2021年3月11日 06:00
3.11から10年。生島ヒロシ振り返る母の遺骨と妹を津波に奪われた日
でも、うちの両親は9日たっても音沙汰がない。それが何を意味するか、私なりに理解し、覚悟を持っていました」
大勢の犠牲者が眠る、遺体安置所にも足を運んだ。
「そこで、犠牲になられた方の顔写真を何枚も見て。東京の親族からは『トラウマになるから行かないほうがいい』とも言われましたが、私が行かなきゃ父母を捜せない、そう思ってましたから。でも、やはり衝撃的で目に焼き付いてしまって。いまもときおり、あの人たちの顔が浮かんできます」
そんな思いまでして訪問した遺体安置所に、両親はいなかった。「少しホッとした」という理恵さん。その足で警察に出向き、DNAのサンプルとともに、両親の捜索願を出して、東京に戻った。
■葬儀のタイミングで遺体を発見。「私たちにメッセージをくれた」
震災からおよそ半年後。理恵さんたち家族は、遺体なきまま両親の葬儀を執り行うことを決めた。
「葬儀の1週間ぐらい前、宮城県警から、もしかしたら母かもしれないご遺体が見つかった、と連絡が。その写真をひと目見て、私は『母だ!』と。着ているものもそうですけど、もう直感的に、間違いないって。でも、まだ100%確定ではないということで、県警の方が、おじたちのDNAも採るために9月4日、葬儀の会場に来てくれた。