女優の綾瀬はるかが出演する、ユニクロ・ブラトップの新CM「22SS LifeとWear/いろんなわたし」編が、21日から放送される。新CMでは、綾瀬がブラトップを着こなし、朝起きぬけに歌いながら朝食を作る姿や仕事中に打ち合わせに臨む様子、仕事の後に友人と卓球を楽しむ姿など、1日の様々なシーンを描写。最後には3人の綾瀬が家に集まり、反省会で「明日もがんばりましょう」と乾杯する。卓球シーンの撮影では、スマッシュが綺麗に決まり、綾瀬が喜びのあまり思わず「わぁー!」と声を上げる場面も見られた。CM楽曲には、昨年に引き続き、桑田佳祐のソロデビューシングル「悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)」(87)を採用。アップテンポな明るいメロディーと切ない歌詞が、CMを彩っている。
2022年03月21日綾瀬はるか主演、大泉洋共演、本屋大賞受賞の同名小説をドラマ化した「元彼の遺言状」より、新ビジュアルが解禁された。本作は、主人公・剣持麗子(綾瀬はるか)が元彼・森川栄治が残した「僕の全財産は、僕を殺した犯人に譲る」という奇妙な遺言を受け、依頼人(大泉洋)と共謀して一獲千金を狙う破格の遺産相続ミステリ――。ドラマでは、弁護士の麗子が数々の難解ミステリーを解決するという異色の痛快推理劇として、原作の世界観はそのままにドラマオリジナルのエピソードも描いていく。原作者の新川帆立は自著に対して「欲しいものは自分で手に入れる。男が何度変わっても、女ともだちは変わらない。そんな女たちの、当たり前の日常を伝えたくて書きました。令和の女は強いぞ!」とコメント。原作の書影にはそんな新川さんの思いが込められた、凜(りん)としたたたずまいの麗子が描かれている。この度解禁されたのは、そんな書影イラストの麗子と同じポーズを綾瀬さんが決めた新たなビジュアル。容姿端麗でスタイル抜群、ヒールを鳴らしながら風を切って我が道を突き進むー。まるで原作の中から飛び出してきたような完成度だ。強く美しい主人公が数々の難解ミステリーへ立ち向かっていく本作。大いに期待したい。なお、今回解禁されたビジュアルは全面帯として原作文庫に巻かれ、3月中旬以降全国の書店にて発売される予定となっている。◆原作・新川帆立コメント「本の世界に入り込んだような再現度に驚きました。ドラマ放映がますます楽しみです」「元彼の遺言状」は4月11日より毎週月曜日21時~フジテレビにて放送。※初回は30分拡大(text:cinemacafe.net)
2022年03月14日女優の綾瀬はるかが出演する、ユニクロの新CM「LifeとWear/進めジーンズ編」が14日より放送される。新CMでは、フレアハイライズジーンズ姿の綾瀬が颯爽と力強いウォーキングを披露。新しい時代の中で、ジーンズをはいて明るい未来への一歩を踏み出すことを表現している。「フレアシルエットは、脚がきれいに見えるので気分があがります」と、笑顔で撮影に臨んだ綾瀬。大勢のジーンズ姿の人々を率いたシーンでは「ジーンズのリーダーになったみたい」 とコメントしていた。またCMでは、桑田佳祐の楽曲「Soulコブラツイスト〜魂の悶絶」が使用されている。
2022年02月14日元宝塚歌劇団月組トップスター・龍真咲のボーカル、姉妹音楽家のチェリスト・林はるか、ピアニスト・林そよかの3人によるコンサート『はるかそよかの音楽に恋してmeets龍真咲』(2月19日、大阪・サンケイホールブリーゼ)が、オンライン配信を実施することが決まった。龍は、初舞台から20周年を迎え、このコンサートが1年9カ月ぶりのステージ。昨年9月に訪れたコンサートで林姉妹の演奏を聴き、「ぜひ、この2人と歌いたい」とオファーしたことがきっかけで実現したもので、クラシック音楽になじみのない人でも、気軽にホールに足を運んでもらえるようにと、トークや即興演奏、そして誰もが知っている楽曲、さらにタカラヅカの名曲も曲目に加えて演奏するなど、新しい形を模索したクラシックコンサートだ。先月のチケット一般発売後、すぐに完売したのを受けて、オンライン配信が決定。ライブ配信とアーカイブ配信(2月19日14:00~23日23:59)を行う。龍は「ファンの皆様や、遠方でお越しになれない方々、今のこのコロナ渦で中々外出が許されない方々より、“配信はないのですか?”というお声を沢山頂いておりました。なんとかできないものかと考えておりましたが、配信が決定致しました。皆様のリクエストのお陰です、ありがとうございます」とコメント。「劇場にいらっしゃる皆様と、モニターやテレビ越しでご覧の皆様と、林はるか、林そよか、龍真咲の私たち3人で一緒に盛り上がれるコンサートを作りたいと思います」と意気込みを語った。視聴チケットは3,000円で、7日10時から2月23日21時まで販売される。
2022年01月07日綾瀬はるか「義母と娘のブルース 2022年謹賀新年スペシャル」が1月2日オンエア。竹野内豊と佐藤健の演技力に改めて賞賛の声が集まるとともに“家族写真”ラストに感動する声。みゆきと大樹の将来が気になる視聴者を中心に続編希望の声も多数寄せられている。桜沢鈴による義母と娘の愛と成長を描いた4コマ漫画を2018年に連続ドラマとして映像化、2020年新春に連ドラの1年後を描いたスペシャルも放送された本作。みゆきの義母で、亡くなった良一の妻の亜希子を綾瀬さんが、亡くなった亜希子の夫・宮本良一と、良一に瓜二つなハゲタカファンド・ダインキャピタル・ジャパン代表の岩城良治に竹野内豊(2役)。人気パン屋「ベーカリー麦田」店長の麦田章に佐藤健。良一の娘、亜希子の義娘で大学生になった宮本みゆきに上白石萌歌。みゆきの幼馴染みで、今は東日本医科大学の学生となった黒田大樹に井之脇海。そのほか吉川愛、麻生祐未、武田鉄矢、山本未來。馬場徹、宇梶剛士、浅野和之らも出演する。※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。ゴルディックが良治のファンドに乗っ取られ、良治に対面した亜希子は彼が良一にそっくりなことに動揺しつつも、その発言に激しい怒りを覚える。その後良治はベーカリー麦田をターゲットに。良治を激しく拒絶する亜希子だが、みゆきは亜希子が良治に恋してると気づく。良治の身の上を聞いて合併の誘いに応じた亜希子だったが、良治は麦田を“騙し討ち”し、自分が圧倒的に有利な契約を結ばせ、ベーカリー麦田の事業を譲渡されたと会見を行う…というのが今回のストーリー。良一と良治、顔はもちろん名前までニアミス状態だが人間性は全然違う役柄を演じた竹野内さんに「竹野内豊氏が宮本良一と全然違くて最高だった!悪だったなぁ」「義母と娘のブルース見たんだが、竹野内豊の演じ分けがとても上手だった」などの声が。一方、良治に騙され事業の権利や商標まで奪われるなど、“天然”ぶりが加速したようにも見える麦田を演じた佐藤さんにも「1年ぶりの麦田店長を観て、佐藤健さんの演技の振り幅の大きさを改めて感じています」「普段の佐藤健はべらぼーにかっこいいのに、この麦田の役だけはかっこいいと思ったことがないのってやっぱり演技力」といった感想が。結局買収は回避されるのだが、みゆきは良治に頼み、亜希子が良一とは果たせなかった“疑似”家族写真を撮ろうとする。そうとは知らず亜希子へのプロポーズ計画を立てていた麦田が乱入、止めようとした大樹も一緒に写り込んでしまう…というラストだった。連続ドラマで果たせなかった夢を叶えるというラストに「良一さんと一緒に撮ることが叶わなかった"家族写真"が、ここに来てスペシャルとして、こんな形で回収することになるなんて!!」「綾瀬はるかさんと竹野内豊さんの家族写真が泣けた。素敵過ぎて泣けた。本当にお似合いすぎる」「ああ、ひろきくんも店長も含めて家族写真なのね。良い結末です」など感動の声が続々。また今回のスペシャルでは特に進展が描かれなかったみゆきと大樹に触れつつ「大樹くんとみゆきちゃんがどうなっていくのかも気になるから、また続編やって欲しい!」「来年放送するときは2人中心のストーリーが観たい!!!」「続編がまたあるならみゆきと大樹の行く末を観たいな」「みゆきと大樹くんの未来も観たいのよ」と、続編を希望する投稿も多数寄せられている。(笠緒)
2022年01月03日2022年より双子選手としてJリーグで活躍し、日本代表でもプレーした佐藤勇人氏、佐藤寿人氏が、 ジュニア年代における国内最大規模のサッカー年間リーグ「プレミアリーグ U-11」のアンバサダーに就任したことが発表されました。【関連記事】プレミアリーグ U-11 チャンピオンシップ3 年ぶり開催お二人はアンバサダー就任にあたって以下のコメントを寄せました。佐藤勇人氏、佐藤寿人氏 コメント「子供たちにとって、試合をすることが何よりの喜びであり、成長の源です。そうやって僕たちも小さい頃から試合を経験して成長してきました。プレミアリーグ U-11の3 ピリオド制で全員が試合に出られる仕組みは素晴らしいと共感して、このたび2人でアンバサダーを務めさせていただくことになりました。日本中の子供たちがプレミアリーグU-11 を通じてたくさんの笑顔になって、たくましく成長していくことを願っています」<プレミアリーグU-11とは>「豊かなサッカー文化を日本中に広めること」、「少年サッカーに関わる人を幸せにする環境づくり」をミッションとし、サッカーの育成年代におけるソフト面のソリューションとして発足。2021年までに全国37都道府県に拡大、約600チームが参加、約4,000以上の試合を実施する日本最大の私設リーグ。負けたら終わりのトーナメント方式の公式戦では、いわゆる「上手な子」しか試合に出られない勝利(成績)至上主義が根強い日本のスポーツ文化の現状に対する問題意識からスタートしており、「力の拮抗した相手と、年間を通じてホーム&アウェイを戦う」カテゴリー分けされた育成重視のリーグ戦を編成し、「全員出場」「3ピリオド制」など、他にない独自の競技規則を設け、『補欠ゼロ』への取り組みを行なっています。大会ホームページはこちら>>お問い合わせプレミアリーグU-11実行委員会 事務局担当:佐々木電話:090-4590-5713Email:sasaki@pl11.jp
2021年12月24日連続ドラマから引き続き、綾瀬はるか、佐藤健、上白石萌歌らが出演する、新春を飾るドラマ「義母と娘のブルース 2022年謹賀新年スペシャル」のキービジュアルが完成した。今回のスペシャルドラマは、綾瀬さん演じる義母・亜希子が再建した企業が、ハゲタカに乗っ取られるが、その男は亡くした夫そっくりの人物だった――そんな衝撃の直後からスタートする。ハゲタカへのリベンジと、夫そっくりの男への複雑な感情で揺れ動く亜希子。そんな義母を娘のみゆき(上白石さん)は成長した大人の眼差しで見守っていく。そんな今回のキービジュアルは、お正月らしさが盛り込まれた。夫・良一(竹野内豊)の遺影を抱える亜希子をはじめ、麦田章(佐藤さん)、晴れ着姿のみゆきと大樹(井之脇海)というレギュラーメンバーが顔を揃えているが、その中には良一そっくりのハゲタカ・岩城も姿を見せている。さらに今回も「亜希子さんから年賀状が届く」お年玉企画がTwitterにて実施中だ。「義母と娘のブルース 2022年謹賀新年スペシャル」は2022年1月2日(日)21時~TBSにて放送。(cinemacafe.net)
2021年12月15日綾瀬はるかが主演を務めた「義母と娘のブルース」のスペシャルドラマが来年1月2日(日)、“謹賀新年スペシャル”として放送されることが決定した。桜沢鈴の4コマ漫画「義母と娘のブルース」を原作に、2018年7月期に連続ドラマが放送。主人公のキャリアウーマンが、8歳の娘を持つ男性に突然プロポーズされ結婚。畑違いの家事やママ友の世界に足を踏み入れ、娘の母親になろうと一生懸命に奔走し、家族と過ごす日々を描いた10年間の物語が描かれた。また昨年は、連続ドラマの1年後の物語をスペシャル版で描いた。そして今回、完全新作ドラマが放送決定。亜希子が再建した企業がハゲタカに乗っ取られるが、その男は亡くした夫そっくりの人物。そんな前作のラストから始まる物語が展開される。義母・亜希子役の綾瀬さんは「再び演じることができて、みなさんに感謝しています。そして今回の見どころは亜希子さんに訪れたロマンスです!愛に溢れた物語をご覧いただき、楽しく、ほっこりしたお正月をお過ごしいただきたいです」とコメント。また、他界した夫・良一とリベンジすべきその男・岩城良治の二役を演じる竹野内豊をはじめ、佐藤健、上白石萌歌、井之脇海、宇梶剛士、浅野和之、麻生祐未ら連続ドラマのレギュラーキャストが今作でも顔を揃える。竹野内さんは「今回も小さな奇跡と亜希子さん・みゆきを支える様々な愛のカタチが描かれています。それが少しでも皆様の希望・活力になればと思いますので、是非ご覧いただければと思います!」と話す。そして、大変な撮影になりそうだと感じたという佐藤さんだが、「気心の知れた仲間たちと再会し、安心して撮影に挑んでいます。麦田のようなキャラクターとの出会いもあまりないので、再び演じられることも新鮮で楽しいです。新年からほっこりし、安心して観ていただける作品になっていると思います」とメッセージ。上白石さんは「変わらずにある宮本家のあたたかさをぜひ感じていただきたいです。2022年のはじまりに、みなさまに活力と希望をお届けできるようにがんばります。またまた小さな奇跡、一緒に見つけましょう!」と呼びかけ、井之脇さんも「新年の始まりに、見てくれた方の背中を押せるようなドラマになると思います。お楽しみに!」と語った。「義母と娘のブルース 2022年謹賀新年スペシャル」は2022年1月2日(日)21時~TBSにて放送。(cinemacafe.net)
2021年11月28日ファミリーマートは、「紅はるか」や「シルクスイート」など国産さつまいもを使用した「焼きいも」を全国店舗にて2021年11月2日(火)より発売する。2019年に初めて発売され、2020年も好評を得たファミリーマートの「焼きいも」が今年の冬も登場。強い甘みとしっとりなめらかな舌触りが特長の国産「紅はるか」と「シルクスイート」を使用し、店舗の専用オーブンで石焼きにした香り豊かで甘さが引き立つ一品に仕上げた。使用しているさつまいもは、収穫後およそ約1ヶ月間の貯蔵を行うことで糖化を促し、甘み(糖度)としっとり食感をアップ。より甘さ引き立つ味わいを実現している。【詳細】焼きいも 230円発売日:2021年11月2日(火)取り扱い店舗:全国のファミリーマート※販売地域・時期によって「紅はるか」「シルクスイート」のいずれか、または両方を販売。さつまいもの甘さ・食感には個体差あり。
2021年11月05日女優の綾瀬はるかが、14日から放送されるユニクロの新CMシリーズ「旅するダウン」編に出演する。ユニクロのLifeWearスペシャルアンバサダーを務める綾瀬が、ダウンを取り出したことで閉じ込めていた旅心を思い出し、楽しみなことが待っているという期待を胸に歩き出すストーリー。紅葉が舞うシーンの撮影では「ギューッと閉じ込めていた旅心」が解放される表現を監督と模索した結果、キュートな笑顔を見せている。後半に登場する鈴鹿央士との初共演にも注目だ。CMには桑田佳祐の「君にサヨナラを」(09年)が採用され、美しいメロディーや切ない歌詞、優しさや哀愁溢れる歌声が紅葉シーンに彩りを添えている。撮影後のインタビューでは、これから待っている冬について「寒がりなので寒いのは苦手なんですけど、冷たい空気がギュッとなって気持ちよくて、冬は大好きなんです」と語っている。
2021年10月13日俳優として活躍するだけではなく、新しいフィールドを次々に駆け抜ける佐藤健さん。最近夢中になっているのが、『A』の洋服作り。「Answer」の頭文字で、デザイン、生地、着心地などすべての条件を備えた自分が欲しい一着、つまりアンサーといえる服を作るのがコンセプト。これまでコート、パンツ、Tシャツなどをリリースしていて、今回写真で着ているタートルネックとベージュのカーディガンは、『A』のアイテムだ。「もともと服に対するこだわりは強かったけど、若いときは何が正解なのかはっきりわかっていなかったから、自分がいいと思うものとは別に、薦められる服を着たりもしていたんです。だけど20代後半になると自分の感覚がやっぱり正しかったというか、いいと思うものを自信を持って言えるようになってきて。そうすると、スタイリストさんたちは面倒くさいわけですよ(笑)。そんなにこだわりが明確なら自分で作りなよ、と言われて『A』を立ち上げました」今はたまたま洋服だが、こうした考え方は「すべての物事にアンサーを出したい」と語る、いわば佐藤さんの人生哲学だ。一方で演じることは、正解がすぐには導き出せない最たるもののようにも思えるが、そこにもやはり、“ならでは”の哲学が存在する。「アンサーが出ないとしても、そのとき何をするのがベストなのか、その瞬間どういうアプローチが最善なのかを見つけていきます」出演を決めるときに大事にしているのは、勝機が見えるかどうか。昨年のドラマ『恋はつづくよどこまでも』はドSキャラの医師がハマり役となったが、意外にも勝機がなかなか見えなかったそう。「勝てないかもしれないけど、負けはしないラインを死守しようと思って、キャラクターの魅力を出すことに注力したんです。だってラブストーリーなんだから、キャラが魅力的じゃないとラブにならないじゃないですか(笑)。こんなに多くの人に好きになってもらえるなんて想像もしていなかったから勉強になったし、だったら次は、もっといいものを絶対に提供できるなとも思いましたね」一見クールなのに慕われるのは、言葉や態度に嘘がないから。謎を解くのが本当に好きなことも伝わってくる。そうやって冷静に考え、変化すべきときを逃さず、人生を切り拓いてきたのだろう。「誰よりも面倒くさがりな僕が言えたもんじゃないけど、だからこそここぞというときを見極めて、本気を出すんです。もうひとつ言うと、本当に大事なのは思いやりを持つことだけ。相手が喜んでくれることならやったほうがいいっていう、ただそれだけなんです」さとう・たける1989年3月21日生まれ。埼玉県出身。最新映画『護られなかった者たちへ』は、10月1日(金)より全国公開。1枚目写真タートルネックワッフルニット¥18,150(A/ABYTS)リング¥55,000(シャルロット シェネ/エドストローム オフィス TEL:03・6427・5901)ブロータイプメガネ¥46,200(サイ・スペックス/グローブスペックス エージェント TEL:03・5459・8326)マッドフレームメガネ¥41,800(ロバート・マーク/グローブスペックス エージェント)その他はスタイリスト私物2枚目写真ケーブルカーディガン¥19,800(A/ABYTS)中に着たショートスリーブニット¥63,800(ジ エルダーステイツマン/サザビーリーグ TEL:03・5412・1937)ネックレス¥481,800イヤーカフ¥687,500リング¥159,500(以上ミラモア/ミラモア ファイン ジュエリー TEL:03・5738・7803)その他はスタイリスト私物※『anan』2021年9月22日号より。写真・成田英敏スタイリスト・中兼英朗(S‐14)ヘア&メイク・古久保英人(Otie)取材、文・兵藤育子(by anan編集部)
2021年09月19日2021年7月27日付にて、YouTubeチャンネル『佐藤 健 / Satoh Takeru』では、佐藤さんの報告動画を配信中です。今回の動画で、佐藤さんは、念願だった自作『ルームウェア』の完成と販売開始を報告。自分で着る服にこだわる佐藤さんは、2020年にオリジナルブランド『A』を立ち上げました。この『A』は、『Answer』の頭文字を意味し、テーマは、『SIMPLE』『FIRST』『ONE』の3つ。これまでにもタートルネックやコートなどの衣服を販売しており、初めてデザインしたタートルネックは、販売開始から1時間も経たないうちに『即完売』したそうです。今回の『ルームウェア』で、佐藤さんがとにかくこだわったのは『着心地』。動画でも、実際に着用している佐藤さんが、裏地の肌触りのよさや動きやすさをアピールしています。中でも『極めつけ』のこだわりは、首の後ろ部分に付いていることの多い『タグ』がないこと。敏感な人が首の後ろに感じる『チクチク感』がなくて、快適だそう。そんな『ルームウェア』のお披露目後は、『男の色気』がただようベッドルームでのインタビュー動画も収録されています。スリーサイズの展開で、カラーはネイビー・ブラウン・カーキと、やや渋め。ブランド『A』の文字が正面に小さく刺繍された至ってシンプルなデザインで、着用している佐藤さんの表情を見ても、とてもリラックスできそうですね。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2021年08月24日女優の綾瀬はるかが出演する、SK-IIの新CM「私のピテラストーリー(My PITERA Story)」が17日、公開された。新CMは、綾瀬が初めて出演したSK-II CM作品のリメイクに挑戦するドキュメンタリーシリーズ。記憶に残るSK-II CMのリメイク撮影を通じて、初めてピテラエッセンスを手にした時から、肌への意識や人生がどのように変化したのか、唯一無二の“ピテラストーリー”に迫る。○■綾瀬はるか撮影後インタビュー(一部抜粋)ピテラエッセンスを使い始めて10年以上になるので、生活の一部になっています。SK-IIのCMは最初のCMもそうだし、どれも心に残っていて。今日もまた一緒に新しいのを作れてすごく嬉しかったです。今回あの最初のCMを久しぶりに見て、若くてちょっと恥ずかしかった。リメイクで、同じことをするっていうのが企画として面白いなと思って。でもやっぱり歳を重ねても、10年以上経っても、今健やかに保てている、自分の中のいいコンディションでいれてるっていうのが表現できたらいいな、って思っています。私も、25歳の時にSK-IIとピテラと出会えたからこそ、自分の肌に対する意識とかを変えてくれたりして、今の自分もある。SK-IIは私の相棒かな。
2021年08月17日キャップから、ワンピース、リュックサック、スニーカーまで全身を黒でコーディネートしていたのは綾瀬はるか(36)。本誌が彼女を目撃したのは、7月中旬の夕方ごろ。急な雨が降りだしたなか、車から降りてきた彼女は、スタッフらしき女性と1本の傘で、都心にある商業施設へと入っていった。「最近ではNTTドコモのブランドアンバサダーに就任し、7月19日から新CМも流れています。好感度が高く、CM本数も多い綾瀬さんですが、最近では特に“五輪CM女王”としても知られています。現在9社と契約しているうち、5社が東京オリンピック・パラリンピックのスポンサーとして名を連ねているのです。特に、コカ・コーラ、パナソニックなどは、スポンサーの中でも最上位で、世界的な企業14社しか加盟していない『ワールドワイドオリンピックパートナー』。オリパラ期間中は、彼女を見かける機会も増えるのではないでしょうか。CMギャラは1本6,500万円と推定されており、五輪関係だけでも3億円以上となります」(芸能関係者)この日は、仕事が終わった帰り道だったのか、彼女は夕飯を購入しに来ていたようだ。立ち寄ったのは鶏肉料理をメインに扱っている店だった。「マスクをつけていらしたのですが、綾瀬さんでしたので驚きました」(店員)さまざまなセットもあるなかで、彼女が選んだのは1千円ほどの親子丼。CM女王のディナーとしてはやや意外に思えるが、「鶏肉はタンパク質が豊富で、疲労回復に効果があるとされるイミダゾールジペプチドも含まれているんです。夏バテ防止にも効果があると思います」(管理栄養士)車に戻る際も、高さ1メートル弱ほどの柵をヒラリとまたいでいた綾瀬。確かに暑い夏でも彼女の爽やかさに陰りはなさそうだ。
2021年07月29日学校のルールが理解できず、独自路線で突き進むコミックエッセイ『毎日やらかしてます。』シリーズや、ドラマ化もされた『透明なゆりかご』などの作品が人気の漫画家、沖田×華さん。『毎日やらかしてます。』シリーズでも公表している通り、沖田さんにはADHD、ASD、LD(学習障害)のトリプル発達障害があります。「漫画家になってからは、別の世界に転生してきたみたいだ」と語る沖田さんに、現在の仕事に至るまでのお話をお聞きしました。――沖田さんは幼少期、どのようなお子さんだったのでしょうか?沖田×華さん(以下、沖田):小学校入学前は、漢字を読むことが得意で、通っていた公文式では算数で満点をとっていました。だから、親は「頭がいい子どもだ、きっと小学校でもうまくいくだろう」と思っていたらしいのですが、実際は入学式のときから浮いていましたね。Upload By 姫野桂沖田:入学式当日、靴下も上履きも忘れて、集合写真は1人だけスリッパを履いて写っていて(笑)。周りはきちっとした姿勢なのに、自分だけ姿勢もふにゃんとしてて、じっとしていられない感が写真にもあらわれていました。入学式の日って、自己紹介があって、仲良くなった子と一緒に帰ったりしますよね。わたしは、そのとき一緒に帰った友達が「一生一緒に帰る友達」なんだと思い込んで、毎日同じ子に声をかけていました。一度起こったことが、ずっとそのまま再現されるわけではないと理解できないことがよくありました。――そうだったんですね。他にも、何か周りの子と違う行動をとっていたことはありましたか?沖田:ハサミやノリなどが入った「お道具箱」の扱いで先生に叱られて、納得できずに意見を曲げなかったこともありましたね。わたしはお道具箱を大変気に入って、家に持ち帰り、中身を1つも学校に持って来なかったんです(笑)。それを見た同級生たちが代わりのお道具箱を作ってくれたんですが、喜んでいたら先生に取り上げられてしまって。先生からは「なんで自分のお道具箱があるのに家から持ってこないんだ」と言われましたが、「だってこのお道具箱はわたしのものなんですよね?だからわたしがどういう使い方をしてもいいんですよね」と答えて、納得しないことには絶対に謝らなかったらしく…。何かこだわりがあって、クラスの中でわたし1人だけが止まってしまうことも多々ありました。あとは、「テスト」というものの意味を理解していませんでした。例えば、学校の算数のテストだとランダムに足し算が出てきますが、わたしは丸暗記していた公文式のテストの答えをそのまま書いていたんです。母親には「これは公文式の問題じゃないんだから、問題文をちゃんと見ろ」と何度も言われましたが、まったく理解していなかったらしいです。Upload By 姫野桂――となると、自然とテストの点数は低くなりそうです。沖田:そうですね。算数はよく0点をとっていました。でも、全部の教科が悪いのではなく、算数だけが異常に悪くて国語は答えをすごく暗記できる、みたいな、凸凹のある子でした。成績が悪いと親に怒られるので、小・中学校ではいつも成績を改ざんすることを考えていましたね。数学のテストで200点満点中30点しかとれていないのを、数字の「1」を加えて130点にしたり、通知表の「1」に線を付け加えて「4」にしたりとか(笑)。結局バレて怒られるんですが、勉強どうこうというよりも、どうしたら親に怒られずに済むかで頭がいっぱいでした。家に帰ると「学校モード」ではなくなってしまうので、そこからうまく切り替えられず、宿題をするのも苦手だったんですよ。「どうしたらこれをちゃんとできるのかな?」と考えて、町内で勉強のできる同級生のところへ「勉強教えてー」とお菓子を持って行き、やってもらっていました。友達がほしくて入っていた文通部でも、わたしは字がキレイに書けなかったので、友達に「50円あげるから書いてくれ」って頼んで文面を言ったりして(笑)。そんな風に、お菓子やお金を渡して等価交換みたいなつもりで、できないことを人に代わりにやってもらっていました。人と関わろうと思ってはいるのですが、どこかやり方が間違っているというか、子どもらしくないというか…。そんなことばかりしていましたね。Upload By 姫野桂発達障害の自覚がないまま過ごした思春期――沖田さんは、発達障害の診断を小学生のときにすでに受けていたと漫画にも描いてらっしゃいますよね。Upload By 姫野桂沖田:はい。小学4年生のときにADHDとLDの疑いがあるとの診断を受け、ASDの診断は中学生のときに受けました。でも、発達障害の自覚はまったくなくて、「前ならえ」のような集団行動をこなしたり、おとなしく授業を受けたりしている同級生を見て、「この子たちは全員ロボットで、わたしこそが人間」と思っていましたね。「こっち来て」の一言で言うことを聞く人たちが人間に見えなくて。パッと顔を上げると、わたしが1つのことを続けているうちに、全然世界が変わっているんです。昼休みが終わって席に戻ってきたら、みんなが席についてわたしを見ていたこともありました。なんだろうと思ったら、給食が終わった瞬間に、わたしが「ごちそうさま」を言い忘れて教室を飛び出していったから、連帯責任で全員の昼休みがなくなってしまったらしいんです。でも、肝心のわたしは「みんな戻るの早いな」と思っていて、一切その罰がこたえていなかったので、先生は悩んでいたようです。――連帯責任や根性論の時代だったんですね。沖田:そうですね。忘れ物をしたときは「なんで忘れるのか」と理由を問い詰められましたが、「忘れました」以外に答えようがなくて。「忘れた」という言葉が通用しないなら、もう何も言えないなと、小学3年生のころには、場面緘黙症になってしまいました。担任にもひどくいじめられていたのですが、「一生は続かないだろう」「これさえ耐えれば、わたしはもう自由!」と思っていましたね。でも、中学ではもっと地獄を見ました(笑)。Upload By 姫野桂参考: LITALICO発達ナビ「場面緘黙(かんもく)の原因とは?声が出ない要因、子どもの緘黙はなぜ起こる?大人の場合は?について解説」――中学校ではどのようなことがあったのでしょうか?沖田:特に中学1年生のときは、担任との相性が最悪でした。わたしが生まれた時代は第二次ベビーブームの終わりごろだったので、中学は1学年330人ぐらいだったんです。その中で、わたしは成績が330人中280番ぐらいで。「あ、良かった、わたしの下にこんなにいっぱいダメなやつがいる」と思っていたら、成績が悪いのは男子ばかりで女子はわたしだけ。それで目をつけられてしまって…。体罰自体は小学生のころもあったのですが、中学からは胸をつねるような性的な体罰もありました。良くないことですが、当時はそういうことが学校でまかり通っていた時代で、私自身もまだ中学生のころは、体罰と性的な加害の区別が難しかった気がしますね。他には、生理に対する嫌悪感も強かったです。生理が始まってからは、感覚過敏で、とにかく下着をつけるのが苦痛でした。スポーツブラのゴムでかゆくなってしまったり、生理用の小さいショーツそのものや、ナプキンに経血のつく感じがすごく嫌だったり。自分がにおいに敏感だったからかもしれませんが、生理中は周りにバレないかとすごく気にしていました。今は下着や生理用品の選択肢も増えましたが、そこで大変な思いをしている女の子はいると思います。親のすすめで看護師になるも、人と働くことの複雑さに悩む――高校では看護のコースに進み、その後専門学校を卒業して看護師として働き始めたとお聞きしました。なぜ看護師になろうと思ったのですか?沖田:これはもう親の刷り込みですね。家は自営業のラーメン屋、母親は「とにかく手に職をつけろ、看護師がええ」「とりあえず女は免許を取ったら一生食いっぱぐれないし幸せになれる」ということを口癖のように言っていました。わたしは一生一人でいいやと思っていたし、特になりたいものもなかったので、親がやれっていうならやったほうがいいのかなあと受け身で選択しました。結果、大失敗でしたけど(笑)。Upload By 姫野桂――大失敗ということは、看護師の仕事はうまくいかなかったのでしょうか。沖田:看護師に限らないと思いますが、まず社会に出たときの人間関係の複雑さには困りましたね。はっきりした役割もないし、「この人はフレンドリーに話しかけてくれるけど内心は違う」とか、「実はこの人たちは敵対しているから、聞いた悪口をそのまま伝えちゃいけない」とか、そういう暗黙のルールが全くわからなくて。わたしが入ってきたことにより、職場の人間関係がめちゃくちゃになってしまうこともありました。聞かれたことに答えていただけなので、どうしてわたしのせいだと言われるのかもわかりませんでしたが、気がついたら自分が嫌われてしまっていたという…。日によって相手のテンションが変わることにも対応できませんでした。昨日同じことをやって「うん」と言っていても、翌日は機嫌次第で「ダメ」となることもある。そうなると、もう何もできなくなってしまいました。わたしの場合は、最初に教えてもらったことが一生のマニュアルになってしまって、新しいルールが加わってもアップデートできないんです。「タオルを畳む」という作業ひとつとっても、前に勤めていたところで覚えた畳み方を、いくら注意されても繰り返してしまって。自分としては丁寧に畳んでいたつもりでも、職場の人にとっては使い勝手が悪くて迷惑だったみたいです。そういう認識のズレを、当事者はわかっていない。就職しても、そういうところでつまずいてすぐに辞めてしまう人もいると思うので、できれば学生のうちに、コミュニケーションのとり方の基礎を教えてほしかったです。学校でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)も受けられたらよかったんですが、当時は先生たちも知らなかったんだろうと思います。参考: LITALICO発達ナビ「ソーシャルスキルトレーニング(SST)とは?支援の対象、方法、気をつけたいポイントについて」 By 姫野桂22歳ではっきりと「人と違う」ことを自覚する――沖田さんは、漫画家になる前に性風俗で働いた経験についても、コミックエッセイで描かれています。沖田:看護師として働いている途中から、昼は病院、夜はおっぱいパブという働き方をしていました。看護師時代はワーカホリックで、「働いていないと生きている意味がない」と感じることもあったんです。当時はお金を貯めることが唯一の生きがいになっていましたし、肉体労働としての共通点も感じていたので、あまり抵抗もなくおっぱいパブで働き始めました。それまではあまりにも人のことに興味がなかったので、わたしなりに「人間を知りたい」とも思っていたんです。お客さんには「明日結婚するから最後に遊びに来た」「嫁さんがもうすぐ出産で、しばらく性的なことはできないから来た」などと話す人がいたり、社会的地位は高いけれどマナーの悪いお客さんもいたりして、「人って、普段外から見える部分だけではないんだ、いろんな要素が固まって人格になっているんだな」ということを知りました。これは、後々漫画をつくるにあたって非常に役立つ考察になりましたね。Upload By 姫野桂沖田:風俗の仕事は、中身のある会話をしなくていいところも息抜きになりました。60分チヤホヤしたら対価がもらえるというのが、シンプルですごく性に合っていたんです。同僚の女の子たちとの希薄な関係も好きでしたね。仮の名前や性格でも通用する世界は、とても気が楽でした。それでも、当時は看護師をメインの仕事に据えていました。本当は看護師の仕事に一生を捧げたかったんですが、正看護師として美容整形科で仕事を初めて3日目ぐらいで、初めて「人と違う」という自覚が出てきたんです。22歳のときでした。――「人と違う」というのは、どういう感覚ですか?小学生での、周りがロボットに思えるという感覚とは違うものでしょうか。沖田:日本語はわかるのに、相手が何を言っているかわからないことが多々あったんです。みんなが何か一言言われるだけで動けているときに、自分だけわからないという問題が、すごくはっきり出てきました。学生時代は「わたしはいいかげんな性格だから」とすませていましたが、国家試験にも受かって准看護師から正看護師になっている今回は、「あれ?」と思いました。そのとき、自分の頭にはごそっと何かが足りなくて、それが補えずに苦しんでいるんだなとぼんやりわかったんです。それでも、具体的にどんな風に困っているのかはどうしても説明できませんでした。――すでに診断されていた発達障害とは、沖田さんの中で結びついていなかったのですね。沖田:今になってみれば、それが発達障害を自覚したときだったと思うのですが、当時は自分に発達障害があるということも全部頭から抜けてしまっていましたね。わたしには、自分と特性の似た、不登校経験のある弟がいて。彼みたいな状態こそが「発達障害」なのだと思っていたんです。弟とは似ているところも多い分、昔はすごく嫌っていたので、かえって発達障害フォビア(憎悪)のようになっていた面もあると思います。そうやって、原因はわからないながらも自分は人と違うんだと思っていたころ、同い年の看護師の先輩に「本当に役に立たないね」と言われたんです。同い年だから余計につらくて。その人に「死ね!ハゲ!」などと言われたときに、「もう死んじゃおう」と、一度自殺未遂をしてしまいました。ロープが切れて自殺には失敗し、「ああ、今日死ぬ予定だったのに死ねなかった」とがっくりしました。でも「とりあえずルーティーンをしよう」と、いつも通り病院に行ったんです。上司に怒られながら仕事をして、家に帰ってからはめちゃくちゃになった部屋を片付けていたら、なんか、やっと…「わたし、病院以外のところでも生きていけるかもしれない」と思い始めました。その日からが、おまけの人生みたいな感じになったのかな。トーン貼りにハマり、4コマを描いたのがきっかけで漫画家に――その後はどうされたのですか?沖田:これをきっかけに本格的にリセットし、親の手の届かない、知らない土地でイチからやり直そうと、看護師を辞めて名古屋へ向かいました。23歳のときです。しばらくはまた性風俗業で働いていたのですが、当時の彼氏が漫画が好きで。彼の持ってきたルポ漫画がものすごく面白くて、ファンレターを送ったのが、現在の夫との出会いでした。電話をしたり、会って話したりする中で、夫がわたしを面白いと気に入ってくれたようで。東京に来ないかと誘われたときは一瞬考えましたが、そのほうが面白そうだと思って行くことを決めました。そのときはまだ、漫画は何もやっていません。夫と一緒に暮らすようになったときに、初めて漫画のトーン貼りを手伝って、「もっとない?」「わたし一生これで生きていく!」と言うぐらいハマってしまいました(笑)。Upload By 姫野桂――トーン貼りを手伝っていたところから、どのようにしてご自身も漫画家になろうと思ったのでしょうか。沖田:ある日、わたしがあまりにも「暇だ」と言うので、彼が4コマの枠だけを出して「これで何か描いてみてよ」って言ったんです。そうしたら、わたしは5分で書き上げたらしくて。それを見た彼が「お前、漫画家になれ」って。そのたった一言で漫画家になりました。わたしはコマが4つしかないからラッキーと思ったのですが、4コマ漫画って描くのが難しいらしいんですね。その時点で、漫画の基礎ができていたみたいです。ただ、絵は全然ダメで。4コママンガの中でキャラクターがどんどん痩せていって、4コマ目には別人になっているんです。左右の区別がつかないので、指の位置を逆に描いてしまうこともありますし。書けない文字がたくさんあることにも、漫画を描き始めてから気づきました。自分で漫画にセリフを書き込んだら、4コマ漫画なのに30個も赤字で修正が入っていたんです(笑)。とくに横の線は苦手で、ペンネームである沖田×華の「華」の字も3年ぐらい間違っていました。同じ字を何度も修正しているうちに、「見え方が他の人と違っているようだ」ということにもやっと気づきました。横線が動いたり、滲んだり、広がったりして見えるんですよ。どうも明朝体はダメらしくて。学習障害の一種であるディスレクシアも、そこで初めて自覚することになりました。ゴシック体だと理解できることは、最近わかりましたね。Upload By 姫野桂漫画家になったのは、「異世界転生」レベルの変化。湧いてくるアイデアをすくい、編集者と仕分けして漫画をつくる――他のお仕事も経験した上で漫画家になった沖田さんですが、漫画家という働き方はいかがでしたか?沖田:まったく怒られなくなったのには驚きましたね。締め切りを守るのは大前提ですが、わたしが出したものに対して、基本的に誰も文句を言わないんですよ。本当は不満もあるのかもしれませんが(笑)、言ってはこない。それがすごく新鮮で、別の世界に転生してきたようなレベルでしたね。どの仕事も、つまずくときは仕事内容そのものというより人間関係ですよ。漫画家のすごくいいところは、上司も部下もいないところですが、代わりにアシスタントや編集者との関わりがあります。わたしの場合、デビュー時に、同業者である夫が、アシスタントや編集者とのコミュニケーションの仕方を教えてくれました。わたし、アシスタントのことを友達みたいに思っちゃうんですよね。「疲れました」と言われたら「あ、いいよ、それやっておくよ」と言うような、なあなあの関係になってしまう。仕事をしてくれるのが嬉しくて、アシスタントの言うことをどんどん聞いてしまうんですが、本当はそういうのはよくないんですよね。仕事上の立ち位置を理解するのは、少し難しいです。漫画をよいものにしていく中で、修正を編集者から頼まれることもあります。「ここはこういう風に直してほしい」と言われた際、最初に思ってしまうのは、「この人はわたしのことが嫌いだからこんなことを言うんだ」ということなんです。そういう考え方のクセがあるんですね。でも、そうやって友達みたいな関係として捉えていると、「じゃあわたしも嫌いになってやる!」となってしまうので、作品をつくる上でよろしくない。そういうときは、夫が「編集者は友達じゃありませんよ」「仕事だから仕方なく!」って教えてくれるんです。そう言われると、編集さんが調子の良くない日もニコニコしたり、ご飯を一緒に食べたりするのも理解できて、関係性をとらえ直せます。そして、「そっか、これは仕事なんだ」「漫画をよくするための直しの要求なんだ」と納得して、うまく仕事のやり取りができるようになるんです。夫はいつも、自身の昔のしくじりを元に、怒鳴らずいろんな方向から説明してくれますね。Upload By 姫野桂――漫画を描くときに、どんなことを考えているのかもぜひお聞きしたいです。最近では、4コマやコミックエッセイだけでなく、ストーリーものの漫画も描かれていますよね。沖田:ストーリー漫画を描くことになったときは、どうやって描けばいいんだろうと途方に暮れましたね。編集担当さんが、ものすごく根気よく教えてくれました。先日、最終回を迎えた『透明なゆりかご』は、ネームにすごく時間がかかっていました。わたしは、そのコマ1つに一点集中型。今どんな話が広がっているのか、描いている最中はまったくわからないんです。それを見て、編集さんが「あ、見えてきました」とか言うので、わたしは「何も見えないじゃない」と思うんですが(笑)。これで話が繋がっているのかなと半信半疑で描いて、いざ掲載されたものを見ると、ちゃんと漫画になっているんですよ。そういうズレみたいなものがあります。だから、わたしは編集さんに「直して」と言われたら、「はい」と直すんです。多くの漫画家さんは、自分の作品への愛ゆえにこだわりがあって、編集者と衝突することも多いと聞きますが、わたしはまったくそういうことはなく。その道のプロである編集さんのほうが正しいだろうと思うんですよね。――そこを割り切っているのはすごいですね。沖田:ADHDの特性なのか、自分が描いたキャラクターや、その名前も忘れちゃうんですよ。キャラクターが5人程度でも、過去の単行本を引っ張り出してキャラを確認しています。『透明なゆりかご』については、読者さんから「泣いた」という感想をよくいただきますが、自分は泣いたことがなくて。他人のことが描かれているのに、なぜ泣くのかは不思議なのですが…きっと何か、思うことがあるんですよね。わたしはそういった共感がなく、看護師としての経験があるとはいえ、妊娠・中絶は経験していませんが、「それでも描けるんだ!」と今回わかりました。だからといって、適当に描いているわけではないんです。ADHDの脳みその特徴のようなものだと思うのですが、常にアイデアがポコポコとあぶくみたいに出ている状態で。それをすくってポイッと出し、編集さんと一緒に仕分けするのが、わたしの漫画の描き方です。今は、20ページぐらいの漫画であれば半日ほどでストーリーの構成ができるようになりました。Upload By 姫野桂自分よりも大切なものができて、仕事に「全て」を賭けなくなった――働く中で発達障害だと自覚し、仕事も変えて年を重ねてきた沖田さんですが、最近新たに気づいたことや変化したことはありますか?沖田:40歳に近くなって、性格がいい意味ですごく変わりましたね。昔は弁当に柴漬けが入ってなかったとか、そういうちょっとしたことで「わたしの今日1日を返せ!」ぐらいに怒っていたんですが、丸くなったというか。上京して夫と一緒に住み始めてからは、心のざわつきがあまりなくなりました。また、以前は「他人のことはわからなくて当たり前、それで相手に不快な思いをさせても仕方がない」と思っていましたが、最近は「向こうの心を知ろうとしたほうが、もうちょっと楽にコミュニケーションが取れる」というふうに考え方が変わってきました。歩み寄りが生まれているような気がします。それはきっと、自分よりも大切なものができたからなんでしょうね。昔は「若くて元気で整形もしていて、いっぱいお金を貯めている自分大好き!」だったのが、今はパートナーだったり親だったりを大事にしたいという気持ちが出始めていて、自分のことは別にいいかなと。好きなことをやり尽くした感じがあるからかもしれません。Upload By 姫野桂――では、仕事についての考え方も変わったのでしょうか。以前はお金を貯めることが生きがいで、「働いていないと意味がない」と思っている時期もありましたよね。沖田:今は、あまり仕事に人生を賭けないほうがいいと思っています。あくまでも仕事は仕事で、人生の一部。あまりにも仕事だけに集中していると、うまくいかなくなったときに墓穴を掘って爆発しちゃうこともあるので、やりたいことや趣味をいっぱい見つけたほうがいいかな、と思います。たしかに仕事はお金を稼ぐ上で大切なのですが、わたしにとってのおっぱいパブのように、ちょっと副業をかじってみたり、息抜きになるものがあったりしてもいいと思うんです。――ありがとうございます。先ほど自分の好きなことはやり尽くしたというお話がありましたが、何か今後やってみたいことはありますか?沖田:『透明なゆりかご』でも描きましたが、最近はコロナ禍の妊婦さんに取材をしていて。ある方は仕事を切られてしまい、車に1人で暮らしながら、大きなお腹を隠して臨月までUberEatsの配達員をやっていたんですよ。そういった行き場のない妊婦さんに住まいをつくるプロジェクトは、クラウドファンディングなどでもいくつかあるものの、数が圧倒的に足りていない。その方を少し支援しながらこの状況を見て、もっと手軽に困っている妊婦さんを支援できないか、滞在できるような施設をつくれないか、と思い始めているところです。また、話に出てきた弟は今、グループホームに入っているのですが、そういった施設やその住人は、社会から排除されやすいところがあります。開設に反対する近隣住民に、職員が菓子折りを持って回ったという話も聞いたことがあって。何も悪いことをしていないのに、なんでそんなに嫌がるものなんだろうと不思議なんです。だから、そういったことを『毎日やらかしてます。』シリーズで描いたり、グループホームを兼ねた何か大きなところをつくったりして、発達障害のある人が困らないような場所をつくりたいなと漠然と考えています。――最後に、進路について考えている読者にメッセージがあれば、お願いします。沖田:学生なら、親と先生、先生と子ども、みたいに、1対1でやりとりをするとスムーズなんじゃないかと思います。小さいときから自分を知っている親って、近すぎるんですよね。話し合いや進路の相談のときに、自分からしたら関係ないような昔の話も引っ張り出されることがありますし。わたしもマザコンなんですが、あんまり親の言うことは聞かんでもいいかなって思います(笑)。親だけに頼らず、できれば仲のいい先生をつくっておくのもいいかもしれません。わたしの場合は、同性のおばあちゃん先生が話しやすかったです。保健の先生も仲良くなっておくといいかな。わたしは専門学校卒ですが、金銭的に余裕があれば大学に行くのがおすすめですね。大学に入ることで、もっと選択肢が広がって、社会的にも学べる気がするので。学生のときって、自分のやりたいことをすごく集中してやってみたいときもあるじゃないですか。悪いことでなければ、それに没頭するのもいいと思います。Upload By 姫野桂明るく軽快に話してくれた沖田さん。仕事以外で趣味や好きなことを見つけたほうがいいという点には、個人的に「自分には何があるのだろう」と考えさせられてしまいました。しかし、年を重ねるにつれて、その回答がちょっとずつでも見えてくるのかもしれません。取材・文:姫野桂編集:佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2021年04月18日女優の綾瀬はるかが、12日から全国で放送されるコカ・コーラシステム「ガマンだけが健康じゃない おいしく健康」キャンペーンの新CM「ガマンだけが健康じゃない。」編に出演する。街中に白衣&メガネ姿で颯爽と登場する綾瀬の手には、「新しい健康を考える会 代表」のパペット・綾瀬はるおくんが。2人が飲食店を次々と訪れ、「おいしく健康」を実践するためのアドバイスを行っていく。綾瀬が腹話術で操るはるおくんのコミカルな声は必聴だ。撮影では、難所と思われたウォーキングとはるおくんの口パクを合わせるタイミングを、1回目からほぼ完璧に決めた綾瀬。はるおくんのセリフや動きがメインになるシーンでは、色々なイントネーションや声色を使って練習しながらキャラクターイメージを固めた。キレのある動きでサラサラの髪を振り乱すはるおくんには、都度ヘアメイクの直しが入るというレアな光景も。綾瀬は、はるおくんの印象を「インパクトがすごくて、顔を見てしまいますね。髪の毛もほら! サラサラ!」と述べ、声色については「ほどよい脱力感を意識してみました」と語る。また、自身の食生活を「ガマンするとストレスになるので、ガマンはしないようにしています。たくさんお昼ご飯を食べてしまったら、その分夜は野菜を多めにするとか、ゆるい感じでバランスを考えながら食べています」と明かした。
2021年04月09日劇場版『奥様は、取り扱い注意』(3月19日公開)の大ヒット御礼舞台挨拶が30日に都内で行われ、綾瀬はるか、西島秀俊、佐藤東弥監督が登場した。同作は2017年10月~12月に日本テレビ系列にて放送されヒット。他人も羨むちょっとセレブな専業主婦だが実は元スゴ腕の特殊工作員という過去を持つ伊佐山菜美(綾瀬)が、持ち前の強さと賢さで次々とトラブルを解決していく。最終回では、実は公安のエリートでありながらそのことを隠し、菜美と結婚していた伊佐山勇輝(西島秀俊)が帰宅した菜美に拳銃を突きつける衝撃のシーンで終了していた。激しいアクションが繰り広げられた同作だが、練習を振り返った綾瀬は「兄ちゃん(西島)やってた? 練習」と疑い、西島は「やってました!」と反論。綾瀬が「たまにしか来てないのに本番ですごく決めてきて、『あら』って。『やるね』って」と褒めると、西島は「ものすごくやってました!」と主張しつつ、綾瀬の様子について「すごく(練習を)やってましたね。本当に直前までずっとやってました」と讃えていた。同作の大ヒットをお祝いし、サプライズで日本テレビ『笑ってコラえて』の小松原正勝ディレクターが登場し、2人に花束を渡す。さらにもう1つのサプライズとして、29日に50歳の誕生日を迎えた西島の誕生日祝いも。特製ケーキを運んだ綾瀬が、バズーカ砲を取り出して「お誕生日おめでとう」と撃ち、銀テープが踊る。西島は「僕、これで撃たれるんじゃないかと思ってヒヤヒヤした」と苦笑しながらも「すいません、この場をお借りしてこんなことをやっていただいて。50歳になったということで、また気持ちを新たに1からのつもりで、いろいろ新しいことに挑戦していきたいなと思います」と抱負を語った。
2021年03月30日女優の綾瀬はるかが、29日から全国で放送されるコカ・コーラシステムの新CM「この瞬間が、私。@Home」編に出演する。冷蔵庫からコーラを取り出した綾瀬が、小走りでテレビの前に走り「家シネマ」をスタート。父親と娘の「家フェス」、仲間同士の「家スタジアム」など、充実したおうち時間を楽しむ姿が描かれたCMだ。注目ポイントは、コーラをゴクゴクと飲んだ綾瀬が「ハァ~ッ!!」と息をついて見せる満面の笑み。また、CMソングにはNiziUの「Take a picture」が採用されている。
2021年03月29日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー田村一晃さん岡山県で車の整備士として働いている田村一晃さん(27歳)。彼がASDの診断を受けたのは子どものころだといいます。小さいころから車が大好きだったという田村さん。自分の「好き」を大切に、趣味に打ち込みながら仕事を続けていく、充実した日々の様子をお話しいただきました。子どものころから車が大好きだった――田村さんはどんな子どもだったのでしょうか?田村一晃さん(以下、田村):幼いころから車が大好きで、車で出かけるのを楽しんだり、ミニカーを集めたりしていました。小学生のときには、紅白の厚紙などを切り貼りして、車のようなものをつくったりもしましたね。算数や理科など理数系の科目が得意で、音楽や図工などの表現する科目が好きな子どもでした。――子どものころからの好みが今のお仕事に繋がっている面もありそうです。田村さんは幼少期にASDの診断を受けたとのことですが、そのころASDの特性の影響は何かありましたか?田村:うーん、小さいときは、そこまで不便に思うことはなかったですね。ものづくりには一人で没頭するタイプですが、「周りが目に入らない」とまではいかないし。僕が生まれたのは岡山の田舎のほうで、小学校は全校で60~70人ほどと少人数だったこともあり、友人とも仲良くできていました。学校外では、同じ町の小・中学校から集まった、発達障害のある人たちとの交流会に参加することもありました。それとはまた別に、「アリスの会」というASDのある子どもと親の当事者グループにも、たしか小学生か中学生のころに参加し始めたと思います。自然な流れで入っていたので、あまりきっかけは覚えていないのですが(笑)。そこでは、みんなで体を動かして遊んだり、一緒に料理をつくったりしました。電話のマナー講習も一度受けたことがありますね。活動を通じてコミュニケーションをとるような感じでした。もともと、特にコミュニケーションに難しさを感じたことはありませんでしたが、アリスの会でいろいろな人と話すことで、より多様な人とのコミュニケーションができるようになったんじゃないかなとは思います。アリスの会――中学・高校ではどうでしたか。田村:小学校と同じく、正直あまり覚えていない感じです。部活は中・高ともに吹奏楽部に入って、トランペットをやっていました。小学校の運動会での集団行動の特訓や、吹奏楽部での活動が、人と一緒に何かをするいい練習になっていたのかもしれません。特に、吹奏楽の演奏はチームワークが大事なので、社会性を身につける良い機会になったと思います。Upload By 姫野桂進路は、身近な職業だった「自動車の整備士」一本で考えていた――高校生になると、進路のことも考え始めるかと思います。田村さんは、どのようにして車の整備士という道に進んだのですか?田村:もともと車が好きだったので、車関係の仕事をしたいなとは思っていました。それで、ある4年制の専門学校の、自動車整備を勉強できる学科に進学することに決めました。――車関係の仕事には、車を売る仕事や、レーサーや運転手のような自分が乗る仕事もあると思うのですが、田村さんの場合は車の整備士に絞って考えていたのでしょうか?田村:そうですね。地元に車屋さんがあって、「整備士」が僕にとって身近な仕事だったからというのもあると思います。高校のころは原付バイクで通学をしていたので、そのオイル交換に行ったり、自転車がパンクしたら持って行ったりしていたんです。親が車を持って行くときについていくこともありました。進学先を選ぶときも他はほぼ考えず、「車の整備を学べる学校の、どれにするか」を決める感じでした。専門学校に進学してからは、好きなことだからこそ勉強も楽しめましたね。最初の2年で2級の整備士資格を取って、残りの2年では職場体験もしつつ、「一級自動車整備士」の資格を取得しました。高校を卒業する前に自動車の運転免許を取って、車も買ってもらっていたので、その車を移動手段にしつつ、実験台にもしていました(笑)。オイル交換などのメンテナンスをしたり、LEDやイルミネーションをつけたりとか。多分、それをやっていたおかげで、仕事でも電気系の作業は特に得意なんですよ。Upload By 姫野桂整備士としての経験が、趣味の車いじりの中で活きることも――田村さんは現在、整備士としてどんなお仕事をされているのでしょうか。田村:運送会社の自社工場で、自社のトラックの定期点検やオイル交換、ちょっとした修理などをおこなっています。専門学校卒業後、学生時代にインターンをさせてもらった会社に入って、今5年目です。職場はフレンドリーな雰囲気で、整備士としては工場長と僕の2人が勤めています。Upload By 姫野桂――整備士として実際に働いてみて、いかがでしたか?田村:専門学校では、普通自動車を主に扱うのですが、僕の仕事は大型トラックの整備がメインになるので、そこの違いはだいぶ出てきましたね。整備の仕方が難しかったり、いろんな部品が増えたり。部品自体も大きくなりますし。外れてしまうネジの扱いやサビの処理など、「これ、どうするんかなあ」と思うようなことは、実を言うと今でもしょっちゅうあるんです。そんなときは、工場長に教えてもらいながら取り組んでいます。以前、燃料フィルターのネジを締めすぎて割れてしまったことがあるんですが、そのときは工場長が部品を手配してくれて、解体屋まで取りに行ったこともありました。工場長には、インターン時代からお世話になってます。そんな風に難しい場面もありますが、やっぱり、担当した車が整備を終えて出ていく瞬間には、やりがいを感じますね。――子どものときは、ASDの特性由来の困り感は特に感じなかったとのことですが、大人になってから何か変化はありましたか?田村:整備士以外にしている荷物の仕分け作業の仕事で荷物を積むときに、なかなか覚えられないことがあったりと、最近になってちょっと特性が出てきているのかな、と感じることはあります。たまに忘れ物をすることもありますが、リカバーできている範囲なので、なんとかなっているかなと。――田村さんの趣味についてもお聞きしたいです。車に日々携わる整備士という仕事についた今も、趣味としての車も楽しんでいらっしゃるのでしょうか。田村:はい。今もミニカーは集めていて、テレビラックに飾ったりしています。車に関しては、幼少期よりも今のほうがこだわりがありますね。コンパクトカーや大きいステーションワゴン、スポーツカー、トラック、デコトラ…いろんな車が好きですが、乗っていて楽しいドライブしたくなるような車や、かっこいい車が好きです。Upload By 姫野桂田村:自分の車も相変わらずいじっていて、家で部品を自分で変えて車高を下げたり、マフラーを変えたり、ライトをLEDにしたりもやってましたし。今は車がハイブリッドになって、できなくなったんですけど、前は親の車のオイル交換もしていました。昨日も、自分の車を洗うついでに、じいちゃんの車を洗ったりして。車で走りに行ったりもしますね。趣味と仕事が近いと、趣味で車をいじるときに、「ああ、ここはこうすればいけるんだな」と気づくことがあります。車によっては、一部似ている構造があることもあるんです。他の趣味としては、ゲームのキャラクターグッズを集めたり、オンラインゲームをしたりもしています。最近はいわゆる「痛車」にもハマっていて、車のボンネットに好きなキャラクターのステッカーを貼っているんですよ。――趣味が充実しているのが伝わってきます。田村:僕、一時期はイラストを描いて、サークルで同人誌をつくっていたこともあったんです。同じようにイラストを描いていた人たちとのオフ会のようなものに参加したり、車やゲームなどの趣味が合う仲間たちと遊びに行ったりと、幼いころより今のほうが、人と一緒に楽しむことは増えたかもしれません。Upload By 姫野桂好きなものを見つけることが、何かの入り口になる――車の整備士という、趣味とのつながりが深い仕事をしながら、余暇の時間を存分にを楽しんでらっしゃる田村さんですが、これから進路や仕事について考える若い読者の人たちに、伝えたいメッセージやアドバイスはありますか?田村:まずは趣味を持つことが一番ですね。好きなこと、楽しいことがあれば、そこから何かやりたいことが見つかっていく可能性があります。「とりあえず好きなことを見つけろ」と伝えたいです。趣味を楽しむのも、ある意味では勉強みたいなものですよ。そこから興味が深まったり、できることや知識が増えたり、仲間ができたりしますし。僕も、ゲームで同じチームに入っている仲間や車仲間、絵描き仲間など、いろんな趣味の仲間がいます。それから、もしコミュニケーションに悩んでいる人がいたら、まずは同じ趣味を持ついろいろな人と話してみるのが一番いいかもしれません。そうやって話すことが、ちょっと言い方は変かもしれませんが、コミュニケーションの実践練習の機会になると思うので。「習うより慣れろ」といった感じもありますね。自分の場合は、アリスの会での経験や、趣味の合う仲間とのやりとりが、そのような実践の場になったと思います。同じ趣味というきっかけがあれば、コミュニケーションもとりやすくなると思うんです。入り口さえ掴めたら、あとは実践あるのみですね。趣味を通じてできた仲間は、一緒にいてとても楽しい存在です。好きなことは、仕事以外にもさまざまなきっかけになりうるので、あるとないとでは全然違うと思います。――最後に、今後の目標があれば教えてください。田村:仕事で言うと、今はだんだん大きいトラックの台数が減っていて、代わりに違う種類の新しいトラックが入ってきているんです。新しいトラックは、ブレーキが別の種類になっていたりもするので、新しいものにもできる限り対応できるようになりたいですね。趣味の面では、好きなことをもっと極めていきたいなと思っています。先ほど少し話したように、今は「痛車」にハマっているので、ボンネットだけでなく横のほうにもステッカーを貼りたくて。イラストを描いてくれる人を探そうかなと思っているところです。それより先に車が壊れてしまいそうなので(笑)、今は次の車を買うために貯金をしています。もっともっと、自分好みの車に仕上げていきたいですね。「仕事を頑張ってこそ、趣味も充実する」という考え方もあると思いますが、僕の場合は「趣味に満足がいかないから、仕事を頑張ってお金を稼ぐ」という感じです。今は通勤距離が長すぎて、ほとんどガソリン代に消えていっていますが(笑)。Upload By 姫野桂好きなことを仕事にして、今もなお趣味を追求し続ける田村さん。その趣味にかける情熱は潔く気持ちが良いものでした。田村さんの言うよう、どんな仕事に就きたいか分からない人は、一度自分の好きなものは何かを考えてみると、ヒントが見えてくるかもしれません。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか
2021年03月21日劇場版『奥様は、取り扱い注意』(3月19日公開)の公開記念舞台挨拶が20日に都内で行われ、綾瀬はるか、西島秀俊、岡田健史、小日向文世、佐藤東弥監督が登場した。同作は2017年10月~12月に日本テレビ系列にて放送されヒット。他人も羨むちょっとセレブな専業主婦だが実は元スゴ腕の特殊工作員という過去を持つ伊佐山菜美(綾瀬)が、持ち前の強さと賢さで次々とトラブルを解決していく。最終回では、実は公安のエリートでありながらそのことを隠し、菜美と結婚していた伊佐山勇輝(西島秀俊)が帰宅した菜美に拳銃を突きつける衝撃のシーンで終了していた。主演の綾瀬は肩と背中を大きく露出したドレスで登場し、観客を魅了する。2020年6月公開の予定だった同作は新型コロナウイルスの影響で公開が2021年3月となり、綾瀬は「1年くらい延期になると聞いた時はだいぶ先だなと思って、どんな感じになるんだろうと思ってたんですけど、ようやくとてもいい時に公開できたんだなと思って嬉しいです」と喜んだ。観客の入るイベントも久しぶりとなり「(これまでは)お客様がいないところで細々と……皆さんにお会いできて嬉しいです」と綾瀬が本音をのぞかせる場面も。西島は「こうやって皆さんと直接、中継の皆さんともカメラを通してお会いできて本当に嬉しいです」、小日向は「1年ぶりくらいにお客様の前でお話しする。ようやくまたこうやって皆様の前に立てることを嬉しく思っています」とそれぞれ心境を表した。撮影での思い出を聞かれた西島は「下田は印象深いですね。すごくいいところで、2人が穏やかに住んでいるところで、実際にも心が和む場所でした」と振り返る。同じ質問を聞かれた綾瀬が「……はい、そうですね。下田、海がきれいで」と繰り返すと、西島は「考えて、ちゃんと。ほんとに!?」と"コメント泥棒"疑惑につっこむ。綾瀬は「本当に! 夏に撮ってて、黒いスーツを着てたんですけど本当に暑くて、絞ると汗が出るくらいアクションをやっていたから、風通しが良くて気持ちよかったのを覚えています」と説明していた。
2021年03月20日女優の綾瀬はるかが、11日から全国で放送される江崎グリコ「ジャイアントコーン」の新CM「ひっくり返る」編に出演する。ジャイアントコーンのCM出演15年目を迎え、最初の頃はナッツやチョコが唇につくこともあったが、今はコツをつかんだという綾瀬。今回は巨大なジャイアントコーンを勢いよくひっくり返し、無邪気な笑顔を見せるCMに。厳選された過去のかぶりつきカットも使用され、綾瀬の歴史も感じることができる。リハーサルでは、目の前に迫る巨大アイスをわずかな重心移動だけでギリギリ避けるという離れ技を見せ、スタッフを驚かせていた運動神経抜群の綾瀬。最終的には動きの大きなカットが採用されたが、忍者さながらのアクションに、監督は「キレが素晴らしい」と絶賛した。綾瀬は、CMに登場する「幸せ」という台詞に掛けて、最近「幸せ」を感じた瞬間を「私はけっこう寒がりなので、やっぱり寒い日のロケから帰った後、湯船に浸かる瞬間は、めっちゃ幸せ~って感じですね」と明かす。また、今月24日に36歳の誕生日を迎えるが、目標を「心身ともに、健やかにいたいということと、時間が流れるのが早いので、より今という瞬間を楽しめたらいいなと思います」と語った。
2021年03月09日東京都内にあるビルから現れたのは、ゆったりめのスポーツウエアを着た綾瀬はるか(35)。このビルには綾瀬が通っている会員制のスポーツジムも入っている。トレーニングをこなしてきたばかりなのだろう。少し顔も上気していた彼女は、マスクを外すと、手にしていたクリアカップのストローに口をつけた。本誌が彼女を目撃したのは2月下旬。現在主演しているドラマ『天国と地獄~サイコな2人~』(TBS系)は、2月28日に放送された第7話も視聴率は14.7%と好調をキープしている。綾瀬が演じる女性刑事と、高橋一生(40)が演じる殺人鬼の魂が入れ替わるという設定だが、役作りについて綾瀬自身は月刊誌のインタビューでこう語っている。《今回は、相手の殺人鬼の考えを想像しながらお芝居する作業が、難しいけれど新鮮です。常に男性目線でいるうちに、男女の価値観が違うことも納得できたり》(『日経WOMAN』2月号)第6話では綾瀬の“ランニングフォーム”も注目された。「華麗に疾走する綾瀬さんを、内面が女性刑事の高橋一生さんがちょっと不器用な走りで追いかけるというシーンでした。綾瀬さんのフォームは“走り方までイケメン”と話題になったのです。事務所の公式HPにも《中学3年生の時、中国地区の駅伝大会に出場》と記載されていますが、その高い身体能力を20年も維持しているということでしょう」(テレビ局関係者)“身も心も男性を演じるために”も欠かせないのが、ジムでのトレーニングなのだろう。スポーツウエアの胸には“FBI”というロゴがあしらわれていたが、刑事役を完遂したいという彼女の覚悟の表れだったのかもしれない。「綾瀬さんが通っているジムは、プロスポーツ選手や会社経営者などの会員が多いことでも知られています。個別に運動と食事の指導を行っていますが、彼女は以前はかなりハードなトレーニングもこなしていたようです。最近では筋肉がつきすぎないよう注意しているとインタビューなどで明かしています。料金はリクエストしているメニューによっても異なります。WEBニュースで月額50万~100万円と報じられたこともありますが、私は1カ月25万円ほどと聞きました」(スポーツ紙記者)ドラマでは“イケメン”を演じきっている綾瀬。ジムの前に止まっていた車に乗り込もうとしたが、実は彼女の所属事務所の車は少し離れたところに停まっており……。運転手に「ごめんなさい!」と、かわいらしく謝る姿は、素の彼女に戻っていた。「女性自身」2021年3月16日号 掲載
2021年03月05日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー古澤瑛子さん特別支援学校卒業後、飲食店やレンタルビデオチェーンでの勤務を経て、現在はアパレル企業で勤務する古澤瑛子さん(以下、アコさん)。約1年前に実家を離れ、発達障害や知的障害のある人たちが共に暮らす「グループホーム」で生活しています。先天性の遺伝子疾患・ウィリアムズ症候群とADHDのあるアコさんの良き理解者であり、子どもの療育やグループホーム運営を長年続けている「一般社団法人発達障がいのためのハッピーライフ研究会」の高見澤千佐先生と共に、幼少期から現在に至るまでをお話しいただきました。Upload By 鈴木悠平生まれつき心臓が弱く両親は心配していた。先生と出会い、療育でたくさんの経験を――お二人とも、今日はよろしくお願いします。はじめに、アコさんの幼少期のころのお話や、先生との出会いについてお聞かせください。古澤瑛子さん(以下、アコ):活発で、外で遊ぶのが好きな子でした。親からは「すぐどこかへ行っちゃう」って心配されていたみたいです。高見澤先生のところには、4歳から療育に通っています。会ったときからすぐ仲良くなって(笑)、そこからずっと、お世話になっています。Upload By 鈴木悠平高見澤千佐先生(以下、高見澤):ウィリアムズ症候群の特徴で、アコさんは生まれつき心臓が弱いのもあって、お母さんはものすごく緊張感を持って彼女を育てておられたんです。転んで怪我して入院するんじゃないか、なにかあったら死んじゃうんじゃないかって、どこかに連れていくのもすごく慎重で。わたしはいろんな子を見てきたプロなんで、まぁお母さんそんなに緊張しないで、と(笑)。アコさん本人も、わたしと相性が合ったらしく最初っからすごくなついてくれたし、自分で学んで覚えていく力はすごくある子だなと思ったので、どこにでも連れて行って、とにかくいろんなことを体験してもらいました。アコ:はい、いっぱい体験しました!先生のところでは合宿もあって、しょっちゅうお泊まりにも行ってましたね。高見澤:うちの療育にはだいたいいつも50人ぐらいが来ていて、半分が知的障害、半分が発達障害のある子どもたちです。基本的には幼児のときから通ってもらって、二十歳以降の自立を見据えて、一人ひとり課題に取り組んでもらっています。勉強だけでなく、言語療法や運動療法まで、その子がそのとき必要なことを、という感じですね。彼女は、手先の不器用さがあったり、気がものすごく散りやすかったりして、小さいときは集中して取り組むのがなかなか大変だったんですけど、うまくいかなくて泣くことはあっても、次の日にはいつもニコニコで現れて「先生、会いたかったー!」って(笑)。いつも明るいよねー。アコ:今でも先生にベッタリですね(笑)。みんな一緒に過ごしていたはずなのに、「障害がある」というだけで扱いが変わるーー保育園や学校などでの、集団生活はいかがでしたか?アコ:保育園のときは、遊具にうまく登れなくて、運動会の競技に参加できないと言われて…高見澤:運動会で、はしごを登って鐘をカーンって叩く種目があるんですが、参加を遠慮してほしいって園から親御さんに言われたことがあったんですよ。Upload By 鈴木悠平ーーそんなことが…高見澤:でも、わたしが園に行ってコツを教えたら10分でできるようになったんだよね!アコ:はい!先生にコツを教わったらすぐできました。高見澤:運動会当日もバッチリできて、みんなに大拍手をもらったよね。やっぱり当時はまだまだ、「障害があるとみんなと同じことはできないんじゃないか」というような偏見が強くて、本人も「それはおかしいんじゃないか」っていうのはすごく感じ取っていました。アコ:小学校に入ってからも、途中までは楽しく過ごせていたんですが、6年生のときにクラスメイトに思いっきり蹴り飛ばされて、それがすごく辛くて、不登校になっちゃったんです。高見澤:心臓が悪いっていうことは、本人は普段からいろんな人に言ってたんです。それなのに胸を蹴られたっていうのがものすごいショックだったみたいで。アコ:はい、ほんと怖かったし、友達に蹴られたっていうのがショックでした。知らなかったんならともかく、知ってるのにどうしてこんなひどいことするのって。高見澤:障害のある子が疎外感を経験しやすいのがこの時期で、やっぱり難しいですね。だいたい4年生ぐらいまでは、みんなフランクに、障害がある子もない子も一緒に遊んでたりするんですけど、思春期に入りかけると違いを気にするようになって、仲良しグループがつくられるときに障害のある子が仲間はずれにされやすいんですよ。今までは「一緒においで」って言われたのが、急に「え、なんでお前来んの」って言われたりして、そこで本人も違いを自覚して、寂しい思いをすることになる。うちの療育でも、不登校を経験したことのある人は多いです。アコ:そのまま、中学校は3年間ずっと不登校で、先生のところに毎日通ってお世話になっていました。Upload By 鈴木悠平高見澤:フリースクールとして、うちへの出席を学校の出席扱いにしてもらって、そのまま卒業ですね。―中学卒業後は、特別支援学校の高等部に通われたとお聞きしました。通常の高校か特別支援学校か、進学先はどのようにして決めましたか?アコ:やっぱりいじめられたときの印象がずっと残っていて、学校行くこと自体がすごく怖くなってしまっていたんです。でも母親は、やっぱり高校は出てほしいと言うので、先生に相談に乗ってもらいました。高見澤:うちのフリースクールに通ったあと、高校進学せずにそのまま就職できている人もいっぱいいるんですけど、彼女の場合は、お母さんがものすごく思いつめられていてね。「中学校を不登校にさせてしまったから、せめて高校だけでも」って。ただ、アコさんは漢字や英語を書くのがどうしても難しくて、その状態で入れる高校の選択肢が当時はほとんどなかったんです。だったら、就職に向けた訓練もできるし、特別支援学校の高等部が良いだろうと。本人はそういった特別支援学級・特別支援学校的なところをそれまで経験していなかったので、入学当初はかなりびっくりしていましたね。――3年ぶりの学校で、はじめての特別支援学校というと、不安や緊張も大きかったと思います。アコ:もうほんと、毎日泣いてましたね。怖い!行きたくない!って。高見澤:うちの療育にも来ていた彼女の親友が1学年上にいたのが救いで、ほぼ彼女に会うために学校に行ってたようなもんだよね。その分、その子が卒業するときは大変で(笑)。アコ:あまりにショックで「わたしも姉さんと一緒に卒業する!置いてかないで!」って大泣きしてましたね(笑)。高見澤:卒業式、本人よりこの子の方が泣いてたっていうね。働いてお金を稼ぐ。親元を離れて暮らす。自分がどう生きるかを「選べる」ことがとても幸せ――それでは、特別支援学校卒業後の就労についてお聞かせください。アコ:卒業して最初に働いたのは喫茶店です。お客さんの注文を取ったり、飲み物や料理を運んだり、それから清掃とか。高見澤:最初は福祉的就労でしばらく働いたんです。わたしも見に行ったんですが、アコさんはお客さんに合わせて話すのが得意で、「雨ひどかったですねー」とか「今日何になさいますか?」とか、常連さんともすぐ仲良くなって、楽しくやっていましたね。参考: LITALICO仕事ナビ 福祉的就労とはどんな働き方なの?一般就労との違いなどについても説明しますアコ:そのあとに、障害者雇用での就職先をいくつか見に行って、次に就職したのがレンタルビデオチェーンの店舗の仕事です。何年か経ってから、そこが一度障害者雇用を終了するということで辞めなくちゃいけなくなったんですが、就労支援センターに通っている間に今の会社の人が見学に来て、それで就職が決まりました。そこから7年間、今の会社で働いてます。――今のお仕事が一番長いんですね。若い世代に人気のアパレルブランドの、渋谷の店舗で働かれているとお聞きしました。具体的にはどんな業務を担当されているんですか。アコ:わたしの担当は主に倉庫の業務ですね。スペインから送られてきた洋服を出して、輸送用のハンガーから店舗用のハンガーに入れ替えて…という感じで、お店に出る前の商品を整える仕事です。――へええ、なるほど。普段なかなか見られない、バックヤードでのお仕事、興味深いです。仕事の中で、やりがいや楽しさを感じる場面はありますか?アコ:仕事のやりがいは、ええと、そうですね…やっぱり働いてお給料をもらえるのが。Upload By 鈴木悠平高見澤:仕事の内容というか、お金だよねぇあなたは(笑)。アコ:はい、まさにお金ですね(笑)!――シンプルな答え(笑)。働いて稼いだお金は何に使うんですか?アコ:お金を貯めて自分のほしいものをひとつずつ買っています!こないだはiPhoneも買ったし、次はApple Watchとか、Bluetoothのイヤホンを買いたいなって。高見澤:あとは食だよね。グループホームではお昼ごはんの提供はないので、ご実家からお弁当を持って行くことが多かったんですけど、せっかく毎日渋谷に通勤してるんだしということで、「ランチを自分のお金で食べる」という念願を叶えて、いろいろ好きなもの食べて楽しそうですよ。毎日、わたしが仕事で忙しい中、お昼になると「先生、今日はポークチョップです!」「今日は中華♡」とかって写真が送られてきて(笑)。アコ:ふふふ(笑)。高見澤:なかなか攻撃力のある「飯テロ」をしてくるんですよ(笑)。アコ:でも今はApple Watchを買うために節約モードに入ってて…今日もカップ麺でした。高見澤:耐え忍んでますね(笑)。でもほんとに、お金は楽しいみたいだね。アコ:楽しいですね。なんか、初めてなんですよ。ケータイを自分で選んで変えられるとか。――自分でお金を稼いで、自分で使いみちを選べる。アコ:そうそう、それは本当に感動しましたね。高見澤:やっぱりお家にいる間は、全部親御さんがやってくださっていたんでね。このグループホームの個室の家具やカーテン、彼女は全部自分で決めたんですよ。いろんなお店を回って、毎回店員さんに詳しく説明してもらって、すっごく悩んで決めてって、もう大変で(笑)。「わたし、カーテン選んでいいんですか!?」ってすごく感動しててね。Upload By 鈴木悠平アコ:実家にいるときは、そんなことをやらせてもらえなかったんですよ。高見澤:毎月、給料が入ってきたら「これがあなたのお給料です。どう使おうか」って、テーブルの上に出すんですよ。グループホームに生活費として入れる額をよけて、残りの中で「この中からあなたは今月いくら貯金したい?」「お昼にいくら使いたい?」「何かほしいものありますか?」って、毎回やるんだよね。アコ:はい、そうです。先生と一緒にやってます。高見澤:彼女、すごい悩んで吟味するので、いつも2時間から3時間かかりますよ(笑)。でも、自分でお金の使い方を決めるっていうのはほんとに楽しいみたいですね。やっぱりどうしても親御さんがいると心配しちゃって「あなたのお小遣いはこれね」「だけどそれは買っちゃダメ」とか「ほしいんだったらお母さん買ってくるから」ってなっちゃってたので。アコ:そうですね。お金以外でも、「どこどこ行ってくるよー」って外出するときも「1人で行かないで」って親が心配してついてくるというパターンがほとんどで。――ご両親も心配ゆえなのでしょうけど、アコさんにとって「自分で決める」機会を持てたのは、大きな変化だったんですね。グループホームでの日々の暮らしについても教えていただけますか。高見澤:ここは男性2人女性2人の、彼女を含めて4人で暮らしています。朝晩は食事の提供があって、昼はそれぞれ。この人はごはんが何より楽しみで、「今日の夕飯なんですかー!」って仕事からもルンルンで帰ってくるよね(笑)。アコ:はい!もう、ごはん大好きで!高見澤:共有スペースの掃除や片付けは、4人で分担決めてやってます。で、各自の部屋は、自分で掃除なんだよね。アコ:はい、やってます。掃除も洗濯もやっぱり、実家で親がいると頼りっぱなしというか…自分も甘えが出ちゃうので、それもなくしたかったんですよ。自分の部屋を持って一人暮らししつつ、みんなと一緒に家事をして、気持ちや思い出を分かち合えるっていうのが、すごく嬉しいですね。――なるほど、食事付きのシェアハウスみたいな感じですね。楽しそうです。高見澤:区が募集をかけるようなグループホームだと、知らない人同士で入居して、あんまり交流がなくて、というかたちになることも少なくないんです。わたしが運営しているグループホームは、それまで療育に来ている人たちが入るので、だいたいが顔見知りですね。月に1回ぐらいは、みんなで焼肉屋に行ったりとかしてますよ。――いいですねえ。高見澤:もちろん中には、グループホームの共同生活で、まわりにどう接していいかわからなくて困っちゃう人もいるんですが、彼女はそういうときにすごく自然に声をかけてくれてね。最初は黙ってた子が、気づいたら「あ、おはようアキコ」「今日また夜、会おうね」って言って会社に行くようになってたりね。お互い影響し合っていい感じに変化していくんですよ。アッコムードの力だなって(笑)。アコ:ふふふ(笑)。高見澤:彼女のこのキャラクターが、家では「お節介」って言われがちだったんですよ。「あんたそんな他人のことはいいから、自分のことやんなさい」っていっつも言われてたんだけど。ここではそのお節介が、すごくうまく作用してるんだなって思います。わたしはずっと、自分が大好き高見澤:ご両親との関係や、お互いが願うことのギャップの話もいろいろしてきましたが、彼女のずっと変わらない、素敵だな、美しいなって思うところが、すごく自分のことを愛していることなんですね。ウィリアムズ症候群は先天性の疾患で、本人も割と早くからそのことを理解していたんです。どうしても、障害のある子を産んだ親御さんは思いつめやすくなる面はあって、彼女のお母さんも「ウィリアムズに産んじゃってごめんね」って思っていた時期があったんです。わたしも彼女本人がどう思っているか少し心配していたので、療育に通ってしばらくしてから「ウィリアムズ嫌だ?」って聞いたことがあったんですけど、「いや、わたしは自分のこと大好きだから、ウィリアムズに生まれてよかった」って、あっさりでした。それ、今でも言うよね?アコ:はい、言いますね、ずっと言ってます(笑)。自分のことは、好きですね、ふふ。お母さんに「産んでごめんね」って直接言われたときにも、「いや、わたしはウィリアムズに生まれて嬉しいなって思ってるよ」って。Upload By 鈴木悠平――自分を大好きでい続けられるって、素敵です。きっとお母さんもアコさんにそう言われて楽になったと思います。高見澤:ほんと、ずっと言ってるよね。ウィリアムズ症候群の親の会があるんですけど、「わたしもそこに入って、後輩と会いたい」って言うぐらいで。親の会は親じゃないと入れないって言ったら悔しがってましたね(笑)。アコ:なんで本人は入れないの、行きたいじゃん、みたいな(笑)。――最後に、進学や就職、将来の生活について、不安や悩みのある若い読者に向けてメッセージをお願いします。アコ:そうですね…やっぱり、楽しく暮らしてほしいなっていうのが一番ですね。落ち込んだり、学校行けなくなったりとか、そういうこともあるけど、将来もあるし、前向きに生きていってほしいなっていうか。発達障害でも知的障害でも、ウィリアムズでも、好きなことをやったり、恋人をつくったり、いろんな幸せを感じて生きていけばいいじゃないかって、わたしは思っているんです。――アコさんにとっての、高見澤先生や、特別支援学校が一緒だった先輩、ここで一緒に過ごす友達みたいな、一緒に幸せを分かち合える存在をつくっていけるといいですよね。アコ:そうですね。ほんとに大事な存在です。嬉しいです。高見澤:ずっと朝から晩まで、けらっけら笑って生きてるよね。アコ:もうけらっけらけらっけら、ずっと笑ってます(笑)。――アコさんのように、いじめや不登校を経験している子もいると思います。そうした時期を経験して大人になったアコさんから、なにか伝えたいことがあれば。アコ:いじめられたときはとにかく、1人で抱え込まないでほしいなって思いますね。わたしもつらかったですけど、相談できる人が1人でも2人でも増えるといいなって。高見澤:あんたそんなこと言うようになったの、すごいね。はっはっは(笑)。アコ:わたしも抱え込んでたときがあったんですよ(笑)!高見澤:抱え込んでたって、毎日のようにわたしとワーワーワーワー言ってたじゃん(笑)。アコ:だから!抱え込んじゃってたからそうやって先生に相談したんじゃないですか(笑)。Upload By 鈴木悠平先天性の遺伝子疾患を抱え、両親に心配されたり、学校でのいじめや不登校を経験しながらも、ずっと「自分が大好き」だと語り、周りとも明るく活発にかかわりながら生きているアコさん。インタビュアーの私も、アコさんのお話を聞いているだけで明るい気持ちにしてもらいました。アコさん自身の明るい性格もさることながら、高見澤先生やグループホームの同居人をはじめ、日常を分かち合える大切な人たちの存在が、きっとものすごく大きなエネルギーになっているのだろうな、とも感じました。実家暮らしでも一人暮らしでもない、「グループホーム」という選択肢も、ぜひ読者のみなさんに参考にしていただければ幸いです。取材・文:鈴木悠平編集:佐藤はるか撮影:鈴木江実子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月28日「試着が必要じゃないものは、わりと見た瞬間に決めることが多いかもしれないです」綾瀬はるか(35)がユニクロのコンセプトである“Life Wear”のスペシャルアンバサダーに就任。会見に登場した彼女はふだんの買い物について明かし、この日着用したジーンズは「シルエットが美しい」と感想を。スペシャルゲストのミルクボーイがユニクロを題材にした漫才を披露すると、“サイズ表記の透明なシールを剥がし忘れる”というネタに共感。「私もやったことがあります!」その飾らない笑顔にM-1王者もメロメロでした。「女性自身」2021年3月2日号 掲載
2021年02月20日女優の綾瀬はるかが、ユニクロLifeWearスペシャルアンバサダーに就任することが決定し11日、都内で行われた記者会見に出席した。服を通じて日常生活をより快適で豊かなものにするというLifeWearのコンセプトに綾瀬が深く共鳴し、今回のパートナーシップが実演。綾瀬は、新テレビCM出演をはじめ、商品開発やサステナビリティ活動など多岐にわたるブランドキャンペーン活動に取り組む。綾瀬は、アンバサダー就任に「私自身も普段着させていただいていますし、日常の中にあるものとして愛着がありますし、とてもうれしく思っています」と心境を告白。「日常的にインナーもそうですし、作品でもジャケットを着させていただいたり。あと、日々家の中で過ごしやすいものだったり、外に着ていく軽やかなものだったり、とても使いやすく着させていただいています」とユニクロを愛用していることを明かした。12日より放送される新CMは、「ふだん着の日が、人生になる。」がテーマ。綾瀬が、さまざまなユニクロの商品を通じて、日常に寄り添う“究極のふだん着”LifeWearを体現している。第1弾「ジーンズ篇」では、ふだん着の買い物をユニクロ店内で楽しみながら、ジーンズを試着した綾瀬が、いきいきと自信にあふれた表情で登場する。同CMでは、綾瀬が試着したジーンズを着たままレジに進み、店員からタグが付いていることを指摘される場面も。進行を務めたフリーアナウンサーの木佐彩子から「うっかりレジにタグが付いたまま行っちゃうところがとてもかわいくて。本当に綾瀬さんやってそうなイメージを持ってしまいましたが、実際にああいうことはあるんですか?」と聞かれると、綾瀬は「どうですかね。やってそうですよね。なくはないかもしれないです」と笑った。記者会見には、お笑いコンビ・ミルクボーイの駒場孝と内海崇も出席し、ユニクロをテーマにした漫才を披露。綾瀬は爆笑し、「面白かったです。間近で見れてうれしいです」と喜んでいた。
2021年02月11日女優の綾瀬はるかが、ユニクロLifeWearスペシャルアンバサダーに就任。新テレビCMが、12日より放送される。服を通じて日常生活をより快適で豊かなものにするというLifeWearのコンセプトに綾瀬が深く共鳴し、今回のパートナーシップが実演。綾瀬は、新テレビCM出演をはじめ、商品開発やサステナビリティ活動など多岐にわたるブランドキャンペーン活動に取り組む。12日より放送される新CMは、「ふだん着の日が、人生になる。」がテーマ。綾瀬が、さまざまなユニクロの商品を通じて、日常に寄り添う“究極のふだん着”LifeWearを体現している。第1弾「ジーンズ篇」では、ふだん着の買い物をユニクロ店内で楽しみながら、ジーンズを試着した綾瀬が、いきいきと自信にあふれた表情で登場する。また、桑田佳祐の数々の名曲がシリーズテレビCMソングに決定した。第1弾の「若い広場」を皮切りに、第2弾の「いつか何処かで(I FEEL THE ECHO)」以降も、名曲が続々とラインナップ。桑田の音楽が、日々の生活に寄り添い、何気ない毎日が明るくなるようなCMに彩りを添える。綾瀬は「ユニクロの顔となるLifeWearスペシャルアンバサダーの大役を任せていただき大変光栄です。私自身、ふだんからユニクロを愛用していて、今回お話をいただきとてもうれしいです。今回着用したジーンズもすごくかっこよくて、ハイライズのストレートシルエットで、脚のラインを拾わずスタイルが良く見えてお気に入りです。何気ないふだん着で過ごす日々を幸せに感じる、そんな毎日にぜひおすすめしたいです。これからはじまるLifeWearスペシャルアンバサダーとしての活動を楽しみにしています」とコメントしている。
2021年02月11日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー光武克さん予備校講師、家庭教師、「発達障害BAR The BRATs」のオーナー(現在は休業中)とYouTubeチャンネル運営、医療系アプリのコンテンツ開発と、いくつもの仕事を掛け持ちしている光武克さん。それだけ聞くと「なんでそんなに大量の仕事をこなせるの!?」と驚く人もいると思いますが、その背景には自身のADHDとASDの特性をつかみ、サバイブするためのたくさんの工夫がありました。光武さんに、現在の働き方に至るまでの経緯を聞きました。通知簿ではいつも「生活態度」を指摘される子どもだった。成績を上げることで特性をカモフラージュする生存戦略――光武さんは小さいころ、どんなお子さんだったのですか?光武克さん(以下、光武):あまり覚えていないのですが、不器用な子だったんだろうなと思います。幼少期から交流のある友人によれば、出会いは遊具から落ちて大泣きしている僕を助けたことだったそうなので(笑)、不注意かなにかで、よく怪我はしていたんでしょうね。Upload By 姫野桂光武:小学生のころは落ち着きがなく、宿題などの提出期限を守れないことも多々ありました。小学校の通知表って、学習面と生活態度の評価があるじゃないですか。生活態度の中の「基本的な生活習慣」の項目は、毎回「努力しましょう」に印がつけられていました。当時、僕はすごく動物が好きで、どうしても犬を飼いたかったんです。そうしたら、親から犬を飼う条件として「基本的な生活習慣」の改善を言い渡されて。結局犬は飼ってもらえなかったので、小学校6年間では改善できなかったんでしょうね。――勉強面はいかがでしたか?光武さんは予備校の講師もされていますし、小学生のころから勉強が得意だったのでしょうか。光武:それが、小学生のときは中の上ぐらいで、ずば抜けて成績が良いわけではなかったんです。中学校に上がってから、成績が良い方がいろいろとメリットが大きいというか…自分の不注意など、周囲から変に思われる部分が目立ちにくくなることに気づいて。「あいつは成績がいいから」と言われるキャラクターでいたほうが安全だろうということで、勉強するようになったのかもしれません。中学生のときには、親も昔通っていた、地元で有名なスパルタ英語塾にも通っていました。教科書の例文を20ページ分、つまらずに読めないと帰れないような塾だったのですが、そこで勉強したおかげで語学の道が少し開けた部分があります。高校でも英語の勉強には力を入れ、留学も経験しました。――当時、光武さん自身も、「自分は変わったところがある」という認識だったのですか?光武:自分が変わっているという自覚はたしかにありました(笑)。僕の出身地は田舎ということもあり、なかなか閉鎖的な環境だったので、自分の言動が目立ちやすい部分はあったと思います。でも、それと同時に、「周りの方がおかしい」という感覚もありましたね。なんでそんなに合理性のないことを、みんなが口を揃えて言うのかがわからない。それでも、ここは言ったらいけない場面だから言わない、といった対処をしていました。Upload By 姫野桂考古学者を目指すも、自分の特性との合わなさに挫折。予備校講師のアルバイトで見つけた適性――子どものころ、将来なりたい職業などはありましたか?光武:歴史、特に古代史が好きで、考古学者になりたいと思っていました。中高生のころは、吉村作治先生の本をよく読んでいましたね。2歳ぐらいのころ、奈良の親戚を訪ねた際にも大仏を30分ほどひたすら見つめていたそうなので、昔から古いものが好きだったようです。具体的に研究したい内容までは見えていませんでしたが、「研究」への憧れを持って大学にも進学しました。大学入学後は、古代史の研究をしたいなあと思い勉強していたのですが、やればやるほど歴史の研究に向いていないとわかってきました。歴史学の研究は緻密さが必要で、1つの資料にじっくり向き合い続けることになるんですが、それがもうしんどくて。僕のADHD特性との相性がすごく悪かったんですよね。飽きちゃうんですよ(笑)。なりたいと思っていたものに、絶望的に自分が合っていないと気づいたのが、大学2年生か3年生のときでした。これが初めての大きな挫折だったかもしれません。それから他にやりたいこともなく、このままだと就職もできそうにないしどうしようと悩んでいたのですが、当時していた予備校講師のアルバイトで、自分に向いていそうなことも見つかりました。教育の仕事って、ある面では仮説検証のような部分があると思うんです。学んだことをもとに、自分の中で仮説を立てて実践して、それがうまくいくか、つまり生徒にとって学びやすいかどうか確かめる。その一つである予備校講師の仕事は、歴史学で扱う資料と違い、生徒からすぐに反応が返ってくるじゃないですか(笑)。それがすごく面白かったし、目の前で反応を見られる環境では集中しやすくて。やったことのフィードバックがすぐに返ってくる、具体的な社会現象や人間を相手にするほうが僕には向いているのだと気づきました。そこから、社会学や教育学の本を読むようになりましたね。大学3、4年生ぐらいのことでした。Upload By 姫野桂悩んだ末、内定を辞退しフリーランスの予備校講師へ――光武さんはその後、就職活動もされていますよね。わたし自身もそうでしたが、発達障害のある方からは、「自分をよく見せなければいけない就活が苦しかった」という話を聞くことが多いです。光武さんの場合はいかがでしたかか?光武:もう、めっちゃ苦しかったです。ルールを説明してもらえれば、そのルールに従って動けるんですが、就活って「ルールは自分で考えなさい」みたいなゲームじゃないですか。エントリーシートで暗に求められていることなど、明確な指示がないものについては、要領をつかむまで苦労しました。結局、「どんなに社会が変わっても食いっぱぐれないだろう」と思った教育と医療の業界に絞って、当たり障りのないエピソードや、ウケのいい話を自分でつくり、組み合わせながら就活をしていました。でも、そもそも就職したくないという気持ちがあったので、「なぜうちの会社を受けようと思ったんですか?」と聞かれたら「そこに応募ボタンがあったから」という感じですし(笑)、「同業他社の中でなぜうちを選んだのですか?」と聞かれて、変に正直に「うーん、特に理由はないですね」と言ってしまったこともあります。そんなわけですから、最後に奇跡的に1社だけ、製薬会社から内定をもらうことしかできませんでした。――しかし、光武さんはその内定を辞退して、フリーランスの予備校講師になったんですよね。それはなぜだったのでしょうか?光武:就活の段階からグダグダで、まともに社会生活を送れる自信もなく、その会社でうまく働いていくイメージができなかったんです。そこで正社員になるという選択肢しか当時はなかったんですが、「これはベストではない、選んじゃダメなやつだ」という確信があって。かといって代替案もなく、悩むうちに時間だけが過ぎていました。そんなときに、個人事業主(フリーランス)として予備校講師をやっていくという方法もあると教えてもらったんですよ。これは乗るしかないと思い、そちらの道を選びました。――そのときのことについて、ぜひ詳しくお聞きしたいです。光武:その働き方を聞いたのは、アルバイト先の社員の方とお酒を飲んでいたときでした。ちょうど悩んでいたころ、勤めていた予備校で講師の授業力コンテストの第1回が開催されて、僕は東京都で1位を取ったんです。そこで教える力を認めてもらえたのか、部長クラスの方に、「君はプロとして、十分それで食っていけるよ」「個人事業主でやるという道があるよ」と言っていただけて。「ああ、そういう道があるんだなあ」とそこで初めて知りました。その話をきっかけに、大学生講師である「学生コーチ」から「プロコーチ」という枠に契約を切り替えてもらったのが、大学4年生の12月前後でした。一応「プロ」と名乗れるようになったことで、「これでなんとか食べていけるようになるんじゃないか」と思いましたね。あれは一つの転機だったかもしれません。だから、決して「フリーランスになりたい!」と思ってなったわけではないんです。当時はフリーランスという言葉も知りませんでしたし。今振り返ると、ずっと上司がいない状態で働いてきたのは、失敗だったなと思います。「こうすればうまくいく」という仕事のノウハウや、働く上でのメンタリティまで教えてくれる人が身近にいなかったので。20代のころの自分に、そういった「ロールモデル」になる人を、きちんと見つけたほうがいいよと言いたいですね。Upload By 姫野桂自助会での経験をきっかけに、「発達障害バー」という形態を選ぶ――フリーランスの講師として働き始めた光武さんが、その仕事を続けながらも、2018年、33歳で「発達障害BAR The BRATs」を開くまでに、仕事面ではどんなことがありましたか?光武:20代のころは、理想に燃えて講師の仕事を頑張っていました。しかし、教える仕事自体は楽しかったのですが、自分がやりたいことや興味があるものと、教育ビジネスの世界で展開されるものに、すごくギャップを感じるようになってしまい…。今はそのあたりのバランスがうまく取れるようになりましたが、当時は何よりもスコアアップが求められる受験指導に対して、嫌悪感がとても強くなってしまったんです。「予備校講師の仕事が嫌だ。一刻も早く辞めたい」とまで思っていた時期もありました。Upload By 姫野桂――それが「発達障害バー」という新たな仕事のスタートにもつながったのでしょうか。光武さんは、大人になってから発達障害の診断を受けたのですよね?光武:はい。31歳か32歳のときに、ADHD、ASDという診断を受けました。心境としては、これでようやくいろんなことの説明がつくんだなと腑に落ちた感じでした。当時、妻との関係がうまくいっていなかったので、この診断が関係改善の糸口になるかもしれないという安心が一番大きかった気がします。今ならわかりますが、なんらかの形で理由が説明できようとできまいと、嫌なものは嫌ですよね(笑)。結局、妻とは離婚に至りましたが、それも発達障害バーを始める一つのきっかけにはなりました。――人が集まる開けた場をつくることは、なかなかエネルギーが必要だと思うのですが、なぜ「バー」という形式を選んだのですか?光武:それまで、既存の発達障害当事者の自助会にも参加したことがあるんですが、自分にはちょっと肌に合わないなと感じて。そのときの経験を踏まえて考えた結果です。行ったタイミングの問題や、自助会ごとの違いもあるとは思うのですが、以前ある自助会に参加したときは、僕が求めていたような内容、例えば「プライベートの人間関係で、こんなときはどうしたらうまくいく?」「仕事のこんな場面でつまずいたときはどうしたらよかった?」といった話をする雰囲気ではなかったんです。そういった具体的なハックやプライベートな話を、もうちょっと気軽な空気で話せる場所があるといいなと思ったのが、大きなきっかけですね。僕の場合は、お酒が好きなこともあり、そういった話を友達や同僚とするときはお酒の席が多かったんです。だから、バーという形態なら、ふらっと気軽に立ち寄れて、気軽に話ができるんじゃないかと思い、発達障害バーをオープンさせました。――お店を持つことに不安はありませんでしたか?光武:めっちゃありましたよ。そもそも僕、お店を持つつもりはなかったんです。最初オープンさせたのも一時的な店舗でしたし、当初はイベント的に開催して、終わらせるつもりでした。ところが、思いのほか、お店を残してほしいという声が大きかったので。何らかの形で続けられないかと模索した結果、場所を渋谷に移して営業することになりました。(※現在は新型コロナウイルス感染症の影響で休業中)自分の特性を把握し、チームでトライアンドエラーを繰り返す――昼間は講師の仕事、夜はバーに立ちつつ、2019年からはYouTuberとしての活動も始めていますよね。最近は、さらに医療系アプリのコンテンツ開発もされていると聞きました。それだけいくつもお仕事をしていても、混乱しませんか?光武:「何曜日の何時から何時までは、どこで働く」というように、曜日や時間帯でやりことを区切った働き方をしているので、自分のADHD特性にはむしろ合っているのではないかと思いますね。適度に力が分散されて、適度に違う刺激を受けられるので。僕がこうやって働いている姿を見て、不登校だった子の大学受験の家庭教師を依頼されるなど、1つの仕事が他の仕事につながることもありますし。Upload By 姫野桂――さまざまな種類の仕事を複数並行して進めていくにあたり、何か気をつけていることがあれば教えてください。光武:僕の場合、何か作業をするときにマニュアルなどをもらっても、その中の重要なポイントがわからないとミスがすごく起きやすいんですよね。逆に言えば、作業する上での最低ラインが、要点の箇条書きでいいので示されていれば問題なくできる。齟齬が生まれるとすれば、要点の解釈ミスでしょうか。今取り組んでいるアプリのコンテンツ開発では、そのあたりがうまくクリアできています。上司となるプロジェクトマネージャーの方が、「自分も指示出しが雑になってしまうから、毎日15分、絶対にミーティングで話しましょう」と提案してくれたんです。ミーティングの場では、その都度できあがったコンテンツのよかったポイントをフィードバックしてもらったり、「この点とこの点が満たせていればOKという認識で大丈夫ですか?」とこちらから確認したりしています。おかげで、作業がすごく楽にできていますね。あとは、僕は今通院も服薬もしていなくて、どうしても脳の調子に波があるんですよ。それこそコンテンツ開発でも、まったくアイデアが浮かばず、「今日は全然書けない日だな」というときもある。それでも、「次は何時にミーティングだから、それまでにこの条件さえ満たして、何本出せればいい」というのがわかっていれば、そのときは難しかったとしても、合間の時間でパパパパッと書くこともできますよね。脳の波に乗れないときはいくら考えてもダメなので(笑)、そこで悩んでもしょうがない。書けるときに書くしかないと考えて、例えば夜中の3時とかでも、「あ、今いける」と思ったら書くようにしています。そうやって、うまーくうまーくやっていますね。――たしかに、わたしも「いける!」と思ったタイミングで書くことはありますね。光武さんの場合、講師などの1人で取り組むお仕事をされている一方で、YouTube含むバー関連のお仕事はチームで取り組んでいらっしゃいますよね。そちらの働き方についてもお聞きしたいです。光武:今一緒に働いているのは、「一緒にやりたい」と言ってくれた中から最終的にチームとして残った人たちです。「協力したい」と言ってくれる人は多かったのですが、実際にチームとしてうまく機能するかどうかは、さまざまな要素や相性がかかわってきます。その人たちとは、一緒にやる中でお互い特性を探り合っていって、「ここが嫌なのか」「こういうときはこうすれば良いのか」と、トライアンドエラーを繰り返しながら、ようやくまとまってきたところです。YouTubeの仕事は、僕は現場に行って撮影される担当で、撮影や編集などの作業は別のメンバーがやっています。僕はログインパスワードすら知らないレベルの分業体制です。――そういえば、光武さんにご連絡したときも、光武さん専用の連絡フォームから担当者の方に返信をいただきました。光武:組織として、役割がかなりきっちりと分かれているんです。それぞれが得意なことやできることをなるべく多く行い、苦手なことはなるべくそれが得意な人やできる人に任せるといったような体制になっています。Upload By 姫野桂セルフモニタリングを通して、自分の「反応」を客観的に捉えると解決策が見えてくる――紆余曲折を経て現在の働き方をされている光武さんですが、進路に悩んでいる人へ向けて、何かアドバイスがあればお願いします。光武:発達障害などの特性があると、どうしても働きにくい部分はあると思うんですよ。とくに、僕にもあるような脳の波の問題は大きいのかなと。そこに関しては、「うまくいかないときもある」という、ある程度の割り切りは必要なのかなと、個人的には思います。一番大事なのは、自分がどんな場面で、どんな「反応」をするかということを、客観的に捉えることだと思うんですよね。Upload By 姫野桂光武:僕は昔から楽器を演奏するのが好きで、トランペットとピアノを長く趣味として続けています。でも僕の場合、パニック障害のような傾向があり、特定の場面で著しく緊張して音を出せなくなることがあるんです。それがなぜ起こるのか原因がわからず、苦手意識をずっと持っていたんですが、ゆっくりセルフモニタリングをして紐解くことで、そのとき自分に何が起きているか、少しずつわかってきました。例えば、「人からどう思われるかを意識して、『ここでこういうアクションをとって、こんな風に思われたら嫌だ』という考えが起こると、肩がすごく固くなるんだ」とか。そうやって自分の状態を確認していくと、悪い流れの兆候が出始めた段階で自覚ができるので、1回楽器を置いてみたり、「今はちょっとダメです」と伝えたりして、悪化を防ぐことができるようになったんです。何かあったら一旦止まって、調子が戻ったらまた練習に参加するというプレーの仕方に変わりました。そういったセルフモニタリングと、それを受けての行動の変化は、仕事の場面でも活きる部分があると思うんです。仕事でも、ある特定の場面で同じ反応が起きるようなら、セルフモニタリングをしてみて「こうやったらうまくいった」「こういうときはこんな身体の反応がある」「こんなことが頭に浮かぶと、こんな身体の反応がある」と確かめていく。大体、仕事などで失敗しやすいケースは、どこかで考え方のクセが出ていたり、失敗するようなイメージが出てしまったりしていると思うので、そこを自覚できるようになるだけでも、かなり変わってくるのではないでしょうか。そこからさらに、「前回はこうしたらこうなったから、今度はこうしてみたらどうだろう」等と、試行錯誤し、わかったことをリスト化していくと、自分の取扱説明書になると思います。――最後に、光武さんの今後の目標を教えてください。光武:ベースにあるのは、「自分自身の生活を、できる限り、もうちょっと生きやすくしたいな」ということですね。そして、自分が生きやすくなれば、多分同じようなタイプの人が生きやすくなるとも思うんです。自分より若い人に「光武ってやつがこうやってなんとなく生き延びたんだな」というのが伝わって一つのロールモデルになれば、そこを目標に頑張る人も出てくると思います。そんな人が増えれば、ちょっとずつ社会の仕組みも変わっていくかもしれません。まずは地道にコツコツ、近い感覚や考え方を持つ人を増やすのが大事なのかなと思っています。また、自分にとっての仕事は、ご飯を食べるためのツールという側面の他に、他者と関わる中で自分がやったことを残すものという側面も持つものです。「人に知られたい」というよりは、もっと自己満足に近いものなのですが、「俺はこういうことをやったんだなあ」と納得できる、形になるようなものが残せたらいいなあと思いますね。Upload By 姫野桂一見するとスーパーマンのように数々の仕事をこなしているように見える光武さんですが、その根底には発達障害ならではの特性との合致と、チームで動く仲間たちとの協力がありました。人間関係を構築することに苦手意識がある人もいるかもしれませんが、光武さんのようにトライアンドエラーを繰り返していけば、チームで動くことも可能になるのではないでしょうか。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年01月24日「ただ男性を演じるだけでなく、殺人鬼という設定。最初は高橋さんに助けてもらいながら試行錯誤してやっていました」1月10日、綾瀬はるか(35)は、主演ドラマ『天国と地獄 ~サイコな2人~』(TBS系)の制作発表会見で演じる役の難しさについて語った。同ドラマは綾瀬演じる女性刑事が、高橋一生(40)演じる殺人犯と魂が入れ替わるというストーリーである。1月17日に放送された第1話の平均視聴率は16.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録と、好調なスタートを切った。「綾瀬さんは、昔から緊張しやすいタイプで、とくに撮影に入るといろいろなことが気になり、心配しすぎてしまうそうです」(芸能関係者)そんな綾瀬にとって、心を落ち着かせるための習慣が掃除なのだという。『日経WOMAN』’21年2月号で、彼女はこう明かしていた。《夜中に突然始めることも(笑)。断捨離も魂のさびを取ることでもあるし、掃除はやっぱり運気を上げてくれる気がします》実は掃除に力を入れるようになったのは、祖母の影響があるようだ。彼女が昨春、実家に帰省した際に緊急事態宣言が発令され、久しぶりに家族と生活を共にする機会があった。そのとき目撃したのが、94歳になる祖母が70年前から1日も欠かしたことがないというルーティーンだったのだ。綾瀬はインタビューで、実家での発見について語っている。《朝起きて顔を洗って、ストレッチをしながらメイクをして、トイレ掃除、リビングの水ぶき、お庭の掃き掃除をして……。(中略)ルーティーンがある人って、軸がしっかりしていてブレない気がします》(『Lee』’21年2月号)それから綾瀬も毎朝トイレ掃除を習慣にすることになったという。’10年の大ヒット曲『トイレの神様』は歌手・植村花菜(38)が、トイレ掃除の大切さを教えてくれた祖母との思い出を歌った曲だが、綾瀬も祖母から多くのことを学んできたようだ。「戦後60年を記念したTBSの特番で、当時20歳だった綾瀬さんは、太平洋戦争の体験談を聞きました。『戦争なんか起こさんように、女性がしっかりせなダメなんよ』という祖母の言葉に胸を打たれ彼女は、世界平和を心から願い、テレビ出演などを通じてメッセージを発信し続けているのです」(前出・芸能関係者)『Lee』のインタビューでは、“悪い精神状態は部屋の汚さに表れる”とも語っている綾瀬。いまも緊急事態宣言下で“トイレの神様”修業に励んでいるというが、その成果を生かして見事、難しい役を演じ切ることはできるのだろうか。「女性自身」2021年2月2日号 掲載
2021年01月22日《俺の家の話ヒロインの戸田恵梨香がフレンドパークに出てないのはちょっと違和感あるね~やっぱり綾瀬はるか関係あるのかな?》《フレンドパークに綾瀬はるか出てるから戸田恵梨香いないのか》SNS上でこんな内容の投稿が複数見られたのは1月3日の夜。この日、TBS系で放送された『関口宏の東京フレンドパーク新春3ドラマ超豪華俳優大集結SP』を見た視聴者の声だ。「1月スタートのTBS系ドラマの出演者たちが、それぞれチームとなって対戦ゲームを繰り広げる番宣を兼ねた特番ですが、1月22日にスタートするドラマ『俺の家の話』でメインキャストを務める戸田恵梨香さん(32)が出演していなかったことを疑問に思う声が少なからずあったようです。戸田さんは本作では主演の長瀬智也さんに(42)次ぐ2番手ですし、ほかのドラマはメインキャストが集結していましたから」(テレビ誌記者)戸田といえば、昨年末、松坂桃李(32)との結婚で“ビッグカップル誕生”と世間を賑わせたばかり。それゆえに……。「同番組にはドラマ『天国と地獄~サイコな2人~』で主演を務める綾瀬はるかさん(35)が出演していたんです。以前、綾瀬さんと松坂桃李さんは交際報道がありましたから、“戸田と綾瀬は共演NGなのか?”と感じた視聴者がいたようです」(前出・テレビ誌記者)TBSスタッフに話を聞くと……。「戸田さんは何故『フレンドパーク』に出ないんだろう、というのは番組スタッフのまわりでも話題になっていました。やはり“綾瀬さんと顔を合わせたくなかったのかな”と噂をする人もいましたね」本当に2人は“共演NG”なのだろうか。とある芸能関係者が真相を語ってくれた。「『フレンドパーク』の収録日は12月17日でしたが、この日、戸田さんは美容誌『美的』のイベントに出演することが前々から決まっていました。イベントは夕方からで、『フレンドパーク』の収録もちょうど同じ時間帯。かぶってしまったのでそちらには出られなかった、というわけです。とはいえ、戸田さん側も綾瀬さんとの共演を避けられてホッとしたかもしれませんね(笑)」戸田の多忙ゆえ、思わぬ誤解が生まれてしまったようだ。
2021年01月06日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー難波寿和さん島根県を拠点に、フリーランスの臨床発達心理士・公認心理師として働く難波寿和さん。子どもから大人まで、発達障害がある人のカウンセリングや療育に携わっています。そんな難波さんは、ASDの当事者でもあります。当事者が当事者を支援する中で感じることについて、難波さんのこれまでの歩みと共にお聞きしました。いい関係を築きたいのに、うまくいかない。「問題児」扱いされた幼少期――難波さんは、「臨床発達心理士」の資格をお持ちですよね。臨床発達心理士の仕事は、どのような内容なのでしょうか?難波寿和さん(以下、難波):臨床発達心理士は、発達心理学をベースに、子どもから大人までの成長・発達をサポートする仕事です。発達障害のある人だけでなく、幅広い人が対象となります。具体的な仕事内容としては、発達障害のあるお子さんの療育に関わったり、大人の発達障害当事者の方のカウンセリングをしたりしています。昨年、新たに国家資格として定められた「公認心理師」の資格も取得しました。Upload By 姫野桂――難波さんは幼い頃、どんな子どもでしたか?難波: 家の中ではやんちゃでしたが、母と離れることへの不安が強かったですね。喘息の症状緩和のために、3歳ぐらいからスイミングに通っていたのですが、そこで母親から強制的に引き剥がされたのが嫌で、母子分離不安になってギャンギャン泣いていました。感覚過敏もあり、母親以外に抱きかかえられると、嫌で噛みついたりもしていましたね。4歳から入った保育園でも、母はいつ迎えに来てくれるのだろうかとずっと不安に感じていました。――お母さんから離れることへの不安は、小学生でも続いたのでしょうか。難波:いえ、小学生からは、学校へ行くことの不安に変わっていったと思います。授業などの細かいスケジュールの変更や、何分後に何が起きるかわからない行事が苦痛でした。先の見通しが立たないので、トイレに行くタイミングがわからず、授業中に漏らしてしまうこともありました。感覚過敏だけでなく、感覚鈍麻もあって、僕は今でも便意がギリギリまでわからないことが多いんです。小学2年生のときに、トイレは休み時間のうちに必ず行っておく、授業中に行きたくなったら「トイレに行きたいです」と言えばどうにかなる、ということに気づき、それでなんとか漏らさずにすむようになりました。――そうだったんですね。他にも、学校生活で何か困ることはありましたか?難波: 落ち着きもなく、忘れ物もひどかったです。ほとんど毎教科で何かしら忘れ物をしていました。授業では、先生の話を記憶しようとした瞬間に、もう次の話に移っているので、なんの話をしているのかが全然わからなくって。1年生の時点で遅れをとっていました。友人関係も、いい関係を築きたいというイメージはありましたが、うまくいきませんでしたね。保護者会が僕の話題でもちきりになるぐらい、問題のある行動をしてしまっていて……。例えば、友人に暴言を吐いたりとか。それでいじめられるようになりました。僕もひどいことを言いたいわけじゃなかったんです。でも、そうしないと友達が自分のほうを向いてくれなかった。学校の先生は、「人の気持ちを考えなさい」と言いましたが、具体的にどうしたらいいかは教えてくれなかったので、どうすることもできませんでした。そのころは、全部人のせいにしていましたね。学校が悪い、先生が悪い、いじめる友達が悪いという考え方でした。――そんなとき、幼少期の難波さんにとって安心できる存在だったお母さんは、どのような対応をされたのでしょうか。難波: 母親は、「とにかく生きとりゃいい」「死ななかったらなんとかなるわ」みたいな考え方で(笑)。具体的な対処法は教えてくれませんでしたが、小学校6年生ぐらいまで、僕が帰ると膝の上で30分ぐらい話を聞いてくれました。「こんなことした」「あんなことされた」と泣きながら話すと、「おう、いけんかったなあ」とただただ慰めて支えてくれたのを覚えています。友達を模倣することでなんとか切り抜けてきた難波:僕、小学校の卒業式のときに、「僕は生まれ変わるんだ」と決めたんですよ。小学生のときの記憶に全部蓋をして、もう何も言わない、何も感じないようにするんだ、と。その決意の通りに中学校では比較的おとなしく過ごし、一緒に遊べる他の小学校出身の友達もできました。その一方で、乱暴に振る舞う人をコミュニケーションのお手本にしてしまうなど、まだまだうまくいかないこともありました。授業は黙って座っていれば問題ないことに気づき、耳も慣れてきて、小学生のころよりは聞けるようになりましたね。塾にも通って、成績は中の下ぐらいまでには、なんとかもちなおして。きちんと出席していたこともあって、推薦入試を受けることができ、全寮制の高校に進学しました。Upload By 姫野桂――寮ということは集団生活になるかと思いますが、その点は苦ではありませんでしたか?難波: むしろ、いろんなモデルがいて、いい模倣の場になりましたね。僕はこれまで、「この人をコピーする」と決めた人の話し方や動き方を模倣して学び、問題行動を修正して切り抜けてきたんです。寮生活では、他の人の掃除や洗濯、勉強の方法を模倣し、学ぶことができました。でも、この学習スタイルには問題があって。理屈がわからないまま覚え、そのまま真似しているから、応用がきかないんです。だから、学校でのテストでは90点取れるのに、模試になると数学2点、のようなことが起きていました(笑)。――応用がきかないという点、すごく共感します。高校生は進路を考える時期でもありますよね。難波さんは「モテたい」という理由で心理職を目指したと小耳に挟みました。難波: そうなんです。当時やっていたドラマを見て、「カウンセラーってモテそうだな」と思った、という不純な動機でした(笑)。一応、他の理由として「自分はなんでこんな変な生き方をしているんだろう?」と思ったこともあります。自分から関わりに行っても、なぜ人が離れていってしまうのか知りたくて、勉強したらわかるかなあと思い、岡山にある大学の心理系学部に進みました。――実際に大学で心理学を勉強してみて、いかがでしたか?難波: 全然楽しくなかったし、「これ、モテるのか!?」と思いました。ユングとかフロイトとか、いろいろ勉強しましたが、もう言葉の意味や解釈がわからないし、なぜそんな心の動きになるのかもわからない。基礎心理学の方面に行こうかとも思いましたが、数学が苦手なので統計学ができず、それもあきらめました。そんなとき出会ったのが、発達障害のある子どもたちでした。大学3年生から4年生ぐらいのころですね。はじめはうまく関わりが持てず、「なんだこの子たちは!」と衝撃を受けました。でも、関わっていくなかで「僕と似ているじゃないか」と感じるようにもなったんです。言うことも聞かないし話も通じない、幼少期の僕にそっくりでした。「自分でも、力になれるのではないか」と感じて。そこから、障害のある人たちを支援する職へ就こうかなと考え始めました。ここだけは、まともな動機でした(笑)。「支援者」というプライドが受診を遅らせた。仕事のつまずきから30歳を過ぎてASD診断を受ける――発達障害のある子どもたちが「自分と似ている」と感じたとのことですが、ご自身が発達障害の診断を受けたのもその時期なのでしょうか。難波:それが、そうではないんです。大学院に入り、障害児教育について研究するにつれて、自分も似ているところがあるぞと思うようにはなりましたが、なかなか受診には至りませんでした。指導教員が主催するペアレント・トレーニング(保護者向けの、子どもとの関わり方を学ぶプログラム)に大学院生たちで参加したときです。振り返りの時間に、他の学生が「あのお母さん、しんどそうだったね」「あの人は、こんな思いを持っているよ」と話していたのですが、僕には全くわかっていなかったんですよ。表情を読んでいなかったし、言葉尻しか掴めず、相手の心情も全然わからなくって。「自分はやっぱり...」と思いました。でも結局、自分は発達障害じゃないという結論にそのときはなったんです。Upload By 姫野桂――どうしてそう思ったのでしょうか?難波: これまで、さまざまな問題行動を模倣で改善してきていたので、自分で直せばなんとかなると思っていたからです。忘れ物があれば忘れないようにする、レポートは期日を決めて出す、片付けが難しいのは片付ける気がないからだ。23歳のときにはそんな風に思っていたので、病院を受診するまでにそこから7年かかりました。――30歳で病院を受診し、ASDと診断されたとのことですが、受診のきっかけは何でしたか?難波: プライベートと仕事での困難が重なり、うつ病になったことがきっかけです。大学院卒業後は、心理士として福祉施設で働いていました。これまで勉強したことを活かせる仕事で、自分に合っていると思いましたし、障害のあるお子さんの支援に関しては保護者の方からも評判がよかったのですが、職員さんとの関係に問題があって。あとから振り返ってみると、自分は書類の不備や忘れ物など日頃のミスが多く、よく指摘されていたんですね。それに、対人関係はどうでもいいと思っていた。そんな中で、会議では自分の思う理想の支援のために「こんなんじゃダメだ」などと強く主張したりしていて...周りからすると、信用するのが難しいですよね。トラブルが多く孤立し、業務を減らされてしまうこともありました。プライベートの人間関係でも悩んでいましたが、それでもなかなか受診しなかったのは、どこまででも改善できるはずだと思っていたのに加え、「支援者」としてのプライドがあったからです。自分のメンタルの管理もできずに人の支援なんてできないと、当時は思っていたので。でも、うつ病になってしまったことで、「これはもう精神科に行かんといけん」と思って、泣きながらようやく病院に行きました。――いざ診断を受けてみて、どんな心境になりましたか?診断が下りて安心したと話す人も多い印象ですが。難波: 「やっぱりな」という思いと、「これからどうしよう」という絶望感の両方がありました。これまで勉強して得た知識から、立て直しは大変だろうと感じ、途方に暮れましたね。当時は障害者差別解消法(2013年)ができる前で、職場等での合理的配慮もなかなか期待できない状況だったので、何も受けられる支援がないと思っていたんです。診断が下りて公私ともに行き詰まった状態になり、もう死のうと思ったこともありました。でも、そこでもう一度自分の人生を振り返ることにしました。1人で記憶の蓋を開けていく中で、これまでの自分の過去と向き合うのが怖くて、自分のことをちゃんと見ていなかったのに気づいたんです。小学校の卒業式で記憶を押し込め、自分の人生をなかったことにしたのもその一つでした。自分では責任を持たず、周りのせいにして問題を放棄していたんですね。そこと向き合いながら、自分はどんなことを辛く感じ、どんな援助が必要なのか、どんな課題があるのかを書き出して、自分ですること・他人に頼ることを分けて整理していきました。そのときに、「やれば普通になれる」という考えはやめ、代わりに「生きやすく、自分なりに生きよう」と思ったんです。仕事はパズルを解くような面白さ。「共感」ができなくても心情は聞き取れるUpload By 姫野桂――そのような経験を経て、いま再び心理士として働いていらっしゃるんですね。心理士の仕事をする上で、ご自身のASD特性がどのように影響するかや、困りごとがあったときの対応方法などについて、お聞きしたいです。難波: 自分のできる方法で自己対処しつつ、自分の特性についてはあらかじめクライエントさんに伝えるようにしています。子どもの療育であっても、発達障害のある大人のカウンセリングであっても、僕は相手に「共感」することってほとんどないんですよ。基本的に共感性がないんです。表情などの視覚的な情報から相手の気持ちを推し量るのも、挑戦はしましたが、自分には無理だとわかりました。それでも、スキルとして話の聴き方や声のかけ方は身につけましたし、耳からの情報なら相手の感情が若干読み取れるので、徹底的に聴いて理解するトレーニングをしました。30歳以降もずっと続けた結果、今はわりとうまくカウンセリングで寄り添えるようになったように思います。そして、僕はクライエントさんやその保護者にも、「発達障害があります」「コミュニケーションに難があります」と開示していますが、それによってカウンセリングをやめていく方はいないですね。僕の本を読んでくださっていて、「知ってますよ」と答える方もいます(笑)。守秘義務等も含む約束事や支援方針について、最初にきちっと話し、了解を得てから仕事に取り組んでいます。――反対に、ご自身も発達障害の当事者であることが役立つこともあるのでしょうか。難波: 忘れ物対策や、怒りの感情のコントロールを支援するときは、すごく役に立っています。また、僕自身が服薬していると話しているので、薬への抵抗感が強い人にも、試してみるという選択肢を増やすことができているかなとは思います。療育を受けているお子さんの保護者さんからすると、僕自身が「こうやって乗り切ってきた大人がいる」という一つの希望にもなるかもしれないですね。――たしかにそうですね。どんなときに仕事のやりがいは感じますか?難波: えーっと、「やりがい」っていうのは正直あまりなくて、基本的にはプレッシャーばかりです。相手の人生を背負っているわけですし、大学院生のときからこの道一本で、他の仕事は多分就けないだろうと思っているので、1回1回が勝負という気持ちでやっています。でも、僕は発達障害や障害のある人たちの療育・カウンセリングに、パズルを解くような楽しさを感じるんです。何か困りごとがあってクライエントさんは来るわけなので、その問題をどうすればその人たちが面白く、楽しくできるか、パズルを解くように考えていく。それで、うまく支援を組み立てて実行できると楽しいんです。そうやって、どんどん来るパズルのピースを解きまくっているような感覚で...。それが、やりがいと言えばやりがいなのかもしれません。できないことはできないから、福祉的な支援を借りる――毎回真剣に仕事に取り組みつつ、そういった楽しさも味わっているのですね。少しプライベートな話になってしまいますが、現在難波さんはご結婚されていて、パートナーの方もASDの診断を受けていると著書で書かれていますよね。パートナーシップに関して意識していることがあればお聞きしたいです。難波:気をつけていることがいくつかあって、一つはギブアンドテイクです。自分がした分の見返りを求めるという姿勢は、経験上ダメになりやすいので(笑)、相手がやってくれたことに関して、自分もできることを探してやろうというスタンスでいます。もう一つは、それぞれの人生がある個人として考えること。彼女には彼女の人生があり、子どもには子どもの人生があって、僕はその人生に一緒にいるだけなので、相手の考えや意見を尊重する。自分は自分で、まだまだうまくできませんが、自分のしたいことを言葉で伝えるようにしています。「察して」は、どちらにとってもやっぱり難しいですね。あとは、できないことはできないので、福祉的な支援を借りることでしょうか(笑)。今は、それぞれが訪問看護、病院、カウンセリングなどから必要な支援を受けています。僕は僕で悩みを話すし、彼女は彼女で話すと思うので、主治医が板挟みにならないよう、主治医はそれぞれ違う人にしています。診断時にプライドを捨てることができたからこそ、今はできないことを「できない」と言って助けてもらったり、適切に声を上げたりすることができていると思います。Upload By 姫野桂――適切に声を上げるというと、なかなか難しいですよね。何かコツはありますか?難波:困りごとに応じて、相談相手を変えることですかね。全て同じところに相談したり、相談先を間違えたりすると、適切な支援が受けにくくなってしまうので。問題が出てきたときに、これは福祉の相談支援専門員の人に相談するのか、それとも主治医か、カウンセラーか、親か...などと、妻と話し合って考えるようにしています。「生きやすく生きること」がゴール――このインタビューの読者には、進路や人間関係で悩みを抱えている人もいるかと思います。そんな人に向けて、何かアドバイスをお願いしたいです。難波:僕がいつも発達障害の当事者さんに言うのは「まあ、ほんとによぉ生きとぉわ!」ということです。みなさんがその場に存在していること自体が、僕にとっては嬉しいんです。苦しさや不安を抱えながら生活している人も多いと思うので、そんなときは、藁にもすがる思いで相談したり、しんどさを打ち明けたりしてもいいんだよ、と伝えたいですね。これから頑張ろうと思っている人たちには、チャレンジをやめないでほしいです。僕も30歳で、他人の感情がわかりにくいと言われるASDの診断が下りましたが、それでも心理士を続けています。僕は周りに「(心理士は)無理じゃない?」と言われ続けてきましたが、結果がどうなるかはわからないことだったとしても、自分がやりたいことには、まずはチャレンジしてほしいなあと思います。あとは、「いい会社」「いい学校」に入ろうとするのではなく、自分が大切にされる場所を選んでもらいたいですね。理想を掲げるのはいいのですが、居場所がないことも実際はあるので...大切にされない思いをしてまでそこに行くというのはちょっとおすすめできません。これは、すでに働いている人たちにも言えることですが、自分の居場所になりそうな場所を考えて動いていってもらえたらいいなと思います。就職しても、進学しても、なんとでもなりますよ。ちょっとでも無理だと思ったら、二次障害になって調子が悪くなる前にさっさと辞めてしまったらいいと思います。人生はいろんな選択肢があって、いろんな生き方ができるから、「こうでなくてはいけない」というものはないと伝えたいです。働くこと、進学することがゴールではなくて、生きやすく生きることがゴールだと思うので。自分なりに納得した生き方をすることを、応援したいと思っています。――では最後に、今後の目標を教えてください。難波:理想としては、当事者ファーストの支援ができたらと思います。日々、困っている人たちの最前線で寄り添いながら、講演会や啓発活動、カウンセリングなどの活動をしていきたいです。「ありえへんことが、ありえる」のがこの発達障害じゃないですか。いろいろな当事者さんが社会に出て行って、「別にいいじゃん」「みんな一生懸命生きてるじゃん」「君は君でいいじゃん」と受け入れられて、生きやすく生きることが社会で実現するような流れになったら、僕の出番はなくなるかなあと思います。僕はこんなぐちゃぐちゃした人生ですが、行き着いたところが心理士なので、なんとかやれるところまでやってみたいなと思っています。あとは、いつかテレビに出てみたいですね(笑)。Upload By 姫野桂終始、穏やかな語り口で、時折冗談も交えてお話をしてくれた難波さん。「仕事にやりがいがない」と言われると、「なぜその仕事を続けているの?」と疑問を持つこともあるかと思いますが、難波さんの場合は、やりがいとはまた違う仕事の面白さを感じているとのことでした。このお話からは、難波さんならではの思考と特性が見えた気がします。難波さんの話すとおり、身を守りつつチャレンジしていく精神を、わたしも持っていたいと思ったインタビューでした。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月20日