母娘旅のはじまりUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみ優しい空港警備員さんの気遣いのおかげで、無事に入場ゲートを確認。少し時間もあったので、一休みすることにしました。思いもよらぬストレートな質問に考えさせられる...Upload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみ私がヘルプマークの着用を娘に勧めたのは、トラブルがあることを「認知してもらう」ことで、聴覚過敏があるためイヤーマフをしている娘が冷たい視線を浴びることなくノビノビできたらと思ったからです。これまで、イヤーマフのことを聞かれるたびに、私が説明し理解してもらってきました。ですが空港で、こんなにも真っ直ぐで温かい質問を受けた私は、どう答えていいものか、しばらく黙り込んでしまったのです。「例えば座り込んで動かない...とか、顔色が悪く様子がおかしいといったときは、他の体調不良のお客様と同じように、持病を伺ってもいいと思いますよ」とは言ったものの、それは「何か起きてしまったときの措置」というだけで、「ヘルプマークを付けている人になにができるのか」という答えではないように思います。ヘルプマークを付けている人に何かしらトラブルが起きてからでなければ、手助けできないということなのか?...とも考えました。ヘルプマークには、はっきりとした効力はないように思いますが、ヘルプマークのことをわからないながらも電車の席を譲ってくれたら私は涙が出るほどうれしいです。そして、今回のようにわからないことを真っ直ぐ聞いてくれることも、母としてすごく嬉しかったです。「私にできることってなんだろう」と思ってくれている人に出会えたことは、おそらく私も娘も一生忘れないと思います。
2020年01月23日広汎性発達障害の娘の友達関係は...広汎性発達障害の娘(小学3年生)は、小学2年生の時から特別支援学級に在籍しています。現在は、国語と算数以外の時間を交流学級で過ごしています。特別支援学級所属になった当初、私は友達関係のことを心配していました。特別支援学級にいることでからかわれたり、いろんなことで少しずつ配慮されることを「特別扱い」と言われるんじゃないかと不安だったのです。しかし、実際の友達関係は私の想像と違いました。わが家には、幸運なことに娘の友達がよく遊びに来ます。今回は私が見た、娘と友達の様子を紹介したいと思います。言い間違いを優しく訂正。娘はまだまだ「て・に・を・は」や、言葉自体の言い間違い、使い間違いがよくあります。そんな時、娘の友達は…Upload By SAKURA言い間違いをバカにすることなく、優しい口調で教えてくれます。これが娘にも合っているようで、私が言ったら反抗してきそうな指摘を、友達だと素直に聞いていました。そんな関係がありがたく、いつも私はお礼を言っています。勘違いも笑ってくれる。娘は、言い間違いも多いですが、聞き間違いも多いです。知らない言葉もたくさんあるので、他の友達同士が話している会話を聞き間違えて、違う意味で捉えてしまったりすることがあります。Upload By SAKURAそんな時も娘の友達は、笑ってくれます。笑うといってもバカにする感じではなく、その場の和みとして捉えてくれた笑いで、娘の聞き間違いひとつで、みんなが長時間笑っていることもあります。聞き間違いがあって大丈夫、そう思うと安心して見守ることができます。人と違うことをしても受け入れてもらえる。遊びの中でも、周りをみたり、場の空気に合わせて行動を選んだりすることが少し苦手な娘。周りと比べて、突拍子のない選択をしてしまうことがあります。Upload By SAKURAあまりに周りとかけ離れた選択をしても、それはそれとして楽しんでくれる友達。娘の特性や性格をわかってくれているような、その言葉かけに驚いてしまうこともあります。好かれている安心感。親がついつい助け舟を出したい場面もあるのですが、普段から仲良しなこともあって、思ったよりなんとかなっていることもあります。Upload By SAKURA私たちがいろんな面で娘に対して不安に感じることは、友達の中ではもしかしたら大したことないのかもしれないと感じることができました。親としてできることは…社会に出ていく前の人間関係の勉強になる学校生活…。友達とのコミュニケーションは私にとってかなり心配となる部分でしたが、娘は思ったよりも楽しそうにやれているようでした。学校ではどうか…担任の先生に聞いてみても、仲良しグループ内での様子は変わらないようで、他の子たちがうまく娘をカバーし、サポートしてくれるようです。私が娘の友達関係で気を付けていることがいくつかあります。1つは…友達が遊びに来るという提案をなるべく断らないこと。近くで友達との関係性を見たい私にとって友達が来てくれることはありがたいので、友達が「あーさんの家に行きたい!」と言ってくれた時や、娘が「友達連れてきてもいい?」と言った時、私はよろこんで「いいよ」と言うことにしています。もう1つは…お礼を忘れないこと。娘に普段から「友達にお礼を忘れないように」と話すことはもちろんですが、娘が助けてもらった時は、その場で私からも娘の友達にお礼を言うようにしています。「いつもありがとうね」「優しいから嬉しいよ」「助けてくれてありがとう」と言葉にしています。そうすることで、"友達の親"という立場からほんの少しだけ近づくことができています。おかげで、子どもたちの世間話や遊びに誘ってもらえることもあります(笑)いい友達に恵まれていることに感謝しつつ、何か起こった時にはサポートできるよう、引き続き出過ぎず…見守っていきたいと思います。
2020年01月22日こんにちは、とまぱんです。最近眠さが増しているんですが、何なんでしょうか。体が勝手に冬眠に入らせようとしてるんですかね。さて、今回は「娘と母親らしく遊ぼうとするけどできないエピソード」を書こうと思います。■テレビをまねて体を動かすのが好きな娘最近娘はテレビの中の動きをまねしてよく踊っています。 「かわいいな~」とぼーっと眺めてましたが、「あ、これ、子育てが上手なお母さんだと子どもの横で一緒に踊るやつだわ」と気付きました。横で一緒に踊った瞬間、動きを制御してくる娘。一緒にやっちゃいけなかったようです。次はテレビの動きをまねて手を叩く娘。「あ、これは座りながらできるやつだ」と思い、娘と一緒に音楽に合わせて叩くと…。叩いちゃダメだったようです。その後もテレビに合わせて歌うと怒り出したので静かに娘を鑑賞することにしました。■お風呂でも制御してくる!?「保育園では娘ぐらいの歳の子は名前を呼ぶと手をあげる」というのを知人から聞いたので、練習してみることにしました。私「とまちゃーん」娘「…。」私「“とまちゃん”って言われたらこうやって手をあげるんだよ~」そう言って自分の手をあげると…。またもや制御してきました。何でしょう、私が日頃動いてないので急に動かれるのが嫌なのでしょうか。引き続き娘をおとなしく見守っていこうと思います。
2019年12月29日弟の急激な成長。広汎性発達障害の娘(小学3年生)には、3歳の弟がいます。それぞれの成長を経て、今2人の姉弟関係は、また少し変化してきています。3歳になった息子は、いわゆる定型発達。口頭で説明してもすぐ理解し…空気を読むのもうまく…要領もよく…トイレトレーニングもあっさり終了。何事もあっという間にこなしてしまいます。ゆっくりペースの娘の育児経験しかなかった私にとって、成長っぷりは驚くものです。Upload By SAKURA特性の違い。言葉の理解力はまだまだ娘が上ではあるものの、急激に姉に追いつきつつある息子。要領がいいことに加えて、負けず嫌いな息子は、何でも「自分でやる!」スタイル。Upload By SAKURAのんびりペースで、何事もすぐ諦めてしまいがちな娘と、行動の違いも目立つようになってきました。観察が得意な息子は、姉が諦める様子を無言で見つめることもよくあります。Upload By SAKURA泣く姉をじっと見つめるその姿は、何か感じるものがあるように見えました。喧嘩はするが、仲のいい姉弟。息子が生まれた時、私たちは、息子には姉を見下したりは絶対にしてほしくないと思っていました。息子が2歳になったころから、2人は一緒に遊ぶ時間が増え、親が間に入らない会話も多くなりました。2人っきりの会話もしっかり成立するようになり、喧嘩もするけどなんだかんだで仲良くしていました。Upload By SAKURA喧嘩になっても、お互い自分の言い分のぶつけ合いをするだけで、相手のことを悪く言うことはありませんでした。息子は周りを見るのが上手なので、娘の様子に気がつくのも早く、「ねぇねぇ、いくよ~」と自主的に娘に声をかけてくれることもあり、このまま支え合ってくれるといいな~と感じていました。息子の成長で、姉弟関係に変化が…しかし、息子の成長の過程で、自己主張の時期になり…Upload By SAKURA誰に対しても順番を競うようになりました。そして、段々と娘の行動を指摘するようになってきました。Upload By SAKURA息子にとってこれは、いじわるをしようという思いがあるわけではなく、「僕、早かったでしょ?」「すごいでしょ?」というアピールなのだと思います。息子なりのコミュニケーションなのかもしれません。しかし、急かされるのが苦手な娘にとっては、言われたくない言葉…。徐々に娘は息子の声かけに不快な反応を示すようになり、加えて、弟のことを「いじわる…」「わがまま…」「もうやだ」と言うようになりました。かみ合わない、お互いの思いを微調整。それからの姉弟関係は、ちょっとかみ合わなくなり…Upload By SAKURA弟から急かされたり、いつの間にか勝負にされ、「負け」と言われ泣く娘…。そんなつもりはなかったのに、思ったものと違った反応の姉を見て、泣く息子…。どっちの気持ちもわかるだけに、どう対処したらいいか悩むこともありました。娘が急かされる言葉を嫌がるからと言って、娘を優先し、息子の言葉を必要以上に制限するのは少し違う…しかし、娘が嫌と感じる言葉は、息子にきちんと伝えて理解してもらわないといけない…。そこで私は息子に…Upload By SAKURA言葉を変えるように提案しました。すると息子は、娘を応援し始めました。Upload By SAKURA「急いで!」「早く!」「負け!」という言葉をかけてしまう前に、「頑張れ」と言ってもらうことで、娘も不快感を見せることはなくなりました。お互いの我慢を聞く。発達障害がある子は嫌なことや苦手なことも多いため、その対応に気を使います。しかしその子を優先してしまうと、きょうだい児である子に我慢を強いてしまい、不満が溜まっていきます。どちらにも気を使うため、2人を見つつ言葉を選ぶところが非常に難しく感じます。お互いが不満をもたないように、私たちは「嫌なことは言っていいんだよ」と話しています。その主張を通してあげられるかはわからないけど、お互いが嫌だと感じたことを伝え合うことで、子どもたちは自分の思いをため込みませんし、なにより私たち親がその度に子どもたちが何を不満に思っているか知ることができます。お互いが嫌なこと、その言い分、言葉に込められた意味をその度に伝え合うことが、これからの子どもたちの成長にいい影響を与えてくれると信じて、2人の成長に合わせつつ向き合っていきたいと思います。
2019年12月25日内戦続くシリアの真実を世界に伝えるため、そして戦火で生まれた小さな命のために、母となった監督がカメラを回し続けた緊迫のドキュメンタリー『娘は戦場で生まれた』の予告編とメインビジュアルが完成、公開日が2020年2月29日(土)に決定した。死亡者が数十万人にものぼるとされ、第二次大戦後、史上最悪の人道危機ともいわれるシリア内戦。本作は、デモ運動への参加をきっかけにスマホでの撮影を始めたワアド・アルカティーブ監督が、結婚、妊娠、出産をへてなお、激化の一途を辿る内戦の模様をカメラに収め続けたドキュメンタリー。「ママは撮り続けた」と娘サマに呼びかける彼女のカメラの映像を通して、2012年から2016年までの間の時間軸を絶えず往還しながら、アサド政権によって美しい景観を誇っていたアレッポの街が無残にも破壊され、朽ち果てた廃墟に変わり果ててしまった過酷な現実を、仮借ないまなざしで、人々に寄り添いながら描き出す。全ては娘のために…。すでに2019年・第72回カンヌ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞ほか55(12月19日現在)を超える映画賞を受賞。マイケル・ムーア監督が「史上もっともパワフルで重要なドキュメンタリーの一つ」と絶賛を贈り、世界の映画人を衝撃と感動の渦に巻き込んでいる本作。本年度アカデミー賞ドキュメンタリー賞の呼び声も高い衝撃を、まずはここから見つめてみてほしい。『娘は戦場で生まれた』は2020年2月29日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。(text:cinemacafe.net)
2019年12月24日こんにちは、ねここあんな。です!今回はまたまた前回の続き、私と母の「友人のような関係」第3弾です!▼私と母の“友人のような関係” 前回までのお話 「まずい! 母の地雷を踏んでしまった? ~ 私と母の"友人のような関係"が起こしたトラブル(1)~」 「もう頼らない! 私が母と衝突して出した悲しい決断 ~ 私と母の"友人のような関係"が起こしたトラブル(2)~」 ■お互いに我慢して言えなかった本音再び地雷を踏んでしまったことで私の中の本音もぶつけました。今までの私は母に対して、言いたいことを言おうとすると何となく我慢してしまう傾向がありました。たぶん言った後の反応を勝手に考えて、余計にややこしくなるのを避けたかったのです。自分が黙っていればこの場がいつか落ち着く、そう思っていました。翌朝、母からメールが届いていました。内容は長文でしたが、こんな感じでした。正直なところ、母は「家に着くのが2時間早まったこと」に対しての怒りはなかったのだそう。それはただの口実で、本当は以前から疲れていたというのです。というのも、実は私たちの知らないところで母はいろいろ気遣ってくれていたのでした。言いたいことを言おうとすると何となく我慢してしまう傾向があるのは、母も同じでした。母の「掃除をしたい」と強く思う気持ちの裏側にはこんな理由があったのでした。■初めて明かされた母のトラウマと、私たちへの想いそれは私の兄がまだ赤ちゃんだった頃…あのトラウマは孫の代にまで続けてはいけない。そう思って私たちが遊びに来るときは、私たちの想像を超えるほどの掃除をしてくれていたんだそうです。全ては現在飼っている猫ちゃんの毛から、孫のきっくんを守るためでした。ちなみに「それなら猫を飼うな」という声が聞こえてきそうですが、うちは兄が大きくなるまではペット禁止! の家でした。だけど兄が中学生になり、部活動も始めだいぶ体力がついてきたころに親のいない子猫を母が見つけ…兄の部屋だけ出入り禁止で飼い始めたのです。母は部屋の掃除と「兄の部屋に猫を入れない」ということは徹底しており、兄が実家にいた頃もひどい発作が出ることはありませんでした。そんな努力も知らず…夫と私の父は仲が良く、私たちが泊まったあの夜、家に帰ってからも話に夢中になっていました。母は普段から、娘の夫の気配りなどに大変感謝していることもあり、その場では言えなかったそう。しかもこの数時間後に、私も外から帰ってきてホコリなどを家に入れてしまうのでした。…そんな私たちの行動に限界を感じていた母。「せっかくキレイにしたのに」「めちゃくちゃにされる」とまで思わせてしまっていた原因は、こういった私たちの無神経さでした。自分たちが原因を作ってきたことをやっと自覚した私たち。心から反省し、そして、母に謝りました。■母の想いを知り、あらためて見つめ直した私と母の関係お互いがより良く過ごすためにも、もっと話し合わないといけませんでした。そこで私たちはいくつかルールを決めました。結局話し合いが足りなかったのが一番のトラブルの原因だったと思います。そして私自身「甘えられない」と感じていながらも、実はたくさん甘えていたことに気づかされました。・友人のような関係を築いたつもりでも、親はいつまでも「我が子」と思い心配する。・家族と言えど、話し合わなくちゃ思っていることは伝わらない。・親であっても、ある程度の線引きはきちんとする。今回、そんなことを考えさせられました。もしかしたら他人よりも難しく、友人よりも悩ましい存在が「親」なのかもしれません。親にとって「子」の存在は、今も昔も変わらず心配の種なんだと思います。だけど、きちんと話し合えば仲直りだってできるし、だれよりも強い味方でもあります。今回は衝突したおかげで、伝えたいことも言い合うことができ、より良い親子の関係を作ることができました!「喧嘩するほど仲が良い」という言葉は、親子にも適した言葉なのかもしれません。最後におまけの一枚。ということで番外編として「ばあば」という存在に焦点を当てて、次回描きたいと思います!
2019年10月23日10月18日より日米同時公開された『マレフィセント2』から、本当の母娘のように仲良しなアンジェリーナ・ジョリーとエル・ファニング、そしてサム・ライリーらキャスト陣のまるで家族のように和やかな撮影裏を捉えた特別映像が解禁となった。美しきヴィラン・マレフィセントと“純粋無垢なプリンセス”オーロラ、カラスのディアヴァルは、困難を乗り越えて“家族”のような絆で結ばれている。それぞれのキャラクターを演じたアンジー、エル、サムもまた、役柄と同じくまるで家族のように仲睦まじい。映像では、撮影現場ではアンジーとサムの子どもたちがセットで楽しそうに走り回っていたり、アンジーとエルは撮影の合間に卓球を楽しんだりと、アンジー自身もキャストたちの関係は「家族のようだった」と撮影を振り返っている。 エルも「前作の時と同じように、アンジーとサムと私の3人で楽しもうと思っていたわ」と語り、 お互いを信頼し合っていることが伺える。そんなキャストたちのリアルな仲の良さは、母娘のような真実の愛で結ばれているマレフィセントとオーロラ姫の姿からもスクリーンを通じて伝わってくる。製作総指揮も務めているアンジーは、今作について「 母と娘の物語が気に入っているわ。マレフィセントとオーロラ姫はぎこちない家族なの。失敗もいろいろとあったけど、ふたりの間にあるのは正直な関係よ。それが美しい家族を作っているわ」と断言する。本作を鑑賞した人からは、「マレフィセントがオーロラ姫を我が子のように愛しているのが印象的。現代社会においての家族のあり方に対する問いかけのようなものを感じました」「マレフィセントとオーロラの母娘としての愛を感じるシーンは泣きながら見てた」「血のつながりを超えた母娘の愛という深い物語がとにかく素晴らしくて泣いてしまった」など、家族愛に感動したという声がSNS上に溢れている。『マレフィセント2』は全国にて公開中。(text:cinemacafe.net)■関連作品:マレフィセント2 2019年10月18日より全国にて公開©2019 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.
2019年10月22日ウーマンエキサイトのみなさん、こんにちは! ねここあんな。です。私と母の「友人のような親子関係」について、 前回 の続きです!【 前回 のお話】母と私の“友人のような関係”に今夏、トラブルが発生。実家に親子3人で泊まりに行った1週間後、再び泊まりに行きたい旨を連絡すると、母は「いいかげんにして!」と言うのでした…。■あらためて知った母が私のことを心配する気持ち同窓会のときの一泊から一週間、「また泊まらせてもらいたい」と申し出た私に母はこう返すのでした。前回の同窓会で、私は久しぶりの飲み会に羽目を外し、母に連絡を入れずに帰ったのでした。でもそれは若い頃から「連絡を入れなくても気にしない家庭だったから」。出発前に、「一次会で戻るね」と言っていた私。本当に一次会だけの参加だったのですが、会場を移動しなかっただけで同じお店で長めに飲んでいたのですよね。いつもなら息子が心配で何度も携帯を確認するのですが、その日は実家のみんなと外食に出かけていたし、夫も母もいるので安心していました。頼りすぎていたことを、あらためて反省しました。そのことを謝ろうと翌日連絡を入れると、怒りすぎてしまったことを少し申し訳なさそうに思う母がこう言うのでした。甘えられないのと同じぐらい、「心配されている」という感覚が私にはありませんでした。だから昔から、連絡の必要性を感じていなかったのです。…が、これが母にはかなり疲れる要因だったのです。そんなふうに心配されていたなんて思わず、私は自分が迷惑をかけたことを謝りました。友人のような存在と思っていた母ですが、母にとって私は、いつまでも「子」であったことを再確認させられました。その後、結局は「予定通り泊まってもいいよ」ということで落ち着きました。ちなみに私たちもなぜそうまでして一泊したかったのかというと、次の日に朝早くから東京駅発の高速バスに乗り込みたかったのです。埼玉の家を早くに出るよりも、都内の実家に泊まらせてもらえたら助かるという考えがあったのでした。なので「お風呂やご飯などは一切用意しなくても良いので、ただ一晩寝かせてくれれば大丈夫」と、母に伝えていました。でも、それも今思えば相手には迷惑だったのだと思います。■再び地雷を踏んでしまった! ほつれてしまった母との関係私と母の関係は、一件落着に見えたようなのですが…トラブルが起きた直後だったので少し慎重に動こうと思い、夫婦で家を「出る時間」を話し合いました。話し合いの末、22時出発になったことをメールで伝えておきました。息子きっくんは寝かしつけに時間がかかるため、この時間に出発することは今まで何回かあったのでとくに疑問に思いませんでした。…しかし、このやりとりがキッカケで、母との関係がさらに泥沼化することになるとは思いませんでした。やっちまったと思いました。夫と「ねるじかん」と「でるじかん」で話がかみ合っていなかったのです…。あぁたしかに今思えば、夫との会話がおかしいと思った…あの変な間は、そういうことか。そんな思いが頭をグルグル。このタイミングで予定より2時間早く出発するのは母がどう思うだろうか…。でも夜遅いよりは早く到着したほう方が迷惑は少ないかな? と思い、ドキドキしながら連絡をしてみると…またしても地雷を踏んでしまいましたーーーーー。■もう頼らない! 爆発してしまった私の思いでも、私にも言い分がありました。どうして自分はこんなにも相手の顔色をうかがってるのだろう??とくにこの日はイヤイヤ期真っ盛りの息子に手を焼いていたので、そもそも正確な時間なんて読めなのに…! とやり切れない気持ちがこみ上げ…「料理を用意してくれるわけでもないし」「お風呂だって気を遣って先に家で入ってから出発してるのに」「きっくんに朝から振り回されて、メールひとつ打つのも大変なのに」「子育てをしてきた人がどうしてそこを理解してくれないの?」そんな思いで頭がいっぱいでした。このメールを最後に私は、実家とは距離を置こうと決心しました。「誰かに甘える」ということは、その人の迷惑になる。そう考えてしまうのは、受験や結婚、出産と節目のたびに、今まで何度も母と衝突してきたからでした。頼らないと決めたとたん、心にぽっかり穴が開いたような感覚に…ここまでは、「私サイド」のお話でした。この後、ついに母の胸の内が明かされます。なぜこうも私たちが泊まることで、母の感情が乱されていたのか…そして私たちがたどりついたお互いの反省点についても話したいと思います。長くなりますが、次回に続きます!
2019年10月10日こんにちは! ねここあんな。です!今回のテーマは「実家との付き合い方」ということですが…実はちょうどこの特集が始まったときに、我が家はトラブルを抱えていたので少々ビックリ。仲が良いようで…実は結構衝突の多い私の実家についてお話ししたいと思います!ざっくりと家族のことを説明しますと…加えて母との関係はというと…例えるなら「友人関係」のようです!「友達みたいでいいね!」と言われることもあるけれど、「友達のような存在だからこそ、衝突してきた回数はすごく多い」と思っています。■高校入学を境に、親子というより“良きパートナー”にさかのぼること10数年前、高校生の頃でした。多分その頃までは私たちは「親子」の関係でしたが、私が高校に上がったあたりからその関係は少し変わりました。こんな言い方が正しいのかわかりませんが、私たちは「対等な存在」になりました。良く言えば気兼ねなく遊べる良きパートナーでした。でも一方で「親」と「子」ではなくなっていった気がします。家事も「なるべく自分で」という母の考えのもと、役割分担をするようになります。もちろん母の役割の方が多いのですが、気がつけば「友人とホームシェアをしている」かのようでした。というのも、この頃から兄は大学へ行き交友関係もあって家にいる時間は少なくなり、父も平日は基本的にいないのでほぼ母とのふたり暮らしだったのです。お互いに譲り合ったり協力し合ったり、意見を言い合いながら生活をするのが当たり前に。そんな不思議な親子の関係を築いたのち、私は大学入学を機に憧れのひとり暮らしを始め、家を出ました。大学を卒業し、就職、結婚、出産と時は過ぎて…もともと母とはホームシェアしているような関係だった私にとっては、子育ての最中であっても親にはあまり甘えられませんでした。本当に自分がどうしようもないぐらい具合が悪くならない限り、呼ぶこともありません。出産のときでさえ、病院に来てくれると言われて驚いたのを覚えています。それでも、地元で結婚式や同窓会があるときは、夜も遅くなるので実家に泊まらせてもらっていました。それは私たちにとって最大級の「甘え」でした。と言っても3~4ヶ月に一度(一泊のみ)ぐらいの頻度なので、そこまで多いわけではないと思っていたのです。洗濯や食事も全て自分たちで用意するので、その一泊で母に負担をかけている感覚もありませんでした。が、今年の夏にトラブルは起きました。■母の地雷を踏んでしまった! 一体なぜ?地元で同窓会の予定が入り、参加することになりました。その日は母の母、つまり私にとって祖母の誕生日。実は、もともと母から誘われて泊まりに行った日でした。私は同窓会へ。私の祖父母と両親と夫と息子は外食へ…。一見穏やかに済んだ日でした。とくに衝突することもなく1週間がたち、再び泊まらせてもらう機会が訪れました。前回の宿泊からまだ日が浅いのですが、実はこの日はそもそも1ヶ月ほど前から宿泊をお願いしていた日だったのです。神奈川県の海で、私の友人が主催者側にいるイベントがあったのですが、埼玉の家を朝早く出るよりも、東京の実家から出発すれば朝の移動時間が短くなるので、立てた計画でした。以前から伝えていた予定だし、毎年恒例行事だし、問題はないよね??そんな気持ちで確認の連絡を入れたのですが…ついに地雷踏んでしまいました。長くなってしまいましたので、 次回 に続きます!
2019年09月30日ウーマンエキサイト読者の皆さま、こんにちは!koyomeです。今回は長女ムスメが幼稚園で仲良しの男の子の可愛い関係についてのお話です。いつも優しいみーくん。泣き虫なムスメのことを心配するセリフにもうキュンキュン!優しいお友だちがいてくれて、本当に嬉しいです。ですが…ある日のことちょっと印象が違う、みーくんの姿がありました。ムスメもそんなにおどろいた様子はなかったので、相手によって対応が違ったりとか、親が知らない幼稚園にいるときの顔とかきっとみんなあるんだろうな…。まだまだ、異性ということを意識しているわけではなさそうですが、垣間見たお友だち同士の関係性に、ニヤリとしてしまったのでした。ちなみに、ムスメに好きな子はいるの?と聞いてみたところ、私が全く知らない女の子の名前をあげていました。…そんなもんですね(笑)
2019年09月05日幼稚園児によくあるキャラクターへの「なりきり」が絶賛発動中のムギ。オタクの母としては、そんな姿もとても愛おしく感じます。そんな娘が6歳になり、母と子、やっと共通して好きなアニメができました!■母と娘のオタクトークに花が咲く■アニメを観賞する姿勢がすごいこの出来事のあと、ポ●モンセンターに遊びに行ってきたのですが、ムギと私の2人でエキサイトしてしまい、ついつい1人1体ずつぬいぐるみを買ってしまいました。大変楽しかったです…!そして買ったぬいぐるみと大好きなキャラとの楽しみ方ですが…いただきもののハンモックを最大限に活用する方法、考えました!ドレッドヘアは、夫がかなりの時間をかけてほどいてくれました。ありがとう!! そしてムギがハンモックにのるときは、帽子をかぶるのがルールに!そして、この事件の翌日は、何を思ったのかハンモックのまわりにこども用の柵を立てていました。柵に囲まれたハンモックに寝転がっている姿は、動物園のパンダそっくりでした…。
2019年09月04日是枝裕和監督長編14作目となる、母と娘の愛憎渦巻くドラマを描いた最新作『真実』より、待望の特報映像が公開された。様々な家族の形を描いてきた是枝監督が、新しい家族の形を映し出す『真実』。国民的大女優のファビエンヌが、「真実」というタイトルの自伝本を発表したことから、次第に母と娘の間に隠された、愛憎渦巻く”真実”が炙り出されていく物語。到着した特報映像では、カトリーヌ・ドヌーヴ演じる大女優ファビエンヌが暮らす大きな家の庭に、大きな荷物を抱えて歩くファビエンヌの娘リュミール(ジュリエット・ビノシュ)と、夫ハンク(イーサン・ホーク)、そして、本作のために是枝監督がフランスで自ら見出した孫娘のクレマンティーヌ・グルニエと、幸せそうな若い家族が映し出される。自身の自伝本「真実」の出版祝いのため、久々の娘家族との再会にファビエンヌもは喜ぶ様子を見せるが、一転、自伝本の内容を巡り、「あれは事故よ」「ママを許さない 絶対に」と母と娘のやり取りが始まる。そして物語は、母と娘の嘘と真実が徐々に明らかになっていく。映像ラストには「ママ、あなたの人生嘘だらけね」という本作のキャッチコピーが登場。ナレーションの声も相まって、重厚感溢れる特報となっている。『真実』は10月11日(金)よりTOHOシネマズ日比谷ほか全国にて公開。(cinemacafe.net)
2019年08月16日「お互い、もう介護される年齢に近づいているわね」という話から始まった“認知症介護対談”。年を重ね歴史のある母娘でも、母が認知症になればその関係は変わってくる。いままで見せなかった弱さを見せるようになったヤマザキマリさん(52)の母は、これまで着ていた鎧を脱いで穏やかに。阿川佐和子さん(65)の母は家族のかせから逃れて、自由になった。母娘が向き合って、その距離がぐっと近くなった介護の時間はとても豊かなものだった――。阿川「うちはいま、認知症の母(91)をきょうだいとお手伝いの方とローテーションを組んで、在宅介護しています。その合間にショートステイで外泊サービスを利用しているんです」マリ「私の母(86)は北海道の実家の近くに住む妹が、在宅介護をサポートしてくれていました。それが、認知症に加え、パーキンソン病も併発して……。足元がおぼつかなくなり、今年1月、部屋で倒れているところを妹に発見されて、入院しました」阿川「高齢者専門の施設なの?」マリ「専門ではないですが、認知症患者が多い病院なんです。我が強い母ですから、同室の人と合うわけがないと思っていたのに、4人部屋で和気藹々と過ごしています。お互い、会話はまったく成立していないんですけど、ワイワイ楽しそうでした」小説家、エッセイストの阿川佐和子さんの母親は、昭和2年生まれで、現在は91歳。父は作家の阿川弘之さん(’15年没、享年94)。外では温厚だが、家庭内では絶対君主で、専業主婦だった母親は振り回されていたという。漫画家のヤマザキマリさんの母親は、昭和8年生まれの86歳。北海道に渡り、札幌交響楽団のビオラ奏者として、2人の娘を女手一つで育て上げた。親の介護が始まったのは、阿川さんが57歳、ヤマザキさんが49歳のときだった――。マリ「佐和子さんは、どうやって親の認知症がわかったんですか?」阿川「8~9年くらい前かな。あるとき、長年、実家で働いてくれた家政婦さんが電話で『こんなこと、私から申し上げるのも何ですが、奥さまがヘンです』って。もともとトボけてるからなあって言ったら『そういう問題じゃありません』って、ピシッと言われたんですね。それで“ついに来たか”と」マリ「母は、80歳を過ぎたあたりから、物忘れが目立ってきたんです。でも、犬の散歩も欠かさず、毎日、元気そうでした」阿川「うちも日常の家事には支障がなかったけど、同じことを繰り返し話したりして“ん?”っていうことが少しずつ……」マリ「あるとき、北海道の実家に帰ると、母が外に立って青ざめた顔で『変な外人さんがうちに来ちゃって!』って。あわてて家に入ると、外国人が出ている料理番組が放映されていて、それを見て、うちの台所に外国人が来たのだと勘違いしたようなんです。そうした症状が増えて、ようやくレビー小体型認知症(症状の1つに幻覚がある)だと診断されました」阿川「うちの母は、いまだに、自分でできることはいっぱいあるんです。お医者さんに行って、勝手にパソコンをのぞいたとき“アルツハイマー”という文字を見て、『誰のこと?』って聞いたりね」マリ「本人も認知症だって認めたくないですよね。母も『一過性のもの』『疲れているだけ』と抵抗していましたから」阿川「いままで、自分を見守ってくれていた親が、だんだん壊れていく姿は、子どもとしてもつらいもの。だから、初期のころは特に必死になるよね」現在でも、認知症の症状は少しずつ進んできているが、母たちは平和で穏やかな日々を過ごしている。阿川さんは、父を’15年に亡くしたが、母は、夫の死をどこまで理解できているのかわからないという。ヤマザキさんの母は、人生を支えてきた楽器演奏から離れて久しいが――。マリ「この間も病院に行くと、母が遠くに歩いている看護師さんを見て『今、コンサートホールの支配人を呼ぶから、挨拶しなさい』って言うんです。私もその“妄想”に付き合って『今日は何を演奏するの?』と聞くと、『プログラムを読んでいないの!』って怒られたり(笑)。母は元気なころ、コンサートのプロデュースもしていたんです」阿川「そういう物語には、乗っかるほうが楽しいよね。うちの母は、なぜかいないはずの赤ん坊の話をするんです。『赤ん坊どうしたの?』って聞かれると『さっき帰った』『ちゃんと寝かせているの』『うん、2階で寝てる』って、話を合わせたりして」マリ「認知症になっても、あえて否定するのもよくないし、羞恥心や感情面の尊重も大事ですよね」阿川「特に排せつに関してはね。以前、母が部屋で頭から布団をかぶっていたんです。どうしたのかと思って布団をめくると、片足だけ私のストッキングをはいているの」マリ「どういうことですか?」阿川「聞いても『んー』と言って答えないの。多分、自分の下着を汚してしまって、それが恥ずかしいと思ってはき替えようとしたのに、どうしていいのかわからなかったと思うんです。それで私のクローゼットから着替えを探したけど、パンツではなく、靴下の引出しを開けてしまったのだと」マリ「親の排せつの失敗は、娘もついつい情けない気持ちになったりするけど……」阿川「考えてみたら、隠すこと自体がカワイイじゃんて思うようになりました」マリ「認知症になって、とても自由に生きられている部分もありますからね」阿川「うちは圧倒的に父が強かったんです。絶対君主的で、それによって家族が振り回されていました。でも母は、『なんでそんなに言うことを聞けるの?』って思うくらい従順だったんです。だから私は、きっと7歳年上の父が早く死ぬだろうし、そうしたら母を旅行に連れていったりして、家庭の束縛から解放してあげようって、ずっと思っていたんです。それなのに、母が先にボケてしまって、悔しかったですよ」マリ「それは無念」阿川「でもね、ボケてみると、100%不幸だとはいえない。むしろ母は自己主張が強くなりましたよ。入院中だった父が『お前の作ったちらし寿司が食べたい』と言いだしたときも、さらっと『あーちらし寿司ですね、そこの百貨店に売っていますよ』って」マリ「素晴らしい!」阿川「いま、母はとても自由に愉快に生きているんです。私が『ねえ、母さん、ご飯作ってよー』って言うと『んー、明日』って先延ばし。マリちゃんのお母さんは、女手一つでずっと闘っていらしたわけでしょ?」マリ「闘魂そのままというイメージを持っていたんですが……。もともと物を書くのが好きな人で、日記帳を渡していたんですね。ところが、認知症に加えパーキンソン病も併発しているから、手が震えてうまく文字が書けない。それであるとき、母の部屋から、書こうと思ったのに、何度も何度も途中で諦めてしまっている書き損じの紙の束が出てきて……。それを隠していたんですね。手にしたときは、もう涙が止まりませんでした」阿川「切ないねえ」マリ「前の母とは違うんだと改めて感じて、喪失感を覚えました。いかに母が私の心の大きな支えになっていたかって痛感して……。50歳にして、初めて精神的自立を余儀なくされた焦りも(笑)。でも、認知症になって、肩肘張らず、強がらず、いまの母は穏やかです」阿川「よかったねえ」マリ「いままでの母なら『会いたい』なんて言わないタイプだったのに、お見舞いに行くと『今度はいつ来るの?』なんて聞いてくるんです。“なんだ、この弱々しい母は”って感じてしまうけど、『1人で娘2人を育て、世間と闘ってきたけど、ようやく甲冑を脱げたんだ』と、いまの姿が本当の母なんだと思えるようになりました」
2019年06月29日ウーマンエキサイト読者の皆様、こんにちは。koyomeです。次女オコメがこの間2歳になりました。もう赤ちゃんっぽさも抜けて、子育てがちょっと次のステップに進んだかな、という印象です。姉妹はあいかわらず仲良しです。最近は2人ともおしゃれに興味があって、微笑ましく思っていたのですが…4歳の娘のおしゃれのこだわりだんだんこだわりについていけなくなりました(笑)…2歳の娘のおしゃれのこだわりオコメはほぼ毎日、スカーフを首に巻くので、すっかり近所の名物(?)に。プリンセスが大好きなムスメは、幼稚園から帰ってきたらほぼ毎日、お気に入りのワンピースをチョイス。特に出かけない日でも、2人はおしゃれを楽しんでいます。娘たちもだいぶ成長したし、私ももう少しおしゃれに気を使わなきゃいけないな、と思いつつ、今日もほぼすっぴん、楽さ重視のゆるいTシャツとパンツに手が伸びてしまう、悩ましい母です。明日からがんばろう…!
2019年06月25日小学校入学直後から、息子の様子に気づいていた先生からのサポートUpload By かなしろにゃんこ。小学校に入学してすぐの頃から、先生は息子の様子や特性を見て「この子はきっと発達障害がある」と気にかけてくださっていた気がします。当時、机に座っていられない、授業中に絵を書く、体育の授業は床で寝転がるなど、誰が見たって「この子変わってる!?」と思うような行動が多かった息子。そんな息子を先生はサポートしてくれていました。私には「お子さん発達障害がありますよ」と直接伝えられてはいませんでしたが、今思うと個別支援計画も作っていただいていたように思います。Upload By かなしろにゃんこ。先生は短期目標を作って、息子がいつでも思い出せるように机に貼ってくれたり、頻繁に声かけをしてくれたりと、達成に向けたサポートをしてくれていました。目標は「ランドセルをロッカーにしまえる」や「1時間座っていられる」など、その当時の息子の状況に合わせて、無理なく設定されたものでした。担任の先生や補助の先生が息子をじっくり観察して、スモールステップで取り組める、「(少しのサポートや配慮があれば)できる目標」を立ててくれていたのだと思います。そして、目標にしていたことができると「できましたね!」と褒め、できたねシールを貼るポスターを用意するなど、本人が達成感を感じられるような働きかけもしてくれていたのです。息子の様子、家とは違う!?こまめに先生が教えてくれたUpload By かなしろにゃんこ。先生からは普段、学童保育のお迎えなどでたまたま会った際にまとめて息子の様子を報告してもらい、息子がいけないことをした場合は都度お電話で報告をもらっていました。他にも連絡帳に先生がお手紙を書いてくれたりもしました。ちなみに、連絡帳を持ち帰るのをほぼ忘れるADHD息子。先生からの連絡を見られるのは10日に1回程度でした。どうしても伝えないといけない内容のお手紙は、先生自ら息子のランドセルに入れてくれるのでした。先生優しい…♡また、面談の際には、他の子と同じようにできないことについても親が焦らないように、「少しずつできるようになればいいです」と伝えてくれたり、できないことについて否定的に感じないように「みんなも同じです、できないことはあります」と言ってくれたり…「お母さんの育て方は間違っています!」という言い方は一度もなく、励ましてくれました。それまで息子が他の子と同じようにできないことを知らなかった私は、先生との面談や連絡帳に書いてある息子の様子を読んで「アレ…アレレ…」と集団生活や授業参加がうまくいっていないことを知っていったのでした。先生から伝えられることの9割は耳が痛いことばかりですが、家にいるときの息子と集団生活の中での息子は違う、いいことも悪いこともすべて含めて息子を知るために先生との情報交換は必要なんだ…と思うことにしました。信頼できる先生からのすすめで、はじめての教育相談へUpload By かなしろにゃんこ。3年生のときの担任の先生との夏の面談で、「うちの子って考え方が幼いんですよ…」と相談したところ、「そうですね…リュウ太くんは他の子よりも心の発達が遅いのが気になりますね」と教育相談所での相談を勧められました。先生との連携が日頃からうまくとれていたこともあって、「ああ、そういう場所で相談する方法もあるんだ~」と先生の勧めに素直にうなずくことができました。Upload By かなしろにゃんこ。担任の先生は教育相談所の連絡先を教えてくれたり、発達が気になる子の情報誌を貸してくれたりと、息子だけでなく母である私のことまでサポートしてくれました。おかげで教育相談所に繋がることができて月に2回、午後2時から相談の時間を設けてもらいました。教育相談に行く日は息子は給食を食べたら学校を早退するようにして、先生にも協力してもらい、出かける時間に息子を送り出してもらっていました。教育相談では息子は自己肯定感を育てる遊びにのびのびと取り組み、私はカウンセリングを受けました。教育相談所に行く前は、「あなたの育て方が悪い!」と怒られたりしないかしら…と少し不安もありましたが、そんなことはまったくなく、カウンセリングを通して発達が気になる子どもとの接し方を教えてもらったり、なかなか勇気が出なくて避けていた児童精神科の受診を勧めてもらったりしたのでした。こうして学校の先生の勧めで教育相談に行ったことが発達障害の診断を受けるきっかけとなり、私は息子の特性と本格的に向き合うことになっていったのです。Upload By かなしろにゃんこ。お互い気持ちのよいやりとりで連携するため、親の私も心がけをもし、担任の先生と折り合いが良くなかったり、報告・相談がうまくできない関係だったりしたら、診断はもっと遅くなり親子で困って抜け出せなくなっていたかもしれません。特性はありながらも、将来に向けて頑張っている息子の成長を見るにつれ、先生が丁寧なフォローをしてくれたおかげだと、小・中学校で息子の担任になっていただいた先生方には感謝の気持ちでいっぱいです。先生といい関係を築いていくためには、私自身も心がけていたことがありました。まず、私から先生や学校に言いたい事は、腹八分にすることにしていました。息子がクラスメイトに迷惑をかけることが圧倒的に多いですから。トホホ…。そして、お話しするときは感情的にならないよう気をつけていました。親にイヤな言い方をされたら、先生だって生徒を可愛いと思えなくなってしまうと思ったのです。先生とのコミュニケーションでこの2つを気をつけていたことで、先生も息子の話を保護者に話しやすい・支援の提案もしやすい、と感じてくれていたと思います。臨時に家庭訪問を設定し、家での様子を見に来てくれる先生もいました。また、息子がいじめにあっている場合は、日頃の情報交換の報告相談とは別に、改めていじめの問題として相談することにしていました。ただ、いじめの問題だけは感情的に話してしまいますね…。一度だけ先生に噛みついたことがありますが、申し訳なかったな~と反省しています。あの頃を振り返って…先生との連携があったから、学校での息子の様子を知ることができ、必要なサポートに繋がっていくことができたと感じています。
2019年06月24日パピマミをご覧の皆さま、こんにちは。おませな7歳娘と、自由人の4歳息子を育ているずぼら母のぺぷりです。子どもが生まれてから、やたらとイベントごとに力を入れるようになりました。それまでは、「え?今日こどもの日だったの?忘れてた~」ということもざらでしたが、不思議な変化です。七夕のになると、色んな七夕飾りの作り方を調べては子どもたちとつくってみたり、お月見になると子どもと一緒に月見団子を作って食べたり・・・とにかく、イベントを楽しむようになりました。また、これまで作り方をよく知らなかった新聞紙で作る兜なんかも、子どもが生まれてから作れるようになりました。そして迎えた今年のこどもの日。最近忙しかったのもあり、今年は事前に準備ができていませんでした。これまでは私が全部お膳立てしていたイベントでしたが、今回は娘が・・・!そして、娘のいつか母になった時に、その子どもに受け継いでいくのかな・・・と嬉しくなった出来事でした。●ライター/ぺぷり
2019年06月19日先行き不安だった、2人の育児広汎性発達障害の小学校3年生の娘(あーさん)には、2歳の弟(きーさん)がいます。弟が生まれた時は、弟の泣き声に、娘がパニックを起こしたり…弟のイヤイヤと、娘のパニックが同時に起きたり…私が頭を抱えることもありました。しかし、この2人…最近面白いことになってきたんです。Upload By SAKURA「息子」対「父」壮絶バトル勃発イヤイヤ期が少し落ち着いてきた息子ですが、まさにThe男の子!という感じ。遊びも動きもダイナミックで激しく、色々やらかすことが多いです。父親にその行動を叱られた時も、気の強い性格のせいか、意地を張り、素直に謝ることができません。Upload By SAKURA弟の味方、救世主の姉我が家では、いちばん怖い父親と互角に張り合うのは、恐れ知らずの弟だけ。そんな様子を見ていた娘が、慌てて動きました。Upload By SAKURAUpload By SAKURA言葉にならない「んー」を「ごめんなさい」に咄嗟に変換し、叱られている弟を助けようとしたのです。そんな娘に、父親も呆れて怒りを忘れてしまうほど。娘が弟をかばう状況が面白く、思わず笑ってしまいそうになりました。姉の理解者、優しい弟娘の優しさは少し空回りでしたが、そんな思いは弟にも伝わっているようで…。Upload By SAKURAおしゃべりが苦手な娘は、日常会話でもなかなか言葉が出てこず、会話でつまってしまうことがよくあります。しかし、息子は姉の言葉を遮ることなく、話が終わるまでじっと待ちます。姉弟の中で、お互いを尊重した関係を築けていることを、嬉しく思います。姉弟で助け合いながら、毎日を積み重ねて欲しい娘のおしゃべりを見守る息子ですが、娘の支度が遅かったり、間違っていた時は…Upload By SAKURA注意したり、誘導してくれる時もあり、この2人…すごくバランスがいいなと感じました。困っている時には、2人で足りない部分を補い合って、協力して前に進もうとする姿に、頼もしささえ覚えるようになりました。Upload By SAKURA当初はどうなることかと思った姉弟関係でしたが、現状、こんな感じでございます(笑)これからがさらに楽しみです!
2019年06月12日娘、いよいよ放課後等デイ・デビュー娘との「療育」がスムーズにいかなくなって、悩んでいた私は、娘の放課後等デイサービス利用を決めました。手続き、見学を終え、無事に通所受給者証も発行され、いよいよ通い始めることに。放課後等デイが、大好きに!週4日、学校の後、放課後等デイサービスに通い始めた娘。娘はここで過ごす時間が本当に楽しいようで、ちょっと早く迎えに行くと…Upload By SAKURA私の顔を見てがっかりするほどです(笑)帰り道でも…放課後等デイからの帰り道、学校とどちらが楽しい?と聞いてみたら…Upload By SAKURA楽しかったアピールが止まりません。「娘を手放したくない」という思いに気づいて私は自分の中で、できるだけ長く娘と過ごしたいという思いがありました。だんだんと成長していくにつれて、私と過ごす時間より、友達や先生と過ごす時間が多くなっていきます。それを寂しいと感じていたのです。Upload By SAKURAデイサービスに通い始めた娘は、本当に楽しそうで、私の見えないところで、話して、感じて…私がいなくても自分だけで人間関係を作り上げていました。それを目の当たりにして、私の「あーさんと長く過ごしたい」、「いつまでも私のそばから手放したくない」という思いは、もう卒業しないといけないんだと気づきました。一緒にいる時間は少なくなったけれど娘は、夕方の6時まで放課後等デイサービスで過ごすため、母と子の関わる時間は短くなりました。Upload By SAKURAしかし、帰宅した娘との会話に変化が生まれました。Upload By SAKURA以前は「〇〇やった?」「これ違うよ!」などの質問調・命令調での声掛けがどうしても多くなっていましたが、今は娘の帰宅後、「今日は学校はどうだった?デイサービスは楽しかった?」という、娘の話を聞く声掛けに変わりました。放課後等デイサービスで宿題を済ませて来てくれるので、私がバタバタ宿題をチェックする必要もありません。そう、ゆっくりと娘の話を聞ける余裕が生まれたのです。娘の話を聞いて笑ったり、今日はこんなことがあったよ~とお互いに報告したりしています。相手のことを聞いたり、気にかけたりできるようになった姿に、娘の成長も実感しています。親基準ではなく、子ども基準で考える私は放課後等デイサービスを利用することに、罪悪感を勝手に感じていただけなのかもしれません。でも、子どもを放課後等デイサービスに任せて見てもらうというのは、母親が楽をするためのものではない…。子どもが、親以外の人とのコミュニケーションを学んだり、必要なスキルを身につけることができる大切な機会、将来のために必要なプロセスなのだと、今は思います。Upload By SAKURA今回のことで、一番成長できたのは私かもしれません。
2019年05月22日娘を産む前、私は「自分は素敵なママになる」という謎の幻想を描いていました。もともと小さい子がすごく好きで、友達の赤ちゃんとかそれはそれはかわいくて仕方なかった!!いつまででも抱っこしていられると思っていました。そんな私が念願の赤ちゃんを授かった!!さてどうなったか??■「素敵なママ」にはほど遠い現実の姿ずっと抱っこ??んなもん無理無理無理無理!!娘にベッタリ構ってあげるどころか、普段の生活をやり遂げるだけで精一杯の日々でした。ただでさえ要領が悪いのに、娘のお世話の度に中断して進まない家事…。ついには爆発して…あり得ない暴言を吐く始末。私は自分の計画通りに事が進まないとすぐに頭がパンクしてしまうので、娘に対して度々自分の中のヒステリー鬼が飛び出してくることがありました。それを見ていた旦那もドン引き&避難の眼差し…。汗■母を苦しめていた“ある呪縛”自分ではまだ何もできない子に酷いセリフを吐いてしまったと、今でも本当に申し訳なく思っています。当時の私も、八つ当たりしてしまった後で「こんなママになるはずじゃなかったのに…」と、後悔と自己嫌悪で涙することが多かったです。それもこれも、こんな鬼のような自分が出てきてしまう原因は「自分が素敵なママになる」と勝手な妄想を抱いていたからなんだと、娘が2歳を過ぎたあたりでようやく気づきました。よく考えてみたら、失敗ばかりであまり要領がいいとは言えない私が、子育てだけ完璧にこなせるわけがなかった!!! 汗ろくに勉強もしない&できないくせに、テストで満点取れるはずと勝手に思い込むのと同じですね。笑それに気づいてからは、うまくいかない時も……と、いい意味で諦めがつくようになりました。苦笑ほぺこにもテキトーになる代わりに、以前のようなキーキー怒る自分は激減して、まぁ結果オーライかなぁと。心に余裕ができると、自然とスキンシップは増えるし、子どもにとってママの笑顔が何よりの精神安定に繋がると理解するところまで、ようやくたどり着いたのでした。その教訓を春に生まれる第2子に活かせたらいいな……ていうか、ちゃんと活かせよ自分!!!
2019年01月30日人口35万人の東京都北区から山口県の瀬戸内にある人口2800人の小さな町(現在は2800人を切る)へ、母娘4人で引っ越したのが2017年の12月末。この1年の子どもの生活、家族の生活について振り返ってみました。“経験値”が増えた小学生3人わが家の3人は現在全員が小学生。1学年4クラスあった東京の学校から、1学年10人にも満たない学校に転校したのだから、カルチャーショックは大きかったはず。そんな彼女たちもすっかり学校になじみ、日々の生活を楽しんでいます。活躍の場、チャンスが増えた全校66人の小学校、みんなで役割を分担しなければ学校の行事やイベントが行えません。会のあいさつや司会、委員会や運動会での仕事もみんながまんべんなく経験することができ、活躍の場が劇的に増えました。さまざまな役割を経験すること、また頻繁に人前に出ることで度胸もついてきたように見えます。バーチャルではないホンモノの体験海に囲まれた町ならでは、6年生では地元の漁師さんの“おさかな教室”が開催されます。船に乗り、たてあみ漁を体験。水揚げされた魚で漁師さんたちがさばき方と調理まで教えてくれる体験授業。これぞまさに究極の食育!今年は天候が悪く船には乗れませんでしたが、初めてアジとタチウオをさばいた長女、帰ってくるなり「自分で魚を3枚におろしたよ!おいしかった~!」と自慢げに話してくれました。タコのぬめり取りもおもしろいまたほかの学年では、みかん農家の摘果作業や収穫体験などが年間スケジュールに組み込まれていたり、小学4年生から6年生で結成されている和太鼓チームの練習や発表の機会もたくさんありました。地域のお祭りでは神社で巫女の舞を踊ったり、子ども会のスキー旅行に行ったりと、“はじめて”をたくさん経験できた1年でした。これらは地域のみなさんの理解と協力があってこそ。インターネット上や動画でいつでも何でも見られる時代に、実際に見て触れて、ホンモノを体験できることはとて貴重でありがたいことです。夏休み、海で魚や生き物を探しているところ異学年、異年齢との交流大きな学校では学年間の垣根はなかなか崩せませんが、小規模学校になるとクラスの人数も限られるので、全学年が互いの顔と名前を覚え一緒に遊んでいます。特に長女は、慕ってくれる低学年の子がかわいくてたまらない様子。垣根がなく縦の繋がりがあるという意味ではとても良いのですが、ときにケジメがないと思えることも…。そこは昔から同じ地域で育ってきた子どもたち、良くも悪くも互いに遠慮がないようです。娘たちに「最近の生活はどう?」と聞いてみたところ、「公園が近くにないし、遊ぶ友だちもいないのが寂しいかな…」、「習い事も友だちと一緒に歩いて行けていたのに、いつも車の送迎だから…」、「たまに東京にも行きたいな」と、ない物ねだり。東京では学校以外にも社宅や私の仕事関係の大人や子どもたちなど、多種多様な人と交流していたので、物足りなく感じるのは仕方がないのかもしれません。母の生活=子どもと仕事と趣味の絶妙なバランス昨年7月に夫がブラジルから帰任となり、娘3人と私は現在の住まいで、夫は東京で単身赴任を継続するという、特殊なライフスタイルのわが家。拠点が変わっただけで大きな変化はありませんが、家族間の距離は縮まっているように感じます。絶妙なバランスを保てた、母の生活2018年の私の生活は、全体的にバランスよく過ごせたかなと思います。“健康第一”を目標に掲げつつ、子どもたちの世話をしながら、フリーランスの写真とライターの仕事を細々と継続。魚好きが高じて、9月からは地元の道の駅で魚の加工場でパートも始めました。加えてPTAにも参加しているので、保護者や地元の知り合いも増えてきました。生活のバランスが取れている理由のひとつに、通勤時間が短いことと、パート勤務の時間を子どもの帰宅時間に合わせられている点があげられます。一緒に働くおばちゃんたちにも「かわいい子どもが待っちょるけ、はよ帰ってあげんさい」と言ってもらったり。子どものことをまだまだしっかりと見ていきたいので、両立する上でとても助かっています。そして古い実家をリノベーションしたり、実家のお店のウッドテーブルを作ったりと趣味のDIYも楽しみました。スペース的ゆとり、また気持ちにもゆとりがあるので子どもに対して、以前よりもやわらかく接することができています。設計から自分で。自信作のウッドテーブル生活面での顕著な変化は…外食が減った一番大きいのは外食が減り、“食が豊か”になったこと。外食するには車で出かけないといけないことと、出かけたとしても東京に比べ選択肢が少ないので誘惑に負けなくなりました。地元で獲れる魚や野菜が簡単に手に入る今の環境は、“新鮮なものをおいしく食べたい”という私の食のスタイルにとても合っていて、食生活がより豊かになっています。魚からも季節を感じられることに幸せを感じ、またいかにおいしく食べるかを考えるのも楽しみです。新鮮なネタで子どもとお寿司屋さん物欲も減った“外食”と同時に、“物欲”も減っている気がします。買いにいける場所が限られているのもありますが、今シーズンは持っている洋服で楽しもうと思えるようになりました。化粧も薄くなったかな(笑)。小学校が私服から制服になったこともあり、子どもの洋服に使う金額も減少。長女の誕生日に「何が欲しい?」と聞いたのですが、「うーん、欲しいものがないんだよね」と驚きの返事。結局誕生日には勉強に必要なものを買いましたが、今あるもので生活が十分満たされていることを再認識した出来事でした。2019年はこの地の人間としてしかし何でもかんでも削減しているわけではありません。子どもたちにはいろいろな経験をさせたいし、家族の思い出も作りたいので、長期休みには家族でキャンプや旅行に出かけています。昨年の春休みには、娘3人だけで電車と新幹線を乗り継ぎ、関東にある夫の実家へ帰省するという挑戦を試みました。今しかできない経験や家族の思い出はプライスレス、ケチらないようにしています。お迎えなし、3人で夫の実家まで私も年に1~2度のペースで上京し、写真展をしたり仲間とのイベントを楽しんでいます。夏休みには東京から山口に遊びに来てくれる友だちもいます。この地のよさを共感してくれる友だちがいること、また都会との繋がりがあることも、今の生活を楽しめているポイントなのかもしれません。新築の家に住んでいるわけでもなければ、最新の家電や家具に囲まれているわけでもない。けれど、この1年は時間に追われている感覚が減り、心に余白ができました。移住者としての賞味期限は1年で終わりです。2019年はこの地の人間として新たな展開ができるよう、仕事や地域に関わっていきたいな。今年もスーパーマルチで楽しんでいきます!<文・写真:フリーランス記者林未香>
2019年01月13日発達障害の娘、社会人になって6カ月が経ち…Upload By 荒木まち子発達障害の娘には、忘れっぽい、先の見通しが立たないと不安になる、手先が不器用などの特性があります。日々の生活していく上での困り感を減らすため、娘は小学校の時から家庭でスケジュールボードやタイマーなどを使っていました。また、高校生になると生理周期のアプリなども使って体調管理をしていましたが、社会人になってからはそれらを使っていませんでした。子どもが自ら片付けや身支度をするようになる方法~スケジュールボードをつくろう!~不調の原因がわからず不安になる娘社会人は学生のように宿題もテストもなく、生活態度を指導する”先生”もいません。自由に使えるお金が増えたことで、娘は趣味に費やす時間が増えました。働く上で趣味や余暇の時間はとても大切ですが、娘は上手く時間配分できず、寝不足気味になることもしばしばありました。また気候が不安定な時や生理前に、体調不良は顕著に表れていました。それだけが原因ではないとしても、体調が悪くなるのは「どんな時か」「何をした時」「どのような症状なのか」などを記録し視覚化することは自分を知る為にとても大切な事です。でも、タイマーやスケジュールボードの使用や体調管理表を付けることをやめていた彼女がそのことを知る由もなく、原因がわからないことで娘は不安をさらに強めていました。そこで冒頭の漫画の会話となったわけです。一方通行のサポートにならないためには私は娘が「今までのサポートや工夫は娘自身の自分の困り感を減らすためではなく、周りの人が娘を管理するために行っている」と感じていたことに驚きました。子どもに障害があると親や支援者は当然のようにサポートをしがちです。でも時には「なぜそのサポートが必要なのか」を本人に分かりやすく説明し、本人の自覚を促すことも必要なのだと気づかされました。成長に合わせて振り返りと見直しが必要成長と共に不要になるサポートや工夫も当然あります。それはとても嬉しいことです。でも継続して必要と思われることは、本人の成長に合わせて見直しながら、本人が“窮屈”“面倒”と感じないような工夫をしていくことも大切なのだとつくづく感じました。
2018年11月29日いくつになっても変わらない特別な関係、“母と娘”。そのカタチは人それぞれで、なかにはその絆を断つという選択をしたことで、新しい自分に出会えたという人も。そんな「きれいごとでは終わらない母娘の関係」について、実母との確執を描いた漫画『母がしんどい』(KADOKAWA/中経出版)の著者・田房永子さん(40)が、こんな提言を――。■“母から自立したとき”に、自分の人生が始まりますあなたが今、母親との関係でどうしようもなく苦しんでいるなら、まずは親と離れること。家を出る、連絡を取らない、同居ならなるべく話さないなど、物理的、心理的に1人になることが大事です。私自身、母と離れて「恨み切る」作業に8年近くかかりました。その間は、あえて恨むことを前提にした生活を心がけ、自分の気持ちを折にふれて自由に吐き出しました。実は最後には恨むことに飽きたほど。それをしないで、「親を恨むなんて、私はそんな汚ない気持ちを持つ人間じゃない」と感情を抑えていると、今度は夫やパートナー、子どもなど周囲の人に(母親の代わりに)ぶつけてしまいがちです。相手が毒母であれ、恨むという作業は苦しいと思います。そんなとき、同じ境遇の仲間との出会いが、大きな支えとなります。自分と同じ段階の人とならば、「飽きたよね」とうなずき合えますし、まさに苦しんでいる最中でも、苦しみから脱している段階の人に会うことで、「いつまで苦しめばいいんだ」という悩みが和らいだりすることもあります。私の場合は、『母がしんどい』を発表したことで、自然に反響というかたちで多くの出会いを持てましたが、「毒母」「毒親」をテーマにしたセミナーやイベントに参加すれば、仲間は必ずいます。私もいまだにセミナーなどにも参加しますし、子育ての中で自分が過剰になりかけていると思ったときはセラピーも受けます。漫画にも登場する’12年春の長女“Nちゃん”に続いて、昨春に息子“Yくん”を産みました。実は母を恨み切ったと思えた時期が、その長男の出産と重なるんです。長女を産んだときには、「私もお母さんのようになるのでは」との強い恐怖がありました。しかし今、頼りになる夫と共に、実家とは違う構成の家庭を築いて、自分は自分と思えた。同時にふだんから、母親として「ふんばり力」をつける生活も心がけています。親と距離を置くことに、抵抗や不安を持つのは当たり前です。しかし、大切なのは、距離を置くことで、その間に自分自身の傷を癒して心身を回復させること。だから、強くなる必要もない。毒母からの自立というと、前向きで闘う印象を抱くかもしれませんが、むしろ「避難」や「リハビリ」をイメージすると楽かも。私も、そうして乗り越えました。
2018年11月19日目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。「私も、進んで母と縁を切りたかったわけではありません。正直、本の出版がきっかけになって、ごく普通の親子関係を取り戻せればという期待もありました」女優の小川真由美(78)の一人娘である小川雅代さん(49)が、母との壮絶な40年間を綴った『ポイズン・ママ』(文藝春秋)を出版したのは’12年春。2歳のときに両親が離婚し、雅代さんは母親に引き取られるが、売れっ子女優だった母は子育てを放棄。雅代さんは、虐待や、ときには餓死寸前になるほど心身共に追い詰められていく。20歳で家を飛び出し、仕事をしながらパンクロックバンドを結成したが、母の過剰な干渉は続き、38歳でうつ病とパニック障害で、心療内科医と弁護士の双方から、「母親に会ってはいけない」とドクターストップをかけられた。1カ月に13キロも痩せるほどの衰弱ぶりだったが、これを機に自立の道を歩み始めた。翌年には母にまつわる写真を、自分が赤ん坊時代の2枚だけを残して捨てた。『ポイズン・ママ』の出版は、さらに3年後。「実はその前年、母同様に向き合ってくれなかった俳優の父・細川俊之(享年70)に死なれていたので深く後悔しました。だから、せめて母とはやり直せたらと思い、最後の手段としての出版でした」ところが本が出た直後、母は雅代さんに言い放った。「あんた、また周囲やマスコミに洗脳されたんだね」かえって、吹っ切れたような気持ちになったとふり返る。「『洗脳』は、母が自分にとって都合の悪いことがあったときに口にする常套句。結局、いまだに本は読んでくれていないようです」母からは無視されたが、自分の心情を吐き出した本には、思いがけない反響があった。「母のファン世代からの“お叱り”は覚悟していましたが、『真由美さんがマーちゃんを理解するときが来ますように』との手紙が何通かあって、救われました。あとは、驚くほど多くの、『私も同じ体験をした』という女性からの声が届きました」その後は同じ「毒母」に育てられた人たちとフェイスブックでつながったり、毒母ミーティングを開催したり。一方で母親とは、出版から6年たった今も会っていない。「母は、現在は都内のマンションで一人暮らしをしています。性格の激しさは相変わらずのようで、生活を支えてくれるヘルパーさんらにもむちゃぶりして、担当がコロコロ代わっているとか。ただ、私がそこに介入するのは精神的負担も大きいので、一度だけ、ヘルパー事務所の責任者の方にご挨拶だけして帰ったことがありました。毒親との関係に傷ついた心に完治はないと思います。ただ、自立するなかで、自分を守るのは自分しかいないと知りましたし、親とのほどよい距離感も学びました」自身の体験から、毒母との関係に向き合い、それを客観視して文字にするという作業は“デトックス”につながると話す。「本でなくても、日記でいいと思うんです。ただし、私もそうでしたが、つらい作業でもあるので、専門家と相談するなど、無理のないよう取り組んでください」
2018年11月18日目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。「一緒にいると疲れることも多い人ですが、私にとっては“母という友達”ですね」『アウト×デラックス』(フジテレビ系)や『サンデージャポン』(TBS系)で母娘共演もおなじみの、タレントの矢部みほさん(41)。母・文子さん(69)はバツ4という波瀾万丈な経歴の持ち主だが、矢部さんは現在も同居しているというからまさに一心同体。この関係は、どうやって育まれたのだろう。「物心ついたときから、母は私にとって“母親”ではなく“女”だったんです。というのも、父に暴力を振るわれて、私たちを置いて家から逃げ出すことがしばしばありましたから。そんな母を見て、私と弟、妹2人の4人きょうだいは、『自分たちがしっかりしなきゃ』と考えていたことを覚えています。でも、誰も母を恨んだり、嫌うことはなかったんですよね。それは、やっぱり母にしかない温かみや、独特のパワーを感じていたからだと思います」その例をたずねると、矢部さんは困った顔をしつつも、楽しそうに語ってくれた。「たとえば、サービス精神がすごいところですね。テレビに出させていただくときも、母は毎回、ギャラを全部つぎこむぐらい大量の差し入れを持っていくんですよ。そして、人を引きつける力も強い。以前2人で仙台を歩いていたら、母が先に気づかれて、10人ぐらいに追いかけられました。いま私1人でそんなことはないので、すごいなと(笑)。おまけに誰でもウエルカム。『写真?どんどん撮っていいですよ!』と言っちゃうんです。さすがに『私がちゃんとした格好をしていないときは勘弁して~』と、あとでお願いしましたけれど」そんな2人の同居歴は、なんと約20年!これから同居ならまだしも、文子さんが上京以降、ずっと一緒なのは、いったいなぜ?「母は自称『霊感がある』ため、絶対1人では暮らせないんです。1年半だけ母と妹で暮らしたこともありましたが、妹が結婚したので私がまた同居することに。最近、ご近所の方が相次いで亡くなったのですが、『怖くてお宅の前が通れない』と、タクシーで遠回りして帰ってくるので、失費がかさんでもう大変です。『それじゃあ、この先どこも歩けなくなっちゃうじゃない!』と言ったら『そうなのよ、どうしよう!』って」あらゆる面で、一家の大黒柱はもはや娘。だが矢部さんは、それでも文子さんを「人間としてすごいと思っているんです」と慕う。「気ままなのに温かくて、面倒だけど、憎めない。どんな話も受け入れてくれる、いい意味で“変人”。母を嫌いな人なんていないんじゃないかと思うんです。実際に、私が経営するバー『YABEKE』では開店当初からママをお願いしていますが、いまや母が目当てのお客様ばかり。そして、母のおかげでテレビの仕事にもつながっているので、本当に感謝しています」もはや「仲よし」を超越し、お互いになくてはならない関係という母娘。今後のことを尋ねると。「もし、私が結婚することになっても、もれなく母がついてきます。かなり大きなオマケですけれど、1人じゃ寝られないというんだから、もうしょうがないですよ(笑)」一言でいえば「愉快な仲間です」と矢部さん。母と娘の愉快な関係は、これからも続いていく――。
2018年11月17日目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。「5人きょうだいの末っ子だった私が、いちばん母の影響を受けているかもしれません」料理研究家の浜内千波さん(63)が高校卒業後に短大の栄養科に進んだ理由は、「母のように家族に喜ばれる料理を作りたかったから」。「母は私の理想なんです」と語る。「実家は海の目の前で、漁業関係の小さな会社を営んでおり、両親は常に忙しくしていました。母は、旧家の跡継ぎ長女だったのですが、父と大恋愛の末、駆け落ちした女性。当然結婚式も挙げられず、大変に貧しいなか、苦労して私たちを育ててくれたんです。それでも母は、欠かさず料理を作ってくれました。末っ子だった私は母を占領したくていつもそばにいたのですが、台所で素材を吟味する母の姿は、いまでも目に焼き付いています」質素倹約の暮らしのなかで、工夫しながら料理をしてくれたという浜内さんの母。地元・徳島では端午の節句に盛大なイベントが行われるが、フノリから寒天を手作りしたフルーツ味のデザートや、卵を桜色に染めて花の形にあしらった卵焼きなど、工夫をこらした3段重ものごちそうを、5人全員に1つずつ作ってくれたという。「さつまいもや里芋にあんを着せておはぎのようにいただく郷土料理の『出世芋』や、金時豆のちらしずし。先日、期間限定発売の『阿波の国の満足膳』というお弁当を監修させていただきましたが、できるだけ母の味を再現しました」とめどなくあふれる母の味の思い出。それはまさに「幸せと愛」の記憶であり、今も浜内さんの心のよりどころになっているという。「実家を出てから、いかに母が私たちのために心を尽くしてくれていたかがわかりました。いつの時代も親が子どもを思う気持ちにまさるものはありませんが、それを継続して伝えられるのが、毎日のお料理だと思っています」7年前に亡くなった母の味を「もう食べられないの」と涙ぐむ浜内さん。短大卒業後は3年間のOL時代を経て料理の世界に飛び込むが、目指したのは「家族の健康を守れる料理を作ること」。「実はすぐ上の兄が小学校6年生で他界しまして、そのときの母の嘆きようは今も忘れられません。以来、私が風邪ひとつひいてもすごく心配されました。家族の健康を守ることがいかに大事かを、身にしみて学びましたね」その後独立し、クッキングスクールを開校。母から受けた「幸せ」の記憶を、いまも伝え続けている。女性の自立が難しかった時代に、人気料理研究家となった浜内さん。その視線の先には、常に台所に立つ、あの日の母の姿がある。
2018年11月17日目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。自らを“父親っ子”という西村知美さん(47)は、実母の綾子さん(74)との間に長い確執があったと打ち明ける。「うちの母は、ずっと共働きで事務の仕事をしていて、家庭にいる時間が少なかったせいもあり、私は幼いころからコミュニケーションを取れずに反発していました」中学時代のこと、激しい言い争いになり、母に平手打ちされた。とっさに言い返す西村さん。「私は、あなたみたいな母親には絶対にならない!」もっとひどい仕打ちがかえってくると構えていたが、意外にも母は冷静な表情でつぶやいた。「今、言った言葉を覚えておいて。将来、同じことを、あなたも自分の子どもから言われるから」14歳のとき、母との関係はぎくしゃくとしたまま、姉が応募した「第1回ミス・モモコクラブ」オーディションでグランプリに輝き、単身で山口から上京。26歳で、元タレントの西尾拓美さん(51)と結婚。2度の流産と不妊治療を乗り越えて長女の咲々さん(15)を出産したのは32歳。「結婚も事後報告でしたが、妊娠となると、わからないことだらけで不安でした。まわりに聞くと、みんな、『自分の母親に頼った』と言う。このときばかりは背に腹は代えられずの思いで、悩んだ末に母に電話するんです。おずおずと『来てくれない?』と言うと、思いのほか、あっさり『いいわよ』と、当たり前のように上京してきたんです」出産をはさんで、2カ月間を共に過ごすことになったが、「戸惑うというより、新鮮でしたね。だって、母と2人きりで2カ月も過ごすなんて、三十数年間の人生で初めてでしたから」。ここで、母の素顔にふれる。「母は、子育て経験者として余裕で手ほどきしてくれるのかと思ってたら、赤ちゃんの具合が少し悪かったりすると、私と一緒にオロオロして『病院に電話しなきゃ』って。食事も、料理もは相変わらず上手じゃないんですが(笑)、母なりに工夫して産後の私に栄養のあるおかずを作ってくれたり。そんな姿を見ていて、ああ、うちのお母さんは、表現するのが下手なだけで、いつも一生懸命なんだと初めて気付くんですね」自分も親となり、かつての母親の気持ちを知ったことで、いつしか確執も消えていたと話す。それ以降は、いままでの疎遠が嘘のように、母親に頼み事をしているという。「私が泊りがけのロケなどがあるときは、母に山口から上京してもらって、娘の面倒を見てもらっています」これには、’00年にホームヘルパー2級の資格を取得していた西村さんならではの考えもある。「何でも手を差し伸べることは、けっして高齢の方のためにならないんですね。できる範囲で頼み事をするのは、生きる糧になりますし、親孝行にもなる。母自身、孫の世話は楽しそうですし」昨年には、母が内臓と血管の、父の省吾さん(81)が胃の大手術を経験する家族の危機もあった。「母も父も、なんとか無事に乗り越えました。ふだんは実家で姉が同居して面倒を見てくれています。私は、ようやく母親との関係を修復できて、気をつけていることがあります。それは、思いを言葉やカタチにするということです」西村さん自身、あれだけ母親に反発していたせいで、自分は嫌われていると思い込んでいた。「でも、違ったんですね。今年の夏、テレビの企画で実家の断捨離をしたとき、母が私のアイドル時代からのスクラップをしていたことを知って涙が止まりませんでした。当時、私は知ろうともしなかったし、母も言わなかった。親子だから、言わなくても『目と目で通じ合う』というのは幻想です。ですから今は、母が上京してくれたときには、必ず感謝の手紙を渡したり、ふだんからメールや電話を心がけています」そして、この学びは、自身の子育てにも生かされている。「今、娘がまさに私が実家を離れたときと同じ年ごろなんです。そう、思い出しましたよ~、あの母の平手打ちのときの言葉(笑)。ですから、娘には、『うちは何でも口に出して言うようにしようね』とふだんから話しています」今、その娘さんも一緒に、できる限り多く両親との家族旅行を楽しんでいるのにも理由がある。「親孝行は、“いつか”ではなく“今するもの”と思います。共に過ごすことで増える思い出こそが家族の宝物なんですね」失われていた母親との時間を取り戻そうとするのに遅すぎることはない事実を、西村さん母娘が教えてくれる。
2018年11月16日目標であり、ライバルであり、反面教師であり――。さまざまな親子のカタチがあるけれど、自分の人生は“母から自立できたとき”に始まります。そんな母と娘の関係について話を聞きました。題して「“母”が歩いた道、私が歩く道」。「うちの母は、ずっと共働きで事務の仕事をしていて、家庭にいる時間が少なかったせいもあり、私は幼いころからコミュニケーションを取れずに反発していました」自らを“父親っ子”という西村知美さん(47)は、実母の綾子さん(74)との間に長い確執があったと打ち明ける。「母は、まず料理が下手。おかげで私は食も細かったし、いわゆる“お袋の味”もない。10代になると、食事のときの母の食べ方までイヤで、『私のほうを見ないで』と、行動のすべてを否定していました。おまけに母は、私たち子どもより早く寝ちゃうんです」中学時代のこと、激しい言い争いになり、母に平手打ちされた。とっさに言い返す西村さん。「私は、あなたみたいな母親には絶対にならない!」もっとひどい仕打ちがかえってくると構えていたが、意外にも母は冷静な表情でつぶやいた。「今、言った言葉を覚えておいて。将来、同じことを、あなたも自分の子どもから言われるから」14歳のとき、母との関係はぎくしゃくとしたまま、姉が応募した「第1回ミス・モモコクラブ」オーディションでグランプリに輝き、単身で山口から上京。「その後は2~3カ月に1度の実家への電話が、家族とのコミュニケーション。電話すると必ず母が出るんですが、私は挨拶もなしに『お父さんに代わって』と。一人暮らしをしても、家事も習ってませんから、洗濯するときに柔軟剤の入れ方もわからない。本当なら実家で教わっているんだよなと、また母を恨んだり……」26歳で、元タレントの西尾拓美さん(51)と結婚。2度の流産と不妊治療を乗り越えて長女の咲々さん(15)を出産したのは32歳。「結婚も事後報告でしたが、妊娠となると、わからないことだらけで不安でした。まわりに聞くと、みんな、『自分の母親に頼った』と言う。このときばかりは背に腹は代えられずの思いで、悩んだ末に母に電話するんです。おずおずと『来てくれない?』と言うと、思いのほか、あっさり『いいわよ』と、当たり前のように上京してきたんです」出産をはさんで、2カ月間を共に過ごすことになったが、「戸惑うというより、新鮮でしたね。だって、母と2人きりで2カ月も過ごすなんて、三十数年間の人生で初めてでしたから」。ここで、母の素顔にふれる。「母は、子育て経験者として余裕で手ほどきしてくれるのかと思ってたら、赤ちゃんの具合が少し悪かったりすると、私と一緒にオロオロして『病院に電話しなきゃ』って。食事も、料理は相変わらず上手じゃないんですが(笑)、母なりに工夫して産後の私に栄養のあるおかずを作ってくれたり。そんな姿を見ていて、ああ、うちのお母さんは、表現するのが下手なだけで、いつも一生懸命なんだと初めて気付くんですね」そして、子どものころを思い出していた。「私は今、同じ母親として外食も手抜きもしますが、うちの母は毎日3食必ず手作りしていました。あと、私たちより早く寝ていたのは、よくよく考えれば、毎朝4時に起きていたからなんですよね。そうか、母は十二分にやってくれていたんだ。私は母に理想を押し付けるばかりで、現実を見ずに反抗していたんだと、ようやく気付いたんです」自分も親となり、かつての母親の気持ちを知ったことで、いつしか確執も消えていたと話す。2カ月が過ぎ、母が帰郷するときには。「『ありがとう、がんばるね』と母に告げて別れたものの、直後には、1人でワンワン泣いたのを覚えています。あれが、私の本当の自立のときだったと思います」
2018年11月16日関西人主婦で二児の母のモチコです。我が家の子どもは、4歳の娘・イチコと1歳の息子・二太郎。私には楽しみなことがあります。母娘デート、最高♡4コマではハンバーガーショップですが、最近では映画に行きました!身近なところだとお風呂を2人で入るのも楽しいです。イチコが幼稚園のときは、二太郎と私の2人時間なので、イチコと2人っきりというのは、私にとっても新鮮で特別感!この母娘時間の良いところを細かくご紹介しますと……。⑴娘を甘えさせられる!普段、二太郎がいて私を独り占めできないイチコ。このときばかりは思う存分ママを独り占め させてあげられます。娘本人はそこまで特別感はなさそうですが(笑)、邪魔が入らず、娘のやりたいことをさせてあげられるのって、私はとっても嬉しい! そしてノーストレス!⑵娘の成長を感じられる!1歳も後半の二太郎……。もうイヤイヤがすごいです。ただ目的地に向かうだけでも、石を拾いたいだの逆走したいだのジュース買ってだの、いろんなこだわりで足が止まります。その点イチコだけだと、目的地までスーッとノンストップで行けてしまう!ちょっと前まではイチコも寄り道しまくっていたのに……! 大きくなったなぁ……。この他にも、お店の中では静かにする、お行儀よく座るなど、マナーを守ろうとします。(もちろん私から声をかけないとまだ難しいですし、100点満点とは行きませんが……)こんなにスムーズにいろんなことができるようになったんだ……と毎回感動 です!私が周りに気を使わず外食を楽しめるのも幸せ(笑)。イチコありがとう!⑶父と息子時間も楽しそう!私とイチコが2人時間を過ごしている間、旦那と二太郎も男2人時間です。先日映画に行っている間、男2人でおもちゃ屋さんや家電量販店で楽しく過ごしていたようです。二太郎はジュースとぬいぐるみをゲット。普段私は買ってあげることはないので、二太郎、良かったね……!以上、母娘デートについてでした。そういや2人っきりでスイーツ、最近してないなぁ……。おうちでビーズやらプラ板やらの細かい遊びもしてないし。また近々、母娘時間をおねだりしようと思います!●ライター/モチコ
2018年11月14日広汎性発達障害の娘と弟の関係が変わってきた!広汎性発達障害の娘に弟ができて、もうすぐ2年が経とうとしています。生まれた当初は、ひたすら泣く息子と、赤ちゃんの泣き声が苦手な娘の間で、頭を抱えることもありました。しかし、その泣き声にも娘はすっかり慣れ、弟を気にかける優しい姉になってくれました。ところが今、そんな2人の関係が、ちょっと変わってきたのです。Upload By SAKURA仲良し姉弟で穏やかな日々…と言いたいところですが、現在、7歳と1歳という歳の差姉弟の娘と息子は、毎日バトルを繰り広げるようになってきました。Upload By SAKURA「私はお姉ちゃんだから…」我慢する娘にアドバイス温厚な娘とは違い、息子は気性が荒く、とにかくやんちゃ。おまけにイヤイヤ期も重なって、親である私たちも手がつけられません。発語もどんどん出て、姉に対し、ガンガン攻める…。そんな弟に姉は、言われっぱなし、やられっぱなし。気が優しい娘は「赤ちゃんだから仕方ない」と息子のわがままに耐えていました。Upload By SAKURAそんな我慢をし続ける娘に私は、「そんなに我慢しなくていいんだよ。」と言いました。Upload By SAKURA分かりやすく言い返さないと、幼い弟には伝わらない!「我慢しなくていい」と私が話してから、娘は息子に言い返すようになりました。元々自己主張が苦手な娘。しかも、相手は1歳児。自己主張、言い分も分かりやすく言わなければ、伝わりません。「自分が思うことを、相手に伝わるように話す」ということが苦手な娘ですが、必死に身振り手振りで、弟に伝えようとしています。自己主張の塊のような息子に立ち向かう姿は、以前の娘からは想像できないものでした。Upload By SAKURAけんかの技術から学んで欲しい!?コミュニケーション実は、息子が生まれて、私が期待していたことの一つが、「姉弟間の喧嘩」でした。もちろん姉弟の仲がいいに越したことはないのですが、喧嘩も大事。喧嘩の中には、お互い学ぶことがたくさんあるはずです。自己主張、譲り合い、我慢、協調…娘の課題であるコミュニケーションが山ほど。娘は、毎日の喧嘩の中で、知らず知らずのうちに学んでいるのです。Upload By SAKURA仲良し姉弟だから…けんかの相乗効果、期待してます♡嫌だと思ったことを伝えるようになった娘ですが、弟のことは大好き。理不尽な態度を取られても、たびたびバトルを繰り返しても、弟のためを思って行動してくれる優しい姉です。わがまま極まりないイヤイヤ期の息子も、なんだかんだ言って姉が大好き。姉と同じものを望み、いつも姉の言葉や行動を真似します。お互いに大好きなのです。Upload By SAKURAこれから、二人の関係がどうなっていくかわかりませんが、成長の相乗効果を期待しつつ、親として姉弟喧嘩を見守っていきたいと思います。
2018年09月26日英語力“ほぼゼロ”の娘と母、第2のふるさとオーストラリアを巡る旅(別名、英語コンプレックス克服の旅)では、ホームステイ・ファームステイ以外に、ちょっとしたチャレンジをさせてみることにした。はじめてのおつかい?自分で買い物に挑戦!今回の旅で子どもにぜひ挑戦させてみたかったこと、それは「自分で買い物をすること」。娘たちは過去の旅行で、機内食の注文やトイレの場所を聞くことには慣れていた。その次のステップに駒を進めておきたかった。旅の2日目、タイミングを見計らって「ちょっと、自分たちで買い物しておいでよ」と、長女と次女に話しをしてみた。…え?という表情の2人。しかしそこはわが家のチャレンジャー、「できない」とは言わないのである。“何でも挑戦してみよう!”というのが、長女のスタンスだから。はじめての買い物はメルボルン、サザンクロス駅構内のパイショップで、ビーフパイとカプチーノを買うミッション。私は少し離れたところで見守ることにした。カウンターにはアジア人女性(どうやら日本人らしい)。はじめてにちょうどいい。「恥ずかしがらずに英語で注文してごらん。きっと大丈夫だから」と背中を押した。「Can I have a beef pie?」(私には聞こえないが、そう言ったのだろう)やさしく笑顔で対応してくれたお姉さん、おかげで無事にミッションを完了(お姉さんありがとう!)。パイとコーヒーを手に、ニコニコ顔で私の元に戻ってきた。ここで自信を得た長女は、その後何度もひとりで買い物に行くようになる。露天でクレープを買ったり、売店で水を買ったりと、着実に小さな成功体験を重ねていった。「自分でできた!」「英語が通じた!」という喜びと自信は、この旅で一番の収穫だっただろう。彼女の後ろに続く妹たちにも、よい刺激になったに違いない。Busselton Jettyバッセルトン桟橋の売店にて。優しい対応と笑顔がうれしい「キャンディースタンド」で買ったブロックのグミ現地の小学校訪問「子どもたちがオーストラリアと日本の小学校の違いを知りたがっているんだけど、小学校の見学ができないかしら?」現役教員でもある、オーストラリア人のママ友Bさんに連絡を取ったのは出発の1カ月前。駐在中の先輩のお子さんが同じ小学校に通っているということもあり、地域で一番大きな公立小学校を見学する機会に恵まれた。校内唯一の日本人の女の子。引っ越してきてまだ1年経っていない彼女が先導、校内を案内してくれた。娘たちは英語オンリーの学校にすっかりなじんでいる彼女の姿に、まず驚かされていたようだ。クラスルームとは別に、外国人や発音が苦手な子たちが発音を学ぶ特別の教室がある。校内の壁にはカラフルな絵、広いグラウンドは芝生。空間も広いし、のびのびしている。日本の学校とは違う雰囲気に、娘たちも興味津々。グラウンドの隅に見える、立派なアスレチックコーナーは新設されたばかり。「木に登ったり、大きなタイヤを飛んだり、体全身を使って遊ばせることで、子どもたちは危険を知るし、自分の限界も分かってくるんですよ」と先生。こういう場所と機会を子どもに与えることも大切なのだと話してくれた。その他、校内専属の歯医者や、売店など、日本とは違う様子に「オーストラリアの学校、おもしろいね。いいな~」と娘たち。東京のマンモス校、地方の小さな学校の両方を知る娘たちに、これもまた新しい刺激となったようだった。長女の英語コンプレックス、その後…オーストラリア東部と西部の4都市、友人を巡る2週間の旅はあっと言う間に終盤を迎える。旅の最終日は三女のリクエスト、パース動物園。広くてゆったり、木陰が多くて歩き易くて快適。夏休みの自由研究で有袋類について調べた三女は、念願のコアラに会えただけでも大満足だった。カメラ目線のコアラの赤ちゃんその後、パースに住むママ友宅を訪問。大きくて新しいお宅に、オーストラリア流(イギリス流)の素敵なティータイムのセッティング、庭にはトランポリンも!「すごーい!素敵!」と、ワクワクを隠せない三姉妹。姉妹同士ということもあって、その後も違和感なくレゴフレンズで遊ぶ女子。どれどれ、と様子を見に行くと「お母さんはあっちへ行っといて~。ここは子どものゾーンだから!」あれほど私の通訳を必要としていた娘たちが、“あっちへ行って!”と言うのだ(驚)!「アイスクリーム?」、「イェス、プリーズ」、「サンキュー」、「ヤミー」など、知っている単語を発して遊んでいる。三女は思いっきり日本語だったが…しっかり遊びに混ざっていた(笑)。その姿に驚くやら、微笑ましいやら、うれしいやら。さようならのとき。レンタカーの中から手をふり、大きな声で「バイバ~イ!」と娘たち。それに応える「Bye!!Take care!」。たった数時間だったが、子どもたちの心が通じていたことが感じられ、うれしかった。空港までの車内で次女が「あー、楽しかった!」と満足そうな顔をして言った。「でも英語が話せたらもっともっと楽しいだろうな~」。「私、英語やろうかな…」ボソッと言ったのだ。この旅では長女の後ろにくっつき、手応えがあるのかないのか分からなかった次女が、自らやる気を表明したことに驚いた。英語コンプレックスを持っていた長女はというと、帰国後すぐに今回の旅で感じたことを紙に書き、私に見せてくれた。「これまで見てきたものと世界が違って見えた」、「自分で買い物をして、勇気がわいた」、「もっと英語を話せるようなって、お母さんたちの会話に入れるようになりたい」などと、ポジティブな言葉が並んでいた。そして最後に「この思い、この感覚を絶対に忘れたくない!!」と。彼女の英語コンプレックスは、いつの間にかどこかに消えてしまったようだ。ようやくやる気になってくれたか!と、心でガッツポーズをしたのは言うまでもない。今回の滞在でよかったのは、言葉に不安がありながらも“小さな成功体験を重ねることができた”ことと、友人・知人と多くの時間を過ごすことによって、“言葉の壁を越えられた”ことにあるだろう。友だちと楽しく遊びたい、大切な人に想いを伝えたいという気持ち、それこそがコミュニケーションの原点だから。9月から英語の勉強を本格的にスタートすることにした長女と次女。小6と小4でやや遅いスタートではあるけれど、やる気になったときが始めどき。親の私も気持ちを新たに、子どもたちの英語学習に付き合おうと決心したところである。おっと、もう1人を忘れてはいけない。小1の三女だが、彼女は特に変わらず、「あー、オーストラリア楽しかった!」といつも通りマイペース(笑)。ま、楽しんでもらえたなら何より。いつ彼女がやる気になるのか、今後を楽しみにしておくことにしよう。
2018年09月23日