2023年2月19日 06:00
91歳の現役記者 赤ちゃんをおんぶして取材にいそしみ、今年で40年
創刊に当たっては、夫とこんな約束をした。
「当時は中野だけでローカル新聞が紙ありましたが、『悪口は書かない』『広告主も一般人も平等に記事にする』と決めました」
もちろん印刷も写真も、デジタル技術などほとんどない時代。
「活版印刷で、締切りギリギリに主人の原稿や写真フィルムが上がって、私が自転車で製版所や印刷所に届けることも多かった」
相変わらず集金も涌井さんの役割だったが、一方で家族は増えて、4姉妹はどんどん成長していく。
「子供たちは全員、保育園と学童のお世話になりました。ときには主人の取材が重なって、私がピンチヒッターをすることもあり、保育園のお迎えに行けず、街の赤電話から『あと15分だけ待ってください』と保母さんにお願いするのもたびたびでした」
しかし、’82年4月、主筆だった夫の啓権さんが、夢半ばにして亡くなってしまう。
「糖尿病など持病もありましたが、最後は肝臓がんで。当時の日本では一般的でしたが、告知をしなかったので、本人は復帰するつもりで、ベッドの上でも亡くなる直前まで記事を書き続けていました」
新聞発行に関しては、誰もがもう存続は困難だろうと思っていた。