家庭は「落ち着けない場所」アルコール依存の父とDV母Upload By 桑山 知之manaさんは、公務員の父親と保険などの営業を行う母親のもとで、2人姉妹の長女として育った。父親はアルコール依存症、母親は包丁を突きつけたり首を絞めてきたりと、たびたびmanaさんに暴力をふるっていたという。喘息などアレルギーにも悩まされた。家庭は「落ち着けない場所だった」と振り返る。「母親に崖に連れていかれたこともありました。家出もよくしていたんですよ、母親は。ただ、そういったことも最近まですっかり忘れていたんです。母親の影響もあって、私のメンタルがやられていたのかなって思い至るようになりました」(manaさん)Upload By 桑山 知之授業中も、椅子に座っていられない不快感や衝動があり、とても苦痛だった。中学1年から不登校気味になり、15歳で小児科の「思春期外来」を受診した。診断は「心身症」。25年以上前の当時は発達障害の認知が今ほど進んでいなかったこともあり、ストレスによるものだと医師から言われた。普通科高校に進んだが、中学3年のころに無理して登校していた影響などから、過食のため胃腸の調子が悪くなり、夏休みの宿題に着手できなかったことがきっかけとなって退学し、通信制高校を転々とした。「自分は人と違う」と自覚した。その後、福祉の専門学校に進み、発達障害について学ぶ機会があった。教科書を読み進めれば読み進めるほど、自分にあてはまることが多かった。家でその話をすると、「知らんほうがいいこともある」と父親に諭された。物をよく失くすなど、どうやら父親も発達障害の特性が見られたらしい。manaさんが26歳のころ、父親はアルコールの飲みすぎなどが原因で、食道ガンにより亡くなった。母親に相続の放棄をさせられたため、遺産を受け取ることはできなかったという。28歳で診断生きづらさと向き合ってUpload By 桑山 知之専門学校を卒業後、高齢者施設に半年ほど勤めたが、父親が倒れてからは仕事を辞め、看病をしていた。父親の死後、就いたのはコンビニ店員のアルバイト。マルチタスクを処理する能力が求められるため、ADHDがある人は苦労すると言われる職種だが、manaさんにはこれが合っていたという。のべ13年間働き、トレーナーも経験した。「バイトで来る人にもいろいろな方がいて。店の様子を把握しながら、その日の進行管理を考えつつ、レジ打ちしつつ、発注書を書いたり、レンジをチンする40秒の間にほかのことをやったり。なぜだかわからないんですけど、自分の傾向がたまたますごく合っていたんですよね」(manaさん)Upload By 桑山 知之専門学校の実習先で知り合った男性と、28歳のころに結婚。その後、ADHDかつ双極性障害だと診断を受けた。また、言語性IQと動作性IQに明らかな違いが見受けられた。不注意で忘れ物が多く、家が散らかってしまうこと、聴覚過敏のことも、特性だと思えば肩の力を抜いて生活できるようになった。現在、8歳の長男と4歳の次男、夫と4人で暮らしている。スマホは紛失補償のある保険に入り、夫や妹がGPSを見られるようにしているほか、予定を詰めないために小さな手帳を使っている。財布がわりの透明なケースは、著名な料理家がジップロックを使っているのをテレビで見て参考にした。Upload By 桑山 知之「家は極力モノを少なくしています。荷物もいっぱい持つとなんだか訳がわかんなくなって落としちゃうので、そもそも減らすっていうか、カバンを小さくしました。学生時代は登山用のリュックサックで登校していたんですよ(笑)」(manaさん)福祉×アートで世の中をより良く学生時代、家庭の方針でテレビはNHKしか見ていなかった。好きだったのはドキュメンタリー。「いろいろな人が世の中にはいっぱいいる」と興味が湧いた。マイノリティと言われる人々の生きざまに、自然と惹かれていた。そんな中、ドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』をテレビで見て、「生きることを認められている」気持ちになった。育児がひと段落し、昨年夏には障害者支援施設で働いた。しかし猛暑の中頑張りすぎてしまったためか、パニック発作が出た。“日本一暑い町”多治見市は、感覚過敏のmanaさんにとってなかなか酷である。来年度からは、多治見市が委託する「母子保健推進委員」として活動する予定。無理をしすぎないよう調整しながら、障害のイメージを「ポジティブに変えたい」と話す。Upload By 桑山 知之「自分にも見えない障害があって、周りにもそういう人がたくさんいるわけで。もっといろいろなことを知って、パッと見ではわからない困りごとがある人と、行政やサービスを結ぶ活動をしていきたいです」(manaさん)気軽に話せる相手がいなかった幼少期。誰かに助けてもらうという選択肢すらなく、今も当時の記憶は断片的なまま。子どもを社会全体で育てていく、そのチームの一人になりたい。それが当面の目標だ。中でもアートが大好きだというmanaさん。子どものころには、鼻血を出すまで集中して絵を描いていた。引きこもっていたころも、アートに支えられた。「アートには力がある」。福祉とアートをつなげる仕事ができたらと、一歩を踏み出していく。Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海(監修・井上先生より)専門学校で福祉を学んだり、実際にその分野で働いたり、子育てを経験する中で、ご自身の特性や診断に向き合ってきたということは、同じような特性や診断のある人や支援に対して非常に役立つだろうと思います。障害者支援の仕事は、一方では利用者の方々の得意なことにスポットをあてていく仕事だと思います。そういった視点はmanaさんにあっているのではないかと思います。ただ、福祉や支援サービスの現場は過酷な面もあり、合理的配慮が得られにくい場合もあります。ご自身の特性を踏まえて、働く時間や内容をアレンジするなどして、ご自身が無理しすぎない環境を整えることも大切です。職場の中で理解や配慮が得られるようにしつつ、当事者であり支援者であるということを活かし、またご自身の得意な分野でmanaさんらしい仕事を続けていっていただけるよう応援しております。
2022年02月02日保育園の参観日しのくんは3歳8ヶ月。発達障害グレーゾーン、視覚優位タイプの男の子です。その日は、保育園の参観日。子どもたちは保育園の教室で先生のピアノに合わせてダンスをしていました。私は、(しのくん、できるかな?)と、ドキドキして見守っていました。しかし…Upload By keikoUpload By keikoUpload By keikoUpload By keiko参観をする保護者の中から私を発見するなり、すぐ側に来てしまい、そのまま私のところにいようとする、しのくん。クラスのほかの子どもたちは、先生のピアノに合わせて踊っていて、保護者の元へ来たのはしのくんだけでした。しのくんに「みんな踊ってるよ。しのくんも行っておいで」と声をかけると、そのときは教室の中へ戻りますが…すぐにまた「ママー!」と言って、私の元へ戻るというのを繰り返していました。参観ではしのくんが保育園でみんなと過ごしている様子を見たかったのですが、この日はそれが見られず残念だったので、後日、私は言葉の教室の先生にこの出来事を相談しました。後日、言葉の教室の先生に相談すると…Upload By keikoUpload By keiko先生に「こっそり見てみるのはどう?」と言われ、目から鱗が落ちました。「ママのことが大好きだから、そりゃママの側に来ちゃいますよ。そんなときは物陰からこっそり見るといいかもしれません」という先生の言葉に(なるほど~)と思いました。私は子どもから隠れて参観日に参加するということを考えてもみなかったので、「しのくんがママを見つけなければ、ママのところに駆け寄ってはこない」という、当たり前の事実に気づくことができませんでした。言葉の先生に助言をいただき、次からの参観は「こっそり物陰から見てみよう!」と思いました。そして、次の保育園行事は運動会今回はしのくんの様子を「こっそり物陰から見る」という作戦だったのですが…Upload By keikoなんと運動会は座席指定でした。しかも…Upload By keiko私の席は保護者席の最前列だったのです!!そのため、「こっそり物陰から見る」ということができませんでした。運動会ではこの作戦はできませんでしたが、保育園の先生にも相談して次こそ「こっそり物陰から見る」というのをしてみたいなと思っています。いつか、しのくんが保育園のみんなと過ごしている様子を最初から最後まで参観できる日を楽しみにしています。執筆/keiko(監修:初川先生より)お母さんの姿が目に入ったら、そちらに来てしまう。まさにそうですね。そもそも参観日の様子がいつもの様子であるかどうか、というところもだいぶ怪しくはありますね。参観日の様子はあくまでも「参観日の様子」です。保護者がたくさん見に来ている状態で、いつもと同じ様子になる子もいますが、そうではなくて、いつもより頑張ってしまう子も多くいるものです。お子さんの様子を見ようとしたときに、保護者の方ご自身が「刺激」となって、いつもとは違う様子を見せる場合は往々にしてあることです。「こっそり見る」ことの良さはできるだけいつもの環境を保った中で、様子を見るということですね。ぜひこっそり見に行ってみてください。
2022年01月20日小学2年生だった次男がいじめにあう発達障害の中でもADHDとASDのほか、躁鬱病(双極性障害)がある猫ママ(仮名)さん。学生時代はまだ発達障害や躁鬱病が今ほど世の中に知られておらず、周囲の理解が乏しい中、「突然落ち込んで動けなくなる」ことが多かった。「あの子は怠け者」。夏休みの宿題もやり切れたことがなく、いつも「頑張らなきゃ」と無理をしていた。高校卒業後、1年余り会社勤めを経てすぐに結婚。3人の子宝にも恵まれた。ただ、当時小学2年の次男が日に日に元気がなくなっていくのを見て、違和感を覚えていた。すると授業参観の日、担任教師から「お子さんが友達に対して注意をすることが多く、反感を買っている。その話を本人にしたら、最近元気がなくなってしまった」と言われたという。しかし、詳しく状況を確認をしたところ、担任教師の対応がクラスのいじめを助長していたことが発覚。学校に事実を伝え、事態は収拾したものの、猫ママさんの心に引っかかったことがあった。「友達に注意をすることが多い」とは――。周囲に自閉スペクトラム症のある子どもがいたことから発達障害の勉強をしていたという猫ママさんにとって、次男の特性があてはまることに気付いた瞬間だった。Upload By 桑山 知之「勉強もできて友達だってたくさんいる、こんなにいい子なのに、発達障害だなんて有り得ないって最初は思いました。でもある日、夕飯を作っていたときに肉じゃがを見て次男が『これ、何ていう食べ物だっけ?』って言ったんですよね。何度も食卓に出している献立の名前も知らなかったのか、今まで意識したこともなかったのかと――それで次男にはなにかあるという確信に変わったというか。でも、どこか気持ちが軽くなったんですよね」(猫ママさん)その後、学校でのルールに耐えられなくなり、眠れない日々を過ごしたという次男。診断の結果、ADHDとASDがあることがわかった。「しんどいからできない」のか「甘えている」のかが分かりづらく、叱るのを躊躇した時期もあったが、特性を深く理解することで線引きがわかるようになったという。息子が苦手なことは自分も苦手――自身も発達障害の診断をUpload By 桑山 知之次男のあと、長男や三男の障害も明らかになった。そして猫ママさん本人も35歳のころ、診断を受けた。夫は診断こそ受けていないが、息子の担当医によれば「間違いない」という。こうして“発達障害一家”として歩んでいく決意を固めた猫ママさんは、子どものサポートに徹しようと仕事をせず、書類や水筒を忘れたらいつも学校まで届けた。「家族のサポートをする上で、私自身の苦手分野と彼らの苦手分野が被りすぎていることは、ハッキリ言ってかなりの負担です。誰か1人でもいいから、片づけができるといいんですが…。彼らの負担を軽くするために、彼らがどうしてもできないことはやってあげたいと思っています。ですが、私も同じようにどうしてもできません。私だってできることなら誰かに頼りたい」(猫ママさん)Upload By 桑山 知之思い返してみれば、猫ママさん自身も子どものころ、空気が読めなかった。周囲の様子をきちんと理解できていなかった。相手の表情や、何を喋っているか、あらゆる情報が今でもほとんど思い出せない。でも母親や教師からはよく怒られた。当時を知る高校の同級生からは「あのころはマシンガントークがすごくつらかった」とも言われた。どうやら、しょっちゅう友達の間に割って入って自分の話をまくしたてていたらしい。発達障害一家だからこそわかること「ゆっくりだけど、みんな学んでいる。」これはドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』の中に差し込まれたコピーだ。猫ママさん一家も、決して例外ではない。Upload By 桑山 知之社会には、どうしても守らないといけないルールや、やらないといけないことがある。しかし、発達障害のある人にとって、「できないこと」や「わからないこと」があるのも事実。猫ママさんは、自分なりのペースで「誠意を持って生きる」ことが大切だと話す。「そもそも、自分が何をわかっているのか、わかっていないのか、わかっていないことがわかっていないというか。それダメだよって言ってくれれば、ダメなんだってわかるんだけど、言われなかったり酷い目に遭わなかったらわからないんです。そういう人多いんじゃないかな、ラインがわからない人。感覚としてわかんない。備わっていないんです」(猫ママ)Upload By 桑山 知之苦しんで育ってきた自分だからこそ、息子3人が一体どういったことに苦しんでいるのかがわかる。そのサポートをしながら、親がレールを敷くのではなく、本人の意思を尊重してきた。そのうえで、子育てにおいて大切なのは、「何ができるか」ではなく、「愛される人間であること」だという。「いちいち他人を敵に回すようでは、困ったときに助けてあげようと思ってもらうことはできません。逆に、できることが少なくて手がかかっても、いわゆる憎めない人には、ピンチのときに誰かが必ず助けてくれると思うんです。特性ゆえにわからないならなおのこと努力が要るのではないでしょうか。そのためには、障害を受容し、許容することが大前提になるのだと思います。まず親が一番最初に、わが子をしっかりと受け止め、許容すること。できないことを受け止め、その中で一緒に歩いていくこと。そしていつか必ず『手を離す』覚悟を持って」(猫ママさん)長男は25歳になり工場用機械を作る会社に就職。次男は21歳で名古屋のアパレルショップで働いている。三男は全日制の高校に通う1年生だ。猫ママさんは10年前から、発達障害や家族のことを知ってもらおうとブログなどを通じて発信を続けている。特性と躁鬱の症状で仕事は途切れがちだったが、現在はクローズ(※障害があることを申告せずに一般雇用で就労すること)でサポート側として2年半継続して勤務している。ゆっくりだけど、みんな学んでいる。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文/桑山知之取材協力/若者支援ネットワーク研究会in東海(監修・三木先生より)「誠意をもって生きること」「愛される人間であること」はすごく大事ですね。どういった苦手さを持っているかももちろん人生に大きく影響するのですが、その困難に直面したときに誰かに助けてもらえたり許してもらえるようなキャラクターだったり振る舞いができたりすることは、実は何よりも強い武器なのかもしれません。
2021年12月22日子どもの”発達障害がある可能性”に気づいた、私の母のケースUpload By 丸山さとこ私には発達障害のある小6の息子がいます。また私自身、大人になってから(息子が生まれる前)自分に発達障害があることが分かりました。息子のコウは、幼少期から「物を並べる・オウム返し・目線が合いにくい」などの発達障害あるあるの行動がよく見られましたが、私は3歳児健診まで息子に発達障害があることに気がつきませんでした。一方で私の母は、私の幼少期に「娘には発達障害があるかもしれない」と感じていたそうです。今回は、私自身の幼少期と母が感じていたことについて書きたいと思います。私と発達障害の関係の始まりは、私が幼児だったころにさかのぼります。今よりもずっと発達障害に関する情報が少なかった昭和50年代でしたが、私の母は「娘は何かしら発達に障害を抱えているのではないか」と感じていたそうです。幼いころの私について、母は「言葉の発達は早いものの言葉づかいが子どもらしくなかったり、力は強いのに歩く姿が不器用でよく転んだりしていたのが気になっていた」と言います。その母は、『さとこが少しでも歩きやすいように』と”少しでも軽い靴を探す”などの工夫をしていたそうです。Upload By 丸山さとこ幼いころの私に対して、コミュニケーションの遅れは特に感じたことがなかったそうです。しかし「とにかく子どもらしくないような違和感があった」「甘えない・後追いをしない・大喜びをしない・おままごとをしない、などの行動に引っかかりを感じていた」と母は振り返って言います。幼いころのコウのように「物を並べる・オウム返し・目線が合いにくい」などの、分かりやすい発達障害がある傾向は見られなくとも、母は私の”日常の中のささいな姿”に対して違和感を覚えることが増えていったそうです。Upload By 丸山さとこ健診で総合病院に行った際など、母は何度か娘の発達に関する違和感について医師に相談してみたそうです。しかし「知的にも順調に発達しているし動作にも問題は見られない」と言われ、”不安症な母親への軽い子育てアドバイス”をもらってその場は終わったそうです。私はその後、成人してから発達障害(ASD・ADHD)の診断を受け、現在ではADHD治療薬を服用しています。今になって振り返れば、幼い私に対して母が抱いていた違和感は正しかったわけです。Upload By 丸山さとこ保育園に入園してからの私は、”指示の通らなさ”や”こだわりと見られる行動”によって集団の中でも目立っていたそうです。現在の基準であれば「発達障害がある可能性」を指摘されたかもしれません。ですが、母が違和感を抱き始めたのは私が未就園児のころであり、集団の中での違和感が目立つよりも、もっと早い段階の話だったのです。『なぜ違和感に気づくことができたのだろうか?』と先日改めて母に聞いたところ、意外な…けれど、とても腑に落ちる答えが返ってきました。”自分の子ども”以外の子どもと接することで、分かることもある!?現在60代の母が若かったころは今より子どもの数が多く、近所や親戚の子どもを預かったり見かけたりすることもかなり多かったそうです。公園や広場や園で見かける姿とも少し違う、子どもたちの”家庭での素の姿”を目にする機会も多かったため、経験から漠然と『個性はいろいろあるけれど、子どもには大抵こういうところがある』という”一般的な子ども像”を持つに至っていたのだと思う…と母は言いました。Upload By 丸山さとこ「だから、さとこを育てていて『子どもなら多かれ少なかれするはずの行動をとらない』ことが引っかかったんだと思う」「発達障害の知識はなかったけれど、とにかく子どもらしくなくて妙だな~…と感じていたよ」…と続く母の話を意外に思いつつ、同時に「あ~、でも、ちょっと分かるかも! そういえばそういうことあったな!!」と思い、私はヒザを打ちました。コウが小学生になったころ、未就園児だった親戚の子を預かったことがあります。そのときに「これが定型発達とされる子どもか~!」と発達の違いに驚いた経験があったからです。私も、大人になってからコウ以外の子どもに関わった経験がなかったわけではありません。親戚の子どものお守りをしたことや、友人の子どもと遊んだ経験はありましたし、コウが産まれてからは公園でほかの子どもの様子を見ることもありました。けれども、当時の私はコウとほかの子どもを比べたり周りを見たりする発想が(今以上に)乏しかった気がします。私自身に発達障害があるから…ということも理由かもしれませんが、単純に、初めての子育てで周りを見たり比べたりする余裕がなかったからなのかもしれません。Upload By 丸山さとこそんな私であっても、3歳児健診のおかげでコウが発達障害である可能性に気づくことができたので、「今の時代でよかったな~」と思います。周囲と比べて焦らなくてもよいと考えてはいますが、その時々のコウの発達状況における"必要な手立て"が見つけられるように「『周りの様子』と『コウの現在位置』を見ることは大切なんだな~!」と思う私でした。執筆/丸山さとこ(監修:井上先生より)幼児期は女の子の場合、男の子よりコミュニケーションの発達が早い傾向があるため、発達障害の特性は目立たないケースが多く、今のお医者さんでも女の子の発達障害を早期に診断するのは難しいものです。お母さんがこの当時、さとこさんの発達の偏りに気づいていたということは、周りの人と比較するだけでなく、さとこさん自身を本当によく観察されていたのだと思います。同じ母という立場で、自分の母親と子育ての話をする中で、これからもプラスのヒントが見つかるといいですね。3世代のよい親子関係性が築けているのがすてきだと思いました。
2021年12月09日元ブラインドサッカー日本代表で、現在は講演家として活動している、落合啓士(@occhi_7ban)さん。自身が体験したエピソードをTwitterに投稿し、話題を呼んでいます。ある日、落合さんが駅のホームを歩いていると、白杖(はくじょう)の前を横切ろうとした人に、杖の先を蹴られてしまいました。それにより、白杖の先端部分が外れてしまったといいます。※写真はイメージ困った落合さんが、周囲に助けを求めたところ、若い男性が外れた先端部分を拾って渡してくれたといいます。そのおかげで、落合さんはケガなどの大事には至らずに済みました。外れた先端部分は小さなパーツですが、それだけで3千円もする貴重な部位とのことです。今日駅のホームで白杖の前を横ぎろうとした人に杖の先をけられて先端のパーツがとんでいっちゃいました。「すいません。このへんに丸いパーツ落ちてませんかぁ?」と大きな声で助けを求めました。優しい若めの男性がひろってくれてほっとしました。だってその丸いのだけで3000円するから。 続く— 落合啓士(ポジティブおっちー)@ブラインドサッカー元日本代表全盲講演家 (@occhi_7ban) October 2, 2021 白杖折られたりしてなきねいりして実費で修理する視覚障害者がほとんど。お金だけじゃなくてこわれたら杖をつく感覚かわるから不安になるし修理にだしにいく時間とか考えるとほんとむだな浪費だから。白杖の前方をぎりぎりだから大丈夫と横ぎるのはやめましょうという理解が進みますように! #拡散— 落合啓士(ポジティブおっちー)@ブラインドサッカー元日本代表全盲講演家 (@occhi_7ban) October 2, 2021白杖は、目の不自由な人が、周囲の情報を入手し、身の安全を確保するために不可欠な用具。白杖を普段持つ機会がない人には、可動範囲や値段が想像しづらく、実際にその立場にならないと分からないこともあるでしょう。視覚障がい者にとっては、先端の小さなパーツがないだけでも、杖をついた際の感触が変わるため、不安や恐怖を感じてしまうといいます。こういった大切な情報と一緒に、他人を想う気持ちも世に広がっていってほしいですね。また、落合さんは「誤解されないように」と、自身のnoteにて下記のように補足しています。これらはけっとばした人がわるいわけじゃないんです。世の中に白杖の前方2mくらいはテリトリーだから横ぎるのはやめましょうって啓蒙活動されてないシステムというかしくみに問題があるんです。盲導犬も声かけサポートも今ではかなり知られてきましたよね。だから今度は白杖のテリトリーを世の中へ知らせていければこういうことはへっていくと思います。落合啓士@全盲講演家|noteーより引用ぼくはこの事故で手に入れたものがあります!それは「若者の優しさにふれることができた」という経験です。だからぼくはどちらかというとハッピーな気持ちになってます。ツイッターでは文字数の関係でネガティブに伝わってたらいやだなって思ってnoteで幸せを伝えさせてもらいました。おきたできごとをどうとらえるかで人生はかわるから♪落合啓士@全盲講演家|noteーより引用落合さんは、今回の事故を『若者の優しさに触れることができたハッピーな出来事』ととらえたのでした。障がいや、白杖についての理解が進み、全員がより気持ちよく過ごせる社会になっていくとよいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年10月14日発達障害のある子どもの障害受容についてUpload By スガカズ私、スガカズは、現在4人の子どもを育てているママです。・長男(中2 ASD、ADHD)・次男(小5 、ADHD)・長女(年長 、定型発達)・三男(年中、定型発達)次男はADHDがあり、通常学級に在籍していますスガカズ(以下、――)発達障害のある子どもの障害受容について相談したいです。わが家の次男はADHDがあり、通常学級に在籍しています。次男の3歳上の長男(ASD、ADHD)には小4のときに私が本人に障害告知をして、小5のときに他者(クラスメイト)に自分の障害について知ってもらう機会がありました。そのときには、クラスメイトに自然と受け入れてもらえたのですが、次男の場合は同じように受け入れてもらえるのか不安な部分があります。「次男ももう小5だし、障害告知をする時期が近づいているのかも…」と思ってはいるのですが、次男は他者の感情に敏感だったり、自己肯定感が低いところがあるので、自分の障害に対してネガティブに受け止めてしまうのではないかという懸念があります。また、友達とケンカをすることもあるので、「発達障害がある次男」を周りに受け入れてもらえるのだろうか?といった漠然とした不安があります。本人に障害告知をする前に親である私からできることはあるでしょうか?三木先生:次男くんは周りの子とどんな関係をもっていますか?Upload By スガカズーー毎年クラスに何人か仲良くしてくれるお友達がいるようです。低学年のころはうまくいかないことが起こると癇癪を起こすこともあったのですが、本人なりにクールダウンしたり折り合いをつけたりと努力している姿が見られますし、先生からもそのようにうかがっています。仮に友達と口論になったとしても、時間をおいて自分から謝る面も見られます。友達がいるのはよいのですが、一方で大人しいタイプの子からこわいと思われている面がありそうです。「クラスの女子が(仮にAさんとします)、オレのことこわがっているかも知れない。この前ちょっとぶつかったときに、Aさんは悪くないのに『ごめんなさい』って謝ってきたんだ。その子に昔なにかした訳じゃないんだけど。」と次男が言っていました。三木先生:なるほど。キャラが立っているほうが敵味方がハッキリしやすいですが、そういったタイプなんでしょうかね。ーーそうですね。敵味方がはっきりしているタイプだとは思います。周りのお友達も、次男が自分からいじわるするタイプではないと理解してくれているようなのですが、次男を苦手な子も一定数いるだろうと思っています。私からは、次男に「周りに優しく接したら女の子にもモテるんじゃない?」「どうしても言い合いになってしまった場合は、ライオンさんの声(大きい声)は出さないでね」とは言ってはいるんですが、まだ行動に落とし込むのは難しそうです。なので発達障害があると周りが知ったときに、「だから恐いんだ。もう関わらないでおこう」と思われるかも知れないなと…。「障害があるからしょうがない」と周りが思うのは、あながち間違いではない…?三木先生:障害受容って、「受容」に「障害」って名前がつくととたんに難しい問題になるんですよね。「障害があるからしょうがないね」っていうのはちょっと違うと思っていて…。「だから恐いんだ。もう関わらないでおこう」と思う気持ちを否定したり、だからと言って「障害があるんだからしょうがないよ」と「気持ちのついていかない受容」を強制するのも逆に差別になってしまいますよね。ーーそうですね。他者の気持ちを強制するつもりはありません。トラブルが起こったとしても次男が障害のせいにするのは避けたいと思います。ただ、過去に「しょうがないね」と思うことで解決した経験がありまして…。Upload By スガカズUpload By スガカズーー次男が小4のときに公園に1人で遊びに行った日がありました。しばらくして私が迎えにいくと次男がその日初めてあった男の子(仮にBくんとします)とケンカをしていました。きっかけは水鉄砲を次男だけ貸してもらえなかったという、子ども同士でよくありそうな理由だったのですが、Bくんとのやりとりを見たときに、次男と似ている発言も見受けられたため、「もしかすると次男と同じように、情緒に課題のあるお子さんかも知れない」と感じました。そのときBくんのことを知っている子が近寄ってきて「Bくんは〇〇小学校の特別支援学級に通っている子だよ」と教えてくれたんです。そのあと、次男とBくんは無事に仲直りしたのですが、家に帰ってきたときに次男は、「特別支援学級に通っている子だって分かったから、次会って同じような態度をとられても怒らないし、仲良くする」と言って納得しているようでした。これって事実(Bくんが特別支援学級に在籍していること)を知らないままだと、次男にとっていじわるな子で終わってしまったと思うんです。三木先生:確かにその時期(学童期)の子どもには「障害」という名前がついているほうが分かりやすいこともありますね。次男くんが納得したように、直感的に「そういうものだからそうしましょう」という考えで、世の中が平和になるわけですし、悪くはないと思います。ただ、それが当事者が開き直る場合だととたんに周りと仲良くできなくなってしまいますから、次男くんが自身の発達障害に対して、「しょうがないでしょ」とならないように保護者のほうで働きかけることは大事ですね。当事者も周りの人も、考えはその人によるし親が強制できるものではないし、強制するべきではないと思うので采配は難しいところですが。「周りに受容してもらう」ではなく、「自分の属性を理解して仲間を作る」Upload By スガカズ三木先生:次男くんのよいところは、「受容してもらえるであろう仲間」が何人かいることです。そこを掘り下げて、「周りは次男くんのどんな能力や人柄を気に入って仲間になっているのか」 「どうすれば理解・評価の幅を広げられるのか」を教えてあげるといいと思います。それによって「周囲の理解やサポート」という間接的なリソースをさらに獲得できるわけで、障害があろうとなかろうと受容してもらいやすい結果につながると思います。次男くんだけでなく外的要因もありますよね。おそらく今までのクラス編成がよかったり担任の先生に恵まれたり、あるいは家庭側でやってきた関わりの結果、彼の味方をしてくれる人たちを失わずに済んだこともあると思うので、今までの学校生活を振り返ってみましょう。ーー次男との話し合いで過去の物事を振り返るとき、「いい友達がいてよかったね。先生は次男のことよく理解してくれているね」といった結論に至ることはよくあります。ただ、先ほど言った大人しいお子さん(Aさん)の話なんかは、「自分は嫌われているかも」というネガティブな情報があるので、考えることは嫌みたいです。Upload By スガカズ三木先生:Aさんとの関係性は、本人が歩み寄れる努力をしたいと思っている問題なら、Aさんに直接「何がそんなに恐いの?」と聞くことも解決策の一つですね。例えばAさんが率直に「怒り方が恐くて」と理由を言ってくれたなら、共通理解ができます。その上で、次男くんが歩みよろうと思うのなら、学校や家庭、あるいは本人自身が「どうするべきか」考える機会ができます。あるいは、「分かってはいるけどできない(怒り方を変えられない)」という段階かもしれません。そうすると別の問題を解決する必要があります。「できない自分に対してどうすべきか?」という問題です。Aさんが「学校に行きたくなくなるほどの問題」なら解決すべき問題ですが、相手にそこまで迷惑でもなく「ちょっと嫌だな」くらいなのであれば、受け入れてもらうことを諦めて距離を取るのも一つの方法です。「あなたも苦手な子はいるでしょ?」「全ての人に受け入れられることは難しい」と教えてあげる、でいいと思います。ーーなるほど…。私は親なので「できるだけ仲間を増やしてほしいな」とどうしても思ってしまいますし、「障害のある次男を受け入れてもらえるにはどうしたらいいんだろう?」と漠然とした心配がありましたが、三木先生に言語化してもらえたことで情報がクリアになりました。Aさんとのことも、現在はクラスが違うので話す機会はほとんどないため、現時点で大きな問題ではなっていないようなのですが、同じような状況が今後発生したときの参考になりました。三木先生:人と共存する中で一番大変なのは小中学校の時期なんじゃないでしょうか。ただ、同じ地域に住んでいるだけなのに否応なく同じ教室に集められ、集団で生活させる訳ですから。大人になればなるほど属性が絞り込まれていくのでだんだん暮らしやすくなっていくはず。良くも悪くも、この先こんなに幅広く人と付き合う環境はなかなかないと思います。無理にその環境に合わせる必要はないですが、本人の意思と次男くんに合った環境整備をしつつその場、その場で寄り添ってあげれば次男くんも少しずつ成長していくんだと思いますよ。感想次男自身が自分の障害を前向きにとらえていけるように、障害告知するタイミングを大事にしたいと思っています。「障害」は三木先生がおっしゃるように、他者の考えを強制できるものではないと思うので学校など外の世界でどんなやりとりが行われるのか親は予想できません。「自分の属性を理解して仲間をつくる」ことをよく考えて寄り添っていき、次男自身がもう少し他者への理解も進む段階(おそらく小6あたり)で障害告知したほうがよさそうだなと感じました。執筆/スガカズ
2021年10月11日全品200円!安くて旨い居酒屋、実は…Upload By 桑山 知之名古屋市千種区にある歓楽街・今池。ディープスポットとして知られる町で、今年2月、明山さんは居酒屋「せんべろ元気」をオープンさせた。冷奴や枝豆といった定番メニューから、油淋鶏や唐揚げ、串カツといった本格料理まで、すべて200円という破格で提供している。もちろん、生ビールやハイボールなどの酒類も200円。「安くて旨い」と評判は上々だ。Upload By 桑山 知之それもそのはず。メニューは値段こそ安いが、同級生が経営する製麺所や食品会社、岐阜県海津市の有名串カツ店などから取り寄せた一級品を提供している。「まともにやったら回らない」。今池で生まれ育った明山さんの人脈があってこその価格設定である。飲み屋街の一角で、ありそうでなかった「昼から飲める」「安くて旨い」店。呑兵衛ならだれもがふらりと入りたくなる。実は、就労継続支援B型の事業所だ。義理ではダメ「福祉に甘えない」場所に明山さんには全盲の祖父がいた。鍼やマッサージの仕事で自立もしていたが、一歩外に一緒に出れば、周りからかわいそうな目で見られることが多かった。子どもながらに社会の偏見に対し、常に違和感を覚えていたことが、障害者福祉の世界に飛び込んだきっかけだった。2002年に福祉の専門学校を卒業後、愛知県内の社会福祉法人に就職し、4年ほど勤務した。2006年に子どもの放課後等デイサービスを運営する「ぜによ」に入社し、2019年4月からは代表を務めている。「児童デイサービス元気」の名称で3カ所のデイサービスを運営しながら、明山さんが重視している「自立のための教育」の一環として何かできないか模索し続けてきた。Upload By 桑山 知之「障害があろうとなかろうと、ちゃんと同じラインに立ったうえでやらなければいけないんじゃないかなと。福祉だからお店来てくれって、お店をやる以上は違うと思うんです」(明山さん)社会福祉法人に勤めていた際、作業所の利用者が山で切ってきた木を使って椅子や机を作っても、結局は安いものしか買ってもらえなかった。言わば「情け」でというのがほとんどだった。「福祉に甘えてはいけない」という思いが沸々と沸き上がった。Upload By 桑山 知之デイの先輩が働く姿が刺激に居酒屋「せんべろ元気」は新型コロナウイルスの影響を受け、営業時間や酒類の提供など不安定な要素もあるが、オープンから約半年が経ちじわじわと地元住民らから支持を集めている。店には現在、2人が働いている。そのうちの1人は、知的障害がある男性(20)。放課後等デイサービスに通っていた小学2年のころから彼が口にしていた「いつかラーメン屋で働きたい」という夢に向け、この店で修行中だ。Upload By 桑山 知之「今まで一緒にデイサービスで遊んでいた先輩がこうやって一生懸命働いているのは、めちゃくちゃ刺激になるんです。金銭教育、お金の使い方も学んで、働くとどうやってお金がもらえるのかという見本が目の前にある。毎年秋に施設で『ショップ元気』という、作ってきた製品を利用者が自ら販売の擬似体験をするイベントがあるんですけど、その進化版をやっているんです」(明山さん)就労継続支援B型とは、障害のある方が一般企業への就職が不安、あるいは困難な場合に、雇用契約を結ばないで軽作業などの就労訓練をおこなうことが可能な福祉サービスのことを言います。作業の対価である「工賃」をもらいながら、 障害や体調にあわせて自分のペースで働くことができます。参考:就労継続支援B型とは?作業内容や工賃の額、対象者、利用手続きなどを解説します | 仕事ナビかわいそうだから、頑張っているからといった“義理”ではいけない。福祉に甘えず、本当にその子が働ける姿を見てもらう。明山さんは、就労の場として接客などの経験を積ませながら、飲食業をはじめとするサービス業の関係者を招き、子どもたちの就職も後押ししていきたいと考えている。Upload By 桑山 知之「同居していた祖父は、鍼灸師として自立していたんです。福祉だからお客さんが来ていたわけではなくて、きっと人一倍の努力をしてお客さんを掴んでいたというか。だから、福祉というフィルターを通さずに社会で通用する人材を輩出していきたいですし、福祉と社会の垣根を取っ払っていくことが僕の使命です」(明山さん)取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海(監修・井上先生より)就労継続支援B型で地域で飲食店をされる場合、地域の方や同業者の理解や協力を得ることに対しては目に見えないご努力があったのかと思います。体調面から、夕方から夜にかけての方が働きやすいという方もいらっしゃることから、選択肢の広げ方としてはユニークな試みだと思います。地域の人たちの交流の場、生きづらさのある方同士の交流の場になっていくといいですね。出張の際にはぜひ行かせていただきたいです。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。
2021年09月30日アメリカのテキサス州に住む5歳のプレスリーちゃんは、生まれた時から目が見えません。そんなプレスリーちゃんには、妹のクレアちゃんがおり、さらに新たに弟ができたばかり。この日、プレスリーちゃんが弟のハンターくんと初めて会うことになりました。ハンターくんの顔や姿が見えない彼女は、どんな風に接するのでしょうか。姉弟の初対面の瞬間がこちらです。 View this post on Instagram A post shared by Good News Movement (@goodnews_movement) 「こんにちは、ハンター。かわいい男の子ね」といい、興奮が隠しきれない様子のプレスリーちゃん。彼女が手に持っているのは、ハンターくんへのプレゼントのラジオ。弟と一緒に音楽が聴きたいのでしょう。そして母親にうながされて、プレスリーちゃんはハンターくんに『ハッピーバースデー』を歌ってあげました。この動画は123万回以上視聴され、コメントが相次いでいます。・愛するためには、目が見えている必要はないんだよ。・彼女は、絶対に素晴らしいお姉さんになるね。・この子は天使のようだ。涙があふれた。 View this post on Instagram A post shared by Caroline Halbert (@carolinehalbert) プレスリーちゃんは、ハンターくんがげっぷをするのを手伝ってあげるのが大好きなのだそう。彼女は5歳になったばかりですが、すでに姉として、面倒見のよさを発揮しているようです。顔や姿が見えなくても、プレスリーちゃんにとってハンターくんは、愛しい存在であることが伝わります。その彼女のあふれんばかりの愛情は、ハンターくんにしっかりと届いていることでしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年09月27日ニュージーランド出身のナタリー・ティー・パアさん。彼女は盲目のシンガーソングライターです。そのナタリーさんが体験した出来事が話題になっています。2021年8月、ナタリーさんは友人と一緒にロンドンにあるレストランで、自身の誕生日のお祝いをしました。食後にデザートが運ばれてくると、ナタリーさんは数人のレストランのスタッフがテーブルの周りに集まっていることに気付きます。すると1人のウエイトレスがナタリーさんに「ちょっと手を出していただけますか」といい、彼女が差し出した手をテーブルに置かれたお皿の上に乗せます。その瞬間、ナタリーさんはハッと驚く表情を浮かべます。彼女の手に触れたものは…。こちらをご覧ください。@natbysightI’ll never forget this moment. ##braille ##blind ##blindtiktok ##viralvideo♬ Epic Emotional - AShamaluevMusic大きなお皿に書かれていたのは、点字の『ハッピーバースデー』のメッセージ。ナタリーさんが目が不自由であることを知ったレストランのシェフが、溶けるチョコレートでお祝いの言葉を書いたのです。この思いがけないサービスにナタリーさんは「ウソでしょ!ありがとうございます」と満面の笑顔を見せました。彼女は「私は、この瞬間を決して忘れないでしょう」と動画を投稿。540万件の『いいね』が集まり、祝福とレストランへの称賛の声が上がりました。・今、仕事の休憩中にこれを見て泣いている。・これは、彼女にとってはすごく大きな意味を持つんだろうね。・これこそが真のおもてなしだ。ナタリーさんは動画の中でこうつづっています。元気を出して。今、世界がどれほど壊れているかにもかかわらず、真の優しさはまだ存在しているわnatbysightーより引用(和訳)レストランで誕生日のお客さんに特別なデザートを出したり、『ハッピーバースデー』を歌ってあげたりすることは珍しくありません。しかし、チョコレートで書いた点字でお祝いしてくれるなんて、めったにない粋なサービスですよね。1人のお客さんに喜んでもらうために、素晴らしいおもてなしを提供したレストランのシェフとスタッフたち。このような優しさが、もっともっとあふれる世界になっていけばいいですね。[文・構成/grape編集部]
2021年09月10日12歳から路上で靴磨き「あなたの靴に魂を…」Upload By 桑山 知之革好きの家庭に育った市原さん。母親がブーツを磨いているのを見て興味を持った。3歳のころから母子家庭で、母親は2人の子どもを養うために仕事を掛け持ちし、帰りはいつも遅かった。妹と母親の帰りを待つ間、市原さんは決まって母親の靴を磨いていたという。「寂しい思いもしたんですけど、お母さんの靴を磨いて、帰ってきたらすごく褒めてくれるというのが嬉しくて。そこで愛情に飢えていた分、褒められたときに愛情が満足したというか。その気持ちを覚えてから、野球のグローブとかスパイクもやり始まりましたね」(市原さん)小学4年のとある日の夜、テレビの特集を見て靴磨きという仕事があることを知った。中学1年から名古屋の高架下の路上で、通行人相手に靴磨きを始めた。「あなたの靴に魂を込めさせてください」とホワイトボードを掲げ、プロではないからと代金は取らなかった。中学時代は陸上部に所属。学校ではうまくなじめなかった。いじめにも遭った。そんなときは決まって、歯ブラシとスパイクを持って教室を抜け出し、体育館の裏でひたすらスパイクを磨いていた。なぜ生きづらいのかが、分からなかった。Upload By 桑山 知之パニックを機に発達障害が判明強みを靴磨きで岐阜市内の通信制の高校に進学し、週2日学校に通った。スーパーや居酒屋、ラーメン屋など、人間関係がうまくいかずアルバイト先を転々としながら、路上で靴磨きを続けていた。高校2年のとき、パニック障害に陥ってしまう。「休み時間に(クラスメートたちが)キャッキャしているのがすごくうるさくて耐えられなくて、暴れちゃって。ガラス割ったりとか、机ぶん投げたりとか。でも分からないんですよ、自分がなぜ暴れているのか。でも体が勝手に動いちゃって。先生4人がかりで押さえられて、僕には何が起きたのか分からない、何をしていたのかあまり覚えていない」(市原さん)Upload By 桑山 知之感覚過敏で周りの音や匂いに敏感なほか、人に見られることが特に気になった。医師からADHDとASDという診断を受けた。うつ病とパニック障害も併発していた。当初は布団から出ることができないほどだったが、母親に支えてもらいながら精神科に通院。約2年かけて日常生活ができるまでに回復した。そのときも、ひたすら靴を磨いていたという。やっと分かった「生きづらさの正体」と向き合うことで、自分の道が見つかった。持ち前の集中力と記憶力が、靴磨きで活かせる。発達障害の特性が、強みに生まれ変わった瞬間だった。高校卒業後、路上で靴磨きを続けていた市原さん。2017年12月、名古屋で有名な靴磨き専門店の主人に声をかけられ、弟子入りを決意した。朝5時半に起き、8時には出勤。深夜まで修業は続いた。帰宅後も一人、寝る間も惜しんで靴と向き合い続けた。発達障害の特性が、市原さんを支えていた。「命を削ってでも磨け」。師匠から教わった言葉だ。初デートで履いた靴、結婚式で履いた靴、亡くなった夫の靴――。客が持ち寄るそれぞれの靴には、さまざまな思いが詰まっている。「半端な気持ちではできない」と、どれだけ靴に魂を込められるのかに、強くこだわりを見せる。命を削ってでも…靴磨きに懸けた人生Upload By 桑山 知之岐阜県関市に今年4月、靴磨き専門店「LEON」をオープンさせた。岐阜県内で唯一の専門店だ。汚れ落としで使うクリームはすべて、知り合いの農家から直接仕入れたハチミツやオレンジなどを調合して手作り。靴を磨くのに使うネル布は、「感覚が変わってしまうから」と学生時代の体操服の切れ端を今も使用している。障害者手帳2級。今も不安で手の震えや動悸などの症状が出ることもある。やらないと気が済まない性格から、中途半端な出来栄えでは一切眠れない。「靴を見れば、その人の性格がわかる」。その技術に魅了された全国各地のファンから郵送での依頼を受け、60足以上を磨く日もある。「発達障害があるからこそ見える世界や、できることがあるんじゃないかなと。でも、普通の親は普通に育てようとして、その個性をつぶしているんじゃないかと思うんですよ。どんどん大人になって、個性がなくなっていく。最低限の礼儀礼節以外、僕のお母さんは制御しませんでした。あえてでしょうね。止めなかった。暴れたりもしましたけど、理由を聞いて何も怒らなかった。僕を自由にさせてやりたかったんだと思います」(市原さん)Upload By 桑山 知之心も磨く職人に「僕にとって障害はギフト」完全予約制で、客と話をしながら靴を磨くスタイルのため、60分間という時間を確保。それでいて相場の半額の2000円という破格の安さだ。取材に際し、筆者もローファーを持ち込んだ。「桑山さん、サイズが合ってないですね。ゆるいんじゃないですか?」靴の使い方から性格まで、すぐに見破られてしまった。「主婦の方だったら旦那さんの悩みごととか。障害のある方は、どういう風に乗り越えてきたか聞かれたりします。完全予約制にしないとそういう風にできないんです。お客さんと会話して、お客さんの心も磨くのが靴磨きですから」(市原さん)現在、弟子を10人以上抱えている市原さん。岐阜県内の放課後等デイサービスなどで発達障害のある子どもたちにも、靴磨きを教えているという。Upload By 桑山 知之「僕にとって障害はギフトだと思っています。神様から贈られたというか、障害者って落ち込む必要はなくて。僕だってもし靴磨きと出合わなかったら、ずっとバイトを転々としていたと思います。そこに時間が掛かる人もいるかもしれないし、意外と近くにあったりする場合も多いかもしれません。例えばすごく掃除にこだわる人もいますけど、それを職業にすればいいと思うんです。私生活の一部が、僕は靴磨きだったので。何をモノにして認めてもらえるか。その中でずっと続けていたのが靴磨きだったんです。まさか職人になるとは思っていませんでしたけど……偶然ですけど、必然だったのかなって思います」(市原さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海監修:三木崇弘(児童精神科医)
2021年08月31日障害のある作家たちの異彩を発信する展覧会「HERALBONY GALLERY in Tokyo -3rd Anniversary Art Exhibition- 」7月19日(月)から渋谷で期間限定開催!Upload By 発達ナビニュース障害のある作家たちの異彩を発信する展覧会「HERALBONY GALLERY in Tokyo -3rd Anniversary Art Exhibition- 」が2021年7月19日(月)~25日(日)の期間、渋谷スペイン坂の多目的スペース「no-ma」にて開催されます。主催のヘラルボニーは、福祉実験ユニット。障害という言葉の裏にある先入観やこれまでの常識を超え、福祉を起点に新たな文化を作り出し続けています。7月24日に設立3周年を迎えることを記念し、今回の展覧会を開催。展示では三重県にある障害のあるアーティストの支援等をする、特定非営利活動法人 希望の園に所属する作家、森啓輔の原画作品展示、ヘラルボニーの取り組みと活動の展示、ヘラルボニーが手掛けるアートライフブランド「HERALBONY」の出店があります。入場は無料。※7月22日~15:00、23日~14:00、7月24日~14:00は、チケット購入に限り来場可能アーティストが放つ「異彩」との出会いがここにある。3周年記念イベントとして、チケット制の有料イベントも開催します。2021年7月22日(木)、23日(金)はスペシャルイベントとして、常設展示のほか、ヘラルボニー代表や特定非営利活動法人 希望の園理事長のあいさつ、コンテンポラリーダンサーによるダンスパフォーマンスなどがあります。設立3周年、当日となる7月24日(土)にはヘラルボニーの「異彩」との出会いとこれまでの3年間、そして今後の展望をテーマに、創業メンバーによるトークイベントを開催します。(尚、緊急事態宣言発出に伴い、イベントの縮小及び一部内容を変更があります。詳しくは、公式ページからご確認ください。)【作品募集のお知らせ】「2021パラアートTOKYO」第8回国際交流展、受付は8月14日(土)までUpload By 発達ナビニュース「パラアート TOKYO」は、世界中から障害のある人による芸術作品を集めて、公益財団法人 日本チャリティ協会が開催する国際交流展。「才能は障がいを超え、国境を越える 」というスローガンのもと、障害のある人の芸術作品(パラアート)の感性、才能価値を世界へ発信しています。「2021パラアートTOKYO」第8回国際交流展の開催が決定し、作品を募集しています。期間は2021年8月14日(土)まで。世界にひとつしかない作品を応募してみませんか。【募集対象】国内外を問わず、障害のある方が制作した平面(書・絵画等)作品。子どもの部:10歳~17歳 / 大人の部:18歳以上【受付】2021年8月14日(土)まで Eメールinfo@paraart.jpまたは郵送【お問合せ先】(公財)日本チャリティ協会「2021 パラアートTOKYO」実行委員会事務局住所:〒160-0004 東京都新宿区四谷 1-19 アーバン四谷 4 階TEL :03-3341-0803FAX :03-3359-7964E-mail: info@paraart.jp昨年開催した「2020 パラアートTOKYO」の全ての作品は、オンラインギャラリーで観ることができます。こちらもぜひご覧ください。発達障害のある人の困りごとにやさしく寄り添う「mahora」ノートが第30回日本文具大賞のデザイン部門、優秀賞を受賞!Upload By 発達ナビニュース「mahora」ノートは、発達障害がある100人の声を聞き、大栗紙工株式会社が一般社団法人UnBalance(アンバランス)と共に開発したノートです。お子さんがノートを使っているとき、なんだか書きにくそうだなと感じることはありませんか?視覚が敏感な場合、白い紙からの反射がまぶしく感じることがあります。特性によっては、罫線が見分けにくいために気づいたら書いている行がかわってしまっていたりすることも…。このような発達障害のある人たちが日ごろノートを使うときに感じているさまざまな困りごとの声から、「mahora」ノートは「光の反射を抑えたやさしい色の中紙」「見分けやすいオリジナルの罫線」「シンプルなデザイン」を採用。老舗ノートメーカーならではの高い技術により丈夫で書き心地よく、目にやさしいノートがうまれました。その機能とデザインで、「みんなが使いやすいノート」として、第30回日本文具大賞でデザイン部門優秀賞を受賞。既存のノートがなんだか使いにくいなと感じているすべての人におすすめのノートです。「書きにくい」が「心地いい」に。カラーとサイズ、全24種類から選べる「mahora」ノートは、以下WEBサイトから購入することができます。京都障害児教育研究センターによる夏季研究集会、8月1日(土)オンラインで開催。特別支援学校や特別支援学級の実践報告、ゲスト講師による講演から障害児教育について考えよう。Upload By 発達ナビニュース京都障害児教育研究センター(障教研センター)が8月1日(土) 10:00~15:40にオンライン学習会を開催します。内容は、実践報告とゲスト講師による講演。特別支援学校、特別支援学級の実践報告では、教育現場で大切にしたいことを考えます。講演で講師をつとめるのは、自閉症児の授業づくりについて研究、各地で講演をする三木裕和さんと、「書く」ことと子どもの育ちについて研究する川地亜弥子さん。発達の視点から子どもをみることを学ぶ講演です。支援者向けの内容ですが、どなたでも参加できるオンライン学習会です。〈詳細〉【日時・場所】2021年8月1日(日)10:00~15:40(途中入場・途中退場可)オンライン(Zoomを用いて行います)【対象】どなたでもご参加ください【講師】三木裕和さん(元鳥取大学地域学部)川地亜弥子さん(神戸大学大学院人間発達環境学研究科)【料金】1,000円(税込)【お問い合わせ先】mail : sho-ken@kyoto-fuko.comtel: 075-751-1645京都府教育会館障教研センター事務局LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年07月18日障害者手帳は3種類Upload By 立石美津子発達障害者手帳、これがあったらどんなにいいかと思いますが、残念ながら存在しません。障害があることを証明する手帳は次の3つのみです。・身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳つまり、知的障害を伴わない、あるいは軽度の発達障害の人のための “発達障害者手帳”というものは存在しないのです。発達障害がある場合、精神障害者保健福祉手帳の対象として分類されています。厚労省精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について障害者手帳があると就活でも活用できる従業員が一定数以上の規模の事業主は、従業員に占める身体障害者・知的障害者・精神障害者の割合を「法定雇用率」以上にする義務があります。(障害者雇用促進法43条第1項)民間企業の法定雇用率は2.3%です。従業員を43.5人以上雇用している事業主は、障害者を1人以上雇用する必要があります。一般枠で企業就労するのが難しい場合、障害者雇用枠で就労することができますが、その際に障害があることを証明する手帳が必須となります。しかし…・視覚障害、聴覚障害、上肢下肢の欠損、体幹障害による歩行困難など身体障害がなければ、身体障害者手帳の対象とはなりません。・(自治体によって異なりますが)東京都の場合、知能指数が76以上だったら療育手帳の対象とはなりません。愛の手帳について | 東京都保健福祉局精神障害があると認めたくない保護者もいる一定の知能指数のため療育手帳対象に該当しない、身体障害もないため身体障害者手帳の該当にならないとなると…残るのは“精神障害者保健福祉手帳”となります。すると、「うちの子は発達障害。精神障害ではない!」と憤る親御さんを見かけたことがあります。これに対して私は心の中で「いやいや、そうじゃないのよ。知的障害のない発達障害児が、障害者雇用促進法のもと、法定雇用率でカウントされて企業就労するには、なんらかの障害者手帳が必要。今の制度上では、知的障害のない発達障害児は精神障害者保健福祉手帳が必要となるのに」と呟きました。知的障害がなくても療育手帳の対象になる地域も発達障害のある人は知的障害がなくても、社会生活を送るにあたって多くの困難を伴います。社会生活での困難と言う面では、知的障害、精神障害、身体障害がある人と同じだと言えます。そのため、知能指数が療育手帳の範疇以上の人に対しても、療育手帳を発行している自治体もあるようです。全国的にこれが広まればよいと感じます。Upload By 立石美津子自己申告制日本の福祉は自己申告制です。親がわが子の障害に気づいて積極的に動くことで取得できます。精神障害者保健福祉手帳について紹介しましたが、こちらが取得できない場合もあると思います。たとえ障害者手帳の対象とならなかったとしても、障害福祉サービス受給者証をとって、福祉とつながっている人だということを示す方法もあります。「精神障害者保健福祉手帳が必要?わが子には精神障害はないのに!」と憤るのではなく、福祉サービス、制度を活用することで、わが子の将来の選択肢を広げられるかもしれません。精神障害者保健福祉手帳で雇用枠での就労を目指したり、受給者証で福祉サービスを活用したり、支援者につながる機会を増やすことが、わが子を守ることにつながるのではないかと思います。
2021年07月01日「頑張れ、フツウになれ」死を考えていた学生時代Upload By 桑山 知之2019年5月、ドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』の取材で、筆者は初めて神山さんと出会った。「学校の先生が文字読めないなんて、悟られたくない。悟られちゃいけない」「どうやって死のう、ばっかり考えてましたね。『頑張れ頑張れ、フツウになれフツウになれ』って言われ続けると、そういうふうにならざるを得ない」彼は、文字が読めない教師。にこやかな表情とは裏腹に、これまで経験してきた生きづらさが言葉の節々からにじみ出ていた。岐阜市で生まれ育った、すぐに熱を出してしまう、体の弱い男の子。自分は文字が読めないと知ったのは、小学2年の道徳の授業だった。B4見開きのプリントの文章を読み、感想を書くという課題で、一時間経って読めたのはわずか3~4行だけだった。「ぼくはみんなと違う」――。それからは、どう叱られずに一日を過ごすかが神山少年の課題となった。教科書が丸々覚えられるようにと、3歳上の姉が音読してオープンリールのテープに吹き込んでくれ、擦り切れるまで聴いて授業に臨んだこともあった。それも小学校高学年になると、文量が増えて立ち行かなくなってしまう。Upload By 桑山 知之「先生たちにも『あいつはどうしようもないやつだ』って言われて。『学校に来る価値のない人間』とか『教室に入るな』とか、そういった言葉は日常茶飯事で。先生がそういう風にみんなの前で叱って、つるし上げたりすると、クラスの雰囲気もそうなって、いじめられました。みんなにバカにされていました」(神山さん)神山さんの母親は、端的に言えば世間体を気にしていたという。学校で何かがあると自宅に電話が入り、家に帰れば「あんたなんか産まなきゃよかった」「あんたのせいで近所も歩けない」と罵られた。中学、高校も含めて学生時代は「どうやって死のうか」とずっと考えていた神山さん。紆余曲折を経て選んだ道は、陸上自衛隊。活字とは縁遠い職業だった。つらい思いは自分で最後に…決断、そして教師へUpload By 桑山 知之18歳の神山青年は、2等陸士として京都・宇治市にある駐屯地にいた。誰も自分のことを知らないところへ行って、人生を再出発させる。体力に自信がある神山さんにとって、文字を使わないこの仕事はまさに天職だった。2年ほど過ごし、自衛隊の中で成人式をやってくれることになった。「上官が『今までの20年間をしっかりと振り返って、今後どう生きていくか人生設計を立てなさい』と話をしてくれて、考える時間もくださって。そこで、自分のようにあんなにつらい思いをするのは自分で最後にしよう、そういう教育者になりたいな、自分がそういう教育を変えていけるようにしたいなと思ったんです」(神山さん)Upload By 桑山 知之すぐに上官と相談して、夜間の短大に通い始めた。朝6時に起きて夕方まで訓練をやったあと、大学に行き、帰ってくるのはいつも23~24時だった。それでも、「同じ苦しみを抱えている子たちを放っておけない」という一心で頑張れた。そして23歳の頃、教員採用試験に合格した。しかし、教え子に対しては、なかなか自分の苦手さを伝えられずにいたという。「教科書は前日に丸暗記して、読んでいるフリをしていました。技術科の教師だったので、技術科の教科書と、自分が担任するクラスの道徳の授業ですね。行頭の文字とかキーワードだけで、そのあとの文章が出るように覚えたり。丸々暗記しようと思うと大変ですけど、段落の頭でその段落が思い出せるように、ブロックで覚えるのを毎授業やってました」(神山さん)27歳で知った自分はディスレクシアUpload By 桑山 知之自己の学習障害を隠したまま、神山さんは通常学級を6年間受け持った。そんなとき、NHKのとある番組でアメリカの小学校のことが報じられていた。それがディスレクシア(識字障害)だった。「そこではディスレクシアとかいう言葉は使われていなかったですね。読み障害とかそういう感じ。でもアメリカは移民の国なので、そういう子たちのプログラムで教育は保障できるっていう。その子たちの特性はこうです、というもの全部が自分に当てはまるから、本当に驚きました」(神山さん)その後、神山先生は特別支援学級を受け持つようになる。テレビでディスレクシアを知って「自分の中でつっかえていたものが取れた」ため、自分の苦手なこともすべてオープンに話した。劣等感を抱えている子どもたちの心に寄り添うことができた。Upload By 桑山 知之特別支援学級を5年間受け持ったあと、特別支援学校で17年間にわたり勤務。そして、主幹教諭という立場で3年間、岐阜市内の小中高などを回っていろんなアドバイスや支援をおこなった。いつしか神山さんの存在は全国各地で知られるようになり、講演依頼が絶えないほどになった。現在は、岐阜市内の小学校の用務員をやりながら、子どもたちや保護者らの相談を受けている。「日本の教育って無意識に人との比較をしてしまっているんですよね。人との比較で自分を評価することを学んでしまっているんです。それよりも、過去の自分と比べる方が自然かなって。もっと言えば、『あなたはそのままでいいんだよ』ではなくて、『あなたはあなただからいいんだよ』って僕は言いたいです」(神山さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年06月23日「できるけど疲れる」ことがたくさんある筆者が吉川先生を知ったのは、2018年11月にNHK総合で放送された『発達障害って何だろうスペシャル』だった。千原ジュニアさんや南沢奈央さんらをMCに据え、スタジオには小島慶子さんのほか、筆者がテレビ取材もさせていただいた“トリプル発達障害”の漫画家・沖田×華さんも出演。そこでの吉川先生の発言に、思わず膝を打った。「発達障害のある方に関して『何かができるかできないか』っていうことだけで見ると、見誤るんですね。『できる』と『できない』の間に『できるけど疲れる』ことがたくさんある」(吉川先生番組内で)誤解を恐れずに言えば、吉川先生はちょっと異質的な存在だ。元々教員になりたかったが、学校教員の文化が自分に合わないことに高校時代に気づき、子どもの精神科医という道を選んだ。大学教員などを経て「自分は研究者向きではない」と感じたといい、現在では多くの発達障害当事者や養育者に支持されている。Upload By 桑山 知之「“正確さを犠牲にした分かりやすさ”っていうのを意識しているんです。専門の研究者って、正確さを大事にしなきゃいけない立場ですよね。正確さを犠牲にできないじゃないですか。でも僕は研究者ではないから、『誤解を招きかねないけど分かりやすい』ということがいくらか許される立場なんです。研究者になってしまうとできない表現や書き方ができるというのが、研究者ではない医者の特権かなと」(吉川先生)確かに、前述の「できるけど疲れる」ことがたくさんあるというのは、それに当てはまらないケースがあるのも事実だ。しかしながら、発達障害の苦しみを理解するうえでは非常に分かりやすい表現だといえる。福祉や法律といったあらゆる領域をまたいでいるからこその見識の深さを、自身は「ひとつの領域を突き詰めるというのがあんまりできなくて……」と謙遜する。Upload By 桑山 知之この子、発達障害かも?まずは「人手集め」から我が子にADHDや自閉症スペクトラム障害のような特性がみられた場合、多くの養育者はまず子どものことを理解しようと、発達障害の知識を蓄えることからスタートしてしまいがちだ。しかし、吉川先生によれば、まず「人手をできる限りたくさん集める」ことが入口として一番“無難”だという。「人手が足りないときに知識だけ集めたり、トレーニングだけ受けたりすると、わりとややこしいことになるんですよね。例えばこの子に何か新しいことを好きになってもらおうとすると、ちょっと演出しないと難しいよって。お母さんが歯磨きをしたあとに、すぐに僕もやる!ってなる子は歯磨きを覚えさせるのも難しくないんだけど、真似っこしたい気持ちが弱い子に対しては歯磨きって楽しいんだよっていうか、何かひと手間ふた手間かけないと歯磨きが好きにならないし、できるようにならないかもしれない。だから今、この子の子育てで何かを好きにさせるためにもできるようになるためにも、もっと言うと虫歯にさせたり怪我をさせたりしないためにも、余分に人手が要りますよねっていうところを共通認識にしていくことが入口なんですよね」(吉川先生)Upload By 桑山 知之あくまで順序としては人手、すなわちマンパワーを集めることが最優先事項。それがひと段落したあと、知識や技術を身につけていく。そのためにも、家族以外からサポートを受けることが精神的な支えになるそうだ。一般的には母親が先に気づいて父親はあとからついてくることが多いが、夫婦間だけでなく祖父母世代との間でも「足並みが揃うまでに時間がかかる」ことは多い。「早い時期に関わる支援者はつい子どもの特性とか子どもに対する関わり方をどんどん伝えたくなるんですけど、それよりも先にどうやってお父さんと足並みを揃えるのか、おじいちゃんおばあちゃんへの説明をどうしようか、っていう相談に応じていただいたほうがいいと思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之「できたら褒める」は要注意「挑戦したら褒める」にシフトをドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』を放送したのは2019年5月。発達障害は、ここ5年ほどの間に急速な認知が広がったように筆者は感じている。こうした中、人手を含めたリソースの供給などが追いついていないと吉川先生は話す。「社会の認め方もそうですけど、当事者やその身近な方の認め方も確実に変わってきているというのは、確実にそうですね。ただ、変わってきているのも、いいところも悪いところも両方あるかなって思っています。必要な方が援助にたどり着きやすくなったってことはあると思うんですが、急速に知識だけが広がってきたので、支援のためのリソースがまだ充分足りていない。文化の変化というか、そういう人たちがたくさんいるんだっていうのを含んだ“文化の成熟”っていうのも遅れているんじゃないかなと」(吉川先生)Upload By 桑山 知之吉川先生は、発達障害の有無にかかわらず子育てをする中でつい陥りがちなことがあると指摘する。それは、「できたら褒める」ということだ。「できたら褒められるっていうのを子どもが学びすぎると、大人が好きなのは完成と達成と勝利だけと思ってしまうんですよね。そうすると、どうせ達成できないから僕はやらない!ということになってしまう。発達障害のあるお子さんの中には、難しそうな課題は手を出さなくなる子が一定の割合でいるんです。どちらかというと、『挑戦したら褒める』作戦でいく方が、子どもを育てやすくなると思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之完成と達成にフォーカスするよりも、何かに取り掛かり始めたところで応援することに軸足を置いた方が育てやすいという。特に、きょうだいの中に発達障害と定型発達の子がいたり、知的障害のある子がいる場合、完成と達成を評価してしまうと他方への褒め方が見つからなくなる。それよりも、挑戦に対して「ナイストライ」「いいチャレンジだったね」と声を掛ける方が“辻褄が合いやすい”と吉川先生は話している。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年05月17日数々の訓練を受け、視覚障がいを持つ人を安全に誘導してくれる、盲導犬。また外でむやみに吠えないようしつけてある場合が多く、街中で落ち着いた行動をしています。車内で脚を踏まれた盲導犬、注意喚起に反響電車内で盲導犬に出会ったシマ(@kainekonoshima)さんが、以前にあった出来事をTwitterへ投稿。内容に「酷い」「注意したい」といった声が上がりました。投稿者さんが、電車に乗っていた時のこと。その日、車内には盲導犬とそのユーザーがいました。※写真は別の日に撮影したもの席に座るユーザーの足元で大人しくしていた、盲導犬。すると次の瞬間、歩きスマホをしていた人が、犬の存在に気が付かなかったのか、盲導犬の前脚を踏んで行ったというのです。会社帰りに電車の中で良く会う盲導犬の子で席を譲るのは当たり前なんだけどいつもこの状態で手を投げ出してるので前に歩きスマホで乗り降りする奴が脚を踏んだんだよ!声1つ出さないで耐える姿を見て今はドアが開く度にわざと前に立って踏まれないようにしてる本当に歩きスマホは止めて欲しいよ! pic.twitter.com/o0yIZcUMc8 — シマ (@kainekonoshima) May 7, 2021 その盲導犬は、痛みを感じていたと思いますが、声も上げずただ静かに耐えていたのだとか。ユーザーにとって、盲導犬はまさに自分の目そのもの。もしも盲導犬が脚にケガをして、動けなくなってしまっては大変です。また、盲導犬は大切なパートナーでもあります。パートナーが傷付けられるのはとても悲しく、つらいことです。投稿者さんは、この一件から「本当に歩きスマホはやめてほしいです」と注意喚起をしています。投稿に対して、ネット上ではこのような声が寄せられました。・もしもケガをしていたらと思うと、胸が痛くなりました。酷すぎる。・痛かっただろうに…。歩きスマホは自分自身も周囲の人にとっても危ない。本当にやめてほしい。・きっとすぐに立ち上がれるように前脚を出していたんだろうな。自分も盲導犬に出会った時は気を付けたいと思います。歩きスマホは、事故につながるケースもあり危険なため、絶対にやめましょう。特に混み合う車内などでは、周囲の状況に気を配れるようにしておきたいですね。盲導犬に出会った時は日本盲導犬協会は、街中で盲導犬を見かけた時はユーザーが助けを必要としている場合を除き、『温かく見守っておくこと』を呼び掛けています。また、電車内で脚を踏まれた盲導犬に出会った時や、誤って踏んでしまった場合は、ユーザーへ声がけをしましょう。正しい知識が広がり、さまざまな人が安心して過ごせる社会にしていきたいものですね。[文・構成/grape編集部]
2021年05月16日いじめで引きこもりに…「半分死んでいた」飲食関係の会社で働く父親と、元保育士の母親のもとで育った古橋さん。6歳上の姉とともに暮らしていた。中学1年の10月ごろから不登校になった。原因は、小学生時代から続いたいじめだった。「人がもうダメになって。小学校6年の終わりにいじめが始まったんです。小学校の人たちと縁が切れて、中学校に入ったら中学校で縁ができた人たちにもいじめられて……。あぁ、ちょっと無理、ってなって。自分の中で、引きこもりになるってことはすごくいけないことをしたっていう、人を殺すよりもいけないことをしたって考えていました。当時は、信号の赤を渡ったら地獄に落ちるぐらいの勢いで凹んでいたから。だからもう引きこもりになるってことは死ぬっていうか、半分死んでいるみたいな。生きてはいるけど。なんか死んではいないだけって感じで捉えていました」(古橋さん)Upload By 桑山 知之よく忘れ物をする子供だったという古橋さん。引きこもっている間に、自閉症スペクトラム障害だと診断を受けた。19歳の頃、鬱のため通院もしたが、なんとか苦しみを乗り越え、愛知県内にある通信制の高校や放送大学を卒業した。その後、就労支援のサービスを受け、エクセルやワードなどの資格を取得。2019年、晴れて貸し会議室などを運営・管理する会社にパートとして就職した。業界大手の一流企業だ。「その会社は時給社員っていう肩書きがある会社でした。社員だけどパートっていう、契約社員でも正社員でもなかった。営業の人が使う情報を入力して、資料を作成するような仕事ですね。そういったところでVBA(ビジュアルベーシック・フォー・アプリケーションズの略。Microsoft Officeに含まれるアプリケーションソフトの拡張機能のこと)を 使って、メールの下書きが自動で作れるようにしたりしていました」Upload By 桑山 知之襲い掛かった“コロナショック”就職から1年余りで週4日勤務、時給900円。手取り月収はおよそ7万円。決して裕福な生活こそできないが、それでも古橋さんは「正社員のような長時間労働は自分には難しいだろう」と、無理をせずに仕事に励んでいた。しかし、世界的なパンデミックの波が、古橋さんを襲った。「去年の春からコロナが流行って、不要不急の業務はやめるってことになって、お休みになったんです。それからずっと自宅待機になって、結局9月に退職しました。貸し会議の業界自体がお客さんを集めて運営するようなものなので……。人が集まれない状態ですから」(古橋さん)Upload By 桑山 知之「密を避ける」という時節柄、部屋に人が集まって会議をするという需要は激減した。自宅待機中、古橋さんは雇用調整助成金のおかげで給料のうち6割は支給されていたものの、「会社も運営が難しくなって人員を減らさないといけなくなり、その関係で切られた」という。現に、古橋さんと同じ立場であるパートは全員退職していた。「そりゃショックでしたよ。でも、しょうがないかなっていう思いが強かったですね。だってコロナの状況でしたし。なんでこうなったのかっていうのも、自分のせいじゃないってわかるし。じゃあ、就職活動頑張らなきゃなって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之コロナと距離「自分を受け入れてほしい」元々は正社員志望だったという古橋さんだったが、飲食関係の中小企業で正社員として働く父親が朝から仕事に出て、翌日未明の2時や3時まで自宅に戻らない姿を見て、子どもながらに「これは無理だ」と悟った。社会情勢の影響を受けるのは経済面などで「弱い立場」の人間であることが多い。旧来の“当たり前の幸せ”すらまともに享受できない現代において、新型コロナウイルスは、こうした社会と市民との距離をはっきりと顕在化させているのではないかと筆者は思う。「いま、社会に望むことはあるか」との問いに、古橋さんはこう即答した。「そりゃあ自分を受け入れてほしいってことじゃないですか。社会に出て、パートナーを得て、家族ができて、成功できればなって。社会に受け入れられるっていうのは、僕はその2つだと思います」(古橋さん)社会との距離をあぶり出した、新型コロナウイルス。引きこもりで通信教育だったため友達作りの場が不足していた古橋さんは、親以外に相談相手がいない。取材中も「僕たちには相談相手が必要だ」としきりに話していた。古橋さんに愛情を注ぎ続けていた母親は、取材時にガンで入院中だった。その後、3月18日に息を引き取ったという。Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之正しいからおもしろい行き着いた“適者生存”古橋さんは、去年11月から再び就労支援のサービスを受け始めた。幸い、以前も担当していたスタッフが在籍しており、また受け持つことになったそうだ。古橋さんがいま大切にしていること。それは「正しくないとおもしろくない」ということだ。「別に誰かに正しさを教えられたわけじゃないけど、自分の中でいつのまにか形成されたこだわりなんです。正しくないと楽しくないし、おもしろくないんです。正しくないよりは正しいことを楽しく感じますし」(古橋さん)Upload By 桑山 知之図書館に行っては歴史や社会、政治、自然科学といった専門書ばかりを読み漁る。その中で、ある言葉と出会った。いまの古橋さんの心を支えているという。「自分が最近好きな言葉が『適者生存』で。適しているから生き残るっていう意味らしいんですけど、実はそうじゃないんですよね。生物学の本に書いてあったんですけど、『生き残ってるのがすべて適者なんだ』って考え方なんです。適してないものは滅ぶんじゃなくて、すでに滅んでるんだって。だから、発達障害があるってことは環境に適していないっていうことではなくて、『生きているってことはすでに適している』っていう意味で適者なんだって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月25日今一度「視覚支援」に取り組んでいるこのごろですUpload By 丸山さとこ「発達障害がある子どもに対しては視覚支援をすると良い」という話をよく聞きます。視覚優位なタイプの子であれば尚更”視覚支援は定石”くらいの感じで言われることも多いのではないかと思います。具体的には”子どもそれぞれに合わせた形”で支援方法を取り入れることを前提としつつも「まずは視覚支援」という流れになりやすい療育の世界の中で、コウは視覚支援があまり効果的ではありませんでした。コウは、幼いころから今に至るまで”耳で聞いた話”を理解したり覚えたりすることが苦手です。口頭での説明だけでは「え?何の話し?」「なんだったっけ…」と混乱することも多い彼ですが、文字やイラストを使って説明することで理解しやすくなります。これも視覚支援の方法のひとつで、これは幼児のころから有効でした。Upload By 丸山さとこ一方、ルールや手順を示すタイプの視覚支援は、4歳から9歳ごろまで全然効きませんでした。コップを置く場所を示すためにテープを貼れば『ここには置きたくない』とはがし、手順を示すボードは(理解できるものの)無視し、やることを示したカードは全く興味を示しませんでした。「コップはここにおいて」「次にやることはどれ?」などと声をかければ動くことはできたので、”絶対にやりたくないことなので抵抗していた”というわけではないようです。当時のコウにとって、従いたくない視覚支援の内容は”無視をすればいいもの”だったのかもしれません。そんなコウと視覚支援の関係でしたが、高学年になってから少しずつ「視覚支援がはまること」が増えてきました。Upload By 丸山さとこ・触らないでほしいスイッチの上に「さわらない」と書いたマスキングテープを貼る・「ここに置いてね」という場所をビニールテープで囲む・「ここからこっちは物を置かないでね」と机の上にラインを引いて目印にするそんな、”発達障害児への視覚支援”と聞いたときにスッとイメージされそうな「ベタな視覚支援」が、急に効くようになってきたのです。どの支援方法が有効かは、やってみないと分からないUpload By 丸山さとこ発達障害児への支援方法はいろいろありますが、どの支援方法が有効かは子どもによっても違うし、時期によっても違います。文字にすれば凄く当たり前のことなのですが、ルールや手順を示す視覚支援に対して「理解はできるけど全力で無視する期間」の長かったコウが相手だったため、完全に”ダメでもともと”の気持ちでやってみた支援でした。何色のテープをどう貼るかコウと相談しては、『意外だな~やってみるもんだな~』と不思議な気持ちでテープを貼っていく私でした。
2021年03月25日盲導犬と生活をしている、浅井純子(@nofkOzrKtKUViTE)さん。自身の経験についてTwitterに投稿したところ反響が上がりました。全盲の浅井さんは、音声入力でTwitterを更新し、投稿なども音声読み上げ機能を使って聞くことで、快適な生活を送れているといいます。先天的ではなく後天的に全盲となった浅井さん。そのため、全盲になる前は世界は真っ暗闇になると想像していたそうです。しかし、実際に全盲になるとそこに広がっていた世界は違いました。人によって異なるそうですが、浅井さんの場合は真っ白な世界が広がっていたのです。浅井さんは、「障がいのある世界って、実は皆さんの想像とは違う世界なんです」とつづりました。全盲になったら、世界が何色になるかって、ご存知ですか?私は正直、全盲になる前は真っ暗闇を想像していた。けれど、実際になってみたら真っ白な世界。これは人によって違うらしい。(ピンクや青色の人もいるとか。)障害のある世界って、実は皆さんの想像とは違う世界なんです。。@nofkOzrKtKUViTEーより引用「脳が疲れていると少し暗い白になり、脳が活発だととても明るい白になる」という浅井さん。目が少し見えていて真っ白な状態の時は、霧の中のような世界だそうです。投稿には、「知らなかった」という声が相次ぎました。・貴重なお話をありがとうございます。てっきり暗い世界だと思っていました。・勉強になります。難聴の人も、無音ではないといいますよね。・以前、一時的に失明した時に白い世界だったのを思い出しました。世の中には、私たちが想像するだけでは分からないこともたくさんあるでしょう。当事者の声を聞くことの大切さを実感しますね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月23日社会の常識を疑う…兄の自由帳に書かれた“謎の言葉”筆者がヘラルボニーという存在を初めて知ったのは、とある意見広告だった。2019年12月当時の背景としては、内閣府が「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した問題について、安倍晋三首相(当時)は、名簿をシュレッダーで廃棄した人物は「障害者雇用の職員で、短時間勤務だった」と答弁したのだった。そうした中、東京・霞が関の弁護士会館の前に掲示されたのがこの意見広告だ。「この国のいちばんの障害は、『障害者』という言葉だ。」Upload By 桑山 知之29歳、岩手県出身の一卵性双生児。4歳上に、重度自閉症と重度知的障害のある兄・翔太さん(33)を持つ。崇弥さんと文登さんは、保育園から小学校、中学校、高校までをともに岩手県で過ごし、その後は別々の道を歩んでいた。Upload By 桑山 知之文登さんは東北学院大学(宮城・仙台市)に進学後、大手ゼネコンに就職。一方、崇弥さんは東北芸術工科大学(山形市)の企画構想学科へと進学した。そこで放送作家を軸にマルチに活動する小山薫堂さんのゼミに所属。卒業展示では、社会の“常識”を疑う「常識展」を企画した。インドと日本の水を比べるものや、駅に花を植えることに心からの喜びを感じているホームレスなど、常識を問うさまざまな作品を並べた。その主軸こそが、自らの兄だった。「常識展っていうタイトルやアイデアの出発点も、兄貴がかわいそうではないという伝え方をしたいっていうところから入っているので。障害=かわいそう、とか、障害=欠落、というものをそうではないという世界観を提示したいって思って。だから兄貴を題材にすると決めて最初からスタートしていました。昔からそういうのを提示したい思いはありましたね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之現在の屋号「ヘラルボニー」。一度耳にしたら忘れない“謎の言葉”に出合ったのは、この卒業展示の制作のため実家を訪れたときだった。「兄貴の部屋の押し入れをバーッて探していたんですよ、いろんなものを。母親もよく残していたなと思うんですけど、何十冊も自由帳とか絵日記とかあって。けっこう絵日記も世界観がおもしろいものが多くて、これなんかフォントおもしろいですよね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之「障害者だって同じ人間なんだ」中学時代に母とすれ違いも2人が幼いころから、自閉症の兄とともに福祉団体に遊びに行くのが毎週末の決まり事だった。そこでは、自閉症に限らずダウン症や精神障害などさまざまな人が集っていた。2人にとっては、そこで“障害”というものはあまり関係なく接しているのが当たり前だった。ただ、小学4年のころに覚えた違和感を、文登さんは作文に綴っていた。「団体の人と土日一緒に出掛けていたときに、目線とか……同い年ぐらいの人が指を差して、僕らの兄の集団を笑っていたんです。それに対して腹が立って。小4ながらに自分の中で思ってた感情っていうものがけっこう多くあったんだろうなって。僕ら双子の中でのフツウの感覚と、社会側のフツウの感覚のズレみたいなものとか、単純に『兄をバカにすんなよ』っていう思いもそこに乗っかっているのかなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之2人はやがて中学校に進学し、卓球部に所属した。兄は県内の特別支援学校へと進学。しかしここで、関係性は一度悪化してしまったという。「僕らの中学校は自閉症スペクトラムのことを『スぺ』って言ったりする子がいて、『お前、スぺの教室行けよ』みたいな。自閉症=欠落、スぺ=欠落みたいな風な使い方をするような中学校だったんです。試合の応援にも母親が兄貴をよく連れてきていたんですけど、僕もすごい兄貴が応援に来ることにアレルギーが起きるようになったんですね。それで母親に『兄貴連れてこないでよ』ってすごい言っていたんですけど、母親はしきりに『隠すことじゃないよ』って逆上するわけですよ」(崇弥さん)「自分たちの心の弱さから、小4のころはふざけんなよって言えても、中学ぐらいになって言えなくなってしまう自分もけっこういて。『スぺ』っていうものが蔓延して、スぺのきょうだいだって思われるのがすごく嫌になってしまった時期があって」(文登さん)Upload By 桑山 知之障害者の兄がいることは決して恥ずべきことではない。そんな思いから、部活を引退するまで母親は兄を連れて試合に応援へ駆けつけ続けたのではないかと2人は推測する。しかし、地元から200キロ離れた高校へ進学すると、自然にこの“すれ違い”はなくなった。「周りから言われることを避けるために、兄貴を迫害することによって自分を守っていた」と崇弥さんは振り返る。「中学時代も、兄貴のことを嫌いになったりとか、兄貴のことを大切に思ってない、ではないんですよね。兄貴のことはずーっと大切で、好きな状態はずっと今も思っていて。ただ、中学のころは防衛本能が働いていたっていうか……。高校に上がると、その当時の友達とかもいなくなったので、環境が変わったので普通に兄のことも言えるようになったんですよ。なので、自分で過ごしている環境ってすごく大事なんだろうなってホント感じますね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之子育てに正解はないという。「もしかすると正解は『ずっと連れて来るもの』って書かれるかもしれないけど…」としながら、きょうだいにはきょうだいの生活があり、親としてはその立場を考えるのもアリではないかと崇弥さんは語った。文登さんはそれを「逆張りだ」と笑いながら、親子で話し合う場の必要性を思案していた。前身ブランドからヘラルボニーができるまで崇弥さんは、小山薫堂さんが代表を務めるオレンジ・アンド・パートナーズという広告会社に4年半勤務した。かつて薫堂さんが住んでいた東京・赤坂のアパートも紹介してもらい、住んでいたという。社会人2年目の夏、岩手へ帰郷した際、衝撃を受けた。「岩手県にある『るんびにい美術館』(岩手・花巻市)っていう、それこそ知的障害のある作家が描いた作品が展示されている、社会福祉法人が運営している美術館がありまして。そこに行ったときにものすごい衝撃を受けて、これはおもしろい!っていう風に思ったんです。一発目に文登に電話をかけて、『なんかやろう!』って。何かを立ち上げようと」(崇弥さん)あの衝撃からちょうど1年後、2人はヘラルボニーの前身となるブランド『MUKU』を立ち上げた。ラッパーの晋平太さんを介して、『見えない障害と生きる。』にも出演したGOMESSさんに依頼し、楽曲も誕生した。見た人を惹きつけるプロダクトはすぐに話題となった。しかし一方で、崇弥さんはもどかしさを感じていたという。「当時は副業だったので、もっと全然いけるのに……っていつも思っていたんですよ。もっとコミットしたら絶対にいけるのに、でもこんなにリソースを割けないから悔しいなっていつも思っていて」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之そこから2年後の2018年7月、謎の言葉「ヘラルボニー」を掲げた会社を設立した。翌年には経済誌『Forbes』が選ぶ「世界を変える30才未満の30人」に双子起業家として選ばれたほか、先述の意見広告でも一大ムーブメントを巻き起こした。建設現場の仮囲いを期間限定のミュージアムと捉えたプロジェクトも話題を呼んだ。そして何より、障害のある作家がつくるアートを生かした製品は、飛ぶ鳥を落とす勢いでファンを獲得し続けている。その大きな要因として、「着想の出発点」が違うからだと筆者は思う。「時代に後押しされているというのはものすごく感じます。もともとSDGsやりたいとかそういう思いで始めたわけでは全然ないけれども、社会側がSDGsっていう文脈を持ってきてくれているし、ダイバーシティやりたいって思ってダイバーシティって言ったこともないけれども、社会側がダイバーシティ&インクルージョンっていう文脈をウチに紐づけてくれるし。社会側が色んな文脈をウチの会社にありがたいことに紐づけてくれたっていうところがすごくある」(崇弥さん)「10年前やっていたら全然違う結果になっているだろうけれども、今っていう時代にやれているからこそっていうのもあるだろうなと。僕ら双子揃って運が良くて、いろんな方に恵まれているというか、自分たち双子としては大したことないんですけど、関わってくれている皆さんが本当に素晴らしい人が多いんです」(文登さん)Upload By 桑山 知之異彩放つ活躍数字で語れる会社に人気セレクトショップ『TOMORROWLAND』での製品販売や、吉本興業とのコラボブランド『DARE?』など、ヘラルボニーの躍進は止まらない。今年度の売り上げは1億円を超えるという。もちろん、アーティストへの還元も忘れない。「正直ホント数字面ではまだまだなんで。数字で語れる会社になれたらいいなってすごい思いますね。あそこは数字も素晴らしいよね、障害のある作家にもめっちゃ還元するよね、っていう会社になりたい」(崇弥さん)「今後の目標設定とかもすべて透明化させたいなと来期から思っていて。障害のある作家さんにどれぐらいバックしていて、これまでどれだけバックしてきたか、みたいなところとかも全部見える化して、それに対する社会的なインパクトとかもつくっていきたいなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之兄・翔太さんは現在、岩手県奥州市にある就労継続支援施設(B型)「わかくさ」で、コーヒーのパック詰めや空き缶つぶしをしている。週に3回はグループホーム、残りは自宅で暮らしているという。きっと弟2人の“異彩を放つ”活躍を、誇らしく感じているだろう。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月21日フツウの学生時代から一変就職先から告げられた「辞めてほしい」名古屋市で生まれた石橋さんは、義務教育を経て高校に進学した。成績がすこぶる優秀だったというわけではないが、勉学でつまずいたり、校内で問題を起こしてしまうようなタイプではなかったという。「学生時代を振り返ったんですけど、特になくて。例えば先生に呼び出されるようなタイプでもないですし、赤点を取っていたタイプでもなかったんです。何人かの友達に『学生時代、俺ってどうだった?』って聞いてみたんですけど、別に普通だって」(石橋さん)大学受験にも合格。「困っている人の役に立てれば」と、医療・福祉系の学部を選んだ。より広い視野で社会福祉を学ぼうと、セミナーに参加するため米・ハワイの大学まで足を運ぶなど、向学心はむしろ人一倍強かった。そんな石橋さんが異変に気付いたのは、愛知県内の病院に就職してからだった。「普通の人と比べると物覚えが遅いとか、向こうから指摘をされて。これだけミスもあるし、病院としては正直辞めてほしいっていう話がありました」(石橋さん)Upload By 桑山 知之「グレーゾーンかもしれない」就職後に自閉スペクトラム症の診断石橋さんの就職先は、病院にある「医療相談室」だった。ソーシャルワーカーとして、入院患者や家族の希望を聞き取るほか、家族間や金銭的な悩みなどにも応えるといった、あらゆる問題を調整する業務にあたっていた。複数の入院患者のことを同時並行で進めなければならず、またそれが次から次へと続くわけだが、石橋さんが受け持つ患者の数は先輩と比べて少なかったという。「先輩たちは10人とか15人を同時に担当していたんですが、僕は正直なところ5人でも回せていなかったんです。5人分の困りごと、例えばこの人はこれが困っている、家族さんの背景はこうで、この家族さんにはここの支援機関だとか。人によって別のところと話さなきゃいけないし、この人は市役所のこの部署と話さなきゃいけないしとか、同時にやっていくのが困難だったっていうのは確かにあります」(石橋さん)Upload By 桑山 知之そして就職から半年以上が経ったある日、石橋さんはパニック発作を起こした。「当時、僕がパニック発作って分からなくて、病院に行っても原因が分からなかったんです。それで、精神科に行ってみたら、それはパニック発作ですねって言われて。もしかしたら発達障害があるかもしれない、“グレーゾーン”かもしれないって」(石橋さん)「次に何をしなきゃいけないのか、複数が同時に来ると分かんなくなってしまう」という、自閉スペクトラム症の特性のひとつとされる「同時処理困難」があった石橋さん。困っている人の役に立ちたいと夢見た医療の道だったが、促されるような形で退職したのだった。Upload By 桑山 知之職場からの「キミがいなくなっても困らない」――ミスをまとめた書類も発達障害はグラデーション状に広がっており、白か黒かといったはっきりとした判別が難しい。むしろ中間部分である「グレーゾーン」の方が多いとも言われている。自身も当事者であるライター・姫野桂さんの著書『発達障害グレーゾーン』(扶桑社)などにもあるように、発達障害の傾向はあっても、診断までは出ないというケースは全国的にも多く見られている。今回インタビューに応じてくれた石橋さんは、精神科にかかった後、自閉スペクトラム症の診断こそ出たものの、日常生活では特に困難さがあるわけではなかった。自分のことを周囲にどのように理解してもらうかを悩んだ末、勤務先の病院にも、障害のことを思い切って打ち明けた。すると、衝撃的な言葉が返ってきた。「(勤務先の病院に)言われたのは『キミがいなくなっても病院は次の人が入ってくるんだから、病院としては困らない』と。日本全国で大学卒業する人が誰もいないんだったら別だけど、そんなことはない。毎年入ってくるんだから、キミがいなくなっても病院としては困らないって。使えないから切ればいいっていうのは理解できるんですけど…」(石橋さん)石橋さんを辞めさせるためなのか、勤務先では石橋さんの仕事上のミスや当時の状況を事細かに同僚が書き起こし、ファイルにまとめていた。「何度も同じミスがあり、すべてに他者の確認作業と修正が必要」「他の作業をしていると、やることが抜ける」「相手の置かれている状況が想定できない」――。石橋さんは、退職を選ばざるを得なかった。Upload By 桑山 知之誰も取りこぼしたくない実体験を通して知った弱者の気持ち現在、石橋さんは再び職に就くためにLITALICOワークスで就労移行支援を受けようとしている。そこには、昔からブレずに抱いている思いがある。「誰も取りこぼしたくないっていうのはありますね。社会的に不利に追い込まれてる人とか、そういう人が不利益を受けるんじゃなくて。ひとり親、障害者、高齢者、親がいないお子さん……。そういう人たちが不利な状況になりやすい社会にはしたくないなって思うので、そういう人たちも幸せを感じられるような世の中にしていきたいなっていうのは漠然とありますね」(石橋さん)かつての勤務先で自身の発達障害を打ち明けても相手にされず、辞めるよう促された過去。石橋さんの心の中で、より強い思いが湧き上がった。「そういったことを言われた経験を踏まえて思いましたね。弾き出されるときって、こんなに露骨に弾き出されるんだなって。実体験としてすごく思いました。だからこそ社会の中で誰ひとり取りこぼしたくないし、自分の力が役に立てる場所でやっていきたいです」(石橋さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年01月17日切り替えが苦手で集団行動が遅れがちUpload By スガカズ長男はWISC-IVの結果で処理速度が低いことがわかっています。また、注意散漫、過集中といった特性もあり、学校で次の行動に移るときに時間がかかります。なかなか次の行動に移れないとき(特に教室を移動する授業)は、クラスメイトや先生が声をかけてくれることがあるのだそうです。学校で見かけた長男とクラスメイトのトラブルUpload By スガカズ1年前のある日、私は当時小3だった次男の忘れ物を届けに学校へ行きました。すると廊下で小6の長男がクラスメイト2人となにやら揉めていました。クラスメイトに何か言われており手をひっぱられています。長男は何も言わず泣きそうになりながら拒んでいました。体操服に着替えていること、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴っていたことから、「長男の行動が遅れているからクラスメイトが呼びに来たんだな」と理解しました。長男は次の行動に移るときに無理やり促されるのを嫌います。私はクラスメイトとのやりとりを見て「長男にとって大事な経験だ。今私が間に入るよりも、後で話を聞いてアドバイスした方が冷静に話し合える」と思い、後ろ姿を見つめていました。「病気(障害)だから仕方ない」長男の発言に腹を立て…Upload By スガカズ放課後、長男が帰ってきたので私は廊下でのやりとりについて聞きました。概ね私の予想通りで、体育館に行く途中で考えごとをしていたそうで動きが止まっていたそうです。長男がなかなか動こうとしないので、クラスメイトが「早く来て!」「遅い!」と強い口調で促していたそうです。「それは大変だったね。注意されていたとき、あなたはどんな気持ちになったの?」と聞くと、「オレは、できることとできないことの差がハッキリしている。だけどクラスの女子が無理やりオレをひっぱって連れて行こうとしたんだ」「オレ、病気だから行動がゆっくりでも仕方ないのに!」と怒り口調で答えました。私は長男が強めに促されてイヤだった気持ちは理解しますが、「仕方ない」という言葉に腹が立ち、思わず長男を叱ってしまいました。「障害だからいいでしょ」と許してもらおうとしたり、「仕方ない」からといって諦めたりするのは間違っていると思います。大事なのは、「障害に対して自分がどう向き合えばいいか」「言ってくれた相手とトラブルにならないためにどうしたらいいか」を考えて行動することだと言いました。このとき長男は「言われたのは自分の方なのに」と納得した様子ではありませんでした。どうすれば分かってもらえるのか?と考えたときに、長男に促す側の気持ちを体験してもらうことだと思いました。無視されたり開き直られたらどんな気持ちになる?Upload By スガカズUpload By スガカズその日の夜、きょうだいが全員そろったときに長男に話しかけられました。私は話しかけられていることを理解していましたがそれに反応せず、きょうだいの相手をしていました。何度も何度も話しかけていたのに長男は無視されたので、私に怒りました。怒っている長男に対して私は、「今、どんな気持ち?」と聞きました。子どもたちに話しかけられても対応できないときに「ごめんね」「ちょっと待ってね」「〇〇の後話きくね」と言うように私は気をつけていること、「〇〇だから仕方ないでしょ」という風に言ってないこと、もし「仕方ないでしょ」と言われたり無視されたらどんな気持ちになる?と長男に言いました。「…イヤな気持ちになる…」と長男は答えました。クラスメイトが声をかけてくれる(行動を促してくれる)のはありがたいことで、その行動に対して何も言わずに嫌がったり怒ったり「病気だから仕方ない」と言うのは間違っているともう一度言いました。Upload By スガカズその後聞いていなかったときや無意識で起こったことに「ごめん!」というセリフが出たり言葉で説明したりする場面が見られるように。私は素直に反応してくれたことが嬉しくて「気づいてもらえてお母さんうれしいよ」と言いました。もちろんすべてが好ましい反応にはなりませんが、気をつけようと思い言葉に出すことは、より良い生活を行うために必ず必要になってくることで、一歩前進したと言えます。中1の現在、できないことに対して「自分で解決策を考える」姿も…Upload By スガカズ中1になった現在は、どうしてもできないことに対して、考える場面も見られます。できない理由を言葉にして、私にお願いすることもあります。「どうしたらいいのか分からない」と、そのままにしてしまう場面も沢山ありますが、自分の障害を「仕方ない」と諦める前に、人に相談したり自分なりの案を試してほしいと思います。
2021年01月04日一人息子は発達障害夢はお寿司屋さん上口さんが30歳の頃、男の子を出産した。名前は悠樹くん。平成元年生まれで、偶然にも筆者と同い年だ。当時は今から30年以上前、今ほど発達障害への認知や理解は進んでおらず、典型的な症状でなければ見過ごされることが多かったという。今では発達性協調運動障害(DCD)という存在も知られるようになったが、悠樹くんが通っていた保育園では「手足の協調的な運動が難しい」と言われていた。段差に気付かず転んでしまうことは日常茶飯事で、穴に落ちてしまったり、保育園でのハサミを使った工作もとても苦労していた。しかし検診に連れていくとそれほど問題視はされず、「長い目で見ましょう」とあまり指摘されなかった。「ずっと親としては気になっていたんです。本を読んでみたり、発達障害者支援センターに相談に行ったりしてました。例えば、小学校に入ると集団登校ってありますよね。うちの子だけがどこかちょっと外れてるんですよ。ちょっと外れた動きをして、一生懸命高学年の人が手をつないでとか」(上口さん)Upload By 桑山 知之違和感を覚えながらも、しばらくやり過ごした。元々、底抜けに明るい子だった悠樹くんだったが、できないことが生活の中で多いことから、少しずつ暗くなっていった。学力こそ低くなかったものの、生きづらさを確かに抱えていたのだった。「小学5年のときに(診断を)受けました。あのときはもう混み合ってて、1年ぐらい待ってようやくWISCを受けて、ADHDとアスペルガーの混合型っていう、今だとまた違った診断名なんでしょうけど、その頃はそう診断されましたね」(上口さん)中でも特に辛かったのが発達性協調運動障害だという。近年その認知は徐々に広がっているが、これまでは「不器用」「運動音痴」という言葉で見過ごされてきたことが多い。悠樹くんにとってできないことも多々あったが、一方で悠樹くんは料理が大好きだった。家庭科の成績はいつも良く、時には上口さんに手料理を振舞った。悠樹くんの夢はお寿司屋さん。特に手先の技術を要する職業だった。Upload By 桑山 知之大学入学直後、拒食症に…上口さんによれば、中学ではいじめにも遭ったという悠樹くん。それでもなんとか高校へ進み、キャンパスライフを夢見て愛知県内の大学へと進学。一人暮らしを始めた。しかし、入学から1カ月後の5月には下宿先から一歩も出られなくなってしまった。「とにかく夢いっぱいだったので、スーパーでアルバイトもして、サークル活動もして。それで単位を取らないといけないじゃないですか。必修科目だとかいろんな履修登録をしないといけないんですね。それがうまくできなくて呆然となって、学校の中で自分一人でポツンといるような気持ちになって、それでもう学校も行けなくなって、バイトも辞めちゃって。結局、体重が30kg台になったときに、もう持たないと思って(悠樹くんを)家に連れて帰りました」(上口さん)Upload By 桑山 知之料理があれだけ大好きだった悠樹くんが、拒食症になってしまったのだった。「僕は何にも役に立ててない」と自分のことを責めもした。それでも程なくして、働く母親の上口さんを支えるため、「これからは僕が毎日夕飯をつくってあげる」と意気込んだ。その明るい性格から、買い物先の八百屋や近所の美容院の人からすぐに気に入られていたという。しばらくして余裕が生まれると、悠樹くんは自身が通っていた保育園でアルバイトを始めた。「うちの子はアルバイトをやってもすぐクビになるというか、なかなか合格しないんですよ。そうしたら、自分が行ってた保育園がおいでって言ってくださって。大学の中にある保育園なんですけど、そこで調理の経験をして、それをボランティアで半年ぐらいしてるうちに、今度は『僕、栄養士になりたい』って」(上口さん)Upload By 桑山 知之幸せな専門学校生活から一転、鬱に栄養士になるために名古屋・栄にある専門学校へ通い始めた悠樹くん。これまでと違い、同世代だけではなく少し年齢が上の“人生の先輩”がいたこともあり、「息子の人生の中で一番幸せだった」期間は1年以上続いたという。「初めて友達っていう存在がいっぱいできて。みんなで飲みに行って、今日まだ帰ってこない!って。親としてやっと普通の悩みっていうか。あれは嬉しかったですね。すごく楽しく過ごしていました。あのまま行けばよかったってすごく思います」(上口さん)クラスメイトには自身の発達障害についても打ち明け、周囲や先生は悠樹くんを受け入れてくれた。しかし、専門学校2年で実習が始まると、壁にぶち当たった。病院での厨房実習だった。運動障害によって真っ直ぐ歩けないため色んなものにぶつかった。手先が器用でなく、作業をすべてやり直しもした。きっと強迫観念もあったのだろう。「もう僕はできない、働けない」と落ち込み、悠樹くんは実習1日でドロップアウト。学校に行けなくなり、鬱状態に陥って自殺未遂を繰り返した。ベランダに飛び降りるための椅子が置いてあったり、紐が結び付けてあるなどした。夜中に自殺してしまうのではないかと、上口さんは悠樹くんの部屋の前で一夜を過ごしたこともあった。Upload By 桑山 知之「もう9年前ですね。その日は私が出張中で。だから私は現場にいなかったんですよね。(出張先は)京都だったので、何で日帰りしなかったのかなって思うんですけど、一泊しちゃったんです」(上口さん)2011年5月、悠樹くんは自宅マンションのベランダから飛び降りて自ら命を絶った。21歳だった。悠樹くんの携帯電話に残された遺書には、こう記されていた。「発達障害の人たちが生きやすい社会を願って」。Upload By 桑山 知之息子の自殺当事者が生きやすい世の中に「こんなことをお話ししていいのかわからないんですが、私はうちの子を育てながら『この子いつかいなくなる』って思ってたんですよ。電車の階段を落ちて骨折したり、自転車に乗ったら倒れちゃって病院で脳の検査とか、そんなことがしょっちゅうあったんです。『この子っていつまで一緒にいてくれるんだろう』って思ってました。だから、それが現実になったんだなって」(上口さん)悠樹くんの死後、「何かをやらないと潰れてしまう」と感じた上口さん。その中で、発達障害の当事者会に参加した。悠樹くんの話をすると周りは皆、親身に耳を傾けてくれた。県外にも足を運び、大阪でNPO法人「発達障害をもつ大人の会(DDAC)」広野ゆい代表(48)と出会った。Upload By 桑山 知之「広野さんの言葉で『自分が動いちゃいけない。自分と周りの環境があってその一番真ん中に自分がいなきゃいけない』っていうのがあって。引き寄せられて自分が動いたらいけないって言われて、なんかすごく救われたんですね。周りでいろんなことが起こるけれども、そこから動かないで距離を保ちましょうっていうことだと思うんですよね。私の場合は、悠樹の思い出との距離」(上口さん)当事者同士の交流が必要だと改めて感じた上口さん。実家を売り、駅近の物件を購入。こだわったのは、発達障害の当事者が集まりやすく、そして働きやすい居場所。「やめた方がいい」「無謀だ」と言われてもあきらめなかった。上口さんは2014年3月、ブックカフェ「Co-Necco」をオープンさせた。Upload By 桑山 知之「うちは職員も3分の1は障害のある方々で、発達障害や精神障害や身体障害などいろんな障害のある方々なんですね。最終的な目標は、障害者が対等に、それぞれの得意なことを生かした働き方っていうのかな、そんな職場をつくりたいですね」(上口さん)お店を開きたかったという悠樹くんの夢。上口さんが、悠樹くんの思いを形にして早6年半以上。定期的に開く交流会なども好評で、愛知県内だけでなく全国から“居場所”を求める客であふれる。決して無謀なことではなかった。「子どもを亡くす親って、何か子どものためにやりたいって思うもんなんです。そのときに、なんとなく当事者会が一番しっくり来た。自分も当事者ですからね、子どもを亡くしたっていう当事者ですから」(上口さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月06日教授に相談できなくて…卒論が書けず引きこもりに三重県出身の戸田さん。三兄弟の末っ子として生まれ、義務教育から高校卒業後、一年間の浪人を経て近畿大学農学部(奈良市)へと進学した。つまずいたのは、卒業間近の論文執筆時だった。「卒業論文がありまして、その作成がうまくいかなかったっていうか……考察とかそういう部分がうまく文章が書けなくて。そこから引きこもりになりました」(戸田さん)Upload By 桑山 知之“情報を整理する”ということができなかった。奈良県内の病院の精神科を受診すると、適応障害と診断された。周囲のサポートもあり、なんとか大学は卒業できたものの、その後は実家近くの病院のデイケアに通いながら、自宅療養生活を送った。「先生に頼りにいくという力がなかったんです。当時卒論を担当していた教授は別に怖い方ではなかったんですが、普段誰かを頼ったりしていなかったので……」(戸田さん)思い返せば「小さな頃から誰かを頼ることが苦手だった」と話す戸田さん。小学3年のころにてんかんを発症したこと、中学時代にロボコンに出場したこと、高校で吹奏楽部に所属していたこと以外、学生時代の記憶はほとんどない。戸田さん曰く「事実は覚えているが、感情は覚えていない」らしい。Upload By 桑山 知之過去に認定されていた発達障害24歳で再診断「発達障害はグラデーション状に広がっている」と言われるように、それが生活に支障が出ない人も少なくない。実は戸田さんが小学校低学年のころ、発達障害だと診断されていた。しかし、戸田さんや両親は特段気に掛けていなかった。しかし、大学卒業間近でつまずいた戸田さん。両親と同居しながら、以前の診断時に受診していた海南病院(愛知県弥富市)の精神科が運営しているデイケア施設「ネバーランド」に通った。改めて発達障害の診断を受けたのは、24歳のころだった。Upload By 桑山 知之「担当者と問答したり、数学の問題とかパズルのテストもやりました。結果は広汎性発達障害という名前がつきました。大まかに言うと、人の言っていることを理解するのが苦手なのと、優先順位をつけるのが苦手なのと、物事を文章化するのが苦手という3つが症状ですね」(戸田さん)自らの特性について話す様子は淡々としていて、どこか晴れやかな表情をしている。「自分はこういうのが苦手なのでサポートをお願いします、っていうスタンスが取れるようになりましたね」。戸田さんは、診断によって自己理解が深まったと胸を張っていた。Upload By 桑山 知之大学時代に出会った唯一無二の友人今でも支えに近大では「メダカの学校同好会」に入っていた戸田さん。「メダカの住み良い環境を作り出そうというコンセプト」だそうで、ビオトープ班に所属していたという。「ペットだと飼い殺しにしてしまいそうな感じがするので、飼うのは向いてないかなと(笑)。メダカの学校同好会では生物の調査をしたり、小規模ですが生物が入りやすいように溜池を作ったりもしました。楽しかったですね」(戸田さん)当時付き合いがあっても卒業するとほとんど縁が切れてしまったが、今でも唯一連絡を取っているのが同好会の友人。もう8年ほどの仲で、彼は宮城県仙台市で仕事をしているが、今年の頭には熱海へ旅行に行った。ゲームやアニメなど、彼をきっかけに戸田さんも趣味が広がったといい、現在の戸田さんにとって一番の支えになっていると話す。「定期的に向こうから今夜スカイプどう?みたいな感じで、複数人でオンラインゲームで遊んだり。パソコンのシューティングゲームもそうですし、今やっているオンラインのゲーム『World of Warships』もそうですし、最近アニメで定期的に毎クール観ようと思ったのも、その友人が絡んでいますし。今の趣味すべてに友人がどこかしら関わっている気がします」(戸田さん)Upload By 桑山 知之就労移行利用し就職上司「僕らが一番苦手なことができる子」厚生労働省が委託する機関で、各地域に「若者サポートステーション」というものがある。働く意向のある若者と向き合い、職場定着するまでを全面的に支援する機関で、49歳までの就労意欲のある人が対象だ。戸田さんは若者サポートステーションでパソコンについての訓練を受け、その後LITALICOワークスの就労移行を利用。現在、ネッツトヨタ愛知のデジタル推進部に所属し、各販売店で働くスタッフのサポート業務を行う。もう働き始めて2年目だ。「彼と面接したときに一番感じたのが、僕らって物を売る会社なので、対面のコミュニケーションが主になるんですよ。でも彼は逆で、文字のコミュニケーションができる子。僕らが一番苦手なことができる子だろうなって。だからすごく助かっていますよ」(戸田さんの上司)Upload By 桑山 知之「今までの人生においても、対面のコミュニケーションよりも文字情報のコミュニケーションの方が大半占めていますからね。小学校のときは2ちゃんねるをやっていましたし、中高はオンラインゲームでチャット、大学のときはTwitter。弊社ではMicrosoft Teams越しでやり取りすることが多いので、すごく質問しやすいんです」(戸田さん)大学時代につまずいたあの経験を二度としない。情報を整理するのが苦手だという自覚から、メモ帳はジャンルごとに7種類に分けて工夫するほどの徹底ぶり。新型コロナウイルスの影響でオンラインでの業務がより増えたが、自分にとってはむしろ心地いいという。今では文字でのコミュニケーションを主に置き、ストレスなく仕事に励んでいる。「僕はすごく恵まれてます」。戸田さんは、前を向いて笑っていた。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。CM内楽曲GOMESS『COMMON』は各サブスクで配信中取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年11月13日2020年11月現在も流行がおさまらない、新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)。ある障害を持った人たちへの手助けにも、コロナウイルスの影響があるといいます。新しい生活様式によって、難しくなったことも盲導犬総合支援センターが呼びかけたのは、コロナ禍での視覚障害者のサポート方法。コロナウイルスの影響から、ソーシャルディスタンスを保つよう注意喚起されています。そのため、盲導犬ユーザーに、腕を掴んで道案内などができず、どのような声かけをしたらいいのか迷う人が増えているそうです。そんな新しい生活様式とともに変わったサポート方法がこちらです。イラスト:セツサチアキクリックすると画像を拡大しますみんな、ぼくからのお願いだよコロナ禍においての新しい声かけ方法をぜひ沢山の人に教えてあげてほしいよ☺️例えば、手引きをしなくても少し前を歩いて、声で誘導したり、消毒液の場所やレジで並ぶ列の進み具合を教えてもらえるだけで、すご〜く助かるんだよ pic.twitter.com/8vJMbblxLt — 【公式】もうどう犬 エルくん (@moudoukenLkun) November 8, 2020 道案内をする時は、少し前を歩いて声で誘導。また、これまではなかった店内の入り口にある消毒液は、設置場所を教えてあげると親切です。買い物のレジは、前の人と間隔を空けるよう指示されています。距離があると前に進んだことが分かりにくいため、移動する時は何歩進んだのか声をかけてあげましょう。投稿には「こういうのはとても大切だと思う」「覚えておこう」「積極的に声をかけたい」などの声が寄せられていました。社会生活の変化によって、声掛けの方法も変化しました。誰もが暮らしやすい社会するためにも、協力しながら安全なサポートをしたいですね。[文・構成/grape編集部]
2020年11月10日ある日、Twitterユーザーの和田浩章(@p_latanus)さんは、バスで全盲の男の子とお母さんに出会ったといいます。男の子はお母さんにこのように質問したのだとか。「『キレイ』って何?」目が見えない男の子にとって、どのようなものを『キレイ』というのか分からなかったのでしょう。するとお母さんは、少し考えてからこのように答えました。「優しいってことだよ」目で見えること以外で、『キレイ』を表現するのは簡単ではありません。この答えを聞いた男の子は、聞いている人の胸が思わず熱くなる返事をしたのです。「じゃあお母さんはキレイだね」全盲の男の子がバスの中でお母さんに「キレイってなあに?」って聞いた。お母さんは少し考えて「優しいってことだよ」と答えた。そしたら男の子は満面の笑みで「じゃあお母さんはキレイだね」と答えたという話を聞いて胸がホクホクした。秋ですね— 和田浩章 (@p_latanus) October 14, 2020 男の子は目が見えないけれど、「お母さんは優しいから『キレイ』という言葉が当てはまる」と思ったのでしょう。お母さんも嬉しかったに違いありませんね。投稿には、男の子の言葉に涙を流す人が続出しました。・電車で読んでいたのに、泣いてしまった。・いい話。感動しました。目に見えるものがすべてではないですね。・涙がこぼれた。心が温かくなりました。これから『きれい』が溢れるような世界になってほしいですね。[文・構成/grape編集部]
2020年10月16日娘が発した「発達障害だから無理」の一言に、怒りがこみ上げて...前回の続きです。広汎性発達障害の娘が、言った「発達障害だから無理」という言葉。ここまで、難しいことも、やり方を変えながら娘と一緒に頑張ってきた私にとって、この言葉は使ってほしくない言葉でした。私はこの言葉に対して、つい感情的に「言い訳にして、最初から諦めたら駄目だよ!」と言ってしまいました。冷静になってから、言葉を言い換えて、「いろんなことが時間をかけて、できるようになったんだよ。だから最初から諦めないでほしい。」という説明をしました。諦めてほしくはないけれど、追い込みたくもない。私は、娘がこれから先、「発達障害だから諦める」という考え方をしてほしくないと思っていました。Upload By SAKURAしかし、娘にとってそんな私の思いは重荷になるかもしれない…私は娘の逃げ場を奪う言葉をかけてしまったのではないか…Upload By SAKURAそう思うと、私は娘にどういう言葉をかけることが正解だったのか、自分の思いもあわせて、わからなくなっていきました。娘の気持ちは・・・?気になるけれど・・・その後、娘は「発達障害だから無理」とは一切言わなくなりましたが、もしかしたら、言わないように我慢しているのではないか…とだんだんと心配になっていきました。Upload By SAKURA言ってほしくないといったのは自分なのに、言わなくなった娘の心境が気になり、矛盾した感情が渦巻いていました。娘の変化。そんなやり取りから1週間ほど経った、ある日のこと。テレビで『発達障害』の文字を見つけた娘は…Upload By SAKURAその人がどんな特性があるのかを気にしたり、自分との違いを見つけたりしました。その目は、真剣でした。娘にどのような心境の変化があったのかはわかりませんが、私は、娘の中で『発達障害』の捉え方が少し変わったように感じました。もしかして、私がモヤモヤ考え悩んでいるうちに、娘は自分の中でどんどん変化していっているのかもしれないと思い、しばらく見守ることにしました。予想してなかった自己肯定。それから数か月経った、ある日のこと…Upload By SAKURA娘は発達障害がある自分のことを、自己肯定をしたのです。私は嬉しくなりました。自分のことを「すごい子」だと言える娘のことを誇りに思いました。それから私は、いつも思っていることを言いました。Upload By SAKURAそう言った、娘の表情は、輝いて見えました。常に寄り添っていく。発達障害告知前は、どう言ったらいいかを悩み…告知後は、どう捉えていくかを心配…きっと、ひと段落着いたように思っている今も、次の何かが起きる過程の期間なのでしょう。Upload By SAKURA告知したから終わりではなく、これから先、娘が自分を肯定し続けられるよう、私たちは寄り添っていかなければならないと感じました。
2020年10月14日話題のスポットやエンタメに本誌記者が“おでかけ”し、その魅力を紹介するこの企画。おでかけスポットは、視覚障がい者の案内によって純度100%の暗闇の中で対話を楽しむ「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」。積水ハウスとの共創プログラム「対話のある家」が大阪で開催中で、天体観測を楽しむ夕べに夫婦で参加してきました。■ダイアログ・イン・ザ・ダーク「対話のある家」第31回「真っ暗の中で天体観測を楽しむ夕べ」10月26日まで住ムフムラボにて開催。参加者4人で「家」の中へ。視覚障がいのあるぐっちさんとやべっちさんが、「今日は家族になってみんなで過ごしましょう」と案内してくれます。部屋が次第に暗くなり、真っ暗に。目が慣れて何かが見えることはありません。こんなに見えないなんて……。ロープを手に、隣の相手を感じながらソーシャルディスタンスを取ります。壁を伝って歩いて靴を脱ぎ、縁側へ。最初は怖くて「汗びっしょり」という夫。やべっちさんの優しい声に導かれて徐々にリラックスし、安心モードになりました。縁側から庭に下りて、音や声を頼りにみんなと道具で遊びます。そしてみんなで天体観測をイメージし、それぞれの体験を語ります。記者は、この夏見た日本海の満天の星が360度広がったように感じました。もう一人の女性も沖縄で見た星空が見えたと言います。あっという間の約70分で、併設のカフェで参加者と感想を述べ合いました。見えないものをイメージや感覚が補ってくれる不思議な体験。怖さも克服でき、気づきを与えてくれます。会話が弾むのでリピーターが多いのも納得です。(文:西元まり)「女性自身」2020年10月20日号 掲載
2020年10月12日息子の友人、おじいさんに席を譲られた!息子が特別支援学校高等部の頃のことです。子ども達が同じ放課後等デイサービスに通うママ2人と私とでお茶をしました。息子(17歳)は自閉症、A君(16歳)、B君(18歳)にはダウン症があります。小学校の頃から同じ放課後等デイサービス、同じ特別支援学校高等部に通っていました。10年以上の長い付き合いなので、結構突っ込んだ会話もドンドンできる気の置けない関係です。Aママ「ちょっと聞いてよ。この間、息子がバスで立っていたら、おじいさんに席を譲られそうになったらしいの」(A君は、当時、一人で公共のバスを使って下校していました)私「それで、本人はどうしたの?」Aママ「『いいです!』って断ったみたい。この話を息子から聞いたとき『やっぱ、“世間からは障害者だから大変だ”って見えるんだ~』と思い、悲しくなったよ!」Bママ「うちの子だったら、きっと『ありがとう!』」と言って席に座っちゃうかも!」私「外見から『障害がある』と分かるのも、理解してもらいやすいと思うから、私はうらやましいよ。本人が言葉に出したり積極的に伝えようとしなくても、周囲の人がSOSに気づいて、救いの手を差し伸べてもらいやすいでしょう。うちは見た目ではわからないから、バスの中で奇声を発したり、落ち着かないと怒鳴られてしまい、それでまたパニックを起こして…」Aママ「そうなのかあ…」もちろん、ダウン症のある子にも知的重度、軽度があり、身体面でも心疾患があったり、身体が弱い子もいたりします。そんな知識があって、おじいさんは「席を譲ろう」と思ったのかもしれません。でも、A君は元気一杯の子でした。このことを実家の母(80歳)に話したら「私だったらダウン症の子がいても席は譲らない」と言っていました。人それぞれです。「普通」として扱われる見た目ではわかりにくい発達障害児は、ぱっと見は定型発達のように見えます。息子は知的障害がある自閉症(IQ37 療育手帳3度)ですので、グレーゾーンではありません。それでも、「障害があるので色んなことが難しくてできないので宜しくね」とママ友に伝えても、容姿を見て「そんなことないじゃない、普通じゃない、しっかりしているじゃない」と数えきれないくらい言われました。誤解もある・NHKの番組で放送していたのですが、成人しているダウン症のタレントさんが居酒屋でビールを頼んだら「ビール飲ませても大丈夫なのかな」と店主が悩んでいたそうです。(年齢ではなく、「ダウン症の人にアルコールは大丈夫なのか」と思ったようです)・心疾患があり、4歳の子をバギーに乗せていたママ。「まあ、立派な足があるのにお嬢ちゃん、ママに甘えないで歩かないとダメよ」と言った見知らぬ人から言われていました。・内部疾患(心臓機能障害、腎臓機能障害、呼吸器機能障害)があるため電車の優先席に座っていた若者に対して「年寄りに譲りなさい」と言わんばかり前に立っている年配者がいました。(ヘルプマークを付ける方法もありますが、まだ世間には浸透していません)障害特性はあるけれど、性格はみんな違う「自閉症の子は秘めた才能がある」だとか「ダウン症の子はピュアだ」とか「これこれこういう障害の子は○○である」と思われていることがあります。確かに障害による特性はありますが、そんな型にはまったものではないと思います。何故なら、みんな一人の人間ですから…。生まれ持った気質や育った環境で全く性格が違ってきます。そんなことを感じたママ友との会話でした。同時に、「こんな突っ込んだ話が出来るママ友がいることは幸せなことだ~」と感じたお茶の時間でした。
2020年09月22日20代半ばで知った広汎性発達障害…診断を受けたのは就職後Upload By 桑山 知之「♯見えない障害と生きる」連載第2回は、愛知県名古屋市でグラフィックデザイナーとして働くノビさん(38歳・男性)に話を聞いた。ノビさんは愛知県内の大学を卒業後、印刷会社のデザイナーとして就職した。しかし、ある程度のカリキュラムをこなしていれば一定の評価を得られる学生時代とは違い、入社後ほどなくして壁にぶち当たった。「手が遅いんです。仕事にも時間がかかって、すごく残業してたんです。先輩に『そこまでやんなくていいよ』『うまく手を抜けよ』って言われるんですけど、手を抜くと肝心なところをすっ飛ばしちゃったりして、めちゃくちゃ怒られる。『うまく手を抜く』、その“うまく”ができなかったんです」その後、仕事を辞め個人でデザイナー業を始めようとしたが、それも失敗した。どうにもうまくいかなかった。何かがおかしい。そんな折、大学時代に同じゼミだった友人と再会する機会があった。彼は発達障害だった。「多分お前もそうだと思うから、診断受けてみろよ」。そう言われるまま、ノビさんはクリニックに足を向けた。そこで、広汎性発達障害という診断を受けた。20代半ばだった。発達障害の診断は「許されたような感じがした」Upload By 桑山 知之ノビさんは学生時代、勉強こそ多少できる方だったが、算数だけは異常に出来が悪かった。そして何より、誰かと一緒に何かをやるという楽しみがあまり理解できなかった。「大学時代の友達に久しぶりに会ったら、『学生のときは修行僧のようだった』と言われました。自分の中で正しいと思っていることは譲らないというか、会話を楽しんだり雑談が苦手というか…」思い返せば、幼いころから対人コミュニケーションには難があったノビさん。保育園ではみんながジャングルジムで遊んでいるのを見て「何が楽しいんだ」と思っていた。中学・高校では、仲の良いグループ以外の人間とはほとんど親しくすることができなかった。複数のコミュニティをまたいでいる友人は輪を広げていき、それに乗っかることができなかったノビさんは、やがて遊びに誘われる機会が減っていった。だが20代半ばで発達障害の診断を受け、心が穏やかになったという。「どちらかというとポジティブに受け止めたところがあって、正直ホッとしたんですよ。コミュニケーションもうまくいかなかったことが多くて、自分の努力が足りないとか、自分に責任があると思ってたんですけど、『障害です』『先天的なものです』って言われたときに、なんかこう許されたような感じがしたんですよ」Upload By 桑山 知之3歳児検診で「傾向あり」…伝えてほしかった発達障害というのは、“見えない障害”である。それゆえ、親が自身の常識や価値観を押し付けてしまい、子どもが苦しんでしまうことがままある。発達障害の特性が少しずつ見えてくるのは、3歳児健診であったり、幼稚園や保育園などといった集団生活であることが多い。早期に我が子の特性を理解したうえで親が接していくことで、併発しがちな二次障害を防ぐこともできるだろう。ノビさんは、診断について家族に対し思い切って打ち明けてみた。すると意外な言葉が返ってきた。「けっこう自分としてはそれなりに覚悟を持ってカミングアウトするつもりで、あるとき折に触れて話をしたんですよ。そのときの母の反応が、『あぁ、なんかね、そんな感じだよね』みたいな。なんかそんな気がしてたっていうノリだったんですよ」実はノビさんの母は、おそらく3歳児検診の際、「発達障害の傾向がある」と指摘されていたという。ただ、その段階では保育園で友達と揉めているなどの問題が起きていたわけではなかったため、様子を見ようということになり、そのまま進学、就職まで至ったらしい。その過程でも時折、例えば高校の進路を決めるときには自然がいっぱいあるところがいいんじゃないかという「謎の提案をしてきたこともある」と回顧する。Upload By 桑山 知之「(発達障害かも知れないと)わかってたんならもうちょっと何かこう、訓練とか何かあったんじゃないの?こっちはそれなりに苦労してるんだよ?っていうモヤモヤとした気持ちはありましたね。親は自由な考え方なので、こうじゃなきゃダメとか、レールを敷くような感じは全然なくて、放任主義なんです。それはそれでよかった部分もあるんですけど、もっと関わりがあってもよかったかなと。関係性が薄かったんです」我が子に発達障害かも知れないと伝えることのストレスは非常に大きい。ひょっとしたらノビさんの母はあえて“伝えない”という形を選んだのかも知れない。またそれは我が子を思っての選択だったのかも知れない。しかし成人後、ノビさんは確かに生きづらさを抱えてきた。これはあくまで結果論ではあるが、子どもが生活するうえで違和感を覚えていないか、親はアンテナを張っておく必要があるのかも知れない。再就職失敗、そして離婚…挫折から人の気持ちが分かるようにUpload By 桑山 知之“修行僧”のようだった大学生のころから、ノビさんには恋人がいた。「恋愛偏差値が低すぎた」ため、彼女の方からグイグイと来てくれたのがよかったという。やがて社会人になり24歳で結婚。しかし、個人での事業もうまくいかず、再就職を決意した。「新卒の就職活動と違って、再就職はレールがあるわけではない。面接で自分は必死にアピールしてるつもりでも、面接官から『お前さぁ、今のままでいいと思ってんの?』と説教されて帰ってくる。そうすると、夜の公園でブランコにもたれながら泣いちゃうんですよ。『何やってんだ自分は』って。抑えきれなかったんです」自分自身にそこまで感情の起伏がないため、他人の気持ちが理解できなかったノビさん。人が泣いているのを見ても、本当なのかと疑っていたという。しかし、再就職での挫折を受け、思わず涙をこぼす日々が続いた。それとほぼ同時に、離婚することになった。「本当に胸が潰れるような気持ちをそこで初めて経験しました。あのとき、あの人たちが言っていたつらい気持ち、苦しいとか悲しいっていうのはこれなんだというのが、そこで初めてわかったんです。今までは“自分の中での正しさ”を大事にしていたんですけど、“相手がどう思っているか”を大事にした方がコミュニケーションがうまくいくんだなって」発達障害の僕が生きるための“工夫”診断を受けたことで就労移行につながり、そのままその運営会社に就職したノビさん。現在はさまざまな受託事業のチラシを制作するデザイナーとして活動している。聴覚過敏で特に気になる「人のガヤガヤ声」を遮断するため、最近ではライフル射撃の選手が使うような耳栓をしているという。「努力というよりは、工夫するって感じですね。僕は発達障害以外にもてんかんの持病があって、薬を1日4回飲まないといけないんです。そこで、薬を1錠飲んだら、右腕から左腕にこのブレスレットを1本移していくんです。忘れないようにするっていう努力だとつい忘れちゃうので、仕組みを作るようにしました。このルールを伝えている人なら『朝飲んでないんじゃないの?』とか指摘をしてくれるんです。『この時間は全部左腕にないとダメなんじゃないの?』みたいな」つい忘れてしまうのであれば、仕組みやシステムを変えて、工夫する。診断を受け入れたからこそできる行動だ。他にも、仕事のタスクを付箋で貼っていく中で、優先順位が上がるとその付箋の位置を変えていくことで、見過ごさずに取り組めるといった方法を紹介してくれた。「前にインターネットで見た呟きで、すごいグッと来たものがあって。『みんなすごく我慢してるんだからお前も我慢しろ』って、よくあるセリフじゃないですか。でも、みんなが我慢してるんだったら、システムが悪いでしょって。障害って、みんなが当たり前にできることができないからこそ、“工夫”でなんとかしようと思ってます」Upload By 桑山 知之取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2020年09月03日視覚障害者のポンコツ妻@アッシャー症候群(@KyokoKK5932)さんは、東京の東銀座駅で体験したエピソードをTwitterに投稿。反響が上がっています。係員の優しさに感謝都営浅草線東銀座駅を利用している投稿者さん。電車を降りるとすぐ「駅の係ですがお手伝いは必要ですか?」と声をかけてくれる係員がいるといいます。係員は、工事が終わったばかりの道を「道が新しくなりましたから途中までご一緒しますね」と丁寧に誘導。さらには、「階段は14段です。9時の方向に曲がるとスロープがあります。その方が安全なので曲がりましょう」と目が見えなくても分かるように言葉で教えてくれるそうです。東銀座駅から乗車する場合も、「ここで乗れば降りた目の前にエレベーターがあります」と乗り換えまで考えてくれるのだとか。※写真はイメージ数日後、投稿者さんの顔を覚えた係員からこんな声をかけられたのです。「この前もお会いしましたね、今日はどちらへ?気を付けて行ってらっしゃい」投稿者さんは、係員の声かけに「ちょっと恥ずかしいけど、でもすごく嬉しいしありがたい」と感謝の言葉を述べました。悲しいことに駅のホームから、視覚障害者が落下して事故となるケースも発生しています。しかし、投稿者さんは「東銀座駅のみなさんはとても親切。きっとこの駅では事故なんか起こらないだろう」と、この係員だけでなく駅の係員全体が優しく、安全を守ってくれていると実感したようです。東銀座駅に話を聞くと、「駅が広いこともあり多くの係員がいるため、そのような意識が高い人もいるのではないか」といいます。スマホを見ていると罵倒された経験も…今回、投稿者さんに視覚障害者を見かけた時にできるサポートについて話を聞きました。投稿者さんはこれまで「白杖を持っている人は全員が全盲と思われていて、目が見えているようなそぶりをすると罵倒されることがあった」といいます。弱視(幼児期から視力が弱い人)・ロービジョン(全盲ではないものの視力が弱い人)の視覚障害者についても知ってほしいと訴えました。―視覚障害の方へはどのようなサポートが嬉しい?まずは触れずに声をかけていただけると嬉しいです。電車内でたまに席を譲ってくれる人が「座ってください」と腕を引っ張ることがありますが、あれは正直いって怖いです。以前、駅のエレベーターで「着きましたよ」と後ろから背中を押されたのもかなり恐怖でした。私は少し視力があるのですが、視野が狭くてほぼ正面しか見えません。そのため、見えていない部分をいきなりつかまれるとすごく驚きます。あとは電車でスマホなどを見ていても怒らないでほしいですね。「見えているなら詐欺だろ!」といわれたこともあるのですが、私たちロービジョンだけでなく全盲の方でもスマホやタブレットを使っていることがあります。―道を歩く時に気をつけてほしいことは?白杖に気付いて避けてくださる人が大半なので、いつも非常に感謝しています。ただ、白杖は『2歩先に障害物がないか探る』ので、恐らくみなさんが想像しているより長いんですね。そのため、目の前とかすごく直前で避けられたり、ぶつからないように急いで横切られても、杖が長いので当たってしまったりして、かえって危険なことがあります。十分な距離を取っていただけるとありがたいです。ちなみに、私が白杖歩行をしている際、ぶつかるのは大体9割が歩きスマホの人です。あれは本当に危険です。白杖に気付かれない場合もそうですが、スマホ歩きしていてこちらに気付いて避けようとしても間に合わない、というケースも多いので。―最近感じた人の親切は?本当にたくさんありますが…最近だとGUで買い物をした際、レジに並んでいたら店員さんが白杖に気付いてセルフレジではなく有人レジに案内してくれました。さらに会計後レジの店員さんがエレベーターまで「ここは台がありますから少し右へ」など障害物の説明をしながら誘導してくれて、店内が混んでいたのでとても助かりました。また、Apple Storeの店員さんも店に入ったら「どういうご案内の仕方がいいですか?肩か腕どちらかつかまりますか?」と聞いてくれました。ひと言で視覚障害といっても人によってどのぐらい見えづらいか、見えないかはまったく違うので、サポート方法をどうするか聞いていただけるのが一番助かります。視野が狭かったり、視力が弱かったりする人の恐怖は、実際にその立場にならないと分からないこともあるでしょう。ですが、少しでもこのような声を聞いて協力し合い、助けることができるといいですね。投稿全文はこちら #視覚障害者が嬉しいと感じた配慮 都営浅草線東銀座駅の警備員さんがいつも神対応。電車を降りるとすぐ「駅の係ですがお手伝いは必要ですか?」と声掛けして下さる。最近改札を出た先の地下道の工事が終わったので、「道が新しくなりましたから途中までご一緒しますね」と(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 改札を出てすぐ地下道に続く階段があるので「階段は14段です」と教えてくれて上ったら「9時の方向に曲がるとスロープがあります。その方が安全なので曲がりましょう」とクロックポジションでナビ。ちなみに反対側ホームに行く階段の段数もいつも教えてくれる。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 上記は東銀座駅で降りた場合だけど逆に東銀座から乗る場合は降車駅を聞かれるので行先を告げると適切な乗車口まで案内してくれる、例えば「三田駅だとここで乗れば降りた目の前にエレベーターがあります」と。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 本当に毎回全てが適格な誘導説明で感動する。ついに先日顔を覚えられてしまい「この前もお会いしましたね、今日はどちらへ?」から「気を付けて行ってらっしゃい」まで…ちょっと恥ずかしいけど、でもすごく嬉しいし有難い。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 何より凄いのが、恐らくこの警備員さんの効果で東銀座駅皆さんとても親切。ホームで電車を待っていると駅員さんが「降りる駅に申し送りしましょうか?」と声かけて下さったこともあった。きっとこの駅では事故なんか起こらないだろう。(続— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 毎回本当に感動するので都営地下鉄のコールセンターにお礼の電話をしたことがあるけど、いつかこのTweetがご本人に届いたら嬉しいな。東銀座駅を利用することがあったら、是非この警備員さんに遭遇してみて欲しいです。— ポンコツ妻@アッシャー症候群 (@KyokoKK5932) August 26, 2020 [文・構成/grape編集部]
2020年08月31日