人と人とを強く結びつける、もっとも手っ取り早い方法は「秘密」を作ること。些細な秘密はもちろんですが、不倫やパートナーがいながら他の相手とこっそり交際を続ける「秘密の恋」も、誰にも言えないスリリングな状況下であるからこそ、激しい恋愛になることが多い傾向にあります。そして、二人が共有する秘密は、闇が深ければ深いほど誰にも打ち明けることができず、互いを強く求めることになります。それは、恋心なのか依存心なのか、どちらか判別がつかなくなるほどに。今回ご紹介する三浦しをんさんの『君はポラリス』は、三角関係や同性愛、人と人ではない愛など、形にできないさまざまな恋愛物語を収録している短編集です。その中でも、決して誰にも打ち明けることができない秘密を共有した二人の物語『私たちがしたこと』をご紹介します。■今回の教科書三浦しをん『私たちがしたこと』飲食店で働く主人公・朋代は、終業後、自宅で学生時代の親友である美紀子と共に、美紀子が着るウエディングドレスを製作することが日課になっています。恋愛に対して消極的な朋代ですが、勤務している店の常連の男性に対して、密かに恋心を寄せていました。恋愛をしたがらない、地元に帰りたがらない朋代を訝しむ美紀子は、その理由が、学生時代に交際していた俊介にあるのではないかと尋ねました。そこから、朋代の告白は始まります。どこへ行くのも一緒だった朋代と俊介は、高校への行き帰りや休み時間、放課後もずっと共に過ごし、親がいない隙を見ては抱き合っていました。ある夜、朋代はいつものように俊介と別れて自宅に向かう途中、土手の遊歩道で背後から強く腕をつかまれ、河原の茂みに押し倒されてしまいます。頬を叩かれ、スカートをたくしあげられた朋代は抵抗するのをやめ、その代わりに強い殺意を抱きます。男が「入ろうと」してきたその瞬間、男は横倒しになっていました。彼女を助けたのは、金属の棒を持った俊介でした。俊介に自首をすすめた朋代ですが、彼は応じることはなく、二人は河原で穴を掘り、男を埋めます。その後、二人は俊介の家に帰ってシャワーを浴び、抱き合うのでした。■秘密を共有したことで「すれ違い始めた心」若い二人は誰にも言えない秘密を共有しましたが、すれ違う想いもありました。朋代は、俊介が自分に対して「してくれた」行為に対して、泣きながらなじりたかったものの、言えずにいました。なぜなら、自分に対して「そこまでしてくれた」のだから。そして、何事もなかったように仲良くし、愛し合うこと以外方法がなかったのです。不安と恐怖に押しつぶされそうになった朋代は、悲鳴を押し殺すために毎夜俊介と過ごし、母親や教師に注意をされても俊介と抱き合い続けた。「苦しい」。その想いを、一番共有したい俊介に打ち明けることができず、そう問われた時に朋代はぷつりと彼との縁を切ったのでした。■苦しさから求めてしまう気持ち短いながらも、とても深い小説です。人を殺めてまでも自分を守り、愛してくれた相手に対して、朋代が抱く「苦しい」という気持ち。だからこそ強く俊介とつながり、苦しいからこそ抱き合おうとした彼女の想いが深く刺さります。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年05月07日“東洋の化粧品王”となった男と時代に負けず強く生きた女の物語。高殿 円さんによる『コスメの王様』をご紹介します。「これまでに女性領主・井伊直虎が主人公の『剣と紅』や、江戸末期から昭和にわたる女性3人の物語『政略結婚』などを書くうちに、女性文化の風俗史への興味が深まっていて。それに、私は神戸生まれの神戸育ちなので、神戸の一番いい時期を書いておきたい気持ちもありました」と、高殿円さん。新作小説『コスメの王様』のモデルとなったのは、化粧品会社クラブコスメチックスの前身である中山太陽堂の創業者・中山太一だ。本作では永山利一という名前で登場している。「中山太陽堂は明治期の神戸の花街・花隈で創業しているんです。軽い気持ちで調べ始めたら、実はものすごい人で。女性のためのメイクアップアーティストの専門学校を作ったり、『女性』という雑誌を創刊したりと、フェミニストの走りみたいなこともしている人だったんです」1900年。神戸の花街に売られてきた12歳のハナは、ドブに落ちていた少年を助ける。彼の名前は永山利一。3歳年上の彼もまた、家族のために進学を諦め働いている。経済発展著しい神戸の町で二人は成長していく。そう、本作は利一だけでなくハナも主人公だ。「女性は男性の添え物のような扱いをされていた時代。その事実を歪めることなく、女性を男性の添え物ではない主役として書きたかった。それにこれは化粧品の話ですから、開発に女性たちが関わっていたはず。ハナは架空の人物ですが、こんなことがあってもおかしくなかったという人物像を膨らませました」品質の良さと宣伝の工夫で20代で成功をおさめた利一が大事にしていたのは、ベンジャミン・フランクリンの教訓「十三徳」。「中山太一さんも亡くなるまで実践されていたそうです。その十三徳には、人を恨みすぎてはいけないという内容もある。作中、利一が借金を踏み倒された時に恨み言を言わず真摯な対応をして銀行から信頼を得た話はわりと実話のままです。失敗をプラスの連鎖に繋げる姿勢は私自身も勉強になりました」執筆にあたっては当然、中山太一氏のご遺族にも許諾をとった。「クラブコスメチックスの現社長は太一さんの孫のユカリさん。会社にうかがって、モデルにしたい、でもダブル主人公にしたい、などと説明したんです。そうしたら快く資料室の使用まで許可してくださって。ちゃんとした社史も残っていて、専属の司書さんにも助けられました」苦労もあった。たとえば、太一がヒットさせた洗い粉の原材料にある「ジョッキークラブ」。これが何を指すのかどこにも記述がない。だが当時、他の大会社が香料に注目していたことから香水に着目したところ、アメリカで競馬の開催を記念して作られた香水の名前が「ジョッキークラブ」であることを突き止めた。「あれが分かった時は資料室の方も“100年ぶりに解明できた”と言ってくださって。執筆中にそうした喜びがいっぱいありました」作中ではこの香水のことはさらりと触れられているだけ。たった一単語を書くために、そこまで時間をかけて書き上げられた作品なのだ。男女のW主人公にしたことで、当時の男女格差も浮き彫りになるが、終盤で利一が漏らす本音も刺さる。「男性は男性で辛かったことがあったはず。そこをちゃんと書かないとフェアじゃないですから」幼い頃から惹かれ合う二人の人生はどこへ向かうのか。これがもう、なんとも痛快で沁みる結末が待っている。この後味の良さも、高殿作品の魅力だ。『コスメの王様』明治期の神戸。実直に働く行商の利一は、幼馴染みのような仲の芸妓のハナから無鉛の水白粉が開発されたと聞き、商機に気づく――。“東洋の化粧品王”と呼ばれた男と、自分の道を切り拓いた女の物語。小学館1760円たかどの・まどかテレビドラマ化された「トッカン」シリーズや「上流階級富久丸百貨店外商部」シリーズがベストセラーに。他の著作に『35歳、働き女子よ城を持て!』『グランドシャトー』など。※『anan』2022年5月4‐11日合併号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2022年05月05日ここ数年は新型コロナウイルスの蔓延や世界情勢などにより、何もしていなくても、毎日少しずつストレスが蓄積されているような気がします。積もりに積もったうっ屈を抱えながら生きるには、一人よりも二人が良い。相手に対する求め方の形も世の中の状況により少しずつ変化しているように感じます。今回ご紹介する朝井リョウさんの『どうしても生きてる』は、心にうっ屈を抱えながらも生き抜く人々の物語が6作収録されています。その中から今回は『そんなの痛いに決まってる』をご紹介します。■今回の教科書朝井リョウ『そんなの痛いに決まってる』会社員の良大は、ある日を境に妻である美嘉に「勃たなく」なってしまいました。その理由は、美嘉の収入が良大を上回ったから。けれど、子どもが欲しい美嘉は「コウノトリが来ます」と、タイミングごとに良大を誘います。一方、良大にはマッチングアプリで知り合った浮気相手がおり、美嘉とは絶対にできないセックスを彼女と繰り返す日々を過ごしています。そんな中、良大が尊敬する上司・吉川が退職してしまうことになりました。その理由は、彼のSM動画が流出したためで……。■やさしくされるたびに肥大する「痛み」「大丈夫」が口癖だった吉川は、動画の中で女王様に鞭で打たれながら「痛い!」と叫んでいました。良大は、その様子を見ながら、吉川と酒を飲んだ時の話を思い返します。「遠出をすると、反射神経でしゃべってしまう」。温泉に入った時や、美しい景色を見た時に、心の声が頭を通さずに出てしまう。「コウノトリが来る日」に、やはり「失敗」してしまった良大に対して、美嘉は責めることなくやさしく接します。「だいじょうぶ。ゆっくり頑張ろう」。美嘉にそう言われるたびに、良大の痛みはますます肥大し、美嘉以外の女性に触れたくなります。セックスの前はシャワーを浴び、歯磨きまでする美嘉に対して、浮気相手の女にはウォシュレットをすることすら許しません。全身に匂いをまとった女の体を隅々まで舐めまわすことで良大は興奮し、勃起し、反射神経で話すことができる……「痛い」と。■それぞれが求める痛みの拠り所会社のこと、美嘉のこと、さまざまなことが蓄積して、良大はずっと「痛い」と感じていました。その気持ちを吐き出す場所はやはり美嘉ではなく、何の感情も湧かない見知らぬ女であって欲しいのです。「痛いときに痛いって言いたい」。 作品中で良大はそう語っています。美嘉の前では「痛い」と言うことができない。なぜなら、彼の痛みを無意識のうちに作っているのは彼女だから。転んですぐに「痛い」と叫べる子どもとは違い、大人になればなるほど我慢を強いられます。吉川にとってのSMのように、私たちも、大切な誰かではなく、他のどこかに痛みの拠り所を探しているのかもしれません。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年04月23日立春や立冬など二十四節気ごとに独自の行事がある藤巻家。この風変わりな家族の4世代にわたる物語が、瀧羽麻子さんの『博士の長靴』だ。「最初は編集者さんと、理系の人を書こうと話していたんです。家族というテーマにも興味があったので、理系の学者を軸とした家族の物語になりました。数世代の話にすることで、時代や価値観、家族観の変化も書けたらいいなと思っていました」第1章の舞台は1958年。スミが奉公する藤巻家の息子・昭彦は気象学の研究者。いつも空を見上げてばかりのちょっぴり不思議な青年だ。「空のことで頭がいっぱいで、地上のことにはあまり興味がない人、というところからイメージを膨らませていきました」そんな彼もやがて結婚し、子どもが生まれ…。令和に至るまでの藤巻家が描かれるが、各章の視点人物は家庭教師や隣人の主婦など、主に家族外の人物である。「家族の外の人から見たほうが、この一家の不思議なところ、面白いところがより鮮やかに伝わるかなと」章を進めるごとに親子の関係も変わっていく。時にはすれ違ったり、疎遠になったりすることも。「家族の中でも変化ってありますよね。小さい頃は反発していても、大人になるにつれ親心が分かったり、子どもが生まれてメンバーが増えて関わり合い方が変わったり」また、時代が進むにつれ、家族観や女性の生き方、さらには、研究に対する考え方の変化も見えてくる。「藤巻博士のように学問を追究する人の根っこには“知りたい”という情熱があると思うんです。でも最近は、学問でも“人の役に立つか”どうかが重視されるようになってきていますよね。そのバランスに悩む人も登場させました」そんななか、博士はいつだって人の好奇心を肯定してくれている。「年を経て多少は円熟しつつも、芯はぶれないイメージです(笑)」天気も時代の流れも家族内の関係も、時に望むようにはいかないが、「自分でどうしてもコントロールできないことってある。そのなかでどう生きていくか、考えて工夫していくしかないのかな、と。書き上げてからようやく、そうしたことが描きたかったのかなと気づきました」温かくおおらかなこの物語をぜひ。たきわ・あさこ1981年、兵庫県生まれ。2007年『うさぎパン』でダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞。著書に『左京区桃栗坂上ル』『うちのレシピ』『ありえないほどうるさいオルゴール店』など。『博士の長靴』二十四節気ごとに行事のある藤巻家。一人息子の昭彦は天気の研究に情熱を傾けた人。そんな彼から始まる家族4世代を描く連作短編集。ポプラ社1650円※『anan』2022年4月20日号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2022年04月18日“悲しみをたべて育つバンド”あたらよが、小説紹介クリエイターのけんごとコラボレーションすることが発表された。あたらよは東京を中心に活動する4ピースバンドで、ひとみ(Vo / G)を中心に作詞作曲を行い、アートワークや映像もセルフプロデュース。グループ名の「あたらよ」は“明けるのが惜しいほど美しい夜”という意味の可惜夜(あたらよ)から由来している。けんごは自身の動画の総再生数1.1億回超えるインフルエンサーで、TikTokで薦めた作品が続々重版決定。4月28日には小説『ワカレ花』(双葉社)を発売し小説家デビューする。けんご今回のコラボは、けんごがあたらよの楽曲がお気に入りだったということ、そしてあたらよボーカルのひとみが小説が好きでけんごのTikTokをフォローしよく観ていたことがきっかけとなり生まれたもので、『ワカレ花』の作中にはあたらよの記述が登場するとのこと。また、けんごのTikTokアカウントでは、あたらよ初のオリジナル曲「10月無口な君を忘れる」を使用した動画がアップされる予定となっている。■あたらよ ひとみ コメント皆さんこんにちは。あたらよのVo&Gのひとみです。この度、けんごさんのデビュー作となる『ワカレ花』にあたらよを登場させて頂いたということで、本当に嬉しいです。私自身、普段から本を読むことが大好きなので、いつも目にしていた本の中の世界に自分のバンドが存在していることがとても不思議な気持ちになりました。読み終えた後に心の奥がじんわりと温くなるような、こんな素敵な作品に名前を使って頂けたことを嬉しく思います。本当にありがとうございます。■けんご コメント小説紹介クリエイター・小説家のけんごです。「小説の魅力を多くの人に届けたい」僕は、この一心で活動を続けてきました。今回、小説を執筆したのも、この想いがあってのことです。正直なところ、小説は他のエンタメに比べて、作品と出会う"きっかけ"が少ないように思えます。だからこそ、あたらよさんとのコラボは大変光栄です!素敵な音楽と掛け合わさることで、小説の可能性を大きく広げることができると思いました。『ワカレ花』をきっかけに、小説にしかない魅力と、人の心を動かすほどの力がある、あたらよさんの音楽が、たくさんの方に届くことを願っています。<リリース情報>あたらよ1stアルバム『極夜において月は語らず』発売中※初回盤は「あたらよ Acoustic Session」CDを加えた2ディスク仕様配信リンク:【収録曲】01. 交差点02. 夏霞03. 極夜04. 祥月05. 「知りたくなかった、失うのなら」06. 悲しいラブソング07. 嘘つき08. outcry09. 5210. 10月無口な君を忘れる11. 差異【初回限定盤付属Disc2】■「あたらよ Acoustic Session」01. 10月無口な君を忘れる(Piano ver.)02. 夏霞03. 晴るる04. 8.805. ピアス06. 祥月07. 嘘つき08. 優しいエイプリルフール(demo)<ライブ情報>『あたらよ 1st TOUR「極夜において月は語らず」』5月5日(木・祝) 東京・WWWX5月21日(土) 大阪・シャングリラ5月22日(日) 名古屋・SPADE BOX関連リンクオフィシャルサイト
2022年04月12日多様化するセクシャリティが定着しつつある中で、最近は「ポリアモリー」が話題になっています。ポリアモリーというのは、パートナー間で合意を得た上で複数の人と交際する人々のことをさします。パートナーとの交際の形は人によってさまざまです。複数のパートナーと体の関係を持つ人もいれば、婚姻関係であるパートナーとは体の関係を持たず、婚外で体の関係を持つ人もいます。カップルによってルールはそれぞれですが、ポリアモリーの方々に確立されたルールがあるとすると、「パートナー間で合意を得ている」という点にあります。浮気や不倫はパートナーに秘密の上で行う行為ですので、ここに大きな違いがあるのです。たとえば、好きになった相手に交際を申し込んだとき、ポリアモリーであることを宣言された上で交際を承諾されたとしたら、どう感じるのでしょうか。大前粟生さんの『きみだからさびしい』は、そんな想像もつかない選択を迫られた主人公・圭吾の物語です。■今回の教科書大前粟生『きみだからさびしい』京都市内の観光ホテルに勤務する圭吾には、密かに恋心を抱いている女性がいます。それは、趣味のランニングで知り合った年上の女性・あやめです。圭吾は、あやめが所属する社会人サークルに入ったりと、少しずつ距離を縮める中で、あやめに交際を申し込みます。あやめからの返事は、「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」。躊躇しつつも、圭吾はあやめへの想いを優先し、ポリアモリーである彼女を受け入れることにしました。■何度抱き合っても埋めることのできない「さびしさ」そもそも圭吾は「恋愛することが怖い」と語っています。あふれる自分の想いを相手にぶつけてしまうと、相手を傷つけてしまうのではないかという恐怖心が理由です。一度はあやめのライフスタイルを許容した圭吾ですが、大好きなあやめが他のパートナーとどう接しているかという嫉妬に苛まれてしまいます。対するあやめも、圭吾以外のパートナー・蓮本に嫉妬をしています。圭吾と交際することを蓮本に告げたときの迷いない後押しにさびしさを感じ、会ったことのない蓮本のもう一人のパートナーに嫉妬心を感じました。圭吾があやめに感じる嫉妬、あやめが蓮本に抱く嫉妬。彼らの周りには嫉妬の連鎖が取り巻いていました。後半では、圭吾とあやめは一緒に住み、ゴミがあふれる部屋の中で毎晩のように抱き合います。相手に触れ、身体を重ねることで、圭吾は自分の中の「さびしさ」を埋めます。しかし、そのさびしさは埋めることができません。なぜなら、あやめには蓮本というもう一人のパートナーが存在するから。自分のエゴを、愛するあやめにぶつけてしまう圭吾は、あやめを傷つけていると感じ、ひとつの結論を出すことになります。■さびしさを超えた先にある「満たされた関係」ポリアモリーというライフスタイルは一言では言い表すことができません。自分以外のパートナーといる時、彼女はそのパートナーと体を重ねているかもしれない。そんなさびしさを抱く圭吾に対し、蓮本はこのような印象深い言葉を残しています。「僕もあやめもそのさびしさを選んだんだよ。ちょっとさびしくなった代わりに、それ以上に満たされるようになった、みたいな」次に会ったときには、今のさびしさ以上に満たされるかもしれない。そんな希望を抱いた上で、あやめ・蓮本の心は満たされています。そんなあやめを圭吾はどう受け止め、自らの「さびしさ」に決着をつけるのでしょうか。ぜひ圭吾の決断を本作で見守ってください。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年04月09日私たちは、人生で大勢の人々と出逢います。毎日のように連絡を取り、時間を共有し合う友人が、互いの環境の変化や価値観の不一致などで会わなくなることも多々ありますよね。 恋人同士の関係も同じように、些細なきっかけで関係が途切れてしまったり、拗れた結果、他の誰かと出会ったりすることも。今回ご紹介する『パイロットフィッシュ』の冒頭はとても印象的な一行で始まります。「人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである」■今回の教科書大崎善生『パイロットフィッシュ』本作は、40代の主人公・山崎のもとに、19年ぶりに元恋人の由希子から電話がかかってきた場面から始まります。 40代になり、ベテラン編集者になった山崎と、上京したばかりの19年前の山崎。物語は二つの時代を交差しながら、由希子との出会いと別れ、別れるきっかけになった女性、そして今、山崎が出会った女性と、今の彼を作った人々との基軸が淡々と描かれています。■「死」が引き寄せた“触れたい”という感情山崎が誰かに「触れたい」と強く感じたのは、大学へも行かずにふらふらとアルバイトを探していた時のことでした。北海道から上京してきて、東京で出来た唯一無二の友人は突然自分の前からいなくなってしまった。一日中、誰とも話さない日々が続いたある日、実家の母から愛犬の死を知らせるハガキが届きます。救いようのない孤独感に苛まれた山崎は、衝動的に川に入水するも、ふと3カ月前に電話番号を教えてもらった女性のことを思い出します。上京して間もない時、道に迷っていた山崎を助け、電話番号を教えてくれた女性・由希子でした。その後、由希子と交際を始めた山崎ですが、2人が働くアルバイト先の店長の死をきっかけに別れることになってしまいます。その理由は、由希子の親友である伊都子と山崎が関係を持ってしまったからでした。山崎が由希子に、そして伊都子が山崎に「触れたい」と感じた、共通の理由は「死」です。大学に馴染めず、話す相手が1人もいない時、川底で唯一思い出したのが由希子という存在でした。死から逃れたくて、唯一助けを求められる人を見つけた時、山崎は強く由希子を求めます。対して伊都子は、店長が目の前からいなくなったことに耐えられなくなり、山崎のアパートに現れました。この時の2人は、突然の「死」に直面し、強く「生」を求めたのではないでしょうか。山崎自身の「死」への恐怖、そして由希子と2人で目の当たりにした店長の「死」。彼らの出会いと別れには「死」が共通しています。 ■「死」が導く、生きるための指針その後、山崎と由希子は別々の人生を歩み、由希子は家庭を持ち二児を授かり、山崎は二匹の犬と若い恋人と暮らしています。19年離れていても、彼らの人生の基軸には恋人同士だった時があり、今があります。結婚したけれど決して手放しで幸せとは言えない由希子には、山崎が編集長として働く出版社の同僚が関係していたりと、2人の人生は絡まり続けていました。表題になっている『パイロットフィッシュ』という言葉は、魚を飼う環境を作るため、最初に飼う魚のことを言います。 本作では、山崎と由希子が「生きるため」に指針を与えてくれた2人の人物が登場します。 彼らに生かされ、そして死と対峙して強く相手を求めた19年間の物語を、ぜひ自身と重ねあわせてみてください。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年03月26日角田光代さんが5年ぶりに小説を上梓!新作『タラント』は、間違いなく胸が熱くなる長篇小説だ。与えられた命を、どう使うのか。心も魂も揺さぶる5年ぶりの長篇。「ずっと『源氏物語』の現代語訳にとりかかっていて、久々に小説を書こうとしたらプロットの立て方も資料の使い方も忘れていて大変でした」30代後半のみのりは、東京で夫と二人暮らし。故郷の香川に住む甥の陸が不登校と知り、しばらく預かることに。彼らは一通の手紙を機に、寡黙な祖父・清美の過去に思いをはせていく。戦地で片足を失い、義足をつけた祖父の秘めた思いとは――。表紙にも義足で高跳びをする人が描かれているため、未読の人でもこれがパラスポーツが関わる話だとは想像できるだろう。「最初に連載を頼まれた時、東京オリンピックについても触れてほしいという話があって。それで調べているうちに、パラリンピックはイギリスの病院で、戦争で脊髄を損傷した人たちのリハビリのために開いた競技会がおおもとだと知ったんです。平和の祭典と呼ばれているものが戦争がきっかけで始まったことに驚きました。そういうことを考えている時、ふと、“命を使うということ”について書きたいと思ったんです」本作ではみのりの過去も語られる。大学進学で上京、ボランティアのサークルに参加して国内外で活動していた様子も丁寧に描かれる。「日本って、ボランティアや寄付の文化が根付いていないと感じていました。自分がいいことをするのに対して照れと罪悪感があるし、誰かがいいことをすると“偽善だ”という声が出てくる。それこそ昨今はバッシング社会で、人の失敗を絶対に許さない風潮がある。そういう世の中で、なにか善意で行動して失敗したら、もう動けなくなってしまうことってあると思う。それをみのりという人に背負わせました」角田さん自身、NGOの活動に参加しているという。「国際NGOのプラン・インターナショナルのスポンサーになって、いろんな国を視察し、人身売買など女の子たちが虐げられている状況を見てきました。最初に誘われた時には私も、自分がボランティアをやって何になるんだろうと身構えたんです。実際に関わってみると、そういうことではないと思うと同時に、ボランティアの難しさや歯がゆさも感じるようになった気がします」みのりの周囲の人間も、ボランティアに対する姿勢はさまざまだ。きっと読者も、彼らの異なる立場からの言動に心揺れるはず。「迷いなくできる人や、使命を感じられる人もいる。でも大半の人はみのりのようにためらったり迷ったりするんじゃないかと思うんです」作中、何度か登場するのが「タラント」という言葉。〈才能〉〈賜物〉や、〈使命〉といった意味合いだ。「プロテスタントの学校に通っていたので、聖書に出てくる言葉として馴染みがありました。それとは別に大人になってから、人の才能の有る無しってなんだろうとつねづね考えるようになっていて」当初、本作では、どんな人にも与えられた使命があると書こうと考えていたという。だが、「書き終わった時、もしかして自分は、若くして亡くなった人たちにもタラントがあって、それは死んで失われるのではなく、他の人たちが受け継いで生きていくんだ、ってことが書きたかったのかな…と。私は、死んだ人たちのほうを書きたかったのかもしれないです」読み終えたら、角田さんのこの言葉が深く、深く響くはず。角田光代『タラント』東京で夫と暮らすみのりの故郷は香川県。寡黙な祖父にたびたび東京から手紙が届いていると知った彼女は、甥の陸と共に祖父の過去に興味を持つ。一方、そんなみのりには苦い過去があって…。中央公論新社1980円かくた・みつよ2005年『対岸の彼女』で直木賞、’07年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、’12年『紙の月』で柴田錬三郎賞、’21年『源氏物語』の完全新訳で読売文学賞など、数多くの賞を受賞。※『anan』2022年3月23日号より。写真・森山祐子(角田さん)中島慶子(本)インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2022年03月22日『TikTok』フォロワー28万人、総再生数1.1億回超!薦めた作品は続々重版!話題の小説紹介クリエイター・けんごが手がけた初の小説は、花をモチーフにした恋愛小説。知念実希人さんを始め、推薦コメントも多数いただいております。出会い、失恋、両思い、別れ――わたしのそばには、いつも花があった。四季折々の恋模様を鮮烈に描いたあまりに切ない物語〈内容紹介〉高校生の遥は通学の電車で、気の立った白猫に遭遇した。戸惑う彼女を助けたのは男子高校生。毎朝、同じ電車で見かける彼を振り向かせようと、遥が取った行動とは。(「始業式」)同じく高校生の冬紗は、入学前から長い入院生活を送っている。ある日、主治医に告げられた過酷な現実。泣いていた彼女に、かつての入院仲間だった春人は声をかける。(「散り桜」)ほか、「夕立ち」「花火」「落ち葉」「コスモス」「雪景色」「ユキヤナギ」の全8編を収録した、2つのストーリーで紡がれる恋愛小説。●早くも大絶賛!推薦コメント多数!知念実希人さん(小説家)「初めての小説と聞いて、なめていました!ごめんなさい。柔らかい筆致から生み出される瑞々しく透明感あふれる空気が、全身の細胞を満たしていく。どこまでもピュアな優しさで彩られる物語に、ぜひ心癒やされて下さい」汐見夏衛さん(小説家)「大切な人のために何かをしたいという思いが、彼らを成長させていく。恋には人を変える力があるのだと改めて感じました」カツセマサヒコさん(小説家)「好きだったから、悲しいし、怒るんだ。ページをめくるたび、やさしさと寂しさがが雪のように降りてきました」●作品特設ページ 〈書籍概要〉【タイトル】ワカレ花【著者名】けんご【発売日】2022年4月28日(木)【予価】1320円(税込)【判型】四六判並製〈著者プロフィール〉けんご小説紹介クリエイター。ショートムービープラットフォーム「TikTok」などのSNSで、わずか30秒ほどで小説の読みどころを紹介する動画を次々に投稿。作品の的確な説明と魅力的なアピールに、SNS世代の10〜20代から絶大な支持を得ている。2021年7月、30年以上前に発表された筒井康隆著『残像に口紅を』(中公文庫)を取り上げたところ、話題となり、年末までに11万部を超える大重版。他にも、小坂流加著『余命10年』(文芸社文庫)、楪一志著『レゾンデートルの祈り』(KADOKAWA)も、紹介をきっかけにヒットにつながり、出版関係者や書店員からは「日本でいちばん本を売るTikTokクリエイター」とも呼ばれている。 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年03月15日恋愛というものは一筋縄ではいかないものです。たまたま好きになった相手にパートナーがいなければラッキーですが、すでに恋人がいたり、結婚をしていたりということは多くあります。そんなとき、恋心を抱いてしまった気持ちにはさまざまな「落としどころ」があります。たとえ結ばれなくても相手を愛し続けることであったり、諦めることであったり……。中にはパートナーがいることを知りながらも相手とつながり、関係を持つこともあります。今回は、角田光代さんの短編集『だれかのいとしいひと』の中から『バーベキュー日和(夏でもなく、秋でもなく)』をご紹介します。■今回の教科書角田光代『バーベキュー日和(夏でもなく、秋でもなく)』どこか不安定で、少しだけ不幸な恋愛を描いた短編集。その中から選んだこちらの作品は、友達の恋人と密かに付き合う癖のある女性が主人公です。主人公の女性は、なぜかいつも友人の彼氏と密かに交際してしまう、病的な癖があります。主人公は親友のモトコと仲間内でのバーベキューの段取りについて電話している時に、彼女から電話に出ない彼氏の愚痴を聞きます。電話に出ないモトコの彼氏は、なんと主人公と同じ部屋にいて、共にゲームをしたり抱き合ったりしていました。さらには、バーベキューに誘っているもう1人の相手・ナミの彼氏とも関係を持っている主人公。彼女の「病気」が始まったのは高校生の頃に遡ります。同じクラスだったリサとはびっくりするくらい趣味が合う親友でした。高校2年生の後半になると、リサに他校の恋人ができました。けれど友情は壊れることがなく、主人公とリサ、そして恋人の男子高生・望の三人で会うようになります。ある日、リサがインフルエンザにかかったとき、主人公と望は待ち合わせをしてお見舞いに行くことになりました。プレゼントの花やCDを買い、荷物を抱えて歩いていた時、ふとラブホテルの看板が見えます。主人公は、望に「あそこで休んでいかない?」と誘ったのでした。■大好きな親友の愛する人を知りたいと思う心理主人公の「愛し方」は、数年経った今でも変わることがありません。大好きな親友が好きな人に、同じように好かれたい。だから親友と同じように触れられたくなり、二人の間に寄り添って、飼い犬のように戯れていたいと感じています。純粋に友人を想う心が歪んだ形の愛情を生み、望との逢瀬がバレてしまった時には「やりまん女」などと揶揄され、卒業までさまざまな嫌がらせを受けることになります。しかし主人公は、決してリサから望を奪いたかったわけではありません。リサが大好きだから、リサが愛する望に触れ、リサがどのように愛されているのかを共有したかったのです。■大切な人を失わないためにはコントロールが必要ラストシーンで主人公は「好きなんて気持ちがなければいい」と心の中で呟きながら泣きます。幼い頃は、「好き」の意味も、その伝え方もよくわからずに、気に入ったモノや人には触れたくなり、行動に移していました。本作の主人公は幼少期の「好き」から成長できず、友情、恋人などの「カテゴリ分け」をすることが少し苦手な女性なのかもしれません。大勢に愛されてすくすくと育った愛犬のように、好きな人には男女問わず抱きついて、キスをしたくなってしまう。その行為に他意はないのでしょう。けれどその行為は愛する友達はもちろん、自分自身も傷つけてしまいます。大好きな人が離れてしまわないよう、愛情表現のコントロール力は鍛えないといけませんね。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年03月12日大河ドラマがきっかけで歴史に興味が湧き、本を読むようになりました。そのなかでもすっかりハマっているのが、歴史人物たちを題材にした本。多くの輝かしい栄光から挫折、そして恋愛模様まで、本の中で繰り広げられる物語は、ドラマや映画では描かれていない細部まで詳しく載っています。しかし加齢のせいでしょうか、歴史物語を理解するまで結構時間がかかる私。でも、ある秘策で学びを広げながら、推し歴史人物を深堀しています。推し歴史人物との最初の出会いは「西郷どん」2018年1月から始まった大河ドラマ「西郷どん」。西郷隆盛を俳優の鈴木良平さんが演じていました。原作は林真理子さん、脚本は中園ミホさんということで、勇気と実行力で時代を切り開いた愛にあふれるリーダーを女性の視点から描くと話題になっていました。当時、まだ読書ブームは来ていなかった私ですが、有名な作者と脚本家の手掛ける大河に興味を持ち、ドラマを見てみました。西郷隆盛の生涯を描いたストーリーはとても奥が深く、私にはただのドラマの感覚で気楽に見られるものではありませんでした。ドラマを見ていくうちに、西郷隆盛の生きざまにときめいていました。とはいえ、学生のころの私は大の歴史嫌いでテストのために仕方なく勉強していたくらいだったので、歴史に関する知識はほぼ皆無。そのため、ドラマを見ていても、ストーリーの背景がちゃんとわからず本当のおもしろさの半分も理解できていなかったと思います。歴史を理解できていないせいで本当のおもしろさを味わえない自分をとてもはがゆく感じましたが、そのときは何の対策もできないまま大河ドラマを見終えてしまいました。読書ブーム到来で、歴史がつながってきたそれから1年後、私に読書ブームがやって来ました。家の近くにお気に入りの図書館があり、そこで恋愛から推理小説まで多種多様な本を読み始めたのです。大河ドラマがきっかけで歴史にも興味を持っていたので、歴史人物の本も読んでみました。しかし、歴史の知識がかなり浅い私……。いきなり難しい歴史小説を読んでも言葉すら難しく、最後まで読み切ることができませんでした。ところがある日、図書館内をうろうろしていたら、背表紙などに漫画のヒロインのようなすてきな顔立ちで歴史人物が描かれている本を見つけたのです。児童向けの本でしたが読んでみることにしました。そしたらなんともわかりやすく、時代背景からできごとの解説まで丁寧に書かれています。しかも時々イラストまで入っていますし、親切に漢字に振り仮名まで付いているので、歴史が嫌いだった私にも楽しくスラスラ読めました。私は児童向け歴史人物本にすっかりハマってしまい、借りられる歴史人物をコツコツ読みました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康から坂本龍馬、もちろん西郷隆盛も。少しずつ私の頭の中で歴史の流れがつながってくるようになりました。『西郷どん』を原作の大作本で再チャレンジ歴史人物の本を読むようになった私は、特に幕末から明治時代初期のころに興味を持つようになりました。そして、2018年にちゃんと理解ができないまま見終えてしまった「西郷どん」に、林真理子さん原作の本でもう一度チャレンジしたいと思いました。児童向けの本よりずっと奥が深く、登場人物も多いので、私は秘策を準備しました。それは、西東社から出版されている『超ビジュアル 日本の歴史人物 大事典』。手元に持っていたいと思い、書店で購入しました。この本には弥生時代から昭和時代までの重要歴史人物250人が美しい人物イラストを交えて解説されています。こちらもしっかり振り仮名があるので、アラフィフ間近で漢字がなかなか出てこなくなった私でも安心して読めます。この本を片手に『西郷どん』を読み始めました。早速、私の記憶にない歴史人物が続々と出てきましたが、その度に立ち止まり大事典で調べ読み、先に進むと言う何とも時間のかかる読書ですが、理解が本当に深くなり私にピッタリの読書方法となりました。そして、西郷隆盛はもれなく私の推し歴史人物になりました。まとめ林真理子さん原作の『西郷どん』は、1冊約260ページの上・下巻あります。今、私は下巻の後半に差しかかり、大詰めを迎えております。西郷隆盛の壮絶な人生を改めて知り、平和な時代に生きている私は、今がどれだけありがたいことかを推しを通して学び、ときめいております。アイドルの推しと違って、実物にお会いすることはできませんが、たくさんある西郷隆盛に関する書物をもっと読み深めたいと思います。また、新型コロナウイルス感染症が収束したらゆかりの地へ旅に出るのが、将来の楽しみです。そのうち、坂本龍馬や織田信長なども少しずつ読み進めていきたいです。もちろん私の秘策、歴史人物大事典を片手に。※記事の内容は公開当時の情報であり、現在と異なる場合があります。記事の内容は個人の感想です。著者/Pたろー(44歳)間もなく40代後半へ。根っからのミーハー心で、これから迎える更年期もポジティブに過ごしたい。
2022年03月05日思い出すだけで苦しくなるほどの恋愛を経験したことがある方はいらっしゃるでしょうか。相手に触れたい、と感じながらも、いざ触れると心がヒリヒリと痛んでしまうような。若い世代の男女は、そんな「痛みを伴う恋愛」に溺れてしまうことも多々あります。あまりに衝撃が強くて「運命の人」だと感じてしまうほどの……。そんな運命の相手は、一度出会ってしまうと、永遠に振り返りつづけなければならない人になることもあります。今回ご紹介する『ナラタージュ』は、大学生の主人公と、高校時代の教師との「結ばれない恋」を描いた長編小説です。■今回の教科書島本 理生『ナラタージュ』桜が咲く頃、主人公の大学生・泉のもとに、高校時代に所属していた演劇部の顧問・葉山先生から電話がかかってきます。夏休み明けの芝居の発表会に、OGである泉ほか数人が客演として駆り出されることになったのです。そのことで、泉には高校時代の“ある想い出”が蘇ります。在学時から葉山先生に憧れていた泉は、卒業式の日に葉山先生にキスをされていました。しかし、その後なにも進展はなく泉は卒業し、これを機に数年ぶりに葉山先生と再会を果たすのです。後輩の舞台に関わるなかで、泉は葉山先生への想いを再認識し、数年前に聞き出せなかった葉山先生の自分に対する気持ちを確認したいと思うようになります。しかし、彼の気持ちが分からず、苛立ちを覚え始めます。■一度触れたことでとらわれてしまった心卒業式の後も、泉は葉山先生と一度「触れた」感触をずっと引きずっています。在学中想いを寄せていた相手と一瞬だけでもつながり、その上、泉は彼の「秘密」まで共有してしまっていました。「君を巻き込むべきではなかった」と、当時の自分たちを振り返りながら葉山先生は言います。しかし、「それならどうして卒業式の日にキスなんてしたんですか」と詰め寄る泉。卒業式の日からずっと、泉の心は葉山先生のもとに置いてきぼりになっていました。泉は葉山先生から離れられるわけがありません。泉の気持ちはシンプルです。葉山先生が好き、だから触れたい。それがたとえ痛く、心に深い傷を追うことになったとしても。ラストシーンで、泉は葉山先生とベッドを共にします。しかし、それは決して誰もが思い描いていたハッピーエンドではなく、つらく悲しいつながり。体はつながることができても、葉山先生は他の人を選び、ふたりは別の道を歩むことになるのです。もちろん泉はそのことを承知の上で葉山先生とつながります。現実的には結ばれない相手と体だけでもつながり、触れることで、泉は一生彼のことを忘れないように、自分の内側に刻印を押したのかもしれません。。■“一瞬”のつながりが“一生”の痛みになる決して結ばれることのなかった相手でも、ほんの一瞬つながることによって、その想いを一生背負って生きることになります。もちろんそんなつらい思いをせずに、好きになった相手となんの障害もなく平穏に結ばれるのがいちばん楽でしょう。泉は結婚を決めた男性と共に散歩をしていても、ふとした瞬間に葉山先生のことを思い出しています。長い年月を重ねても振り返り、胸の奥がチクリとする。その痛みを感じることも、人を好きになることの醍醐味なのかもしれません。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年02月26日初めまして。官能小説研究家のいしいのりえです。年間約100作品の官能小説、性描写を含む恋愛小説を読んでいます。官能小説、というとすこし躊躇してしまうかもしれませんが、すべての作品に共通するのは「好きな人に触れたい」ということです。相手のことが好きだから触れたくなり、結果として、その想いを行為で昇華させているのが官能小説です。この連載では、これから5回に渡り、5冊の恋愛小説をピックアップし、主人公の切ない純愛と、相手に「触れたい」と感じるまでに至る気持ちを紐解いていきたいと思います。■今回の教科書金原ひとみ『星へ落ちる』好きな人ができても一筋縄ではいかないのが恋愛というもの。10代の頃は単純に、好きな人ができれば付き合いたい、両思いになりたい、と感じます。しかし歳を重ねると、相手を好きになる想いはすこし複雑になってきます。そのひとつが「好きな人に恋人がいること」。不倫にも言えることですが、障がいのある恋愛は、それにハマる人にとっては恋する気持ちを加速させる傾向にあるようです。自分だけのものにならない、一筋縄ではいかない恋だからこそ、手に入れたくなる。誰にも見向きされない人よりも、ライバルがいる方が燃えるということです。恋愛には、表面的な成就の裏に、見えないライバルたちの「マウント昇華」の想いが潜んでいるのかもしれません。今回ご紹介する金原ひとみさんの小説『星へ落ちる』は、好きな相手に恋人がいることを知りながらも関係を続けている女性が主人公の物語です。主人公の「私」は、一緒に住んでいた男の部屋を出て、恋人と同棲をしている「彼」と付き合っています。二人が付き合うきっかけは作品中に書かれていませんが、「彼」が同棲している恋人の存在に怯えながらも強く「彼」を求めています。おそらく彼の恋人は「私」の存在に気づいていると知りながらも、彼から離れられずにいるのです。■かなわないからこそ、求めてしまう恋愛心理好きになった相手にパートナーがいても、諦めずに恋心を貫く女性たち。彼女たちに共通するのは「痛み」だと私は感じています。ひとりでいる時に思い出す恋人の存在。けれど、その時恋人は自分以外の誰か、もうひとりのパートナーと一緒にいるかもしれない。そうした相手の行動に想像を膨らませることで、自分を傷つけることに快感を得ることを悦びと感じるタイプもいるはずです。本作の「私」は、決してモテない女性ではありません。街を歩いていると声をかけられたり、ナンパされたり。昔付き合っていた恋人からはまだ未練がましく連絡が来るような、人々を惹きつける存在です。ある程度自分自身が「売り手市場」にあると自覚しているからこそ、同棲相手の恋人から呼び出されたらすぐに帰ってしまう「彼」に惹かれてしまうのではないでしょうか。「彼」と交際する前に同棲していた「男」との対比も、主人公が「彼」に惹かれ、“触れたい”と感じる感情を強く表しています。「男」は主人公が部屋を出たあとも頻繁にメールや電話をして、「私」とヨリを戻そうとしていますが、主人公が想いを寄せる「彼」はすこしずつ「私」への連絡や部屋に来る頻度を減らしていきます。主人公はその変化に気づき、強く「彼」を引きとめる行動に出ます。「私」は「彼」の一番にはなれない。「彼」が自分の元から離れていってしまう。そんな想いが主人公の心を傷つけ、彼に触れたい、近くにいたいという、満たされない恋心を加速させてゆくのです。■痛みを伴う恋愛には注意が必要好きな人にはすでに恋人がいたり、不倫の恋愛関係なども、本作の主人公のような「自傷の恋」と似た傾向にあります。何の障がいもない恋愛よりも、「この人は自分のものにならない」という想いの方が恋心を燃え上がらせ、加速させる。自分で自分を傷つける恋愛にしか味わえない切なさを味わえるのでしょう。恋愛に正解はありません。どのような形でも、当事者が納得し、幸せであれば問題ないはず。ですが、不倫はもちろん、パートナーのいる相手に「触れたい」と感じたとしても、一度心の中で強くストッパーをかけた方がよいかもしれません。なぜなら、その恋愛の先には更なる自傷を重ねることになるから。先が見えないつらい恋にどっぷり浸かってヒリヒリ痛い恋愛を楽しむのもよいでしょう。いわゆる一般的な恋愛にはない痛みを伴う恋愛も、時には反面教師になり、次の恋愛に活かせると思います。ですが、どうぞお気をつけて。痛みを伴う恋愛は中毒性があります。まずは本作を読んで、その痛みと快感に触れてみてはいかがでしょうか。(文・イラスト:いしいのりえ)
2022年01月29日集英社から斜線堂有紀『愛じゃないならこれは何』が12月3日に刊行されました。ミステリ作家として活躍する小説家・斜線堂有紀。近年は漫画原作はじめ、多彩な活躍を見せています。そんな斜線堂有紀による、初の恋愛小説集が登場。WEBで発表されるや否やSNSでも話題となった、甘さと強い痛みを伴う短編4本に、書き下ろし1本が加えられています。■あらすじ『ミニカーだって一生推してろ』二十八歳の地下アイドル、赤羽瑠璃は、その日、男の部屋のベランダから飛び降りた。男といっても瑠璃と別に付き合っているわけではない、瑠璃のファンの一人で、彼女の方が熱心にストーキングしているのだ。侵入した男の部屋からどうして瑠璃が飛び降りたのか、話は四年前にさかのぼる――。他4編■書誌概要『愛じゃないならこれは何(集英社)』斜線堂 有紀1,540円(マイナビウーマン編集部)
2021年12月03日椎名誠撮影/伊藤和幸小説にエッセイ、ルポ、写真集の撮影に映画製作……、多彩なジャンルで活躍してきた椎名誠さん。文筆生活40年を超え、著作の数はもうじき300冊。いつも傍らにあるのは、旅とビールと仲間たち。アルゼンチンの山で置いてけぼりをくらうなど、「九死に一生」の体験をしたのも1度や2度ではない。好奇心に突き動かされるまま、「流れるようにここまでやってきた」人気作家の軌跡をたどる!■「シーナワールド」でファンを虜に東京・新宿三丁目。緊急事態宣言が明け、徐々に活気が戻り始めたこの街に、30年以上の歴史を持つ老舗居酒屋「池林房」がある。そこへ作家・椎名誠さんが現れた。心なしか足取りがおぼつかないように見える。屈強な肉体の持ち主だったはずだが、だいぶやつれた印象である。開口一番、椎名さんがボソリと言った。「食欲が落ちましたね。体重も7キロぐらい減ってしまいましたよ」実は、椎名さんは今年6月下旬、新型コロナウイルスに感染してしまったのだ。自宅で気を失っているところを家族に発見され、救急車で搬送された。高熱が続き、10日間の入院を余儀なくされた。「退院してもう4か月がたちます。入院中は、ただベッドに寝て個室でうめいていましたね。コロナだから面会もできないしね」今困っているのは、その後遺症だという。「いつもの体調には戻っていない。後遺症があくどく、しつこいんですよ。人によってさまざまらしいんですが、僕はね、甲高い金属音、お皿とお皿がぶつかる音とか、そういう音がダメになった。普段ならそんなことに頓着する体質じゃなかったんだけど、人が変わったみたいに気になったりしてますね」入院と同時に多くの連載はストップ。最近になり、ようやく執筆活動を再開した。椎名さんの著作は、エッセイ、小説、写真集から対談・座談集、絵本にいたるまで多岐にわたる。本人は「粗製乱造の極致をいっている」などと自嘲ぎみに話すが、創作活動を始めた1980年代から現在に至るまで年間6~10冊も本を出し続けてきた、名実共に超のつく人気作家だ。「いろいろたくさん書いてきましたね。僕は数えてなかったけど、今年出た本で290冊を超えたそうなんです。あと4、5冊で300冊になるのかな。書きに書いてきたなあという思いですね」汲めども尽きぬ創作意欲は、どこから湧いてくるのだろうか?「原動力?何だろうね。周辺にいる編集者とか、時の流れとか、そういうものに常に煽られて、気づいたらまた1冊書いちゃったみたいな。書くスピードが速いというのもあったし、書くのが好きだったというのもありましたね」椎名さんのフィールドは文学だけにとどまらない。写真も撮れば、映画も作る。冒険に明け暮れた日々もある。アウトドアという言葉が広く知られるようになる前、椎名さんと仲間たちとのキャンプに憧れ、辺境での冒険の様子に目を輝かせた読者も多いことだろう。仲間といっても文壇でも業界でもなく、ただの釣り好き、酒好き、野外好きの“おっさん”たちである。あるいは、海辺でうまそうにビールを飲み干す、椎名さんのCMを覚えている人もいるかもしれない。好奇心に突き動かされるまま、世界中を旅しながら紡ぎ出された物語は、いつしか「シーナワールド」と呼ばれるようになり、多くのファンを虜にしてきた。「もともと深く考える体質じゃないんで。流れるようにして、この50年やってきたというのが正直なところ。気がついたら物書きになっていて、その延長線上に今がある」旅とビールと仲間が似合う作家・椎名誠。インタビューを受けるときにはビールを欠かさない。そして、こちらにも決まってすすめてくる。病み上がりのこの日も、ビールをグビリグビリと飲みながら話してくれた。そして、段々といつもの調子を取り戻していったのだ。■鮮烈デビューを飾るまで椎名さんは1944年、東京都世田谷区三軒茶屋上馬に生まれた。公認会計士の父・文之助と、母・千代の三男だった。6歳で千葉県・酒々井を経て幕張に転居。そこで過ごした少年時代を新刊の『幕張少年マサイ族』で描いている。作中にこんな描写がある。《あのころのぼくたちも浜番(浜を見張る老人たち)みたいにみんな竹の棒を持っていた。[略]後年、作家の取材仕事でアフリカに行ったとき、ケニアやタンザニアなどでマサイ族をよく見た。彼らは背が高くて鋭い目をしてみんな長い槍を持っていた。それはすぐに少年の頃に常に恐怖のマトでもあった海の浜番の記憶につながっていった。》「これは東京新聞の千葉版に3年近く連載したものをまとめた一冊で、続編の連載が始まっています。中学のころを書いているんだけど、いちばん思い出したくない、荒くれた時代。誰でも中学時代というのは定まらない、苛立たしい時代じゃないですか。それを今、書いているんです」地元の幕張中学校を経て、千葉市立千葉高校に入学。そこで同じクラスになったのが後年、コンビを組むことになるイラストレーターで絵本作家の沢野ひとしさんだった。18歳のころから8ミリカメラを手にし、友達を集めてニュース映画を作るようになった椎名さんは、’64年、東京写真大学に入学。沢野さんの紹介で、友人で弁護士の木村晋介さん(76)と初めて会ったのも、このころだ。木村さんが振り返る。「沢野が僕に会わせたいやつがいると言って、連れてきたのが椎名でした。彼の第一印象は、天然パーマ、色黒で野性的。僕らみたいな色白もち肌の東京モンからすると異質な存在でしたね。でも魅力的なやつで、人集めがうまい。50人くらい集めていろんなイベントを考え出して遊んでいました。幕張の埋め立て地で地域対抗野球大会をやったり、文化祭みたいなこともやってたね」1年で写真大学を中退、椎名さんは江戸川区小岩のアパートで、沢野さん、木村さんらと共同生活をするように。木村さんが続ける。「陽がまったく当たらない暗いアパートでしたね。6畳一間に4人で雑魚寝してました。僕は本来、司法試験の勉強をしなきゃならなかったんだけど、椎名たちと一緒にいるのが楽しくて、つい同居しちゃった(笑)」そして、椎名さんはのちに妻となる渡辺一枝さんと出会う。仲を取り持ったのは、木村さんだった。「彼女は僕と高校の同学年で、隣のクラスでした。3年のとき、僕が生徒会長で彼女は副会長だったんです」(木村さん)’66年、椎名さんは流通業界専門誌で働き始める。2年後の’68年、一枝さんと結婚。椎名さんが少し照れたように言う。「彼女は、中学では山岳同好会、高校では山岳部でした。あだ名は、ヤマンバやチベット。その当時からチベットに憧れていたんですね。山の話や冒険、探検などの話が合ったんで、なんとなく……」会社勤めの傍ら、沢野さんらと野外天幕生活団「東日本何でもケトばす会=略称・東ケト会」の第1回合宿を行う。これが、椎名さんの代表作のひとつ、「怪しい探検隊」シリーズの発端だった。’69年には、百貨店業界の専門誌『ストアーズレポート』を創刊し、編集長に就任。その年に入社してきたのが、椎名さんの“盟友”となる目黒考二さん(75)だった。目黒さんが打ち明ける。「初めて彼と会ったのは、銀座の喫茶店。三つ揃いを着た大男でとても堅気には思えなかった(笑)。僕は数か月で会社を辞めちゃうんだけど、椎名とは読書の趣味が合ったんですね。2人ともSF好きで。SFの話がしたくてよく会ってしゃべってましたよ」目黒さんは、『ストアーズレポート』に書いた椎名さんの文章に衝撃を受けたという。「破茶滅茶なショートショートで、題名は今では出せない『キ○ガイ流通革命』。抜群におもしろくて、“この人は作家だな”と思いましたよ」’76年、『本の雑誌』を創刊。書評を中心に、活字にまつわるさまざまな話題を扱い、注目を集めた。そして’79年、そこに連載していたエッセイをまとめた『さらば国分寺書店のオババ』を上梓、鮮烈なデビューを飾る。椎名さんによれば、「出版社は思いきって新聞に全面広告を出して、それで売れて増刷が続いた。あの本は物書きとしてのデビュー作であるだけでなく、初めてのベストセラーになったんです」このデビュー作をきっかけに、さまざまな雑誌から原稿依頼が殺到するようになった。’80年、15年勤めたストアーズ社を退職しフリーになると、本格的な作家活動を開始する。「ずんがずんが」「ガシガシ」……。軽妙な口語調の文体は「昭和軽薄体」と呼ばれ一大ブームを巻き起こした。■「体力作家」が打ち込んだ映画製作作家活動のスタートは、同時に取材旅行の始まりでもあった。’84年、水中写真家の中村征夫さんと、オーストラリアのグレートバリアリーフで1か月間、生活を共にした。「彼とは出会ったときから意気投合しましたね。乗船した船は、フランスのダイビングボートでね。乗員は30人くらいで、僕ら以外はみな、フランス人。出てくるメシがフランス料理なんですよ。俺たち肉体労働だから腹が減って、“こんなもの食ってられねえ”って。それで2人で船室を漁ったら、米が見つかった。キッコーマンの醤油を誰かが持っていて、もっと探したら生卵が見つかった。2人で米を炊いて、卵かけご飯を食べましたよ。“やっぱ、米だよな”なんて言いながら握手したのを覚えてます(笑)」テレビのドキュメンタリーとして放送されたこの出会いは、’91年公開の映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』につながっていく。椎名さんの映画作りは、年季が入っている。’75年以降、16ミリの記録映画を数多く作ってきた。’90年の『ガクの冒険』でメジャーデビュー。さらに『うみ・そら〜』には、余貴美子さんら本職の俳優陣が出演。それでも、撮影監督は中村征夫さんが務めた。「中村征夫の写真集を原案にした映画だったし、彼は陸上(撮影)はやってなかったんだけど、“陸も海も一緒だよ”と僕が言って、無理やりやってもらったんです」石垣島での撮影は1か月半。作品は、北海道から沖縄まで全国で巡回上映し、口コミで評判が伝わり15万人以上の観客を動員した。「最初は学生映画みたいなものだったけど、勢いというのはすごいもので、『ガクの冒険』が大手配給系の劇場でガーンとかかったんですよ。そのツテがあるから、『うみ・そら〜』では、最初から1週間やったら結構客が入って、3週間のロングラン上映になった。池袋と渋谷、それから大阪にものびていってね。それでガンガン勢いづいて、『ホネフィルム』という会社まで作っちゃった。僕はあのころ、社長だったんですよ。とてもそんな柄じゃないから秘密にしてたんだけどね」とはいえ映画だけに専念していたわけではない。雑誌連載、さらには新聞連載まで抱えていたのだ。「朝日新聞で『銀座のカラス』を連載してました。石垣島のロケ現場にゲラ(校正刷り)が届くんですよ。40度近い暑さの中で毎日毎日、原稿を書いて、3日くらいするとゲラが来る。1度も穴をあけずにやりました。あのころの俺ってまじめだったんだなって。でも、結構楽しんでいましたね。若さもあったし、僕は“体力作家”と言われてましたからね」撮影現場には、100人ものプロの映画スタッフがいた。彼らの目には、「モノカキ」は、あまりいい印象には映っていなかったようだ。「演出部なんかは特に、僕が原稿書いたり、ゲラ読んだりしてるのが嫌いでね。自分たちの映画に全部打ち込んでほしいわけ。映画の現場は体育会系が多いですから、結構荒っぽいやつらもいる。結構こっちも場数を踏んでいるんで、おかしな自信があって、“いつでもやってやるぞ!”というような感じでした、常に。だから、当時はむき出しの狂犬みたいで怖かったという人もいますね(笑)」その後、椎名さんは’93年にモンゴルとの合作映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞を受賞、さらにフランス・ボーヴェ映画祭でグランプリを獲得する。ところが’96年の『遠灘鮫腹海岸』を最後に、映画製作の世界に別れを告げた。「ちょっとアクシデントがあって、嫌気がさしてやめようとなった。やっぱり映画界というのはね、外側から入ってきて、僕みたいに暴れ回るとね、そういうのを嫌う気配があるんですよ。それは今になるとわかるんですけど“何だ、このトーシロは”みたいなね。古い業界だから。映画ってみんなハングリーだから、僕みたいなのは羽振りがよく見えたんでしょうね」面と向かって誰かが言ったわけではないが、椎名さんはそうした「気配」を感じ取ったという。もちろん、「新しい作品を」という声もあった。「ポーランドで撮らないか、ハワイでこんな企画でどうか、という誘いはいくつかあったんだけど、結局、話が大きすぎて手に負えなかったり、ほかの仕事ができなくなるので断りました」■キャンプ人気の先駆け「怪しい探検隊」一方で、テレビのドキュメンタリー番組からはオファーが相次ぐ。「TBSの開局30周年番組かな、これがシベリアでロケをするという全5時間のドキュメンタリー。こんなことができるんだ、とまだ勢いがありましたからね。やりましょうという話をしたんですよ」遭難の末、ロシアへたどり着いた江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の足跡を追って、シベリアを旅する内容だ。「マイナス40度のところを馬で走ったりしましたね。僕が乗ったのは黒い馬だったんだけど、30分走ったら、馬の汗が凍って白馬になってしまってね。まるで氷の鎧を着ているみたいに神々しいんですよ。凍傷になりかけながら旅をしましたね」また「怪しい探検隊」シリーズは椎名文学の中でも人気の作品だが、テレビのドキュメンタリー番組としても新たなファンを集めた。「テレビ局がシリーズでやってくれないかということで、10数本作りましたね。で、俺たちみたいなズッコケの、探検隊とはいっても、怪しいですからね。テレビで持ちますかね?と言ったら、テレビ局の人に“大丈夫ですよ。あれは朝の6時にやりますから、誰も見てませんよ”と励まされてね(笑)」’80年に始まった「怪しい探検隊」の活動は、アウトドアのプロたちを集めた「いやはや隊」、そしてここ10年ほどは「雑魚釣り隊」と名前を変えて存続している。「雑魚釣り隊というのは、本当に釣りが好きで酒が好きで、あとはまったく有名でもなんでもないという30人くらいのグループ。大体15人ほどが、月1回のキャンプに来るんですよ。20代から60代までいて、結構統制がとれていましたね。釣りは必ずするんだけど、カツオだサバだというのは当たり前で、最近ではマグロを釣ってましたね。1メートル半くらいの。それも海外まで行って合宿してね。大盤振る舞いの宴を続けていますよ」「雑魚釣り隊」については、『週刊ポスト』で10年にわたって連載している。「体育会の合宿みたいですよ。僕はいちばん年上で隊長ですから、みんな下にも置かないというふうに敬ってくれて、いい椅子なんか与えてくれてね。マグロを釣ればいちばん最初にいいところをもらったりして、バカ殿様みたいで、あの組織は大好きですね(笑)」「雑魚釣り隊」の参加者の1人、スポーツライターの竹田聡一郎さん(42)は’05年から知人の紹介で隊に加わり、以来、欠かさず参加している。「最初は、千葉・富浦でのキャンプでしたね。隊の中に暗黙の“隊長トリセツ”みたいなものがあって、隊長は虫除けスプレーが嫌いだとか、お酌されるのは嫌だとか。僕は自由にバンバンビールを飲んでいたんですが、椎名さんに“おまえ、ビールすげえ飲むなあ。いいやつだな。次もまた来いよ”って言ってもらえたんですね。椎名さんは、たくさん酒を飲むやつが好きなんですよ。令和に残ったバンカラみたいなところがある(笑)。シンプルでやさしい親分ですね」(竹田さん)この「雑魚釣り隊」にしても「怪しい探検隊」にしても集まるのは男どもばかり。なぜ、女性は参加できないのか。椎名さんに聞くと、「昔からそうなんだ」とひと言。「1度、女性が来たことがあったんだけど、男どもがカッコつけて、ギクシャクしちゃってダメダメで(笑)。丁重にお引き取りいただいた」「雑魚釣り隊」で前副隊長を務めた西澤亨さん(54)は、広告代理店に勤務していたころに椎名さんと付き合うようになり、その後、雑誌『自遊人』の副編集長として椎名さんを担当、現在は沖縄に移住している。椎名さんとは25年来の仲だ。「毎年、年末の数日、椎名さんとみんなで一緒に過ごしていたんです。ある年に僕が、その集まりに仕事で参加できなくなったと連絡したら、椎名さんから折り返し電話がかかってきました」そのとき、西澤さんは吹雪の中にいたが、椎名さんから怒られたという。「椎名さんに“遊びの約束を守れないやつとは遊べない。おまえが来ないなら俺も行かない”って怒られました。吹雪の中、直立不動で。でも、おっしゃるとおりなんです。普通は“仕事ならしょうがないね”と言うところだけど、椎名さんは違う。そこは曲げないんです。超越している。結局、仕事をキャンセルして参加しました」(西澤さん)■死んでもおかしくなかった辺境の旅再び新宿・池林房。ビールのお代わりを頼むと、椎名さんは旅の話を始めた。「チリにホーン岬という岬があってそこを回航するのが命がけなんですよ」南アメリカの最南端である。南極との間の海峡はドレーク海峡と呼ばれ。世界で最も荒れる海峡といわれる。「そこをね、チリ海軍のいちばんちっちゃな駆逐艦に乗って行ったことがある。死んでもおかしくなかったね。低気圧がやってきて、軍艦といっても鉄の塊ですから、案外もろいんですよ。僕は船室に入っていた。すると音がいろいろ聞こえてくる。その戦艦のスクリューが空中に上がって、ガーッと空回りする音が聞こえてましたよ。つまり波の上に乗っちゃったわけ。ドレーク海峡は“吠える海峡”といわれ、そこで何艘沈没して何人死んでいるかわからないという、危険な海なんです」アルゼンチンのパタゴニア地方、世界自然遺産にも登録されているロス・グラシアレス国立公園でも、椎名さんはとんでもない体験をした。「アルゼンチンはものすごく風の強い国なんですね。そこをローカル飛行機、双発機でね、10人乗りくらいの。それであちこち乗り継ぎで旅したことがある。地方の、建物なんかまったくないような、それでも空港というんですけどね。飛行機が降りてくると係員がダーッと走ってきて、みんな鎖を持っていて、その鎖で車輪から翼から何から飛行機を留めるんですよ。風が強いから、そうしないと飛行機がひっくり返っちゃう」そこにはフィッツロイ山という標高3405メートルの、嵐でいつも荒れている山がある。「フィッツロイ山へ飛行機で行こうとしたら、すごい勢いで飛び上がるんだけど、窓から見ると、いつまでたっても空港や滑走路が小さくならないんですよ。空中で止まっているんでしょうね。強風で」その旅からの帰りの飛行機で、椎名さんは尿意を催した。「けれども10人乗りの飛行機にトイレはついてない。で、あちらでは、平らな草っ原があると、飛行機を着陸させちゃうんですよ。降りて、みんながあちこちで小便したり大便したりするんですね」用をすませた椎名さんが周りの草原を見渡すと、珍しい花がたくさん咲いている。椎名さんは、接写レンズでそんな花々を撮影し始めた。「飛行機からだいぶ離れちゃったんですね。そしたら、飛行機のプロペラの回る音がする。あれ?と思って見たら、飛行機がそろそろと動きだしているんですよ。パタゴニアの連中はのんきだから、数も数えないで、みんな乗ってると思ってるわけ。僕は走って行って、飛行機のプロペラの前に立って、“おーい!”と叫んだんだけど、聞こえもしないし、見えもしないんですよ。あんまり近づくと危ないんで、どうしようかなと思っているうちに飛行機は飛んでいっちゃったんですね。置いてけぼりですよ」困ったなあと思ったが、日が暮れるまでには時間があった。とにかく道を探そうと歩きだし、どうにか見つけて、さらに歩いていくと湖があった。そのそばから煙が立ち上っているのが見えた。「それは誰かがいるということ。行ってみたら、森林審査官の家庭だった。そこで事情を話したんですよ。といっても、スペイン語しか通じないから、うろ覚えのスペイン語と英語を交えながらね。そしたら少しわかったようで“あ、こいつ、置いてけぼりになったんだ”と。パタゴニアでは珍しくないみたいなんですね(笑)」そして町までの道を聞いたのだが、馬でも1時間かかる距離。親切にも馬を貸してくれ、ようやく町にたどり着き連絡が取れたのだった。旅の話は、ビールを片手にまだまだ続く。南米のパンタナルという世界一の大湿原でカウボーイに弟子入りし、380頭の牛を2泊3日で送り届けたときの過酷な仕事と、落馬して肋(あばら)を折り湿原に取り残された話。ドキュメンタリーの撮影で、007よろしくヘリコプターから酸素ボンベを背負って海へ飛び降りた話……。■冒険家の妻と家族のものがたり椎名さんは、’68年に一枝さんと結婚した際、渡辺家の籍に入った。’70年に長女の葉さんが誕生し、’73年には長男・岳さんが誕生している。渡辺一枝さんは’87年までの18年間、東京の近郊の保育園、障害者施設で保育士を務め、退職の翌日に初めてチベットに出かけて、その後に作家活動に入っている。チベットについてだけでなく、原発事故後の福島に関する著書も多い。「うちの“おっかあ”は僕よりもすごい冒険家で、いっぱい本を書いてます。それを読んで驚いたんですよ。チベットを馬で行くという本で、彼女が5か月間、実質的に行方不明になっていたことを知りました。知り合いのチベット人3人と一緒に、チベットを馬でずーっと駆け回って一周する冒険旅行なんですね。3回、死にそうになっていました。すげえ旅をしてたんだなって。そんなのが伴侶でいますからね。僕なんかは、どっかでいつか帰ってこなくても全然不思議じゃないな、と思ってるんですよね」椎名さんの代表作のひとつ『岳物語』は、息子の岳さんの子ども時代のエピソードを書いた私小説だ。後年、成長した岳さんはこれを読んでずいぶん怒ったらしい。「自分のことを勝手にあれこれ書かれているのだから、怒っても当然なんだけど、当時は距離を置かれましたね。でも、彼も年をとってきて、人の親になって段々気がつくことも多くなったようで、今はいい関係ですよ。彼は17年間、アメリカで暮らしていたんだけど、3人目の子どもが生まれるタイミングで日本に帰ってきて、今はテレビ局に勤めています」長女の葉さんはニューヨーク在住だ。エッセイスト、翻訳家として活躍していたが、最近、もうひとつの肩書を持った。「数年前、向こうで司法試験に受かって弁護士になったんですね。いきなり聞きましたからびっくりしましたね。ロースクールに通っていることも知らなかったものだから。あんまりそういうことは言わないんですよ。今は、弁護士として仕事してますよ」また、3人の孫についても『孫物語』で書いている。「高校生の男、中学生の男と女ですね。上は大学受験ですよ。孫ができておおいに変わりましたね。ある種、彼らの先々を見届けたい、というね。簡単には死ねない。生きる力の糧になりましたね。それに、子どもって活躍をしてくれるものでね。僕は孫たちを“3匹のかいじゅう”と呼んだんだけど、どんどんじいちゃんになっていく僕から見れば、何をしでかすかわからない別宇宙の生き物なんです」■これからの「シーナワールド」は?77歳になった“作家・椎名誠”は、これからどこへ行くのだろうか。親友の木村さんは言う。「椎名の書くものは段々難しくなってきたからなあ(笑)。あんまりカッコつけないで、もっと笑えるエッセイやユーモア小説を書いてほしいなあ。年とったなりの生き方がにじみ出るようなね」目黒さんは、椎名さんにはまだ書いていないことがあると言う。「あの人は、作家の前に生活人だから、どうしても手をつけないことがあるんですね。例えば惚れた女性のこととか、きょうだいの話とか。そんな路線にも期待したいですね。椎名のすごいところは、資料を読み込んで特徴をつかみ取ること。すごくうまい。なるほどなぁ、とうなずいています」さて、本人はどう思っているのか。「小説のテーマというのは、どこからともなく湧き上がってくるもの。求めれば出てくるというわけではないんです。それでも結構ね、神の啓示のようなものがあって、それを“お!”と思って突き詰めていくと、最終的には1つの本になっていく。そういう経験も何度かありましたね。これからどうなっていくのか、自分でもまあ見当もつかないね。何かおもしろいものを見つけたら、そこに夢中になっていくでしょうね。まずは体調をよくしないとね。だって、物心がついてから、こんなにわけのわからない不調の中にいるなんてこと、今までなかったですから」今回の新型コロナ感染で、椎名さんは死んでもおかしくなかったという。「病院に運ばれて、気がついたときは3日後だった。息子が言うには、病院から電話があって、“お父さんをベッドに縛っていいですか?”と言われたらしい。点滴を剥がしちゃうから。それはまずいからね。記憶にはないけど、ヤバかったんだなあと知りましたよ」ただし収穫もあった。蟄居(ちっきょ)せざるをえなくなり、これまで読めなかった本をじっくり読む機会に恵まれたことだ。「いま読んでいるのは、広野八郎さんという人の作品。外国航路の貨物船の底辺で、石炭夫だった著者が虫ケラのように働いている話。昔の日本人は強かったんだなということを思い知ったり、封建時代の掠奪(りゃくだつ)というのは酷いものだったんだな、などと発見がいっぱいありますね」 「体力作家」と呼ばれ、次から次へと新しい遊びを考えだし、多彩な活動でファンを魅了してきた椎名さん─。「おれ、結構生き長らえてきたじゃないですか。修羅場に強いんだなあ、と。それもネタになるし。まあ、持って生まれた作家魂なのかもしれないけどね(笑)」そう言って微笑むと、作家はビールをグビリと飲んだのだった。〈取材・文/小泉カツミ〉こいずみ・かつみ ●ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数
2021年11月20日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(最終話)【これまでのあらすじ】綾香に不倫がバレて仕事も辞めることになった千紗。『必ず連絡する』と言った悠真さんからの連絡も途絶えた。仕事を退職してから2週間くらいが経った頃、カウンセラーの赤城さんが悠真さんからの手紙を持って訪ねてきた…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第9話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)故郷「千紗ちゃん、それ終わったらあがっていいよ」母屋から聞こえてきた声に、「はい」と返事をする。庭の掃き掃除を終えて道具を片付けていると、渡り廊下にいた女将さんに手招きをされた。「はい、これ。臨時ボーナス」「え、いいんですか?」「お客様からチップを頂いたのよ。千紗ちゃんにずいぶん良くしてもらったっておっしゃっていたわ。帰りに美味しいケーキでも買いなさい」「ありがとうございます。お先に失礼します」「ご苦労様。また明日ね」女将さんにお辞儀をしてから、離れにある更衣室へと向かう。その途中、窓の外に広がる青く穏やかな空を見上げ愛しい人の顔を思い浮かべた。今頃、どうしているかな……?あれから故郷に帰った私は、祖母の伝手を頼って温泉旅館で働き始めた。初めは慣れないことばかりで大変だったけど、良い同僚に恵まれて何とか上手くやっている。祖母も退院して元気を取り戻し、心穏やかに慎ましく暮らす毎日だ。「千紗ちゃん、お疲れ!これからランチに行かない?」更衣室に入ると、先輩の明美(あけみ)さんが笑顔で声をかけてくれた。「えーと、今日は……」「たまにはいいでしょ?支配人がね、千紗ちゃんに気があるみたいなの。1回だけ、チャンスをあげてくれないかな」「そういうのは、ちょっと」「どうして~?なかなかイケメンだし、良い人なのは知ってるでしょ?千紗ちゃんとお似合いだと思うけどなぁ」「ごめんなさい、本当に」「もしかして好きな人がいるの?」「え?」「何となくだけど、そんな気がしたから。違う?」なかなか鋭い質問に、心の中で苦笑する。「いませんよ、そんな人」「そうなの~?もったいなぁ、その歳ならまだまだいくらでも恋愛できるのに。支配人はバツ1だけど、かなりの優良物件なのよ」明美さんは納得していない様子だったけど、それ以上追及してくることはなく、「気が向いたらデートしてあげてね」と私に念を押してから更衣室を後にした。「……いくらでも恋愛できる、ね」1人になって、ポツリと呟く。恋愛はもうこりごり。やっぱり私は恋愛に向いていなかった。だけど、ひとりの人を心の底から好きになれることを知った。それを教えてくれた彼には感謝している。着替えを済ませた私は、いつも鞄の中に入れている手紙を取り出し、開いた。◆手紙この手紙を読んでくれることを信じて、筆を執ります。千紗が初めて僕を調査したあの日、尾行がバレていたと知った千紗の顔を今でもはっきり覚えているよ。真面目で律儀で責任感があるこの人なら信頼できると思ったんだ。少しだけど、僕自身の話をするね。僕の両親は僕が物心ついた頃から不仲で、僕は祖父母に預けられて育ったんだ。家には常にお金がなくたくさん苦労をしたから、僕は安定した生活を夢見て綾香と結婚したんだ。だけど「安定した生活」というのは、必ずしもお金じゃないことを知ったよ。千紗が家庭の悩みを打ち明けてくれた時、自分と同じように苦労したんだと共感した。そして悩みを抱えながらも一生懸命に生きている千紗に興味を持った。真っすぐなところや優しいところ、思いやりのある人柄にどんどん惹かれて、気が付いたらいつも千紗のことを考えていたよ。心の底から好きだと思える人は、千紗が初めてだった。全てを捨ててでも一緒にいたいと、強く願った。その願いはすぐに叶えることができなかったけど、どうか待っていて欲しい。―――――――……「いつか必ず迎えに行くから」最後の一行を読み上げたあと、自然と息が漏れた。幾度も幾度も読んでボロボロになった手紙を、鞄の中に戻す。初めてこれを読んだ日は、目が腫れあがるくらい泣いた。彼が恋しくて、こうなってしまった運命が切なくて、会えなくなることが悲しくて、心の底から想ってくれたことが嬉しくて泣いた。故郷に戻ったあとも、折に触れては手紙を読んで涙を流した。そうして涙も出なくなった頃、待ち望んだ「いつか」は来ないと理解した。いや、来ない方が良いと願うようになっていた。だって、私にはもう……。「あ、千紗ちゃん。まだここにいた」不意に更衣室のドアが開いたかと思ったら、帰ったはずの明美さんが顔を覗かせた。「千紗ちゃんに会いたいって人が来ているけど」「え?」まさか……。◆再会その姿を見つけた瞬間、涙が溢れそうになった。品のある佇まい、穏やかな雰囲気、優しい笑顔。最後に会った時から少しも変わっていない。恋しくて、何度も夢で見た彼だ。「悠真さん」「千紗、久しぶりだね」「どうしてここに?」「迎えに来るって言ったでしょ。5年もかかっちゃったけど……遅くなってごめんね」「あ、あの、とりあえず外に……」まさか「いつか」が来るなんて。本当に迎えに来てくれるなんて……。夢を見ている気分で悠真さんの顔を眺めた。「千紗が言っていた通り、自然が多くて本当に綺麗なところだね」「どうして場所が分かったの?」「自分で教えてくれたじゃないか、『地図で言うとくびれているところ』だって」あ……そういえば、言ったような気がする。2人で旅行した時だったかな、覚えていてくれたんだ。旅館を出た私たちは、近くの公園へと向かった。ベンチに腰を下ろした悠真さんが、私の手を取り優しく微笑む。「会いたかった」「……私も」「あれから、どうしてた?」「必死に生きてた」そう、必死だった。今でこそ慎ましく平凡に生きているけど、故郷に帰って来た当時は、何もかもを失って息をするのも苦しかった。どうして私だけがこんな思いをしなきゃいけないのかと、悠真さんを恨めしく思ったこともある。だけど、それでも彼のことが好きな気持ちは変わらず会いたかった。ずっと。「やっと離婚が成立したんだ」会いたかったけど、もう会わない方が良いと思っていた。私たちの想いを貫くには、あまりにも困難が多く、たくさんの人を傷つけた。不倫の代償はもう十分払ったつもりだけど、そう簡単に許されるものではない。「随分長く待たせてしまったけど、やっと一緒になれるよ」一緒になれるなら地獄に落ちても良い、全てを捨てても良いと思っていた。だけど、だけどね……。捨てられない大切なものが私にはできたの。「ごめんなさい」「どうして謝るの?」「一緒にはなれない。いえ、ならない」「どうして……」その時、公園の向こう側に小さなシルエットが見えた。私の祖母に連れられて、ゆっくりこちらに向かって来る。「私ね、やっと今幸せになれたの」「それは……僕以外に良い人がいるってこと……?」小さなシルエットが、私に気が付いて、大きく手を振る。買ったばかりの赤いコートは、汚すなって言ったのにもう泥だらけだ。「うん。良い人がいるの。今はその人が大切だから、元に戻ることはしない」「千紗、」「会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう。さよなら」たくさんの愛をありがとう。たくさんの思い出をありがとう。好きになってくれてありがとう。人を愛する気持ちを教えてくれてありがとう。鞄の中の手紙は、これからもずっとお守り代わりに持っているね。さよなら、お元気で。◆私なりの幸せ「光莉(ひかり)」「ママー!」満面の笑みで飛びついてきた小さな体を抱きしめると、それだけで心が満たされる。何よりも、誰よりも、大切な私の天使。「さっきのひと、だぁれ?」「んー誰だろうね」「ママのかれしでしょ~」「違うよ、ママは彼氏なんかつくらないもん」「どうして~?」「だって、ママは光莉だけのママだから」光莉を妊娠しているのが分かったのは、故郷に戻ってすぐのことだった。初めは戸惑ったけれど、産まれた我が子を抱いた瞬間、女ではなく母として生きることを決めた。この子の父親がいつか会いに来てくれたら?その時は3人で暮らす?何もなかったかのように生きていける?いいえ、できない。何度も自問自答した。昔のようにまた流されてしまうかもしれないと不安だったけど、自分で思っていたよりもずっと私は強くなっていたらしい。もう誰かに依存する生き方はしない。「そうだ、今からケーキを買いに行こうか」「ケーキ?やったー!」未婚の母であることを、不倫の末に産まれた子であることを、いつか誰かに非難されるかもしれない。それでも私は私なりの幸せを、私らしく生きていく。
2021年11月16日読めば先人の女性たちから元気をもらえる。そんな小説が柚木麻子さんの『らんたん』だ。主人公は柚木さんの母校である、恵泉女学園の創設者、河井道だ。「文芸部のコーチとして母校に出入りしていた頃、道先生が広岡浅子や村岡花子といった、朝ドラのヒロインのモデルになった人たちと写った写真を見つけて、なんだろうこの人脈、と思って。学校には白洲次郎の義父の樺山伯爵から贈られたのではないか?と噂されるワニの剥製や、篤姫の家紋の入った葛籠(つづら)があったりして、それも前から謎でした」執筆のもうひとつのきっかけは、老婦人が起死回生のために自宅をお化け屋敷に改造する『マジカルグランマ』を構想した時のこと。「学校のそばに道先生の右腕だった一色ゆりさんのご家族のお宅があって、そこが増改築を繰り返した面白い建物で。参考にと屋敷の図面を借りた時、それがゆりさんが道先生のために建てた建物だと知ったんです」河井道に興味を持ち調べてみると、知れば知るほど面白い人物だったことが判明。小説化する際には「堅苦しくないエンタメにしよう」と決めた。「男性の偉人伝に比べて、女性の偉人伝ってエンタメが少ないことがずっと気になっていたんです」1877年生まれの道。少女時代、メンター的存在となる新渡戸稲造との出会い、米国留学、帰国後の教師職(その時の教え子がゆりである)、学校設立の夢…。生涯が語られるなか、有島武郎や津田梅子、野口英世に徳冨蘆花ら、当時の有名人が続々登場して驚く。「たとえば有島武郎とは面白い関係で、有島は道先生に認めてもらいたがっているのに道先生は邪険に扱っている。そうした部分がおかしくて、膨らませていきました」また、社会変革に尽力した女性たちの姿がとても眩しい。「恋愛ばかり注目される柳原白蓮は後に平和活動をしていたし、大杉栄とのスキャンダルで有名な神近市子は実は頑張り屋だし、山川菊栄がキレッキレだったり。当時、彼女たちは衝突し合いながらも、女性の教育や参政権に向かって行動していった。全員が完璧というわけではなかったけれど、だからこそ誰一人欠けても駄目だったと思います。そういう彼女たちのことも知ってもらえたら」道もそんな一人。教育熱心だが堅苦しくはなく、楽しいことを次々に提案する人だったようだ。「さまざまな文化を吸収してみんなに教えるYouTuberみたいな人。恵泉って修養会だの合唱コンクールだの行事がやたら多かったり、ディスカッションの授業があったり、制服がなかったり、生徒が話し合って校則を決めたりしていて。道先生について調べるうちに、そうした学校の方針が全部腑に落ちました」52歳でようやく学校を設立した道だが、やがて日本は戦争に突入。その時の揺れる思いも描かれる。「道先生も時勢に逆らえなかったことをちゃんと書きたくて。田辺聖子さんの“今の判断で歴史上の人を裁くな”という趣旨の文章が支えになりました。村岡恵理さんが義理の祖母、村岡花子について書いた『アンのゆりかご』と、田辺聖子さんの評伝小説『ゆめはるか吉屋信子』のフェアな描き方も参考になりました」スピーディで賑やかな物語に夢中になりながらも、道が繰り返し唱えるシェアの精神や、暗い道を照らす光を継承していこうとする思いがしっかりと伝わってくる。この先、読み継がれていくであろう名作だ。『らんたん』女子学校教育の黎明期に、自身の理想を追求した河井道。彼女を支えるゆりとのシスターフッドや、著名人たちとの交流、時代の変化を盛り込みながら、波乱に満ちた生涯を描くエンパワーメント大河小説。小学館1980円ゆずき・あさこ2008年にオール讀物新人賞を受賞、’10年に『終点のあの子』でデビュー。’15年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞受賞。近著に『BUTTER』など。撮影・齊藤晴香※『anan』2021年11月17日号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2021年11月14日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第9話)【これまでのあらすじ】悠真さんとは別れ日常に戻っていた千紗は、寝不足からか、失恋のせいか体調を崩し寝込んでしまう。看病に来た母の、「一緒に不幸になっても良い人」こそ人生に必要という言葉に、悠真さんを思い浮かべる…別れてから2カ月たったある日、悠真さんから連絡があり千紗は再び会うことに。ホテルで会っているところに綾香が現れ…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第8話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)修羅場綾香が、どうしてここに……?突然のことに頭が真っ白になる。彼女は両サイドに体格の良い男性2人を従えて、仁王立ちしていた。事の状況が理解できたのは、綾香からの強烈なビンタを食らった後だった。「友達の旦那と不倫するなんてぇ、最低!」「……」「何とか言いなさいよぉ、このっ!」「綾香」もう一発叩かれそうになったところで、悠真さんが綾香の腕を掴んだ。「待ってくれ、僕と彼女は、」「しらばっくれないでよぉ、全部調べたんだから」調べた? それってまさか……。思わず息を飲んだ私に、綾香の鋭い視線が刺さる。こんな日が来ることを全く予測していなかったわけじゃない。それでも体が小刻みに震え出した。「別の探偵を雇ったのか?」悠真さんが綾香に尋ねた。ただ事ではない雰囲気を醸し出す私たちを、ロビーにいた人たちが好奇の目で見ている。「そうよ、気付かなかった?あなたたち随分、油断していたものねぇ」油断していたのかな。でもまさか私に調査を依頼しておきながら、別の探偵も雇うなんて考えもしなかった。それに、SNSを見る限り私と悠真さんとの関係に気が付いている素振りなんて……あ、もしかして……。「わざとSNSに呑気な投稿をしてたの?」「やっと分かったぁ?私が疑ってないと過信して、2人で旅行に行ったのも知ってるんだからね」「そっか……」じゃぁ、もう言い訳の余地もないね。「ごめん、綾香」「謝って済むことじゃないよねぇ」「分かってる。分かってるけど、悠真さんと別れて」「はぁ? 冗談じゃない! 離婚は絶対にしない」「お願い、悠真さんを自由にしてあげて」「ちょっと何言ってんのか分かんないんだけどぉ。自分の立場ってのを考えなさいよ」ドンッ、と肩を強く押される。衝撃で体が一歩後ろに下がった。「千紗、あんたは相手が既婚者と知ってて関係をもつ最低な女」綾香が距離を詰める。「親にもご近所にも、もちろん職場にも言いふらしてあげる。慰謝料もたっぷり取るから覚悟してて」綾香はそう宣言すると、踵を返してホテルを後にする。悠真さんは、綾香が従えていた男性2人に両脇をガッチリ掴まれた。「何をする、離せ!」「悠真さん!?」抵抗も虚しく悠真さんは、男性2人によってホテルの出入り口へと引っ張られて行った。その様子を私はただ茫然と見送るしかなく、彼が口パクで言った『あとで必ず連絡する』は、永遠に叶わないことのように感じた。◆代償「覚悟していて」といった綾香の本気を知るのは、そう時間のかかることじゃなかった。まずは私が住むマンションの掲示板や私の部屋のドアに『〇〇号室の藤川千紗は不倫女』と書いたビラを貼られた。さらに共有スペースの外廊下に生ごみを撒かれており、他の住民から連絡を受けた管理人さんがすっ飛んで来た。当然それらは私が片づけることとなり、その対応に1日以上を費やすことになる。SNSでも名指しで非難され、コメント欄は共通の友達からの「そんな人だとは思わなかった」という言葉で溢れていた。またリーダー的存在だった玲子からは、友達をやめるという旨のメッセージが直接私のところに送られた。母にも連絡が入ったらしい。『もしもし、千紗? なんかあんたの知り合いという子から電話があったんだけど』「うん……綾香でしょ」『そうそう、そんな名前だった』「ごめんね、綾香は何て?」『旦那を横取りされたとか、どうとか。あんた友達の旦那と不倫したの?』「……うん」親にも言うって宣言していたもんね。ただ、うちの母は私なんかよりもずっと多くの修羅場を経験しているから驚きもしないだろう。予想通り、母は怒るよりも呆れた声でこう言った。『馬鹿だねぇ。1番面倒くさいところに手をつけて。ま、自分で蒔いた種なんだから自分で何とかしなさいよ』「分かってる」『何を言われても私は知らないって言うから、こっちのことは気にしなくていいよ』「うん……ありがとう」『それより、あんたまだ風邪が治ってないの? 酷い声だけど』「大丈夫だよ。ごめん、切るね」1番のダメージは職場だった。所長室に呼び出された私は、苦い顔をした所長にこれまでのことを説明した。重々しい雰囲気と緊張からめまいと吐き気が催してくる。「大変なことをやってくれたね……」呟くように言った所長は、目の前にある内容証明郵便に視線を落とし溜息を吐く。「申し訳ありません」「こうなってしまった以上、うちも厳しく対処しなくてはならない」「……クビですか」「調査員が対象者に手を出すなんて前代未聞だよ。自分がやったことを分かってるよね」「はい。すみませんでした。お世話になりました」当然といえば、当然だ。つい先日まで冗談を言い合いながら一緒に働いていた同僚からも、冷たい視線を向けられる。所長室を出て、自分の荷物をまとめる間も空気が重い。去り際、みんなに向けて一礼をしたけど、赤城さんは最後まで視線を合わせてくれなかった。「藤川」エレベーターでビルの1階まで降りると、咥え煙草の仲西さんが立っていた。「仲西さん……ご迷惑をおかけしてすみませんでした」「やめろよ、お前らしくない」「そうだよね、ごめん。じゃぁ、行くね」「待て、これを持っていけ」仲西さんが私に渡したのは、名刺だった。「不倫問題に強い弁護士さんだから、相談しな」「ありがとう。でも、」「でもじゃねぇよ、持ってて損はないだろ。返品すんな」「うん……」「顔色悪いな、家まで送ってやろうか」仲西さんの優しさに、ちょっと泣きそうになった。「大丈夫、1人で帰れるから」「気を付けろよ。それから、」「それから?」「その、なんだ、確かにお前は悪いことをしたかもしれないけど、だからってお前の価値が下がるわけじゃないから。堂々と胸を張れ」「うん……ありがとう」堂々と、か。自分がしたことに胸を張れる日なんてこない気がする。いや、こない方がいいだろう。でもじゃぁ、どうやってこれから生きていけばいいのだろう。恋人、友達、仕事、信用、信頼、自業自得とはいえ何もかもを無くして、一体どうすれば……。◆涙悠真さんからの連絡は、やっぱりこなかった。きっともう、何もかもが終わってしまったのだろう。彼と一緒なら例え地獄に落ちても良いと思ったけど、結局は1人ぼっちになってしまった。「(それもこれも、自分で蒔いた種だよね)」仕事を退職してから2週間くらいが経ったある日、家のインターフォンが鳴った。平日の昼間に誰だろう?恐る恐る玄関のドアを開けると、赤城さんが立っていた。「突然ごめんね、今いいかな?」「あっ、はい。でも部屋の中は散らかっているので、外で……」びっくりした。まさか赤城さんが訪ねて来てくれるなんて……。天気が良いので駅前のカフェでドリンクとサンドイッチをテイクアウトして、近くの公園へ移動した。手頃なベンチを見つけて腰を下ろしたところで、赤城さんが私に尋ねる。「部屋の中を片付けているみたいだったけど、引っ越しでもするの?」「……はい。祖母がいる田舎に帰ろうと思いまして」「あのことが原因?」「それもあるけど、実はずっと体調を崩してて。田舎でゆっくりしたいなって」「そっか」うん、と頷いた赤城さんは、私の手を握った。「藤川さんが退社したとき、あまりにびっくりして。冷たい態度を取ってごめんね」「いえ、私の方こそ嘘を吐いていて、ごめんなさい」「正直、ガッカリしたけどね……。でも、それでこれまでの信用が変わるわけじゃないしね」「ありがとうございます。わざわざそれを言いに来てくれたんですか?」「実はね、もう1つあるの」赤城さんはそう言うと鞄の中から白い封筒を取り出し、私に手渡した。何だろう? シンプルなデザインのそれには、宛名が書いていない。「伊野さんから預かってきた」「え?」「郵送したら読んでくれない気がするから、私から読むように言って渡してくれって。初対面なのによくそんなこと頼むわよね」「……人の懐に入り込むのが上手い人なんです」「そうみたいね。とにかく、渡したからね」「はい……」悠真さんからの手紙。赤城さんが帰ったあと、その手紙を読んだ私は周りの目を気にすることなく涙を流した。最終話は、11月16日(火)公開予定!
2021年11月09日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第8話)【これまでのあらすじ】千紗は綾香と自分、どっち付かずの悠真さんに不安が爆発し、母と同じようになってしまっていることに気付く…さらに、入院した祖母に「千紗が幸せになる姿を見るまで死ねない」と言われ、悠真さんとは幸せになれないと思った千紗は別れることを決めた…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第7話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)別れ悠真さんと別れることを決意したものの、なかなか行動に移すことはできなかった。気持ちが揺らぐ前に今すぐ電話をしよう。いや、東京に戻ってから直接会って話をしようか?やっぱりダメ、顔を見たらきっと切り出せない。もう少し落ち着いてから電話した方が良いかな……。そんな風にぐじぐじしていたある日、悠真さんの方から電話がかかってきた。『もしもし千紗? 連絡が遅くなってごめんね』「……ううん」『あれからどうしてた? 僕はずっと千紗に会いたかったよ』私も会いたかった。でも、もう……。『様子が変だね。どうした? 何かあった?』「うん、あのね」迷ってないで、言わなきゃ。「もう別れようと思う」『え?』「終わりにしたいの」『千紗……』ふと、初めて名前で呼んでくれた時のことを思い出した。こんなにも苦しいなら深入りしなきゃ良かった?止められるうちに止めときゃ良かった?ううん、きっと出会ったばかりの頃に戻ったとしても、また彼を好きになると思う。「もう会わない」『何となく、そう言われると思っていたよ。ごめんね、苦しい思いをさせて』「悠真さんは悪くないよ。欲を出した私が悪いの」『そんな風に言わないで。千紗には感謝してる』「私も感謝してる……今までありがとう」『こちらこそ、ありがとう』切るねと言って通話終了ボタンを押した瞬間、やはり寂しさがこみあげてきた。私たちの関係はもうこれで終わり。自分で決めたことなのに、涙が溢れた。◆日常悠真さんとの関係を終わらせて日常に戻った私は、仕事に打ち込むことで寂しさを紛らわせた。その日も朝から尾行、張り込み業務をこなし、夕方からは綾香に提出する調査報告書を作成していた。「対象者・伊野悠真に不貞行為を思わせる動きは見られなかった」不意に赤城さんがパソコンを覗き込み、興味深そうに読み上げる。”ゆうま”という名前の響きに、胸がざわついた。失恋の傷は癒えるどころか、どんどん酷くなっている気がする。「友達の旦那はシロだったんだ」「はい」まさか自分自身のことを報告するわけにはいかず、嘘を吐くのは心苦しいけど。結果的に別れて、何もなくなったんだからいいよね……。「赤城さんの妹さんは、どうなりました?」「離婚することにしたみたい。やっぱり信用を失った人とはうまくいかないって」「そうですか……」「どうしたの? そんなしんみりした顔しちゃって」「いえ、別に」「怪しい。彼氏と何かあったでしょ~」からかうような口調で私のオデコを突いた赤城さんは、急に表情を変えた。「ねぇ、もしかして熱あるんじゃない?」「そうかな……」「絶対あるよ、しんどくないの?」言われてみれば、少しダルイような気がする。ここのところ寝不足だったからかな? それとも失恋のせいで熱が出たとか?私にもそんな繊細な一面があったんだ。「季節の変わり目で風邪を引いちゃったのかもね。今日はもう帰って休んだら?」「そうしようかな」「待って、仲西さんを探してくる。送ってもらうように頼むから」「そんな大丈夫ですよ」あ……もう呼びに行ってるし。結局この日は、仲西さんに車で家まで送ってもらい、そこから私は3日ほど寝込むことになってしまった。◆幸せの定義家で寝込んでいる間、ずっと夢を見ていた。隣に悠真さんがいて、笑っている夢。その夢の中では何の不安もなく、ただただ幸せだった。目が覚めて夢だと気付いた瞬間、絶望感に苛まれる。そんな中、何故か母が家にいて珍しく看病をしてくれた。「具合はどうだい?」「うん、ちょっとマシかな」「お粥を作ったから、食べなさい」「お母さんが作ったの?」「何よ、私だってそれくらいできるわよ」ベッドまで持って来てくれたお粥はお世辞にも美味しいと言えるものじゃなかったけど、その温かさに涙が滲んだ。弱っている時に優しくされるとダメだな……。「しっかりしなさいよ、たかが失恋したくらいで」「うん……。えっ!」一瞬頷いたものの、驚きのあまりご飯粒を喉に詰めそうになった。「どうしてそれを……」「見てれば分かるわよ、これでも一応、あんたの親なんだから」「お母さん」「というのは嘘。カマをかけてみただけだよ」「ええっ!」じゃぁ、まんまと引っかかってしまったってこと?やだな、恥ずかしい。「私も昔はよく失恋しては、熱を出して寝込んだんだよ。覚えてない?」「そういや、そうだったような」「その男とはどうして別れた?」どうしてって、それはもう……。「一緒にいても幸せになれないから」お母さんにこんな話をする日がくるなんて不思議だなって思っていると、母はもっと不思議そうな顔をして私にこう尋ねた。「幸せになれないなら、一緒にいる意味はないの?」「え……」「その男のことが好きなら、幸せじゃなくてもいいと私は思うけどね」「幸せにはなりたいよ。当たり前でしょ」「じゃぁ聞くけど幸せって何? 平和に暮らすこと? お金に困らないこと? それとも誰かに後ろ指を指されないこと?」お母さん、私が不倫してたことに気付いてるのかな。「そもそも人生において幸せだと思える時なんてほんのひと時だよ。そのひと時を一緒に過ごす相手が必要?私はそう思わない」「じゃぁ、どう思うの?」「必要なのは幸せになれる相手じゃない、不幸になっても良いと思える相手だ」「え……?」「この人とだったら例え地獄に落ちても構わない。苦しい時こそ手を握って一緒に頑張れる相手こそ、人生に必要なんだよ」「お母さんはそういう人がいたの?」「言っとくけど、私は昔も今もモテるんだよ。最悪な時に助けてくれる男は1人や2人じゃないよ」祖母はずっと母の事を不幸だと言っていた。だけど、それは間違いだったのかな?母は母なりの幸せを見つけて生きてきたんだね。今になってやっと、ちょっとだけ理解できた気がするよ。◆再愛母は私の体調が回復した頃、また家から出て行った。もう新しく良い人がいるらしい。今度こそ運命の人なんだと言っていた。私の運命の人は……悠真さんは私にとって「一緒に不幸になっても良い人」なのかな。考えれば考えるほど、分からなくなる。「(ま、考えたところで、もう別れちゃったんだけどね……)」失恋の傷はまだ癒えることがなく、時々こうして悠真さんのこと思い出しながら時間が過ぎ。別れてから2カ月がたったある日、悠真さんから電話がかかってきた。『もしもし、千紗?』「悠真さん」『良かった、電話に出てくれて』久しぶりに聞いた彼の声は、相変わらず優しくて涙が溢れた。そしてその瞬間、私にとって彼は一緒に不幸になっても良い人だと気が付いた。彼の全てが恋しい。『千紗に会いたい』「私も……」『本当に?』「会いたい、やっぱり今もまだ悠真さんのことが好きみたい」『金曜日の19時に、初めて一緒に食事をしたホテルで待ってる』「うん、分かった」お祖母ちゃん、ごめんね。私はやっぱり母に似て、世間一般的にいう幸せは手に入らないかもしれない。お祖母ちゃんが望む幸せな姿は、きっと見せてあげられない。それでも私は、自分なりの幸せをきっと見つけるから。心配しないで。金曜日、約束の時間よりも早くホテルに着いた私は、カフェに入り紅茶を飲んでいた。カフェといってもオープンな造りになっているので、ロビーの様子が良く分かる。少しすると、ネイビーのスーツを着た悠真さんが真っすぐこちらに向かって来るのが見えた。「お待たせ、久しぶりだね」「悠真さん」「元気だった?」「うん。悠真さんは?」「千紗に会いたくて気が狂いそうだったよ。行こう、部屋を取ったから」「うん」差し出してくれた手を握る。会えたことはもちろん、今も変わらず私を想っていてくれたことが嬉しくて。自然と綻ぶ顔を彼の背中で隠しながら、エレベーターホールへ向かう。――――と、不意に悠真さんが足を止めた。何事かと思い視線を上げると、そこには思いもよらない人物が立っていた。「やっぱり、2人で会ってたのね」「綾香……」第9話は、11月9日(火)公開予定!
2021年11月02日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第7話)【これまでのあらすじ】綾香の妊娠を知って、悠真さんとの関係を清算しようと思った千紗だったが、「離婚したい気持ちに変わりはないから待ってて」という言葉に流されてしまう。しかし綾香はすぐに流産していた。それ以来、悠真さんは綾香に付きっきりになってしまい、千紗は激しい嫉妬心に苛まれる…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第6話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)彼しかいない行く当てもなく、ふらふらと歩く。衝動的に外へ出たものの、何がしたいかなんて自分でも分からない。悠真さんと綾香が住む家に乗り込んで、秘密を暴露する勇気もない。駅前まで来ると急に寒さを感じて、24時間営業のカフェに入った。「いらっしゃいませ」カウンターでコーヒーを注文して、空いている席を探す。周りに人がいなくて、落ち着ける場所が良いなと考えていると、1人の男性と目が合った。すると、その男性はゆっくり立ち上がり、私のところに向かって来る。「なつみさん?」「え?」「たかあきです。ほらこれ、目印の帽子」もしかして、出会い系で待ち合わせしてる人と間違われた?たかあきと名乗った男性は、私が持っているトレイを持ち席へ誘導しようとする。「違うんです」と言いかけて、やめた。どうせ1人だし、話し相手ができるならいいか。そう思った瞬間だった。「すみません、彼女を返してもらいますね」私と男性の間に突然現れた人物に、我が目を疑った。嘘でしょ……。悠真さんが、どうして?有無を言わせないきっぱりとした口調でそう言った悠真さんは、私の腕を引いてカフェを出た。そのまま人気のない路地へと進んで行く。たまらず、声をかけた。「悠真さん、あの」「僕が来なかったら、あの男とどこか行く気だった?」足を止めた悠真さんは、私に背中を向けたまま質問をする。問いかけに答えられないでいると、「良かった、間に合って」大きなため息を漏らした悠真さんは、こちらに体を向けて私を抱きしめた。「危なっかしくて放っておけないよ」「ごめんなさい」「謝るのは僕の方だよ。ごめん、すぐに駆けつけられなくて」いいの……。こうして来てくれただけでも、嬉しい。「でもどうして、あそこにいるって分かったの?」「電話してもでないから取りあえず千紗が住んでる駅に来てみたら、偶然見つけたんだ」そうだったんだ。ガラス張りのお店に居て良かった。見つけてくれた嬉しさがこみ上げ胸の真ん中が温かくなる。「あれからまたインターフォンが鳴ったの? 警察に連絡した?」「それは……」嘘だったなんて、いまさら言えない。悠真さんの気を引くため咄嗟に嘘を吐いてしまったのだ。「ただの酔っ払いだったのかも。上の階の人が部屋を間違えたのかな」「だったらいいけど。念の為、管理人さんには話した方がいいよ」「分かった、そうする」ごめんね、悠真さん。私、平気で嘘を吐く最低な人間なの。最低だけど、あなたのことが好きすぎてどうにかなりそうなの。私には悠真さんしかいない……。「来てくれて、ありがとう」「お礼なんか言わなくていいよ。でも、約束して。僕以外の男に付いて行かないって」「うん、約束する」小指を立てて頷くと、悠真さんは優しいキスをくれた。◆どっちが大事?「本当に帰らなくていいの?」「うん、綾香には仕事のトラブルで朝まで帰れないと言ってきたから」「嬉しい」悠真さんの首筋に腕を回し、ギュッと抱きつく。綾香が流産してからあまり会えてなかったし、お泊りをするのも久しぶり。ホテルに行くことも考えたけど、私の家の方が近いので招待することにした。最近まで母が居たから、悠真さんがここに来るのは初めてだ。「へぇ、ここが千紗の部屋か。キレイにしてるね」「あんまりジロジロ見ないで適当に座ってて。今、コーヒー淹れる」「いや、コーヒーよりも……」背後からお腹の辺りに腕を回され、耳元にキスをされた。「千紗が欲しい」されるままに悠真さんのキスを受けていると、それだけで心が満たされていく。ベッドへ移動した私たちは、服を脱ぐ間ももどかしくお互いの体を密着させた。「悠真さん、愛してる」「僕も。ずっと一緒にいようね」唇を重ねようとした瞬間、悠真さんのスマホから着信音が鳴った。1度は無視したものの、しつこく何度もコールされる。「もしかして、綾香……?」「あぁ」苦い表情を浮かべた悠真さんは、スマホを取り耳に当てた。それから短い返事をいくつかしたあと、「すぐ帰る」と答え、通話を切った。「ごめん、帰らないと」「どうして? 朝まで一緒に居られるって言ったじゃない」「綾香が不安がっているんだ」「そんなの放っておけばいいでしょ!」不安なのは、私だって同じなのに。寂しくて苦しくて、爆発しそうな思いをいつも抱えて耐えているのに。「また時間を作るから」「またっていつ?」「千紗……」「綾香と私、どっちが大事なの!?」頭にカッと血が上って、思わず泣き叫ぶ。そんな私を、悠真さんは困ったように見つめていたけど、「あとで連絡する」と言い残して帰って行った。どうしてこんなことになってしまったのだろう?さっきまで、すごく幸せだったのに。それからしばらく泣きながら部屋で過ごして涙が枯れた頃、インターフォンが鳴った。もしかして、悠真さんが戻って来てくれた?慌てて玄関のドアを開けに行くと、そこに立っていたのは母だった。「お母さん、どうして?」「どうしたもこうしたもないよ。あの男……若い女と二股しやがって」「また振られたの」「うるさいわね、あんたまで私をバカにする気!?」噛みつかんばかりに勢いで喚き散らす母は、ずかずかと部屋に入り冷蔵庫からビールを取り出した。「ムカつく! ふざけんな!」「お母さん……」「うるさい!うるさい!」ヒステリックに叫ぶ母は、ビールを飲みながら嗚咽を漏らして泣き始めた。その姿が、数時間前の自分と重なりゾッとした。私、お母さんと同じようになってしまっている……。◆決意悠真さんからの連絡は、しばらく途絶えた。綾香のSNSには、「旦那くんがマッサージしてくれた」や「気晴らしに映画を観に連れて行ってくれた」などが書かれていて、私の心は荒れる一方だった。そんなある日、母方の従兄弟から祖母が入院したという連絡が入った。「お祖母ちゃん!」駆けつけた私に、祖母は目を丸くして「どこのお嬢さんかと思ったわ」と笑った。電話はよくしていたものの、祖母に会うのは10年振りくらいかな?祖母も随分老けていて、私の記憶にある祖母とは全然違う。「身体は大丈夫なの?」「検査入院みたいなものだから大丈夫よ」「本当に?」「本当、本当。わざわざ飛行機に乗って駆け付けてくれたのね。ありがとう」「当たり前でしょ、お祖母ちゃんに何かあったら私……生きていけないよ」「大げさね」私は幼い頃、お祖母ちゃんと一緒に暮らしていた。しつけには厳しかったけど、私の母とは違って優しくて笑顔の絶えない人。当時はたまにしか様子を見に来ない母のことを姉、祖母を本当の母だと思っていた。母が上京する際に私も連れて行くことに、最後まで反対してくれた人でもある。「千紗はどうなの? 元気にしてる?」「うん、元気だよ」「こんなにやつれているのに? 無理なダイエットをしているんじゃないでしょうね」祖母は心配そうに、私の頬を撫でた。実はここ最近、あんまり食欲がなく2キロ痩せてしまった。「違うよ」「千紗が幸せになる姿を見るまで、死ねないわ」「お祖母ちゃん……」「木綿子(ゆうこ)はね、どういうわけか幸せに縁のない子でね。千紗にも苦労をかけたでしょう」木綿子というのは、私の母だ。「私の育て方が間違っていたんだろうね。親として娘が不幸せなのは見ていて辛い。だからせめて、孫娘の千紗は幸せな姿を私に見せてね」「うん、分かった」胸が締め付けられるように痛い。幸せな姿なんて、いつになったら見せられるのだろう。そもそも悠真さんが私のところに来てくれたとして幸せになれるのだろうか。ううん、きっとなれない。綾香と私、どっち付かずの彼のことだ。幸せになんかなれるはずがない。「(もう終わりにしよう)」私は祖母の手を握りながら、悠真さんと別れることを決めた。第8話は、11月2日(火)公開予定!
2021年10月26日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第6話)【これまでのあらすじ】帰りの時間を気にせずに済むので、伊野さんと旅行を計画した千紗。旅行は楽しく、好きという気持ちも増したが、こんなことをしていて良いのかという後ろめたさも募った。そんな中、職場のカウンセラー赤城さんの妹が旦那に浮気された話を聞き、さらに罪悪感を感じていたところ、綾香から「私、妊娠したみたい」と電話が…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第5話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)動揺綾香が妊娠……!?それって、当然のことながら悠真さんの子供だよね?スマホを持つ手が震える。動揺に気付かれないよう、そっと深呼吸をした。「そうなんだ、おめでとう」『ありがとう!』「お祝いしなきゃね」『気が早いよぉ。まだ、5週目だから』5週目ってことは、1カ月と少し。私と悠真さんが親密になった頃ってこと?綾香とのセックスが苦痛で仕方ないと打ち明けられた時には、もうできていたんだね。そう考えると、胸の奥にムカムカとした感情が渦巻いた。この感情って――――嫉妬?綾香の妊娠を知った日の夜、ホテルの一室で悠真さんと会った。複雑な心境だった私は、彼の顔をまともに見れない。「僕も驚いているんだ、まさかこのタイミングで子供ができるとは」「おめでとうって言うべきよね」「まだ実感が湧かないよ」「もう会うのは、やめた方がいいね」生まれてくる赤ん坊から、父親を奪うわけにはいかない。それくらいの良識は、まだ残っている。こうなってしまった以上、私たちの関係は清算して彼は家庭に戻った方が良い。頭では分かっているんだけど、涙が零れそうになる。泣き顔を見られたくなくて背中を向けたまま「じゃぁね」って部屋から出ようとした瞬間、抱きしめられた。「千紗」「離して。後腐れないようにしようよ」「そんなの無理だ」「じゃぁ、どうするの?」「離婚したい気持ちに変わりはない。だから、少しだけ待ってて」私はいつか、この時のことを後悔する。引き返せるはずだったのに、どうして流されてしまったの?って。だけど、それでも良いって思ってしまった。「分かった、待ってる」後悔しても良いから、この人が欲しい。◆まさかの「あれ、もしかして千紗」仕事帰りに立ち寄った雑貨店で声をかけられ振り向くと、大学時代の友人が立っていた。黒いツヤのある髪と大ぶりのピアスがよく似合う美人で、仲良しグループの中心的存在だった玲子(れいこ)だ。「わあ、久しぶりだね! 元気?」「元気元気! 千紗も元気してた? 今、何してるの? 仕事は? 住んでるのって、この辺り? 」「ちょ、ちょっと待って。そんな次々に聞かれても答えられないよ」「あはは、ごめんー」相変わらずだなぁ、玲子は。明るくて派手な性格の玲子は交友関係が広く、賑やかなのが苦手な私とは正反対。そのため、グループ以外で個人的に遊んだりすることはなくて大学を卒業後は連絡を取ってなかった。それでも久しぶりに会えたことが嬉しく、お互いに時間があるということで、近くにあるイタリアンレストランに入った。「千紗、何だか大人っぽくなったよね」「そう? 実際もう30歳だし。十分大人なんだけどね」「いや、そうじゃなくて色っぽくなったというか、魅力的になったって意味!」面と向かってそんなことを言われると、背中の辺りがくすぐったい。私自身そんな自覚はないけど、もし変わったことがあるとしたら、恋をしているからかな……。「千紗と話してたら皆にも会いたくなっちゃった。誰かと連絡とってる?」「今は……綾香くらいかな」「綾香!私も時々連絡するよ。って言ってもSNSで繋がってるだけだけどね」そう言ってスマホを手に取った玲子は、急に顔を曇らせた。「綾香は今、大変みたいだね」「あー、つわり?」綾香はSNSでも妊娠したことを報告していた。今時、安定期に入る前に公表する人は珍しいけど、それだけ嬉しかったのだろう。私はそれ以来、彼女のSNSは見ないようにしていた。大変なことと言えば、つわりくらいしか思いつかない。「綾香から聞いてないの?」「うん? 何が?」「あの子、流産したって」え、嘘……。「千紗も知らなかったかー。SNSであれだけ派手に報告したから、言い出しづらいんだろうね」「玲子はどうして知ったの?」「DMでやり取りしてて、その時に聞いたの」「そっか……」「落ち着いたら、綾香を励ます会をしようよ」「うん、そうだね」◆最低な人間綾香が流産したと聞いた時、正直ホッとした。その反面、命が1つなくなったというのに安堵するなんて最低だと自己嫌悪をする。私ってこんなにも自分勝手で冷たい人間だった……?「あ、丁度良いところに帰って来た」玲子と連絡先を交換してから別れ、家に帰ると部屋で母が荷物をまとめていた。家にいる間はずっとノーメイクにジャージ姿だったくせに、今日は水商売の女のように濃いメイクを施し、体のラインを強調した服を着ている。「お母さん、出て行くの?」「あぁ、世話になったね」「また男の人のところ?」「そうだよ、あんたなんかよりもずっと優しくて尽くしてくれる男のところに行くんだよ」悪びれることもなくそう言った母は、クローゼットの上にある私の腕時計やアクセサリーを鞄に投げ入れた。情けないやら悲しいやら、やるせない気持ちでいっぱいになる。「私だってお母さんに十分優しくしてるでしょう」「優しいもんかい、小遣いの1つもくれやしないで」「お母さんの言う優しさは、お金なの?」何かって言うと、いつもそう。私の存在を認めてくれたことなんて1度もない。母から愛情を感じたこともない。「馬鹿なこと言わないで。もう行くから」「待って!1つだけ教えて……。私がお腹にいると分かった時、お母さんはどう思った?」「は? そんなことを聞いてどうするの」「いいから答えて」「堕ろそうと思ったよ、でも子供を産んだらあの男を繋ぎとめられると思った。だから産んだんだ」最低、最低、最低。こんな最低な人から産まれたから、私も最低なんだ。◆嫉妬 残念なお知らせがあります私たちのべビはお空に帰りましたいつかまたパパとママに会いに来てね**旦那くんも辛いはずなのに、いっぱい励ましてくれる優しい旦那くん、ありがとう、大好き赤ちゃんを守れなくてごめんなさい#べビ # またね #流産#パパとママのところに来てくれてありがとう#旦那くん大好き何これ、悲劇のヒロインにでもなったつもり……?見なきゃいいのに、綾香のSNSを見てはイラつきを抑えられなくなる。流産してしまった綾香の体を心配するとか、メンタルは大丈夫なのかと思いやる気持ちはどこかに行ってしまった。悠真さんとの電話でも、聞き分けの言い女を演じられない。『もしもし、千紗』「悠真さん」『悪いけど、しばらく連絡できない』「どうして?」『綾香の具合が悪いんだ。それに、今は綾香の傍に居てやらないと』「夜に電話するくらいなら、」『ごめん!綾香が呼んでるから切るよ』悠真さんは、綾香が流産してから付きっきりで看病をしているらしい。そのことがさらに私の嫉妬心を煽った。連絡できないと言われていたのを無視して、電話をかける。「悠真さん、助けて!」『どうした?』「部屋に変な人が来たの」『変な人って?』「分からないけど、インターフォンを鳴らされて……。怖いから来てくれない?」『来てくれないって、家に? 今からは無理だよ』「お願い……」『僕が行くより警察を呼んだ方が良い。次にインターフォンが鳴ったら110番するんだ。いいね?』私がこんなにもお願いしているのに来てくれないんだ。離婚したい気持ちに変わりはないって言っていたくせに、嘘つき!やっぱり綾香の方が大切なんだね。メールで文句を言ってやろうかと思ったけど、やめた。「(自分がどんどん醜くなっていく気がする……)」本気で人を好きになるって、こういうことなの?欲ばかりが大きくなって抑えられず、ちょっとしたことで爆発しそうになる。気持ちが通じ合っているだけで幸せだと思った1秒後には、激しい嫉妬心に苛まれる。その繰り返し。やっぱり私は恋愛に向かなかったのかも……。だけど、もう遅い。スマホを片手に持った私は、上着も羽織らず家を出た。第7話は、10月26日(火)公開予定!
2021年10月19日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第5話)【これまでのあらすじ】不妊治療にプレッシャーを感じていた伊野さん。その苦しみを理解しようとしない綾香につい怒りを覚える。一度だけと気持ちに蓋をしていたのに、また伊野さんと体を重ねる千紗は、伊野さんのことを本気で好きになっていた…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第4話)1話から読む▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)私欲既婚者を好きになってしまった人たちは、よくこんなことを言う。『独占できないのが辛い』『1番になれないのが悲しい』と。私はそれを聞くたびに「不倫をしておいて何を寝ぼけたことを言ってるの?」と、呆れていた。まさか自分が同じようになるなんて思いもしなかった。「そろそろ帰らないと」伊野さんと体を重ねたあの日から、私たちは頻繁に会うようになっていた。場所はホテルだったり、カフェだったり色々で、この日はBARだった。「そうね」伊野さんの言葉に頷き、席を立つ。理解のある女性を演じているのは、まだこの人に「溺れていない」と思いたいから。いつでも止められる。いつでも元に戻れる。会うのは今日でお終いだと言われても、全然平気。だけど……。「やっぱり、もう1杯飲んでからにしようか?」本音を言うと、もう少し一緒に居たい。「また綾香に疑われるよ」「本当に煩わしいね。帰りの時間なんか気にしたくないのに」「まるでシンデレラね」「僕が?」可笑しそうに笑った伊野さんは、私の手を取り指を絡めた。それから急に思い立ったように「そうだ」と呟く。「旅行にいこうか」「どこに?」「どこにでも。そうすれば、周りの目を気にしなくていいし、深夜0時を過ぎても帰らなくていい」「本気で言ってるの?」「もちろん。近々、計画を立てよう」◆旅行 週末は旦那くんが出張(><)寂しいけど、お留守番頑張ります**お料理教室で習ったビーフストロガノフを作って待ってるね#旦那くん大好き #出張 #寂しい #お留守番#愛情たっぷりご飯 #楽しみにしててね伊野さんと旅行することに罪悪感が全くないわけではない。だけど、こんな能天気なSNSを見てると別にいいかと開き直りたくなる。待ち合わせ場所の羽田空港に着くと、先に到着していた伊野さんが手を振ってくれた。「迷わなかった? 大丈夫?」私の旅行鞄を持ってくれた伊野さんは、いつものスーツ姿とは違いカジュアルな格好をしている。それがとても新鮮で、ドキドキした。「じゃぁ、行こうか」「あ、伊野さん」振り向いた彼は、何故か渋い顔をして首を左右に振った。「”伊野さん”じゃなくて、”悠真”。堅苦しいのはやめよう」「あ、じゃぁ……悠真さん」「うん。何?」「旅のしおりを用意したんだけど……」言って後悔した。悠真さんは無くなるくらい目を細めたあと、私が作成したしおりを見てさらに笑った。恥ずかしさで顔が熱くなる。「もう返して」「どうして? すごく良くできているよ」「本当にもういいから」「ごめんごめん、虐め過ぎたね。だって、千紗が可愛いから」あ、今、名前で呼ばれた。そんな些細なことでさえ嬉しくて胸が温かくなるなんて……。羽田空港から目的地である福岡まで、2時間弱だった。空港に着いた瞬間、何とも言えない解放感と高揚感で自然と顔が綻ぶ。軽い足取りで歩く私に、悠真さんが尋ねた。「福岡は初めて?」「実は、子供の頃に少しだけ住んでいたの」「そうなの? 福岡のどの辺?」「南東部になるのかな。地図で言うと、ちょっとくびれているところなんだけど」「ここ?」悠真さんが、スマホを見せてきた。「うん、そう。自然が豊かで良いところなの」「行ってみたいなぁ、寄ってみる?」「行けなくもないけど、今回は予定通り博多周辺を観光しようよ」「そっか。じゃぁ、いつか行こうね」「うん、いつかね」そんな日が来るのかな?普通のカップルのように、「じゃぁ次は〇月にね」って、約束できないのが悲しい。彼のことを知れば知るほど、独占したい気持ちが膨らんでいく。切なくなって悠真さんの手を掴むと、彼は指を絡めるようにして繋ぎ直してくれた。この旅の間は、ネガティブなことを考えるのやめよう。「わっ、すごい」「思っていた以上だね」予約していた旅館に着くと、その豪華さに驚いた。着物を優雅に着こなした女将さんが、ロビーで出迎えてくれる。「ようこそ、いらっしゃいませ」「予約していた伊野です」チェックインを済ませた後は、仲居さんが部屋まで案内してくれるらしい。こんな格式の高そうな旅館に泊まるのは初めてだなぁとソワソワしていると、仲居さんと目が合った。「お客様はどちらからお越しですか?」「東京からです」「まぁ、東京ですか。私の娘も東京にいるんですよ」「そうですか」どうやらこの仲居さんはお喋り好きのようで、他愛のない世間話が部屋に入るまで続いた。「夕食は19時にお部屋へお持ちしますね。奥様、好き嫌いやアレルギー等はございますか?」「えっ!あ、大丈夫です」「旦那様は、いかがでしょう?」「僕も大丈夫です」『奥様』と呼ばれて、びっくりしちゃった。仲居さんが部屋から出て行った後、そのことを悠真さんに言うと、彼は私を抱き寄せた。「僕は離婚が成立したら、千紗と一緒になりたいと思ってるよ」「悠真さん、私は……」「千紗が結婚に対してマイナスな気持ちしかないことは分かってる。恋愛に対してもそう。だけど、1歩踏み出せたよね」それは、確かにそう。誰とも恋愛しないって決めていたけど、いつの間にか悠真さんを好きになっていた。これがいわゆる本気の恋なんだろうと自覚している。でも、だからってそれと結婚はイコールじゃない。第一、綾香との離婚が成立したからといって、すぐに私と結婚できるわけじゃないでしょう。「もちろん、すぐにとは言わない。でも、千紗と結婚したい気持ちがあることはちゃんと伝えたいと思って」「悠真さん……」「綾香と別れたいから、とか、現実逃避とかじゃなくて、純粋に千紗を好きになったんだ。それだけは、分かってね」「うん、ありがとう」福岡旅行は、とても楽しかった。一緒にいることで悠真さんのことが好きだという気持ちが増した。けれど、それと同時に、「こんなことをして本当に良いのかな?」と後ろめたさも募る。そんな旅でもあった。◆予想外の知らせ「結婚を仄めかす男なんて、ろくなやつじゃない!」グサッと胸に何かが刺さった。「それを本気にとる女もバカ!」痛い痛い、傷口をぐりぐりされてるみたいに痛い。思わず胸を押さえた私を見て、赤城さんが不思議そうに首を傾げた。「どうしたの? 具合悪いの?」「いえ、特には」自分のことを言われているようで胸が痛い、とは言えない。赤城さんが「ロクなやつじゃない」と怒っていたのは、妹さんの旦那のことだ。妹さんの旦那が職場の女と浮気して、その浮気相手が家に乗り込んで来たらしい。「それで、妹さんはどうするって言ってますか?」「どうするも何も。1日中泣いて、食事もろくにとらないし、塞ぎこんでる」「そうなんですか……」「ほんっとに、不倫するやつなんて最低よ」はい……ごもっともです。分かってはいるんです。奥さんがいる人を好きになってしまっただけだと、どれだけ自分を正当化しても不倫は不倫。人の幸せを壊しておいて、自分が幸せになれるはずない。例え、それが離婚しかけの夫婦であっても、許されるわけないよね。「ねぇ、本当に大丈夫? 顔色悪いけど」「あ、えっと。ちょっと食べすぎちゃったみたいで」「福岡って美味しいものが多いって言うよね。いいなぁ、旅行は彼氏と行ったんでしょ」「ええ、まぁ」罪悪感で胸がいっぱいになった。私が悠真さんと楽しんでいる間、綾香はどんな気持ちでいたのかな。気になって、綾香のSNSを見る。そこには、福岡土産の写真がアップされており、旦那が帰って来たことを喜ぶコメントが添えられていた。悠真さんの肩に体を寄せて仲良しアピールしている写真も出てきた。「(……全然、気が付いてないんだね)」ホッとしたと同時に、軽い苛立ちを感じる。出張じゃなくて旅行をしていたとは知らず、呑気な子。これなら少しくらい悠真さんを借りたって良いんじゃない……?別に奪おうとしてるんじゃない、借りるだけ。少しだけ幸せを分けてもらうだけ。それなら許される?そんな邪な考えが浮かんできたところで、電話がかかってきた。画面には「綾香」と文字が浮かんでいる。「もしもし……」「千紗! 聞いてぇ~!」「どうしたの?」「あのね、私、妊娠したみたい」第6話は、10月19日(火)公開予定!
2021年10月12日くすくす笑っているうちに、きゅーんと切なくなる。綿矢りささんの『オーラの発表会』は愛おしい成長小説だ。主人公は、大学進学を機に、両親から一人暮らしをするよう言い渡された海松子(みるこ)。マイペースで社交下手な海松子に、はじめて訪れた友情と恋の行方。「両親は彼女の世間知らずさに前々から気づいていて、このまま社会人になったら苦労しそうだと心配しているんですよね」というのも海松子はとことんマイペースで、人の気持ちを推し量るのが苦手な子。一人でいても充足しているが、人間嫌いなわけじゃない。でも友達を作るために“訓練”していることが、なんとも的外れで…。ここが爆笑モノ。「他の人と違う視点で物事を考えているところを強調しました。自分も、子どもみたいな興味を持ち続けていたいけれど、人に変に思われそうだとか、恥ずかしいという理由で意識して失くしていったものがあります。それを主人公に詰め込みました」大学の友達は、他人の外見を完コピする「まね師」の萌音(もね)だけ。「距離の詰め方がオリジナルな二人にしたかった。萌音は海松子と正反対で、人の目しか意識しないタイプ。彼女みたいな人は友達を装った敵・フレネミーと思われがちですが、海松子には警戒心がない。萌音も、あまりにもできないことが多い海松子が見捨てられなくなる。二人みたいに、言いたいことを言い合っても続く関係っていいなって思いました」彼女たちの関係がなんともいい味わい。さらに、海松子にアプローチしてくる男性が2人登場。幼馴染みの奏樹(そうじゅ)と、社会人の諏訪(すわ)だ。「人は恋愛を通じて分かることも多いし、彼女がどんなふうに男の人に接するか興味がありました。でも海松子は恋愛の初動のときめきが薄いので、自分の気持ちに気づくまでに時間がかかるんですよね。書きながら、私も恋の行方がどうなるか分かっていませんでした」やがて海松子は、なぜかオーラが鳴らせるようになって…というところから、物語は新たな展開へ。「一人でいることも、誰か他の人といることも楽しいけれど、どちらかに偏ると苦しくなる。どちらがいいとも一概に言えないなと、今回の小説を書いて思いました」海松子が得る気づきに、大きくうなずきたくなる一冊です。綿矢りさ『オーラの発表会』自宅から通える大学に進学したのに、両親から一人暮らしするよう宣告された海松子。新生活の中でマイペースだった彼女に訪れる変化とは。集英社1540円わたや・りさ2001年、『インストール』で文藝賞を受賞しデビュー。‘04年『蹴りたい背中』で芥川賞、‘12年『かわいそうだね?』で大江健三郎賞、‘20年『生のみ生のままで』で島清恋愛文学賞を受賞。撮影・フルフォード海※『anan』2021年10月13日号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2021年10月11日独創的な世界観と短編ならではの展開を味わい尽くす。それができるのが、深緑野分さんの最新短編集『カミサマはそういない』だ。「当初、編集者さんと話していたのは、デビュー短編集『オーブランの少女』が全部女の子の話だったので、今回は全部、男の人が主人公の短編にしよう、ということでした」幻想的なもの、SF的なものなど切り口も読み心地もさまざま。巻頭の「伊藤が消えた」は同居していた青年3人のうち1人が失踪、ゾッとする結末が待つ話だ。「イヤミスでは女性が描かれることが多いのが気になっていて。それで男性たちのイヤミスを書きました」次の「潮風吹いて、ゴンドラ揺れる」も不気味な短編。少年が、寂れた遊園地でいくつも死体を見つける。「イギリスのポーツマスに行った時、海沿いに寂れた遊園地があって。遊具がきいきい鳴って怖かったんです。これも女性の扱いに対するカウンターという気持ちと、無謬な人間はいないという気持ちで書きました」「朔日晦日(ついたちつごもり)」は書き下ろしの掌編。神無月、とある兄弟に起きた不思議な出来事を描く。「見張り塔」は戦時下の話。人里離れた塔で警備にあたる実直な少年兵士が語り手だ。「連帯主義やそれを成立させる忠誠心に対し警鐘を鳴らしたかった。ここに書いたことは戦時に限らず、いろんなところで起きていると思う」次はがらっと変わって「ストーカーVS盗撮魔」。ネット上のアカウントの本人を特定して観察することが趣味の男が奇妙な状況に陥っていく。「作中にも出てくる映画『フレディVSジェイソン』が好きで、私も『VS』という話を書きたくて(笑)。でも、ストーカーと盗撮魔が一人の女性をめぐって対決する話だと気持ち悪すぎるしコミカルな素材にするものでもない。それで、また別の設定にしました」「饑奇譚(ききたん)」の舞台はアジアのどこかのスラムのような街。年1回の太陽光が“大放出”される日、人々は空腹を満たしておかないと体が消えてしまうという。「街については九龍城や映画『スワロウテイル』のイェン・タウン、アニメ『カクレンボ』のイメージでした。神話などでも食べる・食べないで運命が分かれる話が多いので、それらとリンクさせた感じですね」最後の「新しい音楽、海賊ラジオ」は爽やかだ。近未来的な海辺の街で、少年が海賊ラジオを探す話だ。「以前、大島に魚釣りに行って、楽しかったんですよ(笑)。海賊放送というモチーフも、いつか使いたいなと思っていました」終末的世界の作品が多いが、ご自身は“滅び”は怖いという。「あえて自分にとって怖いものを書くところがありますね。傷口を自分でえぐるタイプです(笑)」本書のタイトルについては、「願ったり祈ったりしても助けてもらえない、カミサマに見つけてもらえない人たちの話が多いなと思って。神様だけでなく、“上位にいる人”という意味合いもあるので、カタカナ表記にしました」実にバリエーション豊かな7編。短編を読む快感を、あなたもぜひ。『カミサマはそういない』失踪した青年の真実、遊園地に現れた殺人ピエロ、見張り塔で過酷な任務につく兵士、未知の音楽を探す海辺の少年…。幻惑される7編を収録。集英社1540円ふかみどり・のわき2010年「オーブランの少女」が第7回ミステリーズ!新人賞佳作に入選、同作を表題作とした短編集でデビュー。著書に『戦場のコックたち』『ベルリンは晴れているか』など。©干川修※『anan』2021年10月6日号より。インタビュー、文・瀧井朝世(by anan編集部)
2021年10月04日※画像はイメージです秋はおいしいものがいっぱいです! コロナ禍で他県への移動などが制限されていますが、その分、おうち時間も増えますね。ぜひ、こんなときこそ、新しい「習慣」をつけてほしいと思うのです。「音読」の習慣です!■「おうち時間」に音読しよう!子どものころ、立って、大きな声で教科書を読んだことは誰でもあるでしょう。覚えていますか?あれです!もちろん、座って読んでも構いませんが、自分が小学校の一年生か二年生だったころのことを思い出しながら、両手で本を持って前を向いて、大きな声で読むのです。人に読んで聞かせよう、上手に読もうなんて考えることはありません。ひとつひとつの文字を、大きなお口を開けて、きちんと発音しながら読むのです。慣れないうちは、お口が思うように動いてくれないかもしれません。それは、普段きっとみなさんが、口の先だけを使ってボソボソと話をしているからです。大きなお口を開けて、大きな声で、「音読」をやってみてください。ほかの人に聞かせる「朗読」や「読みきかせ」とは違います。「自分のための音読」です。効果はてきめんです!スッキリします。歌を歌うのと同じです。大きな声を出して本を読むのは緊張感もちょっとありますが、やってみると心も身体もスッキリします。それから、表現を学ぶことができます。おいしいものを食べたとき、みなさんは「ヤバー!」や「ウマー♪」などの言葉で終わらせてしまっていませんか?作家たちは、おいしいものを見たり味わったりすると、そこから思いをはせて、文章を綴っていくのです。そのためには、「ヤバー」を超える語彙力や表現力が必要です。おいしいものを作家がどんなふうに言葉で表現したかも、ぜひ、味わってほしいのです。■『檸檬(れもん)』梶井基次郎大正14(1925)年に発表された小説です。大阪出身の高校生であった作者が京都にいたときに書かれました。書店に行って画集を積み、その上に檸檬を置く。その檸檬が爆弾だったらと作者は空想するのです。『檸檬(れもん)』梶井基次郎いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具(えのぐ)をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形(ぼうすいけい)の恰好(かっこう)も。──結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終(しじゅう)私の心を圧(おさ)えつけていた不吉な塊(かたまり)がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱(ゆううつ)が、そんなものの一顆(いっか)で紛(まぎ)らされる──あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体(からだ)に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが私の掌(てのひら)が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内(みうち)に浸(し)み透(とお)ってゆくようなその冷たさは快(こころよ)いものだった。◯レモンエロウレモン・イエロー、レモン色です。日本ではまだ当時、レモンは珍しい果物でした◯紡錘形糸巻きの心棒に糸を巻いた形です。円柱状で中ほどが太く、両端が次第に細くなっています。レモンの形を作者は紡錘形と言っています。◯一顆果物を数えるときの数詞です。塊になったものを数えるときに使う数詞で、印鑑も実は「一顆、二顆」と数えます。◯肺尖肺の上部。肺結核の初期症状を肺尖カタルともいいます。梶井基次郎は肺結核で亡くなりました。☆ワンポイントアドバイス19歳で死の病を宣告された作者は、やるせなさに満ちていたでしょう。そこに儚く浮かんで見えるのがレモンです。自暴自棄になりそうな自分を今、唯一支えているレモン、ということを思い浮かべて読んでみてください。梶井基次郎(かじい・もとじろう)●明治34(1901)年〜昭和7(1932)年、大阪出身。19歳のときに肺尖カタルと診断されてから大正期のデカダンスの風潮もあって放蕩と波乱の人生を歩みました。31歳で死亡。残された20編余の短編は珠玉の名作といわれています。■『秋刀魚の歌』佐藤春夫春夫が作家として活躍していく端緒として谷崎潤一郎の推薦がありましたが、谷崎の妻・千代をめぐる三角関係から、友人関係にあったふたりの関係は一変します。『秋刀魚の歌』は千代への思慕を綴った作品です。『秋刀魚(さんま)の歌』佐藤春夫あはれ秋風よ情(こころ)あらば伝へてよ──男ありて今日の夕餉(ゆうげ)にひとりさんまを食ひて思ひにふけると。さんま、さんまそが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせてさんまを食ふ(くらう)はその男がふる里のならひなり。そのならひをあやしみなつかしみて女はいくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。あはれ、人に捨てられんとする人妻と妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛(あい)うすき父を持ちし女の児(こ)は小さき箸(はし)をあやつりなやみつつ父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。あはれ秋風よ汝(なんじ)こそは見つらめ世のつねならぬかの団欒(まどい)を。いかに秋風よいとせめて証(あかし)せよかの一(ひと)ときの団欒ゆめに非(あら)ずと。◯あはれ「切ないねえ」という意味です。◯夕餉「夕食」の意味です。◯(男)が(ふる里)「連体格用法」と呼ばれるものです。受ける体言が下の体言に対して修飾限定の関係に立つことを示します。現代語では「が」の代わりに「の」が用いられます。◯あやしみなつかしみて「不思議に思って、それでもおもしろがって」という意味です。◯腸をくれむと言ふにあらずや「秋刀魚のはらわたをあげるよと言っているよ」という意味です。◯汝こそは見つらめ「おまえだけは見ていただろう」という意味です。◯団欒「親しい者同士が集まって、楽しく語りあったりして時を過ごすこと」です。◯いとせめて証せよ「せめて頼むから、証明してくれないか」という意味です。◯ゆめに非ずと「夢ではなかったということを」という意味です。☆ワンポイントアドバイス友人・谷崎潤一郎の妻への同情が恋心に変わり、ついにその女性を自分のものにした喜びと、反対に声にならない哀しみと切なさを歌ったものです。でもちょっと自虐的に笑ってしまっていますね。佐藤春夫(さとう・はるお)●明治25(1892)年〜昭和39(1964)年、和歌山県生まれ。詩人、小説家。詩と小説のほか、戯曲、評伝、随筆、評論、童話、翻訳など、文学のありとあらゆる分野に足跡を残しています。代表作に小説『田園の憂鬱』、詩集『殉情詩集』などがあります。■『平凡』二葉亭四迷明治40(1907)年に『東京朝日新聞』に連載されました。39歳になる下級官吏が、自分が幼かったころに飼っていた愛犬ポチが殺されてしまったこと、著名な文学者となったこと、父親の死とともに人生とは何かという問いにぶつかるという小説です。『平凡』二葉亭四迷前にも断って置いた通り、私は曾(かつ)て真劒(しんけん)に雪江さんを如何(どう)かしようと思った事はない。それは決して無い。度々(たびたび)怪(あや)しからん事を想(おも)って、人知れず其(それ)を楽しんで居たのは事実だけれど、勧業債券(かんぎょうさいけん)を買った人が当籤(とうせん)せぬ先から胸算用(むなざんよう)をする格(くらい)で、ほんの妄想(ぼうそう)だ。が、誰も居ぬ留守に、一寸(ちょっと)入(い)らッしゃいよ、と手招(てまね)ぎされて、驚破(すわ)こそと思う拍子(ひょうし)に、自然と体の震(ふる)い出したのは、即(すなわ)ち武者震(むしゃぶる)いだ。千載一遇の好機会(こうきかい)、逸(はず)してなるものか、というような気になって、必死になって武者震いを喰(くい)止めて、何喰わぬ顔をして、呼ばれる儘(まま)に雪江さんの部屋の前へ行くと、屈(こご)んでいた雪江さんが、其時(そのとき)勃然(むっくり)面(かお)を挙げた。見ると、何だか口一杯頬張っていて、私の面を見て何だか言う。言う事は能(よ)く解らなかったが、側に焼芋(やきいも)が山程盆(ぼん)に載っていたから、夫(それ)で察して、礼を言って、一寸(ちょっと)躊躇(ちゅうちょ)したが、思(おもい)切って中(うち)へ入って了(しま)った。雪江さんはお薩(さつ)が大好物だった。◆と雪江さんが不審そうに面を視る。私は愈(いよいよ)狼狽(ろうばい)して、又(また)真紅(まっか)になって、何だか訳の分らぬ事を口の中で言って、周章(あわ)てて頬張ると、「あら、皮ごと喰べて……皮は取った方が好(い)いわ。」「なに、構わんです」、と仕方が無いから、皮ぐるみムシャムシャ喰(や)りながら、「何(なに)は……何処(どこ)へ入(い)らしッたンです?」◯勧業債券を買った人が当籤せぬ先から胸算用をする取らぬ狸の皮算用◯驚破びっくりすること◯勃然いきなり◯お薩サツマイモのこと☆ワンポイントアドバイス憧れの女性が焼き芋を頬張っている。そんな姿を見た主人公があっけにとられていると、女性が一緒に食べようと誘うのです。二葉亭四迷の胸の高鳴りを想像しながら読んでみてください。二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)●元治元(1864)年~明治42(1909)年、江戸市ヶ谷(現・東京都)の尾張藩上屋敷に生まれました。外交官を目指し、東京外国語学校(現・東京外国語大学)でロシア語を学びます。坪内逍遥を訪ねて「新しい小説」に目覚め、『浮雲』『平凡』など、それ以降の小説に大きな影響を与える、写実的な言文一致体を生みだしました。ロシアから帰国途中、ベンガル湾で亡くなります。いかがでしたでしょうか。もっといろんな話を読んんで見たい人は、ぜひ『1分音読』をお求めになってみたくださいね!お話を伺ったのは……●山口謠司(やまぐち・ようじ)● 1963年、長崎県生まれ。大東文化大学文学部教授。中国山東大学客員教授。博士(中国学)。大東文化大学卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。『1分音読』(自由国民社)ほか著書多数。
2021年10月03日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第3話)【これまでのあらすじ】綾香と離婚したいと言う伊野さん。無自覚にシングルを見下す綾香には良い薬になるだろうと、千紗は伊野さんにアドバイスをすることに。離婚の件で話がしたいと会っていた伊野さんと別れ、駅に向かっていたところ、誰かに後ろから肩を掴まれ…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第2話)やましいことはない「おい」乱暴に肩を掴まれ振り返ると、マッチングアプリで知り合った男性が立っていた。何度も「また会おう」と、しつこく言ってきた例の人だ。「お前、俺のことブロックしただろ」「そっちがしつこいからでしょ」「ふざけんな、さっきの男は誰だよ!」まさか、私を付けていたの? いつから? 男の執念深さにぞっとする。「おい、答えろよ。さっきの男は何なんだよ」「あんたに関係ないでしょ」「こいつ!」殴られる……そう思って目を閉じたけど、予測した衝撃が襲ってこない。ゆっくり目を開けると、帰ったはずの伊野さんが男の腕を掴んでいた。「何してるんですか? 警察呼びますよ」「お前……さっき、こいつと一緒にいた奴だな。どういう関係だよ」「失礼な人ですね」不愉快そうに眉をひそめた伊野さんは、おもむろの私の肩を抱き寄せた。「彼女の恋人です」え……? 思わず伊野さんの顔を見上げると、「ね?」って目で合図を送られる。そうか、なるほど。「そう、この人は私の彼氏よ」「なっ、何だよ、彼氏がいたのかよ」「分かったなら、もう付きまとわないで」「言われなくても、嘘つき女なんかこっちから願い下げだ」男はそう言うと、毒づきながら帰って行った。男が完全に見えなくなってから、伊野さんが短い溜息を落す。「行きましたね」「ええ……あの、ありがとうございます」「いえ、諦めてくれて良かったです……あっ、すみません」伊野さんは慌てて、私の肩に回していた腕を下ろした。「助かりました。でも、どうして戻って来たんですか? 帰ったはずでは?」「あ、それはですね……」言いにくそうに頭を搔く。「夕食を一緒にどうかと思いまして」「え?」「あ、いや……今日は綾香の両親が家に来ているので。帰りたくないんです」そう訴える伊野さんは、捨てられた子犬のような目をしていた。「いいですよ、予定もないですし」「本当ですか! 良かった」「さっき助けてもらったお礼です」夕食時とあって近くのレストランはどこもいっぱいで、仕方なく少し離れたダイニングバーに入った。創作料理とそれに合ったお酒が楽しめるお店らしい。「藤川さん、お酒は?」「好きです」「よかった、僕も好きなんです」「食べ物の好き嫌いあります?」「魚介類はちょっと……。生臭くなければ食べられるんですけど」「分かります、私もです」伊野さんとは不思議なくらい好みが合い、美味しいお酒と共に会話が弾んだ。ラストオーダーの時間になり、名残惜しく感じる自分がいる。「今日は本当によく喋りました」「私もです」「藤川さん、来週も会ってくれますか?」「え?」「あ、その、離婚の相談をしたいので」「いいですよ」相談を受けるために会うだけ。やましいことはない。そうだよね?◆私の母ターミナル駅から徒歩5分のところにある私の家は、交通の便こそ良いものの築数が古くて狭いワンルーム。どうせ寝るためだけに帰るんだから、これと言って不満は感じていない。だけど、数年に1度、早ければ半年に1度の頻度でやって来るXデーだけは、部屋数のある家にすれば良かったと後悔する。「お帰り~千紗! 久しぶりね」「お母さん、来てたんだ」「母親が娘に会いに来て何が悪いの?」別に私に会いたかったわけじゃないでしょ、と、喉元まで出てきた言葉を飲み込む。これを言ってしまったら喧嘩になるだけだ。「2,3日、世話になるから」「はいはい」「何よ、その言い方。もっと歓迎しなさいよ」「してるよ。お腹空いてない? 何か作ろうか?」「適当に食べたから要らない。それより、千紗にお願いがあるんだけど」「何?」「お金貸してくれない? 家賃代の7万、いや5万でいいからお願い!」またか……。私に会いに来る時は、いつもそう。分かっていても今回は違うかもと思ってしまう自分にガッカリする。「言っとくけど、5万なんてすぐに出せる金額じゃないからね」「よく言うよ、正社員のくせに」「独り暮らしは何かとお金がかかるの。お母さんだって分かってるでしょ」「そうね、お金の苦しさは分かっているわよ。あんたを育てるのに私がどれだけ苦労したか」「またその話?」昔っから、何かというと自分の苦労話。そんなに大変だったなら、施設の前に捨ててくれれば良かったのに。「育ててもらった恩を忘れて口答えするんじゃないよ」「いい加減にしてよ! 恩を売るために、私を産んで育てたの!?」「その通りだよ、悪い?じゃなきゃ子供なんて邪魔なだけだよ!」売り言葉に買い言葉。母の本心でないことは分かっていても傷つく。いや、もはや本心なのかもしれない。こんな人でも親は親だと耐えてきたけど、もう限界かも……。◆この人に癒されたい「すみません、遅くなりました」カフェバーで待ち合わせをしていた伊野さんは、私の顔を見るなり頭を下げた。「大丈夫ですよ」「相談のお願いをした側が遅れるなんて、申し訳ない」律儀な人だなぁ。尚も申し訳なさそうにする伊野さんに座るよう促し、メニューを渡す。彼は私が飲んでいるものを聞いた後、「同じものを」と、注文した。ほどなくして、ブラッディー・マリーが運ばれてくる。「先日は助かりました。お陰で綾香の両親に会わずに済みました」「良かったです」綾香の親は、とても過保護なんだと彼女から聞いたことがある。だから綾香を心配して、旦那を注意しに来たのだろう。いい年をして親にチクる綾香もどうかと思うけど、親も親だ。だけど、いつだって味方になってくれる親がいて羨ましい。私の母なんて……。「何かありましたか?」突然、伊野さんがそう尋ねた。「え?」「今日はとても浮かない顔をしていますよ」「いえ、特には……」「話してください。いつも僕の話を聞いてもらっているんだから聞きますよ」「伊野さんの話を聞くために会ってるんだから、私のことはいいんです」「よくありません」真剣な瞳に見つめられて、心がざわつく。誰かに愚痴りたい、聞いて欲しい、そんな心の声を読まれたような気がした。「僕の相談は今度にして、今日は藤川さんの話をしてください」「でも、」「じゃぁ、こうしましょう」伊野さんはそう言って、店員さんを呼んだ。「今日はとことん飲みませんか? そうすれば話しやすいし、僕も聞きやすい。そして何より……」「何より?」「明日になったら2人とも覚えていない」フッと、思わず吹き出してしまった。伊野さんってやっぱり面白い人だなぁ。お酒の力もあり、私は母とのことを伊野さんに話した。お金の無心をされることや、この前、喧嘩した時に言われたこと。それから話は子供時代のことまで遡る。「母はシングルマザーだったんですけど、いわゆる恋多き女性で常に彼氏がいました」「そうですか」伊野さんは優しく相槌を打ってくれる。「でも長続きしないんです。いつも最後は男に裏切られて捨てられて、その度に泣いてヒステリーを起こして」「親のそんな姿を見るのは辛いですね」「はい……。だから、私は本気で人を好きになったりしない、恋人は作らないと決めました。母のようにはなりたくないので」「お母さんと同じようになるとは限りませんよ」そうかもしれない。だけど……、「本当は怖いんです。きっと私は恋愛に向いていない」「ずっと傷ついたままなんですね」「傷……?」「藤川さんは傷つけられたんですよ、お母さんを通して、お母さんを捨てた男たちに」「そんな自覚は全然……」「自覚がないから傷を癒すことなく大人になってしまったんでしょう」ふと、伊野さんの手が私の手に触れた。ドキドキするのは、お酒のせい……?「僕が傷を癒してあげましょうか?」「え……」「僕でよければ、ですけど」器用なのか不器用なのか、よく分からない口説き方。だけど、伊野さんの声が優しくて、眼差しが温かくて、この人に癒されたいと思ってしまった。「癒してください」「じゃぁ、2人っきりになれる場所へ行きましょうか」第4話は、10月5日(火)公開予定!
2021年09月28日理想じゃない恋のはじめ方。(最終話)【これまでのあらすじ】出張のことで大和と喧嘩をしてしまったまま当日を迎え、東京駅に向かう汐里は、その道中で自分にとって大切なのは大和だと気付く。出張には行かずに大和の勤める病院へ直行したが、そこに大和の姿はなく、1週間ほど休暇を取っていると聞かされる…前回はこちら▼理想じゃない恋のはじめ方。(第9話)第1話はこちら▼理想じゃない恋のはじめ方。(第1話)小さな救世主大和のことが好き。ずっと一緒に居たい。自分の気持ちをやっと自覚できたのに、肝心な大和と連絡が取れない。1週間も休暇を取って、どこに行ってしまったんだろう?病院のカフェで途方に暮れていると、不意に肩を叩かれた。「こんにちは!」見覚えのある女の子が私に向かってニコッと笑う。この子は……大和と水族館に行った時に、偶然会った子だ。名前は確か、れいなちゃん。「こんにちは。今日は診察?」「ううん、おばあちゃんのお見舞いに来たの」「入院してるんだね」「うん、この前転んで骨折しちゃったんだって。北崎先生が担当なんだよ」「そうなんだ」頷きながら、大和の笑顔が頭の中に浮かぶ。たった1週間会ってないだけで、恋しくて仕方ない。「おばあちゃんから聞いたけど、先生のおばあちゃんも大変なんだね」「え?」「おばあちゃんと同じ、転んで骨折しちゃったんでしょう」「そうなの!?」思わず大きな声が出る。大和のおばあちゃんって今はもう1人しかいないから、実家で同居してるおばあちゃんのことだよね。全然知らなかった。どうして誰も教えてくれなかったの。いや、もしかして今朝、母が電話してきたのって、その件だった?「北崎先生は他に何か言ってたか、おばあちゃんから聞いてない?」「1週間くらい休むって」「他には?」「先生の元気がないって、おばあちゃんが言ってた」あぁ、もう、私のバカ。大のおばあちゃん子だった大和のことだ、怪我をしたと聞いて不安だったはず。そんな時、傍にいてあげなかったなんて……。「れいなちゃん、ごめんね。私、もう行くね!」「うん、バイバイ!」れいなちゃんに手を振り、病院の正面入口へと走る。それからタクシーに飛び乗った私は、実家方面へと向かった。◆会いたかった「もしもし、お母さん」『あんた、さっきはよくも途中で電話を切って……』「ごめん。ねぇ、大和のおばあちゃんが骨折したって本当?」『そうよ、大変だったんだから』「どこの病院に入院してるの?」『○○記念病院よ』「分かった、ありがとう。じゃぁね!」大和のおばあちゃんは自宅で書道教室をしていて、私も子供の頃に通っていた。優しくておおらかで笑顔が素敵なおばあちゃん。私はキク先生と呼んでいた。「キク先生!」病室のドアを開けると、ベッドの上に座っていたキク先生が目を丸くした。ベッドサイドには……やっぱりここにいた。大和だ。「あら、汐里ちゃんじゃない。わざわざ来てくれたの?」「怪我は大丈夫?」「平気よ。ほら、ここに名医がいるでしょう?」茶目っ気たっぷりの笑顔でそう言ったキク先生は、大和の肩をポンッと叩いた。キク先生に負けず劣らず驚いた顔をしている。「しおちゃん、出張は……?」「行くのやめたの」「どうして?」どうして、だって?そんなの聞かないと分からない?1週間も放置して、電話に出ないで、挙句の果てにも消息不明になって、私がどれだけ不安になったか……。お互い様と言えばお互い様だけど、むかつく!大和に会えて嬉しいはずなのに、その顔を見たら無性に腹が立ってきた。「キク先生、ごめんね。ちょっと、大和を借りる」「どうぞどうぞ~」「大和、ちょっといい?」病棟を出て少し歩くと、手入れの行き届いた中庭に着いた。人が少なくて話をするのにちょうどいい。でも、何から話そう? 怒りに任せて呼び出したけど、色んな感情が渦巻いていて整理できない。私の後ろをずっと付いてきている大和も、何も言おうとしない。何か言ってくれたら、話しやすいのに。――――と、「……会いたかった」不意に後ろから抱きしめられた。「大和、」「すっごく会いたかった」耳元で大和の優しい声がする。背中から伝わる体温が心地良い。それだけで、十分だった。「私も大和に会いたかった」「本当?」「当たり前でしょ、好きなんだから」「え?」「大和のことが好きなの」抱きしめられている腕が緩んだので、体を回転させて大和と向い合う。すると、大和は泣きそうな顔をしていた。「ごめんね、気付くのが遅くて」「いや……夢じゃないよね? これ」「頬を捻ろうか?」「やめてよ、しおちゃん地味に力強いか、ら……」大和の頬を両手をはさむ。それから、唇に触れるだけのキスをした。「夢じゃないでしょ」「今の……」耳を赤くする大和が可愛い。「もう1回しとく?」「待って」「だめ?」「そうじゃなくて、」大和はそこで、一呼吸をつき、「俺からする」私の髪の毛をそっと撫でてから、ゆっくり唇を重ねた。◆仲直り中庭には石のテーブルと木製のベンチがあり、私たちはベンチに2人肩を並べて座った。鱗雲が浮かぶ青い空と、イチョウの黄色がキレイ。「ごめんね、大変な時に1人にして。あと、この前はキツイことを言って、ごめんなさい」「俺の方こそ、意地張ってごめん」「ずっと考えてたんだけど、今の私にとって大和が1番だと気付いたの。だから、出張も断っちゃった」明るい声で言ったのに、大和はまた泣きそうな顔をした。「自分でも情けないよ。仕事の足を引っ張るようなことをして」「違うよ、私がそうしたいって思ったからなの」「しおちゃんの出張が終わったら、迎えに行くつもりだったんだ」「そうなの?」「俺なりに反省してたの。ガキみたいなヤキモチ妬いて、拗ねて、挙句の果てにしおちゃんを置き去りにして」そう言えば先に帰られたんだよね。お互いに頭を冷やすべきだと思ってお店でゆっくりしてたけど、外に出たらもう大和の姿はなかった。あれはなかなかショックだったと言うと、大和が項垂れる。「俺、しおちゃんの理想に近づけるように頑張る」「いいよ、別にそんなの」「やる気になってるんだから、水差さないでよ」「そのままの大和が好きなのに、無理して変わることないんだって」「しおちゃん……」理想がどうとか、将来がどうとか、こだわっていた自分は一体何だったんだろう?思い通りになんてならなくていい。背伸びをしなきゃいけない恋なんていらない。「大和が傍で笑っててくれたら、それでいいの」好きって気持ちさえあれば、理想じゃなくても始められる。大和が私に教えてくれたんだよ。◆理想じゃない恋のはじめ方「大和、そろそろ起きて」「んー」眠そうな声で返事をした大和は、瞼を開けることなくまたすぐ寝息を立てた。そりゃ無理もないか。昨日も一昨日も当直だったもんね。このまま寝かしててあげたいけど、絶対起こしてって言われるしなぁ……。「イルミネーション、行くんでしょ」その一声で、大和はむくっと起き上がった。「今、何時?」「16時半だよ」「やばっ、あと30分しかないじゃん」「別にそんなに急がなくても。22時くらいまでやってるんでしょ」「17時から点灯式があるんだよ」へぇ、そんなのがあるんだ。大和用に目覚めのコーヒーを淹れていると、匂いにつられた彼がキッチンに入って来た。「こういうの、何かいいな」「何が?」「彼女がコーヒーを用意してくれるの」「自分用かもしれないよ」「だって、それ俺のカップじゃん」意地悪っぽく笑った大和は、「ありがと」と言い、私の頬にキスをする。正式に付き合うようになってから、私の部屋には大和の物がどんどん増えていて、もうどっちの家が分からないくらい。家賃が勿体ないし、一緒に暮らそうかという話がちょうど昨日出たところだ。「そういや、しおちゃん、玄関の整理した?」「あ、気が付いた?」「うん、何かスッキリしてるなーって」「必要ないヒールは全部捨てることにした」「そうなの?」「だって、これからは大和の靴も入れなきゃだ、し、」言い終わる前に、ぎゅっと抱きしめられた。「しおちゃんのそういうところ大好き」「ありがと……。ねぇ、もう16時50分だけど、いいの?」「えっ、やばっ!」時計を見た大和は戸締りを確認して、玄関へと急ぐ。早く早くと急かされて、私も後に続こうとしたところで、不意打ちのキスがきた。「しおちゃん、これからもずっと一緒にいようね」改まって言われると、何だか恥ずかしくてくすぐったい。だけど、素直な気持ちをいつもぶつけてくれる大和が好き。「うん」笑顔で頷いた私は、スニーカーを履いて外に出た。
2021年09月24日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第2話)【これまでのあらすじ】友達の綾香に依頼され、綾香の旦那である伊野さんの浮気調査を開始した千紗は、伊野さんが女とホテルに入るところをあっさりと押さえられ拍子抜けする。しかし伊野さんは綾香が浮気調査を依頼することを分かっていてわざと尾行させていた…前回はこちら▼この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)切実な願い「綾香と離婚したいんです。僕に協力してくれませんか?」「えっと……」唐突なお願いに驚いてしまい、何も言葉が出てこない。これまでいくつもの不倫調査を担当したけど、対象者からこんなお願いをされたのは初めてだ。「変なことを言ってすみません」「いえ……びっくりしちゃいましたけど。あの、離婚したいというのは、」「本気です」「そうですか。それなら綾香と話し合ってください」「それが可能なら、あなたにお願いしません」懇願するような瞳で私を見つめる綾香の旦那は、「歩きながら話しませんか?」と駅の方を指さした。変なことになってしまったなぁ……。だけど、ホテル街で立ち話を続けるわけにもいかず承諾した。「あの、さっきの女性は?」「もう帰ったと思いますよ。ホテルに入るところまで同行する約束でしたから」「わざと尾行できるようにって言ってましたけど、浮気の証拠を私に撮らせるつもりだったんですか?」「そんなところです。でも、ホテルに入っただけじゃ証拠にならないですよね」確かに、ホテルに入っただけじゃ証拠として弱い。相手の具合が悪くなり休憩していただけとか、言い逃れができるからだ。「私が伊野さんの調査してるかどうか試したんですね」「試すようなことをしてすみません。綾香がどこまで本気で依頼をしたのか分からなかったので」「クライアントの情報は漏らしませんよ」「あなたが調査に失敗したことも、内密にするんですか?」私を脅す気……?思わず綾香の旦那を睨み付けると、彼は眉尻を下げて泣きそうな顔をした。「それだけ切実なんです」「そう言われても、困ります」「調査はこのまま続けてください。ただ、僕が気付いていることだけは綾香に黙ってて欲しい」「それで、どうするんですか?」「その先については……」駅に近づくにつれ、人の行き交いが増えていく。正面から酔っ払いの団体が歩いてきてぶつかりそうになった瞬間、肩を引き寄せられた。「大丈夫ですか?」「ええ、はい」「ノープランです」え?眉をひそめた私に、綾香の旦那はもう1度「ノープランです」と言い、困ったように笑った。◆痛い女平日のお昼。ランチをしながら話そうと綾香を誘い、事務所近くのカフェに入った。「どうだった、何か分かったぁ?」友達なら包み隠さず全て話して調査を中止するべきなんだろう。だけど、夫婦の間にどんな行き違いがあって関係がこじれてしまったのか、綾香の旦那は何を望んでいるのか、離婚を切り出された綾香はどうするのか?好奇心をそそられて、もう少し調べたいという気持ちを抑えられない。「まだ調査中」「そうなんだぁ」「綾香の方は? 何か怪しいと思うことがあった?」えー、どうかなぁって、頬に左手を当てる。薬指のダイヤモンドリングがキラリと光った。「その指輪って」「ん? あぁ、これぇ? 旦那くんからのプレゼント」「へぇ……」「前にチラッと指輪が欲しいって言ったのを覚えていたみたい。こういうことしてくれるとぉ、疑っちゃって悪いなって思っちゃうよねぇ」「じゃぁ、旦那さんのこと信じてあげれば?」「それができたら苦労しないよぉ」わざとらしく唇を尖らせた綾香は、「独身の千紗には分からないか」と呟いた。その言い方が癇に障った。「どういう意味?」「だって、そうでしょうぉ。結婚して家庭を守ってる女の気持ちなんて、分からないよねぇ?」「分からないけど、それと旦那を信じる云々の話は別だよね」「ほら、すぐそうやって論破しようとするー。そんなんだから千紗は、まともな彼氏ができないんだよぉ」目の前のおしぼりを投げてやろうかと思った。思い込みの持論を並べて、私のことを見下している。無自覚なんだろうけど、むかつくっ!◆面白い人「すみません、こんな場所に来てもらって」「いいえ、こちらこそ無理を言って」綾香の旦那こと、伊野さんから「先日の件で話がしたい」と連絡がきたのは、日曜日の夕方だった。その頃、私はお見合いパーティーに参加していたので、会場であるホテルまで来てもらった。ロビーで落ち合って、カフェに移動する。「パーティーには、よく参加するんですか?」「今回が初めてです。話のネタになるかと思って」冗談で言ったのに、伊野さんは感心したように頷く。「何事も経験をしておくのは良い事ですね。好奇心は猫をも殺すと言いますが、経験と知識は人生を豊かにしますから」「それ、うちの所長も言ってました」「ケビン・エドラーの名言です。僕は本で読みました」「そうなんですか? じゃぁ所長も同じ本を読んだのかも」「あと、こういう名言もあって……」伊野さんの話は、ミステリ小説のように引き寄せる力があって面白い。他愛のない雑談は、2杯目のコーヒーが無くなる頃まで続いた。「もうこんな時間か。すみません、本題ではない話をだらだらとしてしまって」「いえ、興味深かったです」「僕たち気が合うかもしれないですね」伊野さんはそう言って笑った後、思い直したかのように「すみません」と謝った。「失礼ですよね。でも……こんなに話しが弾む相手は久しぶりなので」「綾香とは話さないんですか?」「話しどころか、最近は顔も合わせていません」「避けているそうですね」「もう、うんざりしているんです。嫉妬深くて束縛が強いし、気に入らないことがあるとすぐ泣き喚いて実家に帰ると言うし、話し合おうとしても言葉がまるで通じない」最後のは、分かる気がする。綾香って住んでいる世界が人と違うというか、常識が通じないところがあるのよね。「離婚の意思は固いんですね」「ええ、それはもう」「でもだからといって浮気をしたら、自分が不利になるだけですよ」「ですよね……」「離婚する方法ならいくつかあります。焦らないでじっくり考えましょう」「それって協力してくれるってことですか!?」「アドバイスをするだけです」それくらいなら、良いよね。離婚を突き付けられた綾香がどうするかは分からないけど、世間知らずのお嬢様には良い薬になるはず。シングル女性の生き難さを思い知れば良い。伊野さんとはホテルのエントランスで別れ、駅を目指す。何だかんだ今日は楽しい1日だったな……。そんなことを考えていると――。「おい」不意に後ろから肩を掴まれた。第3話は、9月28日(火)公開予定!
2021年09月21日理想じゃない恋のはじめ方。(第9話)【これまでのあらすじ】雪村さんの件が一段落し、汐里は同僚たちの要望もありプロジェクトチームに戻れることになった。週末には新実さんと出張なのに、汐里の元カレが新実さんだと知った大和にダメだと言われ、「関係ないでしょ」と言ってはいけない言葉をつい口にしてしまう…前回はこちら▼理想じゃない恋のはじめ方。(第8話)第1話はこちら▼理想じゃない恋のはじめ方。(第1話)喧嘩「大和には関係ないでしょ、干渉しないでよ」しまった、と思った時にはすでに遅く。大和の顔からスッと表情が消えた。「関係ないか……。しおちゃんにとって俺はその程度だったんだね」「違う、そうじゃないけど」「じゃぁ、何?」「何って……」「しおちゃんは、俺のことどう思ってるの?」そんなの急に聞かれても答えられないよ。大和のことは、多分、好きだけど。それをここで言うのは違うでしょう?だいたい、「今は気持ちを知っててくれるだけでいい」って、言ったくせに。こんな時に、どう思ってるかなんて聞こうとしないでよ。「今はまだ言えない」「あっそ、分かった」「ねぇ、大和。関係ないと言ったのは私の仕事に対してだよ。誤解しないで」「うん、そうだね。俺には関係ないよ」「ちょっと! 意固地にならないでよ」キツイ言い方をした私も悪いけど、分からず屋な態度に腹が立つ。どうして仕事とプライベートを分けて考えられないの?「もういいよ、出張でもどこでも好きに行けば」「大和」「もう帰ろう、話すだけ無駄だ」そう言って席を立った大和は、レジでお勘定を済ませて外に出てしまった。追いかけようかと思ったけど、何だかその気力も無くなってやめた。今夜はお互い頭を冷やした方が良さそう……。◆謝罪「……すみませんでした」急に謝られて驚いてしまう。私に向けて下げた頭をゆっくり起こした雪村さんは、やつれた顔をしていた。今回のことが周りにバレて、かなり叱責されたんだろうなぁ……。「許せる気にはならないけど、謝罪の気持ちは受け取るよ」そう言うと雪村さんは、唇を震わせた。「新実さんの言った通りです」「何て言ったの?」「高杉さんは、常に相手の立場になって考えられる人だ、と。だから、例え酷い目にあっても、きちんとした謝罪なら受け入れてくれるはずだって」新実さんがそんなことを……。『自分が悪いと思ったらきちんと謝れ』『謝罪をされたら、許せなくても気持ちだけは受け取れ』そんな人になれるように私を育ててくれたのは、新実さん本人だ。だけど、まだまだ相手の立場になって考えられていないよ。「新実さんのことは、許してあげますか?」「うん?」「高杉さんが怪我をした時、新実さんは病院に駆けつけようとしたんです。それを阻止したのも、彼のスマホを取り上げたのも私です」「そうだったんだ」新実さんが病院に来てくれていたら、大和と親密になることもなかったし、あんなことで喧嘩することもなかっただろう。そもそも、怪我をしたから大和と再会できたわけで……。新実さんのことを話しているのに、私の思考は大和の方へと向かっている。「(大和、まだ怒ってるのかな?)」◆心境の変化今日こそメールをしよう。いや、明日まで待ってみよう。そんな風に毎日を過ごして大和と連絡をとらないまま、週末を迎えた。「先輩、明日から出張なんだから今日はもう帰ってください」「もう少し手伝うよ」雪村さんが退職することになって、その引き継ぎを旭日がすることになったのだ。「助かります~お詫びにこれどうぞ」ありがと、と旭日がくれたチョコレートを口に入れる。すると彼女は目を丸くした。「先輩がチョコ食べるなんて!」「あげた本人が驚かないでよ」「だって、いつも『太るからいらない』って言うじゃないですか」「別に、これくらい平気でしょ」美味しいな、これ。もう1個貰おう。「ここ最近の先輩、柔らかくなりましたね」旭日がしみじみとした口調でそう言い、作業する手を止めた。「前はもっとストイックというか、ダメなものはダメって感じで張り詰めている雰囲気があったのに」「そう、かな?」「私の後輩なんかは、話しかける時に緊張するって言ってましたよ」「えっ、そうなの?」それは、ちょっとショックかも。後輩たちには、なるべく優しく接していたつもりなのに。「あ、違いますよ。怖がられてるとかじゃなくて、すごい人過ぎて緊張するという意味です」「全然すごくないのに」「すごいですよ。私たちの目からすれば…。いつも凛とされていて、憧れです」「ありがと……」「でも、最近、雰囲気が柔らかくなったよねって、みんなで話していたんです」「そうなんだ」「何か心境の変化があったんですか?」心境の変化か……。変わったことがあるとしたら、大和かな。彼と一緒にいるうちに、考え方や物事の捉え方が少し変わったと自分でも思う。「これまでの先輩も好きでしたけど、私は今の先輩の方が好きです」面と向かって言われると照れる……でも、嬉しい。「ありがとう」「どういたしまして」おどけたように言った旭日は、「さぁー!残りの仕事を片付けるぞ」と気合いを入れた。◆会いたい出張、当日の朝。東京駅へ向かうタクシーの中で、スマホの画面を覗いては落胆する。実は昨日の夜、大和に電話をかけてみたけど留守電になっており繋がらなかった。手術中は留守電になっていることが多く気に留めなかったけど、朝になっても折り返しがこないのは初めてだ。出張に行く前に、大和と話がしたかったのにな……。そう思った瞬間、スマホが振動した。大和かと思いきや、相手は母。「お母さん悪いけど、後にしてくれる?」『汐里、実はね…』「これから出張なの。向こうに着いたら電話するから。じゃぁね」お母さんの話は基本的に長いから、外で聞いてたら充電が無くなってしまう。電話を切って、ふぅと息を吐くと、ルームミラー越しに運転手さんと目が合った。「もうすぐ、イルミネーションの季節ですね」「そうですね」「楽しみだなぁ。毎年、娘と一緒に見に行くんです」運転手さんが微笑む。その嬉しそうな顔を見て、先日、大和と話したことを思い出した。『今年のイルミネーション、一緒に見に行こう』『イルミネーションかぁ、混雑するから嫌』『そんなこと言わずに、行こうよ』『気が向いたらね』どうしてあの時、素直に行くって言わなかったのだろう?どうしてもっとちゃんと約束しなかったの?このまま、大和に会えなくなったらどうしよう?もう大和が笑いかけてくれなくなったら、どうしよう?――大和がいない人生なんて、想像しただけで耐えられない。そのことに今、気が付いた。東京駅に着いて新幹線の改札口に向かう途中で、新実さんを見つけた。急いで駆け寄って、声をかける。「新実さん!」「どうした、そんなに慌てて」「すみません、私、行けません」新実さんは訝しげな表情で、こちらを見る。スーツケースを下げてここまで来て、「何を言ってるんだ?」と、言わんばかりだ。「今回の出張がどれだけ大事か分かってるよな」「分かっています」「上手くいけば、プロジェクトリーダーに戻れるかもしれないんだぞ」「戻る気ないです」「汐里らしくないな」確かに、私らしくない。以前の私なら、どんなことよりも仕事を優先していた。ガツガツ必死に働いている自分が好きだった。だけど、今は『頑張り過ぎないでね』って言ってくれる大和と一緒にいる時の自分が好き。「仕事よりも、大切なものを見つけたんです」「大切なもの?」「ごめんなさい、私、新実さんの気持ちには応えられません」「汐里……」「彼が好きなんです」理想とは全然違っていても、思い通りの恋愛じゃなくても、大和が好き。だから今は仕事より、彼と仲直りすることの方が大切。今になってやっと気が付いたの。新実さんに頭を下げて、踵を返す。早く大和に会いたいという気持ちが溢れて足が自然と走り出していた。「○○総合病院まで、お願いします」電話が繋がらないなら、直接会いに行くしかない。タクシーで大和が勤める病院に直行し、顔見知りの看護師さんに大和の居場所を尋ねた。すると……。「北崎先生なら、休暇を取られていますよ」「休暇?」「ええ。1週間ほど、休むそうです」そんなに長く……?大和、どこ行っちゃったの?理想じゃない恋のはじめ方。第10話に続く…
2021年09月17日この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)複雑な家庭で育ち、結婚に夢も希望もない藤川 千紗、30歳独身。特定の恋人もつくる気がない千紗は、相手をころころ変え一時的な恋愛を楽しんでいる。そんなある日、探偵事務所の相談員として働いている千紗は、友人の旦那の浮気調査をすることになり…結婚や人生に悩む女性に贈る、オリジナル小説。前作「理想じゃない恋のはじめ方。」はこちら私の恋愛観「彼氏がいないなら、また会えるよね?」目の前でワイングラスを揺らす男が、期待を込めた瞳で私を見つめる。如何にも慣れてますって顔が、女性の扱いは心得ていますって態度が、正直うざい。こういう男は後腐れなさそうに見せかけて、粘着するタイプだ。「1回会った人とは、もう会わないことにしてるの」「どうして?」「どうしても」「理由を言ってくれないと納得できないな」ほら、しつこい。「一期一会を楽しみたいから」「1回会っただけじゃ、何も分からないだろ」あなたがハズレってことだけは、分かるけどね。がっかりした気分で1万円札をテーブルに置き、席を立つ。「先帰るね」「待てよ、俺の連絡先を渡すから。気が向いたら電話して」「要らない」「ったく、可愛くねぇーな。そんなんだから彼氏ができないだけじゃないの?」本当、うざったい。何様なの、こいつ……。彼氏?そんなの必要ない。私はその日、その時だけの相手と恋愛が楽しめたらいいの。誰かと真剣に付き合うなんて、真っ平御免よ。――――ずっとそう思っていた。彼に出会うまでは。探偵事務所「一体、いつまで待たせる気……?」自動車内で待機中の私は、思わず悪態をついた。運転席にいる仲西(ナカニシ)さんが眠そうにあくびをする。「3時間越えか。平日の昼間っからご苦労なこったな」「本当よ、さっさと出て来て、さっさと証拠を取らせて欲しいわ」「そう簡単にいくかよ」「あ、待って。出て来たかも」私たちが待機している車から、20メートルほど離れた先にラブホテルがある。そのホテルのエントランスから対象のカップルが現れた。気付かれないようにカメラを構える。「(決定的なのを、お願いよ……)」私の願いが通じたのか、ホテルから出て来た不倫カップルは白昼堂々のキスを始めた。「これで言い逃れできないね」「さすが、うちのエース・藤川千紗(ふじかわちさ)は、運が良いな」「効率が良いって言ってよ」都内でありながら自然の豊かさを感じられる場所に建つ商業ビル。その3階にある総合探偵事務所が、私の勤め先。尾行・張り込み・聞き込みなど調査に出るのは良いけど、クライアントに報告する時は少し気が重い。「調査報告をしますね。ご主人は〇月〇日の〇時から約3時間半に渡って女性とホテルで過ごし……」「嘘よ、信じないわ」「こちら、証拠の写真です」決定的な写真を見たクライアントは、体を震わせて泣きだした。「こんなの、酷い……」「裁判になった場合、証拠は多ければ多いほど有利になります。もう少し調査を続ける場合は、」「あなたね、こんな酷い写真を見せておいて、思いやりの言葉1つかけられないの!?」でた。八つ当たりパターン。怒りの矛先をこちらに向けられてもね……と、心の中で溜息を吐く。憎むべきなのは不貞をした夫、もしくはその相手であって、その2人を裁くための調査なのに。大体、浮気されたからって何だっていうのよ。婚姻関係にあるってだけなのに、自分が1番だって思い込むから傷つくんでしょ?「結婚なんてするから、そんな思いをするのよ……」「え?」やばい、つい口に出してしまった。作り笑顔を浮かべたところでタイミングよく電話がかかってきたので、後はカウンセラーに任せることにした。「はい」『もしもしぃ~千紗? 私、綾香(あやか)。ちょっと今から会えないかな?』◆友達の旦那指定されたカフェへ行くと、先に着いていた綾香が手をあげた。大学時代の友達で時々ランチをしたりする仲だけど、急に呼び出されるのは珍しい。「久しぶり、どうしたの?」「うん、実はねぇ……。旦那くんが、浮気してるみたいなの」あぁ、なるほど。そういう用件か。綾香の旦那とは、結婚式の時と家に遊びに行った時の2回会ったことがある。どちらかといえば綾香の方がベタ惚れで、仲は良かったはずなのに。「何か怪しいと思うことがあるの?」「ん~。帰って来るのが遅かったり、スマホにロックをかけるようになったり、」「それは怪しいね」「やっぱりそう思う?あとね、最近そっけなくなった気がするのぉ」悲しそうな表情を浮かべる綾香は、胸元まである髪の毛を指にクルクル巻きつけた。派手なストーンが付いたネイルが目立つ。「休日出勤や出張が増えたりは?」「んっ! そういえば、今月はもう3回も出張に行ってる」「見慣れない下着があったり、香水を変えたり、外見に気を遣うようになったりは?」「下着は、どうかなぁ……」綾香はいわゆるお嬢様ってやつで、実家はかなりの資産家らしい。ハウスキーパーが洗濯をするから、旦那の下着なんて知るわけないか。「あ、でも香水は変わったかも」「疑える要素は揃ってるね。どうする? 調べようか?」「お願い!費用はいくらでも出すから」「分かった。じゃぁ、後でまた事務所に来て」頷いた綾香は、私に話してホッとしたのか、デザートのメニューを開いた。いつもダイエット中と言いながら、甘い物に目が無い。「ところで、千紗は? 良い人できた?」「私のことはいいよ、聞かなくて」「またそんなこと言ってぇ。一生独身でいるつもり~?」「先のことはまだ考えてないよ」「考えなきゃダメだよぉ、私たちもう30歳なんだから」悪い子じゃないんだけど、綾香って時々お節介。女の幸せは好きな人と結婚して子供を産んで育てることだと信じて疑わないタイプ。その価値観はむしろ一般的だと思うけど、考えを押し付けないで欲しい。というか、私は非婚主義者なの。いい加減察して欲しいよ……。◆浮気調査開始「ビル、高っ」綾香の旦那が勤める会社は、外資系企業が多く集まるオフィス街にある。その中に紛れても違和感がないようパンツスーツに身を包んだ私は、綾香から聞き出した情報を頭に叩き込んだ。対象者は、伊野 悠真(いの ゆうま)32歳。身長は176㎝、体重74kgの中肉中背、髪型はやや癖のあるショートでおでこを出している。銀色の細フレーム眼鏡、濃紺のスーツ、茶色のカバン……。「(出て来た)」顔は元々知っていたので、ビルの入り口ですぐ見つけることができてホッとする。そのまま綾香の旦那が通り過ぎるのを待って、尾行を開始した。只今の時間、午後7時。綾香には今日も残業と言っていたらしいけど、会社に戻る様子がないからどこかへ行くのだろう。「(女と会うのかな? それとも人には言えない趣味があるとか?)」あれこれと想像しているうちに好奇心が芽生えてくる。何かしら綾香に内緒にしていることがあるのは、間違いなさそう。彼はカフェや本屋でしばらく時間を潰したあと、ホテル街へと向かった。「(やっぱり女か……)」思ったよりは、あっさりと尻尾を見せられて拍子抜けする。案の定、女性と合流した綾香の旦那はホテルの中へと入って行った。――――と。なぜかすぐにホテルから彼1人で出て来た。そして、まるでここに私がいることを知っていたかのように真っすぐ向かって来る。どうしよう? 尾行がバレてた?「綾香の友達ですよね?」想定外の動きに驚き、挙動不審になってしまう。「あっ、あの、私は……」「綾香に頼まれて僕の調査をしているんでしょう?」ダメだ、完全にバレている。調査員としてあるまじき失態を恥じていると、綾香の旦那は「違うんです」と手を振った。「綾香があなたに依頼するであろうことは初めから分かってました」「そうなんですか?」「えぇ、分かっててわざと尾行しやすいように歩きました」「あの、」それってどういうつもりで?そう聞こうとするよりも先に、彼は予想外のことを口にした。「綾香と離婚したいんです。僕に協力してくれませんか?」第2話は、9月21日(火)公開予定!
2021年09月14日