2020年に、元サッカー選手の本並健治さんと結婚した、元女子サッカー選手でタレントの丸山桂里奈さん。2021年5月14日にInstagramを更新し、まだ交際していなかった頃に撮影したツーショット写真を披露しました。写真は、2008年に開催された『いまさらサッカー教室』のチラシを手にしている丸山さんと本並さんを撮影したものです。丸山さんは「今見たら婚姻届けを持っているように見えて面白い」とコメント。 この投稿をInstagramで見る 丸山桂里奈(@karinamaruyama)がシェアした投稿 はにかんだような笑顔を浮かべ、1枚のチラシを2人で持つ姿は、まるで初々しいカップルのようですね。丸山さんは、13年前のことを振り返り「この頃はまさか結婚するなんて思ってもみなかった」とつづりました。この頃はまさか結婚するなんて思ってもみなかったから、すごく不思議な感覚があります今は結婚して、夫婦なんだかで思うと嬉しすぎますね人生てわからないなぁ〜karinamaruyamaーより引用(原文ママ)さらに、投稿には『#こう見ると本並さんといるときは』『#安心した顔してるね』『#今見ても』『#出会わせてくれてありがとう』『#幸せです』というハッシュタグが添えられています。写真に対し、ネット上では「すごくいい写真ですね」「お似合いだなあ。まさに運命の2人!」「結婚の前兆に見える」といった声が集まりました。丸山さんだけでなく、本並さんも穏やかな表情を浮かべていますね。当時から仲がよく、いい関係を築いていたことが分かる写真に、心が和みます。[文・構成/grape編集部]
2021年05月15日学校のルールが理解できず、独自路線で突き進むコミックエッセイ『毎日やらかしてます。』シリーズや、ドラマ化もされた『透明なゆりかご』などの作品が人気の漫画家、沖田×華さん。『毎日やらかしてます。』シリーズでも公表している通り、沖田さんにはADHD、ASD、LD(学習障害)のトリプル発達障害があります。「漫画家になってからは、別の世界に転生してきたみたいだ」と語る沖田さんに、現在の仕事に至るまでのお話をお聞きしました。――沖田さんは幼少期、どのようなお子さんだったのでしょうか?沖田×華さん(以下、沖田):小学校入学前は、漢字を読むことが得意で、通っていた公文式では算数で満点をとっていました。だから、親は「頭がいい子どもだ、きっと小学校でもうまくいくだろう」と思っていたらしいのですが、実際は入学式のときから浮いていましたね。Upload By 姫野桂沖田:入学式当日、靴下も上履きも忘れて、集合写真は1人だけスリッパを履いて写っていて(笑)。周りはきちっとした姿勢なのに、自分だけ姿勢もふにゃんとしてて、じっとしていられない感が写真にもあらわれていました。入学式の日って、自己紹介があって、仲良くなった子と一緒に帰ったりしますよね。わたしは、そのとき一緒に帰った友達が「一生一緒に帰る友達」なんだと思い込んで、毎日同じ子に声をかけていました。一度起こったことが、ずっとそのまま再現されるわけではないと理解できないことがよくありました。――そうだったんですね。他にも、何か周りの子と違う行動をとっていたことはありましたか?沖田:ハサミやノリなどが入った「お道具箱」の扱いで先生に叱られて、納得できずに意見を曲げなかったこともありましたね。わたしはお道具箱を大変気に入って、家に持ち帰り、中身を1つも学校に持って来なかったんです(笑)。それを見た同級生たちが代わりのお道具箱を作ってくれたんですが、喜んでいたら先生に取り上げられてしまって。先生からは「なんで自分のお道具箱があるのに家から持ってこないんだ」と言われましたが、「だってこのお道具箱はわたしのものなんですよね?だからわたしがどういう使い方をしてもいいんですよね」と答えて、納得しないことには絶対に謝らなかったらしく…。何かこだわりがあって、クラスの中でわたし1人だけが止まってしまうことも多々ありました。あとは、「テスト」というものの意味を理解していませんでした。例えば、学校の算数のテストだとランダムに足し算が出てきますが、わたしは丸暗記していた公文式のテストの答えをそのまま書いていたんです。母親には「これは公文式の問題じゃないんだから、問題文をちゃんと見ろ」と何度も言われましたが、まったく理解していなかったらしいです。Upload By 姫野桂――となると、自然とテストの点数は低くなりそうです。沖田:そうですね。算数はよく0点をとっていました。でも、全部の教科が悪いのではなく、算数だけが異常に悪くて国語は答えをすごく暗記できる、みたいな、凸凹のある子でした。成績が悪いと親に怒られるので、小・中学校ではいつも成績を改ざんすることを考えていましたね。数学のテストで200点満点中30点しかとれていないのを、数字の「1」を加えて130点にしたり、通知表の「1」に線を付け加えて「4」にしたりとか(笑)。結局バレて怒られるんですが、勉強どうこうというよりも、どうしたら親に怒られずに済むかで頭がいっぱいでした。家に帰ると「学校モード」ではなくなってしまうので、そこからうまく切り替えられず、宿題をするのも苦手だったんですよ。「どうしたらこれをちゃんとできるのかな?」と考えて、町内で勉強のできる同級生のところへ「勉強教えてー」とお菓子を持って行き、やってもらっていました。友達がほしくて入っていた文通部でも、わたしは字がキレイに書けなかったので、友達に「50円あげるから書いてくれ」って頼んで文面を言ったりして(笑)。そんな風に、お菓子やお金を渡して等価交換みたいなつもりで、できないことを人に代わりにやってもらっていました。人と関わろうと思ってはいるのですが、どこかやり方が間違っているというか、子どもらしくないというか…。そんなことばかりしていましたね。Upload By 姫野桂発達障害の自覚がないまま過ごした思春期――沖田さんは、発達障害の診断を小学生のときにすでに受けていたと漫画にも描いてらっしゃいますよね。Upload By 姫野桂沖田:はい。小学4年生のときにADHDとLDの疑いがあるとの診断を受け、ASDの診断は中学生のときに受けました。でも、発達障害の自覚はまったくなくて、「前ならえ」のような集団行動をこなしたり、おとなしく授業を受けたりしている同級生を見て、「この子たちは全員ロボットで、わたしこそが人間」と思っていましたね。「こっち来て」の一言で言うことを聞く人たちが人間に見えなくて。パッと顔を上げると、わたしが1つのことを続けているうちに、全然世界が変わっているんです。昼休みが終わって席に戻ってきたら、みんなが席についてわたしを見ていたこともありました。なんだろうと思ったら、給食が終わった瞬間に、わたしが「ごちそうさま」を言い忘れて教室を飛び出していったから、連帯責任で全員の昼休みがなくなってしまったらしいんです。でも、肝心のわたしは「みんな戻るの早いな」と思っていて、一切その罰がこたえていなかったので、先生は悩んでいたようです。――連帯責任や根性論の時代だったんですね。沖田:そうですね。忘れ物をしたときは「なんで忘れるのか」と理由を問い詰められましたが、「忘れました」以外に答えようがなくて。「忘れた」という言葉が通用しないなら、もう何も言えないなと、小学3年生のころには、場面緘黙症になってしまいました。担任にもひどくいじめられていたのですが、「一生は続かないだろう」「これさえ耐えれば、わたしはもう自由!」と思っていましたね。でも、中学ではもっと地獄を見ました(笑)。Upload By 姫野桂参考: LITALICO発達ナビ「場面緘黙(かんもく)の原因とは?声が出ない要因、子どもの緘黙はなぜ起こる?大人の場合は?について解説」――中学校ではどのようなことがあったのでしょうか?沖田:特に中学1年生のときは、担任との相性が最悪でした。わたしが生まれた時代は第二次ベビーブームの終わりごろだったので、中学は1学年330人ぐらいだったんです。その中で、わたしは成績が330人中280番ぐらいで。「あ、良かった、わたしの下にこんなにいっぱいダメなやつがいる」と思っていたら、成績が悪いのは男子ばかりで女子はわたしだけ。それで目をつけられてしまって…。体罰自体は小学生のころもあったのですが、中学からは胸をつねるような性的な体罰もありました。良くないことですが、当時はそういうことが学校でまかり通っていた時代で、私自身もまだ中学生のころは、体罰と性的な加害の区別が難しかった気がしますね。他には、生理に対する嫌悪感も強かったです。生理が始まってからは、感覚過敏で、とにかく下着をつけるのが苦痛でした。スポーツブラのゴムでかゆくなってしまったり、生理用の小さいショーツそのものや、ナプキンに経血のつく感じがすごく嫌だったり。自分がにおいに敏感だったからかもしれませんが、生理中は周りにバレないかとすごく気にしていました。今は下着や生理用品の選択肢も増えましたが、そこで大変な思いをしている女の子はいると思います。親のすすめで看護師になるも、人と働くことの複雑さに悩む――高校では看護のコースに進み、その後専門学校を卒業して看護師として働き始めたとお聞きしました。なぜ看護師になろうと思ったのですか?沖田:これはもう親の刷り込みですね。家は自営業のラーメン屋、母親は「とにかく手に職をつけろ、看護師がええ」「とりあえず女は免許を取ったら一生食いっぱぐれないし幸せになれる」ということを口癖のように言っていました。わたしは一生一人でいいやと思っていたし、特になりたいものもなかったので、親がやれっていうならやったほうがいいのかなあと受け身で選択しました。結果、大失敗でしたけど(笑)。Upload By 姫野桂――大失敗ということは、看護師の仕事はうまくいかなかったのでしょうか。沖田:看護師に限らないと思いますが、まず社会に出たときの人間関係の複雑さには困りましたね。はっきりした役割もないし、「この人はフレンドリーに話しかけてくれるけど内心は違う」とか、「実はこの人たちは敵対しているから、聞いた悪口をそのまま伝えちゃいけない」とか、そういう暗黙のルールが全くわからなくて。わたしが入ってきたことにより、職場の人間関係がめちゃくちゃになってしまうこともありました。聞かれたことに答えていただけなので、どうしてわたしのせいだと言われるのかもわかりませんでしたが、気がついたら自分が嫌われてしまっていたという…。日によって相手のテンションが変わることにも対応できませんでした。昨日同じことをやって「うん」と言っていても、翌日は機嫌次第で「ダメ」となることもある。そうなると、もう何もできなくなってしまいました。わたしの場合は、最初に教えてもらったことが一生のマニュアルになってしまって、新しいルールが加わってもアップデートできないんです。「タオルを畳む」という作業ひとつとっても、前に勤めていたところで覚えた畳み方を、いくら注意されても繰り返してしまって。自分としては丁寧に畳んでいたつもりでも、職場の人にとっては使い勝手が悪くて迷惑だったみたいです。そういう認識のズレを、当事者はわかっていない。就職しても、そういうところでつまずいてすぐに辞めてしまう人もいると思うので、できれば学生のうちに、コミュニケーションのとり方の基礎を教えてほしかったです。学校でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)も受けられたらよかったんですが、当時は先生たちも知らなかったんだろうと思います。参考: LITALICO発達ナビ「ソーシャルスキルトレーニング(SST)とは?支援の対象、方法、気をつけたいポイントについて」 By 姫野桂22歳ではっきりと「人と違う」ことを自覚する――沖田さんは、漫画家になる前に性風俗で働いた経験についても、コミックエッセイで描かれています。沖田:看護師として働いている途中から、昼は病院、夜はおっぱいパブという働き方をしていました。看護師時代はワーカホリックで、「働いていないと生きている意味がない」と感じることもあったんです。当時はお金を貯めることが唯一の生きがいになっていましたし、肉体労働としての共通点も感じていたので、あまり抵抗もなくおっぱいパブで働き始めました。それまではあまりにも人のことに興味がなかったので、わたしなりに「人間を知りたい」とも思っていたんです。お客さんには「明日結婚するから最後に遊びに来た」「嫁さんがもうすぐ出産で、しばらく性的なことはできないから来た」などと話す人がいたり、社会的地位は高いけれどマナーの悪いお客さんもいたりして、「人って、普段外から見える部分だけではないんだ、いろんな要素が固まって人格になっているんだな」ということを知りました。これは、後々漫画をつくるにあたって非常に役立つ考察になりましたね。Upload By 姫野桂沖田:風俗の仕事は、中身のある会話をしなくていいところも息抜きになりました。60分チヤホヤしたら対価がもらえるというのが、シンプルですごく性に合っていたんです。同僚の女の子たちとの希薄な関係も好きでしたね。仮の名前や性格でも通用する世界は、とても気が楽でした。それでも、当時は看護師をメインの仕事に据えていました。本当は看護師の仕事に一生を捧げたかったんですが、正看護師として美容整形科で仕事を初めて3日目ぐらいで、初めて「人と違う」という自覚が出てきたんです。22歳のときでした。――「人と違う」というのは、どういう感覚ですか?小学生での、周りがロボットに思えるという感覚とは違うものでしょうか。沖田:日本語はわかるのに、相手が何を言っているかわからないことが多々あったんです。みんなが何か一言言われるだけで動けているときに、自分だけわからないという問題が、すごくはっきり出てきました。学生時代は「わたしはいいかげんな性格だから」とすませていましたが、国家試験にも受かって准看護師から正看護師になっている今回は、「あれ?」と思いました。そのとき、自分の頭にはごそっと何かが足りなくて、それが補えずに苦しんでいるんだなとぼんやりわかったんです。それでも、具体的にどんな風に困っているのかはどうしても説明できませんでした。――すでに診断されていた発達障害とは、沖田さんの中で結びついていなかったのですね。沖田:今になってみれば、それが発達障害を自覚したときだったと思うのですが、当時は自分に発達障害があるということも全部頭から抜けてしまっていましたね。わたしには、自分と特性の似た、不登校経験のある弟がいて。彼みたいな状態こそが「発達障害」なのだと思っていたんです。弟とは似ているところも多い分、昔はすごく嫌っていたので、かえって発達障害フォビア(憎悪)のようになっていた面もあると思います。そうやって、原因はわからないながらも自分は人と違うんだと思っていたころ、同い年の看護師の先輩に「本当に役に立たないね」と言われたんです。同い年だから余計につらくて。その人に「死ね!ハゲ!」などと言われたときに、「もう死んじゃおう」と、一度自殺未遂をしてしまいました。ロープが切れて自殺には失敗し、「ああ、今日死ぬ予定だったのに死ねなかった」とがっくりしました。でも「とりあえずルーティーンをしよう」と、いつも通り病院に行ったんです。上司に怒られながら仕事をして、家に帰ってからはめちゃくちゃになった部屋を片付けていたら、なんか、やっと…「わたし、病院以外のところでも生きていけるかもしれない」と思い始めました。その日からが、おまけの人生みたいな感じになったのかな。トーン貼りにハマり、4コマを描いたのがきっかけで漫画家に――その後はどうされたのですか?沖田:これをきっかけに本格的にリセットし、親の手の届かない、知らない土地でイチからやり直そうと、看護師を辞めて名古屋へ向かいました。23歳のときです。しばらくはまた性風俗業で働いていたのですが、当時の彼氏が漫画が好きで。彼の持ってきたルポ漫画がものすごく面白くて、ファンレターを送ったのが、現在の夫との出会いでした。電話をしたり、会って話したりする中で、夫がわたしを面白いと気に入ってくれたようで。東京に来ないかと誘われたときは一瞬考えましたが、そのほうが面白そうだと思って行くことを決めました。そのときはまだ、漫画は何もやっていません。夫と一緒に暮らすようになったときに、初めて漫画のトーン貼りを手伝って、「もっとない?」「わたし一生これで生きていく!」と言うぐらいハマってしまいました(笑)。Upload By 姫野桂――トーン貼りを手伝っていたところから、どのようにしてご自身も漫画家になろうと思ったのでしょうか。沖田:ある日、わたしがあまりにも「暇だ」と言うので、彼が4コマの枠だけを出して「これで何か描いてみてよ」って言ったんです。そうしたら、わたしは5分で書き上げたらしくて。それを見た彼が「お前、漫画家になれ」って。そのたった一言で漫画家になりました。わたしはコマが4つしかないからラッキーと思ったのですが、4コマ漫画って描くのが難しいらしいんですね。その時点で、漫画の基礎ができていたみたいです。ただ、絵は全然ダメで。4コママンガの中でキャラクターがどんどん痩せていって、4コマ目には別人になっているんです。左右の区別がつかないので、指の位置を逆に描いてしまうこともありますし。書けない文字がたくさんあることにも、漫画を描き始めてから気づきました。自分で漫画にセリフを書き込んだら、4コマ漫画なのに30個も赤字で修正が入っていたんです(笑)。とくに横の線は苦手で、ペンネームである沖田×華の「華」の字も3年ぐらい間違っていました。同じ字を何度も修正しているうちに、「見え方が他の人と違っているようだ」ということにもやっと気づきました。横線が動いたり、滲んだり、広がったりして見えるんですよ。どうも明朝体はダメらしくて。学習障害の一種であるディスレクシアも、そこで初めて自覚することになりました。ゴシック体だと理解できることは、最近わかりましたね。Upload By 姫野桂漫画家になったのは、「異世界転生」レベルの変化。湧いてくるアイデアをすくい、編集者と仕分けして漫画をつくる――他のお仕事も経験した上で漫画家になった沖田さんですが、漫画家という働き方はいかがでしたか?沖田:まったく怒られなくなったのには驚きましたね。締め切りを守るのは大前提ですが、わたしが出したものに対して、基本的に誰も文句を言わないんですよ。本当は不満もあるのかもしれませんが(笑)、言ってはこない。それがすごく新鮮で、別の世界に転生してきたようなレベルでしたね。どの仕事も、つまずくときは仕事内容そのものというより人間関係ですよ。漫画家のすごくいいところは、上司も部下もいないところですが、代わりにアシスタントや編集者との関わりがあります。わたしの場合、デビュー時に、同業者である夫が、アシスタントや編集者とのコミュニケーションの仕方を教えてくれました。わたし、アシスタントのことを友達みたいに思っちゃうんですよね。「疲れました」と言われたら「あ、いいよ、それやっておくよ」と言うような、なあなあの関係になってしまう。仕事をしてくれるのが嬉しくて、アシスタントの言うことをどんどん聞いてしまうんですが、本当はそういうのはよくないんですよね。仕事上の立ち位置を理解するのは、少し難しいです。漫画をよいものにしていく中で、修正を編集者から頼まれることもあります。「ここはこういう風に直してほしい」と言われた際、最初に思ってしまうのは、「この人はわたしのことが嫌いだからこんなことを言うんだ」ということなんです。そういう考え方のクセがあるんですね。でも、そうやって友達みたいな関係として捉えていると、「じゃあわたしも嫌いになってやる!」となってしまうので、作品をつくる上でよろしくない。そういうときは、夫が「編集者は友達じゃありませんよ」「仕事だから仕方なく!」って教えてくれるんです。そう言われると、編集さんが調子の良くない日もニコニコしたり、ご飯を一緒に食べたりするのも理解できて、関係性をとらえ直せます。そして、「そっか、これは仕事なんだ」「漫画をよくするための直しの要求なんだ」と納得して、うまく仕事のやり取りができるようになるんです。夫はいつも、自身の昔のしくじりを元に、怒鳴らずいろんな方向から説明してくれますね。Upload By 姫野桂――漫画を描くときに、どんなことを考えているのかもぜひお聞きしたいです。最近では、4コマやコミックエッセイだけでなく、ストーリーものの漫画も描かれていますよね。沖田:ストーリー漫画を描くことになったときは、どうやって描けばいいんだろうと途方に暮れましたね。編集担当さんが、ものすごく根気よく教えてくれました。先日、最終回を迎えた『透明なゆりかご』は、ネームにすごく時間がかかっていました。わたしは、そのコマ1つに一点集中型。今どんな話が広がっているのか、描いている最中はまったくわからないんです。それを見て、編集さんが「あ、見えてきました」とか言うので、わたしは「何も見えないじゃない」と思うんですが(笑)。これで話が繋がっているのかなと半信半疑で描いて、いざ掲載されたものを見ると、ちゃんと漫画になっているんですよ。そういうズレみたいなものがあります。だから、わたしは編集さんに「直して」と言われたら、「はい」と直すんです。多くの漫画家さんは、自分の作品への愛ゆえにこだわりがあって、編集者と衝突することも多いと聞きますが、わたしはまったくそういうことはなく。その道のプロである編集さんのほうが正しいだろうと思うんですよね。――そこを割り切っているのはすごいですね。沖田:ADHDの特性なのか、自分が描いたキャラクターや、その名前も忘れちゃうんですよ。キャラクターが5人程度でも、過去の単行本を引っ張り出してキャラを確認しています。『透明なゆりかご』については、読者さんから「泣いた」という感想をよくいただきますが、自分は泣いたことがなくて。他人のことが描かれているのに、なぜ泣くのかは不思議なのですが…きっと何か、思うことがあるんですよね。わたしはそういった共感がなく、看護師としての経験があるとはいえ、妊娠・中絶は経験していませんが、「それでも描けるんだ!」と今回わかりました。だからといって、適当に描いているわけではないんです。ADHDの脳みその特徴のようなものだと思うのですが、常にアイデアがポコポコとあぶくみたいに出ている状態で。それをすくってポイッと出し、編集さんと一緒に仕分けするのが、わたしの漫画の描き方です。今は、20ページぐらいの漫画であれば半日ほどでストーリーの構成ができるようになりました。Upload By 姫野桂自分よりも大切なものができて、仕事に「全て」を賭けなくなった――働く中で発達障害だと自覚し、仕事も変えて年を重ねてきた沖田さんですが、最近新たに気づいたことや変化したことはありますか?沖田:40歳に近くなって、性格がいい意味ですごく変わりましたね。昔は弁当に柴漬けが入ってなかったとか、そういうちょっとしたことで「わたしの今日1日を返せ!」ぐらいに怒っていたんですが、丸くなったというか。上京して夫と一緒に住み始めてからは、心のざわつきがあまりなくなりました。また、以前は「他人のことはわからなくて当たり前、それで相手に不快な思いをさせても仕方がない」と思っていましたが、最近は「向こうの心を知ろうとしたほうが、もうちょっと楽にコミュニケーションが取れる」というふうに考え方が変わってきました。歩み寄りが生まれているような気がします。それはきっと、自分よりも大切なものができたからなんでしょうね。昔は「若くて元気で整形もしていて、いっぱいお金を貯めている自分大好き!」だったのが、今はパートナーだったり親だったりを大事にしたいという気持ちが出始めていて、自分のことは別にいいかなと。好きなことをやり尽くした感じがあるからかもしれません。Upload By 姫野桂――では、仕事についての考え方も変わったのでしょうか。以前はお金を貯めることが生きがいで、「働いていないと意味がない」と思っている時期もありましたよね。沖田:今は、あまり仕事に人生を賭けないほうがいいと思っています。あくまでも仕事は仕事で、人生の一部。あまりにも仕事だけに集中していると、うまくいかなくなったときに墓穴を掘って爆発しちゃうこともあるので、やりたいことや趣味をいっぱい見つけたほうがいいかな、と思います。たしかに仕事はお金を稼ぐ上で大切なのですが、わたしにとってのおっぱいパブのように、ちょっと副業をかじってみたり、息抜きになるものがあったりしてもいいと思うんです。――ありがとうございます。先ほど自分の好きなことはやり尽くしたというお話がありましたが、何か今後やってみたいことはありますか?沖田:『透明なゆりかご』でも描きましたが、最近はコロナ禍の妊婦さんに取材をしていて。ある方は仕事を切られてしまい、車に1人で暮らしながら、大きなお腹を隠して臨月までUberEatsの配達員をやっていたんですよ。そういった行き場のない妊婦さんに住まいをつくるプロジェクトは、クラウドファンディングなどでもいくつかあるものの、数が圧倒的に足りていない。その方を少し支援しながらこの状況を見て、もっと手軽に困っている妊婦さんを支援できないか、滞在できるような施設をつくれないか、と思い始めているところです。また、話に出てきた弟は今、グループホームに入っているのですが、そういった施設やその住人は、社会から排除されやすいところがあります。開設に反対する近隣住民に、職員が菓子折りを持って回ったという話も聞いたことがあって。何も悪いことをしていないのに、なんでそんなに嫌がるものなんだろうと不思議なんです。だから、そういったことを『毎日やらかしてます。』シリーズで描いたり、グループホームを兼ねた何か大きなところをつくったりして、発達障害のある人が困らないような場所をつくりたいなと漠然と考えています。――最後に、進路について考えている読者にメッセージがあれば、お願いします。沖田:学生なら、親と先生、先生と子ども、みたいに、1対1でやりとりをするとスムーズなんじゃないかと思います。小さいときから自分を知っている親って、近すぎるんですよね。話し合いや進路の相談のときに、自分からしたら関係ないような昔の話も引っ張り出されることがありますし。わたしもマザコンなんですが、あんまり親の言うことは聞かんでもいいかなって思います(笑)。親だけに頼らず、できれば仲のいい先生をつくっておくのもいいかもしれません。わたしの場合は、同性のおばあちゃん先生が話しやすかったです。保健の先生も仲良くなっておくといいかな。わたしは専門学校卒ですが、金銭的に余裕があれば大学に行くのがおすすめですね。大学に入ることで、もっと選択肢が広がって、社会的にも学べる気がするので。学生のときって、自分のやりたいことをすごく集中してやってみたいときもあるじゃないですか。悪いことでなければ、それに没頭するのもいいと思います。Upload By 姫野桂明るく軽快に話してくれた沖田さん。仕事以外で趣味や好きなことを見つけたほうがいいという点には、個人的に「自分には何があるのだろう」と考えさせられてしまいました。しかし、年を重ねるにつれて、その回答がちょっとずつでも見えてくるのかもしれません。取材・文:姫野桂編集:佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2021年04月18日数多くのバラエティ番組で活躍する丸山桂里奈さん。愛くるしいキャラクターと、ちょっととぼけた発言で、多くの人に愛される人気タレントです。丸山桂里奈がいなければW杯制覇はなかった?丸山さんは元なでしこジャパン(サッカー日本女子代表)のメンバー。2011年7月に開催されたFIFA女子ワールドカップ(以下、W杯)のメンバーにも選ばれ、準々決勝で決勝点を決めるなど、なでしこジャパンのW杯制覇に貢献しました。2021年2月4日、丸山さんはそんな現役時代の写真を、Instagramに投稿。驚きの声が寄せられています。夫で元サッカー日本代表の本並健治さんに「別人です。笑笑」といわれたという写真がこちら! この投稿をInstagramで見る 丸山桂里奈(@karinamaruyama)がシェアした投稿 ちなみに、こちらは当時の写真を保存していた友人が送ってくれたもの。夫が別人だといってしまう気持ちが分かる…といったら失礼かもしれませんが、あまりの変わりように、さまざまな声が寄せられています。・北川景子さんかと思いました。筋肉スゴい!・浜崎あゆみにも似てる!・やっぱアスリートの身体はかっこいいなー。引き締まった身体は、さすがアスリート。高い身体能力で世界と戦った丸山さんならではのスタイルが、多くの人に衝撃を与えたようです![文・構成/grape編集部]
2021年02月05日落語家・桂文枝(77)の妻・真由美さん(享年67)と、母・治子さん(享年99)が相次いで他界していた。各メディアによると、昨年からガンを患っていた真由美さんは、1月24日に入院先の病院で死去。治子さんは翌25日に、老衰で息を引き取ったという。「文枝さんは、新型コロナによって様々な活動ができなくなったことを嘆いていました。その影響もあったのか、昨年末には“夢を語る場所”だったブログも休止に。真由美さんと治子さんが亡くなり、いっそう落ち込んでいるようです」(スポーツ紙記者)妻と母を亡くしたことを受け、文枝は所属する吉本興業が運営するサイト「ラフ&ピースニュースマガジン」でコメントを発表。「人生の中で2日続けて死亡届を書くなんて思ってもいませんでした」と、心境を告白。「悲しいです辛いです」としながらも、「2人のためにも落語と向き合って今以上の努力をし皆様に喜んでいただくよう芸道に励みますそれしか2人に報いる手立てがありません」と覚悟をつづっている。そんな文枝は’19年3月に本誌で、落語家になった経緯を語っていた。高校在学中に同級生と漫才コンビを結成。進学した関西大学で落語に魅了され、卒業後に落語家の門を叩いた。その際、師匠となる故・桂小文枝さんが提示した入門条件は「親の了承」。幼い頃に父を亡くした文枝にとって、治子さんはたった一人の親だった。だがなかなか話を切り出せず、「就職の面接があるから、人事部長に会って」と嘘をついて連れ出したという。ところが治子さんは「月謝のようなものはいりますかーー。よろしくお願いします」と、師匠に深々とお辞儀したのだった。その時のことを、文枝はこう述懐していた。「母を騙したつもりでしたが、実際は、息子が就職せずに噺家になることに気づいていた。その晩、横で寝ている母を見ると、肩をふるわせながら泣いていました。子が手を離れる安心、それとは反対の寂しさ、先行きへの不安……複雑な感情が渦巻いていたんでしょう。あの晩の、母の背中が目に焼きついて、『どんなことがあってもやめてはいけない』と思いました」■真由美さんは自律神経失調症から救ってくれた恩人「桂三枝」としてデビューした文枝は、’67年にラジオ『歌え!ヤングタウン』(MBS)の司会で一躍ブレーク。『ヤングおー!おー!』(MBS)や『パンチDEデート』(関西テレビ)といった人気番組で、徐々に頭角を現していった。全国的に人気が増し、’72年には『ヒットでヒットバチョンといこう!』(ラジオ大阪)のアシスタントだった真由美さんと結婚。そして放送開始当初から司会を務めてきた『新婚さんいらっしゃい!』(テレビ朝日系)は、ついに今年で50年を迎えた。「本番組は’15年7月、『同一司会者によるトーク番組の最長放送』としてギネス世界記録に認定。文枝さんは『僕にとって何よりの勲章です』と、目に涙を浮かべていました」(前出・スポーツ紙記者)公私ともに順風満帆に見えた文枝だが、40歳をすぎた頃に自律神経失調症と診断された。文枝は’20年4月、その時期の辛さを本誌にこう語っていた。「あの時代、僕は10本以上のレギュラー番組を抱えていて、東京と大阪を往復する日々でした。疲労がピークを迎えたのか、番組によっては撮影中に気分が悪くなって、途中で収録を止めることもあって」次第にめまいを感じるようになり、おなじみの“椅子からコケる芸”にも不安を覚えたという。しかし、真由美さんの一言が文枝を救ったのだった。「いつものようにめまいが怖くて、じーっと自宅の椅子に座っている僕に、『コケて頭を打ったぐらいでは死なへんで』と奥さんが言ってくれたのです。『よく考えたら、そやな』と、ハッとさせられました(笑)。そこから、倒れたら倒れたときやと開き直れるようになって。10年くらいかけて、奥さんが僕を自律神経失調症から回復させてくれたのかな」最愛の真由美さんと治子さんは、天国でも文枝を見守ってくれるだろうーー。
2021年01月28日フツウの学生時代から一変就職先から告げられた「辞めてほしい」名古屋市で生まれた石橋さんは、義務教育を経て高校に進学した。成績がすこぶる優秀だったというわけではないが、勉学でつまずいたり、校内で問題を起こしてしまうようなタイプではなかったという。「学生時代を振り返ったんですけど、特になくて。例えば先生に呼び出されるようなタイプでもないですし、赤点を取っていたタイプでもなかったんです。何人かの友達に『学生時代、俺ってどうだった?』って聞いてみたんですけど、別に普通だって」(石橋さん)大学受験にも合格。「困っている人の役に立てれば」と、医療・福祉系の学部を選んだ。より広い視野で社会福祉を学ぼうと、セミナーに参加するため米・ハワイの大学まで足を運ぶなど、向学心はむしろ人一倍強かった。そんな石橋さんが異変に気付いたのは、愛知県内の病院に就職してからだった。「普通の人と比べると物覚えが遅いとか、向こうから指摘をされて。これだけミスもあるし、病院としては正直辞めてほしいっていう話がありました」(石橋さん)Upload By 桑山 知之「グレーゾーンかもしれない」就職後に自閉スペクトラム症の診断石橋さんの就職先は、病院にある「医療相談室」だった。ソーシャルワーカーとして、入院患者や家族の希望を聞き取るほか、家族間や金銭的な悩みなどにも応えるといった、あらゆる問題を調整する業務にあたっていた。複数の入院患者のことを同時並行で進めなければならず、またそれが次から次へと続くわけだが、石橋さんが受け持つ患者の数は先輩と比べて少なかったという。「先輩たちは10人とか15人を同時に担当していたんですが、僕は正直なところ5人でも回せていなかったんです。5人分の困りごと、例えばこの人はこれが困っている、家族さんの背景はこうで、この家族さんにはここの支援機関だとか。人によって別のところと話さなきゃいけないし、この人は市役所のこの部署と話さなきゃいけないしとか、同時にやっていくのが困難だったっていうのは確かにあります」(石橋さん)Upload By 桑山 知之そして就職から半年以上が経ったある日、石橋さんはパニック発作を起こした。「当時、僕がパニック発作って分からなくて、病院に行っても原因が分からなかったんです。それで、精神科に行ってみたら、それはパニック発作ですねって言われて。もしかしたら発達障害があるかもしれない、“グレーゾーン”かもしれないって」(石橋さん)「次に何をしなきゃいけないのか、複数が同時に来ると分かんなくなってしまう」という、自閉スペクトラム症の特性のひとつとされる「同時処理困難」があった石橋さん。困っている人の役に立ちたいと夢見た医療の道だったが、促されるような形で退職したのだった。Upload By 桑山 知之職場からの「キミがいなくなっても困らない」――ミスをまとめた書類も発達障害はグラデーション状に広がっており、白か黒かといったはっきりとした判別が難しい。むしろ中間部分である「グレーゾーン」の方が多いとも言われている。自身も当事者であるライター・姫野桂さんの著書『発達障害グレーゾーン』(扶桑社)などにもあるように、発達障害の傾向はあっても、診断までは出ないというケースは全国的にも多く見られている。今回インタビューに応じてくれた石橋さんは、精神科にかかった後、自閉スペクトラム症の診断こそ出たものの、日常生活では特に困難さがあるわけではなかった。自分のことを周囲にどのように理解してもらうかを悩んだ末、勤務先の病院にも、障害のことを思い切って打ち明けた。すると、衝撃的な言葉が返ってきた。「(勤務先の病院に)言われたのは『キミがいなくなっても病院は次の人が入ってくるんだから、病院としては困らない』と。日本全国で大学卒業する人が誰もいないんだったら別だけど、そんなことはない。毎年入ってくるんだから、キミがいなくなっても病院としては困らないって。使えないから切ればいいっていうのは理解できるんですけど…」(石橋さん)石橋さんを辞めさせるためなのか、勤務先では石橋さんの仕事上のミスや当時の状況を事細かに同僚が書き起こし、ファイルにまとめていた。「何度も同じミスがあり、すべてに他者の確認作業と修正が必要」「他の作業をしていると、やることが抜ける」「相手の置かれている状況が想定できない」――。石橋さんは、退職を選ばざるを得なかった。Upload By 桑山 知之誰も取りこぼしたくない実体験を通して知った弱者の気持ち現在、石橋さんは再び職に就くためにLITALICOワークスで就労移行支援を受けようとしている。そこには、昔からブレずに抱いている思いがある。「誰も取りこぼしたくないっていうのはありますね。社会的に不利に追い込まれてる人とか、そういう人が不利益を受けるんじゃなくて。ひとり親、障害者、高齢者、親がいないお子さん……。そういう人たちが不利な状況になりやすい社会にはしたくないなって思うので、そういう人たちも幸せを感じられるような世の中にしていきたいなっていうのは漠然とありますね」(石橋さん)かつての勤務先で自身の発達障害を打ち明けても相手にされず、辞めるよう促された過去。石橋さんの心の中で、より強い思いが湧き上がった。「そういったことを言われた経験を踏まえて思いましたね。弾き出されるときって、こんなに露骨に弾き出されるんだなって。実体験としてすごく思いました。だからこそ社会の中で誰ひとり取りこぼしたくないし、自分の力が役に立てる場所でやっていきたいです」(石橋さん)Upload By 桑山 知之平成元年愛知県名古屋市生まれ。慶應義塾大学経済学部在学中からフリーライターとして活動。2013年に東海テレビ入社後、東京支社営業部を経て、報道部で記者/ディレクター。2018年から公共キャンペーンのプロデューサーとして「いま、テレビの現場から。」や「見えない障害と生きる。」、「この距離を忘れない。」といったドキュメンタリーCMを制作。主な受賞歴は、日本民間放送連盟賞CM部門最優秀賞、ACC TOKYO CREATIVITY AWARDSゴールド、JAA広告賞 消費者が選んだ広告コンクール経済産業大臣賞、ギャラクシー賞CM部門優秀賞など。取材・文:桑山知之取材協力:若者支援ネットワーク研究会in東海LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2021年01月17日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー難波寿和さん島根県を拠点に、フリーランスの臨床発達心理士・公認心理師として働く難波寿和さん。子どもから大人まで、発達障害がある人のカウンセリングや療育に携わっています。そんな難波さんは、ASDの当事者でもあります。当事者が当事者を支援する中で感じることについて、難波さんのこれまでの歩みと共にお聞きしました。いい関係を築きたいのに、うまくいかない。「問題児」扱いされた幼少期――難波さんは、「臨床発達心理士」の資格をお持ちですよね。臨床発達心理士の仕事は、どのような内容なのでしょうか?難波寿和さん(以下、難波):臨床発達心理士は、発達心理学をベースに、子どもから大人までの成長・発達をサポートする仕事です。発達障害のある人だけでなく、幅広い人が対象となります。具体的な仕事内容としては、発達障害のあるお子さんの療育に関わったり、大人の発達障害当事者の方のカウンセリングをしたりしています。昨年、新たに国家資格として定められた「公認心理師」の資格も取得しました。Upload By 姫野桂――難波さんは幼い頃、どんな子どもでしたか?難波: 家の中ではやんちゃでしたが、母と離れることへの不安が強かったですね。喘息の症状緩和のために、3歳ぐらいからスイミングに通っていたのですが、そこで母親から強制的に引き剥がされたのが嫌で、母子分離不安になってギャンギャン泣いていました。感覚過敏もあり、母親以外に抱きかかえられると、嫌で噛みついたりもしていましたね。4歳から入った保育園でも、母はいつ迎えに来てくれるのだろうかとずっと不安に感じていました。――お母さんから離れることへの不安は、小学生でも続いたのでしょうか。難波:いえ、小学生からは、学校へ行くことの不安に変わっていったと思います。授業などの細かいスケジュールの変更や、何分後に何が起きるかわからない行事が苦痛でした。先の見通しが立たないので、トイレに行くタイミングがわからず、授業中に漏らしてしまうこともありました。感覚過敏だけでなく、感覚鈍麻もあって、僕は今でも便意がギリギリまでわからないことが多いんです。小学2年生のときに、トイレは休み時間のうちに必ず行っておく、授業中に行きたくなったら「トイレに行きたいです」と言えばどうにかなる、ということに気づき、それでなんとか漏らさずにすむようになりました。――そうだったんですね。他にも、学校生活で何か困ることはありましたか?難波: 落ち着きもなく、忘れ物もひどかったです。ほとんど毎教科で何かしら忘れ物をしていました。授業では、先生の話を記憶しようとした瞬間に、もう次の話に移っているので、なんの話をしているのかが全然わからなくって。1年生の時点で遅れをとっていました。友人関係も、いい関係を築きたいというイメージはありましたが、うまくいきませんでしたね。保護者会が僕の話題でもちきりになるぐらい、問題のある行動をしてしまっていて……。例えば、友人に暴言を吐いたりとか。それでいじめられるようになりました。僕もひどいことを言いたいわけじゃなかったんです。でも、そうしないと友達が自分のほうを向いてくれなかった。学校の先生は、「人の気持ちを考えなさい」と言いましたが、具体的にどうしたらいいかは教えてくれなかったので、どうすることもできませんでした。そのころは、全部人のせいにしていましたね。学校が悪い、先生が悪い、いじめる友達が悪いという考え方でした。――そんなとき、幼少期の難波さんにとって安心できる存在だったお母さんは、どのような対応をされたのでしょうか。難波: 母親は、「とにかく生きとりゃいい」「死ななかったらなんとかなるわ」みたいな考え方で(笑)。具体的な対処法は教えてくれませんでしたが、小学校6年生ぐらいまで、僕が帰ると膝の上で30分ぐらい話を聞いてくれました。「こんなことした」「あんなことされた」と泣きながら話すと、「おう、いけんかったなあ」とただただ慰めて支えてくれたのを覚えています。友達を模倣することでなんとか切り抜けてきた難波:僕、小学校の卒業式のときに、「僕は生まれ変わるんだ」と決めたんですよ。小学生のときの記憶に全部蓋をして、もう何も言わない、何も感じないようにするんだ、と。その決意の通りに中学校では比較的おとなしく過ごし、一緒に遊べる他の小学校出身の友達もできました。その一方で、乱暴に振る舞う人をコミュニケーションのお手本にしてしまうなど、まだまだうまくいかないこともありました。授業は黙って座っていれば問題ないことに気づき、耳も慣れてきて、小学生のころよりは聞けるようになりましたね。塾にも通って、成績は中の下ぐらいまでには、なんとかもちなおして。きちんと出席していたこともあって、推薦入試を受けることができ、全寮制の高校に進学しました。Upload By 姫野桂――寮ということは集団生活になるかと思いますが、その点は苦ではありませんでしたか?難波: むしろ、いろんなモデルがいて、いい模倣の場になりましたね。僕はこれまで、「この人をコピーする」と決めた人の話し方や動き方を模倣して学び、問題行動を修正して切り抜けてきたんです。寮生活では、他の人の掃除や洗濯、勉強の方法を模倣し、学ぶことができました。でも、この学習スタイルには問題があって。理屈がわからないまま覚え、そのまま真似しているから、応用がきかないんです。だから、学校でのテストでは90点取れるのに、模試になると数学2点、のようなことが起きていました(笑)。――応用がきかないという点、すごく共感します。高校生は進路を考える時期でもありますよね。難波さんは「モテたい」という理由で心理職を目指したと小耳に挟みました。難波: そうなんです。当時やっていたドラマを見て、「カウンセラーってモテそうだな」と思った、という不純な動機でした(笑)。一応、他の理由として「自分はなんでこんな変な生き方をしているんだろう?」と思ったこともあります。自分から関わりに行っても、なぜ人が離れていってしまうのか知りたくて、勉強したらわかるかなあと思い、岡山にある大学の心理系学部に進みました。――実際に大学で心理学を勉強してみて、いかがでしたか?難波: 全然楽しくなかったし、「これ、モテるのか!?」と思いました。ユングとかフロイトとか、いろいろ勉強しましたが、もう言葉の意味や解釈がわからないし、なぜそんな心の動きになるのかもわからない。基礎心理学の方面に行こうかとも思いましたが、数学が苦手なので統計学ができず、それもあきらめました。そんなとき出会ったのが、発達障害のある子どもたちでした。大学3年生から4年生ぐらいのころですね。はじめはうまく関わりが持てず、「なんだこの子たちは!」と衝撃を受けました。でも、関わっていくなかで「僕と似ているじゃないか」と感じるようにもなったんです。言うことも聞かないし話も通じない、幼少期の僕にそっくりでした。「自分でも、力になれるのではないか」と感じて。そこから、障害のある人たちを支援する職へ就こうかなと考え始めました。ここだけは、まともな動機でした(笑)。「支援者」というプライドが受診を遅らせた。仕事のつまずきから30歳を過ぎてASD診断を受ける――発達障害のある子どもたちが「自分と似ている」と感じたとのことですが、ご自身が発達障害の診断を受けたのもその時期なのでしょうか。難波:それが、そうではないんです。大学院に入り、障害児教育について研究するにつれて、自分も似ているところがあるぞと思うようにはなりましたが、なかなか受診には至りませんでした。指導教員が主催するペアレント・トレーニング(保護者向けの、子どもとの関わり方を学ぶプログラム)に大学院生たちで参加したときです。振り返りの時間に、他の学生が「あのお母さん、しんどそうだったね」「あの人は、こんな思いを持っているよ」と話していたのですが、僕には全くわかっていなかったんですよ。表情を読んでいなかったし、言葉尻しか掴めず、相手の心情も全然わからなくって。「自分はやっぱり...」と思いました。でも結局、自分は発達障害じゃないという結論にそのときはなったんです。Upload By 姫野桂――どうしてそう思ったのでしょうか?難波: これまで、さまざまな問題行動を模倣で改善してきていたので、自分で直せばなんとかなると思っていたからです。忘れ物があれば忘れないようにする、レポートは期日を決めて出す、片付けが難しいのは片付ける気がないからだ。23歳のときにはそんな風に思っていたので、病院を受診するまでにそこから7年かかりました。――30歳で病院を受診し、ASDと診断されたとのことですが、受診のきっかけは何でしたか?難波: プライベートと仕事での困難が重なり、うつ病になったことがきっかけです。大学院卒業後は、心理士として福祉施設で働いていました。これまで勉強したことを活かせる仕事で、自分に合っていると思いましたし、障害のあるお子さんの支援に関しては保護者の方からも評判がよかったのですが、職員さんとの関係に問題があって。あとから振り返ってみると、自分は書類の不備や忘れ物など日頃のミスが多く、よく指摘されていたんですね。それに、対人関係はどうでもいいと思っていた。そんな中で、会議では自分の思う理想の支援のために「こんなんじゃダメだ」などと強く主張したりしていて...周りからすると、信用するのが難しいですよね。トラブルが多く孤立し、業務を減らされてしまうこともありました。プライベートの人間関係でも悩んでいましたが、それでもなかなか受診しなかったのは、どこまででも改善できるはずだと思っていたのに加え、「支援者」としてのプライドがあったからです。自分のメンタルの管理もできずに人の支援なんてできないと、当時は思っていたので。でも、うつ病になってしまったことで、「これはもう精神科に行かんといけん」と思って、泣きながらようやく病院に行きました。――いざ診断を受けてみて、どんな心境になりましたか?診断が下りて安心したと話す人も多い印象ですが。難波: 「やっぱりな」という思いと、「これからどうしよう」という絶望感の両方がありました。これまで勉強して得た知識から、立て直しは大変だろうと感じ、途方に暮れましたね。当時は障害者差別解消法(2013年)ができる前で、職場等での合理的配慮もなかなか期待できない状況だったので、何も受けられる支援がないと思っていたんです。診断が下りて公私ともに行き詰まった状態になり、もう死のうと思ったこともありました。でも、そこでもう一度自分の人生を振り返ることにしました。1人で記憶の蓋を開けていく中で、これまでの自分の過去と向き合うのが怖くて、自分のことをちゃんと見ていなかったのに気づいたんです。小学校の卒業式で記憶を押し込め、自分の人生をなかったことにしたのもその一つでした。自分では責任を持たず、周りのせいにして問題を放棄していたんですね。そこと向き合いながら、自分はどんなことを辛く感じ、どんな援助が必要なのか、どんな課題があるのかを書き出して、自分ですること・他人に頼ることを分けて整理していきました。そのときに、「やれば普通になれる」という考えはやめ、代わりに「生きやすく、自分なりに生きよう」と思ったんです。仕事はパズルを解くような面白さ。「共感」ができなくても心情は聞き取れるUpload By 姫野桂――そのような経験を経て、いま再び心理士として働いていらっしゃるんですね。心理士の仕事をする上で、ご自身のASD特性がどのように影響するかや、困りごとがあったときの対応方法などについて、お聞きしたいです。難波: 自分のできる方法で自己対処しつつ、自分の特性についてはあらかじめクライエントさんに伝えるようにしています。子どもの療育であっても、発達障害のある大人のカウンセリングであっても、僕は相手に「共感」することってほとんどないんですよ。基本的に共感性がないんです。表情などの視覚的な情報から相手の気持ちを推し量るのも、挑戦はしましたが、自分には無理だとわかりました。それでも、スキルとして話の聴き方や声のかけ方は身につけましたし、耳からの情報なら相手の感情が若干読み取れるので、徹底的に聴いて理解するトレーニングをしました。30歳以降もずっと続けた結果、今はわりとうまくカウンセリングで寄り添えるようになったように思います。そして、僕はクライエントさんやその保護者にも、「発達障害があります」「コミュニケーションに難があります」と開示していますが、それによってカウンセリングをやめていく方はいないですね。僕の本を読んでくださっていて、「知ってますよ」と答える方もいます(笑)。守秘義務等も含む約束事や支援方針について、最初にきちっと話し、了解を得てから仕事に取り組んでいます。――反対に、ご自身も発達障害の当事者であることが役立つこともあるのでしょうか。難波: 忘れ物対策や、怒りの感情のコントロールを支援するときは、すごく役に立っています。また、僕自身が服薬していると話しているので、薬への抵抗感が強い人にも、試してみるという選択肢を増やすことができているかなとは思います。療育を受けているお子さんの保護者さんからすると、僕自身が「こうやって乗り切ってきた大人がいる」という一つの希望にもなるかもしれないですね。――たしかにそうですね。どんなときに仕事のやりがいは感じますか?難波: えーっと、「やりがい」っていうのは正直あまりなくて、基本的にはプレッシャーばかりです。相手の人生を背負っているわけですし、大学院生のときからこの道一本で、他の仕事は多分就けないだろうと思っているので、1回1回が勝負という気持ちでやっています。でも、僕は発達障害や障害のある人たちの療育・カウンセリングに、パズルを解くような楽しさを感じるんです。何か困りごとがあってクライエントさんは来るわけなので、その問題をどうすればその人たちが面白く、楽しくできるか、パズルを解くように考えていく。それで、うまく支援を組み立てて実行できると楽しいんです。そうやって、どんどん来るパズルのピースを解きまくっているような感覚で...。それが、やりがいと言えばやりがいなのかもしれません。できないことはできないから、福祉的な支援を借りる――毎回真剣に仕事に取り組みつつ、そういった楽しさも味わっているのですね。少しプライベートな話になってしまいますが、現在難波さんはご結婚されていて、パートナーの方もASDの診断を受けていると著書で書かれていますよね。パートナーシップに関して意識していることがあればお聞きしたいです。難波:気をつけていることがいくつかあって、一つはギブアンドテイクです。自分がした分の見返りを求めるという姿勢は、経験上ダメになりやすいので(笑)、相手がやってくれたことに関して、自分もできることを探してやろうというスタンスでいます。もう一つは、それぞれの人生がある個人として考えること。彼女には彼女の人生があり、子どもには子どもの人生があって、僕はその人生に一緒にいるだけなので、相手の考えや意見を尊重する。自分は自分で、まだまだうまくできませんが、自分のしたいことを言葉で伝えるようにしています。「察して」は、どちらにとってもやっぱり難しいですね。あとは、できないことはできないので、福祉的な支援を借りることでしょうか(笑)。今は、それぞれが訪問看護、病院、カウンセリングなどから必要な支援を受けています。僕は僕で悩みを話すし、彼女は彼女で話すと思うので、主治医が板挟みにならないよう、主治医はそれぞれ違う人にしています。診断時にプライドを捨てることができたからこそ、今はできないことを「できない」と言って助けてもらったり、適切に声を上げたりすることができていると思います。Upload By 姫野桂――適切に声を上げるというと、なかなか難しいですよね。何かコツはありますか?難波:困りごとに応じて、相談相手を変えることですかね。全て同じところに相談したり、相談先を間違えたりすると、適切な支援が受けにくくなってしまうので。問題が出てきたときに、これは福祉の相談支援専門員の人に相談するのか、それとも主治医か、カウンセラーか、親か...などと、妻と話し合って考えるようにしています。「生きやすく生きること」がゴール――このインタビューの読者には、進路や人間関係で悩みを抱えている人もいるかと思います。そんな人に向けて、何かアドバイスをお願いしたいです。難波:僕がいつも発達障害の当事者さんに言うのは「まあ、ほんとによぉ生きとぉわ!」ということです。みなさんがその場に存在していること自体が、僕にとっては嬉しいんです。苦しさや不安を抱えながら生活している人も多いと思うので、そんなときは、藁にもすがる思いで相談したり、しんどさを打ち明けたりしてもいいんだよ、と伝えたいですね。これから頑張ろうと思っている人たちには、チャレンジをやめないでほしいです。僕も30歳で、他人の感情がわかりにくいと言われるASDの診断が下りましたが、それでも心理士を続けています。僕は周りに「(心理士は)無理じゃない?」と言われ続けてきましたが、結果がどうなるかはわからないことだったとしても、自分がやりたいことには、まずはチャレンジしてほしいなあと思います。あとは、「いい会社」「いい学校」に入ろうとするのではなく、自分が大切にされる場所を選んでもらいたいですね。理想を掲げるのはいいのですが、居場所がないことも実際はあるので...大切にされない思いをしてまでそこに行くというのはちょっとおすすめできません。これは、すでに働いている人たちにも言えることですが、自分の居場所になりそうな場所を考えて動いていってもらえたらいいなと思います。就職しても、進学しても、なんとでもなりますよ。ちょっとでも無理だと思ったら、二次障害になって調子が悪くなる前にさっさと辞めてしまったらいいと思います。人生はいろんな選択肢があって、いろんな生き方ができるから、「こうでなくてはいけない」というものはないと伝えたいです。働くこと、進学することがゴールではなくて、生きやすく生きることがゴールだと思うので。自分なりに納得した生き方をすることを、応援したいと思っています。――では最後に、今後の目標を教えてください。難波:理想としては、当事者ファーストの支援ができたらと思います。日々、困っている人たちの最前線で寄り添いながら、講演会や啓発活動、カウンセリングなどの活動をしていきたいです。「ありえへんことが、ありえる」のがこの発達障害じゃないですか。いろいろな当事者さんが社会に出て行って、「別にいいじゃん」「みんな一生懸命生きてるじゃん」「君は君でいいじゃん」と受け入れられて、生きやすく生きることが社会で実現するような流れになったら、僕の出番はなくなるかなあと思います。僕はこんなぐちゃぐちゃした人生ですが、行き着いたところが心理士なので、なんとかやれるところまでやってみたいなと思っています。あとは、いつかテレビに出てみたいですね(笑)。Upload By 姫野桂終始、穏やかな語り口で、時折冗談も交えてお話をしてくれた難波さん。「仕事にやりがいがない」と言われると、「なぜその仕事を続けているの?」と疑問を持つこともあるかと思いますが、難波さんの場合は、やりがいとはまた違う仕事の面白さを感じているとのことでした。このお話からは、難波さんならではの思考と特性が見えた気がします。難波さんの話すとおり、身を守りつつチャレンジしていく精神を、わたしも持っていたいと思ったインタビューでした。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子LITALICO発達ナビ無料会員は発達障害コラムが読み放題!
2020年12月20日元サッカー女子日本代表でタレントの丸山桂里奈とモデルのMattが18日、オンラインで開催された「VOCE BEST COSMETICS AWARDS 2020 ONLINE -YouTubeLive-」にMCとして登場した。美容雑誌『VOCE』(講談社刊)が主催する「VOCE BEST COSMETICS AWARDS」は、数あるビューティアワードの中でも化粧品の売上にもっとも直結すると言われる美容界注目の賞。今年は、コロナ禍における新しい贈賞式の形として、オンラインで開催された。冒頭、MCのMattと丸山桂里奈、サブMCの林みなほが登場。丸山は、隣のMattの美しさに釘付けの様子で、「美容といえばMattさんだし、Mattさんといえば美容。こうしてここにいさせていただくだけで、私がきれいになりそうです。ナタデココくらい潤っています」と話すと、Mattは「丸山さんもきれいですよ。ファビラスです」と声をかけた。また、新婚の丸山は改めて結婚を祝福され、「ありがとうございます」と感謝。「順調ではありますけど、ケンカもたまにします」と明かしつつ、「結婚して3カ月。同棲して2カ月。めちゃくちゃ楽しいです」と幸せオーラを放った。
2020年12月18日木彫りの人物像の作品で知られる舟越桂の展覧会『舟越 桂 私の中にある泉』が、12月5日(土)より1月31日(日)まで、渋谷区立松濤美術館で開催されている。1980年代から現代の作品に至るまで、一貫して人物像を作り続けていた舟越の内なる源泉に迫っていく展覧会だ。舟越桂は1951年生まれ、《原の城》や《病醜のダミアン》などの作品で知られる彫刻家の舟越保武、詩人の舟越道子の間に次男として誕生、彫刻の道を志した。2017年に逝去した弟の舟越直木もまた彫刻家として活躍していた。本展は、舟越の足跡を初期作品から丁寧に追っていくものだ。舟越の彫刻作品は楠に彩色をほどこし、大理石の目を入れていることが特徴とされている。しかし、本展では《妻の肖像》のように、まだ目に大理石が入れられていない初期作品も展示。作家の作風の変遷をしっかりと辿ることができる。舟越桂《妻の肖像》1979-80地下1階の展示室には、舟越の初期から2000年前後までの作品が並ぶ。白井晟一が設計した重厚な建物のなかで、動きを抑制し、直立した人物像は強い存在感を醸し出ている。ガラスの衝立もなく、人体とほぼ同じ高さで配置されているため、遠目から見ると鑑賞者と作品が区別できないほど溶け合っていることも。展示風景より展示風景より展示風景よりしかし、そんな写実的な作風で知られた舟越の人物像は1990年代より「異形化」が始まる。通常の人体ではありえないほどの長い首や、ねじれた位置にある腕を持つ人物像が出現しはじめたのだ。2階展示室では、この傾向がさらに強まる2000年代以降の作品を主に展示している。奥 《戦争をみるスフィンクス》2006年 手前《海にとどく手》2016年《言葉をつかむ手》2004年身体という枠組みを自由に拡張して表現を行うようになった舟越は作品に施す着彩も自由になっていく。2003年には、《妻の肖像》以来、約20年ぶりに裸婦像《水に映る月蝕》を制作した。《水に映る月食》2003年そして、2004年より、舟越は半人半獣・両性具有のスフィンクスをモチーフにした「スフィンクス・シリーズ」を制作開始。《スフィンクスには何を問うか?》は、この展覧会が初の披露となる新作だ。《スフィンクスには何を問うか?》2020年ダイナミックに変遷する作品とともに、同展では舟越の思考のプロセスや、人となりを伺わせるものも展示している。彼がノートやボール紙の切れ端に書き留めた言葉やスケッチ、彫刻制作の際に出た木っ端を使って作った木の玩具などは、使う相手を思いやる気持ちにあふれたものだ。舟越が描いたメモ《板きれの人形》1985頃アトリエの再現舟越が社会は人物だけでなく、社会や人々のありかたそのものを真摯に見つめていることは、これらのような、日常の細やかな制作物などからも十分に伺える。展覧会に展示された静謐な作品、そして温かみのあるメモや手作りおもちゃなどをしっかり見ていけば、舟越桂自身に迫ることができるはずだ。取材・文:浦島茂世【開催情報】『舟越 桂 私の中にある泉』12月5日(土)~1月31日(日)、渋谷区立松濤美術館にて開催
2020年12月12日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー高梨健太郎さん都内で会社員として働く、高梨健太郎さん。働く中でのつまずきをきっかけに、ADHD(注意欠如・多動性障害)の診断を受けました。現在ではご自身の経験を活かして、就労支援のトレーナーや、タスク管理支援ツール「タスクペディア」の企画・発案といった活動もされています。今年の4月、仕事をやりやすくするための秘訣をまとめた『要領が良くないと思い込んでいる人のための仕事術図鑑』(サンクチュアリ出版)も上梓しました。現在はいい環境で働けていると語る高梨さんですが、今の働き方にたどり着くまでには、紆余曲折があったと言います。会社員として働きつつ、「タスク管理」をテーマに就労支援も――(名刺を交換して)会社の管理部門と広報部門、リワークトレーナー、タスク管理支援ツール「タスクペディア」の広報…。高梨さんは今、4つの名刺を持って活動しているのですね。高梨健太郎さん(以下、高梨):はい。障害者雇用枠で入社した会社で、今は一般枠の社員として週5日働いています。広報部門と管理部門の業務を週4日。残り1日は、会社の業務の一環で「EXP立川」という就労移行支援事業所に行き、タスク管理に関する就労支援のプログラムをしています。わたしのタスク管理方法を元に、プログラマーの友人が開発してくれた「タスクペディア」は、EXP立川を運営する社会福祉法人SHIPから、無料でリリースされているクラウドツールです。自分が担当するプログラムでも、使っています。タスクペディア公式Upload By 姫野桂――高梨さんも診断されているADHDには、忘れ物をしやすかったり、優先順位を決めるのが苦手だったりといった、まさにタスク管理術を役立てられそうな症状もあるかと思います。高梨さんの場合は、どんな症状がありますか?高梨:段取りをつけることや整理整頓が苦手だったり、物事を忘れやすかったりします。多動性や衝動性よりも、不注意の割合が大きいですかね。会社の代表電話をとるような、誰からかかってきて、どこにつなげばいいかをすぐに考える必要があるものも、混乱してしまうので苦手です。また、叱責されると、しばらくの間、頭が真っ白になってしまうことがあります。だから、今の会社の入社面接で「配慮してほしいことはなんですか?」と聞かれた際には、「怒るのではなく、提案という形で改善点を教えてほしい」と伝えたりもしました。症状は出ていたが自覚はなく、「天真爛漫」な子ども時代――これまでお話いただいたような症状は、昔からありましたか?どんな子ども時代を送ったのでしょうか。高梨:今思えば、子どものころから症状はありました。小学1年生ぐらいのときには、とにかく片付けができなくて。学校の夏休みの前って、机の中身を空にしたり、朝顔の植木鉢を持ち帰ったりするじゃないですか。あれが嫌で仕方ありませんでした(笑)。他の子たちは毎日少しずつ持ち帰っていたのですが、わたしは最終日まで全然持ち帰らなかったので、大荷物で。それを見越していたのか、親から「とにかくなんでも全部入れて帰ってきなさい」と、ものすごく大きい袋を渡されたことがありました。当時の自分は、素直に「うん、わかったー!」と荷物を詰め込んで持ち帰り、褒めてもらっていましたね。自分の中ではすごく楽しい、笑える思い出として印象に残っています。とにかく不器用で、人より行動が遅く、必ず1回は失敗するような子どもだったのですが…親の理解があったんでしょうね。あまり怒られることがなかったからか、「天真爛漫」と言われるような性格でした。この「できなさ」は何なのか?行き当たった「発達障害」という言葉――小さいころから発達障害の特性は出ていたものの、それにひどく悩まされることはなかったのですね。高梨:はい。本格的に困り始めたのは、20代後半になってからです。大学を卒業後、司法書士を目指して勉強する中で、実務経験を積もうと司法書士事務所でアルバイトを始めたのですが、面白いくらい仕事ができなかったんです(笑)。Upload By 姫野桂――具体的には、どのような業務を担当していたのでしょうか?高梨:「補助者」というポジションで、事務作業や法務局へ書類を持っていくおつかいなどをしていました。仕事としては簡単ですが、責任重大な内容ですね。うまくできないながらも数ヶ月働いていたある日、所長である司法書士の先生にクビを言い渡されてしまって。職場に迷惑をかけているのはわかっていましたが、人並み程度だと思っていたので、ものすごくショックでした。――高梨さんからすると、本当に突然の出来事ですものね。衝撃は大きそうです。高梨:それでも、回復はなかなか早かったんです。落ち込みはしましたが、「こんなこともあるだろう」ぐらいに捉えていたので、次のアルバイトを始めました。今度は不動産会社でのアルバイトだったのですが、またしても仕事がうまくいかず、ミスばかり。そのときに、「あれ、何かおかしいな」と思い始めました。そんなときに、不意に「死にたい」という言葉がこぼれてしまったことがあって。「今、自分なんて言った⁉」と驚き、メンタルがすごく落ち込んでいるんだなあと気づきました。もともと、一部の人間関係でやりづらい状況だったこともあり、そのアルバイトは辞めさせてもらいました。――自分の特性に関わることでそこまで落ち込んだのは、初めてだったのですね。そこから、どのようにして診断を受けるに至ったのでしょうか?高梨:「何かおかしいかも」と思ってからは、自分が一体何者なのか、どういう状態なのかが知りたくて、「仕事できない」や「仕事忘れるミス」といったワードで検索していました。そこでようやく「発達障害」という言葉にたどり着いたんです。そこから、都内の精神保健福祉センターや、発達障害専門の支援機関に行って相談し、紹介してもらったクリニックで、晴れてADHDの診断をもらいました(笑)。30歳手前のことですね。期待に応えたいと頑張りすぎてしまい、二度の休職Upload By 姫野桂――診断を受けたときの心境を教えてください。高梨:自分の努力不足ではなかったのだと、それはもう安心しました。でも、職場での経験から、完全に自信を失ってもいました。あるとき、喫茶店でアイスコーヒーを頼んだら、ちゃんとアイスコーヒーが出てくることにすごく感動しちゃったんですよ。オーダーを間違いなく取り、厨房に伝え、作られたコーヒーを正しい席に運ぶ……。そういう、一般的にはできて当たり前だと思われているようなことが、きちんとおこなわれている。当時の自分には、そんなこととてもできる気がしなかったんです。それでも、自分で仕事をして収入を得ていきたいと悩んでいたときに、クリニックのソーシャルワーカーさんと話す機会がありました。そこで初めて、障害者雇用や合理的配慮というものを知り、障害があっても安心して働ける場所があるとわかって。「ああ、自分でも働けるかもしれない」と、すごく嬉しかったというか…安堵したのを覚えています。――ソーシャルワーカーさんと話したことで、障害者雇用という選択肢が見つかったのですね。その後、IT企業の総務として、障害者雇用で入社したとのことですが、実際に合理的配慮は受けられたと感じますか?高梨:とくに最初のほうは、配慮があったと思います。具体的には二つあり、一つは苦手な電話対応を、最初の3ヶ月はしなくてもいいように調整してもらえたこと。もう一つは、同じ部署の先輩社員が、関わり方を考えてくれたように感じたことです。先輩の机には、「精神障害の人と働く方法」といった内容の本が置いてあったんですよ。「ああ、この人は勉強してくれているのだな」と、すごく嬉しかったです。やりとりをするときにも、言い回しを工夫してくれているように感じました。その会社には5年勤めましたが、だんだんと1人あたりの仕事が多くなり…。結果として、十分な合理的配慮を受けるのが難しい状況になりました。実は、途中で障害者手帳の更新を忘れ、雇用枠も障害者雇用から一般雇用に切り替えることになったのですが、「こんな自分を採用してくれたのだから、頑張って働いて恩返ししなくては」という思いで、わたしもすごく頑張ってしまって。毎日終電帰りのようなときもありました。Upload By 姫野桂――それは、心身ともにすごくハードそうですね…。高梨:気持ちではまだ頑張れると思っていましたが、4年目後半ぐらいには体が追いつかなくなりましたね。アルコールに弱いのに毎日お酒を飲んだり、乗り換えが嫌で、電車で600円のところをタクシーで12,000円払って帰ったりするようになってしまい、ある日「ああ、もうこれはダメだ」と思って休職。その後そのまま退職しました。退職後は、半年で障害者雇用と一般雇用、合わせて250社程度の採用試験を受けまして。有名な不動産会社の一般雇用で、クローズ(障害を伝えずに就職すること)で入社することを決めました。――半年で250社ですか!最終的に一般雇用を選んだのは、何か理由があったのでしょうか?高梨:そもそも内定をいただいた企業が一般雇用のみだったのですが、妻との結婚を、その時点で決めていたからというのもあります。妻も働いていましたし、わたしがADHDだということは伝えていたので、障害者雇用について何か言われたわけではありません。ただ、出産や育児などでもし私だけの給料で生活することになったら、比較的給料が低い障害者雇用では難しいのではないかと思ったんですよ。――経済的な面での判断もあったのですね。クローズで働くとなると、特性由来で苦手なことについて、理由を説明するのが難しく、大変なこともありそうです。高梨:そうなんです。しかも、主任という立場を任せていただいたので、「主任なのに、なんでできないんだろう」と周りから思われているのではないかと苦しくなり…。1社目と同じような流れで、また休職してしまいました。4ヶ月後、復職したときには、自分にほとほと愛想が尽きていました。でも、今思えば、それが転機になったような気もしているんです。できない自分も受け入れた先に、タスク管理術があった高梨:自分で言うのもなんですが、わたしは勉強が得意で、偏差値の高い大学を卒業しました。そこでの優秀な同期たちがどんどん出世していくのを見て、自分も同じはずだとこれまでは思っていたんですね。だから、失敗することがあっても「そんなはずはない」「自分はできる」と考えていたのですが…。2回の休職を経て、「いや、やっぱり自分ダメなんじゃない⁉️」と思い始めたんです。できるはずだと思って頑張っては、しんどい思いをするのを繰り返して、やっとできない自分も受け入れられたんだと思います。それと同時に考えたのが、忘れたりミスをしたりするなら、そうじゃない自分になろうとあがくのではなく、忘れない・ミスが起きない環境をつくることで、このままの自分でなんとかやれないか、ということです。――自分を変えるのではなく、周りの環境を整える。発想の転換があったんですね。高梨:そうなんです。復職直後は時間の余裕もあったので、勉強も兼ねて、自分ができないことをカバーする仕組みをExcelでつくっていきました。例えば、段取りがその場でうまく組めないのなら、あらかじめ組んでおいて、実行するときにチェックすればいいようにする。先送りするなら、やることを細かい手順に分けて、全てに締め切りを入れ、「今日はこれだけやればいい」とハードルを下げるようにする。いつも仕事のことを考えてしまうなら、自分と相手、どちらが作業中なのかわかるようにしておいて、自分が担当でない期間は安心して忘れられるようにする。そんなことを考えながら、どういう仕事があって、いつ発生して、いつ締切で、次に何をやるのか、見るだけですぐに状況がわかる表をつくりました。Upload By 姫野桂Upload By 姫野桂――たしかに、ここまで可視化すると、頭の中を整理できそうです。高梨:作成当時、我ながら傑作だと思いました(笑)。そして、同じようなことをしている人がいないか検索してみたところ、初めて「タスク管理」という言葉に行き着きました。そのとき、わたしはすごく希望を感じたんです。自分の特性をカバーできる方法論を突き詰めていったら、仕事ができると言われるビジネスパーソンが活用する「GTD(Getting Things Done)」という手法とそっくりだった。ADHDのわたしも、自分がエリートだと思っていたビジネスパーソンも、仕事を効率化する上でやっていることは一緒なんだ、と。このときの表を改善して、クラウド上で使えるようにしたのが、タスクペディアです。Upload By 姫野桂高梨:タスクペディアは、誰でも無料で、パソコンからもスマートフォンからも使えるように開発してもらいました。Excelだと、使える環境が限られるじゃないですか。必要な人が気軽に使えて、仕事がうまくいったとか、仕事が見つかったという話が聞ければ嬉しいなと思って、クラウド化してもらい、2018年にリリースしました。――そのような背景でタスクペディアはつくられていたのですね。タスク管理ができるようになってから、仕事のしやすさは変わりましたか?高梨:それはもう、劇的に変わりました。ただ、自分にとってのタスク管理の目的は、仕事ができるようになることそのものではありません。タスク管理をして、無理なく仕事を進められるようになった結果として、落ち着いて仕事ができるようになる。その気持ちの安定が、自分にとっては目的だったのかなあと思います。挫折経験もむしろアリ。背伸びはせず、考え方を変えてみるUpload By 姫野桂――2社目への復職後、転職を経て、現在の職場は3社目ですよね。今の高梨さんからは、とても充実した日々を送られている印象を受けます。高梨:たしかに、幸せだなと感じることは多いです。途中でまたしても障害者手帳の更新を忘れてしまい(笑)、障害者雇用から一般雇用への変更はありましたが、現職は勤続6年目になりました。すごくいい環境で働かせてもらえていると感じます。わたしの感覚では、自分の特性を受け入れて、苦手なことをカバーできたら、その時点ですごく幸せだと思うんですよ。そのタイミングで、自分の強みにも目を向けやすくなりますし。それに加えて自分は今、これまでの経験すべてを、人に役立つ活動へと還元できているように感じるんです。就労移行支援事業所でのプログラムもそうですし、本の出版もそうです。無料でおこなっている活動もありますが、それが巡り巡って勤め先の新たな仕事につながり、会社の利益に貢献できたりもします。このような活動は、すべて自分のしくじり、もっと言うならばADHDの特性が元になっているんですよね。そう考えると、挫折体験って普通はあまりしたくないものかもしれませんが、得るものもあるんじゃないかと思えます。――特性についてのポジティブな捉え方も発見されたのですね。高梨さんは、仕事で苦手と向き合いながら、ご自身の特性を受け入れていったかと思います。自分の特性や診断に悩む子どもたちに、何か伝えたいことはありますか?高梨:そうですね…。「背伸びしなくていいんじゃないかな」と伝えたいです。苦手なことについて、ある程度の努力でカバーできるのならカバーしたほうがいいという考え方もあるとは思うのですが、どうしてもカバーが難しかったり、努力すればできるけれど、代わりに体を壊してしまったりする場合もあると思うんです。そんなときは、別の考え方をする手もあります。背伸びせずに、「あ、これできないんだ」と、自分を少し離れたところから見て、「じゃあ、どうする?」と、直接カバーする以外の対策を練るだとか。自分1人で対策を考えていると、できない自分を認めたくない気持ちも襲ってくるかもしれないので、客観的に見てくれる、頼れる存在がいるとすごくいいですよね。わたしも、妻や家族、担当医や支援機関の方など、たくさんの人に話を聞きました。似たような悩みを持つ同志と、ファミレスで9時間ぐらい話して、励まし合っていたこともあります。苦手なことに対して、自分だけで・直接取り組む以外の方法も、ぜひ試してみてほしいですね。Upload By 姫野桂仕事を始めてから発達障害の特性に悩まされ、一時は休職し、転職も複数回経験した高梨さん。「できなさ」にふさぎ込むのでなく、そんな自分も受け入れて発想を転換し、苦手をカバーする方法を身につけました。高梨さんの場合は、タスク管理術を身に付けたことで自分らしさを取り戻したのではないか――彼の笑顔を見て、そう感じました。何かにつまずいた際は、どうすれば自分らしくいられるか、自分のよさを発揮できるかを考えてみると、少し違う見方ができるようになりそうです。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2020年11月25日発達障害当事者のホンネと、悩んでいる人に伝えたいこと「女性の発達障害鼎談企画」に集まっていただいた姫野桂さん、宇樹義子さん、鈴木希望さんは、成人してから診断を受け、それぞれ発達障害に関する情報発信をされています。第2弾コラムでは、「学生時代の友達関係」や「SNSとの付き合い方」についてお話しいただいたことをご紹介します。Upload By 発達ナビ編集部ーー学生時代の友達関係について教えてください姫野さん:女の子は小学3年ごろから群れたがるようになりますよね。実際に私の学校もそうだったんですが、話をうまく合わせられないし、本当になじむことができなかったですね...!宇樹さん:うんうん、群れるタイプの子たちとは合わなかったですね。姫野さん:どうして、みんなで行動するんだろう?みんなで同じものを選ぶんだろう?と思っていました。鈴木さん:なぜ?ですよね笑。宇樹さん:大人の、とりあえずビール!全員ビール!みたいな笑。姫野さん:オシャレに目覚めて髪をお団子にして行った時も、女の子の集団からコソコソコソ言われて、なぜか私が先生に怒られるという…。「そういうハデな格好してくるからでしょ」みたいなことを言われて、トラウマになっています。ーー今、友達関係で悩んでいる子たちに、アドバイスはありますか?宇樹さん:そうですね、私の学校には群れるだけじゃなくて、積極的に自分たち以外を排除しようとするタイプもいたんですが、そういう子たちとはできるだけ適度な距離を保つようにしていました。小学校のころだとなかなか難しいと思いますが、「この人たちと合わないだけ」「彼らが正しいのではなくて、違うだけ」「向こうの方が数が多いだけ」と考えて、学校以外の居場所をつくるように頭を切り替えるのがいいのかなと思います。鈴木さん:本当にそうですね。私は小学校のころにいじめられたり、誰もかばってくれなかったりということがありました。中学生ぐらいから精神的にきつかったからか、てんかん発作が増えたり体調を崩したりして、あんまり学校に行けなくなって。勉強にもついていけなくなってしまいました。当時を振り返って思うのは、「みんなと仲良くしなくちゃ」と無理しなくていいんですよね。必要最低限の挨拶はして、あとは近づかないようにするという。宇樹さんと同じで、人生は学校だけではないと思うので。年齢によっては学校の世界がすべてになってしまいがちですけど、そんなことは全然ないんですよね。Upload By 発達ナビ編集部発達ナビ 女性・女の子の発達障害(3)学生時代の友達関係ーーSNS疲れの経験はありますか?宇樹さん:SNS疲れ、ありますね。だから、通知はほぼ切ってます。姫野さん:私も宇樹さんと同じで、通知は切っています!宇樹さん:あとは、タイムラインをムダに眺めない!1日に3回ぐらい見るタイミングを決めて、それ以外は見ないようにしています。特にTwitterは刺激にあふれているので、すぐに疲れてしまうんです。姫野さん:感情が揺さぶられてしまいますよね。鈴木さん:そうですよね。いろいろなものが流れてきて、ADHDのある私は刺激されてすごくおもしろいんですが、引っ張られないように気を付けています。あと、SNSに書いていることを読んで、あたかも私のことを全部わかったように接してくる人がいると、すごく疲れてしまいますね。SNSに自分のすべてを書いているわけではないのに…。姫野さん:わかります…。あとは、フォロワー数が増えるとメッセージが埋もれてしまって、必要な返信をしていなくて気まずくなってしまったこともありました。ーー通知を切る、タイムラインを見過ぎない、他に何か付き合い方のコツはありますか?宇樹さん:リアルの人間関係と一緒で、SNSも適度な距離が大事だと思います。姫野さん:距離感ですよね…!10年ぐらい前、本当にSNS中毒になったことがありました。ちょうど会社で事務職の仕事をしていた時期なんですが、とんでもなく向いてなかったんですよね。算数LDなのに経理業務もあって。会議用資料の準備を依頼されても、コピーが曲がっていたりサイズが違ったりで。よく3年間やってたなと思うんですけど、そうすると家に帰ってきてからずーっとSNS。ある日、このままではダメだなと思って、1週間SNSを禁止して、小説を書き上げたんです。それを文学賞に応募したら最終選考まで残ることができて、それが今の仕事につながっています。こんな過去の経験もあって、SNSとは自分の距離感で付き合っていけたらと思っています。鈴木さん:たしかに。あとは、SNSに過度な期待を持たない方がいいのかなと思っています。SNSならなんでもできる、なんでも与えてもらえると思ってのめりこんでしまうと、トラブルにも巻き込まれてしまうのかなと。姫野さん:本当ですね。最近は知らない人が投稿している、ネイルやメイクの動画を見るのが平和で楽しいです笑。鈴木さん:私も情報収集はしつつ、あとはヤギの動画に癒されていますね笑。Upload By 発達ナビ編集部・LITALICO発達ナビ 女性・女の子の発達障害(4)SNSいかがでしたか。友達関係もSNSも、無理をしないで適度な距離を保つことが大事というお話が印象的でした。次回は、「身だしなみ」と「母親との関係」についてお届けします。お楽しみに!宇樹義子さん発達障害当事者ライター・著者。「ため込み症者家族の会(HRAJ)」運営。高機能自閉症と複雑性PTSDを抱える。30歳で発達障害を自覚するも、心身の調子が悪すぎて支援を求める力も出なかったが、幸運にも現在の夫に助け出される。その後発達障害の診断を受け、さまざまな支援を受けながら徐々に回復、在宅でライター活動を開始。著書に『#発達系女子の明るい人生計画』(河出書房新社)。鈴木希望さん1975年新潟県生まれのコピーライター。側頭葉てんかんと自閉症スペクトラム障害、注意欠如多動性障害、算数障害の当事者で、軽度の相貌失認持ち。2009年生まれ、自閉症スペクトラム障害を持つ息子と二人暮らし。食い意地の張った料理好き。カレー大學認定カレー伝道師。姫野桂さんフリーライター。1987年生まれ。宮崎市出身。大学卒業後は一般企業に就職。25歳のときにライターに転身。現在は週刊誌やウェブなどで執筆中。専門は性、社会問題、生きづらさ。猫が好き過ぎて愛玩動物飼養管理士2級を取得。著書に『私たちは生きづらさを抱えている発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音』(イースト・プレス)、『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)、『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ」解消ライフハック』(ディスカヴァー21)。
2020年11月02日当事者研究、仲間たちとの関係についてーー綾屋紗月さん東京大学先端科学技術研究センターで、特任講師として発達障害の当事者研究(※)や、当事者研究の研究などを行っている綾屋紗月さん。幼い頃から家庭や学校で違和感を抱いていましたが、そこにASD(自閉症スペクトラム)の特性が関係していると知ったのは大人になってからだと言います。インタビュー後半では、綾屋さんたちが取り組む「当事者研究」について、また活動を通して出会った仲間たちとの関係について、お話しいただきました。当事者研究とは:一人ひとりが自分自身の困りごとや生きづらさについて研究者となり、周囲の仲間たちと語り合うなかで困りごとへの理解を深めることや、よりよい付き合い方を探していく営みのこと。綾屋紗月さんが主宰する、発達障害当事者による当事者研究活動「おとえもじて」をはじめ、さまざまなテーマ・共通点ごとに当事者研究コミュニティがある。当事者研究を続けるのは、新たな仲間に伝えたいから――綾屋さんは、「当事者研究」をテーマに研究者として活動されていますよね。お仕事についてもお聞きしたいです。綾屋:研究職に就いたのは偶然の重なりのようなもので、わたしはいただいた仕事を一生懸命やってきているだけという感覚があります。自分たちの発達障害当事者としての経験をもとに当事者研究をするだけでなく、専門家の研究にマイノリティ当事者の視点を反映させるための研究をするのが、わたしの主な仕事です。どのようにしたらマイノリティの人たちのニーズや感覚からずれずに研究を進められるのかを突き詰めながら、組織づくりを考えたりしています。Upload By 姫野桂綾屋:学術研究のフィールドでも、自分のマイノリティ特性を研究テーマとして掲げる人はまだまだ少ないので、そういった当事者としての視点も活かせる立場での働きが求められていると感じます。例えば、無理なことはしないとか、「こういう場面では無理をしそうになっちゃうな」ということにちゃんと気づいて記録し、そこにある苦労を細かく拾ったり、普通とは異なるオリジナルの方法で同じ目的にたどりつけるかどうかトライしたりして、発表という形で外に出していくとか。こうしてさまざまな人との人間関係や利害関係が広がっていったことで、当事者研究だけでは対処できない新たな苦労が発生し、当事者研究と同時に、「ソーシャル・マジョリティ」の研究も進んだように感じています。――「ソーシャル・マジョリティ」の研究とは、具体的にはどんな内容なのでしょうか?綾屋:発達障害当事者をはじめとする社会的マイノリティの立場から、多数派社会のルールやコミュニケーションを研究するのがソーシャル・マジョリティ研究です。新しく経験する人間関係の苦労は、わからないことの連続でした。以前であれば怖くなって撤退していましたが、当事者研究で培った研究マインドや、そこで出会った仲間の存在のおかげで、そうしたわからないことに研究的に向き合うことができるようになっていました。そして、いろいろな人とのやりとりを観察し、「あの場面ではどんなことが起きていたのか」「こういうときはどこまでなら言ってもいいのか」などを後から教えてもらい、意味付けを介助してもらうことを重ねました。自分がメールの返信を担当しなければいけないときには、失礼がないか一つずつ確認してもらい、さまざまな視点があることを教えてもらいました。そのようにして3年ほどを過ごすうちに、いわゆる定型発達の人が多い社会……わたしは「娑婆(シャバ)」と呼んでいるんですが、その仕組みを頭で理解できるようになり、「怯えていたほど、シャバの仕組みも難しくないかもしれない」と思える程度にはなりました。こうした経験を、多分野の専門家と共に、研究として整理・分析して発表していくのがソーシャル・マジョリティ研究という試みです。――「シャバ」、思わず使いたくなる表現ですね。シャバのルールが自然とわかるわけではなくとも、頭で理解できれば、スムーズになる物事もありそうです。綾屋:そうですね。知識体系があるとわかったことで、重要なポイントをうっかり踏まないように気をつけることができたり、「あのよくわからないルールを使わなければいけなそうだから撤退しよう」と判断できたりと、サバイブには役立ったと思います。Upload By 姫野桂――今の綾屋さんは、自分のことも、自分を取り巻く環境のことも、学生時代に比べれば理解が深まってきているわけですよね。そうなってくると、自分自身の困りごとを起点とする「当事者研究」は一段落ついてもおかしくないように思うのですが、それでも関連活動を続けているのは、何かモチベーションがあるのでしょうか?綾屋:一段落はしましたが、新しい環境や身体の変化に直面するたびに、「今の自分には何が起きているんだろう」という問いが生まれる自分は、あいかわらずなくなりませんでした。現在のわたしは「生きていく態度」として、当事者研究が一生続くのだろうと感じています。また、それとは別に、仲間に伝えていく、という責任も感じています。自分の当事者研究がある程度終わり、生きやすくなってきたときには、これからどうするのだろうとやはり思いました。当時は「自分は一体何者なのだろう」という問いが、終わってしまった感じがして。今後に悩んでいたときに見学参加した薬物依存症からの回復施設のミーティングで、たまたま読んだ文章が、「今まで誰かにしてもらったことをありがたく思っているのなら、新しい次の仲間に返しなさい」といった内容でした。それで、「ああ、そうなんだ」と思ったんですよね。ちょうどその頃、「次はあなたが当事者グループをやる番だよ」と言われていたけれど、わたしはそんなことできないと思っていたんです。でも、そのときに「あ、やらなきゃいけないんだ」と受け入れて。今もその延長線上にいます。わたしは前に出たいタイプでもないし、人づきあいに対する負担も大きくて、当事者グループを続けて10年目になるのに、いまだに「当事者グループの運営なんて、わたしには向いてない!」と、始まる前は緊張して毎回泣きそうになっています(笑)。「みなさんにお世話になったんだし、新しい仲間に返していくんだよな…」という気持ちに動かされ、また、参加してくれる仲間たちに助けられながら、なんとか続けられている感じです。仲間と出会って得られるものがある。ただ、そこはユートピアというわけではない――これまでのお話に、「仲間」という言葉が何度か出てきましたよね。綾屋さんにとって、仲間とはどんな存在ですか?綾屋:ささやかなつながりを感じられたときに泣いてしまうくらいにうれしい存在です。ただ、しょっちゅう仲良く遊びに行くような感じではなく、数ヶ月に一度、ミーティングの中で近況報告を聞くような関係が何年も続くのが、自分にとってちょうどいい距離感の仲間ですね。依存症当事者の人たちの言葉に、「迷惑をかけられたりしても、仲間だから仕方がない」というものがあるのですが、それもすごくしっくりきます。いいことばかりをもたらしてくれるわけではないけれど、大変なときも相手の状態を想像して、受け入れられる人たち。本名も、年齢も、バックグラウンドも全然知らないこともあります。でも、その人の困っていることや考えてきたことなど、内面をわかちあえる関係です。学生時代も含めたシャバでの人間関係というものは、なんだか虚勢を張り合っていて、なかなか自分の弱さは見せられないようだな、という印象を持っています。でも、今の仲間とのつながりは弱さを公開し、自分の恥ずかしくて情けない話からスタートできる。正直すぎるぐらい正直に話しても大丈夫、という基準が共通しているのは、すごく楽ですね。「ああ、人とつながれて、自分ともつながれた」と思えたのは、本当にこの10年ほどのことです。Upload By 姫野桂――近い特性を持つ人同士なら、問題なくつながれることもあるんですよね。わたしも発達障害の当事者ですが、サバイブのためにシャバに対応していく必要性や、それによって楽になる部分があるのを理解しつつも、なぜマイノリティだけがそこに力を割かねばならないのだろうと、やるせなさを感じることがあります。綾屋:それは、本当にそうですよね。わたしはたまたまマイノリティに囲まれた場所を選べているので、職場ぐらいまでなら自分の話も認められるし、恵まれた環境にいる、助かっているなあと思います。でも、わたしの仲間の多くは、それこそシャバで障害者就労等をして、苦労しているわけで。そこにどうやってわたしたちが貢献していけるのかを考えて、今、組織側をマイノリティに合わせて変えていくためのアプローチもし始めたところです。――もし、今後の働き方や生き方に悩む発達障害当事者から相談を受けたら、綾屋さんはどんな話をしますか?綾屋:そうですね……人それぞれですし、難しいですが。先ほど話したような職場環境を変えていくための働きかけには、賛同してくれる企業も少なくはないんです。おそらく、どう対応したらいいか企業側もわかっていないような状況なのだと思います。そんな中で、長期的に考えたときに勧めたいのは、仲間とつながる場を作っていくことです。世代を超えて縦につながることと、若い人同士で横の仲間とつながることの両方が、早めにできたらいいのではないかと思います。――仲間とつながることで、何が起こるのでしょうか?綾屋:当事者研究というやり方にこだわらなくてもいいのですが、自分たちは確かにこうなんだな、ということが、似た身体を持つ人と出会うとわかるようになります。あるあるネタが見つかったり、似た人と集まっても残る違いに気づき、「この部分は障害ではなく、自分のオリジナルなのかな」と思うことがあったり。そういうマイノリティ性に関する共通点や差異は、多数派の中にいては絶対に見つけられないんです。シャバ以外の場所で仲間と出会うことで、「ああ、ここだったら自分の当たり前が、他の人にとっても当然のルールになるじゃん」と感じられることもあります。それが、自分の安心材料になっていくんですよね。例えば、以前、発達障害の当事者が集まっていたとき、準備中にマイクのハウリングが起きたんです。すると、その場にいた人がみんな、耳を塞いだり、しゃがみこんだり、ギャーッと言ったり、大騒ぎになりました。シャバだと多分、「それぐらいで耳を塞ぐの?」と思われるような状況でしたし、わたしも我慢していたかもしれないのですが、そこではわたしも含め、一斉にみんなが耳を塞いだことに何か「文化」のようなものを感じました(笑)。そういう風に仲間同士の空間では、相手と仲がいいか悪いか、相手の性格を好きか嫌いかなどを超えて、身体的な感覚を分かち合い、つながりを感じられるんですね。そんな経験があれば、自分の感じ方に素直に振る舞っても大丈夫な場所が確かにあると思えます。多数派の中だけで過ごしていると、そこのルール以外を知りにくいので、どうしても適応する方向へ動きがちです。でも、仲間と出会えていれば、自分の身体を承認できて、シャバにいるときでもちょっと適応しきらないような、工夫した対応の仕方もできるようになると思うんです。それに、仲間と一緒にいれば、大学選びやきちんと対応してくれる企業に関する情報、生活保護の取り方のルートなど、多数派の間ではなかなか話されないような情報についても、重要情報として交換できるかもしれません。発達障害に関しては、そういったコミュニティが、これからできていくところだと思います。わたしたちの世代では残された時間で達成するのが難しいかもしれないので、そこは若い世代に託したいところですね。Upload By 姫野桂――そのような仲間とのコミュニティを作っていくときに、何か気をつけたほうがいいことはありますか?綾屋:「似たような人たちで集まればユートピアになる」とは限らないのを、認識しておくといいかもしれません。シャバの中では排除されがちな人たちが集まるわけですから、そこで初めて人間関係を結ぶ場合もあるわけですよね。当然、うまくいかないことはたくさん起きます。しかし、そのときようやく、シャバではできなかった、自分たちにとって「わけのわかる」ケンカを初めて経験したり、解決の仕方を学んだりする場にもなりうるわけです。発達障害当事者の集まりでなくとも、そのような人間関係のトラブルは起こりうるものです。上の世代が手助けしたり、気を配れる部分は配ったりして一定の安全を保ちつつも、高校生ぐらいになったら、管理や監視のない空間で、仲間との関係性を味わえるような場所を自分たちで作れるようになったらいいなと思っています。――綾屋さんは、お子さんが2人いらっしゃいますよね。保護者と子の距離感については、どうお考えでしょうか?綾屋:子どもに対する愛情は十分に持ちつつも、手を出し過ぎず、見守るような距離が必要だと思います。親と子では親のほうが当然権力が強かったり、子がマイノリティでも親がマジョリティだったりするので、どんなに親が親切にしようとしても、できることには限界があるんですよね。親が一生懸命、子どもと環境を適応させようと支援することで、本人が学ぶべきことを取り上げてしまい、経験するはずだった苦労を奪ってしまうこともある。一概には言えない、匙加減が難しい話をしていますし、もちろん、マイノリティ性があるかどうかにかかわらず、ひどいいじめに合っている子どもを放っておくのは論外です。ただ、もし親が子どものマイノリティ性に対して「なんとかしてあげなきゃ」と不安に思ったり、熱心に頑張ってしまったりしている場合は、自分と子を切り離して考えて、「子どもが親以外の手を借りて対応していけるようにするためには何をするべきか」を考えることが重要だと思っています。そのときに子どもが頼れる相手として、仲間や、医師・教師・カウンセラーなど親以外の支援者もいますし、介助者を利用する方法もあります。家庭で親がなんでも先回りしてやってあげてしまうと、自分主体で動く力を子どもが養うことはできません。例えば、ある程度、言葉を扱えるお子さんであれば、将来的には本人が主体的に「ご飯作りをお願いできますか」「片付けを手助けしてほしいのですが」と自らのニーズを伝えていけるような関係や距離でやっていけるようになるのが理想かもしれません。周囲の人々の目の厳しさやしがらみ、親としてきちんとやれているのだろうかと不安な気持ちはわかります。わたしも暗中模索で今までやってきました。それでも、仲間とつながるためのサポート等のできることはしながらも、子は子でやっていけるように、親と子を分離していく意識を持っていたいです。(終わり)和やかな語り口で濃厚な話をしてくださった綾屋さん。幼い頃の「自分自身のわからなさ」を、大人になってから時間をかけて受け入れていくまでの、苦労や発見を教えてもらえた気がします。綾屋さんとシャバ(マジョリティ)との関係性も、興味深いものでした。マイノリティの仲間とつながった後には、シャバと交わることで学べるものや新たに知れることもあるかもしれません。Upload By 姫野桂取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2020年10月29日ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまでーー綾屋紗月さん東京大学先端科学技術研究センターで、特任講師として発達障害の当事者研究(※)や、当事者研究の研究などを行っている綾屋紗月さん。幼い頃から家庭や学校で違和感を抱いていましたが、そこにASD(自閉症スペクトラム)の特性が関係していると知ったのは大人になってからだと言います。自分の身体や他人との「つながれなさ」を感じていた綾屋さんが、自分を理解し、社会とつながっていくまでのプロセスをお話しいただきました。当事者研究とは:一人ひとりが自分自身の困りごとや生きづらさについて研究者となり、周囲の仲間たちと語り合うなかで困りごとへの理解を深めることや、よりよい付き合い方を探していく営みのこと。綾屋紗月さんが主宰する、発達障害当事者による当事者研究活動「おとえもじて」をはじめ、さまざまなテーマ・共通点ごとに当事者研究コミュニティがある。子ども同士の「暗黙のルール」がわからなかった――綾屋さんは、発達障害のある人を中心に当事者研究を行う会「おとえもじて」の発起人で、ご自身も大人になってからASDの診断を受けていますよね。幼少期はどのように過ごされていましたか?綾屋紗月さん(以下、綾屋):3〜4歳の頃、家では、「なんでこんなに自分の思っていることが両親に伝わらないのだろう」「どうしてわたし、いつも泣いているのかな」と感じていました。父に怒られたわたしは悔しくて泣くのですが、後から「あのとき、あなたはこういうつもりだったんだよね」と通訳のように言葉にしてきて。「わかってるんだったら、なんでさっきあんな風に怒ったんだよ」と腹が立って、余計に泣いてしまうようなこともありました(笑)。母はわたしが何を考えているのかが本当にわからなかったようで、「この子も大きくなれば、自分のことを自分で説明できるようになって、生きやすくなるだろう」と思いながら育てていたらしいです。それでもどうにか家庭の中ではやっていけたのですが、幼稚園に入ってからは、子どもたちの間にあるルールや、今何が起きているのかがよくわからなくて。ちょっと怯えながら様子を見ているような状態でした。Upload By 姫野桂――集団の「暗黙のルール」のようなものの難しさを、幼稚園ですでに感じ取っていたんですね。綾屋:他の子たちが遊んでいる輪に、わたしが「入れて」と言ったら「ダメ」と言われるけど、他の子が言うと「いいよ」と言われる。他方で、何も言わなくても自然と一緒に遊び始める子もいて。どうしたらあんな風に加われるのかがわかりませんでした。先生の指示に従うのも難しかったですね。手順が明確でない説明がだらだらと続くと、まず何から始めればいいのか、具体的な行動が把握できないし、そもそも園内では音がすごく反響しているようにわたしには聞こえていたので、聞き取るのがとても難しくて。わからないから質問をすると、「さっき言ったでしょ」「ちゃんと聞いていなさい!」と怒られてしまいました。――ちゃんと聞いていたにもかかわらず、そのように怒られてしまうのはつらいですね……。小学生になって、変化はありましたか?綾屋:小学校に入って過ごす校舎が変わっても、音がワンワンと反響して聞き取りづらいのは続きました。人との関わり方については、成長するにつれてだんだんわかるようになるだろうと予想していたので、ますますわからなくなったのにはちょっと驚きましたね。「もしかすると、いじめだったのかな?」と思うようなこともあったのですが、嫌なことをされたら反撃したりもしていたので、ある意味ではやり過ごせていました。集団のルールのようなものがあるらしいことや、自分がそのルールを理解していないので仲間はずれにされているようだ、ということは感じていましたが、わたし以外にもいろいろな人が順に仲間はずれの対象になるのが見えていたので、そんなに気にすることでもないのかなとも思っていましたね。――綾屋さんはその後、中学受験をして私立の女子校に進学されたんですよね。綾屋:はい、中高大一貫でエスカレーター式の私立女子校に入りました。いじめのようなものをさほど気にしていなかったとはいえ、「自分には友達ができないなぁ」ということを気にしてはいたんですよ。そんなときに、親が「勉強ができる子たちのところに行けば、お友達ができるかもしれないよ」と中学受験の話をしてきたので、そんなものかなあと信じて近くの私立を受験し、進学しました。「自分は一体どうなっているんだろう」という疑問――中学に入って、人との関係に変化はありましたか?綾屋:わからなさは、むしろ増しましたね。小学校の頃とは違い、やり返したら大変なことになりそうだと感じたので、攻撃されないようになるべく無難に動くようにしていましたが、孤立していました。今になって振り返れば、周囲の環境にも原因があったのだと考えることができますが、当時は「人とうまく関われないのは、自分のせいなんじゃないか」と自分を責める気持ちにもなりました。人間関係に向かう以前に、「自分は一体何者なんだろう」というような感覚があったんですよ。ものの見え方や聞こえ方、たくさんの人の中にいるとすぐに具合が悪くなってしまうこと。そういった他の人との「ズレ」に、一つひとつ気づいては驚いていました。自分の身体との付き合い方もわかりませんでしたし……。自分のことも、自分を取り巻く社会のことも混沌としていて意味付けができない。檻の中に閉じ込められているような窮屈で息苦しい感覚でしたね。それは30歳を超えて、仲間とつながるまで続きました。Upload By 姫野桂――学生時代からさまざまな症状があったようですが、「心療内科を受診してみよう」といった話は持ち上がらなかったのですよね?綾屋:親から言われたことはなかったですね。「心療内科」ができたのはわたしが成人してからですし、当時は「発達障害」という言葉もメジャーではありませんでした。そもそも父方の家系には強烈な特性をもつ人がたくさんいて、むしろわたしはマイルドなほうだったんですよ(笑)。だから、親も単に「神経質な子」ぐらいに捉えていて、病院に行くなんて考えつきませんでした。ただ、わたし個人としては、「この原因不明の心身の具合の悪さを抱えて、社会で働くことに耐えられるわけがない」と就職をあきらめていたので、大学を卒業する頃、覚悟を決めて精神科を受診しました。しかし「あなたは大丈夫ですよ」という言葉と、体に合わない大量の薬を処方され、「医者でもわたしの困難を見つけてくれないのだ」と思い、それ以上、医者に期待するのをやめました。ASDという「物語」を通じて、これまでの記憶が整理された――綾屋さんは大人になってから発達障害の診断を受けたとのことですが、そのきっかけを教えてください。綾屋:書店で見かけて手に取った本の中に「自分によく似た体験が載っている!」というものがあって、それがASD当事者の書いた本だったんです。それまでも心理学などの専門書は読んできましたが、そこには当事者の視点から見たことは書かれていませんでした。専門家が使っている言葉が具体的にどんな体験を指し示しているのかピンと来なくて、自分のことを書かれているという意識も持っていませんでした。「コミュニケーション障害と言ったって、別に親との日常会話は成立しているしなぁ」などと思っていたんですよ。でも、その本に書かれている具体的な経験には、自分と重なる部分が多かった。ASDの診断を取ることで人とつながれるようになるのなら、自分にも診断がほしいと思い、31歳のときに医療機関を受診しました。ASDと診断されたときは、特にうれしくはありませんでしたが、少しホッとしたような感じでした。――診断を受けたことで、何か変化はありましたか?綾屋:記憶に時間軸ができました。それまでは、わたしの記憶は瞬間ごとの写真を平面にぶちまけたように散らばっている状態だったんです。それが、自分の中にASDという「物語」を得たことによって、「ああ、幼稚園のときはこういう理由で大変だったんだ」という風に意味付けができるようになりました。ばらばらだった記憶が一直線に並び、今の自分にしゅーんとたどり着いていくような感覚でした。そのときに過去から現在へ続く「時間」というものがわたしの中にできたのだなと思っています。とはいえ、学生時代に同級生にされたことなど、まだ自分の中で疑問が残っていて意味付けができていないものは、今でも整理されておらず、時々バーンと写真のように頭に浮かぶことはあります。――一部ではあるものの、幼少期からの「わからなさ」が、少し解消されたのでしょうか。周囲には、診断について話されましたか?綾屋:親や当時の夫、つながりの残っていた高校・大学時代の同級生には言いました。親は「それで何が変わるの?」という感じで、ピンと来ていませんでしたね。夫はその後離れていきましたが、今から振り返れば、そもそもお互いにいろいろなことを共有できていなかったんだなと思います。親戚には親から話が伝わり、わたしの研究活動も知っているので、困りごとを抱えている子どもたちの相談を受けることはありました。いとことは「わたしたちの特性って、ただの家系だよね」「『ちょっと変わった子』ぐらいだったのに、社会的にマッチしてないことになっちゃったね」みたいな感じで話しますね。Upload By 姫野桂――現在も、感覚過敏の症状はあるのですよね。何か対策されていることはありますか?綾屋:人がいるところに行きたくても、無理だなと思ったら早めに引き返すとか、耳栓をするとか。具合が悪くなってきたら、とりあえずその場で15分ぐらい寝て、帰宅するだけの力を回復させる、などはしています。あともう一歩行きたいというときに、自分のキャパシティを踏まえて「いやいや」と撤退することが増えましたね。「実際はそんなにいいものじゃないよ」と言われても、ワイワイ楽しんでいるところを見ると惹かれるんですよ。先日も学生街の駅付近で盛り上がっている人たちを見かけて、面白そうにしているなあと近くに寄ってみたら、思ったよりもドロドロした感じであまり楽しくなさそうで。「遠くから見ると楽しそうでも、近くではこんな感じなのかあ」となんだかしょんぼりして帰ったり(笑)。わたしは「セクシャルよりソーシャルが好物です」と表現しているのですが、触れるだけで痛い感覚過敏の特性も影響しているのか、恋愛などのセクシャルな関係への欲望よりも人の輪に入っていくというソーシャルなことへの欲望が強いんです。今は、適度な社会的なつながりを仕事を通じて得られているので、それがすごく幸せですね。(後編に続く)「自分は一体何者なんだろう」と、ずっと違和感や疑問を抱いて生きてきたという綾屋さん。自分の経験に意味付けをし、記憶を整理することができたのは、同じASD当事者の物語との出会いがきっかけでした。インタビュー後編では、綾屋さんが取り組む「当事者研究」について、そして、研究を続ける中で出会った仲間たちとのつながりについてお話しいただきます。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子
2020年10月28日新連載、ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまで発達障害当事者であり、『発達障害グレーゾーン』などの著書を持つライターの姫野桂が聞き手となり、ミドルエイジの発達障害当事者の生き方をインタビューする連載がスタート。連載第1回は、2017年に、発達障害の一種で文字の読み書きが難しいディスレクシア(読字障害・読み書き障害)であることを著書で公表した落語家の柳家花緑さん。2020年4月には、自身の生い立ちや、精神科医の岩波明先生による発達障害の解説、ご夫婦での対談も収録した書籍『僕が手にいれた発達障害という止まり木』(幻冬舎)も上梓しました。「文字がうまく読めないのに落語家になれるの?」と、疑問を抱いた方もいるかと思います。今回は、花緑さんの幼少期の悩みや、落語家の道を進み、自信をつけるまでの過程を語っていただきました。番組視聴者からのメールで発達障害を自覚姫野(以下、――):花緑さんは、ディスレクシアと診断されているとお聞きしました。ディスレクシアの場合、文字そのものがうまく認識できなかったり、書く際に鏡文字になってしまったりすることもありますが、花緑さんの場合はどのような症状があるのですか?柳家花緑さん(以下、花緑):僕は、ひらがなだけならまだ読めますが、漢字が混ざると読み書きが難しくなります。カタカナも、急いで読み上げようとすると、途中で止まってしまいますね。読み間違えも多くて、その読めるはずのひらがなも「たしなみ」を「たのしみ」と読んでしまったり、仕事で「田町」に行く予定が「町田」に行ってしまったりしたこともあります。特に、緊張しているときや疲れているときは、読み間違えが増えるんですよ。それに、普段なら読める字が急に読めなくなることもありますし、読めても書けない漢字もあります。例えば、「発達障害」という文字も、練習すれば書けるようになるけれども、10日後にはもう忘れているかもしれない。文字が記憶にとどまりにくいんです。また、ディスレクシア以外にADHDの傾向もあります。人と話していて、自分だけがガーッと喋りすぎてしまったり、忘れ物が多かったり……。このような性質も、疲れているときほど強まりますね。――ご自身の症状と、それが起きやすい状況について、とてもよく把握されているんですね。花緑さんが「発達障害かもしれない」と思ったのは、とある番組出演時の、視聴者からのメールがきっかけだと著書に書かれていました。花緑:そうなんです。2014年に出演した番組で、小学校時代の5段階評価で「1」と「2」ばかりの通知表を見せ、「こんなにひどい成績だったけれども、今は弟子もいて、落語を何百席も覚えている落語家です」と話したんですね。それを観た視聴者の方から、「番組で話していた内容が、うちの子とそっくりです。もしかして、花緑さんもディスレクシアではありませんか?」というメールが事務所に来たんです。――そのメールを読んだときは、どう思われましたか?花緑:そのときは、発達障害についてまったく知らなかったし、「障害」というレッテルを貼られるようですごく抵抗があったので、「ちょっと待ってくれ、やめてください」と思いました。だから、「番組では出さなかったけど、主要5教科以外の音楽や図工の成績はよかったし、僕はディスレクシアではないと思います」と、やんわりとお返事したんです。そうしたら、「教科書をあまり使わない教科の成績がいいのも、うちの子と一緒です。やはりディスレクシアだと思います」と返信をいただいて(笑)。気になってディスレクシアについて調べてみると、あまりにも自分に当てはまることが多かったんです。そこで、「ああ、自分は発達障害なんだ」と受け入れられました。43歳のときですね。――ディスレクシアだと気づいたのは、つい最近のことだったんですね。先ほど主要5教科の成績が悪かったとおっしゃっていましたが、学校での勉強は、やはり大変なことも多かったのでしょうか?花緑:小学校2年生の時点で、すでに授業についていけなくなっていました。宿題をするのも難しかったんですが、そうなると、宿題をやっていることが前提の次の授業にもついていけなくなるじゃないですか。みんなが宿題を出している様子を見て、提出できないことに後ろめたさを感じましたし、「人にはできることが自分にはできないんだ」と、自信を失うばかりでしたね。さまざまな授業の中でも、国語の授業での音読は地獄でした。文字を認識するのに時間がかかるので、つっかえつっかえでしか読めず、クラスのみんなに笑われる。今だったら、「他の子が読みたがっているからそっちに回してください」「来月中旬には読みますから」なんて冗談を言えますが、当時はそんな気の利いたことを言えないし、拒否もできません。恐怖心と共に震えながら読んでいました。Upload By 姫野桂文字を介さずに練習できる落語に救われた――そのような経験があると、勉強することが嫌になってしまいそうですね……。ですが、音読で嫌な経験をしたことのある花緑さんが、人前で話をする職業に就いたのは興味深いです。落語はいつから始めたのですか?花緑:小学4年生のときには、祖父であり師匠でもある、5代目柳家小さんの稽古を受けて、落語の初舞台を踏んでいました。祖父が人気者だったので、祖父と一緒に出た落語会は注目され、ワイドショーでも「小さんの孫、デビュー!」などと報道されていましたね。叔父も落語家でしたし、祖父のお弟子さんがうちに住み込みで手伝いをしに来ることもあったので、落語はすごく身近なものでした。特別上手だったわけではないと思いますが、名人には違いない祖父の真似をしていたので、子どもながらに落語っぽくはできていたのだと思います。周りにも褒めてもらえました。つまり、僕にとっての成功体験は落語だったんですね。落語に救われたと言っても過言ではありません。もともと人を笑わせるのが好きでしたし、学校ではできない体験を落語を通じてできたので、楽しかった覚えがあります。だからこそ、中学に入る前に、母に「部活をやるなら落語家にはならない。落語をやるなら部活には入らない。どうする?」と選択を迫られたときには、ほぼ悩まずに落語の道を選びました。――落語を覚える際に、文字が読めないことは妨げにならなかったのですか?花緑:落語は「口伝」といって、対面でしゃべる稽古を通して伝わっていくものなんです。師匠がしゃべったものをICレコーダーに録音して、文字に起こすこともありますが、基本的にはその人の覚えやすい方法で覚えていく。僕の場合、小学生の間は書き起こすこともなく、ひたすら繰り返ししゃべって覚えていたので、文字の読み書きは必要なかったんです。ひらがなでメモを取るようになったのは、たしか中学生以降だったと思いますね。社会で通用するのかという不安。人間国宝の孫であることもプレッシャーに――部活ではなく落語を選び、落語の稽古を積んでいったことで、同級生とは少し違う道を進み始めたのではないかと思います。感覚のズレなどは感じませんでしたか?花緑:中学生のときまでは、あまり感じませんでした。でも、卒業して、僕が本格的に落語の前座修業に入ってからは、少しずつ感覚の違いは出てきましたね。例えば、話すのが好きな近所の友人たちと夜遅くまで話す中で、この先の人生についての話題になったとき。そういうときに、自分がストーンと相手の急所を突くようなことを言ってしまうんですね。そうするとみんなびっくりしちゃって……。友人が高校に通う間、僕は大人と一緒の社会で修行をしているので、どうしても話題がずれたり、自分が少し先に大人びていくような感覚はありました。――中学卒業後、すぐに社会に飛び込むことへの不安はありませんでしたか?花緑:当時のことはあまりはっきりとは覚えていないのですが、やっぱり不安はあったと思います。自分がどこまで通用するかわからない不安と、祖父が5代目小さんであるがゆえの不安という、二つが大きかったですかね。例えば、落語をやっていく上では江戸時代の知識が必須ですが、僕は学生のときから歴史に興味が持てず、全然知らなかったんですよ。落語を話すときに必要な情報を得ようと調べても、発達障害の特性で文字も読みづらいし、好きなこと以外はなかなか頭に入らない。これまでの経験から、自分は他の人と同じように勉強ができない、劣っているんだという思いもあったので、社会でどこまで通用するだろうという点は不安でした。Upload By 姫野桂――もう一つの、おじいさまに関連する不安というのは、どのようなものだったのでしょうか。花緑:自分が受けている評価は、祖父の存在ありきなんじゃないかという不安があったんです。祖父は落語協会という大きい団体の会長でもあったので、周りの人から見た自分は「業界で一番偉い人のお孫様」。当時は自分に自信がないし、実際に実力もまだまだだったので、チヤホヤされるのが嫌でした。1人の落語家として、他の人と同様に見てほしかったんですね。その一方で、これはせっかくのチャンスなんだから、うまく乗っていかないと失礼なのではないかという変な気遣いもありました。――花緑さんはその後、22歳という戦後最年少で真打に昇進したんですよね。花緑:はい。普通は落語家に入門してから、見習い、前座、二つ目、真打という4つの階段を、大体15年位かけて上がるのですが、僕は7年で一番上まで上がっちゃったんです。他の人からどう見えていたかはわかりませんが、冷静に自分で振り返っても、すごく才能があるというわけではなかったと思います。機が熟していない状態での昇進で、ド下手でこそないものの、中途半端な実力でしたね。名声に反して、常に自信はありませんでした。「小さんの孫」として生きていかないといけないのだけれど、そこにあぐらをかかずちゃんとやっていくにはどうしたらいいかを常日頃考えていて。なにかやらなきゃという気持ちが、自立したいというところにも向かいました。――自立ですか。具体的に、どのようなことをされましたか?花緑:真打になる前、実家で暮らしていた21歳の頃から、家に毎月5万円ずつお金を入れ始めました。その頃にはすでに一人暮らしをしたかったのですが、親に「一人暮らしなんてできない」と止められてしまって。それが悔しかったので、自分も自立できるんだというところを態度で示そうと、家にお金を入れ、自分に関する家事は自分でするようになりました。真打になったときには、自分で引越し屋に電話をして、強行突破で一人暮らしを始めました。自由になりたいからということで、自由が丘で(笑)。――自分一人でも生活ができるようにしていったのですね。その結果、自信はつきましたか?花緑:うーん、自信が芽生えてきたのは、30歳前後かもしれません。落語のCDを出したり、有名なテレビ番組に出演したり、初めての書籍出版の話をいただいたり……。一気に有名になり、生活も変わりました。ですが、本当の意味で自信がついたのは、42歳でディスレクシアについて知り、自分は発達障害なんだと受け入れてからだと思います。Upload By 姫野桂能力差を努力不足だと思わなくなった――発達障害であることを受け入れたことで、花緑さんにどんな変化があったのでしょうか?花緑:発達障害は先天的なものですから、読み書きが不得意で勉強ができなかったのは自分のせいじゃなかった、努力不足というわけではなかったんだと思えるようになったんです。もちろん、これからより良くできるようになることもあると思っていますが、なんだか初めて自分の両足で地面に立ったような気分でした。そこからは、自分の感覚を素直に言葉にし、自分をさらけ出せるようになって、オープンマインドになりました。子ども時代からのつらかったことが傷にならないように、自分で心のケアもしていったような感覚があります。2017年、46歳のときに書籍で発達障害を公表してからは、さらに楽になったような気がしますね。仕事の際に余計な緊張をせずにすむようになったので、相手も緊張させず、いい雰囲気で仕事をしやすくなりました。――人との関わり方も変わってきたんですね。花緑:はい。人に対する見方が変わったところもあると思います。僕は今10人の弟子を抱えているのですが、本当に十人十色なんですよね。例えば、15分の落語を覚えるのに、1週間で覚える人がいれば、半年かかる人もいる。その差がそのまま努力の差というわけではなく、習熟には個人差があるのだと考えるようになりました。発達障害であれ健常者であれ、そのような差があるのだということは、自分自身を通じて学びましたね。――今、花緑さんがより生きやすくなるため、困りごとを解決するために取り組んでいる工夫などはありますか?花緑:ナレーションなどの仕事の際は、あらかじめクライアントさんに頼んで、台本にルビを振ってもらっています。また、作家さんに書いてもらった落語の新作台本は、妻がルビを振ってくれていますね。そういったサポートには、とても助かっています。発達障害を受け入れることで回復できる自信――今、発達障害について悩みを抱えている子どもたちに、なにか伝えたいことはありますか?花緑:発達障害かもしれないと思いつつ、受け入れられずに悩んでいる子がいるのであれば、「僕は、受け入れてから楽になったよ」と言いたいです。己と向き合うことに怖さを感じるかもしれませんが、自分の特性を知って初めて、自分の取扱説明書を手に入れられます。対処の工夫ができるようになるのはそれからなので、まずは知る勇気を持つのが大切ですね。そのようなときに、周りのサポートや、同じような特性を持つ人の情報が得られると、自分の特性を受け止める衝撃が緩和されるのではないでしょうか。――花緑さんは、落語家という自分に合う職業を見つけられましたよね。働き方についても、なにかアドバイスがあればお願いします。花緑:自分に向いている職業に出会うためには、好奇心を持っていろんな職業を発見することが大事だと思います。意識の持ち方で、物事の見え方は変わるものです。例えば、「今日のラッキーカラーは赤です」と、朝のニュース番組の占いで聞いた日には、いつもの道を歩いていても、これまで気づかなかった赤い看板などが次々に目に飛び込んできますよね。そんなふうに、意識的に身の回りの仕事に目を向けることで、関心の持てる職業が見つかるのだと思います。そこで必要になる好奇心は、「自分はダメなんだ」と自信をなくしている状態では、なかなか湧いてこないと思うんですよね。だからこそ、発達障害を受け入れ、「これは症状によるものなんだ、自分が悪いわけではないんだ」と思えるようになることは大事だと思います。自信が回復して、心の土台がしっかりできたときに視野が広がり、今後のことにも興味を持てるようになるのではないでしょうか。――興味を持った仕事と、自分の特性上向いている仕事が違う場合もありますよね。たくさんの仕事が目に入るようになったときに、自分に合った仕事はどうやったら見極められると思いますか?花緑:最初から「一生これをやるんだ!」とは決めず、つまみ食いするようにいろいろと試してみるのも一つの手だと思います。興味を持ったらアルバイトなどで体験してみて、向いていないと思ったらまた次を試せばいいと思うんです。僕も前座時代に、師匠の身の回りの手伝いをしながらあちこちついて行きました。そのときに、苦手な「空気を読む」という経験ができたのもよかったと思っています。自分と似た特性を持つ人の本を読むのもいいですよね。同じような症状の人が、こんな業界で働きながらちゃんと生活できているんだと知ることは、希望になると思います。落語家は少し特殊な職業だと思われるかもしれませんが、僕が出した本も、その助けになれば嬉しいです。Upload By 姫野桂発達障害を受け入れたことで新たな自信を獲得した花緑さん。どうすればより生きやすくなるのか、一歩踏み出すための勇気を花緑さんにもらった気がします。もちろん、自分の特性を理解し、受け入れ、付き合っていく道のりは人それそれですが、花緑さんをはじめ、発達障害と共に生きる先輩たちのライフストーリーの中には、一人ひとりが自分らしい生き方を見つけるヒントがきっと散りばめられているはずです。今後も、さまざまな生き方・働き方をしている方々のインタビューをお届けしていきますので、どうぞお楽しみに。取材・文:姫野桂編集:鈴木悠平・佐藤はるか撮影:鈴木江実子2020年10月4日(日)14:00配信開始チケット料金:3000円Upload By 姫野桂フリーライター。1987年生まれ。宮崎市出身。日本女子大学文学部日本史学科卒。大学時代は出版社でアルバイトをし、編集業務を学ぶ。卒業後は一般企業に就職。25歳のときにライターに転身。現在は週刊誌やウェブなどで執筆中。専門は性、社会問題、生きづらさ。猫が好き過ぎて愛玩動物飼養管理士2級を取得。著書に『私たちは生きづらさを抱えている発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音』(イースト・プレス)、『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)、『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ」解消ライフハック』(ディスカヴァー21)。Upload By 姫野桂
2020年09月23日学校では教えてくれない、発達障害当事者の「将来」の描き方「進路や職業を考えろと言われるけれど、自分には何ができるのか分からない」年若い、発達障害当事者の友人から、そんな悩みを聞かせてもらったことがあります。「中学、高校、大学と進むにつれて支援が薄くなっていく。我が子の将来をどう考えればいいのか」発達障害のあるお子さんを育てる保護者の方から、そんな不安をお話しいただいたことがあります。発達障害者支援法が制定されてから15年が経ち、「発達障害」という概念やその特徴に対する認知は高まってきました。学校での特別支援教育や、児童発達支援・放課後等デイサービス、就労移行支援といったさまざまな福祉サービスも少しずつ、ですが着実に、充実してきたと言えるでしょう。しかし、思春期・青年期の子ども・若者たちの進路や職業選択に関するサポートはまだまだ手薄いのが現状です。世の中にはさまざまな職業があり、生き方がありますが、このような生の声は学校では教えてくれません。「他の多くの人と同じような人生を送ることはしたくないし、できない、しかし何がやれるのか分からない」「好きなことはあるけれど、自信がなくて諦めざるを得ない」と嘆く子どもたち・若者たちも少なくないと思います。そこでこの度、発達障害の診断のあるミドルエイジの先輩方から思春期の後輩たちに向けた、仕事・人生に関するアドバイスやメッセージを届けていく『すてきなミドルエイジをめざして:発達障がいのある子どもたちの人生設計のために』(仮)という企画をスタートしました。職業やライフスタイル、診断や特性、年齢もさまざまなミドルエイジの発達障害当事者の先輩方のインタビューを重ね、学苑社(特別支援教育関連図書を発行する出版社)さんからの書籍出版を予定しています。今回、LITALICO発達ナビとの連動企画として、書籍出版に先がけて、ウェブ上でのインタビュー記事連載をお届けします。職業も特性も多種多様。ミドルエイジの先輩たちが「自分らしい生き方」に至るまで記念すべき連載第1回は、落語家の柳家花緑さんのインタビューです(2020年9月23日に記事を公開します)。Upload By 鈴木悠平2017年に、発達障害の一種で文字の読み書きが難しいディスレクシア(読字障害・読み書き障害)であることを著書で公表した落語家の柳家花緑さん。幼少期の悩みや、落語家の道を進み、自信をつけるまでの過程を語っていただきました。研究者、事務職、整備士、バーテンダー、作家、心理士、ショップ店員などなど、これからご紹介するインタビュイーの方々の職業や働き方も多種多様です。働き方や生き方に、万人に通じるたったひとつの「正解」というものはありません。「発達障害だから」こういう仕事ができる・できないと決めつけることもできないし、するべきではないと思います。だからこそ、この連載では「答え」を提示するのではなく、多様な先輩たちの多様な生き方と、そこに至るまでの考え方や道のりをなるべく丁寧に共有していきたいと考えています。「これから」を考える思春期・青年期の若い発達障害当事者の皆さんが、自分らしい生き方を考える上での「ヒント」を、それぞれに見つけてもらえるような、そんな連載・書籍にしていきたいと思います。ぜひお読みいただき、感想をいただければ幸いです。企画メンバーからのメッセージ連載企画をスタートするにあたって、企画メンバーからのメッセージです。Upload By 鈴木悠平皆さんの将来の夢はなんでしょう?この企画では、発達障害のあるミドルエイジの人の仕事や生き方にフォーカスしていきます。自分のやりたいことと自分のやれることのギャップに悩んでいる人、障害があることを理由に夢を諦めようとしている人、また子どもの将来に不安を持つ保護者の方にはぜひお読みいただきたいと思います。連載で取り上げられる職業の中には一見、発達障害がある人には向いてなさそうな仕事で活躍している人もいます。自分の特性に周りの環境をいかに合わせるか、先輩達の工夫から「発達障害」の考え方自体が変わるかもしれません。プロフィール:鳥取大学医学系研究科臨床心理学講座教授 LITALICO社外取締役専門は、応用行動分析学、自閉症と発達障害への支援、臨床心理学、特別支援教育。 ペアレントトレーニングシステム、強度行動障害研修プログラム、不登校支援プログラムなどの支援プログラムを開発し、LITALICOジュニアのプログラム監修も務める。学生時代はオフロードバイクにテントを積んで各地を放浪、長らく続いたバイク乗り行動も最近は周囲のご批判から黄色信号。大人になりきれないアラフィフ。井上研究室ホームページ井上雅彦TwitterUpload By 鈴木悠平思春期はどんな人でも悩む時期です。発達障害の特性のある方は、さらに人付き合いや家族のこと、進路で頭がいっぱいになってしまうこともあるでしょう。実際、私も何をやりたいのか、やりたいことがあっても実際にそれで食いっぱぐれずに生活していけるのか、不安だらけだった時期がありました。誰に相談すればいいのかも分かりませんでした。でも、これからご紹介するミドルエイジの先輩たちならば、きっと乗り越えるためのヒントを何かしら知っているはずです。連載、どうぞご期待ください。プロフィール:フリーライター。1987年生まれ。宮崎市出身。日本女子大学文学部日本史学科卒。大学時代は出版社でアルバイトをし、編集業務を学ぶ。卒業後は一般企業に就職。25歳のときにライターに転身。現在は週刊誌やウェブなどで執筆中。専門は性、社会問題、生きづらさ。猫が好き過ぎて愛玩動物飼養管理士2級を取得。著書に『私たちは生きづらさを抱えている発達障害じゃない人に伝えたい当事者の本音』(イースト・プレス)、『発達障害グレーゾーン』(扶桑社新書)、『「発達障害かも?」という人のための「生きづらさ」解消ライフハック』(ディスカヴァー21)趣味はサウナと読書、飲酒。姫野桂TwitterUpload By 鈴木悠平進路のこと、仕事のこと、将来のこと。未だ来ずの「未来」のことなんか分からない。「早めに考えてしっかり準備する」なんてこと、僕にはとても出来ませんでした。今もあんまり分かっていません。これから連載を読んでくださる皆さん、特に、思春期・青年期の若い世代の皆さんには、だからどうか、焦らずじっくり、考えたり悩んだりする時間を大事にしてほしいなと思います。今回の企画では合計8名のミドルエイジの先輩方のインタビューをお届けしますが、参考になることもあれば、ならないこともあるでしょう。全部を無理に取り入れようとする必要はありません。でも、たくさんのインタビューの中から、何か1つでも2つでも、皆さん一人ひとりにとって「お守り」となるような、言葉や考え方が見つかると嬉しいな、と思っています。楽しんでもらえると嬉しいです。ぜひ感想もお聞かせくださいね。プロフィール:文筆家/インターミディエイター® 1987年生まれ。株式会社閒 代表取締役。LITALICO発達ナビの初代編集長として、2016年〜2019年4月までの3年間、発達ナビユーザーの皆さんと一緒に歩んできました。現在は独立し、文筆・研究を中心に活動しています。ADHD/ASD混合型。体調を崩したり色々ありながらも、仲間たちと助け合いながら無理なく健やかに働き続ける方法を模索中です。閒 - あわい -鈴木悠平TwitterUpload By 鈴木悠平年を重ねるにつれて、支援は薄くなっていく――これは障害のある子どもを育てる私にとっても常に心のどこかで不安を感じ、懸念していることです。そしてそれは保護者の方が多く感じていることだと思っています。「才能を生かして自立すればいい」と言われ、なぜ障害のある子ばかりがそう言われなくてはいけないのか、そのように吐露してくださった保護者の方は一人や二人ではありません。「手に職を」と言われ、まだ将来の夢も描き切れない幼いうちから職につながる進路選択を迫られることへの悩みを話してくれた中学生もいました。生き生きと等身大で暮らす当事者の取材を通して、将来に悲観することなく、今を大切に生きる道しるべを届けられたらと願っています。プロフィール:LITALICO発達ナビ編集長。慶應義塾大学法学部政治学科卒。大学卒業後、約15年大手出版社で雑誌・書籍の編集に従事。その後、事業会社の広告宣伝部を経て現職。子どもは高校生と小学生の2人。長女には先天性の重度知的・身体障害がある。発達ナビ上でのダイアリーへの投稿、コラムへのコメント投稿、編著メンバーのSNSへのリプライなども大歓迎です。
2020年09月11日元女子サッカー選手であり、『なでしこジャパン』の一員として活躍し国民栄誉賞にも輝いた、丸山桂里奈さん。現役引退後はタレントとして活動し、明るい人柄で人気を博しています。元『なでしこジャパン』丸山桂里奈が結婚を発表2020年9月5日、丸山さんは埼玉県の『さいたまスーパーアリーナ』で行われたイベント『第31回 マイナビ 東京ガールズコレクション 2020 AUTUMN/WINTER ONLINE』に出演。新型コロナウイルス感染症の影響でオンライン配信となった今回のイベントで、丸山さんは純白のウエディングドレスをまといステージに登場しました。タキシード姿で共に現れた、元サッカー日本代表で解説者である、本並健治さんと結婚したことを発表!同じく元サッカー日本代表の前園真聖さんが神父役になり、オンラインで公開結婚式を行いました。サンケイスポーツによると、丸山さんは2人のなれそめについて、このようにコメントしたそうです。壇上でなれそめを聞かれた丸山は「きっかけは私が好きになったこと。もともと人間として大好きでしたが、今年に入ってから唇をもってかれたいなと思うようになりました」と告白。本並氏のタキシード姿を見て「顔も黒だし、黒い服ばっかりだから全然違う人に見えた」と大喜び。本並氏も「いつもジャージかユニホームしか見ていないのできれい。新鮮ですね」と笑みがはじけた。サンケイスポーツーより引用丸山さんと本並さんの公開結婚式にネットを通して多くの人が驚き、祝福しました。「丸山さんの性格なら熱い妻になりそう!」「日本代表カップル誕生!めでたい!」「いい意味でビックリ!幸せなニュースで嬉しい」といった声が上がっています。きっと、笑顔あふれる素敵な家庭になることでしょう。ご結婚おめでとうございます![文・構成/grape編集部]
2020年09月05日元サッカー女子日本代表でタレントの丸山桂里奈が18日、都内で開催されたDCTVシリーズ「BATWOMAN/バットウーマン〈シーズン1〉」のDVD&デジタル配信を記念したメディア向け撮影&取材会に登壇。“日本版”バットウーマンとして、同シリーズをアピールした。本作は、バットマンが突如消え、3年が経ったゴッサム・シティを舞台に、新時代のヒロイン“バットウーマン”が立ち上がるという物語。DCTVシリーズ初のLGBTヒロインであるバットウーマンが、愛する人や家族、ゴッサム・シティを守るため、数奇な運命に翻弄されながらも、自らの運命を切り開いていく。なでしこジャパンの一員として世界を相手に戦った“ヒーロー”経験があるということで、PRアンバサダーに起用された丸山。赤いウィッグとオーダーメイドの“バットウーマンスーツ”に身を包み、作品の舞台をイメージした摩天楼がそびえる背景の前で、強くてセクシーなバットウーマンになりきってポージングをした。丸山は「このスーツはオーダーメイドで作っていただいたので、すごい着心地が良くて、普段から着たいくらいです。このままサッカーの試合ができるくらい」とスーツのクオリティーに感心する。また、アンバサダーとしてのオファーについて「本当に偶然ですが、最近、演技の仕事がすごく増えたんです。それで、もしかしたら、実写版に選ばれたのかなと思ったら、アンバサダーでした。うれしいことには変わりないんですが」と言って、笑いをとった。さらに、丸山は「イメージトレーニングで、夜中、緑道を歩くようにしてました。なるだけ夜の街をパトロールしようかと。もちろん距離を取りながら。こういう感じで」とポーズを決める。「人からすごく見られてるなとは思ったんですが、バットウーマンになりきろうと。やはりイメージトレーニングが大切なので」と丸山節を炸裂させ、マスコミ陣は爆笑。「バットウーマンとして守りたい人は?」という質問に対して、「やっぱり地元の大田区大森シティを守りたいです。下町って言われてるんですが、どんどん上に上がっていって、下の町がなくなってきているので、下町を大事にしていきたいです」と地元愛を炸裂させた。また、やっつけてみたい人については、元WBA世界ライトフライ級王者でタレントの具志堅用高の名前を挙げた。「世界チャンピオンで強い方ですが、よく一緒にロケへ行くと、本当に強いのかな? と思うことがあるので、バットウーマンになって、戦ってみたい。いつも素振り(シャドー)をされてますが、こぶしの速さは尋常じゃないです」と笑顔で語った。「BATWOMAN/バットウーマン〈シーズン1〉」のVol.1~Vol.5は、8月19日よりDVDレンタルとデジタル配信がスタート。10月14日には、シリーズのブルーレイも発売され、Vol.6~Vol.10のDVDレンタルが開始となる。
2020年08月18日2020年4月14日現在、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で行動の自粛が求められています。緊急事態宣言が出された地域では、娯楽施設や百貨店などの多くの店が自粛要請に従って営業を取りやめ。しかし、生活に必要な食料品売り場やコンビニエンスストアはほぼ通常通りの営業を行っています。ネット上には自粛によって家から出る機会が減ったことから、営業しているスーパーに家族全員で買い物に来る人たちがいるという声が上がっていました。一般社団法人全国スーパーマーケット協会(以下、全国スーパーマーケット協会)は、「スーパーは遊び場、レジャーランドではありません」と、一家総出での買い物を控えるよう訴えています。感染症流行中も休業しないスーパー「家族で出かけられる!」と思っている人に協会が注意丸山桂里奈「自粛も何もないじゃん」元サッカー日本女子代表で、タレントの丸山桂里奈さんが街で見た光景へについて苦言を呈し、共感の声が寄せられました。全国スーパーマーケット協会の呼びかけもむなしく、丸山さんが街で見たのはスーパーに人がたくさんいる光景でした。緊急事態宣言や自粛要請といいつつも、外出は禁止されていません。しかし、スーパーには家族総出で買い物に来ていたり、マスクもしないで外出している人がいたり、感染防止の意識が足りない人が多くいたのです。丸山さんは「『自粛』っていったって、結局難しい気がする」と苦言を呈しました。自粛て言ったって、結局難しい気がする。諦めてるわけじゃないけど、あれだけスーパーに人がいて、普通に行列に並び、家族揃って律儀にスーパーに行くひとたち。みんな我慢してるし、逆に我慢出来ずにマスクもせずに出かける人達がいたら、自粛もなにもないぢゃん。— karina maruyama丸山桂里奈 (@marukarichan11) 2020年4月13日 また、仕事で買い物になかなか行けない人や、買い物することで経済が回ることを考えながらも、自粛の意識が足りないと指摘。仕事柄だったり、経済的にてなったり色々あるかもしれないけど、でも自分がまずならないことで、なったとしたらまず人にうつさないことで、なおかつ大切な人の為と考えたら普通はしっかり自粛するよね。それにはまず人混みに行かない、行くなら最低限の数で行かなきゃだし、一人一人が考えなきゃだよ。— karina maruyama丸山桂里奈 (@marukarichan11) 2020年4月13日 投稿を読んだ人たちからはさまざまな声が寄せられていました。・本当にその通りだと思います。・小さい子供がいるとそうはいかないんだよね…。なるべく気を付けます。・大切な人を守りたいなら、今は我慢する時。・スーパーで働いているけど、本当に家族で来る人が多い。家族で買い物に来ている人の中には、小さな子供がいて留守番ができなかったり、荷物を運ぶ人手が必要だったりといった理由がある人もいるかもしれません。ですが、できるだけ感染拡大に繋がらないよう一人ひとりの意識を高めていきたいものです。[文・構成/grape編集部]
2020年04月14日3人の女性当事者が語りあう。発達障害のある人生Upload By 発達ナビ編集部「女性の発達障害鼎談企画」に集まっていただいた3名の当事者の方々。3名とも成人してから診断を受け、それぞれ発達障害に関する情報の発信をされています。今回は発達ナビユーザーへのアンケートももとにして、ご自身のことから女性特有のお悩みとの向き合い方まで幅広くお話を伺いました。まずはご自身の特性や診断を受けたきっかけ、障害受容について、困難もあった人生を生き抜いてきたライフハック術などをお話しいただきました。診断を受けて服薬して、「これまで無駄な努力をしていた」と傷ついた(宇樹さん)ライターとして活躍している宇樹義子さんは、32歳のときに高機能自閉症と診断されたそう。鍼灸院で聴覚過敏ではないかと指摘されたことをきっかけに特性を自覚し、その1年ほど後に心療内科で診断を受けたそう。診断されたとき、どのような心境だったのでしょうか。Upload By 発達ナビ編集部宇樹さん――診断を受けて薬を飲み始めて1日目に、10年ぐらい悩んでいた昼夜逆転がピタッと治ったんですよ!それでものすごく救われた面と、私はその薬を飲まないと生活できない障害者なんだっていう2つの間で引き裂かれるようになっちゃって。私は今まで無駄な努力というか、頑張ってもできないことを一生懸命してきてしまったんだなっていう喪失感があって、30年分ぐらいさかのぼって傷ついた。ただ、これからどうするべきかっていうのを早く考えなきゃいけないと思って支援を受け始めました。それまでの自分の生活を振り返って納得感があった(姫野さん)姫野桂さんは、ご自身の著書のほか、発達障害当事者への取材もたくさんされています。今から約1年前に算数LDと不注意優勢のADHDの診断を受けたそう。算数LDについては小学1年生からいくら努力しても算数ができなかったことから自覚があったそうですが、ADHDについては特に自覚はなかったとか。Upload By 発達ナビ編集部姫野さん――診断を受けて、いろいろ納得がいきました。自分が算数ができないということと、ちょっと人より行動が遅いこととか。そういうことがあったんだなぁって思いました。息子の発達障害の可能性...調べてみたら、自分に当てはまることだらけ(鈴木さん)鈴木希望さんは、発達ナビでもおなじみのライターで、自閉スペクトラム症の診断があります。Upload By 発達ナビ編集部鈴木さん――息子が可能性があるって言われている自閉スペクトラム症とADHDについて調べたときに、これは私じゃないか!と思ったんですよ。息子より私の方がこれは強くないか?と。診断については、「努力不足や性格の問題ではないことが分かって嬉しかった」とおっしゃっています。もともとてんかんがあることから、発達障害の診断についても抵抗はなかったそうです。支援を受けることに後ろ向きな人へ――考え方ややるべきことは?3つのアイディアUpload By 発達ナビ編集部自身の障害を受け入れて生活されている3名ですが、当事者や家族のお悩みとしては、「周りと違うことに抵抗感が強く、受容できない」「支援を拒否してしまう」といったケースもよく耳にします。自身の特性を受け入れて、支援をうまく活用しながら生活していくにはどうしたらよいか、アドバイスを伺いました。姫野さん――得意なことも具体的に書き出してみるとよいですね。友人が就労移行支援を利用して最近就職したのですが、その友人は今まで接客業が多かったから自分は接客が向いてると思ってたらしいんです。でも就労移行支援事業所でのワークで適性を見てもらったところ、マニュアルがあれば大丈夫だと気づいたらしくて。そういうふうに、”自分はこれがあれば大丈夫”っていうのが分かると、なんだか前に進めそうな気がしますね。宇樹さん――抵抗感が強いのは分かるんですけど、その抵抗感の中にいたらずっと自分が被ってきた損をこのまま被り続ける。でも勇気を出して踏み出してみたら、もうちょっと楽に生きられるようになるかもしれない。自分のためなんだとなるべく考えるようにすればいいのかなと思います。また、支援を受けるにあたっての「情報収集」の大切さについては、3名ともがお話しされていました。宇樹さん――それまでに結構、発達障害の人ってズタズタに傷ついているんですね。人によっては助けてもらおうとして誰かに頼って裏切られてってことを繰り返してきているので、なかなかそこから出ていくのって難しいと思うんですけど、まずは情報を手に入れること。支援者はいろんな人がいて1人ダメだったら他の人にどんどん当たればいいんだということ、支援機関もどこがダメだったら他のところにどんどん当たればいいんだっていうこと、そういうあたりを知ること。鈴木さん――ご自身が障害を受け入れられないっていう方もそうだし、ご家族の理解を得られない場合も人と繋がるというか、情報を得られる方法とかが分かれば。姫野さん――SNS時代なのでクチコミかなぁと思っていて。病院を探していた友人に相談をされたことがあって、私も病院のことはよく知らないので、とりあえずそういう発達障害系の自助会とかをひらいている方にSNSで相談をしたらいろんな人に聞いてくれて、いろんな病院のリストが集まったっていうこともありました。Upload By 発達ナビ編集部障害や自身の特性をどう捉えて受容していくか、その考え方のポイントも参考になりますが、情報収集を幅広く行い、どんな支援が受けられるのかをまず調べてみることも大切だと実感されているようです。日常から仕事まで!3人が教えてくれた7のライフハックご自身が障害を受容したあと、こういう工夫をしたら生きやすくなったなど、具体的なライフハック術についてもいろいろとお話しいただきました。まずは姫野さんから。姫野さん――私は確定申告がボロボロだったので、税理士さんをつけてお金で解決しました!できないことはできないって認めていろいろ人に頼っています。姫野さん――忘れ物を結構しちゃうので、玄関に100円ショップで買える小さいホワイトボードを貼って、そこにいつも持っていくものや必ず持っていくものを書いて、家を出る前にチェックして忘れ物対策をしています。これについては鈴木さんも同様の方法を取り入れていました。鈴木さん――忘れ物しないように、うちは貼り紙だらけなんですよ。よく息子が玄関の鍵を閉め忘れるので、もう”鍵を閉める!鍵を閉める!鍵を閉める!”みたいに、めちゃくちゃいっぱい紙が貼ってあったりとか。目に付くところにとにかく貼り紙を。姫野さん――仕事では基本ノートパソコンを使いますが、家で仕事をするときは27インチの大きい画面に映して作業します。そうすると誤字脱字を防ぎやすいです。宇樹さんは先端技術をいろいろと取り入れて生活をしているそうです。宇樹さん――「タイマーをかけて」とか言えば、手で操作しなくてもタイマーをかけられたりして便利です。Upload By 発達ナビ編集部宇樹さん――活動量計っていう、自分の心拍数とかのログをとってくれて、自分の体力の残り具合とか今のストレスレベルとかを計ってくれる機械を愛用中。主治医に体調を伝えるときにも活用しています。鈴木さんは、身近な人と苦手をカバーしあっています。鈴木さん――息子が私と正反対で、数字にすごく強いんですよ!お互いちょうど得意なことや苦手なことが逆だったりする。なので、数字を見間違ってないか確認してもらったり。私の母も、“覚えのないところから郵便が来たんだけど、これは詐欺ではないか”みたいな不安があると、私が実家に行って確認したり。とにかく相談できる相手と確認するようにしています。鈴木さん――気になることは書いて主治医のところに持って行って、「コミュニケーションの中でこの反応はどうだったんだろう」とか、そういうことも含めてこまめに相談するようにしています。貼り紙をすることや家族と確認しあうことなど、日々気をつけたいことへの対策は日常生活の中にしっかり落とし込んでいるようでした。そしてお話しいただいた中でも、宇樹さんの「先端技術の活用」には他のお2人も興味津々で盛り上がりました。忘れがちなタスクは機械に頼って管理したり、見えないものを見える指標で計るようにしたり...最近はスマホアプリなども本当にさまざまな種類があるので、自分の苦手に合ったものを探してみるのもよいかもしれないですね。ここまで、まずは性別に関係なく、当事者としてのご自身のことや生活術を伺いました。次回は女性ならではの話題にも切り込んでお話を伺っていきます。今回お話しいただいた内容はyoutubeでも公開中。コラム文面に乗り切らなかったお話もご視聴いただけます。
2020年03月04日上方落語の巨星としてはもちろん、関西のバラエティ番組などでも朗らかな笑顔と聴き心地良い語り口で笑いを提供し、老若男女問わず親しまれた桂米朝。その五年祭を前に、米朝、そして彼とともに数々の弟子を育てあげた絹子夫人の人生模様を描く舞台『喜劇 なにわ夫婦八景 米朝・絹子とおもろい弟子たち』が2月1日(土)から16日(日)まで大阪松竹座で上演される。時は昭和29年。元OSSK(大阪松竹少女歌劇団)のスター・駒ひかること桑田絹子と、まるで事務員のような無名の落語家・桂米朝こと中川清は、時代の運命に導かれるように巡業中に出会う。ほどなく結婚し、3人の子宝に恵まれ、穏やかで順風満帆な夫婦生活……とは夢のまた夢。待っていたのは、一筋縄ではいかない超個性派な内弟子たちとの、てんやわんやな共同生活だった。さらには愛息子の明も、賑やかな弟子たちに後押しされて落語家になりたいと言い出し……。廓正子著『なにわ華がたり』を堤泰之の脚本・演出により舞台化する本作。米朝の背中を追い続けた息子・中川明の語りを軸に、花札のようにめくるめく季節を共に駆け抜けた夫婦と、“弟子”という名の息子たちとの愉快な家族物語が展開。平成8年、米朝の人間国宝認定式に共に向かうまでの夫婦の軌跡が描かれる。歌劇のスターとして一世を風靡した時代から、桂米朝を支える妻となるまでの中川絹子を演じるのは、宝塚歌劇団退団以降、ボーダレスな活躍を続ける真琴つばさ。そして物語の要となる桂米朝役には、ミュージカルから時代劇まで幅広い作品での演技が光る筧利夫。米朝夫婦の長男として生まれ、後に弟子となって父親と同じ道を進む中川明役には内博貴という豪華な顔ぶれが揃った。さらに、米朝の師匠である四代目米團治役には、弟子として長年米朝夫妻と共に暮らした桂ざこばが出演し、物語により深みを持たせる。ほか、松竹新喜劇出身の曽我廼家文童、元OSKトップスターの桜花昇ぼる、NHK連続テレビ小説『スカーレット』の“大久保さん”こと三林京子に、池乃めだか、西川忠志、今野浩喜、野田晋市とバラエティ豊かな面々が集結。上方落語を語る上で欠かせない桂米朝を、陰日向となり支え続けた絹子夫人の人生から、賑やかな米朝一門の日々を綴る舞台。これまで明かされることのなかった米朝の素顔や夫婦愛、親子愛を描くアナザーストーリーを堪能して、和やかな笑顔で劇場を後にしてほしい。文:伊藤由紀子
2020年01月31日今年は初の全国ツアーを成功させ、来年1月にはドラマ『贋作男はつらいよ』(NHKBSプレミアム)で主役の寅さんも務めるという、脂の乗った落語家・桂雀々が独自の「スーパー落語」を引っ提げて地元・大阪で還暦公演を開く。そこで意気込みを聞いた。「桂雀々独演会 熱血の還暦公演」チケット情報51歳から本拠を東京に移して丸8年。当初は不安もあったと明かすが、ターニングポイントは2年前の落語家生活40周年公演だったと言う。シークレットゲストで登場したのは、なんとミュージシャンの桑田佳祐。落語を通した日々の付き合いからゲスト出演が実現した。他にもさまざまな畑違いの人達との交流が大きな財産になっている。一方、落語に関しては「江戸の噺とはネタもつかない(重ならない)し、キャラクターもかぶらない」と無二の存在感で活躍。今では稽古をつけて欲しいと東京の落語家から請われることも多く「上方の噺に興味のある人が多くなりましたね」と語る。今回の還暦公演で目玉となるのは、芝居さながらの照明や舞台装置に工夫を凝らす「スーパー落語」だ。「新歌舞伎座という大きな舞台で映えるものはないかな?」と昼の部に選んだ演目が『夢八』。いねむりで夢ばかりみている男が空き家の番を頼まれると…。「僕の中では“見せる”落語の代表作。表情、仕草、目線、棒を叩くところの描写と、この噺に出合えてから他の噺に応用できるようになったんです。間が持てるようになったというか、お客さんにうまく伝えられた初めての落語やと思いますね。落語作家の小佐田定雄さんの前振りの脚色が秀逸で、これでようやく落語の面白さが分かったんとちゃうかな」と話す。落語家としての転機と断言する一席。夜の部で披露される『景清』は、腕の良い目貫師・定次郎が目の病を患い…。情味のある噺で「誰かに薦められて、こんなネタは持ってないなと思い、(桂)米朝師匠のところにお稽古に行ったんですよ。師匠はマクラから教えてくださったんですが、中でも『ここは足取りが軽いはずや』とか定次郎の心情も言うてくれはって。そういう意味では“気持ち”の稽古でしたね」。さらに雀々の『景清』を聞いた師匠の桂枝雀からは、描写のアドバイスをもらったとか。まさに、米朝、枝雀というふたりの偉大なる先人の魂がこもった演目だ。桂雀々が自信を持って届ける還暦公演で、渾身の芸を堪能してほしい。公演は2月16日(日)大阪・新歌舞伎座にて。チケットは11月16日(土)一般発売。取材・文:松尾美矢子
2019年11月15日タレントの丸山桂里奈が14日、東京駅地下ののぞみ広場で行われた「東京ばな奈 キットカット ゴールド」PRイベントに出席した。ネスレ日本とグレープストーンは、コラボレーション商品第3弾として11月14日より『東京ばな奈 キットカット ゴールド「見ぃつけたっ」(キットカット ミニ 東京ばな奈味)バナナキャラメル味』の先行販売を東京駅一番街「東京おかしランド」で開始。その発売記念イベントに、同商品のテーマでもある「頑張るみんなを全力応援」にちなんで、全身ゴールドのチアリーダーの衣装を身にまとった丸山桂里奈がスペシャルゲストとして登場した。冒頭から衣装について問われた丸山は「ゴールドのチアリーダーの衣装を用意してもらいましたが、こんなに金はないので、今日はすごいことを成し遂げる気がします」とご満悦で、2011年に行われたドイツ女子ワールドカップで日本初の金メダルを獲得したことにも触れて「たくさん応援してもらって選手たちも走らせてもらいました。応援の力がたくさんあったからだと思います」と観客の声援に感謝した。この日はその時に獲得した金メダルを報道陣や行き交う一般客に披露したが「最初は家の中に保管していましたが、衣替えの時に出てきたので、車のドリンクホルダーに入れています。でも冬になると温かい飲み物や冷たい飲み物が飲みたいからドリンクホルダーが混み合うので、今はダッシュボードに入っています。忘れないですからね」と明かした。また、残り1カ月半となった2019年を振り返り、「あっという間でしたし、テレビのお仕事はスタジオもあればイベントやロケもあって、共演する方が同じでもやることが違います。毎日が刺激的でハッピーな1年でした」と充実した表情で、「いただくお仕事は私に期待してオファーすると思うので、その期待には全て応えたいですね」と来年の抱負を。また、この日はめていた指輪について問われると「令和になって自分で買いました。もうそろそろちゃんとした指輪が欲しいですね」と恋愛や結婚に意欲を見せて「いい人はいないっていうか、スタッフさんを好きになるんです。毎日恋しているんですけど発展がないですね。2020年は語呂もいいし結婚したいです! 2020年は結婚が目標!」と宣言していた。
2019年11月14日『桂 雀々、はじめての全国ツアー にっぽん、まるごと笑わせまっせ!2019』と題し、3月から全国8都市をめぐるツアーを行っている桂雀々。大阪は8月18日(日)、NHK大阪ホールに登場する。「桂雀々」チケット情報若手時代、師匠の桂枝雀が全国で独演会を開いている姿に憧れていたという。今年、「還暦を前にいつかはやりたかった」という夢がかなった。しかも、大阪公演は59歳になったばかり。この年齢にも特別な思いがある。「師匠は59歳で他界しましたので、ちょうど師匠の年齢に追いつきました。これからがスタートかなと思います」と改めて気を引き締める。オーバーなリアクションにマシンガントーク、賑やかな上方落語でもって更に客席にまで飛び出しそうな勢いで沸かせる。その爆発的な笑いに師匠の面影を見るファンも少なくない。「“俺流”じゃないですけど、誰にも真似できない雀々の形を作り上げることができたらと思いますが、師匠にはまだまだ、まったく追い付きません。ただ、師匠の年齢に近づくにつれ、“あの時、師匠はこう言うてはったな”という思いとか、苦労してはったことが分かるようになりました」。東京に拠点を移して8年、上方落語を知らない観客の心を瞬時に掴むため、マクラにも力を入れている。「1分、2分で“おっ!”と思わせるため、目線に気を配りながら。内容は世情なども多いですが、なにより自分で足を運んで得た情報を取り入れています。しょっぱなにドン!とウケたら“来てる来てる!って思いますね(笑)」とうれしそうに話す。生まれ故郷でもある大阪はホームだけあって、「お帰りなさいという空気感がある」と幕開けを楽しみにしている。そして、NHK大阪ホールという大きな会場だからこそ、1席1席をたっぷりできると意気込む。「大きなホールでの独演会は半年に1回ぐらいなので、ぜひ足を運んでいただいて、まったく異なる空気感、世界観を感じてください!女道楽の内海英華先生にもゲストで出ていただきます」。落語は三席、演目は当日、会場の雰囲気を見て決めるという。「お客さんの空気感で違ってくるので、その時に合ったものをと考えていますが、主に夏の大阪の噺になると思います。夏の大阪を舞台にした噺はたくさんあるので、何をやるか、お楽しみに!」。公演は8月18日(日)NHK大阪ホールにて。チケット発売中。取材・文:岩本
2019年08月09日世界3大スポーツ大会のひとつ、ラグビーワールドカップ2019日本大会の開幕まで残り約2か月。姫野和樹選手に大会への意気込みやファンへの思いを語っていただきました。サポーターあっての僕ら。感謝の気持ちは常に忘れずにいたい。外国人選手にも負けない堂々とした体格と、代表きってのイケメンぶり。完全無欠に見える姫野和樹選手だが、壁に当たったことも。「入社1か月で所属チームのキャプテンをやれと言われたときは、チームをどうしていくのか、考えすぎて悩みました。悩んだ末に、まず自分を理解する、と決めて自分を徹底的に見つめ直したら、徐々にチームや他の選手のことも見えてくるように。その経験があるから、代表チームでも、ワールドカップを楽しみに思えます」そんな彼を試合中に支えているのが、大切なサポーターの存在。「姫野コールや応援看板を見つけたりすると、絶対に活躍しようって思える。プレーの合間、会場を眺めて元気をもらっています」日本代表の試合では、総合的なスキルが必要なNo.8を担当。「真っ先に体を張っていくプレーを見てほしいですね。’15年大会の南アフリカ戦の勝利を見て、日本でラグビーをやっててよかった、と感じました。だから、次は自分がグラウンドで代表のプライドを示したい。そのためには、自分たちらしいラグビーをいかに遂行できるかにかかっていると思う。結果を出して、ラグビーをもっと知ってもらいたいですね」ひめの・かずき1994年7月27日生まれ。愛知県出身。187cm、108kg。トヨタ自動車ヴェルブリッツではキャプテンを務める。代表キャップ数は9。マイブームは料理。「昨日もハヤシライスを。なかなかうまいんですよ」※『anan』2019年7月31日号より。写真・小笠原真紀取材、文・野村紀沙枝(by anan編集部)
2019年07月29日サッカー女子元日本代表でタレントの丸山桂里奈が16日、都内で行われた「SOMPO パラリンアートカップ2019」開催発表会に、元乃木坂46の若月佑美とサッカー解説者の北澤豪氏とともに出席した。スペシャルゲストとして登場した丸山は、チームパラリンアートプロジェクトの第1段として「将来の夢」をテーマにした得意の絵を披露。「本当に好きで描いているだけなので上手いとかは……」と謙そんしながらも、同プロジェクトについて「初めて見させていただきましたが、素敵な絵ばかりでした。サッカーで心臓を鷲掴みされた衝撃はなかったんですけど、今回の絵を見て衝撃を受けました」と絶賛した。丸山は現在、バラエティー番組などで活躍中。現役時代に一緒にトレーニングをしたという北澤は「非常に重要なポジションを担っていますよ。スポーツ部門の芸能部門といえばちょっと前は武田修宏さんでしたが、いいポジショニングです」と褒めちぎり、それに照れ笑いを浮かべた丸山は「北澤さんみたいにサッカーの人が頑張っているからこそ私たちがバラエティーに出させてもらっているんです」と北澤を立てた。一般社団法人 障がい者自立推進機構は、スポーツをテーマに絵画アート作品を募集し、受賞作を表彰式や展示会などで企業、団体、個人に広め、障がい者の自立支援を目的とする「SOMPO パラリンアートカップ2019」を開催。審査員をを務める若月は、障がい者の絵画について「構成の斬新さに驚かされました。スポーツの絵を描いてと言われたら、私は何かの競技をしている絵を描きますが、虫とかロボットが一緒になってスポーツを描いている作品があり、自分の視野の狭さというか自由に描いて良いだなと思いました」と感想を。若月は、乃木坂46在籍時にオリジナルグッズのデザインを担当するなど、デザインやアートが得意。「今、乃木坂46では美術系の子がみんな卒業しちゃったんです。伊藤万理華ちゃんや西野七瀬ちゃんが乃木坂46内でグッズを担当してましたが、みんな卒業しちゃったので新しい人を発掘しなければと話し合っていると聞いています」と明かした。また、乃木坂46の元メンバーである衛藤美彩がプロ野球の西武ライオンズに所属する源田壮亮選手との交際を宣言したこともあり、イベント後の囲み会見では関連する質問が飛び出し、「私の後に卒業したので、本人とちゃんと話す機会がなく、今も会えていません」としつつ、「卒業しているので、女性としての幸せを大切にして欲しいですね」とエールを送っていた。
2019年04月17日注目の若手アスリートが魅せるカラダに注目!「情熱と愛情を持った選手になりたい」と力強く語ってくれたのは姫野和樹選手。その表情には、ラグビー界を牽引していくという決意が表れていました。フィジカルの強さでは、誰にも負けない自信がある社会人1年目という異例の若さで名門・トヨタ自動車ヴェルブリッツの主将を務め、日本代表に定着。名実ともにトッププレーヤーに君臨する姫野和樹選手の持ち味は、108kgの強靭な肉体を生かした圧倒的な突破力!「中学1年時の身長は170cmぐらいで、高校の頃には今(187cm)ぐらいありました。ウェイトトレーニングを開始したのも高校から。競輪選手だった父親譲りなのか筋肉がつきやすく、自然とサイズアップしていきました。今ではフィジカルの強さが一番の武器。特に脚は自慢です。試合中に見てほしいプレーは、ボールを持った時のランですかね。どんなにデカい相手にも当たり負けしない強さを間近で見てほしい!」パワーの源は、やっぱり美味しいごはんだそう。「栄養士さんのアドバイスも受けますが、基本的には好きなものを食べるスタイル。大好物のうなぎと焼き肉は、週に1度必ず食べます!てんこ盛りで!」と、くしゃっと笑う姿は少年のよう。その太陽のような性格でチームを引っ張ってきたのかと思いきや、「初めてキャプテンに任命された時はあまりのプレッシャーにラグビーをやめたいと思うこともあったんですよ」と本音が。「ツラい時期は、中学時代の恩師から言われた“常に一流であれ”という言葉を思い出して乗り越えました。当時は一流の定義なんてわからなかったけど、大学時代に“失敗してもすぐに起き上がれる人間が一流”と教えてもらい、そこからはその言葉が支えになっています。今一番心がけているのは、気持ちに余裕を持つこと。そのほうが大好きなラグビーを心から楽しめるとわかったから」そんな芯の強さが垣間見える姫野選手が惹かれる女性像とは?「品がある女性ですね。周りへの思いやりがあって、電車で席を譲るとか当たり前のことを当たり前にできる人。僕のことを立てて一歩下がってついてきてくれるけど、一緒にふざけ合えるような。好きだなぁ、そういう女性(笑)」ひめの・かずき1994年7月27日生まれ。愛知県出身。帝京大学卒業後、’17年トヨタ自動車へ。FWのNo.8。昨年トップリーグの新人賞を獲得。日本代表。趣味はサーフィン。※『anan』2019年2月20日号より。写真・SASU TEI(W)ヘア&メイク・亀田 雅(The VOICE)取材、文・黒澤祐美(by anan編集部)
2019年02月18日新歌舞伎座開場60周年を記念して桂雀々の独演会が開かれる。講談師の神田松之丞を昼夜のゲストに迎え、昼の部は『天神山』他一席を、夜の部は『愛宕山』他一席を披露する。「桂雀々独演会 in 大阪 新歌舞伎座」チケット情報師匠の生誕80年であり、没後20年となる節目の2019年。枝雀の落語を超えていきたい、その大きな壁、いや山を登りたいと『天神山』と『愛宕山』を選んだ。「僕が30代前半の時でしたかね、師匠に“おまはんは『天神山』とか『代書』とか『宿替え』や『かぜうどん』はやらないのか?”と聞かれたことがあるんです。その当時は、師匠が高座で口演するネタをやるなんて、めっそうもない。ファンは、桂枝雀の得意ネタを観たいから来てるんであって、それを僕がやるなんてそんなそんな…と答えたんです。そしたら“いやいや、あのネタは覚えといたほうがええで”と言ってくださって…。それきっかけに、もう一度、師匠のところに稽古に通ったことがあるんです。その時、最初に稽古してくれたのが『天神山』。非常にわかりやすい教え方でした。“狐も人間も関係ない、生きてるもんは皆おなじや”という情の部分の入れ具合、狐の母と息子の物語、魂の入れ方、力の込め方、最後にほっこりと温もりを感じさせる言い回し、間合い、表情、場面リアリティのある設定、すべてかいつまんで教えてくれました」。『愛宕山』のネタおろしは21歳のとき。「芸歴5年にして初独演会でして。うちの師匠やみんなが父兄参観日みたいに来てくれました。その時、上岡龍太郎さんもいてはって、“舞妓さんの(描写の)かわいいこと。そのかわり愛宕山のまぁ、低いこと”って。自分ではすごく高い山に登ってる気やったんですけど(笑)。ある意味、その言葉が糧になりましたね。10年後に見てもらったら“山、ちょっと高なったなあ”て」。枝雀没後20年が過ぎた。「今こそ、桂枝雀の名を広めないとあかんなと思っています」と力を込める。「“こんなすごい先駆者がいたんですよ”と声を大にして言いたいですね。僕は毎晩、寝る前に師匠の落語を聞くんです。常に師匠の音源を体に通したいと思っています」。枝雀は師弟関係を越えた特別な存在だ。「僕にとっては大きな柱です。16歳でこの人に出会っていなかったら、今の僕もない。本物の父以上の存在ですね。落語に通じる親子やったんやなと思います」。『桂雀々独演会』は2月11日(月・祝)、大阪・上本町の新歌舞伎座で開催。昼の部は、指揮者の佐渡裕と、夜の部は根本要(スターダスト☆レビュー)が特別ゲストとして登場する。トークと歌で、桂枝雀を偲ぶ。チケット発売中。取材・文:岩本和子
2018年12月12日人間の三大欲求のひとつである性。「食べたい」「眠い」は気軽に言える風潮にありますが「セックスがしたい」という言葉は、人や場所を選びます。性欲があることはおかしなことでも恥ずかしいことでもなく、むしろ正常です。しかし、扱いを一歩間違うとトラブルを招く可能性もあり、毒にも薬にもなる欲望。そんな表裏一体の欲を表現した音楽が筆者は大好き。今回は完全に独断で、女性の性を解放してくれる楽曲を6曲ご紹介いたします。■『Hのすゝめ』ミオヤマザキ男にとっては耳が痛い歌詞を詰め込んでいる楽曲の多いミオヤマザキ。「Hのすゝめ」は、ストレートに「とりあえずエッチをしよう」と歌いつつも「女の子を大切にしろ!」「黙ってコンドームをつけろ!」など、刺激的な歌詞が踊ります。セックスはしたいけど後悔はしたくない、それでいて大事にされなきゃ嫌だ。そんな欲張りな女性の願い、聞いてくれますか?果たしてこれは欲張りなのかも危ういところ。安心感、一時限りであったとしても愛情、そして快楽。これがワンセットになったセックスが、多くの女性が求めるセックスと言えそうです。■『愛のあるセックスがしたいんだよ』さめざめスポーツ感覚のセックスは、相手さえ見つかれば実行はわりと簡単です。そうじゃない、愛のあるセックスを求める楽曲『愛のあるセックスをしたいんだよ』。自分は彼のことが好きなのに、彼はそうじゃない、彼の気持ちがわからない。だからセックスにも不安が残る。終わった後も優しくしてほしい。「帰るまでが遠足です」なんて小学生の頃は言われましたが、それと同じよう、「後戯までがセックスです」。そんな思いが痛いほど伝わってくる一曲です。『愛のあるセックスがしたいんだよ』の歌詞はこちらから■『コンドームをつけないこの勇気を愛してよ』さめざめさめざめからもう一曲。衝撃的過ぎるタイトル『コンドームをつけないこの勇気を愛してよ』。この曲はコンドームを付けないセックスを推奨しているわけではありません。「女の子はティッシュでもトイレでもないあたしはあたしなんです」と、女性の自我を歌っている曲です。女性だって自発的に好きな人とセックスをしてもいい、そう背中を押してくれる曲だと感じられます。『コンドームをつけないこの勇気を愛してよ』の歌詞はこちらから■『恋をしに行く』アーバンギャルド文豪・坂口安吾の短編小説『恋をしに行く』と同タイトルのアーバンギャルドの『恋をしに行く』。坂口安吾の『恋をしに行く』は恋することへの葛藤を通じて、男女の恋愛観の差異を描いた作品です。恋に肉体は関係なく、精神のみを恋愛と考える主人公・谷村は「信子」に告白しようしますが、信子はヤリマンと噂される女性でなかなか思いを打ち明けられない――といった物語。アーバンギャルドの『恋をしに行く』には、「恋をしに行く 行為をしにいく」という歌詞があり、「恋」と「行為」(セックス)をかけていることが聴き取れます。坂口安吾の『恋をしに行く』をもとにこの曲が書かれていると仮定すると、この曲の主人公は信子でしょうか。歌詞の中の女性は、恋とセックスを重ねつつも、どこかで痛みを感じています。坂口氏の作品内で主人公・谷村は「音楽は肉欲的だから好まない」と言っています。坂口氏の『恋をしに行く』を読んだ上でアーバンギャルドの『恋をしに行く』を聴くと、男女における性愛の価値観の違いを感じ取れそうです。『恋をしに行く』の歌詞はこちらから■『軽薄ナヒト』umbrellaヴィジュアル系バンド、umbrellaの楽曲『軽薄ナヒト』。男性目線の歌詞ですが、とにかく一つひとつの言葉選びにエロスを感じます。また、軽やかで聴きやすいメロディラインも耳に残り、何度聴いても飽きがきません。歌詞に合わせ、ミュージックビデオでは、ひとりの男性を魅了するふたりの女性とその男性の葛藤がドラマ仕立てに描かれています。男の気を引くためのセックスや、理由付けをしないといけないセックスを振り切って、本当に自分の欲望に忠実なセックスをできる人(いわゆる明るいヤリマン)は、実は一握りしかいないのではないかと、個人的に思うことがあります。■『PLUTO』ギャロラストにご紹介するのは、ヴィジュアル系バンド、ギャロの『PLUTO』。歌詞の中には「絶頂(アクメ)の夜に悪魔が踊る」「性具の行進曲(おもちゃのマーチ)」などの当て字が多く、ヴィジュアル系ならではの表現がちりばめられています。エロティックとサディスティックさが絶妙にマッチした、ねっとりとした妖艶な一曲。歌詞を読みながら聴いていると、その淫靡な世界観に引き込まれるはず。ギャロには他にも、怠惰・好色を司る悪魔とされる「ベルフェゴール」を連想させる『淫魔−BELPHEGOR−』という曲があり、こちらも最高のエロスを届けてくれます。筆者の好みの曲だけを集めた、完全に偏った選曲になりましたが、気になった曲はありましたか?どのアーティストも現在活動中なので、今ならライブにだって行けます。音楽は生き物。「いつかライブに行こう」と思っているうちに、突然活動休止や解散をして、リアルの音を聴けなくなってしまいます。チェックするなら今のうち!性的なことに罪悪感を持っていたり、「普通とは何なのか」に悩んでいたりする女性も、これらの音楽に触れれば、今とは違った視点を持てるようになるかもしれません。Text/姫野桂(@himeno_kei)
2018年11月16日初期の肺がんであると公表したばかりの三遊亭円楽(68)が9月30日、「第12回芸協らくごまつり」に出席した。各スポーツ紙によると7月に亡くなった桂歌丸さん(享年81)への愛情を明かした円楽は「腹黒の円楽では終わりたくない。もう10年くらい落語をやって、落語のすばらしさを伝えたい」と意気込んだという。「笑点」(日本テレビ)ではたびたび歌丸さんに毒を吐いていた円楽だが、その“腹黒キャラ”の立役者こそ歌丸さんだった。番組の大喜利レギュラーとして加入した当初、キャラが確立できず悩んでいたという円楽。16年9月、本誌の取材に歌丸さんが掛けてくれた言葉をこう回想している。「歌丸師匠が『楽さん(当時は三遊亭楽太郎)、困ったら俺のことを言いなよ。あとで編集するんだから何を言っても大丈夫だから』と。それまで師匠と『キザ!』『お化け!』とやり合っていた(三遊亭)小圓遊さん(80年死去)が亡くなったあとでしたから。歌丸師匠にそう言われて『ああ、そうか。小圓遊さんがやっていたようなことをやっていいんだ』と思ったら楽になりました」歌丸さんが円楽に肩を貸したのは、信頼関係があってこそだったようだ。「私は、歌丸師匠の車椅子を押したり、やることをきちんとやっていますから。私がやってきた師匠たちのネタだって、普段の信頼関係がなかったら『なに?この野郎!』ってなるんです。『人間、普段が肝心』と言うけれど、その通りで、肝心なのは普段。普段がちゃんとしていれば、おのずと信頼関係が生まれるんです」歌丸さんとの愛ある関係から、Twitterでは今回のがん公表に《「楽さん、黒いのは腹だけじゃなかったんだねェ」なんて歌丸さんが向こうで苦笑いをしているような気がする》《歌丸さんっ円楽さんを守って》《歌丸師匠、あんたまだこっちくんじゃないよって追い払ってください》といった声の上がっている円楽。まだまだ元気な姿を見せて欲しい!
2018年10月01日元サッカー女子日本代表の丸山桂里奈が1日、東京・渋谷マークシティで行われた映画『プレデター』シリーズ最新作『ザ・プレデター』(9月14日公開)のイベントに登場。ハントされに渋谷に出かけていたという驚きのエピソードを明かした。一人の少年が起動させてしまった謎の装置をきっかけに、宇宙で最も危険なハンター“プレデター”を呼び寄せてしまい、再び人類とプレデターの戦いが勃発する同作。イベントには、名前にハントを意味する“狩り”を冠している丸山が、プレデターをイメージしたドレッドヘアーとハンターをイメージしたサファリ衣装で登場した。プレデターは宇宙最凶ハンターと呼ばれるが、丸山は「昔からプレデターはよく観ていました! 私は地球人以外の生命体がいると注意を促していたので、今回のイベントに呼ばれたのだと思います!」と独特なトークで、集まった報道陣の笑いを誘った。そして、全長2m30cmを超える高さの等身大の“最新作仕様のプレデター像”がお披露目されると、丸山は「大っきいですね! 最新作のプレデターは今までとマスクの感じも違う。ゴールドが入ったデザインもカッコいい! この胸板は筋トレ10時間くらいしないと無理ですね!」と大興奮。MCより「プレデターのような屈強な男性に迫られたら?」と質問されると、「プレデターのような強くてカッコいい、こんな風貌の人は地球にはいない! 特別スペシャルワンですよね!私はプレデターのこと好きです!」と答えた。さらに、イベントが開催された渋谷でのエピソードを聞かれると、「家が近いのでよくハントされに来ています(笑)。勢いよくセンター街に繰り出したり。渋谷って運命が転がっていると思っていて」と驚きのハント話を告白。「最近はあまり来られていないんですが」と加えた。
2018年08月02日「週刊新潮」で日舞の先生をつとめる女性(56)との不倫疑惑を報じられ、真っ向から否定した落語家の桂文枝(74)に新たな疑惑が浮上した。 1月22日発売の「週刊現代」(講談社)は「桂文枝が愛人に口止め上方落語の殿堂を巡る『ヤラセ事件』」と題し、女性の証言を掲載。神戸・新開地で今夏開場が予定されている演芸場「神戸新開地・喜楽館」の一般公募による名称選考について、文枝が女性に「喜楽館」の名前で応募させていたというのだ。 この件を受けて文枝とともに選考に関わったNPOの理事長が23日、一部スポーツ紙の取材に対応。文枝が女性に応募させたことが事実だった場合について「公募のルールに直接違反しないが、モラル的な問題はあると思う」との見解を示したという。 「ただ女性の証言はあるものの、真実を知るのは文枝師匠とNPOの代表。代表はスポーツ紙の取材に対し、文枝の知り合い女性かどうか『確認するのが難しい』とコメントしています。さらに『モラル的な問題』という言葉を使っているので、文枝師匠に何らかのペナルティーが与えられることはなさそうです」(関西在住の芸能記者) 今回、不倫で騒動になるのは2度目の文枝。しかし「新婚さんいらっしゃい」(テレビ朝日系)は制作局の朝日放送が社長会見で司会の続投を発表。そして今回の演芸場の件もうやむやになるならば、文枝は胸をなで下ろしているだろう。だが、いっぽうではこんな声も……。 「どうやら女性はまだまだ“爆弾”を持っていると、噂されています。文枝さんサイドも戦々恐々としているでしょうね」(テレビ局関係者) 文枝にとって、まだまだ眠れぬ日々が続きそうだ。
2018年01月23日