熊川哲也 Kバレエ カンパニー Autumn 2020『海賊』が開幕。ひと足早くゲネプロを鑑賞する機会に恵まれた。芸術監督の熊川による演出・振付で全幕作品として2007年に初演され、レパートリー化された本作。19世紀イギリスの詩人ジョージ・ゴードン・バイロンが発表した長編の詩をもとに多くの振付家が生み出した様々なバリエーションを、熊川は再構成。ストーリーを編み直し、起承転結に呼応する音楽を選ぶことによって、七つの海を渡る屈強な海賊コンラッドらの壮大な冒険譚に仕立て上げた。ゲネプロは、船の難破を活写するプロローグで幕開け。海賊の首領コンラッド、その部下ビルバントやアリの躍動する姿が、紗幕越しに浮かび上がる。トルコ領ギリシャの浜辺に打ち上げられた彼らは、メドーラとグルナーラ姉妹から介抱されることに。メドーラの美しさに心を奪われ、恋に落ちるコンラッド。しかし姉妹と仲間の娘は奴隷商人ランケデムに捕らえられ、市場へ売りに出されてしまう。彼女たちを奪還すべく、立ち上がった海賊の行方は──。強い絆を前面に押し出した勇壮な踊りの中に見え隠れする、個性豊かな海賊たちのキャラクター。中でも、かつて熊川も扮した従者アリは命がけの忠誠心をもって首領を守り抜く存在感を見せつける。取材日にこの役を演じていた山本雅也は、1月に上演された『白鳥の湖』でプリンシパルに昇格した次世代の踊り手。2017年の『海賊』出演時にも見せた高い跳躍力で、鳴り響く銃声に立ち向かう。周りを取り囲むダンサーも実力派が揃い踏みだ。コンラッド役の堀内將平は、リーダーにふさわしい堂々たる踊りを披露。伸びやかな舞いで観客を魅了した成田紗弥は、柔らかい肢体の中に可憐なメドーラ像を覗かせた。なお、回替わりでコンラッドを務める遅沢佑介とメドーラを務める中村祥子は、本作でKバレエのラストステージを飾る。ゲネプロ後には熊川からコメントが到着。約半年の活動休止期間を経てカンパニー再始動を果たす思いを『海賊』に乗せ、「この作品が持つ力強さこそ、カンパニーが踏み出す新たな第一歩にふさわしく、かつてないほどのエネルギーと感動が劇場を満たすはず」と語った。なお、熊川は10月28日(水)に刊行される小説版『海賊 Le Corsaire』の巻末インタビューで演目の成り立ちや舞台裏などを明かしている。公演は10月15日(木)~18日(日)に、東京・Bunkamuraオーチャードホールにて。チケット販売中。なお15日18:30、17日(土)12:30、18日12:30開演回ではオンラインでの生配信も。それぞれ翌日23:59までアーカイブ視聴できる。取材・文:岡山朋代
2020年10月15日8月10日に肺炎のため78歳で亡くなった俳優の渡哲也さん。その四十九日法要が9月16日に都内で営まれたことを、一部スポーツ紙が報じた。記事によると法要は渡さんの希望に沿った形で営まれ、家族とごく少数の関係者だけが参列。所属していた「石原プロモーション」の俳優たちは参列しなかったという。石原プロといえば来年1月に芸能部業務を終了し、同年3月末に俳優マネジメントを終了すると発表している。そこで気になるのが、所属タレントたちの今後だ。すでに神田穣(24)は溝端淳平(31)、池田エライザ(24)らが所属する芸能事務所「エヴァーグリーン・エンタテイメント」、金児憲史(41)は妻で女優の楊原京子(38)と同じ「スタッフ・テン」への移籍を果たしている。そして宮下裕治(45)は8月いっぱいで同社との契約を終了。俳優業を引退していたことが一部で報じられた。「神田さんはイケメンな顔立ちに加えて肉体もムキムキ。今後はアクション作品での活躍が期待される逸材です。金児さんは石原プロ伝統の“男臭さ”を持つ後継者で、歌唱力も抜群です。2人の移籍先にとっては、大きな戦力となるでしょう」(芸能記者)残る所属タレントは舘ひろし(70)と神田正輝(69)、そして大々的に行われたオーディションでグランプリを獲得し芸能界入りした徳重聡(37)ら数人となった。「おそらく神田さんは個人事務所、舘さんは徳重さんら俳優陣や石原プロのスタッフも引き連れて新会社を設立するのではと言われています」(テレビ局関係者)昭和から芸能界を牽引してきた事務所だけに、その行く末に最後まで注目が集まりそうだ。
2020年09月18日もうすぐ開幕される「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア2020」(SSFF & ASIA2020)にて、別所哲也、河瀬直美、「King Gnu」常田大希が参加するオンライントークイベントが配信されることが決定した。今回のイベントは、ソニー株式会社と、ソニーモバイルコミュニケーションズ株式会社が、共同で新しい映像文化や潮流を次世代クリエイターと一緒に探求する「Creators’ Junction partnered with XperiaTM(クリエイターズ ジャンクション パートナー ウィズ エクスペリア)」のオンライントークイベント。モデレーターに映画祭代表の別所さん、河瀬監督がゲスト出演。さらに、スペシャルゲストとして「King Gnu」常田さんが参加する。トークでは、コロナ禍におけるエンタテインメント・映像業界の変化や、ニューノーマル時代の映像クリエイティブの在り方、スマートフォンでの映画製作の可能性などについて、三者の目線から可能性を探る。また、先月からスタートした2021年度の「オフィシャルコンペティション supported by Sony」および「スマートフォン 映画作品部門 supported by Sony」などの作品応募に向けて、これからの映像製作のヒントにも迫っていく。「Creators’ Junction partnered with XperiaTM」は9月28日(月)20時スタート予定「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア2020」は9月16日(水)~27日(日)開催。(cinemacafe.net)
2020年09月10日真夏の日差しを受けて、供花はどこか寂しげに揺れていた。墓標に刻まれていたのは「渡瀬家」の文字。そして傍らには、もう一基の墓標が。昭和の大スター・渡哲也さん(本名・渡瀬道彦享年78)が、自分の父母、そして愛妻の家族のために作った墓地は、東京都内の古刹にある。渡さんの逝去が公表されてから2週間ほどがたつ。「逝去が報じられた翌日には、友人知人たちからたくさんの供花が送られてきましたが、故人の遺志により受け取られることはなく、運んできた車に、再び積み込まれていました。遺骨は自宅の祭壇に安置され、俊子夫人(78)が守っているそうです」(スポーツ紙記者)肋膜炎、直腸がん、大腸がん、急性心筋梗塞、肺気腫……、生涯で多くの病魔と闘い続けた渡さんの傍らには、いつも愛妻・俊子さんがいた。渡さんと俊子さんは、青山学院大学の同窓生で、兵庫県人会でたまたま席が隣り合ったのが出会いだったという。「渡さんは兵庫県の淡路島出身。俊子さんは東京出身ですが、父の仕事の都合で高校時代は神戸女学院に通っていたのです。青山学院大学の同窓生によれば、“学生時代も下宿の部屋探しからなにから、俊子さんが渡さんの面倒をみていた”そうです」(渡さんを古くから知る映画関係者)出会ってから’71年に結婚するまで7年。ようやく始まった待望の新婚生活だったが、翌年から俊子さんは渡さんの看病に追われるようになった。また渡さんは’74年に大河ドラマ『勝海舟』を肋膜炎のために降板している。当時、俊子さんは週刊誌のインタビューで、渡さんの闘病生活について語っていた。《とにかく食べさせることに気を遣いました。おにぎりなら食べやすいというので、なかにイクラや肉のつくだにをいれたおにぎりをつくったり、牛肉や野菜を一日煮込んでスープをつくったり……。でも、大変なのは夜でした。すごい寝汗をかくんです。シーツやタオルケットまで濡れるので、明け方までに3~4回、下着とシーツをとりかえなければなりませんでした》(『女性セブン』’74年2月27日号)このときの俊子さんは、半世紀近くにわたって、夫の幾度もの大病と闘っていくことになるとは、想像もしていなかっただろう。銀幕スターとしての矜持も邪魔したのだろうか、渡さんは妻の献身に対して、言葉で感謝の気持ちを表すことは苦手だったようだ。取材のときも俊子さんに関して語るときは、ややそっけなかった。「(ご苦労さん、ありがとうなんて)そんなこと言えないですよねぇ。言わなくてもわかってくれているでしょう」 「(女房は)丈夫だけがとりえでねぇ」こんな調子だった。だが前出の映画関係者が続ける。「口には出さなくても、渡さんは体調を崩すたびに、自分の睡眠を削って看病してくれる俊子さんに感謝していたでしょうし、“一人娘”をくれた俊子さんのご両親のことも大切にしていました。渡さんが亡くなるまで住んでいたのは東京都内の一軒家ですが、ここにはもともと俊子さんの実家があり、いわば“マスオさん”として同居生活を送っていたのです。俊子さんのお母さんが’93年に亡くなったときには、渡さんが喪主を務めています。通夜や葬儀には、宍戸錠、富司純子ら数百人の芸能人や関係者らが弔問に訪れるという盛大なものでした」そして渡さんは、石原裕次郎さんの逝去から20年後の’07年、ある決断を下した。故郷・淡路島の真言宗の寺院ににあった渡瀬家代々の墓を、東京都内に移したのだ。移設先は、平安時代に創建されたとされる天台宗の古刹。「俊子さんのご実家の菩提寺だったと聞いています。渡さんはそこに渡瀬家の墓を建立するだけではなく、その隣に俊子さんのご実家の墓標も新たに作り直したのです」(前出・映画関係者)墓の移設について、葬儀・お墓・終活ビジネスコンサルタントの吉川美津子さんが次のように語る。「宗派の違うお寺に、お墓を移すことは、寺院や親戚の理解があれば可能で、珍しいことではないと思います。奥さまのご実家と同じお寺に移すことで、お盆やお彼岸の法要、お墓参りも同じタイミングですることができるようになります。また渡さんは、奥さまとそのご家族を大事にされていただけではなく、ご自身のご先祖と奥さまのご先祖とのご縁をとても大切にされていたのではないでしょうか」俊子さんの父母は他界しているが、一人娘だった彼女はまめまめしく墓参を続けているという。「きっと渡さんは看病で苦労ばかりかけた俊子さんに、何かの形で報いたいと考えていたのだと思います。ご両親の眠るお墓をきれいにしてあげたいとも考えたのでしょうし、もっと先の話でいえば、俊子さんはゆくゆくは渡瀬家のお墓に入るわけですが、お隣には、ご両親もいらっしゃることになります」(前出・映画関係者)並んで立つ両家の墓標には、口下手だった渡さんの、俊子さんへの深い愛が込められている。「女性自身」2020年9月8日号 掲載
2020年08月30日米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」(SSFF & ASIA)の代表を務める俳優・別所哲也が、8月28日、東京都庁にて小池百合子都知事を表敬訪問した。「(ニュー)ボーダレス」~変化を力に変えていこう~をテーマに掲げる今年の映画祭は、9月16日(水)より開催。本映画祭について都知事は「今年は、withコロナの中で、新しい日常との両立に合わせて、客席を減らしたりセレモニーのライブ配信をしたりと、まさしく新しい日常の一つのパターンを表しているかと思います。そして、各会場には新型コロナの感染予防対策をしっかりおこない、安心・安全な運営をして頂くことを期待しております」と語った。映画祭と東京都が共同で行っている映画製作プロジェクトが今年で3回目を迎える。本年の作品には、主演に森崎ウィン、シンガポール・中国で活躍するジネット・アウを迎え『This is Tokyo』を製作。作品に対して都知事は「森崎ウィンさんはミャンマー出身でいらっしゃいますよね。女優さんもシンガポール出身とのことで、アジアの魅力がそっくりそのまま映画の中に表現されていると思います」とコメント。本編は公式サイトにて公開されている。一方、東京の魅力を国内外に発信するショートフィルムを全世界から募集する「Cinematic Tokyo」部門では、全世界から今年は236本の応募があり、その中から優秀賞作品として、オーストラリアの監督が手掛けた『グッピー』が選ばれた。別所さんは「東京を訪れている若い外国人カップルが、ある出来事をきっかけにお互いを見つめなおす、というシンプルなストーリーの背景に、映画的な東京の街、主人公の繊細な感情が最もうまく表現されていました」と称賛した。この『グッピー』は、9月27日に行われるアワードセレモニーにて都知事賞が授与される。今回の表敬訪問後、別所さんは「今年はコロナ禍で、海外チームと連絡が取れなくなるなど、様々な試練がありましたが、どうやったら皆様に映画を届けられるのか、世界とどう繋がれるのかを何度も協議し、今回の映画祭実施に至りました。オンライン開催も実施しますので、より多くの方々に楽しんで頂ければと思います」とメッセージを寄せた。●『This is Tokyo』(監督:鈴木勉)2019年秋、ラグビーワールドカップ開催で、街に活気があふれる東京。シンガポールの企業との提携を進めるチームに抜擢された健人は、来日したクァン社長をアテンドする仕事を任されるが、彼女の冷たい態度に困惑する。2人で東京を観光するうちに、互いの心に小さな変化が生まれ──。▽予告編●『グッピー』(監督:Charles Richardson)外国の地、東京で若いカップルの片方が最終電車に乗りそびれ、2人はバラバラになってしまう。コミュニケーションだけが2人を引き戻せる唯一の手段だったが、携帯電話の充電と共に緊張の糸も切れてしまった2人。彼らの関係はどうなるのか…。「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア 2020」は9月16日(水)~27日(日)オンライン会場および東京計4会場にて開催予定。『This is Tokyo』『グッピー』は映画祭のオンライン会場にて無料先行配信。(cinemacafe.net)
2020年08月28日俳優の別所哲也が28日、映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア(略称:SSFF & ASIA)2020」の代表として東京都知事の表敬訪問を行った。同映画祭は米国アカデミー賞公認、日本発・アジア最大級の国際短編映画祭で、9月16日~27日までの開催が決定している。もともとは6月開催を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大の状況で延期することに。オンライン開催を拡大するとともに、「客席数も減らしまして、感染症対策もしっかりして、リアルな上映会も試行錯誤で行なっていきたい」(別所)と語る。東京都知事・小池百合子は「長い間世界への発信を映像を通じてアートという形でお伝えいただいていること、大変嬉しく思います」と称える。「新型コロナウイルス禍にあって、ウィズコロナの認識のもとで、新しい日常との両立ということになろうかと思います。会場では感染防止宣言も行い、安心安全な運営に期待をしているところです。大変楽しみにしております」と期待を寄せた。同映画祭では、シネマスポーツプロジェクト 特別製作作品として森崎ウィン主演の映画『This is Tokyo』も上映されるが、小池都知事は「森崎ウィンさん。ミャンマー出身で、小学校4年の時に日本に来られた。そしてシンガポールの女優さん(ジネット・アウ)が出られる。アジアそっくりそのものがつまってる感じで、楽しみであります」と語る。都知事により、東京の魅力を伝える「Cinematic Tokyo部門」の優秀賞・東京都知事賞としてオーストラリアのCharles Richardson監督の作品『グッピー』も発表され、最後に2人は握手代わりのグータッチで締めくくった。改めて取材に応じた別所は、「中止をしたりひるむのではなく、できることを工夫をして世界発信する。祭りの意味をもう1回考える。人間には祭りが必要だと常々言っております。カンヌやベルリンも試行錯誤しているし、僕らも世界に示すことが1つの勇気につながると信じて開催をしていきたいと思います」と宣言。「9月になってどのような状況かによって考えるところなんですが、関東圏以外の監督、審査員のみなさん、どこまでお招きするかは東京の状況に合わせて様々なプランを用意してお迎えしようと思っています」と明かした。
2020年08月28日また一人、昭和の大スターが8月10日に息を引き取った。日活映画やテレビドラマ『西部警察』(テレビ朝日系)などでの派手なアクションとハードボイルドな演技で一世を風靡した渡哲也さん(享年78)。そんな渡さんの活躍を秘蔵写真で振り返るーー。■’65年『あばれ騎士道』でデビュー主演・宍戸錠さんの弟役でデビュー。父の死の真相をめぐり、密輸組織と対峙するオートレーサーを熱演した。■’66年『嵐を呼ぶ男』撮影’57年に公開された石原裕次郎さんの代表作をリメーク。24歳とは思えぬ眼力で、早くもスターの貫禄!■’74年、退院時に夫人と大河ドラマ『勝海舟』で主演を果たすも、胸膜炎を患い途中降板。8カ月の入院生活を終え、夫人に迎えられて。■’74年、紅白初出場が決定’73年にリリースした楽曲『くちなしの花』が大ヒット。紅白初出場決定を笑顔で報告。■’85年、石原裕次郎さんと渡さんの芸能生活20周年を記念したテレビ番組で。軍団総出演で、『聖者の行進』を大合唱。■’96年、大河ドラマ『秀吉』で信長役NHK大河ドラマ『秀吉』に出演。圧巻の演技が人気で、出番が数話伸びたという逸話が。■’14年、石原軍団を率いて石原プロ2代目社長として、軍団を率いた。この日は、裕次郎さんの二十八回忌法要に出席。作品での型破りな姿とは裏腹に、どんなに自分より若い共演者でも“さん”付けで呼び、インタビューでは「僕より、彼を」と共演者を立てる。大御所と呼ばれてもなお、謙虚な姿で誰からも愛された。仕事への思いも強く、’91年、直腸がんを患い大手術を受けるも、「カメラの前に立てば、体力がないなんて言ってられない」と術後約70日で舘ひろし主演ドラマで復帰。石原軍団との絆も感じさせた。長年、石原プロを支えてきた名俳優のご冥福を、心よりお祈りいたします。「女性自身」2020年9月1日 掲載
2020年08月20日8月10日、肺炎のため亡くなった渡哲也さん(享年78)。これまで石坂浩二(79)や吉永小百合(75)、北野武(73)や上戸彩(34)といった俳優陣が追悼コメントを発表している。渡さんは年齢問わず、多くの人たちに慕われていた。そのなかでも、同じく石原プロに所属する舘ひろし(70)とは師弟愛を育んできた。「ミュージシャンとしてデビューした舘さんは、76年に『暴力教室』で映画デビューを果たしました。すると、渡さん直々にドラマ『西部警察』のオファーが。会ってみると『舘くんですね』と言い、話しているときも腰が低かったため『ほかの俳優たちと違う!』と舘さんはいたく感激したそうです。そのいっぽうで渡さんは『西部警察』の現場にキッチンやシャワーのついた専用のバスを持ち込んでいました。紳士的でありながらもハリウッドスターのような姿に、舘さんは次第に憧れを抱くようになったそうです」(芸能関係者)もともと演技経験のなかった舘。“役者・舘ひろし”は渡さんによって育てられたようだ。「舘さんは映画デビュー当時、演技に自信がなかったといいます。しかし『西部警察』の撮影で、渡さんは『君には華がある』と自信をつけてくれたそうです。そのことがキッカケで『この人になら人生を預けてもいい』と思い、舘さんは石原プロ入りを決めました。また『演技を上達させるのではなく、役の人生を演じるんだ』という演技論も語ってくれて、その教えは舘さんの胸にずっと残っているそうです」(スポーツ紙記者)渡さんのことを慕い続けた舘。彼には夢があったという。「役者人生のキッカケを与えてくれた渡さんのことを、舘さんは恩人と呼んでいました。そんな渡さんと映画を撮るという夢を、舘さんは持っていました。渡さんが元刑事で、舘さんは逃走を続ける凶悪犯という設定。実現することはできませんでしたが、シナリオも構想していたそうです」(前出・スポーツ紙記者)“役者・舘ひろし”の今後を、渡さんは天国からきっと見守ってくれることだろう。
2020年08月18日2020年8月10日、俳優の渡哲也さんが肺炎で亡くなりました。78歳でした。俳優の渡哲也が逝去10日に肺炎でネットで「涙が止まらない」の声芸能界からは、渡さんを悼む声が次々とあがっています。渡さんと親交の深かった、女優の吉永小百合さんもその1人です。吉永小百合「泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか」渡さんと映画『愛と死の記録』で初共演して以降、宝酒造株式会社『松竹梅』のCMなど、数々の作品で共演をしてきた吉永さん。長年渡さんを先輩として慕い、突然の訃報に驚きを隠せなかったそうです。同月14日、吉永さんはさびしい胸の内を、こう明かしました。この日、本紙など報道各社に寄せた直筆の追悼コメントには「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで(実弟で俳優の渡瀬)恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか」と寂しさを隠せず。渡さんが天国に旅立ったことがいまだに信じられない様子で、「大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です」と無念の思いをつづった。サンケイスポーツーより引用俳優の渡瀬恒彦さんは、渡さんの実弟で2017年に亡くなりました。吉永さんは、渡さんが大好きな夏の海を泳いで天国の弟のもとへ行ったのではないかと感じたようです。長年、渡さんの背中を見てきた吉永さんだからこそ感じた最後の思い。きっと海を渡り、天国で恒彦さんと再会できたことでしょう。渡さんのご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2020年08月18日「いつも実直で、仕事に対する姿勢は一生懸命な方でした。大事なセリフになると、必ずギュッと拳を握りしめていた渡さんの姿はいまも忘れられません」本誌にそう語るのは女優・松原智恵子(75)。8月10日に俳優・渡哲也さんは東京都内の病院で肺炎により逝去した。享年78。訃報が報じられたのは、逝去から4日後の14日夜のこと。生前、渡さんは妻に「静かに送ってほしいから、自分が死んでも、葬儀などすべてが終わるまでは誰にも知らせないように」などと伝えていたという。その言葉どおり、お別れ会や偲ぶ会の予定もない。渡さんはこの数年、肺気腫で苦しんでいた。だが日活映画時代の代表作である『無頼』シリーズ6作で共演した松原ら、親しい友人たちにも、闘病について詳しく語ることはなかったという。松原が続ける。「実は6月に浅丘ルリ子さんからお電話をいただいたのです。浅丘さんは『近いうちに、チーコ(※松原)もいっしょに3人でごはんを食べようよ』と、渡さんにご連絡したそうなのです。でも渡さんは、『いまは体調が悪くて無理だから、次の機会にまた誘ってよ』と、おっしゃったとか。いつか3人で“日活同窓会”ができるかと楽しみにしていたのに、とても残念です。渡さんのことですから、『ごはんに行けなくてごめんね』と、頭をかきながら、私たちを見守ってくださっているような気もします……」「女性自身」2020年9月1日号 掲載
2020年08月18日8月10日に俳優・渡哲也さんは東京都内の病院で肺炎により逝去した。享年78。この数年、渡さんは肺気腫のために苦しんでいた。本誌が渡さんの闘病生活を目撃したのは、昨年4月、東京都内にある病院の前。酸素ボンベの入ったバッグを右手に持ち、バッグからは鼻まで酸素を送るためのチューブがのびていた。通院に付き添い、車の乗り降りを介助していたのは、愛妻・俊子さん(77)だった。ベテランの映画関係者は言う。「俊子さんは大手鉄鋼会社の役員の令嬢で、青山学院大学では渡さんの1年後輩。渡さんの一目ぼれだったそうです。しかし結婚にこぎつけるまでは何年もかかりました。当時の渡さんには大勢の女性ファンがいたため、なかなか公表することができなかったのです。ハワイで2人きりの結婚式を挙げたのは’71年3月、渡さんが29歳のときです」渡さんと俊子さんの結婚生活は49年と5カ月。しかしその間に、渡さんは幾度も病魔に襲われた。48年前の’72年7月には、京都でテレビドラマ撮影中に高熱を出して病院に運ばれた。「その後、俊子さんの伯父が院長を務めていた東京都内の病院に転院します。当時の俊子さんは妊娠中でしたが、病院食が苦手な渡さんのために、自宅で食事を作っては、運んでいたのです。肉体的・精神的負担が大きかったためか、俊子さんは何度も流産の危機に襲われました」(前出・映画関係者)’74年に放映されたNHK大河ドラマ『勝海舟』では主演だった渡さんだが、肋膜炎のため途中で降板。さらに’91年には、直腸がんに襲われる。その大手術後、渡さんは妻・俊子さんへの感謝の気持ちを雑誌のインタビューで語っている。《女房にも助けられました。(6月)二十日に手術して二十八日抜糸があったんですが、直腸をとっていますから猛烈に痛むのです。看護というのは患者と一緒に痛がっていたら絶対にできないんですね。私が痛がっていることは当然わかっている。その上で、一つ次元の高いところで、ある意味では冷静に患者を見なければいけない》(『文藝春秋』’92年2月号)実は俊子さんは、渡さんの入院中に看護法を看護師から直接指導してもらっていたという。’15年に渡さんは、急性心筋梗塞のため緊急手術を受けたが、俳優復帰のためにリハビリのフォローをしたのも俊子さんだった。当時、夫妻の知人は、その奮闘ぶりについてこう語っていた。「渡さんの退院前から、俊子さんは自宅にリハビリ用のマシンを運び入れていました。室内ランニングやウオーキング用のトレッドミルなどです。マシンを使用する運動のほかにも、階段の上り下りもリハビリになりますが、俊子さんはいつも付き添っているのです。もともと食事にうるさい渡さんですが、いまは減塩食になっており、味つけの工夫も大変です。しかし、かつて石原裕次郎さんが解離性大動脈瘤の手術後に、奥さんのまき子さんが作った減塩食の写真付きレシピがあるそうで、俊子さんもそれを参考にしているようです」渡さんと俊子さんのかつての姿について、石原プロモーションで常務取締役を務めていた仲川幸夫氏はこう語る。「渡さんの自宅には松田優作さんや地井武男さんたちも遊びに行っていましたが、もてなしてくれるのは俊子さん。彼女はとっても料理が上手なので。俊子さんは聡明な女性で、渡さんは何でも彼女に相談していました。芸能界以外の人脈も広くて、そこから得た情報を、渡さんに伝え、彼も仕事の参考にしていたようです。ただ俊子さんは、“表”に出ることは一切ありませんでした。渡さんが石原プロの社長を務めていたときも、もちろんプロダクションの経営に口をはさむこともしなかった。渡さんの長年の介護は本当に大変だったと思いますよ。できればお会いしてお悔やみも申し上げたいです……」この数年、石原裕次郎さんも食べたという俊子さん手作りの減塩料理を口にしながらも、渡さんの頭から離れなかった課題が、“石原プロの幕引き”だったという。実は昨年4月、本誌は石原プロの関係者のこんな証言を報じていた。「渡哲也さんが、ついに俳優引退と石原プロモーションの幕引きを決断したのです」当時、渡さん本人に決断の理由などについて取材を試みた。すると渡さんは目をつぶり、数秒間真剣な表情で黙考した後、付き添っていた運転手に、「事務所に連絡するように伝えなさい」と、静かに言い残して、自宅へと戻っていったのだった。だが石原プロの元幹部は次のように語っていた。「石原プロを“自分の目が黒いうちにきれいに終わらせる”というのは、渡さんにとって長年の悲願でもありました。ほかの(勝プロや三船プロのような)“スタープロダクション”のような終わり方にはしたくないということです。渡さんとしては倒産とか分裂とかで、石原裕次郎さんの名前を汚したくない。それが彼の美学なんです。’11年に健康上の理由で社長からは退きましたが、渡さんが決定したとなれば、ほかの社員たちも従います。幕引きを急いでいるのは、渡さんが自分の体調に自信を持てなくなっているからなのでしょうね」しかし俳優たちの移籍先を探す必要もあったからなのだろうか、石原プロが’21年1月をもって解散することが発表されたのは1年後の今年7月17日。“幕引き”を見届けたかのように渡さんが逝去したのは、それから3週間後のことだった。生前、渡さんは妻に「静かに送ってほしいから、自分が死んでも、葬儀などすべてが終わるまでは誰にも知らせないように」と、伝えていたという。その言葉どおり、お別れ会や偲ぶ会の予定もない。“幕引きは静かに”……、石原プロのみならず、自身の人生の終幕にも美学を貫いた渡哲也さん。その傍らにはいつも辛苦をともにし続けた妻・俊子さんがいた。「女性自身」2020年9月1日号 掲載
2020年08月18日8月14日、肺炎のため亡くなったと発表された渡哲也さん(享年78)。その俳優人生には、闘病がつきものだった。72年7月に葉間肋膜炎で3カ月療養し、73年には膠原病との診断が。74年2月には胸膜癒着症にかかり、91年には直腸がんが見つかった。97年にも早期の大腸がんが発見され、15年6月には心筋梗塞で緊急入院。晩年には呼吸器疾患などのため、外出時に酸素吸入器を手放せなかった。そんな渡さんだったが、病を通しての“出会い”もあった。そして、そのことがキッカケで病と闘う子供達を支える活動に取り組むようになる。「膠原病で入院した際、白血病と闘う高校1年生の青年と出会いました。渡さんはその青年と交流を深め、退院するときも青年が笑顔で送り出してくれたそうです。しかし、ほどなくして彼は天国へと旅立ってしまったのです。以降、ずっと彼のことが脳裏にあったのでしょう。のちに患った直腸がんを乗り越えたころ、『病気の子供たちに勇気を与えたい』と支援活動に乗り出しました」(芸能関係者)各メディアによると渡さんは96年6月、悪性リンパ腫と闘う少年を慰問。同年9月には小児がんの患者や家族を招いたイベントにも参加している。そこには、舘ひろし(70)や神田正輝(69)といった石原プロに所属する俳優たちの姿も。会場全体で「上を向いて歩こう」を歌うなど、楽しいひとときを過ごしたという。さらに本誌は00年11月、脳腫瘍を患った当時9歳の少女・岡野亜美さんと渡さんの交流を伝えている。脳腫瘍の手術を受けて以降、辛い治療を続けていた亜美さんは渡さんと同じイベントに登壇した。しかし、ステージ裏でも亜美さんは緊張気味。その姿に渡さんは思わず、「笑顔を見せてくれよ」と声をかけた。彼女はその言葉で打ち解けることができたようで、「サインくれる?」と一言。渡さんは快く応じただけでなく、亜美さんのお絵かき帳にこうつづった。「亜美ちゃん、頑張れ」勇気をもらった亜美さんは後日、渡さんに手紙を送った。そこには「わたちゃんおじさん、しぶくてすてき。またあおうね」と書かれていたーー。06年、クイズ番組で獲得した賞金750万円を「小児がん征圧募金」に寄付したことも話題となっていた渡さん。病を乗り越えて誰かのために行動する姿は、子供たちの目に憧れの存在として映っただろう。
2020年08月17日渡哲也さん(享年78)の遺作となった、宝酒造「松竹梅」のCM。石原裕次郎さん(享年52)が87年に死去した後、渡さんが約30年に渡って引き継いだ。2人合わせて出演50周年を記念し、「よろこびをお伝えして50年~幻の共演~」が放送中。「SANSPO.COM」は8月16日、同社が放送継続を希望していると報じた。ただ、本CMはシリーズ最終作。裕次郎さんの三十三回忌を終えたことや、来年1月に石原プロが解散することもあって終止符を打つと決まっていた。記念すべき最後の共演者は裕次郎さんとなった。いっぽう、これまで共演した女優は2人。その代表格は吉永小百合(75)で、98年から10回登場している。令和の正月を2人で飾ったことも記憶に新しい。もう1人は、14年に起用された前田敦子(29)だ。渡さんが「あっちゃんさんと呼んでいいですか?」と語りかける、微笑ましい掛け合いは大反響だった。「異例ともいえる抜擢ですが、渡さんが直々に指名したといいます。会見では、まるで祖父と孫のように仲睦まじい様子でした。渡さんは前田さんを、『情感豊かな女性』と絶賛。前田さんも、渡さんを『理想の男性です』と語っていました」(スポーツ紙記者)なぜ、渡さんは前田を指名したのか。2人が親睦を深めたきっかけは、12年10月にドラマ『強行帰国〜忘れ去られた花嫁たち〜』(TBS系)での共演。前田にとって、AKB48を卒業してから初めてのドラマ出演だった。渡さん扮する日中戦争から帰国した元日本兵が、中国残留邦人の一時帰国を助けるドキュメンタリー。前田は、その手助けをする娘役を演じた。「渡さんは共演するまで、前田さんを知らなかったそうです。ですが、『趣味は?』『お父さんはいくつ?』など積極的にコミュニケーションを取られました。そのおかげで前田さんも緊張がほぐれ、互いに打ち解けたといいます。残留邦人についての歴史も一緒に学んだと聞きました。後輩に対して面倒見の良い渡さんは、前田さんにも丁寧にアドバイス。前田さんもそれを素直に聞き入れ、礼儀正しい姿勢も評価されました。クランクアップ後、渡さんは『前田さんが女優業を続けることに心配はない』と期待を語っていました」(テレビ局関係者)前田にとって、貴重な経験となった渡さんとの共演。その心情は察するに余りある。
2020年08月17日2020年8月10日、俳優の渡哲也さんが肺炎により78歳で逝去。テレビドラマ『西部警察』(テレビ朝日系)はじめ、数々の作品で一世を風靡した俳優の訃報に、多くの人から悲しみの声が上がっています。俳優の渡哲也が逝去10日に肺炎でネットで「涙が止まらない」の声渡哲也『炊き出し』で見せた温かな人柄同月17日の情報番組『スッキリ』(日本テレビ系)では、渡さんの訃報を報道。その人柄について関係者が語りました。生前、ボランティア活動に力を入れていた渡さん。特に、阪神淡路大震災や東日本大震災で行っていた『炊き出し』は石原軍団の名物になっていました。番組では東日本大震災の際、渡さんと一緒に炊き出しを行った中華料理店の店主に取材。店主は渡さんについて「ものすごく気さくで優しい方だった」と述べ、当時の思い出を次のように語っていました。「明日、焼きそば焼かれるんですよね。大丈夫ですか?」と聞いたら、「阪神淡路大震災でね、数千どころか何万人に焼きそばを振る舞ったんだよ。だから大丈夫だから、おいしいから絶対食べてね」って。そういう風にいってくださって。かっこいい方でした。愛を感じたというか、一人ひとりの目を見て顔を見て、「頑張ってね。食べておいしいから、元気になってね」ってみんなに声をかけていて。すごく来場者が多かったものですから。それでも近付けない方には目で追って、手を振ってあげたりとか。大変疲れる状態の中でも目配り心配りが素晴らしい方でした。渡さんはみんなに愛を与える方。本当に感動しました。スッキリーより引用1995年1月に起きた阪神淡路大震災では、発生から1か月後にはトラックに食材を積んで駆けつけ、テント生活を送りながら被災地を回っていたという渡さん。また、2011年3月に発生した東日本大震災の際は、津波被害が特に大きかった宮城県石巻市を訪問し、大勢の被災者に食料を届けたといいます。ネット上では、数々のコメントが寄せられていました。・阪神大震災の時の炊き出しありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。・渡哲也さんって、気取らない優しい人だったんだなぁ。・震災の時、知人がお世話になりました。炊き出しは涙が出るほどおいしかったそうです。情に厚く、温かな人柄でみんなに愛された渡さん。その功績とともに、心のこもった炊き出しの光景を多くの人が忘れないでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年08月17日文:樋口尚文(映画評論家/映画監督)ぴあアプリ連載「銀幕の個性派」第56回から転載人生はひょんなことから運命が激変する。青山学院大学の空手部の学生だった「渡瀬道彦」は、石原裕次郎や小林旭の日活アクション映画こそ観ていたが、夢は飛行機乗りになることであった。実際彼はパイロットは無理でも飛行機の整備士になれたらと某航空会社に就職を試みるも、あいにく叶わなかった。ところがちょうど日活が浅丘ルリ子主演の百本目の映画、蔵原惟繕監督『執炎』の相手役を公募していて(実際の作品では伊丹一三が演じた)、弟の「渡瀬恒彦」や空手部の仲間が本人には無断で「道彦」のことを応募してしまった。このいたずらに「道彦」は怒ったというが、石原裕次郎見たさに気軽に出かけた日活撮影所の食堂で、公募の審査とは関係なくいきなりスカウトされた。1964年の、東京オリンピックの年であった。そんな「渡瀬道彦」は翌1965年、小杉勇監督『あばれ騎士道』で宍戸錠の弟役でデビュー、同年のやはり小杉監督『青春の裁き』では早くも主役に抜擢された。これが映画スタア「渡哲也」の誕生だった。渡は7歳年上の大スタア・石原裕次郎に挨拶に行った際の、あまりの紳士的な態度に感じ入り、後には不振の石原プロモーションの経営に加わって再建に貢献、裕次郎の早すぎる逝去の後も、終生その遺志を継いで活動を続けた。亡くなる少し前にはこの「石原軍団」も解散し、そのけじめのつけ方も見事だった。いま、渡哲也の死を悼む多くのファンにとっては、何よりこの渡の誠実実直なイメージがなじみ深いはずで、それこそが渡のカラーだと解している人も少なくないだろう。だが、いったん映画から遠ざかって1976年以降の『大都会』シリーズ、1979年以降の『西部警察』シリーズと石原プロのテレビ映画の仕事に注力専念しはじめる以前の、デビューから十年目までの季節こそ、渡哲也の俳優としてのポテンシャルが最強に狂い咲いた時代だと思う。そしてその頃の渡の身上とする役柄は、誠実実直どころか破滅へ一直線のやさぐれたはみだし者ばかり、まさに天下の二枚目スタアならぬ「個性派」の極北だった。その最も鮮烈な記憶の筆頭が、1968年の小澤啓一監督『大幹部 無頼』だろう。暗澹たる過去を捨てて生まれ変わろうとする藤川五郎を、裏街道の連中がまがまがしく引きずり戻す。ついに運命に殉ずる五郎は、ラストの下水道のドブ川で血と汚穢にまみれながらやくざどもとの壮絶な斬り合いになだれこむ(渡はなんと破傷風の予防注射をしてこの撮影にのぞんだそうだ)。そのほんの隣り合わせの陽のあたる場所では、清純な女子たちが快活にバレーボールに興じている。その両者のカットバックを通して、高度成長期の平和がまばゆい市民社会からはぐれてゆくアウトローの姿が痛覚とともに描かれる。その時、渡哲也の表情もしぐさのひとつひとつも、かけがえのない弾け方を見せる。さらに70年代日本映画の異形の至宝として強烈な印象とともに記憶され続けるのが、1975年の深作欣二監督『仁義の墓場』。そもそもあの『仁義なき戦い』の主役・広能昌三の最初の候補は渡であったが健康を害して受けられず(主演の大河ドラマ『勝海舟』も体調不良で途中降板し松方弘樹にバトンタッチするなど、渡は病気によっていくつもの大役を逃した悲劇的な人でもある)、喝采を浴びた実録路線も終わりを迎えつつあった時に、季節はずれの凄まじい「戦後」の亡霊が現れた感じであった。『無頼』シリーズと同じ藤田五郎の同名原作は、組織の掟に反逆し続けた伝説のやくざ・石川力夫の短くも壮絶な生涯を描いていたが、渡はこのやくざですら手に負えない究極の暴力性と破滅志向の権化のごとき男を圧倒的な迫力で演じきった。シャブと肺病に蝕まれ、文字通り死神の形相と化した渡が、自分のために心身を削って尽くしたあげく自殺した妻の遺骨をがりっがりっとかじる、あのまがまがしさ。戦後三十年を経て衣食満ち足りた時代に、のどかな市民社会が蓋をして忘れ去ろうとしている「戦後」の情念、怨念を今いちど焙り出した渡の熱演だった。そして渡が石原プロのテレビ映画に専心してお茶の間のヒーローを以て任ずるようになる直前の、アウトロー俳優としての遍歴の掉尾を飾ったのが、翌1976年の深作欣二監督『やくざの墓場 くちなしの花』だ。不思議なタイトルだが『くちなしの花』はこれより3年も前にリリースされた渡のシングル曲だ。ひじょうにじわじわと有線などで売れ、最終的に90万枚の大ヒットとなって劇中でも幾度か使用されているが、このヒット曲が流れることが緩衝材となってほっとするくらいの、これまた異様な負のエネルギーが渦巻く作品だった。満州からの引き揚げ者である刑事の黒岩竜は、在日朝鮮人のやくざの幹部と親交を持ち、型破りな捜査を押し通すなど警察組織から危険視されていた。『仁義の墓場』の石川力夫の刑事版のごとき黒岩は、狂犬のような個人プレーのあげくにヘロイン漬けとなり、情念のおもむくままに銃弾を放ち、組織に抹殺される。この『やくざの墓場くちなしの花』で「戦後」の情念を不穏に全身から発散させた黒岩「竜」刑事と、同年スタートのテレビ映画『大都会』の寡黙で照れ屋で正義感の強い黒岩「頼介」刑事はまるで別人のようであり、これをもってきっぱりとけじめをつけたかのように、渡は破滅型のアウトローに扮することはなくなり、ひたすらヒロイックで部下もいたわる好感たっぷりのデカを引き受けて、敬愛する石原裕次郎の作品づくりに貢献してゆくことになる。そして渡が銀幕に本格的に帰還するのは、二十年後の1996年、大森一樹監督『わが心の銀河鉄道宮沢賢治物語』からのことであるが、これ以降の渡が身上としたのはあの狂気ではなく、静謐な人生の横顔に透ける哀愁の味であった。だから、1997年の『誘拐』や2004年の『レディ・ジョーカー』での渡は、かつてのように堅牢な社会の理不尽に異議申し立てするアウトローを演じながらも、ひたすらに静かで哀しい。人として信ずるものが社会のメカニズムによってないがしろにされてゆくことへの、秘めし怒りや痛覚を表現する時、俳優人生後半の渡は実に冴えた。この味わいをぞんぶんに活かしたのは、1998年の山田太一脚本のドラマ『風になれ鳥になれ』だった。かつて自衛隊のパイロットで、今は小さな倒産しかかっている会社でヘリの操縦士をやっている主人公の心のさざなみを描いた作品で、かつてパイロットを夢見た渡は実に機嫌よく丁寧に演じている。渡の最後の映画作品は2006年の佐藤純彌監督『男たちの大和 YAMATO』だそうだが、晩年に最も印象深かった作品といえば1998年の澤井信一郎監督『時雨の記』ではなかろうか。20年もの間心に留めていた華道教授の吉永小百合と再会し、病魔に侵されて死期の迫るなか、少年のごとき純な思いをかたむける渡の演技は、その儚げなたたずまいがあの70年代のアナーキーな方角とは真反対に発揮されて、ひたすらに好ましく、哀しい。仏も死神も演じきった気骨の人に、合掌。プロフィール樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)1962年生まれ。映画評論家/映画監督。著書に『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍』『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』『ロマンポルノと実録やくざ映画』『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』『映画のキャッチコピー学』ほか。監督作に『インターミッション』。新作『葬式の名人』がDVD・配信リリース。『葬式の名人』『葬式の名人』2019年9月20日公開配給:ティ・ジョイ監督:樋口尚文原作:川端康成脚本:大野裕之出演:前田敦子/高良健吾/白洲迅/尾上寛之/中西美帆/奥野瑛太/佐藤都輝子/樋井明日香/中江有里/大島葉子/佐伯日菜子/阿比留照太/桂雀々/堀内正美/和泉ちぬ/福本清三/中島貞夫/栗塚旭/有馬稲子
2020年08月16日俳優・渡哲也さんが8月10日に肺炎で死去した。78歳だった。訃報を受け、日活映画時代から50年以上も親交のある吉永小百合(75)が追悼メッセージを14日に発表した。「夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です。ご冥福を心からお祈りいたします」66年に映画『愛と死の記録』で初共演した2人。渡さんは印刷会社に務める原爆症の青年役で、吉永扮する楽器店で勤める娘との悲恋物語だ。当時若い2人の迫真の演技は、感動を巻き起こしたという。「当初は、吉永さんと“青春・純愛路線”を築いた浜田光夫さん(76)がキャスティングされていたといいます。ですが浜田さんは右眼を負傷し、降板。アクション専門だった渡さんが、代役に起用されました。原爆がテーマの本作は、当初『被爆者の描写が刺激的すぎる』とカットを命じられたそうです。ですが吉永さんと渡さんは、原爆の悲劇を自分のことのように受け止めていました。そのため、スタッフたちと撮影所前で座り込みの抗議をしたほどだったそうです」(映画関係者)その後も『白鳥』(66)や『青春の海』(67)、『嵐の勇者たち』(69)などで共演し、“日活黄金期”を支えた2人。互いにキャリアを積んでからは、『時雨の記』(98)で中年男女のプラトニックな恋愛を好演。だが、00年の『長崎ぶらぶら節』で共演したことが最後となった。いっぽう渡さんが長年出演した宝酒造「松竹梅」のCMには、10回も登場した吉永。19年末に公開されたCMでは、令和初のお正月を2人で飾った。各メディアによると、この撮影が2人にとって最後の現場になったという。「17年のCM撮影時、闘病中だった渡さんは『最後の1本は大ラブシーンをやりましょう』と吉永さんに呼びかけていました。98年の『時雨の記』では、吉永さんが渡さんを相手役に指名したといいます。歳を重ねても、日活時代で築いた“あうんの呼吸”があるのでしょう。吉永さんも渡さんの“最後のお願い”に、『老夫婦の恋愛作品を作りましょう』と応えていました」(制作関係者)叶わなかった最後の共演。だが残された2人の作品は、これからも愛され続けるだろう。
2020年08月15日渡哲也さんが肺炎のため亡くなったと8月14日に発表された。78歳だった。各メディアによると渡さんは10日、妻の俊子さんに見守られて息を引き取ったという。渡さんの俳優人生には、“闘病”がつきものだった。71年3月に結婚したものの、翌72年7月に葉間肋膜炎で3カ月療養。さらに73年には膠原病との診断を受け、74年2月には胸膜癒着症にかかった。そして91年には直腸がんが見つかった。がんは渡さんの父、そして師である石原裕次郎さん(享年52)の命を奪った病でもあった。「お父さんと裕次郎さんを亡くした経験から、渡さんは『がんは早期治療が肝心だ』と理解していました。病名を公表することでいっそう、がんと向き合いたいと考えていました」(芸能関係者)そんな渡さんを支えたのは、俊子さんだったという。「渡さんが仕事で穴をあけることになり、俊子さんは関係各所に頭を下げて回りました。また医師には『どんな形でもいいから生きてほしい』と頼み込んだといいます。そんな姿に、渡さんのお母さんは『あなたには苦労のかけっぱなしで……』と涙ながらに感謝したそうです」(前出・芸能関係者)97年にも早期の大腸がんが見つかった渡さん。15年6月には、心筋梗塞で緊急入院をしている。「渡さんが突然胸の苦しみと息苦しさを訴え、俊子さんはすぐに病院へ。俊子さんが素早く異常に気付いてくれた甲斐もあって手術は1時間30分ほどで済み、数日後には一般病棟へ移りました」(病院関係者)渡さんの窮地を救った俊子さんは、献身的に看護し続けた。「俊子さんは1カ月もの間、病室に泊まり込みで看病していました。退院前から自宅にリハビリ用のマシンを運び入れ、さらに退院後には食事を減塩食に切り替えました。その際には、裕次郎さんの奥さんであるまき子さんのレシピを参考にしていたそうです」(渡夫妻の知人)晩年には呼吸器疾患などのため、外出時に酸素吸入器を手放せなかった渡さん。結婚翌年から48年。病との戦いだった人生を支えたのは、俊子さんという“戦友”だった――。
2020年08月15日2020年8月10日、肺炎により逝去していたことが判明した、俳優の渡哲也さん。連続ドラマ『大都会』(日本テレビ系)や『西部警察』(テレビ朝日系)などで一世を風靡した俳優の死に、人々からは悲しみの声が広がっています。俳優の渡哲也が逝去10日に肺炎でネットで「涙が止まらない」の声同月14日、お笑いコンビ『ドランクドラゴン』の塚地武雅さんがTwitterを更新。テレビドラマ『おいしいごはん 鎌倉・春日井米店』(テレビ朝日系)にて、渡さんと共演した際のエピソードを明かしました。ドランク塚地が感じた、渡哲也の『プロ根性』ドラマの撮影中、主演である渡さんが、椅子を手刀で割るシーンがあったといいます。しかし、本番になると、渡さんは手刀ではなく、頭で椅子を割ったというのです!渡さんのサービス精神と勇ましさに感動した塚地さんは、「プロだ!僕もこうならなければいけない!」と、身の引き締まる思いだったといいます。渡哲也さん…おいしいごはん というドラマで師弟の役でご一緒させていただきました。椅子を手刀で割るというシーンで本番、いきなり頭で割る姿を見て驚きとサービス精神と漢気を感じ、プロだ!僕もこうならなきゃいけない!と思ったのを覚えています!— ドランクドラゴン塚地武雅 (@tsukajimuga) August 14, 2020 茶目っ気あるエピソードも明かす塚地さんは、ドラマの撮影をしていたある日、渡さんに「塚地くん、ちょっと!」と呼ばれたといいます。「僕のお芝居がよくなかったのか」と怒られる覚悟で向かうと、各国のミス・ユニバースが写る新聞を広げて、「塚地くんはどの子がタイプ?」と聞いてきたそうです。渡さんの意外な問いかけに、「茶目っ気のある面白い人」だと感じた塚地さん。「短い間でしたが、近くで色々見せていただいたことは勉強になることばかりで忘れません」と、渡さんへ追悼の言葉を贈りました。ある日、渡哲也さんに前室で「塚地君、ちょっと!」と呼ばれ、僕のお芝居が良くなかったのか…?怒られると思いながらむかうと新聞のミス・ユニバースの各国の代表の写真を見せて「塚地君はどの子がタイプ?」と。茶目っ気たっぷりの面白い方で。笑— ドランクドラゴン塚地武雅 (@tsukajimuga) August 14, 2020 塚地さんの投稿には、さまざまなコメントが寄せられています。・とてもお優しい人だったのですね…。・素敵なエピソード。渡さんの人柄がよく分かります。・すごくいい話。思わず泣いてしまいました。茶目っ気あふれる行動は、塚地さんを和ませようとした、渡さんなりの心遣いだったのかもしれませんね。[文・構成/grape編集部]
2020年08月15日2020年8月14日、俳優の渡哲也さんが肺炎のため亡くなったことが発表されました。渡さんは、昭和時代を彩る数々の名作に出演。俳優の石原裕次郎さんが創立した石原プロモーションに所属し、ドラマ『西部警察』シリーズなどでも活躍しました。渡さんはテレビドラマで活躍する一方、多くのCMにも出演しています。裕次郎さんがCMキャラクターだった清酒『松竹梅』を引き継ぐ形で、渡さんがオファーを受けました。同年7月29日からは、2人が共演するCMが公開されており、多くの人が悲しみにくれながら動画に注目をしたようです。酒を飲みかわす渡さんと裕次郎さん。生前、2人が『松竹梅』のCMで共演することは叶いませんでした。裕次郎さんがCMキャラクターを務めて50年となる節目に、合成技術を使って夢の共演となったのです。動画を見た人たちからは悲しみの声が寄せられていました。・合成だと分かっていても、このCMで2人の姿を見ることができてよかった。・悲しいです。天国でもおいしいお酒を飲んでもらいたいです。・昭和の名俳優がまた1人亡くなってしまい、言葉がありません。きっと今頃、天国で裕次郎さんとゆっくりお酒を飲んでいるのかもしれませんね。[文・構成/grape編集部]
2020年08月15日俳優の渡哲也(本名:渡瀬道彦)さんが10日、肺炎のため都内の病院で死去した。78歳だった。石原プロモーションは、公式ツイッターに文書を掲載し、「弊社 渡哲也(本名:渡瀬道彦)が長きにわたり病との闘いの末去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため享年79をもって都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」と報告。「葬儀につきましては、静かに送ってほしいという故人の強い希望により本日、家族葬というかたちで執り行わせていただきました」と伝え、「誠に勝手ながらご香典、お供物、ご弔電、ご供花などの儀は故人の遺志により固くご辞退申し上げます」と記した。そして、「尚、お別れ会・偲ぶ会等の実施につきましては、故人の意向により執り行いません。何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」と呼びかけた。
2020年08月14日2020年8月14日、俳優の渡哲也さんが逝去したことが分かりました。78歳でした。サンケイスポーツによると、同月10日に肺炎で逝去したとのこと。すでに近親者のみで密葬を行っています。複数の関係者によると、入院先の東京都内の病院で親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。2015年6月に心筋梗塞の手術を受けて以降、入退院を繰り返し、ここ数年は呼吸器疾患などで自宅療養を続けていた。サンケイスポーツーより引用渡さんは、俳優・石原裕次郎さんが創立した石原プロモーションが制作した連続ドラマ『大都会』や『西部警察』シリーズなどに出演。渋い演技が好評を得て、数多くの作品で活躍しました。ご冥福をお祈りいたします。渡哲也さんについての記事はこちら[文・構成/grape編集部]
2020年08月14日俳優の舘ひろしが21日、都内で行われた「マイナポイント事業 新CM発表会」に、女優の深川麻衣、お笑いコンビ・ずんの飯尾和樹とともに出席。新CMで人生初の着ぐるみに挑戦した感想を語った。総務省は、 消費の活性化とマイナンバーカードやキャッシュレス決済の普及を後押しすることを目的とした「マイナポイント事業」において、舘、飯尾、深川をイメージキャラクターに起用。3人が出演する新テレビCM、マイナポイント広報室「登場」篇と「家族みんなで」篇が、7月27日より全国(一部地域を除く)で放送される。同CMは、“マイナちゃん”の着ぐるみを着ながら、7月より申し込みが始まった「マイナポイント事業」の広報に励む舘と深川に対して、飯尾が2人を見守りながらも2人の自由さに振り回されて思わずツッコミを入れるという内容。舘と深川は人生初の着ぐるみ姿を披露している。舘は、「暑くて。テーマパークで着ぐるみ着て踊ったりしてらっしゃる方は本当に大変だなと痛感しました」と着ぐるみの感想をコメント。「この前、電話で渡と話しまして、『今度着ぐるみ着るんですよ。恥ずかしくて』と言ったら、『お国の仕事なんだ。誇りを持ってやれ』と言われました」と渡哲也からの言葉を明かし、「ですから私はこの着ぐるみ、本当に誇りを持って頑張りたいと思います」と語った。舘の着ぐるみ姿に、飯尾は「着ぐるみを着ながらかっこいいなと。お茶目な役なのでギャップがありました」とコメント。深川は「着ぐるみ姿で舘さんとご一緒できる機会はこれから先ないかもしれないと思うと、貴重な機会をいただいたなと思います」とうれしそうに話した。
2020年07月21日7月16日、石原プロモーションが来年に所属俳優のマネジメントを終了すると「サンスポ.com」が報じた。63年に石原裕次郎さん(享年52)が設立し、「石原軍団」の愛称で広く知られていた石原プロ。所属する渡哲也(78)はフリーで活動し、舘ひろし(70)と神田正輝(69)は独立。若手俳優は他事務所へ移籍するという。裕次郎さんの妻で取締役会長の石原まき子夫人(86)も高齢であるため、今後は大幅な事業縮小が予想される。このことが報じられると、石原プロが兼ねてより行っていた「炊き出し」を想起する声が広がった。《石原軍団の炊き出しは今後どうなるんだろ?いざという時は有志で集合とかあるのかな》《石原軍団の災害時炊き出しに助けられた人多いと思います有難うございました》《大きな災害があった時、石原軍団の皆さんが大掛かりな炊き出しをして下さってましたね。まとまりの強い素晴らしい芸能事務所でした。渡さん、舘さん、神田さん、他の芸能人やスタッフの皆さんありがとうございました。今後の活躍をお祈りします》“伝統”ともいわれる「石原軍団」の炊き出しは、裕次郎さんが発起人だったという。「役者とスタッフが食べるロケ弁当に差があることを、裕次郎さんが怒ったのがきっかけだそうです。役者もスタッフも一丸で作品を作っているので、『同じ食べものでなければ同じ気持ちになれない』と熱弁したといいます。そこから弁当にかかる費用などを鑑みて、協力し合いながら自炊を始めたと聞きました」(芸能関係者)電気や炊事用具、輸送の車まで全て持ち込みという石原プロ。災害時には、その団結力が発揮されたという。95年の阪神・淡路大震災や11年の東日本大震災、16年の熊本地震では、被災地の人々を勇気づけた。その影響力は他の著名人にも及んだようだ。「11年には上戸彩さん(34)が参加しました。上戸さんは、09年にドラマ『結婚』で渡さんと共演。ロケ地だった福島県いわき市が深刻な被害を受けたことで、何度も渡さんに参加を頼み込んだそうです。16年には長瀬智也さん(41)、木村拓哉さん(47)、岡田准一さん(39)が参加しました。長瀬さんは渡さんのマネージャーに、『石原プロの家族のような温かさを被災地に届けたい』と直訴。舘さんや神田さんたちの指導を受けながら、焼きそばなど約1,500人分をふるまったそうです」(テレビ局関係者)石原軍団が多くの人々に与えた“温かさ”は、いつまでも語り継がれるだろう。
2020年07月17日石原プロモーションが来年に俳優マネジメントを終了すると7月16日、『サンスポ.com』が報じた。同サイトによると石原プロの浅野謙治郎社長は「映像や映画など貸し出しているため会社の解散はできない」とコメント。しかし「将来的には、石原プロの看板を裕次郎さんの仏前に返さないといけない」とも述べたという。昭和の大スターである石原裕次郎さん(享年52)によって1963年1月に設立された石原プロ。87年7月に裕次郎さんが逝去すると、渡哲也(78)が2代目社長に就任した。11年3月、裕次郎さんと同じ“在職24年”で退任してからは、渡は相談取締役として石原プロを支えてきた。本誌は昨年4月、そんな渡が石原プロの幕引きを決断したという情報をキャッチした。当時、渡に直撃したところ彼は無言に。目をつむり、何と語るべきか真剣な表情で黙考している様子を見せた。そして、そばにいた運転手に「事務所に連絡するように伝えなさい」と静かに言い残し自宅の中に入っていった。「石原プロを“自分の目が黒いうちにきれいに終わらせる”というのは渡さんにとって長年の目標でした。三船敏郎さん(享年77))といった昭和の名優たちは、映画会社から独立し、個人プロダクションを相次いで設立。しかし、そうした個人プロダクションは経営不信で倒産や分裂騒動を起こしてきました。そんな姿を知っているだけに、渡さんには『裕次郎さんの名前に傷をつけない』という美学があるそうです。その美学に則って石原プロの幕引きをはかっているのでしょう」(石原プロの元幹部社員)裕次郎さんを慕い、亡き後もその意志を継いできた渡。石原プロの“終活”に取り掛かっているのは、ひとえに彼の体調も影響しているようだ。「渡さんは91年に直腸がんが発見され、15年には急性心筋梗塞に。そうして2度の大手術を受けました。肺気腫や喘息といった持病もあり、現在は酸素吸入器が手放せない生活を送っています。石原プロの幕引きを急いでいるのは、体調に自信を持てなくなっているというのもあるでしょう」(映画関係者)いっぽう『サンスポ.com』は、渡について「フリーで芸能活動を続けるとみられる」とも報じている。「渡さんは『ずっと俳優として現場に立ち続けたい』という強い思いがあります。ですからストレッチやスクワットといったリハビリに取り組み、積極的に体を動かしています。奥さんもリハビリに付き添うだけでなく、減塩食を取り入れるなどして生活面をサポート。俳優として、そして裕次郎さんの思いを継ぐものとして『まだまだ倒れまい』という胸中でしょう」(渡の知人)渡はこれからも現役であり続けるーー。
2020年07月16日「SSFF & ASIA」代表の別所哲也、フィルムメイカー・俳優の斎藤工、「SSFF & ASIA」アンバサダーのLiLiCoが参加するオンライントークが、8月6日(木)に配信される。米国アカデミー賞公認・アジア最大級の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」(SSFF & ASIA)は、「ショートフィルムの日」を皮切りに、映画祭が延期となった秋までの間、未曾有のパンデミックにより大きく変化しようとしている映像制作や映画祭、映画配給・興行といった映画業界の各立場からゲストを迎え、現状と未来像を語るトークセッションシリーズをYouTubeチャンネルでオンライン配信中。そのシリーズ第5回目では、別所さんがホストを務め、LiLiCoさんと共に斎藤さんを迎え、ビヨンド・コロナ(アフターコロナ/with コロナ)と言われる中で挑戦する映画業界についてトークを展開。斎藤さんがスタートさせたリモート製作の『TOKYO TELEWORK FILM』の挑戦や経緯について、「A TAKUMI SAITOH FILMS」として自らの監督、出演作をオンライン発信するプラットフォームをローンチした意図、岩井俊二監督作『8日で死んだ怪獣の12日の物語』出演で感じた俳優としての視点。そして今後、映像制作や俳優としての仕事がどんな新たな局面を迎えていくのかトークをしていく。ライブ配信中には、本年の「SSFF & ASIA」とのコラボレーションイベントについて発表もあるという。トークセッションシリーズ第5回「別所哲也×斎藤工×LiLiCo 映画業界が挑戦するビヨンド・コロナを徹底トーク」は8月6日(木)20時~SSFF & ASIA YouTubeチャンネルにてライブ配信。(cinemacafe.net)
2020年07月16日往年の俳優、石原裕次郎さんが設立した芸能事務所『石原プロモーション』が、所属する俳優のマネジメント業務を終了するとみられています。『石原プロモーション』といえば、渡哲也さんを筆頭に、舘ひろしさん、神田正輝さんといった俳優集団『石原軍団』が所属しており、映画『黒部の太陽』や『太陽にほえろ!』、ドラマ『西部警察』(テレビ朝日系)など数々のヒット作品を生み出してきました。2020年7月16日、サンケイスポーツは渡さんが同社の相談役を退き、舘さん、神田さんが2021年に独立をする意向であると報じています。俳優マネジメントの終了に伴い、舘と神田は来年にも独立する意向を固めた。自身がしっかりしているうちに、軍団や会社の今後を見届けたい渡の気持ちをくんだ形だ。徳重聡(41)、金児憲史(41)の中堅や若手も移籍することになる。サンケイスポーツーより引用また、渡さんは取材に対し「石原裕次郎さんが亡くなって30年余り。よくやったと思います」と語りました。1963年の設立から57年。昭和を代表する芸能プロダクションの幕引きに、ネット上でも「さびしくなる」といった声が相次いでいます。・1つの時代の終わり。さびしいですがそれぞれが頑張っていくなら、応援したいと思います。・『西部警察』を小さい頃に見てた。解散か…。でも、これも時の流れなのかな。・石原軍団といえば、豪快な『炊き出し』を思い出す。あれももう見られないのか。・『西部警察』は今の時代では考えられないほど、スケールが大きくて面白かった。今までありがとう、お疲れさまでした。『石原軍団』は事実上の解散となりますが、その輝かしい功績は、人々の記憶に残り続けることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2020年07月16日残すところあと少しとなった19年。元号も「平成」から「令和」へと変わった激動の1年だったが、芸能界も大きく変化した1年だった。本誌が目撃した驚きのスクープから特に反響の大きかったものを今一度お届けしたい。「渡哲也さん(77)が、石原プロの幕引きを決意したのです」、こう証言したのは故・石原裕次郎さんが設立した石原プロの関係者。裕次郎亡きあと、会社を支えるべく奮闘してきた渡だったが、体調問題と“ある課題”を抱え、ついに歴史に幕を降ろす決断をしたという。美学を貫く渡の胸中はいかに。(以下、2019年4月30日号掲載記事)東京都内にある病院の前で、酸素ボンベの入ったバッグを右手に持ち、車から降りてきたのは俳優・渡哲也(77)だった。本誌が渡を目撃したのは4月上旬。実はその直前に驚きの証言をキャッチしていた。「渡哲也さんが、ついに俳優引退と、石原プロモーションの幕引きを決断したのです」そう語ったのは石原プロの関係者だった。石原プロは、故・石原裕次郎さんにより’63年1月に設立された。「’71年には渡哲也が副社長に就任。舘ひろし(69)や神田正輝(68)など人気俳優を擁し、その結束の固さから所属俳優たちは“石原軍団”と呼ばれたのです。’87年に社長の裕次郎さんが逝去した後は、渡が24年間にもわたり二代目社長を務めました」(芸能関係者)社長辞任後も、専属俳優や“相談取締役”として石原プロを支え続けてきた渡。なぜいま“石原軍団解散”を決断したのだろうか?前出の石原プロ関係者は次のように語る。「以前から“高齢化”は問題視されていました。現在、代表取締役会長を務めている石原まき子さん(※石原裕次郎夫人)が85歳、そして渡さんが77歳。渡さんが辞任してから8年になりますが、社長職は空席のまま。それは、まき子さんの『後継者が決まるまでは、社長の席は空けたままにしましょう』というご意向があったからです。しかし結局、裕次郎さん、渡さんの跡を継いで“三代目社長”に名乗りを挙げる人材は現れなかったのです」渡の体調の問題もあるという。渡は’91年に直腸がん、’15年に急性心筋梗塞と2度の大手術を受け、さらに肺気腫やぜんそくといった持病もある。「実はこの4月に幕引きを発表する予定だったのですが、移籍先がまだ決まっていない若手の所属タレントたちもおり、資産の整理もまだめどが立っておらず、公式発表はとりあえず延期することになりました」(前出・石原プロ関係者)設立から57年目、そして裕次郎さんから受け継いで32年で迎えた終幕について渡自身はどのような感慨を抱いているのだろうか。自宅付近で本人に取材を試みた。「渡さん、石原プロを閉めることを決断されたそうですが、いまのお気持ちをお聞かせください」と記者が問いかけると渡は目をつぶり、なんと語るべきか真剣な表情で黙考しているようだった。だが付き添っていた運転手に「事務所に連絡するように伝えなさい」と静かに言い残すと、自宅のなかに入っていった。石原プロで専務取締役を務める浅野謙治郎氏は本誌に次のように語る。「『石原裕次郎さんの名前を冠した“石原プロモーション”を傷つけてはいけない』、それは渡のみならず私たち社員が常に肝に銘じていること。また(渡のように)会社の舵取りをする立場なら、会社を存続させないという選択肢も頭の中にはあるでしょう。しかし現時点では、(幕引きは)決定事項ではありません。石原プロは映画・ドラマ・音楽について多くの版権を持ち管理していますから、会社自体を解散するということはできないのです」浅野氏の語った“石原裕次郎の名を傷つけない”ということを、誰よりも強く意識し、それを美学としているのが渡なのだという。石原プロの元幹部社員は言う。「石原プロを“自分の目が黒いうちにきれいに終わらせる”というのは、渡さんにとって長年の悲願でもありました。つまりほかの“スタープロダクション”のようにはしたくない、ということです」映画会社から独立したスターたちが、自分の名前をつけた個人プロダクションを相次いで設立した時代があった。石原プロのほかには勝新太郎の勝プロ、三船敏郎の三船プロ、中村錦之助の中村プロなど。だが石原プロ以外は、いずれも経営不振で倒産したり、分裂騒動を起こしたりしている。「渡さんとしては倒産とか分裂とかで、石原裕次郎の名前を汚したくない。それが彼の美学なんです。社長ではありませんが、渡さんが決定したとなればほかの社員たちも従います。幕引きを急いでいるのは、渡さんが自分の体調に自信を持てなくなっているからなのでしょうね」(前出・元幹部社員)渡は“20年までには石原プロの資産を、まき子さんにお戻しする”と、知人に語っているという。「おそらく今後、石原プロは芸能プロダクションとしての活動を休止し、裕次郎さんを中心にした映像や音源の権利を管理する会社へ移行していくのではないでしょうか」(芸能プロダクション関係者)渡哲也は肺気腫と闘いながら、自身の美学を貫く道を歩み続けている。
2019年12月27日つい先日『カルミナ・ブラーナ』という大作を世に送り出したばかりの熊川哲也が、早くも次なる新作を発表する。プッチーニのオペラ『蝶々夫人』を全幕バレエ化する『マダム・バタフライ』だ。『カルミナ・ブラーナ』がBunkamura開業30周年記念公演なら、こちらはKバレエ カンパニーの20周年記念公演。本日9月27日に東京・オーチャードホールで幕を開けたあと、10月10日(木)からは東京文化会館 大ホールでも公演を行う。過去には『カルメン』でもオペラのバレエ化に挑んだ熊川。その時はオペラの物語に忠実に沿う形だったが、今回は肉付けを施すと言う。開国まもない長崎で、遊女見習いのバタフライと米兵ピンカートンが出会い、つかの間の結婚生活を送る……という骨子はそのままに、ピンカートンのアメリカ時代や、彼がバタフライを見初めた過程などを追加。アメリカのシーンではドヴォルザークの音楽も使うなど、演出・振付・台本をひとりでこなす、熊川ならではの手法で悲恋物語を描き出す。舞台美術を手がけるのは、オペラやミュージカルでも多くの実績を持つダニエル・オストリング。西洋で生まれた日本が舞台のオペラを、日本人振付家が西洋人デザイナーとともに、西洋の踊りであるバレエで表現する本作。和と洋がどのように融合するのかにも注目だ。文:町田麻子
2019年09月27日フリーアナウンサーの宇垣美里と俳優の別所哲也が17日、都内で行われた「Amazon Bar~Tasting Fest~」記者発表会に出席した。同所は東京・天王洲にあるキャナルエリアに、明日18日から23日までの6日間限定でオープンする完全予約制のポップアップバー。Amazonで販売されているビール、日本酒、焼酎、洋酒など約720種類が用意されている。お酒は大好きだと言う宇垣は「友達との女子会でもお酒は欠かせない。和食は日本酒、イタリアンはワインなど食事にあわせてお酒を選ぶのも大好き」とご満悦な様子。高級ブランド「サルヴァトーレ・フェラガモ」の赤ワインを試飲すると「エレガントな気持ちになります」とうっとりとした表情を浮かべた。宇垣は、別所が1人でお酒を飲む際は、「カウンターバーで、1人で飲む時もある」と話すと、「大人~」と関心した様子で、別所から「今度ぜひご一緒に」と誘われると「ぜひ大人の一歩、歩いてみたいと思います」と満面の笑みで応じていた。
2019年09月17日熊川哲也が英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルとして活躍後、Kバレエ カンパニーを設立したのは1999年のこと。古典作品を独自の視点で演出した作品群のほか、稀有なダンサーである熊川の審美眼によって創り出される意欲作も、Kバレエの魅力だ。2014年にはオペラ原作の『カルメン』、2017年には台本や音楽などすべての構成を担当した『クレオパトラ』を世界初演。毎日芸術賞特別賞を受賞するなど、高い評価を得ている。そして今年、カンパニー創立20周年を迎えた熊川が次に挑戦するのは、オペラ『蝶々夫人』の全幕バレエ化だ。都内で行われた制作発表に足を運んだ。【チケット情報はこちら】物語は明治時代、開国間もない頃の日本で展開する。長崎の武家に生まれたバタフライ〔蝶々〕(矢内千夏、中村祥子、成田紗弥のトリプルキャスト)は、家が没落したことで、今では遊女見習いとして遊郭にいた。その頃、海軍士官としてアメリカから赴任してきたピンカートン(宮尾俊太郎、山本雅也、堀内將平のトリプルキャスト)は、たまたま訪れた遊郭でバタフライと出会う。可憐な一輪の花を思わせるバタフライに惹かれ、ピンカートンは港を見下ろす邸宅に彼女を住まわせることにする。ピンカートンに一生を捧げるものと信じて、嫁入り道具や父の形見の短刀を携えやってきたバタフライだったが……。会見では熊川と矢内、中村、成田、そしてピンカートン役のほか本作では振付補佐も務める宮尾が登壇。 和と洋が融合する新たなバレエの舞台を、今まさに制作中という熊川は、「自分自身に“必ず成功する!”と言い聞かせているところ」と笑わせながらも、「非常に悩みましたね」とクリエイティブの苦労を明かす。「我々ダンサーは“アウト”(身体や脚を常に開くバレエの基本)にするという西洋の伝統を受け継いできたわけで、対照的な日本の“イン”の動きを同時にするのは、やはり難しい。なので、日本的な要素はスピリットなものに込めようと思っています」と熊川は語る。その“イン”の象徴ともいえるバタフライ役の矢内は、昨年プリンシパルに昇格したばかり。「日本人だからこそ感じ取れる心情はあると思うので、そこを大切に演じたいです」と真剣な面持ちだ。一方、同じバタフライ役でも、ベルリン国立バレエ団やハンガリー国立バレエ団でプリンシパルの経験を持ち、スケールの大きさが魅力の中村。「自分と一致する部分があまりないので大変ですね」と笑いつつ、熊川の振付には「いつも感銘を受けています」と新たな挑戦を楽しんでいる様子だ。また注目のホープ、成田は「国籍や身分の違いも超える愛を、ステップや音楽に乗せて演じられたら」と初々しく語った。「バタフライが物語でどう見えるかを考え、客席からブーイングが起きるほどのピンカートンにできれば」と話す宮尾ともども、意気込みは充分。Kバレエならではの『マダム・バタフライ』の誕生を、今から楽しみに待ちたい。9月27日(金)から29日(日)までオーチャードホール、10月10日(木)から14日(月・祝)まで東京文化会館大ホールにて上演。取材・文/佐藤さくら
2019年08月01日