純愛映画の逆を行く『ナラタージュ』 観客に「傷ついてほしい」行定勲監督の思い
ただ、映画って、作られてない時にこそ必要だと思える作品があると思うんですよ。『世界の中心で、愛をさけぶ』のときも、純愛なんで求められてなかったし、見向きもされていなかった。世紀末を迎えて、陰惨な物語やモラトリアムな物語が多い中、純愛を信じてみようというところからできた作品だったんですが、そうすると「純愛ブーム」と言われて(笑)。そこに乗っかったほうが経済的には潤うんでしょうけど、天邪鬼な人間なので。
――いろいろ映画を撮られつつも、この企画は並行して進められていたんですね。
ことあるごとに周囲にシナリオを見せて、好評ではあるんですけど「いまの時代、こういう作品はあたらないかもしれない」という判断がありました。シチュエーションとしては王道の教師と生徒という面もあるから、少女漫画原作映画全盛の時代ならいけるんじゃ、と思いましたが、やっぱり内情は全然違ったってことかもしれませんね。
逆に言えば、これは映画的な作品になるんじゃないかと、手応えはありました。
プロデューサーはやっぱり、映画どっぷりのものになっていると、回避しようとしますから。特に大きく構えるときは、なるべくわかりやすく盛り上げて、みんながついてこれるような作品にする。