「昨年6月から聖子さんのお家の建て替えが行われていたのですが、10月頭に完成したようです。宅配業者が大きな段ボールを運び入れたり、引越し用のトラックが来たりしているのを見かけました」(近隣住民)年末のディナーショーに向けた準備と並行して、引っ越しに追われているという松田聖子(60)。神田沙也加さん(享年35)の納骨も11月上旬に控えている。そんな折、残された肉親である母・蒲池一子さんが、10月18日に90歳の誕生日を迎えた。新居は母の卒寿に合わせた贈り物なのだろうか。聖子の知人が明かす。「聖子さんは2年前から建て替えを計画していました。『私、何でも早め早めだから、老朽化する前に建て替えるの』と。いちばんの理由はもちろんお母さまのこと。一子さんが転倒しないように『老人用のバリアフリーと感じさせないように、手すりはおしゃれじゃないとね』なんて話もしていました」事務所としても使われていた建物の跡地に建設されたのは、およそ100坪の土地に地上2階、地下1階建ての豪邸。グレーの立派な門構えの奥には、アイボリー調の邸宅が見える。費用はいったいどのくらいかかったのだろうか。「古い建物を取り壊して新築した費用は、推定ですが2億~3億円でしょう。都内でも屈指の高級住宅街ですから、土地と合わせた資産評価は5億円と考えられます」(住宅ジャーナリスト・榊淳司氏)この“介護御殿”の地下にはなんと、レコーディングスタジオまで備えられているという。「仕事を家に持ち込みたくないと、これまで自宅にスタジオは設けなかった聖子さんですが、コロナ禍で外出できない生活を送るなかで、考えが変わったようです。仕事とお母さまの介護の両立が、新居のテーマとなりました」(前出・聖子の知人)デビュー当時から聖子を知るカメラマンのYAHIMONときはるさんが語る。「『今日は喉の調子がすごくいいからレコーディング日和』と話していたのを聞いたこともありますが、聖子さんは常にベストコンディションを重視します。状態次第ですぐに録音できる自宅スタジオは彼女にピッタリでしょう」そんな建替え工事の最中、愛娘を失ってしまった聖子。悲しみを乗り越える中で、“もう肉親と離れない”という気持ちがこれまでないほど強くなっているようだ。「一子さんは90歳を迎えるいまでも矍鑠とした様子ですが、心配でないはずありません。最近聖子さんは、これまで以上に一子さんとの距離を縮め、まるで小さな子供が母に甘えるような態度を見せるときがあります。聖子さんの性格から、お手伝いさんなどほかの人にお母さまを任せるようなことはないでしょう」(前出・聖子の知人)常に母のそばに寄り添いながら、ファンに向けて歌うーー。聖子流の“理想の介護”を実現する新しい家が完成したのだ。
2022年10月20日還暦となった現在も精力的に活動を続ける“永遠のアイドル”松田聖子。そんな彼女をデビュー以来支えてきた母・蒲池一子さんが、10月18日に90歳の誕生日を迎えた。歌番組が華やかだった’80年代、一子さんはテレビ番組で聖子とたびたび共演していた。「聖子さんがシングル『青い珊瑚礁』で『ザ・ベストテン』(TBS系)の1位を初めて獲得したとき、中継先から出演した一子さんが、本名の法子ではなく、『聖子ちゃん、良かったね!』と呼びかけたことが話題になりました」(当時を知る芸能記者)現在はメディアに出ることもなくなった一子さん。聖子との確執を報じられた時期もあったが、最近は聖子と一緒に思い出の曲を歌ったりするなど、“一つ屋根の下”で仲良く暮らしていると本誌は報じてきた。このたび卒寿を迎えた一子さんと聖子の思い出を、デビュー当時から聖子を知るカメラマンのYAHIMONときはるさんが語った。「聖子さんが歌手デビューした’80年ごろは、音楽祭が多数開催されていました。聖子さんは『第13回新宿音楽祭』に出演し、見事金賞を受賞。その副賞として翌年イタリアで開催される『サンレモ音楽祭』に参加することになったのです。そこからフランス・パリも周ったのですが、親孝行もかねて母・一子さんも同行しました。私は幸運にも取材者としてついていくことができたのです」YAHIMONさんは、聖子と一子さんが「母娘ながら友達同士のようで、本当に楽しそうでした」と話す。「一子さんの感覚が若いこともあって、聖子さんとのやり取りでぶつかることはまったくなく、お互い信頼しあっていました。“パリジェンヌみたいね”って一子さんに言われた聖子さんが笑顔で、“お母さんの方がパリジェンヌよ!”と返していたのを聞いたときはとても微笑ましかったですね。とにかく笑顔が絶えない旅行だったことを昨日のことのように覚えています。このとき聖子さんは19歳で、一子さんは49歳。一子さんは現在の聖子さんより若かったわけですが、今も変わらない母娘の絆は素晴らしいと思いますね」今回掲載したツーショットは、パリでのタクシー待ちでの一枚だという。和気あいあいとした雰囲気が伝わってくる。このときから40年以上の年月が経過した2022年の誕生日も、変わらない二人の笑顔がきっと見られたのだろう。
2022年10月18日「全国ツアーを終えた後の聖子さんは“サヤ(沙也加)の曲を歌ったことで、(娘との)伝説を作れたと思うの”と語っていました」(聖子の知人)松田聖子(60)が愛娘の神田沙也加さん(享年35)を失ってから初めて行った全国ツアー。そのファイナル公演は、日本武道館で9月3日に行われた。「沙也加さんと幾多の共演をした日本武道館は、聖子さんにとって娘との大切な思い出の場所。そのため追加公演という形にしてまで、武道館を千秋楽の場として選んだと聞いています」(デビュー当時から聖子を知るカメラマン・YAHIMONときはる氏)聖子は沙也加さんのデビュー曲『ever since』を熱唱。大観衆の涙を誘い、ツアーは無事に終演したが、実はその直後に聖子は冒頭の知人にこう漏らしたという。「サヤの曲は正直、歌える自信がなかったの。サヤの曲は彼女のものだから、私が歌って壊してしまったらどうしようという葛藤があったから……。それでも“伝説”を作りたかった。そして、実際にファンの方たちと私で、伝説を作ることができた。そう思っているの。ただし、伝説はここで終止符じゃなくて進行形。ひとつの伝説が、次の伝説を生むのよ」その言葉どおり、聖子は12月に行われる恒例のディナーショーに向けて準備に入っているという。「打ち合わせの際、聖子さんは“ディナーショーのころにはサヤはもう家にいないけど、頑張るから”と笑顔で話しました。11月上旬に沙也加さんの納骨を行うようです」(前出・知人)愛娘の遺骨は、福岡県にある蒲池家(聖子の生家)の菩提寺・良清寺に納骨される予定だという。沙也加さんは、9月22日に死後初めて更新されたSNSが話題となった。「神田さんが手がけていたアパレルブランドが今秋で終了するため、デザイン画などを展示するアーカイブ展を銀座で開催するという告知でした。神田さんの元夫の村田充さん(45)が神田さんから引き取った愛犬の画像をアップしたため、さらに反響を呼んでいました」(スポーツ紙記者)また30日には追悼アルバムの発売も発表された沙也加さん。聖子はこうしたタイミングで、“愛娘逝去後の傷心生活からの卒業”を知人に宣言していたのだ。ディナーショーの後に控えるのは『NHK紅白歌合戦』。昨年は急な辞退となった聖子への期待は大きい。「聖子さんは、今年は出たいと思っているはず」と芸能レポーターの城下尊之さんが語る。「昨年の紅白は世帯視聴率が34.3%と歴代最低だっただけに、NHKも話題性抜群の聖子さんには出てもらいたいでしょう。聖子さんには、ファンに向けた何かしらのメッセージを出してほしい。“これが聖子だ!”という姿を、紅白で見たいですね」母娘にとって区切りとなる年の瀬。完全復活を目指す聖子の新たな伝説は見られるだろうか。
2022年10月05日劇団☆新感線の高田聖子が立ち上げたユニット「月影番外地」の公演『暮らしなずむばかりで』が、2023年1月18日(水)から下北沢ザ・スズナリで上演される。同居していた母が亡くなり、一人暮らしを始めた能見(高田聖子)。習い事でも始めたいが「『これを最後の趣味として一生続けたい』と思うと、簡単に選べない」と思っているうちに人生に迷い、散歩の途中で立ち尽くしてしまうことが増えた。しかし、いざ立ち尽くしてみると、道を聞かれるなど忙しい。それで能見は“立ち尽くす”を趣味にしてみた。そして、アパートの大家の逆巻(宍戸美和公)、隣の部屋に住む庄司(松村武)らと出会ってーー。脚本は福原充則、演出は木野花。その他、森戸宏明、信川清順、田村健太郎が出演する。月影番外地としては、2019年の『あれよとサニーは死んだのさ』以来の公演。高田は「コロナ禍に、月影としてオンライン公演などをした方がいいんだろうか、果たしてしたいんだろうか、一体何をしたらいいんだろうかと、もやもや考える時間を過ごしていました」と心境を吐露しつつ、「そのもやもやを少しでも払拭したいし、突破したい気持ちがあった」。チラシには「五十路の逆噴火物語」というコピーが書かれているが、高田は「福原さんや木野さんから見た、今を生きるすべての人の中の“何か”が暴れ出すような、マグマのように溜まっていたものが吐き出せる場になったらいいな」と語る。今回が月影番外地に初出演となる松村武。「達者な役者さんが集うカンパニーだと常々思っていたので、オファーは喜んでOKでした」。高田との共演は初めてだが、同じ奈良県出身ということで「言葉も人との距離感も、奈良の人やなぁ〜という印象で見ていました。一緒にいて、なんかほっとします」と笑いつつ、「(高田は)紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した『どどめ雪』(2016)も素晴らしかった。今の演劇界を代表する女優さんの一人だと思います。胸を借りるつもりで挑みます」。2023年最初の舞台。2022年を振り返ってもらうと、松村は「徐々に戻っていくだろうと思っていたのに、もしかしたらずっとこのままなのではないか、前提を変えていかなくてはいけないのではないかと思わされた年だった」と話す。「飲んで話すことも減った。そもそも飲まへん文化になったり、演劇が『マスクをとった人間をみる媒体』になっていったりするかもしれない」と危機感も感じていた。高田は「コロナの影響で、キャストや公演日程が変更になったりと振り回された一年でした。未だに本番が始まる直前までマスクをつけて稽古をしているので、いざ本番でマスクをとったとき、人の顔の下半分が持つパワーはすごいなと」。漢字では「立」という一文字を挙げて「立ってはいるけど、動けなかった。2023年は一歩踏み出したい」と話し、「みんなが元気に集まれることを目指して、頑張ります」。公演は1月29日(日)まで。取材・文:五月女菜穂
2022年09月27日どんな人でも、ストレスが積み重なると、心が壊れそうになるもの。不特定多数の人に注目される、芸能人であれば、なおさらストレスは大きいのかもしれません。タレントの中川翔子さんは、2020年、心が壊れそうな時期があったといいます。そんな時、自身が出演するラジオ番組に突然、歌手の松田聖子さんが現れたそうです。昨年、私が壊れそうだった時に、松田聖子様がサプライズで突然ラジオにいらっしゃり泣いてなにも言えなくなってしまったわたしにあなたはたくさんの才能があるからいつも楽しみにしていますよ、と ディオールの香水をプレゼントしてくださったのです聖子様は1番の神様であり命の恩人様です pic.twitter.com/bULNAiK9t4 — 20周年の中川翔子 (@shoko55mmts) September 3, 2022 憧れの人である、松田さんの出演を知らなかった中川さんは、驚きや嬉しさで涙が止まらなくなったのでしょう。松田さんは「あなたにはたくさんの才能があるから、いつも楽しみにしていますよ」と優しい言葉をかけてくれたといいます。芸能界の第一線を走ってきた松田さんだからこそ、中川さんの心に届く言葉をかけてあげられたのかもしれません。【ネットの声】・松田さん、素敵な人だな。投稿を読んで泣いてしまいました。・友人や知人からの声は励ましになるけど、憧れている人からの言葉って本当に救いになるよね。しょこたん、よかったね。・松田さんご本人も、さまざまなことを感じて苦しんできたからこそ、どんな言葉をかけてほしいかを、分かったのかもしれないですね。・後輩にも優しい松田さんの振る舞い、人として尊敬します。松田さんの言葉は、これからも中川さんの心を支えてくれるのでしょう。人を思いやることができる松田さんの姿勢が素敵ですね。[文・構成/grape編集部]
2022年09月04日「聖子さんが生まれ育った福岡県での公演とあって、1万人以上収容の会場は満席。聖子さんは曲の合間には『水ば飲むけん。ちょ待っとって』と久留米弁丸出しで会場を沸かせていました」(コンサートに参加したファン)8月20日、全国ツアー真っただ中の松田聖子(60)がふるさとに帰ってきた。マリンメッセ福岡で行われたコンサートは大盛況だったが、実は聖子の“帰郷”には隠された目的もあったという。「聖子さんは公演前日の夜に、地元の高校時代の女友達に会いに出かけているんです」こう語るのは彼女の知人だ。「その際にはいつも頼んでいる美容師に編み込みをしてもらったそうです。リフレッシュと“変装”、2つの意味があったのかもしれませんね。学生のころの昔話に花を咲かせたそうですが、そこでは沙也加さんの遺骨をどうするか、という話題も出たそうです」昨年12月に急逝した愛娘・神田沙也加さん(享年35)はいったいどの地で眠るのか――。ファンならずとも気がかりな沙也加さんの納骨先は、いまだ決定の報せがない。芸能関係者が明かす。「沙也加さんの四十九日法要が行われたのは、聖子さんの現在の夫・Aさん一族の菩提寺でした。しかし、聖子さんはそこに納骨はせず、沙也加さんの遺骨は自宅に持ち帰っているのです」とはいえ、聖子とAさんの関係が悪いわけではない。「2人は仲睦まじく、このまま添い遂げる可能性が高いでしょう。しかしAさん一族のお墓では、聖子さんの元夫であり沙也加さんの実父の神田正輝さん(71)が訪ねづらいのでは……という事情があります」(前出・芸能関係者)では正輝はどう考えているのか。「神田さんのお母さんのお墓は東京・新宿にあります。しかし、こちらに沙也加さんを埋葬すると、聖子さんがお参りのときに遠慮してしまうのでは、と神田さんは考えているようです」(同前)複雑な家庭事情の中でも沙也加さんがいちばん安らげる場所はどこなのか。聖子は半年以上悩み抜き、決断を旧友たちに明かしたという。聖子が生まれた久留米にほど近い福岡県柳川市には、蒲池家の菩提寺・良清寺がある。そこに墓を建立して沙也加さんを埋葬し、家族で彼女を弔おうというのだ。■菩提寺の住職は本誌に…本誌は良清寺を訪ねた。閑静な住宅街に佇む大きな瓦葺きの門が印象的だ。近隣住民に話を聞いた。「ここに聖子さんの父、孜さんが眠っていますが、お墓はありません。納骨堂を見てもらえれば、管理している(聖子の母の)一子さんの名札があると思いますよ」孜さんは国家公務員だった。真面目で厳格な性格からか、聖子の芸能界デビューをなかなか許さなかったことでも知られる。「孜さんが亡くなったのは’97年末。ただ、急いで墓を造らなくてもよいという故人の意向もあったようで、遺骨は納骨堂に納められていました」(前出・聖子の知人)蒲池家とゆかりの深い良清寺。聖子に近い親戚だという住職に話を聞いた。――このお寺が松田聖子さんご一家の菩提寺であるとお伺いしております。神田沙也加さんの納骨もこちらでされる予定でしょうか?「すみません、そういったプライベートなことにはお答えしていないんです」――最近も聖子さんが訪れませんでしたか?「申し訳ない。それにもお答えできません」住職は、聖子がここに蒲池家の墓を新たに建てるのかという質問にも返答を控えたが、ほほ笑みを絶やさず、墓地の見学はかまわないと言ってくれた。寺の周辺で話を聞くと、意外にも沙也加さんにまつわるエピソードが次々と出てきた。お供え物を扱う店で、店主が話す。「沙也加さんがデビューして数年後のことだったかと思います。彼女が一人でうちにやってきて、お供えの花を買ってくれたんです。納骨されている孜さんに手を合わせに来たんだと思いました」別の商店の店主もこんな思い出話を語ってくれた。「沙也加さんがまだ小さなころ、一子さんが境内で遊んであげているのを見たことがあります。両親ともに大スターですから、おばあちゃんが面倒を見ているんだねってこのあたりで話題でしたね。聖子さんも見かけたことがありますよ。夫のAさんと手をつないで歩いていました」沙也加さんの思い出も詰まった特別な場所・良清寺。聖子はこの地に蒲池家の新たな墓を建立すれば、娘も安らかに眠れると考えたのだろう。父の逝去から25年、重大な決断を下して心の荷を一つ下ろしたからこそ、聖子の久留米弁はファンの心を打ったのか――。
2022年08月30日「カセットテープから流れる、聖子の歌声を聴いた瞬間“すごい声を見つけてしまった”と強い衝撃を受けました」天才歌姫発掘の瞬間をこう語るのは音楽プロデューサーの若松宗雄氏(82)。若松氏は、キャンディーズ、藤あや子、PUFFYといった多くのスターを手掛けてきたが、なかでも最大の功績と言われているのが、松田聖子(60)を見いだしたことだ。7月19日に若松氏が出版した『松田聖子の誕生』(新潮新書)には、いかにして聖子をスターダムに押し上げたかが、秘話を織り交ぜ克明に綴られている。聖子と若松氏の二人三脚が始まったのは’78年5月のこと。当時プロデューサーとしてCBS・ソニーに勤めていた若松氏は、ミスセブンティーン・コンテスト地方大会の出場者、200人分もの歌声を収めたカセットテープの山の中から、聖子を見つけ出した。しかし、待っていたのはデビューに大反対する聖子の父・蒲池孜氏だ。「『許すつもりは一切ありません』の一点張りで、『ダメと言ったらダメなんだ!!』とまで言われたこともありました。ようやく福岡での面会が実現したのですが、翌日には『やはり諦めてほしい』『今後は娘や家内にも電話をしないでくれ』と、連絡の道すら断たれてしまった」その後、半年以上に及ぶ説得のすえ、ついに父親の承諾を得る。父親を動かしたのはほかでもない、絶対に歌手になりたいという聖子の意志だった。そこから若松氏は、所属事務所探しに奔走したが、旧知のプロダクション尾木社長の尾木徹氏にはこう難色を示されてしまう。「尾木さんからは『ああいう子は売れないんだよ。華もないしね』と忠告されました。そのときは、なんでわかってもらえないんだ!とくやしかったですね」■『ザ・ベストテン』で百恵さんとの邂逅がしかし、若松氏の熱意が、当初乗り気ではなかったサンミュージック元会長の相澤秀禎氏を動かした。聖子の所属が決まったのだ。「聖子は直感力に優れていて物覚えが抜群によく、人懐っこい性格なのでその場にもすぐなじむ。彼女が挨拶をすると、『あのコなかなかいいね』なんて声がかかって。私は『やっとわかってくれたか』と、うれしかったものです」ミスセブンティーン・コンテストから2年もの月日がたった’80年2月末、聖子はついにデビュー曲である『裸足の季節』のレコーディングに挑んだ。そのときの光景はいまも若松氏の脳裏に焼きついている。「ブースに目をやるとマイクの脇でこちらに向かってぺこりと頭を下げた聖子の頰に、涙が流れ落ちていくのが見えたんです。これまでの人生で見たなかでも、最も忘れがたいうれし涙でした」
2022年07月29日福岡県に住む16歳の少女だった蒲池法子(松田聖子の本名)。その歌声を発掘しトップアイドル・松田聖子へと押し上げたのが当時CBS・ソニーに勤めていたプロデューサーの若松宗雄氏(82)だ。7月19日に若松氏が出版した『松田聖子の誕生』(新潮新書)には、いかにして聖子をスターダムに押し上げたかが、秘話を織り交ぜ克明に綴られている。■聖子を感激させた『ザ・ベストテン』での百恵さんからの檄芸能界入りを反対する父親の説得や事務所探しを経て、ついに‘80年4月にデビューを果たした松田聖子(60)。その後、瞬く間にスターダムに上り詰めていったのは周知のことだ。時代は山口百恵の引退フィーバーの真っただ中。しかし、「ポスト百恵」といったプレッシャーは微塵も受けなかったという。「百恵さんも誰かと比較できるような人ではないですが、やはり聖子はほかのどのアイドルとも全く違う存在でした。だから、その素質を生かすことだけ考えていて、外野がどうとは全く気にしていませんでしたね」ただ、当の本人には、ほかの同年代の少女たちと同じく、百恵さんに対する憧れはあったようだ。「『ザ・ベストテン』で『がんばってくださいね』と引退間際の百恵さんから声をかけられると、聖子はうれしそうにしていました」『ヤンヤン歌うスタジオ』では「私も百恵さんのように、結婚したいです!」と口にしていた聖子。しかし、’85年6月、実際に23歳で結婚したとき、同じ道を進むとは微塵も思わなかった、と若松氏は言い切る。「デビューから走り続けていたから少し休むのはよいことだと思いました。ただあれだけ歌が好きな聖子のことだから、きっと歌いたくなるだろうなと復帰を確信しながら、送り出したんです」■アメリカからかかってきた“悩み相談”の電話そしてこの思惑どおり、休業から半年ほどたったころ「復帰したい」と若松氏のもとに聖子から連絡が。結婚後の聖子には、ある変化も見られたという。「楽曲への自我が芽生えたのかな。レコーディングを始めると、私と聖子で曲に対する意見が食い違うようになりました」結婚を機に、自らの思いを込めた“私だけの歌”を作りたいという思いが増したのだろうか。’89年6月にサンミュージックから独立して以降、聖子は本格的に作詞や作曲を手掛け始めた。このころから、若松氏も社内人事により聖子の担当を離れることに。といっても、若松氏と聖子の絆が完全に切れたわけではなかった。聖子がアメリカでの活動を開始した’90年代、若松氏はしばしば聖子からプライベートの悩み相談の電話を受けたという。「声が聞けるのはうれしかったですね。でも一方で、私に電話をかけてくるっていうのは、相談をできる相手がほかにいないのかなと少し心配にもなりました」若松氏への聖子の信頼は相当大きかったようだ。’98年、CBS・ソニーを退社した若松氏のもとに聖子から「マネジメントしてほしい」との依頼が。聖子は、若松氏が代表を務める事務所に移籍、再びタッグを組んだのだ。大切な愛娘、沙也加さんのデビューに関する相談をしたのも若松氏だった。若松氏は当時、聖子とは異なるタイプの天与の才を彼女に感じていたという。「沙也加ちゃんは、学校帰りに事務所へ寄るようになって、その日あったことを話してくれていました。とても感受性が豊かで、なかでも文才は群を抜いていました」今年還暦を迎えた聖子。昨年12月には沙也加さんとの別れを経験した。しかし、今年6月から全国ツアーを行うなど、精力的に活動を続けている。そんな聖子に若松氏は「とにかく自分のペースで希望をもって、楽しくやってほしい」と語る。2人が作ってきた楽曲はこれからも、色褪せることなく、聴く人の心をときめかせ続けるのだ。
2022年07月29日「久しぶりに聖子ちゃんの歌声を聞けて、コンサート開始早々からずっと泣きっぱなしでした。やっぱり私にとって永遠のアイドルです」万感の表情でこう語るのは、会場にいた50代の女性ファン。6月24日、1年ぶりに大阪城ホールを松田聖子(60)の歌声が包んだ。6月11日の埼玉公演を皮切りに5都府県を回る全国ツアーを開催中の聖子。多くのファンが押し寄せているようだ。「どの会場もチケットは軒並み完売し、大阪と福岡では追加公演が決定。チケットを取れなかったファンの熱い声に応えて、9月に日本武道館で2日間の追加公演を行うことも決まっています」(ライブ制作関係者)少しでも多くのファンの期待に応えるべく、精力的に活動する聖子。しかし、ステージに立つまでにあまりにも悲しい出来事があったーー。昨年12月18日、聖子の一人娘である神田沙也加さんが、札幌市内のホテルで急逝。まだ35歳だった。大ヒットした映画『アナと雪の女王』のアナ役や歌手活動に加え、ミュージカルを中心とした舞台で女優としても高い評価を受けていた沙也加さんのあまりにも突然の訃報は日本に衝撃を与えた。そして、母親である聖子の悲しみは想像を絶するものだった。「沙也加さんの葬儀は亡くなった3日後の21日に札幌市内で行われ、聖子さん、元夫で沙也加さんの父親・神田正輝さん(71)ら親族が参列。その後に行われた囲み取材では、聖子さんは位牌を抱えて、声を震わせながらコメントしていました。沙也加さんが亡くなった当時、聖子さんは東京と大阪でのディナーショーツアーの真っ只中でしたが、残りの公演はすべて中止に。大晦日の『第72回NHK紅白歌合戦』への出場も取りやめました」(音楽関係者)実の娘を失った聖子。その悲しみはあまりにも大きく、私生活だけでなく歌手活動にも大きな影響を与えることに。「外出もできない日々が続き、花を飾った祭壇で沙也加さんに語りかけていると報じられたこともありました。今年は還暦を迎えるということもあって聖子さんにとってアニバーサリー・イヤーになるはずでした。還暦を祝うイベントなども予定されていたそうなのですが、それも当然中止。一時は歌手活動再開の目途も立てられないほど落ち込んでいたといいます」(前出・音楽関係者)憔悴の日々を送る聖子だが、そんな生活にも徐々に変化が。沙也加さんの四十九日が迫った1月下旬、聖子がいたのは都内の閑静な住宅街にある一軒家。実はこの場所、カリスマ美容師が一対一で施術を行う完全予約制のプライベートサロン。1月前に夫の菩提寺で行われた四十九日法要の前に、髪を整えていたのだ。そして、百日忌も近づいた3月7日、ついに沈黙を破る。中止したディナーショーの振替公演と6月から全国ツアーを開催することを発表したのだ。しかし、苦悩しながらの決断だった。「再開発表と同時に配布したファンクラブの会報誌で、聖子さんは沙也加さんがいないことについて“今でも信じられない気持ちがある”と率直に綴っていました。同時に“私が悲しんでいるだけではいけない”と思い立ち、活動再開を決断したそうです」(芸能関係者)意を決して再び“歌手 松田聖子”と向き合った聖子だが、そんな彼女を奮い立たせたのはほかでもない沙也加さんだった。再開を発表する直前の3月初旬、自宅からほど近い老舗デパートを訪れた聖子。聖子が数十年にわたって通っているデパートで、沙也加さんが小さい頃に何度も2人で訪れたことのある場所だ。さらにディナーショーの振替公演が行われる数日前の4月上旬にも、かつて沙也加さんを連れてきたこともある都内の撮影スタジオにも訪れていた。聖子を支えるのは“思い出の場所”だけではない。「生前、沙也加さんが愛用していたハンドミラーを聖子さんが受け継ぎ使っているそうです。あるスタッフが聖子さんに『それ、きれいですね』と言うと、聖子さんは『これ、沙也加のものなの』と答えたといいます。また、聖子さんの自宅には一緒に住んでいた時に沙也加さんが使っていた部屋もあり、今はそこで聖子さんがメイクをすることもあると聞いています。聖子さんは3月に配布したファンクラブの会報誌で、沙也加さんの歌声が大好きだったことを明かし、“これからは沙也加と一緒に歌っていく”と綴っていました。沙也加さんとの思い出が詰まった場所や物の触れることで、歌手活動への気持ちを高めているのではないでしょうか」(前出・音楽関係者)さらに懐かしの“旧友”もーー。「アイドルとして同じレコード会社からデビューした同期の元アイドル浜田朱里さん(59)が、沙也加さんへの供花を贈るために聖子さんに久しぶりに連絡をとったそうです。当時、2人は共演する機会も多く、大親友でした。久しぶりの連絡をきっかけに交流が復活し、喫茶店でお茶もしていたそうです」(前出・芸能関係者)全国ツアー初日となった6月11日のさいたまスーパーアリーナでの公演で、沙也加さんのデビュー曲「ever since」を涙ながらに披露したという聖子。今、ある目標があるという。「新曲を準備しているそうで、自ら作詞作曲を手掛ける構想もあるといいます。またその曲は年末に予定しているディナーショーや昨年出場できなかったNHK紅白歌合戦で披露したいと考えているそうです」(前出・音楽関係者)愛娘との“約束”を胸に聖子の歩みはこれからも続いていくーー。
2022年06月26日「聖子さんは今日、大阪城ホールで全国ツアーの2公演目に臨みます。6月11日に埼玉で開催されたツアー初日は、沙也加さんのことを口にして涙がこらえ切れない場面もありましたが、1万8千人を前に熱唱。大阪でのコンサートにも期待がかかります」(芸能関係者)還暦を迎えた今も、ファンを魅了し続ける松田聖子(60)。そんな聖子の素顔はどのようなものなのか。元所属事務所サンミュージックの後輩・桑田靖子さんは、聖子の気さくな一面を明かす。「初めてお仕事をご一緒していただいたときに、『こっちおいで靖子ちゃん』と、お隣に座らせてくださいました。誰もが知っている存在でしたので、もう心臓がバクバクでしたよ。共通の話題などお話ししてくださって、同郷ということもあり私の緊張をほぐしてくださったのかもしれません」絶大な人気を誇った聖子のすごさはどのような点だったのか。桑田さんは言う。「ほかのアイドルの方々とは違って、聖子さんの現場には専属のスタイリストさんやメークさんがいらっしゃらないんです。ご自身で全てをやっていらした。当時、聖子さんのマネージャーさんが、“なぜ聖子が輝いているかというと、与えられたものではなく自分がいちばん着たいものを選んで身に着けることで、自分がものすごくかわいくなることをわかっているからだ”と、おっしゃってましたね」自らの道を進んでいった聖子。それは’86年10月に沙也加さん(享年35)を産んでからも変わらなかったようだ。「当時のアイドルって結婚したら終わりで、子供を産んだら違うのかなと思っていました。だけど、聖子さんはママになってもアイドル。さらに髪形を変えたりして、新しい“松田聖子”にどんどん変わっていきました。誰かにプロデュースされてきたのではなく、自分の気持ちに正直に動いてきたからこそファンの方々もついてきたんだと思います」昨年、愛娘・沙也加さんが亡くなり、今年60歳で全国ツアーに臨んでいる聖子。ファンの存在の大きさを桑田さんは強調する。「いいときだけではなくつらいときも一緒に年齢を重ねてきた松田聖子さんとファンとの絆。聖子さんがステージに立つことはファンへのエールに。また聖子さんに対するファンからのエールになるんだろうなと思います。だからこそ松田聖子さんは“永遠のアイドル”であり唯一無二の存在なのです」
2022年06月24日「今回のコンサートで聖子さんやスタッフが利用したケータリングには、豚骨ラーメンや季節の和菓子が用意されていました。これらは聖子さん自身のリクエストで、沙也加さんが大好きだったものを選んだそうです」(制作関係者)愛娘・神田沙也加さん(享年35)の急逝から半年、全国ツアーに臨んでいる松田聖子(60)。6月11日にさいたまスーパーアリーナで開催されたツアー初日に聖子は、沙也加さんと“共演”を果たした。公演の中盤、聖子は沙也加さんのデビュー曲『ever since』を歌唱し、このように語った。「娘は天国に旅立ちましたが、私の心にずっと生き続けています。きっと今日も一緒に『ever since』を歌ってくれたと思います」再出発した聖子の様子について、公演に訪れたファンは明かす。「沙也加さんについて口にする際は、涙がこらえきれない場面もありましたが、聖子ちゃんは全25曲を完璧に歌い切りました」1万8千人の観客の前で、アイドルの矜持をみせた聖子。そんな彼女を支える人々がいた。聖子のデビュー当時からの付き合いだという歌手の小柳ルミ子(69)は、12日に自身のInstagramを更新し、《昨日、可愛い可愛い愛する妹、聖子ちゃんに会いに行って来ました》と、松田聖子のコンサートに駆けつけたことを明かして、さらにこうつづった。《ステージ終了後、痩せた聖子ちゃんをぎゅーっと抱きしめて来ました》聖子のもとには“戦友”からのエールも届いていたという。「会場には日本テレビや、ユニバーサルミュージックなどからスタンド花が贈られていました。その並びに個人として唯一、松任谷由実さんから贈られた花が飾られていたのです。この花を目にしたファンは、『ユーミンありがとう』と感謝を述べていました」(イベント関係者)聖子と松任谷由実(68)の交流は長い。ユーミンが初めて聖子に曲を提供したのは、’82年の大ヒット曲『赤いスイートピー』だった。「聖子さんの女性ファンが増えるきっかけとなった『赤いスイートピー』は、作詞家の松本隆さんが、ユーミンさんに『ライバルに曲を書いてみない?』と声を掛けたことがきっかけで生まれました。松任谷さんは作曲者名を、ペンネームである“呉田軽穂”にすることを条件に了承したそうです」(音楽関係者)■ユーミンの作曲で大ヒットを連発’20年12月に放送された『松田聖子スペシャルロング・バージョン風に向かって歌い続けた40年』(NHK)で『赤いスイートピー』を手掛けた理由をユーミンはこう明かしている。「アイドルが嫌いだったんですよ、私。アイドルの世界は強大で『仮想敵国』みたいに思わないとやっていけなかった。変な気概があったところに(作曲依頼が)舞い込んだ。挑戦的なところがありました」その後も『渚のバルコニー』『秘密の花園』『瞳はダイアモンド』などでユーミンと聖子はタッグを組み、ヒットを連発してきた。しかし’84年の『時間の国のアリス』を最後にユーミンは30年以上もの間、聖子の曲を作ることはなかったーー。「あれほどの名曲を生み出してきた2人だけに、長い空白期間があったことで聖子さんと松任谷さんの間には、確執があるのではないかと報じられたことがあります」(前出・音楽関係者)この軋轢について、長年聖子を撮影してきたカメラマンのYAHIMONときはる氏は語る。「’80年代のユーミンは多忙もあってか、ラジオなどでキツい発言が目立っていた時期がありました。そんななか聖子さんが、雑誌でユーミンのライブを初めて見たときの衝撃を『私はいったい何なんだろうと思い、アイドルをやめようかと思った』と語った記事を、ユーミンが目にし、『やめたらよかったのに』とキッパリ。以来、不仲が噂されるようになりました」聖子のデビュー35周年にあたる’15年にユーミンは、新曲『永遠のもっと果てまで』を聖子に提供。31年ぶりに2人が組んだことで話題となった。音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠さんは、この背景を推察する。「単に、ユーミンのもとに楽曲提供のオファーがなかっただけではないでしょうか。プロデューサーの意向で別の人に依頼する時期が続いたということで、けんか別れなどではないと私は思います。盛り上がるタイミングでタッグを再開する運びになったということでは」前出の『松田聖子スペシャル~』で、31年の空白を経て“和解”したユーミンは聖子について、「一緒の時間を共有できて本当に光栄だと思っています」と、語っていた。そんな彼女が今回の公演で聖子に贈った友情の花には、ある思いが込められていたという。「大きな花束の中には白い八重咲きのユリがありました。これは沙也加さんが大好きだった花なんです。沙也加さんは’05年ごろ、芸名をユリの英語名“Lily”としてモデル活動していたことも。いかなるときでもステージに立ち続ける重圧は、ユーミンも痛いほど理解しています。それだけにユーミンは、気丈にふるまう聖子さんに“沙也加さんもそばにいる”とさりげなく伝えたかったのではないでしょうか」(前出・YAHIMONときはる氏)11日のコンサートでは、ユーミン作曲の『赤いスイートピー』や『渚のバルコニー』を熱唱していた聖子。ユリの花言葉と同様に純粋な沙也加さんと“戦友”に見守られ、ステージに立つ彼女は決して独りではなかったーー。
2022年06月21日「全国ツアーが6月11日からスタートする聖子さんですが『これからは沙也加と一緒に歌っていきたい』とファンクラブの会報誌でも明かしています」(音楽関係者)昨年12月に愛娘の神田沙也加さん(享年35)を失った松田聖子(60)。あれからまもなく半年となる今、本格的な歌手活動を再出発させる。ツアーに先がけて4月に行われたディナーショーでも、聖子は冒頭のMCで「私は沙也加の歌声が大好きでした」「今も沙也加の歌声は私の心の中に響いています」と声を震わせながら語っていた。2カ月半にわたって5都市8公演が催されるツアーだが、急逝した娘とともに歩んでいきたいという思いからか、自宅でも沙也加さんをしのぶ時間は大切にしている。「聖子さんの自宅の沙也加さんが使っていた部屋には、彼女の愛用品がたくさん残っているそうです。そこは現在、聖子さんがメークをするときなどのスペースとしても使っていると聞きます」と話すのは聖子の知人だ。本誌は、沙也加さんが生前に愛用していたシルバーのハンドミラーを“形見”として使っていると報じたが、それだけではないようだ。「沙也加さんといえばミュージカル女優としても活躍しましたが、駆け出しのころに出演した『レ・ミゼラブル』(’09年上演)の舞台は、聖子さんにとって特に娘を誇りに思える作品でした。その劇場の楽屋で沙也加さんが使っていた暖簾を、聖子さんは“沙也加ルーム”の扉にかけているそうです」(前出・知人)沙也加さんにとっても『レ・ミゼラブル』への出演は人生の転機と言えるほど大きな出来事だった。当時のブログには、物語の主人公ジャン・バルジャンの養女コゼット役を射止めた喜びが綴られている。《昔から、レ・ミゼラブルに出演するのは私の夢でした。今回、念願叶ってコゼット役、そしてまたジョン・ケアードさんの演出を受けられるかと思うと、胸がいっぱいになり、喜びで心臓が飛び出しそうです。(笑)》(’08年8月)そんな娘が初めて帝国劇場の舞台を踏んだ’09年10月6日、聖子は元夫の神田正輝(71)とともに来場。カーテンコールの際には聖子が涙を流して拍手を送る姿が報じられている。この“夢の舞台”『レ・ミゼラブル』の劇中で、沙也加さんが歌っていた曲の一つが『プリュメ街』。コゼット役のオーディションの課題曲として使われるほど難しいことで知られているが、この曲を沙也加さんは見事に歌い上げ、観客に感動を与えた。「聖子さんは、『レ・ミゼラブル』上演中に沙也加さんが録音していた『プリュメ街』の“生の音源”を、今も自宅で聴いているそうです」(前出・知人)別の音楽関係者が言う。「このころの2人は、沙也加さんの稽古の合間に一緒に買い物に行き、大好きな『ジルスチュアート』のトップスやコートなどをおそろいで選んだりしていました。聖子さんはそんな思い出が詰まった曲を聴きながら、ツアーへの士気を高めているのでしょう」『プリュメ街』には、“私の人生、もうこれから独りぼっちじゃないの”といった一節がある。その言葉のとおり、母の全国ツアーを天国の沙也加さんも見守っていることだろう。
2022年06月07日「4月ごろに、ある老舗の喫茶店に、聖子さんが同年代の女性といらしていたのをお見かけしたのです。2人はその店の個室で食事をしていたようでした。その女性と部屋から出てきた聖子さんは、少しだけほほ笑みを浮かべていました。あとからその女性について調べてみると、聖子さんの親友だった元アイドルの浜田朱里さん(59)で、とても驚きました」(その場に居合わせた聖子のファン)昨年12月18日、娘の神田沙也加さん(享年35)が急逝した松田聖子(60)。「6月からスタートする全国ツアーが間近に控えていることもあり、その準備に多忙な毎日を過ごしているそうです」(レコード会社関係者)そんななか、本誌は先週5月17日発売号で、聖子が沙也加さんの“形見”であるハンドミラーを使っていることを報じた。沙也加さんが愛用した品を手に、仕事に没頭する決意を固めているという聖子。だが、子に先立たれる“逆縁”の悲しみは深く――。「聖子さんは悲しみを埋めるかのように、『休みはいらない』と話しているほどでした。しかし、そんな聖子さんの“心の孤独”を慰めるべく駆け付けたのが、親友であった浜田さんだったのです」こう明かすのは、聖子を知る古参の芸能プロ関係者だ。「もともと聖子さんと浜田さんは、アイドルとして同じレコード会社から同期デビュー。学年こそ聖子さんが1つ上でしたが、同じ1962年生まれで、通っていた学校も一緒。アイドル時代における聖子さんの大親友でした。特にNHKの歌謡番組『レッツゴーヤング』では2人とも「サンデーズ」のメンバーとして活躍。また当時はアイドルがコントに参加することも多く『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)、『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)でもよく共演していました。その浜田さんは、沙也加さんが亡くなったときに供花を贈るため、聖子さんに久しぶりに連絡を取ったそうです」(前出・芸能プロ関係者)冒頭の喫茶店でのシーンは久々の再会のときのものだったのか、くしくも沙也加さんの急逝が、旧友たちを引き合わせたのだった。浜田さんは聖子と同じ1980年にデビューし、その年に引退した山口百恵さんの後継を目指す“ポスト百恵”として活躍。百恵さんが主演を務めたドラマ・赤いシリーズ『赤い魂』(TBS系)の主役にも抜擢された。■神田正輝との交際も相談する仲だったしかし、1990年代半ばに芸能界を引退。現在は一般人として、聖子とは別の道を歩んでいる。「聖子さんは事務所の方針や、昔から孤高なところがあって、あまり同世代のアイドル友達はいませんでした。そんななか、唯一といっていい同世代の親友が浜田さんだったんです。2人は所属事務所こそ違えど、最初から意気投合していました。当時は10代ということもあって、たわいない話から悩み相談まで、ありとあらゆることを語り合える間柄だったんです」(前出・芸能プロ関係者)デビュー当時の聖子を撮影してきたカメラマンのYAHIMONときはるさんが、当時を振り返る。「アイドルとしての浜田さんは歌唱力も評価されていましたが、なかでも演技力がすばらしく、女優として期待されていました。そんななか抜擢されたのが、聖子さん主演の映画『カリブ・愛のシンフォニー』でした。聖子さんは演技に対して苦手意識があったのですが、親友の浜田さんが一緒ということで、かなりリラックスして取り組むことができたようです。この作品は、聖子さんと元夫である神田正輝さん(71)が結婚するきっかけとなったといわれています。2人の仲が深まったのも、ある意味で浜田さんのおかげだったのかもしれません。実際に、神田さんとの交際についても、聖子さんは浜田さんによく相談していました。聖子さんの背中を浜田さんが押してあげたことも大きいと、当時からいわれていましたね」聖子にとって、親友であり、恩人でもあった浜田さん。いつしか、2人の関係には少し距離ができてしまっていたが――。「浜田さんが引退した当時、聖子さんも多忙な時期で、しばらく疎遠になっていたようです。しかし、沙也加さんに先立たれてしまい、人生で最もつらいときに駆け付けてくれたことを、聖子さんもさぞ心強く感じたはずです。浜田さんも3人のお子さんがいると報じられています。子供を育て上げた母親同士ということもあって、誰よりも聖子さんの悲しみを理解できるのだと思います。孤独に苦しんでいる聖子さんにとって、浜田さんとの再会は、今後も仕事にまい進するための原動力になっていくでしょう」(前出・芸能プロ関係者)苦楽を共にし、母としての心情も分かち合える親友が背中を押して、聖子は再びステージに立つ。
2022年05月28日「聖子さんは5月に大阪で開催されるディナーショーに向けて、ボイストレーニングなどの準備に励んでいるそうです」(音楽関係者)4月9日と10日に都内のホテルで開催されたディナーショーで歌手活動を再開した松田聖子(60)。昨年12月に娘の神田沙也加さん(享年35)が急逝して以来、初めてファンの前に姿を見せた聖子だが、万感の思いでステージに立ったようだ。「ディナーショーの冒頭でのMCで聖子さんは、ファンへの感謝を述べ、心配をかけたことを謝罪。そして声を震わせながら沙也加さんとの思い出を振り返り、『私は沙也加の歌声が大好きでした。今も沙也加の歌声は私の心の中に響いています』と語っていました。その後、’11年の『NHK紅白歌合戦』で母娘共演した際に歌った曲、坂本九さんの『上を向いて歩こう』を涙ながらに歌い上げました」(ディナーショーを訪れた客)ディナーショーを終えると、6月からは全国ツアーも予定されている。「3月に配布されたファンクラブの会報で、聖子さんは『これからは沙也加と一緒に歌っていきたい』と明かしていました。ツアーでは’11年のカウントダウンライブでデュエットした『瑠璃色の地球』や、『冬の妖精』を歌う構想があるといいます。また沙也加さんがデビュー前に作詞した『恋はいつでも95点』や、沙也加さんが作詞に加えて作曲も担当した’06年の『bless you』なども候補に挙がっているようです」(前出・音楽関係者)愛娘との思い出とともに再び歌手として歩み始めた聖子。ファン待望の計画も進んでいるという。「年末には毎年恒例のディナーショーを開催する方向で調整が進んでいます。さらにこのディナーショーに向けて聖子さんは新曲を準備するつもりだとか。自身が作詞・作曲を手がける予定でいるそうです」(前出・音楽関係者)’80年にレコードデビューしてから、コンスタントにシングル曲を発表してきた聖子だが、’16年以降はリリースが途絶えていた。「聖子さんはすでに曲作りに着手していると聞いています。沙也加さんに対する思いや、母娘の思い出などを歌詞に込めた作品になるといいます。同時に6年ぶりのシングルとして発表することも検討を重ねているそうです。ディナーショーが行われるのはちょうど沙也加さんの一周忌の時期になるはず。ファンクラブの会報には、『沙也加は私が前に進むことを望んでいると思う』と聖子さんは綴っていただけに、前に進んだ自分の姿を見せたいという思いもあるのではないでしょうか」(前出・音楽関係者)愛娘との“歌姫の契り”に突き動かされ新曲制作を決意した聖子。彼女が沙也加さんに向けた曲を作るのは今回が初めてではない。’97年に娘への思いを込めたシングル『私だけの天使~Angel~』を作詞・作曲している。もし、新曲が誕生すれば、25年ぶりのこととなる。「『私だけの天使』は神田正輝さん(71)と離婚した3カ月後にリリースされた曲です。聖子さんは当時、自らのプライベートを明かすことはほとんどありませんでした。そんななか『私だけの天使』の歌詞には、家に帰ったらパジャマ姿の沙也加さんが笑顔で出迎えてくれたことや、疲れたときに肩をなでてくれたことが描写され、支えてくれる娘への感謝が歌われていました。娘を題材にした曲だと判明したときは熱心なファンから驚きの声が上がりました。聖子さんは神田さんと離婚したことで、相当なショックを受けたそうです。そんな聖子さんにとって、当時唯一の支えが沙也加さんでした。娘への思いを込めた歌を作ることで、離婚の傷心から癒されたといいます」(前出・音楽関係者)■去年のぶんも歌う…母娘思い出の紅白へ今回の沙也加さんにささげる新曲の制作は、今の聖子の心を救う“リハビリ”になっているのではと、前出の音楽関係者は言う。「聖子さんはディナーショーの本番直前に沙也加さんも使用していたスタジオを訪れました。思い出に触れることで、沙也加さんに力を借りようと思われたのでしょう。そんな聖子さんが今回、沙也加さんに贈る曲を作ることは、楽しかった日々をしのぶとともに、自分の考えや感情を整理することにつながると思います」愛娘への“鎮魂歌”の準備に励む聖子だが、その新曲をどうしても披露したいと望んでいる場所があるようだ。「昨年、出演できなかった『NHK紅白歌合戦』です。もろもろの調整もしつつ、ぎりぎりまで聖子さんが出場する方向で話が進んでいました。ですが、やはり気持ちの切り替えは難しく、最終的に聖子さん自身が歌えないと判断して辞退することになったのです。聖子さんはそのときに気持ちをくんで対応してくれたNHKに感謝しているそうです。『去年歌えなかったぶんも歌いたい』と今年の出場を熱望しているといいます」(NHK関係者)さらに、紅白は沙也加さんとのかけがえのない時間が詰まった大切なステージだ。’11年に紅白初出場にして母娘共演が決定した際のインタビューで沙也加さんは、「母は本当におめでとうと何度も言ってくれてハグしてくれた」と親子で喜びを分かち合ったことを明かしている。「’14年の紅白で沙也加さんが『Let It Go』を歌っているところを見て、聖子さんは号泣していました。そんな思い出が詰まった舞台にもう一度“ふたり”で立つことは、聖子さんにとっても意義深いものとなるはずです。還暦を迎えた節目の年ということもあって“大トリ”で出場する可能性も十分あると思います」(前出・NHK関係者)「沙也加へ届け」、その一心で聖子が歌う新曲なら、日本中の人々の心を震わせることだろう。
2022年04月26日2022年4月14日、モデルでタレントの滝沢カレンさんが自身のInstagramを更新。昭和の時代に流行した『聖子ちゃんカット』を披露し話題を呼んでいます。滝沢カレンの聖子ちゃんカットに「誰?」の声も『聖子ちゃんカット』とは、その名の通り、歌手の松田聖子さんがデビュー当時にしていた髪型のこと。松田さんの人気を表すかのように、当時の若い女性の間で『聖子ちゃんカット』が流行しました。滝沢さんは、雑誌の企画で『聖子ちゃんカット』をはじめ、さまざまなヘアスタイルを披露。地毛ではなくウィッグを使用した撮影だったとのことで「1日に数人の人生になれた気がします」とつづっています。※画像は複数あります。左右にスライドしてご確認ください。 この投稿をInstagramで見る 滝沢カレン/KAREN TAKIZAWA(@takizawakarenofficial)がシェアした投稿 人気モデルとしてさまざまな雑誌で活躍している滝沢さんですから、どんな髪型も似合ってしまうのは「さすが」のひと言。バラエティ番組での滝沢さんとは大きく異なる印象に、ファンからは「一瞬、誰なのかが分からなかった」と驚くコメントも寄せられました。・パッと見、誰か分かりませんでした!すごく素敵です。・髪型だけで、こんなに変わるのですね…。・聖子ちゃんカットの写真、どなたなのか識別できず思わず確認しました。独特ないい回しなど、少し不思議な日本語でタレントとしてもブレイクした滝沢さん。しかし、写真の中でさまざまな表情を見せる滝沢さんの姿は美しく、モデルであることを改めて実感させられます![文・構成/grape編集部]
2022年04月15日「チケットは発売と同時に即完売。落ち込んだ様子を見せることなく歌い上げた聖子さんに多くのファンが涙を流していました。聖子さんはMCで沙也加さんのことについて『今でも信じられない』と語りながらも『私は沙也加の歌声が大好きでした』と話す表情はとても穏やかでした」こう語るのは、4月9日に都内で行われたディナーショーの会場にいた長年の聖子ファン。松田聖子(60)が約4カ月ぶりにステージに戻ってきた。愛娘・神田沙也加さん(享年35)が昨年12月18日に急逝して以来、音楽活動から遠ざかっていた聖子だが、3月7日に歌手活動再開を発表。昨年末に中止したディナーショーの振替え公演を4月と5月に行い、6月からは5会場を回る全国ツアーも予定している。歌手復帰に際して、聖子は新たな決意を述べていた。「聖子さんは活動再開発表と同じタイミングに送付したファンクラブの会報誌で、沙也加さんへの思いを綴っています。そこでは、沙也加さんを失った行き場のない悲しみを吐露しつつも、“沙也加は心の中で永遠に生き続ける”と思い直し、再びステージに立つ覚悟を決めたことが書かれていました」(前出のファン)そうして迎えた復帰初舞台のディナーショー。聖子は入念な準備をして、臨んでいたという。「活動再開が決まってから聖子さんは気持ちを切り替え、ボイストレーニングなどを再開し、急ピッチで準備を進めていたといいます。ファンに少しでも楽しんでもらうため、ディナーショー直前には連日、ショーのスタッフを自宅に招き、綿密な打ち合わせを重ねていたそうです」(音楽関係者)本誌もディナーショーを成功させるべく奔走する聖子の姿を目撃している。本番数日前の4月上旬。聖子は自宅からほど近い都内の撮影スタジオAを訪れていた。「60年以上の歴史を持つ老舗スタジオです。スチールから動画まで幅広く対応しており、多くのアーティストから重宝されています。聖子さんもサンミュージックから独立した’89年ごろから現在まで愛用しており、神田正輝さん(71)との離婚発表会見もここで行っていました」(音楽関係者)このスタジオA、聖子にとってただの撮影場所ではない。沙也加さんとの“思い出”が詰まった大切な場所なのだ。長年、聖子を撮影してきたカメラマンのYAHIMONときはる氏は語る。「私がスタジオAで聖子さんと沙也加さんを見たのは、沙也加さんがSAYAKA名義で歌手デビューした’02年ごろでした。芸能界に入ったばかりの沙也加さんが、大先輩でもある聖子さんの仕事ぶりを見学しにきていたのだと思います。印象的だったのは、沙也加さんがスタジオで少しはしゃいだときに、聖子さんが“遊びじゃないんだから!”と注意したんです。その後、すぐ聖子さんは衣装を着て歌の撮影に入ったのですが、その様子を見た沙也加さんは小さな声で“カッコいい……”と漏らしていました。母として怒った後に“歌手”になった聖子さんを見て思わず口に出たのでしょう」その後もスタジオAでたびたび聖子と沙也加さんの姿を見たというYAHIMON氏。驚くことに、2人の間にですきま風が報じられていたときも、スタジオAで“秘密の交流”が続いていたという。「沙也加さんが結婚式を控えていた’17年5月初旬の話ですが、聖子さんがスタジオAでコンサートの準備をしていたところに、沙也加さんがフラッとやってきたのです。どうやら沙也加さんはお菓子の差し入れを持ってきていたようで、聖子さんは“うれしい!”と感激した様子でした。不仲がささやかれていた時期なので、2人の周囲から離れるスタッフもいましたが、聖子さんと沙也加さんは気にせず話していました」母娘の“思い出”がつまったスタジオをディナーショーの本番直前に訪れ、歌手として再始動した聖子。沙也加さんとの“約束”を果たすべく、前を向いているようだ。「6月からのツアーでは、沙也加さんとの思い出の楽曲を歌う予定でいるといいます。’11年末のカウントダウンライブで沙也加さんとデュエットした『瑠璃色の地球』や沙也加さんが13歳のときに作詞した『恋はいつでも95点』などが候補に入っているようです」(前出・音楽関係者)愛娘との思い出を胸に、聖子はふたたびステージに立つ――。
2022年04月12日松田聖子(60)が4月9日、ディナーショーで復活を果たした。昨年12月18日に愛娘の神田沙也加さん(享年35歳)を亡くした聖子。『日刊スポーツ』によると「これからも、歌うことが好きだった沙也加と一緒に歌って参ります」と涙ながらに宣言し、’11年の『NHK紅白歌合戦』で沙也加さんとデュエットした『上を向いて歩こう』を熱唱したという。本誌は“歌手・松田聖子”が復活するまでの姿を目撃してきた。今年1月下旬、沙也加さんの四十九日を目前に控えた聖子は完全予約制の美容院に訪れていた。「沙也加さんが亡くなってから、聖子さんはふさぎがちになっていました。自宅から出ることはほとんどなく、沙也加さんの遺骨を眺めてばかりいたそうです。しばらく自分の身なりを気にする余裕もなかった聖子さんにとって、一つの“節目”を前に髪を切ることは大事な意味があったでしょう」(知人)1月30日には、沙也加さんの四十九日法要が営まれた。実母である一子さんや夫のK氏とともにワゴンから姿を現した聖子。うつむきながらも、落ち着いた足取りで寺へと向かっていった。「実はこのお寺、Kさん一族の菩提寺なんです。聖子さん一族の眠る福岡のお墓で法要を行うこともできたはずですが、新型コロナの感染が拡大するなか、親族一同で遠出するのはリスクが高い。聖子さんは『1人でも多くの親族に来てほしい』と考えていたため、最善の選択肢としてこのお寺を選んだのでしょう」(前出・知人)そして3月上旬、聖子は“思い出の地”を訪れていた。それは、老舗のデパートだ。「このデパートは聖子さんの自宅から近いこともあり、数十年にわたって贔屓にしているところ。コンサートのMCで『買い物するなら絶対ここ!』と公言するほどです。 そして沙也加さんが幼いころから、このデパートに2人でたびたび足を運んでいたと聞いています」(音楽関係者)沙也加さんとの縁も深いデパートで、しっかりとした足取りを見せていた聖子。活動再開を発表したのはその直後、3月7日のことだった。「ファンクラブの会報で聖子さんは『“もう前に進めない”と思ったこともあった。でも、沙也加との思い出を振り返るうちに、“悲しんでいるだけではいけない”と思うようになった』と明かしていました。前向きな決意をしたことで、ようやく今回のディナーショーは開催されたのです」(前出・音楽関係者)再び歌い始めた聖子。その美声を、沙也加さんも喜んでいるはずだ。
2022年04月11日2022年4月9日、歌手の松田聖子さんが、東京都内のホテルで、ディナーショーを開催しました。2021年12月18日に、娘であり、俳優や歌手として活躍していた神田沙也加さんが、35歳という若さで急逝。松田さんは、同月31日の歌番組『紅白歌合戦』(NHK)の出演を辞退し、自身の公演を中止するなど、活動休止状態が続いていました。約4か月ぶりの活動となる、ディナーショーの冒頭で、松田さんは沙也加さんについて、このように想いを語っています。ステージ序盤、「私の娘は天国に旅立ちました。突然のことで現実を受け止められず…今でも信じられない気持ちです」と報告。「沙也加は小さな頃から歌が大好きでした。おもちゃのマイクを持ち、私の『Rock’nRouge』を歌っていました。それが昨日のようです」と振り返った。サンケイスポーツーより引用その後、「私は沙也加の歌声が大好きでした。今も彼女の歌声は私の中に響いています」と、涙をこらえながら天井を見上げた、松田さん。続けて、「これからも皆さんの温かい応援を胸に、感謝の気持ちを忘れずに、この先もずっと頑張って…沙也加と歌ってまいります」と語りました。松田さんの言葉に、ファンからは約30秒間の温かい拍手が送られています。松田さんの活動復帰について、さまざまな声が上がりました。・心の傷は、ずっと癒えることはないのだろうと思います。それでも『松田聖子』として立ち上がる姿に涙が出ました。・深い悲しみの中、中止していたディナーショーから再開するところが、さすがプロだと思いました。ずっと応援しています。・親として、我が子を失うことほど、つらいものはない。心が壊れてしまわないよう、無理はしないでほしい。・まずは1歩を踏み出すことができたのですね。本当にすごいと思います。悲しみは尽きないけれど、前を向こうとする姿を応援したい。今後、2022年5月に大阪府のホテルでディナーショーを、また、同年6月からは全8公演の全国ツアーに臨む、松田さん。癒えることのない深い悲しみを抱きながらも、再出発した松田さんを、多くの人が応援しています。[文・構成/grape編集部]
2022年04月11日昼下がり、都心から少し離れた閑静な高級住宅街にある老舗デパートの地下駐車場に車が止まる。中から現れたのは松田聖子(60)。聖子はブラウンを基調としたチェック柄のコートに身を包み、化粧っ気はない。しかし、その表情はどこか決意に満ちた様子。そして、聖子はしっかりとした足取りで愛娘との思い出が詰まった“聖地”へと歩いていった――。神田沙也加さん(享年35)が突如、この世を去ってからまもなく3カ月。父の神田正輝(71)はMCを務める情報番組『朝だ!生です旅サラダ』(テレビ朝日系)への出演を休むことなく気丈に続け、2月5日にはファンが沙也加さんに追悼メッセージを送ることのできるウェブ上の専用ページが開設された。いっぽう聖子は昨年12月21日に札幌で行われた葬儀後に報道陣の前でコメントして以降、一切の芸能活動を休止。しかし、百日忌も迫る3月7日、ついに沈黙を破る。歌手活動を再開するのだ。「聖子さんは公式サイトで昨年12月に中止した東京と大阪でのディナーショーの振替公演を4月と5月に行うことを発表。8日には、6月から5会場で全国ツアーをスタートすることも明らかになりました」(芸能関係者)本誌は聖子が復帰するまでの一部始終を目撃している。1月30日に都内の寺院で営まれた沙也加さんの四十九日法要に聖子は実母の一子さんや神田らと参列。その数日前には、完全個室のサロンで髪を整えていた。そうした道程を経て、復帰を宣言した聖子。活動再開発表と同時に届きはじめたファンクラブの会報誌で、聖子は秘めていた胸中を明かしている。あるファンは言う。■「もう前に進めない…」「会報誌では4ページにわたって、沙也加さんを失ってからの聖子さんの生活や今の率直な気持ちがつづられています。聖子さんには沙也加さんがもういないことを今でも信じられないという気持ちがあり、“もう前に進めない”と思ったこともあったそうです。しかし、沙也加さんとの思い出を振り返っていくうちに、“私が悲しんでいるだけではいけない”と思うようになり、活動再開を決意したといいます。終盤では、ツアーでファンに会えることに対して“こんなにうれしいことはありません”とも書かれていました」長年にわたって聖子を取材し、会報誌も読んだという芸能リポーターの城下尊之さんは、聖子の気持ちをこう分析する。「聖子さんは声が出ないときは喉に直接注射を打ち、コンサート中に暴漢に襲われた後も休むことなくステージに立ち続け、どんな時でも『松田聖子』を完璧に表現してきました。そんな聖子さんでも、今回の沙也加さんの件で紅白出場を辞退し、活動も休止しました。ここ数年少し距離を置いて見守り続けてきたなかで、沙也加さんが亡くなってしまったことは、さすがの聖子さんにも耐えきれず、前を向くまでにこれだけの時間を要したのでしょう」今も深い喪失感を抱えながらふたたび歩き始めた聖子。そんななか、冒頭のシーンを目撃したのは、活動再開を発表する直前の3月上旬の週末。聖子が訪れた老舗デパートは、彼女の芸能生活には欠かせない大切な場所だという。「自宅から近いこともあって、数十年にわたって贔屓にしているデパートで、聖子さんもコンサートのMCで『買い物するなら絶対ここ!』と公言するほど。常に注目を集める聖子さんにとって、ここでの買い物は数少ないリフレッシュできる時間で、行き詰まったときにもよく訪れていたそうです」(前出・芸能関係者)そして、幼い沙也加さんを連れていくこともしばしばあったと、前出の城下さんは言う。「聖子さんは沙也加さんが幼いころからよく2人でこのデパートに行っていたと聞いています。当時、多忙を極めていた聖子さんですが、沙也加さんと買い物している間は、貴重な母娘2人だけの時間だったのではないでしょうか」■「これからは沙也加と一緒に歌っていく」活動再開宣言の直前に思い出が詰まった“母娘の聖地”を訪れた聖子。当時の記憶をたどることに“再出発の誓い”が込められていると、音楽関係者は言う。「会報誌には、歌手としての沙也加さんへの気持ちも書かれています。聖子さんも沙也加さんの透き通ったまっすぐな歌声が大好きだったと明かし、志半ばで歌手活動を終えた沙也加さんの無念に思いをはせています。そして、続ける形で聖子さんは“これからは沙也加と一緒に歌っていく”とつづっていました。活動再開を決断したものの、まだまだ聖子さんの悲しみは癒えておらず、以前と同じように歌えるのかという不安もあると思います。そんななか、発表直前に沙也加さんとかけがえのない時間を過ごしたデパートに行き、在りし日の思い出に触れることで、自らの気持ちを整理していたのではないでしょうか」東日本大震災が起こった’11年の『NHK紅白歌合戦』に沙也加さんと出演し、2人で坂本九さんの『上を向いて歩こう』を披露した聖子。前出の音楽関係者はふたたびの“母娘共演”にこう期待を寄せる。「聖子さんは紅白での共演をとても喜んでおり、またいつか2人で一緒に歌いたいとずっと願っていたといいます。2人でステージに立つことはもうできませんが、今後、聖子さんが沙也加さんの歌っていた曲を自身のコンサートで歌うこともあるのではないでしょうか」思い出のデパートで母娘の永遠の絆を再確認し、ステージに上がる決意を新たにした聖子。10日に還暦を迎え、まさにメモリアルツアーとなる。沙也加さんの思いを乗せた歌声が響き渡る日はすぐそこだ――。
2022年03月16日「聖子さんは常に“松田聖子”なんです。レコーディングの休憩中でもオフモードにならない。決してスイッチを切らないからオーラが醸し出されるのかもしれません。でも、意識して作っている感じはない。自然な振舞いなんです。こちらからすると、富士山の頂上を仰いでいるような気分でしたね」聖子の不変のアイドル性をそう証言するのは、アルバム『Baby’s breath』(’07年)などに携わった、歴代編曲家シングル総売り上げ2位の記録を持つ船山基紀氏(71)だ。3月10日、松田聖子(60)が還暦を迎えた。デビューから現在までアイドルを全うし続ける彼女の原点をたどると「修学旅行撮影禁止事件」や「ウソ泣きの真実」など新証言が次々と飛び出した――。アイドル・松田聖子の誕生には幾多のドラマが重なっていた。’78年4月、「ミス・セブンティーンコンテスト」の九州地区大会で優勝。カセットテープで歌声を聴いたCBS・ソニーの若松宗雄ディレクターは素質にほれ込み、いくつかの芸能事務所に声を掛けたが、色よい返事がもらえない。そこで翌年、若松氏は桜田淳子などを輩出していた「サンミュージック」に写真とカセットテープを持参した。同社の名誉顧問である福田時雄氏(91)が振り返る。■「カセットデッキ持参で単身上京の度胸が気に入った」「相澤秀禎社長(当時)をはじめ5人で歌を聴きました。’80年には中山圭子というアイドルをデビューさせる予定でしたから、大多数の社員が反対した。ところが、音楽ディレクター(月野清人氏)だけは『いい声だから呼ぶだけ呼んでみましょう』と賛成した。あの一言がなかったらウチに入ってないでしょうね。その後に聖子一人で福岡から事務所に乗り込んできた。その度胸も気に入りました」聖子は持参したカセットデッキのボタンを押して歌い、高評価を得る。今度は、福田氏が芸能界入りに猛反対する公務員の父親を口説くため、実家まで飛んだ。「父親は『一人では上京させられない』とかたくなでしたが、『社長の自宅で面倒見ます』と説得したら折れてくれました。不思議なことに、家族が反対するコのほうが芸能人として伸びる。聖子が紅茶を運んできたとき、テーブルに置いた後もお盆を胸に抱いたまま廊下に正座していた。父親が許すまでは絶対に動かなかった。教育が行き届いている家だと感じました」同じころ、サンミュージックの先輩である渋谷哲平(60)は福岡・久留米でサイン会をしていた。その休憩時間に聖子と福田氏が一緒に楽屋を訪ねてきた。渋谷は言う。「福田さんから『今度ウチに入る蒲池法子ちゃんだよ』と紹介され、近くの喫茶店から出前を取った。僕らは紅茶にしたんですけど、聖子さんは確かクリームソーダかパフェを頼んだんです。普通の人だと『私も同じで』と周りに合わせるけど、初対面で堂々と自分の食べたいものを言える。芯のあるコだなとすごく記憶に残りました」事務所入りは決まったが、サンミュージックには「新人は1年に1人」という方針があった。「来年春のデビューは無理だから、高校を卒業したら東京にいらっしゃいと伝えた。なのに、夏休みに出てきちゃったんです」(福田氏)意志の固い聖子は久留米信愛女学院を中退し、独断で上京。2学期からは東京・堀越高校の芸能コースに編入。相澤社長宅に下宿しながら、堀越に通っていた渋谷はくしくも聖子と同級生になった。「僕の部屋に聖子さんが入ることになり、マネージャーと一緒に隣のアパートに引っ越しました。聖子さんは当時中学生の僕の妹と仲よくなり、同じく下宿していたポップコーンという兄妹デュオと4人でよく遊びに出掛けていた。デパート屋上での男性アイドルのサイン会に一緒に行ったりしたそうです。聖子さんは優しくて妹にミニーマウスの人形をプレゼントしてくれたこともありました」高校の修学旅行で北海道に行ったとき、渋谷は“最強アイドル誕生”の瞬間を目撃している。「まだデビューしていないのに、何人もの男子が『蒲池と写真撮りたい!』と大行列を作ったんです。堀越だから芸能人は珍しくないのに騒ぎになるほど人気があった。聖子さんは気さくに応じていました。あまりに人が並んでいたから、先生が『男子と女子が一緒に写真を撮ってはいけない!』と禁止令を出したほどでした」秋にはドラマ『おだいじに』(日本テレビ系)で太川陽介(63)の恋人役をつかみ、芸名の松田聖子で出演。徐々に名前が浸透していく。「『新人は1年に1人』という原則を破ってでも、聖子を早くデビューさせたいという雰囲気も社内に出てきた。それくらい“売れる歌声”を持っていました」(福田氏)デビューが決まってテレビ局や出版社へ挨拶に出掛けるとき、高校3年生の聖子だけでなく、マネージャー陣もPRで学生服を着た。水着のグラビアにも挑戦した。「月刊誌の『平凡』が乗ってくれてデビュー直前に伊豆大島で水着を撮りました。まだ寒い時期だったけど、本人は震えながらも一生懸命やってくれました」(福田氏)だが、その写真はボツに……。「当時の編集者が『砂浜の色がどうもよくない。白い砂浜にしよう』と言って結局千葉でもう一度撮り直したんです。そういうときも聖子は愚痴をこぼさない。すごくやる気があったし、積極的に何にでも挑戦するコだった。さまざまなタレントを見てきましたが、いちばん根性があるコです」(福田氏)(取材・文:岡野誠)
2022年03月10日岸井ゆきのと高橋一生がW主演した「恋せぬふたり」の6話が2月28日放送。みのりの赤ちゃんを見つめる高橋の表情と、回想シーンで描かれた高橋の過去に「今までで一番切なかった」「高橋さんがツラそう」などの声が殺到している。他者に恋愛感情を抱かず性的にも惹かれないアロマンティック・アセクシュアルと呼ばれる2人が同居生活をはじめていく姿を描いてきた本作。自分がアロマンティック・アセクシュアルだと認識して、高橋と“恋愛抜きの家族”になろうと同居をはじめるなか、親友だと思っていた千鶴から“恋愛的に好き”だったことを告白された咲子に岸井さん。咲子がキャンペーン商品を見に行ったスーパーで出会った男性で、祖母が亡くなってから近所のおせっかいが激しくなり、それを回避する思惑もあって咲子と同居をはじめた高橋に高橋さん。咲子と高橋の関係を尊重するようになった松岡一には濱正悟。咲子は親友だと思っていたが、実は咲子に恋愛感情を抱いていた門脇千鶴に小島藤子。咲子の妹・石川みのりには北香那。みのりの夫・大輔にはアベラヒデノブ。咲子の母・兒玉さくらには西田尚美。咲子の父・博実には小市慢太郎。高橋の同僚の浜岡には猫背椿。同じく高橋の同僚の豊玉には西川可奈子といった顔ぶれも出演。※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。新年を迎えアロマンティック・アセクシュアルのイベントに参加した咲子は、そこで自分たちの将来について考えてなかったことに気付かされる。帰宅すると一にくわえ、みのりとその娘までが高橋家に遊びに来ていた。第2子を妊娠中のみのりだが、夫の大輔に浮気が発覚。離婚を考えているという。咲子の話にみのりはいら立ちを募らせ「誰かを好きにならないってことはさ、こういう苦しみとも無縁なわけでしょ。人生楽だよね」と言い、咲子の生き方に対し「なんもない人生」と言い放つ……というのが今回のおはなし。この言葉を聞いた一は「みのりちゃん、今のは言い過ぎだよ」とみのりをたしなめる。そんな一の姿に「カズくんが最初は不快で仕方なかった でもだんだん良さが分かってきた」「カズくんへの好感度がめきめきと上がっていく」「咲子の気持ちを代弁してくれてカズくんがあの場に居てくれて良かったとすら思う」などの反応が。その後みのりのもとに大輔がやってくる。娘を前に怒鳴り合いのケンカを繰り広げるみのりと大輔を高橋が止めるが、その直後みのりが破水。無事出産するがみのりは大輔に子どもを会わせないと言い、博実に促され大輔は病院から帰る。その後みのりの赤ちゃんを抱く咲子と両親、みのりを見つめ、その後赤ちゃんを見ながら「かわいいですね」とつぶやく高橋。そしてラスト、雨が降り庭の鉢を屋内にしまいながら、高橋は遥(菊池亜希子)との過去を思い出す。「今までで一番切なかったかもしれない…高橋さんの赤ちゃんを見る表情がさ…」「高橋さんがツラそうな回でしたね。いろいろ思い出してしまう過去があったのですね」「子どもを持ちたいと思った、そのチャンスがあった過去を感じさせる展開」「後半の高橋さん、どんな思いで赤ちゃんを見てたんだろう。高橋さんの過去に何があったのか…」など、今後明かされていくであろう高橋の過去についても多くの視聴者が思いを巡らせていた。(笠緒)
2022年03月01日1月下旬の夕暮れ時、都内の閑静な高級住宅街に止まった一台の車。運転手がドアを開け、静かに姿を現したのは松田聖子(59)。聖子は洋館を思わせる一軒家の玄関前で足を止めると、出迎えに現れた小じゃれた風貌の男性とともに家へと入っていく。その表情は愛娘の位牌を抱いていたときより、どこか落ち着いたようにも見えた――。神田沙也加さん(享年35)の訃報から、1カ月半。近しい人々は少しずつ悲しみの淵から立ち上がろうとしていた。「父親の神田正輝さん(71)は、沙也加さんの死後も司会を務めるレギュラー番組に一度も休むことなく出演し続けています。’19年に離婚した元夫の村田充さん(44)も沙也加さんが飼っていた愛犬を引き取り、自宅でともに生活する様子をSNSで定期的に投稿しています」(芸能関係者)しかし、神田とともに参列した昨年12月21日の葬儀後、聖子は一切の消息を絶っている。「今年は還暦を迎えるので、大規模なツアーも計画していたそうですが、それも一旦白紙になったそうです。ふさぎがちになり、自宅からほぼ出ずに生活しているといいます」(音楽関係者)不仲説が報じられたこともあったが、傍目からはうかがい知れない強い絆で結ばれていた母と娘だけに聖子の喪失感は計り知れない。そんななか、本誌が目撃した冒頭の聖子の外出。この日、聖子が訪れたのは知る人ぞ知る美容室だった。「カリスマ美容師が顧客と一対一で向き合う完全予約制のプライベートサロンです。顧客がリラックスできることに徹底してこだわり、定休日や営業時間も定めず、時間をかけて丁寧に施術することで知られています。ほかの客が居合わせることもないので、芸能人で通っている人も多数いると聞いています」(美容関係者)約2時間後の午後8時過ぎ、美容師に見送られながら一軒家をあとにした聖子は車に乗り込み、帰路についた。個室サロンでひと時の休息を満喫した聖子。聖子に訪れた心境の変化について知人は言う。「まもなく沙也加さんは四十九日を迎えます。法要を行うかは聞いていませんが、しばらく自分の身なりを気にする心の余裕もなかった聖子さんとしては、一つの“節目”を前に髪を整えることで、少しずつ前に進もうとしているのではないでしょうか」◆前を向き始めた聖子を、家族もそばで優しく見守っている。神奈川県の大学病院で教授を務める夫のK氏は多忙な業務のかたわら真摯に妻を支えているようだ。「Kさんも沙也加さんと親交があっただけに相当ショックを受けたそうですが、“自分が落ち込んではいられない”と考えているそうです。出勤する回数を可能な限り減らして、自宅で聖子さんのメンタル面のケアをしていると聞いています」(K氏の知人)そして、最もそばで聖子を気遣っているのが89歳になる同居実母の一子さんだという。「昨年6月ごろから聖子さんは自宅の建て直し工事を始めており、隣接するもう一軒の自宅で生活する聖子さんの身の回りの世話を一子さんがしているそうです。近年、一子さんが体調を崩すことが増えたこともあって、聖子さんは少しでも一子さんが暮らしやすいようにと、建て直しを決意したといいます。沙也加さんの死後、憔悴してほとんど外出できない聖子さんに代わって、一子さんが買い物に出かけることも多く、聖子さんの好きなバタークリームケーキを注文したこともあるそうです」(前出・聖子の知人)献身的に聖子を支える一子さんだが、娘との関係はずっと順風満帆だったわけではない。「聖子さんが’12年にKさんと再婚する際、一子さんは当時“愛人”と報じられていた男性マネージャーとの関係を清算するよう、聖子さんに忠告しました。しかし、聖子さんは聞く耳を持たず、一子さんが役員を務めていた当時の所属事務所『ファンティック』を飛び出し、新事務所も設立。当時、一子さんは聖子さんの自宅で生活していましたが、同居を解消。親子関係が断絶したのです」(前出・芸能関係者)そんな2人に雪解けが訪れたのは4年ほど前。「一子さんが’18年3月に年齢のことも考え『ファンティック』の役員を退任。そんな一子さんの姿を見た聖子さんは『私が母の終活を支える』と、ふたたび自宅に一子さんを呼び寄せ、同居を再開したのです」(前出・芸能関係者)’18年8月、本誌の取材に対して一子さんはこう語っていた。「私を娘はいつも心配して『そばにいないと何があるかわからないから、1人でいたらダメ!』って言ってくれて。だから全然、(母娘の仲は)大丈夫なんですよ」断絶を乗り越え、母の人生と向き合った聖子。今度は一子さんが聖子が発する“心のSOS”に応えていると前出の知人は語る。「沙也加さんと聖子さんと3人で生活していた時期も長かった一子さんは、2人のことを誰よりもそばで見ています。それだけに、娘を失って今まで見たことないほど落ち込んでいる聖子さんのつらさも痛いほどわかるのでしょう。高齢の一子さんを心配する聖子さんの呼びかけで再開した二世帯同居ですが、一子さんは“今度は私が聖子を助ける番”と考えているそうです。また一子さんは聖子さんのいちばんのファンでもあります。聖子さんが少しでも前向きに還暦を迎え、歌手活動を再開できるためにも、できることを精いっぱいしているのではないでしょうか」母の“逆介助”を力に、聖子は少しずつまた歩き始める――。
2022年02月01日ミュージカル『ボディガード』に出演する、新妻聖子さんにお話を伺いました。一昨年、大阪で初日の幕が開いてすぐコロナ禍の影響で、わずか5回の公演で中止となったミュージカル『ボディガード』。2年の時を経て、このたびようやく再上演が決まった。「私が出演できたのはわずか2回。状況は理解していましたけれどやり切れない想いがあり、本来迎えるはずの東京公演初日には涙が堰を切ったように溢れて、私はそんなにやりたかったんだなぁって思いました」じつは新妻さんの出産後のミュージカル本格復帰となるはずだった。「育児も舞台もどちらも諦めたくなくて、子供を寝かしつけてから歌詞やセリフを覚えて、振りを練習したりしていたんです。これまで常に悔いのない人生だと思ってきましたが、この公演をもう一度やり遂げるまでは死ねないと初めて思いました」原作映画でも印象的に使われたホイットニー・ヒューストンの「I Will Always Love You」は劇中でも披露される。「この作品は翻訳も素晴らしくて、ひと言ひと言、お客様が登場人物に感情移入できる言葉を、日本語の微妙な機微も加味しつつ選びながら、ホイットニーの原曲の持つR&Bのグルーヴ感もちゃんと活かせるようになっているんです。これまで自分のコンサートでも何度も歌っている楽曲でしたが、レイチェルとして生きながら歌っていると、これまでまったく感じたことのない感情が湧き上がってくる。他の楽曲も含め、この作品を通じて数々の名曲と出合い直すことができました。今再び作品と向き合うなかで、新たに表現したいことも泉のように溢れて溢れて…早く演じたくて仕方ない(笑)」先日のFNS歌謡祭でも、圧倒的な歌唱力とパワフルな歌声を披露してくれた新妻さん。「ずっと歌手志望でしたが、なかなかそこに繋がるご縁がなく、一度その夢を諦めかけた私を拾ってくれたのがミュージカル界でした。出合えていなかったら私は絶対に今ここにいないと思うので、一番感謝しているし帰ってくる場所でもある。この作品はミュージカルの中でもわかりやすく楽しめる作品ですし、新しくミュージカルに出合ってくださる方がひとりでも増えたら嬉しいです」ミュージカル『ボディガード』世界的に活躍する歌手で女優のレイチェル(柚希、新妻、May J.)の元に頻繁に届く脅迫状。彼女の身を案じ、ボディガード・フランク(大谷)が雇われるが…。1月21日(金)~31日(月)大阪・梅田芸術劇場メインホール2月8日(火)~19日(土)東京・東京国際フォーラム ホールC演出・振付/ジョシュア・ベルガッセ出演/柚希礼音、新妻聖子、May J.(トリプルキャスト)、大谷亮平ほかS席1万3500円A席9500円B席5500円ほか梅田芸術劇場・大阪 TEL:06・6377・3800東京 TEL:0570・077・039(共に10:00~18:00)にいづま・せいこ1980年10月8日生まれ、愛知県出身。『王様のブランチ』リポーターを経て2003年にミュージカル『レ・ミゼラブル』で注目される。近作に『王家の紋章』など。ブラウス¥47,300スカート¥53,900(共にエリザベッタ フランキ/エスケーシー TEL:06・6245・3171)※『anan』2022年1月26日号より。写真・土佐麻理子スタイリスト・小堂真里ヘア&メイク・丹羽寛和インタビュー、文・望月リサ(by anan編集部)
2022年01月25日岸井ゆきの、高橋一生がW主演する「恋せぬふたり」の3話が1月24日放送。「だから私は推しました」に登場したサニーサイドアップの登場にSNSが沸くなか、高橋のポイントカードへのこだわりにも「あるある」「わかる」など共感の声も寄せられている。アロマンティックとは、恋愛的指向の一つで他者に恋愛感情を抱かないこと。アセクシュアルとは、性的指向の一つで他者に性的に惹かれないこと。どちらの面でも他者に惹かれない人はアロマンティック・アセクシュアルと呼ばれる。本作はアロマンティック・アセクシュアルの2人が同居生活を始め、両親、上司、元カレ、ご近所さんたちに波紋を広げていく様を描いていく作品。スーパーまるまる本社勤務で、キャンペーン商品を見にスーパーへ訪れた際に高橋と出会い、高橋のブログを読んで自分がアロマンティック・アセクシュアルだと認識。前回、家族に自分がアロマンティック・アセクシュアルであることを明かした咲子に岸井ゆきの。1話で咲子から同居しないかと提案され、最初は首をかしげていていたが、祖母が亡くなってから近所のおせっかいが激しかったこともあり同居を始め、前回は彼氏のふりをして咲子の家族に会いに行った高橋に高橋さん。勝手に咲子と付き合ってるつもりの同僚・松岡一には濱正悟。咲子の親友の美容師・門脇千鶴に小島藤子。咲子の妹・石川みのりに北香那。みのりの夫・大輔にアベラヒデノブ。咲子の母・兒玉さくらに西田尚美。咲子の父・博実には小市慢太郎。過去に高橋と何かあったらしい猪塚遥には菊池亜希子といったキャストが出演。※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。一から「俺らギリ付き合ってる」と言われた咲子は意味が分からずポカンとする。2人は過去に付き合っていたが“活動休止”という形で距離を置いていた。咲子のなかでは関係が終わったつもりだったが、一にとってはあくまで活動休止で関係は終わっていなかった…。咲子と一が親しくなるきっかけになったのが、2019年のよるドラ枠でオンエアされた「だから私は推しました」に登場した地下アイドルのサニーサイドアップだと判明すると、視聴者からは「サニサイが出てきたのも嬉しい。同じ世界に存在してる」「一瞬、別のグループかと思ったけど黄色だし、卵だし、絶対そうだと確信。好きなドラマだったから嬉しかった~~」「序盤にサニサイが一瞬出ててビックリしてたら、その後名前もガッツリ出てきて嬉しい」などの反応が上がる。その後、高橋が貯めたポイントカードのポイントを消化するため、咲子は仕事帰りに高橋と待ち合わせる。ポイントカードを貯めてから「満を持して使う」という高橋だが、そのせいでたくさんあるポイントカードの有効期限が全部“今日”だった…という展開に「うわーーーーーー、わかる、ポイントの有効期限忘れがち」といった共感の声や、「ああいう何気ない小さな幸せを分かち合える人生は本当に素敵だと思う」「押し付けでもなく、自然に時間を共有出来る関係は良いなと思った」など、咲子と高橋の関係性を讃える声も多数SNSに投稿されている。(笠緒)
2022年01月25日「沙也加さんが亡くなってから1カ月、聖子さんは今も憔悴しきっています。一部では花を飾った祭壇で、沙也加さんに語りかける日々を送っているとも伝えられました」(芸能関係者)昨年12月18日、仕事で訪れた札幌市内のホテルから転落死した神田沙也加さん(享年35)。突然の訃報に日本中が悲しみに覆われたが、愛娘を失った母・松田聖子(59)の心痛は計り知れない。「沙也加さんの急逝を受けて、開催予定だった5件のディナーショーが中止になりました。『第72回NHK紅白歌合戦』も、出場の方向でギリギリまで話が進んでいたものの辞退。聖子さん自身が、『今は歌えない……』と漏らしたそうです」(前出・芸能関係者)悲嘆に暮れる聖子。今年3月で満60歳となる。「聖子さんは一昨年、デビュー40周年を記念した全国ツアーが予定されていたものの、コロナ禍で全ての公演が延期に。そして去年、なんとか40周年を記念したコンサートツアーの開催にこぎ着けました。今年も還暦の節目に大々的なツアーを計画していましたが、現状は全て休止になりました。聖子さんは本来、新しいことに意欲的です。デビュー40周年の際には、ホラー映画の監督業に挑戦。還暦では新譜でファンを驚かせたいと考えていたそうです。しかしこちらも事実上ストップしているといいます」(音楽関係者)昨年10月、『news23』(TBS系)に出演し、「デビューから41年間、変わらず“歌を歌えること”に幸せを感じている」と語っていた聖子。彼女が再び歌う日は訪れるのだろうかーー。「実は昨年末中止となったディナーショーを、今夏に再び開催する構想があるそうです。それが活動再開の場となるでしょう。常に支え続けてくれた多くのファンの目の前で歌うことから再出発するのが、歌手としての自分の責務だと考えているのです。聖子さんは、以前『ファンのみんなの前で歌うとエネルギーをもらえる』とも語っていました。夏のディナーショーでファンと万全の状態で再会するため、最低半年は心身を休ませ、鎮魂の期間にあてたいと考えているそうです」(前出・音楽関係者)心に大きな穴があいた聖子。しかしどんなときでも歌とファンが、彼女を支えているーー。
2022年01月19日「斎場で悲しみの対面をした聖子さんは、眠っているような沙也加さんの表情に嗚咽していたそうです」(音楽関係者)昨年12月18日深夜、神田沙也加さん(享年35)が公演で訪れていた札幌市内のホテルから転落死した。50センチに達する大雪が降り積もった日だった。3日後の21日夕方、愛娘の位牌を胸に札幌市内の斎場で会見を行った母・松田聖子(59)と父親の神田正輝(71)。顔面蒼白の聖子は、集まった報道陣を前に、こう声をふり絞った。「本当にみなさまお寒いなか、申し訳ございませんでした。ありがとうございます」2人は、その日のうちに別々の便で東京に戻ってきた。スタッフの先導で先に飛行機を降りてきたのは、聖子の母親だった。うなだれた様子がその失意を物語っている。その後ろに聖子が続いていた。聖子もまた茫然とした表情だった。その胸には濃紺の布で包まれた娘の遺骨が抱えられていた――。これまで聖子と沙也加さんは幾度となく確執が伝えられてきた。だが、2人は心底では固くつながっていたという。デビュー当時の聖子と仕事をしていたカメラマン・YAHIMONときはる氏は証言する。「沙也加さんが17年12月の舞台『屋根の上のヴァイオリン弾き』に出演したときのことでした。別の女優さんの楽屋で私自身が9年間、実母と会っていないと話をしてから、その女優さんの後押しもあり、面識のある沙也加さんの楽屋にご挨拶に行ったんです。沙也加さんからは神妙な顔で、『ちょっと聞こえちゃったんで申し訳ないんですけど……子供に会うのを嫌がる母親なんて絶対にいません!』と言われたんです」沙也加さんは同年5月に村田充(44)と結婚。母娘不仲説が報じられていた時期で、YAHIMON氏は彼女の発言に驚いたという。「その翌日、私は母に会いに行き、3カ月後に母は他界しました。沙也加さんの励ましがなければ、私は母とは会えていませんでした」■「母親が、私を一番愛してくれている」翌年、同舞台の愛知公演に出演していた沙也加さんに感謝を伝えに行くと、こう言われたという。「私、生意気言っちゃってごめんなさい。私も母の“有名税”にずっと悩んでたりしていたんですけど、やっぱり母親が一番つらいって思うようになって……。産んでくれた母親が私を一番愛してくれているから、その真実があれば悪く書かれても仕方ないかなって。だからあんなこと言っちゃったんです……」そんな娘の思いは聖子にも伝わっていたのだろう。空港でも聖子は遺骨を両手で愛おしそうに抱えていた。前出の音楽関係者は言う。「聖子さんは愛娘を突然失った余りの悲しみに、自宅で遺骨をしばらく保管しておくのでしょう。かねて聖子さんは霊感が強く、信心深い方ですから、娘さんのお墓をどうするか熟慮しているといいます」聖子の父の葬儀は一家のルーツでもある福岡県柳川市の菩提寺で執り行われたという。「蒲池家は江戸時代、柳川藩の系譜を継ぐ由緒ある家系で、この菩提寺の創建者でもあったといいます」(地元紙記者)だが、前出の音楽関係者は言う。「ただ、福岡となると東京とは距離があり、日常的に墓参できなくなってしまいます。また、沙也加さんの成人後に再婚した今の旦那さんのお墓に入れる可能性は限りなく低いでしょう。父親の神田さんの実家のお墓に入れた場合は聖子さんは一緒にお墓に入れなくなってしまいます」■神田の母が眠る寺の関係者は「(納骨は)こちらではない」と…東京都新宿区内にある名刹には神田の母で女優の旭輝子さん(享年77)が眠っている。同寺の関係者は、沙也加さんの遺骨がここに入る話は聞いていないと話す。「沙也加さんのことはショックですし、私たちも心配しています。ただ今回のことで神田さんからこちらに連絡はありません。(納骨は)こちらのお墓ではないと思います。神田さんをお見かけしたのは2年ほど前ですが、連絡をいただくこともありますし、定期的に来てくださっているようです。神田さんはしっかりお墓を守っています」前出の音楽関係者は続ける。「そういう事情も踏まえ、沙也加さんのお墓を新たに造ることも選択肢に入っているようです」終活カウンセラー協会の代表理事・武藤頼胡さんは、わが子に先立たれた親の心理をこう指摘する。「お子さんを先に亡くされた場合、気持ち的にすぐに納骨しないことが多いので、しばらくは手元に置くと思われます。ただ、新たに沙也加さんのお墓を造るということは十分考えられます。今は昔と違い、実家のお墓に入る決まりはありません。沙也加さんのお墓を造っておいて、後から聖子さんがそこに入るという形もできます。聖子さんからしたら、娘さんと一緒のお墓に入りたい希望はあるかと思います」父親の神田と分骨する可能性もあるという。「親である聖子さんには『何もしてやれなかった、何もできなかった』という後悔があると思います。だからお墓という形で、少しでも何か良くしてあげたいという気持ちは強いはずです。通える場所にお墓を用意することが、娘にとってもいいと考えるのではないでしょうか」昨年12月18日のディナーショーを最後にステージから下りた聖子は『紅白』出場も辞退した。「当面はライブやメディア出演を一切予定していないと聞いています」(映像関係者)前出のYAHIMON氏も言う。「私の師匠で、聖子さんもお世話になったカメラマンが亡くなったときも事務所関係者が『彼女は悲報を聞くと、絶対に影響が出る』と話していました。聖子さんは非常に繊細な方ですので、しばらくお休みすると思います」愛娘のために自分は今、何ができるのか――。光を求めて、聖子の涙の奔走は続く。
2022年01月05日「本当にみなさん、お寒い中、申し訳ありませんでした。ありがとうございます」12月21日、涙を堪えながらこう声を絞り出したのは松田聖子(59)。同日、札幌市内の斎場で一人娘の神田沙也加さん(享年35)に最後の別れを告げた。その後、元夫の神田正輝(71)と揃って記者会見に臨んだのだった。「聖子さんは沙也加さんの訃報を知った際、人目もはばからず号泣したと聞いています。予定されていたディナーショーは全て中止となり、紅白歌合戦の曲目は未定とされました。気丈に会見に臨まれましたが、今は人前に立てるような精神状態ではないはず。ご両親の深い悲しみは計り知れません……」(スポーツ紙記者)沙也加さんは正輝と聖子という芸能界きってのスター同士の子とあり、聖子の妊娠当時から大いに注目を集めていた。聖子は安定期に入った’86年6月、『さんまのまんま』(関西テレビ)に出演し、明石家さんま(66)と生まれてくる赤ちゃんの話に花を咲かせたこともあった。「当時、聖子さんは妊娠5カ月。さんまさんは『男の子か女の子か当てる!』と言って、聖子さんのお腹をさする一幕もありました。聖子さんは始終、幸せそうな笑みを浮かべて歓談していましたね」(テレビ局関係者)この番組収録後、記者会見に臨んだ聖子は“胎教に気をつけている”として次のようなエピソードを明かしていた。「きれいなものを見たときは“きれいね”とか、美味しいものを食べたら“美味しかったわね”とか、お腹の赤ちゃんに話しかけるようにしているんです」歌手である聖子は、同じように音楽を沙也加さんに聞かせて過ごしたという。「聖子さんは当時、お腹の中の赤ちゃんに好きな歌を歌って聞かせていたと語っていました。他にもホイットニー・ヒューストンやプリンスといったお気に入りの楽曲を、家で流していたそうです」(芸能関係者)■「母との初デュエットが紅白だなんて贅沢で光栄」沙也加さんが誕生したのは’86年10月。成長してからも母娘は、音楽でコミュニケーションを交わしてきた。’97年、聖子は当時小学5年生だった沙也加さんへの思いを作詞作曲した『私だけの天使~Angel~』をリリース。「世界にひとつの輝く宝物」と綴られた歌詞は、愛する娘が生まれてきてくれたことへの喜びで溢れていた。一方、’01年にCMデビューした沙也加さんだが、アーティストとしても早くから才能を発揮していた。聖子が’99年にリリースしたアルバム『永遠の少女』に収録された『恋はいつでも95点』は、当時13歳だった沙也加さんが「ALICE」名義で初めて作詞したもの。さらに聖子が’06年に続けてリリースしたシングル『bless you』『WE ARE.』も、沙也加さんが「上原純」名義で作詞作曲した楽曲だった。そんな母娘は、’11年の『第62回NHK紅白歌合戦』でテレビ初共演を果たしたのだった。「聖子さんと沙也加さんは、“みんなで一緒に歌えるように”との思いで坂本九さんの名曲『上を向いて歩こう』を選びました。当日は聖子さんのカウントダウンライブ会場から生中継。2人は歌唱後、手をしっかりとつなぎ頬を寄せ合っていました。沙也加さんは『母との初デュエットが紅白だなんて贅沢で光栄』と、嬉しがっていたのが印象的でした」(前出・テレビ局関係者)音楽で繋がり合った母娘の軌跡は、永遠に消えることはないだろうーー。■「日本いのちの電話」ナビダイヤル:0570-783-556(午前10時~午後10時)フリーダイヤル:0120-783-556(毎日・午後4時~午後9時/毎月10日・午前8時~翌日午前8時)
2021年12月22日《松田は、未だこの現実を受け止めることが出来ない状態です》女優の神田沙也加さん(享年35)が亡くなったことを受けて、母・松田聖子(59)の所属レコード会社はこうコメントを発表した。沙也加さんはミュージカル『マイ・フェア・レディ』札幌公演のため、市内のホテルに宿泊していた。しかし各メディアによると札幌公演初日である18日、昼の部の入り時間になっても沙也加さんが姿を現さなかったという。舞台は、主人公・イライザ役でWキャストを務める朝夏まなと(37)が代役として出演した。沙也加さんが亡くなった18日夜、聖子は都内のホテルでディナーショーを行っていた。19日には東京最終公演を迎える予定だったが、急きょ中止となった。「聖子さんはどんなときも決して負けない、強い精神力を持っている女性。また転倒して腰と背中を負傷したときでも椅子に座ったままコンサートを開催するなど、ステージに穴を開けないプロ根性の持ち主です。そのため、スタッフからも絶大な信頼があります。しかし、今回ばかりは話が別です。周囲からも心配の声が上がっています」(音楽関係者)大晦日にはNHK『紅白歌合戦』への出場も控えている聖子。SNS上ではディナーショーの中止を受けて、その胸中を案じる言葉が溢れている。《聖子ちゃん大丈夫かな…》《とにかく無理しないでいただきたいところ》《先ずは、沙也加さんの側にいてあげて下さい》■「日本いのちの電話」ナビダイヤル:0570-783-556(午前10時~午後10時)フリーダイヤル:0120-783-556(毎日・午後4時~午後9時/毎月10日・午前8時~翌日午前8時)
2021年12月19日女優の神田沙也加さんが18日に急死したことを受け、母で歌手・松田聖子の現状について所属事務所が19日、レコード会社の公式サイトを通じてコメントした。ユニバーサル ミュージックの公式サイトで、「所属事務所の松田聖子オフィシャルホームページのサーバーがダウンしておりますため、所属レーベルのサイトから神田沙也加さんの逝去につきまして、下記の通り掲載させていただきます」と掲載。「弊社所属、松田聖子の娘であり、女優、歌手の神田沙也加が12月18日に永眠いたしました。お世話になりました関係者の皆様、ファンの皆様には、生前に多大なるご厚情を賜りましたことを心より御礼申し上げます」と伝えた。そして、「松田は、未だこの現実を受け止めることが出来ない状態です」と松田の現状を報告し、「マスコミ関係の皆様におかれましては、松田や親族の深い悲しみや、ご近所の生活やプライバシーにご配慮いただき、自宅、及び、周辺への取材行為、また、憶測による記事掲載等はご遠慮いただき、見守っていただきますよう切にお願い申し上げます」と呼びかけた。神田さんは18日21時40分に急死。19日、所属事務所の公式サイトで「これまで神田沙也加を支えてくださった皆様にご報告させていただきます。2021年12月18日午後9時40分、神田沙也加(享年35歳)が急逝いたしました」と発表された。「詳しい状況は現在調査中」としている。悩んでいる方の相談窓口があります。下記の公式サイトをご覧ください。・電話:よりそいホットライン・SNS:生きづらびっと・いのちと暮らしの相談ナビ(相談窓口検索サイト)
2021年12月19日「気合の入れようは並々ならぬものがあって、出演する俳優陣も、聖子さん自らが声をかけて回ったと聞いています」(スポーツ紙芸能デスク)10月30日から11月8日にかけて開催される第34回東京国際映画祭で、松田聖子(59)が初めて監督した映画が公開される。還暦直前の“映画監督デビュー”となるわけだが、作品のジャンルはまさかのホラーなのだ。「米HBO傘下のHBOアジアが製作する『フォークロア』というホラーアンソロジーのシーズン2の一編『あの風が吹いた日』で、聖子さんは監督を務め、東南アジア圏でも話題になっています。この『フォークロア』の製作総指揮は、アジア圏で評価の高いエリック・クー監督が務めています。2018年公開の『家族のレシピ』というクー監督の作品に、聖子さんは彼に直接働きかけて出演しました。以降交流が続いていて、今回の“監督デビュー”につながったのです」(映画関係者)『あの風が吹いた日』には、主演の森崎ウィン(31)、高橋春織(24)、木村多江(50)のほか、聖子と長年親交があるモト冬樹(70)が出演している。しかしジャンルがホラーとは、いったいどのような内容になっているのかが気になるがーー。「聖子さん本人が言う、『ずっと頭の中にあったアイデア』をもとに、1年以上かけて脚本を書き上げています。女子高校生が、憧れの歌手に偶然出会ったことから始まる、一見ラブストーリーなのに、ホラー仕立てになっています。しかしそもそも聖子さんが監督を務めることになったのは、聖子さんがクーさんに話した“個人的な経験”がきっかけだったのです」(前出・映画関係者)デビュー時から、トップアイドルとして日本の芸能界を走ってきた聖子とホラーとはおよそ結びつかないイメージがある。実は、聖子には“芸能界最怖”レベルの霊能力があるーーとは、知る人ぞ知る話なのだという。かつて所属した芸能プロ関係者はこう明かす。「彼女がアイドル時代、よく“金縛り”にあっていたという話を聞かされました。しかも時折、“見えてしまう”ことがあるんだとかーー。たとえば、地方で宿泊するホテルやコンサート会場の楽屋で、『何かがいるわ』と言って、部屋を替えることがしょっちゅうありました。いずれの場合も調べてみると、何かのご不幸や事故があった場所に近かったのです」■「強さは本物」と周囲が戦慄してーーデビュー当時の聖子と仕事をすることが多かったカメラマンのYAHIMONときはるさんは、当時の“不思議な体験”を語る。「一緒に車で移動しているときに、突然『誰か知り合いに会う気がする』と言いだした。しばらく走ると、当時彼女が出演していた『レッツゴーヤング』(NHK)の先輩がいて、『サンデーズの未都由さんだ!』と、偶然出くわしたことがありましたね」聖子の霊能力。いつの間にかその強力さが、多くの関係者たちにも知られることになってーー。「デビューしたころに出演していたラジオ番組の収録で、特定のスタジオに入ることを聖子さんが嫌がったことがありました。嫌がったことに尾ひれがついて、いつのまにかその場所が“開かずのスタジオ”になったケースもあったくらいです。『やっぱり聖子には何かが見えるんだ』『聖子の霊感の強さは本物だ』などと、関係者の間でよく話題になったものです」(ベテラン音楽プロデューサー)前出のYAHIMONさんも、現場で驚かされたことがあった。「1980年11月に、よみうりランドで開催された聖子さんの野外コンサートで、楽屋とステージが離れていたため、敷地内ですが車で移動することになったのです。彼女と女性マネージャーが車に乗り込むと、エンジンがかからない。会場のスタッフが、『すみません、いまから別の車を手配しますので……』と大慌て。すると聖子さんがポツリと、『○○さん(マネージャーの名前)がやったら、エンジンがかかるんじゃないかな』と言うのです。物は試しと、マネージャーが運転席に移動してやってみると、本当にエンジンがかかったのです」そのときYAHIMONさんは、「聖子さんは何かに護られている」と感じたといい、こう続ける。「けん玉をやる聖子さんを撮ったときのことですが、けん玉ってなかなか成功しないので、たくさんシャッターを切っていたのです。すると聖子さんは、『2枚目か3枚目が、すごく私らしい写真だったと思います!』と言うのです。フィルムを現像したら、本当にそのとおりでーー。本人から『霊感があるの』と言われたこともありません。でも昔から聖子さんには、直感の鋭さ以外にも、特別な力やオーラを感じることが多々ありました。『あの風が吹いた日』は、聖子さんの実体験を脚本化したそうですが、こうしたエピソードには事欠かないと思いますよ」デビュー41年目の監督デビューに、聖子は秘め続けた“霊能力”で新境地を拓くのかーー。
2021年10月21日