息子に発達障害があることを本人に告知したのは小5のころでしたUpload By かなしろにゃんこ。ADHDと広汎性発達障害がある息子リュウ太が発達障害の診断を受けたのは小4のときでした。児童精神科のクリニックの臨床心理士さんには「本人への告知は道理がわかる年ごろになってからがよい」というアドバイスをもらっていた私ですが、リュウ太への療育のことを考えると本人に告知したほうがやりやすいと思い、リュウ太が小5の秋に告知したのでした。Upload By かなしろにゃんこ。その後、中学生になったリュウ太は学校に置いてある発達障害の本を読んで、自分でも発達障害とは何なのかを更に勉強したと言います。ですが、反抗期の期間は親を避けることが多かった息子は、療育などがあまり進まず母は焦るばかりでした。トホホ…Upload By かなしろにゃんこ。告知はしたものの親を避けている時期、息子とは発達障害や特性についてあまり話すことができていなかったのですが、反抗期が終わりかけた17歳くらいから(終わるの遅っ)私は、親子の会話の中でADHDや発達障害などの言葉をよく出すようにしました。Upload By かなしろにゃんこ。発達障害があることは、隠さなければならないものではないと思っていたので、特性が原因での困りごとやトラブルが起こったときには「ADHDの特性で思いついたらやっちゃうこともあるから、相談してね」と伝えたり、生活の中で何か工夫できないか親子で考えるためにあえて言葉にして、言うようにしました。そうして忘れ物対策、衝動的に夜間騒音をたてないための相談や話し合いなど、親子で大ケンカにならずに進んでいったと思います。…でも、「告知はあの時期で良かったんだろうか…?」とその後も私はずっと考えていました。Upload By かなしろにゃんこ。息子が20歳のときに「発達障害の告知を受けたときにどう思った?」と聞いてみました。息子は「地獄に落とされたようにショックだったな」と言いました。そして、発達障害という言葉にショックを受けたと当時のことを思い出しながら語り出しました。「子どもだったから“発達障害って何?ADHDってどういう意味?”って、そもそもよく分からなかったけど『障害』って言葉に驚いたんだよね。お母さんに『ADHDってこうなんだよ、リュウ太が忘れ物をよくするのはADHDの特性で~…』とか説明されたときは落ち着いて聞けなかったんだけど、数日頭から離れなくって。でも、あぁ…だからオレってみんなと違うんだって分かった。」というリュウ太。Upload By かなしろにゃんこ。息子は集団行動をうまくとれなかったことや、周りの人と興味が違って遊びの話が合わなかったことなどを振り返ったそうです。「自分に発達障害があることは仕方がないことだけど、それで差別みたいなことを受けるかもしれないって思うとイヤだった」と話してくれました。ですが、中学では仲のよい友達には自分がADHDであることを話していたと言います。「友達に『オレ発達障害でADHDなんだ~』って話しても『へーそう』って言われるだけで別に付き合いは変わらなかった。友達の兄弟も発達障害だよってヤツもいたし。ただ『障害』っていう言葉のショックを受け入れるのに7年くらいかかったな~」とも息子は言いました。Upload By かなしろにゃんこ。そんな息子は、専修学校の高等課程2年生のときにSNSの『ADHDあるある』という掲示板を読んで笑ってしまったと話します。「オレと同じヤツが世の中にいっぱいいること。同じ失敗をしていること。あるあるや大喜利で失敗をネタにしちゃってること。そんなのを見ていてADHDの自分を徐々に受け入れていけた感じかな~?」息子が言うには、自分でも「ここから受け入れた」とハッキリは分からないけれど、だんだん癒えてきた感じなんだそうです。Upload By かなしろにゃんこ。今でもオモシロイ『ADHDあるある』の書き込みを見つけると私にも読み上げてくれて、一緒に笑ったりしています。同じ特性がある人の書き込みを自分の特性と重ねたり、自分でも気がついていなかった特性を知ったりして、ADHDがあることを悪いことだと思わないくらいに息子の受け止め方が変わっていってくれたことは嬉しいです。私は息子に発達障害があることを受け入れるに5年かかりましたが、息子もまた自身に発達障害があることを受け入れるのに同じくらい時間がかかっていたんだとわかりました。告知をした時期は本当にあれで良かったんだろうかと考えていた私でしたが、わが家はこれでまぁ良かったのかもしれないと最近思えるようになりました。執筆/かなしろにゃんこ。(監修:井上先生より)「告知の時期はいつがいいんでしょうか」という悩みはよく聞きます。告知の時期というのは、特にいつごろがいいと決まっているわけではなくて、一人ひとりそのタイミングは異なります。基本的には、自分の得意なことや、苦手なことを整理しながら自己理解を進めつつ、必要に応じて告知を行うのがよいと思います。またお子さんの発達に合わせて、かなしろさんのように何段階かに分けて伝えると、本人が受け入れやすくなるかと思います。
2021年10月23日発達障害のある子どもの障害受容についてUpload By スガカズ私、スガカズは、現在4人の子どもを育てているママです。・長男(中2 ASD、ADHD)・次男(小5 、ADHD)・長女(年長 、定型発達)・三男(年中、定型発達)次男はADHDがあり、通常学級に在籍していますスガカズ(以下、――)発達障害のある子どもの障害受容について相談したいです。わが家の次男はADHDがあり、通常学級に在籍しています。次男の3歳上の長男(ASD、ADHD)には小4のときに私が本人に障害告知をして、小5のときに他者(クラスメイト)に自分の障害について知ってもらう機会がありました。そのときには、クラスメイトに自然と受け入れてもらえたのですが、次男の場合は同じように受け入れてもらえるのか不安な部分があります。「次男ももう小5だし、障害告知をする時期が近づいているのかも…」と思ってはいるのですが、次男は他者の感情に敏感だったり、自己肯定感が低いところがあるので、自分の障害に対してネガティブに受け止めてしまうのではないかという懸念があります。また、友達とケンカをすることもあるので、「発達障害がある次男」を周りに受け入れてもらえるのだろうか?といった漠然とした不安があります。本人に障害告知をする前に親である私からできることはあるでしょうか?三木先生:次男くんは周りの子とどんな関係をもっていますか?Upload By スガカズーー毎年クラスに何人か仲良くしてくれるお友達がいるようです。低学年のころはうまくいかないことが起こると癇癪を起こすこともあったのですが、本人なりにクールダウンしたり折り合いをつけたりと努力している姿が見られますし、先生からもそのようにうかがっています。仮に友達と口論になったとしても、時間をおいて自分から謝る面も見られます。友達がいるのはよいのですが、一方で大人しいタイプの子からこわいと思われている面がありそうです。「クラスの女子が(仮にAさんとします)、オレのことこわがっているかも知れない。この前ちょっとぶつかったときに、Aさんは悪くないのに『ごめんなさい』って謝ってきたんだ。その子に昔なにかした訳じゃないんだけど。」と次男が言っていました。三木先生:なるほど。キャラが立っているほうが敵味方がハッキリしやすいですが、そういったタイプなんでしょうかね。ーーそうですね。敵味方がはっきりしているタイプだとは思います。周りのお友達も、次男が自分からいじわるするタイプではないと理解してくれているようなのですが、次男を苦手な子も一定数いるだろうと思っています。私からは、次男に「周りに優しく接したら女の子にもモテるんじゃない?」「どうしても言い合いになってしまった場合は、ライオンさんの声(大きい声)は出さないでね」とは言ってはいるんですが、まだ行動に落とし込むのは難しそうです。なので発達障害があると周りが知ったときに、「だから恐いんだ。もう関わらないでおこう」と思われるかも知れないなと…。「障害があるからしょうがない」と周りが思うのは、あながち間違いではない…?三木先生:障害受容って、「受容」に「障害」って名前がつくととたんに難しい問題になるんですよね。「障害があるからしょうがないね」っていうのはちょっと違うと思っていて…。「だから恐いんだ。もう関わらないでおこう」と思う気持ちを否定したり、だからと言って「障害があるんだからしょうがないよ」と「気持ちのついていかない受容」を強制するのも逆に差別になってしまいますよね。ーーそうですね。他者の気持ちを強制するつもりはありません。トラブルが起こったとしても次男が障害のせいにするのは避けたいと思います。ただ、過去に「しょうがないね」と思うことで解決した経験がありまして…。Upload By スガカズUpload By スガカズーー次男が小4のときに公園に1人で遊びに行った日がありました。しばらくして私が迎えにいくと次男がその日初めてあった男の子(仮にBくんとします)とケンカをしていました。きっかけは水鉄砲を次男だけ貸してもらえなかったという、子ども同士でよくありそうな理由だったのですが、Bくんとのやりとりを見たときに、次男と似ている発言も見受けられたため、「もしかすると次男と同じように、情緒に課題のあるお子さんかも知れない」と感じました。そのときBくんのことを知っている子が近寄ってきて「Bくんは〇〇小学校の特別支援学級に通っている子だよ」と教えてくれたんです。そのあと、次男とBくんは無事に仲直りしたのですが、家に帰ってきたときに次男は、「特別支援学級に通っている子だって分かったから、次会って同じような態度をとられても怒らないし、仲良くする」と言って納得しているようでした。これって事実(Bくんが特別支援学級に在籍していること)を知らないままだと、次男にとっていじわるな子で終わってしまったと思うんです。三木先生:確かにその時期(学童期)の子どもには「障害」という名前がついているほうが分かりやすいこともありますね。次男くんが納得したように、直感的に「そういうものだからそうしましょう」という考えで、世の中が平和になるわけですし、悪くはないと思います。ただ、それが当事者が開き直る場合だととたんに周りと仲良くできなくなってしまいますから、次男くんが自身の発達障害に対して、「しょうがないでしょ」とならないように保護者のほうで働きかけることは大事ですね。当事者も周りの人も、考えはその人によるし親が強制できるものではないし、強制するべきではないと思うので采配は難しいところですが。「周りに受容してもらう」ではなく、「自分の属性を理解して仲間を作る」Upload By スガカズ三木先生:次男くんのよいところは、「受容してもらえるであろう仲間」が何人かいることです。そこを掘り下げて、「周りは次男くんのどんな能力や人柄を気に入って仲間になっているのか」 「どうすれば理解・評価の幅を広げられるのか」を教えてあげるといいと思います。それによって「周囲の理解やサポート」という間接的なリソースをさらに獲得できるわけで、障害があろうとなかろうと受容してもらいやすい結果につながると思います。次男くんだけでなく外的要因もありますよね。おそらく今までのクラス編成がよかったり担任の先生に恵まれたり、あるいは家庭側でやってきた関わりの結果、彼の味方をしてくれる人たちを失わずに済んだこともあると思うので、今までの学校生活を振り返ってみましょう。ーー次男との話し合いで過去の物事を振り返るとき、「いい友達がいてよかったね。先生は次男のことよく理解してくれているね」といった結論に至ることはよくあります。ただ、先ほど言った大人しいお子さん(Aさん)の話なんかは、「自分は嫌われているかも」というネガティブな情報があるので、考えることは嫌みたいです。Upload By スガカズ三木先生:Aさんとの関係性は、本人が歩み寄れる努力をしたいと思っている問題なら、Aさんに直接「何がそんなに恐いの?」と聞くことも解決策の一つですね。例えばAさんが率直に「怒り方が恐くて」と理由を言ってくれたなら、共通理解ができます。その上で、次男くんが歩みよろうと思うのなら、学校や家庭、あるいは本人自身が「どうするべきか」考える機会ができます。あるいは、「分かってはいるけどできない(怒り方を変えられない)」という段階かもしれません。そうすると別の問題を解決する必要があります。「できない自分に対してどうすべきか?」という問題です。Aさんが「学校に行きたくなくなるほどの問題」なら解決すべき問題ですが、相手にそこまで迷惑でもなく「ちょっと嫌だな」くらいなのであれば、受け入れてもらうことを諦めて距離を取るのも一つの方法です。「あなたも苦手な子はいるでしょ?」「全ての人に受け入れられることは難しい」と教えてあげる、でいいと思います。ーーなるほど…。私は親なので「できるだけ仲間を増やしてほしいな」とどうしても思ってしまいますし、「障害のある次男を受け入れてもらえるにはどうしたらいいんだろう?」と漠然とした心配がありましたが、三木先生に言語化してもらえたことで情報がクリアになりました。Aさんとのことも、現在はクラスが違うので話す機会はほとんどないため、現時点で大きな問題ではなっていないようなのですが、同じような状況が今後発生したときの参考になりました。三木先生:人と共存する中で一番大変なのは小中学校の時期なんじゃないでしょうか。ただ、同じ地域に住んでいるだけなのに否応なく同じ教室に集められ、集団で生活させる訳ですから。大人になればなるほど属性が絞り込まれていくのでだんだん暮らしやすくなっていくはず。良くも悪くも、この先こんなに幅広く人と付き合う環境はなかなかないと思います。無理にその環境に合わせる必要はないですが、本人の意思と次男くんに合った環境整備をしつつその場、その場で寄り添ってあげれば次男くんも少しずつ成長していくんだと思いますよ。感想次男自身が自分の障害を前向きにとらえていけるように、障害告知するタイミングを大事にしたいと思っています。「障害」は三木先生がおっしゃるように、他者の考えを強制できるものではないと思うので学校など外の世界でどんなやりとりが行われるのか親は予想できません。「自分の属性を理解して仲間をつくる」ことをよく考えて寄り添っていき、次男自身がもう少し他者への理解も進む段階(おそらく小6あたり)で障害告知したほうがよさそうだなと感じました。執筆/スガカズ
2021年10月11日全品200円!安くて旨い居酒屋、実は…Upload By 桑山 知之名古屋市千種区にある歓楽街・今池。ディープスポットとして知られる町で、今年2月、明山さんは居酒屋「せんべろ元気」をオープンさせた。冷奴や枝豆といった定番メニューから、油淋鶏や唐揚げ、串カツといった本格料理まで、すべて200円という破格で提供している。もちろん、生ビールやハイボールなどの酒類も200円。「安くて旨い」と評判は上々だ。Upload By 桑山 知之それもそのはず。メニューは値段こそ安いが、同級生が経営する製麺所や食品会社、岐阜県海津市の有名串カツ店などから取り寄せた一級品を提供している。「まともにやったら回らない」。今池で生まれ育った明山さんの人脈があってこその価格設定である。飲み屋街の一角で、ありそうでなかった「昼から飲める」「安くて旨い」店。呑兵衛ならだれもがふらりと入りたくなる。実は、就労継続支援B型の事業所だ。義理ではダメ「福祉に甘えない」場所に明山さんには全盲の祖父がいた。鍼やマッサージの仕事で自立もしていたが、一歩外に一緒に出れば、周りからかわいそうな目で見られることが多かった。子どもながらに社会の偏見に対し、常に違和感を覚えていたことが、障害者福祉の世界に飛び込んだきっかけだった。2002年に福祉の専門学校を卒業後、愛知県内の社会福祉法人に就職し、4年ほど勤務した。2006年に子どもの放課後等デイサービスを運営する「ぜによ」に入社し、2019年4月からは代表を務めている。「児童デイサービス元気」の名称で3カ所のデイサービスを運営しながら、明山さんが重視している「自立のための教育」の一環として何かできないか模索し続けてきた。Upload By 桑山 知之「障害があろうとなかろうと、ちゃんと同じラインに立ったうえでやらなければいけないんじゃないかなと。福祉だからお店来てくれって、お店をやる以上は違うと思うんです」(明山さん)社会福祉法人に勤めていた際、作業所の利用者が山で切ってきた木を使って椅子や机を作っても、結局は安いものしか買ってもらえなかった。言わば「情け」でというのがほとんどだった。「福祉に甘えてはいけない」という思いが沸々と沸き上がった。Upload By 桑山 知之デイの先輩が働く姿が刺激に居酒屋「せんべろ元気」は新型コロナウイルスの影響を受け、営業時間や酒類の提供など不安定な要素もあるが、オープンから約半年が経ちじわじわと地元住民らから支持を集めている。店には現在、2人が働いている。そのうちの1人は、知的障害がある男性(20)。放課後等デイサービスに通っていた小学2年のころから彼が口にしていた「いつかラーメン屋で働きたい」という夢に向け、この店で修行中だ。Upload By 桑山 知之「今まで一緒にデイサービスで遊んでいた先輩がこうやって一生懸命働いているのは、めちゃくちゃ刺激になるんです。金銭教育、お金の使い方も学んで、働くとどうやってお金がもらえるのかという見本が目の前にある。毎年秋に施設で『ショップ元気』という、作ってきた製品を利用者が自ら販売の擬似体験をするイベントがあるんですけど、その進化版をやっているんです」(明山さん)就労継続支援B型とは、障害のある方が一般企業への就職が不安、あるいは困難な場合に、雇用契約を結ばないで軽作業などの就労訓練をおこなうことが可能な福祉サービスのことを言います。作業の対価である「工賃」をもらいながら、 障害や体調にあわせて自分のペースで働くことができます。参考:就労継続支援B型とは?作業内容や工賃の額、対象者、利用手続きなどを解説します | 仕事ナビかわいそうだから、頑張っているからといった“義理”ではいけない。福祉に甘えず、本当にその子が働ける姿を見てもらう。明山さんは、就労の場として接客などの経験を積ませながら、飲食業をはじめとするサービス業の関係者を招き、子どもたちの就職も後押ししていきたいと考えている。Upload By 桑山 知之「同居していた祖父は、鍼灸師として自立していたんです。福祉だからお客さんが来ていたわけではなくて、きっと人一倍の努力をしてお客さんを掴んでいたというか。だから、福祉というフィルターを通さずに社会で通用する人材を輩出していきたいですし、福祉と社会の垣根を取っ払っていくことが僕の使命です」(明山さん)取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海(監修・井上先生より)就労継続支援B型で地域で飲食店をされる場合、地域の方や同業者の理解や協力を得ることに対しては目に見えないご努力があったのかと思います。体調面から、夕方から夜にかけての方が働きやすいという方もいらっしゃることから、選択肢の広げ方としてはユニークな試みだと思います。地域の人たちの交流の場、生きづらさのある方同士の交流の場になっていくといいですね。出張の際にはぜひ行かせていただきたいです。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。
2021年09月30日息子の発達の遅れに気づくまでUpload By まる息子は1歳1ヶ月のときに保育園に入った。私は常に「人生なにが起こるかわからない」と考えて生きている。「息子がもしも発達障害だったら…」も頭の片隅にあったのだろう。保育園の面談で「なにか気になることが出てきたらすぐに言ってください。療育に通わせるので」と先生に伝えていた。初めての育児、ひとり親、頼れる家族も近くにいない状況で息子の発達の遅れに気づける自信がなかったのだ。このころの息子は特に変わった様子もなく、保育園の先生からも気になるところはないと伝えられていた。Upload By まるところがその1年後、コロナで1ヶ月休園していた保育園が再開したときに先生から「ちょっと…気になることが…」と呼び止められた。「やっぱりな…」私も発語の遅れなど気になりだしていたころだったのだ。内容は休園中の1ヶ月で成長が見られない、指差しをしない。休園前は少しだが言葉が出ていたが、発語がまったくなくなっていて、発達の後退が見られるとのこと。ちょうど気づいたタイミングだったのだろうけど、休園中ちゃんと構ってた?話しかけてた?何してたの?と問い詰められているように感じられて私は落ち込んだ。Upload By まるそれからトントン拍子に物事が進むかと思いきや…Upload By まるこうなったからにはすぐに療育に通わせなければ!と焦る私だが、とりあえず最初に市の保健師さんと面談をしないといけない。しかし私はコロナの影響で本業であるデザインの仕事が激減し、家から通える場所で未経験のパートを始めたばかり、生活費のこともありがっつり仕事を入れていたのだ。そして保健師さんも忙しい。面談に行けたのはそれから3ヶ月後だった。保健師さんとの面談で、「次は支援センターで面談して」と言われ1ヶ月後に心理士さんと面談。心理士さんから発達外来や息子に合っていそうな療育をいくつか紹介してもらい、仕事の合間を縫い1ヶ月半かけて4つの施設を見学。療育に通い出せたのは保育園から「気になることが…」と伝えられてから半年もたってしまっていた。療育に通いだしてから8ヶ月Upload By まる現在療育に通いだして8ヶ月。初登園のころと比べて成長したようなしてないような…実際よく分からない。初回から今までリトミックや親子体操に一切参加せず、椅子に座っていられないのは変わらない。しかし発する単語が増えたり、教室に入ったら手を洗う、カバンをしまうなどのルーティーンは身についてきている気がする(声をかければやる程度)それはただ単に時間が経ってできるようになっただけなのか、それとも療育に通っている刺激でできるようになったことなのかは謎だ。ただ「療育に通っている」という事実は私にとって大きな支えになっている。何もしていなければこのままでいいのだろうかとモヤモヤする毎日だろうけど、この子に対してやれるだけのことはやっている!と親としての自信にも繋がっている気がする。執筆/まる(監修:初川先生より)リュウくんにはリュウくんなりの発達があり、リュウくんだけを見ていたらゆっくりではあれ成長しています。一人っ子で、ひとり親でいらっしゃると、比較対象も大人の目も少ないので、保育園の先生と最初から一緒に育てようとする体制を取られたのはとても素晴らしいです。そして、療育に至るまでのプロセスの長さ…なかなかスピーディーに展開することが難しい地域が多いのでどうしても時間が経過しがちなのはありますね(いつかスムーズに繋がれる時代が来ることを願います)。子の育ちなのか、療育のおかげなのか、その見分けは確かに難しい(療育をしなかった場合の育ちを見ることができないため比較できない)ですが、療育の良さは子へのアプローチだけでなく、プロの目で子を見てもらえること。リュウくんの子育てチームに保育園の先生に続いて加入されたことの心強さはもとより、専門的な視点で子どもの成長をきっととても細やかに見てくださっていることと思います。折々にフィードバックを受け、一緒に成長を感じられるといいですね。
2021年09月29日人々は何をどのように学んできたのか?19世紀後半以降、日本列島に近代国民国家が成立していく様相を、“学び”の視点から紐解く展覧会『学びの歴史像―わたりあう近代―』が、10月12日(火)より千葉・国立歴史民俗博物館にて開催される。同展では、幕末から明治という怒涛の流れの中にあった「学び」の姿を、対外関係史、文化史、経済史、医療・衛生史、アイヌ史など、さまざまな切り口から読み解いていく。アイヌ民族の歴史や言葉、首里や八重山の近代関係資料など、全国各地の資料を一堂に公開するほか《ブラントン日本図》や《元ト昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図》など初公開の資料も含め、歴博の豊富な館蔵資料も紹介。さらに私たちにはなじみのない、唱歌教科書初代の「君が代」のメロディなどを紹介する“聴く展示”もある。伝統と近代、欧米とアジア、中央と周縁、強者と弱者など、教育や学知を通じて「国民」が生み出されていく過程を多面的に明らかにしながら、近代における“学び”の意義を考える。≪ブラントン日本図≫明治9年(1876) 国立歴史民俗博物館蔵≪開成所物産学入学姓名記≫文久2年(1862)国立歴史民俗博物館蔵≪大日本内国勧業博覧会之図≫明治10年(1877) 国立歴史民俗博物館蔵≪疱瘡神の化身≫明治8年(1875)国立歴史民俗博物館蔵【開催概要】企画展示『学びの歴史像―わたりあう近代―』会期:2021年10月12日(火)~12月12日(日)会場:国立歴史民俗博物館企画展示室A・B( )時間:9:30~16:30(入館は16:00まで)休館日:月曜日(休日にあたる場合は開館し、翌日休館)料金:一般1,000円、大学生500円※会期中展示替えあり※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑に入場可※開館日・開館時間を変更する場合があり※土日祝、12月7日(火)~12月12日(日)はオンラインによる事前予約制
2021年09月16日癇癪を起こした息子をほったらかして家から飛び出しましたUpload By かなしろにゃんこ。こんにちは、かなしろです。ADHDと広汎性発達障害がある息子は、気性が荒く幼少期から癇癪持ちでした。過去に癇癪のときの息子の気持ちなどをコラムに書いたことがありますが、今回は私がしていた「息子が癇癪になったときの対策」についてお話ししたいと思います。息子がまだ3歳だったころ、遊びの中でうまくいかなかったとき息子は、頻繁にプンプン腹を立てていました。オモチャを投げたり、足を踏み鳴らしたりして、体全体で怒る息子の様子を見て「なんでこの子はこんなにイライラしているんだろう?」と不思議でしたし、怒っている子と同じ空間にいると、とってもイヤな気持ちになって子育てがつらく感じてしまっていました。ミニカーを並べて遊んでいて、思っていた場所に置けずにずれたりするとキーキー怒り出してしまう息子。そんな息子に「怒らないの、大きな声を出さないの、泣かない」などと私もついつい口を出してしまっていました。口を出すと息子はさらに泣いたり叫んだり、余計に怒ってしまいます。Upload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。当時私は「癇癪」という言葉がどんな状態を表す言葉なのかよくわかっていませんでした。だから息子はうまくいかないとよく怒るけど、本人の経験不足から我慢が足りずに怒っているだけで、大きくなったら癇癪はなくなるものだと思っていました。しかし息子のうまくいかなかったときのイライラや爆発する怒りは、成長しても収まることはなく、「これが癇癪というものなのか!」と知りました。そんなある日、我慢の限界が来て…Upload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。癇癪持ちは治らない!おもちゃの線路がうまくはめられない、時間内にクリアしないといけないゲームは焦ってできない……など、できなかった場合「そんなこともあるよね」と諦めることができない息子。あるとき癇癪を起こした息子がイヤで、私は息子の視界から少し離れました。すると息子は、(なぜ母はいなくなったのか?)と気になったのでしょう。怒るのをやめてポカーンとしていました。少し離れたところから息子の様子を見ると、息子のさっきの怒りは鎮まっていました。これは効果がある、息子が癇癪を起こしたら離れるといいのかも!Upload By かなしろにゃんこ。それから、息子がうまくいかなくて怒っているときに離れることができない場所では、徹底的に「見ざる聞かざる言わざる」にしてみました。(もちろん、荒れた息子が人の迷惑になったり、危ない行動をとらないように視界の端で気にしながらですが)そうすると、干渉しないことで息子の場合は早く怒りが治まることがわかりました。私が機嫌をとろうとして関わると余計に荒れてしまう。息子自身沸きあがる自分の感情をどうしたらいいのか分からずに、戦っている形が「癇癪」なのかもしれません。癇癪に同調して寄り添う姿勢ももちろん大切だと思います。ですが、今まで息子が癇癪を起したときに、私が無理に止めるような関わり方をしていたせいで、怒りが長引いていたのかもしれないな、と思いました。Upload By かなしろにゃんこ。この経験をきっかけに、癇癪は息子自身の心の問題で、もしかしたら親が必要以上に干渉しなくてもいいのかもしれない。怒りや喜びなど、本人がいろいろな感情を味わい、それが成長につながっていくのかな、と思うようになりました。癇癪のときにどうしてほしかったか、その後成長した息子本人に聞いたコラムもありますので是非読んでみてくださいね。執筆/かなしろにゃんこ。(監修:三木先生より)大人のコンディションが悪いときは、寄り添っても逆効果になってしまうこともよくあります。寄り添いと見守りを大人のコンディションによって使い分けるのはとても良い方法だと思います。つまるところ、「しんどいときは無理をしない」で良いのかもしれません。
2021年09月09日障害ではなく個性なのか。発達障害のある子どもを育てる親の思いお子さんに障害がある親御さんが、「うちの子には障害はない、個性的なだけ」と言っているのを耳にしました。このように話す背景には、わが子の発達の凸凹を障害ではなく個性と捉えて、「前向きに育てていこう」という気持ちから出ている言葉かもしれないと感じました。個性だから特別視はしない!? 園での対応知り合いが、わが子が通う保育園に「うちの子は発達障害があるかもしれないので、特別な配慮をしてほしい」とお願いしました。すると、園側から「それは個性の一つですよ。どの子も性格も違い個性があるのですからお宅のお子さんだけ特別扱いは出来ません。みんなと一緒に分け隔てなく保育をしていきますから」と言われたそうです。この場合は、「個性」という言葉が、「特別視せずに平等に見る」とか、「配慮をしない」という意味で使われています。「個性」という言葉を使うとき、その背景にある思い・考えは、人や場面によって異なっているようです。自閉症の息子を育てる、私の思い私自身は「障害か個性か」の論争にはあまり関心がありません。あえて言うならば、「障害そのもの=個性」ではなく、障害によって、むしろ自閉症や知的障害によって、息子の個性が見えづらくなっているような気がします。こんな絵を描いてみました。私は、個性の上に大きく障害が被さっているように感じています。Upload By 立石美津子もしわが子に障害がなかったら…妄想する息子に障害がなかったら、あなたはどんな性格、個性をしていたの?お母さんと普段どんな会話をしていたの?定型発達の20歳だったら、彼女くらいはできていたかな?友達と週末は出かけたりしていたのかな?こんな風に思い始めると切なくなります。けれども、息子から知的障害と自閉症を取り去ったら、息子ではなくなってしまうのでそれはそれで嫌だと思うわがままな母親です。Upload By 立石美津子障害=個性、ではないと思うから現代の医学では発達障害について、採血などの検査で明確に数値が出て、それだけで客観的に「はい、発達障害です」とわかるような生物学的マーカー(指標)はありません。そのため、どこまでが個性でどこからが障害か、の線引きが難しいのかもしませんし、育てている親にとっても分かりにくい部分です。そもそも個性は、万人に存在します。それは、障害の有無に関わりません。障害のある子どもの親に対して第三者が「障害のある子は天使よね」などと、「障害そのもの=性格」のような言い方をしているのを耳にすることがあります。私自身もそのように言われたことがあります。でも、そんな型にはまったものではないと思います。知的障害、ダウン症、自閉症…、確かにそうやって「障害名」ごとに分類したときに、ある程度共通する先天的な特性はあるでしょう、けれど一人ひとりが育つ環境の中で、優しかったり、好奇心旺盛だったり、いたずらだったり…、さまざまな性格が形成されていきます。「障害そのものがイコール個性だ」としてしまうのは、違うのではないかなと思うのです。(監修:鈴木先生より)私はいつも外来で「障害は個性ではなく“特性”と考えてください」と保護者のみなさんに話しています。個性であれば外来受診する必要性がなくなります。自閉スペクトラム症+ADHD+二次障害によってその人本来の姿が見えなくなっていると考えていいと思います。ADHDなどを治療すれば本人や家族の肩の荷が下り、自閉スペクトラム症の特性は治らなくてもそれ以外の要素を軽くすることはできるのです。自閉スペクトラム症を完全に取り去ることはできません。周りの人たちに発達障害を理解してもらい、発達障害の特性と共生していけばいいのではないでしょうか。
2021年09月05日Twitterで、ある女性の投稿が大きな反響を呼んでいます。投稿したのは、発達障害の息子さんを持つ母親の、Yakkun(@yakkun33)さん。その内容は息子さんが落とした持ち物を、親切な人が拾い、届けてくれたというものです。しかし、「素敵」「泣ける」などの声が上がった理由は、それだけではありませんでした。注目されたのは、息子さんが大切にしていた1冊の『ノート』。ノートには、『ママとの約束』と書かれたものや、バスの時刻表などが細かく記載されています。実はこのノートは、すべて母親の手作り。発達障害の息子さんが安心して外出ができるようにと願い、母親が作ったものだったのです。さらに、ノートにはこのような内容も。この手帳は発達障害の息子が困ってしまった時、また逆に支援してくれる方が困ってしまった時のために母が自作した手帳です。本人の性格にあわせて作ったもので、とても大切な物です。この手帳を拾って下さった方は、お手数ですが下記に連絡していただけると大変助かります。駅の近くで息子の大切な「猫のノート」を拾って下さった方ありがとうございました!駅員さんから電話があって無事手元に届きました。これが無いと1人で登校が出来ないので大変助かりました!ここに書いても伝わらないかもだけど、本当に本当にありがとうございました‼️ #おとしもの #発達障がい pic.twitter.com/OoTcEWx0va — Yakkun (@yakkun33) September 1, 2021 街中で困った様子の息子さんがどんな手助けを必要としているか、分からない場合も少なくないでしょう。ノートには、息子さんだけでなく、そんな手助けをする人も困らないような内容も書かれていたのです。ページをめくるたびに母親の愛情が伝わってくるノートに、ネット上では感動の声が相次ぎました。・お母さんの愛があふれていて、涙がこぼれてくる。・拾ってくれた人も、このお母さんも本当に素敵。投稿を読んで胸がギュッとなった。・当事者にも支援する側にも分かりやすくて、「素晴らしい」としかいいようがない…!母親は、障がいなどにより、サポートが必要な時に役立つ猫の画像を提供しています。販売以外の目的でぜひ使ってほしいとのことです。返信追いつかなくなってきました。温かいメッセージを皆さんありがとうございます!全部大切に読ませて頂いております。シロちゃんの画像はこちらに置いておきます。必要な方はどうぞお使いください。(解像度低かったらゴメン)※著作権は放棄しておりませんので印刷物や製作物の販売はしないでね★ pic.twitter.com/zLnPJFGvES — Yakkun (@yakkun33) September 3, 2021 障がいをすべて理解することは難しいかもしれません。しかし、分からない中でも「理解したい。相手を助けたい」という気持ちが大切だと気付かされますね。[文・構成/grape編集部]
2021年09月03日12歳から路上で靴磨き「あなたの靴に魂を…」Upload By 桑山 知之革好きの家庭に育った市原さん。母親がブーツを磨いているのを見て興味を持った。3歳のころから母子家庭で、母親は2人の子どもを養うために仕事を掛け持ちし、帰りはいつも遅かった。妹と母親の帰りを待つ間、市原さんは決まって母親の靴を磨いていたという。「寂しい思いもしたんですけど、お母さんの靴を磨いて、帰ってきたらすごく褒めてくれるというのが嬉しくて。そこで愛情に飢えていた分、褒められたときに愛情が満足したというか。その気持ちを覚えてから、野球のグローブとかスパイクもやり始まりましたね」(市原さん)小学4年のとある日の夜、テレビの特集を見て靴磨きという仕事があることを知った。中学1年から名古屋の高架下の路上で、通行人相手に靴磨きを始めた。「あなたの靴に魂を込めさせてください」とホワイトボードを掲げ、プロではないからと代金は取らなかった。中学時代は陸上部に所属。学校ではうまくなじめなかった。いじめにも遭った。そんなときは決まって、歯ブラシとスパイクを持って教室を抜け出し、体育館の裏でひたすらスパイクを磨いていた。なぜ生きづらいのかが、分からなかった。Upload By 桑山 知之パニックを機に発達障害が判明強みを靴磨きで岐阜市内の通信制の高校に進学し、週2日学校に通った。スーパーや居酒屋、ラーメン屋など、人間関係がうまくいかずアルバイト先を転々としながら、路上で靴磨きを続けていた。高校2年のとき、パニック障害に陥ってしまう。「休み時間に(クラスメートたちが)キャッキャしているのがすごくうるさくて耐えられなくて、暴れちゃって。ガラス割ったりとか、机ぶん投げたりとか。でも分からないんですよ、自分がなぜ暴れているのか。でも体が勝手に動いちゃって。先生4人がかりで押さえられて、僕には何が起きたのか分からない、何をしていたのかあまり覚えていない」(市原さん)Upload By 桑山 知之感覚過敏で周りの音や匂いに敏感なほか、人に見られることが特に気になった。医師からADHDとASDという診断を受けた。うつ病とパニック障害も併発していた。当初は布団から出ることができないほどだったが、母親に支えてもらいながら精神科に通院。約2年かけて日常生活ができるまでに回復した。そのときも、ひたすら靴を磨いていたという。やっと分かった「生きづらさの正体」と向き合うことで、自分の道が見つかった。持ち前の集中力と記憶力が、靴磨きで活かせる。発達障害の特性が、強みに生まれ変わった瞬間だった。高校卒業後、路上で靴磨きを続けていた市原さん。2017年12月、名古屋で有名な靴磨き専門店の主人に声をかけられ、弟子入りを決意した。朝5時半に起き、8時には出勤。深夜まで修業は続いた。帰宅後も一人、寝る間も惜しんで靴と向き合い続けた。発達障害の特性が、市原さんを支えていた。「命を削ってでも磨け」。師匠から教わった言葉だ。初デートで履いた靴、結婚式で履いた靴、亡くなった夫の靴――。客が持ち寄るそれぞれの靴には、さまざまな思いが詰まっている。「半端な気持ちではできない」と、どれだけ靴に魂を込められるのかに、強くこだわりを見せる。命を削ってでも…靴磨きに懸けた人生Upload By 桑山 知之岐阜県関市に今年4月、靴磨き専門店「LEON」をオープンさせた。岐阜県内で唯一の専門店だ。汚れ落としで使うクリームはすべて、知り合いの農家から直接仕入れたハチミツやオレンジなどを調合して手作り。靴を磨くのに使うネル布は、「感覚が変わってしまうから」と学生時代の体操服の切れ端を今も使用している。障害者手帳2級。今も不安で手の震えや動悸などの症状が出ることもある。やらないと気が済まない性格から、中途半端な出来栄えでは一切眠れない。「靴を見れば、その人の性格がわかる」。その技術に魅了された全国各地のファンから郵送での依頼を受け、60足以上を磨く日もある。「発達障害があるからこそ見える世界や、できることがあるんじゃないかなと。でも、普通の親は普通に育てようとして、その個性をつぶしているんじゃないかと思うんですよ。どんどん大人になって、個性がなくなっていく。最低限の礼儀礼節以外、僕のお母さんは制御しませんでした。あえてでしょうね。止めなかった。暴れたりもしましたけど、理由を聞いて何も怒らなかった。僕を自由にさせてやりたかったんだと思います」(市原さん)Upload By 桑山 知之心も磨く職人に「僕にとって障害はギフト」完全予約制で、客と話をしながら靴を磨くスタイルのため、60分間という時間を確保。それでいて相場の半額の2000円という破格の安さだ。取材に際し、筆者もローファーを持ち込んだ。「桑山さん、サイズが合ってないですね。ゆるいんじゃないですか?」靴の使い方から性格まで、すぐに見破られてしまった。「主婦の方だったら旦那さんの悩みごととか。障害のある方は、どういう風に乗り越えてきたか聞かれたりします。完全予約制にしないとそういう風にできないんです。お客さんと会話して、お客さんの心も磨くのが靴磨きですから」(市原さん)現在、弟子を10人以上抱えている市原さん。岐阜県内の放課後等デイサービスなどで発達障害のある子どもたちにも、靴磨きを教えているという。Upload By 桑山 知之「僕にとって障害はギフトだと思っています。神様から贈られたというか、障害者って落ち込む必要はなくて。僕だってもし靴磨きと出合わなかったら、ずっとバイトを転々としていたと思います。そこに時間が掛かる人もいるかもしれないし、意外と近くにあったりする場合も多いかもしれません。例えばすごく掃除にこだわる人もいますけど、それを職業にすればいいと思うんです。私生活の一部が、僕は靴磨きだったので。何をモノにして認めてもらえるか。その中でずっと続けていたのが靴磨きだったんです。まさか職人になるとは思っていませんでしたけど……偶然ですけど、必然だったのかなって思います」(市原さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海監修:三木崇弘(児童精神科医)
2021年08月31日私には現在小学3年生の長男がいるのですが、発達障害であるADHD(注意欠陥・多動性障害)の診断が下りたのは小学校2年生のときでした。さらに3年生になった今年、自閉症スペクトラムの診断が下りたのです。私は、小学生になるまで長男の障害を見つけてあげられなかったことを後悔。乳幼児健診のとき、こうしておけばよかった! と思ったことをお話しします。 1歳半健診では育てにくさを伝えられずハイハイをし始めたころから活発な長男でしたが、1歳になるころには多動が目立ち始めていました。他の子とちょっと違うなと感じつつも、気にするほどでもないと思う中で、1歳半健診の日を迎えました。 1歳半健診の質問項目に「育てにくさを感じますか?」とあったのを見て、一瞬戸惑う私……。買い物先や支援センターでよく脱走し、かんしゃくがひどいことに悩んでいたからです。 しかし育てにくいレベルに入るのかわからず、悩みながらも「いいえ」にマルをしたのです。このとき「はい」または「わからない」にマルをしていれば、支援に繋がったのかなと思います。 3歳児健診でも育てにくさを伝えられず!その後長女が生まれ、育児に奮闘しているうちに年月が経ち、長男の3歳児健診の日を迎えました。3歳になるころにはお喋りもじょうずになり、手先も器用になってきていた長男。一方で相変わらずかんしゃくが酷く、2歳下の妹を叩いてしまうこともしばしば……。 しかし私は3歳児健診での問診票でも、「育てにくいですか」の質問に悩み、「いいえ」にマルを付けてしまったのです。さらにあらかじめ相談内容を固めていなかったため、悩みをどう伝えたらいいのかわからず健診は終了。私はまたもや悩みを伝えられないまま、健診をスルーしてしまったのです。 次男のおかげで保健師さんに相談でき…3歳児健診を過ぎると、市の乳幼児健診の場はありません。仕事が忙しくなったこともあり、日々の家事、育児をこなすだけで精一杯の私……。そして長男が小学校に入るころ、転機が訪れました。わが家に次男が生まれたのです。 育てやすい次男ですが体が小さく、4カ月健診で経過観察となってしまいました。おかげで市の保健センターから、よく電話がかかってくるようになりました。長男のかんしゃくに悩んでいた私は、すがるように保健師さんに相談することに! すぐに専門的な相談施設を紹介され、小学2年生になったころにADHDの診断が、さらに1年後に自閉症スペクトラムの診断が下りました。 長男の幼児期を振り返ると、後悔するのはやはり乳幼児健診で悩みを伝えられなかったことです。伝えるべきか迷う程度の悩みでも、困っているなら相談するべきだと思いました。今では主治医や臨床心理士さんに相談しています。次男が3歳児健診を迎えるときには事前に悩みをリストアップし、細かく相談したいと思っています。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 ベビーカレンダーでは、赤ちゃん時代を卒業して自己主張を始めた2~6歳までの子どもの力を伸ばし、親子の生活がもっと楽しくなる【キッズライフ記事】を強化配信中。今よりもっと笑顔が増えてハッピーな毎日になりますように! 監修/助産師 松田玲子イラストレーター/みいの著者:河津明香2男1女の母。旅行代理店勤務をしながらの育児を経て、フリーランスのライターへ転身。現在は発達障害の長男のサポートをおこないながら、旅行・育児・生活雑貨などの記事を中心に執筆。
2021年08月17日とにかくいろんなものの感覚が合わなくて、すぐ癇癪を起こし制御不能に陥るほぺろうくん。そのパニックの理由を考えてみたら……?「ほぺろうの正体は宇宙人なんじゃ?」と妄想し考えてみることに。「もしかして地球人の体をコントロールできていないのでは!?」だから 「やりたいことがうまくできなかっただけ」なのでは!? 考え方を変えてみたら… ほぺろうは一度癇癪を起こすと、制御不能!って感じで「自分でも何がなんだかわからない」という印象でした。 お母さんもなかなか痛い目にあわされてきましたが、制御不能だと想像すると「ほぺろうは苦労してるんだな……」っていう見方に変わってきました。 ◇◇ ◇ 大暴れする息子を見て、「つらい! 痛い! もう消えてしまいたい!」 以前はそんな絶望を抱いていたものの、こうして俯瞰で向き合えるようになり、「自分のコントロールができないんだな、大変だなぁ」と思えるようになったぼさ子さん。 捉え方が変わるだけでも、心のゆとりが違うようです。 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月31日ほぺろうくんが3歳ごろ、癇癪がひどく、ぼさ子さんは精神的に追い詰められて限界に……。しかし「大好きだよ」と思いを伝えるようにすると、寝る前の癇癪が落ち着いてきました。「適応できないことがたくさんあって、ほぺろうは大変だな……」と、ほぺろうくんの思いを想像してみることに。 息子の正体を妄想してみたら…!? とにかくいろんなものの感覚が合わなくて、すぐ癇癪を起こすほぺろう。 「そう言えば自閉症児って、宇宙人に例えられることあるよな」と思い想像してみました。 急に「ほぺろうの正体は宇宙人なんじゃ?」と妄想にふける私。 そう思うと「もしかして地球人の体をコントロールできていないのでは!?」という気になってきました。(あくまでもぼさ子の妄想です) 「やりたいことがうまくできなかっただけ」かどうかは定かじゃないけれど、お母さんへの攻撃は「怒り表現」のときもあっただろうし「甘えたいけどうまくできなかった」ときもあったのかもしれない。 ほぺろうは焦っていたのかなって。 ◇◇ ◇ 「体をコントロールできない理由」について考えていると、不意に目つぶしされたことも、突然頭突きされたことも、髪の毛を引きちぎられたことも、なんだか納得いくような気がする……?! 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月30日自閉症と中度知的障害を持つ2015年生まれのほぺろうくんママのぼさ子さん。ほぺろうくんが3歳ごろ、癇癪がひどすぎて精神的に追い詰められて限界に……。しかし突然「ほぺろうは、私の表情に苦しんでいたんじゃ?」と思いつき、「ほぺろう!大好きだよー!」と思い切り抱きしめたところ、いつも寝るときに大暴れするほぺろうくんがスッと落ち着き、安心したように眠りに落ちたのでした。 その日以来、毎晩「大好き」「かわいい」「ほぺろうがいてママは幸せだよ」と愛情たっぷりの言葉を伝えるように。すると……?! 息子に起きた変化とは? 「ほぺろうが笑ってくれたのいつぶりだろう」。今思い出しても、胸がギュッとなります。 当時、日中はまだ癇癪があったものの、イチャイチャするようになってからは、少しずつほぺろうの情緒が安定してきたような気がします。(たまたま成長と重なっただけかもだけど) ◇◇ ◇「大好き」という思いを口に出して伝えることに、最初は慣れなかったというぼさ子さん。でも、毎晩続けると、ほぺろうくんも「ぼくも!」と喜んでくれるようになり、思い切りイチャイチャするように! 寝る前の癇癪が、イチャイチャタイムにより落ち着き、「やっぱりこれまで不安だったのかな」という罪悪感を抱きつつ、ほぺろうくんの笑顔のためにこれからも向き合っていくことを心に決めるのでした。 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月29日自閉症と中度知的障害を持つ2015年生まれのほぺろうくんのママ、ぼさ子さん。ほぺろうくんが3歳ごろ、保育園に入園できたものの癇癪がひどすぎて精神的に追い詰められて限界に……。しかし突然「もしかして、ほぺろうは、ずっと前から私の表情に苦しんでいたんじゃ?」と思いつき、「ほぺろう! 大好きだよー!」と思い切り抱きしめました。 いつも寝るときに大暴れするほぺろうくんですが、このとき、ぼさ子さんがぎゅっと抱きしめると? 「気づかなくてごめんね…」 ほぺろうは言葉もなく、考えていることもよくわからない子だったので 「お母さんのことなんて何とも思ってないんだろうな」 と勝手に決めつけていたのですが、そんなことはなかったのかも……。 この当時のこと思い出すと、本当「うわぁあああーーっ」ってなる。 ほぺろうはずっとお母さんが寄り添ってくれるのを待っていたのかと思うと、私、大罪すぎるー(泣)!!! ◇◇◇ いつも寝るときに大暴れするほぺろうくんですが、このとき、ぼさ子さんがぎゅっと抱きしめると、癇癪がスッと落ち着き、安心したように眠りに落ちたのでした。 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月28日ほぺろうくんが3歳ごろ、保育園に入園できたものの癇癪がひどすぎて精神的に追い詰められ、限界だったというぼさ子さん。「私、泣いて暴れる制御のきかない息子を、冷たい視線で見ていた気がする……!」 その視線や表情に苦しんで、暴れているのかも? そう気づいたぼさ子さんは……。 気づいてしまった「大切なこと」とは? こんなダメ母でも、ほぺろうにとって母親である私は大きい存在だっていう自覚が足りなかった。 大人の私だって、不安だったときに夫に否定されて情緒が奈落の底だったことがあった。 ほぺろうは自閉症の特性でコントロールが利かない不安がある上に、私に否定されたら……。 なんかもう、想像するだけで申し訳なさすぎて胸が張り裂けそうになる……。◇◇◇ 「もしかして、ほぺろうは、ずっと前から私の表情に苦しんでいたんじゃ?」 泣いて暴れる制御のきかない息子を、冷たい視線で見ていた気がする……。その視線や表情に苦しんで、暴れているのかも……?! そう気づいたぼさ子さん。ある行動に出ると、驚きの反応が! 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月27日ほぺろうくんの癇癪がひどかった3歳ごろ、あるとき突然気づいてしまったこととは?障害児を子育てするなかで気づいたこと、心境の変化を綴る「障害のある息子からの学び」を短期連載でご紹介します。ほぺろうくんが2、3歳のころ、癇癪がひどすぎて精神的に追い詰められて限界だったという、ぼさ子さん。 しかし、ひょんなことからの気づきによって、今は母子ともに笑って過ごせる時間が増えたそう。その心境の変化とは? 繰り返される癇癪に、気分は落ち込み… 保育園に入園できたものの、この頃はまだ癇癪がひどかったほぺろう。 でも、パートに行き始めて、ほぺろうと離れる時間を作れたおかげで母(私)のほうが少しずつ変わっていけた気がします。 ◇◇◇ 「なにこの癇癪……」「感覚過敏のせい? 眠いのが理解できないせい?」 暴れながら泣き叫ぶほぺろうくんの癇癪をみて、うんざりしてしまったママ。 しかしその瞬間、気づいてしまった「大切なこと」とは一体? 監修/助産師 REIKO 著者:マンガ家・イラストレーター ぼさ子自閉症と中度知的障害を持つ、2015年生まれの息子を育児をしています。いまだに発語はありませんが、母目線でその成長記録を綴っています。
2021年07月26日障害のある作家たちの異彩を発信する展覧会「HERALBONY GALLERY in Tokyo -3rd Anniversary Art Exhibition- 」7月19日(月)から渋谷で期間限定開催!Upload By 発達ナビニュース障害のある作家たちの異彩を発信する展覧会「HERALBONY GALLERY in Tokyo -3rd Anniversary Art Exhibition- 」が2021年7月19日(月)~25日(日)の期間、渋谷スペイン坂の多目的スペース「no-ma」にて開催されます。主催のヘラルボニーは、福祉実験ユニット。障害という言葉の裏にある先入観やこれまでの常識を超え、福祉を起点に新たな文化を作り出し続けています。7月24日に設立3周年を迎えることを記念し、今回の展覧会を開催。展示では三重県にある障害のあるアーティストの支援等をする、特定非営利活動法人 希望の園に所属する作家、森啓輔の原画作品展示、ヘラルボニーの取り組みと活動の展示、ヘラルボニーが手掛けるアートライフブランド「HERALBONY」の出店があります。入場は無料。※7月22日~15:00、23日~14:00、7月24日~14:00は、チケット購入に限り来場可能アーティストが放つ「異彩」との出会いがここにある。3周年記念イベントとして、チケット制の有料イベントも開催します。2021年7月22日(木)、23日(金)はスペシャルイベントとして、常設展示のほか、ヘラルボニー代表や特定非営利活動法人 希望の園理事長のあいさつ、コンテンポラリーダンサーによるダンスパフォーマンスなどがあります。設立3周年、当日となる7月24日(土)にはヘラルボニーの「異彩」との出会いとこれまでの3年間、そして今後の展望をテーマに、創業メンバーによるトークイベントを開催します。(尚、緊急事態宣言発出に伴い、イベントの縮小及び一部内容を変更があります。詳しくは、公式ページからご確認ください。)【作品募集のお知らせ】「2021パラアートTOKYO」第8回国際交流展、受付は8月14日(土)までUpload By 発達ナビニュース「パラアート TOKYO」は、世界中から障害のある人による芸術作品を集めて、公益財団法人 日本チャリティ協会が開催する国際交流展。「才能は障がいを超え、国境を越える 」というスローガンのもと、障害のある人の芸術作品(パラアート)の感性、才能価値を世界へ発信しています。「2021パラアートTOKYO」第8回国際交流展の開催が決定し、作品を募集しています。期間は2021年8月14日(土)まで。世界にひとつしかない作品を応募してみませんか。【募集対象】国内外を問わず、障害のある方が制作した平面(書・絵画等)作品。子どもの部:10歳~17歳 / 大人の部:18歳以上【受付】2021年8月14日(土)まで Eメールinfo@paraart.jpまたは郵送【お問合せ先】(公財)日本チャリティ協会「2021 パラアートTOKYO」実行委員会事務局住所:〒160-0004 東京都新宿区四谷 1-19 アーバン四谷 4 階TEL :03-3341-0803FAX :03-3359-7964E-mail: info@paraart.jp昨年開催した「2020 パラアートTOKYO」の全ての作品は、オンラインギャラリーで観ることができます。こちらもぜひご覧ください。発達障害のある人の困りごとにやさしく寄り添う「mahora」ノートが第30回日本文具大賞のデザイン部門、優秀賞を受賞!Upload By 発達ナビニュース「mahora」ノートは、発達障害がある100人の声を聞き、大栗紙工株式会社が一般社団法人UnBalance(アンバランス)と共に開発したノートです。お子さんがノートを使っているとき、なんだか書きにくそうだなと感じることはありませんか?視覚が敏感な場合、白い紙からの反射がまぶしく感じることがあります。特性によっては、罫線が見分けにくいために気づいたら書いている行がかわってしまっていたりすることも…。このような発達障害のある人たちが日ごろノートを使うときに感じているさまざまな困りごとの声から、「mahora」ノートは「光の反射を抑えたやさしい色の中紙」「見分けやすいオリジナルの罫線」「シンプルなデザイン」を採用。老舗ノートメーカーならではの高い技術により丈夫で書き心地よく、目にやさしいノートがうまれました。その機能とデザインで、「みんなが使いやすいノート」として、第30回日本文具大賞でデザイン部門優秀賞を受賞。既存のノートがなんだか使いにくいなと感じているすべての人におすすめのノートです。「書きにくい」が「心地いい」に。カラーとサイズ、全24種類から選べる「mahora」ノートは、以下WEBサイトから購入することができます。京都障害児教育研究センターによる夏季研究集会、8月1日(土)オンラインで開催。特別支援学校や特別支援学級の実践報告、ゲスト講師による講演から障害児教育について考えよう。Upload By 発達ナビニュース京都障害児教育研究センター(障教研センター)が8月1日(土) 10:00~15:40にオンライン学習会を開催します。内容は、実践報告とゲスト講師による講演。特別支援学校、特別支援学級の実践報告では、教育現場で大切にしたいことを考えます。講演で講師をつとめるのは、自閉症児の授業づくりについて研究、各地で講演をする三木裕和さんと、「書く」ことと子どもの育ちについて研究する川地亜弥子さん。発達の視点から子どもをみることを学ぶ講演です。支援者向けの内容ですが、どなたでも参加できるオンライン学習会です。〈詳細〉【日時・場所】2021年8月1日(日)10:00~15:40(途中入場・途中退場可)オンライン(Zoomを用いて行います)【対象】どなたでもご参加ください【講師】三木裕和さん(元鳥取大学地域学部)川地亜弥子さん(神戸大学大学院人間発達環境学研究科)【料金】1,000円(税込)【お問い合わせ先】mail : sho-ken@kyoto-fuko.comtel: 075-751-1645京都府教育会館障教研センター事務局LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年07月18日障害者手帳は3種類Upload By 立石美津子発達障害者手帳、これがあったらどんなにいいかと思いますが、残念ながら存在しません。障害があることを証明する手帳は次の3つのみです。・身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳つまり、知的障害を伴わない、あるいは軽度の発達障害の人のための “発達障害者手帳”というものは存在しないのです。発達障害がある場合、精神障害者保健福祉手帳の対象として分類されています。厚労省精神障害者保健福祉手帳の障害等級の判定基準について障害者手帳があると就活でも活用できる従業員が一定数以上の規模の事業主は、従業員に占める身体障害者・知的障害者・精神障害者の割合を「法定雇用率」以上にする義務があります。(障害者雇用促進法43条第1項)民間企業の法定雇用率は2.3%です。従業員を43.5人以上雇用している事業主は、障害者を1人以上雇用する必要があります。一般枠で企業就労するのが難しい場合、障害者雇用枠で就労することができますが、その際に障害があることを証明する手帳が必須となります。しかし…・視覚障害、聴覚障害、上肢下肢の欠損、体幹障害による歩行困難など身体障害がなければ、身体障害者手帳の対象とはなりません。・(自治体によって異なりますが)東京都の場合、知能指数が76以上だったら療育手帳の対象とはなりません。愛の手帳について | 東京都保健福祉局精神障害があると認めたくない保護者もいる一定の知能指数のため療育手帳対象に該当しない、身体障害もないため身体障害者手帳の該当にならないとなると…残るのは“精神障害者保健福祉手帳”となります。すると、「うちの子は発達障害。精神障害ではない!」と憤る親御さんを見かけたことがあります。これに対して私は心の中で「いやいや、そうじゃないのよ。知的障害のない発達障害児が、障害者雇用促進法のもと、法定雇用率でカウントされて企業就労するには、なんらかの障害者手帳が必要。今の制度上では、知的障害のない発達障害児は精神障害者保健福祉手帳が必要となるのに」と呟きました。知的障害がなくても療育手帳の対象になる地域も発達障害のある人は知的障害がなくても、社会生活を送るにあたって多くの困難を伴います。社会生活での困難と言う面では、知的障害、精神障害、身体障害がある人と同じだと言えます。そのため、知能指数が療育手帳の範疇以上の人に対しても、療育手帳を発行している自治体もあるようです。全国的にこれが広まればよいと感じます。Upload By 立石美津子自己申告制日本の福祉は自己申告制です。親がわが子の障害に気づいて積極的に動くことで取得できます。精神障害者保健福祉手帳について紹介しましたが、こちらが取得できない場合もあると思います。たとえ障害者手帳の対象とならなかったとしても、障害福祉サービス受給者証をとって、福祉とつながっている人だということを示す方法もあります。「精神障害者保健福祉手帳が必要?わが子には精神障害はないのに!」と憤るのではなく、福祉サービス、制度を活用することで、わが子の将来の選択肢を広げられるかもしれません。精神障害者保健福祉手帳で雇用枠での就労を目指したり、受給者証で福祉サービスを活用したり、支援者につながる機会を増やすことが、わが子を守ることにつながるのではないかと思います。
2021年07月01日「頑張れ、フツウになれ」死を考えていた学生時代Upload By 桑山 知之2019年5月、ドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』の取材で、筆者は初めて神山さんと出会った。「学校の先生が文字読めないなんて、悟られたくない。悟られちゃいけない」「どうやって死のう、ばっかり考えてましたね。『頑張れ頑張れ、フツウになれフツウになれ』って言われ続けると、そういうふうにならざるを得ない」彼は、文字が読めない教師。にこやかな表情とは裏腹に、これまで経験してきた生きづらさが言葉の節々からにじみ出ていた。岐阜市で生まれ育った、すぐに熱を出してしまう、体の弱い男の子。自分は文字が読めないと知ったのは、小学2年の道徳の授業だった。B4見開きのプリントの文章を読み、感想を書くという課題で、一時間経って読めたのはわずか3~4行だけだった。「ぼくはみんなと違う」――。それからは、どう叱られずに一日を過ごすかが神山少年の課題となった。教科書が丸々覚えられるようにと、3歳上の姉が音読してオープンリールのテープに吹き込んでくれ、擦り切れるまで聴いて授業に臨んだこともあった。それも小学校高学年になると、文量が増えて立ち行かなくなってしまう。Upload By 桑山 知之「先生たちにも『あいつはどうしようもないやつだ』って言われて。『学校に来る価値のない人間』とか『教室に入るな』とか、そういった言葉は日常茶飯事で。先生がそういう風にみんなの前で叱って、つるし上げたりすると、クラスの雰囲気もそうなって、いじめられました。みんなにバカにされていました」(神山さん)神山さんの母親は、端的に言えば世間体を気にしていたという。学校で何かがあると自宅に電話が入り、家に帰れば「あんたなんか産まなきゃよかった」「あんたのせいで近所も歩けない」と罵られた。中学、高校も含めて学生時代は「どうやって死のうか」とずっと考えていた神山さん。紆余曲折を経て選んだ道は、陸上自衛隊。活字とは縁遠い職業だった。つらい思いは自分で最後に…決断、そして教師へUpload By 桑山 知之18歳の神山青年は、2等陸士として京都・宇治市にある駐屯地にいた。誰も自分のことを知らないところへ行って、人生を再出発させる。体力に自信がある神山さんにとって、文字を使わないこの仕事はまさに天職だった。2年ほど過ごし、自衛隊の中で成人式をやってくれることになった。「上官が『今までの20年間をしっかりと振り返って、今後どう生きていくか人生設計を立てなさい』と話をしてくれて、考える時間もくださって。そこで、自分のようにあんなにつらい思いをするのは自分で最後にしよう、そういう教育者になりたいな、自分がそういう教育を変えていけるようにしたいなと思ったんです」(神山さん)Upload By 桑山 知之すぐに上官と相談して、夜間の短大に通い始めた。朝6時に起きて夕方まで訓練をやったあと、大学に行き、帰ってくるのはいつも23~24時だった。それでも、「同じ苦しみを抱えている子たちを放っておけない」という一心で頑張れた。そして23歳の頃、教員採用試験に合格した。しかし、教え子に対しては、なかなか自分の苦手さを伝えられずにいたという。「教科書は前日に丸暗記して、読んでいるフリをしていました。技術科の教師だったので、技術科の教科書と、自分が担任するクラスの道徳の授業ですね。行頭の文字とかキーワードだけで、そのあとの文章が出るように覚えたり。丸々暗記しようと思うと大変ですけど、段落の頭でその段落が思い出せるように、ブロックで覚えるのを毎授業やってました」(神山さん)27歳で知った自分はディスレクシアUpload By 桑山 知之自己の学習障害を隠したまま、神山さんは通常学級を6年間受け持った。そんなとき、NHKのとある番組でアメリカの小学校のことが報じられていた。それがディスレクシア(識字障害)だった。「そこではディスレクシアとかいう言葉は使われていなかったですね。読み障害とかそういう感じ。でもアメリカは移民の国なので、そういう子たちのプログラムで教育は保障できるっていう。その子たちの特性はこうです、というもの全部が自分に当てはまるから、本当に驚きました」(神山さん)その後、神山先生は特別支援学級を受け持つようになる。テレビでディスレクシアを知って「自分の中でつっかえていたものが取れた」ため、自分の苦手なこともすべてオープンに話した。劣等感を抱えている子どもたちの心に寄り添うことができた。Upload By 桑山 知之特別支援学級を5年間受け持ったあと、特別支援学校で17年間にわたり勤務。そして、主幹教諭という立場で3年間、岐阜市内の小中高などを回っていろんなアドバイスや支援をおこなった。いつしか神山さんの存在は全国各地で知られるようになり、講演依頼が絶えないほどになった。現在は、岐阜市内の小学校の用務員をやりながら、子どもたちや保護者らの相談を受けている。「日本の教育って無意識に人との比較をしてしまっているんですよね。人との比較で自分を評価することを学んでしまっているんです。それよりも、過去の自分と比べる方が自然かなって。もっと言えば、『あなたはそのままでいいんだよ』ではなくて、『あなたはあなただからいいんだよ』って僕は言いたいです」(神山さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年06月23日発達障害を持つ3歳の息子さんと病院へ向かうため、初めて2人での電車移動を試みたママ。いざ駅のホームにつくと、想定外のハプニングが次々と起こり、振り回されてしまった体験談です。 現在10歳で発達障害を持つ息子が3歳のころの話です。息子の検査のため、電車で病院へ行くことに。初めて2人で電車に乗るため、私もやや緊張気味でした。そんな中、電車を見た息子がすごい勢いで顔を上げ、予想外の行動に出たのです! 慌てて追いかけた私にもまさかのハプニングが次々と起こって……。 ※息子の言動はすべての発達障害の方に当てはまるものではありません。あくまでも、“息子個人”の特徴です。 初めての電車移動でいきなりハプニング!?発達障害を持つ当時3歳の息子と電車で病院へ向かうために、最寄り駅へ行ったときのこと。ホームに入ると、息子は耳を塞ぎ、しゃがみ込んでしまいました。息子は自閉症と知的障害があり、さらに視覚と聴覚が過敏なタイプの子です。普段聞かない、スピーカーを通しての駅員のアナウンスや初めて見るホームの風景は、息子の視覚と聴覚を刺激。今までに感じたことがない情報が波のように押し寄せ処理しきれず、パニック状態になってしまったのです。 耳を塞ぎ、しゃがみ込んでいる息子を見て、私は乗車をあきらめることに。「ごめんね。つらかったね。タクシーに乗ろう」と、息子の腕を軽く持ち上げたそのとき、「3番線に電車が到着します~」とアナウンスが流れました。 すると、電車がホームに入ってくるや否や、息子は突如顔を上げ立ち上がりました。かと思うと、電車の扉が開くと同時に軽やかなツーステップでそのまま乗車フィニッシュ! 顔を上げてからフィニッシュまで私の体感で3秒。息子はあっというまに電車内に姿を消しました。 あまりに突然のことで、電車内に消えた息子を呆然と見ていた私……。「扉閉まりまーす」のアナウンスを聞いてようやく「やばい! 息子を止めねば!」とダッシュし、扉が閉まるギリギリで乗車。「セーフ!」と安堵したのも束の間、なぜか前に進めない……!? なんと、電車の扉にガッチリ背中の服を挟まれていたのです。 自分の意思とは関係なく、ピーンと背筋が伸び、首を動かしても、手を動かしても首が締まる。動きを封じられたこの姿は、もはや拷問でした……。突如始まった拷問と闘いながら、首をなるべく動かさないように、息子を目だけで追いました。 身動きがとれない! 乗客の視線がつらい…電車内は座席にポツポツと数人が座っている程度で、立っているのは強制的に立たされている私ひとり。息子は、それほど混んでいない電車内をウロついています。そして息子流の“確認作業”が始まりました。ウロつきながら周囲の情報を集め、安心エリアと認定されれば作業終了となります。 「きゃあぁ!!」と声をあげ、手を叩きながらウロつき、ピョンピョンと小刻みにジャンプを始めた息子。「まずい、興奮し始めた」。息子は乗り物が大好きです。遊園地でも必ず汽車系の乗り物には、何度も乗りたがります。そんな息子の目の前に、本物の電車が現れれば興奮しないわけがありません。しかし障害があるとはいえ、公共の場で、これらの行動を放置しては迷惑になってしまう……。息子の行動を止めたいけれど、私自身の身動きが取れずにっちもさっちもいきません。今なら昆虫標本にされた虫たちの気持ちが痛いほどわかる、と思いました。 「ああ、こんなことになるなら最初からタクシーに乗ればよかった……。息子の社会勉強にもなるかと思ったのが甘かった」と、後悔が頭の中で何度も巡り続けました。乗客全員が、騒ぐ息子に冷たい視線を向けているように感じ、しかも息子を止められない理由が、己のマヌケな失態だと周囲にバレたくないので余計に焦りました。 「◯◯、こっちきて!」と何度か声かけをしていると「何で母親が動いて止めないのか?」と言いたげに、周囲がチラチラと私を見始めています。標本スタイルの拷問がバレないよう、足をクロスしたり、自然に振る舞っているつもりでしたが、扉の前で同じ体勢でずっと立っている人に、周囲が違和感を抱かないわけがありません。 息子を止めに行きたいのに、挟まれて動けない……。だからといって周りの人にこの状況を伝えるわけにもいかない……。そんなことを思いながら、心拍数を上げていると、息子が確認作業を終え、やっと私の元に戻ってきました。 抱っこを求められ、さらにピンチ!安心したのも束の間、息子は私の顔を見上げ、両手を上げて「あーおー」と言いました。「抱っこ」の要求です。「何で今やねん!?」と心の中で泣きツッコミ……。 表面上は「次で降りるからあとでね」とやさしく声かけをしていたが本音は違いました。「もうすぐ降りるから、先ほどの息子の行動を大目に見てほしい」と周囲へのアピールも兼ねていました。そんな私の気持ちも知らず、息子はなかなか抱っこしない私にイラつき始めました。シャツをグイグイ引っ張りながら、「あーおーあーおー!」と要求が強くなっていき、同時に私の首も精神的にもきつくなります。さらに周囲の視線も痛い。そんな闘いの最中、「まもなく○○駅に到着しま~す」と神の声が聞こえました。 「これで拷問から解放される!」。息子の手をぎゅっと握り、拷問からの解放を待ちわびていました。「次、降りるからねー」と息子に笑顔を向けつつ、周囲へのアピールも忘れません。電車がスピードをゆっくり落としながら、ガッ…タンと止まり、次の瞬間、私の目の前の扉が開きました。そう、逆の扉が開いたのです。まだ扉の拷問から、解放が許されませんでした。電車内の空気が「この人やっぱり……」という一体感に包まれました。 「扉閉まりまーす」と容赦なく扉が閉められました。目的地を過ぎ、もうどこに向かっているかもわかりません。電車内は変に静まりかえっています。次の駅まで2・3分の距離ですが、やたらと長く感じ、みっともなさ過ぎて一刻も早くこの場から消えたいと思いました。息子の抱っこ攻撃を「電車から降りたら抱っこするね」と誤魔化し対応をしている間に、次の駅に到着しました。 さらなる試練、そして衝撃の結末へ…ようやく拷問から解放された私は、焦る気持ちから「◯◯、降りるよ!」と勢いよく息子の手を引いてしまい、転ばせてしまいました。火が付いたように電車内で「ぎゃあぁ!」と泣き叫ぶ息子。「◯◯ごめん!」と謝りながら体を抱え、何とかホームに降りましたが、安堵はできませんでした。ホームで、とれたてのかつおのようにビチビチと泣き暴れる息子を何とか抱っこしながら時計を見ると、病院の予約時間の30分前。 「タクシーに乗ったらギリ間に合うか!?」と泣き暴れる息子をさらに強く抱き、タクシー乗り場に向かう際、ある異変に気づきました。「息子の靴が片方ない」。ベンチの下や、足もとを探しても見当たりません。「さっき電車内で転んだときに脱げてしまったのか!?」。拷問から解放されても終わらない試練に打ちのめされ、もう靴を探す気力も、病院へ行く気力も失ってしまいました。 息子が少し落ち着いたところで、病院へキャンセルの電話を入れました。ところが、受付の方が「少々お待ちください」と言ったまま、なかなか電話に出てくれません。その後、受付の方から衝撃の言葉が発せられました。 「◯◯くんの検査、先月になっておりますが……」。これまでの長い試練の時間は、この衝撃的なオチの前振りだったのかと、さらに衝撃を受けたのでした。 闘う必要のない場に勝手に飛び込み、ひとりで勝手に闘って、ひとりで勝手に負ける。そんな私の無駄な闘いに巻き込まれた息子が、気の毒でなりませんでした。電車の扉は、何か異物を挟むと自動的に開くと思っていたのですが、それも私の勝手な思い込みだったようです。この出来事以降、電車に乗るときは、扉に背を向けず、目をカッと見開き、扉をガン見しながら決して油断せずに乗車しています。 息子は療育手帳を取得。タクシー料金が割引になるため、必要に応じてタクシーも利用するようにしています。また、病院のすすめでイヤーマフ(見た目はヘッドホンに見えます)を購入。10歳になった今でもイヤーマフを愛用していて、電車内で騒ぐことなく、車窓から見える看板の文字を読んだり、電車レジャーを楽しんでいます。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 監修/助産師REIKOイラストレーター/Michika著者:猿 祭14歳娘と10歳息子の母。3月まで保育士として勤務。うつ病で休職中の旦那と受験生の娘、発達障がいを持つ息子を抱えながら無職に。これまでの子育てや、日々のあれこれを執筆中。
2021年06月15日「できるけど疲れる」ことがたくさんある筆者が吉川先生を知ったのは、2018年11月にNHK総合で放送された『発達障害って何だろうスペシャル』だった。千原ジュニアさんや南沢奈央さんらをMCに据え、スタジオには小島慶子さんのほか、筆者がテレビ取材もさせていただいた“トリプル発達障害”の漫画家・沖田×華さんも出演。そこでの吉川先生の発言に、思わず膝を打った。「発達障害のある方に関して『何かができるかできないか』っていうことだけで見ると、見誤るんですね。『できる』と『できない』の間に『できるけど疲れる』ことがたくさんある」(吉川先生番組内で)誤解を恐れずに言えば、吉川先生はちょっと異質的な存在だ。元々教員になりたかったが、学校教員の文化が自分に合わないことに高校時代に気づき、子どもの精神科医という道を選んだ。大学教員などを経て「自分は研究者向きではない」と感じたといい、現在では多くの発達障害当事者や養育者に支持されている。Upload By 桑山 知之「“正確さを犠牲にした分かりやすさ”っていうのを意識しているんです。専門の研究者って、正確さを大事にしなきゃいけない立場ですよね。正確さを犠牲にできないじゃないですか。でも僕は研究者ではないから、『誤解を招きかねないけど分かりやすい』ということがいくらか許される立場なんです。研究者になってしまうとできない表現や書き方ができるというのが、研究者ではない医者の特権かなと」(吉川先生)確かに、前述の「できるけど疲れる」ことがたくさんあるというのは、それに当てはまらないケースがあるのも事実だ。しかしながら、発達障害の苦しみを理解するうえでは非常に分かりやすい表現だといえる。福祉や法律といったあらゆる領域をまたいでいるからこその見識の深さを、自身は「ひとつの領域を突き詰めるというのがあんまりできなくて……」と謙遜する。Upload By 桑山 知之この子、発達障害かも?まずは「人手集め」から我が子にADHDや自閉症スペクトラム障害のような特性がみられた場合、多くの養育者はまず子どものことを理解しようと、発達障害の知識を蓄えることからスタートしてしまいがちだ。しかし、吉川先生によれば、まず「人手をできる限りたくさん集める」ことが入口として一番“無難”だという。「人手が足りないときに知識だけ集めたり、トレーニングだけ受けたりすると、わりとややこしいことになるんですよね。例えばこの子に何か新しいことを好きになってもらおうとすると、ちょっと演出しないと難しいよって。お母さんが歯磨きをしたあとに、すぐに僕もやる!ってなる子は歯磨きを覚えさせるのも難しくないんだけど、真似っこしたい気持ちが弱い子に対しては歯磨きって楽しいんだよっていうか、何かひと手間ふた手間かけないと歯磨きが好きにならないし、できるようにならないかもしれない。だから今、この子の子育てで何かを好きにさせるためにもできるようになるためにも、もっと言うと虫歯にさせたり怪我をさせたりしないためにも、余分に人手が要りますよねっていうところを共通認識にしていくことが入口なんですよね」(吉川先生)Upload By 桑山 知之あくまで順序としては人手、すなわちマンパワーを集めることが最優先事項。それがひと段落したあと、知識や技術を身につけていく。そのためにも、家族以外からサポートを受けることが精神的な支えになるそうだ。一般的には母親が先に気づいて父親はあとからついてくることが多いが、夫婦間だけでなく祖父母世代との間でも「足並みが揃うまでに時間がかかる」ことは多い。「早い時期に関わる支援者はつい子どもの特性とか子どもに対する関わり方をどんどん伝えたくなるんですけど、それよりも先にどうやってお父さんと足並みを揃えるのか、おじいちゃんおばあちゃんへの説明をどうしようか、っていう相談に応じていただいたほうがいいと思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之「できたら褒める」は要注意「挑戦したら褒める」にシフトをドキュメンタリーCM『見えない障害と生きる。』を放送したのは2019年5月。発達障害は、ここ5年ほどの間に急速な認知が広がったように筆者は感じている。こうした中、人手を含めたリソースの供給などが追いついていないと吉川先生は話す。「社会の認め方もそうですけど、当事者やその身近な方の認め方も確実に変わってきているというのは、確実にそうですね。ただ、変わってきているのも、いいところも悪いところも両方あるかなって思っています。必要な方が援助にたどり着きやすくなったってことはあると思うんですが、急速に知識だけが広がってきたので、支援のためのリソースがまだ充分足りていない。文化の変化というか、そういう人たちがたくさんいるんだっていうのを含んだ“文化の成熟”っていうのも遅れているんじゃないかなと」(吉川先生)Upload By 桑山 知之吉川先生は、発達障害の有無にかかわらず子育てをする中でつい陥りがちなことがあると指摘する。それは、「できたら褒める」ということだ。「できたら褒められるっていうのを子どもが学びすぎると、大人が好きなのは完成と達成と勝利だけと思ってしまうんですよね。そうすると、どうせ達成できないから僕はやらない!ということになってしまう。発達障害のあるお子さんの中には、難しそうな課題は手を出さなくなる子が一定の割合でいるんです。どちらかというと、『挑戦したら褒める』作戦でいく方が、子どもを育てやすくなると思います」(吉川先生)Upload By 桑山 知之完成と達成にフォーカスするよりも、何かに取り掛かり始めたところで応援することに軸足を置いた方が育てやすいという。特に、きょうだいの中に発達障害と定型発達の子がいたり、知的障害のある子がいる場合、完成と達成を評価してしまうと他方への褒め方が見つからなくなる。それよりも、挑戦に対して「ナイストライ」「いいチャレンジだったね」と声を掛ける方が“辻褄が合いやすい”と吉川先生は話している。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海
2021年05月17日みんなが楽器の演奏を楽しんでいるときに息子は…!?Upload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。みなさん、こんにちは。今回はADHDと広汎性発達障害がある息子、リュウ太が保育園に通っていたときの困りごとをお届けします!5歳のとき、リュウ太は園生活の中で一番気持ちが荒れていた時期でした。リュウ太は大勢の中に混ざって生活することが嫌いではないのですが、周りに合わせて行動することができませんでした。みんなが先生の伴奏に合わせて楽器の演奏を楽しむ時間も、床に寝そべって自由に一人遊びをします。自分がやりたいことが最優先でムリに周りに合わせるとイライラしてしまう特性があるため、先生はリュウ太の特性を理解していてか演奏に参加させず好きにさせてくれていました。Upload By かなしろにゃんこ。このように一人で遊んでいるときは穏やかに落ち着いて過ごせるのですが、周りの子に自分の遊びを干渉されることがとても苦手で、遊んでいる最中に話しかけられたりするとイライラしてしまったり、しつこくちょっかいを出されるとパニックになってオモチャを投げてしまったりすることもありました。Upload By かなしろにゃんこ。息子が自分の気持ちを人に話せるようになった小学校高学年のときに、保育園時代の話をしたことがあります。「ボクに話しかけたり遊びの邪魔をしたりしないでくれたら、お母さんがお迎えに来る時間までなんとか頑張って教室にいられるけれど、たまにどうしようもなく教室にいたくないときがあった。そんなとき、先生が特別に廊下に出てもいいよと言ってくれた。廊下にいると楽だった」とリュウ太は話してくれました。保育園では教室から出てはいけない決まりでしたが、リュウ太は教室にずっといると周りの子とどうしても争いが生じてしまい、先生に何度も注意されても勝手に廊下に出てしまうことがありました。そんな息子に先生がつくってくれたのは…Upload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。そんな先生が根負けしてか?「ここがリュウ太くんの場所です」と仕方なくお昼寝布団が積んである廊下の半畳ほどの場所を、特別にカームダウンスペースとしてつくってくれたのでした。リュウ太は周りの子たちから逃げてきたときに、一人で過ごす時間と場所ができて楽だったようです。私も先生がリュウ太を他の子と引き離して過ごさせてくれたことでホッとしました。保育園に通っている期間は、周りの子とケンカしたらどうしよう、パニックになってオモチャを投げて誰かをケガさせたらどうしよう…と毎日ドキドキしていましたからリュウ太が一人で落ち着いて過ごせる場所をつくっていただけたことは感謝でした!悩んでいた私を励ましてくれた園長先生の言葉Upload By かなしろにゃんこ。その他にもリュウ太がイライラしたときに、気分転換できるようにたまに職員室にいさせてもらうこともありました。園長先生や事務の先生と話したりして(女の人が大好きなリュウ太のことだから多分べったり甘えていたに違いないと思います)かわいがってもらっていました。担任の先生は常に忙しそうでしたので相談がしにくかったのですが、迎えに行ったときにリュウ太が園長先生にかまってもらっているときは園長先生とお話しができました。園長先生は「リュウ太くんは今はとても手がかかる子かもしれないけれど、何をしたいのか主張がハッキリしているから分かりやすくていいのよ。自分の欲求をきちんと伝えられなくて思春期に急にキレてしまう子もいるけれど、イライラしたりする主張ができることは悪いことじゃないんですよ」と教えてくれました。Upload By かなしろにゃんこ。リュウ太と周りの子の度重なるイザコザで通園に疲れ、「保育園やめようかな…」と落ち込んでいたときだったのでこの園長先生の言葉にはとても励まされました。集団生活の中で周りと歩調を合わさず、先生の指示にイヤ!とハッキリ言ったり、自分は今コレをやりたいと勝手に一人で遊んだりする息子のことを私は『協調性がなくて困る』と感じ、『子どもの主張=わがまま』だとしか思っていませんでした。しかし、『主張=自分らしさの表現』こういう見方もあるんだと教えてもらったのでした。この自分らしさの表現は、成長や自立に欠かせないエネルギー。生涯にわたって他者と交流する際に必要な力であると気がついたのはそれから更に数年後になるのですが、大切なことなんですね♡その後もたびたび園長先生に「卒園まで頑張って通いましょうね」と引っぱってもらって通園を続けることができたのでした。リュウ太の主張を受け入れ、カームダウンスペースをつくってくれた担任の先生の配慮にも感謝感謝でございます。
2021年04月27日いじめで引きこもりに…「半分死んでいた」飲食関係の会社で働く父親と、元保育士の母親のもとで育った古橋さん。6歳上の姉とともに暮らしていた。中学1年の10月ごろから不登校になった。原因は、小学生時代から続いたいじめだった。「人がもうダメになって。小学校6年の終わりにいじめが始まったんです。小学校の人たちと縁が切れて、中学校に入ったら中学校で縁ができた人たちにもいじめられて……。あぁ、ちょっと無理、ってなって。自分の中で、引きこもりになるってことはすごくいけないことをしたっていう、人を殺すよりもいけないことをしたって考えていました。当時は、信号の赤を渡ったら地獄に落ちるぐらいの勢いで凹んでいたから。だからもう引きこもりになるってことは死ぬっていうか、半分死んでいるみたいな。生きてはいるけど。なんか死んではいないだけって感じで捉えていました」(古橋さん)Upload By 桑山 知之よく忘れ物をする子供だったという古橋さん。引きこもっている間に、自閉症スペクトラム障害だと診断を受けた。19歳の頃、鬱のため通院もしたが、なんとか苦しみを乗り越え、愛知県内にある通信制の高校や放送大学を卒業した。その後、就労支援のサービスを受け、エクセルやワードなどの資格を取得。2019年、晴れて貸し会議室などを運営・管理する会社にパートとして就職した。業界大手の一流企業だ。「その会社は時給社員っていう肩書きがある会社でした。社員だけどパートっていう、契約社員でも正社員でもなかった。営業の人が使う情報を入力して、資料を作成するような仕事ですね。そういったところでVBA(ビジュアルベーシック・フォー・アプリケーションズの略。Microsoft Officeに含まれるアプリケーションソフトの拡張機能のこと)を 使って、メールの下書きが自動で作れるようにしたりしていました」Upload By 桑山 知之襲い掛かった“コロナショック”就職から1年余りで週4日勤務、時給900円。手取り月収はおよそ7万円。決して裕福な生活こそできないが、それでも古橋さんは「正社員のような長時間労働は自分には難しいだろう」と、無理をせずに仕事に励んでいた。しかし、世界的なパンデミックの波が、古橋さんを襲った。「去年の春からコロナが流行って、不要不急の業務はやめるってことになって、お休みになったんです。それからずっと自宅待機になって、結局9月に退職しました。貸し会議の業界自体がお客さんを集めて運営するようなものなので……。人が集まれない状態ですから」(古橋さん)Upload By 桑山 知之「密を避ける」という時節柄、部屋に人が集まって会議をするという需要は激減した。自宅待機中、古橋さんは雇用調整助成金のおかげで給料のうち6割は支給されていたものの、「会社も運営が難しくなって人員を減らさないといけなくなり、その関係で切られた」という。現に、古橋さんと同じ立場であるパートは全員退職していた。「そりゃショックでしたよ。でも、しょうがないかなっていう思いが強かったですね。だってコロナの状況でしたし。なんでこうなったのかっていうのも、自分のせいじゃないってわかるし。じゃあ、就職活動頑張らなきゃなって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之コロナと距離「自分を受け入れてほしい」元々は正社員志望だったという古橋さんだったが、飲食関係の中小企業で正社員として働く父親が朝から仕事に出て、翌日未明の2時や3時まで自宅に戻らない姿を見て、子どもながらに「これは無理だ」と悟った。社会情勢の影響を受けるのは経済面などで「弱い立場」の人間であることが多い。旧来の“当たり前の幸せ”すらまともに享受できない現代において、新型コロナウイルスは、こうした社会と市民との距離をはっきりと顕在化させているのではないかと筆者は思う。「いま、社会に望むことはあるか」との問いに、古橋さんはこう即答した。「そりゃあ自分を受け入れてほしいってことじゃないですか。社会に出て、パートナーを得て、家族ができて、成功できればなって。社会に受け入れられるっていうのは、僕はその2つだと思います」(古橋さん)社会との距離をあぶり出した、新型コロナウイルス。引きこもりで通信教育だったため友達作りの場が不足していた古橋さんは、親以外に相談相手がいない。取材中も「僕たちには相談相手が必要だ」としきりに話していた。古橋さんに愛情を注ぎ続けていた母親は、取材時にガンで入院中だった。その後、3月18日に息を引き取ったという。Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之正しいからおもしろい行き着いた“適者生存”古橋さんは、去年11月から再び就労支援のサービスを受け始めた。幸い、以前も担当していたスタッフが在籍しており、また受け持つことになったそうだ。古橋さんがいま大切にしていること。それは「正しくないとおもしろくない」ということだ。「別に誰かに正しさを教えられたわけじゃないけど、自分の中でいつのまにか形成されたこだわりなんです。正しくないと楽しくないし、おもしろくないんです。正しくないよりは正しいことを楽しく感じますし」(古橋さん)Upload By 桑山 知之図書館に行っては歴史や社会、政治、自然科学といった専門書ばかりを読み漁る。その中で、ある言葉と出会った。いまの古橋さんの心を支えているという。「自分が最近好きな言葉が『適者生存』で。適しているから生き残るっていう意味らしいんですけど、実はそうじゃないんですよね。生物学の本に書いてあったんですけど、『生き残ってるのがすべて適者なんだ』って考え方なんです。適してないものは滅ぶんじゃなくて、すでに滅んでるんだって。だから、発達障害があるってことは環境に適していないっていうことではなくて、『生きているってことはすでに適している』っていう意味で適者なんだって」(古橋さん)Upload By 桑山 知之Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年04月25日3人の息子さんを育てる母親、TOPPU(@toppu_ayu)さん。発達障害を抱える長男との、『9年間』の出来事をTwitterにつづっています。投稿には、発達障害の当事者や関係者から反響が相次ぎました。母親がつづった長男との9年間ラストに胸が熱くなる「お子さんは、障がいを持っています」小学校の教育委員会から突然いわれた、そんなひと言に、母親は戸惑いを隠せなかったといいます。わらにもすがる思いでたどり着いた療育施設のスタッフからは、「もっと子供をよく見て。将来、犯罪者になるよ」といわれたこともあったそうです。そして、長男は小学3年生から『特別支援学級』へ行くことになります。※写真はイメージ小学校生活は、決して楽なものではありませんでした。友達と上手く関われず、人前に出ることが苦手だった長男は、行事のたびに「やらない。できない」といって泣いてばかり。長男だけでなく、次男や三男の世話もしながら家事や仕事に追われるうちに、母親の心は限界を迎えようとしていました。※写真はイメージ少しでも長男を理解するため、障がいについて学んでいったという、母親。そんな日々の中、唯一長男と一緒に楽しめたのは、走ることでした。中でも長男は『長距離走』が得意で、母親のこぐ自転車の横で走る姿は、とても生き生きとしていたそうです。そんなある日、長男はこんなことをいいます。「アイスホッケー、やってみたい」※写真はイメージ「チームプレーは難しいのでは」という不安を抱きつつも、アイスホッケーをやらせてみた母親。すると、長男はほかの子との交流こそないものの、黙々と競技に取り組み、チームの卒団までやり切ったのです。そして、小学校の卒業が間近となった日、息子さんは母親にこう告げます。「俺は、もう大丈夫」「俺は、もう大丈夫だから」もしかしたら長男は、「母親に心配をかけている」と感じていたのかもしれません。少しずつ成長する長男。中学校へ入ると、母親と相談した上で部活動は『陸上』を選びました。すると、小学生の頃のアイスホッケーや長距離走の経験が強みとなり、めきめきと頭角を現していきます。そして最後は、アンカーに選ばれるほどの活躍を見せたのでした。※写真はイメージ「進路は自分で決めて、陸上でさらに上を目指したい」「やらない。できない」といって泣いてばかりいた、長男の姿は、もうここにはありません。長男は、自分でやりたいことを見つけ、志望の高校へ見事合格を果たしたのです。長男のやりたいことを全力で応援し続けた、母親。例え障がいがあっても、息子さんは自分で大きな一歩を踏み出すまでに成長していたのでした。小学校の入学の知能検査で引っかかり、なんの知識もない私に「お子さんは障害を持ってます」と言い切った教育委員会の人が始まりで、「なんでそんな事いきなり?!」となって普通級で入学。初めての参観日で全然ついていけてない長男を見て、発達障害を学んでる人に話を聞きまくった9年前。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 親子二人三脚で過ごした9年間の話には、多くの人が心を打たれ、このような声が上がっています。・「俺はもう大丈夫」という言葉に涙。息子さんも投稿者さんも、たくさんの苦労をしたのでしょうね。本当に尊敬します。・うちの子も、大変なことが多かったけれど周りを気遣える、優しい子に育ちました。読んでいて自分と重ねてしまい、涙が止まりません。・子育てをしていると、不安に押しつぶされそうになる時がありますが、我が子を信じて「やりたいことを伸ばしてあげたい」と思います。最後に投稿者さんは、「私たちだけの力ではなく、周りの人にたくさん助けてもらいました。相談に乗ってくれた周囲の人たちに心から感謝しています」と話しています。子育てをしていると、心がちぎれそうなほどつらい出来事や、先の見えない不安もあるでしょう。それでも、最後まで我が子を信じて見守り続け、子供が自分の足で歩いていけるようにすることが大切なのかもしれません。投稿全文はこちら小学校の入学の知能検査で引っかかり、なんの知識もない私に「お子さんは障害を持ってます」と言い切った教育委員会の人が始まりで、「なんでそんな事いきなり?!」となって普通級で入学。初めての参観日で全然ついていけてない長男を見て、発達障害を学んでる人に話を聞きまくった9年前。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 たどり着いた療育者に「もっと子供をよく見て。将来、犯罪者になるよ」と言われて泣きながら担任に相談しに行った。コーディネーターの方も間に入り、発達検査を受けて、あれよあれよという間に診断もついた。病院と繋がり、色々な手続きを踏まえて3年生から特別支援学級在籍になった。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 その間に三男は産まれ、次男も年子だから入学し、登校渋りがあって母子登校。仕事もしてたし、本当にボロボロだった。家の壁にはやる事を書いた紙を貼り宿題を見ながら家事もやり、帰宅した子供達と公園に行く日々。当然、友達とも上手く関われず行事の度に「やらないできない」で泣いてばかり。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 人前が苦手な長男は運動会なんて出られたもんじゃなく、何度も担任と掛け合ったけど理解してもらえず、無理矢理参加した形になり、運動会の途中で脱走して探した事もある。発達検査は母子分離ができなく同室なのにできなくて、日にちや場所を変えて行ったりもしてきた。何をやるにも泣いてばかり→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 学校にも謝ってばっかり。公園では楽しそうに友達同士で遊ぶ子の側で、1人でボール投げたり自転車乗ったり。「ママついてきて」がいつまで続くのかな‥って思いながら。行事も苦痛、レクも苦痛。他の保護者と話すのさえ苦痛だった。息子をもっと知りたくて、私はとにかく障害の情報を学びまくった— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 唯一、長男とやってたのは走る事だった。彼は長い距離を走らせたら生き生きしていたから、三男を後ろに乗せて自転車を漕ぎ、次男も自転車で長男は走っていた。その頃から少しずつ、彼は変わっていき、放課後デイサービスに通ったりして体を動かして遊ぶ事が増えた→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 唯一、長男とやってたのは走る事だった。彼は長い距離を走らせたら生き生きしていたから、三男を後ろに乗せて自転車を漕ぎ、次男も自転車で長男は走っていた。その頃から少しずつ、彼は変わっていき、放課後デイサービスに通ったりして体を動かして遊ぶ事が増えた→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 そんなにやりたいなら‥と思い、ダメなら辞めたらいいぐらいの気持ちでやらせたら卒団までやり切った。ただ、他の子との交流はあまりせず黙々と言われた事だけやってた感じで、それもまた親として不安に思う事があったけど。小学校の卒業間際、彼は「俺はもう大丈夫だから」と言ってくれた。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 何が大丈夫なのかはわからないけど1つ大人になった様な気がした。中学入学後は、チームプレーの壁について話し合い、納得の上で陸上を選んだ。小学生の頃から積み上げてきた長距離がとても強みになり、記録を出し、駅伝にも選ばれて出場した。最後はアンカーもやらせてもらった。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 中学校生活では全く勉強には力を入れず‥笑、親もやりたい事しか応援しなかった。そうしたら、進路は自分で決めて陸上で更に上を目指したいと目標を持った。有言実行、行きたい学校に合格し今日、卒業を迎えた。長い長い9年間。すごく成長できた9年間。自分で選び、自分で決める。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 この先、挫折の壁は絶対やってくるけど自分で決めたから乗り越えられるだろう。頑張れ。卒業式を終えて、さっき友達と遊びに出かけました。あの泣き虫君が、楽しそうに。親の役目はお小遣いを渡す事のみです。笑笑何が言いたいかと言うと‥先の事は誰にも分からない。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 「今」発達障害という言葉で、立ち止まってしまったり、悩み悲観的になっている方もたくさんいると思う。私もそうだったし、当時の苦しみは忘れられない。そして保護者や周りの方は物凄い努力と大変さを感じて生きていると思う。それはこの先も続くと思う。我が家も、ずっと。→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 でも、環境を整えて出来る事が増えたら成長できるんだなって、今、思えました。報われない努力はない。「地域の小学校は無理だよ」と途中で言われた長男。色んな事があるけど本人の可能性を大切にしたいなと思いました。そして、お疲れ様、わたしよく頑張った!頑張った!笑— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 15, 2021 たくさんの方から励ましや共感の声を頂きありがとうございます✨本当は1人ひとりにお礼を伝えたい所ですが、ここでまとめてのお礼ですみません♀️私目線で書いた事、息子からしたら「美談でまとめるな!」と怒られそうです‥笑きっと彼は私が感じるよりたくさん辛い思いや悔しい思いをしてきたと→— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 16, 2021 思います。親子なので醜い言い争いもしたし、理不尽な事も言ってしまってたと思います。ですが、みなさんから息子を褒めてもらえた事、嬉しいです4月から親元を離れますが、自信を持って送り出せそうです✨私も含め、今後も共に頑張りましょう‼︎本当にありがとうございました✨— TOPPU(´-ω-`)★ (@toppu_ayu) March 16, 2021 [文・構成/grape編集部]
2021年03月17日他の子に迷惑かけるかも?Upload By ぼさ子自閉症のあるほぺろうは他人とのコミュニケーションが苦手なので、保育園に入るまで『他の子と一緒に遊ぼう』という意思が一切ありませんでした。他の子と関わったことがないので「お友達に優しく」とか「叩いちゃいけません」といった教訓に触れたこともありませんでした。そしてこの3歳のころは癇癪が強い時期で、発語がなく自分の気持ちを伝えられないイライラをぶつけていたのか、自宅では私を叩きつけたり髪の毛をむしったりという行動が見られていたので、余計によそのお子さんに危害が及ばないか心配でした。幸い、現在お世話になっている保育園は障害児受け入れの経験が多いこともあり、ほぺろうの癇癪っぷりを見ても動じない先生たちの様子から、初めて訪問したときから園への信頼は持つことができていました。なので、ほぺろうの入園準備期間に先生たちにたくさん相談に乗っていただきました。Upload By ぼさ子ほぺろうは加配希望で入園したので、加配の先生に目配りをお願いしたのと同時に、お友達やその保護者の方が心配する様子があれば先生に窓口になってもらって私に伝えてほしいと申し入れました。そして、ほぺろうの普段の様子・発達クリニックの記録・特性・対処法などをまとめたノートを先生に渡して情報共有し、今もそれは続いています。他の子との差に心折れるかも?私はもちろん折れました。同じ歳の子のみならず、歳下の子と比べても追いついていないわが子の現実に、ほぺろうが5歳になった今でも正直凹むことがあります!実は私、過去に少しだけですが保育施設でお手伝いしたことがありまして、その経験から学んだことがあります。それは、『障害がない子も発達の差はある』『どんな子も全員、手を焼くところ・良いところが必ずある』『どんな子も漏れなく可愛い』ということ。すべてにおいてパーフェクトなんていう子は一人もいませんでした。「障害のない子だって発達の差はあるし、しっかり大人の手を焼かせている」。そう思うと気がラクになりました。Upload By ぼさ子障害児を良く思わない人もいるかも?恥ずかしながら私は、ほぺろうを産むまで障害のある人に対して『よく分からない、あまり関わりたくない』と思っていました。なので今の環境で、ほぺろうのことを良く思わない人がいたとしても不思議ではありません。幸い今は優しい方たちに囲まれていますが、お友達も保護者の方もいろんな考え方があって当然。私の『ほぺろうを受け入れてほしい』という考え方も多様性の一つ、否定的な考え方があったとしてもそれも多様性の一つ…。そんな風に考えておくと、不必要に傷つくことが減ったように思えます。以前お世話になった保育施設の先生が『ほぺろう君の存在は集団にとって必要。他の子にとって気づきや優しさの勉強になる』と仰ってくださったことがあり、その言葉とそう考えてくれる人の存在に励まされました。Upload By ぼさ子私ができることとしては、他の保護者の方に会ったら「こんにちは」など普段の挨拶は欠かさず、気になることがあったときに話してくれやすいように気をつけています。そして「いつもお子さんがほぺろうと仲良くしてくれてありがとうございます」と感謝を伝えたりしています。年中の今では保育園を楽しめるようになったほぺろう入園したものの、適応するには相当な時間と労力がかかったほぺろう。朝は私となかなか離れられず、日中もちょっとしたことがキッカケですぐに癇癪。先生にもお友達にもたくさん迷惑をかけていたと思います。それでも周りの皆さんに助けられて、1年かかってようやく泣かずに登園できるようになりました。年中の今では保育園が楽しそう!以前は私から離れられず保育園の玄関でグズっていたのに、現在は私をサッサと締め出すまでに成長しました。Upload By ぼさ子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年03月12日小学校時代、クラスで浮く存在だった息子Upload By かなしろにゃんこ。現在22歳のADHDと広汎性発達障害がある息子リュウ太は、変わっている子と小学校ではクラスで浮いた存在でした。先生の指示に従って課題に取り組むことをしなかったり、授業の準備をしなかったりと授業態度がよろしくない子でしたから、保護者会では担任の先生との話し合いで「授業面では短期目標を設定して取り組んでいけるようにしましょう」と指導目安を話し合ったりしてきました。しかし自由奔放でルールを守れないリュウ太には簡単な目標でもクリアすることが難しく、小学校卒業まで、1時間目から午後の授業まで、きちんと座って授業を受けることが達成できませんでした。このままじゃ中学ではどうなっちゃうんだろう?と心配でした。担任の先生に相談したところ...Upload By かなしろにゃんこ。6年生最後の保護者会で担任の先生に相談したところ、「中学校では発達障害があっても特別な配慮は期待できないことも多いです。少しは理解がある先生が増えてきましたが、小学校のようなフォローはない場合もあります。もしご心配ならば入学前に一度学校に相談に行かれるといいかもしれません」こうアドバイスをいただきました。相談なんてしていいの?「自分ちの子どもに配慮をお願いします!」とお願いしに行くって恐れ多いな~と思いましたが、中学生活が合わなくて孤立してしまい登校拒否になる恐れも考えて、小学校の卒業式後すぐに中学校に連絡してみました。挨拶に行った校長室で言われた言葉はUpload By かなしろにゃんこ。Upload By かなしろにゃんこ。校長先生と新1年生の学年主任の先生が話を聞いてくれることになり、息子と二人で校長室にご挨拶に伺いました。落ち着きがない、物忘れが多いなどリュウ太の特性を伝え、課題を忘れたり、持ち物を忘れたりしてしまうので、帰りのホームルーム後に声掛けをしていただけないかお願いしました。注意するときはパニックがおさまってからにしてほしいとか、暴れたときはクールダウンスペースに誘導してほしいなど、本当はもっとたくさんお願いしたいことがありましたが「過保護な親」と思っているだろうな…いくつも頼んだら嫌がられそうだな…と思い1つだけにしたのです。ところが校長先生からは「発達障害があっても特別扱いはしません。生徒の自主性に任せているので個別のサポートはしません」と言われてしまいました。Upload By かなしろにゃんこ。発達障害の特性がある子は他にもいて、一人ひとりに配慮はできないから家庭でなんとかしてください、もし特別なサポートが必要な場合は精神科医と相談して決めるので学校が紹介する精神科に通院してください、ということでした。息子は精神科には通いたくないというし、コレはもうサポートは望めないとわかりました。学年主任のT先生は「部活をはじめて、運動などもしてみると良い変化があるかもしれませんから、様子をみながら指導しますよ」と言ってくれました。でも、きっと社交辞令だと思い、学年主任の先生の言葉をあまり期待しませんでした。Upload By かなしろにゃんこ。ところが実際に入学してみると...!?発達障害って、理解してもらおうとして伝えれば伝えるほど、過保護な親と捉えられてしまいがちです。見えない障害も障害ですから配慮を頼んでいいはずなのに、目の前でシャッターを下ろされる感じです。校長先生の言葉に、中学校ってハンデのある子にも容赦ない優しくない教育現場だったのかー…なんて落ち込み、学校に相談に行くんじゃなかったかもな~なんて思ってトボトボ帰ったのでした。ところが入学してみると学年主任の先生が担任となり、課題にはついていけていないリュウ太でしたが、学校には慣れて楽しんでいくようになったのです。Upload By かなしろにゃんこ。先生は教員には珍しい、真面目すぎない、いい意味でおちゃらけた方で、息子はすぐになつきました。先生のおもしろいエピソードを家で話すようになり、運動オンチなのにテニスにも挑戦してみよう!とテニス部にも入りました。やるべきことを指示通りにやらず、先生にこっぴどく叱られる厳しい指導も受けましたが、先生に嫌われたくないという思いがあったからか?先生の指示には耳を貸すようになっていったのでした。先生に怒られても先生の話をする様子から、学校は発達障害がある子に特別扱いはしないという方針だけれど、先生はリュウ太がクラスの中で浮かないように声をかけてくれたり、文化祭や体育祭で係りの仕事をさせて自己肯定感を上げるように取り組んでくれたりしていたことが見えてきました。入学前、学校に相談するんじゃなかった...と思っていた私ですが、あのとき相談しておいて、結果的に良かったかもしれないと考えるようになりました。中学では担任の先生と話すのは保護者会だけで、特別に指導相談もなかったため、学校の様子は子どもから聞く情報でしか分かりませんでした。ですが先生は学校の方針とは別に息子の様子をみて、「声かけ」のタイミングなどを判断して、いつも気にかけてくれていたのではないかと思います。これからお世話になる学校に「子どもに発達障害があります」と伝えるのはやっぱり勇気がいりました。どの場面でも言えば配慮がもらえるわけではありませんが、子どもの特性や苦手なこと、できないことは伝えておいたら、必要な支援を考えてくれるのかもしれないと思うようになりました。
2021年03月11日私には2人の息子がいます。次男は2歳のときに言語発達遅延、その後、自閉症スペクトラム障害だと診断されました。当時の私は発達障害についてまったく知識がなく、戸惑うばかり。夜な夜なインターネットで検索しては落ち込み、将来を悲観したり、枕を濡らしたこともありました。そんな私が障害をもつ次男にどう接してきたか、次男が二語文を話し出すまでの体験をお話しします。 言葉が減っていく次男次男の異変に気が付いたのは、2歳の誕生日を迎えたころでした。それまで順調に増えていた単語が、徐々に消えていったのです。言葉の爆発期といわれる時期に、単語を忘れていく次男。不安を感じていましたが、新たに覚える単語もあったため、私は気のせいだろうと思っていました。 そんなある日、ついに次男は「ママ」まで言えなくなってしまったのです。これはさすがにおかしいと感じ、藁にもすがる思いで市の発達相談窓口へ連絡しました。 すべての動作を言語化する市の発達相談窓口に相談すると、療育センター、専門医を紹介してもらえました。そこで私は次男を連れて、紹介してもらった専門医を受診しました。専門医からは、言葉を増やす転機となる重要なアドバイスを受けることができたのです。 それは、すべての動作を言語化すること。例えば、手を洗うときは「袖をまくって、水を出すよ。水が冷たいね。泡を付けて……」と説明しながら洗うというものです。これは、簡単に見えてなかなか精神的に大変でした。反応の薄い息子に向けて、1日中、実況中継しているようなものですから。 ついに、二語文が…!次男は電車が大好きで、駅までの散歩を日課にしていました。ある日いつもの通り電車を見に行くと、突然次男がこう言ったのです。「電車、きたね」。待ちに待った二語文。 私は目に涙をうかべながら、「うんうん、そうだね。電車きたね。きたって言えてすごいよ!」と何度も何度も次男をほめました。この日の出来事は、一生忘れないと思います。長男のときは成長過程の1つだと感じていた二語文ですが、次男にとっては本当に大きな一歩でした。 次男はその後も少しずつ言葉が増え、自分の思いを相手に伝えられるようになりました。今、4歳の次男は幼稚園の人気者。先生や友だちに愛されて、笑顔あふれる日々を過ごしています。まだ会話の受け答えはうまくはありませんが、これからもたくさん話しかけて、次男らしく元気に過ごせるようサポートしていきたいと思います。 ※本記事の内容は、必ずしもすべての状況にあてはまるとは限りません。必要に応じて医師や専門家に相談するなど、ご自身の責任と判断によって適切なご対応をお願いいたします。 ベビーカレンダーでは、赤ちゃん時代を卒業して自己主張を始めた2~6歳までの子どもの力を伸ばし、親子の生活がもっと楽しくなる【キッズライフ記事】を強化配信中。今よりもっと笑顔が増えてハッピーな毎日なりますように! 監修/助産師REIKO著者:中田りこ8歳と4歳の兄弟の母。次男は自閉症スペクトラム障害。教育業界を退職後、現在は実家の家業を手伝っている。
2021年03月10日3月21日は「世界ダウン症の日」。ダウン症啓発月間にあわせて、日本ダウン症協会がポスターを配布中!Upload By 発達ナビニュース3月21日は国連の定めた「世界ダウン症の日」、また3月は日本ダウン症協会(JDS)が定めた「ダウン症啓発月間」です。「世界ダウン症の日」は、2011年に国連総会で制定されました。ダウン症(21トリソミー)は、「21」番染色体が「3」本あることで起こることから、3月21日となっています。2012年3月21日から毎年、「世界ダウン症の日」に向けてダウン症のある人たちがその人らしく、安心して暮らしていけるよう、日本中・世界中で啓発イベントが行われています。日本ダウン症協会でも、いまを生きているダウン症のある方をフォーカスし、毎年啓発ポスターを制作、送付料も含め無料で全国に配布しています。今年のテーマは、「つながると、嬉しい。誰だって。誰とだって。」ーーダウン症のある方の生活のさまざまを表現できるように、ダウン症のある方の「この1枚」を公募して作成されました。生後間もない赤ちゃんからから41歳まで、幅広い年代の方々の写真が掲載されているポスターは、メールやFAX、はがきからお申し込みいただけます。実話をもとに、自閉症スペクトラムの息子と父の絆を描く『旅立つ息子へ』(3/26公開)Upload By 発達ナビニュース『旅立つ息子へ』は、実話をもとに自閉症スペクトラムのある息子と父の絆を描いた作品です。監督はイスラエルを代表する巨匠ニル・ベルグマン。東京国際映画祭では、史上初にして唯一の二度のグランプリ受賞の快挙を果たしました。本作のストーリーで主役をつとめる、父アハロンは自閉症スペクトラムのある息子ウリのために人生を捧げていました。しかし、別居中の妻タマラが息子の将来を心配し、全寮制の支援施設への入所を決めたことから物語は始まります。定収入のないアハロンは養育不適合と判断され、裁判所の決定に従うしかありませんでした。しかし、入所の日、ウリは大好きな父との別れにパニックを起こしてしまいます。アハロンは「息子は自分が守る―」と決意し、2人の無謀な逃避行が始まります。本作品を担当した脚本家の、父親と自閉症の弟がモデルとなっている映画です。互いを信じ、思い合う姿が切なくも愛おしく描かれています。特別な絆で結ばれた2人の旅立ちを、ぜひ劇場で見届けてください。【公開日時】2021年03月26日(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国公開※公開劇場はHPでご確認ください。映画公開を記念し、児童精神科医・田中康雄先生、NPO法人ファザーリング・ジャパン メインマンプロジェクト・リーダー橘謙太さん、発達ナビ編集長・牟田による座談会を開催します。【日次】2021年3月14日(日)10:00~11:00youtubeで配信予定!どなたでもご覧いただけます。障害のある人たちが活躍するチョコレート店『久遠チョコレート』をご紹介!Upload By 発達ナビニュース愛知県豊橋市を拠点に全国展開するチョコレート店「久遠チョコレート」は、グループ全体で約500人いる従業員のうち、半数以上の方に障害があります。代表の夏目さんが障害のある人の賃金問題に関心をもったことをきっかけに始まった「久遠チョコレート」。働く時間や仕事の内容は、一人ひとりの事情に合わせており、給料は障害のある人も定型発達の人も全員同じで、時給950円以上です。さまざまな背景をもつ人たちが力をあわせて、トップブランドを目指している「久遠チョコレート」。日本一のチョコレートの祭典であり、世界中の一流ブランドのチョコレートが並ぶJR名古屋タカシマヤの「アムール・デュ・ショコラ」にも、4年連続で出店しています。看板商品のテリーヌチョコレートは、厳選したカカオと日本各地の食材をあわせてつくられていて、その組み合わせは150種類以上。こだわりの詰まった商品が「久遠チョコレート」ファンを増やし、各地に出店が続いています。ぜひ、近くのお店やデリバリー情報をチェックしてみてください。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年03月10日社会の常識を疑う…兄の自由帳に書かれた“謎の言葉”筆者がヘラルボニーという存在を初めて知ったのは、とある意見広告だった。2019年12月当時の背景としては、内閣府が「桜を見る会」の招待者名簿を廃棄した問題について、安倍晋三首相(当時)は、名簿をシュレッダーで廃棄した人物は「障害者雇用の職員で、短時間勤務だった」と答弁したのだった。そうした中、東京・霞が関の弁護士会館の前に掲示されたのがこの意見広告だ。「この国のいちばんの障害は、『障害者』という言葉だ。」Upload By 桑山 知之29歳、岩手県出身の一卵性双生児。4歳上に、重度自閉症と重度知的障害のある兄・翔太さん(33)を持つ。崇弥さんと文登さんは、保育園から小学校、中学校、高校までをともに岩手県で過ごし、その後は別々の道を歩んでいた。Upload By 桑山 知之文登さんは東北学院大学(宮城・仙台市)に進学後、大手ゼネコンに就職。一方、崇弥さんは東北芸術工科大学(山形市)の企画構想学科へと進学した。そこで放送作家を軸にマルチに活動する小山薫堂さんのゼミに所属。卒業展示では、社会の“常識”を疑う「常識展」を企画した。インドと日本の水を比べるものや、駅に花を植えることに心からの喜びを感じているホームレスなど、常識を問うさまざまな作品を並べた。その主軸こそが、自らの兄だった。「常識展っていうタイトルやアイデアの出発点も、兄貴がかわいそうではないという伝え方をしたいっていうところから入っているので。障害=かわいそう、とか、障害=欠落、というものをそうではないという世界観を提示したいって思って。だから兄貴を題材にすると決めて最初からスタートしていました。昔からそういうのを提示したい思いはありましたね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之現在の屋号「ヘラルボニー」。一度耳にしたら忘れない“謎の言葉”に出合ったのは、この卒業展示の制作のため実家を訪れたときだった。「兄貴の部屋の押し入れをバーッて探していたんですよ、いろんなものを。母親もよく残していたなと思うんですけど、何十冊も自由帳とか絵日記とかあって。けっこう絵日記も世界観がおもしろいものが多くて、これなんかフォントおもしろいですよね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之「障害者だって同じ人間なんだ」中学時代に母とすれ違いも2人が幼いころから、自閉症の兄とともに福祉団体に遊びに行くのが毎週末の決まり事だった。そこでは、自閉症に限らずダウン症や精神障害などさまざまな人が集っていた。2人にとっては、そこで“障害”というものはあまり関係なく接しているのが当たり前だった。ただ、小学4年のころに覚えた違和感を、文登さんは作文に綴っていた。「団体の人と土日一緒に出掛けていたときに、目線とか……同い年ぐらいの人が指を差して、僕らの兄の集団を笑っていたんです。それに対して腹が立って。小4ながらに自分の中で思ってた感情っていうものがけっこう多くあったんだろうなって。僕ら双子の中でのフツウの感覚と、社会側のフツウの感覚のズレみたいなものとか、単純に『兄をバカにすんなよ』っていう思いもそこに乗っかっているのかなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之2人はやがて中学校に進学し、卓球部に所属した。兄は県内の特別支援学校へと進学。しかしここで、関係性は一度悪化してしまったという。「僕らの中学校は自閉症スペクトラムのことを『スぺ』って言ったりする子がいて、『お前、スぺの教室行けよ』みたいな。自閉症=欠落、スぺ=欠落みたいな風な使い方をするような中学校だったんです。試合の応援にも母親が兄貴をよく連れてきていたんですけど、僕もすごい兄貴が応援に来ることにアレルギーが起きるようになったんですね。それで母親に『兄貴連れてこないでよ』ってすごい言っていたんですけど、母親はしきりに『隠すことじゃないよ』って逆上するわけですよ」(崇弥さん)「自分たちの心の弱さから、小4のころはふざけんなよって言えても、中学ぐらいになって言えなくなってしまう自分もけっこういて。『スぺ』っていうものが蔓延して、スぺのきょうだいだって思われるのがすごく嫌になってしまった時期があって」(文登さん)Upload By 桑山 知之障害者の兄がいることは決して恥ずべきことではない。そんな思いから、部活を引退するまで母親は兄を連れて試合に応援へ駆けつけ続けたのではないかと2人は推測する。しかし、地元から200キロ離れた高校へ進学すると、自然にこの“すれ違い”はなくなった。「周りから言われることを避けるために、兄貴を迫害することによって自分を守っていた」と崇弥さんは振り返る。「中学時代も、兄貴のことを嫌いになったりとか、兄貴のことを大切に思ってない、ではないんですよね。兄貴のことはずーっと大切で、好きな状態はずっと今も思っていて。ただ、中学のころは防衛本能が働いていたっていうか……。高校に上がると、その当時の友達とかもいなくなったので、環境が変わったので普通に兄のことも言えるようになったんですよ。なので、自分で過ごしている環境ってすごく大事なんだろうなってホント感じますね」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之子育てに正解はないという。「もしかすると正解は『ずっと連れて来るもの』って書かれるかもしれないけど…」としながら、きょうだいにはきょうだいの生活があり、親としてはその立場を考えるのもアリではないかと崇弥さんは語った。文登さんはそれを「逆張りだ」と笑いながら、親子で話し合う場の必要性を思案していた。前身ブランドからヘラルボニーができるまで崇弥さんは、小山薫堂さんが代表を務めるオレンジ・アンド・パートナーズという広告会社に4年半勤務した。かつて薫堂さんが住んでいた東京・赤坂のアパートも紹介してもらい、住んでいたという。社会人2年目の夏、岩手へ帰郷した際、衝撃を受けた。「岩手県にある『るんびにい美術館』(岩手・花巻市)っていう、それこそ知的障害のある作家が描いた作品が展示されている、社会福祉法人が運営している美術館がありまして。そこに行ったときにものすごい衝撃を受けて、これはおもしろい!っていう風に思ったんです。一発目に文登に電話をかけて、『なんかやろう!』って。何かを立ち上げようと」(崇弥さん)あの衝撃からちょうど1年後、2人はヘラルボニーの前身となるブランド『MUKU』を立ち上げた。ラッパーの晋平太さんを介して、『見えない障害と生きる。』にも出演したGOMESSさんに依頼し、楽曲も誕生した。見た人を惹きつけるプロダクトはすぐに話題となった。しかし一方で、崇弥さんはもどかしさを感じていたという。「当時は副業だったので、もっと全然いけるのに……っていつも思っていたんですよ。もっとコミットしたら絶対にいけるのに、でもこんなにリソースを割けないから悔しいなっていつも思っていて」(崇弥さん)Upload By 桑山 知之そこから2年後の2018年7月、謎の言葉「ヘラルボニー」を掲げた会社を設立した。翌年には経済誌『Forbes』が選ぶ「世界を変える30才未満の30人」に双子起業家として選ばれたほか、先述の意見広告でも一大ムーブメントを巻き起こした。建設現場の仮囲いを期間限定のミュージアムと捉えたプロジェクトも話題を呼んだ。そして何より、障害のある作家がつくるアートを生かした製品は、飛ぶ鳥を落とす勢いでファンを獲得し続けている。その大きな要因として、「着想の出発点」が違うからだと筆者は思う。「時代に後押しされているというのはものすごく感じます。もともとSDGsやりたいとかそういう思いで始めたわけでは全然ないけれども、社会側がSDGsっていう文脈を持ってきてくれているし、ダイバーシティやりたいって思ってダイバーシティって言ったこともないけれども、社会側がダイバーシティ&インクルージョンっていう文脈をウチに紐づけてくれるし。社会側が色んな文脈をウチの会社にありがたいことに紐づけてくれたっていうところがすごくある」(崇弥さん)「10年前やっていたら全然違う結果になっているだろうけれども、今っていう時代にやれているからこそっていうのもあるだろうなと。僕ら双子揃って運が良くて、いろんな方に恵まれているというか、自分たち双子としては大したことないんですけど、関わってくれている皆さんが本当に素晴らしい人が多いんです」(文登さん)Upload By 桑山 知之異彩放つ活躍数字で語れる会社に人気セレクトショップ『TOMORROWLAND』での製品販売や、吉本興業とのコラボブランド『DARE?』など、ヘラルボニーの躍進は止まらない。今年度の売り上げは1億円を超えるという。もちろん、アーティストへの還元も忘れない。「正直ホント数字面ではまだまだなんで。数字で語れる会社になれたらいいなってすごい思いますね。あそこは数字も素晴らしいよね、障害のある作家にもめっちゃ還元するよね、っていう会社になりたい」(崇弥さん)「今後の目標設定とかもすべて透明化させたいなと来期から思っていて。障害のある作家さんにどれぐらいバックしていて、これまでどれだけバックしてきたか、みたいなところとかも全部見える化して、それに対する社会的なインパクトとかもつくっていきたいなと」(文登さん)Upload By 桑山 知之兄・翔太さんは現在、岩手県奥州市にある就労継続支援施設(B型)「わかくさ」で、コーヒーのパック詰めや空き缶つぶしをしている。週に3回はグループホーム、残りは自宅で暮らしているという。きっと弟2人の“異彩を放つ”活躍を、誇らしく感じているだろう。Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞、広告電通賞SDGs特別賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月21日「母にはわからない...!」息子のがんばる理由Upload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみ高次脳機能障害になってからのリクは、日々、体調が安定しないことに悩まされていました。頭痛やめまいで視界が狭くなり、吐き気で起き上がることも困難な日があったり、今食べた献立が思い出せなかったりしていました。そんな状態でも、「留年はしたくない!」という意地で、ギリギリの点数ではあるものの無事に3年生に進級することができたのです。もう、あとは卒業するだけ...あとは、バイトでもしながら、ゆっくり将来のことを考えてくれればそれでいいとさえ思っていたのです。Upload By ひらたともみUpload By ひらたともみUpload By ひらたともみはっ!としました…。私は知らず知らずのうちにリクの将来を、考えないようにしていたのです。なぜならそれは、「息子は障害があるからムリ」という本人のやりたいことを度外視した方法で、「それでいいんだ」「高校までがんばったんだし」というところに、親としての落としどころを勝手につけて満足していたんだと思います。Upload By ひらたともみ目標を決めたリクは、勉強することが多くなりました。ときどき吐き気や頭痛で学校を早退することもありましたが、それでも机にかじりついていました。そして、なんとか志望大学に推薦をもらえることになり、4月からは大学生になります。どうやら甘ったれた私と違うリク。「休めばいいのに」「やめちゃえばいいのに」と安易に思うことは、ややこしいこのご時世を生きる処世術だと思っていました。でもリクのように「がんばりたい」という強い意思を一度持つと、だれもブレーキをかけることなんてできない。今回は18歳の息子に教えられたようです。LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年02月05日