女優の伊藤沙莉(27)が12日、ツイッターを通じ、自身の熱愛報道を受けて「温かく見守っていただけると幸いです」とつづった。前日のFRIDAYデジタルで、脚本家・蓬莱竜太(46)との熱愛が報じられた伊藤。記事では知人の証言として「蓬莱さんが猛アプローチをかけ」とあったが、「彼から猛アプローチっていうのはwww」と笑い飛ばして「お互いにってやつですよ」と訂正し、「#18歳差」のハッシュタグを添えて「ひとまず、温かく見守っていただけると幸いです」と呼びかけた。多くの祝福の声が寄せられる中、兄のオズワルド・伊藤俊介もこのツイートに反応。「#俺とは13歳差」「M-1も妹もおじさんに獲られました。一旦辞めさせて頂きます」と胸の内を明かしている。
2022年04月12日永作博美×芳根京子撮影/伊藤和幸身近な“もやもや”を通して琴線に触れる人間模様を描いたドラマ10『半径5メートル』(NHK総合金曜夜10時~)で、女性週刊誌の若手編集者と型破りなベテラン編集者を演じている芳根京子と永作博美。初共演ふたりのとっておき秘話!■去年の秋からドキドキ、人見知りではないよね――初共演した感想は?芳根京子(以下、芳根)永作さん主演の映画『朝が来る』を拝見して、演技力に圧倒されてすごい怖くなっちゃって。“この子はダメだな”と思われたらどうしようとか。去年の秋からドキドキして、ご一緒できる喜びよりも怖いと親に言いました(笑)。永作博美(以下、永作)第一印象は“あっ、べっぴんさん”、スカウトされちゃうよねと思いました。撮影現場で“実は怖かったんです”という話を聞いてビックリしながらも(気持ちが)うれしかったですね。芳根クランクイン前に(第1話に登場した)こんにゃく作りを練習することになって、そこで初めてお会いして緊張が和らぎました。料理の手順には、その人の素が見えるのでほっとしたのを覚えています。撮影に入ってからも気遣っていただき、お茶を作ってきてくださったりすごくうれしかったです。永作忙しそうで体調が心配だったので、私がいいなと思って飲んでいるお茶を持っていきました。芳根役でも私個人としても心身ともに支えてもらっています。(芳根演じる)風未香は(永作扮する)宝子さんに振り回されたりもするけど、バディみたいな感じで永作さんと共演できて本当にうれしく思っています。同世代の女優友達から“永作さんと共演できていいな”とうらやましがられるたびに“いいでしょ!”と自慢しています。永作現場で話すようになったら“私、人見知りなんです”と言うので、たくさんのことに気を使いすぎているとは思ったけど、人見知りではないよって(笑)。でも、いろんなことに悩んでいる姿は刺激を受けるし、私自身が原点に戻れる感じです。若いエネルギーと一生懸命さに新鮮な気持ちになります。私が24歳のときは、女優に転身したばかりで高校生役を演じていた。芝居に対して抗っていましたね。■SNSの収拾がつかない、家事のバランスに――おふたりが解消したい“もやもや”は?芳根SNSのほどよい使い方を模索しています。投稿がそのまま伝わるとは限らないし、100人いたらできるだけ多くの人に自分の気持ちを伝えるには、どうすればいいだろうと。手軽だからこその重みを感じていて、考えることにも疲れてしまって更新をしなくなったこともありました。10代からブログ、ツイッター、インスタグラムと何にでも手を出していたので収拾がつかなくなっていて、何がいちばん適しているのか絶賛もやもや中です。永作私はごはんは、こんなに食べる必要あるのかなって。おうち時間が増えているだけじゃなくて、日常的にこんなに食事を作らなくちゃいけないのかと思っています。芳根ご一緒していてすごいなと思います。ハードなスケジュールで仕事をして、おうちに帰ったらお母さんをされている。話を聞くだけで、私は結婚には適してないと思うくらい。毎日お忙しいのに、お茶を持ってきてくださる心遣いにキュンとします!永作気になることはやりたいし、みんないろんなことをしていると思います。ただ、こんなにやる必要があるのか、と。家事を含めて会社やみなさんの身の回りにも“半径5メートル”みたいな境界線があって模索している。解消法?一から考えるしかないですよね。例えば、家のスペースは決まっているので、入らないものは処分するとか。食べられる量も決まっていると思うけど、出したら食べちゃう。ほかの料理にも時間がかかるわけで、そのバランスにもやもやしています。――女性週刊誌に対して思うことは?芳根ドラマをやるにあたって週刊誌を読む機会が増え、じっくり読むようになって印象がすごく変わりました。これまでの週刊誌のイメージは、1折(芸能や事件のニュース担当)でしたが、風未香と宝子が在籍する2折(料理、実用、企画担当)をドラマで追体験して、こういうふうにやっているのかなとか想像が膨らみ、新しい発見ができるようになりました。永作私も女性週刊誌を読むようになりました。(ドラマがきっかけで)他人事じゃなくなっているところがあって(笑)。1折はひとりで(ニュースを)追っていく孤独感が強かったけど、2折はアットホームで楽しい印象に変わりました。いろいろ可能性がある媒体として、どこまでどう作るのか。どうにでもやりようがあるんだなと思いました。――役どころやドラマの魅力を。芳根私も、風未香みたいにどんなことにも“なんで?”と気になるので、私自身が風未香だと思いました。新しい道を切り開いてくれる宝子さんと出会ってワクワクしている風未香を純粋に楽しもうと思います。永作脚本を読んで、こんにゃく作りやおでんを一から作るの?と思いましたが、そこが面白いと思っています。おでんだけでなく、通常ならすっ飛ばしていることでも一から突き詰めてやっている作品にやりがいを感じています。お茶だけじゃない下着&マスクの気遣い永作はお茶以外にもストレスフリーのインナーパンツとマスクをプレゼントした。芳根「はき心地がよくて、男性も絶賛ですよ。男性スタッフが“やっといいパンツに出会えた”って(笑)」永作「私も人に紹介されて使っています。しめつけ感がなくて血流がよくなるので、疲れている人を見るとあげたくなっちゃう」芳根「いろいろ気遣ってもらい、マスクもいただきました」永作「肌荒れしていると聞いたので。呼吸がしやすく、肌にも刺激が少ないものです」芳根「たくさん(種類が)ありすぎてわからなくなっていたので、いいものを教えていただきありがとうございます。毎日、愛用しています!」(芳根京子)ヘアメイク/猪股真衣子(TRON)、スタイリスト/道端亜未、衣装協力/juge、AcuteAccent(永作博美)ヘアメイク/奥川哲也(dynamic)、スタイリスト/鈴木えりこ
2021年05月21日祭nine.撮影/伊藤和幸東海エリアを中心に活動する『BOYS AND MEN』の弟分として人気の『祭nine.』が、ニューシングル『やったれ我が人生』をリリース。『オトナの土ドラ』シリーズ『最高のオバハン 中島ハルコ』(東海テレビ・フジテレビ系全国ネット)の主題歌にも抜擢され勢いに乗るメンバーに、新曲の聞きどころから気になる近況までインタビュー!■新曲に込めた思い――新曲は聴くだけで元気になるアゲアゲ曲ですね。寺坂「『やったれ我が人生』は、これまでの祭nine.っぽさもありつつ、今までの応援歌よりもさらに豪快なんです」横山「人生は誰のものでもなく、自分のもの。“とにかくやったれ!”と、僕らが元気ハツラツに応援します。押忍っ!」神田「僕自身も初めて聴いたとき、この曲に背中を押されて、勇気をもらって。聴いてくれた人も同じような気持ちになってくれたらうれしいです」野々田「ボクは歌い出し部分を担当したんだけど、これまではソロからスタートする、という楽曲はなかったのでホント新鮮。疾走感もあり、心から励まされる応援曲になるよう、いろいろと工夫をしていますので、多くの方に聴いてほしいです」高崎「僕がこだわったのは、サビに入る前の“祭りだぜ!”っていう部分。そこでドーンと上げてサビに入る感じだったから、かなり意識しました。全体的には、とにかく気合が伝わるような応援歌になっています。自分のやりたいことが見つからない人、あるいは見つけた人もこの曲を聴いて、“人生やったれ!”と元気に過ごしてほしいです」■大切に育てていたアレが死んだ!?――うれしいニュースといえば、寺坂くんが、7月スタートの『ウルトラマントリガー NEW GENERATION TIGA』(テレビ東京系)の主人公に決定。寺坂「ありがとうございます!“トリガー”は人気シリーズ『ウルトラマンティガ』を原点とした作品なんです。今年はウルトラマンが放映されて55周年、さらにティガ誕生25周年という記念すべき年なので、演じられるのはすごく光栄です」野々田「めっちゃ楽しみ」神田「小さいころから見ていたヒーローになれるなんてうらやましいな」横山「でかしたな!」――ほかに言っておきたい近況報告は?寺坂「トーイ(横山)が出演していた音楽番組『フリースタイルティーチャー』を見たんだけど、熱い夢をラップにのせて歌ってて、これまで見たことのないカッコいい一面が見れて新発見だったよ」横山「いつもカッコいいでしょうに」野々田「いつもはフツー」横山「じゃあ、俺、普段からラップで会話することにするわ(笑)」寺坂「じゅき(高崎)は、料理にハマっていて、最近シェフみたいでカッコいいし」高崎「料理道具にもこだわり始めちゃって、マイ包丁もたくさんそろえようかなって思ってます」神田「得意料理はなに?」高崎「オムライスはかなり作ってるかな」野々田「みんな最近、個人の仕事も忙しいよね。僕は、AbemaTVでボートレースの番組に出演したんだけど、元モー娘。の田中れいなさんがみんなとは違う予想を立てるんだけど、それがよく的中して。勘が鋭くって、僕もそうなりたいと思いました」高崎「何ですか、その憧れ」神田「実は今、誰にも話してないことを暴露します」全員「え!ナニ、ナニ!?」神田「僕……バイオリンを購入しましたぁ!今回のシングルの歌詞に感化されて、“やったれ!”とばかりに欲しかったバイオリンを買おうと」全員「オー!」寺坂「はーい!秘密ネタといえば、僕も誰にも言ってないことがあります」全員「え、ナニ、ナニ!?」寺坂「実は、スマホのゲームでウーパールーパーを飼っていたんですけど、先日……死にましたァー(泣)。一生懸命育ててたのに」横山「ゲームでもリアルに死ぬんだ。じゃあ、これからはウルトラマンを一生懸命頑張れ~(笑)」■“オトナ”のドラマといえば?野々田「“オトナ”のドラマって聞くと、サスペンス系が思い浮かびます。最近見ているのは『ボイス』。韓国ドラマは大人だからこそ楽しめる感じ。俳優陣もいいし、とにかくハマってます」神田「それこそオトナの土ドラと聞いたときは、志田未来さんの『ウツボカズラの夢』を思い出しました。家庭内のドタバタとか、夫婦、嫁姑のトラブルって大人(笑)」寺坂「僕は小さいころ、両親がひそかに『24』を見ていたのをこっそり隙間から見て、何かドキドキした記憶がある。時計の音が聞こえてくると、今でもワクワクします」横山「ヒュー、みんな子ども(笑)。俺は、玉木宏さん主演の『ラブシャッフル』が忘れられない。カップル交換とか出てきたんだけど、これがエロくてやばいんですよ。あーゆーのが本当の大人の世界だよね」高崎「えー、ちょっと待って。僕にはわからない、大人のドラマ」横山「ホント?」高崎「『虹色デイズ』とか、僕にとっては大人のドラマ。男同士の友情もあり、恋もあり」神田「そういうキュンキュン系ドラマを見た後に、『バチェラー』とか見る。それが“オトナ”だよ」全員(爆笑)(取材・文/いくしままき)
2021年05月19日認知症の症状が改善されたり、難病と闘う力を与えてもらったり。「看取り犬」に寄り添われ、おだやかに旅立つ人もいる。日本初の「ペットと一緒に入れる老人ホーム」の毎日は、動物たちとの温かな触れ合いが引き起こす、やさしい“奇跡”であふれている。施設長の若山さんが目指すのは、わが家のような居場所。愛犬や愛猫たちとの暮らしも、腕によりをかけた食事も、小旅行も、すべては高齢者の夢を叶えるために──。若山さんにじゃれつく、ホームの看板犬・文福。殺処分の寸前に保護され、ここへ引き取られた癒しや温もりを与えてくれる大切な愛犬や愛猫は、飼い主にとっては家族同然の存在。しかし、ペットの寿命が延び、飼い主も高齢化するなかで「自分にもしものことがあったとき、この子はどうなるのだろう」と、不安に思う人は少なくない。■人間が不可能なことを動物が可能にするそんな高齢者の心配に応える老人ホームが神奈川県横須賀市にある。特別養護老人ホーム『さくらの里 山科』は飼い主とペットが一緒に入居でき、ともにのびのびと暮らしている、稀有で温かい施設だ。動物たちとの触れ合いを通して、難病と闘う力をもらった高齢者がいる。息子の名前さえ忘れていた認知症の女性が記憶を取り戻したこともある。人間が不可能なことを動物が可能にする、そんな小さな奇跡が、ここではたくさん起きている。施設長の若山三千彦さんは言う。「ペットと暮らす生活をあきらめて、生きる気力を失う高齢者がこれ以上出ないためにも、うちの施設のような老人ホームが全国に広がってほしいです」「あきらめない福祉」を掲げる若山さん。その熱意はどこからきて、どのように形にされていったのだろうか。昭和40年、若山三千彦さんはサラリーマンの父と専業主婦の母との間に生まれた。2つ下の弟と、6つ下の妹、そして近所の子どもたちと一緒に山で遊ぶ、ごく普通の子どもだった。両親は動物が大好きで、若山さんが小学生のころからうさぎを飼っていた。中学生になると犬も飼い、動物がいることが当たり前の暮らし。また両親はボランティア活動にも熱心で、若山さんは小学生のころ、母親に連れられて老人ホームや障害者施設に通うこともあったという。幼い若山さんは、比較的おとなしく、SFが大好きで、黙々と本を読む子どもだった。SF好きは、のちの進路にも影響することになる。若山さんは宇宙について学びたいと考え物理系の大学へ進学。物理を学んだ若山さんは、違う学問にも関心を広げ大学院の環境科学系へと進み、都市計画を専攻した。その後、大学院を卒業し、今度はアイルランドにある日本人高等学校の教師となる。「めずらしい国での教師の仕事は、おもしろそうだな、という感じで行ったんです」周囲の友人たちは、好奇心のままに行動する若山さんを見て、あきれていたと笑って話す。「やりたいことがあったら自然に動いてしまうんです」アイルランドの教師生活では、高校生に物理と化学を教えていた。当時のアイルランドには日本人はほとんどいなかった。小さな学校で1学年に1クラスしかなく、20人くらいの生徒たちと、校内の寮でのんびり暮らしていた。「思えば、私自身の“職業人スピリット”のようなものは、ここで培ったのだと思います。最初に“教師とは、生徒の夢を叶える仕事だ”と教えられ、ずっとそれを目指していましたから」この「誰かの夢を叶える仕事」という思いが、高齢者の夢を叶える現在につながっている。■浅草・雷門で涙して、中ジョッキに男泣き5年の勤務を経て、日本に帰国。茨城県の常総学院で教師を始めた。1998年、高校3年生を受け持っていた年、若山さんのクラスの生徒が朝の通学時に交通事故で亡くなってしまった。ムードメーカーであり、親しまれていた生徒の死。クラスメートも、深く悲しんでいたが、しばらくすると、「その子の分まで、自分たちが頑張らなくては」と、全員が必死になって受験勉強を始めた。ほとんどの生徒が朝7時半に登校し、夜9時まで残って勉強する姿に、若山さんも毎日付き合った。悲しみを抱えた特別な状態で、それでもクラスが一体となって、目標に向かう生徒たち。そして、全員が、第1志望、第2志望校に現役で合格したのだ。「このとき、同僚からは“奇跡だね”と言われました。この体験は、私には特別なものでしたし、“もう、ほかのクラスは持ちたくないな”と思ってしまったんです」ちょうどそのころ、若山さんは両親から相談を持ちかけられていた。「退職金と、家を売却して、自分たちの理想の老人ホームを作りたいと思っているけれど、いいか」というものだった。「好きにしていいよ」と答え、当時は手伝うつもりもなかった。しかし、行政とのやりとりなどが両親の手に負えなくなってきたことと、クラスの生徒たちの卒業のタイミングとがちょうど重なり、若山さんは教師生活を終えようと決意した。1999年、両親が思い描く老人ホームを立ち上げるため、本格的な準備が始まった。高齢者グループホームとして『さくらの家壱番館』、デイサービスセンター『さくらの里』、障害者の就労支援施設『あすなろ学園』の、3つの小さな複合施設。2000年からは高齢の両親を支え、経営者として福祉施設を運営していくことになった。福祉や介護を学びながらの経営。若山さんは、デイサービスセンターを視察することもあったが、実のところ、高齢者が何をするところなのかわからなかった。家族の代わりに食事や排泄、入浴のお手伝いをする施設、ということはわかったが、高齢者にとって何が楽しみとなっているのか、わからなかったのだ。「デイサービスに来た高齢者が、どんな夢を叶えるのか」という視点が必要だと考えた若山さんは、自分の運営するデイサービスセンター『さくらの里』では、外出に力を入れることにした。1年目は近場にしたが、2年目からは浅草などへ遠出をするようになった。「利用者の中に浅草生まれの方がいらっしゃったんです。その方は、小旅行で浅草に行ったときに、雷門の前で“死ぬまでにもう1度、浅草を見られるなんて思わなかった”と言って、ポロポロ泣き出したんです。電車で1時間の故郷にすら遊びに行けない。高齢で、車椅子であることで“あきらめるしかない”と思っていたのだと知りました」デイサービスでは前代未聞の、みんなで夜に居酒屋に行くというイベントを開催。入居者の男性が中ジョッキのビールを飲み、「うれしい! 」と声をあげて男泣きしたこともあった。看護師が判断した飲酒許容量を超えないよう、スタッフが付き添って見守りながらの飲酒だが、中ジョッキの1杯に、感極まってしまうほど喜んだのだ。会社勤めをしていたころ、毎晩のように飲み歩いていた男性は、定年退職後に脳梗塞を患い、夜の宴会や居酒屋に行くことは2度とないとあきらめていた。高齢者が、最期まで人生を楽しめるように支えていきたい……。若山さんの心に、そんな決意が宿る出来事が増えていった。『さくらの里 山科』が掲げる「あきらめない福祉」「あきらめない介護」という理念は、ここからスタートしたのだ。■いつ起きてもOK、豪華おせちも登場する理由デイサービスセンター『さくらの里』では、在宅介護にも力を入れていた。しかし、自分の家で最期まで過ごせる人は少ない。重い介護が必要になると、家族で世話をするには限界が訪れて、老人ホームや病院などへ頼らざるをえなくなる。そのようにして在宅介護から介護施設などへ移るとき、やむなくペットをあきらめなくてはならない現実があった。ひとり暮らしの高齢者であれば、なおさらだ。ある男性は、要介護になりたったひとりの家族だったペットを保健所に引き渡すしかなく、その後、入居先の老人ホームで生きる力をなくし、わずか半年で亡くなってしまった。そういった現実に、『さくらの里』のスタッフも心を痛めていた。高齢者にとって“最後の受け皿”となる居場所が欲しいと若山さんは考えていた。そうして誕生したのが特別養護老人ホーム『さくらの里 山科』だ。自治体の地域福祉計画に沿って’10年から準備し、’12年に設立。法人化を待望していた両親の夢を、特別養護老人ホームの設立で叶えることができた。そのころ、若山さんの母親はがんで闘病中だったが、ホームの認可が下りたことにとても喜んでいた。しかし、残念ながら、ホーム完成の直前に亡くなった。『さくらの里 山科』では、高齢者が住む10LDKのマンションをイメージした。旅行行事やホーム内での公演、手工芸などを行い、食事にも力を入れる。お正月には、ひとりひとりに本物の漆塗りの重箱に入ったおせち料理を出し、伊勢海老を用意したこともある。夏はウナギや鮎、冬にはフグやあんこう鍋がふるまわれる。起床時間も消灯時間も決まりはなく、ゆっくり寝て、遅く起きてもかまわない。夜遅くまでタブレットでインターネットをしたり、テレビを見ていたりする人がいてもいいのだ。食事の時間も、一斉に「いただきます」をするスタイルではなく、2時間の幅で自由に食べることができる。そして、ペットと一緒に入居することも可能とした。「あきらめない介護」のひとつとして、日常の自由を守ることを決めていたからだ。そのイメージは、「わが家」だと若山さんは言う。「老人ホームの世界は、この10〜20年で大きく変化したんです。それ以前は、国の高齢者福祉政策は“老人の保護・収容”という発想でした。でも、今は、高齢者の人権にも意識が届くようになってきています」それまでは、高齢者の最低限の生活を保障するという「生存権」の考え方だったが、自由に暮らす権利を守る「幸福追求権」を目指すようになってきているという。「生存権」の考え方でいえば、3大ケアといわれる「食事」「排泄」「風呂」さえ介護すれば人は死なない、という発想だった。しかし若山さんには、「ひとりひとりの生活の質を高めたい」という思いがある。だからこそ、家族であるペットとの生活もあきらめない。最期まで愛犬や愛猫と一緒に暮らせる環境は、「生活の質」の中に当然、含まれるべきものだった。こうして生まれた『さくらの里 山科』は、4階建ての120床、完全個室制・ユニット型。1ユニットは、イメージとしては、10LDKのマンションに近い。居室10室(10名)とリビング、キッチン、3か所のトイレ、お風呂からできていて、それが全部で12ユニットある。そのうち、2階部分に犬と暮らせる2つのユニット、猫と暮らせる2つのユニットがある。現在、ここで暮らす動物たちは、犬11匹(入居者の飼い犬8匹、保護犬3匹)、猫も9匹(入居者の飼い猫5匹、保護猫4匹)。3階と4階には、動物が苦手な人も入居できるようになっている。■生きる気力を与え、病さえ癒す犬猫たち’12年から現在に至るまで、ペットと高齢者との暮らしを見続けてきた若山さん。そこには、さまざまな出会いがあった。施設の入居者である沢田富與子さん(76)は、60代で病を患い、たったひとりの家族である愛猫の祐介を遺したまま自宅で自分が死んでしまったら、どうしようと考え続けていた。祐介とともに自死を考え、病院からもらってきた睡眠薬をふたり分、蓄えたこともある。そして、思い詰めるあまり、身体を壊して入院してしまったのだ。しかし、『さくらの里 山科』に出合い、祐介とともに入居したことで、生きる力を取り戻した。沢田さんは「今がいちばん幸せ」と言うほど、ここでの祐介とのおだやかな暮らしに満ち足りていた。沢田さんは幼いころから犬や猫、メジロを飼い、セグロセキレイを保護したこともある。小さな動物園のような家で育ち、動物のいない世界など、信じられなかった。自分の子どもと同じだと思って祐介も育ててきた。「自分が好きで飼っていた動物は、自分が面倒を見られなくなったとしても、本当はそばにいたいし、癒される存在なんですよね」(沢田さん)だが、独居の高齢者には、それは叶わないのが現実だ。かつての沢田さんのような不安を抱える高齢者は、いまもどこかにいるのかもしれない。最期のときまでペットと暮らせる、そして、自分が先に死ぬことがあっても、施設が大切に飼い続けてくれる──。そんな安心感が、沢田さんの生きる力になった。「その祐介が、実は、先日、亡くなりました」沢田さんが大きな悲しみの中でも気丈に取材に応じてくれたのは、「小さな命のことも大切にしてほしい」、そして「こういった施設が増えてほしい」という思いからだった。「きれいな顔で、苦しまずに14歳で逝きました。小さな命にも、温かく向き合ってくれるこのホームに、祐介が私を導いてくれたんです。このホームで、たくさんの方に大切にされて、祐介は本当に幸せでした。こんな施設が増えてほしい。そう、(記事を通じて)伝えてほしいんです」祐介くんへの深い愛情と死の悲しみとを、心を込めて、そう語ってくれた。一方、沢田さんは友人たちから、「きっと料金が高い施設なんでしょう?」と言われることもある。「“入居費は私の年金だけよ”と言うと、驚かれます。高級な老人ホームでも、動物はダメというところが多いんですよね。それに、豪華なことより、安心できることが大切です。ここは職員さんも動物好きな人たちばかりだから、安心して託せるんです」動物虐待や、捨て猫・捨て犬の存在に心を痛める沢田さんは、以前、リハビリ室の外に放置されていた猫を、「さくらの里 山科」の職員が「私が引き取ります」と言って連れて帰ったことを、よく覚えている。「この施設で本当によかった、と思いました。信頼できますよね」■動物たちが与えた影響また、動物たちの持つ力を借りて、病気の症状が改善された高齢者もいる。大の猫好きだった斎藤幸助さん(仮名)は、認知症を患っていた。『さくらの里 山科』を知った斎藤さんの息子は、猫ユニットへの入居を申し込んだ。初めて猫ユニットの玄関の扉を開けたとき、小さな猫が斎藤さんの足に体をこすりつけ、可愛い声で鳴いた。その瞬間、斎藤さんの顔が輝いたのを職員は見ていたそうだ。認知症になると、無気力・無感情のような症状が出る。しかし、斎藤さんは、猫との暮らしで表情を取り戻し、生きる希望を取り戻し、歌を歌い、リハビリにも意欲的になっていった。斎藤さんは、トラという猫と仲よしになった。床にあぐらをかいて歌う斎藤さんの脚のあいだに、トラがちょこんと座る。歩行訓練に使うシルバーカートにトラがちょこんと座り、斎藤さんはそのカートを押す。気まぐれなはずの猫が、何十分もそのカートに座る姿は、斎藤さんのリハビリを応援しているかのように見えたそうだ。動物に励まされた入居者は、斎藤さんだけではなかった。愛犬のナナと入居した渡辺優子さん(仮名)は、進行性核上性麻痺という難病だった。ナナと離れたくないという思いで、ギリギリまで自宅での生活をしていた渡辺さんは、ナナと入居し、十分な介護を受けたことで衰弱した身体が劇的に回復したものの、少しずつ進行する病気に治療法はなかった。しかし、リハビリは有効な手段だ。実際の肉体の苦痛は、気力だけでは乗り越えられない。「ナナのために頑張る」と口癖のように言っていたが、平行棒を3メートル歩いて、苦しむ渡辺さんの様子に、作業療法士も悩んでいた。「ナナと一緒にリハビリしてもらったらいいんじゃない?」と提案したのは、介護職員の出田恵子さん(犬ユニットリーダー担当)だ。作業療法士はそれを聞き、ナナを乗せた車椅子を渡辺さんに押してもらう方法を思いついた。初めてナナと歩行訓練をした渡辺さんは、3メートルどころか、50メートル以上ある長い廊下を歩き切ることができた。1か月後には、廊下を2往復できるまでになり、口の動きはさらに回復し、単語を明瞭に言えるようになった。ナナは、難病と闘う力を与えたのだ。渡辺さんは、その後、医師も驚くほど回復をしたが、少しずつ病が進行し、残念ながら亡くなってしまった。ナナは渡辺さんをベッドで看取ったあとも、今もホームの愛犬として元気に暮らしている。職員の出田さんの後ろをついて回ることもある。介護職歴19年で猫ユニットのリーダーを務める安田ゆきよさんは、入居者が動物と一緒に暮らすことで「介護だけでは味わえない、ケアの方法が増えたと思います」と話す。動物のいない施設では経験のないようなことが『さくらの里 山科』では、たくさん起きているという。「生き物の力を感じます。入居者さんも、職員も、喜怒哀楽のある刺激のある暮らしです。単調ではないことが、活力の一部にもなっています」例えば、体力が衰え、ふらつきがちでつかまり立ちだった入居者が「猫を触りたい」「なでたい」という思いで屈伸するようになり、筋力がついて、猫が背中に乗っても、おんぶができるようになったこともある。そして、歩けるようになっていく。「そういったことは、人間のケアではできない。動物たちが与えた影響なんです」(安田さん)■元・保護犬の「看取り犬」文福が起こした奇跡『さくらの里 山科』では、飼い主と入居したペットのほかに、保護犬や保護猫も一緒に暮らしている。そのうちの1匹が、「看取り犬」である文福だ。文福は推定年齢12歳。「推定」なのは、殺処分寸前の保護犬だったからだ。入居当時は、自分が殺されるかもしれないことを察知していたのか、神経質な状態で来た。今はおだやかな気性の犬だが、ここへ来た当初、職員には「ウーッ」とうなっていた。しかし、入居している高齢者には、絶対にうならなかった。おそらく“守るべき存在”ということが、文福にはわかっていたのだろう。その文福は、すぐにホームに慣れ、入居者にまぎれてちょこんと椅子に座っていたり、さりげなく隣に行ってなでてもらったりするホームの人気者になった。文福が「看取り犬」であることを発見したのは、前出の介護職員・出田さんだ。『さくらの里 山科』では例年、年間30人ほどが亡くなる。看取り期に入る入居者が出ると、なぜか文福は、その入居者の居室のドアの前にぺたっと悲しそうに座り、ずっと寄り添うのだ。出田さんは、いつも元気な文福の物悲しい姿に「あれ?」と不思議に思っていたが、その入居者は翌日に亡くなった。また別の入居者が亡くなったときも、文福は同じ行動をとった。亡くなる2〜3日前になると、居室のドアに座り、すっと部屋に入り、ベッドに上ってペロペロと顔をなめる。職員が「文福、出ないの?」と声をかけても、じっと入居者のそばにとどまり、見守り続ける。そのしぐさは、普段、入居者とじゃれ合う文福の雰囲気とは違っていた。これが自分の愛犬・愛猫がいる入居者の場合、文福は少し遠慮する。まるで、「ここには、看取るペットがいるから大丈夫だろう」と察するかのようだった。しかし、それでも死期が近くなると、入居者の部屋の近くにいようとすると出田さんは言う。前出の斎藤さんに寄り添う猫のトラも、文福のような力があったという。トラは看取りの力というよりは、弱っていることを察知する力を持っていて、寄り添って癒す行動をとっていた。ペットセラピーの専門家がトラと入居者の様子を見て、「どんな訓練を受けたセラピードッグもかなわないアニマルセラピーを行っている」と、感嘆したこともあるそうだ。文福は、看取り犬としての奇跡だけではなく、認知症の佐藤トキさん(仮名)との間でも奇跡を起こした。重度の認知症で入居した佐藤さんは、理解力や判断力の低下に伴い、無表情な状態だった。佐藤さんの息子は、長年犬を飼っていた母親が『さくらの里 山科』で犬と暮らせば、何か変化があるのではないか、と望みをかけて託したのだ。入居した佐藤さんは当初、文福をかつて飼っていた「ポチ」と思い、「ポチ」と呼びかけ、次第に表情を取り戻していった。文福は、「ポチ」と呼ばれても、佐藤さんの元に行くやさしい犬だ。佐藤さんは、そんな文福をやさしくなで、抱きしめ、3週間後には、「ポチ」ではなく「文福」であることを理解していった。そして、入居1か月後に面会に来た息子に、「あら、幸一、来てくれたの?」と呼びかけたのだ。わが子の存在を忘れてしまっていたかに見えた母が名前を呼んだ奇跡に、息子は絶句していたという。それから1年半、佐藤さんは、文福と幸せに暮らした。「70を過ぎて犬をあきらめたのに、こうして犬と一緒に暮らせるなんて夢みたい」と話し、そして、「息子たちには悪いけれど、文福に看取ってもらいたい」といたずらっぽく笑って話すこともあったそうだ。その願いどおり、佐藤さんは文福と息子さんに囲まれて亡くなった。「亡くなってしまうことは、この施設では日常なんです」と若山さんは言う。介護とは、常に命と向き合う仕事でもある。「看取りにペットが加わっていても、本当は特別なことではなく、普通のこと。ペットも家族ですから、最期まで一緒にいられて当たり前なんですよ」(若山さん)■「あきらめない福祉」を叶えるために飼い主とともに入居したペットも、保護犬や保護猫たちも、動物たちの世話はすべて職員が行っている。そもそも介護の現場は深刻な人手不足に加えて、不規則な勤務形態や給料の安さなどから離職率が問題になることも多い。『さくらの里 山科』の職員たちは、負担をどう感じているのだろうか?「猫の食事、トイレ掃除や病院受診など、プラスアルファの仕事は増えますが、生活の一部になっているので、そんなに負担は感じていません」と、ベテラン介護職員の安田さんは言う。動物が好きだからという理由で、犬猫ユニットを希望するスタッフもいるそうだ。前出の出田さんは、「私たち職員も、動物に癒されている面もあるんです」と話す。「それに、一斉に食事をするスタイルだと大変かもしれませんが、ここでは、○○さんは8時ごろ、××さんは9時ごろに食べる、と、それぞれのスタイルに合わせて食事の用意をするので、バタバタしないメリットもあります」実際、『さくらの里 山科』では職員の定着率も高く、動物がいる職場で働きたいと、求人に応募してくるケースも少なくないという。若山さんは、「犬や猫へのオヤツ禁止令を出したこともあるんです」と笑って話す。職員や入居者が、ホームの動物たちをかわいがるあまり、太ってしまうほどオヤツを食べさせてしまうからだ。色とりどりの洋服やおもちゃも増えた。「犬たちは、入居者の食事の時間だけは、それぞれのケージで過ごすようにしています。入居者さんも、自分の食べているものを、ついかわいくてあげてしまうんですね。“あげないでください”と言わなくてすむように、そうしているんですよ」家族の一員であるペットとともに、おだやかで安心できる、当たり前の日常が過ごせるよう力を尽くしてきた若山さん。しかし、長引くコロナ禍はそんな日常を一変させ、高齢者施設に大きな影響を及ぼしている。『さくらの里 山科』も、例外ではない。「この施設では、面会時間の制限がなくて、いつでも何人でも来てくださいという自由な決まりだったんです。なので、日ごろから面会の多いホームでした」しかし、感染拡大の中では、そうはいかなくなってしまった。「毎日立ち寄る方、仕事帰りの19時とか20時とかにちょっと立ち寄る方もいましたが、それが今はまったくできないのが残念です」現在は、入居者の家族のみ、1階の入り口で、窓越しに携帯電話で話すという面会スタイルになってしまった。施設内の感染対策はマスクの着用は当然のこと、消毒用アルコールも常時設置するなど以前から徹底していたが、「コロナ以降は感染対策のレベルを上げました」(若山さん)職員は勤務にあたり、自宅での検温が必須になった。37・5度以上あれば出勤できなくなるため、調整に奔走しなければならない。これまでは、外出行事にも力を入れていたが、すべてできなくなってしまった。比較的体力のある入居者の誕生日には、本人が望む食事を、職員と一緒に寿司店やレストランなどへ食べに出かけてお祝いをするが、それも今はできない。家族に会えない1年間を過ごした入居者は、活気がなくなり、認知症の進行が早まった高齢者もいると、若山さんは心配している。「それでも、犬や猫がいることで、救われている入居者もいると思います」(前出・安田さん)■その人らしく生きることをあきらめない出田さんは、高齢者施設に動物と入居できることが当たり前になれば、殺処分も減らせるかもしれない、と考えている。ペットが飼い主より長生きして自治体に保護されるケースでは、他人に長く飼われた高齢の犬や猫ほど引き取り手が少なくなり、殺処分されてしまうからだ。「最期まで一緒にいられることが当たり前になれば、高齢になってからも、安心してペットを飼えますよね」そう言って、出田さんは期待を込める。「これからは、ひとり暮らしの高齢者が今以上に増えていく。ペットと暮らせる老人ホームのニーズは、必ず高まっていきます」と、若山さんは断言する。そしてペットと暮らすことを含め、何かをあきらめていた高齢者の夢が叶って喜ぶ姿に、「やってよかった」と感じられることが、大きな原動力だと話す。「同じ業界の方々からの見学には、これまでもできる限り応え、施設をオープンに見てもらってきました。有料老人ホームでは、ペットと暮らせるところが増えていますが、特別養護老人ホームでペット入居可の施設は、なかなか実現に至らなかったんです。でも先日、九州の特養から“実現しそうです”という知らせがあって、そのことを本当にうれしく思っているんです」ひとりひとりの生活の質を高め、最期まで、その人らしく生きることをあきらめない。その思いで、若山さんは取り組みを続けている。取材・文/吉田千亜(よしだ・ちあ)フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞。(撮影/伊藤和幸)
2021年04月25日柄本時生撮影/伊藤和幸名優・柄本明の次男に生まれ、自身も独自の存在感を発揮している柄本時生。映画・ドラマ・舞台など、出演はすでに150作を超える。これまでの歩みは?■運のよい自分を恥じている「運がよかっただけという気がします。最初は映画だったんですけど、兄ちゃん(柄本佑)に来た仕事が年齢的に兄ちゃんができなくて……。小学生の役なのに、もう高校生。で“弟がいるらしいよ”というところからオーディションに呼ばれたんです(※1)。それまでは俳優を目指していたわけでもなく。普通にプロ野球選手とか、神輿をつくる宮大工とか、そっちに夢を持っている人間でした。ただ親の影響で、とにかく映画はたくさん見ていましたね」そうして足を踏み入れた世界は楽しくも刺激的だった。「初めて現場に出た14歳のころから、スタッフさんが映画の話になったとき、普通に大人の会話についていけちゃったんです。で、大人に“おまえ、その年で見ているの!?”って驚かれるのがすごい気持ちよくって。“俺って大人に認められてるんだぜ”って悦に入るというか。中二病ですよ(笑)」大学受験に失敗し職業欄に「学生」と書けなくなったのを機に、自然と役者としての覚悟が決まっていったという。そんな時生の最新作は『映画バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら~』。日本を代表する名脇役たちが「本人役」で出演する話題作だ。オファーを受けた感想は?「最初のテレビシリーズが始まったとき(※2)、渋谷のハチ公前に巨大な看板が出たんです。6人のみなさんが歯ブラシをくわえて、『バイプレイヤーズ』ってドーンとタイトルがあって。それを見たときに、俺“あーっ”と思って。“自分がオッサンになって、こういうドラマを撮ったときに、俺、入れるのかなぁ?”と。そんな作品に、ドラマと映画と両方出させていただく(※3)。本当にありがたいことだと思います」映画版ではベテラン俳優たちの物語と並行して、濱田岳を中心とした「若手バイプレ」が、自主制作映画(※4)を撮影するべく奮闘する姿が描かれる。「がっくん(濱田)とずーっと一緒にいる役で、楽しい時間を過ごせました。ご一緒したのは13年ぶりくらいだったんで(※5)、うれしかったです。現場はやっぱり圧巻でした。僕とがっくんが外で待っていると、スタジオのシャッターの下をくぐって『アウトローの森』(※6)の出演者全員が表に出てくるシーンがあったんですけど、すごい迫力。しかもそれが初日だったので、まだ(全員に)挨拶ができていなくて。テストの合間で、諸先輩方に“おはようございます。よろしくお願いします(※7)”を言っていく、みたいな状況でした」■兄・佑はもともと「オトコマエ」コロナ禍の中、感染対策を施しながらも活気ある現場となり、感慨もひとしおだったようだ。「こういうご時世で、やっぱり仕事の間隔があいたんです。その結果、久々に現場に入ったときに、一瞬でも“早く終わんないかな”って思っている自分に気づいて……。とても“恥ずかしい”と思いました。役者は待つのも仕事。現場にいられる自分は、本当に運がいい。あらためて、それを感じさせてくれる作品でした」プライベートでは2020年2月、同い年のタレント・入来茉里と結婚。「いろいろ変わりましたね(笑)。まあ朝起きたら、いますからね。それだけで全然違います。そばに誰かがいてくれるというのは、ありがたいことです」先に結婚した兄・佑は最近、意外な(!?)イケメンぶりでも脚光を浴びている。身内としての思いを聞いてみた。「いやぁ~、うれしいことなんじゃないかと思いますね。ある意味、驚きもありますし。兄ちゃんは、もともと男前なんです。なので、世間の見る目が変わっても“もともとなんだけどなぁ……”って感じですけど、(ヒロインの元カレとか)そういう扱いの男前が来るのに驚いているって感じです」そう話す時生もスラッとした体躯で、不思議な色気を放つ。「ああ、ありがとうございます。そんなこと言われると、うれしいです。でも“男前”とは言われないでしょう。基本的に放っておいてほしいほうなんです(笑)」いえいえ、目が離せない魅力があります!えもと・ときお1989年10月17日生まれ。身長176cm。左利き。出演作に映画『俺たちに明日はないッス』『聖の青春』『花筐/hanagatami』、ドラマ『おひさま』『初恋芸人』『宮本から君へ』『わたし、定時で帰ります。』など。4月9日に『映画バイプレイヤーズ~もしも100人の名脇役が映画を作ったら~』と『blue ブルー』が公開!〜柄本時生とバイプレイヤーズを知るヒント〜※12003年撮影、2005年公開の『jam films s』。7つの短編によるオムニバス映画で、時生は『すべり台』に主演。※22017年1月クールの深夜ドラマ『バイプレイヤーズ~もしも6人の名脇役がシェアハウスで暮らしたら~』。出演は遠藤憲一、大杉漣、田口トモロヲ、寺島進、松重豊、光石研。※32021年1月~3月、役者たちでにぎわう撮影所・バイプレウッドを舞台にした第3シリーズ『バイプレイヤーズ~名脇役の森の100日間~』が放送に。間髪をいれず映画が4月9日公開。※4撮影所にすむ犬が主役で、タイトルは『月のない夜の銀河鉄道』。時生は濱田岳監督を支える助監督。菜々緒、高杉真宙、芳根京子らがスタッフで参加するという設定。※52007年放送のnhkドラマ『すみれの花咲く頃』。宝塚音楽学校を目指す少女(多部未華子)の物語で、濱田と時生は演劇部の友人役。※6バイプレウッドで撮影されている任侠映画。4つの組織が抗争を繰り返し、100人ものコワモテが「最後の1人」になるまで殺し合う。※7現場での俳優・スタッフ間の挨拶の定番。時間帯にかかわりなく「おはようございます」が使われることが多い。
2021年04月08日綾瀬はるか撮影/伊藤和幸 「私自身もこのドラマをやらせていただくことによって、現地はどうなっているか、現地の方はどのように感じているかを知り、驚いたことや苦しくなったことがいっぱいありました」■忘れちゃいけない、忘れなきゃいけない東日本大震災から10年。スペシャルドラマ『あなたのそばで明日が笑う』が3月6日、放送される。舞台は宮城県石巻市。あの日、津波で行方不明になった夫・高臣(高良健吾)を復興住宅で待ち続けている蒼(綾瀬はるか)は今でも毎朝、夫の朝食を用意し続けている……。「“忘れちゃいけない”“忘れなきゃいけない”“前を向かないといけない”という固定概念の中で、自分が思ってしまう素直な気持ち。蒼のように震災で大切な人をなくした経験とは全然違うけど、“これでいいんだ”と思えるまでに時間がかかってしまうところは、似ているなと思いますね。私自身も結構ぐるぐる考えちゃうタイプなので」夫の愛していた書店の再開を決意し、建築士・瑛希(池松壮亮)とやりとりを重ねる中で、蒼は再び微笑みを取り戻していく。「大事な人を失ったという現実。それを受け入れる中でも、忘れようとするんじゃなくて、悲しみさえも自分の中に取り込んで、そこからまた前に進む力に変えていく。たぶん、人それぞれいろんな悩みや苦しみがあると思うけど、たとえ時間がかかっても、受け入れながら前に進むことで、明日につながっていく。そんな前向きな作品です。そして、“そうやって前を向いて頑張っている人たちがいるんだな”と、震災被害にあわれた方々に少し寄り添ってもらえたらいいなと思いますね」■中学生の母親役に「いいものだな〜」息子の六太(二宮慶多)は、中学生。震災当時の記憶はあいまいで、父親や震災について語ることを避ける蒼へのモヤモヤが消えない。『義母と娘のブルース』(’18年)でも母親役は演じているが、今作では実子。かつビミョウな距離ができてしまっている間柄。母親を演じるうえでの苦労を尋ねると、「大変っていうより、いいものだな〜と感じる気持ちのほうが強かったです。息子とはいえ他人というか、別の個人。反抗期には“本当に何を考えているかわからない‼”とか、いろいろあると思うんですけど、そこをあきらめずに向き合っていったときに、心が通い合ううれしさみたいなものは、やっぱり計り知れないんだろうなと思いましたね。あと、やっぱり家族っていうところで、お互いに愛情があって。なんかそういう相手を思いやる絆みたいなものも、いいな〜って思いました」この10年での女優としての成長については、どう感じているのだろう?「自分自身では成長してるのかどうかは謎なところではありますが(笑)、逆に年齢を重ねることによって経験も増えるぶん、“こういうものだ”みたいな、自分の中の決まり事が増えることは、あまりよくないことでもあるのかな、と思ったりもします。そして“自分はどういう人間なのか”がちょっとずつわかってきたっていうのはあるかもしれないですね。縛りは作らず、やっぱり自由で‼そんなふうに歩んでいきたいなと思っています」話しかけづらいかと思いきや鬱々とした気持ちになることも多かった、と今作の撮影を振り返った綾瀬。インタビュー中に、いちばんの笑顔がこぼれたのは、共演の池松壮亮についての質問だった。「池松くん、ちょっと年下ですけど、年がすごく離れているわけじゃないので。役について話すこともあったけど、でもけっこうたわいない、ちょっとバカみたいな話をしてましたね(笑)。フフフ。池松くん、寡黙だから一見話しかけづらいのかなと思いきや、みんなにいじり倒されていて。最終的には突っ込まれ役になっていました(笑)」『あなたのそばで明日が笑う』3/6(土)夜7時30分〜(NHK総合・BS4K)スタイリング/山本マナヘアメイク/中野明海衣装協力/e.m.
2021年03月06日ジャケット姿に柔和な笑みがなんともすてきな遠藤憲一撮影/伊藤和幸182cmの背丈からスラリと伸びた手脚、鋭い眼光、低音の響く渋い声……。“エンケンさん”の愛称で親しまれる俳優・遠藤憲一(59)は、「コワモテ俳優」と言われて思い浮かべる顔ナンバーワンではないだろうか。今年の6月に還暦を迎えるが、テレビ番組から映画まで出演作が絶えず、昨今ますます活躍の場を広げている。17歳のときに演劇と出会い、人生は一変。29歳で結婚し、現所属事務所の代表兼マネージメントを務めるのは、妻・昌子さんだ。2人で一緒に歩んできたこれまで、そして、続いていくこれから──。■「ウィッス」のひと言だけで十数テイク「結婚はやっぱり、ひとつの転機ですよね。それだけじゃなくて、事務所を独立させて女房に俺のマネージャーをやってもらうことになったのも、大きな転機だと思ってる。ずっと“私はやりたくない”って言われちゃってたんだけど、自分のことをいちばん知っている相手に引き受けてもらうのが、俺の願いだった。大変だろうなとは思いつつ、なんとか頼み込んで。3年間、ずーっと口説き続けました」遠藤を俳優の世界へと導いてくれた前所属事務所の社長の引退をきっかけに、’07年、今の所属事務所『エンズタワー』を立ち上げた。ほかの大手事務所に移ることを考えなかった理由は、「日常生活の中で、人よりできないことがいっぱいあるんです。だから、相手への説明もそのぶん必要で。やりとりが二度手間や三度手間になるくらいなら、最初から俺をわかってくれている女房に、と。大きな組織に行ったら、問題児扱いされるだけだとも思っていたから」そばにいる時間が誰よりも長く、信頼できる妻とともに歩んできた、独立後の約15年。出演作はVシネマやヤクザものが多かった遠藤の仕事の幅が広がったのも、この期間のことだ。インタビューに同席した昌子さんは、マネージャーを頼み込まれた当時の心境を「本当に嫌だった。すっごく嫌だった!」と振り返り、明るく笑う。「大事なことだから2回言いました(笑)。私は正直、自分の時間も大切にしたいと思っていたから、仕事に行ってくれている間に自由なひとときを過ごすのが好きだったんです。それに、それまで遠藤が選んでいた出演作の中で私が“見たい”と思うものは少なくて、あまり作品を見てこなかった。でも、このまま同じ路線で進んでいくには厳しい部分もあるだろうな、どこかで路線変更してみてもいいんじゃないかな、と感じていたので、それなら私がマネージャーを引き受けたほうが早いかもって覚悟を決めたんです」昌子さんのハンドリングもあって出演作のジャンルが広がり、親しみやすさが増した今では、コミカルな役柄やチャーミングな役柄を演じる機会も増えた。悪役としての認知度のほうが高かった遠藤が、初めて主演を務めたドラマ『湯けむりスナイパー』(’09年/テレビ東京系)は、自身にとっても思い入れの強い作品だと話す。遠藤が扮(ふん)したのは、殺し屋であった過去を隠して温泉旅館で働く仲居・“源さん”。本作は源さんの周囲で繰り広げられるさまざまな人間ドラマを描いた物語で、演出と脚本を務めたのは映画『モテキ』や『バクマン。』で知られる大根仁だ。「大根さんは“テンポよく撮る人だ”という印象で撮影に臨んだら、この作品ではまるで大違い。源さんは何か言われると“ウィッス”と返事をするキャラクターなんだけれど、そのひと言だけでも“いや違います”、“もう一回”って、何十回もやり直して。表情も“もう少し柔らかくして”とかリクエストされたりね。あとで聞いたら、大根さんが7年間も温めていた作品だったんだって。だからこその、こだわりだったんだな。俺は悪役を演じることが多かったから、あのころは演技中も自然ときつい表情になってしまっていたかもしれないけれど、大根さんに俺の中の“普通”なものを引っ張り出してもらったなって感じています。テレビドラマに関しては、表現の幅を広げるきっかけになってくれたのが大根さんですね」■夫への敬意、妻への感謝これまでと毛色が違うドラマや映画作品だけでなく、バラエティー番組に挑むきっかけを作ったのも昌子さんだという。だが、当の遠藤は苦手意識もあるようで、「俺は物事もよく知らないし、さっきも言ったけれど、自分には本当にできないことが多すぎる。そういう素が出てしまうのが嫌いだった。今でも得意ではないし、あんまり出たくないんだけど(笑)。今は時代がうるさくなって大変なところもあるけど、逆に、多少変わった人間だとしても受け入れてもらえる時代でもある。俺みたいなダメ人間も、そのままでいいのかなって。自分のままでいいんだって思えるようになったから、バラエティーにも少しずつ挑戦できている感じですよ」公私ともにパートナーである昌子さんから見る“遠藤憲一”は、どんな人間なのだろうか。「精神年齢はすごく低くて、幼稚なんです。でも、こだわりがあることに関しての集中力はピカイチ。過酷な時間帯や環境での撮影が続いても、ずーっと集中し続けている姿を見ていると、偉いなって感じるんです。“普段はしょうもないのに、ちゃんとできるじゃん!”って(笑)。自分の性質に合った仕事ができてよかったね、と思っています。うーん、そうだなぁ……親戚の子どもを見ているっていう感覚に近いのかもしれないですね」そう答えてくれる昌子さんの横で、気恥ずかしそうに俯(うつむ)いて笑う夫・遠藤憲一。阿吽(あうん)の呼吸で成り立つ2人の空気感が、その場にいる私たちにも伝わってくるようだった。インタビューの最後、遠藤はゆっくりと口を開く。「今まで女房には、相当ストレスをかけていただろうなって。だから、恩返しをしていきたい。やり方がわからなかったり、下手くそだったりするかもしれないけれど、これから少しずつでも恩を返していかなきゃなって思いますよね」それまでのトーンとはまた違い、少し音量を下げた優しい口調。不器用ながらも初々しく紡いだその言葉には、紛(まご)うことなき真実が詰まっていたように思う。(取材・文/高橋もも子)【PROFILE】えんどう・けんいち◎1961年6月28日生まれ、東京都品川区出身。「エンケンさん」の愛称で親しまれ、コワモテな風貌を生かした悪役から、コミカルで愛らしい役どころまで幅広く演じ人気を博す。’01年公開の映画『DISTANCE』で第16回高崎映画祭助演男優賞を受賞。現在、テレビ東京系『バイプレイヤーズ~名脇役の森の100日間』(毎週金曜深夜0時12分〜)に出演中。ほんわかとした日常をのぞき見できる自身の公式インスタグラム(@enken.enstower)も話題に。【INFORMATION】東日本大震災の実際の救助映像などを随所に挟み、実話に基づいた家族の絆と人間の底力を描くNHKスペシャルドラマ『星影のワルツ』が2021年3月7日21時より、NHK総合にて放送。出演は遠藤憲一、菊池桃子、川栄李奈ほか。
2021年03月04日遠藤憲一=“コワモテ”の印象はどこへやら……笑顔もポーズも可愛すぎる撮影/伊藤和幸“エンケンさん”の愛称で親しまれる俳優・遠藤憲一が、今年6月に還暦を迎える。「自分が60歳っていうイメージがいまいち湧かないな」と笑う姿の、なんと朗らかなことか。自然体で飾らず、今まで築いてきたキャリアにも決して驕(おご)ることのない姿勢が、見る者や周りの人間を魅了する。若いころから大好きだった酒を断って、3年がたつ。それが遠藤にどんな変化をもたらしたのだろうか。この先に描く俳優人生とは?所属事務所の代表兼マネージメントを務める妻・昌子さんと夫婦二人三脚で歩んできた遠藤が、これまで見てきた59年間の景色を振り返る。■自粛中、韓国ドラマにどハマり「もう3年間は全然、酒を飲んでない。俺が酒をやめるって、本当に信じられないよね(笑)。さすがに慣れたから、遠目に居酒屋を見つけても“飲みたい!”って思うことはないけど、例えば今、目の前に食べ物と酒を出されて、俺ひとりだけ飲まないってなったらちょっときついかも」断酒のきっかけは、 2018年の元日に出かけた新年会で深酒をし、2日間も消息不明になったこと。昌子さんに激怒され、酒をやめるか家を出ていくかという二択の末の決断だった。遠藤はもともと「趣味は酒だ」と言うほどの酒好きで、空いた時間は仲間とワイワイ飲むのが好きなタイプ。「定期的に会っていた中学の同級生と、酒をやめてから最初に会ったときなんか、たったの1時間しか一緒にいられなかった。俺は飲めないのに、横でクイクイ飲まれちゃうと調子も乗らなくて“そろそろ行くわ”って解散(笑)。今は人と会うこと自体が減っているから、そこまでつらいとは思わないかな。酒の付き合いはなくなっちゃったけれど、たまにランチやスイーツを食べに行こうって出かけたりしていますよ。(お酒を)やめてから、甘いものがすごく好きになっちゃってね」断酒後は食べる量が増えたと言い、体重は増加。おなかがぽっこりと出てしまわないように、ストレッチや適度な運動で現在の体形を保っているのだとか。また、変わったのは食生活だけではない。17歳のころに出会い、無我夢中になった“演劇”と改めて向き合い、より深く勉強する時間が増えたと続ける。「17歳当時は、作品を見るだけでなく脚本の勉強もしたりと、演劇一色の生活だった。そのころの感覚が最近また戻ってきて、コロナ禍での自粛生活が始まったあたりから、ネット配信のドラマをたくさん見るように。話題の韓国ドラマ『愛の不時着』や『梨泰院クラス』も見たし、ちょっとマニアックなところでいうと『恋のスケッチ〜応答せよ1988〜』。これも全話、見ちゃった(笑)。“韓国ドラマ、すごい!”って感激しましたね」いいものに出会ったら素直に感動し、世界には素晴らしい作品がたくさんある、と目を輝かせる。特に、イラン人の脚本家で映画監督のアスガル・ファルハーディーの作品には衝撃を受けたといい、「今まで見た全世界の監督の中でいちばんうまいかもしれない」と話す姿は、まるで少年のようだ。「知らなかった世界から刺激を受けると、自分でも面白いものを作りたくなる。実は4年前、ドラマ『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』で共演した俳優の鈴木浩介くんと“こんな作品を作れたら面白いんじゃないかな?”と構想を練って、脚本を書き始めたんです。“いつか自主映画をやろう!”って意気込んで、何か浮かぶたびにノートに書き残したりして。最初、主人公はおかしな2人のコンビにする予定だったけど、話を広げていくうちに“娘のほうが合ってるな”とか、“これは連続ものにしたほうが楽しそうだな”と変わっていって」コロナ禍ということもあり、鈴木となかなか会えない間にも書きためていたアイデアは、当初のものから大きく変更されたそう。「つい最近、ドラマの撮影で鈴木くんと会う機会があったんだけど、“あの自主映画どうなりました?”って聞かれたから、“映画じゃなくて連続もの。主人公は、娘”って言ったらすごく驚いてた。書き始めてもう4年がたったけど、まだ内容が固まりきっていないもんだから、“遠藤さん……連続ものに変更したとして、このペースのままでいくと、完成まであと40年はかかりますよ!!”ってさ(笑)。映画なのかドラマになるのか、まだわからないけど、それを実現させるのが俺の今の夢かな」■この先もずっと「作り続けたい」見るだけでなく、最近は読書にも時間を使っている。芥川賞を受賞した宇佐美りんの小説『推し、燃ゆ』を読んでみたり、これまであまり読む機会のなかった漫画にも手を出し始めた、と話す。「女房が買ってきた『女の園の星』って漫画が、すっごく面白くてさ!まず絵面(えづら)が気に入っちゃって読み進めたら、やたら笑っちゃった」尽きない探究心とあくなき好奇心が、遠藤の若さの秘密なのかもしれない。「この先も、俳優はずっと続けたいです。演じ続けるというより、“作り続けたい”。こんな作品を、こういうスタッフさんと……って、企画の初期段階から携わっていけたら楽しいだろうなって。俳優をやりながら監督をやっている人も最近は増えたでしょう?そういうのに俺もチャレンジしてみたいな」生き生きと語る姿を見て、妻の昌子さんは、「毎日のように飲み歩いてはすごく酔っ払って、帰ってこない日が続いたりしていたけれど、ここ数年でいろんなものから刺激を受けたり、勉強好きだったりする一面を見て“こういう人だったんだなぁ”って。何かを得るって重要ですよね。前よりは、彼とは接しやすくなったなと思っています」照れ隠しのように鼻で笑った遠藤は、「まだその作品が実現するかもわからないから、あんまり言わないようにしてたんだけどね」と続けた。■60歳って、素晴らし……い!?遠藤憲一がまもなく迎える60歳。“作り続けたい”と意気込む彼が思い描く、これからの人生とは。昨年、ドラマ『竜の道二つの顔の復讐者』(フジテレビ系)で共演した西郷輝彦(74)と撮影の空き時間に交わした、何げない会話を振り返る。「いくつになるのかって聞かれたから、“今度60歳になります”って。そしたら“わっけーなぁ!”って西郷さんが驚いてたんですよ。俺としては“もう60歳だけど!?”って感じだったのに、西郷さんは“60歳ってのは最高だぞ!いちばんだよ60歳!”って言うから、“どんなふうに最高なんですか?”って聞いたの」このご時世、撮影現場ではフェイスシールドの着用が主流。もちろん、このときの2人もフェイスシールド越しの会話だった。「それまではでっかい声で“わけーなぁ!”、“もう60歳ですよ!”ってやりとりしてたのに、最高な理由を聞いたら、まじめになっちゃってさ。何がどんなふうにいいのか話し始めたとたん、真剣に語ってくれたので声が小さくなって、肝心なところが何も聞こえなくて(笑)。え?って思ってたら、スタッフさんに“西郷さんお願いしまーす!”って呼ばれて、それっきり。60歳の素晴らしさを聞き漏らしちゃった。でも、西郷さんがそう言うんだから最高なんだろうね。何が起こるかなって、俺は期待してるんだ」お茶目なエピソードでその場を大笑いさせてくれた遠藤。生き生きと語ってくれた夢が叶(かな)う日が、心から待ち遠しい。彼が“最高”な60歳、60代を謳歌(おうか)することは間違いないだろう。(取材・文/高橋もも子)【PROFILE】えんどう・けんいち◎1961年6月28日生まれ、東京都品川区出身。「エンケンさん」の愛称で親しまれ、コワモテな風貌を生かした悪役から、コミカルで愛らしい役どころまで幅広く演じ人気を博す。’01年公開の映画『DISTANCE』で第16回高崎映画祭助演男優賞を受賞。現在、テレビ東京系『バイプレイヤーズ~名脇役の森の100日間』(毎週金曜深夜0時12分〜)に出演中。ほんわかとした日常をのぞき見できる自身の公式インスタグラム(@enken.enstower)も話題に。【INFORMATION】東日本大震災の実際の救助映像などを随所に挟み、実話に基づいた家族の絆と人間の底力を描くNHKスペシャルドラマ『星影のワルツ』が2021年3月7日21時より、NHK総合にて放送。出演は遠藤憲一、菊池桃子、川栄李奈ほか。
2021年03月01日吉川愛撮影/伊藤和幸「まさか自分がディズニーのヒロインになれるなんて思っていなかったので、ものすごくうれしかったです。母に“(オーディションを受ける)いい経験をしてきたんだよ”と終わったこととして話をしたくらいだったので」ディズニーの最新映画『ラーヤと龍の王国』の日本語版で、ヒロイン・ラーヤの声を演じている吉川愛。幼いころから数々のディズニー作品を見てきたといい「初めての声の仕事がディズニーのヒロインって、もう緊張しかなかったです」と弾けるような笑顔で語る。「発声の方法から、ここは強く言ったほうがいいとか、ちょっと怒りの感情を(声に)のせてみようとか、手取り足取り教えていただきました。それでも、なかなか思うようにできなくて。つい、高くなってしまいがちな声を低く、ラーヤらしくセリフを言うのが本当に難しかったです」■自分から心を開くきっかけの作品今作は、邪悪な魔物によって“信じあう心”を失った龍の王国を救うため、孤独なヒロイン・ラーヤが立ち上がるスペクタクル・ファンタジー作品。「あるきっかけがあって、ラーヤは人を信じることができなくなってしまうんです。私自身も“本当かな?”と、すぐに人を信じることができないタイプ。でも、声を演じているうちに友達や初めて会った人でも自分から信じてみようと思うようになりました。まず、自分から心を開いてみないと、相手も信じてくれないですよね」ラーヤへの抜擢だけでなく、今年、大きな飛躍を感じさせる吉川。夏には大人気コミックの実写映画化でヒロインを演じる『ハニーレモンソーダ』の公開が控え、先日は連続テレビ小説『おちょやん』で演じた主人公の千代と同じカフェーで働く女給・宇野真理の流暢な富山弁が話題になった。「なんとか“だっちゃ”ですよね(笑)。あの方言も難しかった。(千代を演じる)杉咲さんとは以前、共演したことがあったんですが、一緒に笑い合うみたいな仲がいい役ではなかったんです。だから、“やっとできたね”って話をして(笑)。私自身は、真理みたいなあんなにほっこりというか、まったりしている感じはないですね。どっちかといえば、芯のある強い女の子・ラーヤに近いです」■子役からの芸歴やっぱり演技が好き3歳で芸能界に入り、映画やドラマと数々の作品に出演してきた。改めて、演じることの魅力を聞くと、「ふだんの自分なら着ないような洋服を着ることができるし、メイクとか髪型もいつもはやらないものに挑戦できる。強い女の子やその逆と、自分にはないキャラクターになれるのがすごく楽しくて。それが、いちばんの魅力なんじゃないかなと思います」ラーヤにとってのトゥクトゥクのような相棒はいる?3歳になる愛犬です(トイプードルのセナ)。いないと生きていけないと思うくらい好き!毎日、かわいいが更新されていくんですけど(笑)、昨日は私がアイスを食べている横でうずくまってずっとこっちを見ていて。でも、最後まで食べようとはしないでいる姿に、えらいな、かわいいなって思いました。心を許してくれていて、弱点のお腹をすぐに見せてくれる、大好きな存在です。チャンスをつかむための秘訣自分に自信がもてるように努力します。例えば、念入りにスキンケアをしたり爪や髪の毛のケアをしたり。『ラーヤと龍の王国』のオーディションの前日も念入りにスキンケアをして、マッサージで筋肉をほぐしていきました。自分の姿が映る仕事ではないのに(笑)。最後に愛犬に癒してもらってから「よし、行ってくるね」って会場に向かいましたね。映画『ラーヤと龍の王国』3月5日(金)映画館 and ディズニープラス プレミア アクセス 同時公開※プレミア アクセスは追加支払いが必要です。ヘアメイク/窪田健吾(aiutare)スタイリスト/森田晃嘉
2021年02月22日山本美月撮影/伊藤和幸「女優を始めたころは当時、専属モデルをしていた雑誌のイメージもあり、キャピキャピ系の女の子の役が多かったんです。でも私、1度もキャピキャピしたことがなかったので(笑)、演じるのがすごく難しかったんです。最近は、前作のミサキもそうでしたが、わりと悲壮感のある役を演じることが増えてきました。私としては、アクションも好きですが、悪い人にズバッと物を言うような戦う女性の役に憧れますね」■20代前半は遊びより仕事漬けの日々モデルとしてデビューし、女優として活動を始めて今年で10年を迎える山本美月。岡田准一が伝説の殺し屋を演じ、限界突破アクションを披露して話題となったヒット映画の第2弾『ザ・ファブル殺さない殺し屋』では、前作に続きデザイン会社『オクトパス』で働く幸薄ガールのミサキを演じている。「岡田さんもおっしゃってましたが、アクションが激しいぶん『オクトパス』のシーンはほのぼのしていて作品の癒しですね。社長役の佐藤二朗さんが毎回、アドリブを入れてくるんですよ。私はあまりアドリブが上手じゃないのでうまく返せず、ただひたすら笑ってごまかしていました(笑)」女優やモデルとして活躍する一方、プライベートではアニメやマンガをこよなく愛し、時間があると描いたりもしているそう。「小さいころから絵を描くのは好きで、最初はアンパンマンを描いてました。幼稚園のころでしたね。そのあとは四コマ漫画を描いて妹に見せたり、中学のころは天使と悪魔が魔法を使って戦う作品とか、学園ラブものだったりファンタジー。昨年、『魔法少女 山本美月』という書籍を発売したのですが、高校生以来となるマンガを描いたんです。私が魔法少女になり、わが家の犬がしゃべりだしたりするという魔法少女ファンタジー。これがいちばん最近描いたマンガなので、みなさんぜひご覧ください(笑)」そんな山本は、今年の7月で30歳に。昨年、結婚。ますます落ち着いてきたと話す。「20代前半は遊びたいし、しっかり睡眠も取りたいけど仕事、仕事という感じでした。でも、結婚もして、相手の方が同業者だからわかってくれるし、絶対的な味方がいてくれるのは安心感がありますよね。すごく生活は変わったわけではありませんが、穏やかに過ごしたいなって思うようになってきました」もうすぐバレンタイン!「6年間、女子校に通っていたんですよ。だから女子校時代はみんなで友チョコでしたね。容器にチョコを入れて、みんなでつつくみたいな感じでしたが(笑)。小さいころだと、手作りだったのかは忘れましたが、初恋の子にチョコを持って行った記憶はあります。ただ、みなさんが期待するような甘〜い思い出はほぼないです(笑)」近日公開映画『ザ・ファブル殺さない殺し屋』スタイリスト/黒崎彩(Linx)ヘアメイク/遊佐こころ(PEACE MONKEY)
2021年02月06日広瀬アリス撮影/伊藤和幸「子どもを育てるお母さん役は初めて。実際に子ども役の子が泣いてしまい撮影が進まず、それをあやしたりしたこともありました。前と後ろの椅子に子どもを乗せて自転車に乗るシーンもあったんですが、めちゃくちゃ怖くて。世のお母さんはすごいなと思いました。ただ、子どもがいてわちゃわちゃしているのも楽しいかなと思いましたが、私自身の結婚はまだいいかなと(笑)。もうちょっと、ひとりの時間を楽しみたいと思いましたね」こう結婚観を語ってくれた広瀬アリスが出演中のドラマ『知ってるワイフ』で演じているのは、2児の母親である澪。ほぼワンオペ育児にストレスを抱え、マイペースな夫の元春(大倉忠義)にイライラを募らせ怒鳴り散らす恐妻だ。■超恥ずかしかった中学時代の思い出「澪と違って、私は疲れちゃうので普段あまり怒らないです。ただ、怒るときは突発的に怒るのではなく、追い詰めていくタイプ。私を敵に回したらちょっと厄介かもしれません(笑)」物語は“結婚生活、こんなはずじゃなかった!!”と悩む元春がひょんなことから過去にタイムスリップ。大学時代の憧れの女性と結婚し新たな人生を送ることになるファンタジーラブストーリーが描かれる。「もし私自身が過去に戻るとしたら……学生時代に戻ってみたいです。中学3年ごろからお仕事で上京する機会が多く、帰り道に友達と何か買って食べたり、そういう機会もなかったので。卒業アルバムも、久しぶりに登校した際にたまたま体育の授業のときにカメラマンの人が来て撮ってくれたんです。でも、その日、体育着を忘れてしまい借りていたから、全然違う人の名字の体育着を着た写真がアルバムに。超恥ずかしかったですし、それが私の中学時代の思い出です(笑)」■5年たっても毎日可愛いを更新中!元春がタイムスリップした世界では、澪は母親ではなくキャリアウーマンとして新たな運命を送ることに。ちなみに、広瀬にはこんな運命の出会いがあったそう。「5年前くらいにワンちゃんが飼いたいという話になり、(妹の)すずとペットショップに行ったんです。私はフレンチブルドッグが欲しくて、妹はトイプードルと2人の犬種はバラバラ(笑)。それでお店に行ったら、可愛いワンちゃんばかりだったのですが、奥のほうに1匹だけお客さんが来ても何の反応もしない超無愛想な子がいて、“何あの子やばいね”って話していたんです」その直後、2人は一瞬で恋に落ちた。「2人でケースに近寄ってトントンと叩いたらトコトコって近づいてきたんです。その瞬間“ああ、この子だ!”って全然関係のない犬種のチワワにひと目惚れ。名前は“ぱ〜ぷ〜”っていいます。“何であなたは5年たっても可愛いの。毎日、可愛いを更新していくね”と話しかけています(笑)」私をいちばん“知ってる” 芸能人「唐沢寿明さんです。お食事に誘っていただいているのですが、年間を通していちばん会っていて、親戚のおじちゃんみたいな存在です(笑)。いろんなことを客観視されてますし、アドバイスも的確で、何か迷ったら相談してます。私とか“唐沢会”に来る方たちはよく “信頼と実績の唐沢さん”と言ってます(笑)。それくらい何でも話せる存在です」『知ってるワイフ』フジテレビ系毎週木曜夜10時〜ヘアメイク/宮本愛スタイリスト/朝倉豊
2021年01月21日THE ALFEE撮影/伊藤和幸コロナ禍でライブツアー中止、恒例の夏イベントは初めて配信ライブで行ったTHE ALFEE。最新シングル『Joker-眠らない街-』は、かつて経験したことのない時代にメッセージを込めたバラードだ。ウィズコロナの1年と来年への展望に思いを馳せる“切り札”とは──。■僕にとって切り札は「アルフィー」──新曲『Joker-眠らない街-』は、6年ぶりのドラマ主題歌。『記憶捜査2~新宿東署事件ファイル~』(テレビ東京系)で北大路欣也さん主演ドラマでした。高見沢俊彦(以下、高見沢)新宿を舞台にしているので都会的なバラードというリクエストに沿って作りました。刑事ドラマなので、なぜ罪を犯したのか、犯人は悔い改める。人生にはいろんなアクシデントがつきもの。抗いながらも、どう未来につなげていくか、メッセージ性が強いバラードにしたいと思って作りました。タイトルのジョーカーは、切り札を意味しています。人生の切り札は、そうたくさんはないと思う。今のコロナ禍で、自分たちの切り札を探していかないとダメなんじゃないかという気持ちもありました。──メンバーそれぞれの切り札は?高見沢僕にとって切り札は常に変わっていない、アルフィーです。これは永遠。学生時代から付き合って、仲間としてやってきているので常に切り札です。ただ、いまは切り札を使う場所が全然ない。3人とも歌って、演奏して、コンサート活動をしてきたグループなので、そこを生かせないのはつらい。その切り札を早くいかせるようなときがくることを今は祈るしかないです。坂崎幸之助(以下、坂崎)高見沢と桜井ですね。自分ができないこと負けそうなときに、桜井を出そう、高見沢に登場してもらおう、と。よく言うんですが、3人じゃないとここまで長くは活動できなかった。たぶん、偶然が重なって、1人ではやっていけない3人が、この業界で40数年もやれたのは、ありがたいことだと思う。ピンチのときに3人が一緒に切り札になるときもあるけど、ピンチのときにそれぞれの切り札が効いて、うまく乗り越えてきたんだと思います。■音楽は決して不要不急のものではない桜井賢(以下、桜井)コロナ禍になるとは思わなかったけど、なってしまったからには正面からぶつかっていかないといけない。世界中の人が今までの生活が成り立たなくなって、誰もがいろんなことを考えていると思う。そういう今こそ、自分の中に切り札を探さないといけないときじゃないか。切り札がない人もいるけど、多くの人はそこを考えて乗り越えるために日夜、努力していると思う。今の状況を逆手にとって、自分にとっての切り札を見つけていくことも必要なんじゃないか。日本中を回ってライブをみんなと一緒に楽しむことが、まったくできない世の中になってしまった。そこをどう乗り越えていくのか。できることを模索し、考えていくことだと思います。──模索してできたのが、8月に行った初めての配信ライブ。その感想は?高見沢夏のイベントは、ずっとやってきた。今の時代だから配信を使ってできることはありがたいけど、実際にやってみると観客のパワーというのにかなり助けられてきたと感じましたね。これまでは派手で重量感のあるギターの重さを感じたことはないけれど、無観客ライブで初めてギターが重いなと感じました。コンサートは(観客との)キャッチボールなので、それができない配信ライブは何回もできるものではないと思いましたね。そして、音楽は決して不要不急のものではないと改めて感じました。最初に言われたときは、ちょっと落ち込みましたけど、やってみてそんなことはないと身をもって感じました。坂崎お客さんがいるといないでは疲労の質が違いました。テレビ収録で20数曲やっているような感じ。(収録は観客の)反応がないから1曲でも疲れるし、どこがいいのかもわからない。(ライブは)お客さんが喜んでくれれば、僕らも多少ミスったとしても、お互いのキャッチボールだから声援や拍手があると伝わったなと思える。高見沢あとMC。しゃべってもウケているのか、いないのかというのがない。MCは僕らにとって重要なひとつなので、そこも苦労しましたね。坂崎ツアーだと30公演ぐらいやって、セットリスト(曲目)は基本的には変わらない。それを無観客で30本やれといわれたら、絶対にできないね。前日と同じセットリストでも、お客さんがいるから全然違う気持ちでできる。高見沢配信ライブは何回もできませんね。桜井今まで2800本近くコンサートを続けてこられたのもお客さんにパワーをいただいたから。もうひとつは(コロナ禍で)生活がガラッと変わった。リハーサルを10日ぐらいして、本番を半年重ねてきて、夏のイベントをやるというリズムがあった。ツアーをやりながら自分の身体やのどを鍛えている。野球選手と同じで試合勘がないとダメ。それと似ているところがあって(ライブが)まったくないのは結構つらい。ライブを続けているから歌に自信も出てくる。本番は練習の何倍も力を使い、その積み重ねでライブの声になれる。配信はあくまで単発。本番をやることが自分たちにとってどれだけ大切かを健康面含めてすごく感じていますね。■あと4年でデビュー50周年──体調にも影響が?高見沢緊急事態宣言(4月)のころはツアーがすべて中止になってしまい精神的、肉体的、両方に影響した。ニュースを見ていると、事実関係や悪い状況ばかりで希望がなかった。へこみましたけど、気持ちを切り替えて希望を作ろう! と。それには新曲しかないと思って、緊急事態宣言のときは猛烈に曲を作りました。何か新しいものがあれば次につながると思った。コロナ禍でツアーがないことで、創作活動に火がついた。小説も新たなものを書き始めました。あと4年でデビュー50周年、そこまでは何とか頑張っていかないといけないので。バンドを組んでから途中で1回も休んでいないし、活動停止もない。同じメンバーでやっている矜持、誇りがあるので新曲があったほうがより未来が見えるかなと思います。坂崎ツアーが延期になった春ごろは心身ともに調子が悪いなって。動かないといけないと思いながらもどうすればいいのか、縄跳びかな、とか。夏を過ぎてからは生活に春ほどの違和感はなくなってきている。でも、これを当たり前にしない。来春にもツアーを再開するときのために、ライブ用の身体に戻しておかないといけないと思っています。高見沢来年は、ライブを何とかやりますよ!年末年始の過ごし方は?例年は、年末にコンサートを行い、年明け1月は活動がないため静かなお正月を迎える。3人で一緒に過ごす予定は?「ないない」(高見沢)、「気持ち悪いですよ。でも、配信の企画としてはありかも(笑)」(坂崎)衛生管理はバッチリ!「(コロナ禍以前から)ツアー中は移動のときにマスクをずっとしていて、マスクや除菌用品もファンからいただき、衛生管理は行き届いていたグループ」(高見沢)。新曲の限定盤のカップリングにはヒット曲『星空のディスタンス(抗コロナ編)』を収録し、歌詞の一部が変更されている。「ディスタンスが巷で騒がれるのは初めてですから、新たに収録しました」(同)
2020年12月25日中村勘九郎撮影/伊藤和幸「声優をやると決まったときは、うれしくて家族にすぐ言いました。“ポケモンやるよ”って。みんな大好きなのでめちゃくちゃ喜んでくれましたね。そのあと情報が解禁されると、子どもの友達の間でも話題になったようで、その話を誇らしげに僕に語ってくれるんですよ。カッコいいお父さんっていいじゃないですか。そんな子どもたちの姿を見て、“ああ、いい仕事したな”って思いました(笑)」■思わず収録を止めてしまった理由とは?歌舞伎だけではなく、昨年は『いだてん〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』で2度目の大河ドラマに出演するなど幅広く活躍。私生活では2児の父である中村勘九郎。この冬は、ポケモンと人間の親子愛を描いた『劇場版ポケットモンスター ココ』で、少年・ココを育てた幻のポケモン、ザルード役で声優に初挑戦した。「やってみて改めて声優さんってすごいなと。参加したおまえが言うなと言われるかもしれませんが、おいそれと受けちゃいかんなと思いました(笑)。あと、アフレコのときにピカチュウとかみなさんの声が先に吹き込まれていたんです。思わず感動して “わー、すげー!!”って言葉が出てしまい、収録を止めてもらいました(笑)」自身も昔からポケモン好きで、高校時代には劇場版の1作目『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』を見に行ったほど。「その作品が昨年3DCGとなって公開されたので、家族と見に行ったんです。高校時代なんて結婚もしていなかったし、子どものことなんて想像もつかなかった。それが20年以上たち、劇場に妻がいて子どもがいて一緒に見たというのは、とても幸せだなと感じましたね」■中村家、定番の年末年始の過ごし方今年は声優だけではなく、歌舞伎のライブ配信にも初挑戦するなど、コロナ禍の中でも精力的に活動を続けた。「とにかく腐らずにいなきゃいけないなというのを強く思った年ですね。あとは、自粛期間中に子どもたちとたくさん触れ合えたことは貴重でした。踊りの稽古を3本くらいやったんですけど、1本目の踊りは振りを覚えるまで時間がかかったんですが、2本、3本と続けていくことによって、振りの覚えがすごくよくなっていったんです。本当にスポンジのようにすべてを吸収していく彼らを見て、“ああ、これが成長なのかな”と。子どもから学ぶことが多かったですね」そんな中村家の年末年始の過ごし方の定番とは?「年越しは必ず浅草の浅草寺に除夜の鐘を打ちに行っています。今年はたぶん無理でしょうけど。あとはご挨拶回りをしたり、お弟子さんたちが集まって、一門で新年会をしています。うちは正月にカレーが出るんですが、それがめちゃくちゃうまいんですよ。なぜカレーが出るのか理由はわからないんですが、子どものころから必ず。今度のお正月はみんなで集まるのはやめるんですが、カレーだけは出してほしいなと思います(笑)」映画の初めての思い出「初めて見たのは、『ドラゴンボール』か『ドラえもん』か……たしかアニメだったと思います。妻との最初のデートで見たのが『レクイエム・フォー・ドリーム』。これがドラッグ中毒の話でファーストデートに選ぶ作品ではないなと反省した思い出が(笑)。あと父と2人きりで最初に行ったのが『マーズ・アタック!!』で、父がひたすら爆笑していたのを覚えています」『劇場版ポケットモンスター ココ』12月25日(金)より全国東宝系にて公開(C)Nintendo・Creatures・GAME FREAK・TV Tokyo・ShoPro・JR Kikaku(C)Pokemon (C)2020 ピカチュウプロジェクトヘアメイク/宮藤誠スタイリング/寺田邦子
2020年12月24日川崎麻世撮影/伊藤和幸「ジャニーさん、メリーさんにずっと申し訳ないという気持ちがありました」そう語るのは、川崎麻世(「崎」は正しくは「立さき」)。ジャニーズ事務所を離れて30年。昨年7月に亡くなり、同9月に東京ドームで行われたジャニー喜多川さん(享年87)のお別れ会に出席。そこで、1989年に退所して以来、顔を合わせることができなかったメリーさんに謝罪した。川崎は当時、交際していた恋人のカイヤさんが妊娠、マスコミなどの喧騒を避け、静かな環境で出産させたいとアメリカ行きを決断。13歳でデビューした大阪出身の川崎にとって、ジャニーさんとメリーさんは“東京のお父さん、お母さん”という存在で「大事にしていただいたので、感謝しかないです」。そのふたりに酷な報告をし「すごいショックを受けていました」。光GENJIが人気を集めていたころで、後輩たちへの影響やアイドル事務所のイメージを考慮、話し合いの末に退所した。退所後は、舞台やミュージカルを中心に活動。ジャニーさんやメリーさんに連絡をとることがないまま、月日が流れた。あるとき劇場で偶然ジャニーさんと会い「YOU、元気?たまには電話しなよ」と声をかけられ、電話番号を交換。しかし、「何を言ったらいいのかわからないし、いまさら“ごはん連れてってよ”とも言えない」と連絡をすることができないままになっていた。■スカウト翌日に野音に出演川崎はデビュー前、大阪のテレビ番組にレギュラー出演し、大好きな西城秀樹さんの歌フリまねが評判になっていた。作曲家の平尾昌晃さん主宰の歌謡教室に通っていて、夏休みにCM撮影で上京した際に、平尾さんからジャニーさんを紹介され、スカウトされた。「合宿所に遊びに行ったら“YOU、野外音楽堂に出ちゃいないよ”と言われて、翌日には日比谷の野外音楽堂で歌っていました。(東京にいた)1週間、ジャニーズのタレントとして紹介され、ドラマやバラエティー番組の出演が決まっていった」と川崎。夏休み後、再び上京。正式にジャニーズ事務所所属となり、’77年に歌手デビューした。4人組のフォーリーブスが解散( ’78年)し、看板アイドルになったが「事務所が氷河期みたいな時期だった」と振り返る。20歳を迎えたころ、後輩のたのきんトリオが大ブレイク。川崎は「アイドルにしがみついていてもダメ。ステップアップしたい」と、子どものころから夢見ていたミュージカルに挑戦し、オーディションで劇団四季の『キャッツ』や、海外ミュージカル『スターライト・エクスプレス』への出演を射止めた。ジャニーさんは「武道館を一夜にして満席にするよりも、ひとつの劇場を毎日、満席にする役者になってほしい」と応援、メリーさんは「オーディションを受けなさいよ。麻世が、そのための勉強に使うお金は惜しくない」とバックアップしてくれた。■メリーさんからハグとキス心残りを抱え続けていたなかで届いたジャニーさんの悲報。お別れ会でのメリーさんとの逸話を明かした。「ちゃんと謝りたくて、メリーさんに本当にごめんなさい。かわいがっていただいたのに、いろいろとご迷惑をおかけしました」と、頭を下げた川崎に、メリーさんは「そうよ。でも頑張りなさいよ。今度、行く?」と飲む仕草をした。そして、川崎を近くに寄せ、ハグと頬にキスをしたという。「メリーさんが“I LoveYou”と言ってくれて……。ドーンと肩の荷が下りました。ジャニーさんが、そういう機会を作ってくれた」と目を潤ませた。「外の厳しさを知って、自立して生きていくことができたので(退所は)後悔してないです。(最近、ジャニーズ事務所を退所した後輩たちには)大人になって、新しいことにチャレンジしたいとうずうずしているんじゃないかな。それぞれの生き方があるけど、心の中にはジャニーさんへの思いがずっとあると思います」川崎麻世(かわさき・まよ)ジャニーズ事務所退所後、30年所属した事務所をやめ今年7月、新事務所に移籍した。「(コロナ禍の)ホームステイ期間中にいろんなことを考えての決断です。令和の時代を生き抜きたいなと思い、間口を広く活動したいです」。これまでは舞台中心だったが、映像にも意欲的で、初主演映画『ある家族』が来年6月公開予定。舞台『夜明けのうた』(来年1月17日~東京・渋谷区文化総合センター大和田さくらホール)に出演
2020年12月21日16歳で迎えた父の死、「余命1か月」と宣告された姉の看取りを経て、在宅医療の道を切り拓いてきた秋山正子さん。そんな訪問看護のパイオニアが成し遂げたかったのは、がんと生きる人たち、その家族や友人までもが、安心して専門家に相談できる居場所づくり。病院でも自宅でもない、「第2のわが家」で、さまざまな声に今日も耳を傾ける。ひとりひとりの命と向き合い、共に考え、伴走するために。「マギーズ東京」共同代表訪問看護師秋山正子さん撮影/伊藤和幸■同じ病名でも、症状や必要な治療はそれぞれ違う東京・豊洲の、海に近いひらけた空間に、木々に囲まれた中庭のある小さな家が建っている。木の看板には、「maggie’s」(マギーズ)の文字。中に入ると、庭を眺められるソファ、大きな木のテーブル、対面で話ができる椅子……。スタッフの女性が来て、「お好きなところにおかけください」と言い、飲み物を出すと、すっといなくなる。放っておかれる心地よさと、見守られているような温かさ──。ここ、『マギーズ東京』は、がんの当事者やその家族、友人、遺族、医療者など、がんに影響を受けるすべての人が安心して看護師や心理士に相談できる場として存在している。予約不要(当面は事前連絡が必要)で、お金もかからない。毎月500人~600人という来訪者からは、こんな声が聞こえてくる。「迷いを聞いてもらえた。いくらでも迷いは出てくるけれど、少し楽になった」「“そこに行けば話ができる”という安心感は、何ものにも代え難いと思います」「治療中、マギーズの存在にとても助けられていました。唯一の心安らげる場所でした」マギーズ東京の共同代表兼センター長を務めるのは、看護師の秋山正子さん。同じく共同代表として名を連ねる、元・日本テレビ記者の鈴木美穂さんは、マギーズを「秋山さんあっての場所」と話す。「私は24歳のときに乳がんを患ったんですが、がんを経験した当事者として、今でも秋山さんに助けてもらうことがあります。がんで友人や大切な人が亡くなり起き上がれなくなったときに“生きていることが苦しい”と、ここに電話をしました。秋山さんは“つらいね”“お母さんが作ったスープを用意して、まず、飲んで”と言ってくれて。冷静に、あなたは落ち込んでもおかしくない状態にあるのよ、と紐解いてもらうと、救われるんです」(鈴木さん)がんは同じ病名がついていても、症状や、必要な治療が人それぞれ違う。患者会では悩みを分かち合える心地よさもあるけれど、専門的な知識を持った人に相談をしたいこともある。でも、専門知識を持った人に会えるのは診察の時間だけ。だから「マギーズのような場が大切だ」と、鈴木さんは実感を持って語る。そんな当事者たちに寄り添い、小柄な身体ながら、大きな包容力を持つ秋山さん。その温かい言葉が多くの人を救ってきた。不安を持つ当事者やその家族が話を始めるまで待ち、何を話しても受け止め、否定しない。そして、話をした人は、自然に、人生を自分自身で歩いていく力を取り戻していく。穏やかな人柄である一方で、思いを形にしていくパワフルさを持つ秋山さんに、たくさんの人たちが惹きつけられてきた。そんな秋山さんがマギーズにたどり着くまでには、在宅ケアや訪問看護のパイオニアとして、多くの当事者とその家族に寄り添ってきた道のりがある。■看護師への道を決定づけた「父の死」1950年7月、秋田県秋田市土崎港の小さな町で秋山さんは生まれた。9人きょうだいの末っ子。父は自宅で税理士として顧客を迎え、母はそれを手伝っていた。友達が遊びに来たり、泊まっていったり、「常に人がたくさんいる家」だった。秋山さんが高校に入学した16歳の年に父は亡くなった。胃のポリープ手術をするために開腹したところ、がんが進行していたため、胃の5分の3を切除。まわりのがんは、触らずに蓋をしたようだった。その時点で、余命3か月、長くて半年と告げられていた。当時は昭和40年、当人への告知も、抗がん剤治療もなかった。母と兄にだけ余命は告げられ、家族の中で、父の状態を知っている人と知らない人がいる中、退院後は母が介護を行った。秋山さんがそのころを振り返って言う。「私は、父ががんだとは知らなかったんです。やわらかいものを食べていたことは知っていたんですが、吐いたりするわけでもなく、“いずれ元気になるんだろう”と思っていたんですね」ただ、無口で眼光鋭い明治生まれの父が手術後は人が変わったように、母の後ろをついて回り、ひとり言を言うようになった。あとになってわかったことだが認知症を発症していたのだ。ぶつぶつ何かをつぶやきながら玄関の外に出ていく父に、「どうしてこんな状態に?」と不思議に思い、バカにしたこともある。そんな父を母は当たり前のように介護しつつ、秋山さんには「父親がどんな状態でも、尊敬しなさい」と諭した。父が亡くなったのは、月曜日。その前日に布団でヒゲを剃っていた父が、翌日に死ぬとは思っていなかった。亡くなる日の朝、母は秋山さんに「道草せず、まっすぐ帰ってきなさい」と言った。もともと、道草をするタイプではない。何かあるのかな、と思いつつ「はい」とだけ答え、家を出た。「帰宅すると、母が夕飯の支度をしていたんですが、その日は魚だったんですね。母は“魚はしばらく食べられないから、食べておきなさい”と言いました。今にも亡くなりそうな父を察知しながら、しばらく仏事の精進料理のみで魚が食べられない私たちのことを、気にかけていたんでしょうね」早めに帰宅した家族や近所の医者が、父の枕元に集まった。兄が、何かを知っているかのように泣く。父はゆっくりと息を吸って、吐いて、それを何度か繰り返した後、次の呼吸が途絶えた。「え、これが、人が死ぬっていうことなの?」と、秋山さんは思った。まるで何かの儀式のようだった。看護師の義姉が父の身体をきれいにするのを手伝いながら、突然の死を前に、16歳の秋山さんは戸惑っていた。「四十九日を迎えたころ、母が私に“お父さんは、がんだったのよ”と言いました。“余命3か月と言われたのに1年半かけて世話をしたから、悔いはない”と。でも私は“知っていたら、ていねいに接したし、もっと手伝ったのに”と思ったんです」父の葬儀にはたくさんの人が参列した。当時の平均寿命は69歳。70歳で亡くなった父は、家族に看取られ、多くの人に見送られ、幸せな最期だった。命を奪ったのは、人々が恐れているがん。秋山さんは16歳にして、末期がん、認知症、高齢家族介護、家族の看取りのすべてを見ていた。その父の死がきっかけで、秋山さんは看護師を目指すことになる。■子育てをしながら働く看護教員に東京の聖路加看護大学に進学した秋山さんは、寮生活を始めた。1学年40人で、全学生が150人くらいの小さな大学だったが、実習がたくさんあり、充実したカリキュラムだった。当時は第2次ベビーブームのころで出産も多く、周産期看護にも憧れ、看護師、助産師、保健師すべての資格を取得した。大学卒業の前年に、京都で働いていた先輩から声をかけられ、インターンシップとして京都にあるキリスト教系病院の産婦人科で働いた。患者中心を貫いている病院の方針に惹かれ、秋山さんは卒業後もそのまま働くことにした。4年間、忙しい日々を過ごし、病棟の副看護婦長も務めたが、大阪大学の先生から「看護教育に関わらないか」と誘われ、3年制の医療技術短期大学部の臨床実習の助手として、京都から大阪に通うことに。学校で講義をするよりも、病院に出向き、内科・外科など4か所を回るような実践的な教育の現場。この当時の学生とは、今でも付き合いがある、と秋山さんは言う。また私生活では、京都大学で建築の勉強をしている大学院生と結婚。旅行で秋田に来たときに、秋山さんのクラスメートと知り合い、実家に泊まったことのある人だった。年齢がひとつ年下だったからか、夫の親戚には反対されたが、母は「近くにいてほしい」という思いも持ちつつも、賛成してくれた。その後、京都から大阪大学に通う生活が大変であったこともあり、もともと勤めていた病院付属の看護専門学校でのポストも空いたため、京都で教員になった。秋山さんは不妊に悩み、子宮筋腫が見つかり手術を受けた時期もあったが、幸いなことに1983年に1人目の子どもを授かり、勤め先で出産。その4年後にも2人目を出産した。妊娠中は、学生たちにお腹を触らせ、自分のお腹の胎児の心音を聞かせることもあった。産前6週間、産後8週間だけ休み、学校の横にある保育園に入れながら教員を務めた。子育てに追われながら、公私ともにあわただしい日々を送っている最中、秋山さんに大きな転機が訪れる。■余命1か月の姉に行った在宅ケア昭和から平成に元号が切り替わった1989年のある日、電話が鳴った。神奈川県に住む、いちばん仲のいい2歳上の姉の夫からだった。姉の夏バテが元に戻らず、病院に行ったら、肝臓が腫れていて、そのまま入院。CT検査で肝臓がんが見つかり、手をつけられない状態で、余命1か月だという。「どうしたらいいだろう……」と言う義兄。秋山さんは、急きょ休みをもらい、姉のもとへ向かった。まず、病院で姉のCT画像を確認。撮影された画像のすべてにがんがあった。この散らばり方なら手術はできないし、抗がん剤もつらいだろう。当時、秋山さんには緩和ケアの知識はあったものの、日本には全国2か所しかホスピスがなかった。姉には中学2年生と小学5年生の子どもがいた。子どものそばに少しでも長くいさせてあげたいと思った秋山さんは、「連れて帰ります」と病院に申し出た。24時間態勢の往診や訪問看護の仕組みはなく、在宅ケアも浸透していなかった時代。ところが、偶然読んだ「家庭で看取るがん患者」という新聞記事に、「ライフケアシステム」という東京・市谷にある組織が、在宅医療・看護のバックアップをしてくれると紹介されていた。神奈川県にもないかと探したが、近くにはひとつもなかった。ライフケアシステムに電話をして相談すると、「行きますよ」。秋山さんは、姉の在宅ケアのためのチームを作った。必死の思いでつないだ仕組みだった。そこから毎週末、新幹線で京都と神奈川県を往復する日々が始まった。いちばん仲のいい、余命1か月の、具合の悪い姉のところに行くんだ……。京都から向かう新幹線の中で、そう気持ちを切り替えた。平日は、テレビ電話で義兄とやりとりをしながら「姉が家にいるかけがえのない日々」をつくる努力をした。「医療者である専門職と、家族や近隣の人というチームで行う在宅ホスピス・ケアでした。大切なのは、チームの真ん中にいる患者を侵食しないこと。そう、姉のことを通じて教えてもらいました」しばらくして、姉の病状が重くなり、病院に入院。意識がなくなって10日ほどたち、穏やかな顔で姉は旅立った。最後まで家にいられたわけではなかったが、家族と自宅で5か月過ごすことができ、安らかな死に、これでよかったのだと秋山さんは思った。■自転車操業で切り拓いた訪問看護の道義兄は、姉の看病のために有休を使いきり、ペナルティー覚悟で仕事を欠勤していたが、看護による欠勤を職場は認め、当時は珍しい「介護休暇制度」を会社に取り入れることになった。秋山さんもまた、「こういった在宅ケアが必要な人がいる」と姉の死をきっかけに強く思い、10年勤めた看護教員をやめ、訪問看護を学ぶことにした。姉の死後、秋山さんは東淀川区の病院の訪問看護室に研修費を払い通い始めた。そこで訪問看護のプロである保健師の高沢洋子さんに出会う。淀川堤を自転車で風を切って移動する高沢さんに「いちばん使えないのが学校の先生よね」と、最初に言われてしまった元看護教員の秋山さん。それでも、勉強したくて必死について回ると、2週間後には「もうお金(授業料)は払わなくていいわよ」と言われた。訪問看護師として認められた第1歩だった。それでも「鍛え直す」という意識で1年間、学び続けた。その後、1992年に、夫の転勤で東京・市谷に引っ越しをした。秋山さんは、姉の在宅ケアでお世話になった市谷の「ライフケアシステム」へ働きたいとお願いに出向くと、ちょうど老人訪問看護ステーションを立ち上げようとするところだった。秋山さんは無事採用され、1日に4件ほど回る訪問ケアをスタート。まだ訪問介護ステーションは数が少なく、市谷から東京郊外の三鷹市、千葉県市川市など、遠方にまで出向くこともあった。そのため、午前中に1件だけ、という日もあった。2000年になり、介護保険制度が導入された。それ以前は公益法人格を持っていないと医療事業はできなかったことから、白十字診療所とライフケアシステムが組み、白十字訪問看護ステーションが運営されていた。しかし、介護保険制度ができたことにより、ライフケアの会員でなくても、介護保険を使えば訪問看護が利用可能に。そのため門戸は広がり、地域でのニーズが高まり、近くの医師から紹介された人にもケアを届けられるようになっていった。しかし、これからというときに突然、医療法人の理事長が倒れた。白十字診療所を閉じなくてはならなくなってしまった。母体法人がないと、訪問看護はできない。丸ごと白十字訪問看護ステーションを買い上げてくれるところを探したが、そんなところもない。どこかの病院にくっつくにしても、その病院の方針に従うしかなくなる。白十字訪問看護ステーションをなくさないため、秋山さんは代表取締役として’01年、訪問看護・ヘルパーステーション事業を行う「ケアーズ」という会社を立ち上げた。現場での「実践」が好きだったが、そうも言っていられない。立ち上げ資金は借金でまかなうしかなかった。「無担保で実績なしで、女性であるあなたがお金を借りるのは難しい」と言われたが、ふと横を見ると、大学教授であり、男性である夫は「ばっちり」。秋山さんは夫に「この1回だけ」と頭を下げ、銀行に面接に行ってもらい、立ち上げ資金を確保した。医療保険も介護保険も、報酬は利用時から2か月ほど遅れて入る仕組み。ケアーズの立ち上げに一緒に関わった看護師たちは、全員が経営者の気持ちで、自転車操業のペダルを必死で漕ぎ続けた。浦口醇二さんは、このころ秋山さんと出会っている。白十字訪問看護ステーションを利用し、母親を在宅で看取ったのだ。「おふくろは、センシティブな人でね。“この人なら大丈夫”と紹介してもらったのが秋山さんでした」(浦口さん)浦口さんの母親はソプラノ歌手だった。それを意に介さず、ある日、秋山さんは浦口さんの母親を励ますために、賛美歌を歌った。「秋山さんは相手にとっていいと思ったら、やるんだよ。温かい心と強い意思というのかな、その両方を見た。歌手の母からしたらさ、“私の前で歌うの!?”っていう感じだったかもしれないけどさ」と、浦口さんは微笑む。その縁が続き、都市計画が専門だった浦口さんはのちに、秋山さんの事業の建築の設計に関わっていくことになる。■身体に触れ、言葉がふっと入ってくるケアまた同じころ、白十字訪問看護ステーションで秋山さんと出会った看護師の服部絵美さんは、現在、白十字訪問看護ステーションの所長を務めている。「2003年、私は看護大学の4年生で。地域で働きたいと担当の先生に伝えたら、白十字訪問看護ステーションを紹介されたことがきっかけでした」(服部さん)面接に行くと、その日のうちに「訪問看護に同行しない?」と、秋山さんに声をかけられた。大学病院で働いていると、医師の指示に従って決められたとおりに動くのが看護師の仕事。しかし秋山さんは、看護師としての判断を医師に伝え、同意をとり、そのケアを施す。よりよいケアを追求する姿に、服部さんは刺激を受けた。秋山さんは、手を使ったケアがとても上手だという。「秋山さんは、患者さんに触れながらお話をするんですが、言葉がふっと身体に入っていくように見えるんです。職人のよう。当時20代だった私にはできないな、と思いました。その技術を盗ませていただくには、どうしたらいいだろう、と考えながら同行していました」(服部さん)服部さんには、印象に残る秋山さんのケアがある。訪問看護をし始めたばかりで、102歳の高齢の女性を受け持っていた服部さんは、在宅の看取りの経験もなかった。女性は、老衰で食事もできず、熱で苦しんでいた。病院だと、血圧が低くなってしまったら解熱剤は使わない。しかし、亡くなる間際に、秋山さんはさっと来て、高熱で苦しむ女性と、看取る家族のつらそうな面持ちを見ると、すぐに医師に連絡をとり、座薬の解熱剤を使った。「最期は、その解熱剤のおかげで、穏やかに亡くなられたんです。ご家族も、“老衰で大往生だよね”と。ご本人の最期の迎え方、ご家族がどう思うか、ということを秋山さんは大切にしていました。その経験が、次の家族へとつながっていく。家での看取りを希望すれば、かなえられる地域にしていく、ということを大切にされているんです」その一方、「看護業界で秋山さんはカリスマ的存在だけど、ちょっと抜けているところもあって、人間味あふれているから、惹きつけられる」と、服部さんは微笑む。もうひとり、服部さんと同じころに秋山さんと知り合ったのが、看護師の秦実千代さんだ。出会いのきっかけは、秋山さんの講演会だった。講演後、感銘を受けた秦さんは、秋山さんのもとへ話をしに行った。「何をやっているの?」と尋ねられ、当時、非常勤の看護教員をしていた秦さんはそう告げ、連絡先を渡した。1週間後、秋山さんから直接電話があった。「難病の方が、毎日訪問が必要で、1日だけでもいいから、勉強にもなるから、やってみませんか?」と。そこから秦さんは、秋山さんと一緒に訪問看護の現場へ入っていった。もう20年前だが、「貴重な経験だった」と秦さん。今で言う「退院調整」(入院中の状況を訪問看護で生かすため、入院先を訪れて医師や看護師から話を聞くこと)もすでに行っており「一緒に、病院に利用者さんのことを聞きにいこう」と誘われたこともある。また当時、秋山さんは短パンとTシャツ姿でケアに入ることもあった。「秋山さんは、入浴介助も、小さな自分の身体を上手に使ってやるんです。本当に心のこもったきれいなケア。がんの方の家での看取りも、緊張している方の身体にふっと触れて、ほぐす感じ。それに秋山さんの言葉って、内側からあふれ出てくるようで、いつも感動するんです」■マギーズとの出会いから、暮らしの保健室へ2008年、秋山さんは運命的な出会いをする。『国際がん看護セミナー』にプレゼンテーターとして参加した際、イギリスの『マギーズ・キャンサー・ケアリングセンター』(以下、マギーズセンター)のセンター長と一緒に登壇したのだ。マギーズセンターは1996年にイギリスで創設された無料相談支援の場で、がんに影響を受けるすべての人に開かれた「第2のわが家」だった。マギーズセンターのような居場所が日本にもあれば、多くの人が救われる。「旧来のがん治療が変化して、外来中心になってきました。そうやって治療してきた患者さんが訪問看護に切り替えるときには、もう次の手立てがなかったりする。すぐに亡くなってしまう方も多い。もっと早い段階から、訪問看護の情報が届いていたら……と思っていました。病院では治療の相談はできますが、生活や仕事、家族という“暮らしの相談”が欠けてしまうんです。どうしたらいいんだろうと考えていたときに、マギーズセンターに出会い、必要なのはこれだ!と思ったんです」以来、秋山さんは、マギーズのような場所を日本で作りたいと、いたるところでつぶやくようになった。’09年春には、実際にイギリスのマギーズセンターを仲間と視察。感銘を受けた秋山さんは、前出の浦口さんにも「イギリスのマギーズセンターに行ってみて!」と勧め、浦口さんは同年9月に訪英している。さらに’10年2月には、イギリスからマギーズセンターの最高責任者を日本に呼び、話をしてもらった。マギーズセンターでは、医師は後ろに控えて、看護師を信頼していた。がんの当事者が気軽に訪れ、安心して話をしたり、必要なサポートを受けたりするなかで、自分の力を取り戻すことを目指していたのだ。どうしたらこのような施設を日本に作れるだろう、と試行錯誤をする中、秋山さんは、「暮らし慣れた新宿で最期を」というシンポジウムで在宅の看取りの講演をした。すると、東京・新宿区の民生委員をしている人から「本屋をやっているところを安く貸すから、中を改装して、あなた方の目指す社会貢献できるものを作ってみませんか?」と、声をかけられたのだ。こうして都営団地・新宿戸山ハイツの一角に誕生したのが、’11年7月にオープンした『暮らしの保健室』。地域住民の暮らしや健康、医療、介護の総合的な相談施設として、大切な居場所になっている。この「暮らしの保健室」は、’17年のグッドデザイン賞を受賞している。室内がひと目で見渡せる入りやすい玄関、オープンキッチンに大きなセンターテーブルも、ひとりになれる空間もある。窓からは街路樹の緑が見える。家庭的な雰囲気は、イギリスのマギーズセンターを意識したもの。ここは浦口さんが設計した。「人の心をほぐすのは人の力だと思っていたけれど“その力は、建築や造園にもあるんだ”と、イギリスのマギーズであらためて思いました」と、浦口さん。秋山さんが続ける。「マギーズを日本に作りたいという思いは、形にして見せないと信用してもらえないだろうと考えていました。実際に見て、暮らしの保健室のスタイルはいいね、と知ってもらいたいと思ったんです」暮らしの保健室で毎週、ボランティアをしている吉川厚子さんは、自身も妹を在宅で看取った利用者のひとりだ。「暮らしの保健室では、秋山さんにお世話になった人が“お手伝いしたい”と集まるんです」(吉川さん)25年前、吉川さんの妹は乳がんが転移し、抗がん剤治療を自分の意思でやめて、自宅で半年過ごしたのちに亡くなった。当時、妹の息子は中学1年生。余命3か月と言われたが、半年以上、静かに家族と過ごすことができた。昨日まで元気だったのに……というほど、あっけなく亡くなったが、ホスピス・ケアがうまくいくと苦しまずにストンと逝ってしまうものだという。■日本にマギーズが絶対に必要な理由その後、吉川さんは秋山さんのもとで在宅看護の手伝いを始めた。「秋山さんは、末期がんの患者さんを、大事な人のお葬式へ連れていったことがあるんです」両脇にペットボトルをあて、熱を冷ましながら患者に同行し、悔いが残らないよう望みを叶えた。「今なら、この患者さんにはできる」という、看護師としての見極めに吉川さんは感嘆した。「すごい人なのに、“私は地域のおばさんでありたい”って秋山さんは言う。私もそうありたいなと思うんです」(吉川さん)’15年には東京・四谷に、訪問看護や介護サービスの拠点『坂町ミモザの家』をオープン。母親と叔母を在宅で看取った利用者さんから、「1階と2階を使ってください」と申し出のあった家だ。このミモザの家も、やはり浦口さんが設計した。ショートステイ機能のある施設として、現在、前出の看護師・秦さんが管理者を務め、地域の人々にとって重要な役割を果たしている。「ミモザの家は、体調を整えるために利用する方もいれば、在宅中心で過ごしてきた方が、集団に慣れてホームに入る練習に利用することもあります。どの施設も、ご縁が向こうからやってきて“じゃあ、やりましょう”という感じなんです」(秋山さん)そして秋山さんは、もうひとつの大きな出会いを果たす。マギーズへ熱い思いを抱く人物が現れたのだ。当時、日本テレビで記者として働いていた鈴木美穂さんだった。’08年、24歳のときに乳がんを患った鈴木さんは、8か月の闘病生活を経て職場復帰した。記者としてがんに関する情報を発信しながら、若者のがん患者団体を立ち上げ、’14年にイギリスの「マギーズセンター」のことを知る。鈴木さんは、がんを経験した当事者として、「この施設は日本にも絶対に必要だ」と強く感じたという。「“マギーズセンター”でネット検索をかけると、日本語では4件しかヒットしなくて、そのすべてに“秋山正子”の文字があったんです。キーパーソンは、この方だ!と思い連絡先を調べ、思い切って電話をかけてみたんです」(鈴木さん)記者としてのフットワークの軽さを生かし、鈴木さんは「暮らしの保健室」で秋山さんと対面する。「さすがは傾聴のプロで、秋山さんは私のやりたいことを2時間くらい、ひたすら聞いてくださったんです。初対面なのに、“何が課題で日本にマギーズができていないんですか?”なんて質問もして。そうしたら、土地、広報、お金など、課題を教えてくれました。その部分は私が何かできるかもしれない、とピンときたんです。“一緒にやりませんか”と、その日に伝えました(笑)」鈴木さんの友人の伝手(つて)で、東京の豊洲エリアにあった有休地を有効活用する企画の募集を知り、破格の条件で土地を貸してもらえることに。そして、インターネット上で資金を募るクラウドファンディングを開始。積極的に広報活動をした結果、目標額の700万円を超えて最終的には2200万円を調達できた。現在のマギーズ東京の建築物、家財は、寄付で賄われているものが多い。2棟の建物が、中庭を挟んで一対になるように、全体の監修をボランティアで請け負ってくれる建築家に依頼した。テーブル、ランプシェードも寄贈によるものだ。多くの人たちの思いがつまったマギーズ東京。現在までに、がんと生きる約2万4000人もの当事者、その家族らが、この場所を訪れている。「秋山さんは、誰に対しても変わらない。行動に伴う実績をお持ちなのに、それをひけらかさないんです」と、鈴木さん。前出の浦口さんは「温かくて人間味があるのに、リアリスト。看護師として必要なものだよね」と、秋山さんを語る。’19年、秋山さんは赤十字国際委員会から、第47回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。マギーズ東京を維持するために、著書を記したり、講演活動を行ったり、忙しい日々だ。 「あなたなりのペースで、ゆっくりと進んでいきましょう」そんな秋山さんのひと言で、がんという困難に立ち向かう多くの人たちが、今日も「自分らしさ」を取り戻している。取材・文/吉田千亜(よしだ・ちあ)フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞
2020年12月19日松本明子撮影/伊藤和幸デビューは“不作の’83年”と言われる年。’80年代アイドルとして松本が振り返る波瀾万丈のこれまで──。■“花の’82年”の勢いに圧倒された、不運なデビュー「今の10~20代にしてみた笑い声のうるさいおばちゃんという印象でしょうね(笑)」こう話しつつ、“ハッハッハッ!”と高笑いをする松本明子。松本といえば、’92年に『進め!電波少年』で松村邦洋とコンビを組み、NGなしで何でもやってのけてしまうバラドルとしてのイメージが強いが……。「私、正統派のアイドルとしてデビューしたんですよ。本当はミニスカートやフレアスカートを着て、聖子ちゃんみたいに歌いたいという夢を胸に上京したんです。あのときは瀬戸大橋なんてないから、四国から船ではるばると!」松本がデビューしたのは’83年。実はこの年、“不作の’83年”という不名誉なキャッチがつけられている。「前年にデビューされた先輩たちがすごくて。シブがき隊、中森明菜さん、小泉今日子さん……。まさに“花の’82年”でした。それで翌年デビューの私たちが埋もれちゃって。だって先輩たちが2年目に入って、さらにパワーアップするんですから。もう散々でしたね」当時は歌謡大賞などの賞レースも盛んだったが、’84年の『日本テレビ音楽祭』で、デビュー2年目に活躍したアイドルに贈られる『金の鳩賞』はまさかの“該当なし”──。「初の該当者なしです。もう誰も芽が出なくて(笑)」当時、彼女につけられたキャッチフレーズが“アッコ、とんがってるね”。まさに“とんがった”エピソードが生放送での放送禁止用語事件。女性器を表す4文字を大声で叫んだのだ。「言葉の意味を知らずに、よからぬことを言っちゃって。謹慎になっちゃいましたから、デビュー2年目にして(笑)」この事件から約2年間、仕事は、ほぼゼロという境遇だった彼女。普通なら心が折れてしまうのだが─。「故郷に錦を飾るまでは帰れない、という思いがあって。このままでは地元に戻れないし、同級生や親戚にも会えない。自分が芸能界にいるんだ、というものを示せるまでは、とずっとしがみついていました」■アイドルとして初めて迎えるコンサートそしてアイドルから道を変え、バラエティーで頭角を現していくのだが、ずっとアイドルとしてステージに立ちたいという思いを持ち続けていたという。そして迎えた今年の春。新型コロナで緊急事態宣言が出された翌日、54歳の誕生日を迎えた松本。「ライブ、舞台、テレビ……芸能の仕事、どうなっちゃうんだろう。“ステイホーム”がいつまで続くんだろう、ってものすごく不安になって。そこでふと思ったのが“こんなときは歌だ”と。アカペラで自身のデビュー曲を歌った動画をSNSに上げる。それをバトンのようにSNS上でつないでいけないか─。「同期の’83年組の友人や森口博子ちゃんに連絡をして、インスタグラムとツイッターで#アイドルうたつなぎを始めたんです」すると、世代を超えて新旧アイドルが参加。バトンはどんどんつながり、なんと来月にはコンサートを開催するまでのムーブメントになった。「本当にうれしいですよ……。デビュー37年目にして、ようやくアイドルとして初めてコンサートができます。アイドルとしての私を“松本、もういいよ”とお客さんに思わせるくらいお腹いっぱいにさせてあげたいと思います!」松本明子・まつもとあきこ1966年4月8日生まれ。’82年にオーディション番組『スター誕生』に合格し、’83年にデビュー。バラドルとしてさまざまな番組に出演『松本明子presents黄金の80年代アイドルうたつなぎ~うれしなつかし胸キュンコンサート~』【日時・会場】2021年1月16日(土)【1】13:30【2】18:00かつしかシンフォニーヒルズモーツァルトホール【出演】松本明子、布川敏和、森尾由美、浅香唯、西村知美【料金】全席指定8000円(税込み)【HP】【お問い合わせメール】event@bsfuji.co.jp(BSフジ)
2020年12月14日抹茶スイーツ好きさん、セブンイレブンの「伊藤久右衛門(いとうきゅうえもん)監修スイーツ」はもう食べましたか?伊藤久右衛門とは、京都・宇治の老舗茶舗で、その宇治抹茶スイーツもとてもおいしいのです!伊藤久右衛門監修のスイーツを、身近なセブンで買えるチャンス到来ですよ♪宇治抹茶クレープ この投稿をInstagramで見る あかし(@hotto.nichijyou)がシェアした投稿もっちりしたやや厚めの生地に、宇治抹茶クリーム・宇治抹茶ホイップをたっぷり入れて包んだ、伊藤久右衛門監修の抹茶クレープです。なめらかで深みのある宇治抹茶の味わいを存分に楽しめますよ♪税込192円、212kcalです。宇治抹茶ばばろあ この投稿をInstagramで見る あかし(@hotto.nichijyou)がシェアした投稿ガツンとした抹茶の味が好きな方にとくにおすすめです!宇治抹茶ばばろあが甘さ控えめで、抹茶のほろ苦さやほどよい渋みを味わえる、「抹茶が濃い~!」を楽しめる伊藤久右衛門監修のスイーツです♪税込324円、233kcalです。宇治抹茶小餅 この投稿をInstagramで見る あかし(@hotto.nichijyou)がシェアした投稿小さいですが、宇治抹茶餡の存在感がすごいんです!やわらかくて歯切れのいいお餅の中には、クリーム入りのまろやかな宇治抹茶餡がしっかり詰まっています♪上品で香り高い宇治抹茶を堪能できる、伊藤久右衛門監修の小さな抹茶餅です。税込183円、117kcalです。ぜひ3品食べてみて!セブンイレブンの「伊藤久右衛門監修スイーツ」3品は、どれもレベルが高いものばかりで本格的です!身近なセブンで、宇治抹茶の有名店「伊藤久右衛門」の味をプチプラで楽しめます。ぜひ3品食べてみてくださいね♪(恋愛jp編集部)本文中の画像は投稿主様より掲載許諾をいただいています。在庫切れの場合がありますので、店舗をご確認ください。2020年11月30日現在
2020年12月03日有村架純撮影/伊藤和幸「中学3年のころからお芝居の仕事をしたいと思っていて、自分の意思でやり続けた10年なので、あっという間でした。やはり朝ドラのヒロインを務めさせていただいたのはすごく大きかったですね。出会う監督や脚本家など作品によってお芝居に対する意識が変わっていきましたし毎回が勉強だなって思いますね」今年、デビュー10周年。連続テレビ小説『ひよっこ』など数々の作品に出演し国民的女優のひとりとなった有村架純。現在は『姉ちゃんの恋人』に出演中。ホームセンターで働きながら弟の和輝(高橋海人)、優輝(日向亘)、朝輝(南出凌嘉)を養う主人公・桃子を熱演している。■脚本家・岡田惠和からの挑戦状!?「3兄弟は最初にお会いしたときは本当に緊張していて、その雰囲気がセリフのやりとりにも反映されたらマズイなって(笑)。なので、作品に入る前に数時間、一緒にトランプやテレビゲームをして。コミュニケーションをとったおかげで、そのあとわりと早く打ち解けることができました。きょうだい役なので普段から敬語を使わないようにしたり、呼び名も決めたんです。私は海ちゃんや日向、凌嘉とか、あと役名でも呼んだりします。私のことは架純ちゃんて呼んでくれていますね」物語は、桃子を中心に個性豊かな登場人物たちが繰り広げる、恋と家族の愛を描いたラブ&ホームコメディー。脚本は『ひよっこ』などを手がけ、2019年には紫綬褒章を受章した脚本家の岡田惠和が手がけている。「最近、わりと重厚感のある重たい作品をやらせていただくことが多く、ホームドラマをやってみたいなと思っていたんです。岡田さんの作品は今回で6作目。今までと同じような役柄や物語は毎回なくて、いつも違ったものを私自身に渡してくださるんです。そこにどう応えられるのか。岡田さんの挑戦状だと思って、取り組ませていただいています」27歳、彼氏なしの桃子が職場で偶然出会った真人(林遣都)との恋の行方も見どころだ。「林さんとは、こんなにご一緒させていただくのは初めて。物静かなイメージがあったんですけど、話かけると気さくにお話ししてくれて。お笑いも好きとおっしゃっていて、たまたま同じ番組を見ていて“あれ、面白かったですよね”って話したり。あと、現場に謎解きの本があって、みんなで問題を出し合ったりと、コミュニケーションはバッチリとれています」ハロウィンからクリスマスにかけて物語が描かれる本作。ちなみに、有村にはこんなクリスマスの思い出があった。「中学生のときに友達とサンタのコスチュームを買って、プリクラを撮りに行ったのを覚えています。当時は何かあると常にプリクラを撮っていたんです。そのあと、友達の家に行ってみんなでクリスマスプレゼントの交換をしたりして。何をもらったかは忘れましたが(笑)、プリクラは実家にまだあると思いますね」私のおうち時間「おうち時間が増えたからといって、新しいことは特に始めてはいないのですが、いつもより時間をかけて料理をしたり、冷凍できるものを作り置きしたりしていました。あと、以前から興味を持っていた英会話の勉強をテレビ電話でじっくりとやったり。基礎中の基礎からやり直している段階で、いつかは海外などに行ったときにしゃべれるようになればと思います」『姉ちゃんの恋人』フジテレビ系毎週火曜夜9時〜
2020年12月01日稲垣吾郎撮影/伊藤和幸「目標であった2020年に、再々演というかたちでステージに立つことができるのはとてもうれしいですね。草なぎくんも香取くんも“よかったね”って言ってくれて。実際に舞台が始まったら、どこかのタイミングで劇場に来てもらえたらと思います。舞台の中では僕の代表作というか、最低でもベートーヴェンが亡くなった56歳までは演じ続けたいです。ゴローだけに(笑)」ベートーヴェン生誕250周年となる今年。“第九”で知られる『交響曲第九番』など数々の名曲を生み出した偉大な作曲家の生涯を描いた舞台『No.9―不滅の旋律―』が12月13日から上演。主演の稲垣吾郎は’15年、’18年の上演に続き2年ぶり3度目のベートーヴェン役を演じる。■ベートーヴェンは僕と真逆の人間「ベートーヴェンといえば、孤高の天才であったり、よく音楽室にある肖像画の睨みつけているような顔とか、みんな最初はそういうイメージですよね。でも、演じてみて人間味があり愛に満ちている一方で、自分がこう思ったものに対しての執着心がすごいんです。僕は無色透明の人間というか、執着心のない全く逆の人間。この間、フォトエッセイを出させていただいたんですが、帯に書いてあるのが“やりすぎない、でしゃばりすぎない“ですから(笑)。すごい帯ですよね。僕的には気に入ってるんですけど」共演にはヒロイン役に剛力彩芽など前回からのキャストが再集結。「剛力さん演じるヒロインは女性としての生き方とか、いちばん変わるすごく難しい役。僕が女優だったらやってみたいです。やはり女性の視点も大事だと思うし、自分が女性だったら、こんな役やりたいって考えたりするんですよ。たまに取材などでも、“僕、おばちゃんです”と言ったりするんですが、もしかすると中性というものを心がけているのかも。もともとグループにいたし男性ばかりに囲まれていたからかな。うまく言えないんですけど、無意識にそうなった感じですね」■「より心がつながった」舞台を通してお客さんとつながることを楽しみにしているという稲垣。一方で、SNSを始めてからファンとのつながりが近くなったとも話す。「よりひとりひとり距離が近くなったというか、生きている気配というのを感じるようになりました。まぁ、僕のほうからは基本的にベタベタするのが好きじゃないので、少し距離をとりますが(笑)。以前のグループのときは、急成長していって、ファンもたくさん増えて、漠然と大きな塊みたいになっていったからその感覚は少なかった。それが解散して、個人で活動し始めて、よりファンと心がつながったというか。今の形になって満足しています」新しい地図として、ともに活動する草なぎと香取については、最近こんなことを思ったそう。「2人とも本当に役者として改めてすごいなって。『誰かが、見ている』で香取くんと共演したんですが、本番に入ったときの集中力がすごい。ある意味、本番以外何もやらないです(笑)。草なぎくんは『ミッドナイトスワン』のあの役は僕には絶対できないですよ。会見で自分から“代表作”って言っちゃってますから。あっ、僕もさっきベートーヴェンを代表作って言ってましたね(笑)。本当に2人には刺激を受けるし、僕も代表作と言えるくらいの意気込みで、この役を演じられればと思います」僕の思い出の1曲中学生のころに初めて行ったコンサートがBARBEE BOYSだったんです。KONTAさんと杏子さんの歌がすごくカッコよくて、曲もいわゆるロックバンドというよりも、少しジャズだったり洋楽的で、それが大好きに。今年、20年ぶりくらいに“ななにー”で共演させていただいたんですが、一緒に歌わせていただいたのが不思議な感覚でした。1曲あげるなら……カセットテープで買った思い出のある『目を閉じておいでよ』ですね」木下グループpresents『No.9―不滅の旋律―』12月13日〜2021年1月7日TBS赤坂ACTシアター
2020年11月21日坂上忍“おまいう”という言葉がある。自分のことを棚にあげるような発言に対して使う「おまえがいうな」を略した俗語だ。■伊藤健太郎を擁護した坂上伊藤健太郎のひき逃げ事件をめぐって、ネット上などでこの言葉を浴びせられたのが『バイキングMORE』(フジテレビ系)のMC・坂上忍(53)である。というのも、彼は25年前、飲酒運転をして電柱に激突。近隣住民に救急車を要請したにもかかわらず、そのまま逃走して、パトカーと20分近くカーチェイスを繰り広げた。そのあげく、現行犯逮捕され、半年間、芸能活動を謹慎している。そのとき、同乗していたのが世界的デザイナー・山本寛斎の娘でもある女優の山本未來。最初は彼女が運転したが、初心者であるため、坂上が「信用して運転を代わってくれ」と言ったという。彼は釈放の際、メディアの直撃に、こんなコメントをした。「飲んでるのわかったうえで運転したわけですから。それはもう、自分がいけないですね」そんな過去があるからだろうか。歯に衣着せぬ毒舌が売りの坂上にしては珍しく、伊藤の件では腰が引けているようにも見えた。例えば、伊藤が最近、酒のにおいをさせたまま現場入りするなど“天狗”になっていたという報道について「天狗になって致し方ない時期もある」と擁護。「僕は天狗というか、クソ生意気、20歳そこそこのときは毎日、酒くさかった」と告白して「僕より全然マシです」とフォローしたのだ。たしかに、自分も27歳にして飲酒運転で逮捕されたくらいだから、偉そうなことは言えないわけだが──。ここでちょっと考えてみたいことがある。そもそも、そういうやんちゃな若者だった坂上がなぜ、今こうしてワイドショーのMCに君臨しているのかという疑問だ。その転機はズバリ、2003年の離婚である。彼はその事実を『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)で公表し、明石家さんまにいじってもらった。これに味をしめたのか、その後も潔癖症やギャンブル好き、愛犬家といったキャラを全開にして、再ブレイク。しかも、彼には自分のプライベートだけでなく、他者のそれを商売にする才能もあった。おかげで、コメンテーターやMCとしてご意見番的な仕事もこなすようになるわけだ。’14年に『笑っていいとも!』が終了して『バイキング』がスタートすると、月曜日のMCに起用され、1年後には全曜日担当の総合MCに昇格。今年の秋には『直撃LIVEグッディ!』の終了とともに、番組が1時間拡大された。いわば、MC競争にひとり勝ちして、この道のプロというべき安藤優子の番組まで追いやったのである。ただし、もとはといえば、彼は俳優。天才子役として世に出て、10代後半には歌手にも本格挑戦した。当時はこんな夢を語っていたものだ。「俺の理想はデビッド・ボウイ、かな。彼は芝居と歌と両方やって、どちらもビッグ。俺もそうなりたい」残念ながらその夢はかなわなかったが、そのぶん、当時の言動には若気のいたり的な可愛げがあった。別の意味で「ビッグ」になった今のほうが、それこそ“天狗”に見えるという人もいるだろう。例えば、今回「クソ生意気」「(伊藤のほうが)全然マシ」と言われた20代の坂上が、今の坂上のMCぶりを見たら──。“おまいう”というツッコミを入れたくなるに違いない。PROFILE●宝泉 薫(ほうせん・かおる)●作家・芸能評論家。テレビ、映画、ダイエットなどをテーマに執筆。近著に『平成の死』(ベストセラーズ)、『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)、『あのアイドルがなぜヌードに』(文藝春秋)などがある。
2020年11月16日富樫慧士撮影/伊藤和幸「初放送後に、母親から“よかったよ”って泣きながら電話をもらいました。念願の作品で、僕も本当にうれしかったです」■役柄の参考にしていたのはフワちゃんです『仮面ライダーセイバー』(テレビ朝日系日曜午前9時〜)で、仮面ライダー剣斬(緋道蓮)を演じる富樫慧士(19)。ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで準グランプリを獲得し、晴れて俳優デビュー。「佐藤健(31)さん主演の『仮面ライダー電王』世代。友達と段ボールで武器を作ったり、まねをしてよく遊んでいたくらい大好きでした。今回も出演するにあたって、現場に入る前に戦闘シーンを見ながらひとりでアフレコの練習したり」現場には第6話から途中参加。「最初は心配だったんですけど、キャストやスタッフのみなさんがちゃんと空気を作ってくださっていて、一致団結して撮影に臨んでいます。自分のことしか考えられずいっぱいいっぱいでしたが、今は周りの人たちのことも見られるようになりました」と、メキメキ成長中。蓮のいつも笑顔で明るい役柄の参考にしていたのは、なんと……!?「フワちゃん(26)です。テレビで見るたびに、あの明るいキャラクターを参考に勉強してます。自分の性格とギャップがありすぎ、まだちょっと違和感があるんですけど」今年からSNSを始め“カメラ”や“動画編集”が新しい趣味に。「自炊動画を自分で編集してアップしています。料理はそこまで得意ではないけど、今は作り方をネットで調べることができるので。撮影した動画を切り取ってつなげて効果音をつけたりコツコツと。まだご飯がうまく炊けなくてデロデロになっちゃうのが悩みです」■理想の女性と“冬デート”「あれこれ言うわけではなく行動ですべてを語ってくれるような、強い女性が好きです。そして、冬といえばクリスマス!ベンチに座ってイルミネーションをふたりでゆっくり見るシチュエーションに憧れますね。そんな願いは叶わず今まで過ごしているんですが……」PROFILE●富樫慧士●とがし・えいじ’01年6月27日生まれ。山形県出身。’17年『第30回ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』で準グランプリ・QBナビゲーター賞をW受賞し芸能界デビュー。(取材・文/高橋もも子)
2020年11月15日中尾ミエ(左)と尾藤イサオ(右)撮影/伊藤和幸 感謝をして遺品を手放す“感謝離”をテーマにした映画で共演した尾藤イサオと中尾ミエ。家を行き来するほど仲よしというふたりに聞いた特別な歌のこと、感謝離したいあの品物のこと。■映像初共演作で号泣“亡くなった妻の衣服に「ありがとう」と頭を下げ、手放していった―”(「感謝離ずっと夫婦」)。昨年5月、河崎啓一さんが朝日新聞の『男のひといき』欄に愛妻の遺品を整理したときの心情を投稿すると話題に。感動の実話を綴った同名の単行本を映画化した『感謝離ずっと一緒に』。物語の主人公・笠井謙三と妻の和子を演じるのはともに歌手としてデビューし、俳優業でも愛され続けている尾藤イサオと中尾ミエ。60年以上の付き合いというふたりだか、実は、映像作品での共演は今作が初。中尾「ミュージカルなんかでの共演はありますけど、完全な俳優としてのお仕事は初めてですね。尾藤さんと共演すると聞いてすぐに、何をするの?って(笑)」尾藤「そうそう(笑)」中尾「オファーをいただいたときは、まだ台本ができあがっていなくて。だから、内容がどんなものか詳しくはわからなかったんです。そんなんでも引き受けるんですよ(笑)」尾藤「ハハハ」中尾「それが、わが作品ながら試写で思わず号泣しちゃうくらい素敵な映画で。号泣して見た後に、爽やかな気分になる不思議な作品です」尾藤「ミエさんと同じ試写では見ることができなかったんですが、僕もね、涙されましたですよ」中尾「されましたか(笑)」転勤の多い銀行員で長いこと仮住まい生活だった謙三と和子は、ようやく手にしたマイホームで、幸せな老後生活を送っていた。そんなある日、妻が脳梗塞で倒れてしまう。劇中の「パパ」「和子」と呼び合う62年連れ添った夫婦そのままの雰囲気のふたり。中尾「家がご近所で、気心の知れた仲ですから。演じるというより、いつもの接し方でいいやと思って。“尾藤ちゃん”って呼んでいるのを“パパ”って。でも、最近は“尾藤ちゃん”とも呼ばないんだな。“じいちゃん”って呼んでいます(笑)」尾藤「なんかね、娘とかに呼ばれているみたいな感じで。ミエさんに“パパ”って呼ばれても、何の抵抗もないというのがおかしいよね(笑)」■尾藤絶賛のシワは勲章?撮影期間は、驚くほど短期間だった。それは、ふたりがすでに“夫婦”の空気を纏っていたからかもしれない。中尾「NGも“ここをもう少し掘り下げましょう”というのもなかった。だから、短期間で撮れちゃったんですよ」尾藤「本当だね」中尾「コロナ禍での撮影で、いろいろな仕事先で“あまり接近しないでください”と言われていたんです。でも、この作品では介護もあるから(尾藤が)抱きついてくるし(笑)。でも、本番以外は役者もフェイスガードをつけていたし、何より、スタッフのみなさんがずっとマスクとフェイスガードをはずさずにお仕事しているから、大変そうで。暑さもあって大変でしたよ」尾藤「ヨイショするわけじゃないけど、今回のミエさん、素晴らしいと思う。ミエさんが“嫌になっちゃう。私、シワだらけで”って言ったんだけど、そこがいい。女性にとったら勲章じゃないのかもしれないけれど、横顔のシワなんか、ものすごくいい。映画祭に出品して、賞をとらせたいくらいです」中尾「入院しているのに化粧するのもおかしいじゃない。この年になって、なかなかスッピンで画面に出ることってないでしょ。しかも大きなスクリーンで。もう、怖いものないですよ。裸を見られたようなものですから(笑)。ただね、自分もいつどうなるかわからない。そのときの心構えとして、今回のことを覚えておこうと思いました。そういう意味でいい経験になりました」後遺症が残り、夫を頼る妻を献身的に介護する謙三。「和子」と呼ぶ謙三の顔はいつもにこやかで温かい。中尾「それは、私が相手役だったからかも」尾藤「そうそうって、俺が言うのもおかしいんじゃない?(笑)」中尾「尾藤さんがいいわけじゃなくて、謙三さんがいいのよ。尾藤さんは、原作に忠実に演じているだけですから」尾藤「(記者が)笑ってますよ」中尾「だって、そうじゃない(笑)。でも、私たちが演じた夫婦の姿がそんなふうに受け止めていただけたら、役者冥利につきますね」尾藤「一生懸命やったかいがあります」劇中、夫婦の思い出が詰まった曲として効果的に使われている曲がスコットランド民謡の『アニーローリー』。ふたりにとって特別な曲があるか聞くと、中尾「自分のということになれば、それは、ヒット曲でしょ。私は、数が少ないですけど、尾藤さんはいっぱいありますから」尾藤「いやいや。中尾さんは1曲しかないんですけど、僕は2曲あるんです。1曲多いから、僕の勝ちですよ(笑)」中尾「(笑)。でもね、音楽の力ってすごいなって思います。コンサートなんかやって、『可愛いベイビー』を歌った瞬間にお客さんは、当時の自分に帰るわけです。それも、一瞬にして。みんなそれぞれの人生があって、感じ方がある。つくづく、音楽の力って大きいなと思いますよね」■捨てられない〇〇今作のタイトルにもなっている“感謝離”。「今年の流行語大賞に推薦したかった」と、ふたりは言う。中尾「原作を書いた河崎さんが、“感謝離で(遺品を)全部処分しました。残っているのは写真1枚だけです”と。そう聞いて、ふと、写真って自分でも捨てられないけれど、残されるといちばん厄介だなと思いました。われわれの年代は、捨てるという言葉に敏感だから、ついついため込んでしまう。でも、感謝離だと思うと、気持ちを楽に整理ができる。そう言っても、まだできていないんですけど(笑)」尾藤「“ありがとう”って感謝離するっていいですよね。僕もね、捨てられないものがありますよ。洋服ダンスの中の服で、かれこれ8年くらい着ていないものが」中尾「8年前の服なんて入りやしないでしょ」尾藤「いや、上は入るんですよ。でも、下はパッツンパッツン(笑)」中尾「感謝して捨てなさい」尾藤「はい、わかりました」中尾「この作品を見ると、すべて日常のことだけど、いかに感謝するということをやっていないか思い知らされます。原作の河崎さんって、人生の終末期にこんな素敵なものを残して、奥さんにもいいご供養ができているじゃないですか。それに、人生で自分のストーリーが映画になるなんて、ありえないこと。だから、本当に最後の最後まで何が起こるかわからないと感じましたね」尾藤「この作品が公開されてすぐに77歳、喜寿になるんです。そういう意味でも記念の作品になりました。10年後の米寿でも、何かできたらいいですね」Q ふたりの初対面は?尾藤「僕の思っているミエさんとの初対面が、ミエさんのと全然違うんです」中尾「何よ、言いなさいよ」尾藤「ミエさんは、音楽バラエティー番組の『森永スパーク・ショー』(’62年〜’63年)に出ているスパーク3人娘のひとりだったんです。僕は、その番組のスパークボーイとして出ていて。そう言ったら、ミエさん、“え〜っ!?あんたいた?”って(笑)」中尾「私は、それよりもっと前なんです。ジャズ喫茶でブルー・コメッツをバックバンドに歌ったときがあって。そこに尾藤さんが革ジャンかなんかをね、手を通さないで肩にかけてきて。なんか粋がったやつが来たなって(笑)。それが初めての出会いでした」尾藤イサオ(びとういさお)1943年生まれ、東京出身。18歳で歌手デビュー。’66年には、ビートルズ日本公演の前座として故・内田裕也さんらと出演。『悲しき願い』『あしたのジョー』の主題歌など名曲を歌うとともに、俳優業でも日曜劇場『ノーサイド・ゲーム』(TBS・’19年)など約50年にわたり数々の作品に出演。本作で、劇場映画としては初の主演を務めた。中尾ミエ(なかおみえ)1946年生まれ、福岡出身。’62年、デビュー曲の『可愛いベイビー』が大ヒット。紅白歌合戦に連続8年出場を果たすほか、伊東ゆかり、園まりと“3人娘”としてトリオを組み絶大なる人気を誇った。その後、女優としてもテレビ、映画、ミュージカルと活躍の場を広げ、現在『5時に夢中!』(TOKYO MX)の金曜コメンテーターも務めている。映画『感謝離(カンシャリ)ずっと一緒に』イオンシネマほかにて全国公開中配給:イオンエンターテイメント
2020年11月12日10月29日、道路交通法違反(ひき逃げなどの疑い)により逮捕された俳優の伊藤健太郎容疑者(23)。各メディアによると伊藤容疑者は「気が動転してしまった」と話しており、警視庁は事故を認識しながらも逃走したとみて調べているという。今回の事故が報じられたことで、4月にも事故を起こしていたとも報じられた伊藤容疑者。「相当な車好きだった」と彼の知人は語る。「健太郎は子供のころから車好き。おじいちゃんが真っ赤なオープンカーに乗っていて、『かっこいい!』と憧れを抱くようになったそうです。『いつかは海外のクラシックカーに乗りたい!』とも話していました」とはいえ、運転にリスクはつきもの。伊藤容疑者は14社とのCM契約を交わし、19年に「スカーレット」で朝ドラデビューも果たした人気俳優。なおさらリスクを考慮する必要があったはずだ。そのためネットでは、「事務所にも責任があるのでは」との声が上がっている。《今、一番売出し中の俳優。こんな時に、なぜ運転させてる?監督不行き届きだと思うよ》《なぜ自動車を自分で運転させたりなどしているのか?九割以上、事務所の危機管理の問題だと思うのだがなあ》なぜ伊藤容疑者は、自分で車の運転をしていたのだろうか?しかし、ここにも伊藤容疑者の“呆れた素顔”が隠されているようだ。「伊藤容疑者は先月、所属事務所を移籍しました。事務所は彼の活躍ぶりから『危険なことがあってはスポンサーにも迷惑がかかる』と考え、“専用の送迎車をつけること”を移籍の際に約束していたのです。4月にも事故を起こしていたように、とても運転が上手とは言えませんでしたからね。普段から運転を控えるようにも伝えていたそうです。しかし伊藤容疑者はそうした周囲の心配を意に介さず、送迎車があるのに自分の車を乗り回していました。そういった危機意識の低さが、今回の事故で露呈した形です」(芸能関係者)俳優人生が事故で一転した伊藤容疑者。いま、何を思うだろうか。
2020年10月30日映画『十二単衣を着た悪魔』の完成披露報告会が本日10月20日(火)セルリアンタワー能楽堂にて行われ、主演の伊藤健太郎をはじめ、三吉彩花、伊藤沙莉、山村紅葉、笹野高史、黒木瞳監督が登壇した。本作にも出演するLiLiCoが今回MCを担当。原作に惹かれた点を聞かれた黒木監督は「『源氏物語』桐壺帝の正妃でありながらも、悪役として描かれている、弘徽殿女御はこういった人だったのかもと考えられて書かれた物語で、現代に生きる自分の居場所がない、人と比べてうまくいかない、自分って何なんだろうと、ちょっとダメンズな男の子が、ひょんなことから源氏物語の世界にトリップ、弘徽殿女御をはじめとする様々な登場人物の輝く人生を見て成長するという希望のお話に惹かれました」と答える。就職活動連続失敗中の実家暮らしのフリーターで、ひょんなことから「源氏物語」の世界にトリップしてしまう本作の主人公・雷を演じた伊藤健太郎さんは、役柄との共通点について「あの平安時代に急に飛び込んで、意外とすんなりと対応していく姿は、今自分が平安時代にタイムスリップしたら、最初は驚くだろうけど、対応するだろうなというところはちょっと似ているかも」と役作りに苦労はなかったそう。また、最初からスタッフの中でこの役は伊藤健太郎さんでいきたいという思いがあったと明かす黒木監督。「たまたま私が出演しているラジオ局の番組の収録にいく際に、エレベーターのドアが開くと、真正面にポスターが貼られていまして、エレベーターが開くと伊藤健太郎さんがいらっしゃる。この方が雷ちゃんを演じてくれたらなぁと思っておりましたが、念願かなって嬉しかったです」とコメントした。“悪魔”とも言われた弘徽殿女御を演じた三吉さんは「ここまで強い女性を演じたのは初めてなんですけれども、だんだん自分の息子の為にとか誰かのためにとか愛情をもって何を犠牲にしてでも貫いていく姿勢に、この人についていきたいなと自然に感じることができて、弘徽殿女御への熱い想いを聞かせていただいて愛着がわいてきました」と演じてみた感想を語り、黒木監督は「ヘア、十二単衣が似合う三吉ちゃん以外、弘徽殿女御はいないと思いました」と言い切った。そして伊藤沙莉さんの出演は、監督がテレビに出演するのを見てぜひ倫子役にとオファーしたそうで、それについて伊藤沙莉さんは「凄くシンプルで嬉しかったです。現代を生きる女性は演じてきましたが、時代を超えて生きる女性を演じることが少なく、経験として踏まなければならないと思っていた時期にオファー頂いて、黒木組でその経験が出来たのがすごく嬉しかったです」と笑顔を見せる。さらにハプニングの演出についての話題になると、「とあるシーンで、ハプニングが起こりまして、めちゃくちゃ驚きました。お芝居でするのはずかしいと思いますし、是非そのシーンを探してほしいですね。でも、そのシーンの撮影の直後は、健太郎、ふざけた?本番なのに、何やってんの?とは思いました」と意味深に話すと、伊藤健太郎さんは「台本に書かれてなく、黒木監督に撮影前に指示されて、『え??』って戸惑いまして、やるべきかやらないか迷ってたんですけど、後ろのベースから、何度も『いけ!いけ!』って黒木監督が…」とそのシーンをふり返り、伊藤沙莉さんが「結果いいシーンでした!」と言い会場を沸かせた。最後に伊藤健太郎さんは「こういった時期に、公開が近づいてきて、能楽堂という場所で、皆様に完成を報告する機会を設けられたことを、光栄に思っています」と挨拶し、「主人公の雷の様に、映画の中にタイムスリップしていただき、ちょっとした非現実的体験をご体験頂ければと思っております。公開しましたら、是非劇場に足を運んでくださればと願っています」と本作をPRしイベントは幕を閉じた。『十二単衣を着た悪魔』は11月6日(金)より新宿ピカデリーほか全国にて公開。(cinemacafe.net)■関連作品:十二単衣を着た悪魔 2020年11月6日より新宿ピカデリーほか全国にて公開Ⓒ2019「十二単衣を着た悪魔」フィルムパートナー
2020年10月20日瀬戸康史と深田恭子撮影/伊藤和幸現代版の『ロミオとジュリエット』ともいえる、泥棒一家の娘と警察一家の息子との許されざる恋。華(深田恭子)は、自分が“Lの一族”であることに悩み抜くが、家族たちはどこ吹く風。過剰なほどゴージャスで、マンガでも無理があるであろう超ハイテク技術を駆使し、義賊として活動にいそしむ。一方、警察一家で生まれ育った警察官・和馬(瀬戸康史)の限りないきまじめさとやさしさ。バレた正体、葛藤、一家離散、なぜか出てくるミュージカルシーン……。おバカコメディーかと思いきや、まさかの極上ラブストーリーだった『ルパンの娘』。昨年7月期に放送され、回を追うごとにドラマファンをトリコに。ツイッターの世界トレンド2位になるなど熱く支持されたが、ついに今秋、お茶の間に帰ってくる!2人のハッピーエンドの続きやいかに?■あの泥棒ポーズ&白目が大好評深田「前作の終わりくらいから、続編ができたらいいねっていう話は現場で出ていたので。“それはいつになるのかな?”と、とても楽しみにしていました。この1年、世の中的にはすごくいろんなことがあったので、この時期にご縁あって、続編が実現できることはうれしいです」瀬戸「そうですね。(コロナ禍で)脚本家やプロデューサー陣は大変かもしれないですけど、やりようはいくらでもあって。そして1年後というわりと早い段階で続編ができることもうれしい。この1年間、いつでも続編をやれるように一応、身体を鍛え続けていてよかったなと思ってます(笑)。『ルパンの娘は』役者仲間もめちゃくちゃ見てくれてた作品で、続編をやるってことで“うれしい”という連絡も来てます」深田「小さなお子様から大人まで楽しめる要素がたくさんあったので、前作のときは“泥棒の決めポーズやって”ってけっこういろんなところで言われました」瀬戸「羨ましい!僕は“白目やって”って他の番組で言われたくらい(笑)。今回も絶対、白目をむくシーンはあるでしょうね(笑)」――役者としての、お互いの魅力を教えて。深田「うーん。たくさんありますね。前作で、華を思って泣くシーンがあったんですが、瀬戸さんはリハーサルの段階から、本当にきれいな一筋の涙を流していて」瀬戸「フフフフ(笑)」深田「まだリハーサルなのにすごい!そのときも驚きましたし、あとは撮影のために身体を鍛えていらっしゃるところ。ちゃんと、すべてにおいて努力される方だなと思います。あと、華をいつも引っ張ってくださるので、助けてもらってます」瀬戸「うれしいですね。深田さんは、カリスマ性。現場にいると、空気がすごく柔らかくなるんです。それは出そうと思っても、なかなか出せないもの。そんな人柄もそうですし、あんなに純粋な華という人物を濁りなくできることが、これもまたすごいと思うんです。“裏があるんじゃ?”と感じさせるところがまったくない。本当に白い。唯一無二な感じがしますね」■ぶっちゃけ事実婚をどう思う?――前作がハッピーエンドだったとはいえ、指名手配をされた華の一家は表面上、死亡したことになっている。2人が余儀なくされている事実婚をどう思う?深田「事実婚については、さまざまな結婚の形があるので、もちろん、いいと思うんですけど、和馬と華の場合は、警察と泥棒という大きな壁があるので。華はそれをずーっと悩み続けていますし、和馬も華と幸せになるにはどうしたらいいんだろうと悩む。普通の人にはまずない悩みですよね」瀬戸「うん、そうですね。でも、素敵な形なんじゃないですか?いろんなしがらみとか壁はあれど、2人が愛し合っているという事実があれば、幸せなんじゃないかな」――気になるのは2人の新婚生活。ボロボロの木造アパートからスタートするも、セキュリティー面から華の実家で三世帯同居生活をするはめに。せっかくの新婚なのに……。深田「2人が幸せだったら、どこでも幸せに生きていけるんじゃないかなと思います」瀬戸「そうですよね。僕もそう思います」深田「華と和馬は本当にピュアに愛し合っていて、職業が違ったら、あんなにつらい思いをしなくていいはずの2人。なので、今作では普通の家族になれたらいいなと思います」瀬戸「『ルパンの娘』は、どの役もめちゃくちゃくたびれるんですよ(笑)。どのシーンも、100%のエネルギー。ふざけるにしても、アクションにしても、ミュージカルシーンにしても、みんなが全力。そこが面白いところであり、みんなが“バカだな”と思ってくれたり、共感してくれるポイントだと思ってます。われわれは前作以上のギアを入れてやっているので、ぜひ見てください!」『ルパンの娘』10/15(木)夜10時スタート(フジテレビ系)※初回15分拡大スタイリング/亘つぐみ(深田)、大友洸介(瀬戸)ヘアメイク/園部タミ子(深田)、染川知美(瀬戸)
2020年10月15日フリーライター鈴木智彦さん撮影/伊藤和幸暴力団相手に体当たりの取材を重ねて約30年。監禁や襲撃などを経験してもなお、裏社会に斬り込み、誰もが忌避する世界のトビラを開け続けてきた。銃で撃たれたあの日から、「暴力」を追い続ける男を突き動かしてきたものとは──。■魚を食べたら密漁の共犯?今年もサンマが高い。それでも、醤油(しょうゆ)を垂らした大根といただく脂の乗ったサンマは、この季節には欠かせない旬(しゅん)の味覚だ。しかし、誰もが口にする魚がヤクザの密漁で捕獲されたものだとしたら──?暴力団による海産物の密漁や密流通が横行している。つまり、知らず知らずのうちに私たちは密漁品を食べ、暴力団の資金源を支えているかもしれないのだ。そんな食品業界のタブーを暴いたのは、ライターの鈴木智彦さん(54)。「日本の漁業をちょっと取材すれば、密漁や産地偽装問題が噴出しますよ。漁業関係者にとっては周知の事実でも、今までその詳細が報道されることはなかった。誰も足を踏み入れてない“秘境”だったんです」ヤクザ専門誌を経て、フリーの立場でおよそ30年、暴力団を追い、関連記事を寄稿し続けてきた鈴木さんにとって、“密漁ビジネス”の取材はまるで「アドベンチャーツアー」だったという。取材を始めたのは2013年のこと。あるときはサンマにイワシ、サバといった大衆魚の中心地・銚子に赴いてヤクザの痕跡を調べ、“黒いダイヤ”と呼ばれるナマコの密漁に迫るべく北海道へ飛んだ。またあるときは、国際的なウナギ密輸シンジケートを追って、九州から台湾、香港まで飛んでいる。足で稼いだ情報が詰まった体当たりのルポルタージュ『サカナとヤクザ』は、電子・紙を合わせて5万部に迫る勢い。ノンフィクションでこの数字は異例のヒットといえるが、「(取材費などの)収支を考えると微妙なところ」と鈴木さんは笑う。企画の発端は、2013年に大ブレイクした連続テレビ小説『あまちゃん』。三陸海岸沿いの架空の町にやってきた主人公が、祖母の姿を見て海女になり、地元のアイドルとして人気を得ていく人情コメディーだ。「当時、編集者とネタ出しをしていて、『黒いあまちゃんがいたらおもしろいね』と盛り上がったんです。帰宅してすぐに知り合いの組長に電話をしたら、どうやら本当にいるらしいと」周囲に話すと、普段はヤクザに興味を示さない普通の人が食いついてくる。知れば知るほど調べたくなる題材に、どっぷり向き合った。気がつけば、取材開始から5年の月日がたっていた。「東京の人だったら『ちょっと、飲みませんか?』と何度も会って、なし崩し的に内部事情を話してもらったりできるんだけど、東北や北海道の人だと仲よくなるまでに時間がかかるんです。1度、アワビの密漁の取材中に、『1日に2万円出すから、(漁師や海上保安庁に見つからないよう)見張りをやらない?』と勧誘されたことがあって。最終的には断りましたけど、そういう話が向こうから出たり、試したり試されたり、ケンカして、仲直りしてって、『金八先生』みたいな面倒くさい段階を踏まないと、人は心を開いてはくれませんから」■襲撃事件と銃弾の衝撃が原点考えてみれば、手離れの悪い仕事だ。「密漁品のアワビが売買されている」というひと言を聞き出すために、築地で4か月間アルバイトをしたこともあった。小学館の担当編集・酒井裕玄さん(39)は、当時を次のように振り返る。「築地の話は1章分にしかなっていないわけですから、効率の悪さが尋常じゃない。でも、かけた熱量みたいなものって、絶対、読者に伝わるんですよね。見張りの話も鈴木さんから『どうしようか?』と連絡があったので規範的にNGを出しましたけど、『こんな話があったけど断っちゃいました』と先回りしないのが鈴木さん。とはいえ、自分の中に倫理的なラインがきちんとあって、これを載せたら話してくれた人の立場がなくなるからと、ボツにしたネタもあるんです」納得のいくものを書いてほしいが、築地の章が入っている以上、豊洲の開場までに発売に漕ぎつけたい。原稿のデッドラインを定めた酒井さんは、ときに懇願し、ときに激ギレしながら原稿の催促を続けた。ようやく最後の原稿が届いたとき、豊洲開場は目前に迫っていた。「酒井さんには『博士になるつもりですか!?』と言われました。もし、締め切りがなかったら、あと5冊書けるぐらい取材に時間をかけていたと思います」(鈴木さん)いまや暴力団関連記事のオーソリティーとなった鈴木さんだが、端(はな)からライター志望だったわけではない。父が写真薬品などの製造販売を行う会社にいた関係で、周りにアマチュアカメラマンが多く、自身も子どものころから写真を撮るのが好きだった。高校生のときにNHKの番組を見て、戦場カメラマン・沢田教一の存在を知る。それを機に、「将来は報道カメラマンになりたい」と日本大学芸術学部写真学科に入った。1年生のときはウマの合う先生が写真基礎の担任だったこともあり、授業に出ていたが、徐々に学校から足が遠のいた。この当時から30年にわたって付き合いがあるのは、広告制作会社勤務の荒木孝一さん(55)だ。「鈴木とは一緒のクラスだったんですけど、とにかく学校で見かけたことがなかった。ある夜、もうひとり同じクラスのやつとウチにやってきて、『一緒にクルマで九州に行こう』と言うんです。いきなりですよ?こっちからしたら『お前は誰だ?』って話ですよね(笑)。結局、九州には行きませんでしたけど」■学校よりアルバイトのほうが楽しくなった学校に行かなくなった原因はアルバイトにもある。バブル最盛期の当時、海外の街並みやプールサイドで寝そべる美女など、景気のいい写真に需要があった。そういった写真のポジを貸し出すフォトストックのカメラマン事務所で助手をしていた鈴木さんは、写真を撮るため、1年の3分の2は世界を飛び回っていたのだ。「いつの間にかアルバイトのほうが楽しくなったのと、写真で稼げることがわかったのとで大学はやめてしまいました。退学ではなく、除籍です」ファッションカメラマンの藤田一浩さん(51)は、同じ事務所で働いていた後輩。姉妹に挟まれて育った藤田さんは、鈴木さんを「お兄ちゃんみたい」だと感じていた。「僕は、大阪の大学を出て上京してきたんですけど、生まれは秋田なものですから、東京の地理が何もわからない。そのとき、鈴木さんが一緒に家を探してくれたんです。一応、写真学部だったんですけど、ロクに授業に出ていなかったので、『お前は本当に何も知らないな』としょっちゅう鈴木さんに呆(あき)れられていました。それでもカメラを買うときについてきてくれて、使い方も教えてくれて。面倒見がいいんですよね。当時買ったカメラはニコンのF3っていうんですけど、今も使っています」あるとき、鈴木さんに半年間のロサンゼルス撮影の話が舞い込んだ。必須条件は普通運転免許。無免許だったが、「持っています」と即答し、慌てて免許センターへ。しかし、出発日は差し迫っていた。「非公認の自動車学校に2日通って、鮫洲で試験を受けて、落ちて、翌日は府中に行って、また落ちてを繰り返して、1週間ぐらいで免許を取ったんじゃなかったかな」ロス暮らしが始まった。当時の住まいはダウンタウンとハリウッドの間にあるシルバーレイク。マンションのそばには3ドルでたらふく揚げ物が食べられる日本名のシーフードバーがあった。日本語に飢えていた鈴木さんは、次第に店主と言葉を交わすようになってゆく。「当時、安部譲二の自伝的小説『塀の中の懲りない面々』が流行っていて、店主が『俺は安部譲二の舎弟だった』と言うわけ。そこから、その人と仲よくなりました。当時の俺は、白人に負けたくないって気持ちが強くて、日本人らしいテーマの写真を撮りたいと考えていたんです。それを相談したら、彼が『ヤクザはどうだ?』とアドバイスしてくれて。確かに、ヤクザって被写体として魅力があるんですよ。刺青(いれずみ)は入っているし、指はないし、盃(さかずき)の儀式には荘厳さがある」ある日、鈴木さんはハリウッドにつながる101号線の陸橋から夕暮れのビル群を撮影していた。ガスがかかるといい写真が撮れないため、そのスポットに通って何日目かのこと。夢中でシャッターを切っていると、ふいに衝撃が走った。暴漢に襲われたのだ。「そのとき、暴力って怖いし、暴力って強いし、暴力って力の根源だな……と思ったんです」結局、カメラも、撮影ずみのフィルムも、スニーカーも奪われていた。■ヤクザに拉致されても、怖くはない「実況見分してくれたのが不良刑事で、友達みたいになったんです。その人に『俺たちはタダで撃てるから』と連れて行ってもらったポリス・アカデミーの射撃場で、『お前、防弾チョッキ着て撃たれたことないだろ』と言われて。なぜか防弾チョッキを着て、至近距離から銃で撃たれたんです。一瞬で人生観が変わるぐらいの衝撃でした」こうした出来事が重なり、帰国した鈴木さんは暴力を取材テーマにしたいと考えた。そして、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部の扉を叩く。「編集部に連絡したら、カメラマンは募集していないというので、とりあえず編集部員として入りました。すぐ辞めようと思っていたのですが、2か月ぐらいで『実話時代BULL』って雑誌の編集長にさせられて。編集長といっても要はクレーム担当で、若いやつにやらせるわけです。そこからずるずる今に至ります」仕事内容は急変したが、少しずつヤクザの流儀を覚えていった。例えば、名前や組織の間違いなら、人間なら誰でもあるケアレスミスなので、謝れば許してもらえる。一方で、間違えられないのがケンカの勝ち負けだ。「彼らはいかにケンカが強いかという表看板をしょっているから“負けた”はタブーだし、匂わせてもダメ。間違えたら訂正文を出すしかないんですけど、ヤクザは前例より大きい訂正文を出させたがるんです。1回やるとキリがないので、いかに小さなスペースに収めるかが勝負でした」携帯電話がまだ普及していない時代。編集部に呼び出しの電話がかかってくることもあった。とはいえ、恐怖心はなかった。会って話せば仲よくなって人脈を広げられるし、根性を見せておかないと、「お前、あのとき来なかったよな」と、なめられるからだ。わかる気もするが、さらりと、「拉致されたこともあります」と聞いたときは耳を疑った。「彼らはプロだから、殺人に見合うだけの利益がなければ殺さない。こちらも書いてはいけないラインがわかっているから、拉致されても怖くはないんです」ほどなくしてフリーライターに転向し、精力的に暴力団関連の取材を続けた。そのころ、こんなアドバイスを送ってくれたヤクザがいた。「『フリーになった以上、数年に1度はヤクザに襲撃されるようなことを書かないと、お前の名前が高まっていかないぞ』と言われたんです。それも一理あるなと、山口組があまり東京に進出していなかったころに、彼らが嫌がるようなことを10個ぐらいまとめて書いたんです。クレームもあったけど、無視しました」自宅がバレるのを懸念した鈴木さんは、歌舞伎町に事務所を借りていた。ある朝5時ごろ、そのドアを叩く音がする。ハッと思うや室内に目出し帽をかぶった男が5人ほどなだれ込んできて、パソコンや備品を破壊された。「顔を絨毯(じゅうたん)に押しつけられて引きずられたので、擦過傷みたいなものもできました。でも、痛いのなんて一瞬で、渦中にいる間は何も感じないんです。ギャングに襲撃されたときも同じで、恐怖は後からやってくる。ある程度、落ち着いて、庭の暗闇とかを見ているときに、今ここにヤクザが潜んでいたらどうしようと怖くなるんです」■信頼できる親分との親子以上の絆身の危険を感じた鈴木さんは、大阪に逃げた。そのとき、何も言わずとも間に入り、話をつけてくれたのが西成に本部を置く東組の本部長(※当時)で、実話誌時代からお世話になっていた赤松國廣さんだ。「もう睡眠薬に頼らんでええで。そのかわり、被害届だけは取り下げや」。この言葉に安堵(あんど)した鈴木さんは、どのラインを越えたら危険が及ぶのかを身をもって知った。「赤松さんは心の底から信頼できるヤクザでした。10年ほど前に病気で亡くなったのですが、その1か月ほど前に東京に出てこられて、後楽園ホールのバーで飲んだのが最後です」愛妻家だった赤松さんは、さまざまな席に夫人の久美子さん(68)を伴った。そんな縁もあり、赤松家と鈴木さんの付き合いは今も続いている。「鈴木くんと初めて会うてから25年ぐらいやな。お父さん(夫)と気が合うのか、親子以上の感じでした。お父さんは男の人は絶対に自宅に入れへんのやけど、死ぬ前に自宅の1室を改装したんですわ。『これ、鈴木君の部屋にしたってや』って。お父さんが亡くなってからもよう気にかけてくれはります。この間は、雑誌がコンビニに置かれへんようになってきたみたいな話になったから、『小説でも書きーな』言うてんけど」そう語る久美子さんの隣で、「もっと、ええエピソードあげーや」と、つっこみを入れるのは、長女の久栄さん(48)だ。「うちの父親は引退したら小説家になりたいぐらい物書くのが好きやったから、逆にうれしかったんやと思う。鈴木くんがまだペーペーやったころ、2人してひと晩中、『こうやって書いたらええ』なんてやっててね。鈴木くんも、自分が物書きで食べられるようになったのは親分のおかげやっていつもゆうてくれて、今でもこっち来たら、ウチの家族ごとご飯に連れて行ってくれてやるわ。ほんま、義理堅いで」■人間くさくて感情が極端に出る存在今まで、総勢500人以上の暴力団関係者を取材してきた。暴力について書こうと思った日から今日までの数十年の間に、鈴木さんがヤクザに抱くイメージも、彼らのあり方もその都度、変化している。「実は、ヤクザの暴力をあまり体験していません。彼らは仲間にはとても優しいんです。考えてみれば、こっちは取材する側で、向こうはよく書いてほしいわけですから当然ですよね。それもあって、最初はヤクザに酔うんです。けど、長い年月がたつと、やはりヤクザは信じきれないということがわかってくる。ですから、すぐにのめり込んで、『この人好き!』となってしまうタイプの人はまずい。ハイハイ言っていると、使い走りにされてしまうし、ヤクザを褒めまくるライターが書くことなんて信用できないですよね?」取材が一段落着くと、上げ膳据え膳の接待が待っているのがヤクザの世界。それを受け入れる書き手もいるが、鈴木さんは「付き合いが悪い」と言われても断って帰る。一線を引くことが大切だというポリシーがあるからだ。一方で、書く側に軸がないと、たやすくからめとられてしまうほど、ヤクザはある種、魅力的な存在でもあるのだろう。「実話誌時代に取材をさせてもらった親分は戦中派で、敗戦がなければヤクザにはなっていなかったであろうインテリも多かった。ですから、それなりにヤクザ関連本を読み漁って話を聞きにいくわけですけど、思い上がりをコテンパンに打ち砕かれることも多かったですね。ヤクザって、いい意味でも、悪い意味でも人間くさいんですよ。彼らは嫉妬に狂うし、憎いと思ったら殺してしまうし、これは人の道に反しますってときはわれ先に頷(うなず)く素直さもある。人間の感情が極端に出るんです」■運命は、自分の性格が呼び寄せるヤクザに限らず、極端な感情の発露が暴力に形を変えることもある。例えば、「好きだからこそ」と暴力をふるうDVや、弱みにつけ込んでの脅し。この手の暴力をふるう人間が身近にいた場合、対処法はあるのだろうか?「以前、ヤクザに『いじめをなくすには、どうすればいいか?』と聞いたことがあるんです。返ってきた答えは、『反撃すること』。彼らのメンタリティーでは、いじめられっぱなしのやつは、いじめてもいいという発想があるらしい。でも、そこには圧倒的な男女の差や年齢差があるわけで。反発できないときは、一刻も早くそこから逃げるべきだと思います」現役のヤクザも、はじめから暴力に明け暮れていたわけではない。居場所がなかったり、いじめられていた過去があったりするケースも多いという。「本当に強い人はあっさりしてて話もわかってくれるので、武闘派からのクレームは処理しやすいです。だけど、いじめられていた人がヤクザになると、社会に復讐を始める。だから、その暴力には限度がないんです」2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災に付随して起きた福島第一原子力発電所事故。断片的な情報はアナウンスされるものの、なかで何が起きているのか伝わってこない──。そのとき作業員として1Fに潜入し、誰よりも早く情報を発信したのも鈴木さんだ。その取材をもとに、ヤクザと原発との密接な関係を描いた『ヤクザと原発 福島第一潜入記』のなかで鈴木さんは、「暴力団と1Fは誰もが嫌がる危険な取材先で、だったら自分に向いている」と書いている。「青くさいんだけど、昔からみんなが嫌がっているところに飛び込んでいくのが好きで、どこまで捨て身になれるかだったら負けないというのがあるんです。考えてみれば、中学生のころからそういうところがあったかもしれません」男女交際にうるさい中学校だったにもかかわらず、毎日、彼女と一緒に登校した。冷やかしで雪玉を投げられ、教師には咎(とが)められ、学校中で問題になっても、一緒に登校し続けた。「運命って自分の性格が呼び寄せているんじゃないかと思うことがあるんです。ヤクザの取材を続けているのも、最初は絵になるからと思っていたけど、みんながイヤがるからなんですよね。それでどんどんハマっていって、新聞社でさえ取れない情報を実話誌出身の俺が取ってくる。何なら優秀な記者に頭を下げられたりするワケじゃないですか。自分は能力も低いし、ほかじゃ目立たないけど、『ヤクザといえば、鈴木智彦』と言ってくれる人がいる。それを聞くと、喜びで打ち震えるんです。ありがとうございます……!って気持ちになるんです」■鈴木さんは全く締め切りを守らないタイプどれだけ危険な場所に潜入しても動じない鈴木さんだが、昨年、驚くほど動揺する出来事があった。それは、ピアノの発表会での演奏中(!)に起きた。ピアノを習い始めたのは一昨年前。『サカナとヤクザ』脱稿明けのスーパーハイな状態のままシネコンで見た、『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』がきっかけだった。全編にABBAのヒット曲が流れる映画の最中、『ダンシング・クイーン』が流れた瞬間、滂沱(ぼうだ)の涙が止まらない。音楽そのものが、直接感情を揺さぶったのだ。「けっこう自信があったんですよ。自分はさんざんヤクザの事務所に乗り込んで話も聞いてきたし、もはや緊張することなんてないって。ところが、演奏の途中から本当に頭の中が真っ白になって、曲が1小節パンと飛んでしまったんです」この顛末(てんまつ)は『ヤクザときどきピアノ』のタイトルで1冊にまとまっている。今でもピアノのレッスンは続けているが、ほかにもやりたいことはたくさんある。「いま、54歳なんですけど、飛行機でたとえるなら降下前にポーンとベルトサインが鳴った状態。もう時間がないから、やりたいことは何でもやると決めているんです。コロナが落ち着いたらまず習字。やりたいことを見つけたいというより、不得手な部分を何とかして挽回したいというのが強いですね。字が汚いのがコンプレックスなので。楽器なんて何も弾けなかったけど、楽器ができる人ってみんな幸せそうだし、セッションなんて最高に楽しいんだと思う。それを見て、『いいですね。いつかやりたいです』って言うのに飽きちゃって」自転車にバイク、クルマといった乗り物にも目がない。クルマの運転をしたことがない人が習練するうちに脳内に回路ができて、意識しなくてもクラッチ操作ができるようになる──。そんな世界に焦点が合っていくような瞬間が楽しくてたまらない。それが如実に表れたエピソードを教えてくれたのは、大洋図書の担当編集・早川和樹さん(43)。「鈴木さんは全く締め切りを守らないタイプで、締め切り日に連絡をすると、『何か頼まれていたっけ?』みたいなことを言うんです。それから、1、2日後に原稿があがってくるのがいつものパターン。原稿は最高に面白いし、それ自体は問題ないんですけど、あるとき、鈴木さんが所有しているバイクを撮影させていただいて、『何文字ぐらいで』と原稿も依頼したんです。そのときだけは、1時間後に原稿があがってきました」週刊女性取材班が撮影をお願いした日も、ヤマハのTW200で颯爽(さっそう)と現れた鈴木さん。何せ、高精度な機械が好きなのだという。「だって、よくできた機械には理由のない部品がひとつもないんですよ?よく見るとネジが中空になっていたりして、『軽くするため、そこまでやるか!』と楽しくなるし、そうやって組まれたものに乗ると『いま俺は緻密な機械に乗っている!』とハイになる。すべての部品にそうなっている理由があり背後にドラマがある。それを読み解いていくのがたまらないんです」その言葉を聞いて、1冊のルポルタージュを書くために、取材に5年かけた理由が少しわかった気がした。■死ぬまで題材には困らないすべての部品に存在理由がある精密機械に魅力を感じる一方で、鈴木さんが追い続けているヤクザという存在は、ひと言で説明がつくものではない。「覚せい剤密売団のボスに『カネが貯まったら何をしたいですか?』と聞くと、発展途上国に病院を造りたいとか言うわけ。人間は悪にまみれていても善を希求したりするわけで、それが人間のダイナミックさなんですよね。暴力団を取材すると、たびたびそういう矛盾に遭遇します。自分のなかにも矛盾はたくさんあるし、一生かけてもその矛盾が解決することはないんでしょうね」鈴木さんが尊敬するノンフィクション作家に溝口敦さんがいる。食肉の世界で暗躍した人物に肉迫した『食肉の帝王』などで知られる人物だ。溝口さんから、「道窮まりて、王道に至る」と書かれた色紙をもらった鈴木さんは、それを仕事部屋に飾っている。「要するに、山はどこから登っても頂上につくということなんです。で、昔のヤクザはしのぎ(収入を得るための手段)がはっきりしていたけど、表立ってしのぎができにくくなっているいま、密漁をやっているのもいれば、街で売春の斡旋(あっせん)をやっているのも、スニーカーを売っているヤクザもいる。多いのは投資ですね。ほんと、ヤクザは社会のあらゆるところとつながっています。みんなはヤクザと聞くと後ずさるけれど、俺は暴力団取材をしてきたから、経験を活(い)かしてほかの世界に切り込んでいけば死ぬまで題材には困らない。『ヤクザ』というどこでもドアがあって、俺だけがそのドアを開けられると思ったりします」わからないことをわかりたくて、長い時間を取材に費やしてきた。「それでも、俺が子どものころから知りたいと思っていたことは、ひとつもわかっていないんです。例えば、死んだらどうなるか、とかね。ほかにもわからないことがたくさんあって、大半の人はわからないことをわかったふりをしてるだけということもわかってきた。でも、わからないことを考え続けなければならないということも、最近わかってきて」この“知りたい欲”が衰えない限り、鈴木さんは現地に足を運び、見て、聞いて、自分にしかつかめない情報を追い続ける。(取材・文/山脇麻生)やまわき・まお編集者、漫画誌編集長を経て’01年よりフリー。『朝日新聞』『週刊SPA!』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆
2020年10月11日伊藤沙莉訳撮影/伊藤和幸「母がリアルタイムでアニメの放送を見ていたんです。“ビッケの声をやらせていただく”と伝えたときの興奮具合を見て、とんでもなく好きだったんだなと思いました(笑)。母にとっても特別な作品に、時を経て娘である自分が挑戦できるって、なんかいいなと」■3回目の声優出演で顔がぐちゃぐちゃ公開中の映画『小さなバイキングビッケ』で主人公の少年・ビッケの声を演じている伊藤沙莉(26)。『SING/シング』『怪盗グルーのミニオン大脱走』スタッフの最新作となる今作。原作は、世界130か国以上で愛され続けているスウェーデンの児童文学『小さなバイキング』シリーズ。日本では、ドイツと共同製作したテレビアニメが’72年から放送された。「本当にアニメーションがきれい。大画面の劇場で見て感動していただきたいです。母が見ていたころのビッケのいいところは残しつつ、進化したルックスになっています。新しいビッケも愛していただけるようになったらうれしい」“夢を信じる勇気”と“家族の絆”をテーマに、小さくて力は弱いけれど、頭の回転の速いビッケが、母を救うために海賊の父や仲間たちとともに大海原へ旅に出る物語。「ビッケの弱々しい声が、女々しく聞こえないように気をつけました。ボイスキャストをさせていただくのは、今回で3回目。いままで経験した中でいちばん幼い役柄です。ドラマや映画のようなお芝居以上に、表情から声を出していった気がします。例えば、子ども扱いされたビッケが“僕って呼ばないで”と言うときに“う~”っていう顔をしながらアフレコをしたり。声優のお仕事のときは、声も表情もオーバーに。特にこの作品はぐっちゃぐちゃの顔をしながら演じました(笑)」■伊藤沙莉が語った“家族への想い”3人きょうだいの末っ子の伊藤。ビッケとの共通点を“子ども扱いされること”と語る。「子ども扱いされることより、頼ってもらえないことにモヤモヤしてしまうんです。兄がまぁ、頼りないので、家族になにかあると基本的に姉が動いてくれて。そんなときに、私も頼ってくれたらいいのにと思います。大人になっていくにつれて子ども扱いの種類やレベルは変わっているのですが、距離感は変わらない。だから、ビッケの気持ちがよくわかります」長く伊藤と同居していた兄で、お笑いコンビ・オズワルドの伊藤俊介が今夏引っ越し、ひとり暮らしをスタートさせた。「若干、寂しさはありますが、自由でいいです(笑)。兄とは、昨日もテレビ電話をしたのですが、部屋の中でダウンを着ていて。“なんで?”と聞いたら、同居している人の体格がいいからか暑がりで“家の中が北極になっちゃった”って(笑)。わざわざオーディションをして同居人を決めたはずなのに。兄、家ではずっとダウンを着ているそうです(笑)」“9歳から芸能界に入り、数々の作品に出演してきた。今年は、今作を含め映画8作、ドラマ4作に出演。昨年出演した作品でギャラクシー賞テレビ部門個人賞と、日本映画批評家大賞助演女優賞を受賞と、実力&人気の高まりをみせている。「女優という仕事がどんどん楽しくなっています。唯一、小さいころから興味がなくならなかったのが演じること。性格的にも、これしかできないんだと思います。だから、好きなことが見つかって本当によかった。楽しいと思える限りは、続けていきたいです」感動の冒険ファンタジー映画『小さなバイキング ビッケ』EJアニメシアター新宿ほかにて全国公開中配給:イオンエンターテイメント、AMGエンタテインメント(C)2019Studio100Animation−Studio100MediaGmbH−Belvision
2020年10月10日転地養蜂家西垂水栄太さん撮影/伊藤和幸『西垂水養蜂(にしたるみずようほう)園』の3代目栄太さんは、祖父と父から5歳で仕事を教わった「蜂屋の息子」。過疎化する町の学校の生徒が足りず、「町の子」になってほしいと町民に切望された彼は、親元を離れて山村留学していた経験もある。幼いころから培ってきた持ち前の責任感で、今年は闘病中の父とコロナ禍で移動を断念した祖父に代わり、指揮を任されたが……長雨の影響で花が咲かなかった北海道で初めての大きな試練にどう立ち向かったのか──。■親子3代が現役! 転地養蜂一家鹿児島ではれんげ草を、長崎ではハゼやミカン、秋田でアカシアの採蜜をすませたら、タンポポにアザミ、ソバの花を求めて北海道北部へ──。春から夏にかけて、ミツバチとともに約3600キロを旅するのは、西垂水養蜂園3代目の西垂水栄太さん(28)だ。養蜂業は大きく2つに分けられる。決まった場所に蜜箱を置く『定置養蜂』と、花の開花に合わせて南から北へ移動する『転地養蜂』だ。花にも旬があり、地域ごとに蜜源となる植物も異なる。また、繊細な女王バチが夏に卵を産むのは冷涼な気候の地のみ。うまいハチミツを採(と)るために地理的特性を生かした転地養蜂だが、業界を取り巻く状況は厳しい。高齢化や農村部の乱開発による蜜源の減少、輸送コストの高騰。輸送時にSAやフェリーでほかの利用客が蜂に過敏になっている問題もある。一説によると、従事者の数は全盛期に比べて10分の1ほど。そんななか、西垂水家は親子3代が現役という珍しい養蜂一家なのだ。「小学校にあがるまで、父と祖父が運転する大型トラック1台と2トン車1台で、母と僕と4人で各地を移動していました。両親が作業する間、おもちゃと一緒にテントに放り込まれていたのがいちばん古い記憶です。それ以前は箱に入れられて寝台に置かれていたらしいです。扱いが雑ですよねぇ。小さいころ、トラックの鍵をいじってオンにしてしまい、バッテリーがあがって大騒ぎになったことも」語尾を少し伸ばすやさしい語り口の栄太さん。物心ついたころから蜂が大好きで、祖父に連れられ山の作業場に行っては自ら触りにいくほど。■陰日向のない、人見知りもしない元気な子4歳になると、「蜜を搾る」方法も教わった。花の蜜を吸ったミツバチは、体内に蜜を蓄え巣に戻る。その蜜は口移しで巣の中の働きバチに渡され、巣房に貯蔵されていく。巣房に蜜が貯まると、働きバチは微生物の混入を防いで蜜を熟成させるため、巣に蓋をする。この「蜜蓋」をナイフなどで切り落として蜜を出し、遠心分離機にかけて蜜濾し器で不純物を取り除く。これが「蜜を搾る」のに必要な一連の作業だ。子どものころから、父や祖父に専門性の高い仕事を教えられた栄太さん。西垂水家では、山や仕事場で過ごす濃密な時間がそのまま家族の思い出にもなる。2代目の父、栄作さん(47)は幼い息子がやらかしたいたずらをちゃんと覚えていた。「あぁ、バッテリー事件ね!なんせ山の中だったから大変だったよ(笑)。栄太が小さいころは連れて回ったからなぁ。うちは上から栄太、潤、桜と子どもが3人いてね。夏休みといえば、みんなで北海道」毎年夏、一家が北海道の拠点にしているのは、美深町の恩根内。町面積のほとんどが森林という恵まれた地だ。ここでの蜜採りは家族総出でも手が足りず、地元の人に手伝いを頼むのが恒例になった。1年のうち数か月を恩根内で過ごす一家の存在はやがて町の人に知れ渡った。栄作さんも自分たち家族を知ってもらう努力をしたと言う。「俺も20代だったから、手伝いに来てくれた人と飲みに行ったり、そこで町の顔役と知り合いになったりしてね。夜、『バーベキューやるべ』なんて集まったり、家族みんなで祭りに参加させてもらったり。本当に仲よくしてくれたんだよね」農業が盛んな恩根内には、4月から12月頭の農繁期のみ開いている保育園があった。そこで先生をしていた谷みどりさん(61)は、小さいころの栄太さんを預かっていた縁で、今も交流がある人物。「見たままのとおり、陰日向のない元気な子でね。人見知りもしないから、町で栄太のことを知らない人はいないぐらい。よーく、悪さもしてたけどね(笑)。ここらで生まれたみたいなもんなんだから、『こっちで奥さんをもらって、所帯を持ったら?』って言ってるの。私もみんなも子守りしてあげるからって(笑)」栄太さんの存在が町の人に認識されてゆくなか、父・栄作さんは恩根内の小学校から、青天の霹靂(へきれき)の提案を受けることになる。■親元を離れ、「町の子」として成長実は栄太さん、親元からひとり離れて、恩根内の「町の子」として育てられた時期がある。小学3年から5年生になるまでの3年間、美深町でホームステイをしていたのだ。その背景には、恩根内小学校(現在は廃校)の苦境があった。当時の話をしてくれたのは、教頭を務めていた奥山亮枝さん(66)。「恩根内小学校は2学年合同の複式校で、歴史も古いんです。だけど、過疎化と少子化で、あと1人、生徒がいないと、先生が2人減らされてしまう状況でした。そこで、校長が『栄太に来てもらおう』と言いだして」毎年、夏休みにやってくる西垂水一家。ならば、栄太さんだけ、ひと足早い4月に北海道入りしてもらい、恩根内小学校に入学してもらえないかと期待を寄せられたのだ。この地域では、小学校の運動会になると町中の人が応援に駆けつけ、学芸会となれば、老人会も参加して詩吟を披露する。いわば、小学校が地域コミュニティーの要として、重要な役割を担っていた。■全校生徒わずか16人の小学校奥山さんは切実な思いを、栄作さんにぶつけた。「ご両親にお話しする前に、PTAや自治会も一緒になって、どうしたら栄太が気持ちよく過ごせるかを話し合いました。万全を期してお父さんにお話ししたら、『まずは、じいちゃんに話してみます』と。それからほどなくして、ご快諾いただいて」もともと、家族が養蜂の仕事をしている間、町の保育園に預けられていたこともある栄太さん。地域の同年代の子どもとはほぼ顔見知りだという気安さもあった。とはいえ、栄作さんに迷いはなかったのだろうか?「迷ったっていうか、まず家族会議だよね。『山村留学みたいなもんだ』と言っても、じいちゃんもばあちゃんも、『かわいそう』『人様んちに子どもを預けるなんて言語道断』と大反対。お母さんにも、『地域や学校を助けたいのはわかるけど、自分もやってこなかったことを、なぜ子どもにさせるの?』と言われて、葛藤はありました。けど今は、栄太にとっていい経験になったと思うし、行かせてよかったと思っています。当時、栄太が『僕、行ってもいいよ』と言ってくれたのも大きかった。もし、イヤだと言ったら絶対に行かせませんでした」4月。入学式を前に、旭川空港に降り立った栄太さんは、残雪に目を奪われた。夏の北海道しか知らない鹿児島の小学生にとって、初めて見る雪は長年憧れていた存在。「なんせ物珍しくて。鹿児島の友達にも自慢しました。『雪触ったぜ』『えっ!? 雪合戦したの?』みたいな」全校生徒わずか16人の小学校。それでも恩根内での日々は、毎日が楽しかったという。当時を知る1学年下の高原陽樹さん(24)は語る。「栄太君に会ったばかりのころは訛りがすごくて、何を言ってるのかわからないことも。例えば、栄太君は自分のことを『おい』と言っていたのですが、僕は自分が呼び止められたのかと勘違いしたり。けど、それもすぐになくなりました。栄太くんはムードメーカーで、みんなに話しかけて面白い話をしてくれるんです。小学生のときは、常に笑っていました」標準語の「すごい」が鹿児島では「わっぜ」に、北海道では「なまら」になる。そんな方言の壁も、いつの間にかなくなった。仲よくなったふたりは、放課後になると全校生徒と一緒にボール遊びに興じ、夜になると自転車で再集合。街灯に集まるカブトムシやクワガタをとりまくった。「釣り道具を持って、先生と川や沢に出かけ、ペットボトルの罠でザリガニを捕まえたこともあります。先生が『自衛隊が近くに橋を架けるみたいだから』と授業を中止して、みんなで見に行ったこともありましたねぇ」(栄太さん)■人の家と本当の家族は違うということ当時、ホストファミリーとして栄太さんの生活を支えたのは、白菜や麦などを栽培する農家の庄司村尾さん(62)と珠恵さん(55)ご夫妻。「いやー、教頭の家で鍋をご馳走になったのがいけなかった(笑)。何も知らずに呼ばれて行って、たらふく飲まされたところで、『栄太をお願いできないか?』と頼まれて」(村尾さん)その場で快諾した村尾さんだが、食べ盛りの子どもを預かることになった珠恵さんは気が気ではなかった。「うちは農作業のお手伝いに来てくれる人用の休憩部屋もあるし、3人子どもがいるからひとり増える分にはかまわないんだけど、好き嫌いやどれぐらいの量を食べるのかって大事なことじゃないですか。遠慮があってもいけないし、そこは何度も聞きました。そういえば栄太の好物だからと、ご実家から空豆を送っていただいて。北海道にはないものだから『これ、どうやって食べるん?』と聞いたのを覚えています。翌年から自分で育ててみようと種を買って植えたんだけど、寒くて実がならなくて。今なら気温も変わってきてるから、いけるかもしれないね」(珠恵さん)いわばよその家の子、栄太さんのために日々お弁当を作り、北海道にはない好物を種から育てる──。なかなかできることではない。「ここらは、みんなそんな感じです。かくいう私も新規就農で平成元年に山形からこっちに来たクチで」(村尾さん)毎年、新規就農者が1、2世帯入ってくるというこの町では移住者が珍しくない。世話焼きの人も多いため、自然とフレンドリーなコミュニティーが形成されていくという。栄太さんが恩根内の町の子として過ごすようになって3年。最初の年は心配した母と祖父がいつもの年より早く北海道入りしたため、3か月ほどで終わったホームステイは、2年目、3年目と時間がたつにつれて長くなり、ついにはひと冬を過ごすほどに。町の救世主となった栄太さんに、前出の奥山さんは著しい成長を感じ取っていた。「その年ぐらいの子どもって多感じゃないですか。最初はウチに遊びに来て大騒ぎして、タンスをひっくり返したりしていましたけど(笑)、1年ぐらいで引くことや我慢することを覚えましたね。本当は寂しいときもあったでしょうけれど、私たちの前では1度もそんな姿を見せませんでした。すごいなぁと思います」当の本人に当時の心境を尋ねると「布団をかぶって泣いたこともあったかな?」と笑う。「みなさん、とてもよくしてくださったんですけど、人の家と本当の家族は違うということが、その年にして身に染みたというか。それまで、よくも悪くも甘やかされて、自分が中心で当たり前と思っていたんです。人様に迷惑をかけちゃいけないとか、引くことを覚えたのは、この経験があったからこそだと思います」■優秀なライバルの出現に焦り楽しい小学校生活は飛ぶように過ぎ去っていった。思春期を迎えた栄太さんは、徐々に家業を継ぐことを意識するようになる。「父から『家業を継いでほしい』と言われたことはないのですが、祖父や祖母から、『継いでくれたらいいよねー』みたいな希望は聞かされていました。洗脳じゃないですけど、じゃあ継ぐかなーみたいな感じで、高校生のころには蜂屋になろうと思っていましたね。小さいころから祖父にいろいろ教わって、蜂が大好きだったし、何より新しい技術を吸収することが楽しくて」小学生のころにはすでに、餌やりや女王蜂の交尾の確認を任されるようになっていた。高校生になるとさらに専門性の高い仕事まで任されるようになり、わからないことは自分なりに考えて対処法を見つけ、それがピタリとハマるようになった。「そうなると楽しいんですよね。専業の先輩方と専門的な話ができるのも楽しかったし、『そんなことまで知ってるの?』『若いのによく知ってるね』なんて言われようものなら、心の中でヤッホーイ!です」やがて、地元の鹿児島国際大学に進んだ栄太さんは、地域創生を専攻。経営学も学び、充実した学生生活を送る。一方で、大きな転機となる出来事もあった。ひとつ年下の佐賀から来た青年が、西垂水養蜂園に弟子入りしたのだ。「その子は大親方と親方からすべてを吸収しようという情熱の持ち主。それまでは、いずれ跡継ぎになるし……と必死さはなかったんです。ところが初めて『このままじゃ抜かされる』と焦りが出て……。実際、技術面の知識は2年ぐらいであっさり抜かれてしまいました」大学中心で夏休みしか蜂に触れない栄太さんと、仕事に従事する青年とでは、吸収できる情報量がまるで違うはず。「それでも悔しかった」と栄太さん。もともと、祖父・正(ただし)さんも、栄作さんも、自ら聞きにいかないと仕事を教えてくれないタイプの九州男児。わからないことを親に聞くのが気恥ずかしい時期もあったが、プライドをかなぐり捨ててわからないことは質問し、遮二無二なって技術の向上に努めた。年下の青年に頭を下げたこともある。「大学を卒業してからの2年間は追いつけ追い越せで、技術が上達するなら恥ずかしいとかどうでもいいと思っていました。彼はおととし、卒業していったんですけど、刺激がなくなった分、気が抜けてしまって。いまでも新技術の情報交換などで連絡をとり合っています」高校生で家業を継ぐと決意し、大学生でハートに火がついた。しかし1度だけ、中学生のときに仕事をイヤだと思った時期があったという。「家の手伝いというと弟や妹は夏休みだけですが、僕だけずっと手伝い。遊びたい盛りなのに、友達が遊ぼうと誘いに来ても仕事をするよう言われて……。中学生のときに初めて父に反抗したんです。『どうして働かなきゃいけないの?』って。それでも山に連れて行かれましたけど(笑)。そのかわりじゃないですけど、対価をくれるようになりました。7万、8万円の小遣いをポンともらったり。うれしかったのは、ポケモンが流行り出したころ、ゲームボーイアドバンスを買ってもらったこと。いい感じで餌付けされました(笑)」■祖父から父へ、家業を守るバトン養蜂一筋の西垂水家だが、もともと、祖父・正さんの実家は鹿児島県知覧町(現在は南九州市)でお茶や煙草の葉などを作っていた農家。昔はその一帯も養蜂が盛んで、福岡から複数の転地養蜂家が蜜を採るため鹿児島に降りてきていた。そのなかのひとりに弟子入りした正さんは、滋賀や青森、北海道をついて回り、転地養蜂のいろはを教わった。そして、兄の泰三さんとともに独立。スタート時に師匠から受け継いだ10~20箱の蜂を2人で力を合わせて少しずつ増やし、それぞれが創業。正さんが西垂水養蜂園を創業したのは1960年。’73年には栄作さんが生まれた。’70年代から’80年代にかけて養蜂業界は、知覧町だけでも全国から50、60人の養蜂家が集まる最後の黄金期に突入。少年だった栄作さんはちょっとした優越感を感じていた。「10歳前ぐらいから、飛行機で北海道に手伝いに行っていたんだけど、当時は小学生で飛行機に乗ること自体が珍しかったから、『おまえ、すごいな!』みたいな。だけど、家を継ぐつもりはなかったし、中学生のころは料理人になりたくてね。私立の高校に行きたいと言ったら、『そんな必要はない。公立に行け』と。あてもなく地元の水産高校に進みました」情報通信科に入った栄作さんの周囲には、将来の目標を定めて勉強に励む生徒が複数いた。彼らの大半は在学中に無線の免許を取得し、航空局やNTTといった人気企業に就職を決めていったという。「俺は遊んでばかりだったから、そういう同級生を間近で見て『俺は何のためにこの高校にきたんだろう』と思ってね。当時はバブル真っ盛りで、求人も多かったけど、自分は特に無線をやりたいわけじゃない。そこで初めて、『オヤジと一緒にハチミツ採るのも面白いんじゃないか』と思ったわけ」今まで1度も跡を継ぎたいと口にしなかった次男坊の心変わりに、西垂水家では緊急家族会議が行われた。その後、家に入って1、2年で、「この仕事、面白いじゃん!」と開眼。時を同じくして結婚し、20歳で栄太さんの父になった。とはいえ、栄作さんの養蜂家人生は決して順風満帆だったわけではない。初めて、正さんから離れて秋田の採蜜を任されたときは、朝から晩まで夫婦で働くものの同業者の半分ほどしか蜜を採ることができなかった。必死で作業をするも、「そんなことも知らないのか」と同業者にあきれられる始末。「もう、悔しくて涙が出たよね。そこから地元の人の手を借りるようになって、本当にラクになったんです。今では、各地に手伝ってくれるメンバーがいるんですよ」何十年に1度、ほとんど蜜が採れない年もあった。自然に大きく左右され、苦労が多いわりに当時の北海道のハチミツの単価が低い問題もあった。鹿児島のれんげ一斗缶の値段に対し、質では負けない北海道の百花蜜が3分の1程度にしかならないことも。「北海道の蜜はたくさん採れるから安かったんだけど、鹿児島からそれなりの経費をかけて行くのにだよ?そんなバカな話はないわけで、『いつか、このハチミツを3倍の値段で売りたい』と同業者に話したら、『お前はアホか!』って大爆笑されたもんね」バブルの時期、キツい、汚い、危険な仕事を指す「3K」という言葉が生まれ、敬遠される傾向にあった。自ら養蜂を「3K」という栄作さんは、このままでは業界自体が衰退すると危惧。また、外国産の安いハチミツが流入し、国産ハチミツが押され始めていた。栄作さんは問屋との金額交渉に乗り出し、北海道のハチミツの単価を引き上げることに尽力。さらに、作業効率を上げるためにリフトを導入し、そのための倉庫も新たに建てた。■『よくやった』なんて言われたことがないけど「農家なんかでも先を見据えている人は、作業時にクルマが入っていけるよう道を整備して、自分も後の代も作業しやすいよう環境作りにお金をかけるわけ。周りから『大事な畑をつぶして何が道だ。馬鹿垂れめ』なんてあきれられながらね。で、そういう家ほど子どもが跡を継いでる。俺も難儀するのはイヤだし、そこはまねしたいと思ってね。ウチのじいさんもさばけた人で早くから新しい機器を導入するタイプだったからさ。好きにやったらいいさ、と」正さんから仕事でノーと言われたことがないと栄作さん。とりあえず、思うようにやらせてみて、何かあったらフォローするのが西垂水家のスタイル。「だからといって『よくやった』なんてひと言も言われたことがないけどね」と笑う。栄作さんの代になって、西垂水養蜂園は規模を拡大。最初は10~20箱から始まった蜜箱は、最盛期で1500~1600箱に膨れ上がった。跡継ぎのいない同業者から、蜜箱を置くのに最適な場所を買い受けることができたのも大きい。養蜂業における蜜箱の置き場所は売り上げを左右する。正さんの時代はその権利をめぐり数百万円単位の金が動き、ケンカもあったほど。父・栄作さんは時代に即した環境をこうして整えてきた。今度は、自分が元気なうちに、跡を継ぐ3代目の息子にも大きな苦労をさせたいと栄作さん。「俺が元気なうちならフォローできるし悔しい思いをして初めて人は知恵を絞っていろいろ考えるからね。だけど、改めて思うに親子3代で同じ仕事ができてるって本当に幸せなことだよ。栄太も弟の潤も跡を継ぐって言ってくれたときは本当にうれしかった。きっと、うちのじいさんも俺が継ぐって言ったとき、うれしかったんだろうな。この年になって、それがわかるよ」■コロナ禍で降って湧いた3代目の試練栄作さんの願いは思ってもみない形で現実となった。今年の春、栄作さんにがんが見つかったのだ。幸い、早期発見だったこともあり、予後の経過は順調だという。しかし、新型コロナウイルスの影響もあり、高齢の正さんと栄作さんは、今回の採蜜キャラバンを見送ることにした。それに伴い、栄太さんが従業員2名(うちひとりは弟の潤さん)の陣頭指揮をとり、採蜜から問屋との金額交渉までの一切を初めてひとりで担当することになったのだ。これが栄太さんにとって、試練になった。「いつか、自分の好きなように決められるときがきたら、ああしよう、こうしようと考えていたんですけど、親方も、大親方も来ないなんて突然すぎました。しかも、今年はあまり花が咲かない年だったんです。蜜の量でいくと昨年の半分ぐらい」長雨の影響もあり、あまり花が咲かなかった北海道の夏。いつもの年なら花が咲き乱れ、蜂の状態もよくなるのがルーティン。栄太さんの焦りは大きかった。毎日、朝は4時に起きて山に入り、辺りが暗くなる夜8時まで作業する。睡眠時間を削っても、思うように量が採れなかったとき、思い出したのは祖父・正さんの言葉だった。「鹿児島を出る前、大親方から『北海道はいいときだけじゃないよ。思いもよらない天候の年があって、今年は花も蜂もあまりよくないと思う』と言われていたんです。そのときは気にも留めなかったんですけど、すごいですよね」とはいえ、成果を得られなかったわけではない。蜜箱を置く位置などさまざまな工夫を施し、7月には惚れ惚れするような美しいシコロとアザミの蜜を採ることができた。「問屋さんからも、『君が採るハチミツはお父さんやおじいさんが採るのとは違うね。キレイだね』と言ってもらえて、うれしかったです。父や祖父は花の種類を混ぜて百花蜜にするんです。それは蜂のためでもあるのですが、問屋さんとの会話から、単花蜜を欲しがっていると感じていたので頑張りました」優しく成長を見守ってくれる問屋もいれば、安値で言いくるめようとする問屋もいた。■蜂に死なれると、本当につらくて悲しいまた、大きな商機を逃したこともあった。多くの農家から花粉交配用の蜂が欲しいという問い合わせがあったにもかかわらず、手元に売る蜂がいなかったのだ。これは、蜂一匹一匹をより丁寧に育てるため、蜂を増やす作業を抑えていたことに起因する。その判断は、よかれと思った栄太さんの発案だった。「初めてグンと蜂を減らした年に限って、大きな台風が2つきて全国的に蜂が流されたり、広範囲でダニが流行ったりで。同業者からの問い合わせもありました。だけど、売る蜂がないわけです。ウチも一部の蜂がダニ被害に遭いました。所詮、虫ではあるんですけど、蜂に死なれると本当につらくて、悲しくなるんです。彼女にフラレた感じというか」いま、日本の蜂屋が抱えているいちばんの問題はこのダニだという。温暖化でダニが増えやすくなり、薬の耐性もできてきたからだ。自分の代になったら量より質を追求したいと思っていた矢先の大きな損失に、量も大切だと揺れる3代目。そして、思うのは偉大な祖父と父のこと。「最初は意気込んでいましたけど、納得のいかない結果に終わってしまって……。改めて思ったのは、大親方と親方のすごさです。じいちゃんは本当に蜂LOVEで、蜂を触っていないと落ち着かない人。天候や自然を読むのも、蜂に関する知識も抜群だし、技術面では足元にも及ばない遠い道しるべ。父に関しては、現場にあまり来ない時期があり、正直、『蜂が好きじゃないのかな』と思ったこともあります。だけど、自分が経営のことを任されて初めて、人付き合いはもちろん売り上げの管理や許可関連の手続きまで父ひとりでやっていたとわかりました。すごい仕事量で、よくこれだけ量をこなせるなと」祖父が創業し、父が大きくした養蜂園。愛すべき蜂とともに、3代目の奮闘は続く。取材・文/山脇麻生(やまわき まお)編集者、漫画誌編集長を経て’01年よりフリー。『朝日新聞』『週刊SPA!』『日経エンタテインメント!』などでコミック評を執筆。また、各紙誌にて文化人・著名人のインタビューや食・酒・地域創生に関する記事を執筆
2020年09月20日退団後も抜群のスタイルを維持している、明日海りお撮影/伊藤和幸「“ムーランの日本版声優に選ばれました”とお電話をいただいたとき、たまたま母と一緒にいたんです。電話を切った途端にふっと気が緩んだというか、子どもに戻ったんですかね。涙がポロポロと出てきて。そばにいた母が“よかったね”と言ってくれました」■明日海りお、退団後“初”インタビュー昨年11月に宝塚を退団した元花組男役トップスター、明日海りお(35)。宝塚初となる横浜アリーナでのライブコンサートを成功させ、退団公演の千秋楽は日本全国に台湾、香港を加えた宝塚史上、最大規模の189か所の映画館で生中継された。新たなスタートを切った彼女が、次なるステージとして初挑戦したのがディズニー・アニメーションの傑作を実写映像化した『ムーラン』。「もともとディズニー作品が好きで、宝塚の先輩にも吹き替えを担当されている方がいるので、自分も挑戦してみたいと事務所のスタッフに言おうとしていたタイミングでいただいたお話でした。でも、オーディションを受けた感想としては、“残念でした”だろうと。女の子の声を発することに気恥ずかしさがあって」彼女が声を演じたムーランは、病弱な父の代わりに男性だと偽り戦地へ赴く少女。上官や仲間たちとの絆、敵である美しき魔女との出会い、そして、“本当の自分”との間で葛藤する姿が描かれている。「アフレコをする前に監督からは、男装して兵士になっているところはとってもいいので、少女の部分を頑張りましょうとアドバイスをいただきました(笑)。立ち回りやアクションシーンは、宝塚時代の経験を生かすことができたんだと思います。少女の気持ちを思い出すために、初めて宝塚の舞台を見たときや、両親に受験したいと伝えたころなんかをひたすら振り返りました。印象的なことって脳裏に焼きついていて、鮮明に覚えているんですよね」劇中、ムーランが恋ごころを抱くシーンもある。「これまで男子側を演じてきましたが、初恋の独特の甘酸っぱい、なんとも言えない感じは、性別関係ないですね。映像もとても美しくて、キュンとする。“胸キュン”を期待される方にも満足していただけるんじゃないかと思います」■おうち時間で鍛えた腕前吹き替えを終えてから、公開までに経験した新型コロナでの“おうち時間”で、以前より料理をするようになった。「いままで、ちょっと作るのが面倒だなと思っていたものを作るようになりました。例えば、ピーマンの肉詰めと、そのソースを作ったり、煮込み系の料理に挑戦したり。ただ、最近は暑くて麺類ばかりになってしまいました(笑)。以前より、だいぶ手際もよくなり短時間で仕上がるようになりましたが、本当の理想は、仕事が忙しく料理をしている余裕がない状態。これからですね。大好きな宝塚は、応援する立場としてファンに戻ってもいいかなと思っています」表現者として、次はどんな姿を見せてくれるのか、明日海の今後が楽しみでしかたない。■明日海りおのQ&AQ:最近の寂しかったことA:退団公演の千秋楽で、「どこかで見かけたら声をかけてください!」って言ったら、次の日から、すごく声をかけていただけて。改めて、宝塚のファンってたくさんいらっしゃるんだと思いました。でも、最近は髪の毛が伸びてきたからか、声をかけられなくなってきて。寂しいです……。Q:改めて宝塚とは?A:大好きで受験した宝塚。実際に中に入って、責任感やらで大好きの形は変わりました。でも、憧れは尽きないですし、生きがいと言ってもいい。すべてのものが詰まっていた場所。そこに、今では、故郷という意味合いも加わりました。『ムーラン』ディズニープラス 会員、プレミアアクセスで独占公開中*追加支払いが必要です。詳しくはdisneyplus.jp へ
2020年09月11日中村倫也撮影/伊藤和幸 衣食住がしっかりと保証され、セックスで快楽を貪る日々を送ることもできる。足を踏み入れる際は自分の意思だが、決して離れることはできない……。「物語として、この『人数の町』がどんなふうに受け取られるのか、楽しみです。すごく言葉が難しいんですけど、この映画が話題になりすぎても怖いな、と(笑)」■なんだかんだ十分幸せなんです借金で首がまわらなくなった男・蒼山(中村倫也)は、そんな不思議な町の住人に。最初こそお気楽に暮らしていたが、徐々に感じるざらりとした違和感。この町に潜む謎を探っていく……。「僕はぶっちゃけ(人数の町を)ユートピアともディストピアだとも思ってないですね。僕は俳優なので、勤めているわけでも、組織の中でやりたくもないことをやらされているわけでもない。きっと世の中とは感覚が違うだろうし、そのズレが怖いとも思っていて。だから世の中の反応が気になるし、そこで僕も学びたいんです」もし、目の前に“人数の町”への案内人が現れたらどうする?「“あんた、誰?”って思いますね(笑)。チープなたとえですけど、洋服屋さんで“この色、売れてるんですよ”“私も持ってるんです”って言われたら、“ほっとけよ”と思うのと同じで(笑)。僕個人は、どこにも魅力を感じない。しゃくですし、絶対に行かないですね。別に人数の町に頼らなくても、生きていく方法はある。見栄やプライドを捨てれば何でもやりようはあると思うので」何の束縛もなく、自由であることが幸せなのか?本作はそんな疑問も投げかけているが、中村が自由を感じる瞬間は、「たまにありますよ。仕事が早く終わって、夕方4時くらいに帰宅して、まだ外が明るいとき。“オレ、今日、こっから自由じゃん!”って。明るい時間から飲むビールとか、うまくないですか?」人気俳優ゆえに、不自由さを感じることも多いのでは?「そりゃ、週2でゴルフに行けたら、すげー自由ですけどね(笑)。なんか、アホみたいなことしか出てこないけど、なんだかんだ十分幸せなんですよね。いろんな物事の仕組みやルールはもちろんある。不満も幸せの基準も人それぞれだと思う。でも今、表現する場があって、生活もできているので、やっぱり幸せです」■デビュー15周年ブレイク、そして現在自分の居場所を模索していく本作。俳優人生の中で、自分の居場所について悩んだことは?「仕事がないときは“需要ねーな”とは思ってましたね。とはいえ、そのころも、いろんな演劇はやらせてもらっていたので、“舞台が自分の居場所”と思ってたりもしてました」ブレイク前、俳優をやめたくなったことは?「いっぱいありましたよ。でも詰まるところ、自分が何をしたい人なのかと考えたときに、やっぱり“面白いもの作りたい人”。じゃあ、頑張るしかねーな、みたいな。仕事がない分、自分と向き合う時間はいっぱいあったので、自分を見つめ直していましたね。それは、人としての体幹がだんだんとしっかりしてくるような時間だったように思います」’05年に俳優デビューし、今年は満15周年だ。「デビュー作の『七人の弔い』(’05年)を撮っていたのはその1年前。明確なデビュー記念日があるわけではないので、何でもいいやって思っちゃいますけど(笑)。積み上げた数字にあんまりピンとくるタイプじゃなくて、自分の年齢もたまに忘れるくらい(笑)。節目に無頓着なので、取材者泣かせなところはありますね」キャリアを重ね、人気も得た。今後は、どんな俳優像を思い描いているのだろう?「これからも、楽しい仕事をして、楽しませられたら。それくらいしかないかな?」甘くてフワフワしていそうだけど、芯がある。まさにマシュマロのような魅力こそ、中村倫也の強みなのかもしれない。『人数の町』9月4日(金)新宿武蔵野館ほか全国ロードショー(C)2020「人数の町」製作委員会スタイリング/戸倉祥仁(holy.)ヘアメイク/Emiy衣装協力/Children of the discordance(STU
2020年09月03日