「娘は天国に旅立ってしまいましたが、私の心の中では、ずっと生き続けています。皆さまに支えられて娘は幸せでした」9月3日、東京・日本武道館で行われた松田聖子(60)の2022年全国コンサートツアーのファイナル公演。黒のドレスに着替えて『ever since』を歌い終わった聖子が深々とお辞儀すると、会場の大勢のファンが涙を流していたという。その場にいた音楽関係者はこう語る。「この曲は昨年末、急死した愛娘・沙也加さん(享年35)のデビュー曲です。ちょうど20年前、この武道館のステージに娘さんが飛び入り参加して、母娘でこの曲を歌ったんです。会場には、今年90歳になる母・一子さんの姿もありました。痩せていましたが、杖もなしで歩いていて感慨深そうにされていました」亡き愛娘と20年ぶりに“共演”した聖子。その数日前、聖子の「永遠のライバル」中森明菜(57)はTwitterを開設し、新たな事務所での再出発を電撃発表した。テレビ局関係者によると、新たな事務所の監査役を務める弁護士から各テレビ局宛てに連絡が入ったと説明する。「前事務所とは本年8月で契約を解消しているため、今後、過去の明菜の映像を使用する場合、新事務所に連絡するようにという趣旨でした」新たな個人事務所の代表取締役は明菜本人だった。「20年間在籍した前事務所の社長とは、一部で交際が報じられたこともありました。今後は明菜さんの意向が強く反映することになるでしょう」(前出・音楽関係者)慢性化した帯状疱疹などで、表舞台から遠ざかっていた明菜だが、新たに立ち上げたTwitterの文面で、こう綴っていた。《デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません。ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》■NHKは聖子&明菜と交渉できる「ミスターNHKホール」を責任者に聖子と明菜。’80年代を代表する2大歌姫のメディア“再始動”の場として、年末の『紅白歌合戦』が最有力視されていると語るのは、音楽プロダクション関係者だ。「聖子さんは去年、『紅白』出場が決まっていましたが、娘さんの悲報により出場辞退となりました。いっぽうの明菜さんは’14年、ニューヨークから生出演して以来、『紅白』には出場していません。今年、NHKで彼女の過去のライブ放送が軒並み高視聴率を記録しており、8年ぶりの『紅白』出場に大きな期待がかかっています」当のNHKは全力で2人の交渉にあたっているという。「昨年の『紅白』の世帯視聴率は34.3%と歴代最低で、打ち切り危機まで報じられるほどでした。今年6月に発表された人事異動では、『SONGS』から『うたコン』に異動した40代後半のチーフプロデューサーのA氏が、今年の『紅白』の事実上の総指揮をとることになりました。A氏は局内では珍しく音楽畑一筋で『うたコン』を立ち上げた人物。前身の『NHK歌謡コンサート』にも携わっており、聖子さん含め、数多くの大物歌手から絶大な信頼を得ています。今年から『紅白』は改修工事が完了したNHKホールに戻ることもあり、同所を知り尽くした“ミスターNHKホール”A氏が責任者となったわけです」(制作関係者)8年前に明菜を『紅白』に口説いたのはA氏の当時の上司・B氏だったという。「出演交渉は難航しましたが、“ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継”という絶妙な演出が功を奏し、明菜さんはA氏を信用するようになったそうです」(前出・音楽関係者)■聖子の『紅白』有力候補曲が『瑠璃色の地球』のワケ長年、ライバル視されているだけに、聖子と明菜が歌番組で“共演”する機会は、それほど多くはなかった。アイドル時代の2人が出演した音楽番組で共演したミュージシャンはこう語る。「仲が悪いということは決してなく、むしろお2人は楽屋や舞台裏では笑顔で会話されていましたよ。お互いが、相手の曲を自宅で口ずさむこともある仲だと聞きました。明菜さんは当時、聖子さんの曲を歌詞を見なくとも全部歌えると言っていました。リスペクトしていたんですね。昭和、平成と激動の芸能界を駆け抜けた、よき“戦友”といった間柄でしょう。時代は令和へと移り変わり、“再共演”に関しては、お二方とも強く願っていると思います」実際、’83年3月17日放送の『ザ・ベストテン』(TBS系)で2人が共演した際、司会の久米宏(78)から聖子について聞かれた明菜は「うちではみんなが大ファンなんです。私、いつもずーっと見とれていたんです」と即答。その後、久米から「ライバル意識はありますか?」と聞かれた聖子は、「やっぱり。頑張らなきゃいけませんね」と、聖子もデビュー間もない明菜の実力を認める発言をしていた。それから約40年、還暦を迎えた聖子と、再始動した明菜が同じステージで“共演”できるのかーー。前出の制作関係者は言う。「最大のポイントは、明菜さんが『紅白』に生放送出演できるまで体調が回復できるか否かでしょう。映像出演なども含め、多角的に検討していると聞いています。また、聖子さんが歌う楽曲の有力候補に『瑠璃色の地球』が挙げられているようです。世界平和のメッセージが込められており、愛娘・沙也加さんとのデュエット経験もある曲。そして明菜さんも’02年にカバーしている楽曲なんです」明菜と親しい音楽関係者によれば、明菜のモチベーションを上げる“殺し文句”があるという。「『最近、曲出してないんじゃない?』というと、彼女はやる気を出すんです。長い沈黙を破って再始動を発表したからには、何かやってくれるかもしれません」聖子&明菜“奇跡の共闘”で今年は音楽史に残る『紅白』となるか。
2022年09月15日《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思います》今年5月にデビュー40周年を迎えた中森明菜(57)が、8月30日に突如Twitterと公式サイトを開設し、個人事務所の設立と再始動を発表した。フォロワー数はすでに42万人を超え(9月1日時点)、日本中の注目を集めている。明菜といえば’10年に帯状疱疹で芸能活動を無期限休止。’14年末には『NHK紅白歌合戦』にサプライズ出演したが、’17年末のディナーショー以降はふたたび活動休止にはいった。そんな明菜の最盛期を本誌秘蔵ショットで振り返る。【’84年】名曲『飾りじゃないのよ涙は』を’84年に発売。アイドルからシンガーへの転機となった。【’86年7月】ツアーの東京公演にて。ラストは『DESIRE-情熱-』で会場を沸かせた。【’86年】『夜のヒットスタジオ』に出演。同年には日本レコード大賞を2年連続で受賞した。【’95年】神戸で行われた阪神・淡路大震災救済イベントに出演し、被災者たちを励ました。8月30日のコメントでは、《まだ万全な体調とは言えません》としながらも、メッセージからは前向きなパワーが感じられた。自分らしく輝くステージを、またたくさん見せてほしい!
2022年09月10日《いつも応援してくださるファンのみなさまへ。ご無沙汰しております。中森明菜です》8月30日、長い沈黙を破ってメッセージを発信したのは中森明菜(57)。ツイッターアカウントと公式サイトを開設し、“再始動”を宣言したのだ。’10年に帯状疱疹で芸能活動を休止した明菜。その後’14年の『NHK紅白歌合戦』にサプライズで出演し活動を再開させるも、’17年末のディナーショー以降は公の場に姿を現していなかった。それでも人気が衰えることはなく、デビュー40周年の今年は“復活”が期待されていた。「7月にはNHKで過去のライブが放送されましたが高視聴率。反響はとても大きく、視聴者からお礼の声が殺到するほどだったそうです。各局の音楽番組もこぞって出演オファーをかけていたと聞きます」(テレビ局関係者)高まるラブコールに応えるように、再びステージに立つという明菜。心機一転、新たな個人事務所も立ち上げたが、今回の復活宣言にはある“予兆”があったという。「40周年ということで民放の音楽番組が通常の手続きを踏んで明菜さんのライブ映像の一部を使ったところ、事務所から映像の使い方について物言いがついたと聞いています。これまでそんなことはなかったので明菜さんサイドに何か変化があったのではと噂されていました。今思えば、新しい事務所になったことで方針も変わったのかもしれません」(前出・テレビ局関係者)明菜の私生活にもある変化があったようだ。「これまで明菜さんが所属していた事務所の代表でありマネージャーを務めてきた4歳年下の男性は明菜さんの恋人とも報じられていました。ですが今回、そこから移籍しての活動再開ですから、恋人と決別したということなのでしょう」(芸能関係者)2人が交際を始めたのは’01年ごろといわれている。男性が所有するマンションの別の階に2人は住んでいたというが……。「ここ最近は男性も明菜さんも見かけませんね。転居されているんじゃないですか」(近所の住人)本誌は明菜の元事務所の役員に名を連ねている、男性の姉に話を聞くことができた。彼女は今回の件に困惑している様子だった。「今回の明菜さんの移籍に関しては、私は全然聞いておりませんし、お話しできることはありません」以前から実家との不仲が報じられており、’19年に亡くなった実妹の葬儀にも姿を現さなかったという明菜。ここにきて20年来の恋人とも決別ーー。孤独を深めているようにも思えるが、明菜は決して独りぼっちになったわけではない。心強い“応援団”がいるという。「日本でも有数の音楽プロデューサー・Aさんが再始動をバックアップしていると聞いています」(音楽関係者)A氏は松田聖子(60)や井上陽水(74)などを手掛けた大物だ。「明菜さんもAさんとは何度もアルバムなどを制作してきましたから、信頼を置いているはずです。Aさんは小泉今日子さん(56)とも親交がありますが、その小泉さんと明菜さんは仲が良く、小泉さんは今でも明菜さんとひそかに連絡を取り合っているという話も聞いたことがあります。そういった背景もあり、Aさんはこれ以上ないほど頼りになる存在でしょう」(前出・音楽関係者)本誌はA氏にメールで取材。次のようなやりとりがあった。ーー明菜さんの新曲を手掛けていると聞きましたが?「そのような噂が音楽業界に出回っていますが、制作をお手伝いする予定はありません。本人から依頼があったらお知らせします」ほかにも、明菜を後押しするこんな顔ぶれが。「’17年のディナーショーなどを手掛けたイベント関係者のBさんが今年もディナーショーの開催に向けて始動したとも聞いています。また’14年の『紅白』の際に明菜さんが『Cさんからのオファーなら受ける』と言った、信頼の厚いプロデューサーがいます。Cさんは現在もNHKに在籍しているはずなので、今年の『紅白』に出る可能性もかなり高いと思います」(レコード会社関係者)このタイミングで活動再開を発表したということにも、彼女の今後の活動への意欲が読み取れる。「8月末というのは例年、年末のディナーショーや『紅白』が打診される時期です。40周年にふさわしいステージを用意するためには、今がベストだと動きだしたのでしょう」(NHK関係者)いまだ万全ではないという彼女の体調が懸念されるが……。「’14年の『紅白』でニューヨークからの中継で出演したように、別のスタジオなどから中継ということもありえますし、事前収録という方法もあります。また、’19年の『紅白』で登場した“AI美空ひばり”のように、明菜さん自身が登場できなくても成立する見せ方などを多角的に検討しています」(前出・NHK関係者)もう一人の歌姫・聖子の存在も彼女の背中を押している。「明菜さんにとって聖子さんは共に時代を彩った仲間。聖子さんは昨年12月に愛娘の沙也加さん(享年35)を亡くしましたが、それでもステージに立ち続ける姿に明菜さんも胸を打たれたのではないでしょうか。明菜さんは活動休止中も“いつか自分が歌うために”と作詞を続けていました。披露される日も近いかもしれませんね」(前出・芸能関係者)5年前、35周年のディナーショーでは「ファンと一緒に年の瀬は盛り上がりたい」と話していた明菜。40周年の年の瀬も、日本中を沸かせてほしいーー。
2022年09月07日《今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません》《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》8月30日、Twitterで突如こう明かしたのは歌手の中森明菜(57)だ。今年5月にデビュー40周年を迎えた明菜が再始動を発表した。「明菜さんの歌手人生は波瀾万丈そのもの。‘82年にデビューを果たし、瞬く間にトップアイドルとなりましたが’89年7月、当時交際していた近藤真彦さん(58)の自宅で自殺未遂。そして90年代には事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、’10年には体調不良を理由に無期限の活動休止を発表しました。’14年末に『NHK 紅白歌合戦』に出場し、’15年末には6年4ヵ月ぶりとなるアルバムをリリース。’16年末と’17年末の2年連続でディナーショーを開催し、軌道に乗るかと思いきや、明菜さんは再び公の場に姿を見せなくなりました」(音楽関係者)そんな明菜を支えていたものがある。それは“花の82年組”の同期たちだ。「花の82年組は明菜さんの他に、小泉今日子さん(56)や早見優さん(55)、シブがき隊や堀ちえみさん(55)といった高い知名度を誇る面々が揃っています。そして今でも、ちえみさんを中心にしたネットワークが彼らにはあるといいます。なかなか明菜さんと連絡を取ることは難しいそうですが、’93年のスペシャルドラマ『瞳に星な女たち』でW主演を果たすなど、親交のあるキョンキョンさんが間を取り持つこともあるそうです」(芸能リポーター)明菜が無期限の活動休止を発表した’10年、堀はブログで『明菜ちゃん、ガンバレっ』というタイトルの記事を投稿している。「そこでちえみさんは、ブログの3年前にテレビ局で明菜さんと出会ったエピソードを明かし《元気になった明菜ちゃんと、会いたいな 私は明菜ちゃんの笑顔を、いっぱい見てきたから》と綴っていました。そして’19年、ちえみさんが舌がんを公表した時には、明菜さんが堀さんに向けてメッセージを送ったといいます」(前出・芸能リポーター)同期だけではなく、’80年に歌手デビューを果たしたトップアイドルの先輩である田原俊彦(61)も明菜のことを気にかけているという。「実はトシちゃんと明菜さんの縁は深いんです。’17年2月、トシちゃんは『爆報!THEフライデー』(TBS系)で、明菜さんから『トシ、元気?いつも見ているから』という内容の留守電が入っていたことを明かしています。トシちゃんは体調不良とはいえ、明菜さんの活動がなかなか起動に乗らないことに悔しい思いをしているそうです。そのため、ある食事の席で『明菜ちゃんに電話をかけて復帰するように言うよ。俺なら口説けるから!』と豪語したことも。結果的に明菜さんは留守だったそうですが、トシちゃんの熱意はきっと伝わったでしょうね」(前出・芸能リポーター)明菜を支えた“アイドル連絡網”。その復帰に、同志たちも大喜びだろう。
2022年08月31日《今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません》《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》8月30日、突如Twitterにこう綴ったのは歌手の中森明菜(57)。今年デビュー40周年を迎えた明菜が再始動を発表したのだ。さらに公式サイトでは、個人事務所『HZ VILLAGE』を設立したとも明かしている。‘82年にデビューを果たし、瞬く間にトップアイドルとなった明菜。しかし’89年7月、当時交際していた近藤真彦(58)の自宅で自殺未遂。そして90年代には事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、’10年には帯状疱疹を患い、無期限の活動休止を発表していた。その後’14年末に『NHK 紅白歌合戦』に出場し、’15年末には6年4ヵ月ぶりとなるアルバムをリリースし、電撃復活。’16年末と’17年末の2年連続でディナーショーを開催したが、それ以降は明菜は公の場に姿を現していない。「’18年8月、ファンクラブの会報で明菜さんは《さみしいねぇ…ほんとォーに…みんなに…会いたい…でも…無理かもぉー》と綴っていたそうです。一部で恋人とされていたマネジャーとの破局が報じられたこともあり、ファンの間では心配する声も上がっていました」(芸能関係者)いっぽう今年5月にデビュー40周年を迎え、7月にはNHK総合で『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』が放映された。土曜日の夕方という時間帯にも関わらず、4.6%もの高視聴率を記録。親子2代で観た人もいたようで、改めて“歌手・中森明菜”を再評価する動きが。そして、ネットを中心に復活待望論も巻き起こっていた。「明菜さんは今なお、帯状疱疹と戦っているといいます。思うように体調は回復せず、その闘病生活は12年。また病気のため精神的な不調にも見舞われ、人前で歌うどころか会うのさえ限られた人のみ。自宅からほとんど出ない生活が続いているといいます」(音楽関係者)しかし、明菜は“歌への情熱”を絶やさなかったという。「明菜さんは“いつか自分が歌うために……”と歌詞をノートに書きためているんです。これまでも明菜さんが作詞した楽曲はいくつもあり、20代のころには作詞家の先生のもとで本格的に学んだこともありました。’00年以降は『Miran:Miran』というペンネームで作詞をしています。今年は40周年とあって、明菜さんのレコード会社には音楽番組から出演オファーがいくつも届いていました。そんななかでの復活宣言。明菜さんサイドと繋がりが強いNHKは『紅白』に出演してもらえないかと狙っているそうです」(テレビ局関係者)紆余曲折ありながらも、ついに復活を宣言した明菜。これからの動向に注目が集まりそうだ。
2022年08月31日2022年8月30日、歌手の中森明菜さんが個人事務所『HZ VILLAGE』を設立し、再始動することを発表しました。同日に設立された、中森さんのTwitterに投稿された内容が、こちらです。いつも応援してくださるファンのみなさまへ長い間、ご心配をおかけしており申し訳ありません。ほんの少しですが、体調が良くなってきましたので、この度、お手紙を書かせていただこうと思いました。今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません。ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです。また、再始動に備えて新たな個人事務所を設立したことを併せてご報告させていただきます。今後は新しいウェブサイトakinanakamoriofficial.comにて情報を発信させていただく予定です。一方的なお知らせとなってしまい大変申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。2022年8月30日中森明菜@akinan_officialーより引用中森さんは、1982年5月に歌手デビュー。『少女A』や『飾りじゃないのよ涙は』、『DESIRE -情熱-』など、数々の名曲で人々を魅了してきました。2010年10月に体調を崩して以降、活動をセーブしながらも、音楽活動は意欲的に取り組んでいた様子の中森さん。突然の発表に、ネット上では「楽しみ」「嬉しい!」「待っていました!」など、驚きと感動の声が上がっています。力強くも美しい中森さんの歌声が再び聞ける日が待ち遠しいですね![文・構成/grape編集部]
2022年08月30日「7月9日に放送された『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』(NHK)は、デビュー時からのシングル曲だけを歌ったもので、ファンの間では“伝説のコンサート”といわれています。放送後、NHKにはお礼のメールが多数寄せられました。親子2代で視聴した人も多かったようで、明菜さんの圧倒的な人気を改めて感じました」(NHK関係者)5月1日、デビュー40周年を迎えた中森明菜(57)。“伝説のコンサート”は4.6%の高視聴率を記録。15日には『中森明菜スペシャルライブ 2009・横浜』(NHK BS)も放送された。しかし、当の明菜本人は’17年末から公の場に姿を現していない。「明菜さんは’10年に帯状疱疹で芸能活動を無期限休止しました。’14年末には『NHK紅白歌合戦』にサプライズ登場して歌手活動を再開させましたが、’17年末のディナーショー以降は再び活動休止しています」(スポーツ紙記者)現在でも思うように体調は回復せず、闘病生活は12年にも及ぶ。「病気のため精神的な不調にも見舞われ、人前で歌うどころか会うのさえ限られた人のみ。自宅からほとんど出ない生活が続いているといいます」(音楽関係者)中野皮膚科クリニックの松尾光馬院長は言う。「帯状疱疹は男性に比べ女性に1.5倍ほど多く発症します。85%の人は3カ月ほどで治りますが、6カ月以上長引く人は4%います。帯状疱疹が長期化するのは、神経障害性疼痛という神経が傷つく痛みが長引いたためではないでしょうか。最初の発疹が重症な人や、発疹が出る前の『前駆痛』という痛みが強い人が長引きやすい傾向にあります」しかし今でも明菜は歌への情熱を持ち続けていると、前出の音楽関係者は語る。「“いつか自分が歌うために”と歌詞を書きためているんです。これまでも明菜さんが作詞した楽曲はいくつもあり、20代のころには作詞家の先生のもとで本格的に学んだこともありました。’00年以降は『Miran:Miran』というペンネームで作詞をしています」明菜の復帰を望む声は、今も根強い。「今年は40周年とあって明菜さんのレコード会社には音楽番組から出演オファーがいくつも届いています。なかでも明菜さんサイドとつながりが強いNHKは『紅白』に出演してもらえないかと狙っています」(テレビ局関係者)歌姫が闘病の傍ら綴った作詞ノート。彼女の才能の一編をまた聴ける日をファンは待っている――。
2022年07月25日Toshlが、カバーアルバム『IM A SINGER VOL.3』を9月28日にリリースすることが決定した。今作は約3年ぶりにリリースされる『IM A SINGER』シリーズの第3弾。テレビ朝日『題名のない音楽会』でも披露した「美女と野獣」に加え、テレビ朝日『ミュージックステーション』の“Toshl 3択”で披露した「タマシイレボリューション」(Superfly)、昭和を代表する歌謡曲「桃色吐息」(高橋真梨子)、「難破船」(中森明菜)、大ヒット曲「Hero」(安室奈美恵)、「三日月」(絢香)といった女性シンガーのカバー曲を収録。さらに大迫力のゴスペル合唱と共演した英語詞の楽曲「You Raise Me Up」(ケルティック・ウーマン)、2019年に公開された実写映画『アラジン』のために制作された「スピーチレス~心の声」、命のはかなさ、次の生命へと繋ぐ永遠を深く歌い上げたオリジナル曲「葉ざくら」なども収録される。「スピーチレス~心の声」では、日本を代表するチェロ奏者の宮田大がソリストを務め、楽曲に重厚さと華やかさを引き立たせている。また「美女と野獣」では『題名のない音楽会』で司会をつとめる石丸幹二とのデュエットを披露し、楽曲の世界に新たな息吹が吹き込まれている。リリース形態は初回限定盤と通常盤の2形態。初回限定盤付属のDVDには「葉ざくら」のMusic Videoやスペシャルインタビュー、スタジオライブが収録される予定だ。<リリース情報>Toshl カバーアルバム『IM A SINGER VOL.3』2022年9月28日(水) リリース●初回限定盤(CD+DVD):税込5,500円●通常盤(CD):税込3,300円【収録予定曲】・美女と野獣 ※石丸幹二とデュエット・スピーチレス~心の声・イントゥ・ジ・アンノウン~心のままに・Hero(安室奈美恵)・You raise me up(ケルティック・ウーマン)・三日月(絢香)・桃色吐息(高橋真梨子)・タマシイレボリューション(Superfly)・難破船(中森明菜)・葉ざくら(オリジナル曲)など【初回封入特典】特製トレカ(5種のうち1枚ランダム封入)Toshl ユニバーサル ミュージック 公式HP:
2022年07月13日「明菜は毎回、死ぬ気で歌っていた。過酷な芸能界で命を削ってきた。デビューしたころ、多忙な彼女は番組で出番が終わると、横でウトウトすることもありました。指で肩をつつくと、目を覚まして笑うんです。その笑みが何のゆがみもなくて、純真無垢だった。芸能界にいちゃいけない笑顔だなって」同じ’82年デビュー組の川田あつ子(56)は、間近で見てきた印象を思い返す。5月1日、中森明菜がデビュー40周年を迎える。なぜ、彼女は多数のライバルをはねのけ、時代を切り開けたのか。そしてなぜ、活動を休止しているのか――。明菜の歌はデビュー前から聴く人の魂を震わせてきた。’79年、中学2年の少女は山口百恵らを輩出した『スター誕生!』(日本テレビ系)に応募した。同番組の地区予選の審査員兼ピアノ伴奏を務め、のちに明菜を指導するヴォイストレーナーの大本恭敬氏(86)はすぐに素質を見抜いた。「鼻にかかった声に独特の艶っぽさと憂い、低音の魅力を感じました。ただ、通過後の本選で歌った岩崎宏美の『夏に抱かれて』は音域の広い難しい曲で、自分のよさを生かしきれなかった」不合格となった明菜は翌夏、再度挑戦して松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌う。審査員の松田トシは「顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも歌っていたほうがいいんじゃない?」と酷評した。明菜は「スタ誕では童謡を受け付けてないじゃないですか」と毅然と反論した。2度の不合格をバネに、翌年3回目の挑戦で番組最高得点を出し、本選を通過。’81年11月18日の決戦大会で11社のプラカードが上がり、事務所は研音、レコード会社はワーナー・パイオニアに決まった。ワーナーの邦楽宣伝課の富岡信夫氏(70)がプロモーションに使える材料を探すため、明菜にアンケートを記入してもらうと、「尊敬する人物」に「矢沢永吉さん、桃井かおりさん」と書かれていた。■デビュー直後のコンサートで『帰らないで!』と泣きながら歌っていた「16歳で2人の名前を挙げるコを初めて見た。新しいカルチャーを作りそうなセンスを感じました」歌手デビューという夢をつかんだ明菜は、東京・恵比寿にある大本氏の自宅でレッスンを重ねた。「周囲は『第二の山口百恵』に育てようという雰囲気がありましたが、百恵に似ないように独自の『個声』と『表現』を徹底的に磨きました。明菜には『ア』『オ』の間の声に独特の響きがあった。この特徴を鍛えると、下からすくうようなビブラート、花が咲くような表現ができるようになった。これが、明菜のオリジナリティになりました」’82年5月1日に『スローモーション』でのデビューが決まったが、メディア露出は難航した。当時、研音もワーナーも大手ではなかった。状況を冷静に分析した富岡氏は、地方のテレビ局やレコード店を地道に回る“演歌作戦”を敢行した。「札幌や福岡など7大都市をデビュー前に2周しました。仕事があるわけではなく、ただ単に挨拶回りをしました。明菜さんは嫌がらずにやってくれました。『なんとしても売れたい』という気持ちが全身から伝わってきました」デビュー4日後の5月5日、としまえんの野外ステージで複数のアイドルが出演するコンサートが開催された。明菜の出番になると、雨脚が強まった。観客が去ろうとすると、悲痛な叫びがこだました。「『帰らないで!』と泣きながら歌っていた姿を見て『たいしたものだ』と感心しました」(大本氏)いかに数少ないチャンスで人を引きつけるか。明菜にとって、すべてが勝負だった。一方、納得できない仕事には抵抗した。アイドル誌『平凡』で自宅の部屋を紹介する特集があった。出演の意味を理解できない明菜はスタッフ5人を前に、撮影を拒否した。困り果てた編集者から電話を受けた富岡氏が会社から急行すると、明菜は不満顔で「なんでやらなきゃいけないの。矢沢さんは出ないでしょ?」と述べた。富岡氏はこう説得した。「矢沢さんはメディアに出ない。その代わり、全国の小さな街でライブをして、自分の歌を伝える。君は今、同じやり方をできない。だから、テレビや雑誌を通して自分を伝える。部屋を見た読者が君に興味を持って、歌を聴いてくれるようになる。方法は違うけど、矢沢さんと同じことをしているんだよ」納得した明菜は満面の笑みでカメラに収まった。「理由を説明すれば、全力で取り組んでくれる。一つひとつの仕事に妥協しないコでした」(富岡氏)明菜は2曲目『少女A』で9月16日、『ザ・ベストテン』(TBS系)に初登場。一気にスターダムへ駆け上がっていく。作詞した売野雅勇氏(71)が述懐する。「実際に歌を聞くと、自分のイメージを超える歌い方をしていた。『少女A』は明菜ちゃんが歌ったから、売れたと思います。彼女は感情の幅が広くて繊細なので、いろんな歌を歌える。アイドルの歴史を塗り替えた歌手で、誰よりもスターの存在感を持つ女性です」その後、明菜は来生えつこ・たかお姉弟の『セカンド・ラブ』『トワイライト』という聖少女系、売野氏作詞の『禁区』『1/2の神話』というツッパリ系の歌を交互に発売し、ヒットを飛ばしていく。「ああいう詞を書ける歌手がほかにいなかったから、すごく楽しかった。アルバムのレコーディングで初めて会ったとき、驚くほどきれいでかわいかったですよ。ただ、愛想はよくなかった(笑)。きっと僕の詞があまり好きではなかったのだと思います。でも、嫌な気持ちにはならなかった」(売野氏)四方八方に笑顔を振りまき、大人の立てた戦略に素直に従う。当時のアイドルは、周囲の作った虚像の世界に置かれていた。だが、明菜は違っていた。川田が回顧する。「私はその枠から踏み外しちゃいけないと思っていたし、自分の意見は言えなかった。取材で困ったら『よくわかりません』と答えなさいと教わりました。明菜は周りと同化しないタイプで、独特な世界観を持っていましたね」1,500人以上のタレントを指導してきた大本氏が話す。「強くて芯のあるコで、レッスン中も自分をごまかさなかった。たくさんのアイドルがいましたけど、“中森明菜”という自分を持っているコは彼女しかいなかった。唯一無二、孤高の存在感があった」■久しぶりの再会に「泣きながら『先生に会いたかった』と」人を寄せつけない雰囲気を醸し出す一方、困った人を放っておけない一面も持っていた。『ザ・ベストテン』で’85年から司会を務めた小西博之(62)が振り返る。「僕が始めて4週目、(司会の)黒柳徹子さんがお休みだったんです。すごいプレッシャーですよ。その日、6位のサザンオールスターズは欠席でした。歌い終わった明菜ちゃんが横に来てくれて『申し訳ございません』と視聴者のために一緒に頭を下げてくれた。本当にうれしかった。ほかの日も、僕が何か間違えるとCM中に『コニタン頑張ってね!』と優しく声をかけてくれた。困ったらすぐ手を差し伸べてくれる下宿先のお姉さんのような存在でした」多忙を極めるなか、明菜はリハーサルにも必ず顔を出し、わずか3分の歌唱に魂を振り絞った。「あるとき、控室から『なんで衣装が届いてないの!』と怒る明菜ちゃんの声が漏れてきました。スタッフが言い訳すると、『じゃあなんで前の日に無理って伝えないの?』って。まさにそのとおりですよね。『私は命懸けて歌ってるの。手抜いちゃダメよ!』と聞こえてきて、自分も身が引き締まりました」’85年に『ミ・アモーレ』、’86年に『DESIRE -情熱-』で2年連続日本レコード大賞を受賞。明菜は名実ともに“歌姫”となった。だが、人生は過酷だ。’89年には自殺未遂、’90年代には度重なるトラブルに見舞われ、世間を騒がせた。そのころ、大本氏は六本木のバーで深夜に明菜と偶然再会した。「泣きじゃくりながら抱きついてきたので、しばらく『よしよし』と子供をあやすようにしていました。『元気か?』『先生に会いたかった』と言葉を交わした記憶があります。明菜は、一緒にいた私の家内にも『ママ?』と同じように抱きついて泣きじゃくっていました」余計な言葉などいらない。大本夫妻はただ明菜を優しく包んだ。よく一緒に食事やカラオケに赴いていた川田が思い返す。「いつだって、私の知っている明菜の笑顔はデビューのときと同じで純真無垢でした」■《あんまり幸せだといい歌にならない》数々の困難に遭った明菜には悲劇のイメージがついた。後年、本人は《中森明菜というキャラクターは、あんまり幸せだといい歌にならない》(『スポーツニッポン』’03年5月1日付)と漏らした。衝撃的な発言にも取れるが、川田と売野氏はこう分析する。「俯瞰で自分を見られる。これが彼女のすごさなんですよ」(川田)「普通の人を理解するような感覚で、明菜ちゃんの気持ちを勝手に捉えちゃいけない」(売野氏)’02年、20周年の明菜は復活を遂げる。カバーアルバムがヒットし、『NHK紅白歌合戦』にも復帰。当時、取材でこう語っていた。《歌って、思い出を作ってくれるじゃないですか。時間もそうだし、呼吸、空気、香りも…。その歌に、宝箱のように、ある瞬間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提》(『日刊スポーツ』’02年12月15日付)’17年から活動休止中の彼女の心境を、川田が推し量る。「ファンへの感謝が強い人ですし、『万全の状態で表に出たい』という葛藤があるのかもしれない。とことん自分に向き合って妥協しないから……。周りが完璧だと褒めても、自分が納得できなければ満足しなかった。友としては、彼女が本当に歌いたくなるまではそっとしてあげてほしいな」それでも、「明菜待望論」は根強い。40周年記念の番組やリリースが相次いでいるのはスターの証しだ。歌の師である大本氏は断言する。「年齢を重ねたからこそ出せる味や歌声がある。それが自然だし、それでいい」いつになっても構わない。孤高の歌姫が解き放つ今の歌声をファンは待っている。(取材・文:岡野誠)
2022年05月01日抜群のセンスと数々のヒット曲で日本歌謡界のトップスターに君臨し続けた中森明菜(56)がまもなくデビュー40周年を迎える。ここ数年は公の場に姿を見せていないが、デビュー日の5月1日、並びに6月17日には40周年を記念してWOWOWで過去のライブ映像が配信されるなど、今もなおその人気は衰えていない。しかし、’89年に自殺未遂を起こして以降、90年代には事務所トラブル、’10年に無期限活動休止を発表するなど波乱の多い人生でもあった。’81年、15歳で『スター誕生!』で山口百恵の『夢先案内人』を熱唱したことをきっかけに芸能界入り。翌’82年に“ちょっとエッチな美新人娘”というキャッチフレーズでデビューし、同年発売した2枚目のシングル『少女A』ですぐさまブレイクを果たした。松田聖子を代表とするそれまでの可愛らしいアイドル像とは異なる、明菜の不良っぽい雰囲気と歌声は、多くの人を魅了。瞬く間にトップアイドルの座へと登り詰めたのだ。‘85年の『ミ・アモーレ』と、その翌年に発売した『DESIRE-情熱-』では、史上2例目となる2年連続の日本レコード大賞受賞の快挙を達成。その後も数々の賞を受賞し、明菜はアイドルとしての絶頂期を迎えることになる。何もかも順調に見えた明菜だが、プライベートでは悩みを抱えていたようだ。’89年7月11日、当時交際していた近藤真彦(57)の自宅で左肘の内側を刃物で切って自殺を図ったのだ。帰宅した近藤に発見された明菜は、病院へと緊急搬送され一命を取り留めた。明菜は近藤と共に’89年12月31日の大晦日に、一連の騒動に関する会見を開いたが、その会見は”結婚を連想させる金屏風の前での謝罪”という異様なものに。明菜の辛そうな面持ちに、世間からは心配の声が相次いだ。その後、近藤とは破局した。この件を境に、明菜の周りではトラブルやスキャンダルが多数報じられるようになる。女優として活躍したり、『Dear Friend』(‘90年)などのヒット曲を発売したりする一方で、事務所やレコード会社の移籍を繰り返す。その後、徐々に活動の範囲を絞っていった明菜。’10年には体調不良により無期限の活動休止を発表したのち、’14年末に『紅白歌合戦』に出演。’16年からはカバー・アルバムを発売するなど本格的に再始動したが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。デビュー40周年を迎える今年、明菜の歌声を聞くことはできるのだろうかーー。
2022年04月30日1982年5月1日にシングル「スローモーション」で衝撃のデビューを果たした中森明菜。数多くの名曲を世に送り出し、1985、1986年には2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、いまや日本を代表する伝説の歌姫となった彼女。MUSIC ON! TV(エムオン!)では、今年デビュー40周年を迎えることを記念して、過去のライブ作品から「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」「Live in '87・A HUNDRED days」「Live in '88・Femme Fatale」「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」の4ステージを4時間30分にわたって、デビュー日である5月1日に一挙放送!「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲の数々が、圧倒的な歌唱力で歌い上げられる華やかなステージをお見逃しなく!\4ライブ、4時間30分放送/■■番組情報■■M-ON! LIVE 中森明菜 「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」<放送日時>2022/5/1(日)13:00~14:00<番組内容>1985年9月22日、東京・東京厚生年金会館で開催されたライブの模様を放送。代表曲「飾りじゃないのよ涙は」をはじめ、「十戒(1984)」など華やかなライブステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '87・A HUNDRED days」<放送日時>2022/5/1(日)14:00~15:00<番組内容>1987年に行なわれたツアーより、10月17日の東京・東京厚生年金会館公演の模様を放送。アルバム『CRIMSON』『BITTER AND SWEET』『不思議』からの楽曲を中心に、「飾りじゃないのよ涙は」などのヒット曲も楽しめるステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '88・Femme Fatale」<放送日時>2022/5/1(日)15:00~16:00<番組内容>1988年10月26日の東京・中野サンプラザ公演の模様を放送。「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」といった昭和懐メロや洋楽のカバー曲も楽しめる、バラエティー豊かな彼女のステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」<放送日時>2022/5/1(日)16:00~17:30<番組内容>1991年7月27日・28日に千葉・幕張メッセで行われたスペシャル・コンサート。「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲を圧倒的な歌唱力でお届け。以上MUSIC ON! TV(エムオン!)は、スカパー!、J:COM、ケーブルテレビ、ひかりTVなどでご覧いただける音楽チャンネルです。詳しくは、MUSIC ON! TV(エムオン!)公式サイト( )まで。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年04月26日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、憧れていたアイドルの話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう--。■ファッションの斬新さは今も色あせません『DESIRE-情熱-』(’86年)は、中森明菜にとって14枚目のシングルとなる。同曲が採用され、明菜自身も出演していたCDコンポ(パイオニア)のCMが、記憶に残っている人も多いはず。レコードには、楽曲への自信の表れなのか「このレコードは可能な限り大音量でお聴きください」という注意書きが記されていた。「前年に発表した『ミ・アモーレ』(’85年)に続き、2年連続で日本レコード大賞を受賞するという、史上2例目となる快挙を達成。明菜さんを、アーティストとしての絶頂期へと押し上げた名曲です」こう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。まず、この楽曲でインパクトを与えたのは、ボブのウイッグを身につけたヘアスタイル、そして独特のファッションだった。「レコード(CD)のジャケット写真は着物姿でしたが、歌番組などで歌うときは、着物をアレンジしたような、和テイストをふんだんに盛り込んだ洋装。日本の文化を感じさせたためか、外国人の間でも評価が高かったようです。ファッションの斬新さは約35年を経た今も色あせていません。いまだにコスプレ用の衣装がアマゾン・ドットコムでも販売されているのが、その証しでしょう。アイドルのイメージが周囲のスタッフによって作り上げられていた時代、明菜さんはメークやファッションなどで、自分自身をプロデュースしました。曲によってガラリと印象が変わるのはそのため。翌年の『難破船』などは、まったく別の歌手のようでした」観客から『はっ、どっこい!』と合いの手が入るサビの部分のアクションも特徴的。「上半身を揺らし、大きく屈むパフォーマンスは、野球のピッチングフォームから着想を得たという逸話も。カラオケを楽しむ若者が増えてきたころだったため、こうした振付も含めて愛されました。私自身、パイオニア協賛のカラオケ大会で、この曲を歌って準優勝したことがあるくらい(笑)」同曲が発表された’86年は、バブル絶頂期へと上り詰めていく時期。「今振り返ると当時は、右肩上がりの景気に誰もが浮かれていました。それが“バブル”で、近い将来“崩壊”するとは予見できなかった半面、どこか短期的な、はかなさを感じていた人もいたはず。そんな時代の中、ある意味、刹那的ともいえるサビの部分の歌詞も、人々の心に刺さったのかもしれませんね」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年04月17日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、カラオケでよく歌った曲の話。活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。■今でも解釈の幅が広がり続ける名曲「松田聖子さんの曲は、デビュー当初は大人の恋愛への憧れとドキドキ感、次第に失恋の胸の痛み、そして失恋が美しい思い出へと変化していくことを歌った『SWEET MEMORIES』(’83年)へと、ファンとともに大人の女性の歌に成長していきました。そして’86年、聖子さんの13枚目のアルバム『SUPREME』に収録されたのが『瑠璃色の地球』です。歌詞は恋愛要素も感じさせますが、『地球』というタイトルに、荘厳な曲調も相まって、単なる恋愛を超えた、もっと広い意味での愛や希望を感じさせます」そう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。『瑠璃色の地球』の作詞は松本隆、作曲は『風立ちぬ』(’81年)のB面曲『Romance』や井上陽水の『少年時代』(共作・’90年)を手がけた平井夏美(川原伸司)。レコーディング時、聖子は妊娠中だったといわれている。「だからこそ、その歌声からは懐ろの深い、無償の愛が感じられるのではないでしょうか。’80年代後半はバブル特有の拝金主義時代とも言われ、“造っては壊す”や勝ち組・負け組があからさまな競争社会でもありました。ゆえに、余計にこの曲が人々の心に染み入ったのかもしれません」NHK紅白歌合戦では出産後初めての出場だった’86年に続き、’01年、’20年にも同曲が歌われた。「’01年のときは、かつて交際の噂が報じられたシンガーソングライターの原田真二さんがピアノで伴奏したこともあり、話題になりました」その後、多くのアーティストに愛され、辛島美登里、沢田知可子、広瀬すず(アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の劇中歌)らがカバーしてきた。とりわけファンを驚かせたのは、中森明菜がカバーアルバム『ZERO album~歌姫2』(’02年)で同曲を歌ったことだった。また’10年4月には、宇宙飛行士の山崎直子さんの、国際宇宙ステーションでの“目覚ましソング”に選ばれた。「さまざまなアーティスト、さまざまな場面によって歌い継がれ、時代の移り変わりとともに『社会貢献』『ロハス』『貧困と格差』『環境問題』など、解釈の幅も広がりました。40年近く前の曲ですが、現在、国際的に提唱されているSDGsの理念にも通じます。まさに聖子さんの代表曲といっても過言ではないでしょう」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年03月27日’81年、15歳で『スター誕生!』に出演。翌’82年にデビューし2枚目のシングル『少女A』で不良っぽい歌詞と歌声が話題となり、その後も数々のヒット曲でトップスターに君臨した中森明菜(55)。しかし、自殺未遂騒動を起こした’89年以降は、公私ともに波瀾万丈な人生に。今年でデビュー40年目を迎えた伝説の歌姫の軌跡を本誌秘蔵写真で振り返るーー。■’82〜’88年・デビューから一躍スターダムへ駆けあがった’82年、『スローモーション』でデビュー。続々とヒット曲を飛ばし、『ミ・アモーレ』『DESIREー情熱ー』で2年連続レコード大賞を受賞。【’83年11月】あどけない表情で紅白初出場の会見へ【’86年12月】FNS歌謡祭2年連続受賞で号泣【’87年2月】『夜のヒットスタジオ』で熱唱!【’87年3月】ゴールドディスク大賞“記念すべき第1回”で受賞■’89〜’09年・衝撃の自殺未遂から事務所移籍まで波乱の10年’89年、当時交際していた近藤真彦(56)のマンションでの自殺未遂が発覚し、1年間活動を休止。その後は女優としての活躍も著しかったが、事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、トラブルやスキャンダルが絶えなかった。【’89年7月】切ない表情で『LIAR』を歌ったメガロポリス歌謡祭【’91年11月】中村芝翫夫妻の披露宴でおちゃめなびっくり顔【’92年6月】メガロポリス歌謡祭で復活のスマイル【’92年11月】NYで撮ったサイン入り写真【’02年12月】デビュー満20周年で14年ぶり紅白出場■’10年〜・芸能活動休止から現在に至るまで’10年、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。’14年末の『紅白歌合戦』にNYのスタジオから中継出演し活動再開が期待されたが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。「女性自身」2021年5月25日号 掲載
2021年05月17日「同世代のスターの中でも、明菜ちゃんは別格中の別格。彼女が今、表舞台で活躍していないことが残念で仕方ないよ!」食事の席で田原俊彦(60)は熱く語り続けた――。田原と仕事関係者たちが食事をともにしたのは2月下旬だったという。田原をよく知る芸能関係者はこう語る。「その席で中森明菜さん(55)のことが話題になったのですが、それでトシちゃんにスイッチが入ってしまって……。ついには『俺がこれから明菜ちゃんに電話をかけるよ!』と言いだしたそうです」明菜と田原は同じアイドル全盛の時代を生きてきた“戦友同士”だ。「`80年代は『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』など大人気の歌番組が多数あり、トップアイドルたちは毎日のように収録で顔を合わせていました」(’80年代に詳しいライター)トップアイドルとして’80年代を駆け抜けた2人はお互いにシンパシーを感じていたのだろう。その交流は途切れ途切れながらもずっと続いていたようだ。’17年2月には田原が『爆報!THEフライデー』(TBS系)で、明菜から『トシ、元気?いつも見ているから』という内容の留守電が入っていたことを明かした。そんな2人の現在の活動状況は対照的といえる。「田原は今年2月に還暦を迎えましたが、4月25日には60歳アニバーサリーライブを開催予定。いまなお精力的に活動中です。しかし、明菜は今年5月からデビュー40年目に入りますが、’17年以降、表舞台から退いたままです」(音楽関係者)前出の芸能関係者は、「体調が悪いとはいえ、トシちゃんとしては明菜さんが不遇の日々を送っていることが許しがたい気持ちもあったのでしょう。食事の席での会話がきっかけとなり、明菜さんへの思いがあふれ出したようで、トシちゃんが『明菜ちゃんに電話をかけて復帰するように言うよ』と……。突然の宣言に同席者たちが驚くなか『俺なら口説けるから!』と自信を持っていたそうです」仕事関係者たちが見守るなか発信ボタンを押す田原。だが30秒後、「あれ、出ないね」と、バツが悪そうにポツリ……。同席者らは押し黙るしかなかった。「結局その食事が終わるまで、明菜さんから返信はなかったそうです」(前出・芸能関係者)明菜がまさかのガン無視!?だが、その後に折り返しがあった可能性もある。本誌が田原の所属事務所に問い合わせてみると、明菜に電話をかけたことは認めたものの、「(明菜さんからの)電話はありませんでした」そう答えた。古い友人からの電話にも応答しないとは、明菜の体調はそれほど悪いのか?田原の思いが通じ、歌姫が表舞台に舞い戻る日は来るのか――。「女性自身」2021年5月4日号 掲載
2021年04月19日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「モノマネ番組とかで、中森明菜さんの『十戒(1984)』(’84年)や『TATTOO』(’88年)の歌マネをさせてもらったりしています。藤井隆さんの歌イベントでは、明菜さんの曲の振付が完璧な素人さんが毎回観覧に来ていたから、その人にステージに上がってもらってコラボしたり。’14年に『紅白』に出場したときに『日本では低気圧のほうが大変だということで……』みたいに、ちょっとハスキーで、徐々に聞こえるか聞こえないかの声の大きさになる、しゃべり方が特徴なんですね」明菜愛が強すぎて、ついモノマネしたくなるというのが、お笑いタレントの椿鬼奴さん(48)。デビュー当時のシングル盤レコードを手に取りながら、’80年代を振り返る。「じつはレコードは持っていなかったんです。小学生のころはわりと裕福な生活だったんですが、自分で使えるお金は、もらえなかったんですよね」小学生時代は、渋谷駅の隣にある高級住宅街・代官山のマンション住まい。お正月などの特別なときは、バブル時代、テレビ業界人御用達だった六本木の高級料理店「瀬里奈」に行くほど、ハイソな暮らしぶりだった。「お着物姿の女性がたくさん働いていて、子どもながら“すごく高いんだろうな”って、肌で感じていました。まあ、支払いは父というよりは、会社の経費だったみたいですけど(笑)」その父は厳しくて、鬼奴さんは自由にテレビを見せてもらえなかったという。「『3年B組金八先生』(’79年〜・TBS系)すらダメで、弟と一緒になんとか見る権利を得られたのは『8時だョ!全員集合』(’69〜’85年・TBS系)だけ。ふだんはNHKか巨人戦ばかりでした。おかげでキャッチャーの山倉和博さん(’78年入団)のファンになって。チェッカーズの(武内)亨さんに似たイケメンだったので“巨人の亨”と呼んで、プロ野球チップスを買ってカードを集めていました」中森明菜の存在は、父親の帰りが遅いとき、こっそり見ていた『ザ・ベストテン』(’78〜’89年・TBS系)で知った。明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。「クラスの友達の間で、聖子派か明菜派か、どちらか決めなきゃいけないみたいな雰囲気って当時、ありましたよね。私は、聖子ちゃんのようなキラキラしている王道アイドルを直視できなくて……。それより(セカンドシングル)『少女A』のジャケットの、不機嫌な感じの明菜ちゃんが好きでした。陰があって多くを語らない、クールな明菜ちゃんの派閥に加わったんです」子どもがカラオケに行くような時代ではなかったので、歌うのはだいたいアカペラ。「歌番組をカセットテープに録音して、勉強時間や寝るときに聴いて覚えていました。カセットテープもなかなか買ってもらえなかったから、1本のテープに何度も重ね録りするんですが、上から録音した曲が長くて、前に録ってあった次の曲のイントロ部分が消えちゃったりして」「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「’82年、“ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)”というキャッチフレーズでデビュー。ファーストシングル『スローモーション』(’82年)こそ、聖子ちゃんをほうふつさせる“かわいい路線”でしたが、セカンドシングル『少女A』(’82年)以降、『禁区』(’83年)『十戒(1984)』(’84年)などは、キャッチフレーズどおりの大人っぽいセクシーさとともに、不良っぽさも満載でした。それまでの『休日の予定はお菓子作りで、趣味はぬいぐるみ集め』といった、典型的なアイドル像をガラリと塗り替えたのです」そう語るのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。圧倒的人気を誇った松田聖子に『ザ・ベストテン』(’78〜’89年・TBS系)などのランキング争いで明菜が挑み、ついには追い抜くというバトル的要素も、ファンを熱くした。「どうしても聖子ちゃんのぶりっ子路線を受け入れられない女子が、“明菜派”となって応援しました。正統派の松田聖子さんと田原俊彦さん、不良っぽい明菜さんと近藤真彦さん、という対比が鮮明だったのです」しかし、明菜は不良っぽいだけではない。「アイドル番組ではコントに参加し、歌番組のトークコーナーでは、10代の少女らしく、かわいらしくしゃべる姿も見せました。ただ、ひとたびステージに上がり、前奏が始まると、別人のように表情が一変する。そのギャップも魅力となったのです」明菜自身の意見を取り入れた衣装、ヘアメークなどへのこだわりにも、牛窪さんは注目している。「男性ではジュリー(沢田研二)の存在が際立ちましたが、女性アイドルでこれほど自己プロデュース力を発揮したのは、明菜さんが初めてではないでしょうか。とくに『DESIRE−情熱−』(’86年)に、卓越したセンスを感じました」一方、近藤真彦宅での自殺未遂事件(’89年)では、芸能人生の危機が訪れたがーー。「歌手としてだけではなく、そうした人間的な弱さも含めた“中森明菜”という存在に、人々は心から声援を送りました」その後も、歌に対して真摯に向き合う明菜は、40代、50代となったファンの心を、いまもずっとつかみ続けている。「10代のときに気づかなかった明菜さんのプロ意識の高さに、社会に出てから『そうか!』と気づく人も多かったはず。いち人間として尊敬されているからこそ、女性だけでなく、根強い男性ファンも多いのではないでしょうか」「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「クラスの友達の間で、聖子派か明菜派か、どちらか決めなきゃいけないみたいな雰囲気って当時、ありましたよね。私は、聖子ちゃんのようなキラキラしている王道アイドルを直視できなくて……。それより(セカンドシングル)『少女A』のジャケットの、不機嫌な感じの明菜ちゃんが好きでした。陰があって多くを語らない、クールな明菜ちゃんの派閥に加わったんです」そう’80年代を振り返るのは、お笑いタレントの椿鬼奴さん(48)。中森明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。「モノマネ番組とかで、中森明菜さんの『十戒(1984)』(’84年)や『TATTOO』(’88年)の歌マネをさせてもらったりしています。藤井隆さんの歌イベントでは、明菜さんの曲の振付が完璧な素人さんが毎回観覧に来ていたから、その人にステージに上がってもらってコラボしたり。’14年に『紅白』に出場したときに『日本では低気圧のほうが大変だということで……』みたいに、ちょっとハスキーで、徐々に聞こえるか聞こえないかの声の大きさになる、しゃべり方が特徴なんですね」明菜ファン同士のつながりは、大人になった今も生まれているという。「番組でミッツ・マングローブさん(45)とご一緒したとき、ミッツさんのご自宅の様子を撮影したVTRが流されたんです。それがすごく退廃的なイメージで、かかっていたBGMが『SOLITUDE』(’85年)。私もすごく好きな曲なんですが、明菜さんの曲のなかでこれを一番にあげる人は、まわりにいなかったので、『しぶくていいっすね』とミッツさんに話しかけたんです」これをきっかけに、ミッツさんとは“明菜談義”をする仲に。「当時、ミッツさんが経営していたお店に行って、『どの歌がいい?』から始まり、『明菜ちゃんって、どういう性格だと思う?』なんて勝手に2人で妄想しながら、一緒に歌ったりしていました」さらにパチンコ好きな鬼奴さんは、「CR中森明菜歌姫伝説」(’14年)にも、どハマり。「パチンコ台の液晶画面に登場する明菜さんは、通常だとアニメなんですが、アツいリーチがかかると、実写になってカットインしてくるんです!それを見るのが楽しくて、つい続けてしまいました。相性もよくて、けっこう勝率は高かったですね」’16年末にはミッツから「明菜ちゃんが、いよいよ7年ぶりに公の場に。ディナーショーをやる」と緊急招集をかけられた。「テレビやパチンコ台でしか見たことがない明菜ちゃんを目の当たりしたので、“実在するんだ”って、オープニングから大号泣。新譜に加えて、そのころ発表していた洋楽カバーアルバムからも歌われたし、往年のヒット曲メドレーもあって、本当に豪華でした」MCでは、’14年に出場した『紅白歌合戦』についても触れ……。「『声ちっちゃいって言われたり、モノマネされたり……』って。一緒に見に行ったミッツさん、友近さん、それに私の全員がモノマネしていたので“わー、私のことかも”って興奮してしまいました(笑)」その翌年のディナーショーでは、明菜が「椿鬼奴さんが私をマネしている」とネタにしていることを、ネットニュースで知ったという。「怒っていらっしゃると困るんですが……。でも“認識してもらえている”と思うと、それだけで幸せ。ディナーショーがまた復活したら、絶対に行きたいです!」明菜は鬼奴さんにとって、まさに“永遠のアイドル”なのだ。「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日お笑いコンビ・ガレッジセールのゴリが24日、自身の公式YouTubeチャンネル「ゴリ★オキナワ」に出演し、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『ワンナイR&R』の人気キャラクター・ゴリエを演じていたときの思い出を語った。「【神回】遂に宮迫博之とコラボ!!当時の水10『ワンナイ』についての禁断トーク炸裂!」と題して公開された動画には、雨上がり決死隊・宮迫博之がゲスト出演。『ワンナイR&R』時代を述懐し、ゴリは「おばあちゃんとかに会うと、『あんた、ゴリって言うの? 今、ゴリエっていう女の子のタレントがいるの知ってる?』って言われるぐらい、年配の方は“ゴリエ”っていうキャラクターがいると思っていたんですよ」と述べ、宮迫も「独り歩きしてたもんね」と同意した。さらにゴリは「僕、つらかったのが『FNS歌謡祭』で、中森明菜さんが廊下から歩いてきたんですよ。(松田)聖子ちゃん、明菜ちゃんで、僕らが小学生の頃なんてどっち派で喧嘩になるぐらいですよ。その中森明菜が来たんですよ。『中森明菜だ!』と思ったら、向こうから先に『ゴリエちゃんうれしい!』って。僕、キャラクターを変えられないから、『おー! 明菜さん!』って言えないんですよ。『明菜~』とかやるしかないからつらくて。『いやいや、俺がうれしいんです』って言いたいんですよ」と振り返った。続けて「シンディ・ローパーもいたんですよ。デスティニーズ・チャイルドも、リアーナもいる。僕らいろんな有名な人と会いましたよね。でも、ゴリエちゃんのままなんですよ。『リアーナ~』って。『リアーナさん!』ですよ、本当は」と話していた。
2021年02月27日柴咲コウ主演、遊川和彦脚本で描く日本テレビ系新土曜ドラマ「35歳の少女」の3話が10月24日放送。橋本愛演じる主人公の妹・愛美が泥酔し口ずさむ“昭和の名曲”にTLがざわめくとともに、鈴木保奈美演じる母の“暴走”には怒りの声が上がっている。不慮の事故で10歳にして意識不明となり25年後に目覚めた“35歳の少女”が、変わり果てた世界と自分…現実に戸惑いながらも、前を向いて生きる少女の時をこえた成長物語を描く本作。“35歳の少女”時岡望美を柴咲さんが演じ、望美の初恋相手・広瀬結人を坂口健太郎が、望美の母・時岡多恵を鈴木さんが、望美の3歳違いの妹・時岡愛美を橋本さんが、今は離婚した望美の父・今村進次を田中哲司がそれぞれ演じる。そのほか富田靖子、竜星涼、細田善彦、大友花恋らが共演。※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。家族に“成長宣言”した望美は努力するが上手くいかない。元教師の結人に勉強を見て欲しいと思うが、結人をよく思わない多恵は学習塾に通わせようとする。進次も引きこもりとなった義理の息子・達也(竜星さん)との関係を修復しようとするが、達也から100万円を要求されてしまう。その一方、仕事ぶりが評価されないだけでなく、相沢と藤子の関係を前にして公私ともに絶不調な愛美は、結人に愚痴聞き代行を頼み、散々愚痴ったあげく泥酔。相沢の自宅に押しかけ「なんであんなバカ女と付き合うのよ!」と叫ぶ…というのが今回のストーリー。その際酔った愛美が口ずさんだのが中森明菜の「難破船」…昭和の名曲を口ずさむ橋本さんの姿に「難破船のワンフレーズ歌うシーンがあった」「今日の35歳の少女の橋本愛、名演技」などの反応が。そんななか、望美と結人が会い続けるのを良く思わない多恵は、望美の部屋に監視カメラを設置、外から鍵をかけ外出できないようにしてしまう。その後、望美は多恵と仲直りしようと、幼少期の記憶を頼りに多恵に手紙を綴り、多恵は結人に勉強を教わることを許すのだが、多恵の“束縛”に「監視カメラに外から鍵って。普通ではないな」など視聴者からも怒りの声が上がっている。(笠緒)
2020年10月25日音楽ストリーミングサービス・Spotifyでは、6月の「プライド」月間にあわせて「Pride」コーナーを設置し、「プライド月間」のサウンドトラックとなる国内外のプレイリストや、LGBTQIA+のクリエイターによるポッドキャスト番組を展開する。「中森明菜 the B-EST by Mitz Mangrove」は、ミッツ・マングローブ選曲の中森明菜シングルB面集。ミッツは、「レコーディング後にA面B面が急遽逆転することも少なくなかったという明菜さん。背中合わせな存在だからこそストレートに聴こえてくるリアルな温度や情景」とその魅力を伝え、「そして改めて感じさせてくれるその歌声の魅力を存分に」とコメントを寄せた。そのほか、LGBTQIA+の文化について積極的に執筆している映画・音楽ライターの木津毅氏が、注目のLGBTQIA+のアーティストにスポットを当てたプレイリスト「Let’s March Again」、新宿二丁目のAiSOTOPE LOUNGEで開催されているMCバトルイベントの熱狂を再現した「オネエスタイルダンジョン」などで「プライド月間」を祝う。
2020年06月11日「2月19日にブログで舌がんを公表する前に、堀は堀越学園の同窓生で’82年デビューの同期である早見優に会っていました。堀は早見に病気のことを告げるとともに、82年組のほかの同期生たちにも病気のことを伝えてもらうこと、そして同窓会を開いてほしいということを頼んだのです」(芸能リポーター)ステージ4の口腔がんであることを公表した堀ちえみ(52)。同じく“花の82年組”である早見優(52)は元シブがき隊の薬丸裕英(53)に相談し、手分けをして親しい同期生たちに連絡をとることになった。そしてがん公表後、連絡を受けたメンバーたちは堀に次々とエールを送っていた。「’80年代当時は歌番組も多く、控室も大部屋だったりで、若いアイドルたちが仲良くなる機会もいまより多かったのです」(前出・芸能リポーター)ただ82年組メンバーのなかでは昔からアーティスト路線で、一時期芸能活動も休止していた中森明菜(53)の連絡先を知っている者はいなかったという。「しかし薬丸から連絡を受けた小泉今日子(53)が、『もしかしたらたどれるかもしれない』と、明菜への連絡役を買ってでたのだとか。2人は’93年にスペシャルドラマ『瞳に星な女たち』でW主演もしており、仲も良かったのです」(前出・芸能リポーター)早見は“堀が会いたがっているにちがいない同期”という条件で、連絡網を敷いたようだが、堀と明菜の交流についてはあまり知られていない。だが’80年代アイドルにも詳しいフリーライターの堀越日出夫さんは言う。「’82年9月に発売された堀ちえみさんの著書には『親友』と題された章があります。そこには、ファーストコンサートで小泉今日子さんからメッセージカード付きの花籠をもらったと書かれています。著書には《(今日子ちゃんは)お仕事の上ではライバルだけど、2人がいい意味で競争し合えたら最高だと思います》という記述もあります。きっと堀さんは小泉さんとの縁で、その親友である明菜さんとも交流があったのだと思います」舌がんが発覚する前は、82年組ネットワークの中心を担っていた堀は、ずっと明菜のことを気にしていたようだ。堀は’10年のブログで『明菜ちゃん、ガンバレっ』というサブタイトルの記事を書いていた。「明菜は’10年10月に体調不良により、芸能活動の無期限活動休止を発表しています。その当時、堀はその3年前にテレビ局で明菜と出会ったエピソードを披露し、《元気になった明菜ちゃんと、会いたいな私は明菜ちゃんの笑顔を、いっぱい見てきたから》などと、つづりました」(前出・芸能リポーター)それから8年、いまは逆にエールを送られる立場になった堀。芸能リポーターの城下尊之さんは言う。「明菜は堀の病状を聞いて絶句したそうですが、連絡をくれた小泉に《私も応援しています。強いちえみちゃんのことだから、絶対に病気に負けずに頑張ってくれると信じています》というメッセージを託したと聞いています」手術日当日には、同期たちが空に向かって手術の成功を祈ったというが、明菜も堀との再会の日を待ちわびているに違いにない。
2019年02月26日クリスマスディナーショーのシーズンに突入したが、今年の中森明菜(53)は公演予定がないままだ。明菜は10年10月に免疫力低下で体調を崩し、開催決定していたディナーショーを中止。14年おおみそかのNHK・紅白歌合戦で復帰。以後はアルバム制作に重点を置き、本格的な復帰を目指していた。そしておととしに約7年ぶりのディナーショーを開催すると、7都市10公演のチケットが即日完売。35周年のメモリアルイヤーにあたる昨年も、ディナーショーを開催。14都市18公演でチケット料金4万8,000円~5万円と高額にもかかわらず、発売30分間で完売。根強い人気ぶりをうかがわせた。「今やディナーショーは明菜さんのファンにとって唯一、“生の明菜”に会える場となっています。だからファンはいくら高額でもチケット代を惜しみません。昨年は『この年でこれだけ歌って踊るのはキツいんだから』なんて自虐トークを繰り出したこともあり、復調ぶりがささやかれていました。明菜さん本人が『2年連続ディナーショーをやったらツアー』と目標を掲げていたため、今年も期待されたのですが……」(音楽関係者)しかし8月上旬に届いたファンクラブの会報を受け、ファンたちの間で心配の声が上がっていたという。「そこには《さみしいねぇ…ほんとォーに…みんなに…会いたい…でも…無理かもぉー》とつづられていたそうです。明菜流のジョークかと思いきや、やはりショーの告知はないまま。一部で恋人とされていたマネジャーとの破局が報じられたこともあり、心配の声があがっています」(芸能記者)果たして明菜は復調し、ファンの前に元気な姿を見せることができるだろうか。
2018年11月05日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。そんなメンバーに話を聞いた。■大沢逸美(52)/デビュー当時のキャッチフレーズは「グッドガール it’s me」「背が高かったし、中性的なイメージで勝負しようとしていたので、運動神経もいいと思われたんでしょうね。アイドル恒例の『水泳大会』のリレーではつねにアンカーを任されたものの、遅すぎて画面から消えてしまうほどでした(笑)」大沢さんが『ジェームス・ディーンみたいな女の子』で歌手デビューしたのは16歳のとき。当時全盛だった“ぶりっこタイプ”とは正反対の男装の麗人風で、「ポスト百恵」としても注目を集めた。しかし、アイドルは水に合わなかったのか、3年ほどでピリオドを打ち、以降、女優として多くの役を演じてきた。「転機は26歳でした。昼ドラ『約束の夏』でヒロインを演じたとき、相手役を本気で好きになるほど、役にのめり込んで。やっと職業欄に『女優』と記せる、と思えたし、“魅せる喜び”に目覚めていきました」一方で、私生活では25歳で父親が他界、母親を北海道から呼び寄せ、同居を開始していたという。「仕事への充実感は増していきましたけど、’02年に母が他界するまでの2年間は特に、介護に軸を置く日々でした。介護保険もない時代でしょ。私は一人娘だったし、母はほかに頼るところがなかったから」地方ロケなどは断るようになり、徐々に仕事から遠のいた。「母とは昔から折り合いが悪かったんですよ。でも、要介護になるちょっと前に、恋人との別れも重なって。介護が始まってからは『お母さんがいてくれさえすればいい』と腹をくくって向き合うことができました。母の頭を洗ってあげたりしていると、『ああ、自分もこうして育ててもらったんだな』なんて。笑顔を見せてくれれば『やっぱり愛おしいな』と思えたし。介護状態にならなければしてあげられなかった親孝行かもしれませんね」介護経験は本にもつづられ、現在は講演活動も行っている。そして私生活では、このまま独身でいくのか、この先結婚するのか――。「50代は、どこに進むのかまだわからないんですよね。でも、何かあったときにガシッと支え合える仲間たちとつながれたこと、心強く思っている自分がいます」
2018年10月14日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。そんなメンバーに話を聞いた。■森尾由美(52)/デビュー当時のキャッチフレーズは「レモンチックな17歳」「デビュー時に作られたキャラクターと、実際の私が融合したのは、結婚がきっかけかなあ。わりと冷静な性格というか(笑)」そう話す森尾さんは、26歳で結婚、母となり、10年におよぶ日米遠距離通勤で35年間、メディアに出続けてきた。「月イチの撮りだめに対応いただくなど、まわりの理解に感謝するばかり。私自身も、段取りやスケジュールを調整するのが上手になった歳月でしたね。お神セブンのみんなにはその調整力を買われて、“由美P(プロデューサー)”と呼ばれています(笑)」■松本明子(52)/デビュー当時のキャッチフレーズは「アッコ、とんがってるね」「デビューして1年後に謹慎騒動を起こしてしまって、どうしようもなくて母にSOSの電話をしたら、『よかったわねぇ、名前が売れて。これからは何でもできるじゃない』って。その言葉でスコーンと吹っ切れたんです。それからは、芸人さんに混じってコントでも、レポートでも、求められることは何でもやりました」こうして、バラドル松本明子が確立されていった。私生活でも……。「突撃精神で息子の学校行事にズンズン参加するから、同級生の女の子まで“アッコさん”と声をかけてくれて。うれしいですよ」
2018年10月14日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。それにしても、花の82年組と不作の83年組。わずか1年の違いが、なぜそこまで大きな差になったのか。コラムニストの中森明夫さんが解説してくれた――。思い当たるのが、オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)の変容です。花の中三トリオやピンク・レディーら、スーパーアイドルを世に送ったスタ誕は、’81年末に番組が様変わり。審査員として長く番組を支えた阿久悠さん、都倉俊一さん、中村泰士さんらがいっせいに退陣するのです。振り返れば、彼らこそがアイドル発掘の目利きでした。彼らが最後の年に番組で見つけた原石こそが、ともに82年にデビューを果たす小泉今日子と中森明菜です。もし、目利きたちがスタ誕に残っていたら、もっと華々しく活躍する83年組アイドルが誕生したかもしれません。また、当時はアイドルに求められるイメージが、松田聖子に代表される“かわいい歌手”一辺倒だったのも、83年組には不幸でした。その後定着するバラドル、グラドル、アイドル女優など、世間に多様なアイドル像の受け皿があれば、もっと活躍の場があったはずです。
2018年10月14日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。そんなメンバーに話を聞いた。■木元ゆうこ(51)/デビュー当時のキャッチフレーズは「ときめいて、謎めいて16歳」「デビュー曲は、作詞が阿木燿子さん、作曲が“スタ誕”の審査員でもあった中村泰士さんという、素晴らしい作品をいただいたんですが……結果はオリコン最高位124位。レコード会社も、設立30周年記念の大型新人として大々的にPRしてくれて、駅にも大型ポスターがバーン!と。売れずに申しわけなかったですね」続くセカンドシングルも順位がつかず、サードシングルの予定はとうとうお蔵入りになった。「もうダメだ、と思って。18歳で樹本由布子に改名して、大胆なグラビアに挑戦しました。まだ10代でしたから、正直、勇気のいる決断でしたけれど。そのころから、お芝居をやりたいという思いが芽生えていて、役者としての幅を広げてくれるような気がしたんです」その後は映画『ブレイクタウン物語』に出演。『毎度おさわがせします』など人気ドラマにも出演し、軌道にのったかに見えたが……。「アイドルをやって、グラビアも女優もやって、自分を模索しているつもりが、かえって将来が見えなくなっていました。何をやっているんだろう?気持ちが疲れて。それで24歳のとき、思い切って引退を決めたんです」すると直後、何を思ったか、インドやトルコなどへバックパックひとつの放浪に出る。「いまだに『謎めいた行動だ』って言われるんですが(笑)。でも、芸能界とは対極のおおらかな自然に身を置いたことで初めて、自分と向き合うことができました。そして思ったんです。今までのことは、全部好きでやってきたことだし、全部自分で決めたこと。自信を持とうって」やがて29歳で結婚し、1男1女の母となる。「子どもたちには、芸能活動をしていたことは話していませんでした。でも、今はパソコンで何でも検索できる時代でしょう?『お前の母ちゃん、グラビアアイドルだったんだ』なんて、周囲から好奇の言葉で伝わるのを避けたかった。だから、83年組の仲間と再会して本格復帰を決めたとき、きっちり伝えました。『もし、人から何か言われたら、うちのお母さんは、自分の意志で決めて堂々と仕事していたんだと言ってやりなさい』って」今は、自宅のある神戸と東京を往復し、舞台などで円熟したバイプレーヤーぶりを発揮している。「83歳になる母が浅草で一人暮らしですから、新幹線での“お江戸行き”は親孝行でもあるし、私自身のエネルギー充電なんです」
2018年10月13日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。そんなメンバーに話を聞いた。■桑田靖子(50)/デビュー当時のキャッチフレーズは「これは、16歳の戒厳令だ」「同郷の松田聖子さんに憧れて、同じ事務所に入りたい!と願っていたら、本当にかなってしまって」13歳で上京した桑田さんは、中学卒業を待って『脱・プラトニック』で歌手デビュー。新人離れした歌唱力で、その年の音楽新人賞を総なめにした……まではよかったが、3年目以降は新曲のリリースがまばらに。活動の場はバラエティ番組がメインとなっていた。「街で『靖子ちゃん』と声をかけていただいて、ありがたかったですね。でも、子どものころから歌うことが何より好きで上京したのに、という葛藤はずっとつきまとっていて--」やはり夢があきらめきれないと、20歳のときに事務所を退所。翌年渡米し、ボイストレーニングに励んだ。’90年には本名の「咲恵子」や「Sea」名義で再出発し、アニメソングやコーラス業にも挑戦したが……。「事務所の大きな傘を抜け出たばかりでしょ。とにかく独立独歩で、自分探しの日々でした。不安や焦りもあったし、ストレスなのかな、30代目前で声が出なくなってしまったんです。ライブもドタキャンしてしまったようなんですが、じつは、このときの記憶がなくて……」そこから自信も目標も失い、歌うことを完全にあきらめた。「十数年くらい?地元の福岡に戻った時期もあるし、もう人前で歌うことはないと思っていました。それが、震災前から偶然の再会が重なって。今の事務所のボスに遭遇したり、『また歌いたいでしょ』と誘ってくれる人が現れたり。きっとまだ遅くない!と、ステージに上がることを決めたんです」かつてのボーイッシュなショートカットから一転。女らしくなったね、と言われることも。「恩師に復帰のご挨拶に行ったとき、ラフすぎる姿を指摘されたことから、今のスタイルになりました。よし!と思いたって、次に会うとき変身して行ったら“正解”をもらえたんですよ(笑)」50代を迎えた今、生きるのは「ライブの世界」。自分のスタイルを確立し、思い切り歌えている。「反応がそのまま伝わってくるのが幸せ。昔に戻りたいと思うことは一日もありません。回り道したぶん、今がいちばんいいし、未来に向けて歌うのが楽しみなんです」
2018年10月13日小泉今日子や中森明菜など“花の82年組”に対し、“アイドル不毛の年”といわれた83年組。でも、「今が最高!」と話す彼女たちは今年、桑田靖子(50)、松本明子(52)、森尾由美(52)、大沢逸美(52)、小林千絵(54)、木元ゆうこ(51)、徳丸純子(52)の7人で、ユニット「お神セブン」を結成。自虐を笑いに変えて輝く。そんなメンバーに話を聞いた。■小林千絵(54)/デビュー当時のキャッチフレーズは「フレッシュルッキング」「高校1年で『スター誕生!』に落選した時点で、憧れの(桜田)淳子さんと同じ“16歳からスター街道を突っ走る”という青写真が崩れて。年齢的にもアイドルはあきらめていたんですよ。なのに?」19歳の“遅れてきた新人”に用意されたデビュー曲は、バリバリのアイドル路線だった。「キャッチフレーズが“フレッシュルッキング”って、そんな英語あります!?(笑)。そのデビュー曲はオリコン99位止まりで、2曲目以降も鳴かず飛ばず……『不発の千絵』なんて呼ばれるようになって。仕事ではフリフリの衣装だったけど、終わると黒い服に着替えて、こっそりパチンコに通い始めたのは、ハタチのころからなんです」その後は、アイドルならぬ“パチドル”として活動することになるのだが、それでも芸能界にしがみついたのは、ある出来事があったからだという。「デビュー2年目に、某テレビ局に新曲の挨拶に行ったら、ディレクターが目の前で、資料を見もせずにバサリとゴミ箱に放ったんですよ。泣けました。せめて、私のいないところで捨ててよ。そうか、売れないと、アイドル以前に人間扱いもされないんだ、って」くじけたままでは終われない。大阪育ちの“じゃりんこチエ”は、「やったるで、負けへんで!って。悔しさは胸におさめて、がむしゃらに働こう」と誓った。「以来、地方のイベントなど、どんな小さな仕事も、いつか自分の血肉になるんだと思って、真剣に取り組んできました、40歳手前までは。というのも、38歳で結婚し、子宮内膜症や子宮筋腫が見つかって。翌年に高齢出産するまでの間ですね。歌こそ売れませんでしたが、長いこと芸能界で頑張れたのは、あの体験があったからかな」今、母親として、反抗期を迎えた高校1年の息子に、アイドル時代の体験を聞かせることも。「『人生の悔しいことは、ガソリンだよ』って話すんですが、平成生まれの息子には、古臭い“昭和の教訓”に聞こえるようで、ちっとも響きませんけどね(笑)。その息子が未熟児で生まれたときに初めて、母親は私しかいないんだ、と仕事はあきらめて育児に集中しました。喪失感はあったけど、悔いはありません。何より子どもが大事だと思えたから」現在、東京の勝どき在住。わが子も、よその子も分け隔てなく「コラーッ!」と叱る姿に、地元では“肝っ玉チエちゃん”の新キャッチフレーズが付いている。
2018年10月12日「16年末に7年ぶりとなるディナーショーで、公の場に復帰した明菜さん。昨年末にも公演数を増やして開催しましたが、チケットは即日完売の人気ぶりでした」(音楽関係者) 2年連続でディナーショーを成功させ、“完全復活”が期待される中森明菜(52)。今年はさらなる“ビッグイベント”の計画が持ち上がっているという。 「実は、“夏のスペシャルライブ”の開催が計画されているんです。発表はギリギリの1カ月前を予定しているので、近い関係者以外はだれも知りません。主に東京都内と神奈川県内の会場が候補で、すでにいくつか仮押さえしているそうです。時期は7月末〜8月だと聞いています」(イベント関係者) 明菜の“夏ライブ”といえば、09年が最後。今夏開催されれば9年ぶりとなる。 「明菜さんはディナーショーが上手くいったことで、ようやく自信をつけたのでしょう。『今年こそ年に2回の公演を実現させ、ファンに元気な姿を見せたい!』と、本人がいちばんやる気になっているそうです」(前出・イベント関係者) 支えてくれたファンのため、決断した“夏ライブ”。とはいえ、こんなハードルもーー。 「ディナーショーと比べてライブはパフォーマンス時間が長いので、身体への負担はどうしても大きくなります。ただその分、これを乗り越えられたら本当の意味での“完全復活”と言えるでしょう」(前出・音楽関係者) ステージ狭しと歌って踊る明菜に、早く会いたい!
2018年05月10日