アルビレックス新潟からドイツに渡り、ハンブルガーSVではキャプテンも務めた、酒井高徳選手。帰国後はヴィッセル神戸の主力としてプレーし、昨シーズンは全試合に出場した。現在、なでしこジャパンフィジカルコーチとして活躍する大塚慶輔氏は、酒井選手がアルビレックス新潟ユース時代からの付き合いで、パーソナルコーチとして10年以上、サポートを続けている。先頃、大塚氏が代表を務める株式会社ライフパフォーマンスと一般社団法人日本アスリートフード協会が、『スポーツコンディショニング推進委員会』を設立した。両社が長年培ったコンディションサポートの知見を活かし、10代を始めとするジュニア・アスリートのパフォーマンスを高めることを目的とした『ジュニア・アスリートサポーター養成講座』を開講する運びとなった。そこで今回は酒井高徳選手と大塚氏に「サッカーに必要なコンディショニング」について、理論と実際の取り組みを話してもらった。(取材・構成鈴木智之)【PR】アスリートサポーター(ジュニアアスリートサポーター)の詳細はこちら>>■年代別代表で芽生えた想い――酒井選手は子どもの頃から「絶対にプロになるんだ!」と強い気持ちを秘めていたそうですが、その背景にはどのようなことがあったのでしょうか?酒井:一番は、プロになって親に恩返ししたいという想いです。当時から、プロになる以外の選択肢は自分にはないと思っていました。もうひとつは、年代別の日本代表を経験させてもらって、海外の選手と対峙できたことです。当時から、「早くこっち側(海外)の人たちとサッカーがしたい」と思ったんです。アルビレックス新潟ユースの先輩の中にも、年代別代表を経験した人がいたので、その人たちに近づかなければ同じステージには立てないんだなと思って、日々を過ごしていました。大塚:対談の1回目でも話したけど、当時から、その覚悟はすごいものがあったよね。酒井:年代別代表に選ばれたときに、「どうすれば海外の選手たちに勝てるんだろう」と感じて、日本に戻ってきてトレーニングをして、また海外に行くことを繰り返していました。その過程で、自分の基準が少しずつ上っていきました。高校生のときから危機感を持って、高い目標を持てたのは良かったと思います。大塚:高徳選手の言う通りで、「三つ子の魂、百まで」ではないですが、プロになる前に、自分に何が必要なのか、何が大事なんだということを、選手自身が学ぶ必要がありますし、それがあるからこそ上を目指すことができるんだと思います。【PR】アスリートサポーター(ジュニアアスリートサポーター)の詳細はこちら>>■戦うことの重要性――アルビレックス新潟ユースからトップチームに昇格し、21歳でドイツに行くわけですが、フィジカル面も含めて、最初から通用した手応えはありましたか?酒井:僕以外に、海外でプレーする日本の選手の発言を聞いても、「やっぱりそうだよね」と感じるぐらい、日本人のテクニック、技術面は通用するんです。でも、技術的に上手い選手は世界にゴロゴロいるわけで、ドイツはとくにそうなんですけど「戦う」ことがすごく大切で、インテンシティをどれだけ出せるかが重要視されます。インテンシティを体現することの重要性を、ドイツに行った当初はわからなくて「自分の方がうまいじゃん。全然通用するな」と思っていたのですが、いざ試合に出ると発揮できませんでしたね。大塚:ドイツに行った頃は、よくそういう話をしていたよね。「練習では通用すると思っていたことが、試合では通用しなかった」って。酒井:違いを感じたのがフィジカル面で、Jリーグにいた頃はフィジカルが強い方だと思っていたんです。だからドイツでもやれるだろうと思っていたのですが、いざプレーしてみると、子どものように扱われました。腕一本で体を抑えられて「クソっ」と思いながらボールを奪いに行ってもびくともしない。単純にアスリートとしての能力に雲泥の差があるんだなって、ドイツに行って痛感しましたね。大塚:高徳選手がすごいのは、そこで逃げずに、課題に立ち向かってクリアしたこと。最初は足りなかったけど、しっかり取り組んで体を作っていけば、ブンデスリーガで長い間、主力としてプレーできるんだと証明できたのは、僕の中でもすごく大きな出来事でした。■自己主張や自己判断の力をつける――今回『ジュニア・アスリートサポーター養成講座』を開講しましたが、ジュニアのときから良い習慣をつけて、良い取り組みをすることの大切さはどう感じていますか?大塚:世の中にたくさんの情報がある中で、どれが自分の子どもにとって必要なのか。正しい知識はどれなのかと、精査できない人が大半だと思います。その方々に向けて、高徳選手を始め、長年トップアスリートをサポートしてきた実績から導き出した、正しい情報をお伝えしたいです。情報を得ることで、親子間でコミュニケーションが生まれますよね。僕は子どもたちを指導するときに「習ったことを、自分の口で保護者に伝えよう」と言っています。食事についても、選手から保護者に話をして「こういう理由で、こういうものを食べたいから、こういうものを作ってほしい」と、家族間で積極的にコミュニケーションをとってもらえたらと思っています。酒井:自己主張や自己判断力を、子どもの頃から身につけるのはすごく大事なことですよね。自分のことを管理できる人はステータスの高い人間だと、僕はいまになって思います。それを早くから学ぶことができるのは、素晴らしいことですよね。大塚:自己管理の話でいうと、高徳選手は「自分のコンディションやパフォーマンス向上のために、お金と時間を使う選手がすごく少ない」と言っているよね。それは自己投資の大切さや方法を知らないからであって、子どもの頃から、プロになって、長く活躍するために当たり前のことなんだと理解していれば、コンディションやパフォーマンスに対して、より真摯に向き合う人が増えると思っています。酒井:ドイツにいた頃は、体をケアする器具を買ったり、練習以外の時間でスポーツジムに行ったりと、時間とお金を費やす選手をたくさん見てきました。サッカー選手ができることって、時間とお金を犠牲にして、自分のパフォーマンスを上げることしかないわけです。楽をしようと思えばいくらでもできるのですが、そうせずに自己投資をして、パフォーマンスアップに取り組む選手が多く、その結果、大成した選手をたくさん見てきました。自分の経験を振り返ってもそう感じているので、目標を達成するために、お金や時間をある程度費やすのは、必要なことだと思います。■トップアスリートのコンディショニングをすべての人に――酒井選手も高校時代のベース作りがあったからこそ、プロ入り後、すぐに活躍できたわけですよね。酒井:そのとおりで、高校3年間は自分が選手として大きくなった時期です。その体験がなければ、いまの自分はないと断言できます。大塚:プロ選手の成果は、ピッチでベストのパフォーマンスを発揮することです。子どもたちの成果は、試合に勝つ、大会で優勝する、プロになることではなく「自律すること」だと思ってます。サッカーやスポーツを通して、目標のために自分を律して、目標達成を目指して取り組む過程が大切で、自律を促すきっかけのひとつとして、生活習慣やコンディショニングに目を向けてもらえたらと思っています。酒井:たしかに、そうですね。大塚:僕らのビジョンに『トップアスリートのコンディショニングをすべての人に』があります。今回の『ジュニア・アスリートサポーター養成講座』を通して、高徳選手とともに、長年かけて研ぎ澄ませたエッセンスを伝えられたらと思っています。そうすることで子どもたちも、高徳選手と同じベクトルでプロサッカー選手を目指してるんだ、繋がっているんだと感じることができると思うので、保護者の方々に正しい情報を啓蒙していきたいです。<第3回に続く>【PR】アスリートサポーター(ジュニアアスリートサポーター)の詳細はこちら>>
2022年04月12日アルビレックス新潟からドイツに渡り、ハンブルガーSVではキャプテンも務めた、酒井高徳選手。帰国後はヴィッセル神戸の主力としてプレーし、昨シーズンは全試合に出場した。現在、なでしこジャパンフィジカルコーチとして活躍する大塚慶輔氏は、酒井選手がアルビレックス新潟ユース時代からの付き合いで、パーソナルコーチとして10年以上、サポートを続けている。先頃、大塚氏が代表を務める株式会社ライフパフォーマンスと一般社団法人日本アスリートフード協会が、『スポーツコンディショニング推進委員会』を設立した。両社が長年培ったコンディションサポートの知見を活かし、10代を始めとするジュニア・アスリートのパフォーマンスを高めることを目的とした『ジュニア・アスリートサポーター養成講座』を開講する運びとなった。そこで今回は酒井高徳選手と大塚氏に「サッカーに必要なコンディショニング」について、理論と実際の取り組みを話してもらった。(取材・構成鈴木智之)【PR】アスリートサポーター(ジュニアアスリートサポーター)の詳細はこちら>>■生活習慣を見直すことで、パフォーマンスが向上――まず『ジュニア・アスリートサポーター養成講座』について聞かせてください。大塚:サッカーに限らず、様々なスポーツでプロを目指している子はたくさんいます。子どもたちをサポートをする保護者に向けて、本当に必要な情報を提供するために、この講座を作りました。私はJリーグのフィジカルコーチとして17年間活動し、酒井高徳選手を始め、トップレベルのアスリートのパーソナルサポートをしています。その中で、とくに大切だと感じたのが「生活習慣」です。そこを見直すことで、選手のパフォーマンスが向上していく様子を間近で見てきました。今回は高徳選手と対談することで、世の中の人たちに啓蒙できればと思い、この場を設けさせていただきました。酒井:僕が大塚さんに出会ったのは、アルビレックス新潟ユースの頃なので、10年以上の付き合いになりますね。コンディショニングやパフォーマンスアップの指導をしていただいたおかげで、Jリーグやブンデスリーガでプレーできました。自分のキャリアを振り返ると、大塚さんとの取り組みが結果として現れていて、コンディショニングを含めた生活習慣の重要性はとても大きなものだと感じています。大塚:だいぶ長い付き合いだよね。酒井:コンディショニングに関して、専門的に取り組み始めたのが21歳の頃だったので、もっと早い時期、それこそ小学生ぐらいから目を向けていれば良かったなと思います。なので大塚さんの取り組み(ジュニア・アスリートサポーター養成講座)はすごく良いものだと思いますし、子どもたちの発育発達に通じるところがありますよね。保護者の方や子ども自身が、早い段階で正しい知識を得ることができるのは良いことだと思います。■プロになるとは、独り立ちすること――大塚さんにうかがいますが、酒井選手とともに、どのような取り組みをしてきたのでしょうか?大塚:サッカー選手が1日の中でトレーニングしている時間は2、3時間です。そこはクラブの管轄なので、タッチすることができません。我々としては、トレーニング以外の時間をいかにしてサポートできるかに重点を置いて、栄養士やドクター、トレーナーとチームを組んで、包括的にサポートしてきました。これは決して押し付けではなく、高徳選手自身が「自分はこうなりたい」「このレベルに到達したい」という目標があり、そのために「いまはここが課題だ」「ここを向上させるにはどうすればいいんだろう?」と感じているところに、我々がアプローチしていく形です。睡眠や栄養などのコンディション面だけでなく、フィジカルやモビリティ向上のトレーニングまで、様々な角度からサポートしています。酒井:そもそもの話をすると、アルビレックス新潟ユース時代に、プロを目指す上で体を作らなくてはいけない、プロで戦える体ってなんだろうと考えることからスタートしました。当時から大塚さんには、体のことや生活習慣など、様々な面で指導をしてもらっていました。その経験があって、コンディショニングにより目を向けるようになりました。自分で言うのもなんですが、トップに上がったときに、フィジカル面で引けを取らない形でスタートできたのは、ユース時代のベース作りがあったからだと思います。自分がプロの世界に入ったときに、あらためて「高校3年間、上を見据えて指導してくれていたんだ」と気がつきました。大塚:僕は育成年代を含め、たくさんの選手を見てきましたが、高徳選手の「覚悟の量」はケタ違いだと感じました。高校1年生の頃から「自分は絶対にプロになるんだ。そのためにはどんな努力も惜しまない」という気持ちが強かった。ユースに所属していたので、間近にトップチームの選手がいる環境だったのですが、自分から積極的に話しかけに行ったり、練習で2人組を作るときも、必ず上手な選手と一緒にやったり。プロになるんだという信念と覚悟は、図抜けたものがありましたね。酒井:面と向かって言われると恥ずかしいですね(笑)。大塚:その延長線上に、「ヨーロッパで活躍したい」「世界で通用する選手になりたい」という気持ちがあって、アルビレックスからドイツへとステップアップしていったわけです。21歳でドイツに足を踏み入れて、最初は通用するレベルじゃなかったかもしれないけど、厳しい環境でさらに自分を成長させていった。その道を選ぶ意思、覚悟の強さが、高徳選手が伸びていった要因のひとつだと思います。酒井:プロになることは、独り立ちすることでもあります。そこで解き放たれて、自分の好きなことをするのか。それともプロとして、一流を目指して取り組むのか。その分岐点がある中で、僕は自分を高めることを選んできました。僕が新潟でプロになった頃、大塚さんは別のクラブにいたのですが、個人的に連絡を取って、パーソナルという形で見てもらうようにお願いをしました。大塚さんとスタッフの方々と「世界で通用する選手になるためには、こうならなくちゃいけない」という目標を掲げてやってきましたし、僕自身、「海外で活躍するためにはなんでもやるぞ」というモチベーションで取り組んでいました。■酒井高徳の取扱説明書――ドイツでプレーするにあたり、具体的にどういう取り組みをされたのでしょうか?酒井:生活面では、食事の管理、体重、体脂肪、睡眠の管理です。食事は試合から逆算して、いつ何を食べるかを、試行錯誤しながら作り上げていきました。具体的には、試合の2日前から炭水化物を中心に、体にエネルギーを貯めるような食べ方をして、試合後すぐに、オーツミルクとプロテインと甘酒をミックスしたものを飲みます。それから食事をして、翌日は疲労回復や免疫の回復に効果がある物を食べます。基本的には自分の体と対話をしながら、食べ物を選ぶようにしていました。大塚:食べ物やリカバリーの内容などは、選手によって少しずつ変わります。それが「酒井高徳の取扱説明書」のようなもので。酒井:まさにそうですね。僕の場合、ドイツにいた頃は、試合前におにぎりやフルーツを食べていたのですが、日本に帰ってきてからは、少し空腹の方がパワーが出やすいように感じたので、試合会場でバナナを半分だけ食べています。食事の内容は、年齢とともに変わりましたね。大塚:ドイツの頃は、リカバリーの方法も試行錯誤していたよね。基本的に、試合後はホテルに泊まらず、バスに乗って何時間もかけて家に帰るわけで。試合後の移動でどうやって睡眠をとるかを考えて、クッションをいろいろ試したり、リカバリーウェアを着るのが嫌だったので、ブランケットタイプを使ったり。酒井:ドイツの頃は年間で50試合以上、多いときは60試合近く出ていました。毎日が試合の連続なので、とにかくリカバリーが重要なんですね。それに加えて日本代表の試合もありました。日本で試合をして、深夜の飛行機でドイツに戻って、中2日で試合をして、翌月も同じスケジュールとか。それを8年ぐらいやりました。大塚:リカバリーの方法は、細かいところまで相談したよね。酒井:かなり大変な思い出として残っています(笑)。そのおかげもあって、僕はこれまで、ケガやコンディション不良で欠場したことがほとんどありません。日本に戻ってきてからも、昨シーズンは全試合に出場しました。連戦に耐えられるケアや準備を続けているからこそ、試合に出続けることができているんだと思います。■『チーム酒井高徳』としてサポート――リカバリーに関して、トレーニング面では、どのようなことをしていたのですか?酒井:試合間隔が中2日なのか、3日なのか、夏か冬かによっても変わってくるのですが、基本的に試合の翌日は有酸素運動をして、疲労はあるけど、体が気持ちいいと感じる強度で動かしていました。あとはその時々で、気になる箇所のストレッチやモビリティのトレーニングですね。怪我に繋がらないために、筋力的な刺激を入れる部分と、全く使わないでしっかり休ませる箇所を分けて取り組んでいました。グラウンド外では交代浴をしたり、睡眠の質を上げるアイテム使って、睡眠時間を記録していました。大塚:考え方として、試合直後からリカバリーは始まっています。プレー中以外の、すべての時間をリカバリーに使うぐらいの気持ちです。酒井:本当に、生活のすべてですもんね。食事も睡眠も生活リズムも、メンタル面も含めてのリカバリーなので。そのなかでも生活習慣は大切で、奥さんと一緒に大塚さんの話を聞いて、食生活も実践しましたし、筋トレやモビリティのトレーニングでは、動画を送ってもらい、見ながらトレーニングしていました。『チーム酒井高徳』として、いろんな人にサポートしてもらったからこそ、連戦の中で疲れない体作りができて、ピッチで良いパフォーマンスが発揮できたと思っています。<第2回に続く>【PR】アスリートサポーター(ジュニアアスリートサポーター)の詳細はこちら>>
2022年04月05日酒井法子今から12年前の8月2日、のりピーこと酒井法子(50)の夫(当時)が職務質問を受け、翌日に覚せい剤取締法違反で逮捕された。彼女も任意同行を求められたが、「子どもを預けているので、あとで行きます」と答え、そのまま失踪。所属事務所は彼女が自殺するのではと危惧し、そのスタンスで会見を開いた。それゆえ、世間は当初、彼女に同情的だったが──。8日には彼女も覚せい剤取締法違反で逮捕されてしまう。いわゆるクスリを抜くための逃亡を疑われることになった。■事務所が冷静さを失っていた理由ではなぜ、事務所は彼女もクスリをやっている可能性を考えなかったのか。相澤秀禎会長(当時)が週刊誌でこんな話をしている。《うちには岡田有希子のこともあるし、法子を担当していた溝口マネージャーが自殺した過去もある…》アイドルだった岡田さんは1986年に自殺。直前まで相澤の自宅に下宿していたが、その部屋を譲られたのが後輩の酒井だった。また、2000年に自殺した溝口マネージャーは岡田さんも担当していた。事務所はその連鎖が、酒井にも及ぶことを恐れたわけだ。さらにいえば、酒井の父は暴力団の元組長で、娘のデビューを機に足を洗ったが、その2年後に交通事故死。そのとき、相澤は「幼いころから里子に出されたり、複雑な家庭環境だったので(略)法子の親代わりをやらなければいけないと決心した」という。そんな「親心」も冷静さを失わせたのだろう。■同じ日に起きた押尾学の事件酒井は執行猶予つきの有罪判決を受け、事務所からは契約解除。いわば「勘当」の身となった。’13年には『さんまのまんま』(フジテレビ系)に出演するなど、芸能活動も再開させたが、本格的な活躍はできていない。そこには、この事件で彼女のイメージが激変したうえ、同じ日に起きたもうひとつの事件も関係している。当時俳優だった押尾学が愛人とともに違法薬物を使用し、死亡した愛人を置き去りにした事件だ。これだけの有名人ふたりが同時にクスリ絡みの事件を起こすというのも、何か怪談めいている。こうした一連の経緯によって、世間もメディアも今の彼女をどう扱っていいのか、何を求めていいのかがわからなくなっているわけだ。例えば、彼女は一昨年『THEカラオケ★バトル』(テレビ東京系)に出演。代表曲『碧いうさぎ』を歌った。アイドル時代の代名詞でもあるのりピー語で「がんばるピー」などとコメントさせられていたが、もうそんなイメージでもないだろうにと気の毒になった。最近は個人事務所を設立して、ユーチューバーとしてもデビュー。写真誌でセクシーグラビアに挑戦したが、こういう熟女路線も何か違う気がしてしまう。本人もそれを感じているのか、「グラビアのお話をいただいたとき“私でいいんですか?”と不安でした。セクシーなものを望まれても、どこまでできるか……」と、コメント。正直なところ、自分の需要については疑心暗鬼なのではないか。筆者にとっては、35年前『モモコクラブ』(TBS系)の取材で彼女を見かけたときのアイドルっぽくない暗い表情が印象に残っている。そういうところが薄幸なヒロイン役などにはプラスに働いたのだろうが、事件後は似合う役が思いつかない。ただ、大ヒット作『ひとつ屋根の下』(フジテレビ系)くらいは、もっと普通に再放送されてもいいように思う。あの中の彼女なら今も求められている、はずだ。PROFILE●宝泉 薫(ほうせん・かおる)●アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。近著に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)
2021年08月05日酒井さんが手がけた“アイドル第1号”南沙織やその夫・篠山紀信とは晩年まで親しかった「“亡くなった”と発表された前の日、酒井さんをよく乗せていたというタクシー運転手さんが訪ねてきたんです。“急に連絡が来なくなったんだけれど、どうしたのか知りませんか?”って。入院したことも知らなくて」(自宅近隣の住民)青山和子、フォーリーブス、郷ひろみ、南沙織……数多のスターを発掘した“伝説の音楽プロデューサー”酒井政利さんが7月16日、85歳でこの世を去った。「5月に見かけたときは、まだお元気そうでしたけどね。いつもお忙しそうで夜中にタクシーで帰っていらっしゃってね……。ご家族?いやぁ、おひとりだったと思いますよ」(前出・住民)酒井さんを四半世紀にわたって支えてきた同事務所音楽プロデューサーによれば、当初は「検査入院の予定だった」という。「酒井はアレルギーの持病があって。とはいっても食欲がなくなったり肌がかゆくなったりする程度なんですが、毎年体調を崩すので、5月の終わりごろにその予防として病院へ入ったんです。ところが16日の朝、病院から“様子がおかしくなった”と連絡があって病院へ駆けつけました。いったんは落ち着いたんですが、夕方また容体が悪くなって……。心不全でした」■メディアミックスの先駆け酒井さんは昭和歌謡黄金時代だった1960~1970年代を駆け抜けた生粋の業界人。大学卒業後、松竹に入社したものの1年もたたないうちに音楽業界に転じると、メキメキと頭角を現した。酒井さんの最初のビッグヒットは1964年、青山和子の『愛と死をみつめて』。160万部の大ベストセラー小説と同じタイトルをつけ“オマージュ”したこの曲は、その年の日本レコード大賞を受賞した。「小説とはなんの関わりもなくて、酒井さんが読んで感動したから勝手に曲にしただけなのに、ちゃっかり“乗っかって”ね(苦笑)。マスコミを上手に使って、ド新人の南沙織を沖縄から連れてきて『17才』でスターに仕立て上げたかと思えば、ベテラン歌手を次々復活させて」(レコード会社時代の元同僚)ジュディ・オングの『エーゲ海のテーマ~魅せられて』は、その集大成的な大ヒット曲になった。ダブル・ミリオンを達成し、酒井さんは2度目のレコ大をとる。「この曲も、名作映画『エーゲ海に捧ぐ』の“便乗商売”でしたけれど、今では誰もが使う販促手法“メディアミックス”の先駆けだったともいえます。“売れる”ものへの嗅覚と“売る”アイデアは誰も彼に敵わなかった」(前出・元同僚)そんな酒井さんが世に送り出した“最高傑作”が山口百恵だ。デビューから1980年に電撃引退するまでの8年間、文字どおり二人三脚でヒットを連発。当時の酒井さんをよく知る音楽関係者が振り返る。「宇崎竜童、阿木燿子夫妻をブッキングして『横須賀ストーリー』『イミテイション・ゴールド』『プレイバックPart2』を歌わせたかと思えば、谷村新司を口説いて『いい日旅立ち』を書かせて。レコードのジャケット写真は大御所写真家の篠山紀信に依頼したりね。酒井さんはいろんなところに顔が利いて、一流どころのスタッフを集められた。百恵さんが伝説的なスターになれたのは、酒井さんの力があったからなんです」だが、華々しい実績の一方で、音楽業界内外での酒井さんの評判は決して芳しいものばかりではなかった。「正直、酒井さんは音楽や曲作りに関しては素人同然だったんです。だから“手がけた”と言っている曲のほぼすべて……百恵さんの曲だって“誰かにやらせていただけ”ともっぱらです。それなのに手柄を全部、自分のモノにしちゃう。デヴィ夫人を“芸能界のパラサイト”なんてこき下ろして大ゲンカしてみたり、歌手志望の若い男性から“セクハラ訴訟”を起こされたり、音楽と関係ないことでもトラブルを起こすから、周囲の人間もだんだん離れていってね」(前出・元同僚)■どこまでが本当でウソかわからない先の音楽関係者も手厳しい。「酒井さんの話は、どこまでが本当でどこからうそかがわからない。“天地真理や松田聖子、キャンディーズやTUBEも私が育てた”とも言っていたけれど、実際はいっさい関わっていませんからね。だから、部下や制作現場からは総スカンを食っていたんですよ。テレビや雑誌でペラペラとしゃべっていたアーティストたちとの昔話も、正直、どこまでが本当なのか……。ただ、誰に対しても優しく紳士的で、いつでも“ネタ”を提供してくれるから、マスコミ関係者からの評判はよかったのは皮肉な話ですが(苦笑)」それに怒ったのが、誰あろう百恵だった。「引退後、自分とのオフレコ話をマスコミに漏らすばかりか、ありもしない話まで、さも真実かのようにしゃべってしまう酒井さんに、百恵さん側は何度も“やめてほしい”とクギを刺した。でも、酒井さんはそんなのどこ吹く風で。レコード会社退社後は、それが酒井さんの“飯の種”になっていましたからねぇ……」(音楽専門誌編集者)かつて写真誌に百恵の“ヌード写真”が流出した際も、“流出の犯人では?”と酒井さんに疑惑の目が向けられたことまであった。「我慢を重ねた百恵さんも、とうとう絶縁したんです」(同・音楽専門誌編集者)ジュディ・オングら多くの関係者が追悼メッセージを送る中、たしかに百恵は“芸能界の父”ともいえる大恩人の訃報にも沈黙したまま……。■りえの“自殺未遂”を言いふらした宮沢りえもまた、酒井さんとは疎遠になってしまったひとりだ。ある雑誌のインタビューで酒井さんは《(りえの)デビュー曲を考えたとき、頭に浮かんだのは「小室サウンド」》と小室哲哉に楽曲制作を依頼したのは自分であるかのように語っていたが、「ありえないです(苦笑)。りえさんが歌手デビューした当時、酒井さんは現場から完全に離れていましたから。ただ“りえママ”ことお母さんの光子さんと仲がよかったのは事実」(前出・元同僚)だがそれも、「1994年にりえさんが京都のホテルで起こした“自殺未遂”を言いふらしたことがバレて、関係が切れちゃった。いま思うとかわいそうな人でした。芸能界という、つくられた世界にずっといて“自己演出”がやめられなくなってしまったのかなぁ。“セクハラ訴訟”のこともあって“酒井さんは同性愛者だ”なんて噂もありましたけど、それすら演出だったのかも。“26歳のときに高校の同級生と結婚して、子どもに孫までいる”なんて話を酒井さんがポロッと口にしたことがあったし」(同・元同僚)冒頭の音楽プロデューサーに「孫がいる」という本人の言葉をぶつけてみた。「それは冗談ですよ……とは思いますが」最後まで虚構と現実のはざまを生きた人だった。
2021年07月27日山口百恵さん(左)と藤圭子さん(右)「百恵さんは歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」かつて筆者の取材に対し、そう語っていたのは音楽プロデューサーの酒井政利さん。山口百恵さん(62)や郷ひろみ(65)、松田聖子(59)らを担当した希代のヒットメーカーだが、7月16日に心不全のため都内の病院で逝去した。85歳だった。筆者が初めてお会いしたのは30年以上前。以来、昨年までアイドル論や歌謡曲論を繰り返し教えてくれた。その一部を再録したい。(文/高堀冬彦)■百恵さんのデビュー曲にフォークソング調が選ばれたワケ酒井さんは350人以上のアーチストを担当したものの、中でも百恵さんは思い出深かったようだ。「初めて百恵さんとお会いしたのは彼女のデビュー前の1973年でした。礼儀正しく真面目な人でしたね。それは1980年の引退時までずっと同じでした」出会ったときの百恵さんはまだ13歳。だが、既にプロ意識を感じたという。百恵さんは自分と5歳年下の妹を女手1つで育ててくれていた母親に楽をさせたくて歌手になったことで知られる。それも背景にあったのだろう。「いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのを覚えています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」ただし、酒井さんたちは売り出しには苦労した。「デビューした当初は音域がやや狭かった」からだ。このため、1973年5月デビュー曲にはフォークソング調の『としごろ』を用意した。「あの歌は音域が狭くても歌えるのです。もっとも本人が積極的にレッスンを受けてくれて、すぐに音域を広げましたけどね」それを見極めた上で酒井さんが2枚目に用意したのが同年9月の『青い果実』だった。10代の性をテーマにした際どい歌詞だったが、百恵さんは躊躇せずに歌った。これにもプロ意識を感じさせたという。未だ人気がある百恵さんの最大の魅力は何なのか。この問いに酒井さんはこう答えた。「光と影の両面を持つ人であるところです」高い歌唱力を持っていたし、哀愁ある低い声も魅力的だったものの、光と影があったから伝説の人になったと解説した。「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増すんです。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合います」たしかに百恵さんは歌う楽曲の幅が広かった。阿木燿子さん(76)が作詞し、夫の宇崎竜堂(75)が作曲した『乙女座 宮』(1978年)や同じ夫妻がつくった『しなやかに歌って』(1979年)、などは明るく軽快。光を思わせた。山口百恵一方、さだまさし(69)が作詞・作曲した『秋桜』(1977年)や谷村新司(72)による『いい日旅立ち』(1978年)などは哀感に満ちていた。影を強く感じさせた。さまざまな楽曲を歌えた理由はほかにもある。「大変な努力家だった」という。「新曲のレコーディングの際、『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていました」音楽的センスも良かった。百恵さんは阿木さん、宇崎さんの楽曲で数々のヒットを飛ばしているが、2人の起用を提案したのは百恵さん自身だった。「あるとき、私のアシスタントに対し百恵さんが『きのうの夜、(宇崎さんがリーダーの)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウンタウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、さっそく宇崎さんに連絡を入れたのでした」あとになって酒井さんは気づいた。「百恵さんは、阿木さんと宇崎さんに楽曲をつくってもらいたかったから、アシスタントにダウンタウンの話をしたんです。百恵さんは出しゃばるようなことをしない人でしたから、間接的に自分の考えを伝えたんですよ」阿木・宇崎夫妻による第1弾『横須賀ストーリー』(1976年)は記録的ヒットになった。「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横須賀でも横浜でも良かったんですけどね(笑)」その後、百恵さんは引退。人気絶頂時の1980年のことで、活動期間は僅か8年。まだ21歳だった。酒井さんはさぞ残念だったのではないか。「いいえ。残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」この言葉に偽りはなかっただろう。酒井さんは誰にもやさしい人だった。だからアーチストが直接プロデュースを頼んできたこともある。8年前に62歳で亡くなった故・藤圭子さんもそうだった。■「天才だった」藤圭子さん藤さんは1979年に1度は芸能界を引退したが、1981年に藤圭似子の名前で復帰すると、酒井さんにプロデュースを依頼した。「すべてお任せします」藤さんはそう言ったが、結局ヒットは出なかった。1974年に喉のポリープを切除し、魅力だったハスキーボイスが失われていたことが大きな痛手となった。「でも天才でした。デモテープを一度聴かせるだけで、すぐに歌をおぼえてしまった。しかも絶対に音をはずさなかった。驚きましたね。類い稀なる才能の持ち主でした」それから約8年後、藤さんの愛娘・宇多田ヒカル(38)が5歳になるころ、酒井さんは母娘とアメリカで会った。その時、藤さんが「この子は天才なのよ」としきりに訴えるので、「意外と親バカなんだな」と内心で笑っていたという。だが、藤さんの言葉は本当だった。「天才には天才が分かるんですね。恐れ入りました」酒井さんはまだプロデューサー業を続け、昭和のアイドル、歌謡曲を語るつもりだった。酒井さんの最初の大ヒットは前回の東京オリンピックと同じ1964年に発売された『愛と死をみつめて』(歌・青山和子)。このため、酒井さんは「次のオリンピックまでは頑張りますよ」と口癖のように言っていた。だが、その直前に惜しまれつつ逝った。高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立
2021年07月20日’90年代より、雑誌『anan』に恋愛特集や「一人で生きる方法」「運のつかみ方」などのテーマで多くのエッセイを寄稿している、エッセイスト酒井順子さん。『anan』創刊から2000号までを分析した1年半の連載を1冊にまとめた書籍「ananの嘘」の文庫版が出版された機会に、いままでとこれからの『anan』についてうかがいました。『anan』の創刊から今まで歩んできた道とは?2017年3月にマガジンハウスより刊行された酒井順子さんの著書『ananの嘘』。1970年の『anan』創刊から2016年に迎えた2000号までを振り返り徹底検証した人気連載のまとめです。それに書き下ろしを加えて再構成された文庫版が出版されました。著者の酒井さんに、日本の雑誌カルチャーや女性の価値観の変遷、さらにananが読者とともに悩み葛藤しながら歩んできた歴史について、うかがいました。初期のananは過激だった!?編集部とにかく驚くのが、創刊当時のananの尖りっぷりです。酒井さん’70年代には、ヌードのお見合い写真を掲載したり、セックスに開放的な企画など、「既成概念にとらわれない」、「タブーに挑戦したい」という姿勢で、我が道を歩んでいました。すでにある権威に反発するという時代を表していた雑誌がanan。男性に対しても、「簡単には従わない」「媚びない」など、声を高々と上げて突っ走っていました。編集部時代の流れに乗って尖っていたananに、迷いが生じた時代もあったということですが。酒井さんそれは70年代半ば、いち早くニュートラ(ニュー・トラディショナル)というモテファッションを紹介したことから始まりました。ニュートラをリセ(リセエンヌ、フランスの女子学生風スタイル)の対抗概念として扱い、モテ路線と非モテ路線を並走させることに。両者の間でananは悶々とするのですが、’80年代になると、ananはニュートラに別れを告げ、リセを選んだのです。つまり、男のために生きるか、自分のために生きるかの分かれ道で、「自分のために生きる」という選択をしたということ。これは後の読者にも大きな影響を与える出来事でした。編集部モテを求めるのはやめようと決めたはずのananですが、彼氏が欲しくないわけでも、結婚をしたくないわけでもない…と、悩み続けているうちに、だんだんと時代は変わり、スローライフの’00年代へと突入したというわけですね。’00年代になると、占いやスピリチュアルが登場編集部不景気の大変な時代で、コロナ禍でもないのに「おこもり」というキーワードが出てきたころ。「カフェでまったり」や「節約はしっかり」「スローライフとスローラブ」など、ananはそれまでと同じ雑誌とは思えないほどの変貌ぶりを遂げました。酒井さん皆がギラギラしていたバブルが終わって人々の気が抜け、本当は色々な欲望があるのに、欲望を充足させにくくなってきたころだと思います。例えばセックスしたいという欲望があっても、現実で充足させるのは難しいから妄想で解決する、などのスキルが開発されることになりました。そのころ、恋愛や結婚観も迷走。「鍛えれば絶対強くなるのが恋愛力」などの恋愛企画に、読者は惑わされていました。ニュートラとの決別時、モテのために生きるのはやめようと決めたけれど、とはいえやっぱり恋愛も結婚もしたいと揺れ動くanan。読者と一緒に迷っている姿こそ、ananの魅力だと思います。編集部仕事でも恋愛でも、努力だけではどうしようもない部分がある。そんなジレンマを抱えているとき、江原啓之さんにご登場いただいています。酒井さん江原さんが頼りにされているのは、見えない部分が見えた気持ちにさせて、救ってくれるから。バブル崩壊後、自分ではどうしようもない不景気の中で、それでも何かを掴みたいと思っている読者にとって、スピリチュアルな世界や占いは、ホッとできる逃げ場になりました。誰にも言うことができない悩みでも、ananの占い特集は答えをくれますし、時には親や友達も言ってくれない厳しいアドバイスを、江原さんはくれるわけですよね。仕事も結婚もどうしていいかわからない、と迷子になっている女性たちにとって、占いやスピリチュアルは、心の拠りどころになっているのでしょう。ananがついた“嘘”を楽しんだ読者たち酒井さんananは、「おしゃれグランプリ」という企画で様々な地方の読者のファッションを競わせたり、’80年代には「ハウスマヌカン」(洋服店販売員のこと)やスタイリストなどのカタカナ職業を猛プッシュして、読者にもそう言った仕事を勧めたりしてきました。そうかと思えば路線変更し、「やっぱり結婚したい」と言い出すなど、読者に対して「こうしたほうがいい!」とアグレッシブな提案を次々としてきました。創刊当時から、ananが振る色々な旗を見て、「こんな服を着ればいいのね」とか、「私もハウスマヌカンになりたい」とか、「結婚しようかな」などと、真剣に考えた読者が多かったと思います。ananによって人生が変わった人もいたはずですが、アンアンが「こっちにおいで」と先導していた方向は、必ずしも正しかったとは限りません。でも、今と違って他の情報源があまりなかった時代、ananの発売日を楽しみにしていた読者は多かったことでしょう。その時代を生きた女性たちは、ananに振り回され、騙されることもまた楽しかったのだろうな…と言うことで、「ananの嘘」というタイトルなのです。これからもananは、時代に沿った道を進むのか!?編集部最近では、「高めよう!免疫力」や「半径2メートルのライフスタイル」など、このご時世ならではのタイトルが並んでいます。酒井さん東日本大震災のときでもコロナ禍でも、その環境下でどうやって充実した毎日を過ごそうかと考えているのがanan。何十年も経ち、コロナを知らない若者が現在の企画を見たら、不思議に思うかもしれませんね。即時性のある対症療法的な企画は、雑誌、それも週刊誌ならではのものです。ananが50年もの間、愛され続けているのには、週刊誌ということも大きいのではないかと思います。雑誌は、書籍のようにずっと残るものではないからこそ、その時々の時代にマッチしたことを全力で伝える、刹那的な部分が魅力です。特にananは、すぐに次の号が出る週刊誌だからこそ、セックス特集や読者ヌードの企画など、世間を驚かせるような企画ができるのかもしれません。それはモテとは直結しない、いばらの道かもしれないけれども(笑)、それも自ら選んだ道。編集部創刊当時とは打って変わり、ネットなどの情報が入るようになった昨今。これからのananはどうなると思いますか。酒井さん創刊当時のananからは、社会を変えていこうという気持ちが溢れていました。今も、社会の変革期。女性達の視線を社会的な問題に向けるような特集は、実はananのお家芸です。ファッションの特集や、紙の雑誌だからこそじっくり楽しむことができるグラビア記事の中に、社会的意義を持つ特集も混じると言う硬軟取り混ぜた雑誌作りが、最もananらしいのかもしれませんね。酒井順子(さかい・じゅんこ)1966年、東京都生まれ。高校在学中に雑誌「オリーブ」でコラムの執筆を始め、大学卒業後は広告代理店に勤務。その後、執筆に専念し、2003年に発表した『負け犬の遠吠え』では婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を受賞。近年の著書に『子の無い人生』『男尊女子』『源氏姉妹』『家族終了』『ガラスの50代』『処女の道程』などがある。温かいツッコミを入れつつ、時代背景と特集内容からananの歴史を分析した「ananの嘘」は、アンノン族、ニュートラなど懐かしい言葉が頻出する、親子で楽しめるエッセイでもあります。ぜひ手に取って、過去のananへタイムトリップしてみてください。Information『ananの嘘』 ¥880/マガジンハウス(酒井順子 著)購入はコチラからどうぞ。写真・山本嵩、文・三谷真美
2021年06月21日映画の公開も決定している、はやみねかおる作の人気推理小説シリーズ「都会のトム&ソーヤ」が「ABEMA」で初ドラマ化されることが決定。城桧吏、酒井大地、中川大志、森崎ウィン、玉井詩織、本田翼、市原隼人ら映画キャストが出演、完全オリジナル企画で展開する。一見、平凡な中学生だが、実はものすごいサバイバル能力を持つ内藤内人(城桧吏)は、超巨大企業の御曹司で学校始まって以来の天才と言われる竜王創也(酒井大地)と、“砦”と呼ぶ廃ビルの一室で出会う。創也は「世界最高のゲームクリエイターになり、究極のゲームを作る」という夢を持ち、砦で日々ゲームを作っていた。ある日、伝説のゲームクリエイター集団「栗井栄太」が、謎を解いた者だけがプレイできる新作ゲームを発表。同級生の美晴(豊嶋花)や映画研究部の仲間たちと共に様々な困難を乗り越え、謎を解いていく内人と創也の前に、ついに「栗井栄太」が現れる――。城さん演じる内藤内人と酒井さん演じる竜王創也の対照的なタイプの2人が、“究極のゲーム”を作るため、都会の様々な場所を舞台に推理と冒険を繰り広げていく本作。創也に想いを寄せる同級生・堀越美晴役の豊嶋花、創也のボディーガード・二階堂卓也役の中川さん、天才ゲームクリエイター集団として、市原さん、本田さん、森崎さん、玉井さんが出演。本編配信後には、玉井さん演じるジュリアス・ワーナーが案内人を務める「ジュリアスTV」、そして本作のメイキング映像も配信される。総監督は、映画版で監督を務める河合勇人。監督は吉川祐太と佐々木敦規。脚本は、映画版でも脚本を担当した徳尾浩司と共に、山下すばるも担当する。放送決定にはやみねさんは「楽しいクラスメイトや先生とのやりとり、校内行事――。ドラマを見ながら、ぼくは自分の中学時代を懐かしく思い出しました」とコメントしている。ABEMAオリジナルシリーズ新作ドラマ「都会のトム&ソーヤ ぼくらの砦」は7月16日より毎週金曜日22時~ABEMAにて配信(全8話)。(cinemacafe.net)
2021年06月17日女優で歌手の酒井法子が、15日発売の週刊誌『FLASH』(光文社)の表紙&巻頭グラビアに登場している。酒井は今回、写真家のレスリー・キー氏と「ゴージャスSEXY」なグラビアに挑戦。レスリー氏は「のりピーを撮るのは13年ぶりだけど、写真を見たら、不思議なぐらい自然だったでしょ。僕も撮影していて、事前に考えていたよりもすごい答えが出てきて驚いたぐらい」と語っている。撮影について、酒井は「グラビアのお話をいただいたとき、『私でいいんですか?』と不安でした。セクシーなものを望まれても、どこまでできるか……。でも、レスリーさんが撮影してくださると聞いて、安心して身をまかせられました!」と回顧。「撮影を通じて、私はこうやって皆さんとこだわりながらエンタメコンテンツを作るのが好きなんだって、あらためて思いました。これからも、新しいことにどんどん挑戦したいと思います!」とコメントを寄せている。
2021年06月16日2021年6月2日に、俳優の酒井美紀さんがInstagramを更新。公開された1枚の写真が、ネット上で反響を呼んでいます。酒井美紀が14歳の頃の写真を公開!酒井さんといえば、1996年に放送され、大ヒットとなったテレビドラマ『白線流し』(フジテレビ系)で主演を務め、人気を博した俳優の1人です。2021年6月現在、43歳の酒井さん。同月2日に放送されたバラエティ番組『今夜くらべてみました』で、若い頃の写真が放送されると、ネット上では「懐かしい」といった声が上がりました。酒井さんは、Instagramで『今夜くらべてみました』の感想を述べ、番組で使わなかった中学生時代の写真を公開。番組で使うために昔のお写真を探していたんですけど、番組で使われていない懐かしい中学時代の一枚をこちらで!笑mikisakai.muaーより引用酒井さんが披露した、14歳の頃の写真をご覧ください! この投稿をInstagramで見る 酒井美紀 muaproduction(@mikisakai.mua)がシェアした投稿 酒井さんが公開したのは、体操着に身を包んだ、14歳の頃の写真です。まだあどけない表情ではにかむ酒井さんの姿が、ほほ笑ましいですね。写真に対し、ファンからは「めっちゃかわいい」「今も昔も変わらずきれい」「懐かしい。全然変わらなくてビックリした」といった声が続出しています。酒井さんの若かりし頃の写真を見て、懐かしくなった人もいるのではないでしょうか。やわらかい雰囲気が魅力な酒井さん。今後の活躍も楽しみですね![文・構成/grape編集部]
2021年06月03日陶作家・酒井智也の作品に焦点を当てたフェア「リビングの未確認生命体」が、2021年5月28日(金)から7月1日(木)まで銀座 蔦屋書店で開催される。陶作家・酒井智也のオブジェが銀座 蔦屋書店に集結ロクロと粘土を用い、無意識化に眠るイメージの探究とそれらの意識的な再構築による、唯一無二の作品を生み出す陶作家・酒井智也。本フェアでは、「ReCollection series」シリーズより、「生命を感じる」というテーマで作陶されたオブジェが集結。新作を中心に50点以上が展示販売される。未知なる存在感を放つ“リビングの未確認生命体”酒井が見た景色や情報、アニメ、映画など、様々なイメージが多層的に潜む有機的なオブジェは、足や目が付いていたり、何らかの器官のようなものが体表に出ていたりと、その姿形は様々。共通しているのは、奇抜な造形・色彩でありながら、どこか親しみや懐かしさも介在するユニークな佇まいだ。陶器作品でありながら今にも動き出しそうで、思わず触れてみたり観察していたくなるような、独特の魅力がある。一つ住居に置けば、それはまさに“リビングの未確認生命体”として、未知なる存在感を放ちながら居住空間に新しい風を運んでくれそうだ。開催概要酒井智也「リビングの未確認生命体」期間:2021年5月28日(金)〜7月1日(木)※銀座 蔦屋書店オンラインストアでは5月25日(火)より先行開催。会場:銀座 蔦屋書店、銀座 蔦屋書店オンラインストア【問い合わせ先】TEL:03-3575-7755(営業時間内)
2021年05月28日酒井法子酒井法子本音インタビュー! 事務所独立、ユーチューブ……。「もう一度、奮起したい」新たなステージに挑戦して──■50歳、もう一度奮起したい「電話一本とれるのか、お仕事の依頼をきちんと受けられるのかなど、不安もありました。雛が荒野に立ち、ピヨピヨと巣立つ感じですよ(笑)」5月1日、酒井法子が所属事務所を独立したことを発表した。「4月末で退社し、新しく個人事務所『株式会社スマイル』を設立。前事務所のホームページには、これまでお世話になったお礼など、直筆のコメントが掲載されました」(スポーツ紙記者)新しい道を歩く心境を尋ねると、冒頭のように不安をにじませながらも、笑顔を見せた。酒井は’95年に主演を務めたドラマ『星の金貨』(日本テレビ系)で歌った主題歌『碧いうさぎ』が大ヒット。女優としても歌手としても大きな功績を残したが、なぜ独立しようと思ったのだろうか。「私自身、何か不満があったわけではありません。ただ、40代後半から、この先、芸能界で活動させていただけるのはあと何日くらいなのか考えるようになったんです」月日がたつにつれて、そうした思いが強くなっていった。「今年50歳を迎えるにあたって、もう一度奮起したいと思うようになったんです。年齢もありますし、自分の思うままにやってみたいという気持ちが生まれました」■事務所からも独立し……強い思いを胸に、新しいステージで勝負していくことを決めたのだ。酒井と長らく連れ添ってきた事務所も、そんな彼女の思いを尊重してくれたという。「事務所には1年くらい前に相談し、何度も話し合いを重ねました。“法子がそう思うのならやってごらん”と背中を押していただきました。前の事務所には、8年在籍していましたが、もともと、タレントがいちばんやりたいことに重きを置いてくれましたね」ただ、現在の日本は昨年から感染拡大する新型コロナウイルスの影響で生活様式が一変し、芸能界にも甚大な影響を及ぼした。そうした状況で独立することにためらいはなかったのか。「不安がないわけではありませんが、たとえ世の中が平穏だったとしても、独立することにドキドキすると思います。でも、世の中がこういう状況だからこそ、誰かの笑顔を照らせる光になれたら……という思いのほうが強いんです。これまで歩いてきた中で、私はたくさんの人に助けていただきました。そのおかげで今日があると思っています。私にできることは限られているかもしれませんが、デビュー当時から誰かを笑顔にしたいという気持ちが強いので、みなさんが笑顔になれるような仕事がしたいですね」■何事も一歩踏み出して新たな扉を開けるここ数年の酒井は肩にかかるくらいまで髪を伸ばしていたが、現在はデビュー当時と同じくらいのショートヘアになっている。もしかして、これも新たな船出の一環?「気分転換も兼ねてバッサリ切ったんです。デビューした当時は、ショートで“髪を伸ばしたい”と言っても、事務所の許可が下りなかったことも(笑)。でも、この年になると、誰かに何か言われることもないです。短いほうが私らしいかもしれませんね」独立という大きな決断を下したのは、息子からかけられた“愛言葉”の影響もあった。「息子とはお互い本音で話しています。だから、今回も“応援してくれる人がいるなら、やったほうがいいんじゃない?”と背中を押してくれました。息子は21歳になり、成長を感じるような意見を言うこともあります。彼が成人したことも後押しになりましたね」大人になってからも、親子関係は変わらない。■YouTubeチャンネルも開設「この前、息子から電話がかかってきて、“いま、表参道を歩いてたら、大きいテレビにママが映ってたよ。あのドラマに出るの? (テレビで)ママが俺を見て手を振ってたから、おもしろくてかけちゃった”ですって(笑)。どうやら、今度私が出るドラマ『プロデューサーK パート4』が流れていたみたいですね」今年、酒井は8年ぶりに配信ドラマ『プロデューサーK』に出演し、作品の中で『碧いうさぎ』2021年バージョンを歌うことが決まっている。独立を発表したのと同じ日に、ユーチューブで公式チャンネル『酒井法子 1億のスマイル!!』を開設した。これまでも、興味のある動画は見ていたそうだが、すぐに自分もやってみようとは思わなかったという。「すごく難しい分野だと思っていたんです。自分の中に確固たるテーマがなければ、手を触れてはならないジャンルでしょうからね。でも、これも、新しい船出ということで始めることにしたんです。いまは、インスタグラムをはじめ、自分から何かを発信するのが当たり前になりました。人間、得手不得手はあると思いますが、私は始める前から“これはダメ”と躊躇せず、何事もまず一歩を踏み出し、新たな扉を開けたいと考えているんです」“日本を元気に企画”ではコロナ禍に頑張っている人たちを紹介するため、都内の飲食店を訪れたり、37万円もするルイ・ヴィトンの財布を視聴者プレゼントにするなど、ユーチューブでも、“誰かを笑顔にしたい”という思いが軸になっているようだ。「できること、できないことはあると思いますが、私が発信することで誰かの救いになったり、誰かの言葉を代弁できるきっかけにしたいと思っています。こういう世の中なので大変なこともあると思いますが、私自身楽しみながらやって、見ている方が“のりピー、次は何やるんだろう”と思うような企画をやりたいですね」最後に、今後の目標を聞いた。「やはり、ベースは歌とお芝居ですね。たくさんの方と出会い、さまざまなことを学んだら、思い出として書き留めたり、絵や文章にしたりして、みなさんからもらった言葉をとどめる。その言葉に対し、私から何か形にしていきたいと考えています。応援してくださる方に恩返しをしていきたいです」これからも、たくさんの人たちを“夢冒険”に連れていってくれることだろう!
2021年05月11日酒井法子「電話一本取れるのか、お仕事の依頼をきちんと受けられるかなど、不安もありました。雛が荒野に立って、ピヨピヨと巣立つ感じですよ(笑)」5月1日、酒井法子が所属事務所を独立したことを発表した。新しい道を歩く思いを聞くと、不安をにじませながらも、笑顔を見せる。■50歳を迎えるにあたって、もう一度奮起酒井は’95年に主演を務めたドラマ『星の金貨』(日本テレビ系)で歌った主題歌『碧いうさぎ』が大ヒット。女優としても歌手としても、スターダムを駆け上がった。だが、長年芸能活動を続けるうちに、独立について考えるようになったという。「私自身に何か不満があったわけではありません。ただ、40歳後半から、この先芸能界で活動させていただけるのはあと何日くらいなのか考えるようになったんです。今年50歳を迎えるにあたって、もう一度奮起し、自分の思うままにやってみたい気持ちが生まれました」現在の日本は、昨年から感染拡大する新型コロナウイルスの影響で生活様式が一転し、芸能界にも甚大な影響を及ぼした。そうした状況で新しい道に進むことにためらいはなかったのか。「不安がないわけではありませんが、たとえ世の中が平穏だったとしても、独立することにドキドキすると思います。でも、こんなときだからこそ、誰かの笑顔を照らす光になれたら……という思いのほうが強いんです」今年、酒井は8年ぶりに配信ドラマ『プロデューサーK PART4』に出演し、作品の中で『碧いうさぎ2021年バージョン』を歌うことが決まっている。今後も、女優と歌手活動が中心になるが、もう一つ“新しい分野”となるユーチューブにも挑戦する。独立の発表と同時に、ユーチューブで公式チャンネルを開設した。「以前から興味のある動画を見ていましたが、自分の中に確固たるテーマがないと手を触れてはいけないジャンルだと思っていました。でも、新しい船出ということで始めることにしたんです」5月11日発売の『週刊女性』では、酒井が独立を決めた細かな経緯や周囲の反応、そしてユーチューブでの活動について、詳報する。
2021年05月01日坂元裕二 朗読劇2021 「忘れえぬ忘れえぬ」、「初恋」と「不倫」が4月13日(火)に開幕した。6組の男女が3つの作品の朗読をする本作で、初日の高橋一生×酒井若菜ペアによる「忘れえぬ忘れえぬ」の公演をレポートする。本作は、映画『花束みたいな恋をした』やドラマ『カルテット』『大豆田とわ子と三人の元夫』などの脚本で知られ、これまで芸術選奨新人賞や向田邦子賞など数々の賞を受賞している脚本家・坂元裕二が脚本・演出を手がける朗読劇。2012年から始まり、今回は高橋一生×酒井若菜、林遣都×有村架純、風間俊介×松岡茉優、千葉雄大×芳根京子、福士蒼汰×小芝風花、仲野太賀×土屋太鳳というペアが出演。これまでも上演されてきた「不帰かえらずの初恋、海老名SA」「カラシニコフ不倫海峡」と、書き下ろしの新作「忘れえぬ 忘れえぬ」の3作が上演される。朗読は、高橋の「おい、おまえ」という乱暴な言葉から始まった。それぞれ一人掛けのソファーに座り朗読する、シンプルな舞台。新作「忘れえぬ 忘れえぬ」は、11歳の夏に出会った最里(もり/高橋)と木生(きお/酒井)の数年間を描いていくストーリーだ。粗暴でガタガタした高橋の語り口と、明晰でツヤツヤした酒井の語り口。ギャップのあるふたりの朗読を聴いているうちに、彼らがどんな人物か、彼らがいる場所の様子、そこから見える景色、気温、光などがむくむくとカタチをもちはじめ、世界が彩られていくような感覚が得られた。どちらかというと淡々とした読み方だが、不思議なほど豊かで、そこに書かれている文字が漢字なのか平仮名なのかまで感じ取れてしまうほどであった。「不帰かえらずの初恋、海老名SA」「カラシニコフ不倫海峡」とはテイストが違い、けれど坂元裕二の書く言葉や物語の魅了を存分に堪能できる脚本は、同い年の最里と木生の、11歳の夏、12歳の夏、13歳の夏……というふうに1年ごとの夏が描かれる。ストーリーの中にはふたりが持つやさしさ、残酷さ、純粋さ、だけでなく、家庭環境のギャップなどもきっちりと描かれており、その物語は、受け取る人によってさまざまに感じるだろう。一作観ると、この作品を他のペアがどう朗読するのか、このペアが他の作品をどう朗読するのかと、興味がどんどん膨らんでいく。朗読劇の楽しさをたっぷりと堪能できる公演だった。東京公演は4月25日(日)までよみうり大手町ホールにて。その後、4月28日(水)から5月2日(日)まで大阪・松下IMPホール、5月7日(金)・8日(土)に札幌・道新ホールにて上演。取材・文中川實穂
2021年04月16日25年前に放送されたドラマ『白線流し』(1996年)でその名を広め、その後人気絶頂期を迎えた酒井美紀さん(43)は、ほとんど休みなく働いていました。当時、20歳。その隣にいたのが、若きマネージャーの田島未来さん(42)でした。「いつかまた、一緒に仕事ができたらいいね」田島さんが別の事務所に転職したため一度は離ればなれになったものの、折に触れ連絡を取り合う関係は続き、同い歳となる第一子を出産するなど、縁を繋いできた2人でした。そして2年前、酒井さんと田島さんは湘南で「muaプロダクション」を設立。20年前の約束を果たして、再び2人はタッグを組んだのです。酒井さんにこれまでのキャリアや仕事にかける思い、今情熱を傾けていることなど話を聞きました。マネージャーの田島さんと話す酒井美紀さん(右)女優として順風満帆も…アメリカ留学を決意した理由——20代の初めの頃は、一年のほとんどを田島さんと過ごしていたとか。若かりし頃の田島さんは、どんな人だったのでしょうか。酒井美紀さん(以下、酒井):田島さんの最初の印象は、ギャルでした(笑)。ギャルがマネージャーやるんだって驚きましたね。でも見た目と違ってとっても真面目で、仕事に対して情熱的。芯の部分は、今と変わっていないんですよ。私たちは2人ともやりたいことが早い段階で明確でした。そこが共通点でしたから、お互いに前を向いて突き進んだ、全力疾走の20代という感じでしたね。一緒に仕事に行って、ちょっとした隙間時間にショッピングしたり、息抜きしたり。1年のうちほとんどを一緒に過ごしていたんですが、たまの休日に渋谷に行ったら、スクランブル交差点でバッタリ会ったことがあるんですよ。大爆笑してすれ違ったあの時のことは、忘れられないですね。——田島さんが酒井さんの所属事務所(オフィスジュニア)を辞めるとき、ちょうど酒井さんもキャリアシフトを考えているタイミングだったそうですね。酒井:長く一緒にやってきた田島さんがやめてしまうことは、やっぱり寂しさもありました。でも、彼女には彼女の人生があります。転職をするのは、相当悩んだでしょうね。頑張ってほしいな、と素直に思いました。私も20代の半ばに差し掛かかり、ずっと自分の意見を主張できないまま仕事を続けることに不安を感じていました。何か一度ガラッと環境を変えないと、私自身、変わることができないと考えて、アメリカ留学を決意しました。——順調だった俳優業を休止して留学をすることに、周囲の反対はなかったのでしょうか。酒井:ありましたね。「え、このタイミングで行くの?」と。それでも気持ちはゆるぎませんでした。やるからにはきちんとこなそうと考えて、留学先からアパートの手配まで、業者に頼むことなく、すべて自分自身でやりました。留学先でも、いろいろ苦労しました。日本では世に名前が出るお仕事をしていても、アメリカではまったくステイタスがありません。銀行口座を開設するのにも一苦労。でもその思い出は、すべていい経験。私の財産だと思っています。——留学経験は酒井さんにとって、どんな影響がありましたか?酒井:仕事への取り組み方が、がらりと変わりました。それまでは、すべて事務所が仕事を決めてくれて、それにしたがってこなすというパターンでしたが、帰国後は仕事内容に関して、きちんと私自身もしっかり考えてから進める形になりました。留学先のアメリカでは何をやるにも自己判断が求められたんです。「自分で決める」って、責任も伴いますが、その自信が勇気になって、先々の自分を支えてくれます。どんな結果になろうとも、決断したのは自分。折れそうになったら、途中でやめてしまうのもいい。それを決めるのも自分。自分で決めて、自分が進む。それでいいんだ、と思えるようになったことは、私にとって、大きな意識改革でした。「こうあるべき」にとらわれていた——俳優として活躍しながら、大学にも通った酒井さんは、若い頃からなんでも器用にこなせる人というイメージがあります。酒井さんにもコンプレックスはあるのでしょうか?酒井:ええっ、私はいわば、コンプレックスの塊ですよ(笑)。こういう仕事をしていて言うのもアレですが、「私を見て!」とは、なれないタイプ。今でもそうです。でも若い頃は、もっとその思いは強かったですね。酒井美紀という俳優には、ドラマの役柄から清純派で真面目という“パブリックイメージ”が強かったので、そこから外れてはならない、こうであるべき、という呪縛にとらわれていました。——その「こうであるべき」という呪縛は、どのようにして解いていったのでしょうか。酒井:年齢を重ね、経験を積むことで、心が強くなっていったと思います。自分で決めて達成する、それを繰り返すことで、自信がなかった自分が、少しずつ変わっていきました。そして振り返ってみたら、「ああ、以前は“べき”にはまっていたな、思い込みで自分自身の首を絞めていたんだな」と気づくことができたんです。——決断と達成と言うと大きなことをイメージしてしまいますが……。酒井:本当に、どんな些細なことでもいいと思うんです。今晩食べるものを決める、それくらいの小さな決断からでいい。自分自身で決めて、その結果を受け入れることが大切かな、と。そして、進むペースも、人それぞれでいいと思います。時々休憩したって構わない。一度は決めた道から離脱したっていい。何かを続けるにしてもやめるにしても「自分で決める」ことが大事なのかなと思います。“べき”ではなくて、“したい”という気持ちに正直に生きていれば、肩肘張らず、楽しく過ごすことができるのではないでしょうか。「不安や失敗も含めて自分らしく年を重ねていきたい」——マネージャーの田島さんも、まさしく決断・達成を繰り返して自分の人生を決めてきた人です。今、彼女とふたたび組むことで、どんなことが実現できると考えていますか?酒井:田島さんの魅力は、情熱と戦略を併せ持っているところです。いつでも思いがけないアイデアを出してくる。そういう素質を持ったマネージャーにはなかなか出会えるものではないんですよ。私が移籍をすることになり、その相談をしたとき、もう復帰はしないと思っていた田島さんがもう一度マネージメントの仕事をすると言った。ぴったり合ったこのタイミングは、千載一遇のチャンスだと思いました。神様の前髪は、すぐにつかまなければと(笑)!再び一緒に仕事をすることになった今、20年前とはずいぶん芸能界を取り巻く環境も変わっています。時代の流れに乗って新しいことにもチャレンジしていきたいですね。とはいえお互いに家庭を持ち、年齢も重ねているので、私たちらしいスタンスを第一に。新鮮な気持ちで仕事に取り組みながら、私たちのペースで、スタッフみんながそれぞれの人生で大切にしているものを守っていけたらいいね、と話しているんです。——最近は新しいことにどんどんチャレンジしていますが、挑戦し続けるための原動力は?また、酒井さんはどのように年を重ねていきたいですか?酒井:新しいチャレンジはいくつになってもできるものです。やりたい!と思ったときが、そのタイミング。その思いを後回しにしないようにしています。チャレンジの先にある新しい景色にワクワクするんです!さらに好奇心と情熱を忘れずに、心や魂が求める方へ舵を切っていきたい。一歩一歩丁寧に歩みを進めながら、不安や失敗などもひっくるめて自分らしく年齢を重ねていくことが理想です。——これから「こうしていきたい」などの展望はありますか?酒井:現在私は大学院に通っていて、国際協力の研究をしているんですが、そこで得た学びと、これまで続けてきた演劇のメソッドを組み合わせてみたいという希望があります。海外ではすでに多く取り入れられていますが、演劇は、教育にとてもマッチするんですよ。授業の前にシアターゲームのようなことをして集中力を高めたり、もちろん語学のトレーニングにも生かされています。まだ具体的ではありませんが、将来的には、スクールのようなものをつくって、タレントとしての才能だけでなく、人生をよりよく生きるための表現方法を伝えられたらいいな、と。そんな大きな展望も、“情熱と戦略“の田島となら、きっとうまくいく……そんな予感があります。■これまでの連載を読む【第1回】向井理に背中を押されて、私はマネージャーという仕事を辞めた。【第2回】酒井美紀と再タッグ! “どんくさかった私”がマネージャーという天職を見つけるまで【第3回】向井理のマネージャーを辞めて家庭に入るも…湘南でスイッチがオンになった瞬間(取材・文:山野井春絵、写真:宇高尚弘)
2021年03月06日《“山口百恵”という時代を作ってきた彼女の最後のステージ。同じ時間を共に出来たよろこびを感じながら武道館にいました。その存在感と圧倒的なオーラは今でも心の中にしっかりと残っています。その潔い去り方と共に彼女の存在は「永遠」になったと思います》本誌にこうコメントを寄せたのは、名曲『いい日旅立ち』の生みの親である谷村新司(72)。1980年に芸能界を引退してから41年。山口百恵(62)が令和に“奇跡の復活”を果たした。昨年10月にNHK BSプレミアムで放送された『伝説のコンサート“山口百恵1980・10・5 日本武道館”』が1月30日にNHK総合で再放送されたのだ。これは百恵の最後の舞台となった引退コンサートを収録したもの。往年の歌手のコンサート映像をBSから総合に移して再放送するのは極めて異例のこと。NHKの広報担当者は、こう明かす。「百恵さん最後のコンサートの再放送を希望される方々のお問い合せを200件あまり頂きました。20代以下の方も含めて、幅広い世代の方々からございまして、全世代の方々からお問い合わせを頂いたという形です」引退から41年たった今も人々の心をつかんで放さない百恵。令和の若い世代をも魅了する彼女の魅力について、当時、レコード会社で百恵の担当を務めた音楽プロデューサーの酒井政利さんはこう語る。「初めて百恵さんに接した若い人も彼女の表現力、品性に感銘を受けたのでしょう。素晴らしいものは時代を超えて伝わりますから」■久米宏を大慌てさせたハプニング’73年にデビューし、瞬く間にスターダムを駆け上がった百恵。しかし人気絶頂の’79年10月、ご存じ、三浦友和(69)と突然の“恋人宣言”。’80年3月には三浦との婚約を発表し、芸能界引退も宣言した。そして迎えた“最後のステージ”が10月5日に行われた日本武道館でのコンサートだった。酒井さんは当日の様子を興奮気味にこう振り返る。「あのときの百恵さんはいつも見ている何倍ものオーラがあふれ出していました。彼女は今、全身全霊を観客にぶつけて、さよならを告げているんだなと感じました」その様子はテレビでも生中継され、視聴率27%を記録。舞台裏で起こったハプニングを明かしてくれたのは引退コンサートの構成を担当した演出家の宮下康仁さんだ。「TBSで中継していたのですが、割とすらすら進んで予定より30分早く終わってしまったんです。司会の久米宏さん(76)が大慌てでつないでくれたのですが、終わったあとに『大変だったよ!』と笑いながらぼやいていました」百恵の伝説的な芸能生活を象徴するように“駆け抜けた”コンサートだったのだ。「女性自身」2021年2月16日号 掲載
2021年02月03日ワニブックスでは、創業40周年を記念し、これまでに発売した写真集を電子化した「電子版写真集」を発売。8月は、酒井法子の写真集4作、福原遥の写真集2作を電子化してリリースする。酒井法子写真集『White girl』福原遥写真集『いつのまにか。』8月4日に発売となる酒井の写真集『White girl』は1990年発売。アイドル全盛期のあどけない表情がデジタルで蘇る。また、福原の写真集は、『いつのまにか。』が 2017 年、『これから。』が2018年に発売。いずれも、10代の大切な瞬間を収めた作品となっている。■電子版写真集 2020年8月発売ラインナップ8月4日発売酒井法子 写真集『White girl』8月11日発売酒井法子 写真集『ZEPHYROS -酒井法子 in Greece-』8月18日発売酒井法子 写真集 『sentire,』8月21日発売福原遥 写真集 『いつのまにか。』8月25日発売酒井法子 写真集 『Shinin’Run』8月28日発売福原遥 写真集 『これから。』
2020年08月04日酒井法子「久しぶりの連続ドラマになるはずでした。でも、その話はなくなってしまったんですよ……」(芸能プロ関係者)’90年代に出演したドラマ『星の金貨』(日本テレビ系)で歌った主題歌『碧いうさぎ』が大ヒットし、女優としても歌手としても、スターダムに駆け上がった酒井法子。しかし、“あの事件”でその勢いが止まった。「’09年に、覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕。裁判では、起訴事実を認め、“夫と離婚して薬物を断ち切る”“芸能界を引退して介護の仕事をやりたい”と述べていました」(スポーツ紙記者)しかし、長年活躍していた芸能界への思いが強かったのか、引退はしなかった。「’13年にフジ系で放送された『さんまのまんま』に出演し、バラエティー番組に復帰。その後は、舞台やコンサートを中心に活動しています。ここ数年は、中国での活動に力を入れていますよ」(同・スポーツ紙記者)一方、女優業で復帰するハードルは高かった。「’13年7月6日にBSジャパンで放送された『黒い報告書 女と男の事件ファイル3「誤解」』というドラマに単発で出演したものの、やはり地上波は難しいのか“事件”以降、連続ドラマの出演はありません」(同・スポーツ紙記者)■プロデューサーが消息不明に’18年には週刊女性で、酒井がインターネットで配信されるドラマに出演することが決まったと報じた。「動画配信やオンラインゲームなど、40以上のサービスを提供しているDMM.cоmで配信される『蛇の道は蛇』という連続ドラマに、意地悪な女性役で出演する予定で、撮影もしていました。’19年末までに配信する予定だったといいます」(制作会社関係者)実現すれば、’07年のドラマ『まるまるちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)以来、12年ぶりの連ドラ出演になるはずだった。だが、あれから2年たっても、いまだに配信されていない。いったい、何があったのか。「実は、お蔵入りになってしまったんです。公式に発表する前に情報が漏れたことで、ほかの出演者から制作サイドに“好奇の目で見られるような作品には出演したくない”とクレームが入ったそうです。そこから話がこじれてしまったみたいですね」(同・制作会社関係者)追い打ちをかけるように、もうひとつトラブルが。「DMMと出演者の間に、ある制作会社が入っていたのですが、突然、そのプロデューサーと連絡がとれなくなってしまったんです。現在もその人の消息は不明。こんな状況では、配信するのは難しいと思います」(芸能プロ関係者)酒井の出演する予定だったドラマがお蔵入りになっていたことについて、DMMに問い合わせたが、期限までに回答はなかった。女優として輝く酒井の姿はもう少し先になりそうだ。
2020年07月29日レディース ストリート ウエア ブランド「X-girl(エックスガール)」は、 モデルとして雑誌・ショー・広告などで活躍する他、ラベルプリンター「テプラ」やステッカー、DNP証明写真機「ki-Re-i」を使用したアートワークなどにも活躍の場を広げ、 様々なアーティスト・ブランドとのコラボレーションなど形式にとらわれない表現活動を展開し、ミレニアル世代から強い支持を受ける 『酒井いぶき(IBUKI SAKAI)』とのコラボレーションを7月3日に発売します。▼ オフィシャルオンラインストア ▼※7月3日(金)公開予定本コラボレーションでは、X-girlのブランドロゴやアーカイブグラフィックを使用し、酒井いぶきがステッカーコラージュしたアートワークを完全スキャンしプリントした X/XS、11、11Pro、3サイズ展開のiPhoneケースと、彼女のコラージュ作品を、X-girlのミルズロゴ型に切り抜きプリントしたAirPodsケースをラインアップ。iPhoneケースとAirPodsケースは、全国のX-girl、XLARGE/X-girl店舗、オフィシャルオンラインストアにて発売。また、本コレクションでは、小さめサイズのベイビーTEEと肩ひものフリル使いがキュートなキャミソールも展開。X-girlのブランドロゴをグルーガンとステッカーを使いデザインした酒井いぶきのオリジナルアートワークを、各アイテムのフロントにプリント。ベイビーTEEとキャミソールは、全国のX-girl店舗、オフィシャルオンラインストアでの限定発売。▼ X-girl OFFICIAL SITE ▼企業プレスリリース詳細へ本記事に掲載しているプレスリリースは、株式会社PR TIMESから提供を受けた企業等のプレスリリースを原文のまま掲載しています。FASHION HEADLINEが、掲載している製品やサービスを推奨したり、プレスリリースの内容を保証したりするものではございません。掲載内容に関するお問い合わせは、株式会社PR TIMES()まで直接ご連絡ください。
2020年06月30日お笑いコンビ・アルコ&ピースの平子祐希と酒井健太、アイドルグループ・乃木坂46の新内眞衣、女優の高田里穂が16日、ZOOMで開催された「第3回 いいかも!オンライン飲み ASAHI SUPER DRY VIRTUAL BAR」に、抽選で当選した約750人のファンとともに参加した。新内が呼びこまれると、酒井は「超絶かわいい、まいちゅん!」と反応。新内が「思ってないでしょ、思ってないやつじゃん!」とツッコむと、酒井も「思ってない、思ってないけど(笑)」とすぐさま言うなど、息の合った掛け合いを見せた。そして乾杯の音頭を新内がとることになったが、平子が「今、俺さ、みなさんの画面が映ってみんなの顔見て、単純にすげえうれしいなって思ったの。みんなというか友達、“ズッ友”が集まって飲めるって、俺ら1人じゃねえんだなって改めてすごいな、奇跡だなって思ったのよ」と“演説”を。なおも平子が「アサヒスーパードライがつないだ俺たちの出会い、縁(えにし)、それに深く感謝して、最高の夜にしようぜ! みんな違う!?」などと続けていると、酒井は「重くて熱いよ」とツッコんでいた。平子の話が終わると、新内は「めちゃくちゃやりにくいですけど」と苦笑いしつつ、ファンと乾杯した。同イベントでは、750人のファンとともに、あっちむいてほい、にらめっこ、クイズ対決などが行われた。新内は外出自粛中の行動について、「『どうぶつの森』やってます」と明かすと、「中田(花奈)も言ってたな、それ」と酒井。それに対して、新内は「この間、中田花奈ちゃんとも2人でオンラインしました」と話していた。「いいかも!オンライン飲み」は31日にも、第4回の開催を予定しており、霜降り明星と乃木坂46・白石麻衣が出演する。
2020年05月17日歌手の酒井法子(48)が「日本M&Aセンター」専務取締役の大槻昌彦氏(49)と交際していることを、12月5日発売の「週刊文春」(文芸春秋)が報じた。同誌によると、大槻氏はもともと酒井の大ファン。2人が11月末に都内のステーキ店で食事を楽しむ姿や、タクシー車内での親密な様子を掲載。酒井がたびたび大槻氏の自宅に出向き、週の半分ほどを過ごしていることも報じられた。「酒井さんは09年の薬物事件で執行猶予付きの判決を受け、その後で芸能界に復帰。最近は亡き建設会社会長に提供してもらっていた住居をめぐり、会長の親族とトラブルになっていることが報じられていました。そんな酒井にとって、今回の熱愛報道は久しぶりに明るい話題となりました」(芸能デスク)酒井の所属事務所は同誌に対して交際を完全否定している。というのも、熱愛報道は仕事にも影響しそうだという。「今の酒井さんを支えているのは、昔から“のりピー”と呼んで応援してきた世代。彼らにとって、やっぱり酒井さんは永遠にアイドルなのです。今月には3本のクリスマスディナーショーが予定されていますが、いずれもまだチケットが売れ残っている状態。熱愛を認めてしまうと、ファン離れが進むことも予想されます」(前出・芸能デスク)今回の報道、ファンにとってはあまり喜ばしくないニュースだったかもしれない。
2019年12月05日シャンソン歌手のクミコが歌う『妻が願った最期の「七日間」』が話題を呼んでいる。新聞の投稿欄に掲載された「七日間」という一遍の詩から生まれた楽曲で、詩の作者は2018年1月にがんで他界した宮本容子さん。「もしも神様が元気な7日間をくれたら」という容子さんの願いが込められている。そこには、ごく普通の日常がいかに豊かで、尊いものであるかという思いも描かれており、容子さん亡きあと、夫の英司さんが投書したことで多くの共感を呼び、書籍化もされた。そんな中、クミコの元へ英司さんより「歌ってほしい」との手紙が届いた。そして数々のヒットを生み出したプロデューサー酒井政利の手により、純愛をテーマにした歌になってリリースされた。「クミコ」チケット情報「朝日新聞の投書をリアルタイムで読んでいて、世の中には映画のようなご夫婦がいらっしゃるのだなと感動していたんです。そして昨年12月に英司さんからご本とお手紙が届いて、やっぱりご縁があるのかなあと思いました」とクミコ。「七日間」を歌うことは、必然の出会いような気持ちでもあったという。「人が生きるということと、死ぬということは表裏一体。最期を考えるということは、今をどう生きるかということでもあるので、そういう歌を託されるには私自身、ちょうどいい年代に入っているのかなと思います。何か、歌の方から寄り添ってくれたような感じです」。「七日間」から伝わる英司さんと容子さんの「純愛」。「おふたりの往復書簡のようにご本を読んでいると、70代というご年齢にもかかわらず純度が高いことにびっくりして、うらやましいなと思いました。何十年も一緒にいると、大変なこともいろいろあったと思いますが、そういう中でもきちんと鮮度を保っていられたのは、お互いを名前で呼んでいることも大きかったと思います。人間として、男と女として、見つめ合い続けたからこそでは」。人の心を大きく揺さぶる楽曲だけに、歌う時は気持ちを入れ込み過ぎないようにしていると話す。「おふたりの宝石のようなお話を、泥にまみれたような世の中にそのまま出したいと思いました。歌い手が入れ込み過ぎると、しらけてしまうこともあるので、シャンソンもそうですが、どの歌も愛の歌はなるべく客観性を持った方が届きやすいのかなと思います」。9月23日(月・祝)には、作詞家・岩谷時子の楽曲をメインに歌うコンサートも控えている。「女性の作詞家の中で、一番好きな方です。岩谷さんの歌の世界もぜひお楽しみください」。取材・文:岩本和子
2019年09月13日アイドルグループ・嵐の相葉雅紀が、16日深夜に放送された文化放送『嵐・相葉雅紀のレコメン!アラシリミックス』(毎週金曜 24:00~)で、女優・酒井若菜と初共演を果たしたことを報告した。日本テレビ系大型特番『24時間テレビ42』(8月24~25日放送)のドラマスペシャル『絆のペダル』(8月24日21:00ごろ)で主演を務める相葉。同作では、自転車の「ロードレース」で、“ある奇跡”を成し遂げた実在の人物・宮澤崇史さん(相葉)の姉役として、酒井がキャスティングされている。相葉はジャニーズジュニア時代から度々「酒井に似ている」と言われていた。そのことを酒井に直接、「嫌かも知れないけど、酒井若菜ちゃんに似てると言われた時期がありまして」と伝えたところ、「あっ、私も知ってる! ぜひ、共演したかった」と喜ばれたという。さらに酒井からは「でも、今後も共演はないんだろうなって思って、半ば諦めてた」とも告げられた。そのことを振り返りつつ相葉は「それがまさか、きょうだいの役で…」としみじみ。「で、しかもさ、髪型が今そっくりなの」と相葉は続け、「ツーショットではほぼ一緒。ビックリした! クソ似てた(笑)」と興奮気味に明かしていた。
2019年08月18日エッセイスト酒井順子さんタレントの磯野貴理子(55)が7年連れ添った24歳年下の夫と離婚し、話題を呼んでいる。「自分の子どもが欲しい」と別れを切り出されたが、磯野にとってあまりに残酷だとして、ネットでは元夫に対する批判が噴出したのだ。■子どものいない夫婦、20年で倍に結婚したら、家族になったら、子どもをつくるのが当たり前。子育てをしてこそ一人前になれる―。こうした考えは令和になっても根強い。その一方で、子どもを持たない人生を選んだ女性たちもいる。東京で働いていたTさん(45)は13歳年下のアメリカ人男性と結婚し渡米、現在はグアムで暮らす。プロポーズを受けて、まず彼に伝えたことがある。「年齢的に出産は難しいことと、慣れない海外生活での不妊治療は無理、と最初にハッキリ告げました。でも、彼は“自分が欲しいのは子どもではなく、人生のパートナーだ”と言い切ってくれました」(Tさん)いまでは2匹の猫と平和に暮らすTさんだが、「彼はまだ若い。また、彼の周囲は子どもがいる夫婦も多い。先日、私のほうから養子を迎える提案をしましたが、その答えはまだもらっていません」と打ち明ける。いくばくかの資産を持つが受け継ぐ子どもはいない。「もし私が死んだら、虐待を受けるなどの恵まれない子どもたちをサポートする団体に全額寄付したい」国立社会保障・人口問題研究所の最新調査によると、子どもがいない夫婦の割合は’15年時点で6・2%と、’92年の3・1%から約20年で倍に増えた。その理由は「欲しいけれどできない」「お金がかかりすぎる」「高年齢で産むのは嫌だ」など。ただ、子どもができない、あるいはつくらないケースは近年、確実に増えている。■「家族終了」宣言自虐とユーモアを交えながら「30代・独身・子ナシ」女性の実態を描いた作家・酒井順子さんも、「子どものいない人生」を歩んできたひとり。『負け犬の遠吠え』から16年、酒井さんは両親が他界し、かねてより病気療養中だった兄を亡くしたことで、生まれ育った家族が全員いなくなった。「自分が生まれ育った家族のことを『生育家族』、結婚などでつくった家族を『創設家族』というそうですが、私以外の生育家族のメンバーがすべていなくなりました。私は同居人(男性)はいるものの婚姻関係は結んでおらず、子どももいないので家族終了の感、強し……という状況です」自著のタイトルどおり、「家族終了」を宣言した酒井さん。生育家族がいなくなり、自身が創設家族をもたないということは、家族の記憶が絶たれるということ。しかし、それを悲しく寂しい、あるいは無念かと問うと「別にそうでもない」と話す。「そうなってしまったのは、もうしかたがない。名家であるわけでもなければ、特殊な技能や看板を受け継ぐ家でもないので、消えていっても特に大きな影響もないだろうな、と。いま日本ではこんな感覚を持つ人が少なからぬ数で存在していると思います」(酒井さん、以下同)家族の記憶が消えていくことにさほど「痛がゆさ」を覚えない。そんな人間がたくさんいるから、日本の人口は減っていくのでは?と分析する。「家族は、いて当たり前ではない、と痛感しています。生育家族はやがて老い、そして死んでいく。新しい家族をつくるには、自力で結婚・出産・子育てをしなくてはならず、そのどれもがなんとなく生きていては不可能なこと」女は結婚すべき、結婚したら子どもを持つべき、家族は支え合って生きるべき……。そんな従来型のカタチに縛られるのを嫌い、また、それなしで生きられることを理解する人は増えた。その一方で、若い世代を中心に揺り戻しもある。「従来型の家族像もまた見直されていますね。今の若者は“若いうちに結婚したい”という願望を持つ人も多いし、最近の家族の仲よしぶりは、私の子ども時代とは比べようもありません。家族についての感覚は、従来型のきつい枠を嫌う人が逸脱すればするほど、枠の中にいる人たちは、枠に守られている感覚を強める。大きく二極化してきていると感じます」酒井さんには10年以上、暮らす男性の同居人がいるものの入籍はしていない。「『負け犬の遠吠え』のころから一貫して言い続けているのは、法律婚をするかどうかは別として、一緒に生活する誰かはいたほうがいいのでは?ということ。私の場合、なんとなくこうなっていた、としか言いようがないですが、それでも理由を探すならば“私は結婚しているまっとうな人間です”という『名』よりも、“誰かとラクに同居する”という『実』を取った生活なのかもしれません」■事実婚も法律婚と同様の権利を中年になり、結婚に対する熱い夢はすでに失った。年齢的に子どもは難しい。「そうなると別に法律婚をする必要もない、ということでの事実婚生活です」生活をともにするパートナーはいるけれど、妻の役割は果たさなくてOK。これをオイシイと考える女性は少なくないはず。「夫でなければ妻でもないので、相手に対して“これをしてくれて当然”と思う気持ちが薄い。経済的にも互いにもたれかかっていないので、例えば相手が突然会社を辞めて起業すると言い出しても、自由にやってくれと思うばかりです」実際、結婚や家族をめぐる意識は多様化している。NHK放送文化研究所が’18年に発表した世論調査では、「必ずしも結婚する必要はない」と考える人は68%にのぼり、過去最高に。子どもに関する意識についても、調査を開始した’93年には「結婚したら子どもを持つのが当たり前だ」との回答が過半数を超えていたが、’03年から「必ずしも持たなくてもいい」が逆転し始め、’18年には後者が60%にまで上昇した。「結婚が“誰もがするもの・できるもの”という感覚は過去の遺物。ならば結婚というよりは、つがいづくりに新規参入しやすいように、事実婚も法律婚と同様の権利を与えるなど規制緩和をする必要性も感じます。法律婚という高すぎるハードルの前で立ちすくんで何もしないより、いいなと思う人と気軽に添うてみたほうがいい。これからは、自分たちが“家族”と思えば、どんな形態でも家族になっていく時代ではないでしょうか」子どもを産む・産まない。結婚をする・しない。どんな生き方をするにも自分で選んで、決めていい時代へーー。さかい・じゅんこ/1966年東京都生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。著書に『子の無い人生』『駄目な世代』『家族終了』など多数
2019年06月11日(写真左から)酒井法子、広末涼子、中森明菜、のん、石原真理子31年で幕を閉じる元号“平成”。その間、テレビ放送はアナログからデジタルへ、テレビ至上主義からネットと共存する時代へ……など大きな変貌を遂げてきたが、芸能界もなかなかの騒ぎっぷりだった。例えば、’80年代にトップアイドルとして揺るぎない地位を築いた中森明菜(53)は、1989年(平成元年)に交際していた近藤真彦の自宅で自殺未遂を起こし、衝撃を与えた。その後も体調不良により2010年(平成22年)に芸能活動を休止、2014年(平成26年)に復帰するが、現在もメディア露出はほとんどない。’80年代は清純派女優として活躍するも、破天荒な言動で「プッツン女優」と呼ばれた石原真理子(55)。彼女は2006年(平成18年)に自身の恋愛遍歴を告白した書籍を発売、2009年(平成21年)にはかつて不倫交際していた玉置浩二と復縁するが破局。しかも2017年(平成29年)には墨田区内のスーパーで万引きしたとして書類送検、不起訴処分と、平成時代の芸能ニュースを定期的に騒がせた。’90年代、野島伸司脚本のドラマに出演しブレイク、自身が歌った主題歌がミリオンセラーを記録した酒井法子(48)のお騒がせ事件も記憶に新しい。2009年に覚せい剤を所持・使用したとして夫とともに有罪判決を受け、しかも逮捕前はクラブでDJを行い、ノリノリになる姿なども報じられ、清純なイメージを覆す実態も明らかになった。若手も負けてはいない。透明感のある美少女として’90年代後半に人気沸騰、「広末ブーム」を巻き起こした広末涼子(38)は2001年(平成13年)、リュック・ベッソン製作・脚本の『WASABI』の製作発表会見で号泣。さらに都内から主演ドラマのロケ地、千葉県・白浜町までタクシーで直行し、無賃乗車したなどと報じられた。2013年(平成25年)に朝ドラのヒロインで一気に大ブレイクしたのん(元・能年玲奈/25)は、2015年(平成27年)に所属していた事務所から独立し、個人事務所を設立。契約問題が解決しないまま「のん」に改名し活動を再開したが、活躍の場が限られているように見える。現在は、「女優・創作あーちすと」を名乗り、CMやネットドラマ、舞台などで活動している。彼女たち“平成お騒がせシスターズ”5名の見た目について、芸能界の変化を見守ってきた美容整形外科「高須クリニック」の高須克弥院長に話を聞いた。■恋愛問題がルックスに影響してしまう人の特徴──みなさんおきれいで、芸能史に残るほどブレイクしたのに、なかなかの“お騒がせ”を起こしましたね(5人の人気絶頂期と現在の顔写真を見せる)。高須「ルックスもなかなか、ザワつかせてくれそうな人もいるね!中森さん、僕が1990年前後に番組で会ったころは、幸せの絶頂だったのか、瞳も肌もキラキラ潤っていて、頬もふんわりと豊かで、それはキレイだった。でも今はヤセすぎ!頬もこけて年齢以上に老けて見えます。心が元気じゃないと、だいたいヤセるか太るかしてしまうもの。今もたくさんのファンが彼女を待っているのだし、早く元気になってほしいね」──そうですね。でも逆に、郷ひろみさんとの熱愛・破局や、結婚や離婚でお騒がせした松田聖子さんは、あまり変わらないように見えます。恋愛問題があってもルックスに影響しない人、してしまう人の差はどこにあるのでしょうか?高須「恋愛において、イニシアチブを握るタイプか、受け身タイプかってことが大きな差かな。自身が運転手役になれる松田さんタイプは、いい意味で自己中心的。反対の中森さんタイプは男性に振り回されて心身ともに疲れてしまう。そうすると見た目にも反映しちゃう。だって幸せホルモンって、ウルセラ(※編集部注:たるみ・しわ治療)くらい効くんだから!(笑)」──幸せホルモンと恋愛で揺らがない精神力、これは芸能界じゃなくても大事ですね!そう考えると石原真理子さんは恋愛でグイングイン揺らいで、“激しいG”がかかっているようです!高須「彼女はモテ役がぴったりで、本当にきれいだった。そのころを知る僕には、もはや今の石原さんは見るのもツライ!顔のパーツは変わらないのに、不摂生な生活を送っているせいか、むくんでいるように見えるね。メイクもファッションも昔のを引っ張り出してきました、みたいで痛々しい。今年も太眉が人気とはいえ、石原さんの太眉は“昔の太眉”ですよ!」──一般の方でも、きれいなのに髪型やメイクが昔っぽい人ってけっこういます。それを変えるにはどうしたらいいのでしょうか?高須「雑誌や、今ならネットにもいろいろな美容情報が載ってるでしょ。それを見て、ドラッグストアでもいいから“今”のアイテムをチェックすること!“高かったから……”なんて言って昔の口紅を後生大事に使ってる、なんてことはダメですよ!時代に合わせつつ、自分の年齢も考えて調節するのって大事だからね」■老けにくいのは◯◯顔!──私もメイクポーチを見直します!ところで、酒井さんと広末さんも見た目のイメージがあまり変わらないのに驚きます。高須「2人とも大きな体重の変動がない、またはほんのちょっと太ったくらいで、頬がふっくらしている。これが大事だね。エビス顔じゃないけど、福々しい顔って頬の丸さがポイントだから。やはりホリが深すぎず、目も大きすぎない丸顔は老けにくい!」──顔全体がそげたようにヤセてしまった中森さんとは、真逆なんですね。高須「あまりヤセちゃうと、顔のハリは失われ、内面からの輝きや潤いもなくなり、シワっぽくなってしまうもの。30過ぎたら若いころより数キロ太ったくらいのほうが、若さを保つには大事だと思うね。それが難しい場合は、ヒアルロン酸や脂肪注入でふっくらさせるのがベストだね」──なるほど。ではまだ20代ののんさんはいかがでしょうか?高須「う~ん……。『あーちすと』って名乗るのが気にかかる!行き詰まった有名人ってこの手のことをやりたがるけど、だいたい失敗してしまう。普通に『女優・タレント』でいいんじゃないの?今まで積み上げたものがあって、今ののんさんがあるんだから、それを大事にしたほうがいいと思うな」──しかし、この“平成お騒がせシスターズ”のように、芸能界は美女を暴走させてしまう部分があるのでしょうか?高須「若くして基礎的な教育もまだのうちに芸能界入りしてしまうと、普通の感覚というものが育ちにくい。だから、恋愛ざたなどで大きく揺らいでしまう人も多いんじゃないかな。芸能界で活躍し続けるには、身も心も鍛えるのが大事だね!」<プロフィール>高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。高須クリニック院長。医学博士。昭和大学大学院医学研究科博士課程修了。昭和大学医学部客員教授。脂肪吸引手術など世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。金色有功章、紺綬褒章を受章。『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『ダーリンは70歳/高須帝国の逆襲』(Kindle版)、『行ったり来たり僕の札束』(小学館)、『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)、『炎上上等』(扶桑社新書)、最新刊は『大炎上』(扶桑社新書)
2019年03月23日歌手で女優の酒井法子(48)が27日放送のテレビ東京系「THEカラオケ★バトル-またやっちゃう?あの大ヒット曲、ご本人は何点出せるのかSP!-」に出演し、代表曲『碧いうさぎ』を歌うと一部スポーツ紙が報じた。記事によると酒井がテレビで歌唱するのは、08年4月に出演したNHK「SONGS」以来11年ぶり。今回の番組は「THEカラオケ★バトル」のスペシャル版。通常版はプロ・アマ問わず全国の歌自慢がカラオケ採点機で得点を競うが、スペシャル版ではヒット曲を持つ歌手本人が登場。持ち歌で何点を出せるのかに挑むという。酒井は09年に覚せい剤取締法違反で逮捕・起訴され、東京地裁で懲役1年6月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。その後、芸能活動を再開。舞台・コンサート・ディナーショーに加えてパチンコ店での営業までもこなしてきたが、報道番組以外で地上波の番組に出ることはかなわなかった。「各局ともにCMスポンサーの顔色をうかがっていたため、なかなか酒井へのオファーができませんでした。しかしここへきて、徐々に各局ともにオファーを解禁しはじめています。今回の出演で酒井さんが高得点をたたき出せば、今後もお呼びがかかることになるでしょう。そういう意味で、“再起”への正念場となりそうです」(芸能記者)本人歌唱でも高得点を出すことはなかなか難しいものの、収録当日朝までカラオケに通い特訓したという酒井。その努力は実るのか、注目が集まりそうだ。
2019年03月13日写真左から松島勇気、酒井大撮影/森田晃博ロマンティックなストーリーに、ガーシュウィン兄弟による数々の名曲、スタイリッシュなステージング、そしてバレエをはじめとするダンスの雄弁さと美しさ。2015年のトニー賞で4部門に輝いたミュージカル『パリのアメリカ人』は、まさに洗練の極みだ。この名作の日本版が、劇団四季によって間もなく幕を開ける。主人公、ジェリー役の候補として稽古に励む酒井大さんと松島勇気さんは、ともにバレエダンサーとしての経験の持ち主。ふたりに作品の魅力や、稽古場で感じていることを語っていただこう。■バレエの魅力が詰まったミュージカル─この作品を初めて見たときの印象は?松島僕はニューヨークで観劇したんですが、そのころ僕は、俳優としてスランプに陥っていた時期だったんです。だから作品も素敵でしたが、演じている人たちにノックアウトされました。プロダクションごとにオーディションを受け、役を勝ち取って仕事をしている。そういう人たちが“プライドを持って、楽しんで仕事しているんだ”という顔をしているようで、光り輝いて見えたんです。“自分に足りないのはこういう思いだな、もう1度、俳優として頑張らなければ”と思えて、背中を押してもらったような感じがありました。酒井僕もブロードウェイへの旅行中に見ました。僕が憧れているロバート・フェアチャイルドさんがジェリー役で“バレエダンサーでもこんなに素晴らしく演技をしたり歌ったりできる方がいるんだ!”と衝撃を受けました。作品については、バレエの魅力をミュージカルにいい形で取り入れているな、と思いました。型が決まっているバレエに比べて、ミュージカルの演技は自由だと思えるところがあったんです。でも、この作品はミュージカルとバレエのいいところが融合してお互いを高め合っていたのでうれしかったですね。■アナログな表現がおしゃれで新鮮!松島バレエのスタイルが大きな要素としてありますけど、バレエ以外にも、その当時に全盛だったフレッド・アステアをオマージュしたステップや、ジーン・ケリーのオマージュも盛り込まれていて、すべてがおしゃれなんですよね。しかも、振付のクリストファー・ウィールドンさんいわく“セットも踊る”。俳優が踊りながらセット転換をしていくんですが、その手法がいい意味でアナログ。とても洗練されていて、かえって新鮮に感じます。─酒井さんは、これまでミュージカルや演技をやってみようとは思っていなかったのですか?酒井この作品のオーディションがあると知るまでは、まるで考えていませんでした。ただ、僕はもともと、いろんなことに興味を持って挑戦するのは好きで。実はバレエダンサーをやめて、イタリアンのレストランで働いていたこともあるんですよ。でも、ほかの職業を経験したことで、やはり自分は踊ることがいちばん好きだということに気づき、バレエの世界に戻りました。この作品のオーディションも持ち前のチャレンジ精神で“この作品にかかわってみたい”という一心で受けました。■普通に立つことがこんなに難しい!?─ジェリー役を演じるうえで苦労していることは?松島ジェリーは太陽のように明るくてエネルギッシュな青年なんですけれども、実は第2次世界大戦で受けた傷、トラウマや苦しみを抱えています。そんな彼が戦後すぐのパリで“芸術が人々のエネルギーになる”と信じて、前へ進もうとしている。だから恋に浮かれているだけではなく、その根本にある影の部分がお客様に伝わらなければならないんです。そこが難しいところですね。酒井僕はバレエ以外の経験がないので劇団四季で一から教えていただいているのですが、大変なこと、難しいことだらけです(笑)。松島大丈夫だよ!誰もが通る道なんだから(笑)。苦労しながらも努力している彼を見ていると、入団した当時の自分をよく思い出すんです。酒井僕はいつも勇気さんを見ていて、いとも簡単に場の空気をなごませ、明るい雰囲気にしてしまうのがすごいなと思っているんです。ジェリーも、そこにいるだけで場が華やかになるという男だから、ピッタリだなと思って。きっと僕と勇気さん、全然違うジェリーになるんだろうなと感じています。松島僕は新しいことに挑戦している大からすごく刺激をもらっているんだよ。酒井バレエの表現は、型が決まっていることが多いんですよね。だから、普通に舞台上に立って、役の感情で動いて、ということが僕はまだ不慣れで。自然に立っていようとするのに、バレエダンサーの立ち方になってしまっていたり(笑)。必死ですが、ミュージカルという新しい世界に飛び込んで、作品の中に役としていられることが新鮮で、楽しくなっています。松島もっとバレエ界からもミュージカルの世界を目指してくれる人が増えるといいな、と思っています。『パリのアメリカ人』は、いまの日本では劇団四季にしかできない作品だと僕は思いますし、お客様にもそう思っていただける作品にしたいです!■ミュージカル『パリのアメリカ人』ガーシュウィン兄弟の名曲をちりばめ、1952年にアカデミー賞を受賞したジーン・ケリー&レスリー・キャロン主演のミュージカル映画『巴里のアメリカ人』を舞台化。英国ロイヤル・バレエ団で活躍するクリストファー・ウィールドンの演出・振付、洗練された舞台装置などが評判を呼んでパリからブロードウェイに進出、トニー賞4部門に輝いた。第2次世界大戦直後のパリで、画家志望の元アメリカ軍人、ジェリーはリズに恋をするが、彼女を思う男は彼だけではなかった。東京公演は1月20日~3月8日 東急シアターオーブ、横浜公演は3月19日~8月11日 KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉。 【公式サイト】まつしま・ゆうき◎12月12日、神奈川県生まれ。5歳のときに劇団四季の『キャッツ』を見て衝撃を受ける。中学より本格的にバレエのレッスンをスタート。バレエダンサーとして数々の賞に輝き期待を寄せられながら、2002年に劇団四季のオーディションを受けて合格。以後、『キャッツ』のミストフェリーズ、『コーラスライン』のリチー、『ウィキッド』のフィエロ、『クレイジー・フォー・ユー』のボビー、『アラジン』のカシーム役などを演じ、実力を発揮している。さかい・だい◎4月5日、東京都生まれ。11歳のとき大塚礼子バレエスタジオに入所。’07年ゴー・バレエ・アカデミーに、翌年ワシントン・スクール・オブ・バレエにスカラシップ留学し、ユース・アメリカ・グランプリなどで数々の賞を受賞する。’10年に谷桃子バレエ団に入団し、’11年『白鳥の湖』のジークフリート王子役を踊るなどソリストとして活躍。’17年、『パリのアメリカ人』のバレエダンサーオーディションに合格した。(取材・文/若林ゆり)
2019年01月18日酒井法子(47)が2つの裁判を抱えていると、発売中の「週刊新潮」(新潮社)で報じられた。同誌によると酒井が抱えている2つの裁判は今年7月に提訴された建物明渡請求訴訟と、今年9月に提訴した貸金返還等請求訴訟。7月に提訴された件は、原告が酒井の恩人である故人が会長をつとめていた建設会社。9月に提訴した件は原告が酒井で、被告が恩人の息子である建設会社社長だという。「会長と賃貸契約を結ぶ建設会社所有の物件に住んでいた酒井ですが、提訴されて追い出されてしまいました。それを受け、これまで貸し付けた総額1億2000万円の返還を求めて裁判を起こしたのです。返還を求めているお金は、会社が傾いた際の運転資金として酒井が貸したのではないかといわれています」(芸能記者)いずれも裁判は長期化しそうな気配だが、世間を震撼させた覚せい剤事犯での逮捕から9年。ようやく仕事が軌道に乗っているというのだ。「まだまだ地上波への出演は厳しいでしょう。しかし地方でのイベントのオファーは絶えず、年末はベトナムでのイベントに出演。今年も首都圏や関西でクリスマスディナーショーを開催。ネット配信ですが、ドラマへの出演も決定。女優業も本格的に再始動しています」(前出・芸能記者)あとは裁判がスッキリ解決してくれれば、さらに仕事に打ち込めそうだが……。
2018年12月03日酒井若菜撮影/吉岡竜紀寂しかったり、くじけてしまいそうな心に優しく寄り添い、じんわりと温かい気持ちにしてくれるエッセイの紡ぎ手である女優の酒井若菜さん。2013年から今年までの5年半の間にWebマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』と、自身が編集長を務める『marble』に書いたエッセイをまとめた『うたかたのエッセイ集』(キノブックス)を上梓(じょうし)した。■厳選された33編「ストックしてた原稿が700ページくらいあったので、読み返してみたインスピレーションで◯、△、×をつけていって、後から△を入れるか考えようと思ったんです。でも、◯だけで書籍になるくらいの量だったので、編集の方に“悩みだすと大変なことになるから、◯をつけたのだけでやりましょう”と提案していただいた感じでした。『メルマ旬報』の読者は主に男性で、『marble』は女性向けなので、読者層に合う内容を書いていた感覚だったんですけど、読み返してみると、わりと軸は同じだなって自覚しました(笑)」本書には日々の出来事、旅先での話、不思議な思い出、敬愛するという脚本家の向田邦子さんのこと、そして亡くなった家族についてなど33編が綴(つづ)られている。世間になじめなかったり、思い悩んでいる人たちのために文章を書いているという酒井さん。書くテーマは毎回どうやって選んでいるのか?「プライベートでも仕事でも、私はいつも何かしら誰かの悩みを聞いているので、それに答えられるものは何かないかと探している感じなんです。そのときにQ&Aのような“質問◯◯、答え□□”とやると芸がないかなと思って。エッセイとして間接的に答えることで、その内容が悩んでいる子にとっての解決の糸口になるといいな、と思いながら書いているんです」■自分の体験や思っていることを書きたい当の酒井さんは、とてもさっぱりとした性格なのだそう。「私、もともと承認欲求が極端に低いんですね。何かを伝えたいという欲もない。だから誰かの悩みに答える比喩(ひゆ)として、自分の体験を書いているだけなんです。例えば浮気されている女の子から相談されたら、“じゃあ別れればよくない?”で終わっちゃう可能性もあるんです(笑)。でも、その子の思いに真剣に答えるために自分の似た経験を引っ張り出して、“あのときの元彼の発言は、本当はこういう意味があるかもしれない”みたいな感じで、そこを探って書いていく。文章を書くからそうやって感情を引っ張り出すけど、普段の私とは違うので、読んだ方からよくギャップを持たれます(笑)」本書のカバーは酒井さんが「すごく大好きで、ずっとお仕事させていただきたかった」というイラストレーターの宇野亞喜良さんによるもの。「もうひとつ書籍の企画があって、それで宇野さんとご一緒できたらと編集の方と話していたんですけど、このエッセイを先に出すことになって。保留になった企画がいつ実現するのかわからないし、自分の感覚では宇野さんと今お仕事したいという気持ちが強かったので、思い切ってお願いしてみたんです。そうしたら即答で承諾してくださって。うれしかったですね!」宇野さんは原稿を何本か読み、打ち合わせをした際の印象でこの表紙の絵を描いてくれたそう。さらに、その打ち合わせの帰り道で、タイトルも決まった。「もともと『うたかた』というフレーズは頭にあって。宇野さんに“タイトルって考えているの?”と聞かれたとき、とっさに『うたかた』が出てきたんです。いくつか候補があったのに、その言葉が出たということは……と、運命的なものを感じて決定しました」■本は自分の分身であり、嫁がせる“娘”本は自分の分身で、みなさんのところへ嫁がせる娘と話す酒井さん。本書の楽しみ方を教えてくれた。「基本的には1日で一気に読んでほしいとは全然思っていなくて。読まなきゃいけない義務感みたいなものを持ってほしくないんです。だから“今日は1ページだけ”とか“今日はこの話だけ読もう”とか、気軽に読んでいただけたらいいなって思います。1冊読み通そうと思うとつらくなりますしね」今後はどんなものを書いてみたいのか?その胸中を尋ねてみると……。「ライトなエッセイになっていく感じはしてますね。年を重ねれば重ねるほど、ふざけられそうな気もするし。堅苦しい大人よりも、ちょっとふざけている人が書くエッセイのほうが、読んでて楽しいんですよ。私が大好きな向田さんにしても、阿川佐和子さんにしてもいい意味で軽さがありますよね。年を重ねてあんまりまじめなことばかり書いてると、説教っぽくなってくるじゃないですか(笑)。それは避けたいな、って思ってるんです」■ライターは見た!著者の素顔本書収録の『ツララ』は「私はモネが好きだが、モネを好きな男性はいまいち好きになれない。勝手な言い分」という書き出し。その真意を聞いてみると……。「それは訂正したいです!モネを好きな男性って繊細というか、ピュアすぎて傷つけちゃいけない、と当時思ってたんですかね。配色が女性的だからかな……今はそんなこと思ってないです(笑)」(取材・文/成田全)
2018年12月01日スタイリスト酒井美方子とセレクトショップバイヤー経験を持つ松本香織によるミュージアムショップ「MAISON No.8」が、東京・青山のギャラリー ミュベール(GALLERY MUVEIL)に「MUVEIL meets MAISON No.8」として、11月1日から11日まで期間限定オープンする。MUVEIL & MAISON No.8旅好きなスタイリストの酒井美方子と、10代から古着を愛用していた松本香織のフィルターを通して、シーズンごとに“いま気になる8つの宝物”を紹介するミュージアムショップ「MAISON No.8」。“Feel Vintage”をテーマに、一点物のヴィンテージやリメイククローズ、アートなど宝物のようなアイテムを展開する。第3弾となる今回は、MUVEIL & MAISON No.8のコラボレーションアイテムを始め、エルメス(HERMÈS)、シャネル(CHANEL)、SILK Shirts、PRINT DRESS、FLOWER ART POSTER、MIHOKO&SAKAI、MAISON No.8の8つをピックアップ。ミュベール(MUVEIL)のデザイナー・中山路子のヴィンテージ好きで服を大切に思う気持ちが一致し実現した「MUVEIL & MAISON No.8」は、MAISON No.8のユーズドミリタリーアイテムにミュベールのパーツを組み合わせた特別なアイテムが登場する。この他、1950年代の雑誌から切り抜いた広告の1ページや、食器、アクセサリー、スカーフなどのエルメスのアイテム、ポケットや襟のディテールが様々なユーズドシルクシャツ、年代を問わないロゴスウェットやニット、リーバイス®(LEVI’S®)のデニム、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)のシューズやスカーフなどのユーズド商品、MAISON No.8のオリジナル商品などが並ぶ。宝物のような一点を探しに、訪れてみては?【イベント情報】MUVEIL meets MAISON No.8会期:11月1日〜11月11日会場:ギャラリー ミュベール(GALLERY MUVEIL)住所:東京都港区南青山5-12-24 シャトー東洋南青山B1F時間:11:30〜20:00
2018年11月01日9月8日、酒井若菜(38)がTwitterアカウントを復活させると自身のブログで発表。15年5月にTwitterの休止を発表していた酒井は、当時Twitterについて「ポップすぎる」「メルマガとブログで十分かな」とブログで語っていた。酒井は今回の復活にあたり「どうしても性に合わなければ心置きなくしれっとやめます」とコメント。いっぽうで「でもせっかく始めるのなら、あらたな気持ちで楽しもうと思います」と意気込んでいる。グラビアアイドルとして絶大なる人気を誇った酒井は、97年のドラマ「サイコメトラーEIJI」(日本テレビ系)に出演し女優デビュー。02年の「木更津キャッツアイ」(TBS系)や04年の映画「恋の門」で女優としての存在感を発揮していたなか、05年6月に急性胃腸炎で主演舞台を降板。以降マイペースに女優業を邁進している。そのいっぽうで、近年は文筆業にも注力。08年に小説「こぼれる」で作家デビューを果たすだけでなく、webマガジン「marble」で編集長を務めるなど幅広く活躍している。今回の復活に、ファンはもちろん喜びもひとしおだ。Twitterでは《marbleやアメブロも楽しみだけど、文字数の制約がある中で発信される言葉も楽しみにしてますね》《待っていました。また若菜ちゃんの言葉に触れられるのが、とても嬉しいです》《以前のTwitterもフォローしてました。すごくすっごく嬉しいです》といった声が上がっている。「病に伏し休養するなど苦い経験を重ねてきた酒井さんですが、今期ドラマでは『透明なゆりかご』(NHK総合)や『グッド・ドクター』(フジテレビ系)に出演。その好演ぶりは、業界でも業界随一だと評価されているのです。Twitter復活を機に、その女優力もさらに注目されるのではと期待されています」(芸能関係者)これからの活躍にも期待したい!
2018年09月09日