■前回のあらすじ市販薬を飲んでも効果がなく、引っ越しが落ち着いた頃ようやく耳鼻科を受診。しかし薬が効かず大病院で検査をすることに…■恐怖の検査…、怖いし痛い!覚悟はしていたものの、ずっと怖くて目をつむっていました。これから先、まだまだ痛くて怖い思いをするとは知る由もなく…■検査結果を聞きに再び病院へいきなりの告知に時が止まった気がしました。ポリープだと思っていたのに、まさかガンだったなんて…次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> 湯本もゆのオドオド育児 この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年10月24日■前回のあらすじ引っ越しの準備が慌ただしい中、家族全員が風邪をひきます。そんな中、なぜか私だけがなかなか治らず…■自己判断で、市販薬を飲み始める引っ越しの準備や手続きで慌ただしかったので、なかなか病院へ行く気になれませんでした。■ついに引越し…、子どもたちの姿に勇気づけられるどんなに大変な状況下でも楽しんでいる子どもたちを見て力が湧いてきました!みんなで頑張って、4月の中旬にやっと片付けが落ち着き…■ようやく耳鼻科を受診!やっと耳鼻科へ行けたと思ったら大ごとに…!大病院での検査の説明が怖すぎて震えました…。次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> 湯本もゆのオドオド育児 この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年10月23日はじめまして。やよいかめです。数年前に鼻腔ガンになった話をご紹介しようと思います。当時、最初に自覚症状があったのは冬で、風邪と勘違いして病院へ行くのが遅れてしまいました。子どもたちが小さいときにお母さんが大病を患うというのは、病気になった本人だけでなく家族にとっても一大事です。「忙しいし、初期症状が軽いから…」といって、病院に行くのが遅れてしまうと、最悪癌が大きくなってしまったりすることもあります…。そんなご家族が少しでも減って、早めの受診が増えればいいなという願いを込めて…、この漫画を描いていきたいと思います。■鼻腔ガンになった話を描こうと思ったきっかけ子どもたちはまだ小さかったので、入院中とても辛い思いをさせたと思います。子どもたちの身体も無事元に戻り、私も自分の中で病気のことがだいぶ消化できるようになったので、この漫画を描く決心がつきました。■夫が転勤に…、ママ友との別れが辛すぎる子育てが大変な時期に、相談しあったり助け合ったりできる仲間は本当に大切…!今回の引っ越しは特に辛かったです。■なかなか治らない風邪? これが癌の始まりだった…この時すぐに受診しておけば良かった…と今でも後悔しています。少しでも異常を感じたら早めに受診した方が良いと思います。次回に続きます。※この記事に記載された症状や治療法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。気になる症状がある場合は医師にご相談ください。 【同じテーマの連載はこちら】 女性のがんとお金の話 この連載の全話を見る >> 湯本もゆのオドオド育児 この連載の全話を見る >> 長男の川崎病と職場の板挟みで大変だった話 この連載の全話を見る >>
2020年10月22日ベッドから自力で起き上がるリハビリをしている佳那晃子(9月)「世捨て人になって、看病生活に“特化”した生活を送っていますよ」くたびれた様子で語るのは、女優・佳那晃子(かなあきこ・64)の夫で構成作家の源(みなもと)高志さん(72)だ。寝たきり生活を送る妻の病気をサポートするために、生活のすべてを捧げる日々だ。■くも膜下出血で意識不明の重体に妖艶な演技でファンを魅了し、『魔界転生』(1981年)にも出演し、『極道の妻たち』 (’86年)、『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)など数多くの映画やドラマに出演してきた佳那晃子。’90年に売れっ子構成作家だった源さんと結婚し、4年後にはヘアヌード写真集を出版するなど、歩みを続けてきた。源さんから見た佳那は、「男っぽく、さっぱりした性格だった」という。そんな彼女に異変が生じたのは2005年のこと。血液中のタンパク質が減少し全身にむくみが出る腎臓系の疾患、ネフローゼ症候群を発症し、闘病生活を余儀なくされることに。懸命な治療の結果、4年半の年月を経て復帰するが、そこからが本当の悲劇の始まりだった──。「倒れて1年くらいは意識がなくて、私もわけがわからない心境でした。目が開いているけれど、横たわっているだけで……」暗い表情で源さんがそう回想する。2013年1月。自宅にいた佳那は突如、くも膜下出血で意識不明の重体に陥った。医師からは病状が最も重い「重度5」を宣告され、一時は脳が完全に機能を失う「脳死」宣告を受けたという。幸い蘇生措置が成功し一命を取りとめたが、それでも自分で息もできないほどだった。「もう死んだと言われていたけれど、生きて戻ってきてくれた。あとはどこまで戻すかです」(以下、源さん)そうして始まった、夫婦の長い闘病生活。なんとか「脳死」は免れたが、それでも脳の一部しか機能せず、会話はおろか、排尿や排便を制御することさえできない「植物状態」からのスタートだった。ごくまれに回復することがあるというが、絶望的な状況であることには変わりない。■看病生活は「一喜一憂しないこと」源さんは看病のため、4年ほど前に自宅の静岡県熱海市から東伊豆にある病院の近くまで引っ越したという。普段はどんな生活を送っているのか。「贅沢しなければ暮らせるギリギリの水準ですね……」今の生活を「世捨て人」と言う源さん。年金や過去の作品の著作権、たまに構成作家のアルバイトをするなどして月に20万円程度の収入を得ているが、1か月のアパートの家賃が3万5千円、佳那の入院費は12万円ほどだ。「毎日、ルーティン生活ですよ。朝7時に起きたらコーヒーをいれ、チョコレート4個と黒にんにくを2かけら食べる。10時くらいまでテレビのワイドショーなどを見て、お昼にパンを食べたら着替えを持って病院に行きます」自宅から病院までの距離は2キロほど。所有する自動車が壊れているため、徒歩で通院することもあるという。「面会は1日1時間程度。手を握って刺激を与え、声をかけてあげます。短い時間ですが、大事なのは毎日、顔を出すことなんですよ」初めは声をかけても全く反応がなかったというが、気が滅入ることはなかったのか。「自分は不運な人間だと思ったらどんどんそうなってしまう。だから淡々とやっていますよ。看病生活はマラソンより長い。日々の変化に期待しすぎると精神的にもたないので、一喜一憂しないことですね。1ミリずつでも回復しているのだから、少しでもよくなっているところを見つけたら、それを宝物にするんです」手の指をぴくぴくと動かすまで何年もかかったというのだから、気の遠くなるような話。かつて芸能界で生活を送った時代を思うと、まさに世捨て人だ。■毎日マッサージを続けたら、足が動くように地道な看病生活を続けながら、ひたすら妻の回復を待ち続けてきた源さん。あるとき、転機が訪れる。「4年ほど前ですね。毎日マッサージを続けたら、足が動くようになったんです。そして1年半ほど前にはモゴモゴと口を動かせるようになり、だんだん意識も戻ってきました。昨年の12月には流動食も飲み込めるようになったんですよ!」うれしそうに笑いながら回復の経緯を教えてくれる。以前は声をかけても反応がなかったが、今では耳もしっかり聞こえていて、アイコンタクトで返事もしてくれるという。一気に回復か、と思った矢先に立ちはだかったのが、新型コロナウイルスの感染拡大だった。「実はコロナの影響で病院の面会ができなくなり、今年の3月以降、妻に会っていないんです」本誌が取材したのは8月末。半年間、妻の顔を見ていなかった。「病院から教えてもらいましたが、今は寝た状態ではなく、座ってご飯を食べるリハビリをしているそうです。信じられませんが、“爆食い”しているみたいですよ(笑)。耳は聞こえるので、私の声を録音したボイスレコーダーを渡して、少しずつ聞かせてもらっています」■年明けにはしゃべりの訓練もできる長らく妻への面会が叶わなかった源さんだったが、9月2日、久々の許可をもらうことができた(しかし、院内でパソコンを通じたオンラインでの対面)。20分ほどの再会を終えた感想を聞くと、「声は、うなり声くらいなら出せるのですが、会話はまだできません。10月くらいからのどのリハビリを始めるので、うまくいけば年明けにはしゃべりの訓練もできるかもしれませんよ」そこまで回復すれば、自分で意思表示もできるようになる。待ちに待った、8年ぶりの「夫婦の会話」が実現するかもしれない。第一声ではどんな声をかけるのか?「“よし!よく戻って来てくれたな。全部聞こえてたろ、この野郎め!”と声をかけます(笑)」もともと海の近くに暮らしたいという佳那の要望で、熱海に引っ越したという2人。退院後は現在の東伊豆の自宅を離れ、かつて2人で過ごした熱海に戻って、のんびり暮らすつもりだという。夫の長年の懸命な看病が引き寄せた、佳那晃子の奇跡的な回復。無事にリハビリ生活を乗り越えて、早く元気になった姿を見せてほしい。
2020年10月04日ステージ4の末期がんから奇跡的に回復したけれど、東京のど真ん中で子育てと仕事の両立に奔走される日常を過ごす、私。海野優子、35歳、OL。2歳の娘はかわいい盛り。でも、時々モンスター!仕事は楽しいけど、目標と成果の間で悩むことも。娘と私。せっかく生き延びて「わざわざ生きてる」のに、私このままでいいの?これまではどうだったんだっけ——と思う日々についてつづっていくこの連載。第2回のテーマは、夫です。前回のプロローグで、私に「希望」という名のToDoリストを作ってくれた夫。実は彼、経営する会社の社員からも「サイコパス」なんて呼ばれているんです。サイコパス、いいじゃないか私は、2018年に「原発不明の硬膜外悪性腫瘍」と診断されました。(冗談を抜きにして、今頃お墓の中に入っていてもおかしくない!)そんな私が今こうしての命をつなぎとめているのは、紛れもなく「サイコパス夫」のおかげです。人に対して「サイコパス」というのは、ネガティブなワードであることは存じております。はい。夫が周りからそう言われているのは私も知っていて、共通の知人や彼の会社の人から「気持ちを全然わかってくれないんです。普通、考えたらこうなのに……」という悩みを聞くこともしばしば。「そうあってほしい」「そうだったらいいな」という希望的観測が嫌いな夫は、非情な人に見られてしまうことも多い。でも私からすれば彼は、素晴らしくシンプルで、明快で、爽快な人。こんな人、他に知りません。そして今回の闘病において、彼のその性格・言動に、私自身が救われた部分が大いにあったのでは?と思い返しています。サイコパス、いいじゃないか……ってしみじみ思うんですよね。毎日往復2時間かけて会いにきてくれた夫「打つ手なし」の状態から、夫は治療法とその治療を受けられる病院を見つけてくれました。それにより、私は自宅から1時間かかる病院に入院することに。夫は、仕事が終わるとほぼ毎日1時間、往復2時間かけて病院に会いに来てくれました。ときには病院の近くにホテルをとって、次の日の朝、仕事前に顔を見せてくれたりも。優しい。優しいのだけれども、ここで1つ目のサイコパス力を発揮します。彼は私が末期がんで命が短いことを当たり前のように理解し、冷静に受け止めていました。涙すら流さずに、私の前ではいつも笑っていました。がんになって強く実感したことの1つなのですが、がんになって一番つらいのは「自分がいなくなることで悲しむ存在を想像してしまうこと」なんです。だって死んでしまったら何もかもなくなるんだから。自分のことなんてどうでもよくって、何がツラいかってやっぱり愛する人が悲しむことなんですよね。だから、彼がいつも笑っていてくれたこと(陰で泣いていたみたいなことは、彼の性格上ないと思う)がものすごい救いでした。サイコパス、バンザイ!「優子は、どうしたい?」夫は、人生における優先度がはっきりしています。闘病中、彼は何度も私に言いました。「優子の命が一番大事だから」と。彼にとって最も大事なもの、それが私という存在。そしてそのほんのちょっと下くらいに自分の会社(社員のひと、ごめんなさい!)、その下に娘を含むその他の家族、という構成になっています。この構成は絶対的で、彼の言動はすべてこのもとに成り立っているので、1時間かけて私に好物のスイカを届けることをちっとも苦だと思わなかったそうです。抗がん剤がまったく効かず、八方塞がりのとき、彼は私に聞きました。「優子は、どうしたい?」私は一言、「生きたい」と答えました。それを聞いた彼は、次の日からとてつもなく大きな課題解決(=私を生かす)のために全力を尽くすことになります。まるで、新しいプロジェクトを進めるかの如く——。ひたすら論文を読む夫私の「生きたい」という一言を聞いた彼は、ものすごい勢いで情報収集に当たりました。社長業の合間にどうやっていたのかまったく想像もつかないのですが、何本もの論文を読み、何人ものお医者様に会いに行って話を伺ったそうです。私たち日本人って、なんとなく「先生」という存在に過度に信頼を寄せているところがあって、ましてや現代の科学でも完治の難しい癌という病気のことですから、ハナから理解することを諦めて先生の言うことを聞くしかないと思いがちです(まさに私もそのひとり)。でも、彼はそういった“他人に対する過度な期待”を持たず、わからないことは空気を読まずにわかるまで徹底的に相手に質問し、言語化させる人。忖度など一切なし、あらゆる医者からどんどん情報を引き出していきました。相手に過度な期待をしないあっさりした性格、わからないことをそのままにせず相手とのコミュニケーションを諦めないストイックな性格。この、客観的に見たらサイコパス的な彼の2つの性格のおかげで、私は自分の病気に最も効果を期待できる治療法を見つけることができたのでした。相手に過度な期待をしないことは夫婦円満の鉄則?ちなみに、夫のこの性格について「面倒じゃない?」と聞かれることもあります。でも、私にはしっくりきているんですよね。今では結婚してよかったなと思う理由でもあります。私は27歳のときに結婚して、30歳で離婚しているのですが、過去の結婚生活の反省点を振り返ると「相手に過度な期待をしないこと」は、案外夫婦円満の鉄則なのかもって思います。一見冷たいように感じますが、女の荷を軽くしてくれるという意味で、結構重要なポイントかもしれないなぁと。だって男性に”理想の奥さん像”みたいなものを押し付けられるのとか、まっぴらごめんじゃないですか?(ウートピを読んでる人ならきっと共感してくれるはず)そして「わからないことをそのままにしないコミュニケーション」も、夫婦には意外と大切な要素かもしれません。ちょっと面倒くさいなって思うことも正直あるけれど、お互いに自分の気持ちを言語化して相手に伝えることができれば、すれ違いはなくなりますし、毎日少しずつ相手のことを知ることにつながります。毎日が夫婦のアップデート。そんな感覚です。がんになってツラかったことランキングよくテレビで芸能人カップルが「理想の夫婦」「おしどり夫婦」なんて言われているけれど、あれっていったい何なんでしょうね。私は病気を経験して、少なくとも「結婚とは?」「夫婦とは?」という漠然とした問いの答えにちょっとだけ近づけたような気がしています。その理由を説明するのにちょうどいい、彼との忘れられない闘病中の思い出があります。「がんになってツラかったことランキング」の上位に君臨するのが、抗がん剤で髪が抜け落ちたことでした。これはもう本当に、理由なく落ち込みました。自分にとってこんなに髪の毛が大事なものだったなんて、ハゲになるまでまったく気が付きませんでした。すっかり「一休さんスタイル」な自分を、夫に見られたくなくって、彼が見舞いに来てくれるときは必ず帽子をかぶるようにしていました。でも唯一、入浴時は、すっぽんぽんの状態でお姫様抱っこで浴槽に運んでもらっていたので、帽子を取らないわけにはいかない状況でした。そんな私の心配をよそに、彼はまったく気にすることなく、むしろハゲた私を見られてラッキーくらいの勢いで「YUKONIC、かわいいね〜!写真撮っとく〜?」と頭を撫で笑い飛ばしてくれたのです。平成生まれのみなさんのために補足すると、ICONIQ(アイコニック)という坊主頭の女性歌手がいたんです。現在は伊藤ゆみの名前で活動していらっしゃいます。まさか、ハゲた私を愛してくれる人が世の中に存在するなんて。その瞬間、涙がでるほど嬉しかったし、この人と結婚して本当に良かったなと思いました。いつも支えてくれる夫と。夫婦は紙切れ1枚でつながってるワケじゃない彼が愛してくれたのは、ハゲた私だけではありません。膝と股関節が曲がったまま固まり、歩けなくなった私。腫瘍の影響で脇腹が膨らみ、くびれがなくなった私。長い入院生活の影響で床ずれになってしまい、尾てい骨あたりにぽっかり穴が空いてしまった私——。床ずれに関しては、完治するまでのほぼ1年間、毎日私のお尻にできたその穴を石鹸で丁寧に洗い、薬を塗ってくれました。自分の美しくない姿を好きな人に見られたくないというのは普通の感情だと思います。でも、どんな自分をも受け入れてくれる彼のおかげで、私は絶対的に破られることのない安心感に包まれ、何でもさらけ出せるようになりました。そうなんだ、夫婦って紙切れ1枚でつながっているワケじゃないんだって、病気になって初めて実感することができました。世の中はこのことを“絆”なんて綺麗な言葉で呼んでいるのかな。わからないけど、私にとって彼は、一緒にいることで自分が今までより生きやすくなる、そんな存在なのだと、今は思います。次回は、闘病中の子育てについてつづりたいと思います。(海野 優子)
2020年04月07日猛威をふるい続ける新型コロナウイルス。増え続ける感染者と死者だが、どのような検査や治療をどんな思いで受けているのかーー。新型コロナに感染し、現在、入院中の生の声を、勇気ある男性が週刊女性に伝えてくれた。保健所から受け取った消毒を命じる文書には「新型コロナ」の文字が記されているがNさんは前向きに入院生活をしている終わりが見えてないけど、コロナと僕との根比べだと思うから、絶対負けない!そんな気持ちから、僕と新型コロナウイルスの闘いをみなさんに知ってもらいたいと思い、この連載を引き受けることになりました。みなさん初めまして。会社役員、30代のNです。■風邪という診断で帰宅新型コロナに感染して入院することになりました。“コロナをぶっ壊す!”という意気込みですが、まずは、これまでの経緯をお話しします。発熱があったのは3連休明けの3月23日の夜です。38・8度まで上がりました。翌日、近所の病院で診察を受けたときは、のども腫れておらず肺の音もきれいだったので、風邪という診断で解熱剤をもらいました。25日から26日も解熱剤で一時的に熱は下がっても、また38度台まで上昇する状態が続きました。このころから、話題になっている味覚や嗅覚の不調が始まりました。肺のチクチクした痛みもです。27日に同じ病院に行くと、やはりのども肺も正常でしたが、次の週まで熱が下がらなければ、肺のX線検査をすると告げられました。解熱剤をまたもらいましたが、28日も29日も熱は一時的には下がっても再び上昇する状態が続きました。そして、30日にX線検査を受けると、肺に白っぽい霧が。先生がすぐに紹介状を用意して、別の病院でPCR検査を受けました。のどに綿棒を挿入して検体を取る検査でした。小池百合子都知事が夜間の外出自粛要請を出した日です。■そして「陽性反応」がそして、翌31日の19時ごろに新型コロナウイルスの陽性反応の連絡が電話で来ました……症状がひどかったので、やはり!と感じましたね。4月1日から入院の予定でしたが、病床が足りず重症患者を優先させたいということで、僕は2日からの入院になりました。このころから、咳がひどくなり、頭頂部が痛くなりました。でも何よりマスクで擦れた耳がいちばんの痛みでしたね。入院先へは、自宅近くに車が迎えに来て、ほかの患者と“相席”の状態で移動しました。入院初日は“検査地獄”。特に鼠径部からの採血は鬼のように痛く、身体の中にこんなに血が入っとんのか!と驚くほど採血されました。鼻に綿棒を突っ込む検査もメッチャ痛いのでもういやです!でも、病院のスタッフはすごく優しいです。感染者は病院内も歩くことができないので、テレビ視聴用のカードを買ってきてくれました。院内にあるコンビニの買い物もツケ払いで毎日してくれます。検査のときの聞き取り調査はかなり細かい内容でした。風呂のお湯は毎日替えているか、住んでいる家は木造か鉄骨かまで聞かれて、そんなことまでわからないよ(笑)。感染経路をたどるためですけど、僕は仕事でも遊びでもあちこち行く人間なので、どこで感染したかは正直わかりません。もし僕から誰かに感染させてたら申し訳ないですが、体験者の僕だからこそ、語れることもあると思います。今後、容体が急変して連載が終わらないように頑張ります。では、また来週!*都合により原稿を一部修正しました(2020年4月7日17:00)。
2020年04月07日昨年2月に閉店した東京・世田谷のテレビスタジオ・東京メディアシティ(TMC)内のカフェ「今昔庵(こんじゃくあん)」のマスター・福田起弘氏が、がん闘病中であることが分かった。旧店舗の閉店からちょうど1年となるきょう7日に新店舗をオープンする計画だったが、今春を目標に後ろ倒しするという。今昔庵のオーナー・井上博之氏と福田氏は、今昔庵の新天地でのオープン準備を進めていたが、昨年11月、福田氏が膀胱がんであることが判明。同12月に手術を行った。さらに、井上氏も心筋梗塞で倒れ、一時は再建の道を断念せざるを得ないと考えたが、福田氏は手術も成功して回復に向けて治療に励み、井上氏も普段の生活が送れるまで回復したことから、再び再建を決意したという。こうした事情により、きょう7日の新店オープンは間に合わなかったが、井上氏は「現在、止めていた準備を再開し、目標は春ですが、できればオリンピックの前までには、『今昔庵』の復活をお目にかけたいと思っております」としている。
2020年02月07日早川史哉さん撮影/矢島泰輔リバプールに加入した日本代表の南野拓実などとともに、’11年開催のU─17のW杯に出場。大学卒業後の’16年にアルビレックス新潟に加入し、Jリーグデビューするも同年、急性白血病が発症したことで戦列離脱を余儀なくされた早川史哉さん。闘病生活を経て、昨年10月に公式戦に復帰するまでの3年7か月を綴った著書『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』(徳間書店刊)が好評だ。発売前に重版が決定しただけでなく、11月にも重版されるなど、サッカーファン以外にも読者層が広がっている。■ショックよりも安堵感のほうが大きかった「サッカーしかしてこなかったけど、サッカー本にするつもりはないことは担当編集や共同制作者であるライターさんには伝えたんです。きれいごとだけではなく、病気になってからのことを包み隠さず書きました」開幕戦のスタメンでデビューするも、すごい疲労感などで思うようなプレーができずに悩んでいた早川さん。体調がすぐれないため受けた血液検査で数値が異常だったため病院で検査を受けることに。そして、医師に「白血病の疑いがある」と申告された際には、ショックよりも安堵感のほうが大きかったと振り返る。「サッカー選手としては身体がだんだん動かなくなっていくほうがショックで、サッカーが嫌いになりかけたほど。だから、その原因が病気だということがわかって、ホッとしたというのが最初の気持ちでしたね。ただプロスポーツ選手として、普通の人より健康には気を遣っていたので、まさか自分が、この年齢でこんな大変な病気になるとはまったく思っていなかったです」再検査をした際に急性白血病と診断された早川さんは、1年以上、病室で過ごすことになってしまう。「病気の苦しさからベッドからなかなか動けず、トレーニングどころではなかったので、筋力がどんどん落ちていって……。アスリートの身体から病人の身体になっていくのを目の当たりにしてショックでした。治療の関係で外に出られない期間も長かったのもつらかった。当たり前の日常を奪われた感じだったので。だから入院して3か月ほどして外出できたときは、太陽を浴びられる、風を感じられるといった些細なことが素晴らしいことだったんだと気づかされました。と同時に、筋力の低下で以前のように動けない自分の身体にもショックを受けました」■生きていることが当たり前ではないそんな中、病院で出会った同じ白血病で闘病中だった少女の死がキッカケで、生きることの重要性や明日を迎える気持ちが強まったと綴っている。「僕と同じ時期に無菌室にいた女の子なのですが、共有スペースで僕の名前を見た母親が隣でアルビレックスの選手が同じ病気で闘っていると女の子に伝えたらしく。そしたら青とオレンジのアルビレックスカラーの輪ゴムで作った花のアクセサリーをプレゼントしてくれたんです。そこから交流が始まったのですが、移植後の一時退院中に女の子の母親から、亡くなったというメールが届いて……。僕よりも若い子が亡くなったことを知らされて、この病気は絶対克服するなんてことはないんだなと再確認したし、生きていることが当たり前ではないことを実感しました」つらい出来事や闘病生活を経験したものの、運よく同じ白血球型を持つドナーが見つかった早川さん。移植手術も成功し、リハビリ期間を経て、プロサッカー選手として復帰できた。闘病生活で、トゲトゲした部分がなくなったと語る。「病気になってからはありのままを受け入れて、一歩一歩進んでいく大事さがわかったので、変なプライドがなくなりましたね。以前はサッカー選手として上を目指す過程で、周りに嫉妬することもあった。でも今は自分自身、何ができるのか?という考えになり、仲間の活躍も素直に応援できるようになりました」昨年2月、競泳の池江璃花子選手が急性リンパ性白血病を公表した際には、同じ病気から復帰したアスリートとして名前を挙げられることも多かった。しかし同じアスリートだからこそ、安易に復帰の言葉を出してほしくないと訴える。「病気の状態や進行は人によって違います。だから僕が復帰できたからといって、今の医療なら治るというものでもないことはわかってほしいし、本を書くうえでもその部分は気をつけました。また病気を克服しても、プロスポーツ選手として病気前の状態に戻すのがいかに大変なことかは、僕自身が痛感していること。周りが池江さんの復帰を期待するような言葉をかけるのは、変なプレッシャーを与えないか心配です」早川さん自身はプレーするうえで病気を言い訳にしたくないとキッパリ。「サポーターは僕が白血病だったことを知っているので、優しく見守ってくれる方もいますが、プロとして試合に出ている以上は病気だったことを言い訳にしてはいけないと思っています」プロサッカー選手として、またひとりの人間として再び歩き出した今は「楽しい」と微笑む。「つらいことも含めて、いろんなことを経験して前に進めている今は楽しいですね。人生、健康あってこそなので、この本が身体の大切さに目を向けるキッカケになってくれたらうれしいです」■ライターは見た!著者の素顔振り返るのもつらそうな闘病生活を送っていたにもかかわらず、「病気になった僕が発信する意味は大きいと思うので」と質問に真摯に答えてくれた早川さん。タイトルもいろいろ悩んだそうだが、「この病気は完治するものではなく、完結したわけではない。この本を読んでくれた方にも、その先の人生があるので」と、このタイトルに。ちなみに『ありのまま』という案もあったそうだが、「僕のありのままを書いたので、タイトルからははずしました」とのことでした。(取材・文/大嶺こず恵)●PROFILE●はやかわ・ふみや新潟県出身。『2011 FIFA U-17ワールドカップ』に日本代表として出場。’16年のJ1開幕節・湘南戦に先発フル出場デビューするも同年、白血病を発症。昨年10月5日、J2第35節・鹿児島戦で1287日ぶりに公式戦復帰を果たした。
2020年02月01日初めましての方も、お久しぶりですの方も、改めましてこんにちは。海野優子です。と、自己紹介しても「誰や?」って感じですよね。かつてプロデューサーとしてウートピに在籍し(社畜の海野Pと呼ばれていました)、六本木にあるIT企業に転職した海野です。ウートピでは度々連載にも登場(「34歳OL、がん宣告から復活までの1年間。」です。振り返ってみれば壮絶な2年間を過ごしたのだけれど、結局戻ってきたのはここ東京のど真ん中、六本木。いつもと変わらない職場であくせく働いている自分がいます(まあ、まさか自分が車椅子生活になるなんて、かなり想定外だったんですけど)。病気を経験したからといって誰かの悩み相談にズバッと答えられるスーパーウーマンにもなっていないし、普通に子育てと仕事の両立に奔走される日々。せっかく生きのびて、わざわざ生きてる、のに!(笑)そんな私の様子をみていたウートピ編集部から連載依頼が届いたのは去年の11月のことでした。病気になる前とあとのことを書いてみませんか、と。まぁウートピの頼みなら断れないでしょう。ということで、35歳OL、せっかく生き残ったので、わざわざ生きてるのに——と思う日々についてつづっていきたいと思います。現在は育児と仕事に追われる日々人生って、努力と成長でなんとかなると思ってた思えば昨年の1月。私はまだ死にかけていました。「死にかけていた」とはつまり、その時までの私は死ぬ運命にあったということです。「原発不明の硬膜外悪性腫瘍」と診断されてから5ヶ月、当時の主治医から「背骨への浸潤があり手術で取り除くことは不可能」「腫瘍が大きすぎて放射線治療はできない」「あなたにできることは、体力が持つまで抗がん剤を打つことだけ」と伝えられました。私はそのときまで、普段生きていて、どうにもならないことなんて、本当にちょっとしかないと思っていました。頑張って働けば、ほしいものは買えるし、食べたいものだって食べられる。出世したいなら、今よりもっと仕事と向き合って成長すればいいだけのこと。努力は報われる。何かがうまく行かなくっても、きっとなにかしら突破口があるに違いない。人生ってそんなものだと、疑うことなく生きていました。社畜の海野Pと呼ばれていた頃やるべきことさえあればあとはひたすら頑張るだけ。 ToDoリストさえ見つかれば乗り越えられるはずなのに、医師は無情にもそれが「ない」と言います。やれることはただひとつ、効果があるかもわからない抗がん剤を投与することだけ。髪は抜け落ち、食欲は減退。だけれども、私にできること、抗がん剤、だたそれだけ。その唯一のToDoを握りしめて、毎日がんと戦うしかありませんでした。しかし皮肉にも、私の身体の中で大きく膨らんだ癌細胞は、小さくなるどころか、日に日に大きくなるばかりでした。これが「死にかけていた」の所以です。ものすごく近いところに、死というものを感じていました。「死ぬまでにしたいこと」なんてない死を間近に感じるという感覚。それは、自分の未来が消えるということ。経験したことのない人には理解しがたい感覚だと思います。たとえば「どんな服を着て出かけるか」を考えるとき、素敵な出会いがあるかもしれないし、それをキッカケに付き合うことになって、めでたくゴールイン!なんてこともあるかもしれません。これが、未来があるということ。(たとえがコンサバなのは片目をつぶってください)未来がないというは、その逆。今日着る服も、今日食べるものも、今日自分が発する言葉も、何もかも、意味がないもの。どうでもいい。どうせ私は死ぬんだから。だいぶ昔に「死ぬまでにしたい10のこと」って洋画を観たけれど、あんなの大ウソだなと思いました。やりたいことなんて、ねーよ。死んでしまったら、何もかも消えてしまうんだから。今日この私が何をしようが、未来は何も変わらないんだから。そんなことを考えていたある日、テレビから清涼飲料水のCMが流れてきました。「私は今日も生きている〜♪」。世の中のものが、未来がある前提でできている。当たり前のことなんですが、そんな些細なことが私の心を突き刺し、切り刻みました。また、そのころは友人たちとの連絡も絶っていました。未来のない私と話してもしかたないだろうと思っていたのです。夫がくれた新たなToDoリスト孤独の壁を作っていく私を支えてくれて、私に新しいToDoリストを作ってくれたのは、夫でした。「こんな新しい治療があってね、ネットで調べて、今日先生に会って話を聞いてきたんだ。」夫が私にイラスト付きのかわいい冊子を見せてくれました。夫が優しく、わかりやすく、丁寧に説明してくれた治療法は(私にはもちろん難しくてよくわからなかったのだけれど)とにかく私の病気に効果があるかもしれないということでした。治療法が目の前にあるということを知ったとき、本当に嬉しかった。抗がん剤以外に、生きるためのToDoリストができた!頑張れること、やれることがあるってなんて幸せなことなんだろう。がんを宣告されてからずっと絶望の中にいた私にとって、それはまさに希望でした。「そうかー、希望ってこれのことだったのか」。人生で初めて、希望という輪郭のないものを手に取るように感じ、その日の夜は少しだけ気持ちが明るく、軽くなったのを覚えています。この時点で私が生きられる確率は、たぶん1%くらい。希望を見つけたとはいえ、ステージ4の末期がんであることに変わりはなく、大きな塊は確実に私の身体の中に存在し、身体を蝕んでいました。でもこの日を境に、未来というものが再びうっすらと現れ始めたのです。そのあと私は、新しい治療をはじめるため、自宅から1時間かかる病院に入院することになりました。この病院で受けた治療が思った以上に効果を発揮し、いまこうして再びつなぎとめた未来に続く道を歩み始めることができています。私に生きる道を与えてくれた夫は、治療の過程で車椅子生活をすることになった私を献身的に支えてくれていて、感謝しない日はありません。次回は、そんな夫とのことをつづりたいと思います。(海野 優子)
2020年01月16日タレントの堀ちえみ(52)が10月20日に、闘病生活をつづったエッセイ『Stage For~舌がん「ステージ4」から希望のステージへ』の発売イベントを都内で行った。各メディアによると、堀は2月に病気を公表してから約8カ月ぶりにファンと交流したという。そんななか、堀は同日に「本当にありがとうございました。」というタイトルでブログを更新。《青山ブックセンター本店にて、発売された私の本、「Stage For~」のサイン会と発表会が、無事に終わりました》と報告した。そしてイベントを無事に終えたことについて、《沢山の愛に包まれて、私は本当に幸せ者だと思いました。皆様に支えていただき、今日の私がいるのです。そして私なりに様々な苦悩もありましたが、このような日を迎える事ができ、いろいろと頑張ってきて、本当に良かったと…心から皆様に感謝》と感謝の気持ちをつづった。この堀の報告にファンからはブログでエールが続々と寄せられている。《ちえみちゃん昨日はサイン会本当にありがとう。ちえみちゃんの元気な姿を見て嬉しくて絶対泣かないと決めてたのでsmileで会うことができました またきっと歌ってくれると信じていつまでも待ってるからね》《ちえみさん お疲れ様でした大盛況ぶりと皆さんの温かさかを何だか伝わってきます。今日はゆっくり休んで下さい》《本出版とサイン会、大変お疲れ様でした 体調もよくなってきてるようで安心しました これからの活躍も期待しております。お体お気をつけて頑張ってくださいませ》「堀さんが患った舌がんは、『ステージ4』と診断されました。堀さんは今年2月に舌の約6割を切除し、太ももの組織を移植して再建するという大手術を受けました。さらに手術後、食道がんも発覚。幸いにも早期発見で短時間の手術で済んだようです。堀さんは現在も発声のリハビリに励んでいますが、声を十分に出すのはまだ時間がかかるでしょう」(芸能関係者)大手術を乗り越え、現在もリハビリに励む堀。2022年にはデビュー40周年を迎える。そんな彼女の“完全復帰”をファンは心待ちにしている――。
2019年10月21日2018年のアジア大会の競泳で大活躍した池江璃花子選手=ジャカルタ(共同)7月30日に閉幕した第18回世界水泳選手権大会。瀬戸大也が2つの金メダルを獲得したものの、女子は大橋悠依の銅メダル1つ。やはり池江璃花子というエースの不在は来年開幕となる東京オリンピックに不安を残す結果となった。そんな大会中、ファンの心に刺さったのは、女子100メートルバタフライ決勝の表彰台に上がった3人が、池江に向けて応援のメッセージを送ったシーンだろう。それぞれの手のひらには「Rikako」「ハート」「NEVER」「GIVE UP」「Ikee」「ハート」とあった。それに対して池江はSNSで《ありがとう、みんな大好き》と答えた。彼女の存在感の大きさがわかるエピソードだった。気になるのはそんな池江の現状だ。今年2月に白血病を公表してからはや半年がたつ。6月に一時帰宅したことをSNS上で笑顔の写真とともに報告していた。現在は、どの程度まで治療は進んでいるのか。医療ガバナンス研究所理事長の上昌広氏に聞いた。「詳細は未公表ですが、彼女の場合は “急性リンパ性白血病”だと思います。その場合、まずは複数種の抗がん剤を注射する“寛解導入療法”が行われ、骨髄の白血病細胞を完全に死滅させます。正常な骨髄へ回復してきたら骨髄に残った腫瘍細胞を消滅させるための“寛解後療法”を行います。それによって骨髄の白血病細胞を完全に死滅させます。その時期は入退院を繰り返しながら抗がん剤治療を行うので、一時帰宅はそのタイミングだと思います」一時帰宅は回復の兆しというよりは、あくまで治療期間中の合間と語る上氏。「白血病は若ければ若いほど完治しやすい。4~5歳の子どもだったらほとんどが完治します。しかし50歳以上となるとかなり治りにくいと言われます。池江さんは19歳、その中間と言えますね。このまま回復すれば、あと1年ぐらいで日常生活は送れるでしょう。もしそうでない場合は、いよいよ骨髄移植になり、より時間がかかりますね。今はちょうど治療の折り返し地点。完治してからアスリートとして復活するには、さらに時間が必要だと思います」■池江の祖父「つらいらしい」いまだ予断を許さない状況のなか、彼女の親族は何を思うのか。池江の実家近くに住む祖父を直撃した。─池江選手のご容体は?「いや……、あまりよくはないです」─一時帰宅で、体調はよくなっているようですが?「抗がん剤治療をしているから、つらいらしいです」─一時帰宅された際のホームパーティーには参加されていない?「いや、私は行ってないですし、入院してからはほとんど会ってないんですよ」─東京オリンピックまでに回復して、選手として参加できると思いますか?「まあ、厳しいでしょう。今は治療に専念してほしい。わざわざ来てくれたのに、あまり話せなくて申し訳ないね」その丁寧な語り口には、無名のころから応援してきた大好きな孫に対する深い愛と病に対する心配がにじみ出ていた。今はメダルより、病の完治を祈るばかりだ。
2019年08月14日4月22日、公式サイトで岡村孝子(57)が急性白血病のため長期治療に入ると発表された。闘病に伴い、6月から予定されていた6年ぶりのコンサートツアーの中止も決定。実は、彼女が数年前から準備を続けてきたイベントにも参加できなくなってしまったという。「全国植樹祭愛知県実行委員会」の樋口浩司さんは本誌にこう打ち明ける。「岡村さんは16年4月から『LOVEあいちサポーターズ あいち音楽大使』を務めています。そのご縁で、今年6月に愛知県森林公園で開催される『全国植樹祭』のイメージソング制作もお願いしたのです。新曲『と・も・に』は昨年5月に完成しており、岡村さんは当日の式典に参加して歌を披露する予定でした」6月2日の『全国植樹祭』式典は新天皇皇后両陛下にとって初めての地方ご公務であり、早くも注目を集めている。そして岡村は、新天皇と雅子さまの御前で歌うことを楽しみにしていたようだ。樋口さんが続ける。「ふだんのコンサートは夜の公演が多いのですが、式典は午前中に開催予定です。岡村さんは出演しているインターネットラジオ番組で『朝からしっかり声が出るかしら。今から生活を朝型に変えないと!』と話していたそうです……」雅子さまは63年生まれの55歳、岡村は62年生まれの57歳と同世代。雅子さまのご成婚が発表されたとき、30歳だった岡村は93年1月7日付の朝日新聞にこんな祝福のコメントも出している。《誠実でやさしそうな皇太子殿下と、外交分野でのキャリアを積んでいらっしゃる小和田さん。素晴らしいロイヤルカップルの誕生で、私までうれしくなってしまいます。日本をより適切にアピールして下さると信じています》さらに6月9日のご成婚の日にも、岡村は慶祝ソング『フォーエバー・ロマンス』を発表していた。当時から岡村を知る音楽関係者はこう語る。「お二人の永遠の愛を歌い上げたバラードで、日本テレビのロイヤルウエディング特別報道番組のテーマソングにもなりました。岡村さんは雅子さまをずっと尊敬しており、今回も雅子さまの前で歌う機会が与えられたことを本当に喜んでいたのです。それだけに白血病闘病のために辞退しなくてはならなくなったことはとてもつらかったでしょうね……」当日は晴れ舞台に立つことができなくなった岡村だが、撮影された彼女の映像が会場で流される予定だという。「式典まであと1カ月あまり。映像の準備など、私たちも慌ただしく対応を続けています。岡村さんが出演できなくなったことは本当に残念です。しかしお預かりしている楽曲を最大限に活用して、今回の植樹祭を成功させたいと思っています」(前出・樋口さん)これまで数々の苦難を乗り越えてきた岡村。雅子さまへ歌を捧げる夢をあきらめることなく、きっと再び元気な姿でステージに立ってくれるはずだ――。
2019年04月30日12月22日、歌手のmisono(34)がブログを更新。夫でHighsidEのドラマー・Nosuke(29)が「精巣がんによる胚細胞腫瘍で闘病中」と公表したことで、一部から「売名」と言われていることへ反論した。今月16日、自身のブログで闘病中であることを公表したNosuke。その後、misonoがメディアの取材を受けたことについてネット上で「売名行為」との批判が上がっていた。この日、《ちょっと『売名行為』という言葉が、ピックアップされすぎてるように感じるので》とブログにつづったmisono。12月はもともとオフがないなか、公表後に受けた仕事が5つだったと告白。公表したから仕事が増えたわけではないと反論した。にもかかわらず「倖田來未のみならず、また“家族や病気”を利用してる」などの声が寄せられていたというmisono。《自分への誹謗中傷は全然、良いのですが》とした上で、夫にも売名批判が上がっていることへ《これまで…Nosukeは「misonoや倖田來未という名前を、ほとんど掲載して来なかった人」です》とつづった。これに対して、Twitterでは《自分の旦那がガンになってまで売名行為とか言われてmisonoちゃん可愛そうすぎるだろ‼︎》など、応援の声が。また《冷たい世の中だよね》《日本人の思いやりはここまで荒んでいるのか?》など、心ない言葉が増えた社会への批判も上がっていた。「今のネット社会、叩かれる人は何を言っても叩かれる傾向が強まっています。普通のお弁当写真をアップするだけで炎上する芸能人もいるほど、異常な状態です。昔の日本では、闘病中の人やその家族を揶揄するなんてありえませんでした。misono さんにこうした反論をさせなければならなかったこと自体、恥ずべきこと。今回の彼女の勇気ある発言を、もっと広げていかなければならないと思います」(音楽関係者)
2018年12月22日大塚美絵子さんがんを診断された人の約3割は40~50代で、いわゆる働き盛りが占めていることをご存じだろうか。仕事や家庭での責任が重くなる年代で病魔に襲われた場合、多くの“対処すべきこと”が一気に押し寄せる。ここに登場する、卵巣がんを患った大塚美絵子さん(57)のように、おひとりさまで高齢の親を抱える身となれば、なおさらだ。なかでも、お金の問題は安心して治療に専念するうえでも特に重要だろう。大塚さんに、自らの経験をもとに「がんとお金」について語ってもらった。■傷病手当も失業手当も出ない?大塚さんは、それまで勤めていた会社と退職の合意後、有給休暇を消化している最中に卵巣がんが見つかった。「6月に退職を決め、辞令は7月末付だったのですが、6月下旬からお腹が膨れはじめ、7月に入ると急激に体調が悪化しました。ですから7月は1度も出社することなく職場から消えた形です」と、当時を振り返る。その後、入院中に同室の人から、傷病手当の話を聞いた。「実は、退職時には健康保険組合の傷病手当金の制度を知らず、人事部からの説明もありませんでした。さっそく会社に問い合わせたのですが、制度について担当者の勘違いから要件に当てはまらないと突っぱねられてしまったのです。当時も“おかしいな”とは思いましたが、“がん保険もあるし、失業手当をもらえばいいか”などとのんきに構えていたのを覚えています」ところがハローワークでは、療養中の場合、失業手当を支給できないと告げられてしまう。1回目の化学療法を終えたばかりのころだった。「手術ができるかどうかもわからない、ただでさえ精神的にもつらい時期。傷病手当も失業手当も出ないと言われ、目の前が真っ暗になりました」その後、元いた会社の人事部や県庁、都の産業労働相談センターなどに何度もかけあい、最終的に傷病手当金530万円、失業手当金190万円を受給することができた。「さらに高額療養費制度を利用し、がん保険にも加入ずみだったので、高齢の母と同居中で独身の私も、治療に専念できました」■経済難は続く無事に治療を終えた大塚さんだが、その後の環境の変化に大きく戸惑った。「がんサバイバーの多くの方がぶつかる“第二の壁”と呼ばれるものでした。治療を終えれば、もとの身体に戻り、社会復帰して病気前の日常に戻れると期待していました。でも、思うように体力は回復せず、判断力も低下し、再就職も進まなかったんです」大塚さんは、収入は減るのに支出が増えるという苦しい状態に陥ってしまう。無事に治療は終えたものの、医療費以外にかかる“がんサバイバーとして生きるための出費”が想像以上に多かったためだ。例えば、服や下着、靴などは、治療後の身体の状態にあったものを新たに購入する必要が出てくる。「足のしびれが2年以上も続き、ヒールの靴ははけなくなりましたし、洋服のサイズも大幅に変わりました。またリンパ浮腫などの後遺症が出れば、弾性ストッキングなどの医療用着衣は必需品に。脱毛があれば、ウイッグや帽子も必要です」体力が十分に回復していないため、「タクシーなどの交通機関を使わざるをえない。当然、交通費は増えていく」状態。身体の変化はライフスタイルにも影響する。「胃腸の不調が1年以上続いたため、以前のようにファストフードやコンビニ弁当で食事を適当にすませるわけにもいかない。体力を回復させるためにも健康的で胃腸にやさしい食生活を心がけると、結果的に食費は増えるわけです」現在は自身の療養時の経験を生かし、医療用の弾性着衣を扱うビジネスを起業した大塚さん。モットーは、『患者の、患者による、患者のためのお店』だという。告知から6年が経過し、大塚さんはこう話す。「がん患者、がんサバイバーの生活をより快適にするために、情報や製品を提供し続けていきたいです」大塚美絵子さん◎医療用弾性ストッキング・スリーブ小売販売店『リンパレッツ』代表。大手監査法人退職直前の2012年に卵巣がん(漿液性)を発症。闘病を続けながら、’16年に現在の店舗を開業。がんとお金の勉強会ではプレゼンターも務める。
2018年09月29日白戸ミフルさん世代もタイミングも問わず発症するがん。突然の宣告を受けたら、気持ちは、身の回りはどうなる?飲み会や合コンに明け暮れ人生を謳歌していたものの、ある日突然、重度の乳がんであることが発覚した白戸ミフルさん(40)に、闘病中の悲喜こもごもを語ってもらった。■「身体は元気なのに、もう生きられないんだ」「がんになる前は、超チャラい“パリピ(パーティーピープル)”だったんですよ」と語る白戸ミフルさん。お酒もタバコも大好き。30代には週3~4回の合コンをこなし、週末はゴルフやイベントに繰り出す。朝まで飲む日もしばしば。そんな生活でありながらも、健康診断の結果はいつもオールAだった。ところがある日のシャワー中、右胸にしこりのようなものを見つける。不安を抱えながら会社で健診を受け、さらに精密検査をしたところ、乳がんと診断された。「35歳のときでした。初めはしこりかどうかわからないくらいだったのに、3か月後にはめちゃくちゃ大きくなって、わきにもいくつかしこりがあって恐怖に陥りました。診断結果はステージ4。ネットで調べると5年後の生存率は20~25%ということでした。身体は元気なのに、もう生きられないんだ、いっぱい遊んで無茶をしたからだ、と泣いてばかりでした」手術前に抗がん剤治療を始めることになったが、特に夜はひどく情緒不安定になった。いろいろなことを考えてしまい、泣きながら眠りにつく毎日だった。「それまで考えたこともなかったですけど、人生って終わるんだ、と感じました。やりたいことを“いつか”ではなく、すぐにやらなくちゃと思いました。ずっと人に流され続けていたので、自分で人生を意味のあるものにしたくなったんです」白戸さんには「いつか漫画家になる」という夢があった。それを実現させるため、道具をそろえてマンガ教室に通い始める。毎日が急に新鮮になった。一方、当時付き合っていた8歳下の彼氏に病気を打ち明けると、「ボクが心の医者になるよ」と優しく受け止めてくれた。しかし、闘病生活が始まり、いざ白戸さんが甘えてわがままに振る舞うと、あっさりと去っていった。過酷な闘病中での失恋は心底、落ち込んだ。抗がん剤治療では吐き気のほか、大量の抜け毛もあった。シャワーでごっそり抜け落ちた髪の毛が、べっとりと手に張りついたのを見て“これはきっと海苔だ”と思った。頭ではわかっていたものの、現実を受け入れられなかったという。「でも、だんだん慣れてきたんです。いいこともけっこうあったし。まず食欲がないからやせたし、抗酸化作用の高い野菜をたくさん食べるので、便秘が解消して肌がツヤツヤでキレイになりました。それに、身体中の毛が抜けるので、手足も脱毛いらず。眉は描いて、まつげはつけまつげに。2000円ぐらいのファッションウイッグをショートからロングまでそろえて、休日は気分で使い分けたり」合コンではかなりモテたという白戸さん。何人かとデートしたり、お誘いに心が動いたり。頻度は減ったものの、治療中も合コンや飲み会に参加して、お酒も飲んでいたというのだ!「私は人と会話をして、お酒を飲むことが大好き。がんにストレスは禁物なので、お酒の量に気をつけながら楽しんでいました」ただ、恋愛にはあまり積極的になれず、それよりもマンガを描くことに力を注いできたという。がんと診断されてから5年、手術と術後の放射線治療を経て、長らく続けてきたホルモン治療も、もうすぐ終わろうとしている。マンガは出版社に持ち込んだ合コンマンガが電子書籍で出版され、デビュー。今年6月には、がん闘病マンガが出版された。「いまは平日が会社員、週末は漫画家兼ライターの二足のわらじです。合コンは週1回ぐらいに減りましたけど、お酒はフルに飲んでいますし、最近は“せんべろ(1000円でべろべろに酔える飲み屋)”がマイブームです。いまこうして生きているからこそ言えますが、乳がんになってよかったと思う。そうでなければ、きっとまだ合コンばかりして、時間が有限だなんて気づきもしなかったでしょう」そう語る白戸さんのいまの目標は、「漫画家兼ライターの仕事だけで生活できるようになって、世界一周婚活の旅に出かける」こと。白戸さんが各国から渾身の婚活レポートを送る日は、そう遠くないかもしれない。白戸ミフルさん◎タレント活動、広告代理店を経て、現在は化粧品メーカーに勤務しつつ、漫画家、ライターとして活躍。著書『乳がんステージ4だった私が、それでも合コンに行きまくって救われた話』(キノブックス)が話題。
2018年09月27日美と健康を極めて、多くのファンの支持を集めてきた。その並々ならぬ努力の蓄積は、愛する家族の闘病に際しても大きな力を発揮してくれた――。 「’14年8月、病院で母がピロリ菌の検査を受けたところ、担当医から『お母さんはピロリ菌どころか胃がんになっています』と、突然告知されました。それもステージ4。『このままだと、あと3カ月で胃のすべてががんに侵され、腸閉塞になる』と……。それをイタリアにいたときに聞いた私は、頭の中が真っ白になりましたね」 当時の心境をこう振り返るのは “吉本の美容番長”こと、シルクさん。 このたび累計40万部を突破した人気シリーズの4作目となる新著『シルクのべっぴん塾筋膜ゆるトレ』(ヨシモトブックス)を出版した彼女。その本のあとがきで、母・粕谷富美子さん(85)が胃がんで余命6カ月の宣告を受けたことを初めて明かしたのだ。 「がん告知を受けてから1カ月後に胃を全摘しました。ところが腹膜播種といって、すでにいろんなところにがんが散らばっていることがわかりました。担当医からは『余命6カ月~1年を覚悟してください』と言われ、めちゃくちゃショックでしたね。というのも、その半年前の健康診断では、なんの異常もなかったからです。しかし救われたのは、母が『三途の川わたるのに、六文銭があれへん。あんたら持ってるん?』って(笑)。こんなときでもユーモアを忘れない母に勇気をもらい、とにかく苦しみが少ない方向でいこうと決心しました」(シルクさん・以下同) その場にいた2人の妹たちに、「もっと母に生きてもらって、これからの6カ月をみんなで頑張ろう!」と声をかけたのだ。そこから3姉妹が手分けをしながら、胃がんが寛解した人たちなどの本を、片っ端から読んでみた。 「とにかく胃がんに関する、あらゆる情報を3人で集めました。がんは遺伝もありますが、その原因の多くは食事とストレスによるものだと。だからまずは、母の食事を全面的に変えていこうということを決めました」 胃を全摘した富美子さん。これからは、胃腸に負担のかかる普通の食事はできない。 「普通だったら32回かむところを倍かまないといけない。そのためには元の食材を細かくする必要があるので、すぐにフードプロセッサーを買い、食材をすべて細かくして料理を作るようにしました」 野菜ソムリエプロの資格を持つシルクさんだが、食材選びから調味料、そして調理法に至るまで、これまでの食生活を根本から覆すほど猛勉強したという。とくに調理法では、油で揚げる・焼くといった料理が激減。土鍋や蒸し器を使った、蒸す・煮る料理を中心に考えた。 「猛勉強したおかげで、私自身の食生活が間違っていたことに気づきました(笑)。母が退院してからは、まず野菜で食物繊維を取り入れてから、バランスよく魚や肉に移行していきました。発酵食品も必須です。ただし、わずかなミネラルしかない白米はNG。体にすごく負担をかけてしまいますから。穀類は玄米のおかゆが基本です。朝は小松菜やりんごをスムージーにして、毎日飲むようにしました」 そしてシルクさんが、食生活の改善と並行して取り入れたのが、筋力トレーニング。その理由は? 「母は82歳のときにがんの手術をしました。年齢とともに筋力が衰えてくると、家の中で転倒して複雑骨折することもありうる。そこから再び入院となれば、さらに筋力が落ちていく。そうならないために、自分のピラティスインストラクターの知識を生かしつつ、どこでも使えるフレックスバンド(ピラティスで使う伸び縮みするバンド)で、無理なく足腰を鍛えてもらうようにしたのです」 さらに「筋膜」と呼ばれる、筋肉を包み込んでいる膜をゆるめるための簡単なエクササイズも日課に加えた。 「軟らかいスーパーボールを使って、顔や足裏をコロコロと刺激してほぐすだけのトレーニング。顔や足裏の筋膜が癒着すると、濁ったコラーゲンがたまり、顔のシワ、しみ、たるみが増える。それを正常に戻すことで、血流やリンパの流れも改善できます。毎日やっているので、母のおでこにはシワがありません」 余命6カ月を宣告された富美子さんだったが、全摘手術から3年6カ月を経過した今もお元気だ。 「触診するとがんはあるんです。でも、大きくなっていない。抗がん剤の量も通常の半分にしてもらっています。担当医の先生も『奇跡だ』とおっしゃっています」
2018年04月13日植本一子さん撮影/吉岡竜紀『かなわない』『家族最後の日』、そして本書『降伏の記録』(河出書房新社)。これらの著書で、写真家の植本一子さんは、自分と夫であるラッパーのECD(石田義則)さんと2人の娘との生活を綴(つづ)ってきた。夫との距離、愛した人のこと、母との絶縁、義弟の自殺などの出来事をどう受け止め、どう感じたかを率直に記している。■夫との決定的な出来事を書かずにいられなかった今年1月24日、ECDさんは末期がんの闘病を経て亡くなった。植本さんに話を聞いたのは、その半月後のことだった。「石田さんのお別れの会も終わって、いまは部屋の片づけをしています。この間、娘たちがECDのPVを見て、上の娘は号泣したけど、下の娘は“お父さんがいないってことがまだ分からないから泣くことはできない”って困った感じでしたね。どちらも素直な反応だなと思いました。わたしは……自分でもよくわかりませんね。でも、亡くなる直前のころよりは優しい気持ちになれたかもしれません。もういないので遅いんですけど」植本さんは、これまで日記という形式で文章を書いてきた。なぜ、こういうスタイルを選んだのだろう?「エッセイも頼まれたときに書きますけど、やっぱり受けてやっている仕事という感じで、日記がいちばんストレスなく書けますね。文字数を気にせずに、その日にあったことを述べればいいので、わたしには合っていると思いますね」しかし、本書の巻末には、「降伏の記録」という長い文章が付されている。これは日記ではない。「日記の部分を書き終わって、どこか足りないなという気持ちがありました。その冒頭の部分を書いたときに、石田さんに対して、いなくなってほしいと思ったんです。その決定的な出来事をいま書かないと何かが逃げてしまうと思って、書いたんです。いつもは生活の合間に書くんですが、このとき初めて、子どもたちを人に預けて、この文章を書きました」結局のところ、夫は自分に向き合っていなかったのだという怒りが、植本さんにこの文章を書かせた。しかし、それを読んだはずの石田さんからはなんの反応もなかったという。「石田さんはわたしがつくるものを楽しみにしていたし、自分がどう描かれているかも気にしていたから、本が出た時点ですぐ読んだと思うんですけどね。わたしも聞くことはしなかったです。やっぱり、どういう反応が返ってくるのかが怖かったんだと思いますね。摩擦を起こしたくないという気持ちもありましたし、それに、書き終わった時点で、自分のなかでは完結しているんです」■まっとうな人生だったら文章なんて書いていない植本さんが初めて文章を書いたのは、ECDとの共著『ホームシック生活(2~3人分)』に載った出産を振り返る一文だった。「入院していた産婦人科が変わったところで、このときのことを忘れたくなくて書いたんです。自分の揺れ動く気持ちを書くというスタンスは、いままでずっと変わっていないですね」では、仮に波風の立たない生活を送っていたら、植本さんは文章を書くことはなかったのだろうか?「そう思うんですよ(笑)。この本を書いたあとしばらく休んで、カウンセリングに通っていたんですが、そのとき“まっとうな人間になりたい”と思ったんです。石田さんが亡くなるまでの3か月は、本当に苦しかったですね。末期がんの夫のそばにいると、自分のなかにある醜い感情に耐えられなくて、文章なんて書けなくてもいいから、もっと優しい人に変わりたいと思っていました」本書には「重要な他者」という言葉が出てくる。植本さんにとってのそれは、石田さんであり母だった。「本当は重要な他者がたくさんいるほうがベストですよね。その人とだけになると、0か100かの関係になりやすいです。実家の母とは、いまでも距離を置いたままですね。その関係は変わらないと諦めているけれど、どこかでいつか変わることがあるんじゃないかと期待もしています」書くことから離れていた植本さんは、石田さんの葬儀の翌日からまた日記を書き始めた。「石田さんが亡くなるまでの間のことで、残しておきたい言葉や情景があったから、忘れてしまうのは惜しいと思ったんです。精神的にも解放されたせいか、すごくフラットに書けるんですね。いまは書きたくて書いている感じです」一方、写真についてはどうだったのだろうか?「わたしの場合、写真は記録を残すという面が大きいです。作品をつくるという意識よりも、家族のアルバムをずっと撮りつづけてきたという気がします。亡くなるまでの3か月は、撮った枚数はすごく少ないですね。いまは文章に比べると、写真に対してそれほど敏感ではないのですが、徐々に感覚が戻ってくればいいと思います」安定を求めつつ、不安定な方向へ向かってしまう自分を「不幸な体質です」と言いつつ、植本さんはきっと、これからも書くことから離れられないだろう。■ライターは見た! 著者の素顔植本さんの最近の楽しみは、子どもたちと一緒にNintendo Switchで遊ぶことだという。「みんなでマリオカートで対戦しています(笑)。これまでゲームをやってなかったので、楽しいですね。以前はそういうひまがあれば、本を読んだり美術館に行ったりすべきだと思っていました。あと、Netflixに入って、韓流ドラマを見まくっています。なんだか現実逃避していますね(笑)」。植本さんの日記にゲームやドラマが登場する日も近いかもしれません。<プロフィール>うえもと・いちこ◎1984年、広島県生まれ。2003年、キヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞し、写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PVなど幅広く活躍中。著書に『働けECDわたしの育児混沌記』『かなわない』『家族最後の日』がある。(取材・文/南陀楼綾繁)
2018年04月02日1月30日に亡くなった有賀さつきさん(享年52)。人知れず闘病生活を送っていたが、有賀本人は死期を悟っていたようだ。 有賀さんは昨年末までに銀行口座などを整理し、年明け以降の仕事も家族の介護などを理由に断っていたという。フジテレビに同期入社した八木亜希子(52)は訃報を受け6日、同局の「とくダネ!」にVTR出演。昨年は有賀と会う機会がなかったが、年末まではLINEでやり取りをしていたと明かした。 「もちろん彼女はそういうこと(=病気のこと)を言わない人なので、全然そういう様子はなくて。昔からあんまり人に辛いこととかを言わなかったり、なんでも1人でやってしまったり、頼らない人なので…」 とはいえ、周囲の人間はその異変に気づいていた。有賀の先輩にあたる山村美智(61)は6日、自身のブログをアップ。昨年7月、有賀さんに「痩せた?」と指摘したときのことをブログで回想している。 「痩せすぎなようにも、少し思ったけれどいつもダイエットに失敗した話を聞いていたので良かったね、と答えると彼女は、嬉しそうに笑ってくれました」 髪質の不自然さにも気づいていたが、有賀さんは「これ、カツラなんですよ!」「カツラ、便利ですよ」とすかさず返したそうだ。 山村は「とくだね!」に5日、電話出演。当時は有賀の体調について心配になったものの、明るく振る舞う様子を見て「仕事に対する意欲や、頑張って生きていかなきゃという思いがヒシヒシと伝わってきました」と語った。 昨年2月、有賀さんにとって最後の更新となったブログには「私は抱え込むタイプなんです、、、」とある。その言葉は、彼女の心の叫びだったのかもしれない。
2018年02月06日1月4日に亡くなった星野仙一さん“燃える男”として楽天をはじめ、北京オリンピック日本代表の監督にもなった星野仙一さんが、1月4日にすい臓がんのため、この世を去った。■20年来の友人にも知らせず昨年12月1日には大阪で自身の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われていたほど。これが最後の公の場だった。「11月28日にも東京で殿堂入りを祝うパーティーがあり、メジャーリーグで活躍する田中将大選手も駆けつけるなど、とても盛大な会でした。監督も終始ごきげんでしたが、いま思えば少し顔がほっそりしていましたね。ただ、元気に壇上で話をしていらしたので、まさかこんなにすぐ亡くなるとは……」(プロ野球関係者)星野さんが闘病中だったことは、家族と楽天球団のごく一部の幹部しか知らなかったという。20年来の友人である不動産会社経営者である高山右近氏にも、それは知らされていなかった。「水くさいなって……。“女性がいる部屋にまで入ったのは、お前だけじゃ”って仙ちゃんは言ってたのに、知らせてくれないなんて……。最後に話したのは昨年11月くらい。仙ちゃんが福岡にいるって言ってて、私が岡山に行ってたもんだから、“そっちに行こうか?中洲に飲みにでも出ようか?”って話したら、“忙しいけどのお”って言うんで、それで行かんかったのよ。でも、そのときにはがん治療しとったんだもんね。よく選手の話をしてくれたけど、ある日“マー君には世話になった”ってボソッと言ったんよ。選手のことをそう言ったのは初めてだったので、すごく覚えているんですわ。最後にパーティーで彼に会えて、うれしかったんじゃないかな」■諦めた夢年間140試合以上あるプロ野球の世界、監督ともなるとなかなか自分の時間が持てない。それだけに、阪神の監督を辞めた’03年からは高山氏とより親密になった。「東京でテレビの仕事なんかが多くなったもんだから、ホテルオークラには週に2回は来とったからね。食事をして飲みに行くんだけど毎回、財界の偉いさんたちと飲みに行きましたよ」(高山氏)阪神の監督を辞めたあと、星野さんはアメリカのマイナーリーグのチーム買収に動いていたという。高山氏も奔走し、具体的な段階にまで来ていたというのだが─。「アメリカのチームを持ちたいというのは、ずっと夢だったみたい。日本ではプロになれなかった選手を向こうに連れていって鍛えたいって。交渉も大詰めまで行き7億円くらいで話はまとまった。仙ちゃんは10億円くらい用意しとったのよ。だけど、ちょうど同時期に娘さんが嫁いだ病院の経営状況が悪くなったらしくて、その貯めたお金をポンと全額渡しよった。即断即決だったなあ。それで、“高山、悪いなあ”って。でも、普通は男の夢をそんな簡単に捨てられないじゃない。それから、アメリカの話はひと言も話さなくなった。その決断の早さが彼らしいね」(高山氏)星野さんは、その娘さんが嫁いだ病院に入院し、最期を過ごした。非常に現実主義者だったという星野さんだが、3年ほど前に彼を震撼させるある出来事があったという。■500万円かけて生き霊のお祓い「赤坂のクラブで台湾から来た占い師とその付き人、それと仙ちゃんと私と4人で飲んでたのよ。そうしたら占い師が“監督、言いにくいのですが、生き霊がついてます”って。“誰ですか?”って仙ちゃんが聞いたら、“野村監督です”と。聞いた途端に顔色がサッと変わったのよ。そしたら2日後に“祓いに行く”って言って静岡県の浅間神社に行って、そのほかに8か所の神社を巡って。タクシーを貸し切りにして回っても、最後のほうは暗くなっていたからね。500万円くらい用意して、それを30袋くらいに分けて持っていくのよ。神社に着いたら鳥居の左側を3回まわって、1つの神社にお金の入った紙袋を3つ4つ、本殿の脇の茂みにポンって投げ入れる。別に本殿でお祓いしてもらうとかじゃないのよ。それにしても、野村監督って聞いたらびっくりするくらい顔色変わったから、何か心あたりがあったのかも……」(高山氏)■2人の女性数々の浮名も流した星野さんだが、現役時代から支えてくれた妻の扶沙子さんを’97年1月に白血病で亡くしている。葬儀では誰はばかることなく涙を流した。「普段は“もっと優しくしたら?”と思うくらい亭主関白でしたけど、かけがえのない人だったんでしょう。奥さまが言ったことには必ず耳を傾けるし、そのときは“うるさい、黙っとれ”って一蹴しても、ずっと心の中で奥さまの言葉がこだましている感じで、結局聞いちゃうんです。“あいつに反対されたからやめよう”と決断を翻すこともありました」(星野家に近しい人)記者を大事にする星野さんだったが、彼らからも扶沙子さんは人気があった。「試合が終わった夜遅くに監督の家に取材に行くと奥さまがカレーやチャーハンなどを夜食にふるまってくださった。本当に夫に尽くしている感じでしたね。奥さまが亡くなったときは、ご遺体とずっと添い寝していたそうです。亡くなった日は仕事があって出かけなければならなかったんですが、出発時間ギリギリまで髪をなでてずっと話しかけていたんだとか。それだけ彼女を愛していたということですよね」(元スポーツ紙記者)再婚のうわさは何度も出ていたが結局、最後までひとり身を貫いたのも夫人への思いがあったからかもしれない。だが、決して表に出ることのない、彼を支えたもう1人の女性の存在があったという。「仙ちゃんのすべてをみていたのがMママ。10歳ほど年上なんだけど、ほかの女性も嫉妬するくらい“ママ、ママ”って慕っていたね」(高山氏)資産家の令嬢だったというMさんは、星野さんと住むために都内にマンションも購入するほど。しかし、4〜5年前にこの世を去ったという。「とにかく女傑という言葉がぴったり。政界から財界からとにかく人脈がすごいんよ。仙ちゃんがいろいろトラブルに巻き込まれたときも、僕とMママで行って片づけたりしたもんね。阪神の監督を辞めたあと、警備会社や製薬会社のコマーシャルを持ってきたのも全部ママの仕事。社長に直接電話して、“仙ちゃんをよろしく”って頼んでたもんね」(高山氏)日ごろから「俺は思うように生きてきたからのお」と口ぐせのように話していた星野さん。合掌。
2018年01月16日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が18日、「ふと、、、」というタイトルで自身のブログを更新した。麻央は「闘病されていた方の訃報にふれると自分のなかのどこかの小枝がポキって折れるような気持ちになります」と心境を吐露。「面識がなくても、遠い遠い方でも、どこかで 不思議に 仲間意識というか、あるのだと思います」とつづった。そして、「だから私も 癌を公表しているものとして少しでも長く生きていきたいです」と続け、「そんなことをふと思いました」と記した。ブログでは名前は書かれていないが、胆のうがんで闘病していた俳優の渡瀬さんが多臓器不全のため14日に死去したことが、16日に報じられた。
2017年03月18日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が29日、自身のブログを更新し、体重の変動を明かした。「体重」というタイトルで更新した麻央は、栄養について書かれた資料の写真をアップし、「改めて、大切な栄養を勉強」とコメント。「この1年間で11キロの体重変動がありました。病気で、何故か人生で一番太った状態(むくみもあるのかな?)と一番痩せた状態を体験しています」と明かし、「以前は、体重計にはのらないずぼらな性格でしたが、最近は特に、確認をするようにしています」と記した。そして、「私は、ベスト体重プラス2キロを理想に考えています」と打ち明け、「何かあると、すぐに減ってしまうので、闘える蓄えを常にもっておくためです」と説明。「これから4キロ太ることがまず目標です!」と宣言し、「太るのが目標だなんて、3年前の私が聞いたらひっくりかえるでしょう」とつづった。
2017年01月29日お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(53)が、25日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:00~10:55)で、乳がんの闘病生活をブログから発信し続けているフリーアナウンサー・小林麻央(34)の姿勢をたたえた。今月1日にブログ「KOKORO.」を立ち上げ、がんが見つかるまでの経緯やその後の心境などをつづっている麻央。この日、ゲスト出演したWBC世界スーパーバンタム級世界王者・長谷川穂積選手の試合展開に触れ、「攻撃は最大の防御」とコメントした。そして、「暗くなっていてもしょうがないから、こうなったら打って出るぞというのがこのブログなんでしょうね」と麻央の真意を察し、「お子さんへの思いとかもあるんじゃないでしょうかね。暗い思いにさせたくないとか」と推測した。がんの転移についても打ち明けるなど、多くの人の心を揺さぶる麻央のメッセージ。松本は「なかなかできない」と正直な感想を口にし、その存在を「偉人に近い感じ」と表現した。
2016年09月25日乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央が6日、自身のブログを更新し、今後、乳がんと診断されたときのことや治療について、ブログで書いていくと伝えた。麻央は「今後、乳癌がわかったときのことや治療のことなど少しずつ書いていきます」と宣言。「『知らぬが仏』で本当に知らないで生きていられたら穏やかで幸せなこともたくさんあると思います。不安や怖れ、時に、憎しみや怒りが生まれるときは、特にそうです」とつづり、「私は、病気になって初めて知った感情がありました。31年間も知らないで生きてきた感情があったのです。しかも、いっぱい。そして、皆さんのコメントを読んで知る感情も、たくさんありました」と明かした。続けて、「もしかしたら、今後、私のブログを読んで、悲しく感じたり、知ってしまうことで不安になってしまったり、何かを思い出し怒りを感じてしまう方もいるかもしれません」とした上で、「でも、私の体験をどんな形でも、活用してくれる方がいたらと願い、書きたいと思います」と自身の決意を伝えた。
2016年09月06日歌舞伎俳優・市川海老蔵(38)の妻で乳がん闘病中のフリーアナウンサー・小林麻央(34)が1日、新ブログ「KOKORO.」を開設した。「なりたい自分になる」というタイトルで、「今日から、ブログを書くことにしました。家族はとても、驚いています」と報告。先生の「癌の陰に隠れないで」という言葉に心が動かされたといい、「力強く人生を歩んだ女性でありたいから子供たちにとって強い母でありたいからブログという手段で陰に隠れているそんな自分とお別れしようと決めました」とブログを立ち上げた思いを明かし、「一度きりの人生なので、なりたい自分になろうと決意できたことはうれしいです」とつづった。また、「時間の経過とともに、癌患者というアイデンティティーが私の心や生活を大きく支配してしまっていたことに気がつきました。元気になったら元の自分や生活に戻れるのだからそれまでは、誰にも知らせず、心配をかけず、見つからず、、、と思ってきました」と自身を振り返った麻央。病気が公になって環境が大きく動き出したことで、「これまで以上に病気の陰に隠れようとして心や生活をさらに小さく狭いものにしてしまいました」と、さらに陰に隠れるようになったことも明かした。さらに、「癌になってから1年以上が経ち、いつものようには身体が動かなくなった時元気いっぱいの娘や息子を前に途方に暮れる思いでした」という心境も告白。「子供に、『いつも一緒にいられなくてごめんね。何にもしてあげられなくてごめんね。』と胸を痛めてるママがいたら、あなただけでなく、私も同じですと伝えたいです」と同じように苦しんでいる母親に向けてメッセージを送った。
2016年09月01日90年代の人気TVシリーズ「ビバリーヒルズ高校白書」でブレンダ・ウォルシュを演じたシャナン・ドハーティが乳がんで闘病中だが、インスタグラムを介して闘病生活をシェアする彼女に激励の声が寄せられている。「バフィー~恋する十字架」のサラ・ミシェル・ゲラーがシャナンとのツーショットをインスタグラムにアップした。45歳のシャナンは昨年8月に乳がんで闘病中であることを公表し、今年5月には乳房の1つを切除、いまも治療を続けている。先月には抗がん剤の副作用で髪が抜けてしまうことへの対策として髪を剃り落とし、その過程を6回に分けてインスタグラムにアップした。「Entertainment Tonight」のインタビューで「結婚の絆は以前から常に強かったけど、(乳がんになったことで)1,000倍強くなった。夫なしでは、これを乗り越えることはできなかったわ」と語った。現在受けている全8回の抗がん剤治療は10月まで続く。「良い日もあれば、悪い日もある。治療の4、5日後は本当に本当につらいの」と言うシャナンは「先のことがわからないのが一番こわい」と明かす。「痛みも、乳房を失って生きることも、なんとかすることはできる。ただ、自分の未来についての不安、そして自分の未来が愛する人たちにどんな影響を与えるかを思うと不安になる」。不安に揺れる心を隠さず、それでも強い気持ちで病と向き合い、闘病生活についてSNSで発信するシャナンに対してファンはもちろん、「ビバヒル」共演者だったジェイソン・プリーストリーや、サラ・ミシェル・ゲラーなどセレブの友人たちもエールを送っている。9日(現地時間)にはサラ・ミシェルが、頭にピンクのスカーフを巻いたシャナンとのツーショットをインスタグラムに投稿。「私の月曜日の女神(実際は毎日のミューズでもある)は勇敢な友人、シャナン・ドハーティです。私はずっと、彼女は最も誠実な友人の1人だと言ってきました。彼女は人生最大の試練に直面していますが、その試練を1度も会ったことのない友人たちとシェアすることで、同じく闘病中の人々を勇気づけています」とシャナンの勇気を讃えた。(text:Yuki Tominaga)
2016年08月10日ロバート・ダウニー・Jr、クリス・エヴァンス、グウィネス・パルトロウが、がん闘病中の『アベンジャーズ』ファンをお見舞いに訪れたという。マーベル好きのライアン・ウィルコックスさん(18)がその中でもクリス演じるキャプテン・アメリカの大ファンだと知ったグウィネスが、自身がペッパー・ポッツ役で出演した『アイアンマン』の主役であるロバートも合わせてカリフォルニア州サンディエゴの入院先を訪問しようと企画したのだという。グウィネスはライアンさんが2人の憧れの俳優と写った写真と共に「今日ライアン・ウィルコックスにはちょっとしたサプライズがありました。クリス・エヴァンスとロバート・ダウニー・Jr、ありがとう。そしてウィルコックス家のみなさん、お世話になりました!」とその様子を報告している。以前にグウィネスは、インスタグラムで今回の企画を実現させると宣言していた。その際には「彼はキャプテン・アメリカとアベンジャーズが大好きなの。だからライアンにアベンジャーズの出演者、特にキャプテン・アメリカを演じているクリス・エヴァンスと会わせてあげたいの。病状は思わしくないけど、元気づけるすごくいい方法だと思うし、自分のヒーローに会える人生最高の時間となると思うの!」とコメントしていた。今回の訪問の後、クリスはツイッターで「今日ライアン・ウィルコックスという真の戦士と握手を交わすことができたよ。彼はこれ以上ないくらいにクールな男だったね。ウィルコックス家のみなさん、お世話になりました! そして今回のことを実現させてくれたロバート・ダウニー・Jrとグウィネス・パルトロウに大きなハグとキスを送るよ!」と報告していた。(C)BANG Media International
2016年05月25日ロバート・ダウニーJr.とクリス・エヴァンズ、グウィネス・パルトロウが、闘病中の『アべンジャーズ』シリーズのファンの少年のもとをサプライズ訪問した。3人は23日(現地時間)、カリフォルニア州サンディエゴに住む18歳のライアン・ウィルコックスさんを訪ねた。『アべンジャーズ』シリーズの大ファンで、中でもクリスが演じるキャプテン・アメリカが大好きだというウィルコックスさんは、現在がんで闘病生活を送っている。ロバート扮するアイアンマンの秘書ペッパーを演じているグウィネスは自身のインスタグラムのアカウントに、ウィルコックスさんとクリス、ロバートの3ショットをアップ。「今日、ライアン・ウィルコックスにちょっとしたサプライズがありました。ありがとう、素晴らしいクリス・エヴァンズと私の仕事のパートナーであるロバート・ダウニーJr.。そしてウィルコックス家のみなさんのおもてなしに感謝します」とコメントした。実は2週間ほど前にグウィネスは、ウィルコックスさんの友人がインスタグラムで『アべンジャーズ』シリーズのキャストとウィルコックスさんが対面できるよう拡散を呼びかける投稿を見つけ、ロバートとクリスに「私が運転するから、一緒に出かけない?」と呼びかけていた。多忙な3人ながらスケジュールを調整、ウィルコックスさんの夢が実現した。クリスは訪問後にツイッターで「今日、僕はライアン・ウィルコックスという名の真の戦士と握手することができました。彼は僕が望む以上にクールだ。ご家族のおもてなしに感謝します!そして、これを実現させてくれた大好きなロバート・ダウニーJr.とグウィネス・パルトロウにハグとキスを!」とツイートした。(text:Yuki Tominaga)
2016年05月25日人気TVシリーズ「ダウントン・アビー」のミシェル・ドッカリーの婚約者が13日(現地時間)、がんと闘病の末、34歳の若さで亡くなった。20世紀初頭のイギリスの貴族の館の生活を描いた人気シリーズで、舞台となるクローリー家の長女・メアリーを演じるミシェルの婚約者、ジョン・ディニーン氏はアイルランド出身でファイナンシャルPRの仕事をしていたが、がんの診断を受けた後は故郷に戻り、両親と過ごしていた。2人は2013年9月、ミシェルと「ダントン・アビー」で共演しているアイルランド出身のアレン・リーチ(トム・ブランソン役)の紹介で知り合い、今年2月に婚約した。ディニーン氏がアイルランドのコークにあるホスピスで息を引き取った際、ミシェルも最期を看取ったという。ミシェルの代理人は「(ディニーン氏の)家族は皆さんから受けた支援や優しさにとても感謝していますが、身内で喪に服すために、そっとしておいてほしいと願っています」とコメントを発表した。(text:Yuki Tominaga)
2015年12月16日テイラー・スウィフトが、白血病で闘病中の11歳のファンに5万ドル(約604万円)を贈ったことが明らかになった。6月下旬に急性骨髄性白血病と診断された11歳のナオミ・オークスさんは、闘病を決意し、大好きなテイラーが歌う「Bad Blood」を自らのテーマソングに、自らのストーリーを伝える動画を制作。5日(現地時間)にYouTubeに投稿した。動画でナオミさんは、治療のため半年から9か月間入院しなければならず、8月18日にアリゾナ州フェニックスで予定されているテイラーのコンサートに行けなくなったと語った。そして、テイラーがインスタグラムに「#Team Naomi」のタグを付けたメッセージを投稿してくれることを願っていることも付け加えた。動画投稿から2日後の7日(現地時間)、テイラーは早速行動を起こした。ナオミさんの治療費支援を募るために彼女のおじが寄付サイト「Go Fund Me」に開設したページに5万ドルを贈ったのだ。これはオークス家が設定した目標額3万ドル(約362万円)をはるかに上回る金額。4月に母ががんで闘病中だと明らかにしたテイラーは「美しく勇敢なナオミ、今回は残念だけど、コンサートはこれからもたくさんあるわ。あなたがよくなることに集中しましょう。大きなハグを、あなたとあなたの家族に送ります」とメッセージも残した。ナオミさんのおじは、朗報に大興奮の姪の様子を動画に収めて早速アップ。ナオミさんは「息が出来ない」「本当に気絶しちゃうかも」と大喜びしていた。(text:Yuki Tominaga)
2015年07月09日チャーリー・シーンが悪性腫瘍で闘病中の10歳の少女に7万5,000ドルを寄付したことが明らかになった。チャーリーはカリフォルニア州・ハモサビーチで警官と話をしていたとき、彼の10歳になる娘・ジャスミンちゃんが横紋筋肉腫を患っていると知った。自身も5人の父親であるチャーリーは「自分の子どもが苦しむのを見なければならないなんて」と言い、翌日、ハモサビーチの警察協会宛てに7万5,000ドルの小切手を送ったという。協会はジャスミンちゃんに敬意を表して基金を設立した。芸能サイト「TMZ.com」によると、長年チャーリーの出演作で吹き替えを務めているエディ・ブラウンも2万5,000ドルを寄付したという。横紋筋肉種は10歳以下の小児に多く発生する悪性腫瘍で、化学療法や放射線療法などの高額治療を1年間続けなければならない。ジャスミンちゃんの家族はチャーリーたちの行為に深く感謝しているという。ちなみにチャーリーは先月、『最終絶叫計画』の最新作で共演したリンジー・ローハンが財政難と知るや、10万ドルの小切手を送ったが、彼女からは何の連絡もないという。「金に困ってると聞いたから、『どうぞ』ってね」とチャーリーは語る。「彼女から『ありがとう』ってメールが送られてくるのをいまも待ってるんだ。何か聞いてないかい?」。(text:Yuki Tominaga)© Abaca/AFLO■関連作品:チャーリー・シーンのハーパー★ボーイズ [海外TVドラマ]
2012年12月12日