2021年3月11日 06:00
3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
あとでわかったんですが、生真面目な母らしく、この日、地震直後から私や弟、自分のきょうだいたち全員に、同じような電話を入れてるんです。まるでお別れのメッセージの代わりみたいに」
東京の街なかでテレビを探した理恵さん。最初に目に飛び込んできたのは、仙台空港が津波に襲われている定点カメラの映像だった。
「それを見た瞬間、気仙沼もひどいことになってるだろうなと、わかりました。でも、地震や津波が比較的多い土地柄、避難訓練はしょっちゅうやってましたから。両親も近くの避難所に、きっと逃げてくれているだろうと、そう思っていたんですが」
しかし、いっこうに喜代美さんたちは見つからなかった。9日後の3月20日、理恵さんは弟や生島さんの弟・隆さん親子とともに、気仙沼に飛んだ。
「ヘドロでぬかるみ、どろどろのなか、やっとたどり着いた実家は、基礎部分だけを残し、建物は跡形もなくなっていました。
ものすごくショックで悲しいのに、不思議と涙は出ません。本当に悲しいときは泣けないものだと、知りました」
理恵さんたちはその後、避難所を巡って両親を捜した。
「そのころになると、助かった人たちは続々と連絡が取れるようになってきてました。