11月初めに、体調不良のために1カ月休養することを発表した中居正広(50)。症状や病名については、「だましだましでいきたいので。うやむやにしたい」と5日放送の『中居正広のキャスターな会』(テレビ朝日系)で本人が話しており、ファンは心配を募らせている。そんななか、古巣ジャニーズの後輩Kis-My-Ft2(以下、キスマイ)が、テレビを通じて、中居へさりげない“エール”を送っているのではないかと、双方のファンが胸を熱くしている。「キスマイが18日放送の『ザ少年倶楽部プレミアム』(NHK BSプレミアム)に出演した際、キスマイメンバー全員が“白いマイク”を持って、SMAPの『らいおんハート』を歌ってくれたんです。“白マイク”は、中居くんとキスマイの絆の証なんです」(キスマイファン)キスマイは10日に『ベストヒット歌謡祭』(日本テレビ系)で生歌唱した際にも白マイクを使っていたというが、実はこの白マイクは中居がキスマイに贈ったもののようだ。「昨年、デビュー10周年を迎えたキスマイにお祝いの品として、中居さんが白いマイクを贈っています。メンバー7人分と、故障した際に使えるスペア1本の計8本で、それぞれにメンバーの苗字が刻印されているそうです。白いマイクは珍しいですが、SMAPも歌番組やライブで使っていたことがあり、中居さんにとって愛着のあるアイテムだと思います」(音楽関係者)キスマイといえば、ジャニーズの後輩たちのなかでも中居との縁が深いグループだ。「中居さんは自身の番組にキスマイのメンバーをよく招き、派生ユニットである舞祭組のプロデュースも手掛けました。中居さんがジャニーズを退所して独立した際には、キスマイ7人から高級腕時計をプレゼントしています。また、中居さんが今回休養するにあたり、自身の冠ラジオ番組の代役を任せたのがキスマイの藤ヶ谷太輔さん(35)でした」(スポーツ紙記者)白マイクで歌唱する姿を見たファンたちはTwitterで次のような反応を見せている。《少プレで中居くんプレゼントの白マイクで、らいおんハートってキスマイから中居くんへのエールなのかなぁ》《キスマイのらいおんハート聞いたら、キスマイから中居くんへのメッセージの様に聞こえて泣けたよ。白マイクだしね。 キスマイ、ありがとうね。》休養中の中居もテレビの前で、後輩からの思いに励まされているはずだ。
2022年11月22日体調不良により1ヶ月の間、活動を休止すると2022年11月4日に所属事務所を通じて発表していた、タレントの中居正広さんが、冠ラジオである『中居正広 ON & ON AIR』(ニッポン放送)に出演し、休養についてファンに報告しました。放送では、昨日の中居に関する報告でご存知かと思いますが「読んでみますね」と、前日の所属事務所からの発表内容は自分で書いたことも明かし語りはじめました。弊社所属タレント中居正広について、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、先月体調を崩し、何日かお休みをいただきました。その後、仕事に復帰いたしましたが、その当時から診ていただいている病院の先生方や、携わるスタッフと中居本人が話し合った結果、休養のため 1 カ月ほど活動を休止することになりましたのでご報告申し上げます。なお、本人の気持ちは至って前向きでございます。関係者の皆様にはご迷惑とご心配をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。のんびりなかいーより引用休養については、年末を前に集中してやったほうが良いと担当医師とスタッフに言われ、いろいろ承諾をもらいながらこのような流れになった。お休みをする前のコンディションに戻すには、体力も筋力も落ちていて、余裕をもって1ヶ月にしたとのこと。「今までこんなにお休みをすることがなかったから…」と、やや困惑気味に話す中居さん、周りのスタッフから「身体第一で、優先で考えてください」と言っていただいたので、「甘えさせてもらおうかなという感じ」と語りました。友達にもあまり連絡をしておらず、コロナ感染症のこともあり、仕事以外ではあまり人と会わず、「自宅でひっそりと暮らしている」とのこと。タレントさんがお休みする時に「改めて人生を見つめなおす」みたいなことがあるが、自身は「まったくない」と語り、お休みの時に「膝を曲げている時間(エネルギーを貯めること)」が大事だと言うが、自身は「膝を曲げるようなことはしていない」と語りました。「こういう話をすると、中居ヅラ(ファン)は大丈夫?とか、ほら」と…、番組スタッフがリスナーから寄せられた葉書が約60枚ほど届いていることを伝えると、「なんかわりぃな」と思ってしまったと語り、「恩返しが好きじゃない」ので、「お互いとんとんにしておきたい」と語りながらも、「みなさんのお便りが僕の励みになっていますと、言わなければダメか?」と語り、「余計な神経は使わせたくない」と、ファンへの気遣いを見せました。また、普通の内容の便りが届いていたことに「いいね!無神経」「中居ヅラはそうじゃないと」と、笑いまじりに語りました。ラジオ代役はKis-My-Ft2・藤ヶ谷さん?ラジオ『中居正広 ON & ON AIR』も1ヶ月のお休みになることについて、ニッポン放送では、前の時間の番組をKis-My-Ft2の藤ヶ谷さんが担当していることに触れ、「藤ヶ谷さんに、1時間にしてもらうか!ダラダラしゃべってるんでしょ?どう?」と語り、僕から直接頼むと「敬礼しかしないから」と、ニッポン放送から「チャンスを与える」という形で話してほしいと冗談まじりに語りました。迷惑はかけても、心配はかけたくない番組に届いたファンからの葉書を見て、「心配ってかけたくないねぇ」と語る中居さん。「迷惑をかけることがあっても、心配はかけたくないというのがベースにある」と語りました。続けて、休養の具体的な理由について内容を明かしていない状況について、「濁しているということは、なんとなく誤魔化していると感じてもらいたい」「まんまと誤魔化されていただきたい」と語りました。よくチャックみたいな話をすると語る中居さん、「このチャックは開けてもいいな、このチャックは開けられないな」ということがあると語り、自身が被り物をしていると例えると、「顔を見せることはできない、マスクを取ることはできない」「じゃ襟元はちょっと見せてもいいかなぁ」「ジッパーをどこまで開けられるかな」と、「開けられないジッパーは自分の中でもあって、プライド、見栄、考えようによってはエゴなのかなと思うこともある」と、心の内を語りました。最後に「今も濁しながら話しているので、皆さんも濁しながら聞いていてもらいたい」とも語りました。ラジオ番組での休養報告に、中居さんの体調を心配する声のほか、ファンへの気遣いに涙する声もあがっていました。・中居くんが笑顔でいれば、お返しなんか要らない。・中居くんの優しさと気遣いで涙が止まらない。・無理をせず、体調を優先し、また元気に活躍している姿を見たいです。2022年で50歳を迎えた中居さん。2020年にはこれまでの所属事務所から独立し、新会社を設立したことで話題になりました。社長として会社を引っ張り、また、人気タレントとして休みなく働く重圧は、一般人には到底想像できないものでしょう。まずは自身の身体を第一に、1日も早く回復し、また元気に活躍する中居さんの姿を見られることを、多くのファンが待っています。[文・構成/grape編集部]
2022年11月06日2022年11月4日、タレントの中居正広さんが、体調不良により1か月の間、活動を休止すると所属事務所を通じて、発表しました。中居さんが社長も務める芸能事務所『のんびりなかい』のウェブサイトでは、「深くお詫び申し上げます」と関係者に向けた謝罪の言葉とともに、「本人の気持ちは至って前向き」と、中居さん本人の気持ちについてもつづられています。弊社所属タレント中居正広について、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、先月体調を崩し、何日かお休みをいただきました。その後、仕事に復帰いたしましたが、その当時から診ていただいている病院の先生方や、携わるスタッフと中居本人が話し合った結果、休養のため 1 カ月ほど活動を休止することになりましたのでご報告申し上げます。なお、本人の気持ちは至って前向きでございます。関係者の皆様にはご迷惑とご心配をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。のんびりなかいーより引用中居さんは、同年7月14日に急性虫垂炎のため入院し、出演予定だった音楽番組『音楽の日2022』(TBS系)への出演を急遽取りやめたことも。また、同年10月にも、体調不良を理由にレギュラー出演しているニュース番組を休んでおり、ファンからは心配の声もあがっていました。今回の1か月の活動休止の発表に、中居さんの体調を心配する声のほか、復帰を待ち望む声も目立ちます。・むしろ今までが働きすぎだったから、ちょっと安心しています。ゆっくり休んでほしいです!・会社名の通り、のんびりしてほしいところ。・無理をせず、体調を優先し、また元気に活躍している姿を見たいです。2022年で50歳を迎えた中居さん。2020年にはこれまでの所属事務所から独立し、新会社を設立したことで話題になりました。社長として会社を引っ張り、また、人気タレントとして休みなく働く重圧は、一般人には到底想像できないものでしょう。1日も早く回復し、また元気にトークを展開する中居さんの姿を、多くのファンが待っています。[文・構成/grape編集部]
2022年11月04日タレントの中居正広が、1カ月活動を休止することが4日、明らかになった。同日、所属事務所「のんびりなかい」が発表した。中居は先月体調を崩し、数日間休養した後に仕事復帰したが、「その当時から診ていただいている病院の先生方や、携わるスタッフと中居本人が話し合った結果、休養のため1カ月ほど活動を休止することになりました」と説明。「なお、本人の気持ちは至って前向きでございます」としている。所属事務所は「関係者の皆様にはご迷惑とご心配をおかけいたしますこと、深くお詫び申し上げます。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます」とコメントした。
2022年11月04日2021年11月に99歳で逝去した瀬戸内寂聴さん。その晩年に密着した、ドキュメンタリー映画『瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと』(配給:KADOKAWA/制作スローハンド)がいま公開され、好評を博している。監督を務めたのはドキュメンタリー監督の中村裕さん(62)だ。寂聴さんからは“裕さん”と呼ばれていた中村さんは、公私にわたって17年の親交があった。映画では、ほかでは見たことのない寂聴さんの“喜怒哀楽”が描かれている。Tシャツ姿でお酒を飲み大いに笑い、手術や入院にもめげず、笑顔でリハビリに励み、真剣なまなざしで原稿に向かい、ときに裕さんに厳しい言葉を投げかける。映画では寂聴さんが涙を流すシーンも描かれている。2021年3月、恋愛をテーマにしたNHKのトーク番組に、中村さんからの依頼で寂聴さんがリモート出演した。東京のスタジオと寂庵をネットでつなぎ、中村さんは寂庵で先生に付き添った。「最初はしっかりと話されていたのですが、リモートだとタイムラグもあるし、画面も次々と変わっていきますから、途中でどこを見ていいかわからなくなったのでしょう。東京のスタジオとうまくやり取りができなくなって……。途中で僕が収録を止めました。前半はしっかりと話されていたので、編集で番組は形になったのですが、先生は『(僕に)恥をかかせた。申し訳ない』と、両手を顔にあてて、さめざめと泣いて、『首をつって死ぬ』と言いだされて」必死で寂聴さんをなだめた中村さん。このようなことになって申し訳ないと思う一方で、感動してもいたという。「“98歳の人がこうやって泣くのだ!?”と驚いて。この感受性の若々しさってただものじゃない、この人はやっぱりすごい方だと」■99歳にして自在に筆を運ぶ最後の撮影となったのは、蛍の季節。寂聴さんが亡くなる半年前の2021年6月のことだった。「嵯峨野の清滝へ蛍を見に一度ご一緒したことがあり、その話をしながら一緒に飲んだんです。すると、翌朝の朝日新聞の連載に載せる原稿をまだ書いていないことを知って。僕が心配すると、先生は『書くことは決まっている。大丈夫。蛍のことを書く』と」翌朝の新聞には蛍がテーマの私小説が綴られていた。主人公は、“女と別れるたびに寂庵を訪れている男”……。「僕らしき男(笑)。でも、男は寂庵に30年来通っていることになっていて、虚実ないまぜで自在に筆が運ばれていて……。僕の部屋も見たことないのに、『鮮やかに思い浮かべることができる』と書いてあった。先生は99歳にして、時空を超えて自由な境地に行かれて物を書いていらっしゃるんだと感動しました。最期の最期まで小説家だった証しですよね」2021年11月9日、寂聴さん逝去。100歳まであと半年だった。「あるとき、『先生と僕の関係は男女の関係だと思っています』と伝えたことがあります。先生は『肉親みたいなものよ』と照れてらっしゃいましたけど(笑)。でも、僕は本当にそういう面があったと思っています。恋愛のことなど何でも話しましたが、本当の肉親とはそんな話はしませんから。いずれにせよ、さまざまなものをいただいて、感謝しています」映画は全国で公開中で、7月9日にはシネモンド(石川県金沢市)と福井メトロ劇場(福井県福井市)で、10日にはCINEX(岐阜県岐阜市)で、中村監督の舞台挨拶が予定されている。「裕さん、次はいつ来るの?」。中村さんは、寂聴さんからのそんな電話が、いまもまだかかってくるような気がするというーー。
2022年07月08日「中居さんは、『YouTubeを始める気はないですよ』と仕事仲間との雑談で話していました。中居さんがやれば“儲かる”と思うんですけどねぇ」(テレビ局関係者)テレビからYouTubeに主戦場を移す芸能人も多い昨今。しかし中居正広(49)には、その気はないようだ。「有料ファンサイトのためにオリジナルの動画を数本撮ってアップしたりはしているんです。ですが、YouTubeチャンネルを持って配信していくことには『踏み切れないなぁ』なんて話していました」(前出・テレビ局関係者)中居と関わりの深いタレントたちも、YouTubeで多くの登録者を抱えている。香取慎吾(45)は44万人、草彅剛(47)は106万人。また、長年『うたばん』(TBS系)で共演していた石橋貴明(60)は166万人の登録者。古巣のジャニーズ事務所の二宮和也(39)らがやっているチャンネルは333万人だ。「中居さんだって同じくらいの登録者数を目指せるポテンシャルはあります。厳密ではないですが、YouTubeの収入の目安として、登録者1人あたり月10円ほどといわれています。たとえば石橋貴明さんと同じくらいの登録者数だと、月に1千660万円、年収にすると概算で2億円が見込まれる計算です」(芸能関係者)億超えの高収入を期待できるのに、なぜやらないのか。「理由としては、中居さんが“自分の仕事のメインはテレビ”と考えていることが大きいのではないでしょうか。SMAP時代から今まで、中居さんはテレビのバラエティ育ちです。デビュー後、ブレークし切れていなかったSMAPが国民的スターになったのも、『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)などのバラエティ番組で多彩な魅力を世間に広く浸透させることができたからです」そう話す冒頭のテレビ局関係者は「SMAPの火を絶やさないという思いもあるのでは」とも。「SMAPを育ててくれたテレビへの恩返しとして、リーダーだった自分がテレビで頑張るという気持ちもあるのではないでしょうか」現在、MCを務めるレギュラー番組が3本ある中居だが、視聴率の面では好調とはいいがたい。「『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(TBS系)は数年前まで2桁の視聴率を誇っていましたが、最近では10%にも届いていません」(別のテレビ局関係者)苦境にあるからこそ、YouTubeに手を出していられないというのも本音かもしれない。「いま出演している番組について『仕事をさせてもらえて本当にありがたいと思っている』と感謝の言葉も口にしていました。義理堅い人ですから、これまでお世話になってきた各局のスタッフへの恩義も胸に刻んでいるはず。テレビを見捨てないでいてくれるのはテレビ人としてうれしいことです」(冒頭のテレビ局関係者)2億円を逃してでも選ぶ、テレビ&SMAP愛こそプライスレス♪
2022年07月07日「今、僕が人生の……今、体重がMAXになってるんですね。はい、MAXです。63をオーバーしつつあるという」こう告白したのは中居正広(49)。6月11日に放送されたラジオ番組で、体重が増加していることを明かした。「これはよくないなと思って、ちょっと意識して絞り出そうかなと思ってます」とも発言した中居。気になる増量の原因は“禁酒”だ。「中居さんはもともと、毎日欠かさず晩酌していたほどのお酒好き。しかし‘17年に肝炎で入院して以来、定期的な検査に向けてたびたび禁酒していたそうです。最近は本腰を入れて禁酒生活を送っているようで、外で乾杯程度に飲むことはあっても家では一切飲まないようにしているといいます」(芸能関係者)しかしその反動でお菓子に手が伸びるようになってしまったのだという。「以前は中居さんはあまりお菓子を食べなかったそうですが、最近はお酒をやめた口寂しさからか、お菓子をたくさん食べてしまうそう。今ではチョコレートやせんべい、ラムネなどを常備しているとのことです」(テレビ局関係者)健康のために始めたはずの禁酒が思わぬ形で体重に影響してしまったようだ。ラジオでは「洋服のサイズがMからLにあがった」と話していた中居。そろそろ本格的にダイエットに取り組みたいとの意思を明かしている。「もともと野菜嫌いの中居さんですが、少しは野菜も食べなければならないという意識が出てきたようで、最近は毎日プチトマトを食べているそうです。“優糖星(ゆうとうせい)”という品種の、ちょっとお高めのプチトマトがお気に入りだと話していましたよ」(前出・芸能関係者)そのいっぽうでダイエットには苦々しい思いもあるようで……。「でも、『運動はしたくない』と周囲に話していて、運動系のダイエットをするつもりはないみたいです」(前出・テレビ局関係者)さらに、高らかにダイエット宣言をしたものの、その生活は不摂生そのものだという。「カツカレーを一週間食べ続けたり、仕事以外では自宅にこもりきりだったりと、聞きました。コロナの影響で外に出ない日々が続いたからか、食べることが唯一の楽しみになっているとか」(前出・芸能関係者)今年8月には50歳になる中居。有言実行で健康に過ごしてほしい!
2022年06月24日きょう10日放送のTBS系バラエティ番組『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』(毎週金曜20:57~)では、「ゆず×中居正広 初のサシ飲みSP」を届ける。デビュー25周年を迎えたゆずと中居が、3人だけの飲み会を開催。お酒が進むと・・・酔った勢いで本音をぶっちゃけまくり!? これまで語られなかった貴重な初出しトーク満載で届ける。デビュー25周年を迎えた今もなお、日本の音楽シーンを牽引するゆず。そんな2人が、酒を片手に中居と、これまで語ることのなかった様々な思い出を振り返る。注目は、「ボッコボコにされた」という超大物アーティストとの衝撃の出会い。当時放送された音楽番組『クリスマスの約束』の貴重映像も織り交ぜながら紹介する。さらに、デビュー25周年の今だから語れる衝撃発言も。北川が「ホント嫌だった」と語る、大ヒットメジャーデビュー曲「夏色」の制作秘話が明らかに。中居も驚きの初出しトークが次々飛び出す。また、小学校からの幼馴染だというゆずの2人が共に歩んできた軌跡を振り返りながら、互いを語り合う場面も。そこから飛び出す弱音、葛藤、本音・・・そして、まさかのカミングアウトまで・・・。中居も交えて繰り広げる、熱いアーティスト談義にも注目だ。VTRでは、ゆずをよく知るいきものがかりの水野良樹とシソンヌの長谷川忍も登場。“飲み会”だからこそ語れる真剣トークから爆笑シーンまで、超貴重なエピソードが盛りだくさんの「ゆず×中居正広 初のサシ飲みSP」となる。さらに今回は特別企画として、都内某所に中居とゆずのほろ酔い巨大写真広告が出現中。ファンの間では聖地として知られるあの街にも!?(C)TBS
2022年06月10日寺島しのぶと豊川悦司がW主演、さらに広末涼子が、作家の井上光晴とその妻、そして瀬戸内寂聴をモデルに男女3人の関係を描いた井上荒野・原作の『あちらにいる鬼』に出演することが分かった。人気作家の長内みはる(寺島しのぶ)は、講演旅行をきっかけに戦後派を代表する作家・白木篤郎(豊川悦司)と男女の関係になる。一方、白木の妻である笙子(広末涼子)は、夫の手あたり次第とも言える女性との関係を黙認、夫婦として平穏な生活を保っていた。だが、みはるにとって白木は肉体の関係だけに終わらず、“書くこと”による繋がりを深めることで、かけがえのない存在となっていく。2人のあいだを行き来する白木だが、度を越した女性との交わりは止まることがない。白木を通じて響き合う2人は、どこにたどりつくのか――。原作は、直木賞、柴田錬三郎賞、織田作之助賞など様々な文学賞を受賞してきた井上氏が、彼女にとってもっとも身近な人々である父母と、父・光晴と長年にわたり男女の仲だった瀬戸内寂聴の関係をモデルに、2人の女性の視点から、彼女たちの長きにわたる関係と心模様の変化を深く掘り下げ大きな反響を呼んだ小説。井上氏が執筆する際、寂聴さんは協力を惜しまず当時の思い出を語り、小説刊行の際には、「モデルに書かれた私が読み 傑作だと、感動した名作! !」とコメントを寄せていた。生前、本映画化の報を聞いた寂聴さんはとても楽しみにしていたという。W主演をつとめるのは、寺島しのぶと豊川悦司。寺島さんは、瀬戸内寂聴をモデルにした人気作家・長内みはる。豊川さんが演じるのは井上光晴をモデルとした作家・白木篤郎。共演の広末涼子が篤郎の妻・笙子を演じる。監督は廣木隆一、脚本は荒井晴彦。寺島さんと豊川さんは同じく廣木監督・荒井脚本の『やわらかい生活』(06)で初共演を果たして以降、『愛の流刑地』(07)、『劇場版 アーヤと魔女 』(21)など何度も共演している。寺島しのぶ×豊川悦司×広末涼子、監督からコメント到着【寺島しのぶ/長内みはる役】何度も撮影が延長され半ば諦めかけていたのですがやっとインできそうです。そうこうしているうちに私の歳も寂聴さんが得度式をされた歳と同じになりました。井上荒野様からも心強いお手紙をいただきました。これを宝物に最も信頼している荒井晴彦さんや廣木監督とまた作品作りができること、豊川さんとまたお芝居できることに胸が弾み広末さんとも不思議な関係性が築けそうです。今から崖の下をチラチラ見ては躊躇して、いずれ捨て身で飛び込もうとしている自分を鼓舞している毎日です。【豊川悦司/白木篤郎役】男にも女にも家庭があって、それでも磁石のように惹きつけあって、どうしようもなく、あがくすべもなく、ただ相手を見据えて、しがみついていく二人。しがみつく二人にしがみつく家族。スキャンダルという理由は、彼らが文化人であったというだけのこと。寺島しのぶと、男と女、それだけを演じてみたい。【広末涼子/白木笙子役】とても大人な台本に、果たして私がついて行けるか?未だ不安なまま撮影開始となりそうですが、間違いなく魅力的な寺島さんと豊川さんの御姿がおのずと私をも導いてくださる予感がしております。撮影の日を楽しみに精一杯頑張ります。よろしくお願いいたします。【監督:廣木隆一】物語を語ることでしか存在できない男を巡って女は現実を生きる。いや男と女と言うよりも同じ時間を過ごした大人たちのラブストーリーを、このキャストで演出することに何か不思議な感じがしてワクワクします。どこまでが虚でどこまでが創作なのか。原作者の目を通して描いた彼らの関係を映画化できることに感謝します。ぜひ鬼の正体を劇場で確認して下さい。『あちらにいる鬼』は11月、全国にて公開。(text:cinemacafe.net)
2022年04月21日2021年に惜しまれつつ亡くなった瀬戸内寂聴の<生誕100年記念>のドキュメンタリー『瀬戸内寂聴99年生きて思うこと』より、本予告編と本ビジュアルが解禁された。本作は、中村裕監督が2022年5月15日で満100歳を迎えるはずであった瀬戸内寂聴に、密着17年間という長い歳月をかけ撮影したドキュメンタリー。2015年にNHKスペシャル「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」(ATP 賞ドキュメンタリー部門最優秀賞受賞)のディレクターもつとめ、長年寄り添い続けた監督だから描ける<誰も知らない瀬戸内寂聴>の姿がスクリーンに映し出される。“裕さん”こと中村監督と寂聴さんは、17年に及ぶ密着で、日々の老いから、過去の不倫関係まで、日常的に互いに全てを報告し合う、まるで母親、先達、友人、あるいは恋人のような、形容しがたい関係性を築き上げた。コロナ後も取材を続ける唯一無二の存在に寂聴さんが語る“本音”や“金言”の数々が映し出される貴重なドキュメンタリーとなった。この度解禁されたのは、中村監督が手掛けた本予告。名誉住職を務める岩手県の天台寺でのあおぞら法話から始まり、寂聴さんを象徴する「恋愛は逃れられない。雷のように落ちてくるものだから、打たれるしかない。人間が一番成長するのは恋愛」という名言から、はたまた、寂庵の台所で号泣したり、子どものように笑う寂聴さんの姿が切り取られている。また、併せて解禁された本ビジュアルでは、寂聴さんの名言「晩節なんて汚したっていい。好きに行動すればいいの」をキャッチコピーに、紫の法衣を着用した寂聴さんの身体の中に、寂聴さんのめくるめく人生の場面を散りばめた、昔の記憶が蘇る走馬灯のような鮮やかなデザインとなっている。『瀬戸内寂聴99年生きて思うこと』は5月27日(金)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:瀬戸内寂聴99年生きて思うこと 2022年5月27日より公開©2022「瀬戸内寂聴 99 年生きて思うこと」製作委員会
2022年04月13日2021年に惜しまれつつ亡くなった瀬戸内寂聴の<生誕100年記念>ドキュメンタリー『瀬戸内寂聴99年生きて思うこと』が、5月27日(金)より公開されることが決定した。2022年5月15日で満100歳を迎えるはずであった瀬戸内寂聴に、17年という途方もない歳月の間密着し、撮影を続けた監督・中村裕。2015年にNHKスペシャル「いのち瀬戸内寂聴密着500日」(ATP賞ドキュメンタリー部門最優秀賞受賞)のディレクターもつとめており、本作には長年寄り添い続けた監督だから描ける<誰も知らない瀬戸内寂聴>の金言の数々が詰め込まれている。この度解禁されたティザービジュアルでは、寂聴さんの名言「もっと自分を愛しなさい。そうすれば人生が変わります」がコピーに使われている。そして日本中で知らない人はいない瀬戸内寂聴という人物をアイコニックに表現した、大胆なイラストのデザインが目をひく1枚に仕上がっている。死の直前まで月刊誌、新聞の連載をこなす“現役”作家であり、月1の法話には全国から人が押し寄せる「最長寿の国民的アイドル」だった寂聴さん。駆け落ち、不倫、三角関係など、自らの体験を私小説の形で次々に発表し、世間のバッシングに晒されるも、女流作家として不動の地位を確立した。また51歳のときに出家して以降は、僧侶、作家の2つの顔を持つ。いつまでも恋心を持って生きる。女性であるということを忘れず人生を楽しむ。彼女のそんな“生き様”は、不寛容な空気が充満しつつある現代社会で、人間の生命力とは何かを強く感じさせてくれるものであり、<いかに生き、老いていけばいいのか>というヒントにもなっている。『瀬戸内寂聴99年生きて思うこと』は5月27日(金)より全国にて公開。(text:cinemacafe.net)■関連作品:瀬戸内寂聴99年生きて思うこと 2022年5月27日より公開©2022「瀬戸内寂聴 99 年生きて思うこと」製作委員会
2022年02月24日「その人の顔を見た瞬間、どんな言葉をかけてほしいか、私にはわかるの」、天台寺や京都寂庵での法話、インタビューなどで数々の名言を生み出してきた寂聴さん。言葉の達人であるだけではなく、心を癒す達人でもありました。今回登場してもらったのは寂聴さんと縁で結ばれていた人たち。それぞれの「私を救ってくれた寂聴さんの言葉」を教えてもらいましたーー。■「あなたは歌を歌うことで施しをしている」ーー歌手・中村美律子さん(71)「先生には私の曲『風まかせ』の歌詞を書いていただいたこともありました。先生はあまり歌番組は見ないそうですが、たまたま寂庵のテレビで私が歌っている姿を見て、気に入ってくださったのだそうです。『なんて大きな口を開けて歌う女なんでしょう!ブラウン管からはみ出しそうなほどに大口を開けているわ』、そう秘書の方におっしゃっていたとか。それがご縁で旅番組の共演を誘ってくださったり、作詞をしていただいたりしました。’05年ごろの話ですから先生は当時80歳を超えていましたが“泣き言メール”など、詞がお若くて驚きましたね。なんでも素直にお話しできる方でした。でも悩みがあったり、つらいことがあっても、寂庵でお顔を見るだけで、そんなことは忘れてしまうぐらい先生の笑顔にはパワーがあったんです。特に’11年にお会いしたときのことは忘れられません。『いくつになった?』と、聞かれたので、私の年齢をお答えしたら、『あんたの年じゃないわ。盲導犬の数のことよ(笑)』と。私が毎年、全国の地方自治体などに盲導犬を寄付していることを覚えていてくださったのです。おそらくそのときは35頭ぐらいだったと思います。’11年は東日本大震災が発生した年です。私たち演歌歌手も、北島三郎先生が中心になって義援金を送ったり、現地で慰問のために歌ったりしていました。でも被災地の悲惨な光景を見てしまうと、『皆さんが喜んでくれるけど、「河内おとこ節」みたいな曲を笑顔で歌っていていいのかな、もっとほかにできることはないのかな……』なんて、悩んでしまっていたのです。その気持ちをもらすと、先生はこう励ましてくださいました。『何を言っているのよ。あなたは歌を歌うことで、いろいろな人たちに施しをしているんだから、自信をもって歌いなさい』『“施し”なんて、そんなおこがましいです……』『そんなことないわよ。寂聴が言っているんだからいいの。寂聴がそう言っていたって(人にも)伝えなさい!』力強いお言葉に、体に元気が湧いてくるようでした。それから10年、’21年11月30日に私はデビュー35周年記念コンサートを行ったのです。8月の初めに先生に激励コメントをいただけないかお願いしました。すると次のようなコメントが。《歌手としてだけでなく、盲導犬の世話をしたり、人柄がとても温かいのでずっと仲良しです。100年の人生の中で35年はまだまだ若々しい。これからも円熟の歌を唄い続けてください。寂聴》コメントはコンサート会場でも紹介させていただきました。先生のお言葉がすごくうれしくて、会場では思わず、『あと35年はやろうと思っています!』と宣言してしまったほどです。そのころには先生のお年も超えています。まだ大口を開けて歌っている私を見て、先生は笑ってくださるでしょうか」■「愛することは、許すこと。それが究極の愛です」ーー秘書・瀬尾まなほさん(33)「『京都に住んでいるのがつらい』、先生が亡くなって半月後ごろから、そう思うことが多くなりました。先日、先生が通っていた病院の近くに所用で行ったとき、『ああ、この病院に何度も一緒に来て、帰りに2人でお茶したこともあったな』と、なつかしい風景が蘇りました。その喫茶店に1人で入って、先生と向かい合って座った席で、フレンチトーストを『おいしいね』と、2人で半分こしたことを思い出しました。こうした先生とのちょっとした外出先での出来事が、私の記憶に、しっかりと残っているのです。ふとスマホでメールを見ると新着が……。私が読売新聞に書かせていただいた瀬戸内先生の思い出の記事のゲラ刷りが送られてきたのです。先生が亡くなってからめまぐるしい日々が続き、悲しみにくれる暇もなかった私ですが、先生と座った席で、思い出をつづった原稿をスマホの画面で読み直すうちに、涙があふれました。京都タカシマヤの前を歩けば、ジーンズとセーター、ニット帽で変装した先生とお買い物をして、帰りにとんかつを食べたっけ……など、秘書を務めるようになってからはどこへ行くのもいっしょでしたから、京都には先生との思い出の場所がありすぎて切ないのです。これまでは『また』があったのに、もう二度とないのですから。いまでもどこかでちょっとおいしいものを見つけると、『あ、先生に買って帰ろう』と思ってしまう。でも『おいしそう!』と子供のように喜んでくださった先生はもう寂庵にはいません。先生と出会い、間近で暮らしているあいだに、自分の才能を先生にたくさん見つけていただき、私の人生には思いもしなかったことが次々に起こりました。それに先生は『秘書として私の後ろに控えていなさい』ではなく、『私の前に行け』と、自信のない私の背を押し続けてくれる人でした。なかでも私が『おちゃめに100歳!寂聴さん』(光文社)を出版した後、いっしょに記者会見したときの言葉は忘れられません。『私の人生も残りが少なくなっています。どうか私が死んだ後も、このまなほをよろしくお願いいたします』、そう言って、記者の皆さんに深々と頭を下げてくださったのです。そのときのことをいま思い返すと、すごいことだったな、と。先生が私のために頭を下げてくださっただなんて。先生の天台寺での法話や講演旅行には必ず同行してお話を聴いていましたから、たくさんの先生の言葉が耳に残っています。たとえば、人も動植物も万物は次々に生まれては、止まることなく変化していくという『生生流転』。自分の利益を脇に置いて人の利益や幸せのために尽くしなさいという『忘己利他』などは、抵抗なく私の皮膚の内側に張りついているようです。でも実はいちばん印象深く耳に残っている言葉は……、晩年が近づいてから先生がよくおっしゃっていた『愛することは、許すこと。それが究極の愛です』という言葉なのです。たとえば夫が不倫したとすれば、私は一生許さないでしょう。『愛することは許すこと』、この言葉の意味の深さを私はまだ受け止めることができません。先生のように心が大きな人になって、この言葉を心から言えるようになるには、どのくらいの人生経験を積めばいいのでしょうか。瀬戸内先生、私はいつか先生のような優しい人になりたいのですが、一生なれそうにありませんーー」
2022年01月17日「その人の顔を見た瞬間、どんな言葉をかけてほしいか、私にはわかるの」、天台寺や京都寂庵での法話、インタビューなどで数々の名言を生み出してきた瀬戸内寂聴さん。言葉の達人であるだけではなく、心を癒す達人でもありました。今回登場してもらったのは、いずれも寂聴さんと縁で結ばれていた人たち。それぞれの「私を救ってくれた寂聴さんの言葉」を教えてもらいましたーー。■「苦しいことも含めて人生。すべてが栄養になります」ーー女優・南 果歩さん(57)「’21年12月に京都の寂庵に伺いました。何度もお邪魔した場所なのに、瀬戸内寂聴先生がいないと、とてもひっそりしていて……。でも不思議ですよね。最初は私も先生の遺影の前で泣いていたのに、寂庵のスタッフの方と思い出話をしているうちに、明るい先生の姿が浮かんできて、笑ってしまうこともありました。逝去されてからも、私たちを笑顔にしてくださる先生は本当にすごい方です。先生からは『いまを悔いなく生きること、いまを切に生きること』と、繰り返し教えてもらいました。ご自身が作家として生き切ったからこそ、私たちもそんな気持ちになれるのだと思います。先生と初めてお会いしたのは、女性自身さんの対談企画(’95年4月25日号)です。そのとき『もう(おなかのなかに赤ちゃんが)入ってんじゃないの?私の勘は当たるんだから』と、おっしゃったのです。まだ公表していなかったのですが、本当に妊娠中でしたのでドキリとしましたね。それ以降、先生のお誕生日の5月15日ごろにご挨拶に伺うようになりました」南果歩さんは2度の離婚を経験。また’16年には乳がんが発覚し、その後に手術を受けた。「つらいことがあるたびに先生に救っていただきました。闘病のときには、『病気にならないに越したことはないけれど、病気をしたことで、これまでと違う物事の感じ方ができるようになる。別の人間になるチャンスを与えられたのよ』と。確かに自分が苦しい思いをすれば、人の痛みがわかるようになりますし、人にも優しくなれますよね。そういう意味では病気になることは、悪い面だけではないと思えるようになりました。そして2度目の離婚のときには、『いろいろな感情を味わいなさい。すべてが人生の栄養になりますよ。何かあるほうが人生に彩りを与えてくれる。苦しいことも含めて人生なのよ。一人になったのだから、これからは自由に生きられます』と。つらいことがあっても、何時間か先生と過ごすと、すごく心が軽くなって家に帰ることができるんです。最後にお話ししたのは’21年5月15日、先生の99歳のお誕生日でした。足の血管を広げるカテーテル手術を受ける直前だったそうですが、小一時間ほど電話でおしゃべりしました。『先生、100歳でアイドルになれる人は瀬戸内寂聴しかいないんだから、早く退院して元気になってくださいね』『本当に長く生きたから、もういいと思ったけれど、それ(100歳のアイドル)も悪くないわね』そんな話をして2人で笑い合ったのです」南さんは2月4日に自伝エッセイ『乙女オバさん』(小学館)を出版する。2度の結婚・離婚や闘病などについて、また喪失から立ち直った経験などをつづったという。「以前にもエッセイを2冊刊行したことがありましたが、先生からは『もっと日常的に文章を書きなさい』と、勧められていました。『演じることはあなたにとって必要なことだけれど、書くことも向いているから』って。本ができあがったら先生も喜んでくださるでしょうか。また寂庵にご報告へ行ってきます。そういえば先生からは、『“瀬戸内寂聴物語”という企画が(映画やドラマで)あったら、あなたが晩年の私を演じなさい』とも言われていました。ぜひ剃髪してからの先生に挑戦してみたいです」■「一隅を照らす、これ国宝なり」ーー天台寺責任役員・千葉康行さん(77)「寂聴さん晋山(新しく住職になる者が初めてその寺に入ること、’87年5月)のときには毎日のように、京都から大量の荷物が浄法寺町(現・岩手県二戸市)の役場に届きました。当時は車で天台寺まで登るのが容易ではなかったので、布団、仕事机、資料の書籍、立派な屛風、台所用品……、子供たちへのお土産の大きな白い象までが役場に山積みになって、職員たちが『まるで花嫁が来るみたいだ』と、目を丸くしてました。当時の天台寺は、賽銭箱に入っているのは木の葉だけ。電気代が払えなくて止められていたような貧乏寺にあきれた寂聴さんが、1千万円もの大金を役場に寄付してくれたのには、たまげましたね。そのとき寂聴さんが、『見合いで仲人に騙されて、結納ももらわないのに、嫁入り道具と持参金を持ってきたようね』と、笑っておっしゃったのが、いまでも忘れられません」天台寺の名前を全国に知らしめた青空法話。そのスタートから千葉康行さんは司会を務めた。「晋山の1カ月後には青空法話の記念すべき第1回がありました。境内に大急ぎで玉砂利を入れ、28軒の檀家が当日の早朝から集まって、そこにゴザを敷き、お客さまを待ちました。寂聴さんと私たちは『100人か200人来てくれればいいね』と息を呑んで待ち受けていました。そうしたら午前中から続々と善男善女が御山(天台寺の立つ山を地元の人々はそう呼びたたえる)に登ってきて、午後の会と合わせると1千人もの方がいらしてくださったのです。そして秋の例大祭法話には全国から貸切りバスで参拝者が集まりました。人口8千人の町に、なんとその数1万人!急きょ大型バスの駐車場や休憩所を造ったら、県道と御山の間を流れる安比川に架かる橋が落ちてしまいました。コンクリート製の橋に架け替え、参道の石段を修復して、寂聴さんが京都から持ってきた紫陽花を植えて……、小さな町はもう大騒ぎです。私たち檀家は休むことなく勤労奉仕の日々が続きましたけれど、誰一人として不満はもらしませんでした。法話の司会をさせていただいておりましたので天台寺での法話は30年近くすべて聴いています。そのなかに《一隅を照らす、これ国宝なり》という天台宗開祖・最澄の教えが何度も出てきました。表舞台ではない、一人ひとりが自分の置かれた地味な場所で自分のできることにベストを尽くす。そういう人こそ国の宝だ、というような意味です。その言葉は私の生き方を変えたかもしれません。ほかの檀家衆も気持ちは同じです。寂聴さんが奇跡を呼び起こしたかのように立派に修理された天台寺を、私たちは新住職とともに末永くお守りしていこうと、意を新たにしています。御山のなだらかな斜面に造った墓地に、寂聴さんのお墓もあります。花々が一斉に咲き競って極楽浄土のように美しくなる5月には納骨される予定です。そのときには、その天真爛漫さで寂聴さんの命を100歳近くまで燃やし続けてくれた秘書の瀬尾まなほさんなど、多くのゆかりの方々と再会できるのではと、白雪降る天台寺で関係者一同、首を長くしてお待ちしております」■「辛抱していれば必ずいい時が巡ってきます」ーー京都寂庵の堂守・馬場君江さん「私が先生にお仕えして、29年と7カ月になった日でした。早暁の4時ごろ、病院からの連絡が、秘書のまなほさんを通じてまわってきて、寂庵のスタッフ全員と、先生のお嬢さんとお孫さんが病室に駆けつけていました。みんなで『先生!』と呼びかけると、目を開けてくださったのですけど……、間もなく目をつむり、スーッと眠りに入っていかれました。思わず手を握ると、いつもと変わらない柔らかな手で、お顔も本当にきれいで、穏やかでした。最後にお話ししたのは10月末でした。先生が私を見て、『明日、退院するからね』と、いつになく弾んだ声でおっしゃって、私が『先生、待ってますよう』と、笑い返したのが最後でした。もう先生はいらっしゃらないと思うと、何だか全身から力が抜けて、寂庵に通うのがつらくなってしまいました。でも亡くなった数日後、道場のご本尊・観世音菩薩の前にお骨が帰ってきたのです。戒名にあたる法名は『(ひへんに華)文心院大僧正寂聴大法尼』、遺影は先生が気に入っていた、写真家の篠山紀信さんが撮ったものです。天台寺にご自分で用意なさった墓所は、12月から翌年の春まで積雪が解けません。それまでお骨は道場に祭られていますから、それをお守りすることが堂守の私の役目かな、と思いいたりました。いまは毎朝道場に通ってお花と線香を替え、精進料理のお供え膳を上げ下げしています。お味噌汁、野菜の煮物、漬け物、先生のお好きだったお豆などをお台所で用意していると、『いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう』という先生の声がどこからか聞こえてくるような気がして……、あとからあとからいろいろなことを思い出すのです。あれは13年前の春でした。長年勤めていたスタッフ全員で相談して、『私たちを雇い続けるために先生が無理して働かなくてもいいように』と、退職願を出したのです。長引く不況のさなかに自分から辞めるなんて、ふつうは考えられません。スタッフはそれほど先生に感謝し、大好きだったのです。先生とお別れするのはつらいけど、私もそのつもりでした。そうしたら先生に呼ばれて、『あなたはお寺(嵯峨野サンガ=道場)のことをしているから、寂庵に残ってね』と、言われました。それからずっと堂守をしながら、道場での法話の会では、へたながら司会もさせていただくようになりました。そんな先生との長い生活の中で、ひとつ、印象に残っている言葉があります。『どんなに苦しいことも、つらいことも、決していつまでも続かない。辛抱していれば必ずいい時が巡ってきます』という言葉です。これから寂庵はどうなるのでしょうか……。あれこれ考えているとつらいし、そんな自分が悲しくなります。でも先生は、どんなに悲しいことも続かない、とおっしゃいました。先生が満100歳のお誕生日を迎えるはずだった’22年5月で私が先生にお仕えして30年になります。少なくともそれまでは大事にお堂を守らせていただきたいと、いまはただ、そう思っています」
2022年01月17日「寂聴さんは99歳でしたから、あと少しで100歳だったのに……悲しいですね」そう語る美輪明宏さん(86)。今年11月9日に亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(享年99)との思い出を振り返るーー。■愛を貫き通した寂聴さんとはお互いに「双子じゃないか」って昔から愛をまっとうされる方や、信念を貫き通す人物はいました。それがスキャンダルになったり、後世に伝えられるような伝説になることもあります。たとえば、『花子とアン』のモデルになった柳原白蓮をはじめ、与謝野晶子や岡本太郎さんのお母さま、岡本かの子さんなどもそうです。政治家では、婦人参政権獲得運動を牽引した市川房枝さんのような“烈女”は、たまに現れます。その流れをくむ方が、先日お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんでした。寂聴さんとは50年以上前に出会いました。何かの取材で、私のマンションに、まだ無名だった寂聴さんがいらっしゃって、インタビューを受けたのが最初でした。そのとき、三島由紀夫さんにファンレターを出されて、「ていねいなお返事が来た」と感動されていたことを今でもよく覚えております。寂聴さんは私より13歳年上でしたが、モダニズムの時代、戦中、戦後をともに生きてきました。寂聴さんが東北で行った説法におじゃまして、一緒にお話をさせていただいたこともあります。二人で長崎、東京でも講演会をやりました。同じ反戦派であるということだけではなく、思想観や価値観など、多岐にわたって考え方が似ているので「双子じゃないか」って言い合ったほどです。寂聴さんは25歳のときに、3歳の娘と夫を捨てました。そして、夫の教え子だった若い青年と駆け落ちをしました。後に娘さんとは仲直りをされましたが、寂聴さんはあの年になられても、ずっと「後悔している」と、罪の意識を持ち続けておられました。私には「人助けは罪滅ぼし」だと、おっしゃっていました。寂聴さんも愛を貫き通した人でした。罪滅ぼしだと思って、人々を恭敬し、各地で説法を行い、身の上相談をなさってこられた。ご自身がいろんな経験をされてこられたから、他人の気持ちもわかったのだと思います。晩年、安全保障関連法案に反対するために、国会前に抗議に行かれたこともありました。“気骨のある烈女がまた一人いなくなった”ーー。そういう寂寥感が大きいです。
2021年12月31日2021年12月28日に、タレントや俳優として活躍する香取慎吾さんが、結婚を発表しました。香取慎吾が結婚を発表!祝福の声が続出2016年に解散したアイドルグループ『SMAP』の元メンバーである香取さん。年の瀬に報じられたおめでたいニュースに、世間では祝福のコメントが相次いでいます。同グループの元メンバーであり、タレントの中居正広さんが所属事務所を通じてコメントを発表。サンケイスポーツによると、中居さんは次のような6行のコメントで、香取さんを祝福したそうです。うぇうぇうぇ~…。連チャンの連チャンだ…。慎吾が慎吾による慎吾にとっての…。色々ありすぎて、何てコメントをすればわかりません。ノーコメント、ノーコメント、ノーコメントだーーーーー!サンケイスポーツーより引用中居さんが「連チャン」といっているのは、2020年12月に結婚した、同グループの元メンバーであり俳優の草彅剛(くさなぎ・つよし)さんのことを指しているのでしょう。「ノーコメント」とつづっていますが、コメントの最初にある文字を縦読みすると「うれしいのだ」という、隠されたメッセージが!香取さんの結婚を、心から喜んでいることが伝わってきますね。中居さんのコメントに対し、ネットではさまざまな反響が上がっています。・素敵すぎる。・縦読みで泣いたのは初めて。・中居さんらしい、愛のあるコメントにほのぼのとした。ちなみに中居さんは、草彅さんが結婚を発表した際も、次のようなコメントを寄せていました。草彅剛の結婚に、中居正広が6行コメントネットで「意味が分かった瞬間に泣いた」元メンバー同士の絆の深さが伝わるやり取りに、グッときますね。中居さんの愛情がたっぷりとつまった祝福のコメントは、香取さんのもとに届いたことでしょう![文・構成/grape編集部]
2021年12月29日100歳の夢も語っていた瀬戸内寂聴さんの逝去は多くの人を驚かせた。寂聴さんの身に何が起こったのか。秘書・瀬尾まなほさんによれば、始まりは9月の肺炎による入院だったという。「何か腹が立つことがあって、『絶対に先生に言おう!』と思ったとき、書斎を整理していて、原稿やゲラに書いてある先生の字を見たとき……、『ああ、もう先生はいないんだな』と、思い出してしまって、無性に悲しくなります。車を運転しているとき、夜中に目が覚めたとき……、『先生に会いたい』と、思わずつぶやき、涙があふれます。いまも先生が遠くに行ってしまったという実感が湧きません。心をどこか遠くに置いてきたような、体だけ機械的に動いているような、そんな感覚で日々を生きています。なぜか私は瀬戸内先生が103歳ぐらいまで生きると勝手に信じ込んでいて、先生も『103までは生きそうだね』と、そんなことを言っていました。だから私もこんなに突然お別れがやってくるとは考えていなかったのです」11月9日に瀬戸内寂聴さん(享年99)が逝去してから10日ほどたったころ、“66歳年下の秘書”として知られる瀬尾まなほさん(33)が本誌の取材に初めて応じてくれた。寂聴さんの大往生は多くの人々に衝撃を与えたが、いちばん喪失感にさいなまれているのは瀬尾さんだろう。瀬尾さんが大学を卒業してすぐに寂聴さんの秘書となってから10年。2人は、小説家と秘書という言葉だけでは言い表すことができない強い信頼関係を築きあげてきたからだ。寂聴さんの知人のなかには、「90歳を超えた寂聴さんがあれだけ元気に活動しているのは、若い秘書さんといつも笑いあっているからだ」と、語る者もいた。そんな瀬尾さんが“先生との最後の日々”を初めて語る――。「99年の生涯で、いろいろなことに挑戦してきた先生ですが、いま振り返ると、最後の最後、ぎりぎりまで作家として生きたのだな、と思います。朝日新聞のエッセイの連載や、『週刊朝日』の横尾忠則さんとの往復書簡の連載も楽しんで書いていました。でも特に、文芸誌の2本の連載について語るときは目が輝いていました。『群像』(講談社)の『その日まで』と『新潮』(新潮社)の『あこがれ』です。99歳でも文芸誌2誌に連載を持っているということは先生にとって誇りだったのでしょう。“その日まで”とは、文字どおり先生の“最後の日まで”という意味で、1月には単行本が発売されることになっています。そんな先生が楽しみにしていたのは、ご自身の文学全集の刊行でした。20年ほど前に新潮社から『瀬戸内寂聴全集』として20巻が刊行されたのですが、来年からその続きが出ることが決まっていたのです。実は7月ごろに私が聞き手になって、先生に質問をした内容をまとめた『今を生きるあなたへ』(SBクリエイティブ)が12月中旬ごろに出版される予定です。それに私が共同通信で連載しているエッセイ(※「まなほの寂庵日記」)も『寂聴先生に教わったこと』(講談社)として一冊にまとまることになっています。『来年は先生も私も忙しくなりますよ!なにせ先生が(5月に)100歳になる年ですから。コロナ禍がおさまっていたら、盛大に100歳のお祝いもしましょうね。新潮社から全集も出ますし、(宣伝も)がんばりましょうね。あっ、私の本もいっしょに宣伝してくださいね(笑)』そうお願いしたら、先生が『あとがきでも何でも書いてあげるよ!』と、言ってくださったことも、思い出になってしまいました。増補された立派な文学全集が、書店の棚に並んでいる光景を先生には見てもらいたかったです」■9月に風邪をこじらせて肺炎で入院今年5月に掲載された本誌のインタビューでも、新しい長編小説の構想を温めていることなど、100歳への意気込みを語っていた寂聴さん。だが体調に異変が生じ始めたのはこの9月だったという。「風邪をこじらせた肺炎で入院したのです。以前の元気な先生であれば風邪をひいても、風邪のままで治っていたものが、入院という事態になったことに少し不安を感じたことは確かです。『これからは熱が出たり、ちょっとした体調不良があったりしたら、いままで以上に注意しなければいけないな。先生もそういった年齢になったのだな』と、さらに気を引き締めました。それでも9月の入院は、これまで経験してきた入院と同じような感じで、特に緊迫感はありませんでした。先生は大のコーヒー党で、『飲みたい、飲みたい』と言いますから、病院に行くと必ずコーヒーを入れていました。それにシュークリームを添えて出すと、喜んでくれたのです」人に会うのが大好きだった寂聴さんだが、コロナ禍のなかで、人と会うことも2年間控えていた。そんな寂聴さんを楽しませていたのが、瀬尾さんの長男の成長だったという。「今年12月に2歳になるのですが、息子はしっかり意思表示をするタイプのようです。最近の先生はリハビリで廊下を歩くのも面倒くさがるほどでした。でも息子は寂庵に遊びに行くと、そんな先生を小さな手で引いて連れ回していました。台所にある椅子に座っていた先生を、応接の和室に連れていったり、先生の寝室に連れていったり……。いつもだったら『もうしんどいよ~』と言って嫌がったでしょう。でも先生は息子といっしょだと、お互いを支えるようにしながらうれしそうによく歩いていましたね。先生は『この子、私に命令してくるんだよね』と、言いながらも、『すごく意思がはっきりしている』『この子は生きぬく力を持っている』と、いっぱい褒めてくれたのです。だから9月に入院したときも、よく息子のことが話題になっていました。毎日話すのは、息子がいつしゃべり始めるかということ。先生は息子とおしゃべりすることも楽しみにしてくれていたと思います。これは先生が一度退院したときの話なのですが、息子にこんなふうに話しかけていました。『ママが早く2人目の赤ちゃんを産んでくれて、あなたがお兄ちゃんになるといいね』と――」■「病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたい」9月末に退院した寂聴さん。しかし5日後には再入院することになった。「10月に5日間だけ寂庵に帰ってきたとき、いつもの台所の椅子から庭を眺めながら、『やっぱり病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたいね』などと言っていましたが、本人もそれほど真剣に考えていたわけではなかったと思います。確かに先生はこれまで何度も入院していますが、そのたびに不死鳥のように回復し、仕事を続けてきました。ですから再入院でも私たちスタッフは、『今回は、いつごろ退院できるかな』ぐらいに考えていたのです。先生も退院に向けての歩行のリハビリを続けながら、『早く、寂庵に帰りたいねぇ』と、繰り返し話していました。あまり帰りたいと言い続けるものですから、お医者さんも『じゃあ、もう退院しましょうか』と、おっしゃっていたほどです。いまも不思議に鮮明に覚えている会話があります。『マスクの上の、目からおでこがすごくきれいだね』、そう先生が何度も言ってくださったのです。それで私も『先生、マスクで見えないですけれど、口角の上がっている唇もいいんですよ(笑)』、そうお返事しました」退院を希望し続けていた寂聴さんの体調が急激に悪化したのは10月末だった。「急変する前日まではふつうにお話ししていたのです。夜になって私が病院を出るとき、『明日また来ますね』とご挨拶して、先生が『ありがとう』と……。先生と私は2人ともおしゃべりですから、この10年間ですごい数の会話をしてきたと思います。ですが、このやりとりが私と先生の“最後の会話”となってしまいました。翌日からは、しゃべるのもしんどそうで、意思表示も私が話しかけたことに、うなずいたり首を振ったりということになりました。入院中はひまなので、ご友人たちとは病室でスマホでおしゃべりしていたのです。それもできなくなり、『寂聴さんの携帯電話が通じないのですが……』と、心配したご友人たちから、寂庵に問い合わせのお電話がかかってくるようになりました。電話の呼出し音が聞こえなかったのか、私がかけてもそうでした。容体がよくならないため、先生の娘さんも駆けつけてきて、いつも誰かが、ベッドのそばに付き添うようになったのです。11月8日の夕方、先生と私が病室で2人きりになったことがあります。そのときはベッドで横になっている先生にいろいろなご報告をしました。先生がお留守の寂庵で起こったできごと、先生がかわいがってくれた私の息子のその日の様子……」寂聴さんが旅立ったのは、それからおよそ半日後の、11月9日6時3分だった。「連絡があって、いま寂庵に勤めているスタッフ全員が病院に駆けつけ、娘さんとともに看取らせていただきました。苦しまなかったので、まるで眠っているような、いまにも起きてきてくれそうな、本当にいいお顔でした。いま考えても、あの日の夕方に先生と2人だけの時間が持てたことは本当によかったと思います」■最後まで遺言を書かなかった寂聴さん寂聴さんが名誉住職を務めていた岩手県・天台寺には記帳のために大勢の人が訪れた。また12月9日(木)13~16時、京都の曼陀羅山寂庵では「偲ぶ会」が開催される。式典はなく、寂聴さんを慕う人たちが焼香をするための会だという。寂聴さんと瀬尾さんの対談集『命の限り、笑って生きたい』(光文社)のあとがきには、寂聴さんのこんな言葉も掲載されている。《「周りが迷惑するから、早く遺言を書いてください」、会計士の先生と顔を合わせるたびに、そうせっつかれているんですけれど、いざ遺言を書こうとすると次々と事件が起こるから、全然書く暇がない。結局、書けないんじゃないかしら》「法話の会でも遺言についてお話ししていましたが、先生は正式な遺言も覚書も残してくれなかったので、今後のことを決めるのは大変です。密葬は身内だけで寂庵で済ませました。お骨は、お墓を作った天台寺には納めると思いますし、故郷の徳島にも分骨することになると思います。決まっていないのは私自身の今後も同じです。先生が、『まなほには才能があるのだから、(文章を)書いていく覚悟を決めなさい』と、真剣な表情でおっしゃってくださったことを昨日のことのように覚えています。しかし、ものを書いて生きていくことの厳しさは、先生のそばにいたからこそ、身に染みてわかっています。それに私を励まし続けてくれた先生はいなくなってしまいました……。笑わせたい、喜んでもらいたい相手を失って、何もやる気が起きません。私の人生は瀬戸内寂聴という人に出会って大きく変わりました。先生はたくさんのことを教えてくれましたし、私にチャンスをくれました。いっしょに過ごしたこの10年間がどれほど尊く、どれだけ先生が私に与え続けてくれたことかもわかっています。先生がいたからこそ私は前へ進んでこられました。後ろを向くと、そこには必ず先生がいて、『あなたなら大丈夫』と言ってくださったから、何でも挑戦できたのです。最後までそんな先生のおそばにいられたことも感謝しています。……それでもやっぱり、もっと一日でも長く、先生といっしょに過ごしたかったという気持ちを消すことはできません。心をどこか遠くに置いてきてしまったような感覚のまま、それでも私が秘書として業務をこなしているのは、“先生に褒めてほしい”という思いがあるからです。先生の秘書として役目を全うしたいと強く思います。先生の納骨、たくさんの方が集まることになる『お別れ会』、お寺関係のことなど、落ち着くまでは膨大な仕事があると思います。正直、すでにキャパオーバーで、10年間のなかで、いちばんきつい日々です。でも私がそれらをがんばれば、『ああ、まなほはよくがんばったね、よく働いたね、お疲れさま』と、先生があの笑顔でねぎらってくれるのではないかと……。いまはそんな思いが私の支えになっているのです――」
2021年12月05日病室の外では昨夜から秋雨が降っていた。朝6時をむかえようとしているころ、ベッドに体を横たえる寂聴さんに、寂庵のスタッフたちは代わる代わる声をかけた。「庵主さん、○○です……」そのたびに寂聴さんは閉じていた目を少し開けて、その声がするほうへ、少しほほ笑んで見える顔を向けたという。11月9日6時3分、瀬戸内寂聴さん逝去。享年99。一人娘のMさんや京都・寂庵の女性スタッフたちにみとられての旅立ちとなった。コロナ禍で休止になる前の法話の会では、集まってきてくれた人々に、あの笑顔でこんな言葉をかけていた。「それじゃあね、みなさんとは、もしかしたらもうお会いできないかもしれません。もし私の訃報を聞いたら、私は安らかに死んだと思ってください。安らかに死にますからね。みなさんのお幸せを祈っています!」そんな言葉どおりの穏やかなお顔だったというーー。■「コロナで法話の会ができないのがとても寂しい」寂聴さんの法話が最初に『女性自身』に掲載されたのは’89年4月、’87年に岩手県・天台寺の住職に就任した2年後のこと。当初は「まごころ説法」というタイトルで、不定期掲載を経て、現在も連載「寂聴『青空説法』」として続いている。コロナ禍以降は、電話インタビューに切り替え、古今東西の名僧の言葉について解説してもらっていた。最後の電話は10月上旬。鎌倉時代の名僧・兼好法師が書いた随筆『徒然草』について、「いま読んでも面白い」と、さまざまな文章について教えてくれた。「長く話すと疲れるのよ」とは言いながら、寺山修司の詩や、アランの『幸福論』などのことも精力的に語り続けていたのだが、雑談のなかでこんな言葉も……。「コロナで法話の会ができないのがとても寂しい。私は人にお会いして直接お話しすることで元気になるの。法話の会に来てくださる皆さんからいただいていたパワーがなくなっているのかしら。最近は、なかなか小説を書く力が湧いてこなくて……」■「貸さない!」200万円の借金を申し出たスタッフへの返答法話の会の再開を待ち望んでいた知人や寂聴さんファンは全国に大勢いた。そのためもあり、99歳の大往生であるにもかかわらず、寂聴さんの訃報は人々に衝撃を与えたのだ。寂聴さんが60代から90代に入るまで、寂庵のスタッフとして働き、寂聴さんも編集に携わっていた定期刊行誌『寂庵だより』の編集長を務めていた加藤博子さんも、その一人だ。「先生は、いわゆる“不良”が好きで、次々にダメ男の面倒をみてあげてましたけれど、実は不幸な女にも優しい人でした。私は夫とは長く別居しているのですが、息子が美容学校に進学したいと言いだしたのです。学費は200万円もかかるのですけれど、そんなお金は持っていません。困り果てて、先生に泣きついたのです。『200万円貸してくれる?』、すると一言、『貸さない!あげる!』。翌日、お金が振り込まれていました」’13年3月、寂庵の経営状況を心配したベテランスタッフたちが自ら退職を申し出たことがあった。「私は小説も書いていましたが、“売れない作家”です。寂庵退職後はいつも生活にピーピーしていました。それでも小説の相談をしたくて、1年に何度か大阪のはずれから、お邪魔していたのです。相談が終わって辞去するとき、先生は必ず言うんです。『博子ちゃん、ここの仕事を辞めた後、やっていけてるの?寂庵まで来る交通費だって大変でしょ。これを使いなさい』懐ろからさっとお金を出して、握らせてくれました。それが5万円もあって……、そんな大金を、私が訪れるたびにくれたのです」寂聴さんの応援はお金だけはなかった。加藤さんが文学賞に応募しても落選続きで、「もう小説を書くのをやめたい」と、弱音を吐いたとき、寂聴さんは叱咤したという。「私は『生きることは楽しい』と、よく書いているけど、そんな日ばかりじゃない。カチカチ山の狸みたいに背中に火がついて、その炎に追われるように歩いて、一日一日生きている。生きていることは、こんなにしんどいことなのよ。あなたもメソメソしないで書き続けなさい」そしてまっすぐに加藤さんを見つめ、ぎゅっと手を握りしめた。「あなたは30年も寂庵にいてくれて、他人が知らないこともたくさん知っている。それを書きなさい。なんでも博子ちゃんの好きなことを書きなさい」そこで加藤さんは『寂聴、喝!(仮)』と題した長編小説を書いた。しかし、「出版社に持ち込んだのですが、“プライバシーに踏み込みすぎている”という判断で、いまはお蔵入りになっているのが残念です」■「死にたいんだけど、ごはんが出ると、つい食べちゃう」またAさんは寂聴さんと50年来の交流があった。スタッフではないが、尼寺・寂庵の主である寂聴さんのことを親しみを込めて、庵主さんと呼んでいる。「コロナ禍でお会いできなくなって、最近はしょっちゅう電話でお話ししていました。長くしゃべりすぎるとお疲れになるのではないかと、『もう切るね』と言っても、庵主さんがまた話しだすので、いつも長電話になってしまいます。この夏の終わりごろから、こんな冗談めいたやり取りが始まりました。『もう生きすぎて死にたいんだけど、ごはんが出ると、つい食べちゃうのね』、『それじゃまだ死ねないですよ(笑)。でも本当に死にそうになったら私に電話をしてください』」寂聴さんからAさんに最後の電話が突然かかってきたのは逝去の3週間ほど前だったという。『いま、入院しているのよ』しかしAさんが驚くほどの元気な声だった。「庵主さんは、私が母親と姑を介護してみとり、いまは夫を介護していることをご存じでした。『あなたは人の世話ばかりして、ずっと誰かをみてるでしょう。もっと自分の体を大切にしなさい』いつにない真面目な口調でした。私は、『入院している病人に励まされるなんて、逆じゃないですか』と、いつものように笑い合って電話を切ったのですが、それが庵主さんと話した最後になったのです」■「人間は誰かを愛するために生まれてきた」「もう死にたい」と、口癖のように愚痴るいっぽうで、“挑戦をやめない”のが寂聴さんの生涯だった。本誌が半年前の5月25日号に掲載した99歳誕生日記念のインタビューでは“100歳の夢”について語っている。「実はいま長編小説のテーマが1つ頭の中で固まっていて、死ぬまでにそれを書きたい、という夢を持っているのです。でもそのためには遠くへ取材に行かなくてはなりません。体力的にどうかなぁと、非常に悩ましい。ほかにも句集『ひとり』(深夜叢書社)に続く、2冊目の句集も出したい、などと夢見ているところです」前出の加藤さんは、寂聴さんの生き方についてこう語った。「先生が仕事部屋にしていたマンションには、恋人たちのお写真がずらっと並んでいました。小説『夏の終り』にも登場する作家・小田仁二郎さんや年下の恋人、それに井上光晴先生……。また5年くらい前に、先生は真剣な口調で言いました。『プラトニックラブだけどもね。いま、とてもいい男がいるの。私が死んだときはね、私には最後までそういう(愛する)相手がいたことを、ちゃんと書いてね』法話でいつも、『人を愛しなさい、人間は誰かを愛するために生まれてきたのですから』、そう話していたのを、昨日のことのように思い出します。先生は言うだけの人ではありませんでした。その言葉どおりに、最後まで愛する人がいらしたのですから、先生は思い残すことのない幸せな一生をまっとうしたと思います」書いて、祈って、愛して、救って、挑んで……。瀬戸内寂聴さんの99年の生涯は好んで集めていた万華鏡のようにまばゆく輝いているーー。
2021年11月17日《作家・僧侶の瀬戸内寂聴は、2021年11月9日、永眠いたしました》11月11日、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの訃報が伝えられた。99歳だった。寂聴さんの公式Instagramは冒頭のコメントともに、先月から体調不良で入院していたことを報告。そして、《生前のご厚誼に感謝し、謹んでお知らせ申しあげます》とつづっている。’13年、故郷・徳島県で行われた法話で「もし100まで生きていたら、100まで恋をすると思います」と語っていた寂聴さん。100歳にはあと半年及ばずだったが、若々しく生涯を生き抜いてきた。その秘訣は何だろうか。さかのぼること’14年5月、寂聴さんは腰椎圧迫骨折で入院。退院後には胆のうがんが見つかり、92歳にして手術も経験している。晩年は病との闘いもあったが、その度に復帰を果たしてきた。寂聴さんは“華麗なるカムバック”について、『文藝春秋』’15年3月号でこう明かしている。「3年前に寂庵に若いスタッフが来てから、私は笑うことが増えました」「彼女たちのフェロモンのおかげか、自分がどんどん若返っている気さえするのです。病気で弱った肉体がこれだけ早く回復してきたのも孫より若い彼女たちが身近にいてくれるからでしょう」特に秘書の瀬尾まなほさん(33)は、寂聴さんの“長生き”に貢献していたようだ。「毎朝、この娘の顔を見ると笑顔になるし、一日に何度も声をたてて笑わせてもらっている。それが私の元気の素になっているような気がします。まなほが寂庵に来ていなかったら、もうちょっと早く死んでいたかもしれない」(『本』’18年1月号)■若く長く生きるには、年下の人や好奇心を大切に寂聴さんは’17年12月に長編小説『いのち』を上梓。そして’18年4月には96歳の誕生日を前にInstagramを開設。「日本最高齢のインスタグラマー」として話題となり、開設1日でフォロワー数が1万2,000人を超えるほどの反響を呼んでいた。そして、“インスタグラマー・デビュー”も寂聴さんの若さの秘訣だったようだ。’19年4月、寂聴さんは本誌に好奇心と若々しさの関係性について説いていた。「年がいもないことをすればするほど、人は気持ちが若々しくなるのです。私がこの年でも小説家として活動できているのは、あまり人の言うことを聞かず、“好きなこと”を続けてきたからでしょうか」そんな寂聴さんは昨年12月に新型コロナウイルスで世界が混迷を極めるなか、本誌で「コロナのせいで人と会えなくなったのは、非常につらい、寂しいことでしたね」と心情を吐露。いっぽうで「その寂しさを救ってくれたのは、私の66歳年下の秘書・瀬尾まなほが産んだ赤ちゃんでした」として、こう続けていた。「まなほの赤ちゃんと廊下に寝転んで遊んでいると、自分が子どもにかえったような気持ちになる。そのおかげなのでしょうか。年が明けると私は数えの100歳になるのに、自分ではその実感がまったくない。もっとおばあさんになってヨボヨボになるかなと思ったらそうでもないのです。いつも若い人といっしょにいることが、私の元気と長寿の秘訣かもしれません」若く長く生きるには、若い人や好奇心を大切にーー。そのメッセージは、多くの人の胸に刻まれるだろう。
2021年11月12日2021年11月11日、僧侶である瀬戸内寂聴さんが亡くなったことが分かりました。99歳でした。産経ニュースによると、寂聴さんは心不全のため京都市内の病院で亡くなったとのことです。全国各地で講演会や法話を行うほか、さまざまなテーマで本を執筆してきた寂聴さん。1997年に文化功労者に選定され、2006年には文化勲章を授与されました。寂聴さんは体調不良を理由に、出身地の徳島県にある拠点『曼陀羅山寂庵ナルト・サンガ』を2014年に閉鎖しています。多くの人の悩みを聞き、寄り添う言葉をかけてきた寂聴さんの訃報に、「本当にありがとうございました」「優しい笑顔を忘れません」といった声が上がっています。ご冥福をお祈りいたします。[文・構成/grape編集部]
2021年11月11日「なんか千賀、先週ね、ここらへん(頬を指し)に注射打ったって言ってた」悪戯な笑みを浮かべながらこう語ったのは中居正広(49)。これは8月29日放送の生放送特番『FNSラフ&ミュージック』(フジテレビ系)内でのこと。中居はゲスト出演したKis-My-Ft2の千賀健永(30)が頬にヒアルロン酸の注射を打っていたことを暴露。公表していなかった千賀は動揺しつつも、最終的に「ちょっとだけ打ちました……」と渋々認めたのだ。この“整形イジり”が波乱を広げている。「タレントが発表していない美容整形をほかの人が明かすのはタブーですし、アイドルであるジャニーズ事務所ではもってのほか。視聴者の間では賛否が真っ二つに分かれていました」(スポーツ紙記者)千賀が所属するキスマイの派生ユニット「舞祭組」を中居がプロデュースするなど2人は師弟関係にある。しかし、今回のイジりには千賀も悲鳴を上げているという。「千賀さんは以前にも、中居さんに当時住んでいた実家の地名を暴露され、一人暮らしを余儀なくされたそうです。今回の整形イジりも事前に聞いていなかったため、『さすがにちょっと……』と放送直後は意気消沈していたそうです」(テレビ局関係者)しかし、中居がタブーを破った裏には、弟子への“愛”があった。「もともと、中居さんは千賀さんのトーク力を高く評価しており、『あいつはイジれば絶対に笑いを起こせる』とよく語っています。大型特番の場でイジることで、千賀さんの魅力をお茶の間に届けようとしていたのでしょう」(中居の知人)千賀も中居の真意を理解し、“和解”にいたったようだ。「中居さんも反響を知って、さすがに今回は『やりすぎたかな』と反省しているそうです。結果として“整形イジり”はニュースで取り上げられ、大きな話題に。千賀さんは放送2日後に会員制ブログで、中居さんとの信頼関係があってこそのやりとりだったと明かし、感謝していました」(前出・テレビ局関係者)師匠の“愛あるイジり”を糧に千賀がバラエティ界を席巻する日も近いかも?
2021年09月08日タレントの中居正広が主演を務める映画『劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL』が、dTVで独占配信を開始した。2012年にTBS系日曜劇場枠で放送されたドラマ『ATARU』。サバン症候群に起因する特殊能力をもった主人公・アタル(中居)が、超人的な推理力でさまざまな事件を解決に導いていく。その劇場版である同作は、ドラマシリーズの翌年に放送されたスペシャルドラマ『ATARU スペシャル〜ニューヨークからの挑戦状!!〜』にも登場した、アタルの幼なじみ・マドカ(堀北真希さん)とアタルの関係の謎に迫る。物語の発端は、日本とニューヨークで起こったコンピューターウイルスによる爆破事件。警察とFBIが共同捜査をすることになり、FBIの一員としてアメリカにいたアタルも来日。警察を辞めて探偵に転職した蛯名舞子(栗山千明)など、懐かしいメンバーと再会を果たす。事件の容疑者には、問題のコンピューターウイルス「ウィザード」を開発したマドカが浮上するが、爆破事件の遺体がマドカのDNAと一致することが判明。今度は、「ウィザード」の仕組みを知るアタルが容疑者となってしまう……というストーリーだ。同作には、捜査一課の沢主任(北村一輝)、アタルの保護者であるラリー(村上弘明)や、「~なのね! 」が口癖の鑑識課・渥美(田中哲司)、舞子の弟の昇(玉森裕太)、警部補の野崎(千原せいじ)など、ドラマのレギュラー陣も登場する。
2021年08月30日8月29日放送の『FNSラフ&ミュージック〜歌と笑いの祭典〜第2夜』(フジテレビ系)で、サポーターとして出演した中居正広(49)の“後輩いじり”が物議を醸している。番組では「悪い顔ニュース」と題した、“もし出演者が架空の罪で逮捕されたら?”という企画を実施。この日登場したKis-My-Ft2(以下、キスマイ)の7人は、「スクランブル交差点をローラースケートで走り回り歌うなどの行為をしたYouTuber集団」として紹介された。メンバーそれぞれの逮捕時の様子が映された後、千賀健永(30)のリアルな表情に松本人志(57)が「千賀はやりすぎ!」とコメント。その言葉にスタジオが大盛り上がりするなか、中居が右頬に注射を打つ仕草をしながら「なんか千賀ね、先週ね、ここら辺に注射打ったって言ってた」と暴露したのだ。その後キスマイは、デビュー10周年記念のアルバムに収録された新曲「A10TION」を披露。パフォーマンス後は、中居たちがいるスタジオに登場した。千賀は中居について、「退所してから連絡が一切ない」と疎遠になっていることを告白。中居は新型コロナの影響から「千賀さんは麻雀要員だから、この1年用がなかった」と釈明するも、突如として自分の頬に手を当てながら「どっちを映したらいいの?」と千賀に問い始めたのだ。怪訝な顔をした千賀が「悪い顔ニュースの時も注射打ったとか言ってました?」と訊ねると、中居は大爆笑。するとキスマイのメンバーが「(千賀が)前室でブチギレてましたからね」と明かし、千賀も「そういうのって僕に一回許可を得てから……!」と声を荒げた。だがそれでも「注射を打ったことは許可を得たら言っていいの?」と、中居のイジりは続いた。最終的に「ちょっとだけヒアルロン酸を打ちました」と、不満気に整形をカミングアウトした千賀。いっぽう中居は嬉しそうに、「他にもやってる人いるかもしれないけど、テレビで言ったのは(ジャニーズで)初!」と明かしていた。親交の深い2人のやりとりに、ファンからは「面白かった!」と反響が続出。《芸人さんをここまで爆笑させる千ちゃん凄い中居さんまで立って笑ってくれてるしゃべくりでも思ったけど千賀ワールドになるとめっちゃ面白いな》《中居さんと千賀くんの絡み死ぬほど面白くて無理wwwwww》《千賀くんのこといじってる中居くん、めちゃくちゃ楽しそうだったな(笑)》また千賀が「麻雀要員」であることにも驚いたファンがいたようで、《麻雀出来る事の方が驚き》《千賀さんと麻雀て意外だわー》といった声が上がっていた。■過去には住んでいる場所も晒されていた相次いで千賀のプライベートを晒した中居だが、今回が初めてではない。「’18年の大晦日に放送された『CDTVスペシャル! 年越しプレミアライブ 2018→2019』(TBS系)で司会を務めた中居さんは、そこでも千賀さんの住んでいる場所を悪びれずに暴露していました」(テレビ誌ライター)すでに退所しているとはいえ、先輩である中居の“後輩いじり”を訝しがる声も広がっている。《これ、パワハラじゃないの?中居君そういう所あるよね。ジャニーズの先輩だからって、ダメだと思うわ》《おなじみのやりとりなのかもしれないけど中居くんの千賀くんいじりが笑えない。別番組の住所のこともだけど打ち合わせがあったとしても見ててひっかかってしまう》《中居君のおかげで番組出させてもらってるのわかるけど……千賀さんがかわいそうだった。麻雀仲間やヒアルロン酸の話、自宅の場所はわざわざしなくていいと思う。彼らはジャニーズのアイドルなんだから。中居くん、その辺少し考えて欲しい》
2021年08月30日2021年7月現在、終息するどころか感染が拡大している新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)。日本国内では、高齢者や基礎疾患を持つ人を優先的にワクチンの接種を行っていますが、まだ順番が回ってこない人も多数存在します。全国の医療従事者は、感染者の治療やワクチン接種の対応に追われ、目の回るような忙しさに襲われているようです。中居正広、医療従事者に大量の弁当を差し入れしていた同月12日、東京都品川区にある昭和大学病院は、ウェブサイトでトピックスのページを更新。コロナウイルスの対応にあたる部署宛てに、タレントの中居正広さんから弁当200食の提供を受けたことを明かしました。この度、タレントの中居正広様のご厚意により焼肉弁当をご提供いただきました。7月12日(月)に合計200食をご提供いただき、新型コロナウイルスの対応にあたる院内各部署に配布いたしました。職員一同心より感謝し、お心遣いに対し、この場をお借りして御礼申し上げます。今後も日々新型コロナウイルス感染症の治療に取り組み、引き続き安全・安心な医療の提供に努めてまいります。昭和大学病院ーより引用ウェブサイトに掲載されているのは、焼肉チェーン『叙々苑』が販売する高価な焼肉弁当と、生だれが付属した野菜サラダの写真。きっと中居さんは「何か力になれることはないか」と考え、忙しい日々で疲れている医療従事者を元気付けるため、弁当を提供したのでしょう。また、ウェブサイトには中居さんから提供された弁当を持つ医療従事者の写真も。マスク越しでも笑顔であることが分かります。中居さんは弁当の提供について、自ら言及していません。アピールをしない点にも、多くの人から称賛の声が上がりました。・中居さん、かっこよすぎる!こういう人間になりたい…。・素晴らしいお金の使い方。中居さんは自ら発信しないから、この話はもっと広まってほしい。・中居さんも、医療従事者の方々も、本当にありがとうございます!感謝と応援の気持ちがたくさん詰まった弁当は、医療従事者に安らぎを届けてくれたのではないでしょうか。[文・構成/grape編集部]
2021年07月31日バラエティ番組『中居大輔と本田翼と夜な夜なラブ子さん』(TBS系)で、MCを務める中居正広さんの発言が注目を集めました。2021年7月8日に、恋人との関係に悩む一般人の相談にのるという新企画『モヤモヤラブ子さん』が放送された時のことです。相談者は、東京都に住む24歳の女性。鹿児島県で家業をついだ恋人と遠距離恋愛中で、結婚するべきか別れるべきかで悩んでいることを告白しました。ほかの出演者たちがアドバイスを送る中、中居さんは「結婚は得るものもあれば失うものもある。全部は手に入らない」とキッパリ。そして、結婚について「幸せになる」というイメージがある風潮について、次のような意見を述べました。僕は「この人と結婚する、この人と幸せになる」っていう考え方じゃないんですよ。結婚してない僕がいうのもあれなんですけど。「この人と一緒にいても不幸でもかまわないな」と思える人と結婚したい。この人だったら、もし今後不幸なことがあったとしてもいられるって思った人と、僕は一緒になりたいなと思って、1回も結婚してない。中居大輔と本田翼と夜な夜なラブ子さんーより引用「この人と幸せになりたいではなく、不幸になっても一緒にいられる相手と結婚したい」と、自身の考えを語った中居さん。発言に対し、視聴者からはさまざまな声が上がっています。・ものすごい名言。・本当にそれ。既婚者だけど納得できる。・これはめっちゃ深い…。人生の悟りの境地にいたってる。結婚に対する価値観は人の数だけあり、正解や不正解があるものではありません。いろいろな状況と照らし合わせ、誰でもない自分自身が納得できる選択であれば、きっと未来はよりよいものになるはずです。[文・構成/grape編集部]
2021年07月10日「独立記念日なんですよ……パパの誕生日」ジャニーズ事務所を退所して丸1年。中居正広(48)が3月27日放送のラジオ番組『中居正広 ON&ON AIR』(ニッポン放送)で、6年前に喉頭がんで亡くなった実父・正志さん(享年79)の誕生日・4月2日が、ジャニーズからの独立記念日だと明かしたのだ。「昨年、中居さんが個人事務所『のんびりなかい』を設立した2月19日は、お父さんの命日でした。今年七回忌を迎え、『酒を飲むたびにいまも思い出す』と周囲に語っていました。夢にも頻繁に出てくるそうです」(制作関係者)没後1年のインタビューで、中居は実際にこう語っている。「夢にも出てきますよ。昨日、一昨日も出てきて、かなりの出演回数ですね。若い頃のお父さんが出てきたりもします」(『ザテレビジョン』2016年4月29日号)テレビ局関係者は言う。「中居さんは3人兄弟の末っ子。裕福ではないながらも、息子たちを必死に育てた正志さんを心から尊敬していました。中居さんが野球好きなのは、スポーツが得意だったお父さんの影響です」がん闘病中の病床で、「自宅の部屋に戻りたい」と語った正志さん。「亡くなる1週間前に中居さんは正志さんを連れて地元を巡る小旅行に出たそうです。幼少期を過ごした藤沢時代のアルバムを見ながら、キャッチボールをした壁など思い出の場所を撮影しつつ巡ったと聞きました。最期は自宅で、そのときの映像を一緒に見て、正志さんは眠るように天に召されたといいます」(前出・テレビ局関係者)■正志さんの部屋は中居にとっての“シェルター”正志さんが住んでいたのは、中居が’03年に購入した、都内マンションの最上階にある30坪ほどの部屋だった。「遺骨は中居家の墓のほか、父の部屋にも分骨しているそうです。父の愛用品の数々も、そのまま彼の部屋に残しているといいます。正志さんの死から6年が経過しましたが、中居さんは近しい人にいまだに『親父の部屋を処分する気はない』と話していると聞きました」(前出・テレビ局関係者)終活カウンセラー協会代表理事・武藤頼胡さんは言う。「故人の住まいや遺品をそのままにしておくことは、母子や夫婦の間で多いです。ただ、父親と息子というケースは少ないです」親子関係カウンセラーの横山真香さんは、「お父さんは今もいる」という感覚なのだろうと推察する。「ストレスの大きい生活を送る中居さんにとって、シェルターのような場所が必要ならば、それがまさにお父さまの部屋なのでしょう。素の自分に戻れる場所で、父を感じられる場所なのだと思います。七回忌を迎え、亡きお父さまと共存できている、いちばんいい状態を見つけたのかもしれません」野球を愛した父の部屋は、中居がいつでも帰ってこれる“心のホームベース”なのだろう。「女性自身」2021年4月20日号 掲載
2021年04月09日2021年3月3日に、お笑いコンビ『次長課長』の河本準一さんが自身のYouTubeチャンネルで明かした、中居正広さんにまつわるエピソードが反響を呼んでいます。「口止めされていた」と前置きした上で河本さんが明かしたエピソードは、中居さんの人柄が感じられるものでした。中居正広が若手のお笑いタレントにしていたこと『SMAPを語る』と題した動画の中で、解散したアイドルグループ『SMAP』の元メンバーそれぞれとの思い出話を披露していった河本さん。特にお世話になったというメンバーは中居さんだといい、いまだに思い出に残っているという出来事を明かしました。実は中居さんは、お古(洋服)をですね、若手の芸人さんにいつもプレゼントしてくれてた。中居さんが着てた服はいっつもこんなに高い服ですよ。我々が若手の頃は着れないような高いお値段の服ですよ。それをいっぱい持ってきてくれて、もうみんなで好きなの取ってって、履いてくださいって。いっつもやってくれたの中居さんは。どんだけ優しい兄ちゃんなんだよって。ものすごい面倒見がいいわけですよ。河本じゅんちゃんねるーより引用自身とは直接関係のない若手のお笑いタレントのことまで気遣ってくれる中居さんに、強く心を打たれたという河本さん。「本当にお世話になった」と、当時のことを感慨深げに振り返りました。ほかにも、木村拓哉さんや稲垣吾郎さんなど、元SMAPメンバーとの思い出を語った動画は反響を呼び、さまざまなコメントが寄せられています。・いつかSMAPが再結成してくれることを期待してしまう。・中居くんは、いい人オーラがにじみ出ているよね。・貴重な話が聞けてよかった!2016年に熊本で大規模な地震が起きた際には、現地で支援活動を行うなど、プライベートでの行動が話題となる中居さん。SMAP・中居正広が熊本の避難所で炊き出しに参加笑顔の対応に称賛の声河本さんの話を聞くと、中居さんが気遣いのプロであることが分かりますね。[文・構成/grape編集部]
2021年03月07日お笑いコンビ・次長課長の河本準一が3日、YouTubeチャンネル『河本じゅんちゃんねる』に出演。元SMAPでタレントの中居正広に“口止め”されていたという秘話をぶっちゃけた。この日公開された動画「【ジャニーズ】SMAPを語る。木村拓哉さんとプリクラを撮っていたら...する事がスーパースターでした!!!」内で、メンバーそれぞれのエピソードを交えながら、SMAPについて熱く語った河本。そのなかで、公私ともに「むちゃくちゃお世話になった」という中居のエピソードとして、「ここだから言う。実は、中居さんは、お古を若手の芸人さんにいつもプレゼントしてくれてた」と告白。「『俺のイメージが、“良いお兄ちゃん”みたいな感じになるじゃないか』と言われるかもしれませんけど……。これは中居さんから止められてたんですよ。『俺はそういうキャラクターじゃないから、言わなくていいよ』って」と、“口止め”されていたことを明かしつつ、「我々が若手のころは着れないようなお値段の服を、いっぱい持ってきてくれて。『みんなで好きなもの取っていって』って、いつもやってくれたの。どんだけ優しい兄ちゃんだよ。ものすごい面倒見がいいわけ」と、中居の行動に大感激したことを振り返った。ジャニーズ事務所の後輩たちにも、たびたび洋服のお下がりをプレゼントしている中居だが、河本は、「まったく関係がない若手の芸人のところに服を持ってきて、『みんな着て行っていいよ』って。本当によくしてくれたんです」としみじみ。自身の後輩のみならず、芸人のことも気にかけてくれる中居の人柄について、「場の空気も読めますし、本当にあの方は素晴らしい方」「SMAPのリーダーをやることは、とんでもないプレッシャーだったかもしれませんけど、中居さんだったからやれたんじゃないかな」と語っていた。
2021年03月06日お笑いトリオ・トンツカタンの森本晋太郎が23日、YouTubeチャンネル「おこたしゃべりチャンネル」に公開された動画で、番組で共演した中居正広の印象について語った。昨年12月25日に放送されたTBS系バラエティ番組『中居正広の金スマ クリスマススペシャル』に、総勢43人の人力舎芸人の1人として出演した森本は、「【#587】中居さんは大スター【おこたしゃべり】」と題して公開された動画で、同番組でのエピソードを披露した。森本は番宣用に集合写真を撮影し終えた際、中居が「こんなに集まる機会ないでしょ。俺抜きでみんなで撮りなよ」と言い、芸人のみならず、人力舎のマネージャーやスタッフといった裏方も集め、記念撮影を促したという。森本は「その後、中居さんが『俺も入れたバージョンを撮ってもらおうかな』って言って、おもむろにカメラマンさんの真ん前に立ちはだかるみたいな。それで、後ろの芸人たちが『うちら映らないじゃないですか!』『アップ過ぎますよ!』って言ったら、中居さんがにこっと笑って『ごめん、うそうそ。じゃあね。お疲れ様でした』って帰っていったの。大スターですよ」と振り返った。さらに後日談として、森本は仕事現場でマネージャーから袋を渡されたことを振り返り、「パッと見たら、人力舎全員で撮ったその写真を、額縁に入れた状態でもらったのよ。『これ事務所で作ったんですか?』と聞いたら、『いや中居さんが全員分』って」と明かし、「ヤバいでしょ? 全員分印刷して額縁で作ってくれたの」と述べた。そして別の日に事務所へ訪れたところ、巨大な『金スマ』の額縁があり、「『これもしかして…』って言ったら、(人力舎の社員が)『そう。これも中居さんが贈ってくれたやつ』って」と話していた。
2021年01月26日タレントの稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんの3人がレギュラーを務めるバラエティ番組『7.2 新しい別の窓』(ABEMA)。2021年1月1日の生放送では、お笑いコンビ『ロンドンブーツ1号2号』の田村淳さんがゲストとして出演しました。中居正広「3人に何かあったらよろしくね」アイドルグループ『SMAP』として活動後、『新しい地図』として再出発を果たした稲垣さん、草彅さん、香取さん。同番組内では、田村さんとともに『本音トーク』と題し、グループや仲間への想いを語り合いました。その中で、田村さんは元『SMAP』の中居正広さんとのエピソードを明かしています。中居くんは、あまりいってほしくないだろうけど、俺はいうね。せっかく3人に会えたから。中居くんとたまたま、帰る時に一緒のエレベーターになって。降りる時に「淳さ、3人に会ってる?」「何かあったらよろしくね」っていわれて。俺、『SMAP』のこと好きだから、エレベーターの中で泣きそうになったのこらえてたのよ。なんなの、このさり気ない言葉。7.2 新しい別の窓ーより引用田村さんから話を聞いた3人は「嬉しいです」「エレベーターの中で中居くんが話す姿が思い浮かぶ」と笑みをこぼしました。田村さんが語った中居さんの想いに、視聴者からはさまざまな声が上がっています。・『SMAP』が解散して数年。中居くんの想いに涙がこぼれました。・中居くんは『SMAP』のリーダーだったから、ずっと気にかけているのかな。所属は違っても、また『SMAP』がそろう姿を見たいです。・このエピソードを披露してくれた淳さんに感謝です。・中居くんの想いに対して、3人の照れたような表情がたまりませんでした。お互いに、家族みたいな存在なんだろうな。解散した後も、お互いに想いあう姿に心温まりますね。[文・構成/grape編集部]
2021年01月02日《中居さんありがとうございました#大阪#医療従事者#支援#焼肉弁当#おいしすぎた#中居正広#かっこよすぎ#感謝#新型コロナ#明日も頑張る#コロナに負けるな》12月24日のクリスマスイブの夜。大阪府の医療従事者のものとみられるSNSアカウントから、叙々苑の焼肉弁当の写真とともに、こんな投稿がーー。写真には、“元SMAP中居正広様より”の文言が書かれた紙も写りこんでいる。「中居さんが、新型コロナウイルスとたたかう医療従事者の方々のためにと、24日と25日の両日にいくつかの医療機関に焼肉弁当を差し入れたんです」中居の“クリスマスプレゼント”について、そう教えてくれたのは、中居に近い芸能関係者。「彼は5月にも、同じように複数の医療機関に、“中居正広”の名前で叙々苑の焼肉弁当の差し入れをしています。そのときも特に公式発表などをしたわけでなく、受け取った医療従事者たちがSNSなどで中居さんへの感謝の気持ちを投稿をして明らかになりました。今回のタイミングは、感染者が増大して医療が逼迫しているなかでクリスマスも関係なく勤務している医療従事者たちを支援したいという思いからでしょう」(前出・芸能関係者)中居本人は日ごろから“貧乏性”を公言し、自分の食事には「1日千円しか使わない」と話すなど無頓着。けれど、お世話になったスタッフに感謝をつたえるときや、チャリティのようなタイミングでは、大胆にお金を使うという。特に“弁当”は中居の差し入れの定番。「中居さんはレギュラー番組の1年の最後の収録のときに、スタッフに叙々苑など“お高め”のお弁当を差し入れをするのが恒例になっています。今年ももちろんやってくれました」(テレビ局関係者)それだけでなく医療従事者の方々に差し入れしたのと同じ12月24日には、ジャニーズの後輩たちにも……。「Kis-My-Ft2とSixTONESにも寿司弁当を差し入れていました。その日彼らはラジオで24時間のチャリティ番組のパーソナリティをしていたんですが、その現場に届いたんです。メンバーたちのテンションも上がっていましたね。チャリティへの意識の高い中居さんらしいですよね」(ラジオ局関係者)年の瀬の慌ただしいなかでひっそりとーー。中居のさりげない心遣いが多くの人の心を温かくしたに違いない。
2020年12月25日