑張りますので、引き続きよろしくお願いします。Upload By SAKURA今年1本目…ということで、お正月のお話をしたいと思います。お正月といえば、いろんな遊びがあります。私も子どもの時、お正月になると外で一日中、お正月ならではの遊びをしていました。Upload By SAKURAお正月の外遊びにチャレンジしたものの…これは、娘が小学生になる前のお正月のこと…。お正月らしい遊びをしてもらおうと、凧とコマを準備し、近所の公園へ行きました。Upload By SAKURA娘に凧があがったところを見せようと、20年以上ぶりに凧をあげる私たち。思った以上に難しく、必死になって高くあげ、娘に持たせましたが…そこまで楽しそうではない娘。凧はすぐ落ちてしまい、娘は「もうやめる」と凧を離してしまいました。それならばと、次はコマ回し。Upload By SAKURA夫は得意になり、娘にコマ回しを披露。手取り足取り回し方を教えましたが、娘がやるとなかなかうまくいかず…数回チャレンジして、「帰る」と言いました。元々、外の遊びがそこまで好きではない娘。その上、難しいと判断したらすぐにやめてしまう性格のため、結局この年で凧もコマも押し入れの奥へ片付けられてしまいました。室内の遊びなら!と思ったけれど…それから時が経ち、小学生になった娘。お正月に従姉妹同士で、かるたやすごろく遊びをしました。これなら室内だし、和気あいあいと進められるのでは?と思いましたが…Upload By SAKURA自分が負けそうになると、泣き始めてしまい、周りに気をつかわせてしまう、重々しい空気に。私がフォローしてみたのですが、結局途中で抜けてしまいました。私は、「お正月遊びには、娘の楽しめる要素がないのか…」と諦めていました。「干支って?」そんな疑問がきっかけで…小学2年生になった娘。12月に入り、「来年の干支はなんだっけ~」と主人と話していると…Upload By SAKURA娘が「干支って何?」と質問してきました。私たちが、干支の説明と、順番について話すと…Upload By SAKURA娘は学校の図書館で干支の本があるか調べ、干支の順番についてかかれた絵本を見つけ、借りて帰ってきました。そして、絵本を広げながら私に干支の順番の理由を説明してくれました。Upload By SAKURA無理に遊ばなくてもいい、好きなことで楽しむお正月。それから娘は、お正月に関する絵本を借りてくるようになりました。Upload By SAKURAそうか…お正月の楽しみ方は人それぞれ。私がお正月遊びが好きだったからといって、娘にも好きになってもらう必要はない。娘がお正月に関する本を借りて来ては読む姿を見て、これでいいんだと思いました。といっても、わが家には、娘とは対照的に外遊びを好む息子もいます。息子が3歳の今年は、凧とコマを押し入れから久しぶりに引っ張り出し、広場に行くことになるでしょう。その時は娘に無理強いせず、主人と相談し、二手に分かれようと思います(笑)Upload By SAKURA
2020年01月08日8月に1歳となった次男は、先天性の外耳形成不全という診断を受けています。また、生まれてすぐの聴力検査をパスすることができず、中度難聴との診断を受け、大学病院の難聴外来を受診中です。受診や検査の様子、家族の思いなどについてお伝えします。 診断、受診までの経緯出産後、産院で外耳形成不全との診断を受けた次男。大きな産声の次男を見つめ、うれしさと不安が同時にわき上がる感覚を鮮明に覚えています。その後の聴覚検査をパスできず、大学病院への通院が決まりました。 1回目の診察は、問診と検査の予約だけというもどかしいものでした。4度の通院で4種類の聴力検査をおこない、中度難聴と診断されました。次男の未来を考え、親としての責任と不安に押しつぶされそうになりました。 家族の気持ちの変化診断を受けた直後は、受け入れる難しさや焦燥感に襲われました。義母は、ふとした瞬間に「かわいそうだ」「どうして」という言葉を発し、その言葉を聞くたびに体がこわばったことを覚えています。 それでも、夫婦で治療方法や次男の成長過程への影響などについて情報を集め、通院の回数を重ねました。次男の症状や考えられる成長への影響を家族間や医師と相談し、ポジティブな感情で向き合えるようになってきました。 障害とともに生きる覚悟次男の中度難聴は改善するかもしれないし、一生そのままかもしれません。今後、定期的な受診を続けて様子を見ていくこととなっています。一方の外耳形成不全については、ある程度体が大きくなった10歳ごろに外耳形成の手術をすることができるそうです。 いつか次男にとって困難なことが訪れるとき、親として本人に寄り添い、心身をケアし、家族全員で本人が安心感を得られる家族をつくることを、パパや義母と確認しました。 現在、次男は1歳となりました。保育園に通い、周りの人を意識するようになりました。他者との関わりが形成され始め、本人が自分と他人の耳が違うと気づくとき、しっかりと寄り添い、本人の支えになれるような母でいたいと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師REIKO著者:簗田智花4歳の長男、2歳の長女、1歳の次男との育児ライフを楽しむ34歳の母。現在は、仕事と家事、育児に奮闘中。ドライブ、スポーツ、スポーツ観戦が趣味のアクティブママ。
2019年12月27日宇樹は発達障害と複雑性PTSDの当事者私は、発達障害(高機能自閉症)と、複雑性PTSDの当事者。30歳で発達障害を自覚、32歳で高機能自閉症の診断を受け、36歳のときに複雑性PTSDの傾向を指摘されました。そんな私が、初の単著『#発達系女子 の明るい人生計画』を発売しました。私がどんな人間であるかと、この本を書くに至った経緯、本に込めた想いについて語らせていただければと思います。私が発達障害を自覚したきっかけは、体調不良で通っていた鍼灸院で「耳が聞こえすぎている」と指摘されたことでした。「聴覚過敏」「感覚過敏」というキーワードでインターネット検索して出てきた例に、「これは私のことだ!」と目からウロコが落ちるような経験をして、発達障害の自覚に至ったのです。Upload By 宇樹義子発達障害の自覚当時、私は千葉県の実家で、精神疾患のある母と二人暮らしでした。自分自身の不調を抱えるなかで母の世話をするのは、私にとって大きな負担でした。毎日をなんとか過ごすだけで心身ともにクタクタで、発達障害について病院にかかる余裕はありませんでした。しかし、あるきっかけで急に実家を出て結婚することになった私は(詳しくは後述)、一年ほどかけて心身に多少の余裕を取り戻しました。そこで近所の心療内科を訪ね、高機能自閉症の診断を受けることになります。エビリファイという薬を処方され、飲んだところ、10年以上どうにもできずにいた昼夜逆転の症状がピタッとなくなり、とても驚きました。生活上のさまざまな段取りもスムーズに進むようになって、支援とつながることもできました。複雑性PTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)は、発達障害の二次障害と考えられます。服薬や環境調整で発達障害自体の症状はだいぶ乗り切れるようになったものの、人を信頼することができず、夫に対して要らぬケンカを吹っかけたりすることが続いたのです。「おそらくトラウマ(心の傷)が関係しているだろう」と、トラウマ治療の専門家にかかったところ、複雑性PTSDの傾向を指摘されました。Upload By 宇樹義子家庭での母との関係性も大きなトラウマでしたが、私の複雑性PTSDの直接的な原因となったトラウマは、小学校時代に児童から受けたいじめと、担任教師からの虐待だろうと、医師から指摘されています。あとで知ったことですが、発達障害のある人は、生きるにあたって大小の心の傷にみまわれることが多く、これらの傷の積み重ねだけでも慢性的なPTSDのような状態におちいることがあるそうです。私の場合、その中でも特に、実際にはっきりとしたトラウマとなるいじめや虐待を体験してきたタイプだったわけです。生きづらかった前半生いまの夫に助け出され、結婚するまでの私の人生は、生きづらさに満ちていました。小学校時代は周囲から浮きまくり、思春期以降は心身の調子を崩してしまって普通の生活が送れない。もともと狭かった周囲の人間関係が、年を追うごとに貧しさを増し、状況は悪化してゆくばかり。私は、気がついたときにはすでに、自分ではもう一歩も動けないほどに疲弊し、追いつめられていました。小学校時代は、地元の公立小学校で過ごしました。この6年間は、私にとって本当に苦痛なものでした。なんだか、自分だけが地面からちょっと浮いているような、自分とみんなの間に次元の境目があるような、深い孤立感のなかで暮らしていたのです。みんなが面白がっていることを面白いと思えない。でも、みんなが疑問を持たないことに疑問を持ってしまう。みんなが簡単にできることがどうしてもできない。でも、みんなができないようなことが簡単にできてしまう。 ……そして、そうした事実を素直に口に出しただけで、児童からも教師からも激しい攻撃を受けるのです。Upload By 宇樹義子学校での成績は、まったく勉強しなくても常にトップクラスでした(体育と算数除く)。そればかりか、学校の授業は簡単すぎるように感じて、退屈でした。みんなが家で親に尻を叩かれながら必死に勉強しても取れないような点数を、しれっと取ってしまう。「なんでわからないの? 考えればわかるじゃん」とか言ってしまう。授業中、ほおづえをついて「退屈だな―」みたいな顔をしてしまう。それでいて体格は周囲の子たちよりも一回り小さい。3学年ぐらい下の年齢に見えます。動作は鈍くてぎくしゃくしている。体幹がぐにゃぐにゃで姿勢が悪く、体育のたぐいはどれだけ練習してもうまくできない。国語は学年トップクラスなのに、算数だけはなぜか学年でビリっけつ。勉強ができることへの嫉妬や、できることとできないことの差が大きいことへの気味悪さも混じってでしょう、児童からは常にいじめられていましたし、教師からは常に叱責を受けていました。体育の時間は地獄そのものでした。Upload By 宇樹義子私は、誰かに何か矛盾やごまかしがあると敏感に察知し、相手が誰であろうとすぐに指摘するタイプでもありました。反抗的に見えるので、児童を力で支配したいタイプの教師からはすごく嫌われました。私には、ひたすら「人を尊敬するには合理的な理由が必要だ。彼らには尊敬してしかるべき理由が見当たらないから尊敬できない」としか考えられませんでした。大人たちを、単に大人だからという理由だけで尊敬し、従順にふるまう周囲の子どもを、むしろ不気味だと感じていたのです。下の画像は、私が32歳になって受けた知能検査(wais-Ⅲ)の結果の一部です。定型発達の人の場合、グラフはこれほどジグザグにならず、おおよそまっすぐになるそうなのですが、私の場合はご覧のとおりジグザグ。このジグザグ状態は、私の中で、分野によって得意・不得意の差が非常に大きいことを示しているそうです。Upload By 宇樹義子私は、小学校時代から20年以上経てこの検査を受けて初めて、小学校当時に自分の中にあった違和感や孤立感の原因を見たような気がしました。でも、当時は自分も周囲も、「発達障害」なんていう言葉を知る人はいない。私の、よくもわるくも平均から外れた部分は「わがまま」「努力不足」「甘え」「性格の悪さ」と判断され、私は常に叱責されたり嘲笑されたり、排除されたりしながら暮らしていたのです。中高は、私立の中高一貫お嬢様進学校でそれなりに幸せな学校生活を送った私。「『成績がよいこと』がいわゆるスクールカーストを上げる」「運動ができなくてもみんな似たようなものだから、大して目立たない」といった要素が良く影響したのかなと思います。しかし大学に入ると、だんだん雲行きが怪しくなっていきます。騒がしい都心への、長時間の通学。学校や親によって厳重に縛られていた高校までと比べて、あまりに自由度の高い学生生活。乗り切るのに周囲の学生とのコミュニケーション能力を必要とする、複雑な科目登録や単位取得のシステム。いま思えば、発達障害者にとって苦手な要素ばかりです。受験勉強で頑張りすぎたゆえの燃え尽きもあいまって、私は一気に生活リズムを崩していきました。夜に眠れず、朝に起きられない。身支度に何時間も時間がかかる。もともと強かった生理痛が、痛みで気を失うほどにひどくなり、PMSも悪化していきました。片頭痛も出るようになり、月の半分以上は体調が悪くて寝込んでいるような状態になったのです。Upload By 宇樹義子このころ、もともと精神的に不安定だった母が、本格的におかしな言動に出るようになっていました。並行するようにして、父や兄は、仕事を理由に家に寄りつかなくなります。こうして私はいつのまにか、母とほぼ二人暮らしとなり、家事や母の心身の世話にもエネルギーをとられはじめていました。気づけば、うつうつと寝て起きるだけでせいいっぱいで、ほとんど家を出られないような状態になっていたのです。いまの定義でいう「準ひきこもり」です。私はそれでも、「学校で成績がよかった」という、自分の過去の栄光にしがみついていました。なにかの拍子にふと沸いてくる、自分の人間としてのアンバランスさへの疑念を半ば無理やり払いのけながら、「私はこのまま、大企業に入ってエリートとして生きていくんだ」と思いこもうとしていたところがあります。そんな小さな抵抗も、大学3年次の就活でもろくも崩れさります。書類審査は通り、面接までは行ける。けれど、面接でことごとく落とされるのです。落とされるというか、面接では毎度、面接官を怒らせてしまったり、圧迫面接を受けてショックで怒ったり泣いたりして、最悪な終わり方をするのでした。ここは絶対に通る、と信じていたある会社の役員面接では、理不尽なことを言われつづけて泣きながら抗弁しました。当然、結果は不合格。父からも母からも「なんてバカなんだ、そういうときは素直にハイハイって言って従ってればいいんだ、面接ではそういうところを試しているんだ、常識だろう」みたいなことを言われ、本当にショックでした。それまで自分に向かって大きく開け放たれていたはずの社会への扉が、後ろ手にバタンと閉められる音を聞いたような感じでした。Upload By 宇樹義子私は怖い、この社会が怖い。そんな常識、私は誰にも教えてもらったことがない。私は小学校のころから変わっていない、いじめっ子のAちゃんが私に言ったとおり、私は「みんなが知らないことを知ってて、みんなが知ってることを知らない」んだ。私はどうやら人間として決定的な欠陥を抱えているみたいだ。でも、その欠陥の理由がなんなんだか、さっぱりわからない。私はこの社会でやっていける自信がない…… 私は、これまでに経験したことのない深い挫折感を覚えて、文字通り三日間泣き続けました。目がほんとうに開けられなくなるほどに腫れて、自分でも驚くほどでした。どうにか一社だけが私を拾ってくれました。しかし、この会社はいわゆるブラック企業でした。「こんな私を拾ってくれるような会社はここ以外にない」と思いつめた私は、必死にその会社に適応しようとしましたが、案の定、三ヶ月で心身の限界がきて、倒れてしまって辞めました。それからは、すべてが悪循環でした。夜はうつうつとして眠れず、朝はぐったりして起きられず、昼夜逆転が悪化していく。母の言動もどんどんおかしくなっていく。母も昼夜逆転でひたすらフラフラと寝起きするだけのなか、私はたったひとりで、日々の買い物や掃除、洗濯、食事の用意といった家事に加え、夜中の二時三時まで母の盲言の相手をする生活に追われました。日々の買い物のほかはほとんど外を出ない準ひきこもり生活のなか、心は焦りでいっぱいでした。刻々と大きくなっていく履歴書の空白を埋めようと、必死に仕事やアルバイトを見つけては、結局倒れて行けなくなり、やめてしまうのでした。Upload By 宇樹義子このころには、中高や大学の友人にも連絡をとりづらくなっていました。みんな、仕事で昇進したり、結婚して子どもを産んでいたりと、着実に人生を進めていっているように見えて、私だけが取り残されたような気分だったのです。あまりの余裕のなさに友人の幸せを素直に喜んであげられない自分も嫌だったし、現状を友人に話したとて、無為に心配をかけ、彼らの日常に水を差すだけだろうと思うと、つい連絡が遠のいてしまうのでした。あまりのストレスや絶望感にいよいよ追いつめられていた2011年3月、東日本大震災が起きました。もともと不安から突飛な言動に出る傾向だった母の調子は、さらに悪化しました。「このままでは私は近いうちに母と殺し合いになる」と感じる極限状態のなかで、私はほんとうに幸運にも、いまの夫となる人から助けを得て、同年5月に実家を脱出したのです。(詳細は本に書いています)それまでのあまりに強いストレスと疲弊、そして大きな環境変化のせいか、私には、夫のところに身を寄せてから半年ほどの記憶がほとんどありません。Upload By 宇樹義子心身ともに安全な環境でたっぷり休んで、ぼちぼち体調がマシになってきた12月、夫と入籍しました。いろいろな病院に行く元気も出てきて(逆にそれまでは病院に行く元気さえなかった)、翌年の2012年7月、32歳のとき、心療内科で高機能自閉症の診断を受けるに至ります。これが私の、深い心の傷からの回復のはじまりでした。「発達系女子」のみんなに、少しでも楽な近道をしてほしい現在39歳の私は、ほんとうにありがたいことに、たくさんの人に囲まれ、仕事にも恵まれて、とても元気に幸せに暮らしています。でも、ここに至るまでの道のりはつくづく大変なものでした。私は、31歳で夫のところに身を寄せて以来、現在に至るまで、一歩ずつ回復の道を歩んできました。発達障害のない人の人生にさえ、「こうしておけば正解」みたいな生き方の見えない時代です。なのに、私は障害者の中の、精神障害者の中の、さらに発達障害者。情報は、探せばあります。あるのですが、発達障害者の生活の役に立つ情報は、世の中のあっちこっちにバラバラと散らばっていて、ちょっとやそっとではたどりつけません。私が自分のなんとか幸せに生きていける道を探すためには、多くの人に頼り、無数のインターネット検索を積み重ねる必要があったのです。Upload By 宇樹義子生きづらさを軽減するためには、ともかく情報が必要なこと。信憑性のある情報をつかむためには、情報の探し方にコツがあること。いろいろな人に助けてもらうのが大事なこと。助けてくれる人にも、頼っていい人と、警戒しなければいけない人がいること。自分が苦しんでいる苦しみは、自分だけではない、きっと社会のみんなの苦しみであること。「結婚」や「モテ」だけが答えではないこと。発達障害者だけではない、世の中の誰にとっても、安心していられる「居場所」が必要なこと。自分を大事にし、元気にするために、もっともっとエネルギーを割いていいこと…。私は、実家を脱出したあと、8年ほどの時間をかけて、こういった、「発達系女子が楽に人間生活を乗り切るのに必要なこと」をひとつひとつ集めていきました。霧の立ち込めた石ころだらけの悪路を、杖をつきつきエンヤコラと歩いてきた8年間。あるとき突然目の前が開けて、自分がちょっとした丘のてっぺんに着いたことに気づきました。ふりかえれば、かすんでいたはずの風景は遠くまで見わたすことができます。自分の歩んできた道を見わたしてみて、「私はこんなに遠くまで来たのか!」と思うと同時に、「8年前の時点で、いや、もっとずっと前、たとえば30年とか前に、ここまでの道のりを描いた地図があったらよかったのに!」と、強い怒りや喪失感のようなものを覚えました。そのときの私には、多くの発達障害女性が、私と多かれ少なかれ似たような苦しみを抱き、似たような道を、それぞれバラバラに這い進んでいる姿が、ありありと想像できました。「いや、誰か助けてよ!! なんで誰も気づかないのよ!!」私はそう思い、次に、「ちょっと待って、私がやればいいんじゃない?」と気づきました。どうしたらいいだろう? 同じように五里霧中を歩んでいる仲間に、自分が苦労して集めてきた、発達障害女性の役に立つ情報を届けるにはどうすればいいんだろう?本を書くしかない、と思いました。私はもともと、人の役に立ちたい気持ちの強いタイプでした。何度も何度も「支援者になろうかな」と考えたのですが、そのたびに、「良くも悪くも繊細すぎる私は、きっと人を直接に支援する仕事には耐えられないだろう」と諦めてきたのです。幸い、私には文章が書けました。情報を集め、精査し、わかりやすく整理しなおして説明することが得意でした。なら、私が人の役に立てるとしたら、本を通して情報を渡すことなのではないか。そんなわけで、『#発達系女子 の明るい人生計画』の企画が動き出しました。Upload By 宇樹義子説得力のある企画書を出して版元を納得させなければならなかったため、念入りに市場調査や競合調査をしました。調査する中で、自分の考えている「発達障害女性の実生活にきちんと役立つ情報をたっぷり盛り込んだ実用書」が、企画当時の日本には全く存在しないと言っていいことがわかりました。ニーズは確実にあるのに、それに応えてくれている本がない。それなら、この本はなおさら、私が書かなければいけない ……そんな使命感のもと、企画から1年をかけて書き上げたのが、『#発達系女子 の明るい人生計画』です。『#発達系女子 の明るい人生計画』では、メインの読者を「成人の発達障害女性」と想定しています。でも同時に、「生きづらさを感じている/助けや生活のための情報を必要としている女性全般」にも役立ててもらえるような内容を広く盛り込んでいます。このため、この本は成人の発達障害女性以外にも、多くの人にお役立ていただけると思います。子育てに困りごとを抱えている人、経済的な苦労のある人、仕事や家に困っている人、周囲からの加害に悩んでいる人、母子家庭で大変な日々を送っている人、自分の娘に発達障害があって将来が不安な人、発達障害のある中高生女子、などなど ……多くの仲間の姿を具体的に思い浮かべながら書き進めました。自慢は分厚い巻末資料です。女性と子どもの支援に尽力されているソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さんにご監修いただき、情報の正確性と網羅性を確保しています。正直言って、本編に描かれている私自身のケースなどはそれほど参考にならないと思うので(笑)、巻末資料だけでもめくってみていただきたいです。きっとお役に立てることと思います。宇樹義子「人のために書く」ことが、私自身を癒やしてくれた—ライターという仕事に出合って|LITALICO仕事ナビ
2019年12月16日通い始めたきっかけは、親子関係の改善。広汎性発達障害の娘は、現在、放課後等デイサービスに通っています。2年生ごろから、家での療育や、宿題への取り組みがうまくいかなくなり、関係性が悪くなっていった私たち。家族でずっと一緒にいると衝突も多い…ピリピリした親子関係をどうにかしたいと、放課後等デイサービスに通うことを決めました。娘は放課後等デイサービスが大好きになり、私との関係も改善していきました。Upload By SAKURA娘にとって楽しい場所が増えた…私はそれだけでも満足だったのですが、放課後等デイサービスは娘が成長するのにとても大事な場所だったのです。学校とはちょっと違った友達関係。娘は学校で、仲良しの子もいて、友達関係に特に不安はありませんでした。そのため、また新しく友達が増えるな~ぐらいにしか考えていなかったのですが、放課後等デイサービスでの友達関係はちょっと違います。学校とは違い、娘の他にも発達の偏りや障害がある子が通っているため、ここでは娘は特別ではありません。学校の場合、娘が何か間違ったことをしたり、突拍子もないことをしたりしても、周りの子どもたちはあーさんに合わせてくれます。しかし放課後等デイサービスでは、それぞれが自分の興味にしたがって動いていることが多いし、ときには予測不能の動きをすることもあります。Upload By SAKURA放課後等デイサービスの友達にはそれぞれ強いこだわりや特性もあるため、学校ではあまりみられないようなトラブルが起きることもありました。友達とのトラブル発生。放課後等デイサービスに通い始めて少し経ったころの話です。この日、お面で遊んでいた娘。Upload By SAKURA自分でかぶったり、先生にかぶせたりしていたそうです。そのとき、おやつを食べていた友達に…Upload By SAKURA後ろからいきなりお面をかぶせた娘。しかし、この友達はいきなり人が近づくことを、嫌がる子だったのです。娘に対して、「やめろ!だれだよ!おまえ!あっちいけ!」と怒鳴りました。娘は驚きながらも、「だれだ」という質問に対して、自分の名前を答えたそうです。娘はおそらく、一緒に遊ぼう…楽しませようという思いだったのでしょう。しかし、娘にも嫌なことや苦手とすることがあるように、この友達にとって娘が後ろからいきなりお面をかぶせるという行為は、ものすごく不快なものだったのでしょう。トラブルで、感じてもらいたかったこと。トラブルがあった日、放課後等デイサービスの先生からこの話を聞いた私。突然お面をかぶせてしまった子に申し訳ない…そう考えていたのですが、Upload By SAKURA先生は、「いきなり怒鳴られて、娘さんが嫌な思いをしたんじゃないかと心配です。これで、ここに来ることを嫌がったり友達を恐がったりしないか…止められなくてすみません。」と娘の精神面の心配をしてくれました。確かに、怒鳴られたとき娘は驚いたかもしれません。しかし私はこれは娘にとっていい経験になったと考えました。娘はたびたび、家でも学校でも、自分のこだわりで泣き出すことがあります。誰にでも嫌なことはあるということ…そして、自分以外の人のこだわりを客観的に見ることで、何か感じることがあるかもしれないと思ったのです。トラブルからの成長。家に帰り、私は娘と話をすることにしました。Upload By SAKURA娘は、全く"怒られた"という感覚はありませんでした。精神的には傷ついていなかった娘ですが、相手に嫌なことをしたという認識があったのか聞いてみると…Upload By SAKURA娘はその状況に立たされただけでは、まだ自分から学ぶことは難しいようでした。しかし先生が相手の気持ちを代弁してくれたおかげで、相手が嫌だったことを、ちゃんと理解することができていました。自分以外の個性を認める。通い始めて10か月が経った現在、娘はすっかり放課後等デイサービスと、そこに通うお友達関係にも慣れました。Aくんは、同じ曲を何度も聞くのが好きとか…Bくんは、仲良くしたいけどやり方がわからなくて、ちょっかいを出してお友達に怒られてしょぼんとしちゃうとか…Upload By SAKURA娘が自分以外の子のこだわりを理解し、それを頭において接している話を聞き、ここで過ごす日々は予想以上に娘を成長させてくれていると感じました。いろんなトラブルもあるけれど、娘は放課後等デイサービスが大好き。これからも楽しい時間を過ごしつつ、自分の成長に繋げていってくれたらいいな~と思います。
2019年12月11日ADHDとは?ADHD(注意欠陥・多動性障害)は不注意(集中力がない)、多動性(じっとしていられない)、衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられる発達障害のことです。人によって症状の現れ方の傾向は異なり、大きく3つのタイプに分けることができます。1.多動性-衝動性優勢型:多動と衝動の症状が強く出ているタイプです。2.不注意優勢型:不注意の症状が強く出ているタイプです。3.混合型:多動と衝動、不注意の症状が混ざり合って強く出ているタイプです。子どもの20人に1人、成人の40人に1人にADHDが生じることが示されています。以前は男性(男の子)に多いといわれていましたが、現在ではADHDの男女比は同程度に近づいていると報告されています。参考:DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル年齢別に見たADHDの症状の現れ方■生後すぐから診断ができるの?ADHDは発達障害のひとつですが、発達障害は、言語・認知・学習といった発達領域が未発達の乳児では、症状が分かりやすく出ることはありません。ですから、生後すぐにADHDの診断が出ることはありません。また、ADHDの症状は他の発達障害の症状と共通するものもあるので、判断には注意が必要です。ADHDと診断された人たちの中には、乳児期を振り返ってみると、「なかなか寝付かない、寝返りをうつことが多く落ち着きがない、抱っこされることを嫌がる」といった傾向がみられる場合もあるようですが、このような行動は定型の成長過程でもあり、一概にADHDと結びつけることはできません。気になる場合には児童センターといった身近な相談機関や小児科などで相談してみましょう。■トラブルの原因となる行動をとることが多いADHDのある子は、成長するに従い、以下のような行動をとる場面が目立つようになります。ただ、前述の通り、ADHDの症状は他の発達障害の症状と共通するものもあります。必ずしもADHDとはかぎらないので、特徴はあくまで参考程度にしましょう。・他の子をたたいたり、乱暴をすることがある・落ち着きがなくじっとしていることができない・我慢ができないので癇癪(かんしゃく)をおこすことが多くみられる・物を壊すなど乱暴・破壊的な遊びを好むことがあるいくら言葉だけで注意しても、これらの同じ行動を繰り返してしまいます。■言葉の遅れがみられることもADHDのある幼児は、他の発達障害との合併症状として、言葉の遅れなどの特徴がみられることもあります。■しつけの問題なの?幼児期になると、落ち着きがなかったり癇癪を起こしやすかったりといった様子から、ADHDに気づくことが多いようです。また、保育園や幼稚園でも他の子どもとトラブルを起こしがちになってしまいます。そのような行動が原因で誤解され、しつけがされていないなどと言われることもありますが、ADHDは先天的な脳の機能障害によるもので、しつけや育て方の問題ではありません。■症状が顕著に現れてくるADHDの子どもが小学校に入学すると、着席しての学習や集団行動が求められるようになることもあいまって、以下のような症状が目立ってきます。・授業中でもじっと座っていることができず、歩き回ったりする・注意力が散漫になって、興味の対象も次々と変化する・物を忘れたり、なくしたりすることが多い・突然話しかけて他の人の邪魔をしたり、他の人に話しかけられてもぼーっとしてうわの空に見られる・突発的な行動をおこすことがあり、自分の怒りの感情をコントロールできない・友達と仲良くできずトラブルを引き起こしてしまうことが多い■結果的に周りから問題視される何度も同じことを繰り返し注意されたり、授業態度などから周りに問題視されたり、怠けていると思われたりすることがあります。しかし、本人からすれば悪気があってしていることでもなければ、怠けているわけでもありません。■ADHDの診断がはっきりと下される時期小学校に上がるころになると、ADHDの症状が顕著に現れるため診断される場合が多くなります。文部科学省の定義では7歳前、DSM-5によるとADHDは12歳前に症状が現れるとされていますが、必ずしもこの年齢でというわけではなく、この年齢以前から症状がはっきり分かる場合には診断が下されます。■思春期のADHDは、合併症状にも注意思春期なると、立ち歩いたり突然周りの人に話しかけたりといった、幼児期や小学生時代に目立っていたADHDの特性による行動は落ち着いてくることが多いようです。しかし、・親・教師への強い反抗・友人とうまく付き合えず、トラブルになることが多い・ルールに従うことができないなどの行動がみられることがあります。また、学習障害(LD)などの発達障害との合併症状が目立ってくることがあります。対人関係がうまく築けない場合、自閉症との合併症状がある疑いもあります。ADHDの症状がみられる人は他の発達障害を合併している可能性もありますので、よくチェックして疑いがある場合には診断を受けてみましょう。■他人と自分を比較する思春期になると、他人と自分を比べて悩みやすくなります。ADHDのある子どもも例外ではなく、他人と自分をよく比べるようになります。完璧主義の傾向が強いと“できないこと”に過敏になることもあります。そして、他人にはできて自分ができないことにコンプレックスを感じてしまいがちです。コンプレックスから次の行動につながる場合があります。・勉強への意欲の低下、学力の低下が著しくなる・やる気がなく投げやりな態度・自分の世界に引きこもりがちになる場合もある知的機能に問題がない場合でも、不注意の特性が強いと、集団での学習に集中できず、学力の低下に結びつくこともあります。この結果、不登校やひきこもりなどの状態になることもあります。■薬の服用を嫌がる自分の障害を受け止めることができず、薬の服用を避けたり量を自己判断で変えて服用したりすることがあります。思春期の不安定な気持ちに寄り添いながら、家族が上手にサポートしましょう。■大人になるとADHDはどうなるの?子どものころにADHDと診断された人の中には、成長につれて症状が目立たなくなったり、軽くなったりする人もいます。自分の特性を理解し、苦手な場面にもどのように対処するかを学ぶことで、日常生活の困難を乗り越えている人もいると考えられます。ですが、ADHDのある大人は、子どものころより困難が多いと感じることも多いようです。・親や教師のフォローがなくなる・やることが多くなる・大人としての行動や責任を求められるなど、周囲の環境の変化が大きいことがその理由と考えられます。そのため、大人になって日常生活を送るのが難しくなった、と感じるADHDの人が多くいます。また、大人になってからADHDと診断を受ける人、診断を受けていなくとも同じ症状で困っている人も多くおり、大人の発達障害のなかではADHDの割合がもっとも高いといわれています。■大人のADHDに現れる症状大人の場合、ADHDによる特徴にはどのようなものが多くみられるでしょうか。・計画を立てたり、順序立てて仕事や作業を行ったりすることが苦手・細かいことにまで注意が及ばないので、仕事や家庭でケアレスミスが多い・約束などを忘れたり、時間に遅れたり、締め切りなどに間に合わない・片づけが苦手で乱雑になってしまう・同時に多くの情報を取り入れるのが苦手なので、一度に多くの指示や長い説明をされると混乱する・手間がかかったり、時間がかかったりして、集中が必要なものは後回しにしがち・何かに「はまる」と、ほどほどで止めることができず、なかなか抜け出せない(読書やネットサービス、ゲームなど)・長時間座っていることが苦手で、手足がむずむずしてくるADHDをもっと知るためのリンク集「もしかしてADHDがある?」気になる症状があるときには、次のコラムが参考になります。大人のADHDの困りごとへの対策を具体的に解説!職場ではADHDを公表したほうがいい?|LITALICO仕事ナビ大人のADHDのある人が受けられる就労支援・経済的支援とは?|LITALICO仕事ナビまとめADHDは特徴の現れ方によって、大きく3つのタイプに分けられるほか、年齢や性別などによっても目立つ症状は異なってきます。早期にその特性に気づき、適切なサポートを受けることによって、少しずつ困りごとを改善してゆくことができます。他の発達障害との合併や二次障害に気を配りながら、慎重に見守りサポートしていきましょう。
2019年11月29日成長した子どもたちの反抗…小学校3年生になった広汎性発達障害の娘は、最近かなり反抗的。以前のように、こちらの提案を素直に受け入れる…ということがなくなり、原因不明のイライラも増えてきました。Upload By SAKURAさらに、騒いでいるのは、イヤイヤ期がまだ炸裂している3歳児の息子。1つのことをさせるのでも、スイッチが入ってしまったら、気が済むまでイヤイヤしています。Upload By SAKURA発達障害の娘と、イヤイヤ期の息子の間で…娘も息子も、成長ゆえの行動。それを理解している私…息子のこだわりとわがままに対応しつつ、娘のイライラの原因を探り、寄り添う…Upload By SAKURAなーんて、そんな毎回寛大ではいられません!Upload By SAKURAこっちの気持ちも知らないで~!いい加減にしてくれ~!君たちは、スムーズにできないのか~!と叫ぶこともあります(笑)しかし、娘の反抗も、息子のわがままも、やめさせることは現実不可能…。そうなると、私の方が我慢するしかありません。大好きだったストレス解消法の封印。といっても、イライラを我慢して対応し続けると、私だってストレスが溜まっていきます。そんな時に、私のストレスを解消させてくれていたのが、「カラオケ」でした。しかし、ここ最近はすっかりご無沙汰。その理由は…Upload By SAKURA娘は、なぜかカラオケを拒否するようになりました。以前は、主人が説得してくれていましたが…Upload By SAKURAその説得も娘の成長と共に、通じなくなりました。本人が頑なに嫌がっているのに、無理強いして連れて行くわけにはいかない。結局、私が行くのを我慢することになりました。新しいストレス解消法は…ストレス解消方法がなくなった今、私は…Upload By SAKURAとにかく、仕事に没頭することにしています。私は、ありがたいことに、自分が好きな絵で仕事をしています。行き場のないイライラが溜まった時には、とにかく絵を描いたり、文章を書くようにしています。特に、文章にするというのはとてもおすすめです。Upload By SAKURA自分の思いをそのまま文章にする…そしてそれを自分が読む…。読んでいると、自分が第三者になったような気分になります。子どもたちの前で、冷静に一歩引けない私でも、文章にすれば、少し引いて物事を見れるようになります。はちゃめちゃな言い分だった時は、「あれ?」とそれに気づけますし、自分の文章に対して、自分で「あれ、私って結構頑張ってるじゃん」なんて思うと、またそこで冷静になれています。私にとって、一人でパソコンに向かって黙々と作業する時間は、心を落ち着けるクールダウンの時間にもなり、なおかつそれが仕事にもなっています。疲れた後の癒しは、やっぱり子どもたち!そして仕事を終え、疲れた後は必ず、『子どもたちが恋しい』という感覚がやってきます。一人で没頭する時間を持ち、メリハリのある生活をすることで、煮詰まらないでいられるのです。Upload By SAKURA子どもたちの世話で溜まったストレスを、仕事で発散し、その仕事で疲れた気持ちを、子どもたちで癒す。その繰り返しで、私は毎日をこなしています(笑)
2019年11月13日成長曲線から外れることなく、順調に育ってきた息子。1歳までに歩き、私のまねをして「ママ」と言うこともありました。しかし、まねをしているだけで言葉の意味はわかっていないようでした。1歳半まで意味のある発語が見られないまま健診の日を迎え、そこで発達の相談をし、発達支援施設に通うことになった体験談をご紹介します。 体の発達は順調だったけど…“もしかして、育てにくい子なのかな?”と感じることは何度かありました。生後5カ月のころ、息子を連れて結婚式に参列したときのことです。披露宴会場では私たちの席の近くにスピーカーがあり、音楽や拍手の音がするたびに息子は泣いていました。生後10カ月のころは、かんしゃくを起こすと何でもかんでも物を投げていましたし、知らない人が近づいてきただけで泣くこともありました。すごく警戒心の強い子だったと思います。 集団健診で他の子と比べると…1歳半健診は初めての集団健診で、息子と同じぐらいの子たちが落ち着いているように見えて驚きました。というのも、息子はじっとしているのが苦手だったのです。人見知りが激しく、初対面の大人がいると泣き出すこともしょっちゅうでした。健診は母子で受けている方が多かったのですが、私は夫にもついてきてもらいました。息子は体重計に乗るのを嫌がり泣き叫んでしまったので、夫と一緒に計り、夫の体重を引くという形でおこないました。積み木を積むなんてできるわけもなく、積み木を投げて終了しました。 発達検査を受けることに…健診後に相談し、後日詳しい発達検査を受けることになりました。そのときも人見知り全開で、私が口頭で質問に答え、検査項目のチェックをしてもらいました。予想通り、言葉の遅れが顕著にみられました。意味のある発語がないだけでなく、言葉の意味を理解していないのです。元々意思の疎通ができていないと感じていたので、あまりショックではありませんでした。それよりも今後どうするべきかを教えてもらえることに安心していました。 安心した専門家の言葉紹介してもらった発達支援施設に初めて行ったとき、「お母さん、よく頑張っていますね」と言ってもらえたことで、私の育て方が悪いわけではないのだとホッとしました。2歳9カ月になった今は発語が増え、人見知りもなくなり、簡単なコミュニケーションがとれるようになりました。今でも偏食や感覚過敏な部分はありますが、お友だちと仲良く遊ぶことができています。 わが子が発達障害かもしれないと思うと不安になり、何度も検索しました。発達のスピードも、タイミングも、子どもによってそれぞれ違うものです。私は、これからも専門家のサポートを受けながら、息子の個性を尊重し、成長を見守っていきたいと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 イラスト:(c)chicchimama著者:大森りさ0歳と2歳の兄弟の母。長男は発達支援施設に通っている。主に妊娠・出産・子育てについての記事を執筆している。 ✿❀ベビカレ秋のマンガ祭り❀✿大好評のマンガ記事を増量してお届けする期間限定“マンガ祭り”開催中! 人気レギュラー連載10作品に加え、新たにゲスト連載8作品が登場♪ 育児や家事、仕事などの合間の息抜きタイムにどうぞ♡
2019年11月12日うちの家族、個性の塊です
夫婦・子育ていまむかし
めまぐるしいけど愛おしい、空回り母ちゃんの日々