2022年より双子選手としてJリーグで活躍し、日本代表でもプレーした佐藤勇人氏、佐藤寿人氏が、 ジュニア年代における国内最大規模のサッカー年間リーグ「プレミアリーグ U-11」のアンバサダーに就任したことが発表されました。【関連記事】プレミアリーグ U-11 チャンピオンシップ3 年ぶり開催お二人はアンバサダー就任にあたって以下のコメントを寄せました。佐藤勇人氏、佐藤寿人氏 コメント「子供たちにとって、試合をすることが何よりの喜びであり、成長の源です。そうやって僕たちも小さい頃から試合を経験して成長してきました。プレミアリーグ U-11の3 ピリオド制で全員が試合に出られる仕組みは素晴らしいと共感して、このたび2人でアンバサダーを務めさせていただくことになりました。日本中の子供たちがプレミアリーグU-11 を通じてたくさんの笑顔になって、たくましく成長していくことを願っています」<プレミアリーグU-11とは>「豊かなサッカー文化を日本中に広めること」、「少年サッカーに関わる人を幸せにする環境づくり」をミッションとし、サッカーの育成年代におけるソフト面のソリューションとして発足。2021年までに全国37都道府県に拡大、約600チームが参加、約4,000以上の試合を実施する日本最大の私設リーグ。負けたら終わりのトーナメント方式の公式戦では、いわゆる「上手な子」しか試合に出られない勝利(成績)至上主義が根強い日本のスポーツ文化の現状に対する問題意識からスタートしており、「力の拮抗した相手と、年間を通じてホーム&アウェイを戦う」カテゴリー分けされた育成重視のリーグ戦を編成し、「全員出場」「3ピリオド制」など、他にない独自の競技規則を設け、『補欠ゼロ』への取り組みを行なっています。大会ホームページはこちら>>お問い合わせプレミアリーグU-11実行委員会 事務局担当:佐々木電話:090-4590-5713Email:sasaki@pl11.jp
2021年12月24日株式会社インフィオラータ・アソシエイツは、藤川靖彦の活動20周年を記念し、「花絵師 藤川靖彦×インフィオラータ 20年の軌跡展」を、11月6日(土)~14日(日)まで、芝浦のSOW CO.Galleryで開催します。公式ホームページ: キービジュアル世界的な花絵師として国内外で活動する藤川靖彦が、2001年10月、イタリア発祥のフラワーアート「インフィオラータ(花の絨毯)」を日本で初めて開催し今年20周年を迎えました。従来のスタイルにとらわれず、“伝統と革新”をテーマに新しいスタイルの作品を発表し続け、2012年には日本代表として世界大会に出場、その後アジア圏初の国際連盟理事となり、世界を舞台に活動が始まりました。2012年の世界大会で発表した、藤川のオリジナル作品「花歌舞伎(浮世絵の役者絵を花で描いた作品)」は、大きな話題を呼び、その後国内外の様々なメディアで紹介されています。今回の展覧会では、これまでの20年間の歴史を写真や原画、作品等で紹介していくとともに、花絵師 藤川靖彦の代表作である「花歌舞伎」や、水谷千恵子、谷口亮、白井貴子等、様々なアーティストとのコラボレーション作品も展示します。また、特別展を11月11日(木)~14日(日)まで、東京ミッドタウン日比谷1階アトリウムで開催します。2015年にスペインのガリシア州に招かれ創作し、「情熱大陸」でも紹介された歌川国貞作“今様押繪鑑 白拍子櫻子”を、10,000本の生花を使い巨大な花絵で再現します。さらに期間中はゲストを招いてのトークイベントやワークショップも開催、展覧会を通じて、多くの方々に花絵の魅力を伝えていきます。■開催概要<メイン会場>●開催会場 SOW CO.Gallery(東京都港区芝浦2-17-9)●開催日時 11月6日(土)~14日(日) 11:00~19:00 ※日曜日は17:00閉館●観覧費用 1,000円(税込) ※会場でも購入いただけます<特別展会場>●開催会場 東京ミッドタウン日比谷1階アトリウム(東京都千代田区有楽町1-1-2)●開催日時 11月11日(木)~14日(日)●観覧費用 無料<共通>●公式ホームページ ●主催 株式会社インフィオラータ・アソシエイツ●共催 一般社団法人花絵文化協会●後援 Coordinadora Internacional de Entidades de Alfombristas de Arte Efimero/InterFM897●会場協力 東京ミッドタウン日比谷●協賛 株式会社ポピー/株式会社アース※文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業■みどころ<メイン会場>20年の軌跡を10のゾーンで紹介。●フラワードレス水谷千恵子さんがデザインしたドレスを、フラワードレスにして再現。フラワードレス●花衣雪だるま谷口亮さんがデザインした“ヌヌコ”のサンタクロースを、花の雪だるまで制作。背景にはペイントアーティスト さとうたけしさんが、フィンランドのクリスマスをペインティング。●花歌舞伎花絵師 藤川靖彦が海外で創作した「花歌舞伎」4作品をアーティフィシャルフラワーで創作。花歌舞伎●Flower's YELL東日本大震災の被災地に向け、白井貴子さんがデザインしたFlower's YELL作品「Try Try Again」を、アーティフィシャルフラワーで創作。●花mal藤川靖彦がアフリカのサバンナで撮影した野生の動物たちの写真と、街や旅先で撮った花の写真をコラージュさせた新作作品「花mal」。人間国宝の和紙職人 岩野市兵衛さんとコラボレーションした5枚の作品を展示。花mal●サンドアート平安時代から室町時代にかけて熱狂的に流行った“能楽”の一源流である「田楽」をモチーフに、花舞台で舞う田楽法師たちが、世界の平和を祈念した壮大なデザインを、130時間かけて創作したサンドアート。<特別展会場>2015年に「情熱大陸」で紹介された歌川国貞作“今様押繪鑑 白拍子櫻子”を、10,000本の生花で、30m2の巨大な花絵として創作。■ギャラリートークイベント現在、花絵師 藤川靖彦が番組DJを務めるInterFM897レギュラー番組「Flower's YELL」の公開ライブトークを、多彩なゲストを招いて行います。<メイン会場>●11月7日(日) 14:00~ ゲスト:ジェームス小野田(米米CLUB) ※ライブ演奏あり●11月13日(土) 17:00~ ゲスト:白井貴子(シンガーソングライター)●11月14日(日) 13:00~ ゲスト:杉野宣雄(押し花作家) ※作品公開制作あり<特別展会場>●11月11日(木) 17:00~ ゲスト:真戸原直人(アンダーグラフ)●11月13日(土) 13:00~ ゲスト:白井貴子(シンガーソングライター) ※ライブ演奏あり■ワークショップ期間中、メイン会場では、アーティフィシャルフラワーの小さなフラワービーズを並べて、箱の中に1枚の花絵を完成させるテーブルインフィオラータ「花の箱庭」のワークショップを随時開催します。ご購入いただいたキットを、会場内にて作品に作り上げることができます。●参加費用 3,000円(税込/花の箱庭キット購入費)■藤川靖彦 プロフィール藤川靖彦 YASU FUJIKAWA花絵師 / Flowerscape Artist株式会社インフィオラータ・アソシエイツ 代表取締役社長1961年東京生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。限りある命=Ephemeralをテーマに、国内外において花やキャンドル等を使ったエフェメラル・アートを創作。大地をキャンバスに花びらで描く花絵「インフィオラータ」の日本の第一人者で、現在まで国内外350ヵ所以上で作品を創作・プロデュースし年間150万人以上の集客をはかるアートイベントへと育て上げた。近年は海外で歌舞伎絵を花で再現する「花歌舞伎」の創作活動を積極的に行っており、世界各地から創作の依頼が殺到している。2015年6月スペインでの創作を、毎日放送「情熱大陸」が密着取材を行い、大反響を呼んだ。これを機にテレビ・ラジオ・新聞・雑誌・WEB等に数多く出演中。またローマ法王やベトナム共産党書記長等、VIPに捧げる作品も創作する。・一般社団法人花絵文化協会代表理事・エフェメラル・アート国際連盟理事・日本ディスプレイクリエイター協会 アンバサダー・エンジン01文化戦略会議会員 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年10月29日2021年7月27日付にて、YouTubeチャンネル『佐藤 健 / Satoh Takeru』では、佐藤さんの報告動画を配信中です。今回の動画で、佐藤さんは、念願だった自作『ルームウェア』の完成と販売開始を報告。自分で着る服にこだわる佐藤さんは、2020年にオリジナルブランド『A』を立ち上げました。この『A』は、『Answer』の頭文字を意味し、テーマは、『SIMPLE』『FIRST』『ONE』の3つ。これまでにもタートルネックやコートなどの衣服を販売しており、初めてデザインしたタートルネックは、販売開始から1時間も経たないうちに『即完売』したそうです。今回の『ルームウェア』で、佐藤さんがとにかくこだわったのは『着心地』。動画でも、実際に着用している佐藤さんが、裏地の肌触りのよさや動きやすさをアピールしています。中でも『極めつけ』のこだわりは、首の後ろ部分に付いていることの多い『タグ』がないこと。敏感な人が首の後ろに感じる『チクチク感』がなくて、快適だそう。そんな『ルームウェア』のお披露目後は、『男の色気』がただようベッドルームでのインタビュー動画も収録されています。スリーサイズの展開で、カラーはネイビー・ブラウン・カーキと、やや渋め。ブランド『A』の文字が正面に小さく刺繍された至ってシンプルなデザインで、着用している佐藤さんの表情を見ても、とてもリラックスできそうですね。[文/AnyMama(エニママ)・構成/grape編集部]
2021年08月24日白濱亜嵐撮影/佐藤靖彦「おじいちゃんが僕に医者か自衛官になってほしいと思っていたらしいんです。外科医をしている叔父の病院に入院しているおじいちゃんにテレビ電話をしたら“白衣を着た亜嵐の姿が見られるからうれしい”と言ってくれて。おじいちゃん孝行ができたかなと思っています」現役の外科医で作家でもある中山祐次郎さんの同名小説をドラマ化した『泣くな研修医』で、主人公の研修医・雨野隆治を演じている白濱亜嵐。初挑戦の医師役に、研修医に関する本を読んだり、現役研修医が書いているブログに目を通したりしながら役を作り上げていった。正義感が強く、熱血でまっすぐな雨野が白濱と重なると伝えると、「あまり役作りが必要ないというか(笑)。演じやすいですね。ただ、雨野のような“見栄っ張り”な部分は僕自身にはないと思います。タイトルにあるように、研修医の雨野は打ちのめされるたびに、泣いてしまうことが多い。ただ、僕がドラマや映画、芝居を見るとき、その役柄が泣くのを我慢したり、耐えたりしている姿に感動するというか、心が動くことが多いんです。なので、雨野が耐えている瞬間を特に見てほしいですね」■患者に寄り添う医師、感じる命の大切さドラマの中で、“(研修医とは)医師のために何でもする兵隊。いかに医者が機嫌よく仕事ができるかだけのために存在している”という看護師のセリフが。医師ではあるが、知識も経験も浅い研修医たちは、何もできず、何もわからず、先輩医師や看護師たちから怒られながら、患者を前に無力である現実に打ちのめされる。「いろいろな患者さんとお会いするのですが、それぞれの人生があって、ドラマがある。医療モノって難病を治すスーパードクターが出てくる作品が多いと思いますが、このドラマは違います。患者さんに寄り添う医師たちの姿をすごくリアルに描いているので、改めて命の大切さを感じています」■泣いてしまうほどかわいい存在医療用語やほかの主演ドラマの1.5倍はあるという長いセリフが大変ながらも、楽しんでいると瞳を輝かせる。ドラマのタイトルにからめ、泣いてしまうほど愛犬・レックス(ラブラドゥードル)がかわいいと感じた瞬間を聞くと、「つねにかわいすぎると思っているんですけど(笑)、このあいだ撮影で長いお留守番をしてもらったんです。家に帰ったとき、3年ぶりに再会したくらいのテンションでジャンプしながら飛びついてきてくれたときは、うれしかったですね。あと、僕がソファに座っていると、いつも横にいて。たまたまレックスのお尻のあたりに顔がくる感じで横になっていたときに、おならをされたんです。犬って自分がおならをしたって気づかないらしいんですが、その臭いおならでさえ愛おしいというか(笑)。明るくて、人懐こい性格で誰とでも仲よくなれるんです、うちのレックス。飼い主に似ているかもしれないですね」ハマっているスープ作りいまは撮影中であまり作れていないんですが、スープ作りにハマっています。自分で味つけできるのが好きで、豆乳を入れたらクリーム系にもなるし、韓国っぽく食べたいなと思ったらそうすることもできる。実験に近い感覚で、面白いんですよね。いつも、冷蔵庫にある残り物で作るようにしています。今回のドラマで同じ研修医として共演している野村周平くんからもらった太刀魚でもスープを作りました。(所属する)GENERATIONSのメンバーにも飲ませてあげたいですね。みんな味覚バカだから、美味しいって言ってくれると思います(笑)。最近、泣くくらいうれしかったこと弟の成績がすさまじくいいんです。塾にも行かず、頭がいい。僕と10歳違って、小さいときに子守をしていた弟なので、うれしいですね。いつも両親が弟の通信簿とか模試の内容をメールで送ってくれるんですが、英語だと全国1位をとったこともあるんですよ。今、高校3年生で進路に迷っているみたいです。ただ、芸能界に入ることはないと言ってました。兄としては、のびのび何でも好きなことしてくれたらいいなって思います。主演の土曜ナイトドラマ『泣くな研修医』(テレビ朝日系、毎週土曜、夜11時〜)
2021年05月15日中井貴一(左)と向井理(右)撮影/佐藤靖彦山崎豊子の不朽の名作が、WOWOW開局30周年記念作品としてドラマ化。大阪万博を控えた高度経済成長期に、富と権力獲得の手段として関西政財界で閨閥を張り巡らす阪神銀行の頭取・万俵大介を中心に、一族の繁栄と崩壊が描かれていく。その主人公・大介を演じるのは中井貴一、万俵家の長男で、阪神特殊製鋼・専務の鉄平を向井理が熱演。本格共演は初めてという2人が、親子を演じた感想から近況までを、たっぷりと語った。■中井家&向井家の共通点は餅つき!?――自らの夢と野望の実現の中で次第に確執が深まっていったりと、難しい親子関係でしたが?中井そうですね。現場では和気あいあいという感じではまったくなかったんです。向井くんは鉄平という役をとっても真摯に受け止めている。大介との距離感とか非常に考えていて、なるべく話しかけないほうが作品にもプラスになるというのを感じました。向井貴一さんにはお聞きしたいことがたくさんあったので、お話しするタイミングがなかったのは残念ですが、まずは現場が優先。もちろん、ずっといがみ合っているドラマではないので、食事のシーンとかでピリッとした空気を貴一さんが柔らかくしてくださったり、雰囲気を自在に変えてくださって、すごくやりやすい現場でした。――ドラマの中で、万俵家では正月にホテルでみんなで集まったりなどといろんな仕来りが。中井家と向井家には、そういう定番はありますか?中井正月は昔から自宅で過ごしていますね。向井そうなんですね。中井結婚してからは、友人・知人を呼んで、餅つきをしていました。お米屋さんから臼と杵を借りて、みんなが連れてきた子どもたちに食べさせて。それを7〜8年くらい続けていたんですが、大みそかからの準備が大変。さすがに疲れてやめました(笑)。向井餅つきでしたら、仲よくさせていただいている相撲部屋に毎年年末に行って、餅を一緒について子どもに食べさせていました。ここ数年は行けてないんですが。あと向井家では、両親が関西なので鯛のお頭を焼いて、男性がほぐしてみんなで食べるというのをいまでもやっています。なぜ男性なのか理由は知らないのですが、子どものころから僕がほぐしてましたね。■先輩から後輩に渡しておきたいバトンとは?――開局30周年記念作品でもある本作ですが、中井さんも今年で60歳の節目の年です。中井この仕事を始めて何周年とか、年齢が50を越えるとか、節目の年ってあまり興味がなかったんです。でも、還暦って言われ、“ん?”と思う瞬間がちょっとあって。今までは“5年後にはこういう仕事をしたい”というのはあったんです。でも、仕事だけではなく、“自分の人生をどう締めくくっていけばいいか”とか、そういうことも考えなければいけないのかなと60歳を迎えるにあたり、思うようになりました。――ちなみに、向井さんは来年で40歳に。中井まだ40なの!向井僕としては“もう”という感じですが(笑)。芝居について、先輩たちから貪欲に吸収しようと思う反面、そろそろ後輩に伝えなければいけないのかなって思うようになってきました。例えば昔、戦争ものをやったとき、役作りのため自衛隊に泊まり込みで所作などを教えてもらったことがあって。そういう経験ってなかなかできないじゃないですか。芝居って生き方みたいなものが反映されると思うし、経験のない後輩にも伝えていきたいと思いますね。中井それでいうと、30代前半に『戦艦大和』という作品をやったときに、現場に御年が70くらいの方が4人ほどいたんですが、話を聞いたら撃沈されたときの乗組員だったんです。向井すごいですね!中井もう“えっ!”ってびっくりして。その方からどんな状況だったのか、などお話を伺ったんですが、そういう経験を向井くんたち後輩に、バトンを渡すように伝えておかないとダメだなと。60歳になるからじゃないけど、そういう焦りも少しあります。――では、次回共演するならどんな役でご一緒したいですか?中井仲のいい役(笑)。向井親子じゃないほうがいいかもしれません、関係性が面倒になりそうですし(笑)。中井あとは今回、(コロナ禍で)打ち上げもないし、5か月一緒にいてスタッフみんなで食事にも行けなかった。向井普通にご飯に行ける時代に戻ってほしいですよね。今度は、いろんなお話ができるといいなと思います。ここだけの〝華麗なる〟エピソード向井ダジャレみたいになっちゃいますが、現場でカレーをたくさん食べました(笑)。中井向井くん細いのによく食べるんですよ。何杯食べたっけ?向井3杯です。中井しかも、1皿が結構な量で。ただ、僕が“よく食べるね〜”とあまりにも言うので、それからは気にしながら食べていたみたいですが。向井(笑)。――中井さんは?向井そういえば昔は、打ち上げをハワイでやったりしてたって聞いたことあります。中井僕はハワイではやったことないけど、打ち上げの景品もたくさんあったし、ハワイ旅行が当たったりするのもありました。特にバブルのころは、規模が全然違いましたね(笑)。『連続ドラマW 華麗なる一族』WOWOWプライムほか毎週日曜夜10時〜放送・配信中原作:山崎豊子『華麗なる一族』(新潮文庫刊)ヘアメイク/藤井俊二(中井)、石井薫子(向井)スタイリスト/宮本まさ江衣装協力/D’URBAN(向井)
2021年04月25日大地真央撮影/佐藤靖彦「ズバズバ言って、バサバサと斬っていく痛快なところが魅力だと思います」大地真央が、東海テレビ制作のオトナの土ドラ『最高のオバハン中島ハルコ』(フジテレビ系土曜夜11時40分~)に主演する。名古屋の超セレブで美容クリニックを営む外科医の中島ハルコが、悩める人や世の問題に斬り込む1話完結の痛快エンターテイメント。林真理子原作で、コミック化もされた人気作品のドラマ版だ。 “オバハン”のイメージがない大地。オファーについては、「ビックリしましたが、うれしかったです。私が演じたら面白いんじゃないかと言っていただき、やってみたいと思いました」毒舌家でパワフルなハルコは周囲を振り回していく。「何でもできちゃうスーパーウーマンなので、他人にも“何で(できないの)?”と上から目線になってしまうところがあるんですよね。でも正義感があって忖度しないから、みんなから頼りにされる人なんだと思います。言いづらいことも言えてしまうハルコさんは、今の世の中にこんな人がいたらいいな、私も出会いたいなって思わせてくれる魅力的な人です。実際に言われたらキツいかなとも思いますが、楽しく前向きになれて元気をもらえると思いました」■シャワーで悩み解消 “頼りにされる”のは、宝塚のトップスターとして活躍し、数々の舞台で座長を務める大地とも共通しそう。「相談されることは多いかな。でもハルコさんみたいには言わないですよ(笑)。自分の悩みや相談事は、夫や親友にすることもありますが、自問自答することが多いです。シャワーを浴びながら、ネガティブな言葉は心の中で言って、ポジティブな言葉を口に出して言っているうちに“私って変な人”と笑って、気がつけば元気になっていることが多いです。ハルコさんに相談?特に今のところは悩みを打ち明けるようなことはないですかね(笑)」ハルコの印象的なセリフのひとつに、“私の持論はね、くよくよ悩むのは時間の無駄。すなわち、本来稼げるはずのお金の無駄なのよ!”(第3話、24日放送)をあげた。「私が指針にしているのは、父が言っていた“人生の波に逆らうな”。なるようになるとは違うんですが、自分が誠実に生きていれば、ちゃんと波に乗っていけると解釈しています。人生はいい時も悪い時もある。悪い時に悩んであがくより、今はそういう時なんだからと受け止めようと思うようにしています」■積み重ねて50年へ、挑戦と好奇心が糧2年後には宝塚の初舞台から50年を迎える。「改めて振り返るとビックリします。続けてこられたのは、運がよかったのと……努力かな(笑)。舞台に対して1回1回誠実に向き合う。そのためにはまず心身の健康管理。お客様は、基本1回しかご覧にならないと思って演じています。“今日はいまいちだったけど明日、頑張ればいいや”では、その日のお客様に失礼だと思うんです。そう思って1日1日、1回1回、大切に、大事に積み重ねてきただけなんです。こんなに長くやらせていただけていることに感謝しかないですね。今までの作品すべてが自分の財産になっています。いろんなことに挑戦する気持ちや好奇心をこれからも持ち続けていたいですね。今回のドラマでは7変化ならぬ10変化で、いろんなことを思い切って演じているので、楽しんでいただけたらと思います」10変化と名古屋メシドラマの見どころのひとつは、第1話の2億5000万円超えのショーメの豪華ネックレスを身に着けるなどハルコの変化ぶり。名古屋の中心街でのライブシーン(第2話、17日放送)のほか占い師、剣道、レーシングカー、ボートレースのハイテンション応援などが登場する。「ハルコさんは半端なことはしないので、体力がいりました(笑)」ハードスケジュールの撮影は、名古屋名物で好物のひつまぶしを差し入れして乗り切った。猫に癒されています!忙しい仕事の疲れを癒してくれるのは、4匹の猫たち。「15歳、13歳、8歳、5歳のメインクーンという種類。全員オスです。疲れていても笑顔になれますよね。ペットではなく家族ですね」美魔女の健康法「朝起きたら、うがいを丁寧にする。太陽を浴びる。水500ccを飲む。旬の野菜とフルーツで作ったスムージーを飲み、目玉焼きを食べます」実践してみる!?スタイリスト/江島モモヘアメイク/猪狩友介衣装/マックスマーラ ジャパン、サバース
2021年04月24日江口のりこ撮影/佐藤靖彦高視聴率ドラマや話題作で存在感を発揮する最も旬な女優・江口のりこ。週刊女性のグラビア初登場の本人に、ブレイクの実感と本音を直撃!昨年の大ヒットドラマ『半沢直樹』での野心的な代議士役を好演し、『俺の家の話』『その女、ジルバ』など話題のドラマに出演。今年の日本アカデミー賞では、映画『事故物件 恐い間取り』で優秀助演賞を初受賞し“怪演女優”と紹介された。CM出演も多くなり、露出も注目度も高い。「ブレイクしたと言われたりしますが、そんな実感はまったくないです。これまでもそれなりに働いてきたので急に忙しくなったみたいなことはないです。以前と何が違うかといえば、自分が出演した作品の視聴率がよかったりしたので、見てくれた人が多かったということだと思います。私自身は何も変わらず、現場に行って芝居をするだけです」女優を目指すようになったのは中学生のとき。「そのころは学校が楽しくなくて、テレビで映画をよく見るようになって、面白いな、と。(女優は)いろんなことができそうで、今の自分の退屈な暮らしとは全然違って楽しめそうだな、と憧れるようになりました」兵庫から上京して『劇団東京乾電池』に入団。2002年『桃源郷の人々』で映画デビュー。以降、映画、ドラマ、舞台で活躍し、役者生活は20年になる。「やめたいと思ったり、嫌いになったりすることはなかったですね。理由は何でしょうね……。やっぱり芝居が楽しいからかな。面白いけど、すごく難しいので、いつまでたってもわからないから、ずっと続けていられるんだと思います」■民放連ドラ初主演、絶叫マシンに期待4月2日にスタートしたドラマ25『ソロ活女子のススメ』(テレビ東京ほか毎週金曜深夜0時52分~)では、民放テレビ局の連続ドラマに初主演。ひとり時間を楽しむ女性を演じている。第1話では、ドレスアップしてリムジンを貸し切ったゴージャスな夜を体験した。「台本を読んで知らなかった遊びがたくさんあると思いました。私も割とひとりで買い物や映画を見に行きますが、ソロ活は、いろんな遊びに興味を持てるか持てないかだと思います。リムジンに乗るにしても、乗ってみたい?と聞かれたら乗ってみたいと思うけど、わざわざ時間をつくって予約して準備をする、そこまでして乗りたいという気持ちにはならないので、遊ぶことに前向きな人の活動だなと思います」今後は遊園地、立ち飲み、気球、フランス料理のソロ活が予定されている。「楽しみにしているのは遊園地で絶叫マシンにたくさん乗れることです。怖いなと思いつつも少しワクワクしています。自分のお金と時間を使って乗りに行くことはないと思うので、ドラマで連れて行ってもらえるのは、うれしいです」自身のソロ活は、お決まりの過ごし方をする。「しょっちゅう出かけますが、散歩したり喫茶店に行ったりするのが定番で、あれやこれやはしないですね」■16年ぶり話題作に出演、飽き性でも女優は……主演ドラマと並行して、日曜劇場『ドラゴン桜』(4月25日スタート、TBS系日曜夜9時~)に、主人公と対立する学園理事長役でレギュラー出演する。16年前に放送された前作では、生徒を惑わす暴走族役で出演していた。「16年前に1日、2日撮影に参加しただけなので、そういえばやったなという感じです。以前の役をそのまま演じるわけでもないので(16年ぶりの出演については)私としては頑張って撮影していくだけです」役作りは現場に入ってから。「役作りというのは、よくわからないけど、セリフをしっかり覚えて、現場に行って、監督や演出家の言うことを聞いて演じようという感じです。いただいたオファーは、できる限りやります。最初から何か条件があってやるという仕事の仕方はしないです。やってみたら面白いんじゃないかという勘や感覚みたいなことだと思います。先のことを考える余裕はなく、まずは健康に気をつけたいと思っています。健康法はよく眠ることです。ジムは行ったことがないです。ストレッチはしますが、習慣にしようとしても続かない。飽きっぽい。趣味もなくて、今の楽しみは寝ることですね」唯一、飽きることがない女優の仕事。さらなる活躍が楽しみです。遠くに行きたい!コロナが収束後にしたいのは海外旅行。「ドイツ、アメリカに行きたいです。理由?家族が住んでいるので会いに行きたいです!」見どころは、ひとり遊びだけじゃない「ドラマ(『ソロ活女子のススメ』)は、ひとり遊びでここまでできるんだという楽しさもあるし、ひとりの人間がひとりで遊んでいくうちに人との関わりを持てるようになる成長過程もあるので、そういうところも見ていただければと思います」ヘアメイク/廣瀬瑠美スタイリスト/清水奈緒美
2021年04月11日八嶋智人と渡辺えり撮影/佐藤靖彦箱入り娘のお嬢様とおっちょこちょいの手代が珍道中を繰り広げる舞台で共演する渡辺えりと八嶋智人。ともに劇団出身で長年、親交のある先輩後輩による爆笑秘話。■クリアすべき課題が「多すぎますよ(笑)」――舞台『喜劇お染与太郎珍道中』の感想は?渡辺えり(以下、渡辺)難しい戯曲だと思っています。シンプルなストーリーですが、それを役者が個性で笑わせる。でも、役者にとっては大変やりがいのある芝居ですね。三木のり平さんと京塚昌子さんの初演(1979年)は見てはいませんが、おそらくお客さんが大笑いしながら喜んでいたんだろうな、と想像しています。以前、のり平さんの舞台(『雲の上団五郎一座』)を拝見したときに、セリフの行間を面白く埋めていくかのようなのり平さんのひと言や演技に(共演者が)みんな笑いたいのを我慢しながら震えていたんですよ。安井昌二さんおひとりだけ笑っていなくて、あとは全員が笑っていて、お客さんも笑い転げて椅子から落ちるほどでした。もし自分が出演者だったら安井さんみたいに笑わないでいられるのかな、と考えちゃいました。今度は自分があそこまで笑いをもたらすことができるのかなと思うと、どんどん緊張してきて今は怖くなっています。八嶋智人(以下、八嶋)個性というのもありますが、のり平さんがやっていらした東京の喜劇には、面白さの中に悲しみ、怒りも入って芝居に仕上げている。そういう東京の喜劇人の粋みたいなところには関西人の僕は、なかなか到達できないだろうな、と。今回ご出演の錚々たる先輩陣は憧れてきた役者さんばかり。でもお弁当でいうと揚げ物が山盛りなくらい個性的です。それが東京の喜劇の粋に包まれて、決して油っぽくなくおいしく食べて(見て)いただけると思いますよ。――喜劇での共演は初めてになりますが、相手役としては?渡辺心配です(笑)。八嶋君は漫才でいうと普段からツッコミ。今回はボケ役。私の役はツッコミでもないので、その加減がすごく難しいだろうと思っています。私が演じる苦労知らずのお嬢様育ちのお染が、本当の愛情を知って(八嶋演じる与太郎に)ひかれていく。リアルな気持ちを持ちながら一生懸命にやればやるほど笑っていただけるのではないかと思っています。わざと笑わせるような芝居はせずに存在感で演じようと思っています。八嶋君は「あとは、えりさんにお任せ」みたいなところがあるので、そこが心配です。八嶋俺がダメみたいじゃないですかっ(笑)。でも確かに、おとぼけ系はやったことがない役ですね。渡辺カムカム(八嶋所属の劇団『カムカムミニキーナ』)では、ツッコミ役を見ているし、二枚目も演じられる。いろんな芝居ができるうまい人だけど、今回のようなおっとりした役を見たことがないので新境地ですよね。今回、共演者に昔からの知り合いや友達が多いのも心強いですね。でも、宇梶(剛士)君に「(お染と恋仲の)重三郎様」と言うのが照れくさくて照れくさくて、できるのかな。吹いちゃうかも。役者としてクリアしなくちゃいけないことが多すぎますよ(笑)。八嶋共演のみなさんは、面白い方しか出ていないですからね。みなさん僕なんかよりも経験値の高い大好きな先輩ばかり。「先輩のみなさん、どうぞ僕をよろしくね!」って感じです。■「土下座した」苦い思い出――劇団出身のおふたりの出会いは?八嶋僕が20代前半のとき池袋のある小劇場で、(渡辺主宰の)劇団3〇〇の『タイム』を上演することになって、そこに客演したんです。でも結局、芝居作りが初日に間に合わなくて(芝居が)できているところまでを上演するしかなくなって。その初日に、作者であるえりさんが見に来られたんですが、できているところまでやって、そこで土下座しました。覚えていないと思いますけど、それが初めての出会いです。渡辺詳しくは覚えていないけど、芝居がここまでしかできていませんと、お辞儀して途中で終わったのに驚いちゃって(笑)。そこに誰が出ていたのかまでは覚えていなかったですね。八嶋エンディングに向かって盛り上がるところで急にここまでです、と終わったんですよね。渡辺あきれちゃって怒る気にもなれなかった。そんなことは生まれて初めてだったもの。後になって、その芝居に八嶋君が出ていたことを聞いて驚きましたね。八嶋僕も後にも先にもそれしかないです。渡辺八嶋君を役者として認識するようになったのは、彼の劇団(『カムカムミニキーナ』)を見に行くようになってからです。後輩たちにも厳しく指導していて、それは己にも厳しいということですから、きちっとまじめに芝居を作っていく人なんだなと思いました。八嶋それから普段からも仲よくしていただいています。僕らの劇団が「座高円寺」を定小屋にできたのは、えりさんのおかげですし、劇団をずっと見てくださり応援してくださっている。劇団の方向性としても、直系の大先輩ですしね。だけど、偉ぶらないし、逆にイジリがいのあるチャーミングな先輩なので、僕は大好きです!失礼なことをたくさんしてきたと思うけど1度もぶち切れられたことはないですし、僕が甘えています。渡辺1回、絶交だぁ!と言ったことはあったけどね。八嶋ありました?僕じゃない人では?渡辺段田(安則)さんに“昨日、八嶋君と絶交したから”と言ったら、段田さんがものすごくウケたのを覚えている。なんで絶交したかは忘れて、いつの間にか元に戻ったけどね。――今回、絶交はない?渡辺わからないですよ(笑)。絶交して4年間まったく口をきかなかった役者さんもかつていましたから。今回もわからないです(笑)。八嶋すげぇなー(笑)。■こんなときだからこそ笑ってほしい――コロナ禍での舞台公演は?渡辺マスクをして稽古をするというのはつらかったです。表情がわからない。通し稽古でマスクを取ったときに初めて「あ、こんな顔なんだ」とわかる。スタッフの顔もずっとわからないというのも初めての経験でした。でも逆によかったのは毎回、死ぬ気でできることですね。毎回、稽古も最後のつもりで悔いのないよう1日1日を死ぬ気でやる。(コロナ禍)以前は1か月の稽古は、最初はラフに入って、徐々に進んでいました。コロナ禍では、明日はどうなるかわからないから毎日、死ぬ気です。集中力がすごいですね。いい意味で焦りながら早く作っていく。せっかちなタイプの私には向いているのかなと思います。八嶋最初のころは責任の所在は、継続するのも中止するのもわれわれにあった。でも、だんだんガイドラインがしっかりしてくると、それに則ってやればという状況になった。劇場側も、しっかりとコロナ対策をしていて、そこに集まってくるお客様も真剣に感染予防をされている。私語は慎んで静かな時間も多いけれども、(芝居が)終わったときの拍手は(観客数は)今までの半分以下なのに、変な言い方ですが、とても分厚いんです。えりさんも僕もウィズコロナの状況になってから舞台に立っていると、それがよくわかるんです。もしかしたら自粛期間中に喜劇をやるのは不謹慎だと思った方もいるかもしれない。でも、楽しい時間を安全に過ごすために、稽古も本番も(感染防止の)対策を万全に取りながら行っています。喜劇と銘打った芝居ができる喜びを感じながら、みなさんに存分に楽しんでいただきたいです。渡辺こういうときだからこそ心から楽しんでいただきたいですし、お客様に笑っていただきたい。笑うことは免疫力を上げるともいわれているので、自然治癒能力を活性化させる意味でも大いに笑っていただきたいです。共演がうれしいワケ写真撮影の雑談では、こんな会話も。渡辺「最近、町田啓太にハマっちゃっている。彼が出演したBLドラマ(『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』)、ネットフリックスの『今際の国のアリス』も町田君目当てに見たほど」八嶋「彼とは映画で共演して連絡先を知っていますよ」渡辺「えっ、そうなの?教えてもらってもいい?よかった、八嶋君と共演できて」八嶋「なんですか、それ(笑)」舞台『喜劇お染与太郎珍道中』(2月1日~17日東京・新橋演舞場、同21日~27日京都・南座)【物語】江戸の米問屋の箱入り娘・お染(渡辺えり)は、恋仲の若侍・重三郎が京都藩邸に転勤に。さらに大名家から妾になるよう迫られたお染は、重三郎を追って京都に向かう。お付きに選ばれたのはおっちょこちょいの手代・与太郎(八嶋智人)。表向き夫婦として五十三次を旅するお染、与太郎のドタバタ珍道中。渡辺えり:ヘアメイク/藤原羊二スタイリスト/矢野恵美子衣装/アクセサリー:アビステ八嶋智人:ヘアメイク/国府田雅子(Barrel)、スタイリスト/久 修一郎(impiger)、衣装/すべて BLUE BLUE JAPAN(OKURA)
2021年01月24日草刈正雄撮影/佐藤靖彦愛する妻に先立たれ失意の日々を送る神田冬樹(草刈正雄)。ふと足を運んだペットショップで出会ったのは、売れ残りのブサ猫・ふくまる(声・神木隆之介)。愛すること、愛されることを諦めていた1人&1匹の共同生活は、くすぶった互いの心に温かな灯をともしてゆく……。■“これ、俺だ”と思ったドラマ『おじさまと猫』で世界的ピアニスト・神田を演じている草刈は、「原作マンガを見せていただいたんですが、表紙を見たときに“あ、これ、俺だ”と(笑)。俺がやらなきゃと思いましたね(笑)。そして、おじさまと猫の関わり方が胸に引っかかるものがありまして。直感的に“これ、面白くなるな”と思いましたね。それに猫ってついているとだいたい人気が出ると、僕は確信してますので(笑)」ドラマに登場するふくまるは実物の猫ではなく、人形。ビジュアル公開時、ネットはざわついたが……。「不安もあったんですよ、確かにね。どういうふうになるんだろう?って。でも、動かしてくださる方が本当にプロフェッショナルで。素晴らしいんですよ。本当に心がある猫ちゃんになっていて。これはもう驚きですよね。感動しました。だから自然に、僕も涙が出てきたり、笑顔になったり。俳優さん同士でやってるのとまったく変わらず、ふくまると芝居ができました。今、厳しい世の中ですけど、この作品は本当に心が温まる。人間と猫ちゃんのラブストーリー。それをほっこりと楽しんでいただけたらと思っています」演じている神田とは共通点が多く、面白いほどよく似ている、と微笑む。「考え方がマイナスなところとか、ちょっと変なところとかね(笑)。世間と少しズレてるところがあるんですよ」具体的には、「僕は犬を飼っているんですが、ちょっと何かあるとすぐに“大丈夫か?死ぬんじゃないか?”って騒ぐ。まるで神田さんです(笑)。あと僕の携帯電話は1年に10回くらいしか鳴らないんですけど、家族からかかってくるとドキッとする。絶対、悪い話だろうなって。だから家族には、まず“アハハハ”と笑ってから用事を言って、と頼んでいます。気持ち悪いほど心配性ですね(笑)」“日本一ダンディー”とも言われる草刈の意外な一面。「日本一ダンディー?アハハハ。ダンディーはうれしいですけどね(笑)、僕自身は真逆な人間でね。無精者なの。ウチの中ではいつもパジャマだし、夏はパンツ1丁でうろうろするし。冬はしかたないから丹前みたいなのを着てるけど。そして、1度自分のイスに座ったら、ずーっと動かないしね。部屋の中で歩くのは冷蔵庫まで。欲しいものを取ったらまた座る。そういう人なんですよ。だからダンディーとは真逆なんですけどね(笑)。ダンディーなのは仕事の絵ヅラだけ。本性は大ウソつきです(笑)。アハハハハ」■ジェットコースターのような芸能生活50年主演作は途切れず、脇にまわれば特別な存在感を放つ。近年では『真田丸』( ’16年)の真田昌幸、『なつぞら』( ’19年)の柴田泰樹など。その確かな演技力で生きざまを見せつけ、私たちの心を熱くさせる。そんな草刈は昨年、芸能生活50年を迎えている。ずっと第一線で輝いている印象だが、「浮き沈み、ありますあります。僕自身の中では、こ〜んな芸能生活でしたよ」と、手でジェットコースターのような軌道を描く。「僕は若いときにポーンといっちゃったものですから。そして、あるときにドーンと落ちまして。上がるのも速ければ、落ちるのも速かった」’70年に資生堂『MG5』のCMでデビューし、売れっ子モデルに。その後、俳優へ転向。マルベル堂のブロマイド年間ランキングで1位(俳優部門)になるほどの人気を獲得した。「10年くらいいい思いをさせてもらったかな?(笑)30代前半くらいから、どんどん役が小さくなっていって。寂しいなと思うときも、かなり長い時間ありましたよね」“死ぬまで役者はやめない”“どんなことがあってもかじりつく”。そんな思いは強かったと振り返る。そんな中、ある大女優から“舞台をやりなさい”との助言をもらう。「それでやってみたところ、僕自身が舞台が好きになりましてね。舞台に出ると“2度と嫌”っていう方もいて、僕もそうだろうなと思ってたんですよ。3時間もある壮大な物語で、セリフを全部覚えて、人前でパフォーマンスするなんて、合ってないだろうと思っていたけど、好きになった。そしたら、舞台の仕事をもらえるようになりましてね。僕はモデル上がりのぽっと出ですから。バックグラウンドもないし。芝居にしても、自信がないままずっとやってきてたところはあったけど、舞台がいい自信になった。それでまた映像に帰ってくると、いい結果が出た」人とのいい出会いに背中を押され、世界が開ける。その繰り返しだったと回顧し、自分は恵まれていると感謝する。今後、俳優としてどうありたいかと尋ねると、「夢、目標、ないんですよ(笑)。もう年も年だしね。だから、いただける仕事をね、なんとか僕なりにやらせてもらえればと思っています。制作の方に“今度、草刈をこんなふうに使いたい”と勝手に想像してもらって、変なものをやらせていただければいいですね(笑)」若さの秘訣、教えて!「それはもうペットでしょ(笑)。ワンちゃんがいてくれるからだと思いますよ。外に出て落ち込んで帰ってきても、家族や犬たちの顔を見ると吹っ飛んじゃう。いろいろね、嫌なこともありますよ。そういうのが、ウチに帰ると癒される。それは本当に感謝ですよね。本当に可愛い。あと僕は、見られる商売だから。僕は本当は無精な男なんですけど、長く仕事をしているぶん、ある程度は身についていることもあるのかもしれない。例えば、夜は食事をちょっと控えるとか、ウォーキングやランニングをしたりとか。あと、僕はテニスが好きなものですから、たまにテニスをしたり。でも、テニス場がちょっと遠くなっちゃってね。最近はなかなか足が運べなくて。……そんな話、どうだっていいよね(笑)」『おじさまと猫』毎週水曜深夜0時58分〜放送中(テレビ東京ほか)(C)「おじさまと猫」製作委員会スタイリング/九(Yolken) ヘアメイク/横山雷志郎(Yolken) 衣装協力/ORIHICA
2021年01月21日個性的な役柄で、数多くのドラマや映画、バラエティー番組で幅広く活躍する人気俳優の木下ほうかさんに「50代からの生き方」を聞くロングインタビュー。先にお届けした【前編】では、「50歳でのブレイクについて」「人生を変えたバイクとの出会い」「結婚観」などについて、率直に話してくれた。【後編】では、「繊細すぎる性格」「死生観」についてなど、さらに“根掘り葉掘り”聞かせていただきます。■死んだら自分の身体はどうでもいい木下さんといえば、骨髄ドナーとして骨髄提供をしたことでも知られている。40歳のときに骨髄バンクにドナー登録をしたきっかけは、意外にも「好奇心でやり始めたこと」だという。「最初は“献血”です。“献血”ってどんなものなのかやってみたら、せんべいやドーナッツをもらえるし、献血ルームの居心地がすごくよくて、休みや撮影の合間に“献血”に行くようになりました。そこに『骨髄バンクのドナー登録にご協力をお願いします』というポスターが貼ってあったんです。でも、“献血”のようには簡単には手を出せないことだなと思って、深く考えないようにしていました。しばらくしてちゃんと調べたら、不安も解消されたのでドナー登録をしたんです」インタビューに答える木下ほうか撮影/佐藤靖彦登録してから5年後にドナー適合通知が届いて、骨髄提供を決意した理由は「後ろめたさ」なのだとか。「別に言うほどたいした思いではないですが。なぜ提供することにしたかというと、それまで生きてきて日々暮らしてきた中で、人にキツイことを言ってしまったり、子どものころからいろいろ悪いことをしてきたことに、どこか後ろめたさがあって。それが理由かもしれません。僕にとっては、手術の痛さも時間を取られることも大したことではないんです。それで誰かが死ぬほど喜んでくれる。患者さんとっては命に変わるんです。移植する側と移植される側のバランスが全然違うんですよね。この作業は面白いと思いました」木下さんの考え方は驚くほど合理的だ。「僕は臓器提供にも興味があります。ただ、すでに検体登録もしているので、臓器提供ができないんですよ。両方はできないので、死んだときの身体の状態で使い道を決めてもらえればいいんじゃないかと思ってます。宗教観もゼロですし、死んだら自分の身体はどうでもいい。もし僕に子どもがいて、その最愛のわが子が亡くなっても、子どもの一部だけでも誰かに使われることに賛成です。もちろん価値観はさまざまですから反対の方もいらっしゃると思いますが、僕は細胞の一部がどこかで生き続けるほうが、うれしいんじゃないかと想像します」今、生き方でいちばん大切にしていることを尋ねると。「なんでしょうね……。実はなんでもいい。信じさせてくれるなら宗教に入信もしますし、柔軟でいたいです。僕は、ものすごく矛盾している矛盾人間なんです。こだわりがあるわりにどうでもいいし、神経質なわりに無神経だし。ただ、理屈が通らないと感じたことをおかしいと思うだけです。納得できるなら、小さなこだわりも曲げられる。よくインタビューで好きな女性のタイプを聞かれますけど、好きになったらその人色に染まりますから。柔軟に魂売ります(笑)」■傷つきやすいし、傷つけやすい「性格は繊細です。つい、いろんなことが目についてしまうんですよね。話している相手が“退屈されているな”とか、飲みに行っても“帰りたがっているな”とか感じちゃうので、単純で鈍感だったらよかったのにと思うこともあります。それで打たれ弱いから、例えば、仕事で意見の相違があってもめたりすると、“言いすぎたな~”と落ち込むんですね」その繊細さが生きづらい反面、俳優という仕事だからこそ役立っている面もある。「対人間と演劇をやることにおいて、細かいことを表現したり読み取ることは、演技には重要だと思うんです。だから、傷つきやすい、傷つけやすいという性格が活かせる。僕の場合は、この仕事じゃなかったら自殺していたかもしれない」俳優になって40年あまり。出演作品は300作を超える。しかし「芝居は好きだけど、楽しいとは思っていない」という。「作品を作るという苦しみのほうが多いです。できあがった作品を見て、“もう一回やれたらもっといいものができるのに”と思いますし、後悔だらけですから。いつもクヨクヨしています。俳優を職業に選んだことに後悔はないですが、もしタイムマシンで戻れるなら、中学生からやり直してちゃんと勉強して、公務員になりたい(笑)。これも矛盾してますけど、安定して働ける職業について、結婚して子どもをつくって家族を持つという人生もあったなと。人生これでよかったのかなと、ときどきふと思うことはありますね」■人生100年時代。こんな恐怖はない「日ごろから、健康には気をつけています。基本的に電車移動ですし、エスカレーターはできるだけ使わないで階段を利用しています。極力歩くことにしているので、最寄り駅の3駅前で降りて歩いて帰るとか、そういう努力はしていますね。不安は腰痛と痔(じ)くらいです(笑)」50代になってからは「死に対する意識が変わってきた」と明かす。「自分もいつ死ぬかわからないし、死が身近な年代になってきたと思う。でも、若いころのような年をとる恐怖や、死への恐怖心はなくなってきました。今、いつ死んでもいいなって思えてます。今まで十分にやってきましたし、妻も子どもいないから、責任なく死ねるわけです。逆に下手したら、この先30年……もっと生きる可能性もあるし。元気だけどバイクにはもう乗れなくなって、そして孤独だったらって考えるとぞっとする。人生100年時代。こんな恐怖はないですよね」取材・文/井ノ口裕子〈PROFILE〉きのした・ほうか1964年1月24日、大阪府出身。1980年公開の映画『ガキ帝国』で俳優デビュー。数多くのドラマや映画、バラエティー番組などで幅広く活躍。俳優業のほか、映画製作活動の場も広げている。現在、映画『無頼』『レディ・トゥ・レディ』『大コメ騒動』が全国公開中。◎公式ブログ「ほうか道」
2021年01月17日個性的な役柄で、映画やドラマに欠かせないバイプレイヤーとして、数多くヒット作品に出演する俳優の木下ほうかさん。役者のみならず、近年はバラエティー番組などでも活躍。柔らかな関西弁で話す飾らない人柄も愛されている。1月24日で57歳、独身の人気俳優は「50代からの人生」をどのように考えているのか──。“根掘り葉掘り”聞かせていただきました。■続かないと意味がない「僕は、子どものころから年をとることが怖くて、ずっと18歳で止まりたいと思っていました。当時は年齢を重ねることは、衰える、醜くなる、動けなくなる、カッコ悪いことだと思っていたので、27歳くらいの人は“じじい”に見えてました(笑)。だから、30歳になるのも40歳になるのも嫌でしたし、ましてや50歳なんて“世が世なら寿命でしょ”って思っていました。でも実際30代になってみると“あれ?けっこうイケるじゃん”、40代になっても“あれ?まだ大丈夫だ”と思えて。50を過ぎて、自分の状態も仕事も今がいちばんいいなと感じてます」木下ほうか撮影/佐藤靖彦16歳のときに、井筒和幸監督の映画『ガキ帝国』のオーディションに合格し俳優デビュー。そのまま芸能界入りはせずに大阪芸術大学で演劇を学んだ後、吉本新喜劇に入団。3年の劇団員生活を経て25歳で上京。数多くのドラマや映画でキャリアを重ね、2014年放送のドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』で注目を集める。さらに同年放送開始の『痛快TVスカッとジャパン』で「イヤミ課長」を演じ、50歳で大ブレイク。当時の心境を「複雑でした」と振り返る。「ブレイクするなら、もっと早く来てほしかったですよね。でも、若いころに売れていたら、たぶん調子に乗ってヤラカシていたと思うんですよ。いわゆる天狗になっていたかもしれないから50歳のときでよかったのかも。たくさんそういう人も見てきたし、年を重ねて今は怖さも知っているので。僕が心がけてきたことは、売れることよりも継続。たとえ一度目立ったりうまくいったりしても、続かないと意味がないですから」■売れたいと思っていたのに上京してしばらくは下積み時代を経験。「俳優をやめたいと思うこともしょっちゅうだった」と明かす。「僕は人生でしんどかった時期が2回あって。一度目は上京して2年目くらいの27歳のときで、仕事がなさすぎて絶望的になってやめようと思いました。二度目は、実はここ最近の50~56歳の間に何度かしんどい時期があったんです。あんなに売れたいと思っていたのに、実際に多くの人に知られると、視線を感じたり行動をSNSで発信されてしまったり。そういうことがちょっと怖くなりました。あとは、ありがたいことに2015年から2016年に同クールで連続ドラマ3本っていうのを2回やらせていただいて、ややオーバーワークのキツさもありましたね。はたから見ると何が不服かと思われるかもしれないけど、俳優の仕事は将来が不確かすぎて、不安度が高いと思うんです。資格もないし、売り上げを数字で示せるわけでもないですし。さらに必ず本人じゃないとできないから、体調管理も万全にしておかなければならない。そもそも演者として切られずに使われるのか。そのプレッシャーと発散できないストレスが常にありました。逆に、お金がなくて自主映画を作っていた若いころのほうが、楽しめていたかもしれない」それが、一昨年の初夏にバイクという趣味ができて一変。「僕は、ゴルフや釣りもやらないし、麻雀やギャンブルも一切やらない。プライベートで楽しむ趣味がなかったんです。だから休日恐怖症で、震えながらテレビの前で横になって過ごしてました。それが、たまたまネットサーフィンしていて見つけたバイクを購入したことから、人生が変わったんです。20代のころに乗りたかった70年代のスズキGT550というバイクで、ひと目惚れでした。それから休日は天気がよければ、どこか走ってますね。バイクに乗るようになって、仕事でうまくいくことが必ずしも幸せじゃないとわかった。逆に、仕事への意欲も出てきたし(笑)、バイクを通じて出会いも増えたし。何より気分がいい。ずっと笑ってますね」さらに、もうひとつ増えた仕事以外の楽しみが、キックボクシング。「役者や撮影部のスタッフ20人くらいの同好会で、週に1回、ボクササイズ的なことをやってます。それも面白くて、生きがいになっているかもしれない。今はコロナで無理ですけど、トレーニングの後にそのメンバーで飲みに行ったりもするんですが、10代~50代までさまざまな年齢の人がいるので楽しいですね。たぶん僕がいちばん年上だと思うけど、子どもでもおかしくない年齢の人とも、年の差を感じないでしゃべれるタイプなので(笑)」「50を過ぎて、楽しみがふたつできた」と喜ぶ一方で、熱中できる趣味が必要だったのは、「独身というのが大きい」とも語る。■結婚は常に思っています「家族がいれば、趣味がなくても向き合うものはありますからね。結婚は常にしたいと思っています。よく誤解されるけど、結婚したくないわけじゃなくて、離婚したくないから慎重なだけなんです。結婚するときと同じ気持ちで10年後もいられるのか、何があっても支え合えるのかとか、いろいろ考えてしまうので。正直、好意的に前向きに思ってくれた人もいました。でも、思う人には思われないのが世の常ですから難しいですよ(笑)。もし今後するとしたら、結婚生活のイメージはふたつあって。ひとつは子どもがある暮らし。それがイコール結婚だと思ってきたので。もうひとつは、熟年同士が寄り添って生きるパートナーとしての結婚。一緒に旅行に行ったり、寂しかったら動物を飼ったりして。もしくは、相手に子どもがいる人との結婚もありかな(笑)」「でも、そんなこと言いながら、ず~っとひとりかもしれないですしね」と、諦めぎみな発言をする理由は。「僕は、よくも悪くも自由すぎるので、その自由が結婚によって奪われてしまうのは嫌だなというのもちょっとあります(笑)。気難しいですしね、僕は。例えば、現場でシナリオに注文つけたり、撮影を止めて提案して話し合いを求めたり、めんどくさい人だと思います」■好感度が欲しい『痛快TVスカッとジャパン』のイヤミ課長に代表される、意地悪でイヤミな役を演じさせたら右に出るものがいない木下さん。しかし、人知れず葛藤もあるようで……。「イヤミな役も、実はマイナーチェンジしているんです。でも、そういう演技は削られることが多い。僕に求められているのは、やっぱりわかりやすい、いつものキャラなんですよね。でも諦めずに日々トライしています」逆に、カッコいい役の演技を主演で見てみたいが。「それ、ぜひ書いてください(笑)。ただ、主役をやると困ったことに、あとは落ちるしかない。継続が難しいですよね。それより今、いちばん欲しいのは好感度なんです。たまには好感度のいい役もあって。昨年1月クールのドラマ『アライブ がん専門医のカルテ』で腫瘍内科医の役を演じたんですが、それはイヤミのない人ですごくイメージアップしました(笑)。一時的でかまわないから好感度を上げて、CMに出たいんです(笑)。老後のためにまとまったお金を稼ぎたい。それで安心したら、あとはイヤミな役でも何でもやりますよ」今回の取材では私服で登場してくれた木下さん。ファッションのこだわりは……。「ブランドにはこだわらないですけど、ちょっとかわいい服が好きです。50代にしては若作りかもしれないですけどね。昔“ちょいワルおやじ”が流行(はや)ったように、”ちょいカワおやじ”を流行らせたい。好感度上がりそうじゃないですか(笑)」※インタビューの後編は明日17日(日)12:00公開予定です。取材・文/井ノ口裕子〈PROFILE〉きのした・ほうか1964年1月24日、大阪府出身。1980年公開の映画『ガキ帝国』で俳優デビュー。数多くのドラマや映画、バラエティー番組などで幅広く活躍。俳優業のほか、映画製作活動の場も広げている。現在、映画『無頼』『レディ・トゥ・レディ』『大コメ騒動』が公開中。◎公式ブログ「ほうか道」
2021年01月16日前回のインタビューで、失敗を恐れて何もしないより、失敗してもいいから行動することが大切だと話していた井上順さん。後編では、50代で難聴になった井上さんが現実を受け入れて「生まれ変わった」ことについてうかがいます。*インタビューの前編は『井上順のSNSが人を癒す理由「嫌なことってあるんだろうけど、ぼくには見えない」』「うれしさを頂戴したから、がんばらなくちゃいけない」と語る井上順さん撮影/佐藤靖彦◆◆◆現在、補聴器メーカーのコマーシャルに出演中の井上順さん。59歳のときに補聴器を使い始めたが、最初に耳が聞こえにくいなと気づいたのは50代に入ってすぐのこと。例えば、舞台の練習でセリフの読み合わせをするときに、みんなの声が小さいと感じていたという。「自分では耳が聞こえにくいとは思ってもいないから、『みんな、声がちっちゃいよ。もっと大きな声を出そうよ!お通夜じゃないんだから』と言うと、みんなが不思議そうな顔をしてね。『あれ?聞こえにくくない?』と聞くと『いえ、ばっちり聞こえてます』『順さん、耳が遠くなったんじゃない?』なんて言われて。まだ50ちょっとすぎだし、まあ、仕事に支障がなかったこともあって、あまり気にしてなかったですね」あるとき歌を歌っていて、音程がとりにくくなったことに気づく。昔は、グラスを指で鳴らすと出るチーン♪という音がどの音程なのか聴きとてれていた。それも、音を聴いてから、あたりを一周してきても同じ音で歌えるほど。音感がとてもいいのが自慢だった。それなのに、何度グラスを鳴らしても音をとりにくい状況が続くようになった。「そのうち、歌うのが怖くなってね。イントロが終わって歌い始めるわけだけど、声を出すのが怖い。ちゃんとした音を出せるか、まったく自信がない。コンサートでも、音がものすごく不安だからソロでは歌えない。そこで、40年以上の付き合いになるコーラスのみなさんとユニゾンにして、助けてもらっていました。ユニゾンがうまくいったときのうれしさといったらない。今から思えば、兆候があったんだよね」仕事だけではない。プライベートでは井上さんから社交性が減っていくようになる。「仲間内で、ワイワイしゃべっているときにワハハ!って盛り上がるでしょ。だけど、ぼくはわかってないの。今なんて言ったんだろうと思うけど、流れがあるから会話を止められない。ある程度キリがよくなったところで『さっきはなんでウケてたの』と聞く。だけどねえ、だんだんそういう会合に出るのもおっくうになってきてね。それで、おい、順、おまえどうしちゃったんだよ!って自分を叱って。それで必ず仕事するときには、難聴であることを伝えるようになりました。じゃないと失礼でしょ。仕事場で、え?え?って聞き返してばっかりだったら、使うほうだって嫌になっちゃうよね」■原因は耳の酷使だったそして59歳になった井上さんは、耳鼻咽喉科の主治医に耳の聞こえについて相談。両耳とも「感音性難聴」の診断が出され、もう一生、治らないと伝えられる。感音性難聴とは、聞こえる音の範囲が狭まる、ひとつひとつの音がぼやける、高音域の音が聞き取れにくいなどの症状がある耳の病気のこと。原因は主にふたつあり、ひとつが加齢。若年性だと20歳くらいから聴力が弱くなる人もいるそう。もうひとつの原因が耳の酷使。「今はショーやコンサートのときには、音響の専門家がひとつひとつの音をきちんと拾ってバランスを調整するけど、ぼくがデビューした50年以上前は雑で、アンプの前にマイクを置くだけ。それでギターをギュゥーーーン!と弾くわけですよ。そうすると、ぼくらボーカルも負けちゃいけないってんで大きな声を出す。で、またバンドマンたちが、あいつらヤバイよって大きな音を出す。その繰り返し。結果的に耳を傷めてしまった」ということは、コンサートが終わった後、耳がガンガンしていた?「そんなことないの。どちらかというと神経質に考えない性格なのもあるけど、ぼくのコンサートは、いい汗をかくショーというか、1個1個つくり上げてショーアップしたものだから、終わったときの安堵(あんど)感というほうが大きかったから、耳のことは忘れてますね」治らないという診断を受け入れられなかった井上さんは、セカンドオピニオンを受診。が、診断は同じ。そして主治医にすすめられたのが補聴器の使用だった。「両耳が同じくらいのバランスで悪いと言われたの。だけどね、不思議なんだけど、耳が悪い、補聴器を使います、となると気後れしちゃう。目なら視力が下がってメガネをかけたり、コンタクトをつけたりするのはまったく平気なのに、補聴器となると途端に平気でなくなる。後から聞いたら、そういう気持ちになるのは、ぼくだけじゃなかったんだけど、それで、悪あがきというか、まだ59歳なのに両耳補聴器なんて!と気持ちが抵抗してね。最初は片耳だけで折り合いをつけました。さあ、補聴器をつけたらね、なんだこれは!こういう世界があったのか!って。もう大変でしたよ、うれしくて」■両耳に補聴器をいれたら「うそでしょ!」片方だけでもよく聞こえていたが、1年半くらいたってから、補聴器をつけて聞こえてる耳と、つけてなくて聞こえてない耳とで、バランスが違うからか、頭の中がなんとなく混乱するのに気づくようになる。「試しに両耳に補聴器をいれたら、生まれ変わっちゃった!うそでしょ!昨日まではなんだったの?という感じですよ。昨日までは片耳でも生きていたわけだけど、両耳にいれたら、どういうことなんだ!って。もうちょっと早く両耳にしておけばよかったと思ったよね」片耳だけ補聴器をつけていたときの聞こえがステレオだったとすれば、両耳は三次元音響のドルビーアトモスのような感じ。井上さんは現在、寝るとき以外は終日、補聴器をつけている。「音が聞こえなくなったと思っていましたが、補聴器をはずしているときに、ドアの開け閉めの音やトイレの流れる音などが聞こえるの。その喜びったら!聞こえる、聞こえるってね、うれしくなる(笑)。でも、こうして補聴器つけるようになって本当によかった、なにせ生まれ変われたんだから」井上さんが使っているのは、とても小さな長さ3センチほどの補聴器。外耳にすっぽり収まり、外から見ただけでは、補聴器を使っていることがわからない。「みなさんに言いたいのはね、目の検査や健康診断と同じように、耳も検査してほしいです。よく聞こえてる方でも、耳鼻科で年に一度は聴覚の検査をしてください。ぼくは右耳の低音が弱くて、左耳の低音はまあまあだけど高音が弱い。聴力が落ちていく最中にね、音のバランスのとり方をちょっと怠っていたのかしら。でも補聴器メーカーのアフターケアが、とにかくきめこまやかでありがたいんです。こうして関わったったんだから『立っている者は親でも使え』の精神で甘えることにしています。変に遠慮するとストレスがたまっちゃうし、聞こえにくいのを我慢することになるしね。みなさんも、どんどん甘えて、どんどん調整してもらえばいいと思いますよ。年を重ねていくと、耳が聞こえなくてもいいよ、目が見えなくてもいいよって思うかもわかんないけど、でもね、こんなに毎日すてきなことがあるんだから、もっと聞こえてもいいよね。だから、ぼくはせっかく生まれ変わったことだし、長生きしたいんです」■長生きするために欠かさない“駆け引き”井上さんにとって長生きとは、できるだけ長く、人の手を借りずに飛んだり跳ねたりできること。こんなに毎日、すてきなこと楽しいことがいっぱいあるんだから、年を重ねてってなくすのはもったいないと言う。そして、長生きするために井上さんが欠かさないのが、日用品のストックを切らさないこと。「なぜかというとね、空の“上”にいるお迎えに来る人が、さあ、そろそろ順を迎えにいくか、と思ったときに、ぼくの家に日用品がなかったら、連れていかれちゃうかもわかんないでしょ。だからその前に、シャンプーやら石けんやらコーヒーやら毎日使うものを買いだめしておいて、絶対になくならない状態にしているわけ。それなら、“上”の人が迎えにこようとしても『あれ、また買っちゃったよ。元気そうだな。しょうがない、なくなるまで待つか』って。こっちはね、冗談じゃない、なくしてなるものか!って(笑)。自分のなかで楽しい“上”との駆け引き」できることは自分で。だから料理もきちんとする。「昔からうちで、お客さんが集まって飲み食いすることが多いんです。ぼくは毎日のように外食してますから、シェフや板前さんの知り合いも多い。それで彼らに、これどういうふうにつくるの?なんて聞くと教えてくれるの。それを紙に書いて保管してる。例えば、今夜はポトフにしよう、と決めると、塩豚からつくります」ここ数年、ハマっているのが、鹿児島から取り寄せた安納芋で干し芋をつくること。「オーブンの天パンに水を入れて、その上に網を載せます。網の上にお芋をのせて、霧吹きで2回くらい、お芋に水をかけて200度で70〜80分。そうすると、中がやわらかくなってね、焦げ目がちょうどつくくらいなの。熱々の状態のときに皮をていねいにむくんですよ。手袋なしで、素手で皮をむくんだけど、毎回火傷しちゃうの。それだけが大変。皮をむいたら3日間くらいお日様に当てると甘みが出て手づくり干し芋の完成。売ってないものだから、友達も楽しみにしててくれてる。料理も毎日つくるわけじゃないけど、今年のように自粛しなくちゃいけないときは、家の中でつくれるものを“ポポポ”と見つけて賄う感じかな」補聴器との出あいによって、生まれ変われて、今はまさに〈第二の人生〉を謳歌(おうか)しているところ。「補聴器との出あいがあって、こうして生まれ変わった自分というのがいて。お仕事をするときに、私は難聴ですとお話しすると『そんなのかまいませんよ』と返してもらえるとね、もうね、泣いちゃいけないな、というくらいのうれしさをちょうだいしましたよ。うれしさをちょうだいしたから、頑張らなくちゃいけない。ぼくは自分を日本一ヘタクソな役者、歌手だと思っています。だから仕事でも下手は下手なりに一生懸命、情熱をもってやるんだというのを難聴になったことで教えてもらったかな。人生って勉強なんですよね。勉強するからこそ、“なんかうれしい” “なんか楽しい”にたくさん遭遇できるとぼくは信じてる。実際にそのとおりだから、いいじゃないの!素晴らしいよね」(取材・文/吉川亜香子)<PROFILE>井上順/1947年2月21日、東京・渋谷に生まれる。1963年、16歳で「田邊昭知とザ・スパイダース」に参加。最年少メンバーとして、堺正章とのツインボーカルでグループサウンズの幕開けに貢献する。グループ解散後の1972年にソロデビュー。『涙』『お世話になりました』などのヒット曲を生む一方で、俳優として最高視聴率56.3%を記録したホームドラマの金字塔『ありがとう』(TBS系)など数多くの作品に出演。1976年には歌番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)の司会者に抜擢(ばってき)され、芳村真理とともに番組黄金期を築いた。ダジャレの名人としても有名で「ジャーニー!」「ピース!」など数々の流行語を生み出した。長年にわたりオールラウンドプレーヤーとしてテレビ、ラジオ、舞台、コンサート、司会、映画などで活動。2020年1月、渋谷区名誉区民に顕彰される。同年4月、Twitterを開設。「井上順のツイッターが軽妙で魅力的!」と話題になる。◎Twitterアカウント @JunInoue20<ライブ情報>「まだまだ ♪お世話になりますよ♪ 2021春」出演:井上順、山崎イサオ、黒沢裕一、麻上冬目、柳澤香日時:2021/1/23(土)open 18:00、start 19:00会場:eplus LIVING ROOM CAFE&DINING*チケット発売中/リアルライブのほかに生配信もあり
2020年12月28日父・梅宮辰夫さんの一周忌を迎え、最近ようやく自分のことを考える余裕ができたという梅宮アンナさん。50代を目前に控え「やりたいことがたくさんある」というアンナさんに、仕事や恋愛などに対する率直な思い、これから目指す生き方について話を聞いた。梅宮アンナ撮影/佐藤靖彦(前編の記事『梅宮アンナが語る父・梅宮辰夫「私、父が亡くなってから、まともに泣いてないんです」』はコチラ)◆◆◆父が亡くなってから、「あれっ、なんだか風向きが変わったのかな」と感じることが多くなりました。新しく知り合う人たちが、みんないい人たちばかりなんです。父が守ってくれているのかもしれないと思っています。振り返れば、ここ数年はずっと家族のことで頭がいっぱい。父の闘病中、母も膠原病を発症したりと、私自身は自分のことをゆっくり考える時間もなくて……。父の一周忌を前に、ようやく自分のやりたいことを落ち着いて思い描けるようになりました。年齢を重ね、「嘘をつきたくない」という気持ちがますます強くなりましたね。自分が本当にやりたいことと、やりたくないことを真剣に考えるうちに、自然とテレビと距離ができていたんです。テレビでは、思ってもいないことを「こういうふうに言ってほしい」と求められたりします。コメンテーターとして出演していても、自分の考えではなく、あらかじめ答えが用意されていることがあるんです。「はい、わかりました」と、受け入れたほうが楽なのかもしれない。でも、思ってもいないことを演出どおりに口にするということは、「世の中に媚(こ)びている」ことだと私は思うんです。媚びるということは、嘘をつくことと同じ。たびたび断っているうちに、テレビ出演の機会も少なくなっていきました。■SNSでは絶対に嘘をつかないそのかわり、インスタグラムなどのSNSでは、絶対に嘘はつかないと決めて、自分の思いを発信しています。商品を紹介するときも、自分で本当にいいものだと思えるものを紹介するようにしています。ファッションやメイクのことから、いま個人的に考えていることなど、内容はさまざまですが、たくさんの方から反響やメッセージをいただきます。そんななか、16歳の女の子から「学校に行くのが嫌なんだけど、どうすればいいですか」とダイレクトメールが届いたことがありました。娘と同じ世代だし、自分が10代のころを思い出したりもして、放っておけなくて。何度もメールをやりとりしました。私も親が選んだ高校が嫌になって、一度やめて、再受験した経験があります。親に「学校をやめてどうするの?」と聞かれたとき、私は「わからない。でも、このままじゃ私の心が死んじゃう」と答えました。「学校やめたい」という子どもに対して、すぐに「いいよ」と返事する親なんていませんよね。自分の気持ちをきちんと親に伝え、理解してもらうのは大変なことです。メールをくれた女の子は、家から出られず、学校にも行けず、苦しんでいました。「やめるかどうか決めるのは自分。やめたあとどうするかも自分。親の言うとおりに生きるのではなく、自分で決めなきゃ。だけど一度ゼロにしないと、自分が本当に何をしたいのかわからないんじゃないかな」と、伝えたんです。「学校をやめることを親が許してくれない」「私があなたの親御さんと話してもいいよ」など、何度もやりとりがあったあと、その子はしっかり親と話し、「いまの学校をやめてもいいことになった」と連絡をくれました。外にも出られるようになったそうです。おせっかいかもしれない(笑)。でも、こうしてまっすぐ気持ちを吐き出してくれる人もいるから、私もますます嘘はつけない。SNSは、誰にも邪魔されず本音を伝えられて、心から自分がいいと思ったものや事柄を、自分の責任で紹介できる場所。これからも大切にしていきたいと思っています。■娘に言われた言葉娘の百々果(ももか)も大学生となって子育ても一段落し、「再婚しないの?」と聞かれることもあるけど、まったくその気がないんです(笑)。もう何年も恋人はいませんね。意外に思われるかもしれないけど、もともとそんなに恋愛経験が多いほうではないの。40代になってからはますます面倒くさくなっちゃって(笑)。今では、朝からメールで「おはよう(ハートマーク)」とか、夜は「おやすみ(ハートマーク)チュッ」とか、なんだかバカみたいって思っちゃう(笑)。7年前に父の人工透析が始まって、私自身、身も心も疲れていたとき、母から「こんなとき、あなたを支えてくれる男の人がいたらね」って言われたことがありました。でも私は逆。「こんなとき恋人なんていたら大変。相手してるヒマない、いなくてよかった」って心から思ったんです(笑)。頼まなくても困っていることに気づいて、なんでも助けてくれるスーパーマンみたいな人がいるなら別ですが、そんな人はいませんから。恋人って、絶対に必要ですか?「彼氏が欲しい!」とか「結婚したい!」というのは、「誰かに頼りたい」という思いから出てくるんじゃないのかなあ。私はひとりが好きだし、なんでも自分で決めたい人間。驚かれるけど、ヘアメイクもスタイリングも全部自分でやるし、ひとりで運転してどこへでも行きます。人に頼ること自体があまり好きじゃない。だから今は、恋人が欲しいとも思わない。それに、父の介護を2年間やって大変な思いをしたから、これから年上の男性と再婚なんてしたら、すぐに夫の介護が始まりそう (笑)。母にそう言ったら「ああ、そう思っちゃったのね」って(笑)。それでも百々果からは「一度でいいから、ママのことを好きになってくれる男の人と付き合ってほしい。ママはいつも自分から好きになるからダメなんだよ」と言われたことがありました。私の恋愛遍歴をメディアで見てわかっているからだろうけど、すごいこと言うでしょ(笑)。でもたしかに、私は親切にされたら、すぐにいい人だと思ってしまうんです(笑)。きっと、父が浮気するような人だったら、私も男性に対して逆に気をつけたと思うんですよね……。結婚前の父はすごく遊んでいたと思うんですけど、私が生まれてからは一度も浮気や不倫なんてしたことがないと断言できます。両親のケンカは小さいころから見てきたけど、女性関係が原因だったことはない(笑)。なにしろ仕事が終わったら、伝書鳩(ばと)みたいにまっすぐ家に帰ってくるから「もうちょっと遅くなってもいいのにね」って母と話してたぐらいです(笑)。■構想10年、やっと形にできたそんな父がいなくなって、悲しみに暮れていた母もお友達に囲まれてようやく元気が出てきましたし、娘も私に似たのか、ひとりで暮らしてみたいと言って海外の大学を選びました。今の私は、お仕事とワンちゃんがいればいい。いま真剣に取り組んでいるのは、新しくプロデュースしたアパレルブランド『anmo closet』のこと。まずはカシミヤ100%のセーターとストールを作りました。今後も『anmo closet』ではデザインはもちろん、素材から選び抜き、自分のこだわりだけで作り上げていきます。構想10年、やっと形にできて、とてもうれしく思っています。人に喜んでもらえて、自分のライフスタイルとも通じるような、本当によいものを追求して作り続けていきたい。いずれはスキンケアのラインナップも発表したいと思っていて、忙しい毎日を送っています。私はこれからも、他人からどう見られるかではなく、自分で自分を認められる人間でいたい。そのためにも、嘘をつかず、自分自身に正直に生きていきたいと思っています。◎取材・文/植木淳子<PROFILE>梅宮アンナモデル・タレント。1972年8月20日生まれ、東京都出身。O型。父は’19年12月12日に慢性腎不全で亡くなった俳優の梅宮辰夫さん(享年81)。母はタレントの梅宮クラウディアさん。ファッション誌『JJ』の看板モデルとして活躍後、女優に転身。’01年に結婚、翌年に百々果さん(18)を出産し、直後に離婚している。’20年12月、オンラインで展開する新ブランド「anmo」を発表。◎anmo official◎anmoオフィシャルインスタグラム
2020年12月11日12月12日、昭和の名優・梅宮辰夫さん(享年81)が亡くなってから一周忌を迎える。娘のアンナさんは、よくも悪くも、若いころから世間の注目の的だった。長年にわたって父の闘病を支え、辰夫さん亡きあともしっかりと家族を守るアンナさんに、世の中が抱いていた「わがまま娘」のイメージは、もはや微塵(みじん)もない。父の死と向き合ってきた、この1年の思いを聞いた。梅宮アンナ撮影/佐藤靖彦(※インタビューを2回に分けてお送りします。前編では、父・辰夫さんの思い出や、相続手続きに追われた1年間の出来事を語っていただきました)◆◆◆昨年の12月12日に父が亡くなって1年。早いものですね。一周忌は、父が好きだったレストランで過ごす予定です。私たち家族と、父が生前親しくしていたお仲間だけで、ささやかに、楽しく、父を偲(しの)ぶつもりです。この1年間は、あまりに大変すぎて、もう息つく暇もないくらいでした。相続手続きのために、区役所やら銀行やら、少なくとも60回以上は行ったかな(笑)。父は、世間ではマメでしっかりしたイメージがあったかもしれませんが、全然違うんです!(笑)O型で無頓着。遺言書もなく、銀行の口座も不動産もすべて父の名義のままでしたし、相続には父の人生81年分の戸籍謄本などが必要と知りました。相続の申告期限は死後10か月しかないから、駆けずり回らなければならなかったんです。母はアメリカ国籍で、書類上の難しい日本語はよくわからないし、なにより夫の死にふさぎこんでいて、それどころじゃない。私がひとりでやるしかありませんでした。なんとか手続きを終え、ふと振り返ってみると私、父が亡くなってから、まともに泣いてないんです。泣く暇もないほど、気が張りつめていたんでしょうね。父は病気を繰り返していましたので、高齢になってからは「遺言書のこととか、ちゃんと考えて」と言ったこともあるんです。結局、のらりくらりとかわされて、書かずじまいでした。あんなに強かった父でも、自分が死ぬことを考えるのはやっぱりいやだったんじゃないかな。でも今となっては、遺言書なんてなくてよかったと思ってます。当事者になって初めてわかったんですが、遺言書があるからこそ家族でもめるケースもよくあるみたいで。うちは、母と私と娘の法定相続人3人だけで話せましたから、もめようもない(笑)。とはいえ、お仏壇の前で、よく父に恨み言は言いましたけどね。「パパ、今日はね、銀行に行って、お役所に行って、仕事の打ち合わせして、なんやかんや、合計8つの用事を片づけましたよ。パパならできる?お付きの人がいて、身の回りのことはぜーんぶやってもらっていたパパに、できますか?」って、笑いながらね(笑)。■みなさんが思うほど、父に依存して生きていない父亡きあとの私の姿に、「意外と強いんだな」と、驚いている方もいらっしゃるみたい(笑)。父の死に対する心構えは、もう何年も前からできていたんです。がんを繰り返して手術を重ねる姿をずっと見てきましたから。母から着信があるたび「パパが亡くなったのかも?」と一瞬、身構える。そんな毎日でした。よく想像するんですが、もし事故に遭って死なれていたら今日この日も、私は立ち直れていないと思います。それに私、みなさんが思うほど、父に依存して生きていないんです。ひとりっ子でしたから、自分で考えて答えを出すしかない。10代のころから、「自分で稼ぐ」「早く自立したい」ということを常に頭に置いて生きてきました。母は私とは正反対で、夫に守られ、梅宮辰夫という大きな大きな傘の下にすっぽりと入って生きてきた人。経済的にはもちろん、料理や洗濯など家のことも夫にやってもらって、本当に幸せな妻だったと思います。もちろん、私も父からたっぷりと愛情をもらって育ちました。父は「イクメン」のはしり。毎年、学校から配られる1年間の「行事表」の予定を手帳に書き込み、それをもとに仕事のスケジュールを決めるような人でしたから。でも思春期になってくると、そういうのがうっとうしくて(笑)。一方で、頑固で厳しい人でもありました。いまでも覚えているのが、高校の卒業旅行をめぐる騒動です。仲よしの友人たちと「ハワイに行こう!」と計画がもちあがったんですが、わが家だけは、父がどうしても許してくれない。「みんな行くのに!」「ダメと言ったらダメ!」の繰り返し(笑)。今までも、こんな言い合いなんてしょっちゅうだし、殴り合いをすることもありました。このときも私は折れることができなくて……。だって文句を言わないと、親も私の気持ちがわからないから。「だったら旅行費用の49800円、自分で稼ぐなら行ってもいいよね!」「勝手にしろ!」って(笑)。私は16歳からアルバイトをしていましたが、さらにがんばって、土日の朝はビル清掃、夕方は神宮球場の売店、そのほかにもアイスクリーム屋さんと、フルにかけもち(笑)。なんとか旅行費用を捻出(ねんしゅつ)することができました。親が金を出すとうるさいんです。父は「誰のおかげで〜」が口癖の昭和の父親。「お前だよ!」って言い返したこともあるけど(笑)。「自分のやりたいことをやるには、経済的に自立するしかない。成人したら家を出よう」と、考えるようになったのは、こういった出来事の積み重ねだと思います。■借金はすべて自分で返済しましただけど、口うるさい父がどんなにうとましくても、仕事をして家族を支える父への尊敬の念はいつもありました。「親をなめる」なんてことは絶対にありえませんでしたね。世間には、「娘に甘い父とわがまま娘」みたいに思われているかもしれない。そのイメージは、過去の恋愛にあるのかな(笑)。でも、そのときの恋愛のいざこざが原因で、20代で背負うことになった8000万円の借金も、最近まで自分ひとりだけで返してきました。すべて返済し終えるまで、父に負担してもらったことなんて、もちろん一度もありません。だって、自分の責任なんだもん。当たり前のことでしょう?私は他人にものを頼むのが嫌いだし、自分のことは自分でケリをつけたい。絶対に他人のせいにしたくないんです。母・クラウディアと、娘の百々果(ももか)と、女3人だけの梅宮家になってもうすぐ1年──。1年前は父が亡くなったことより、泣いてばかりいる母をなだめるほうが大変でした。まるで大きな赤ちゃんが誕生した感じでした。このままうつ病になってしまうのではと心配だったので、少し落ち着いてからはあえて外に連れ出すようにしていたんです。コロナ禍でできることは限られますが、母のお友達の「未亡人連合軍」のみなさんの助けもあり(笑)、少しずつ元気を取り戻し、安心しています。娘は今年、高校を卒業し、もう大学生。夏からアメリカの大学に進学しましたが、新型コロナウイルスの影響で帰国し、日本でオンライン授業を受ける毎日です。父亡きあと、家族が新しい一歩を踏み出しています。そろそろわたしも、自分自身のこれからの人生を真剣に考える時期だと感じています。◎取材・文/植木淳子(※今日12時公開のインタビュー後編では、50代を目前に控えたアンナさんに、恋愛や仕事に対する今の率直な思いや、これからの生き方についてお伺いします)<PROFILE>梅宮アンナモデル・タレント。1972年8月20日生まれ、東京都出身。O型。父は’19年12月12日に慢性腎不全で亡くなった俳優の梅宮辰夫さん(享年81)。母はタレントの梅宮クラウディアさん。ファッション誌『JJ』の看板モデルとして活躍後、女優に転身。’01年に結婚、翌年に百々果さん(18)を出産し、直後に離婚している。’20年12月、オンラインで展開する新ブランド「anmo」を発表。◎anmo official◎anmoオフィシャルインスタグラム
2020年12月11日死別、シングルマザー、親の介護、大病、家族共倒れ……思いがけず人生の困難に直面するたび、同じ苦労を抱える人々の実態を調べ、「社会の問題点」を鋭く見抜いてきた評論家。80代となり自身も老いのつらさを痛感する今、人生100年時代に誰もが安心して老いることのできる社会を模索している。健康寿命を超え、ヨタヨタ・ヘロヘロ生きる70代~90代を『ヨタヘロ期』と命名。わが身をもって示す老後を明るく生きる秘訣とは―。評論家樋口恵子さん撮影/佐藤靖彦■このままでは医療保険制度は破綻する最初はチリチリとした軽い痛みだった。講演会などで全国を飛び回っていたある日、評論家の樋口恵子さん(88)は空港から帰る途中に下腹部が重だるく感じた。10日ほど様子を見たが、徐々に膨満感がひどくなる。放射線診断医の娘が勤務する総合病院の夜間診療で診てもらうと、胸腹部大動脈瘤が4個も見つかった。しかも破裂する危険があり一刻を争うとの診断。そのまま救急車で専門病院に転院し、夜中に緊急手術を受けた。「別に苦しくもなかったし、ビックリしちゃってねー。恐ろしいと感じる間もなく、ストレッチャーで運ばれながら病状説明を受けたんですよ。手術台の上で最後に考えたのは“脱がされたスリップどこ行ったかな”と(笑)。娘の勤め先に行くから、いい下着に着替えていったのに、もったいないことしたなーと(笑)」当時、77歳の樋口さん。手術で動脈瘤3個を除去して人工血管に置換し、危機を脱した。だが、残り1個は取りにくい場所にあり、今でも爆弾を抱えている。大変だったのは、手術後のリハビリだ。「地獄でしたね。まだフラフラしているのに、“起きろ、立て、歩け”と言うんですよ。“冗談じゃない!”と思ったけど、尻を叩かれんばかりの勢いでした。手術後、リハビリに取り組まず、大事にされすぎて、足も頭も弱ってしまった高齢者を医師たちはたくさん見てきたそうなんです」3週間後に退院した。胸から背中にかけてL字型に数十センチの手術創が残っており、術後2、3か月はときどき激烈な痛みが走る。娘とふたり暮らしだが昼間は仕事でいないので、樋口さんはひとり布団の上でこらえた。「痛いよー。痛いよー」泣きながら叫ぶと、愛猫が枕元に来て、樋口さんの手の甲をなめてくれたという。「猫の舌はザラザラしているから長い間なめられると痛くて(笑)。でも、猫になぐさめられたことは忘れられませんね」大病を経て、考えさせられたことがある。難しい手術だったので保険診療でも相当額の支払いを覚悟していたが、実際に手術費用として請求されたのは13万円あまりだった。「日本の医療保険制度はこんなにも患者に恩恵をもたらす制度なのか。そんな国に生まれた幸せを感じて、本当に涙が出てきました。その次に、寒気がしたんです。人生100年時代と言われ始めていましたから、このままでは高齢者の医療費で医療保険制度は破綻するだろうと……。だから今、後期高齢者の医療費負担を原則2割に上げようという案が議論されていますが、私個人としては反対できません。低所得者は1割のまま据え置くのが条件ですが」評論家としての樋口さんのキャリアは半世紀に及ぶ。東京家政大学で女性学を教える一方、NPO法人『高齢社会をよくする女性の会』を立ち上げ、女性の地位向上や高齢者福祉の拡充などに尽力してきた。これまで書いた著書は60冊以上にのぼる。樋口さんとは旧知の仲で、主婦の投稿誌『わいふ』前編集長の田中喜美子さん(90)は、樋口さんの魅力をこう表現する。「樋口さんは頭の中だけでいじくり回して評論するのではなく、具体的な自分の体験をもとにして、問題点がどこにあるのかパッとつかまえて、的確な言葉で表現するのが抜群にうまいんですよね。だから彼女の言葉に多くの人が心を動かされ、自分のこととして受け止められるんだと思いますよ」特に大きな貢献をしたのが、2000年に施行された介護保険法だ。樋口さんは母親や夫を介護した経験から、社会で支え合う制度の必要性を痛感していた。ところが、法案の骨格を検討する政府の審議会に参加すると、各地方を代表する県議や市議などから反対意見が相次いだ。「介護は家族がやればいい。嫁の役割だ」樋口さんは保守的な反対派を“草の根封建親父連合”と名づけ、テレビなどマスコミを通じて世論に訴えた。「審議会でも少子化のデータを見せて“時代は変わりました”と繰り返しました。でも伝統的な家父長制が好きな草の根封建親父連合は毎回、ああ言えばこう言うで、あまりの根強さに“えー、これ負けるかも”と思ったこともありましたよ」ときおりユーモアを交えてよどみなく話す。にこやかな笑顔も相まって、とても元気そうに見えるが、身体は満身創痍だ。■『老〜い、どん!』を出版子どものときに急性腎臓炎と結核を患い、娘を妊娠中は重症のつわりで半年間入院した。66歳で乳がんの手術を受け、胸腹部大動脈瘤の手術後は肺活量が同年代女性の6割まで減った。変形性膝関節症で外出時は補助具をつけており、歩くスピードはゆっくりだ。80代に入ると、ひと息で300メートルも歩けなくなった。検査すると、ひどい貧血だった。食事作りが面倒になり栄養失調に陥っていたのだ。そんなヨタヨタヘロヘロの状態を“ヨタヘロ期”と命名。自身のヨタヘロ体験をつづったエッセイ集『老~い、どん!』を昨年末に出版した。「以前からヨタヘロのお年寄りを見かけてはいたけど、自分に襲いかかるまでわからなくて、ああ、こういうことだったの。気がつかなくて、ごめんなさいね~って(笑)」厚生労働省の統計(2016年)によると、自立して生活できる健康寿命は男性72・14歳、女性74・79歳。平均寿命が男性80・98歳、女性87・14歳。この健康寿命から平均寿命までの間にあたるのがヨタヘロ期だ。男性が約9年、女性では約12年もある。健康寿命を延ばし、ヨタヘロ期を少しでも快適に乗り切るためには、十分な食事、適度な運動、そして外に出て人と触れ合うことが大切だ。だが、老いるとトイレは近くなるし、疲れやすくなる。樋口さんは自分が外出先でトイレやベンチを探し回った経験から、「清潔で安全なトイレが各所に欲しい」「休めるよう街角にベンチを」と訴える。「『老~い、どん!』を読んだ方から、老いに対する心構えができたとか免疫力がついたと言われて、とってもうれしかったです。老いの哀しみやつらさがなくなるわけではないけれど、あんまり悲愴にならずメソメソしないで生きていく力になればいいなーと。人生100年時代の初代として、『ヨタヘロ期』を生きる今の70代以上は、気づいたことを指摘し、若い世代や社会に向けて問題提起をしていく責任があると思います」本が話題になり講演の予定が多く入っていたが、コロナ禍でほぼキャンセルになった。シンポジウムや審議会はオンラインで開催されるようになり樋口さんも何度か参加したが、「雑談もできないし一方通行みたいで、なーんか面白くないのよ」と不満顔だ。対面とオンラインを併用する場合、できる限り会場に足を運んでいる。雑誌の連載も抱えており、とても88歳とは思えない忙しい日々を過ごしている。そのバイタリティーはどこから湧いてくるのかと聞くと、思わぬ返答が返ってきた。「練馬の野育ちだからでしょう。お姫様じゃないもの、私。近所の子と家から離れた場所で遊んでいても、風に乗ってお前の声だけが聞こえてきてうるさいと、父にいつも怒られてましたから(笑)」■兄の無念と戦争体験樋口さんは1932年生まれ。東京都練馬区で育った。先日、閉園したとしまえんのすぐそばで、当時は農地が広がっていた。小学校も分教場しかなく、豊島区の小学校に越境して電車で通った。父の柴田常恵さんは考古学者で、慶応大学で教えていた。実母はがんで亡くなり、育ててくれたのは後添えの母だ。2歳上の兄と2人きょうだいだったが、よく「恵子はできが悪い」とバカにされた。「兄は天才だ神童だと言われた時期もあり、父に偏愛されていました。でも、人付き合いが悪くて孤独でしたね。私は鼻ぺちゃで器量も悪かったけど、お友達とワイワイやりながら先頭に立って何かするのが大好き。楽しく生きていました。だから今にして思えば、兄が私をいじめたのは嫉妬もあったのかもね」小学3年生のとき急性腎臓炎になった。突然、顔が2倍くらいに腫れあがり尿が出なくなって1か月半入院。退院後も厳しい食事制限が1年以上、続いた。6年生になると空襲が激しくなり、長野県に集団疎開した。15歳だった兄が結核性脳膜炎で死亡したと疎開先に連絡が来て、ひとりで東京に戻った。’45年春に旧制高等女学校に入学してすぐ、樋口さんも結核を発病して休学。1年半、自宅で療養している間に、戦争が終わった。「仲のいい友人たちから1学年遅れるのが悔しくて、悔しくて。でも、フワフワ、パーパーした軽佻浮薄な女の子だった私が、後に評論家になれたのは、その1年半のおかげだと思います」古本屋巡りが好きだった兄は、哲学書、外国文学、戯曲、日本文学など膨大な蔵書を残した。それらを布団の中で繰り返し読んだことが、土台となったのだ。「兄は小学校高学年のころ、戦争反対と口にできる年齢ではなかったけれど、明らかに軍国調の日々がつらそうでした。“思想がおかしい”と軍国主義の担任教師にひどく迫害され、行きたい中学にも進学できませんでした。集団疎開でお腹がすいたのもつらい体験でしたが、わずか12、13歳の少年も排除していく同調圧力の中で、思想の自由がどんなに大事か考えさせられました。それが私の戦争体験の中でいちばん大きいことです」高等女学校に復学すると、自由な空気がみなぎっていた。同級生の加納美佐子さん(87)に聞くと、樋口さんは抜きんでた秀才だったという。「すごく頭の回転が速くて、憧れの人でした。あのころは学校で演劇が非常に流行っていて、お恵さん(樋口さんの愛称)は小説『小公女』をもとに台本を書いたんです。配役も的確ですごいなーと。1年遅れて入ってきたけど、みんなに一目も二目も置かれる存在でしたね」■東大新聞部で女性初の編集長お茶の水女子大学附属高校を経て、’52年に東京大学文学部に入学した。戦後、GHQの命令により女性も参政権を獲得。それまで差別されていた高等教育への進学も可能になった。東大は’46年に初めて女子19人の入学を認めたが、樋口さんが入った年も女子は全体の3%で15人ほど。樋口さんは「何か伝えることがしたい」と新聞部に入った。当時は大学内で自由に弁当を広げられる施設もなく、雨が降ったら行き場がない。新しい憲法で保障された最低限度の生活の場所すらないと感じて、学生新聞に『学園に生活はあるか』という長文の記事を書いた。「今でも私が言いそうなことでしょう(笑)。男の子はバンカラだから、そういう生活上のことは気がつかないの。上級生の編集長にほめられたけど、“お恵ちゃん、やっぱり女だよな”と言われてイヤだったのが半分。やっぱり男ばかりの社会は偏ると思ったのが半分。女子寮や食堂、女性のトイレを増やしてほしいとか、ちょくちょく書かせてもらいましたよ」その後、女性初の編集長に就任。3年からは学内の教育施設である新聞研究所にも合格、卒業後はジャーナリストを目指した。だが、そもそも女性が受けられる新聞社は少なく、意気消沈。唯一、受かった時事通信社に就職した。最初は雑用をこなしながら、配属先の決定を待つ。男性の新入社員は次々決まっていくのに、樋口さんだけお呼びがかからない。「もう、毎朝会社に行く足取りが重くてねー。最後に私ひとり残ったときには石神井川に身を投げたいと思ったくらいつらかったですね」その後、欠員が出た活版通信部に配属された。金融と財政を担当する部署で、樋口さんは助手として日銀総裁交替の記者会見にも先輩と同行した。だが、夢見た記者生活とは、ほど遠い日々……。「人間の出来がお粗末なので簡単に絶望し、自棄のヤンパチになって、お見合い結婚しちゃいました。ダメ女ですね(笑)。大学でも社会学を専攻すればよかったと後悔したし、私の人生なんて悔いだらけですよ」入社から1年あまりで結婚退職した。5歳年上の夫は東大工学部出身のエンジニア。工場のある山口県の社宅に住み専業主婦になった。妊娠すると、重いつわりで苦しんだ。子どものころ患った腎臓炎が再発する危険性もあり、半年間、入院して点滴で命をつなぎ、26歳で娘を出産した。まもなく夫の東京への転勤が決まる。父は樋口さんが大学卒業前に亡くなっており、母がひとりで住んでいた実家に、一家で移り住んだ。東京に戻ったのを機に、樋口さんは働くことにした。きっかけは新婚時代に夫にかけられた言葉だった。「僕たちは国民の税金で大学を出たんですよ。あなたもせっかく大学に行ったのだから、税金を払ってくれた人のために、何か役立つことができるよう勉強したらどうですか?」当時の国立大学は授業料が非常に安く、多くが税金でまかなわれていた。「普通の男と結婚したと思っていたのに、えらい男と結婚しちゃったと思ってねー(笑)。あれは、生涯を決めた大きな言葉でしたね」■夫と死別「2人前働く」日々2歳になった娘の面倒を母にみてもらい、新聞の求人広告を見て仕事を探した。ときは1960年。4年後の東京オリンピック開催が決まり、世の中は高度経済成長に沸いていた。だが、女性は結婚したら退職するのが当たり前の時代で、職探しは難航。書いた履歴書は100枚に上る。ようやくアジア経済研究所に機関誌の編集助手として採用されたが、既婚女性は正社員になれないとわかり数か月で辞めた。育児雑誌の編集者を募集していた学研に応募すると、面接で「女性は妊娠4か月で退職する内規がある」と言われ、思わず反論した。「母親向けの雑誌を作ろうとしているのに、母親の目を阻害していいのですか?」最後は、女性が働くことに理解があった社長の判断で入社が決まった。編集の仕事を覚えて楽しく働いていたが、31歳のとき、樋口さんを思いもよらない不幸が襲う─。夫が糖尿病性昏睡により倒れ、わずか5日で亡くなってしまったのだ。「夫婦仲もよかったし、夫は仕事も順調で、やりたいこともいっぱいあっただろうし、かわいそうで、かわいそうで。私は泣いて、泣いて、よくこんなに涙が枯れないと思うくらい……」女学校、高校の友人が次々見舞いに来てくれた。そのうちのひとりにこう言われて、ハッとしたという。「あなたは仕事があるから泣いていられるのよ。子どもを抱えて明日からどうやって食べていこうかと思ったら、泣いている暇はないわよ」前出の同級生の加納さんも心配でたまらず、何度も様子を見に行ったそうだ。「家族ぐるみでよく旅行に行ったりしていて、本当に温厚で素敵なご主人だったから、ビックリしましたね。すぐ駆けつけたら放心状態で、お恵さんまで死んじゃうんじゃないかと思ったくらいです。ただ、嘆きようも激しかったけど、そこからの立ち上がりも早かったですよ。仕事があったからというより、昔からウジウジ、グジグジしていなくて、行動力があるんです」当時、夫が勤めていたキヤノンには若くして社員が亡くなった場合、残された妻を雇う慣習があり、樋口さんは広報宣伝部で働かせてもらった。学研は辞めたが、ライターとしての仕事は続けた。「夫が死んで悲愴になっていたから2人前働こうと思って。働いたなー、あの時期は。徹夜で原稿を書いて、朝そのままキヤノンに行って働いていると、椅子から立ち上がるだけで空気が重いの。若いからできたのね」■働くひとり親の過酷な介護体験ライフワークとなった女性問題に関わりを持ち始めたのは、学研で編集者をしていたときだ。’62年に新聞で『婦人問題懇話会』という民間の研究団体設立の記事を読み、自分から足を運んだ。「筆まめという人がいますが、私は足まめです。興味を持って行ってみたら、労働省(現・厚生労働省)や都庁の女性問題の担当者など、大勢の先輩女性がいて、私にとっては大学院みたいな場所でした。本を出版しようという話になって私も書き手の1人に選ばれて。まだ珍しかった共働き夫婦の家事労働分担について夫たちに連続インタビューしたら、NHKがラジオ番組で取り上げてくれたんです。初めて出演したときは手も声も震えましたよ。それが私の評論家デビューです」やがてキヤノンを辞めて評論家として独立した。’83年には自らが中心になり『高齢社会をよくする女性の会』を立ち上げた。その裏には母を看取るまで、1年8か月続いた過酷な介護体験があった。母は腎臓の病気があり、徐々に抑うつ状態に。夜中に起きて変なことを口走ったり幻覚を見たりもした。かつて樋口さんが夫を亡くして働き詰めだったとき、娘の面倒を見てくれたのは母だ。そんな負い目がどこかにあったのかと聞くと、樋口さんは即答した。「いやあ、母がいなかったら今日の私はありませんよ。ハッキリ言って、私は母の人生後半を食いつぶしたと思っています。昔の人だから一切、文句も言わずに娘をかわいがってくれましたよ。でも、もうちょっとやりたいこともあっただろうにと……」母が亡くなったのは’75年。まだ老人医療が確立される前で、入院先を見つけるのも大変だった。「働くひとり親が病人を抱えたらどんなことになるか、よくわかりました。そのころから日本中のいろいろな地域に講演に行くと、介護のために仕事を辞めざるをえなかったお嫁さんたちの悲鳴が聞こえてくるようになったんです。まだ介護という言葉は一般的でなく、看病とか世話をすると言っていましたが」同会には多いときで1500人以上の個人会員がいた。介護保険法をめぐって論争が続いていた’90年代後半は、イベントを開くたびに入会希望者が押し寄せた。介護に携わる専門職のほか、自分や親の老後を心配する主婦も多かった。事務局長の新井倭久子さん(81)は長年にわたって間近で見てきた樋口さんの素顔をこう話す。「設立当初、約30人いる理事の中には先輩もおられたそうですが、まだ50歳だった樋口恵子が代表になって、その後、ずーっとこの会を引っ張っています。もう、ブルドーザーといおうか(笑)、大黒柱といおうか。樋口は自分の思っていることはハッキリと主張しますが、異論に耳を傾け、相手を立てるところがあります。長所を生かす。運動は1人ではできないことをよく知っていますね。だから、樋口に多少無理を言われても、みんなめげない(笑)。この会がこんなに長続きしたのは、樋口恵子が代表だからだと思います」’05年にNPO法人の認証を受けた。かつて40~50代が主力だった会員も、今は65歳~75歳が中心だ。高齢になり辞める人もいて会員数は半減したが、活動は精力的に続けている。3年前、高齢者の薬の飲みすぎが問題視されたときは、同会でも会員の協力を得て服薬の実態調査を開始。5000人分以上のデータを集めて厚生労働省に届けた。コロナ禍で高齢者のICT(情報通信技術)弱者ぶりが報じられると、実態調査を始めた。■乳がんで家族共倒れの危機評論家として頭角を現した40代初めに、2度目の結婚。約30年の人生後半をともにした。事実婚で、相手は共同通信に長年勤務した後、いくつかの大学の教授を務めたジャーナリストだ。樋口さんが建てた家で同居を始めたとき、娘は中学3年生になっていた。「彼の領域を作って、若干の家賃を払ってもらい独立性を保ちました。娘は思春期だったからうれしくなかったと思いますよ。でも、私には私の生き方があると思うから、決して引け目には感じませんでしたね」夫は東大の新聞研究所の先輩で、教えてもらうことが多かったそうだ。「褒め上手でしたね。“この原稿は実によく考えて書いてある”とか、折に触れて褒めてくれました。私が絶対にかなわないなと思ったのは、いい先生であるということ。学生をすごくかわいがってよく育てました。彼が病に倒れると卒業生や教え子たちが見舞いに来てくれて、枕元が常ににぎやかでした」66歳のときに夫は重度の脳梗塞で寝たきりになり、3年3か月の闘病後、’99年に69歳で亡くなった。話すことはできなかったが、まばたきと右手親指を立てて意思表示ができた。不運はそれだけではない。夫が入院中に、今度は樋口さんが乳がんになった。風呂上がりに身体を乾かしていて、しこりを見つけたのだ。幸い、樋口さんのがんは転移しないタイプで、部分切除をすれば大丈夫だと医師に言われた。「1週間入院してくる。必ず生きて帰ってくるから心配しないで」黙って行くと逆に心配すると思い、寝たきりの夫にそう伝えると、涙ぐんでうなずいたという。「一時的とはいえ、文字どおり家族共倒れですよ。彼のことは私の友人や卒業生の中に頼める人がいたからいいけど、これからの介護は大変な人手不足の中でやらなければならない。ちょうど介護保険の論争をしていたころで、介護離職だけはしなくてすむようにしなければと改めて思いましたね」手術後、放射線治療で通院しているとき、同時期に乳がんの手術を受けた60代の女性が亡くなったと聞いた。姑の介護に追われて手遅れになったと知り、「介護保険ができていれば死ななくてすんだのに……」と心が痛んだ。その悔しさが、さらに背中を押してくれたそうだ。「私は大きな病気をするたびに、なんだか天から勇気づけられるというか(笑)。すぐへこたれそうになるけれど、この人のためにもうちょっとがんばろうと思う人に出会うんですよ」■女性も高齢者も見捨てない社会へ’03年3月、17年間勤めた東京家政大学を70歳で定年退職し、名誉教授になった。その翌月、樋口さんはなんと東京都知事選挙に出馬する。「唐突なんですけどね。女性グループから推されて、ここで断ったら女の世界で生きていかれないかもと(笑)。ちょうど大学が定年になったので」背景には女性グループの危機感があった。当時、樋口さんたちの悲願である男女共同参画条例を作ろうとする動きが東京都をはじめ全国の自治体で活発化していた。日本でも女子差別撤廃条約を’85年に批准。その後の国際的な流れに沿った動きだったが、条例に反対し妨害しようとする勢力が都庁内にもあった。そこで女性グループは現職の石原慎太郎知事の女性蔑視発言などに抗議し、樋口さんを擁立したのだ。選挙の結果、石原氏が308万票で当選。樋口さんは81万票で2位だった。大差で敗れたとはいえ、それだけ多くの人が支持したということは、樋口さんが長年活動してきたことが高く評価された賜物だろう。評論家としての樋口さんの強みはどこにあるのか。社会情報大学院大学客員教授で季刊『オピニオン・プラス』編集長の渡邉嘉子さん(74)はこう語る。「私は簡単に人を尊敬しないタイプの人間ですが、何度も取材を重ねた樋口さんのことはとても尊敬しています。というのも彼女はフィールドワークをしっかりしているんですね。全国を歩いて農家の主婦たちとか、草の根の女性たちの実態を観察して、話をいろいろ聞く。そのうえで自分の意見をまとめて世の中に発信して、政治に届けようとする。普通の女性たちの悲しみや苦しみをちゃんと吸い上げないと、代弁はできないと思われているんです。そこまでやる女性評論家って、ほとんど見当たらなくないですか?」確かに、自分の足で歩き回るぶん、人一倍、忙しそうだが、むしろ楽しんで難題に取り組んでいる感じがする。その点、樋口さん自身はどう思っているのだろうか。「いろいろな人に出会うたびに、幸運って言ったらおかしいんですけど、課題を与えていただいてありがたいと思っています。これがすんだら次はこれ、と。だから、おかげさまで死ぬまで退屈しそうにございません。アハハハ」だが、樋口さんたちの努力があっても、諸外国と比べると、日本の女性の地位は驚くほど低いままだ。いまだに女性の議員や管理職は少なく、派遣やパートなど非正規雇用でギリギリの生活をしている女性はたくさんいる。めげたりイヤになったりしたことはないのかと聞くと、「私だって腹が立ったりムシャクシャすることはありますよ」とあっさり言う。そんなとき樋口さんを励まし、力をくれたのは先輩の言葉だ。評論家の秋山ちえ子さんは生前、こう言ってなぐさめてくれたという。「20年、30年単位で見るから悔しいのよ。50年単位で見てごらんなさい。やっぱり女性の地位は変わっていますよ。その人が本当に変えようと思っている限り、進んでいきますよ」現在、樋口さんが懸念しているのは、女性の貧困層の増加だ。高齢化が急速に進む日本では、年齢が上がるほど女性の比率が高くなり、80歳以上では男女の比率は4対6。百歳を越えると9割が女性だ。十分な遺族年金をもらえる人は別として、低賃金で働いてきた女性は年金も少ない。「BBと私が呼ぶ“貧乏ばあさん”が増えていくと、嫌でも貧困社会になり、何十年後かに日本はつぶれかねません。それを防ぐためには、女性が平等に働ける社会にすること。私は女性だから女性の利害のためにも発言していますが、結果として日本が生き残る道は、女性の地位向上しかないと思っています」コロナ禍が続き、新たな心配も出てきた。家に閉じこもらざるをえなくなり、認知症が進んでしまった高齢者がたくさんいる。まさに、ヨタヘロの危機だ。樋口さんはコロナの感染対策をしたうえで、どんどん外に出ようと呼びかける。「少年よ大志を抱け、ヨタヘロよ大地を歩け。ヨタヨタ歩けば人に出会う。人と話せば元気になります」わが身をもって示す樋口さんの言葉は、多くの人の心に届くに違いない。取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。’90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。’95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。
2020年12月05日真矢ミキ撮影/佐藤靖彦コロナ禍によるさまざまなニュースでは、有名芸能人の死去も伝えられ衝撃が走った。そのひとり、岡江久美子さんとは25年来の友人。突然の訃報から半年、亡き友への惜別と、悲しみを経て挑む主演ドラマへの思いとは――。■理解できない悲報涙にくれ悲しい酒「自粛期間中、ただただ心が無になり苦しかったです」そう胸中を明かす真矢ミキ。4月、25年来の友人、岡江久美子さんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。突然の訃報。最後のお別れもできない。喪失感は大きかった。「彼女のことを考えるたび、涙が止まらず、ときにはお酒の力を借りたこともありました」岡江さんとは宝塚の花組トップ時代に知り合った。劇場の楽屋口で出待ちをする大勢のファンに交じって、大きなかけ声をしている姿が目にとまった。「女優の方だし、朝の情報番組(『はなまるマーケット』)の司会をされていらしたころだったので、有名な方がもみくちゃにされていて、めちゃめちゃ目立っていました。初対面でしたが、思わず“何しているんですか?岡江さんですよね?危ないので、ここにいるのはやめてください”とお伝えしたのを覚えています」それをきっかけに親交、関係を築いてきた。「岡江さんは明るくさっぱりとして、気持ちの厚い方。(コロナで亡くなったことは)いまだに理解できていないです。心をえぐられるような思いでしたが、人の命がいつ終わるかわからないことを目の当たりにして(コロナ禍の社会で)どう生きていくのか。生かされている者がしなくてはいけないことを考えるようになっていました」■苦境の子どもたちを救う世話焼きおばさん再びそんな自身の気持ちを落とし込みたいと臨む、主演ドラマ『さくらの親子丼』。児童虐待、育児放棄、貧困。行き場のない子どもたちに、食べることを通じて見守り、愛情を注ぐ九十九さくらを2年ぶりに演じるシリーズ第3弾。コロナ禍のニュースでも、子どもたちの環境が厳しさを増していることが伝えられている。「悩みを抱えた子どもと、力になり支えたいと思っている大人たちを描いたリアリティーのあるドラマ。心が疲弊している今の時代とも通じる作品になっていると思います」息子を亡くしたさくらは、子どものために尽くす“世話焼きおばさん”。「いろんな人と交わることで、正義だけがすべてじゃない。自問自答しながら模索しているさくらの姿は私自身と一緒で、公私ともに成長させてくれる役だと思っています」宝塚退団後は、映画やドラマでキャリアウーマンを演じることが多かったが、最近は“等身大”の役も増えた。「退団から20年以上たったからなのか、情報番組(『白熱ライブ ビビット』)をやったからなのか、年齢のせいなのか、いただく役柄がだんだん変わってきました。以前の生活感が見えないような役より、自分にとっては鮮度があり、その反面、役に対して細かく咀嚼するには、どうしたらいいだろうと。(ほかの役者さんは)若いころにやっていたようなことを、いくつになっても模索していますが、役者として苦しくもいとおしい時間にもなっています」コロナ禍での悲しい経験と模索、大きな糧になると信じたい。簡単&時短を会得!ステイホームで料理が上達したという真矢。「デミグラスソースを作りましたが、大変だったので2度とやりません(笑)。いろんなものを作りましたが、手の込んだものより、うなぎときゅうりの酢の物や野菜やきのこのマリネといった簡単で素材が少ないもののほうが(夫に)好評でした。時短で美味しいレパートリーが増えました」オトナの土ドラ『さくらの親子丼』(フジテレビ系毎週土曜夜11時40分~)民間子どもシェルターで働くさくら(真矢ミキ)が、傷ついた子どもたちのために奮闘する。新川優愛、山崎静代、名取裕子らが出演
2020年10月24日永作博美撮影/佐藤靖彦「最初は血のつながりのない特別養子縁組で迎え入れた子どもと親の距離感ってどうなんだろうって、たくさん想像してみたんです。でも、実際に養子縁組された方にお会いしたり、役に入り込んでいくうちに、理屈じゃないんだと気づいて。子どもとの関係はそれぞれ個々の性格によっても変わってくるし、血のつながりがあってもなくても、育て、育てられるという親子。だから、たくさんコミュニケーションをとって、私の“愛でる”日々を過ごしていました」■映画の“その後”を夫役の井浦らと披露特別養子縁組で男の子を迎え入れた夫婦と、実の子を育てることができなかった14歳の生みの親の葛藤や絆を描くヒューマンミステリー『朝が来る』。永作博美は特別養子縁組で母親になった栗原佐都子を熱演。監督は東京五輪の公式映画監督にも就任した河瀬直美(「瀬」は正しくは旧字体)。「ご一緒できてうれしかったです」と永作は初の河瀬組を心待ちにしていたそう。「周りから独特の雰囲気のある方と聞いていたので、それが体験できるしハードルの高い役をいただけてうれしく思いました。最初は難しい方なのかなと思いましたが、自分の求めるものを追求する、素直な願望の持ち主。ただ、撮影が終わったら、みんなを楽しませようと必死な姿が印象に残ってます」そんな河瀬監督のあるひと言で、打ち上げではこんな出来事が起こった。「監督が“打ち上げには、みんな1人1芸を持ってきて”っておっしゃったんです。私は芸なんてないしやらなくてもいいかなって思っていたんですが、メイクさんたちに“やらなきゃまずいでしょう”って言われて。結局、(夫役の)井浦新さんとか共演者4人で、この作品のその後を作って、寸劇みたいに披露しました。みんなからは“全然、意味がわからない”って言われてブーイングでしたが(笑)。監督はサービス精神旺盛といいますか、純粋にみんなを楽しませたい方でもあるんだなって思いましたね」■女優として・女性としての節目の年アイドルグループ『ribbon』のメンバーとして活躍し、その後、本格的に女優の道を歩み始めて、昨年デビュー30周年。「あっという間でした!女優というお仕事も、最初はあまり興味がなかったんです。劇団☆新感線の舞台『TIME SLIP 黄金丸』(’93年)に出てからですね、お芝居の楽しさに目覚めたのは。稽古ではできるまでやらされるので、さらに嫌いになりそうだったんです。そんな中、褒められると思ってなかった場面で褒められたとき、妙な快感を覚えて。“何この未知の世界!?”って、それがやみつきになって、舞台のあとすぐにドラマとかいろいろな作品をやらせてもらえたのもあり、今につながっているんだと思います」10月14日には誕生日を迎え、今年50歳に。「こっちもあっという間で、時間の流れって早いですよね(笑)。自分の中では昔から何も変わってないので。お仕事に関しては与えられた役をきっちりと演じて、確実にお役に立ちたいなと思っています。私生活では、なんとなく身辺整理が始まっていますね。変な意味じゃないですよ(笑)。断捨離もずいぶんしているんですが、実はいると思っていたものの中で、本当はいらないものがまだあるんじゃないかなと思って。家で整理整頓している時間が好きなんです。おうち時間が増えた今だからこそ、自分に必要なものをもう1度、見直したいと思います」美の秘訣を教えて!「あまりいろんなことを気にせず、気持ち悪いなってことをやめて、自分の気持ちいいなと思うことをするのがいちばんだと思います。私の場合は寝るのが大好きなので、ベッドに入った瞬間がいちばんの癒し。布団に入ったらすぐにバタンキューです。寝てスッキリして、また次の“朝が来る”ということで(笑)」『朝が来る』10月23日全国公開ヘアメイク/福沢京子スタイリスト/鈴木えりこ
2020年10月22日佐藤隆太が主演を務め、新国立劇場 中劇場にて上演された舞台『いまを生きる』が、2021年、東京、大阪、名古屋にて再演されることが分かった。この度、佐藤をはじめ各キャストのコメントが公開された。1989年にロビン・ウィリアムズ主演、ピーター・ウィアー監督によって制作されたアメリカ映画を基に、16年10月〜12月にオフブロードウェイで舞台化された『いまを生きる』。映画は第62回アカデミー賞脚本賞を受賞し、脚本を務めたトム・シュルマンが舞台版の脚本も手がけて話題となった。2018年に上田一豪が演出した日本での初演は、映画版のロビン・ウィリアムズ演じる主人公キーティングとも違った、生徒と真摯に向き合うオリジナルの佐藤版キーティングに、思春期の少年たちが自由に生きることの素晴らしさに目覚める輝きを鮮烈に描き、好評を博した。本舞台も初演に引き続き、演出は上田一豪。主人公である、厳しい規律で縛られてきた男子高校生たちに新たな視点や影響を与える若き教師、ジョン・キーティング役を佐藤が再び演じる。新たなキャストとして選ばれたのは、厳格なノーラン校長役に佐戸井けん太、生徒のひとりであるニールの父・ペリー氏役に飯田基祐、ノックスが一目ぼれするクリス役に小向なる。そして生徒役には、転校生のトッド役に佐藤新(ジャニーズJr.)、中心的存在のニール役に瀬戸利樹、無邪気なノックス役に影山拓也(ジャニーズJr.)、純粋なミークス役に基俊介(ジャニーズJr.)、正義感があるチャーリー役に三宅亮輔、素直でまじめなキャメロン役に市川理矩と、今後の活躍が期待される若手俳優が揃った。各キャストコメントは以下の通り。■佐藤隆太コメント「こうしてまたキーティング先生を演じる機会をいただけて、本当に嬉しく思っています。中学生の時に見た『今を生きる』はとても衝撃的で、その後もずっと自分の中に残り続けている大切な作品です。役者という世界に思い切り飛び込む事ができたのも、この作品に、そしてキーティング先生に背中を押してもらえたおかげの様な気がします。初演のメンバーとは稽古、本番の中で、ともに悩み、笑い、しっかりと心のつながりを持てたように思います。今回、また新しい共演者の皆さんと、自分がどのように心を通わせ、どんな“ものづくり”ができるのか、緊張と期待でいっぱいです。ぜひ僕らの新しい教室を覗きに来てください」■佐藤新(ジャニーズJr.)コメント「これまでご一緒したことのない、役者の皆さんのなかでお芝居をさせて頂けることに今からドキドキしていますが、いろんなことを吸収したいというワクワクする気持ちもいっぱいです。この作品に真剣に向き合い、素晴らしいものにしていきたいと思っていますので、ぜひ観に来てください」■瀬戸利樹コメント「ニール・ペリー役を務めさせていただくことになりました。再演されるほど人気な『いまを生きる』に出演させていただけることが大変光栄です。ニールは優等生で、輪の中心になる存在です。熱く、そして愛のあるキーティング先生の言葉の数々を受け止めて、生徒たちが直面する戸惑いや前に突き進む力をお届けできる作品になるよう、稽古に励みたいと思います。悩んで、悩んで、悩んで。新しい僕なりのニールと一緒に、歩んでいきたいです」■影山拓也(ジャニーズJr.)コメント「他のキャストの方々の顔ぶれを見て、驚きと嬉しさでいっぱいで、今からテンションが上がっています。いつか学園モノの作品をやってみたいというのが自分の中での夢だったので、不安なこともありますが、想像を膨らませながら、楽しんで演じたいと思います」■基俊介(ジャニーズJr.)コメント「自分たちがいつも立っているステージとは違うので、すごく緊張していますが、芝居に真摯に向き合っていきたいです。このような真面目な役を演じるというのも初めてですが、自分の持っている全てをありのままに出して、この作品に向き合っていけたらいいなと思います」■三宅亮輔コメント「チャーリー・ダルトンを演じます、三宅亮輔です。僕自身、原作の映画を観て最も感情移入したのが彼でした。世界中の人々がもがき戦っているいま、この作品を上演する意義が大いにあると感じます。それゆえプレッシャーも感じています。皆さんの“いまを生きる”活力につながる作品になるよう全身全霊で取り組みます!」■市川理矩コメント「僕が演じさせていただくキャメロンは、とても真面目で臆病なところはありますが、自分の欲に忠実に行動する性格でもあります。映画、舞台『いまを生きる』を観て、自分が自分の人生をどう生きていきたいかとても考えさせられました。自由に生きることの素晴らしさ、その中で一人一人がぶつかる葛藤、そこをリアルに演じられたらと思います」『いまを生きる』東京公演:2021年1月16日(土)~1月31日(日)新国立劇場 中劇場大阪公演:2021年2月11日(木)~2月14日(日)サンケイホールブリーゼ名古屋公演:2021年2月20日(土)~2月21日(日)東海市芸術劇場
2020年10月15日映画『小説の神様 君としか描けない物語』(10月2日公開)の公開直前イベントが28日に行われ、佐藤大樹(EXILE/FANTASTICS)、橋本環奈、佐藤流司、杏花、莉子、坂口涼太郎、片岡愛之助、久保茂昭監督が登場した。同作は相沢沙呼による人気同名小説の実写化作。中学生で作家デビューしたものの、発表した作品は酷評され売り上げも振るわない……自分を見失い思い悩むナイーブで売れない高校生小説家・千谷一也(佐藤)と、同じクラスの人気ものでドSな性格でヒット作を連発する高校生小説家・小余綾詩凪(橋本)。性格、クラスでの立ち位置、売れている/売れていないと、すべてが真逆の2人に、編集者から下されたミッションが、2人で協力し、1つの物語を作り、ベストセラーを生み出すことだった。初共演となったW主演の2人だが、大樹は「ツンツンした役のイメージもあったので、そういう人なのかなと思ったら、初めてお会いしたとき、コンビニ袋1枚くらいの荷物できてて。こんなに何も飾らずにフランクに話してくれる女優さんいないなと思って、一ファンとして、国民的に愛されてる理由がわかりました」と絶賛する。橋本は「恐縮です。EXILEのパフォーマーとしての佐藤さんもありますし、お芝居をしているイメージもあったので、お会いするのが楽しみでした」と返し、W佐藤、杏花との文芸部メンバーについて「撮影の前日に4人で仲良くなって。なかなかないんですよ。そんないい雰囲気でできたのは、コミュニケーション能力が高かったイメージがある」と分析する。すると流司は「取材とかでも仲がいいって、言うんですけど、コーヒーを買ってこいだとか、インスタントのやつじゃんだめで……」と泣き真似を始め、橋本から「この空気だから言えるけど、活字にしたらネットニュースとかさ!」と抗議される。杏花も苦笑する中、流司が「本当に、無視とかされて……」とさらに泣き真似をすると、キャスト陣も「嘘はやめよう!」(大樹)、「どういう設定なの!?」(橋本)とつっこみ、流司は「ふざけたくなっちゃう」と笑顔に。大樹が「流司くんがグループメールを作ってくれて、その日にごはんに行こうと言って、意気投合しまくちゃって、次の日の4人のシーンを見た監督が『何があったの』というくらい、部室の雰囲気になった」と感謝すると、流司は「終始全裸だったしね」と返すなど、最後までボケ倒していた。また、主演の2人が互いのことを「〇〇の神様」と作品タイトルにかけて表すコーナーでは、大樹が「コミュ力の神様」、橋本が「令和のマルチの神様」と掲げる。橋本は「(大樹は)ボケるときに『俺は令和の〇〇だ』と使いたがるんですよ。あと、パフォーマーとしてもできるし、お芝居もできるし、マルチに活躍している」と意図を説明。大樹は、「令和の」と使いたがることを暴露されて恥ずかしがりつつ、「響きが好きだなというのと、頭良さそうに見えるから」と理由を明かした。
2020年09月28日手を繋いで歩く、内海桂子さんと夫でマネージャーの成田常也さん(’17年)撮影/佐藤靖彦漫才コンビ『桂子・好江』で人気を博し、女性漫才師の第一人者として活躍した内海桂子さんが22日、多臓器不全のため都内の病院で亡くなった。97歳だった。大正11年生まれ、昭和、平成、令和という4つの時代を駆け抜けた桂子師匠。昭和13年に漫才師としてデビューし、芸歴は81年。長きにわたり第一線で活躍し、1989年には紫綬褒章、1995年に勲四等宝冠章を受章し、まさに国宝級の現役最年長芸人だった。プライベートでは、1999年、77歳のときに当時53歳だった成田常也さんと結婚。成田さんからの猛アプローチから始まり結ばれたという2人の結婚は、ふたまわりもの“年の差婚”として話題を呼んだ。そんな成田さんは今年4月に脳出血で倒れ、別の病院に入院中だったという。だが、8月に入って奇跡的な回復を見せ、27日に近親者のみで行われた密葬には参列することができたという。『週刊女性』は3年前、94歳だった桂子師匠を取材。そこでも2人は、夫婦として仲睦まじい様子を、また芸人とマネージャーという関係で阿吽の呼吸も見せていた。取材で語られていた2人の微笑ましい“ラブロマンス”とはーー。週刊女性2017年7月11日号に掲載した、桂子師匠の生き様に迫った「人間ドキュメント」の中から一部抜粋、再掲載する(以下、本文は掲載当時のまま)。◆◆◆■300通にも及ぶ“手紙攻勢”桂子さんのマネージャーであり、最愛の夫でもある成田常也さんは現在70歳。彼女より24歳年下である。新潟生まれで、小学校のころからラジオで聴く漫才や漫談、落語が好きな少年だった。中でも、内海桂子好江や林家三平が大好きだったと言う。「僕は三味線の音が好きだったんですよ。実家が魚屋をやっていて、よく家で宴会が開かれ、小さなころからお酒のお燗(かん)の役を務めていました」当初、成田さんは、てっきり芸人筋の方だと思われていた。見た目のとぼけた風貌も浅草の芸人らしい。ところが実はさにあらず。成田さんが、桂子さんと初めて出会ったのはアメリカの会社員時代。桂子さん64歳、成田さんは40歳で未婚だった。日本航空系の会社勤務のエリートである。そこでは「日航寄席」という演芸会が年に何度かアメリカ各地で開催され、成田さんは日本から芸人を呼ぶ仕事を任されていた。憧れの内海桂子好江コンビは、いつか呼んで生で芸を見てみたい芸人ではあった。「よし、接触してみよう」と成田さんは思い、内海桂子の連絡先に国際電話を入れてみた。電話口に出たのは、桂子さん本人だった。帰国し、桂子さんの家を訪ねたのだった。そのとき、成田さんは、桂子さんが成田さんの思い描く芸人のイメージと違うことに気がついた。「ちゃらんぽらんじゃないと思いました。そして、言葉に真実味を感じた。さらに、着物姿が美しかったことにも惹かれましたね」結局、アメリカでの公演は実現しなかったのだが、それから成田さんの手紙攻勢が始まる。1年間で300通。毎日のように、桂子さんの家に成田さんの手紙が届いた。当時、娘とその孫と同居していた桂子さんは、当時のことをこう思い出す。「孫がね、毎日手紙を持ってくるんです。また、この変な人から手紙が来てるよ、とね」300通を超える手紙の、最後の1通に成田さんはプロポーズの言葉をしたためた。そして、アメリカで一緒に暮らさないか、と打ち明けたのだった。しかし、師匠の返事はノー。「そりゃそうさ、あたしがアメリカなんかで暮らせるわけはない。浅草の家には娘も孫も母もいるわけだしね。みんな、あたしがいないと干上がっちまう」。普通ならば、ここで断念するのだろう。だが、成田さんの情熱は少しも衰えることなく、「ならば私が東京に行きましょう」と切り出したのだった。長年勤めたアメリカの優良企業のポストを捨てる覚悟を決めたのだ。そして成田さんが帰国。同居生活が始まった。当初は、桂子さんの「仕事のない人とは暮らしたくない」という理由から、成田さんは家具会社の社長室長の仕事をしていたが、2年後には桂子さんの仕事をサポートすることに。同居当初は「遺産狙いじゃないか」などと言われた成田さんだったが、次第にその誠実ぶりが家族に認められていった。成田さんより5歳年上で結婚には反対だった桂子さんの長男も、病床での最後の言葉が「母をよろしく」だった。そして同居から15年が過ぎた’99年、2人は島根県の出雲大社で結婚式を挙げ、その模様はテレビで放映されたのだった。■とにかく仕事をしているのが一番楽しい「師匠は舞台の時間を守らないんですよ」と言うのはナイツの塙宣之さんだ。「しゃべってるうちに話が終わらなくなっちゃうんですね。“師匠、時間です”と言っても耳が遠いから聞こえないし、そんなときは3段階でやめさせる。最初は舞台袖から懐中電灯で光を当てる。まだダメなら緞帳(どんちょう)を下ろしちゃう。それでもダメなら僕が舞台に出て行って着物の袖を引っ張って連れ戻すんです(笑)」売れっ子漫才師・ナイツは、2001年から桂子さんに弟子入りしている。初対面はどんな印象だったのだろうか。土屋伸之さんが言う。「大御所なので、怖い人だと思ってました。でも、自分の祖母とおんなじで優しいおばあちゃん。おそらく昔の弟子には厳しかったんでしょうね」桂子師匠は基本的なことを教えてくれると塙さんは言う。「手取り足取りという指導ではなく、とにかくお客さんの前に出るときはちゃんとした格好で出なさい、とか。だから僕らいつもスーツなんです。あと、これは僕らにまさに足りないんですけど、“芸を身につけなさい”ということ。唄だったり、楽器だったり、踊りだったり……。だから僕らは必要なとき(踊りをやらなければならないとき)に稽古をつけてもらいに行ったり、習ったりしてますよ」東京都台東区竜泉──。浅草にもほど近い下町情緒の残る一角に、桂子さんと成田さんが住む家がある。食事は、朝昼兼用の1食と夕食の2回。用意はすべて成田さんの仕事だ。「といっても、お惣菜を買ってきて、お味噌汁はインスタント。今は美味しいものがありますからね」と成田さん。毎晩、1合の晩酌が何より楽しみ。桂子さんがぼやく。「ホントは、もう少しお酒が飲みたいのに、この人が1合しか持ってこないの。知ってるんだから、上の部屋に1升瓶がいっぱいあんの。あたしは、絵や字を描くのも好きだけど趣味じゃない。だって売れるんですもの。とにかく仕事してるのが一番楽しいね」仕事は、月に6回ほど浅草の東洋館に出演。ほかにテレビや地方での仕事もある。あとはリハビリに励む毎日だ。塙さんがあきれながら言う。「最近“東京五輪では、100歳になっておかないといけない”なんて言い出してる。だから今年で96、97とか平気で嘘を言うんですよ。すごい芸人根性なんだけど、まあ立派な詐欺ですからね(笑)」『人間ドキュメント』取材・文/小泉カツミ
2020年08月28日加藤登紀子撮影/佐藤靖彦新型コロナウイルス感染拡大以来、アーティストのライブは軒並み自粛。中止や延期が当たり前に。そんな出演者も観客もいない、暗くガランとしたコンサートホールに再び火を灯したのは歌謡界の女傑だった。6月28日、観客を1000人に絞って『加藤登紀子55th Anniversary コンサート「未来への詩」with Yae』は行われた。■かつてない厳戒態勢の中、行われたコンサート6月28日、東京・渋谷のオーチャードホール。係員はフェイスシールドを装着し、入場のために並ぶ誰もがマスクをつけ、一定間隔をキープ。チケット確認の後には、サーモカメラによる検温。消毒液があちこちに設置され、エレベーターも人数制限されていた。2150人を収容できるホールだが、この日は1000人限定。座席は、1席ずつ間隔が空けられた。終演後は座席番号によって退出のタイミングをズラし、座席番号と氏名と電話番号を記入した用紙を提出するなど、考えうるコロナ対策が講じられていた。16時。漆黒のステージに差し込んだ光が1本の道を作り、加藤登紀子は現れた。《日が昇り日が沈む天と大地の間に》『Rising』(’82年) でライブは始まった。「なかなかの眺めよ」うれしそうに、そして懐かしそうに加藤は客席に語りかける。「ここにいらっしゃるまでにそうとう覚悟が必要だったことでしょう。心から、感謝の気持ちでいっぱいです」『知床旅情』(’72年)、『この空を飛べたら』(’78年)、『百万本のバラ』(’87年)などのヒット曲に加え、自粛期間中に完成させた、医療従事者やコロナ感染者とその家族へ捧げる『この手に抱きしめたい』など、全18曲を歌い上げた。締めくくりは、観客全員との一斉エアハイタッチ!「本当にみなさん、くれぐれもコロナにならないでね。何が起こったとしても、そのときそのときを精いっぱい過ごしましょう。また元気にお会いしましょう!」ライブを後にした観客に感想を求めると、「久しぶりの外出で今日は本当に楽しかった。涙が出ました。おときさんの勇気に感謝しています」(60代女性)、「何度もライブに来ているけど、今日の『百万本のバラ』がいちばんよかった」(60代女性)。満ち足りた表情で話してくれた。■“おときさん、あなたでしょ”そう言われている気がした公演の2日後、加藤の事務所を訪れ、話を聞いた。「この55周年の記念コンサートはやりたいと思っていたものだったんですが、開催を決断したのは5月26日でした」東京で、緊急事態宣言が解除された翌日だ。「その前はずっと“難しいかな”と思っていました。ただ無理だったとしても、無観客でもオーチャードでやろうと計画しておりまして。でも『新型コロナウイルス感染症を乗り越えるためのロードマップ』が発表になり、(ステップ3で)客席50%、1000人までならやってよろしい、と。もう、神の声かと思いました。“おときさん、あなたでしょ”って言われているような気がして(笑)。即、決断したんですよ」6月12日、ステップ3に移行。勝機が見えた。「準備の時間が少なくて、本当に大変でした。オーチャードホールのチケットカウンターも閉じていましたし。でも、みなさんにお知らせして、打てば響くように1000席が埋まりました。当日、お客さんは社会的な意味を全部わかったうえで来てくれた。確信犯じゃないけど、共犯者(笑)。本当に覚悟を持ってきてくれたんだなと感じ、掻き立てられましたね」この状況下での公演決行に怖さはなかったのだろうか?「コンサート中も終わったあとも、今でも感じています」今回は打ち上げをしなかったどころか、スタッフたちには“10日間くらいは街に絶対出ないように”と、お願いしているという。「責任は重大ですから。ウチのスタッフたちもすごく気を遣って実行しましたが、でも“絶対に、100%大丈夫”とは今の時代、言えないですよね。だけど、いつまでもその縛りの中にいるわけにはいかない。せっかくロードマップができる指標を出してくれたんだから、その指標に従ってやるべきだと思ったんです。そうしないと要求されている以上に自分が自分を縛ってしまい、過剰自粛になってしまう。みんなが過剰自粛をしちゃうと、ますます活動を開始した人が針のむしろのような気持ちになってしまう。やはり、お互いに気をつけながら、やれることは限りなく努力してやっていきたい」この公演について“登紀子さんは自分のためじゃなく、業界のためにやるんだ”と言っていた著名人もいた。「別に私自身は、そんな大それた思いはなくて。業界にプラスになるかどうかは、これからのことであって。もし私が失敗したら、悪い影響があるかもしれない。偉そうに、“みんなに勇気を持ってもらうために先陣を切ったのよ”なんて思いはないんですよ。逆に先陣を切ったからこそ、失敗は許されない。責任は重い。私も、一緒に出た娘(Yae)も、生半可な気持ちじゃできないという強い意志を持って取り組んだコンサートでした。とはいえ“赤信号、みんなで渡れば怖くない”じゃないけど(笑)、やっぱり誰かが行ってくれれば、少しは決断しやすいかもしれない。ほんの小さなメッセージですよ」穏やかに、優しく微笑んだ。加藤の次回のコンサートは、8月10日、東京・COTTONCLUBにて。そのころ、コロナと私たちの関係はどうなっているだろう――。発売中『未来への詩』歌手生活55周年を迎えた加藤登紀子の最新シングル。歌い続けてきた中で巡りあった歌の数々へのオマージュにした1曲。『NHKラジオ深夜便』4〜5月の深夜のうた。1500円+税。発売/ソニー・ミュージックダイレクト
2020年07月08日神木隆之介撮影/佐藤靖彦20年以上のキャリアを持ち、数々のドラマや映画で大活躍している神木隆之介(26)。4月18日スタートの主演ドラマ『連続ドラマW 鉄の骨』(WOWOWプライム・毎週土曜夜10時~)で、池井戸潤×神木隆之介という“最強タッグ”が実現。中堅建設会社に勤める熱血若手社員役を演じ、新たな一面が見られると話題が集まっている。圧倒的な演技力で多くの人を魅了する、実力派若手俳優の素顔とは――。■制服からスーツ姿へ「たくさんの人気作がある池井戸作品で主役をやらせていただくのはやっぱりうれしいですし、同時にプレッシャーもあります。出演が発表されてから、役者仲間や多くの方々が“本当に面白い作品だから期待しているよ”って言ってくださって、“よし!頑張ろう!”って気持ちになりました」演じるのは、不器用だが希望を持って建設会社で働く入社4年目の富島平太。建設現場を愛する実直な26歳の青年が『業務部』へ異動を命じられ、“談合”をめぐる組織の理論に翻弄されていく。映画『ラストレター』での制服姿が印象深い神木のサラリーマン役は、少し珍しいように感じるが……?「童顔なので(笑)。20歳のころスーツを着たサラリーマン役に憧れていましたけど、実際に演じてみて、サラリーマンは大変だなというのがわかりました。平太はまだまだ未熟者だなと思います。その彼が酸いも甘いも、黒も白も見てどういうところに行きつくのかという成長物語でもある。ある程度、自分で信念を持って仕事をしていたのに急に部署が変わって、今まで自分なりに培ってきたものを完璧に崩されてしまうわけです。でも26歳って、自分が信じてきたものが1度、壊れる時期としてちょうどいいのかもしれないですよね。人生の物語が、すごく大きく動くような年齢なのかなと思います」神木と平太は同い年。“26歳”の2人の共通点を聞いてみると、「正義感が強いのと頑固は紙一重なところもありますけど、あえて平太を頑固というなら、そこは似ているのかもしれないです」■ベテランキャストと演技バトル!豪華な出演者が顔をそろえる今作。平太の上司役に内野聖陽と中村獅童、平太に大きな影響を与える談合を仕切るフィクサー役に柴田恭兵など、ベテランの実力派俳優と神木との熱い演技バトルも見どころだ。「本当に尊敬している共演者の方々で圧倒されています。本番になるといい緊張感があって尾形常務役の内野さんは“僕が越えられない壁”として心を折れさせる存在でいてくださるので、本当にありがたいです。柴田さんとは子どものころに1度、共演させていただいたことがあって、そのときの動画を見ながら懐かしいお話をさせていただきました。柴田さん演じる三橋さんと平太の関係性は人生の師匠と弟子のような側面もあって。年齢は祖父と孫のように離れているんですけど、平太の本音を優しく聞いてくれて諭してくれる。柴田さんが、僕がセリフを言いやすいようにそういう雰囲気を作ってくださるので本当にすごい方だなと思います」平太の恋人は現在、ドラマや映画に引っ張りだこの女優・土屋太鳳が演じる。神木いわく、これまでの役者人生で“数少ない彼女役”については、「太鳳ちゃんとは、映画『るろうに剣心』で共演していて気心が知れていますし、とても自然な感じで演じさせてもらっています。大学時代からの付き合いで落ち着いた雰囲気のふたりの関係性が、最初からストレスなく出せたかなと思います」今年デビュー25周年の節目を迎える神木。仕事は順調で迷いはないようだが、ひとつ“葛藤”があるという。「最近、“結婚って、いつすればいいんだろう?”って、思い始めて(笑)。やっぱりクラスメートが結婚すると考えますよね。結婚願望はあります!役者の仕事は、毎回新しい現場で自分の居場所を探さなければいけないんですよ。それで居場所を作ったと思ったらオールアップで、また次の現場で作るというその繰り返し。だから“本当の自分がいていいんだって、認められる場所ってどこだろう?”って思ってしまうことがあります。ひとつの形として、例えば結婚して奥さんがいて帰る場所ができて、“お帰り!”って言ってくれる。そうすると“ここは帰ってきていいんだ。自分がここにいていいんだ”って思える気がするし、そういう場所を持てたらすごく素敵だなって思うんですよね」大人になったと思う瞬間後輩愛が止まらない!25歳になったあたりから、後輩が愛おしく思えるようになりました。映画『ラストレター』で共演した森七菜ちゃんもそうですけど、これからの世代を担っていく子たちっていつもキラキラして希望に満ちあふれていて、すごく元気。本当にパワーをもらえるんですよね。年下の役者と共演して、彼らからパワーをもらっているってことを実感したときに“自分も大人になったんだな”って思います。事務所の後輩の松岡広大とか金子大地とかもそうですけど、そんなキラキラした後輩たちに、もっとおいしいものを食べさせてあげたいなぁって(笑)神木隆之介の“これから”育てるポジションになりたい事務所の後輩に演技レッスンをするとか、その子にあったオーディションをアドバイスしてあげたり、お芝居でちょっと困ったことがあったら相談にのるアドバイザーのような手助けができたらいいなと思っています。僕の強みは24年の俳優生活のなかで、現場のスタッフのみなさんを見てきて、役者とマネージャーの両方の気持ちがわかることだと思うんです。かなりいいアドバイザーになる自信はありますよ!いちばんオフになれる瞬間は?幼なじみと過ごす時間かな僕が中学生のときからの付き合いで、3歳年上の幼なじみがいるんですけど、その友達と会っているときがいちばんリラックスできるかな。疲れているときでも2人で夜中までカフェでお茶しながら、くだらない話をして爆笑したり、彼が勤めている会社のことをいろいろ聞いたりするのが楽しいです。そういうときは、完全に俳優・神木隆之介はどこかに行って、普通の26歳の男子になってる(笑)。会社のコスト削減の話とかも自然と話題に出るので、今回のドラマの役作りにも役立ちましたね。WOWOW『連続ドラマW 鉄の骨』4月18日(土) 放送スタート土曜夜10時~取材・文/井ノ口裕子スタイリスト/百瀬 豪ヘアメイク/MIZUHO(vitamins)
2020年04月18日『いいね! 光源氏くん』(NHK総合)で共演する千葉雄大と伊藤沙莉撮影/佐藤靖彦千葉「クランクインの時は、“この先、大丈夫かしら”って(伊藤さんが)思っていたそうです」伊藤「静かな人だなって。こんなに面白い人だと思いませんでした(笑)」よるドラ『いいね!光源氏くん』(NHK総合)で現代にタイムスリップしてきた平安貴族・光源氏を演じる千葉雄大と、光源氏を自宅に住まわせることになるOL・沙織役の伊藤沙莉。これまで同じ作品に出演したことはあったが、がっつりと絡んだのは今回が初めて。そんなふたりを直撃!■千葉雄大の「ぴえん」な女優とは伊藤「千葉さん、お芝居でふざけたりはするけど、普段はクールなのかな、というのが最初の印象でした。すっごく優しいけど、口数が少ないという」千葉「僕、扉を開けるまでは、猫をかぶるんです。嘘をついているわけではなくて、どう接したらいいかなって探っちゃう。“この人は、素を見せても大丈夫”って思ったら、止まらなくなります(笑)。仲のいい人によく言われるんです、“第一印象と全く違う”って。沙莉ちゃんは、全然変わらないですね。最初から、よく笑ってくれて。そうじゃない女優さんだったら、“ぴえん(女子中高生が残念なときに使う)”って感じで」伊藤「ぴえんって(笑)」今作は、地味で自信のないOL・沙織が、突然、家に現れた光源氏をヒモ同然のように住まわせることで、徐々に光に惹かれていくラブコメディー作品。相手の役柄と、実際のキャラクターの共通しているところをあげてもらうと、伊藤「人たらしだと思います」千葉「どういうこと?」伊藤「みんなに、すごく好かれるんです。でも、それは、好かれようと意識してじゃない。意外と辛口な発言もするんですけど、みんな千葉さんについていくし、信頼する。無意識に人を惹きつける感じが、光(源氏)くんだなと思いますね。相手のことをしっかり見ている人じゃないとできない行動とか言葉を言うことがあって、真ん中に立つ人だなって思いました」千葉「僕が意外だったのは、彼女クランクアップのときに涙を流したんです。すごくそこに感動してしまって。ドラマの沙織さんって繊細なんです。沙莉ちゃんにも、そういうところがあったんだなって(笑)」伊藤「(爆笑)あるわい!この作品の撮影が、本当に楽しかったんです。毎日現場に行くのが楽しかったので、シンプルに寂しいなという気持ちと、走り切ったんだなという思いで、頭が真っ白になって。絶対に泣きたくなくて、泣かないって思っていたんですけど、ダメでした」千葉「優しいんです。撮影中も、このシーンどうしたらいいかなっていうのは、一番に沙莉ちゃんに相談していました。すると、ちゃんと聞いてくれる。その優しいところも、沙織さんと似ていると思います」■2人のプライベートに迫る!頭を空っぽにして見てもらった中で、何か残るものがあるといいなと語る千葉。劇中、光は感情が高まると所かまわず和歌を詠んでしまう。最近、感情が高まった瞬間があったか聞くと、千葉「近ごろ眠れないときに、ドラえもんの映画を見て寝るようにしているんです。泣けるんですよね〜。のび太が立ち上がって、みんなで頑張ろうみたいな。のび太にすごく感情移入して高まっています。『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』は、本当に良かった」伊藤「久々にゲーム機を買ったんです。前からニンテンドースイッチライトが欲しかったんですが、新色のコーラル(ピンク)が出ると聞いて、同じ日に発売されたソフト『あつまれどうぶつの森』と一緒に予約しました。仕事から帰ってきて、荷物を見つけた瞬間に“いえ〜い!”って高まりました(笑)。おもちゃを箱から出すっていうのが久しぶりの感覚で」千葉「僕もニンテンドースイッチを持っています。この前の誕生日にいただいて。『あつまれどうぶつの森』買おうかな」伊藤「買って!一緒に楽しめるゲームだから。ベストフレンドになろう」Q.ドラマのイチオシ胸キュンシーンを!千葉「沙織さんって、応援したくなる女性なんです。向かい合った沙織さんが涙を流すシーンがあって。そのときは、守ってあげたいなと思いました」伊藤「光くんが携帯電話とか抹茶ラテとか、新しいものに遭遇するたびに、“これはなんだ?”って顔をするんです。そのたびに、愛おしいなって(笑)」Q.撮影中、千葉くんが突然踊り出した?伊藤「基本的にはカメラが回っていないときなんですが、突然、踊り出すことがありました(笑)。平安貴族の光くんは、しずしずと歩かなくちゃいけなくて。その反動かなと思っていましたけど(笑)」千葉「今、言われて気づいたんですけど、そうだったかも。ずっと烏帽子もつけているので、動きが制限されていて、そこから解放されたい瞬間があったんだと思います。彼女、踊れるから、めちゃくちゃ返してくるんですよ。即興でセッションしたりして(笑)」。伊藤「ミュージカル調で歌った後に、一緒に踊ったりしていました(笑)」よるドラ『いいね!光源氏くん』NHK総合毎週土曜夜11時30分〜
2020年04月11日俳優・佐藤健の公式YouTubeチャンネルで31日、『佐藤健を癒す「TAKERU NO PLAN DRIVE」』の動画が公開され、その中で佐藤が理想の休日について語っている。「TAKERU NO PLAN DRIVE」は、神木隆之介プロデュースによる旅企画。佐藤、神木、桜田通、渡邊圭祐の4人で、ドライブ旅を繰り広げる。今回の動画では、神木の運転で佐藤と2人で出発し、渡邊と桜田をピックアップ、4人でトークを楽しむ様子が収められ、千葉方面へ進むところで終了した。トークの中で、渡邊が「自由におもてなししてくれって。僕は、健さんがやりたい休日を…」と話すと、佐藤は「俺がやりたい休日は、家で1人でゆっくりしたい。たまった録画を見ていたい。家でソファで『テレビ千鳥』をずっと見続けたい」と理想の休日を語った。千鳥・ノブと親交の深い佐藤。神木から「夜はノブさんとご飯行って1日が終わるんだよ」と言われると、「終わる」と認め、「外に出ることマジでない。午前中に外に出るなんて、仕事以外で何年ぶりだろう」と話した。
2020年03月31日草刈正雄撮影/佐藤靖彦ダンディーで大人の色気があって、渋くてカッコいい。と思えば、ニコリと笑って優しい表情を浮かべる。その変わらぬ魅力に、つい、引き込まれてしまう――。草刈正雄、67歳。4年前に『真田丸』で再ブレイク。圧倒的な存在感を見せつけた朝ドラ『なつぞら』での“じいちゃん"役も記憶に新しい。そんな草刈が、今度は初の総理大臣役に挑んでいる。■そう呼ばれるとその雰囲気になってくる「本当に大変でした。それはぜひ、大きく書いてほしいです(笑)。政治用語が多く、難しくて。だからといってセリフに集中しすぎると芝居ができなくなってしまう。それはもったいないなと。でも、その難しさがだんだん快感になっていって、俳優としてはやりがいがありました」昨年公開された映画『記憶にございません!』では、官房長官役を演じていたが、「昇格しましたね(笑)」と茶目っ気たっぷり。“総理”と呼ばれるのは、どんな気持ち?「役者って気持ち悪くてね、そう呼ばれるとその雰囲気になってくるんですよ。ね、気持ち悪いでしょ?(笑)僕は普段、だらしない人間なんだけど、なかなか(役を)断ち切れなくて、今回も気づいたら役に入ってた……なんてこともありましたね。僕が総理だったら?う~ん。最近は暗いニュースばかりですからね。もちろん、僕も先行きが不安になることはありますよ。もっと楽しい、明るい話題が出てくるような、そんな世の中になるといいなぁと思います」今回、草刈が演じる江島総理は、国家財政の危機が襲う中、反対を受けながらも強い信念をもって国を救うために奔走する。「まさに“猪突猛進"な男。とにかく成功させるためには、周りに反対されようが、どんな手を使ってでもやるぞ、みたいな。自分とは大違いです」そうなんですか?「はい。僕は気が弱いですから、周りから何か言われたら“あぁ、そうだね。そうかもしれないね"って言ってしまうタイプ(笑)。でも、自分とは違うからこそ、演じていて楽しかったです」■台本が全部教えてくれる今年でデビュー50周年。これまでさまざまなキャラクターを演じてきたが、「僕は基本、役作りというのをしないんですよ。台本が全部教えてくれるので、そこから感じ取るものだけでやっていきます。台本に2~3回目を通したら、あとは直感ですね。緻密に考えられる役者さんもいますが、僕はざっくり系です(笑)」と答える。それができるのも、積み重ねてきたキャリアがあってこそ。この先、まだまだやってみたい役は?「僕からこういう役をやりたいというのは、正直ありません。スタッフの方が、どんな役を草刈正雄にやらせてみたいと思うのか、それが楽しみですね。毎回役をいただくたびに“僕についてこう考えているんだ"ってワクワクします(笑)。これからどんな役をいただけるのか。お待ちしてますよ」昨年放送された朝ドラ『なつぞら』では、広瀬すず演じるヒロイン・なつの祖父代わりである泰樹を熱演。その貫禄に視聴者もクギづけ。1年前の“じいちゃん"と比べ、今はとても若々しい!あの役のウラ話近年では、『真田丸』『なつぞら』の2作品は本人にとっても“特別な作品になった"と話す。「撮影の前に“衣装合わせ"ってあるでしょう?衣装さんやメイクさんがいろいろ工夫してくれて。ヒゲをつけて帽子をかぶっていくうちに、カウボーイみたいだなって(笑)。『真田丸』のときもそう。ヒゲはやして、侍姿になって。後ろに鏡があって、いざ振り返って自分の姿を見たときに、“おぉ~~~"って。すぐその気になっちゃいましたね(笑)」WOWOW「連続ドラマWオペレーションZ~日本破滅、待ったなし~」毎週日曜 夜10時(全6話)
2020年03月22日中村倫也田中圭撮影/佐藤靖彦田中圭(以下、田中)「倫也とは過去に何度か同じ作品に出演していたり、少しだけ共演シーンがあったりという感じだったけど、これだけガッツリ絡むのは初めて。一緒に芝居ができて本当に楽しかった」中村倫也(以下、中村)「現場で圭くんも言ってくれていたけど、撮影中はいろんな化学反応が生まれたし、 “こんなシーンになったの!”って感じで一緒に楽しみながら作れた感覚があります」旬の実力派俳優同士が濃密共演!ドラマスペシャル『不協和音 炎の刑事vs氷の検事』(テレビ朝日系 3月15日放送 夜9時〜)で、田中圭(35)と中村倫也(33)が生き別れの兄弟役に扮する。これまで映画などでの共演経験はあるものの、ここまで芝居で絡むことは今回が初だという。中村「圭くんは一緒に仕事をしたいなって思っていた先輩のひとりでした。何をやっても受け止めてくれるので、演技の懐が深いですし安心感がすごいんです。僕が暴投してもちゃんと拾ってくれる(笑)。どんな掛け合いも成立させてくれる頼れる兄貴という感じです」田中「本当にいいやつだな(笑)。倫也は自分にないものを持っていたり、こういう役の演じ方うまいよなとか、先輩後輩関係なく一目置いている俳優さんのひとり。僕的には、連絡先も交換したし、今回の作品で距離は縮まったなというのは思っていたんです。でも、この撮影が終わってほかの番組で会ったとき、挨拶したら何かぎこちなくて“あれ、また距離開いてる?”ってことがあって」中村「シャイなんです(笑)」田中「本人が言うならシャイなんだと思います(笑)」■旬の俳優二人が再び共演するなら?田中が演じるのは不器用ながらも事件と真摯に向き合う熱血刑事の川上祐介。中村は冷静沈着な東大卒のエリート検事の唐沢真佐人に挑戦。そんな真逆な性格の兄弟が21年ぶりに再会。やがてタッグを組み、難事件に挑むことになる。田中「僕自身はあまり男くささみたいなものがもともとないと思っていて。熱いタイプかと言われると、自分では出しているつもりはないけど、そう言われることもありますし、“逆に冷めているタイプだね”って言われると、なんか落ち込んだり(笑)。あと、祐介はよく怒るんですが、普段は怒ることがないので、そういう意味では演じるのが大変でした」中村「クールとか言われますが、自分の中ではすごい熱いと思っているんです。だけど、昔からそれが表に出ないタイプらしく、よくやる気がないように見えるみたいで(笑)。なので、例えばオーディションを受けたときに“よろしくお願いします!”って熱さ全開な人がうらやましくもあり」田中「倫也はクールというより、話していても独特なことを言うから面白いなって思う。どういうときに熱くなるの?」中村「最近思うんですが、自分の性分がディテールの部分をこだわりたいタイプみたいで。演技にしても、“もうちょっとこうできるかな?”とか、人によってはこだわるべき部分ではないところも追求したり。そういう芝居の部分は熱いものを持ってますね」俳優として互いを認め合う2人。次に共演するとしたらどんな役柄を演じたいのだろうか?中村「圭くんが主演の作品に、毎回違う役で1シーンだけ出てみたいです」田中「ああ、わかる!僕も1シーンだけ出たい。例えば倫也が主演の刑事ドラマで、僕が下着泥棒役で出るみたいな(笑)」中村「(笑)。会話劇もやってみたいですね。ファミレスでも居酒屋でもいいんですが、2人は昔からの友達で、それぞれ仕事を頑張っているけど、週に1回集まって、夜中にずっとしゃべっているみたいな、ワンシチュエーションで展開する作品とか。ゆるい感じだけど、2人の素が出そうで、面白くなるんじゃないかと思います」田中「このドラマの続きもいいね。今回は21年ぶりに再会した兄弟だったので、距離感がある関係だったけど、その距離が近づいて、めちゃくちゃ仲がいいけど、仲が悪いみたいな(笑)。倫也となら、そういう繊細な部分も表現できるし、また違った展開を見せられるんじゃないかなって思います」春は“卒業”シーズン!田中「調べものやゲームをしたりと、とにかくスマホがないと生きていけない人間なんです。撮影の合間とか寝る前も、時間があればずっと見ちゃう。おかげで眼精疲労が半端ないんです(笑)。これから暖かくなっていくだろうし、空いた時間でやれることも増えるので、スマホをちょっとだけ卒業してもいいかなって思います」中村「昔から周りによく警戒されるんです。パッと見、あまり隙がなく、何を考えているかわからない印象を持たれることが多いんですよ。年下に限らず年上の方にも言われますし、初対面ならなおさら。自分では普通にしているつもりだけど、だから今回のような役もいただけたのかと(笑)。できる限りヘラヘラしたりするんですが、どうしていいかよくわからず……この春、卒業したいですね」
2020年03月15日(左から)間宮祥太朗・妻夫木聡・柄本佑撮影/佐藤靖彦妻夫木「佑とは何度か共演してるけど、間宮くんとは初めてだよね。同じ作品とはいえ、一緒のシーンがなくて」柄本「現場で、2人はまったく会えなかったの?」間宮「そうなんです。共演させていただけるなんてうれしい~って喜んでいたら、まったく同じシーンがなく(笑)」妻夫木「さっき2人で取材を受けたんです。初めて一緒に仕事するのに、撮影で“(間宮の)肩に手をのせてください”っていきなり言われて、お互い、どうしようってなったよね(笑)」■夏帆との役作りで複雑な気分に和やかな雰囲気の中で始まった妻夫木聡(39)×柄本佑(33)×間宮祥太朗(26)の3ショットインタビュー。あまりにも衝撃的な内容で賛否両論を呼んだ小説が映像化され、映画『Red』として公開される。不器用な男と女が紡ぐ、禁断の大人のラブストーリー。共演した彼らに、思いを聞いた。夏帆演じる主人公・塔子が“かつて愛した男”を演じたのは妻夫木。すでに家庭を持つ彼女と再会、危うくも濃密な関係となっていく。妻夫木「夏帆ちゃんと、関係性をどう築いていこうって考えたときに一緒に料理を作ろうと思ったんです。インする前にキッチンスタジオを借りて、2人だけでシチューを一緒に作って、ごはんを食べて、お酒を飲んで……。たくさん話しました」間宮「僕は夫役で、奥さん役の夏帆さんと娘役の子と遊園地に行く時間を設けてもらって。ただただ楽しい時間でした。だから、そのあとに妻夫木さんが待つキッチンスタジオに夏帆さんを見送るのが、なんか複雑で(笑)」妻夫木「同じ日だったんだ、それは複雑だね(笑)」■妻夫木のセリフひとつで“世界”が動く次第に心も身体も解放され、美しくなっていく塔子。そんな彼女に好意を抱く同僚を演じているのが柄本だ。実は、妻夫木の大ファン!柄本「プライベートでも飲みに行かせていただいて、人間としても役者さんとしても大好き。だからこそ、目と目を合わせて芝居をするのが怖くて緊張もする。妻夫木さんがひとつセリフをしゃべるだけで、“世界”が動くんです。久しぶりの共演で、“妻夫木聡、さらにすごみが増したぞ”って思いました」妻夫木「ほんとかよ!?(笑)」間宮「聞けば聞くほど、共演シーンがなかったことが悔やまれます……!」男と女に焦点を定めながらも、心揺れ動くひとりの女性の生きざまが描かれる。そこに妻夫木は、“女性の怖い強さ”を感じたというが、3人は普段、どんなところに女性の強さを感じる?妻夫木「人生の選択に迫られたとき、男って“ひよる”と思うんです。そういうとき、女性って強いなって。決断を下せるその強さっていうのは女性ならではなのかも。間宮くんは?」間宮「そうですね、女性は自分との向き合い方も強い。現状と今後こうしたいと思う願望と、常に自問自答している気がします。僕は今が楽しければいいやってタイプなので(笑)」柄本「女性って“進む力”がすごいんだよね。決めた方向に、迷いなく行く力っていうのが、すごく強い。そうなったら、止められないもん」1度決めたら最後まで、という女性も少なくない。それがたとえ、許されない恋であっても──。妻夫木「そうならないためには、“我慢せずに、何かあったら言ってよ”っていうしかないのかな。勝手に抱え込んで、それがコップいっぱいになってあふれだしたら終わり、みたいなのは怖い(笑)。男としては、ちゃんと言ってほしい」間宮「僕は映画の中で、奥さんに“何かあるなら言ってほしかったよ”って言うシーンがあるんですが、“(家族のことを考えて)何も言えないよ。そのほうがうまくいくから”って言い返されますからね。僕、結婚してないのに、身につまされる思いでした(笑)」妻夫木&柄本「ハハハハ」■結婚観=2人で作り出すもの柄本「女性は常によく考えてる。クールだよね」妻夫木「知らず知らずのうちに、女性はいろんなものを我慢しているのかもしれないね」間宮「僕もいつか結婚したら……いろいろと気をつけます(笑)」男女間の、かなり深いところまで斬り込んだ本作。自身の中で、“愛”のとらえ方に変化は?柄本「難しい質問!」間宮「本質がバレちゃいそうな」柄本「僕は結婚して子どもがいるので、変化はないな」妻夫木「間宮くんは今回、結婚してる役だけど、何か、結婚観とか変わったりした?」間宮「それが、結婚観ってものが、まだないんです。今回演じてみて、そういうのってないほうがいいんじゃないかなって思ったりもして。結婚観って2人で作り出すものだから、ひとりで持っておく必要がないのかなと」柄本「なるほど。逆に勉強になりました(笑)」■愛し続けたいもの妻夫木「生まれたばかりのわが子かな。生まれ変わっても愛したいくらい、愛してます。もう、一生見ていられるくらい(笑)。撮影とかで家を離れるのが多くなることもあると思うんですが、時間が許す限りは一緒にいて、いっぱい子育てしたいと思います」■結婚には憧れる?間宮「仲がいい役者の友人が結婚して、醸し出す雰囲気が変わっていくことへの興味はありますけど、僕自身は未知の世界。今回、“夫”という役を演じて、妻も、奥さんである前にひとりの女性であることを忘れちゃいけないなと。そこへの配慮が足りないと、大変なことになるという教訓を得た気がします(笑)」■モテる男とは?柄本「僕、高校時代は、ジーパンにTシャツを着て、下駄をはいて文庫本をポケットに差してるのがカッコいいと思ってたら、女子たちが描く“カッコいい”とは全然違って(笑)。自分では100点満点のつもりだったけど、実際には0点!いろいろ学んだ学生時代でした……」映画『Red』2月21日(金)全国公開家庭を持ち、経済的にも恵まれ、何ら問題のない生活を送っていた塔子(夏帆)。だが、10年ぶりに“かつて愛した男”鞍田(妻夫木聡)と再会してしまったことで、彼女の運命の歯車は狂いだし──。
2020年02月21日(写真左から)浜辺美波、安田顕撮影/佐藤靖彦浜辺「今回、初めて共演させていただくのですが、安田さんが歩み寄ってくださって」安田「とんでもない、とんでもないです」“アリバイを崩す女とプライドを崩せない男”の凸凹バディが事件を解決していく土曜ナイトドラマ『アリバイ崩し承ります』で共演中の浜辺美波(19)と安田顕(46)。都心から遠く離れた時計店の若き店主で、1回5000円で時計や時間に関わるアリバイ崩しをする時乃を浜辺が、時乃の住む街に左遷されてやってきた警察キャリア・察時を安田が演じる。時乃が営む時計店に下宿する察時が難事件のアリバイ崩しを彼女に依頼することで展開していくストーリー。もし、ふたりが相手になにかを依頼するとしたら、どんなことを?■せっかちなふたりの“現場あるある”浜辺「安田さん、ご自分がすごくせっかちだとおっしゃっているんですが、私もなんです。だから、私がすごく早く現場に入ってしまいそうになったら止めてほしいです」安田「あー、俺もやっちゃう」浜辺「現場のみなさんを急がせているわけではないんです。だから、気づいたときに“まだいいんじゃない”と止めてほしいです」安田「今回のドラマって、撮影場所の都合で出演者が集まれるちゃんとした前室がないこともあって。だから、ずっと現場に入っているのがいちばん楽なんだよね。でも、気をつけます。現場を急かしちゃいけないから。かといって、待たせてもいけないし。難しい」浜辺「はい。狭い撮影場所だと、自分がいると邪魔だろうなと思うときもあって。“あぁ、どうしよう”って(笑)」安田「そうそうそう(笑)。終わったら終わったで、その瞬間に衣装を脱ぎながら自分の楽屋に向かいますから」浜辺「私もです!帽子とりながら行っちゃいます(笑)」■安田のひっそり「べちゃん」は脳のせい?すっかり息の合った様子のふたり。安田さんが浜辺さんにお願いしたいことは?安田「私の年齢を5〜6歳、もらってほしい。38か39歳がいいなぁ。だとしたら、もっとか(笑)。やっぱり走ったときに感じます。あれ?っていうときがある。以前に、ランニングホームランを打つシーンがあって。都合、3回くらい走ったんですけど、途中で足がもつれて“べちゃん”って」浜辺「本当に転んじゃったんですか?」安田「うん。しかも映ってないところで(笑)」浜辺「それ、逆にセーフなんじゃ(笑)」安田「衣装さんには迷惑かけちゃって。そのときに、松重さんに言われたんだよね。“ちょうど、40代前半だろ。これが50を過ぎてくると脳と身体の帳尻があってくるから”って。まだ、脳が体力的に前とは違うんだっていうことを把握してないみたい」19歳の浜辺さんには、まだ早い話?浜辺「でも私、2日目くらいの撮影で大コケして心配をおかけしてしまったので」安田「あれ、びっくりした。でもね、彼女、足首が柔らかくて、首が据わってないから大丈夫だったのよ」浜辺「そうなんです。階段を下りてくるシーンだったんですけど、スカートを踏んでしまって」安田「結構な段数あったよね。ガタガタって。下に僕と成田(凌)くんと勝村(政信)さんがいて。3人いっぺんに浜辺さんのところに“大丈夫か?”って駆けよったんだけど、カメラマンさんだけはカメラを必死に守ってた(笑)」浜辺「正面にいらっしゃったので、受け止めてくれる存在かなと思ったら(笑)。でも、転んだのは自己責任でカメラは悪くないので。それに、次の日、走れるくらいでしたから(笑)」時乃が事件を解決するときの決めゼリフは“時を戻すことができました、アリバイは崩れました”。ちなみに、ふたりの口グセは?浜辺「“サスガです”って、よく言ってしまうかも。お友達と話しているときが多いですけど。合いの手みたいに使っちゃうことが多くて」安田「ハハハハ」浜辺「本当に“サスガ”だと思ってるんです。でも、自分の感情的に8割くらいに達していないと使っちゃいけないと思うんですけど、そこまでいってないときにも使っちゃう(笑)」安田「僕は、“なるほど、なるほど”とか“ぜひ、ぜひ、ぜひ”とか」浜辺「繰り返しますね(笑)」安田「あと、“大丈夫、大丈夫”もある(笑)」
2020年02月15日大貫勇輔撮影/佐藤靖彦最近、『ルパンの娘』や『グランメゾン東京』といったドラマで虜になった人も多いだろう。大貫勇輔(31)は超人的なダンサーであり、踊って歌える俳優。その彼が、村上春樹の小説を舞台化する『ねじまき鳥クロニクル』で挑戦するのは、根源的な悪ともいうべき難役、綿谷ノボルだ。■「自分が最高だ」という時期もあった「難しいですね。“いまの時代にこういう人っているのかな?”と考えても、パッと出てこない。だから、何もないところから創りあげていく作業です。ある意味、天才的な男でしゃべる言葉にすごく説得力があると書かれているんですけど、“説得力のあるしゃべり方って何だろう?”とか(笑)。彼にふさわしい身体のあり方、声のあり方というものを模索中です」悪とはいえ、シンパシーを感じる部分も?「悪役って、自分が“悪役だ”と思って演じている人はいないんじゃないかな。自分なりの、ある種の正義があって、それは別の面から見ると黒に見えたりするけど、自分では白だと思っているから。実を言うと僕は昔、ダンスだけをやっていたとき、“自分が最高だ”と思い上がっていた時期があるんです。いまは違いますよ!(笑)だから上から目線で尊大な綿谷ノボルの感覚は、ちょびっとわかる気もしています」演出・美術・振り付けを手がけるインバル・ピントとはミュージカル『100万回生きたねこ』で組み、いい時間を過ごせたという。「インバルは、まず言葉でイメージを伝えて、僕らがなんとなくやったものからいい部分を拾って、それを形にしていくんですね。だから役者も一緒にクリエイティブな作業をさせてもらえる。それが実に楽しいんです。前回ご一緒したときは、はじめに“やってみて”と言われて、“え、振り付けしてくれないの?”と驚いたんですが、やっていくうちに“これって大事なことなんだ”とすごく感じて。“クリエイティブであること”がどんなに大切かをインバルから教えてもらったような気がします」■“ダンスがいちばん”を崩壊させた舞台村上春樹の難解な世界観は、どういうふうに表現されるのだろう?「この小説はすごく幻想的で、現実なのか夢なのかわからなくなるような作品なんですよね。だからこそ、インバルの独創性が生きると思います。どこか心地よさも誘う幻想的な世界を、歌とコンテンポラリー・ダンスという抽象的な踊りで、より効果的に描けると思う。見てくださる方のイマジネーションを刺激する作品になると思います」もともと、最強のダンサーだった大貫が俳優としての自我に目覚めたのは、ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』で死のダンサーを演じたときだった。「それまでの僕はダンスがいちばんと思っていたし、ダンスしか知らなかった。初めて歌とお芝居で表現するミュージカルに触れて感動して“自分もこういう表現ができる人になりたい”と思ったときに、扉がパーンと開いて世界が広がったんです。それからお芝居をやるたびに、どんどん打ちのめされました。それまでダンスでは、苦労したことがほとんどなかったのに」さらに初のストレートプレー『アドルフに告ぐ』で出会った成河らに触発され、俳優への憧れを強めた。「そのころ人生で初めて、ダンスを8か月くらいやめたんです。“お芝居だけやる!”と決めて、トレーニングを一切やめた。その後、ダンサーの身体に戻すのに3か月くらいかかりました。けっこう苦労しましたね。それで“俳優ができるダンスもあるけど、ダンサーにしかできないお芝居があるんだ”と改めて気づいたんです。“僕のよさ、強みはダンサーでありながらお芝居をすること”なんだって」■子役に教わった「やればできる」そして『ビリー・エリオット』と『メリー・ポピンズ』で、また俳優として大きな転機を迎えた。「1年以上をかけたビリー役のオーディションで勝ち抜いてきた子どもたちが、目の前ですごい努力をして、みるみるさまざまなことができるようになっていく。それを間近で見て心を動かされたし、“人間やればできるんだ”と知っちゃったんです。それで自分が努力を怠っていたことに気づいた。俳優をしながら、僕は無意識に“自分はダンサーだから”って言い訳をしていたんです。そこから僕の人生が変わりました。『メリー・ポピンズ』のバートはダンスも歌もたいへんでしたが、ビリーたちの努力を思えば自分もがんばれました(笑)」最近は映像の仕事でもいろいろな刺激があり、ますます充実した毎日に。「お芝居って、フィクションをいかにリアルに表現できるかということが面白みだと思っています。映像のお仕事を経て、より俳優としての“役のつき詰め方”みたいなものが勉強できました。お芝居もダンスも好き。舞台をクリエイトしていく稽古の時間が好き。いまはとにかくひとつひとつの作品を大事にいろいろな経験をして、ダンスが芝居の、芝居がダンスの役に立つようなものを、もっともっとできたらいいですね」おおぬき・ゆうすけ1988年8月31日、神奈川県生まれ。母親の経営するダンススタジオで7歳よりダンスを始め、17歳でプロのダンサーに。2011年『ロミオ&ジュリエット』で死のダンサーに抜擢され、『100万回生きたねこ』『マシュー・ボーンのドリアン・グレイ』『ビリー・エリオット~リトル・ダンサ~』『メリー・ポピンズ』などで実力を発揮。近年はドラマ『高嶺の花』『ルパンの娘』『グランメゾン東京』などで人気を集めた。ミュージカル映画『キャッツ』では吹き替えに挑戦している。『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹の代表的長編小説を、イスラエルの鬼才、インバル・ピントの演出・美術・振り付け、アミール・クリガーと藤田貴大の脚本・演出で舞台化。主人公のトオル役を成河と渡辺大知がふたりで表現し、“死”への興味を持つ女子高生には門脇麦があたるほか、個性的な俳優たちが「演じる・歌う・踊る」。そこに「特に踊る」ダンサーと、音楽の大友良英らの演奏が加わって世界を形成する。2月11日~3月1日、東京芸術劇場プレイハウスで上演。大阪、愛知公演もあり。詳しくは公式HP【】へ取材・文/若林ゆりヘアメイク/松田蓉子
2020年02月09日小澤征悦撮影/佐藤靖彦「“多恵子ー!”と叫ぶシーンが多くて、そろそろ大きな声を出すのが苦しくなってきました。前回の連ドラ主演作では“あなたたちは駒です”と言い捨てる冷酷な警視庁の管理官を演じたんですが、今回は正反対のキャラクターなので、もう違う惑星で演技しているのかなってくらい空気感が違いますよ(笑)」クールでシリアスな役から、ちょっとクセのあるコメディーまで、幅広い演技を自在にこなす小澤征悦(45)。放送中の東海テレビ・フジテレビ系ドラマ『パパがも一度恋をした』では、主人公の山下吾郎役を務めている。■おっさん塚地に“可愛いな”最愛の妻を亡くしたショックで、娘がいながらも仕事を辞めて引きこもり生活を送っている吾郎のもとに、妻が突然“おっさん”になって帰ってくるという、ドタバタホームコメディー。“おっさん多恵子”は、お笑いコンビ・ドランクドラゴンの塚地武雅が演じている。「戻ってきた多恵子の見た目はおっさんなんですけど、演じていると“人って見た目じゃないのかも”って、心の底から思えてくるというか、なんか不思議な感覚になります。商店街のシーンを撮影したとき、たまたまそこに居合わせた一般の方々が撮影に気づいて、“頑張ってね!”と声をかけてくれることがあったんです。パッと塚地さんを見ると、その人たちに向かって、品のいいお嬢さんのような手の振り方をされていて(笑)。素直に“あれ、可愛いな……”と思っちゃいましたから」撮影現場でも、“おっさん多恵子”を演じる塚地がムードメーカーなんだとか。「芸人さんということもあって、本当に話が面白いんですよ。この間、塚地さんが実はホラー系が苦手だと知って、娘のトモを演じている福本莉子ちゃんと僕で、わざと怖い話をしました。そしたら塚地さんが“もう、怖い!”って言ってて、また“可愛いな”って思っちゃって……。もう多恵子にしか見えません(笑)」“ど真ん中”のコメディードラマにもかかわらず、作中では“人は見た目か、中身か”“人は大切な存在を失ったとき、どう生きていけばいいか”といった壮大なメッセージも含まれている。「美しい容姿やカッコいい見た目というのは結局、中身が伴っていないと透けてみえてしまうと思います。内面が美しい人は、おのずと外見もきれいに見えてくる。それはその人の人間性が浮き彫りになったものであって、その人唯一の“個”だと思います。その“個”というのが、その人の外見や生き方を形作る最も大切な要素なのかもしれません」■本当の愛は与えるもの小澤征悦の思う、“内面の美しさ”とは……?「相手を思いやる気持ち、思いやりの心を持っていること、でしょうか。この人を支えてあげたい、助けてあげたいという気持ちって、相手に“与える”ということを無意識にできる人が持っている感情だと思うんです。昔からよく、“恋は奪うもので、愛は与えるもの”と言いますけど、相手から与えてもらうことばかりを考えるんじゃなくて、自ら与えることができる人は、本当の愛を持っている人なんじゃないかなと思います」とことん笑えて、ホロッと涙も。ドラマでは、そのギャップがいちばんの見どころだという。「人って笑うことによって、心の中にある警戒心や無意識に張ってしまうバリアみたいなものが、スッと下がっていくと思うんです。僕が吾郎を演じているのを見て、みなさんには“こいつ、バカだなぁ”って笑ってほしい。そして心の中にあるバリアが下がったときに、物語の中にちりばめられた“愛”がまっすぐ入ってきてくれると思います。僕も台本を読んで、面白くて笑っていたのに気がつくと泣いてるんですよ。本当、ずるいな〜って感じるドラマになっています(笑)。もちろん、いい意味の“ずるさ”であって、ドラマを見た人たちが“元気をもらえた。明日も頑張ろう”って思ってくれたらうれしいです。そのために、撮影では“馬鹿をまじめに”を徹底してやろうと思います」■制作発表会見“W多恵子”からのファーストバイトに「2倍おいしいです♪」小澤征悦、塚地武雅(48)、本上まなみ(44)、福本莉子(19)が登壇したドラマ制作発表会見。キャスト陣には完全サプライズで、原作の阿部潤先生からイラスト入りケーキのプレゼントが!このあと娘のトモを演じた福本から、「はい、パパ!」とクリームをぬぐうためのティッシュが渡される場面も。“も一度”挑戦したいことは?「抽象画を描くのが趣味なんですけど、ここ最近は忙しくて描けてなくて。この間、嵐の大野智くんとCMで共演したんですが、彼も絵を描くのが好きだということを聞いて“今度、一緒に描こう”なんて話をしました。今年中に、なにか一緒にできたら、なんて思っています。大野くんは、すごく緻密で繊細な絵を描く方ですけど、僕が描くのは抽象画なので、どちらかというと大胆なテーストなんです。対照的な絵を描く2人だから、どういうふうになるのか自分でもワクワクしています」
2020年02月08日