2021年3月11日 06:00
3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
それが故人のいちばんの供養になる、とも書かれてました。
つらいし、決して忘れることなどできません。でも、亡くなった人のぶんまで、2倍も3倍も生きることを謳歌する、それが遺った者のすべきことと僕は思うようになりました」
■遺体安置所にも足を運んだ。その時の光景は目に焼き付いている。
「震災のあのとき、私は東京にいました。たしか、高輪周辺にいて仕事のため移動中でした」
こう話すのは、生島さんのめい・亀井理恵さん(42)。気仙沼で行方がわからなくなってしまった喜代美さんの長女だ。震災当時は生島さんが設立した芸能事務所のスタッフとして働いていた。
「その晩から、両親は私の部屋に泊まりにくることになっていて、ほんの1時間前にも母と電話で話したんです。そのときは『あとでね』と電話を切ったんですが……」
じつは地震発生から6分後の午後2時52分、理恵さんの携帯電話に、母からふたたび着信があった。しかし、どういうわけか着信音は鳴らなかった。直後に気づいて折り返したものの、母の電話につながることはなかった。留守番電話に母が残したのは、生島さんの妻に告げたのと、同様の言葉だった。
「『揺れがひどいから今夜は行けない』と。