「娘は天国に旅立ってしまいましたが、私の心の中では、ずっと生き続けています。皆さまに支えられて娘は幸せでした」9月3日、東京・日本武道館で行われた松田聖子(60)の2022年全国コンサートツアーのファイナル公演。黒のドレスに着替えて『ever since』を歌い終わった聖子が深々とお辞儀すると、会場の大勢のファンが涙を流していたという。その場にいた音楽関係者はこう語る。「この曲は昨年末、急死した愛娘・沙也加さん(享年35)のデビュー曲です。ちょうど20年前、この武道館のステージに娘さんが飛び入り参加して、母娘でこの曲を歌ったんです。会場には、今年90歳になる母・一子さんの姿もありました。痩せていましたが、杖もなしで歩いていて感慨深そうにされていました」亡き愛娘と20年ぶりに“共演”した聖子。その数日前、聖子の「永遠のライバル」中森明菜(57)はTwitterを開設し、新たな事務所での再出発を電撃発表した。テレビ局関係者によると、新たな事務所の監査役を務める弁護士から各テレビ局宛てに連絡が入ったと説明する。「前事務所とは本年8月で契約を解消しているため、今後、過去の明菜の映像を使用する場合、新事務所に連絡するようにという趣旨でした」新たな個人事務所の代表取締役は明菜本人だった。「20年間在籍した前事務所の社長とは、一部で交際が報じられたこともありました。今後は明菜さんの意向が強く反映することになるでしょう」(前出・音楽関係者)慢性化した帯状疱疹などで、表舞台から遠ざかっていた明菜だが、新たに立ち上げたTwitterの文面で、こう綴っていた。《デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません。ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》■NHKは聖子&明菜と交渉できる「ミスターNHKホール」を責任者に聖子と明菜。’80年代を代表する2大歌姫のメディア“再始動”の場として、年末の『紅白歌合戦』が最有力視されていると語るのは、音楽プロダクション関係者だ。「聖子さんは去年、『紅白』出場が決まっていましたが、娘さんの悲報により出場辞退となりました。いっぽうの明菜さんは’14年、ニューヨークから生出演して以来、『紅白』には出場していません。今年、NHKで彼女の過去のライブ放送が軒並み高視聴率を記録しており、8年ぶりの『紅白』出場に大きな期待がかかっています」当のNHKは全力で2人の交渉にあたっているという。「昨年の『紅白』の世帯視聴率は34.3%と歴代最低で、打ち切り危機まで報じられるほどでした。今年6月に発表された人事異動では、『SONGS』から『うたコン』に異動した40代後半のチーフプロデューサーのA氏が、今年の『紅白』の事実上の総指揮をとることになりました。A氏は局内では珍しく音楽畑一筋で『うたコン』を立ち上げた人物。前身の『NHK歌謡コンサート』にも携わっており、聖子さん含め、数多くの大物歌手から絶大な信頼を得ています。今年から『紅白』は改修工事が完了したNHKホールに戻ることもあり、同所を知り尽くした“ミスターNHKホール”A氏が責任者となったわけです」(制作関係者)8年前に明菜を『紅白』に口説いたのはA氏の当時の上司・B氏だったという。「出演交渉は難航しましたが、“ニューヨークのレコーディングスタジオから生中継”という絶妙な演出が功を奏し、明菜さんはA氏を信用するようになったそうです」(前出・音楽関係者)■聖子の『紅白』有力候補曲が『瑠璃色の地球』のワケ長年、ライバル視されているだけに、聖子と明菜が歌番組で“共演”する機会は、それほど多くはなかった。アイドル時代の2人が出演した音楽番組で共演したミュージシャンはこう語る。「仲が悪いということは決してなく、むしろお2人は楽屋や舞台裏では笑顔で会話されていましたよ。お互いが、相手の曲を自宅で口ずさむこともある仲だと聞きました。明菜さんは当時、聖子さんの曲を歌詞を見なくとも全部歌えると言っていました。リスペクトしていたんですね。昭和、平成と激動の芸能界を駆け抜けた、よき“戦友”といった間柄でしょう。時代は令和へと移り変わり、“再共演”に関しては、お二方とも強く願っていると思います」実際、’83年3月17日放送の『ザ・ベストテン』(TBS系)で2人が共演した際、司会の久米宏(78)から聖子について聞かれた明菜は「うちではみんなが大ファンなんです。私、いつもずーっと見とれていたんです」と即答。その後、久米から「ライバル意識はありますか?」と聞かれた聖子は、「やっぱり。頑張らなきゃいけませんね」と、聖子もデビュー間もない明菜の実力を認める発言をしていた。それから約40年、還暦を迎えた聖子と、再始動した明菜が同じステージで“共演”できるのかーー。前出の制作関係者は言う。「最大のポイントは、明菜さんが『紅白』に生放送出演できるまで体調が回復できるか否かでしょう。映像出演なども含め、多角的に検討していると聞いています。また、聖子さんが歌う楽曲の有力候補に『瑠璃色の地球』が挙げられているようです。世界平和のメッセージが込められており、愛娘・沙也加さんとのデュエット経験もある曲。そして明菜さんも’02年にカバーしている楽曲なんです」明菜と親しい音楽関係者によれば、明菜のモチベーションを上げる“殺し文句”があるという。「『最近、曲出してないんじゃない?』というと、彼女はやる気を出すんです。長い沈黙を破って再始動を発表したからには、何かやってくれるかもしれません」聖子&明菜“奇跡の共闘”で今年は音楽史に残る『紅白』となるか。
2022年09月15日《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思います》今年5月にデビュー40周年を迎えた中森明菜(57)が、8月30日に突如Twitterと公式サイトを開設し、個人事務所の設立と再始動を発表した。フォロワー数はすでに42万人を超え(9月1日時点)、日本中の注目を集めている。明菜といえば’10年に帯状疱疹で芸能活動を無期限休止。’14年末には『NHK紅白歌合戦』にサプライズ出演したが、’17年末のディナーショー以降はふたたび活動休止にはいった。そんな明菜の最盛期を本誌秘蔵ショットで振り返る。【’84年】名曲『飾りじゃないのよ涙は』を’84年に発売。アイドルからシンガーへの転機となった。【’86年7月】ツアーの東京公演にて。ラストは『DESIRE-情熱-』で会場を沸かせた。【’86年】『夜のヒットスタジオ』に出演。同年には日本レコード大賞を2年連続で受賞した。【’95年】神戸で行われた阪神・淡路大震災救済イベントに出演し、被災者たちを励ました。8月30日のコメントでは、《まだ万全な体調とは言えません》としながらも、メッセージからは前向きなパワーが感じられた。自分らしく輝くステージを、またたくさん見せてほしい!
2022年09月10日《いつも応援してくださるファンのみなさまへ。ご無沙汰しております。中森明菜です》8月30日、長い沈黙を破ってメッセージを発信したのは中森明菜(57)。ツイッターアカウントと公式サイトを開設し、“再始動”を宣言したのだ。’10年に帯状疱疹で芸能活動を休止した明菜。その後’14年の『NHK紅白歌合戦』にサプライズで出演し活動を再開させるも、’17年末のディナーショー以降は公の場に姿を現していなかった。それでも人気が衰えることはなく、デビュー40周年の今年は“復活”が期待されていた。「7月にはNHKで過去のライブが放送されましたが高視聴率。反響はとても大きく、視聴者からお礼の声が殺到するほどだったそうです。各局の音楽番組もこぞって出演オファーをかけていたと聞きます」(テレビ局関係者)高まるラブコールに応えるように、再びステージに立つという明菜。心機一転、新たな個人事務所も立ち上げたが、今回の復活宣言にはある“予兆”があったという。「40周年ということで民放の音楽番組が通常の手続きを踏んで明菜さんのライブ映像の一部を使ったところ、事務所から映像の使い方について物言いがついたと聞いています。これまでそんなことはなかったので明菜さんサイドに何か変化があったのではと噂されていました。今思えば、新しい事務所になったことで方針も変わったのかもしれません」(前出・テレビ局関係者)明菜の私生活にもある変化があったようだ。「これまで明菜さんが所属していた事務所の代表でありマネージャーを務めてきた4歳年下の男性は明菜さんの恋人とも報じられていました。ですが今回、そこから移籍しての活動再開ですから、恋人と決別したということなのでしょう」(芸能関係者)2人が交際を始めたのは’01年ごろといわれている。男性が所有するマンションの別の階に2人は住んでいたというが……。「ここ最近は男性も明菜さんも見かけませんね。転居されているんじゃないですか」(近所の住人)本誌は明菜の元事務所の役員に名を連ねている、男性の姉に話を聞くことができた。彼女は今回の件に困惑している様子だった。「今回の明菜さんの移籍に関しては、私は全然聞いておりませんし、お話しできることはありません」以前から実家との不仲が報じられており、’19年に亡くなった実妹の葬儀にも姿を現さなかったという明菜。ここにきて20年来の恋人とも決別ーー。孤独を深めているようにも思えるが、明菜は決して独りぼっちになったわけではない。心強い“応援団”がいるという。「日本でも有数の音楽プロデューサー・Aさんが再始動をバックアップしていると聞いています」(音楽関係者)A氏は松田聖子(60)や井上陽水(74)などを手掛けた大物だ。「明菜さんもAさんとは何度もアルバムなどを制作してきましたから、信頼を置いているはずです。Aさんは小泉今日子さん(56)とも親交がありますが、その小泉さんと明菜さんは仲が良く、小泉さんは今でも明菜さんとひそかに連絡を取り合っているという話も聞いたことがあります。そういった背景もあり、Aさんはこれ以上ないほど頼りになる存在でしょう」(前出・音楽関係者)本誌はA氏にメールで取材。次のようなやりとりがあった。ーー明菜さんの新曲を手掛けていると聞きましたが?「そのような噂が音楽業界に出回っていますが、制作をお手伝いする予定はありません。本人から依頼があったらお知らせします」ほかにも、明菜を後押しするこんな顔ぶれが。「’17年のディナーショーなどを手掛けたイベント関係者のBさんが今年もディナーショーの開催に向けて始動したとも聞いています。また’14年の『紅白』の際に明菜さんが『Cさんからのオファーなら受ける』と言った、信頼の厚いプロデューサーがいます。Cさんは現在もNHKに在籍しているはずなので、今年の『紅白』に出る可能性もかなり高いと思います」(レコード会社関係者)このタイミングで活動再開を発表したということにも、彼女の今後の活動への意欲が読み取れる。「8月末というのは例年、年末のディナーショーや『紅白』が打診される時期です。40周年にふさわしいステージを用意するためには、今がベストだと動きだしたのでしょう」(NHK関係者)いまだ万全ではないという彼女の体調が懸念されるが……。「’14年の『紅白』でニューヨークからの中継で出演したように、別のスタジオなどから中継ということもありえますし、事前収録という方法もあります。また、’19年の『紅白』で登場した“AI美空ひばり”のように、明菜さん自身が登場できなくても成立する見せ方などを多角的に検討しています」(前出・NHK関係者)もう一人の歌姫・聖子の存在も彼女の背中を押している。「明菜さんにとって聖子さんは共に時代を彩った仲間。聖子さんは昨年12月に愛娘の沙也加さん(享年35)を亡くしましたが、それでもステージに立ち続ける姿に明菜さんも胸を打たれたのではないでしょうか。明菜さんは活動休止中も“いつか自分が歌うために”と作詞を続けていました。披露される日も近いかもしれませんね」(前出・芸能関係者)5年前、35周年のディナーショーでは「ファンと一緒に年の瀬は盛り上がりたい」と話していた明菜。40周年の年の瀬も、日本中を沸かせてほしいーー。
2022年09月07日《今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません》《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》8月30日、Twitterで突如こう明かしたのは歌手の中森明菜(57)だ。今年5月にデビュー40周年を迎えた明菜が再始動を発表した。「明菜さんの歌手人生は波瀾万丈そのもの。‘82年にデビューを果たし、瞬く間にトップアイドルとなりましたが’89年7月、当時交際していた近藤真彦さん(58)の自宅で自殺未遂。そして90年代には事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、’10年には体調不良を理由に無期限の活動休止を発表しました。’14年末に『NHK 紅白歌合戦』に出場し、’15年末には6年4ヵ月ぶりとなるアルバムをリリース。’16年末と’17年末の2年連続でディナーショーを開催し、軌道に乗るかと思いきや、明菜さんは再び公の場に姿を見せなくなりました」(音楽関係者)そんな明菜を支えていたものがある。それは“花の82年組”の同期たちだ。「花の82年組は明菜さんの他に、小泉今日子さん(56)や早見優さん(55)、シブがき隊や堀ちえみさん(55)といった高い知名度を誇る面々が揃っています。そして今でも、ちえみさんを中心にしたネットワークが彼らにはあるといいます。なかなか明菜さんと連絡を取ることは難しいそうですが、’93年のスペシャルドラマ『瞳に星な女たち』でW主演を果たすなど、親交のあるキョンキョンさんが間を取り持つこともあるそうです」(芸能リポーター)明菜が無期限の活動休止を発表した’10年、堀はブログで『明菜ちゃん、ガンバレっ』というタイトルの記事を投稿している。「そこでちえみさんは、ブログの3年前にテレビ局で明菜さんと出会ったエピソードを明かし《元気になった明菜ちゃんと、会いたいな 私は明菜ちゃんの笑顔を、いっぱい見てきたから》と綴っていました。そして’19年、ちえみさんが舌がんを公表した時には、明菜さんが堀さんに向けてメッセージを送ったといいます」(前出・芸能リポーター)同期だけではなく、’80年に歌手デビューを果たしたトップアイドルの先輩である田原俊彦(61)も明菜のことを気にかけているという。「実はトシちゃんと明菜さんの縁は深いんです。’17年2月、トシちゃんは『爆報!THEフライデー』(TBS系)で、明菜さんから『トシ、元気?いつも見ているから』という内容の留守電が入っていたことを明かしています。トシちゃんは体調不良とはいえ、明菜さんの活動がなかなか起動に乗らないことに悔しい思いをしているそうです。そのため、ある食事の席で『明菜ちゃんに電話をかけて復帰するように言うよ。俺なら口説けるから!』と豪語したことも。結果的に明菜さんは留守だったそうですが、トシちゃんの熱意はきっと伝わったでしょうね」(前出・芸能リポーター)明菜を支えた“アイドル連絡網”。その復帰に、同志たちも大喜びだろう。
2022年08月31日《今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません》《ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです》8月30日、突如Twitterにこう綴ったのは歌手の中森明菜(57)。今年デビュー40周年を迎えた明菜が再始動を発表したのだ。さらに公式サイトでは、個人事務所『HZ VILLAGE』を設立したとも明かしている。‘82年にデビューを果たし、瞬く間にトップアイドルとなった明菜。しかし’89年7月、当時交際していた近藤真彦(58)の自宅で自殺未遂。そして90年代には事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、’10年には帯状疱疹を患い、無期限の活動休止を発表していた。その後’14年末に『NHK 紅白歌合戦』に出場し、’15年末には6年4ヵ月ぶりとなるアルバムをリリースし、電撃復活。’16年末と’17年末の2年連続でディナーショーを開催したが、それ以降は明菜は公の場に姿を現していない。「’18年8月、ファンクラブの会報で明菜さんは《さみしいねぇ…ほんとォーに…みんなに…会いたい…でも…無理かもぉー》と綴っていたそうです。一部で恋人とされていたマネジャーとの破局が報じられたこともあり、ファンの間では心配する声も上がっていました」(芸能関係者)いっぽう今年5月にデビュー40周年を迎え、7月にはNHK総合で『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』が放映された。土曜日の夕方という時間帯にも関わらず、4.6%もの高視聴率を記録。親子2代で観た人もいたようで、改めて“歌手・中森明菜”を再評価する動きが。そして、ネットを中心に復活待望論も巻き起こっていた。「明菜さんは今なお、帯状疱疹と戦っているといいます。思うように体調は回復せず、その闘病生活は12年。また病気のため精神的な不調にも見舞われ、人前で歌うどころか会うのさえ限られた人のみ。自宅からほとんど出ない生活が続いているといいます」(音楽関係者)しかし、明菜は“歌への情熱”を絶やさなかったという。「明菜さんは“いつか自分が歌うために……”と歌詞をノートに書きためているんです。これまでも明菜さんが作詞した楽曲はいくつもあり、20代のころには作詞家の先生のもとで本格的に学んだこともありました。’00年以降は『Miran:Miran』というペンネームで作詞をしています。今年は40周年とあって、明菜さんのレコード会社には音楽番組から出演オファーがいくつも届いていました。そんななかでの復活宣言。明菜さんサイドと繋がりが強いNHKは『紅白』に出演してもらえないかと狙っているそうです」(テレビ局関係者)紆余曲折ありながらも、ついに復活を宣言した明菜。これからの動向に注目が集まりそうだ。
2022年08月31日2022年8月30日、歌手の中森明菜さんが個人事務所『HZ VILLAGE』を設立し、再始動することを発表しました。同日に設立された、中森さんのTwitterに投稿された内容が、こちらです。いつも応援してくださるファンのみなさまへ長い間、ご心配をおかけしており申し訳ありません。ほんの少しですが、体調が良くなってきましたので、この度、お手紙を書かせていただこうと思いました。今年2022年は、デビューをさせていただいてから40年になります。デビュー40周年として、何らかの活動をと日々体調と向き合ってきておりましたが、まだ万全な体調とは言えません。ゆっくりになってしまうと思いますが、歩き出していきたいと思いますので、どうか見守っていただけると嬉しいです。また、再始動に備えて新たな個人事務所を設立したことを併せてご報告させていただきます。今後は新しいウェブサイトakinanakamoriofficial.comにて情報を発信させていただく予定です。一方的なお知らせとなってしまい大変申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。2022年8月30日中森明菜@akinan_officialーより引用中森さんは、1982年5月に歌手デビュー。『少女A』や『飾りじゃないのよ涙は』、『DESIRE -情熱-』など、数々の名曲で人々を魅了してきました。2010年10月に体調を崩して以降、活動をセーブしながらも、音楽活動は意欲的に取り組んでいた様子の中森さん。突然の発表に、ネット上では「楽しみ」「嬉しい!」「待っていました!」など、驚きと感動の声が上がっています。力強くも美しい中森さんの歌声が再び聞ける日が待ち遠しいですね![文・構成/grape編集部]
2022年08月30日「7月9日に放送された『中森明菜 スペシャル・ライブ1989 リマスター版』(NHK)は、デビュー時からのシングル曲だけを歌ったもので、ファンの間では“伝説のコンサート”といわれています。放送後、NHKにはお礼のメールが多数寄せられました。親子2代で視聴した人も多かったようで、明菜さんの圧倒的な人気を改めて感じました」(NHK関係者)5月1日、デビュー40周年を迎えた中森明菜(57)。“伝説のコンサート”は4.6%の高視聴率を記録。15日には『中森明菜スペシャルライブ 2009・横浜』(NHK BS)も放送された。しかし、当の明菜本人は’17年末から公の場に姿を現していない。「明菜さんは’10年に帯状疱疹で芸能活動を無期限休止しました。’14年末には『NHK紅白歌合戦』にサプライズ登場して歌手活動を再開させましたが、’17年末のディナーショー以降は再び活動休止しています」(スポーツ紙記者)現在でも思うように体調は回復せず、闘病生活は12年にも及ぶ。「病気のため精神的な不調にも見舞われ、人前で歌うどころか会うのさえ限られた人のみ。自宅からほとんど出ない生活が続いているといいます」(音楽関係者)中野皮膚科クリニックの松尾光馬院長は言う。「帯状疱疹は男性に比べ女性に1.5倍ほど多く発症します。85%の人は3カ月ほどで治りますが、6カ月以上長引く人は4%います。帯状疱疹が長期化するのは、神経障害性疼痛という神経が傷つく痛みが長引いたためではないでしょうか。最初の発疹が重症な人や、発疹が出る前の『前駆痛』という痛みが強い人が長引きやすい傾向にあります」しかし今でも明菜は歌への情熱を持ち続けていると、前出の音楽関係者は語る。「“いつか自分が歌うために”と歌詞を書きためているんです。これまでも明菜さんが作詞した楽曲はいくつもあり、20代のころには作詞家の先生のもとで本格的に学んだこともありました。’00年以降は『Miran:Miran』というペンネームで作詞をしています」明菜の復帰を望む声は、今も根強い。「今年は40周年とあって明菜さんのレコード会社には音楽番組から出演オファーがいくつも届いています。なかでも明菜さんサイドとつながりが強いNHKは『紅白』に出演してもらえないかと狙っています」(テレビ局関係者)歌姫が闘病の傍ら綴った作詞ノート。彼女の才能の一編をまた聴ける日をファンは待っている――。
2022年07月25日Toshlが、カバーアルバム『IM A SINGER VOL.3』を9月28日にリリースすることが決定した。今作は約3年ぶりにリリースされる『IM A SINGER』シリーズの第3弾。テレビ朝日『題名のない音楽会』でも披露した「美女と野獣」に加え、テレビ朝日『ミュージックステーション』の“Toshl 3択”で披露した「タマシイレボリューション」(Superfly)、昭和を代表する歌謡曲「桃色吐息」(高橋真梨子)、「難破船」(中森明菜)、大ヒット曲「Hero」(安室奈美恵)、「三日月」(絢香)といった女性シンガーのカバー曲を収録。さらに大迫力のゴスペル合唱と共演した英語詞の楽曲「You Raise Me Up」(ケルティック・ウーマン)、2019年に公開された実写映画『アラジン』のために制作された「スピーチレス~心の声」、命のはかなさ、次の生命へと繋ぐ永遠を深く歌い上げたオリジナル曲「葉ざくら」なども収録される。「スピーチレス~心の声」では、日本を代表するチェロ奏者の宮田大がソリストを務め、楽曲に重厚さと華やかさを引き立たせている。また「美女と野獣」では『題名のない音楽会』で司会をつとめる石丸幹二とのデュエットを披露し、楽曲の世界に新たな息吹が吹き込まれている。リリース形態は初回限定盤と通常盤の2形態。初回限定盤付属のDVDには「葉ざくら」のMusic Videoやスペシャルインタビュー、スタジオライブが収録される予定だ。<リリース情報>Toshl カバーアルバム『IM A SINGER VOL.3』2022年9月28日(水) リリース●初回限定盤(CD+DVD):税込5,500円●通常盤(CD):税込3,300円【収録予定曲】・美女と野獣 ※石丸幹二とデュエット・スピーチレス~心の声・イントゥ・ジ・アンノウン~心のままに・Hero(安室奈美恵)・You raise me up(ケルティック・ウーマン)・三日月(絢香)・桃色吐息(高橋真梨子)・タマシイレボリューション(Superfly)・難破船(中森明菜)・葉ざくら(オリジナル曲)など【初回封入特典】特製トレカ(5種のうち1枚ランダム封入)Toshl ユニバーサル ミュージック 公式HP:
2022年07月13日「明菜は毎回、死ぬ気で歌っていた。過酷な芸能界で命を削ってきた。デビューしたころ、多忙な彼女は番組で出番が終わると、横でウトウトすることもありました。指で肩をつつくと、目を覚まして笑うんです。その笑みが何のゆがみもなくて、純真無垢だった。芸能界にいちゃいけない笑顔だなって」同じ’82年デビュー組の川田あつ子(56)は、間近で見てきた印象を思い返す。5月1日、中森明菜がデビュー40周年を迎える。なぜ、彼女は多数のライバルをはねのけ、時代を切り開けたのか。そしてなぜ、活動を休止しているのか――。明菜の歌はデビュー前から聴く人の魂を震わせてきた。’79年、中学2年の少女は山口百恵らを輩出した『スター誕生!』(日本テレビ系)に応募した。同番組の地区予選の審査員兼ピアノ伴奏を務め、のちに明菜を指導するヴォイストレーナーの大本恭敬氏(86)はすぐに素質を見抜いた。「鼻にかかった声に独特の艶っぽさと憂い、低音の魅力を感じました。ただ、通過後の本選で歌った岩崎宏美の『夏に抱かれて』は音域の広い難しい曲で、自分のよさを生かしきれなかった」不合格となった明菜は翌夏、再度挑戦して松田聖子の『青い珊瑚礁』を歌う。審査員の松田トシは「顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも歌っていたほうがいいんじゃない?」と酷評した。明菜は「スタ誕では童謡を受け付けてないじゃないですか」と毅然と反論した。2度の不合格をバネに、翌年3回目の挑戦で番組最高得点を出し、本選を通過。’81年11月18日の決戦大会で11社のプラカードが上がり、事務所は研音、レコード会社はワーナー・パイオニアに決まった。ワーナーの邦楽宣伝課の富岡信夫氏(70)がプロモーションに使える材料を探すため、明菜にアンケートを記入してもらうと、「尊敬する人物」に「矢沢永吉さん、桃井かおりさん」と書かれていた。■デビュー直後のコンサートで『帰らないで!』と泣きながら歌っていた「16歳で2人の名前を挙げるコを初めて見た。新しいカルチャーを作りそうなセンスを感じました」歌手デビューという夢をつかんだ明菜は、東京・恵比寿にある大本氏の自宅でレッスンを重ねた。「周囲は『第二の山口百恵』に育てようという雰囲気がありましたが、百恵に似ないように独自の『個声』と『表現』を徹底的に磨きました。明菜には『ア』『オ』の間の声に独特の響きがあった。この特徴を鍛えると、下からすくうようなビブラート、花が咲くような表現ができるようになった。これが、明菜のオリジナリティになりました」’82年5月1日に『スローモーション』でのデビューが決まったが、メディア露出は難航した。当時、研音もワーナーも大手ではなかった。状況を冷静に分析した富岡氏は、地方のテレビ局やレコード店を地道に回る“演歌作戦”を敢行した。「札幌や福岡など7大都市をデビュー前に2周しました。仕事があるわけではなく、ただ単に挨拶回りをしました。明菜さんは嫌がらずにやってくれました。『なんとしても売れたい』という気持ちが全身から伝わってきました」デビュー4日後の5月5日、としまえんの野外ステージで複数のアイドルが出演するコンサートが開催された。明菜の出番になると、雨脚が強まった。観客が去ろうとすると、悲痛な叫びがこだました。「『帰らないで!』と泣きながら歌っていた姿を見て『たいしたものだ』と感心しました」(大本氏)いかに数少ないチャンスで人を引きつけるか。明菜にとって、すべてが勝負だった。一方、納得できない仕事には抵抗した。アイドル誌『平凡』で自宅の部屋を紹介する特集があった。出演の意味を理解できない明菜はスタッフ5人を前に、撮影を拒否した。困り果てた編集者から電話を受けた富岡氏が会社から急行すると、明菜は不満顔で「なんでやらなきゃいけないの。矢沢さんは出ないでしょ?」と述べた。富岡氏はこう説得した。「矢沢さんはメディアに出ない。その代わり、全国の小さな街でライブをして、自分の歌を伝える。君は今、同じやり方をできない。だから、テレビや雑誌を通して自分を伝える。部屋を見た読者が君に興味を持って、歌を聴いてくれるようになる。方法は違うけど、矢沢さんと同じことをしているんだよ」納得した明菜は満面の笑みでカメラに収まった。「理由を説明すれば、全力で取り組んでくれる。一つひとつの仕事に妥協しないコでした」(富岡氏)明菜は2曲目『少女A』で9月16日、『ザ・ベストテン』(TBS系)に初登場。一気にスターダムへ駆け上がっていく。作詞した売野雅勇氏(71)が述懐する。「実際に歌を聞くと、自分のイメージを超える歌い方をしていた。『少女A』は明菜ちゃんが歌ったから、売れたと思います。彼女は感情の幅が広くて繊細なので、いろんな歌を歌える。アイドルの歴史を塗り替えた歌手で、誰よりもスターの存在感を持つ女性です」その後、明菜は来生えつこ・たかお姉弟の『セカンド・ラブ』『トワイライト』という聖少女系、売野氏作詞の『禁区』『1/2の神話』というツッパリ系の歌を交互に発売し、ヒットを飛ばしていく。「ああいう詞を書ける歌手がほかにいなかったから、すごく楽しかった。アルバムのレコーディングで初めて会ったとき、驚くほどきれいでかわいかったですよ。ただ、愛想はよくなかった(笑)。きっと僕の詞があまり好きではなかったのだと思います。でも、嫌な気持ちにはならなかった」(売野氏)四方八方に笑顔を振りまき、大人の立てた戦略に素直に従う。当時のアイドルは、周囲の作った虚像の世界に置かれていた。だが、明菜は違っていた。川田が回顧する。「私はその枠から踏み外しちゃいけないと思っていたし、自分の意見は言えなかった。取材で困ったら『よくわかりません』と答えなさいと教わりました。明菜は周りと同化しないタイプで、独特な世界観を持っていましたね」1,500人以上のタレントを指導してきた大本氏が話す。「強くて芯のあるコで、レッスン中も自分をごまかさなかった。たくさんのアイドルがいましたけど、“中森明菜”という自分を持っているコは彼女しかいなかった。唯一無二、孤高の存在感があった」■久しぶりの再会に「泣きながら『先生に会いたかった』と」人を寄せつけない雰囲気を醸し出す一方、困った人を放っておけない一面も持っていた。『ザ・ベストテン』で’85年から司会を務めた小西博之(62)が振り返る。「僕が始めて4週目、(司会の)黒柳徹子さんがお休みだったんです。すごいプレッシャーですよ。その日、6位のサザンオールスターズは欠席でした。歌い終わった明菜ちゃんが横に来てくれて『申し訳ございません』と視聴者のために一緒に頭を下げてくれた。本当にうれしかった。ほかの日も、僕が何か間違えるとCM中に『コニタン頑張ってね!』と優しく声をかけてくれた。困ったらすぐ手を差し伸べてくれる下宿先のお姉さんのような存在でした」多忙を極めるなか、明菜はリハーサルにも必ず顔を出し、わずか3分の歌唱に魂を振り絞った。「あるとき、控室から『なんで衣装が届いてないの!』と怒る明菜ちゃんの声が漏れてきました。スタッフが言い訳すると、『じゃあなんで前の日に無理って伝えないの?』って。まさにそのとおりですよね。『私は命懸けて歌ってるの。手抜いちゃダメよ!』と聞こえてきて、自分も身が引き締まりました」’85年に『ミ・アモーレ』、’86年に『DESIRE -情熱-』で2年連続日本レコード大賞を受賞。明菜は名実ともに“歌姫”となった。だが、人生は過酷だ。’89年には自殺未遂、’90年代には度重なるトラブルに見舞われ、世間を騒がせた。そのころ、大本氏は六本木のバーで深夜に明菜と偶然再会した。「泣きじゃくりながら抱きついてきたので、しばらく『よしよし』と子供をあやすようにしていました。『元気か?』『先生に会いたかった』と言葉を交わした記憶があります。明菜は、一緒にいた私の家内にも『ママ?』と同じように抱きついて泣きじゃくっていました」余計な言葉などいらない。大本夫妻はただ明菜を優しく包んだ。よく一緒に食事やカラオケに赴いていた川田が思い返す。「いつだって、私の知っている明菜の笑顔はデビューのときと同じで純真無垢でした」■《あんまり幸せだといい歌にならない》数々の困難に遭った明菜には悲劇のイメージがついた。後年、本人は《中森明菜というキャラクターは、あんまり幸せだといい歌にならない》(『スポーツニッポン』’03年5月1日付)と漏らした。衝撃的な発言にも取れるが、川田と売野氏はこう分析する。「俯瞰で自分を見られる。これが彼女のすごさなんですよ」(川田)「普通の人を理解するような感覚で、明菜ちゃんの気持ちを勝手に捉えちゃいけない」(売野氏)’02年、20周年の明菜は復活を遂げる。カバーアルバムがヒットし、『NHK紅白歌合戦』にも復帰。当時、取材でこう語っていた。《歌って、思い出を作ってくれるじゃないですか。時間もそうだし、呼吸、空気、香りも…。その歌に、宝箱のように、ある瞬間までをも、皆さん大事にしまっているんですね。その思い出を、絶対に崩さないというのが大前提》(『日刊スポーツ』’02年12月15日付)’17年から活動休止中の彼女の心境を、川田が推し量る。「ファンへの感謝が強い人ですし、『万全の状態で表に出たい』という葛藤があるのかもしれない。とことん自分に向き合って妥協しないから……。周りが完璧だと褒めても、自分が納得できなければ満足しなかった。友としては、彼女が本当に歌いたくなるまではそっとしてあげてほしいな」それでも、「明菜待望論」は根強い。40周年記念の番組やリリースが相次いでいるのはスターの証しだ。歌の師である大本氏は断言する。「年齢を重ねたからこそ出せる味や歌声がある。それが自然だし、それでいい」いつになっても構わない。孤高の歌姫が解き放つ今の歌声をファンは待っている。(取材・文:岡野誠)
2022年05月01日抜群のセンスと数々のヒット曲で日本歌謡界のトップスターに君臨し続けた中森明菜(56)がまもなくデビュー40周年を迎える。ここ数年は公の場に姿を見せていないが、デビュー日の5月1日、並びに6月17日には40周年を記念してWOWOWで過去のライブ映像が配信されるなど、今もなおその人気は衰えていない。しかし、’89年に自殺未遂を起こして以降、90年代には事務所トラブル、’10年に無期限活動休止を発表するなど波乱の多い人生でもあった。’81年、15歳で『スター誕生!』で山口百恵の『夢先案内人』を熱唱したことをきっかけに芸能界入り。翌’82年に“ちょっとエッチな美新人娘”というキャッチフレーズでデビューし、同年発売した2枚目のシングル『少女A』ですぐさまブレイクを果たした。松田聖子を代表とするそれまでの可愛らしいアイドル像とは異なる、明菜の不良っぽい雰囲気と歌声は、多くの人を魅了。瞬く間にトップアイドルの座へと登り詰めたのだ。‘85年の『ミ・アモーレ』と、その翌年に発売した『DESIRE-情熱-』では、史上2例目となる2年連続の日本レコード大賞受賞の快挙を達成。その後も数々の賞を受賞し、明菜はアイドルとしての絶頂期を迎えることになる。何もかも順調に見えた明菜だが、プライベートでは悩みを抱えていたようだ。’89年7月11日、当時交際していた近藤真彦(57)の自宅で左肘の内側を刃物で切って自殺を図ったのだ。帰宅した近藤に発見された明菜は、病院へと緊急搬送され一命を取り留めた。明菜は近藤と共に’89年12月31日の大晦日に、一連の騒動に関する会見を開いたが、その会見は”結婚を連想させる金屏風の前での謝罪”という異様なものに。明菜の辛そうな面持ちに、世間からは心配の声が相次いだ。その後、近藤とは破局した。この件を境に、明菜の周りではトラブルやスキャンダルが多数報じられるようになる。女優として活躍したり、『Dear Friend』(‘90年)などのヒット曲を発売したりする一方で、事務所やレコード会社の移籍を繰り返す。その後、徐々に活動の範囲を絞っていった明菜。’10年には体調不良により無期限の活動休止を発表したのち、’14年末に『紅白歌合戦』に出演。’16年からはカバー・アルバムを発売するなど本格的に再始動したが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。デビュー40周年を迎える今年、明菜の歌声を聞くことはできるのだろうかーー。
2022年04月30日1982年5月1日にシングル「スローモーション」で衝撃のデビューを果たした中森明菜。数多くの名曲を世に送り出し、1985、1986年には2年連続で日本レコード大賞を受賞するなど、いまや日本を代表する伝説の歌姫となった彼女。MUSIC ON! TV(エムオン!)では、今年デビュー40周年を迎えることを記念して、過去のライブ作品から「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」「Live in '87・A HUNDRED days」「Live in '88・Femme Fatale」「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」の4ステージを4時間30分にわたって、デビュー日である5月1日に一挙放送!「飾りじゃないのよ涙は」「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲の数々が、圧倒的な歌唱力で歌い上げられる華やかなステージをお見逃しなく!\4ライブ、4時間30分放送/■■番組情報■■M-ON! LIVE 中森明菜 「ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)」<放送日時>2022/5/1(日)13:00~14:00<番組内容>1985年9月22日、東京・東京厚生年金会館で開催されたライブの模様を放送。代表曲「飾りじゃないのよ涙は」をはじめ、「十戒(1984)」など華やかなライブステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '87・A HUNDRED days」<放送日時>2022/5/1(日)14:00~15:00<番組内容>1987年に行なわれたツアーより、10月17日の東京・東京厚生年金会館公演の模様を放送。アルバム『CRIMSON』『BITTER AND SWEET』『不思議』からの楽曲を中心に、「飾りじゃないのよ涙は」などのヒット曲も楽しめるステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「Live in '88・Femme Fatale」<放送日時>2022/5/1(日)15:00~16:00<番組内容>1988年10月26日の東京・中野サンプラザ公演の模様を放送。「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」といった昭和懐メロや洋楽のカバー曲も楽しめる、バラエティー豊かな彼女のステージをお届け。M-ON! LIVE 中森明菜 「~夢~ '91 Akina Nakamori Special Live」<放送日時>2022/5/1(日)16:00~17:30<番組内容>1991年7月27日・28日に千葉・幕張メッセで行われたスペシャル・コンサート。「DESIRE-情熱-」「セカンド・ラブ」などのヒット曲を圧倒的な歌唱力でお届け。以上MUSIC ON! TV(エムオン!)は、スカパー!、J:COM、ケーブルテレビ、ひかりTVなどでご覧いただける音楽チャンネルです。詳しくは、MUSIC ON! TV(エムオン!)公式サイト( )まで。 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年04月26日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、憧れていたアイドルの話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう--。■ファッションの斬新さは今も色あせません『DESIRE-情熱-』(’86年)は、中森明菜にとって14枚目のシングルとなる。同曲が採用され、明菜自身も出演していたCDコンポ(パイオニア)のCMが、記憶に残っている人も多いはず。レコードには、楽曲への自信の表れなのか「このレコードは可能な限り大音量でお聴きください」という注意書きが記されていた。「前年に発表した『ミ・アモーレ』(’85年)に続き、2年連続で日本レコード大賞を受賞するという、史上2例目となる快挙を達成。明菜さんを、アーティストとしての絶頂期へと押し上げた名曲です」こう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。まず、この楽曲でインパクトを与えたのは、ボブのウイッグを身につけたヘアスタイル、そして独特のファッションだった。「レコード(CD)のジャケット写真は着物姿でしたが、歌番組などで歌うときは、着物をアレンジしたような、和テイストをふんだんに盛り込んだ洋装。日本の文化を感じさせたためか、外国人の間でも評価が高かったようです。ファッションの斬新さは約35年を経た今も色あせていません。いまだにコスプレ用の衣装がアマゾン・ドットコムでも販売されているのが、その証しでしょう。アイドルのイメージが周囲のスタッフによって作り上げられていた時代、明菜さんはメークやファッションなどで、自分自身をプロデュースしました。曲によってガラリと印象が変わるのはそのため。翌年の『難破船』などは、まったく別の歌手のようでした」観客から『はっ、どっこい!』と合いの手が入るサビの部分のアクションも特徴的。「上半身を揺らし、大きく屈むパフォーマンスは、野球のピッチングフォームから着想を得たという逸話も。カラオケを楽しむ若者が増えてきたころだったため、こうした振付も含めて愛されました。私自身、パイオニア協賛のカラオケ大会で、この曲を歌って準優勝したことがあるくらい(笑)」同曲が発表された’86年は、バブル絶頂期へと上り詰めていく時期。「今振り返ると当時は、右肩上がりの景気に誰もが浮かれていました。それが“バブル”で、近い将来“崩壊”するとは予見できなかった半面、どこか短期的な、はかなさを感じていた人もいたはず。そんな時代の中、ある意味、刹那的ともいえるサビの部分の歌詞も、人々の心に刺さったのかもしれませんね」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年04月17日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、カラオケでよく歌った曲の話。活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。■今でも解釈の幅が広がり続ける名曲「松田聖子さんの曲は、デビュー当初は大人の恋愛への憧れとドキドキ感、次第に失恋の胸の痛み、そして失恋が美しい思い出へと変化していくことを歌った『SWEET MEMORIES』(’83年)へと、ファンとともに大人の女性の歌に成長していきました。そして’86年、聖子さんの13枚目のアルバム『SUPREME』に収録されたのが『瑠璃色の地球』です。歌詞は恋愛要素も感じさせますが、『地球』というタイトルに、荘厳な曲調も相まって、単なる恋愛を超えた、もっと広い意味での愛や希望を感じさせます」そう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(54)。『瑠璃色の地球』の作詞は松本隆、作曲は『風立ちぬ』(’81年)のB面曲『Romance』や井上陽水の『少年時代』(共作・’90年)を手がけた平井夏美(川原伸司)。レコーディング時、聖子は妊娠中だったといわれている。「だからこそ、その歌声からは懐ろの深い、無償の愛が感じられるのではないでしょうか。’80年代後半はバブル特有の拝金主義時代とも言われ、“造っては壊す”や勝ち組・負け組があからさまな競争社会でもありました。ゆえに、余計にこの曲が人々の心に染み入ったのかもしれません」NHK紅白歌合戦では出産後初めての出場だった’86年に続き、’01年、’20年にも同曲が歌われた。「’01年のときは、かつて交際の噂が報じられたシンガーソングライターの原田真二さんがピアノで伴奏したこともあり、話題になりました」その後、多くのアーティストに愛され、辛島美登里、沢田知可子、広瀬すず(アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の劇中歌)らがカバーしてきた。とりわけファンを驚かせたのは、中森明菜がカバーアルバム『ZERO album~歌姫2』(’02年)で同曲を歌ったことだった。また’10年4月には、宇宙飛行士の山崎直子さんの、国際宇宙ステーションでの“目覚ましソング”に選ばれた。「さまざまなアーティスト、さまざまな場面によって歌い継がれ、時代の移り変わりとともに『社会貢献』『ロハス』『貧困と格差』『環境問題』など、解釈の幅も広がりました。40年近く前の曲ですが、現在、国際的に提唱されているSDGsの理念にも通じます。まさに聖子さんの代表曲といっても過言ではないでしょう」【PROFILE】牛窪恵’68年、東京都生まれ。世代・トレンド評論家でマーケティングライターとして『ホンマでっか!?TV』フジテレビ系)など多数の番組で活躍
2022年03月27日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に影響を与えられた映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、「’80年代」を振り返ってみましょうーー。「私にとって“忘れられない’80年代”といえば、高校時代に映画館で見た『フラッシュダンス』(’83年)。あの作品に出合わなかったら芸能界に飛び込む勇気は持てなかったし、いまの自分はなかったって思うんです」こう語るのは、女優の羽野晶紀さん(52)。小学校のころはいわゆる“カギっ子”で、青果店を切り盛りする共働きの両親が帰宅するまで、テレビをつけっぱなしにして待っていたという。「学校から帰ると毎日、お風呂洗い、夕飯の下ごしらえなど、親に言われたことを済ませながら、両親が帰ってくる夜の7時半ぐらいまで、ドラマの再放送を中心に見ていました」両親が帰宅すると、チャンネル権を握る父親は刑事ドラマ、羽野さんは歌番組、と意見が分かれることもあったが、一家が共通して楽しみにしていたのは、土曜の夜8時からの『8時だョ!全員集合』(’69〜’85年・TBS系)と、続く9時からの『Gメン’75』(’75〜’82年・TBS系)だった。「世界観がすごくカッコよかった『Gメン』は、芸能界への憧れを抱くきっかけにもなりました」中学時代には松田聖子や中森明菜、小泉今日子といったアイドルが続々とデビューし、その思いはますます強くなっていく。「それで中3のときに、父に『私も芸能界に入りたい』って言ってみたんです。当然『何を言っているんだ!?』という反応で、芸能界のことをよくわかっていないものだから、『宝塚歌劇団に入らなければ、芸能人にはなれない』と。父にしてみれば、小柳ルミ子さんのように、スターは宝塚で学んで、なる職業だと思っていたみたいです。今のようにスマホで簡単に情報を得られる時代ではなかったから、私も父の言葉を信じ、高校受験時の面談で、先生に『宝塚音楽学校を受けたい』と話してみたんです。そうしたら『もうとっくに願書を締め切っている。そういうことは早く言いなさい』と。すごくがっかりしたのを覚えています」芸能界をあきらめかけたそのころ、映画館で見たのが『フラッシュダンス』だった。物語はダンサーを夢見る18歳の女性が主役。養成所のオーディションにチャレンジしたいが、バレエ経験がないために臆してしまう。だが、さまざまな人との出会いと別れのなかで成長し、オーディションに臨むというもの。「倉庫みたいなところで、大きな犬と一緒に生活するっていう主人公の暮らしぶりも、10代の私にはカッコよく映りました。今では“そんなことはないだろう”って思えますが(笑)」そしてなにより、映画の主人公と自分自身を重ね合わせることができたという。「芸能界への唯一の登竜門と思い込んだ宝塚音楽学校へは願書すら出せず、バレエも音楽の経験もなくて、“私には何もないな”って思っていたけれど、チャレンジする主人公の姿を見て、すごく勇気がもらえたんです」「女性自身」2021年6月1日号 掲載
2021年05月24日俳優の田村正和さんが亡くなっていたと5月18日に発表された。77歳だった。数々の作品で名演を残してきた田村さん。その中でも’94年から放送され、10年以上続いた主演ドラマ『古畑任三郎』(フジテレビ)は代表作の一つと言えるだろう。「同作は、田村さん演じる警部補・古畑任三郎が巧みに犯行を解明していくというストーリー。田村さんの存在感はもちろんのこと、犯人を追い詰めていく展開やユーモラスなやりとりも人気の秘訣でした。また犯人役に中森明菜さん(55)や明石家さんまさん(65)、さらにSMAPといった豪華キャストが登場したことも話題に。第3シリーズまで放送され、視聴率20%以上は当たり前。最高で34.4%を記録しました」(テレビ局関係者)そんな同作の脚本を務めたのが三谷幸喜(59)だ。昨年に三谷が『朝日新聞』で寄稿した小説『一瞬の過ち』に、古畑任三郎が刑事役で登場。大きな反響を呼び、いまだ根強いファンがいることを証明した。「三谷さんの書いた脚本を見て、田村さんは古畑任三郎のイメージを膨らましていったそうです。そのため三谷さんは『古畑任三郎は僕と田村さんの共作だ』と話していました。名キャラクターを一緒に編み出してくれて、感謝しきりともいいます」(前出・テレビ局関係者)いっぽう、田村さんは三谷をリスペクトしていたという。「田村さんのマネージャーは当初、刑事ものに難色を示していました。ところが脚本を読んだ田村さんは、『これは面白い!ぜひやりたい』と即答したんです。撮影中も『よくこんな面白い本が書けるな』と感心しきりでした。また『三谷くんが僕の新しい魅力を引き出してくれた』と喜んでいましたね」(前出・テレビ局関係者)名作を作り上げた“同志”である2人。その絆は永遠だ。
2021年05月20日’81年、15歳で『スター誕生!』に出演。翌’82年にデビューし2枚目のシングル『少女A』で不良っぽい歌詞と歌声が話題となり、その後も数々のヒット曲でトップスターに君臨した中森明菜(55)。しかし、自殺未遂騒動を起こした’89年以降は、公私ともに波瀾万丈な人生に。今年でデビュー40年目を迎えた伝説の歌姫の軌跡を本誌秘蔵写真で振り返るーー。■’82〜’88年・デビューから一躍スターダムへ駆けあがった’82年、『スローモーション』でデビュー。続々とヒット曲を飛ばし、『ミ・アモーレ』『DESIREー情熱ー』で2年連続レコード大賞を受賞。【’83年11月】あどけない表情で紅白初出場の会見へ【’86年12月】FNS歌謡祭2年連続受賞で号泣【’87年2月】『夜のヒットスタジオ』で熱唱!【’87年3月】ゴールドディスク大賞“記念すべき第1回”で受賞■’89〜’09年・衝撃の自殺未遂から事務所移籍まで波乱の10年’89年、当時交際していた近藤真彦(56)のマンションでの自殺未遂が発覚し、1年間活動を休止。その後は女優としての活躍も著しかったが、事務所やレコード会社の移籍を繰り返し、トラブルやスキャンダルが絶えなかった。【’89年7月】切ない表情で『LIAR』を歌ったメガロポリス歌謡祭【’91年11月】中村芝翫夫妻の披露宴でおちゃめなびっくり顔【’92年6月】メガロポリス歌謡祭で復活のスマイル【’92年11月】NYで撮ったサイン入り写真【’02年12月】デビュー満20周年で14年ぶり紅白出場■’10年〜・芸能活動休止から現在に至るまで’10年、体調不良により芸能活動の無期限休止を発表。’14年末の『紅白歌合戦』にNYのスタジオから中継出演し活動再開が期待されたが、’17年のディナーショーを最後に公の場には一切姿を見せていない。「女性自身」2021年5月25日号 掲載
2021年05月17日中村倫也主演「珈琲いかがでしょう」の3話が4月19日放送。ゲスト出演した滝藤賢一の“ママ”姿に「綺麗すぎ」「永久保存版」といった反応が上がるとともに、中村さんの“黒服”と“金髪”姿に視聴者から絶賛の声が上がっている。中村さんも出演し話題を呼んだ「凪のお暇」の原作者でもあるコナリミサトの同名コミックをドラマ化。中村さん演じる素敵な移動珈琲屋さんの店主・青山一が、街から街へと行く先々で、一杯一杯、丁寧に、誠実に、心を込めて珈琲を淹れながら、人生に少し傷ついた人たちの心を癒していく“幸せを運ぶ珈琲物語”となる本作。中村さんのほか青山の過去に深く関わる謎の男・杉三平(通称:ぺい)役で磯村勇斗が出演。毎話豪華ゲストが登場し2人と共演していく1時間2話構成のスタイルとなっている。※以下ネタバレを含む表現があります。ご注意ください。今回は戸次重幸、筧美和子、小手伸也らをゲストに迎え、仕事もルックスも完璧で、本人も周囲に慕われていることを自覚し、女子社員に青山の珈琲を奢るなど、いい上司をアピールしていたサラリーマン・飯田正彦(戸次さん)が新しい企画について部下と意見が衝突。そんな矢先飯田はひょんなことから、女子社員の陰口を耳にし自分が嫌われていることを知ってしまう…というストーリーが展開する「男子珈琲」。滝藤賢一、丸山智己らが出演。ぺいの姿を見てワゴン車で逃亡、田舎町にたどり着いた青山がスナックのママ・アケミ(滝藤さん)と出会い、なりゆきでスナックの手伝いをすることに。あっという間に人気者となった青山を、アケミは昔どこかで見かけたような気がしていた。そんな折、偶然にもアケミの中学の同級生・遠藤(丸山さん)が来店、青山が入れた珈琲焼酎を味わいながら久々の再会を喜ぶ。そしてスナックを営む傍ら母親の介護にも追われ、かつて夢を諦めた後悔のような思いを青山に吐露するアケミに、遠藤は「閉鎖的な町から抜け出して、もう一度夢と向き合うべき」と訴える…という「金魚珈琲」の2エピソード。滝藤さん演じるアケミが登場すると「滝藤さんのアケミちゃん似合いすぎる」「滝藤さんのあけみちゃん自然!似合う!」などの声が。さらに客のリクエストに答え中森明菜の「DESIRE -情熱-」を歌い始めると「滝藤さん綺麗すぎないか」「永久保存版の滝藤賢一」といった反応が続々と集まる。一方、青山は上下黒の装いでアケミの店をヘルプ…こちらにも「オールブラックはやばい」「ブラック青山さんめっちゃくちゃかっこいいです」といった声が。さらに終盤ではアケミが以前にも青山に救われたことを思い出すという展開に。回想シーンの“金髪”青山にも「金髪の中村倫也の破壊力に震えた」「覚悟はしてたけど今夜の数秒のシーンでやられた」などの感想が殺到中だ。(笠緒)
2021年04月20日「同世代のスターの中でも、明菜ちゃんは別格中の別格。彼女が今、表舞台で活躍していないことが残念で仕方ないよ!」食事の席で田原俊彦(60)は熱く語り続けた――。田原と仕事関係者たちが食事をともにしたのは2月下旬だったという。田原をよく知る芸能関係者はこう語る。「その席で中森明菜さん(55)のことが話題になったのですが、それでトシちゃんにスイッチが入ってしまって……。ついには『俺がこれから明菜ちゃんに電話をかけるよ!』と言いだしたそうです」明菜と田原は同じアイドル全盛の時代を生きてきた“戦友同士”だ。「`80年代は『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』など大人気の歌番組が多数あり、トップアイドルたちは毎日のように収録で顔を合わせていました」(’80年代に詳しいライター)トップアイドルとして’80年代を駆け抜けた2人はお互いにシンパシーを感じていたのだろう。その交流は途切れ途切れながらもずっと続いていたようだ。’17年2月には田原が『爆報!THEフライデー』(TBS系)で、明菜から『トシ、元気?いつも見ているから』という内容の留守電が入っていたことを明かした。そんな2人の現在の活動状況は対照的といえる。「田原は今年2月に還暦を迎えましたが、4月25日には60歳アニバーサリーライブを開催予定。いまなお精力的に活動中です。しかし、明菜は今年5月からデビュー40年目に入りますが、’17年以降、表舞台から退いたままです」(音楽関係者)前出の芸能関係者は、「体調が悪いとはいえ、トシちゃんとしては明菜さんが不遇の日々を送っていることが許しがたい気持ちもあったのでしょう。食事の席での会話がきっかけとなり、明菜さんへの思いがあふれ出したようで、トシちゃんが『明菜ちゃんに電話をかけて復帰するように言うよ』と……。突然の宣言に同席者たちが驚くなか『俺なら口説けるから!』と自信を持っていたそうです」仕事関係者たちが見守るなか発信ボタンを押す田原。だが30秒後、「あれ、出ないね」と、バツが悪そうにポツリ……。同席者らは押し黙るしかなかった。「結局その食事が終わるまで、明菜さんから返信はなかったそうです」(前出・芸能関係者)明菜がまさかのガン無視!?だが、その後に折り返しがあった可能性もある。本誌が田原の所属事務所に問い合わせてみると、明菜に電話をかけたことは認めたものの、「(明菜さんからの)電話はありませんでした」そう答えた。古い友人からの電話にも応答しないとは、明菜の体調はそれほど悪いのか?田原の思いが通じ、歌姫が表舞台に舞い戻る日は来るのか――。「女性自身」2021年5月4日号 掲載
2021年04月19日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に胸をときめかせた映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「’80年代は『不良少女とよばれて』(’84年・TBS系)、『ポニーテールはふり向かない』(’85〜’86年・TBS系)など、出演した大映テレビ制作のドラマがすごくヒットしたから、5年ほど女優業にどっぷりつかっていました。当時の“大映ドラマ”の放映はたいてい半年間だったのですが、撮影期間は7カ月ほど。現在のようなデジタル機材ではなく、フィルムで1カットずつ撮影していくので、すごく時間がかかるんですね。撮影現場に泊まり込みたいって思うくらい、家に帰っても寝るだけの生活でした。それだけに撮影がすべて終了し、次回作が始まるまでのオフは貴重で、1人で新宿に出ては映画館をハシゴ。とくに好きだったのがハリウッド映画でした」’80年代にすでに女優として活動していた伊藤かずえさん(54)。東映児童研修所に入ったことが、キャリアのスタートだ。「あまり人としゃべらない子どもだったから、母親が心配したんですね。小学生時代はエキストラばかりで、オーディションに受かることもありませんでしたが……」映画『花街の母』(’79年)でデビューし、中学時代は『水戸黄門』(第12部・’81〜’82年・TBS系)にレギュラー出演。平日に、しかも京都での撮影だったため、学校を休むのは日常的だった。「新幹線での移動中は、ウォークマンでカルチャー・クラブとかの曲を聴きながら眠ったり、セリフを覚えたりする時間。まだ中学生だから、台本に読めない字もあったりして、辞書を引いたり、母親に聞いてみたりしていました」このころ、約2万人が参加したオーディションを勝ち抜いて、映画『燃える勇者』(’81年)で、真田広之の相手役となるヒロインの座を射止めた。「有名なタレントさんもいたから、3次審査くらいになると、心の中では“もう、どうせ(結果は)決まってるんだろうな、裏で”って思って(笑)。だから選ばれたときはびっくりしちゃって」その翌年には、アイドルデビュー。小泉今日子、中森明菜、早見優らと同期の“花の82年組”だ。「レコード会社からオファーがあったんですが、デビュー曲が暗い歌で、全然ヒットしませんでした」だが、’83年の『高校聖夫婦』(TBS系)以降、次々と出演することになる大映ドラマの反響はかなり大きかった。「当時、アイドルはデパートの屋上広場などで歌う“営業”が多くて、全国を回っていました。アイドルとしては無名でしたが、大映ドラマを見た人が会場に集まるようになって。池袋のサンシャイン広場で営業したときは、スタッフさんから『中森明菜さんが来たときと同じくらい、人が集まりました』って驚かれました」それほど大映ドラマは、’80年代カルチャーの代表格だ。「大きな特徴は、演出やセリフ、話の展開が突拍子もなく、劇画チックなところ。たとえば『不良少女とよばれて』では、ケンカをするシーンで『生き残ったほうが、くたばった奴の骨壺を蹴飛ばすまでさ』なんていうセリフも。“十代の女の子が言う!?”って思うけど、すっごいセンスですよね(笑)」伊藤さんといえば、『スクール☆ウォーズ』(’84〜’85年・TBS系)で「馬上から失礼します」と馬に乗って登場するシーンも伝説的だ。「実話に基づいた作品なのに、私の役だけが架空の人物なんで、脚本家さんが私で遊んでいました」撮影に追われた日々、唯一の息抜きとなり、ストレスを発散させてくれたのが、ハリウッド映画だったという。「『セント・エルモス・ファイアー』(’86年)みたいな青春群像劇も好き。『アウトサイダー』(’83年)のマット・ディロンもかっこよかったなあ。『リーサル・ウェポン(’87年)は難しいことを考えず、単純に楽しめました。映画館には1人でふらっと見に行くことが多くて、1日休みだと2〜3本、ハシゴしていましたね』「女性自身」2021年4月27日号 掲載
2021年04月19日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に胸をときめかせた映画の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「’80年代は『不良少女とよばれて』(’84年・TBS系)、『ポニーテールはふり向かない』(’85〜’86年・TBS系)など、出演した大映テレビ制作のドラマがすごくヒットしたから、5年ほど女優業にどっぷりつかっていました。当時の“大映ドラマ”の放映はたいてい半年間だったのですが、撮影期間は7カ月ほど。現在のようなデジタル機材ではなく、フィルムで1カットずつ撮影していくので、すごく時間がかかるんですね。撮影現場に泊まり込みたいって思うくらい、家に帰っても寝るだけの生活でした。それだけに撮影がすべて終了し、次回作が始まるまでのオフは貴重で、1人で新宿に出ては映画館をハシゴ。とくに好きだったのがハリウッド映画でした」そう話すのは女優の伊藤かずえさん(54)。映画『花街の母』(’79年)でデビューし、中学時代は『水戸黄門』(第12部・’81〜’82年・TBS系)にレギュラー出演。このころ、約2万人が参加したオーディションを勝ち抜いて、映画『燃える勇者』(’81年)で、真田広之の相手役となるヒロインの座を射止めた。その翌年には、アイドルデビュー。小泉今日子、中森明菜、早見優らと同期の“花の82年組”だ。「当時、アイドルはデパートの屋上広場などで歌う“営業”が多くて、全国を回っていました。アイドルとしては無名でしたが、大映ドラマを見た人が会場に集まるようになって。池袋のサンシャイン広場で営業したときは、スタッフさんから『中森明菜さんが来たときと同じくらい、人が集まりました』って驚かれました」それほど大映ドラマは、’80年代カルチャーの代表格だ。撮影に追われた日々、唯一の息抜きとなり、ストレスを発散させてくれたのが、ハリウッド映画だったという。「『セント・エルモス・ファイアー』(’86年)みたいな青春群像劇も好き。『アウトサイダー』(’83年)のマット・ディロンもかっこよかったなあ。『リーサル・ウェポン(’87年)は難しいことを考えず、単純に楽しめました。映画館には1人でふらっと見に行くことが多くて、1日休みだと2〜3本、ハシゴしていましたね』『フラッシュダンス』(’83年)、『トップガン』(’86年)などヒット作はほぼ制覇したなかで、もっとも印象に残っているのが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(’85年)だという。「なんといってもタイムトラベルする面白さ!パート3まであったけど、最初が最高の出来だったな。タイムトラベルして過去に介入することで、どんどん時空が歪んでいって、2つの未来が出現したり、主人公をいじめる悪役のビフが、成功してビルを建てちゃったり……、パート2以降は話がややこしくなるじゃないですか(笑)」そうした複雑さがあるが、張り巡らされた伏線はエンディングまでにきっちり回収されるから、観賞後はスッキリ感で満たされる。それを味わいたくて、映画館には2度も足を運んだ。「2回目は『ポニーテールはふり向かない』で共演した坂上忍くんと一緒に行ったんですよ。あんなにワクワクする映画ってなかったので、誰かと共有したくて、映画好きな忍くんを誘ったんです」ところが、あまりに好きすぎて、坂上の逆鱗に触れることにーー。「私が親切のつもりで『ここ、あとで重要だから覚えておいて』って、いちいち説明しちゃったんです。終わった瞬間に『お前とは二度と映画を見に行かない』って、すっごいキレられました(笑)。忍くんは、そのときのことをすっかり忘れていますけど」いまでも映画は大好きだが、コロナ禍で思うように外出できず、自宅でサブスクの動画配信サービスを利用しているという。「“1カ月1,000円以内で、こんなに見られるんだ”って驚きます。最近は海外ドラマにもハマって、明け方まで見てしまうこともありますが、やっぱり映画館の大きなスクリーンは恋しいですね」「女性自身」2021年4月27日号 掲載
2021年04月19日「自分で一生懸命作った曲だし、やはりフミヤ君がテレビで歌ってくれるとうれしいですよ」こう穏やかに語るのは、作曲家で音楽プロデューサーの芹澤廣明さん(73)だ。3月27日に、特別番組『激レア!藤井フミヤギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)が、放送された。番組中で藤井フミヤ(58)はリードボーカルを務めていたチェッカーズ時代から現在までの代表曲を熱唱。なかでも、これまで29年間テレビ番組では歌うことがなかった“幻のデビュー曲”『ギザギザハートの子守唄』を披露することが、放送前から注目を集めていた。’80年代を中心に、大ヒットを連発していたチェッカーズだが、惜しまれながらも’92年の『第43回NHK紅白歌合戦』を最後にメンバー間の“方向性の違い”で解散した。だがメンバー間の亀裂は音楽業界の多くの人間が知るところだったと音楽関係者は語る。「藤井さんと、サイドボーカルを務めていた高杢禎彦さん(58)との間に確執がありました。もともと、幼なじみで仲がよかったのですが、次第に人気や収入の格差が生まれ、2人は対立するようになったのです。高杢さんは’03年に出版した著書『チェッカーズ』で、《(藤井は)金のためなら恩も売る。これがチェッカーズの本質だったのか!》などと痛烈に批判しています」藤井と関係が悪化していたのは、高杢だけではなかった。「中森明菜の『少女A』、岩崎良美の『タッチ』など数々の名曲を生み出した作曲家の芹澤廣明さんです。芹澤さんは『ギザギザハートの子守唄』『涙のリクエスト』などチェッカーズの曲を36曲も手がけたいわば大恩人。フミヤさんにとっても恩師にあたり、頻繁に食事をともにしていました。しかし、’86年に突如として絶縁します。その理由について高杢さんが著書で、金銭問題だと指摘しています」(前出・音楽関係者)■フミヤが恩師に突き付けた“絶縁状”「もう歌いたくない」作曲は藤井の弟・藤井尚之(56)ら、そして作詞は藤井が担当することになり、藤井には印税も入るようになったというのだ。’03年、芹澤さんは週刊誌の取材に対し、藤井への怒りを込めて次のように答えている。「『芹澤さんの歌は、もう歌いたくない』、フミヤがそうはっきり言ったというんです。ぼくにしたら、仕事を頼まれただけでそんなことを言われる筋合いはない」この時点で絶縁は17年にも及んでいた。芹澤さんはさらに、こんな言葉も漏らしていた。「フミヤには、“謝ればいいんだよ”って言いたい。チェッカーズはおまえのものでもあるけど、それを支えた大勢のファンのものでもあるんだよ」“芹澤さんの歌は、もう歌いたくない”と、言い放った手前もあったのか、チェッカーズ解散以降、藤井は『ギザギザ~』を封印し続けた。彼が恩師の“謝罪すべき”という言葉についに従ったのは、絶縁から34年後のことだった。芹澤さんは本誌にこう明かす。「去年の9月ごろ、フミヤ君から突然、電話が来たんですよ。初めは驚きましたね。なんで俺の番号知っているんだって(笑)。最後に会ったのが34年前ですからねえ。後で聞いたら、共通の知人に聞いたみたいですよ。その後、少ししてから2人で食事をしました」まさに2人にとって“涙の和解”だったようだ。「直接的な謝罪の言葉はありませんでしたが、会ってメシ食おうって言ってきた時点で、もう私たちの間にわだかまりはないですよ。そしたら『NHKの特別番組があるのですが、出ませんか』と言うんです。『じゃあ、一緒に出てみようか』と承諾しました。その後も2人きりで2度食事をして、いろいろな話をしました」■チェッカーズ再結成を事務所に聞くと…なぜ藤井は“謝罪電話”に踏み切ったのだろうか。音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠さんは、こう分析する。「ここ最近は’80年代のポップスが注目を集めています。今回の『ギザギザハートの子守唄』のテレビ解禁はそんなニーズがあったからだと思います。藤井さんとしては、ずっとついてきてくれているファンのことを思い、過去の確執から、曲を歌わないのもおかしいと考えるようになったのではないでしょうか。聴きたい人がいるなら、歌うべきだという判断を下したのでしょう」実際に藤井は、3月26日放送のテレビ番組『BSコンシェルジュ』(NHK総合)で『ギザギザハートの子守唄』を歌った理由についてこう語っている。「(昨年ネットで曲を流して)すごく評判ていうか(喜ばれて)それで、もう『歌うか!』と思って」チェッカーズ時代の曲を歌う姿を見て、“再結成”への期待も膨らんだファンもいることだろう。藤井の所属事務所に問い合わせると、「メンバーが1人亡くなっているため(※’04年に徳永善也さんが死去)、再結成はありません」そう担当者は答えた。しかし、“恩師”の芹澤さんは期待を込めてこう語る。「個人的にはチェッカーズを再結成してほしいと思っていますよ。本人たちのスタンスはわかりませんが、またみんなで歌う姿が見られたらいいな、と思っています」34年ぶりに恩師との関係を修復し、『ギザギザハートの子守唄』を歌った藤井。チェッカーズの再結成へ踏み出す日も遠くないかもしれない。「女性自身」2021年4月13日号 掲載
2021年03月30日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「モノマネ番組とかで、中森明菜さんの『十戒(1984)』(’84年)や『TATTOO』(’88年)の歌マネをさせてもらったりしています。藤井隆さんの歌イベントでは、明菜さんの曲の振付が完璧な素人さんが毎回観覧に来ていたから、その人にステージに上がってもらってコラボしたり。’14年に『紅白』に出場したときに『日本では低気圧のほうが大変だということで……』みたいに、ちょっとハスキーで、徐々に聞こえるか聞こえないかの声の大きさになる、しゃべり方が特徴なんですね」明菜愛が強すぎて、ついモノマネしたくなるというのが、お笑いタレントの椿鬼奴さん(48)。デビュー当時のシングル盤レコードを手に取りながら、’80年代を振り返る。「じつはレコードは持っていなかったんです。小学生のころはわりと裕福な生活だったんですが、自分で使えるお金は、もらえなかったんですよね」小学生時代は、渋谷駅の隣にある高級住宅街・代官山のマンション住まい。お正月などの特別なときは、バブル時代、テレビ業界人御用達だった六本木の高級料理店「瀬里奈」に行くほど、ハイソな暮らしぶりだった。「お着物姿の女性がたくさん働いていて、子どもながら“すごく高いんだろうな”って、肌で感じていました。まあ、支払いは父というよりは、会社の経費だったみたいですけど(笑)」その父は厳しくて、鬼奴さんは自由にテレビを見せてもらえなかったという。「『3年B組金八先生』(’79年〜・TBS系)すらダメで、弟と一緒になんとか見る権利を得られたのは『8時だョ!全員集合』(’69〜’85年・TBS系)だけ。ふだんはNHKか巨人戦ばかりでした。おかげでキャッチャーの山倉和博さん(’78年入団)のファンになって。チェッカーズの(武内)亨さんに似たイケメンだったので“巨人の亨”と呼んで、プロ野球チップスを買ってカードを集めていました」中森明菜の存在は、父親の帰りが遅いとき、こっそり見ていた『ザ・ベストテン』(’78〜’89年・TBS系)で知った。明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。「クラスの友達の間で、聖子派か明菜派か、どちらか決めなきゃいけないみたいな雰囲気って当時、ありましたよね。私は、聖子ちゃんのようなキラキラしている王道アイドルを直視できなくて……。それより(セカンドシングル)『少女A』のジャケットの、不機嫌な感じの明菜ちゃんが好きでした。陰があって多くを語らない、クールな明菜ちゃんの派閥に加わったんです」子どもがカラオケに行くような時代ではなかったので、歌うのはだいたいアカペラ。「歌番組をカセットテープに録音して、勉強時間や寝るときに聴いて覚えていました。カセットテープもなかなか買ってもらえなかったから、1本のテープに何度も重ね録りするんですが、上から録音した曲が長くて、前に録ってあった次の曲のイントロ部分が消えちゃったりして」「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「’82年、“ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)”というキャッチフレーズでデビュー。ファーストシングル『スローモーション』(’82年)こそ、聖子ちゃんをほうふつさせる“かわいい路線”でしたが、セカンドシングル『少女A』(’82年)以降、『禁区』(’83年)『十戒(1984)』(’84年)などは、キャッチフレーズどおりの大人っぽいセクシーさとともに、不良っぽさも満載でした。それまでの『休日の予定はお菓子作りで、趣味はぬいぐるみ集め』といった、典型的なアイドル像をガラリと塗り替えたのです」そう語るのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。圧倒的人気を誇った松田聖子に『ザ・ベストテン』(’78〜’89年・TBS系)などのランキング争いで明菜が挑み、ついには追い抜くというバトル的要素も、ファンを熱くした。「どうしても聖子ちゃんのぶりっ子路線を受け入れられない女子が、“明菜派”となって応援しました。正統派の松田聖子さんと田原俊彦さん、不良っぽい明菜さんと近藤真彦さん、という対比が鮮明だったのです」しかし、明菜は不良っぽいだけではない。「アイドル番組ではコントに参加し、歌番組のトークコーナーでは、10代の少女らしく、かわいらしくしゃべる姿も見せました。ただ、ひとたびステージに上がり、前奏が始まると、別人のように表情が一変する。そのギャップも魅力となったのです」明菜自身の意見を取り入れた衣装、ヘアメークなどへのこだわりにも、牛窪さんは注目している。「男性ではジュリー(沢田研二)の存在が際立ちましたが、女性アイドルでこれほど自己プロデュース力を発揮したのは、明菜さんが初めてではないでしょうか。とくに『DESIRE−情熱−』(’86年)に、卓越したセンスを感じました」一方、近藤真彦宅での自殺未遂事件(’89年)では、芸能人生の危機が訪れたがーー。「歌手としてだけではなく、そうした人間的な弱さも含めた“中森明菜”という存在に、人々は心から声援を送りました」その後も、歌に対して真摯に向き合う明菜は、40代、50代となったファンの心を、いまもずっとつかみ続けている。「10代のときに気づかなかった明菜さんのプロ意識の高さに、社会に出てから『そうか!』と気づく人も多かったはず。いち人間として尊敬されているからこそ、女性だけでなく、根強い男性ファンも多いのではないでしょうか」「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「クラスの友達の間で、聖子派か明菜派か、どちらか決めなきゃいけないみたいな雰囲気って当時、ありましたよね。私は、聖子ちゃんのようなキラキラしている王道アイドルを直視できなくて……。それより(セカンドシングル)『少女A』のジャケットの、不機嫌な感じの明菜ちゃんが好きでした。陰があって多くを語らない、クールな明菜ちゃんの派閥に加わったんです」そう’80年代を振り返るのは、お笑いタレントの椿鬼奴さん(48)。中森明菜は’81年『スター誕生!』(’71〜’83年・日本テレビ系)で、山口百恵の『夢先案内人』を熱唱。11社からスカウトの声がかかり、’82年に『スローモーション』でデビュー。「モノマネ番組とかで、中森明菜さんの『十戒(1984)』(’84年)や『TATTOO』(’88年)の歌マネをさせてもらったりしています。藤井隆さんの歌イベントでは、明菜さんの曲の振付が完璧な素人さんが毎回観覧に来ていたから、その人にステージに上がってもらってコラボしたり。’14年に『紅白』に出場したときに『日本では低気圧のほうが大変だということで……』みたいに、ちょっとハスキーで、徐々に聞こえるか聞こえないかの声の大きさになる、しゃべり方が特徴なんですね」明菜ファン同士のつながりは、大人になった今も生まれているという。「番組でミッツ・マングローブさん(45)とご一緒したとき、ミッツさんのご自宅の様子を撮影したVTRが流されたんです。それがすごく退廃的なイメージで、かかっていたBGMが『SOLITUDE』(’85年)。私もすごく好きな曲なんですが、明菜さんの曲のなかでこれを一番にあげる人は、まわりにいなかったので、『しぶくていいっすね』とミッツさんに話しかけたんです」これをきっかけに、ミッツさんとは“明菜談義”をする仲に。「当時、ミッツさんが経営していたお店に行って、『どの歌がいい?』から始まり、『明菜ちゃんって、どういう性格だと思う?』なんて勝手に2人で妄想しながら、一緒に歌ったりしていました」さらにパチンコ好きな鬼奴さんは、「CR中森明菜歌姫伝説」(’14年)にも、どハマり。「パチンコ台の液晶画面に登場する明菜さんは、通常だとアニメなんですが、アツいリーチがかかると、実写になってカットインしてくるんです!それを見るのが楽しくて、つい続けてしまいました。相性もよくて、けっこう勝率は高かったですね」’16年末にはミッツから「明菜ちゃんが、いよいよ7年ぶりに公の場に。ディナーショーをやる」と緊急招集をかけられた。「テレビやパチンコ台でしか見たことがない明菜ちゃんを目の当たりしたので、“実在するんだ”って、オープニングから大号泣。新譜に加えて、そのころ発表していた洋楽カバーアルバムからも歌われたし、往年のヒット曲メドレーもあって、本当に豪華でした」MCでは、’14年に出場した『紅白歌合戦』についても触れ……。「『声ちっちゃいって言われたり、モノマネされたり……』って。一緒に見に行ったミッツさん、友近さん、それに私の全員がモノマネしていたので“わー、私のことかも”って興奮してしまいました(笑)」その翌年のディナーショーでは、明菜が「椿鬼奴さんが私をマネしている」とネタにしていることを、ネットニュースで知ったという。「怒っていらっしゃると困るんですが……。でも“認識してもらえている”と思うと、それだけで幸せ。ディナーショーがまた復活したら、絶対に行きたいです!」明菜は鬼奴さんにとって、まさに“永遠のアイドル”なのだ。「女性自身」2021年3月9日号 掲載
2021年02月28日お笑いコンビ・ガレッジセールのゴリが24日、自身の公式YouTubeチャンネル「ゴリ★オキナワ」に出演し、フジテレビ系で放送されたバラエティ番組『ワンナイR&R』の人気キャラクター・ゴリエを演じていたときの思い出を語った。「【神回】遂に宮迫博之とコラボ!!当時の水10『ワンナイ』についての禁断トーク炸裂!」と題して公開された動画には、雨上がり決死隊・宮迫博之がゲスト出演。『ワンナイR&R』時代を述懐し、ゴリは「おばあちゃんとかに会うと、『あんた、ゴリって言うの? 今、ゴリエっていう女の子のタレントがいるの知ってる?』って言われるぐらい、年配の方は“ゴリエ”っていうキャラクターがいると思っていたんですよ」と述べ、宮迫も「独り歩きしてたもんね」と同意した。さらにゴリは「僕、つらかったのが『FNS歌謡祭』で、中森明菜さんが廊下から歩いてきたんですよ。(松田)聖子ちゃん、明菜ちゃんで、僕らが小学生の頃なんてどっち派で喧嘩になるぐらいですよ。その中森明菜が来たんですよ。『中森明菜だ!』と思ったら、向こうから先に『ゴリエちゃんうれしい!』って。僕、キャラクターを変えられないから、『おー! 明菜さん!』って言えないんですよ。『明菜~』とかやるしかないからつらくて。『いやいや、俺がうれしいんです』って言いたいんですよ」と振り返った。続けて「シンディ・ローパーもいたんですよ。デスティニーズ・チャイルドも、リアーナもいる。僕らいろんな有名な人と会いましたよね。でも、ゴリエちゃんのままなんですよ。『リアーナ~』って。『リアーナさん!』ですよ、本当は」と話していた。
2021年02月27日住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に夢中になったアイドルの話。同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。中森明菜、小泉今日子、早見優、堀ちえみら“花の’82年組”と呼ばれる“同期”のアイドルたちのなかでも、女子に圧倒的な人気を誇ったのが、シブがき隊。「ジャニーズ事務所の“兄貴分”にあたるたのきんトリオは、『金八先生』をきっかけに、それぞれに活躍している田原俊彦さんや近藤真彦さんが集まった、ユニット的な要素が強い。テレビ番組で一緒になることはあるものの、基本的にはソロ活動が中心でした。“弟分”である少年隊は、ダンスも歌もハイレベルで、歌詞の内容にも大人っぽさがあったので、当時、子どもではちょっとマネしづらい部分がありました」そう語るのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。シブがき隊は、そんな“兄弟”たちの中間にあたる立ち位置が魅力だったと牛窪さんは分析する。「『NAI・NAI 16』や『100%…SOかもね!』『スシ食いねェ!』など、とにかく子どもがマネしやすい楽曲も特長です。そして、デビュー当時からずっと“隊”としての活動が中心で、戦隊ヒーローのように、バランスよく個性がまとまっていました。ヤックンは正式にはリーダーではありませんが、センターになることが多く、しっかりもので、グループのまとめ役。とくに年上のお姉さん方が応援したがるタイプでしたよね。モックンは、とにかくイケメン。私自身、最初に見たとき“こんなカッコイイ人がいるんだ”と、びっくりしました。それでいて、ボケたりするようなカワイイ側面もあって、全世代の女性をとりこにしたのです。フックンは、たのきんでいえばヨッちゃんの立ち位置。ヤックン、モックンのファンとは少し異なる目線を持ち、“私はほかのコとは違うのよ”“フックンのよさは、わかる人にしかわからない”と、ツウな女性を取り込みました」それぞれのファンが対立しなかったことも、注目すべきポイント。「たとえば“新御三家”の場合、『秀樹は○○だから』『ひろみなんて××よ』と、私(秀樹ファン)も含め、ファン同士が競うこともありましたが、シブがき隊はそれぞれの役割が違う、また、メンバーにも“オレが、オレが!”とほかを押しのける雰囲気がまったくなかった。いかにも仲がよさそうなグループだったんです」そうしたほんわかした雰囲気のなかで生まれた、ファン同士の“ゆるつながり”が、グループとしての人気を支えたのだ。「女性自身」2021年3月2日号 掲載
2021年02月20日育った場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代にはやったドラマや歌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「中学時代、ソフトボール部でキャッチャーをしていたことがきっかけで、野球部で同じポジションだったヤマモトくんとお付き合いしていまして、いまでもサザンオールスターズの『栞のテーマ』(’81年)を聴くと、河原の風景や、恋心を思い出します。サザンなのに、聴いていたのは海じゃなくて、河原なんですけど(笑)」そう語るのは、芸能生活35周年を迎え、2月から明治座の舞台も控えている、演歌歌手の坂本冬美さん(53)。’80年代には人生の転機が詰まっていたと振り返る。「小学生だった’70年代から石川さゆりさんが大好きで、将来は絶対に演歌歌手になるって、夢を抱いていました」’80年代に入り、松田聖子や中森明菜、田原俊彦、近藤真彦などの曲をテレビで見聞きして、フリを覚えたりもしていたが、集めていた雑誌の切り抜きは石川さゆりばかり。興味の中心は演歌だった。「そんなとき、ヤマモトくんがサザンを教えてくれたんです。さゆりさんの『津軽海峡冬景色』を初めて聴いたときと同じように、『栞のテーマ』を歌う桑田(佳祐)さんの声に、全身がシビれて。ハスキーな歌声がせつなくて、そのときは歌詞の深い意味まではわからなかったけど、胸にキュンときたのを覚えています」’87年に『あばれ太鼓』でデビューした際、プロフィール欄には「好きな歌手・石川さゆり、サザンオールスターズ」と書いた。「“いつか、桑田さんに私の曲を書いていただきたい”という夢を持っていました」デビュー2年目の’88年には、当時タブー視されていた反原発ソングなどを収録したRCサクセションの問題作『COVERS』にも参加。このアルバムには別の曲で、桑田佳祐が“Isuke Kuwatake”として参加している。「(忌野)清志郎さんとはたまたま同じレコード会社で、着物姿で評論家の方々の前で歌う私を見て、誘ってくれたんです。奇跡みたいにスゴイことだと理解していましたが、まだ新人だったから、心のどこかで“清志郎さんとご一緒できたのだから、いずれきっと桑田さんとも”なんて、甘く考えていました」それから30年以上、同じ音楽業界とはいえ、ジャンルの異なるサザンと会う機会はなかった。「それが’18年の『紅白歌合戦』でご一緒することになって、リハーサルのときにお見かけして、思わず素の自分になっちゃったんですね。北島三郎さんや、司会の内村(光良)さんが近くにいらしたのに、桑田さんのもとに駆け寄って握手を求めていました。桑田さんも、あまりに突然のことで“お、おお……”と、驚かれた表情でした」その後、デビュー35周年を迎えるにあたり、かねてからの夢を叶えたいと、桑田宛てに手紙をしたためた。「ヤマモトくんとの初恋、『栞のテーマ』とともに蘇る思い出ーー。思いを込めた手紙をお送りして3カ月ほどしてから『スタジオに来ていただけますか』との連絡が!お願いをする機会をいただけるのか、それとも断られるのか、ドキドキしながらお会いすると、桑田さんはすでに詞も曲も作ってくださっていて……。夢のようで、泣きながら詞を読みました」その曲こそ昨年の『紅白歌合戦』で披露された『ブッダのように私は死んだ』。現在、YouTubeの再生回数は177万回を超えている。「桑田さんは“そういえば『COVERS』でも、ご一緒しましたね”と覚えていらしてくださって。もしかしたら天国の清志郎さんが、私を桑田さんに引き合わせてくれたのかもしれませんね」淡い初恋、デビューの喜びと、清志郎との出会いーー。叶うはずのないと思われた夢のタネが、’80年代に蒔かれていたのだった。「女性自身」2021年2月23日号 掲載
2021年02月14日育った場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代にはやったドラマや歌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。抜けるような高い空の下の田舎道を、自転車の荷台にガールフレンドを乗せた男子中学生が、キコキコとタイヤを軋ませながらペダルを漕ぐ。デートスポットの河原に着くと、自転車のカゴに入れたラジカセを持ち出して、女のコにちょっと自慢げに「サザンっていうんだよ。すごくいいんだよ」と、再生ボタンを押した。「中学時代、ソフトボール部でキャッチャーをしていたことがきっかけで、野球部で同じポジションだったヤマモトくんとお付き合いしていまして、いまでもサザンオールスターズの『栞のテーマ』(’81年)を聴くと、河原の風景や、恋心を思い出します。サザンなのに、聴いていたのは海じゃなくて、河原なんですけど(笑)」そう語るのは、芸能生活35周年を迎え、2月から明治座の舞台も控えている、演歌歌手の坂本冬美さん(53)。’80年代には人生の転機が詰まっていたと振り返る。「小学生だった’70年代から石川さゆりさんが大好きで、将来は絶対に演歌歌手になるって、夢を抱いていました」’80年代に入り、松田聖子や中森明菜、田原俊彦、近藤真彦などの曲をテレビで見聞きして、フリを覚えたりもしていたが、集めていた雑誌の切り抜きは石川さゆりばかり。興味の中心は演歌だった。「そんなとき、ヤマモトくんがサザンを教えてくれたんです。さゆりさんの『津軽海峡冬景色』を初めて聴いたときと同じように、『栞のテーマ』を歌う桑田(佳祐)さんの声に、全身がシビれて。ハスキーな歌声がせつなくて、そのときは歌詞の深い意味まではわからなかったけど、胸にキュンときたのを覚えています」サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でメジャーデビューしたのは’78年。『栞のテーマ』を収録した『ステレオ太陽族』は、’81年にリリースされた4枚目のアルバムだ。「サザンのほかの曲も聴きたくなったんですけど、中学時代の1カ月のお小遣いは3,000円だったから、LPレコードなんて、とても買えません。それに田舎だから、レコード店どころか、貸しレコード店もなくて。けっきょく、レコードを持っているお友達に録音させてもらったりしていました」当時、ヤマモトくんと結婚できるなら、歌手になる夢をあきらめるつもりだった。「ヤマモトくんとは同じ高校に進学したんですが、残念ながら“事情”があって、お別れすることに……。それでもずっと好きだったんです。悔しくて、何年も送り合った交換日記もすべて燃やしてしまいました。サザンの曲も、ヤマモトくんを思い出してつらいから、しばらくは聴けませんでしたね」’85年に高校を卒業した後、地元の梅干し製造会社「ウメタ」に就職。「工場で品質管理をする、上司一人、部下一人の部署でした。白衣に白い帽子と長靴姿で、毎日、梅干しの塩分濃度やpH値を記録。いつも歌いながら作業をしていました」歌手への夢は持ち続けており、ステージも機材もそろっている、近所のカラオケ教室にも連日通い、歌を練習していた。「経営者の方が『いつでも歌いに来ていいよ』って言ってくれて、会社の休み時間は5分でお弁当を済ませて、すぐカラオケ教室に向かい、40分ほど歌の練習をさせてもらいました。そのとき経営者の方が私の歌を録音してくれたテープがきっかけで、デビューすることになったんです」「女性自身」2021年2月23日号 掲載
2021年02月14日育った場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう!わかる」って盛り上がれるのが、青春時代にはやったドラマや歌の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。「’80年代のエンタメがあったからこそ、この世界に興味を持てたのかなと思います。歌番組は欠かさず見ていましたし……。なかでも’80年代を象徴するアイコンは、浅野温子さん(59)と浅野ゆう子さん(60)のダブル浅野かな。お2人が共演したドラマ『抱きしめたい!』は、主題歌の『アクアマリンのままでいて』(カルロス・トシキ&オメガトライブ)が耳に入るたび、今でも映像が浮かびあがるほど印象に残っています」こう語るのは、’80年代、多感な中・高時代を過ごした藤原紀香さん(49)。当時の思い出の作品である『抱きしめたい!』は、’88年夏にフジテレビ系のナショナル木曜劇場の枠で放映された。スタイリストとして自立しているキャリアウーマン・麻子(浅野温子)と、幼稚園時代からの腐れ縁で、麻子に甘え、ときには麻子のボーイフレンドも誘惑する自由な専業主婦・夏子(浅野ゆう子)の2人の主人公が、バブル景気に沸く都会的なライフスタイルのなかで織りなすラブコメドラマ。平均視聴率は18.5%で、当時の『女性自身』でも《「抱きしめたい!」ダブル浅野気になるファッション・カタログあの服はここで買える!》《3週連続浅野温子大研究》という特集記事が組まれているほどの社会現象となり、連続ドラマ放送後も、スペシャル版が4作も放送された。「ダブル浅野のお2人はカッコよく、都会の大人の女性に憧れるきっかけにもなったドラマです」高校時代は落研に所属。もともと人に楽しんで喜んでもらうことが好きだった紀香さん。自作の“ラジオ番組”のカセットテープを作り、友人に渡していたそう。「気分はもうパーソナリティ。ラジカセを2つ用意して1つを番組の録音用に。リクエストもお便りコーナーも自作自演でラジオドラマの脚本まで書いて1人何役も。最後は『皆さんからリクエストの多かった中森明菜さんの北ウイングです。どうぞ~』なんて、もう1つのラジカセから曲をかけてエンディング(笑)」華やかな世界に憧れも抱いていたものの……。「ふだんの生活は真逆。中・高時代はバスケ部にも所属していて朝練、早弁、放課後も練習漬け。兵庫県といっても住んでいたのは西宮の山に囲まれた場所でしたから、洗練された世界とはほど遠くて」だからこそ、ダブル浅野や『抱きしめたい!』との出合いは、衝撃だった。「スポ根女子だった私には、ダブル浅野のファッションがカッコよくて!でも、今見ても、2周回って時代が戻ってきた感もあり、まったく古く感じませんよね。髪飾りひとつとってもおしゃれで、ポロにジャケットを合わせたり、いなかのコが下手にマネすると、イモくさくなりかねないコーディネート。だけど、ジャケットはとてもはやっていたので勇気を出してマネしていました(笑)。そして、お2人ともスタイル抜群で、ベアトップで鎖骨を出す姿は『ネックレスなんていらない。鎖骨がアクセよ』の“元祖”なイメージも。ワンレンやソバージュも憧れでしたが、学校では厳しかったので“大学生になったら、ダブル浅野みたいにオシャレになろう!”と思っていました(笑)」「女性自身」2021年2月2日号 掲載
2021年01月22日音楽ストリーミングサービス「スポティファイ(Spotify)」が、2021年に躍進を期待する国内の次世代アーティストを発表。「レーダー:アーリーノイズ 2021(RADAR:Early Noise 2021)」という1カテゴリとして、スポティファイのアプリケーション内にコーナーとプレイリストを開設。10組の気鋭アーティストがフィーチャーされている。今年スポティファイが注目する次世代アーティストはいったい? これまでに、あいみょん、Official 髭男dism、King Gnu、ビッケブランカ、Vaundyをはじめとする様々なアーティストが、同コンテンツから多くの新しいリスナーを獲得し、次のステージへステップアップしていった。今年の選出のアーティストも近い将来、話題のアーティストとなること間違いなし! 音楽ファンのみならずとも必聴だ。なお、“レーダー:アーリーノイズ”というコーナー名は、これまで、“アーリーノイズ(Early Noise)”として、スポティファイが行ってきた新進気鋭なアーティストピックアップの進化版で、2017年に日本でスタートしたアーリーノイズの発表が5年目となる今年、同社のグローバルプログラム「レーダー(RADAR)」との連携を強化し、注目のネクストブレイクアーティストを日本のみならず、世界の音楽ファンにも紹介するという試みでパワーアップしたニュータイトルとなっている。早速、スポティファイが推す10組の気鋭アーティストをチェックしていこう。RADAR:Early Noise 2021 選出アーティスト(※50音順)■映秀。2002年3月17日生まれ O型 大学1年生。高校時代から作詞作曲を始め、レールが引かれていないから、そこには挑戦できないって諦めている人とか。その人たちの肩を押してあげたい、そのきっかけになることを目指し、今日も歌い続けている。 正解か不正解か、0か1かではない。 こんな考え方/生き方だって正解だと、身を持って証明し、世の中に、人に、“別解”を気づかせてくれるアーティスト。それが、映秀。です。■カメレオン・ライム・ウーピーパイChi-によるソロプロジェクト「カメレオン・ライム・ウーピーパイ」。オレンジの髪が特徴的なChi-。そして仲間にWhoopies1号・2号がいる。作詞や作曲、レコーディングはもちろん、映像もアイデア出し、小道具を集めるところから、撮影、編集までありとあらゆるものをすべて3人のみで手掛け、常に新しいクリエイティヴを生み出し続ける次世代型アーティスト。2019年末に1stシングル「Dear Idiot」を配信リリースすると、瞬く間に日本のみならず、世界中のリスナーから注目を集める。その後のリリース楽曲も、各ストリーミング・サイトで軒並みピック・アップされ、半年で総再生回数100万回突破のバイラル・ヒットを記録。国内外のレーベルから、問い合わせが殺到。ネットには、彼らの素性と活動の全貌を知りたいという声が溢れる。懐かしくも、新しい、既存のルールに囚われない、“ネガティヴ・ポップ”という新たなジャンルをカメレオン・ライム・ウーピーパイは体現している。■(sic)boyオルタナティブ、エモ、ラウドロックの要素やJ-ロックにみられるメロディアスなフローをヒップホップに落とし込んだ既存の音楽ジャンルに属さないスタイルで稀有な存在感を放つ(sic)boy。2019年にサウンドクラウド(SoundCloud)上で公開された楽曲の強度の高さが話題を呼び、活動をスタートさせてから1年余りで合計再生回数160万を突破。2020年2月にトラックメーカー/プロデューサーKMとのコラボEP『(sic)’s sense』をリリース、4月にリリースされた配信シングル『Akuma Emoji (Prod.KM)』でヒップホップとJ-ロックの融合を見事に体現し、両ジャンルにおいて注目の新鋭としての地位を確立した。10月にはスポティファイ再生回数460万を超え2020年を代表するアンセムとなった配信シングル『Heaven’s Drive feat.vividboooy (Prod.KM)』を含む待望の1stアルバム『CHAOS TAPE』をリリース。東京の街のカオスさをテーマに、独自のミクスチャー感覚で表現された“ジャンル東京”と称される本作品は業界内外から高い評価を獲得した。■Doul17歳のアーティスト“Doul(ダウル)”。日本/福岡在住。2020年9月のデビュー曲[16yrs]がスポティファイでいきなり世界90ヵ国で再生され、約9,000のプレイリスト入り。作詞・作曲はもちろん、演奏・編曲・トラックメイキング、スタイリング・アートワーク・映像のディレクションまで、“Doulブランド”の総合プロデュースを自身で行う生粋のアーティスト。アジアだからこそ生まれた、この時代だからこそ育った、ボーダレス/混血の才能。そしてユーチューブ(YouTube)、サブスク世代の彼女は60年代~2021年の音楽・ファッション・アートを自由に、無意識に飛び回わり、年代・ジャンル・国境・性別を軽やかに飛び越える。彼女から生み出される楽曲・アート/ヴィジュアルワークは懐かしくも新しい違和感を含んでいます。■chilldspotメンバー全員2002年生まれ。東京都出身の現役高校生4人組みバンドchilldspot(チルズポット)。2019年12月に結成し活動開始。2020年11月1stEP『the youth night』を高校在学中にリリース。高校1年の頃初めて作曲した「夜の探検」を含む全7曲を収録。年齢とは裏腹にシティポップ以降の空気を彷彿させる洗練された楽曲から、10代らしい力強いロック調の楽曲まで、今の世代ならではの1つのジャンルに囚われない楽曲の数々が、幅広い層から注目を集めている。さらに初作品にも関わらずジェイウェイブ トキオ・ホット・ワンハンドレッド(J-WAVE TOKIO HOT100)やスポティファイバイラルトップ50にチャートイン。作詞・作曲も担当するVo.比喩根から自然と溢れ出すグルーヴと、異なる音楽ルーツを持つメンバー全員で形造る楽曲は、なぜか中毒性があり、一瞬で彼女らの渦に飲まれる。グルーヴとジャンルレスな感覚で自由に遊ぶネクストエージ。■Tokimeki Records都会の夜の帳を舞台に、ノスタルジーな音楽を手がける音楽プロジェクト「Tokimeki Records」。2019年の夏の終わり。80-90年代の邦・洋楽の名曲群をカバーするプロジェクトとして活動が始まる。Mimeのヴォーカリストでもある“ひかり”、“Hannah Warm”をはじめとした日本人シンガー・Marian Carmel、Froyaといったアジアのシンガーを起用。2020年6月、竹内まりや「Plastic Love」、中森明菜「OH NO, OH YES!」を収録した7インチレコード「OH NO,OH YES!」は、注文前から問い合わせが殺到し即日完売。オリコンチャート30位に7インチレコードでチャートイン。スポティファイにおいては、カイリー・ミノーグのカバー「Turn It Into Love」がアジア9カ国の「ニューミュージックフライデー(New Music Friday)」にセレクトされる。シンセを強調したエレクトロ・ブギーなサウンドとソウルフルで官能的な歌を歌うシンガーによってアダルトでメロウな、官能的な夜に繰り広げられるストーリーを音楽で表現している。■にしな新時代、天性の歌声と共に現れた新星、「にしな」。やさしくも儚く、中毒性のある声。どこか懐かしく、微睡む様に心地よいメロディーライン。無邪気にはしゃぎながら、繊細に紡がれる言葉のセンス。穏やかでありながら、内に潜んだ狂気を感じさせる彼女の音楽は、聴く人々を徹底的に魅了する。ゆっくりとマイペースにリスナーを虜にしてきた彼女の声と音楽が、静かに、そして、より積極的に世の中へと出会いを求めに動き出す。2021年最重要ニューカマー、「儚さと狂気」を内包する才能が、ここに現る。■PEOPLE 1東京を拠点に活動する音楽家 Deu(Vo, G, B, Other)が、Takeuchi(Dr)、Ito(Vo, G)と共に結成したバンド「PEOPLE 1(ピープルワン)」。2019年12月、1st EP『大衆音楽』の発表と同時に活動を開始。2020年9月、2nd EP『GANG AGE』を発表。2020年12月25日には、デジタルシングル「113号室」をリリース。Deuが手掛けるジャンル横断的かつ文学的な楽曲と、独創的な世界観を表現したミュージックビデオ/アートワークは、「中毒性がある」「エモい」「レトロ」とインターネット上で話題を集めており、2020年12月時点でユーチューブで公開されたミュージックビデオの総再生回数は400万回、コメント数は 8,000件を超えている。■macico日本・東京都内を中心に活動する3人組音楽グループ。J-POP を主軸にクラブ、ラウンジ、R&Bをはじめとする様々なジャンルの要素を取り入れたアーバンかつ流麗なサウンドが特徴。2020年9月から11月にかけて、配信シングル「aloe」「coin laundry / alcohol」「hanataba」を連続リリースし、スポティファイの「日本バイラルトップ 50」にて、インディーズでの活動ながら最高順位10位にランクイン。また、スポティファイ公式プレイリストでは、「アーリーノイズジャパン(Early Noise Japan)」「スポティファイジャパン(Spotify Japan) 急上昇チャート」「トーキョーライジング(Tokyo Rising)」「ネクストアップ(Next Up)」など、数万人のリスナー登録者がいる様々なプレイリストにセレクトされる。楽曲制作については、コロナ禍の状況下でメンバー各自が自宅で録音、ミックス、マスタリングまでを手がけており、アートワークのデザイン制作、広告・宣伝活動についても全て自分たちの手で実施している。■LEX神奈川県湘南エリア出身、2002年生まれのヒップホップ・アーティスト。14歳からサウンドクラウドに楽曲をアップロードしはじめ、2019年4月、16歳のときにファースト・アルバム「LEX DAY GAMES 4」で彗星のごとく現れた。レッドブル(Red Bull)サイファー「RASEN」への出演や爆発的なライブ・パフォーマンスなどで、たちまち注目を集めていく。2019年12月にセカンド・アルバム「!!!」を発表し、初のツアーを敢行するも新型コロナウイルスの影響で中止に。2020年はコロナ禍でも「NEXT」EPの緊急リリースやオンライン・ライブの実施など積極的に活動し、8月には15組のゲストを招いたサード・アルバム「LiFE」を発表。天性のメロウボイスと、攻撃的な楽曲とのギャップ、感情むき出しのリリックがユース世代を中心に熱狂的な支持を得ている。「RADAR:Early Noise 2021」プレイリスト>>その他のSpotifyの記事はこちら
2021年01月15日