今年、週刊女性のインタビュー取材に応じてくれたダチョウ倶楽部の上島竜兵さん「天国のいろいろな神様にイタズラしているんだろうなって」志村けんさんが新型コロナウイルスで死去してから2年。多くのバラエティー番組で共演したダチョウ倶楽部の上島竜兵さんは、週刊女性のインタビューで志村さんを追悼した。そんな上島竜兵さんの死去が、本日11日の早朝に報じられ、誰もが言葉を失っている。「あ、志村さんはもういないんだ」関係者によると11日未明、倒れている上島さんを家族が発見し、東京中野区の自宅から救急搬送されたが、11日午前1時に搬送先の病院で死亡が確認されたという。一部報道では自ら命を絶ったとみられるというが、詳細はまだ公表されていない。志村けんさんの追悼インタビューでは、死去から2年が経過するも、まだ「実感はない」と言い、笑を交えながら志村さんを懐かしむも、その目の奥の悲しみは隠しきれていなかった。「コント収録や舞台の稽古がないスケジュールを見ると、『あ、志村さんはもういないんだ』って思いますね」(上島さん)ダチョウ倶楽部(上島竜兵、肥後克広、寺門ジモン)は、2002年秋から『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)の正式レギュラーとして登場。さらには、2006年から始まる志村さんが主催し主演を務める舞台演劇『志村魂』の一員として、全公演に出演し続けた。志村コントの名バイプレーヤー。だからこそ、「志村さんがいない=コントがなくなる」と喪失感を隠せないでいた。志村さんとはプライベートでも親交が深く、「俺の彼女か」と言われるほど、上島さんは志村さんと行動を共にしていたという。「僕が学ばせてもらったのは芸というより、酒の飲み方とかクラブの女性との付き合い方(笑)。やりたくもないのに、志村さんの号令でホステスさんと同伴までして。クラブに着くと、『初同伴おめでとうございます』ってママたちから祝福されて、なんなんだよコレ!って」と、当時を懐かしんだ。志村さん死去後、多くを語らなかった上島さんだが今年1月、ラジオ番組『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』で、有吉が還暦を迎えた上島さんに、「志村さんが亡くなってもう1年半になりますけども、志村さん寂しくて“竜ちゃん寂しいよ”って天国で呼んでるんじゃないですか?」と冗談を言うと、上島さんは苦笑しながら、「俺は尊敬してるけど、ヤダよ!もし死んだとしても、そういうので死にたくない。呼ばれて死にたくないね」と語っていたばかりだった。芸能界では渡辺裕之さんが突然死し、衝撃が走る中での上島さんの死去。志村けんさんを“師匠”と仰ぎ、亡くなってもなお尊敬の意を示していた上島さん。「ヤー!」や「聞いてないよォ」「絶対に押すなよ!」などのギャグがもう聞けないーー。上島さんのご冥福をお祈りいたします。【悩みを抱えている方は厚生労働省が紹介している相談窓口をご利用ください】いのちの電話 0570-783-556(ナビダイヤル)/0120-783-556(フリーダイヤル・無料)こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556#いのちSOS(特定非営利活動法人 自殺対策支援センターライフリンク)0120-061-338よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)0120-279-338
2022年05月11日渡辺裕之さんと原日出子(2003年)またも悲劇が起きてしまった─。5月3日に俳優の渡辺裕之さんが自宅で亡くなっていたのだ。「死が公表されたのは翌々日の5月5日。妻の原日出子さんがお昼ごはんを作って渡辺さんを呼んでも返事がなく、地下のトレーニングルームに行ったら、そこで首をつって亡くなっていたそうです」(スポーツ紙記者)亡くなったとされる地下室は、渡辺さんの趣味が詰まった部屋だったという。「自宅を建て直したときに、地下室を自分の趣味スペースにしたそうです。そんなに広くはありませんが、トレーニング機材やドラムセットがあり、大画面テレビで映画を見ることができました。渡辺さんは、ここ最近、その部屋にこもっていることが多かったようです」(渡辺さんの友人)渡辺さんの自宅は神奈川県の閑静な住宅街にある。「3日の午後にパトカーが来て、警察官が出入りして不穏な雰囲気でした。泥棒でも入ったのかと思っていましたが、まさか渡辺さんが亡くなっていたとは……」(近所の住民)渡辺さんと原が結婚したのは1993年のこと。「原さんは1981年にNHK朝ドラ『本日も晴天なり』のヒロインでブレイク。人気絶頂の1983年に高校時代の同級生と結婚して1女をもうけるも、1987年に離婚しました。渡辺さんは1982年にデビューし、スポーツで鍛えた身体で肉体派俳優として活躍。『リポビタンD』のCMが有名ですね。ふたりは1990年にドラマで共演して交際が始まりました」(テレビ誌ライター)近隣住民が目撃した夫婦の姿原の娘は当時10歳。子連れ再婚だったが、渡辺さんはわが子のようにかわいがり、後に1男1女が生まれて5人家族となる。「2001年には『パートナー・オブ・ザ・イヤー』に選ばれました。原さんは2016年に出演した『徹子の部屋』で “キスやハグは当たり前”とアツアツぶりを公言。渡辺さんも折に触れて原さんへの感謝の言葉を述べ、SNSに奥さんの手料理の写真を上げていました」(同・テレビ誌ライター)映画でも夫婦役や、一緒にカレールーのCMに出演するなど共演も多数。まさに、おしどり夫婦として有名だったが、近所の人は少し違った印象を抱いていたという。「原さんが近所で買い物をすることはよくありましたが、いつも1人で、夫婦で一緒に歩いているところはあまり見たことがありませんでした」(前出・近所の住民、以下同)ふたりの生活スタイルは異なっていたようで、「渡辺さんはお子さんが小さかったころ、庭にプールを作って近所の子どもたちも呼んでくれたり、お祭りに参加して“ファイト一発!”と叫んでくれたりと地元に溶け込んでいました。一方で、原さんは親しい友人とワイン会を開くなどして楽しんでいたようですね」渡辺家では、定期的に自宅に友人を呼んでホームパーティーを開いていたのだが、「朝からテントを張るなどの準備をして夜10時ごろまで行っていたのですが、その常連さんたちが知る限り、積極的に動いていたのは渡辺さんだったようですね」おしどり夫婦としてのイメージが先行しがちだが、私生活ではお互いの趣味を尊重し、それぞれで楽しんでいたようだ。朝5時から1人でゴミ拾い渡辺さんは社交的な反面、ストイックな一面もあった。「子育てに適した環境を求めて都心から自然が多い神奈川の郊外に引っ越したそうですが、近くには車通りの多い幹線道路があって、分離帯へのポイ捨てが横行。それを見かねた渡辺さんは長年朝5時ごろから1人でゴミ拾いをしていました」(別の近所の住民)筋肉トレーニングは毎日欠かさず体形をキープ。『リポビタンD』のCMで共演した野村宏伸は、渡辺さんが完璧主義で熱い性格だったと振りかえる。「海外ロケの撮影はいつもハードでしたが、渡辺さんは撮影スタッフにアイデアを出すなど、リーダーシップを発揮していました。英語も堪能で、身体もガッシリ。そんな頼りがいのある男らしい人だったから、誰にも悩んでいる姿は見せられなかったのかもしれません……」渡辺さんと長年交流があったバイク店の店主は、友人の死を悲しみながら普段の人柄を振り返る。「多趣味で凝り性。カスタムした合計500万円以上のバイクをうちの店内に飾って知人に見せたりしながら、椅子に座って会話を楽しんでいました。僕を含めた知り合いを地方ロケや、テレビ番組の観覧に呼んでくれたり。一度、奥さんをウチの店に連れてきてくれたこともありました」最近はコロナ禍の影響で、仕事以外は家にこもりがちだったそう。「最後に会ったのは去年の10月。コロナで仕事が減ったと愚痴ったら、渡辺さんも仕事が減ってつらいけどお互い頑張ろうと言ってくれたんです。以前、奥さんの話になると“原の話ばっかで俺のファンはいないのか!?”と冗談めかして話していました」(バイク店の店主)「常に将来の不安があった」実際、昨年も渡辺さんの仕事は順調だった。「ドラマにも定期的に出演していましたし、これから公開されるものを含めて今年は6本の映画に出演。仕事が途切れることはなく、この5月からゴルフ番組でのレギュラー出演が決まっていました」(前出・テレビ誌ライター)しかし、以前からお金に関する不安は抱えていたようだ。「2005年に詐欺事件に巻き込まれ、同時に詐欺をしていた投資会社の広告塔だったと指摘されました。記者会見で事件について質問されると“定収入のない職業で、常に将来の不安があって、その不安がなくなればと思った僕がバカだった”と語っていました」(前出・スポーツ紙記者)亡くなる数日前、前出の近所の住民は異変を目撃していた。「自宅の近くで、うつろな目で道端に座り込んでいたり、立ち止まっていたり。今まではそんな姿は見なかったので、様子がおかしいなと思ってました」誰にも本心を語らず、地下室でひっそりと人生の幕を閉じた渡辺さん。悲しみの声は今も絶えない。【悩みを抱えている方は厚生労働省が紹介している相談窓口をご利用ください】いのちの電話 0570-783-556(ナビダイヤル)/0120-783-556(フリーダイヤル・無料)こころの健康相談統一ダイヤル 0570-064-556#いのちSOS(特定非営利活動法人 自殺対策支援センターライフリンク)0120-061-338よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)0120-279-338
2022年05月09日現場のバス停には花が。ベンチは狭く仕切りもあるので横になれない(事件直後に撮影)「びっくりしました。被告が亡くなったこともそうですが、あんな酷い殺人をしておきながら保釈されていたとは……」被告の自宅近くの住民はそう語った。’20年11月、東京都渋谷区のバス停でホームレスの大林三佐子さん(当時64)が、何者かに殴られて死亡するという事件が起きた。事件発生から5日後、現場近くの酒店の一人息子・吉田和人被告(48)が最寄りの交番に母親とともに出頭。「犯行前日に“お金をあげるからどいてほしい”と頼んだが、断られた。腹が立ったので、石を詰めたペットボトルで殴ったが、こんな大事になるとは思わなかった」と供述。吉田被告は傷害致死の疑いで逮捕されたのだ。被告の一家は祖父母の代から続く老舗酒屋で、マンションやアパートも所有する資産家でもあった。被告宅の近隣住民によると、「彼は中学校で不登校になって以来、ひきこもりになってしまった。20歳ぐらいで一度就職したが、すぐに辞めて……。それでも事件を起こす数年前、常連さんへの配達をしていた父親が亡くなって一人で酒店を切りもりする母親の手伝いはしていた」景観を壊す“異物”に見えたのかそんな被告は近所ではちょっとした有名人だったという。「実家の2階にひきこもって、そこから見える景色に特異なこだわりがあった。近所の人がパラボラアンテナを設置したり、自宅のシャッターなどを替えたりすると、文句をつけていたそうですから。もしかしたら、バス停で寝泊まりする大林さんが景観を壊す“異物”に見えたのかもしれない」(社会部記者)吉田被告は’20年12月に起訴され、来月17日に初公判が開かれる予定だった。てっきり拘置所で公判を待っていると思われたが、実は保釈されていた。「どうやら今年の3月ぐらいに保釈されていたようですね。反省の色も見せていたし、逃亡する恐れもなかったので、そういう判断になったんでしょう。ですが、人目があるから、外にも出られなくてまたひきこもっていた」(被告の知人)そして4月8日の午前中、被告が近所で倒れている姿が発見され、間もなく死亡してしまう。近くのビルから飛び降り自殺を図ったとみられている。被告宅を訪ねると、母親は出てきてはくれたものの、両手を合わせてお辞儀をしながら、「申し訳ありません……」と呟くのみだった。母親の銀縁の眼鏡の奧の目元には、クマのようなものが見えた。一方、被害者が亡くなったバス停は事件後、多くの女性が献花する場所となっていた。「亡くなった大林さんは若かりしころ、アナウンサー志望でしたが、夢が叶わず、地元の広島で結婚式の司会業などをやっていました。5年ほど前に上京して、スーパーなどでバイトをして生計を立てていたそうです。だが、その仕事を失いホームレスになって、あんなかたちで殺されてしまった。非業の死を遂げた大林さんに多くの女性たちが同情、共感しているんだと思います」(ウェブメディア記者)ありし日の大林さんを見たことがある住民は、彼女の印象について、「事件の5か月ほど前から、大林さんが夜中1時になるとバス停のベンチに座って朝方まで寝ていました。女性だから安全面を考えて、その場所を選んでいたんじゃないかな」身長150センチメートルぐらいだった大林さんは比較的、小綺麗な服装をしていたという。人の助けはいらない「服装も靴も毎日替えていて、スカーフをしているときすらも。だから最初はホームレスだとは思わなかったんです」(同・住民、以下同)ときどき声をかけてみると、「“大丈夫ですか”“食べ物をあげましょうか”“毛布はいらないですか”と言っても、返事はいつも決まって“いえ、大丈夫です”と。人の助けはいらない、迷惑をかけないといった、凛とした強いものを感じました。生活保護も受けられたでしょうが、それも嫌だったんでしょうね」家族にも、自身の困窮ぶりをいっさい伝えていなかったという大林さん。吉田和人被告によって虫けらのように命を奪われてしまったが、矜持を持って生き抜いたその姿は大林さんの“遺言”となって人々の心に生き続けている。雨の中、バス停脇には2束の献花があった。「あれは、今回、自殺と思われる被告の死亡報道を知った方が、それを大林さんに報告するための献花と聞きました」(近所の住民)だが、被告が死亡したことで、この事件の真相は永遠に閉ざされてしまった……。
2022年04月16日竹田淳子さん撮影/渡邉智裕父親はヤクザの組長、母親はストリッパー。家庭に居場所はなかった。13歳で覚醒剤に溺れ、どん底まで転落。刑務所を出た後、ほとんど一緒に暮らせなかった息子のひと言で更生を誓い、“支援者”としての道を歩み始める。「命さえあれば、いくらでもやり直せる」 と証明するために―。4年間の服役経験「昨日の夜から入居者さんが帰ってこなくて、電源は切れたまま、LINEも既読にならない。一睡もできなかったんですよ……」取材の日、竹田淳子さん(51)は、スマホの画面をしきりに気にしながら現れた。竹田さんは自立準備ホームの寮母を務めている。刑務所や少年院から出所後、帰る家のない人々が自立できるまで一時的に住むことができる民間の施設だ。現在の入居者は外国籍の未成年の少女。薬物や窃盗の罪で、少年院を経て、保護観察中だという。「ウチに来て3か月になりますが、無断外泊は今回で2回目。今日は保護司さんとの面談が入っていたのにドタキャン。さっき慌てて電話で謝り倒したところです。これ以上、保護観察所の心象を悪くしたら、ひとり暮らしもできなくなってしまうから」少年院に入所中、高卒認定試験に挑戦し、合格。出所後は、竹田さんの目の前で昔の仲間たちの連絡先をみずから消去してみせた。そんな少女を信じ、竹田さんは知人の運営するカフェでアルバイトができるよう頼み込んだ。勤務態度はまじめ。カフェで働きながらお金を地道に貯めていた。海外のラッパーに憧れ、ダンスを習いたいと夢も語っていた。「私にとっては、まだ3か月。彼女にとってはもう3か月頑張った……なんですよね」寂しそうにつぶやく竹田さん。ひと晩中、心配していたのだろう。疲労が滲む表情で力なく笑った。◆◆◆2019年8月、竹田さんは一般社団法人『生き直し』が運営する自立準備ホームの女性寮の寮母に立候補した。出所者のほか、執行猶予や罰金刑も含む有罪判決を受けた人、不起訴などで釈放され帰住先がない人も対象にしている。個々のケースにもよるが、平均して2~3か月以内に仕事を見つけるなど自立の準備をサポート。1人あたり1日1000円の食費が法務省から支給されるという。これまで埼玉県にある竹田さんのホームには6人が出入りしてきた。「最初の入居者は、統合失調症の40代の女性でした。ほかの施設で断られて行くところがなく、クリスマスイブの夕方にやってきました。もしウチが断っていたら、ホームレスになるしか……」それがどれだけ心細いことか、身をもって知っていたからこそ、受け入れようと決めた。だが、年明けにホームで暴れ、警察に通報せざるをえなかったという。2人目は、傷害事件を起こして保護観察中の20代女性。ホームで包丁を持ち出し、事件を起こす危険を感じて、またしても警察に通報した。3人目は、薬物所持で執行猶予中の20代の女性。売春で生活費を稼いできたため、働いた経験はなかった。「身体のあちこちに刺青があり、付き合う男はホストか半グレばかり。麻雀店でバイトしても“かったるいから”とすぐ辞めてしまいました」妊娠して寮を卒業したが、今も彼氏とケンカをするたび連絡が来る。ホームを出た後も、“真の自立”を願い、見守り続けるケースもある。「10人に1人、生き直しできればいいほうです。女性は特に厳しいですね。金銭面や精神面で男性に依存していた人の場合、出所後にゼロから生活力をつける必要があります。その弱さに付け込んで再び犯罪の道に引きずられ、搾取される標的にもなりやすい。何度も騙されて“やっぱり私は幸せになれない”と自己否定感が強くなると、“何も考えたくない” “刑務所の中のほうがラクだ”と思ってしまうんです。私もそうでした」竹田さん自身も詐欺未遂と覚醒剤取締法違反で34歳から4年間、刑務所に服役した経験を持つ。「私は出所後にアパートの部屋を借りることができず、ホームレスを経験しました。ビルの階段で一夜を明かしていたら通報されて。警察官に覚醒剤をやっているのではないかと疑われ、留置されたこともありました。していないのに!」刑務所を出所した後こそが地獄─。どんなに心を入れ替えようと、風当たりは強く、一度罪を犯した者への差別や偏見は容赦ない。だからこそ、竹田さんは「更生」への意欲が削がれる前にホームで「生き直し」のきっかけをつくりたいと必死なのだ。「出所後にうちのホームで問題を起こして、また刑務所に入ることになれば、次に出てきたときは、一度関わった私とはコンタクトがとれない。ただでさえ少ない“味方”が減るんですよ。もったいないと思います」親身になって心配をしても、なかなか思いは届かない。それでも、更生に向かう人の気持ちに寄り添える自負がある。「この仕事は、今の私にできる天職ですね。あ、あの子から連絡きました!“ごめんなさい”って(笑)」スマホの画面に目を落とす竹田さんの顔がパッと華やいだ。無断外泊していた外国籍の少女からのLINEだった。前科者に厳しくしない理由「うまくいかないことも多いけど、ちゃんとホームから卒業できた人もいるんです」竹田さんが紹介してくれたのは、三浦加奈さん(仮名=51)。私立の中高一貫校で教師をしていたが、父親をがんで亡くし、母親の介護のために30代で辞職。三浦さんの人生は一転した。「自分の意思で決めたことなのに、ものすごい挫折感を味わい、19歳のころから悩んでいた摂食障害が悪化して……万引きを始めました」パン1つから始まった万引きも、気がつけば大きなバッグを担いで洋服や靴やバッグまで盗む重症のクレプトマニア(窃盗症)に陥り、現行犯逮捕。懲役2年の実刑を終える目前、一度は身元引受人を申し出た姉が辞退。唯一の身内に縁を切られてしまう。民間の自立準備ホームはどこも満室で『順番待ち』だったが、依存症治療を担当していた精神保健福祉士の紹介で竹田さんのホームへの入居が決まったという。そこでの生活は三浦さんの想像とはまったく違っていた。「竹田さんは温かい笑顔をされる方だなぁというのが第一印象。同い年ということもあり、親しみやすかった。おそれ多いんですけど、お友達と2人暮らしをさせていただいているような。刑務所のようにルールがたくさんあるのかと思ったら、夢のような条件でびっくり。韓国風焼き肉とか、きのことたまごのスープとか、栄養がありそうなものを作ってくれて。食事の時間は楽しみのひとつでした」規則が厳しいホームもあるが、竹田さんは、入居者に細かいルールを強制しない。いずれは1人で世間の荒波を乗り越えていかなくてはならない。自分の甘えに負けてはいけない。だから自主性を尊重するのだという。竹田さんと何げない日常を過ごす中で、「自立」のコツを教わったと三浦さんは振り返る。「かつての私は、“摂食障害です”と言い訳して、自分のことができていなかった。0か100で、思いどおりにならないと自虐的に自己否定する。誰かに何かをしてあげたら、見返りを求めて、他人の評価が価値基準になっていました。でも、淳子さんはどんなに忙しくても優先順位をつけ、取捨選択して、息抜きも上手。見返りを求めず、人のために動ける。その堂々とした姿を見て、私も自分で自分を評価できるようになりました。それが大きかったですね……。ちゃんと私を信じてくれた淳子さんに応えるのがせめてもの感謝。そんな気持ちが私の中に芽生えました」三浦さんは、1か月でホームを卒業。週に2度仕事をして、ひとり暮らしをしている。通信講座で「児童心理カウンセラー」の資格を取り、困っている子どもに寄り添いたいと夢への一歩を踏み出した。更生への厳しい道のりはまだ始まったばかりだ。ホームを出る日、竹田さんは笑顔でこう見送ったという。「いつでも来ていいんだよ。1人で寂しかったら、ご飯を食べにおいで」竹田さんが所属する一般社団法人『生き直し』の代表・千葉龍一さんは「困ってる人を放っておけないタイプ」だと語る。「真冬に出所したおばあちゃんが、矯正施設から放り出されそうになったところに出くわしたとき、“ここから出たら死んじゃう!”と矯正施設の人に掛け合っていた姿が忘れられませんね。入居者と下の名前で呼び合うなどコミュニケーションのとり方もうまい。でも、怖いもの知らずで、困った人のためならどこへでも行ってしまうから、ハラハラすることもあります」竹田さんの支援活動は、公益社団法人『日本駆け込み寺』のボランティア活動から始まった。毎週土曜日夜8時から新宿歌舞伎町で、相談窓口の電話番号を書いたティッシュを配って歩いた。やがて個別の相談をLINEでも受けるようになると、少女たちからSOSが届いた。竹田さんは彼女たちを救うためなら、大胆な行動も躊躇わなかった。少女を性虐待から守りたい!「お前は誰だ!! 帰れ!!」「お父さんが怒ることじゃない。怒りたいのは、娘さんのほうだと思いますよ」怒りに震える父親に対して、竹田さんは冷静だった。「とにかく、娘さん妊娠しているから、堕ろさないと間に合わなくなります」実の父親から性虐待に遭い、妊娠6か月だった17歳の少女の自宅に乗り込むと、父親は竹田さんの靴を玄関の外に投げ捨て、殴りかかろうとする勢いで拒絶した。「あなたを告発しようとしてるわけじゃない。でも次、娘さんに何かしたら警察に訴えます」竹田さんは彼女を救うことだけを考え、説得に臨んだ。「少女から最初の連絡をもらったのはツイッターのダイレクトメッセージ。“交通費を払うので、カウンセリングに来てください”と。“未成年だからお金はとらないよ”と返信して事情を聞きました」母親が出ていった小学2年生のころから性的虐待が始まった。中学生になり、少女はそれがレイプだと初めて知った。そして妊娠─。事情を知った竹田さんは、じっとしていられず自宅に乗り込んだ。「父親に二度と手を出さないと約束させ、環境を変えることはできました。でも、堕胎の段取りを進めていた矢先、父娘ともにコロナに感染して、自宅で出産してしまいました。出ていった母親に連絡を取り、事情を伝えて、今は母親と2人で子どもを育てながら生活しています」一刻を争う事態だった。彼女を性虐待から救えたものの、「もっと早くSOSを受け取れていたら……」との思いが込み上げる。「父親は小学校の教師で、“いい先生”と呼ばれていることを知って愕然としました。実の父親から性被害に遭った例は、報道されないだけで山ほどあります」ほかにも母親の彼氏にレイプされた少女から相談を受け、竹田さんが母親に手紙を書いて男と別れさせたこともある。性的虐待の相談は、今も数多く寄せられ、竹田さんはそのたび、怒りに震えている。「私、魔女になりたいんですよ。こういう男たちのチンコを爆発させる薬が開発されればいいと本気で思う!」そう話す竹田さんにも、長い間、人に話せずにいた壮絶な過去があった─。性被害の末、母に捨てられて1970年、暴力団員の父親とストリッパーの母親との間に竹田さんは生まれた。「生まれてすぐに生存率50%の難病・結核性髄膜炎にかかっていることがわかり、入院。生死の境を彷徨いました」退院後、預けられたのは父方の祖父母の家だった。「母は全国を旅するストリッパーだから会えても月に1度くらい。父は刑務所を出たり入ったりしていて、ほとんど会えませんでした」小学校の連絡網に両親の仕事を書く欄があり、父が暴力団関係者で母がストリッパーであることが知れると、学校では壮絶なイジメに遭う。1年生から不登校になった。「小1のとき、和式のトイレの掃除をさせられ、汚い水の中に頭を突っ込まれました。悲しくて家にあった置き薬を全部飲み、自殺を図ったこともありました。小2になって、勇気を出して学校に行くと、クラスメートに教科書を隠されて。“忘れました”と先生に言うと、冷たい廊下に正座させられました。トイレに行きたくなり先生に言っても“我慢しなさい”と叱られ、粗相して。みんなに笑われたときは、生きた心地がしませんでしたね」それ以来、祖父母は「学校に行かなくてもいいよ」と家庭教師をつけてくれた。孫に甘い祖父母だった。小学4年生のとき、両親は離婚。ストリッパーを引退した母親との同居生活が始まる。「母が呼び寄せてくれたときは、本当にうれしかった。母は華やかできらびやかでアイドルみたいで憧れていました。当時は“私も母の後を継いでストリッパーになりたい”と密かに思っていました」しかし、母との同居生活中、性虐待に遭う。「ヒモらしき男が母のいないときを見計らってやってきていたずらされたときはショックでした。ヒモにぞんざいな態度をとると“なんで愛想よくできないの” “パパになるかもしれないんだよ”と言われ、“なんでこんな男といるんだろ。お母さん早く気がついて”と心の中で叫んでいました」そしてある日、母親が突然失踪してしまう。事情を知らない竹田さんは家で不安を抱えたまま数日間を過ごした。「帰りが遅くなったり、帰ってこない日もあったので、最初のうちは気がつきませんでした。ところが、怖いおじさんが家に来るようになり、母が借金取りに追われていなくなったことを知りました」母親はストリッパーを引退した後、劇場の経営に携わったが、火の車。周囲からお金を借りて、蒸発した。「最初は母がさらわれたんじゃないかとか、母はご飯をちゃんと食べてるのか、とか心配していたんです。でも、日がたつにつれ“私は捨てられたんだ” “お母さんに愛されていなかったのかな” “大病したのも、いじめられたのも生まれてきてはいけない子だからかな”と悲しい思いがこみ上げてきました」1人になった竹田さんは、母親の妹夫婦の家に預けられた。しかし、子育てをしたことのない夫婦は、反抗的な態度をとる竹田さんにどう接していいのかわからず、飼っていた猫ばかり可愛がる。竹田さんのイライラは頂点に達しつつあった。「私は母に捨てられたかわいそうな子ども。なのに、みんな私を無視する。もっと私を見て、私と喋って。そんなやり場のない怒りから、私は飼っていた猫を高いところから落としてしまいました」取り返しのつかないことをしてしまった竹田さんは、家を追い出され、親戚中をたらい回しにされた。暴力事件を起こし、教護院(現在の児童自立支援施設)に預けられたのは小学5年生のとき。施設でも荒れに荒れ、問題を度々起こした。覚醒剤、レイプ、自殺未遂中学1年のとき、再婚をきっかけに迎えにきたのは父親だった。「暴力団の組長になっていた父は、親分として一家を構え、違法なポーカーゲーム店も何軒か経営して羽振りもよかった。家と棟続きの事務所では賭場が開帳され、丁半博打に勝ったお客さんからお小遣いをもらえた。私は毎晩のように友達を引き連れて、渋谷のディスコまでタクシーを飛ばして遊びに行きました」横浜市内から10万円のお小遣いを握りしめて渋谷へ。中1にもかかわらず、ディスコだけでは飽き足らず、ホストクラブに入り浸ることもあった。「ファミレスに行ったら、友達が遠慮するから“なんでも好きなもの食べな”と言ってメニューを上から下まで全部頼む。ホストクラブでは、財布ごと渡してお会計をする。みんな私がお金を持っているからついてくるのに、偽物の優越感に浸っていました」初めて覚醒剤に手を出したのも中学1年のときだ。事務所に行くとパケに入った覚醒剤が無造作に置いてある。ある日、ひとつくすねたら、若い衆に「やったら死んじゃうんだよ」とたしなめられた。しかし、組長の娘は一歩も引かなかった。「くすねたのがわかったら、あんたが殺されるよ」そう脅して、初めて身体に入れた。「ほんの好奇心から手を出しましたが、打った瞬間に両親に会えなかった悲しみや、いじめられたこと、母に捨てられたこと、母のヒモにいたずらされたことなど、嫌なことを全部一瞬で忘れられた。すごい薬だと思いました」竹田さんは、あっという間に覚醒剤に溺れ、依存─。転落の始まりだった。「中2のとき、不良仲間にレイプされ妊娠していることがわかりました。堕ろしたくても親を連れてこいと言われる。でも、そんなこと、口が裂けてもウチの両親には言えない。衝動的に家にあった漂白剤を飲んで自殺を図りました」一命はとりとめたものの、胃洗浄の衝撃で赤ちゃんは流産。2週間ぶりに家に帰ると、両親は捜索願を出すどころか、「おかえり」の言葉ひとつかけてこなかった。「私が自殺するほど悩んでいたのに、私の姿が見えているのかな?と……。この家にも居場所がないと思って、高校を2週間でやめ、家を出て水商売の世界に入りました」継母の紹介で住み込みのパブクラブで働き始めた。16歳のとき、店の関係者と結婚。夫は束縛が激しく、何度も暴力を振るわれた。その夫から逃げるため、今度は店舗型の風俗店で働き始めた。竹田さんにとって風俗の世界は「私の居場所」と思えるほど居心地のいい場所だったという。「風俗はお客さんが私を求めて来てくれる、私を必要としてくれる。すぐにお金になるし、頑張れば頑張るほど自分の価値が上がる世界に私はやりがいを感じるようになっていきました」もう親戚をたらい回しにされたり、束縛や暴力に苦しめられることもない。ヘルスを皮切りにソープやデートクラブなどの風俗店で働くようになり、2度目の結婚。やがて、子どもを身ごもったことに気がつく。「もう妊娠はできないかもしれないと思っていましたから、一切ドラッグをやめてこの命を育てていこうと心に決めました。覚醒剤依存の夫婦の間にまともな子どもが生まれるのか、不安で仕方なかったですね」22歳のとき、一粒種の旭彦さんを無事に出産。この子のために生きていこうと誓った。しかし2番目の夫は薬物依存から抜け出せず、家の中で花火を何発も打ち上げて自宅が全焼。乳飲み子を抱いて竹田さんは裸足で逃げ出した。離婚を決め、ひとり親になると、昼も夜も働き詰めの生活が待っていた。竹田さんは疲労をごまかすように、また覚醒剤に手を出してしまう。「早朝から風俗で働き、夜遅くまで水商売で働く生活は睡眠もまともにとれず、気づけば、子育ての忙しさを理由に覚醒剤を打つようになっていました」28歳のとき、3度目の結婚。夫婦そろって薬漬けの日々が続いていたある日、職務質問され、覚醒剤不法所持で逮捕。初犯のため執行猶予がついた。だがその矢先、2人は中国窃盗団の片棒を担ぎ、詐欺を手伝ったことで現行犯逮捕。34歳のとき、笠松刑務所で懲役4年の刑に服することになった。前科者への冷たい仕打ち刑務所の中で過ごした4年の間に、竹田さんは病を発症した。腹痛と出血に苦しみ刑務官に訴えたが、「詐病でしょ」と言って取り合ってもらえなかった。半年後、懲罰になっても構わないと思った竹田さんは、「検査しろ!」と刑務官につかみかかった。結果は、子宮がんで全摘出。帰りの車の中で泣く竹田さんを見て、刑務官は、「嫌だったら、こんなとこ来なきゃいいんだ」と吐き捨てた。医療刑務所に移送され、手術と治療を終えた半年後、4年の刑期を終えて出所。待ち受けていたのは厳しい社会の現実だった。「地道に昼の仕事をしないと“普通の人じゃない”という感覚があって。やり直そうと思って、スーパーのレジ打ちのアルバイトを始めました。でも、1か月たったころ、店長から“隠していることがあるよね。前科あるでしょ。そういうのウチいらないから”と突然言われてクビになり、バイト料ももらえませんでした。仕事にも慣れて、顔見知りのお客さんができてきたころで……悔しかったですね。生き直そうとしても、働かせてもらえない……愕然としました」その後、クラブでママの仕事を始めた。水商売に戻っても、覚醒剤や犯罪には手を染めたくないとの思いで、仕事は慎重に選んだという。6年後、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」に転身。占い師に弟子入りし、勉強も始めた。友人の佐野さん(仮名=53)が当時を振り返る。「出所後に知り合ったのですが、自分のことよりも人のために何かをするとなるとすごいエネルギーが出る人でした。“仕事は人を喜ばせること。その喜びを得るチケットを私から買ってもらった。だから、私は頑張る”と言っていたことをよく覚えています」仕事が波に乗ってくると、竹田さんは服役中の夫と離婚。夫の詐欺事件に加担した罪を償うため、弁護士を通して弁済を申し入れた。「ヤクザの世界では“夫に言われたことはやるのが当たり前”で、善悪の判断がつかなくなっていた。すごく後悔しています。ただ、弁済を申し出ても“気持ちが悪い”と受け取らない方もいて……。服役したから、罪を償って終わりだとは思っていません」新たな一歩を踏み出した矢先、摘出した子宮がんが卵巣に転移していたことが発覚。再び試練に直面する。息子が語る、母への想い「どうして、こんなつらいことばかり起きるのか……」竹田さんは自分の人生を呪った。唯一の心残りは、ひとり息子の旭彦さんのことだった。出所後、息子に会いに行き、「お母さん、もう長くないかもしれない。ごめんね」と詫びた。中学生になっていた息子は、ただひと言つぶやいた。「長生きしてな」竹田さんはわが耳を疑った。「“えっ、私長生きしていいの?”と……。自分の存在を肯定された気がして、じゃあ、しっかり生き直そう。覚悟を持って生き直そうといった思いが湧き上がってきました」この息子のひと言が、本気で生き直すきっかけを与え、竹田さんは、少女たちの相談事業や自立準備ホームの寮母など「支援活動」に精を出していく。息子の旭彦さんは母親をどう思っているのだろうか。「僕にとって母は、たまに帰ってくる人で、世間でいう“単身赴任中のお父さん”みたいな感じでした。実の父親と暮らしていましたが、まわりの友達もひとり親が多く、みんな家族のように育ちましたから、寂しさはありませんでしたね。小3のときに一緒に暮らした時期があり、楽しかったことを覚えています。僕は朝が苦手で、毎朝母にフライパンを叩いて起こされたのが思い出かな(笑)」現在、29歳の若さでリフォーム会社の社長を務める旭彦さん。「グレずにまっすぐ育ったことが不思議……」と母親である竹田さんが漏らしていたことを告げると、こう笑い飛ばした。「中学生のとき、付き合った彼女のお父さんが配管工で、住み込みで働き始めたんです。その職場が昔気質の超スパルタ教育!仕事が厳しすぎて、グレる暇もありませんでした。この師匠のおかげで誰よりも早く一本立ちすることができました」中学2年生のとき、長く会えずにいた母親から一通の手紙が届き、刑務所に入ったことを知ったという。《会えなくなってごめんなさい》そう手紙に綴った竹田さんは、「私を捨てた母親と、自分も同じことをしている」と猛省していた。「私は母が借金取りに追われ失踪したときに“捨てられた” “母に愛されていなかった”と思い、母のことを恨みました。ところが息子は私が刑務所にいたときも“なぜ?”と責めず、恨み言ひとつ言わない。そんな息子を見て、私も母を恨んではいけないと思うようになりました」2019年11月、数えで50歳を迎えた竹田さんは、生前葬を行った。生きているうちに、出所後に出会った人々へ感謝の気持ちを伝えたい。そんな思いから、誕生パーティーも兼ねて開いたという。会場にはおよそ80人の友人が集まった。喪主を務めた息子の旭彦さんが挨拶に立ち、「母の子どもに生まれてよかったと思います」と話すと、竹田さんは大粒の涙をこぼした。旭彦さんはその日のことをこう振り返る。「出所後にたくさんの人と出会って、母のために集まってくれるって……それだけ今の母は愛されてるってことじゃないですか。それが、すごいことだなと思って。薬物で捕まっていたような人がちゃんと立ち直れた。そこを尊敬していますね」旭彦さんの誕生日には、毎年「生まれてきてくれてありがとう」のメッセージが母親から必ず届くという。「黒い世界には戻れない」現在、竹田さんは、風俗店で働く女性の相談に乗る「ラブサポーター」の仕事や、占い師の仕事で生計を立てる傍ら、自立準備ホームの寮母や相談事業もこなし、全国で講演会も行っている。今年1月、神奈川県・横浜市で竹田さんの講演会が開かれた。非行少年や子どもの支援活動に携わる多くの人が、竹田さんの言葉に耳を傾けていた。「どん底まで落ちても命さえあれば、いくらでもやり直すことができる。今朝起きられたこと、ご飯を食べられたこと、そんなことにも感謝して生きていけたら幸せ。そう思える人を1人でも増やせるように、この仕事に携わっていけたらと思っています」元受刑者で、現在は出所者の支援に携わる30代男性は、講演会の感想をこう話す。「自分も虐待を受けて育ち、施設生活が長かった。ケンカが原因で少年院に入った経験もあります。出所後、社会に出ていくことがいちばん大変というところに共感しました。味方になってくれる人がいたら、その人を裏切らないために、自分もちゃんと生きようとまじめになれる。僕もそんな存在になりたいですね」竹田さんが講演会で必ず、投げかける言葉がある。「みなさん、私と同じ環境で生きてきたら、私のようにならない自信はありますか?」前科者をひと括りに“自業自得”と切り捨てず、罪を犯す前の境遇にも目を向けてほしい─そんな思いが込められている。「黒歴史を語ると、批判されるし、最初はしんどかった」と前置きし、竹田さんは罪を犯した過去を赤裸々に語る理由を話してくれた。「今を見てほしいんです。過去のことに囚われるだけなら、前に進めない。私は私の黒歴史を変えたい。禊というか、白い修正ペンでちょっとずつ白い面を多くして、生き直せることを証明するために話しているんです。真っ黒を真っ白にすることだってできると。だから黒い世界に戻ることは絶対できないんです」その言葉には、いまだ竹田さんも「更生」の最中であるような気持ちがうかがえた。出所者を自立準備ホームに迎え入れるたび、「竹田さんを裏切れない」と語り、自立していく人が1人、また1人と増えていく。そのたびに、「私もこの人たちを裏切れない」という竹田さんの誓いも強くなっていく。先を歩く、生き直しの先輩として─。【個人相談窓口】相談できる相手がいない方、苦しくなったらツイッターからDMください。竹田淳子@lovesapojt1101〈取材・文/島 右近〉しま・うこん ●放送作家、映像プロデューサー。文化、スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材・文筆活動を続けてきた。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』(竹書房新書)を上梓。
2022年03月05日神田沙也加さんまさに“悲劇”が起こってしまったーー。12月18日、歌手で女優の神田沙也加さんが、北海道札幌市内にあるホテルから転落し、他界。35歳だった。■亡くなる前日の様子「神田さんは18日の昼ごろ、滞在していたホテルの14階の屋外スペースで倒れているところを発見され、緊急搬送されました。近隣の病院で治療を施されましたが、そのまま……。彼女の宿泊していた部屋は20階以上の高層階だったことから、自室から14階まで転落したと思われます。警察は“飛び降り自殺を図った可能性もある”と、捜査を進めています」(スポーツ紙記者)この日、自身が主演を務めるミュージカル『マイ・フェア・レディ』の札幌公演に出演する予定だった神田さん。「正午に開演する昼公演の直前まで連絡がつかなかったため、当日はダブルキャストで主演を務める朝夏まなさんが急遽代役を。スタッフさんたちが、何度も彼女に連絡を取ろうとしてもリアクションがない状況で、みんなかなり慌ててしまって……。その後、スタッフや出演者にも“神田さんが危険な状態にある”ことが伝えられました。公演まっただ中のことだったのでみんな動揺しきり。亡くなる前日までいたって元気な様子だったのに、どうして……」(公演スタッフ)神田さんにとって’21年は、芸能生活20周年という記念すべき年だった。過去のインタビューでは「芸能生活のターニングポイントになったほど思い入れの強い作品」と語っていた『マイ・フェア・レディ』。その公演中に起こった悲劇に、多くの人々が絶句している状況だ。■大きなダメージを与えた出来事「もし彼女が自ら飛び降りたということであれば、首をひねるというか、あまり理由が思い浮かばないんです……。確かに、神田正輝さんと松田聖子さんの長女ということで、’02年に歌手デビューしてからはずっと“大物両親の2世”として注目され、大きなプレッシャーを抱えていました。一時期は“芸能界を引退したい”とまで話していたんです。しかし、周囲から“辞めるのはもったいない”と説得され、芸能活動を続行。その後は圧倒的な歌唱力を生かしてミュージカル界で活躍し、“松田聖子の娘”ではなく、今では“神田沙也加”として評価されていたんですよ」(芸能プロ関係者)その実力が世間から一気に認められたのが’14年に公開されたディズニー映画『アナと雪の女王』で主演のアナの日本語吹替えを好演したこと。それからも数々の有名ミュージカルに出演し、仕事は順調そのものだった。だとすれば、私生活に何か異変が起こっていたのか?「’17年に結婚した俳優の村田充さんとは約2年で離婚。子どもが欲しかった村田さんに対して、あまり前向きではなかった神田さんとの価値観のずれが大きな原因だったそうです。でも、離婚後はいい友人関係で、時折食事するなど定期的会っていたんですよ。村田さんが神田さんにあげた犬を、今でも可愛がっているほどでした。当時、ジャニーズJr.だった秋山大河との不倫疑惑も報じられてしまった神田さんですが、変わらず笑顔で元気に仕事をしていました。というのも、彼とはずっと同棲生活を続けており、何なら村田さんにのろけるくらいラブラブでしたから」(同・芸能プロ関係者)私生活も順風満帆だった神田さん。しかし最近、“相方の異変”を目の当たりにしてしまったという。「そのことが彼女の心に大きなダメージを与えていた」と明かすのは、あるレコード会社関係者。■相方が語っていた“希望”「神田さんが亡くなるちょうど3か月前、『ALICes(アリセス)』という音楽ユニットでコンビを組んでいた歌手の黒崎真音が、インターネットで配信していたライブ中に倒れてしまったんです。救急搬送されて『硬膜外血腫』と診断されて緊急手術し、当面は療養中のため、ステージ復帰はまだ遠い。年齢が1歳差の2人は親友と言えるほど仲が良く、プライベートでもお互いを支え合う関係だったようです。神田さん本人も“本当のきょうだいみたい”と周囲に話すほどでした」黒崎が搬送された際、神田さんは自身のツイッターで、《出来るなら今すぐ駆け付けたい、代わってあげたいよ》とツイートしている。「目の前で親友の黒崎が倒れたことに精神的なショックが大きかったようです。神田さんは泣きじゃくって、しばらくの期間はかなり沈んだ様子でしたね……。売れっ子の彼女は最近、仕事のオファーが絶えることはなく、オーバーワーク気味ではありました。嬉しい悲鳴でしたが、仕事のストレスや親友の緊急搬送などが重なって、精神的に不安定になっていた可能性は否定できません」(同・レコード会社関係者)奇しくも神田さんが亡くなった12月18日、黒崎は自身のブログで、《やりたいこと、戻りたい場所がありすぎるので諦めずに行きましょう》と、現在の体調を報告しながら未来への希望を語っていた。もう、神田さんと黒崎が2人で一緒に輝くステージを観ることはできないーー。◆いのちの電話【相談窓口】「日本いのちの電話」ナビダイヤル0570(783)556(午前10時~午後10時)フリーダイヤル0120(783)556※毎月10日にフリーダイヤル(無料)の電話相談を受け付け毎月10日:午前8時~翌日午前8時
2021年12月19日西出ひろ子さん撮影/齋藤周造両親が言い争う修羅場を目の当たりにして人生が変わった。唯一味方だった父親と弟が自死、実母とは絶縁状態に……。「うちの家族はみんな残念なんです」マナー講師として伝えたいのは“型や作法”ではなく、人が争わず柔軟に生きるための「思いやりの心」。「ハッピー」という決まり文句には、強い信念が込められていた──。■「マナー界のカリスマ」の講義の実態東京都・町田駅に近いアルファ医療福祉専門学校で、ある講義が始まろうとしていた。30人ほどの受講者の前に立ったのは、マナーコンサルタントの西出ひろ子さん(54)だ。よく通る声が教室に響く。「人と人が出会ったとき、まず“第一印象”が発生します。さて、みなさんの隣の人のことをどう思ったか教えてください!」数分後、何人かがそれぞれ隣にいる人の第一印象を話す。「オーラがあって元気な印象」「頷きながら話をよく聞いてくださる人だなと思いました」「はい、ありがとうございます。みなさん、いろんな第一印象を持ちましたね。実は同時にみなさんも相手から何かしら印象を持たれたのです。人から自分がどう思われるのか、これってドキドキしますよね。第一印象は、まず視覚から入ってきます。頭の先から足先までが第一印象として相手に伝わります。実は相手から全部見えちゃっていますよ。どんなふうに座っているのかまでね。それによって印象は変わっていきます」大きな笑顔の話し手につられて、受講生の表情も穏やかなものになっていく。「マナーという言葉は英語なんですが、日本語にするとどうなるでしょう?」「……作法?」「約束事かな」「礼儀だと思います」当てられた人が立ち上がって答えていく。「そうですね。実は日本語に直せば、マナーは『礼儀』という意味。『礼儀』の『礼』という字には『思いやり』という意味があります」ちなみに『儀』の字は『型』を意味するが、“思いやり”が抜け落ちた型や作法は「マナーとは言えない」と、ひろ子さんは強調した。講演会でいつも伝えているのは、『マナーの5原則』。(1)表情(2)態度(3)挨拶(4)服装・身だしなみ(5)言葉遣いだ。「その人の内面は目の『表情』に表れます。目の表情をよくするには、いつも気持ちをハッピーにしておくこと。『態度』も気持ちの表れです。常に相手のことを思っていれば、どんなに疲れていても、姿勢は正される。例えば椅子の座り方。座面の半分のところにお尻を置いてみる。すると背もたれを使わないので自然と脚、ひざも足先も閉じちゃうでしょ?少し意識するだけで印象は変わるんですね」「正解」や「マニュアル」を教えるような言い方を避け、気持ち次第で言動は変わるのだと穏やかに話す。「『挨拶』の漢字は“心を開いて近づいていく”という意味。じゃあ、どっちから心を開くか。そう、自分からですよね。これを“先手必笑”と私は言います。自分から挨拶を心がける。挨拶をされたら相手はハッピーになる。その喜びが自分もハッピーにしてくれます。ビジネスでは“ウインウインの関係”と言いますね。『服装・身だしなみ』のポイントは清潔感と機能性です。『言葉遣い』は相手の立場に立って、相手をハッピーにして差しあげるんだという思いを軸に話すように心がけてみてくださいね」講義中、ひろ子さんは「ハッピー」という言葉を何度も口にした。「具体的な作法や型にこだわるより、マナーには、自分も相手も幸せにする力があることを知ってほしい」西出ひろ子さんの著書は97冊以上、「マナー界のカリスマ」と称され、メディア出演、講演をはじめ、その活動は多岐にわたる。近年は大河ドラマや映画のマナー監修の仕事を引き受けることも多い。撮影現場に立ち合うと、マナーが素晴らしい役者に感激することがあるという。NHKドラマスペシャル『白洲次郎』(’09年)で白洲正子役を演じた中谷美紀もその1人。「私が言うところの“マナー”、要するに周りに対する配慮、心遣いが素晴らしかった」ひろ子さんにとって、『白洲次郎』は、ドラマに携わる初めての仕事。何をしていいかわからず、端っこに立っているしかなかったという。そのとき、中谷に「先生!」とみんなの前で呼ばれた。──ワイングラスの持ち方はこれで大丈夫でしょうか?「中谷さんは、本当は知っているはずの作法をわざと聞いてくれているのがわかりました。みんなの前で『この人はマナーの先生だよ』ということを自然にアピールしてくれた。なんて優しい人だろうって思いましたね。撮影が終わるたびに毛筆で達筆な心あるお手紙も頂戴しました。今でも宝物として書斎に飾ってあります」また、ある現場で不本意な対応をされたときは、椎名桔平が間に入ってくれたという。「リハーサルのとき、裏でちゃんと伝えたことを現場スタッフが間違えると、監督から叱られるのは私です。すると、椎名さんが『先生はこうしてくださいって言ってましたよね』とフォローをしてくださる。そんな気配りをする人は、マナーの型もさることながら、その本質をよくご存じの方なんですね」NHKドラマ『岸辺露伴は動かない』(’20年)の主人公、高橋一生は、前向きな姿が印象的だったと明かす。「役柄の中での動作や所作について『これでいいですか?』とすごく積極的に質問されました。よい作品にしようという気持ちが伝わってきました」実は、こうした現場では、マナーの指導を快く思わない役者もいるという。「恥ずかしくて聞けないというか、聞いたら自分が負けみたいな考えの人もいる。『これ、知ってるから!』と無視する方もいらっしゃいますね」一般的に、「マナーをわきまえない」「育ちが悪い」「礼儀がなっていない」という言葉をよく耳にする。そして、「マナー」は、時に人を貶める「ものさし」のように捉えられる節がある。「〇〇してはいけない」「〇〇すると失礼にあたる」「〇〇はNG」……。メディアに出演するマナー講師は「叱る人」というスタンスを求められ、そのイメージから“マナー”への警戒心が高まっている側面もあるという。しかし、ひろ子さんは頑なに「マナーとは、『心』と『思いやり』を行動で示すもので、マナーに正解はない」と説く。そんな彼女がマナー講師になった原点は、意外にも“両親の離婚”だった──。■「両親の修羅場」と運命の出会い「お父さんが浮気してるみたいなんだけど……」ひろ子さんの人生は母親からの1本の電話で大きく変わっていく。大分県別府市で生まれ、父親が不動産業を営む裕福な家庭で5歳下の弟とともに大事に育てられた。高校卒業後、推薦で良妻賢母を目指す大妻女子大学に進学し、上京。女子大生ライフを満喫しようと思っていた矢先の出来事だった。まさに青天の霹靂。ひろ子さんは、大学が休みに入るとすぐに実家に戻り、両親の不仲を取りなそうと試みた。「母親が依頼した探偵と一緒に車で父を尾行したりもしました。浮気相手とラブホテルに入るところを確認し、父が車から降りたところに『お父さん!』と声をかけ、そのまま逃げられたことも(笑)。でも父は、離婚をするつもりはなかったんですよね……」ひろ子さんは、必死になって父に手紙を書き、説得した。だが、両親の関係は修復せず、別居に至る。離婚協議は難航した。「私は、父だけが悪いわけじゃないと思っていたんです。父は必ず毎日家に帰ってきたし、外で子どもはつくらないと決めていた。だから、折り合いをつける方法があるんじゃないかと思っていました。ところが、父と母は相手の立場に立つことなく、自分の意見だけを言って、相手を非難する。その姿を見たときに、人として美しくないと思いました。自分と同じ人なんて絶対いない。だからこそ、相手が言うことを受け入れられなくても、聞く耳を持ち、受け止めることはできるのではないか、と」卒業後の就職先は、父が地元でまとめてくれることになっていたが、離婚騒動により白紙に。やむなく就職活動を始めた彼女は、運命の人と出会う。面接の仕方を学ぶため受講したセミナーのマナー講師、岩沙元子さんだ。「初めてお会いしたときに、その美しいお姿とともに品のある話し方やしぐさ、心の美しさにすっかり魅了されました。なんというか……岩沙先生には人としてのやわらかさがありました。同時に、母の姿が浮かんで、つい、2人を比べてしまったんですね」専業主婦の母親は、料理などの家事はもちろん、作法が完璧な人だった。「それこそ『女性は三つ指ついて……』の世界の人。中秋の名月にお団子を作り、鏡餅もおせちもすべて具材から調理するような、慣習にきちんとしている人。妻はこうでなくてはいけない、という『型』を重んじるタイプですね。母はマナーを『型』で捉えていた。でも、岩沙先生からは心、内面からにじみ出るものを感じたんです」両親の争いを目の当たりにしたひろ子さんには、岩沙先生がとても美しい存在に映った。母と岩沙先生、どちらも礼儀を大事にする人であったが、両者は「似て非なるもの」だと感じたのだ。「先生のように、人として美しく生きたい──」ひろ子さんはマナー講師になることを決意した。当時、活躍していたマナー講師のほとんどはCA出身者だったため、客室乗務員の専門学校に通い始めた。ところが、視力に問題があり、試験に臨んだ航空会社は全滅。見かねた校長先生に、国会議員の秘書の仕事を紹介された。「議員秘書といっても、鞄持ち。朝早くから先生について、何時に終わるかわからない夜の会合にも同行しました。先生が会食中は外で立って待ちます。朝コンビニでアンパンを3つ買って、先生が会食中、出てくるのを待つ合間をぬって、トイレで食べることも(笑)。当時はお休みがなくて時間も不規則でしたね。でも、初めての仕事だったので、当たり前だと思っていました」議員秘書、政治経済ジャーナリストの秘書を4年間務め、エレベーターでの案内の仕方、名刺交換の仕方など、「マナー」の基礎を学んだ。休日は、本格的にマナーを学ぶために岩沙先生の自宅兼事務所にも足しげく通った。27歳のとき、マナー講師として独立。軌道に乗るまでは、生計を立てるために派遣社員として大手商社でも働いた。「名の通った大手企業から依頼をいただくことが、マナー講師としてのひとつの成功であると思っていました。そのチャンスを逃さないためにも、大手企業の仕事がどんなものか、身をもって知っておくことが必要だと思ったんです」平日は派遣社員として働き、週末にほそぼそとマナー講師をする生活が続いた。母親や友人がみな、マナー講師の道を反対する中、唯一「やりたいことをやれ!」と背中を押してくれたのは父親だった。しかし、思いもかけずその父親が急逝してしまうのだ。■父の自殺、弟の借金問題1996年の秋のことだった。遺書はなかった。亡くなったのは大分郊外の山の中。木にロープを巻き、首を吊るかたちで父親は自らの生涯を閉じた。まだ55歳の若さだった。生前、大きな詐欺事件に遭い、「これ以上やっていけない」とこぼしていたらしい。ひろ子さんとは、25年以上の付き合いになる福尾由香さん(57)は、父親の訃報が届いたとき、隣にいた。「『お父様が亡くなられた』という電話が突然かかってきて。大変なことが起きたのに、すごく健気に振る舞ってて、『この年齢で受け止められるのはすごいな』と思いました。彼女は『お嬢様』って感じの可愛らしいタイプ。なのに、その後も、ずっと『独り立ちしなきゃ』と自分にプレッシャーをかけていたのが印象的でしたね」遺産相続は放棄したが、父親は生命保険をかけており、ひろ子さんと弟に分配された。ところがある日、九州の国税局から連絡が入る。「弟さんが相続税を納税していないので、お姉さんが納めてください」弟は、東京の大学に入学し、塾講師のアルバイトをしながら頑張っていると聞いていた。しかし、知らぬ間にギャンブルの世界に身を置き、父親が遺した生命保険金はすべてギャンブル仲間に巻き上げられていた。すぐに弟の未納分を肩代わりしたが、事は収まらず、「弟さんにお金を貸してるから、お姉さん返してくださいよ」と悪い仲間から電話がかかってくるようになる。ひろ子さんは、探偵の力を借りて、消息がわからなかった弟の居場所を突き止め、九州へ逃がした。何とか弟には更生してほしい──そんな思いで福祉の専門学校への入学を手配。離婚後、福岡に移り住んでいた母親に弟を託した。「弟は幼いころから成績もよく、学校で生徒会長を務めるほどの人気者でした。東京の大学に進学して商社に入社、営業成績もナンバーワンだったのに……。それが大金を手にしたことで、人生を狂わせてしまったんですね」弟の騒動が一段落したころ、ひろ子さんは疲弊しきっている自分に気づいた。「せっかくマナー講師になる夢を叶えて羽ばたこうとしているのに、次々と邪魔をするようなことが起きる。もう、いいかげんにしてほしいって。それに、このまま日本にいると、弟を甘やかしてしまいそうで……。この機会に日本を離れ、マナーの本場である英国では何をもってマナーといっているのか自分の目で確かめたいと思いました」両親の離婚、父の自死、弟の借金、家族の問題で疲れ果てた彼女は、31歳のとき、自由を求め、イギリスに飛んだ。■英国で見た本場のマナーひろ子さんは、イギリス・オックスフォードにある語学学校に通い始めた。「英語がまったくダメだったので、まずは言葉を何とかしようと。ハロー、サンキューくらいしか言えなかったんです(苦笑)。イギリスではマナーの学校に通うことはありませんでした。それよりも、イギリスの人たちの生活そのもの、街中で見かける何げない風景のすべてが私にとっては、マナーの学校でしたね」バスに乗ったとき。乗り込んできた乗客は必ず運転手に「グッモーニン」「ハロー」と挨拶をする。すると運転手も必ず返してくれる。降りるときも必ず「サンキュー」と言って降りる。運転手も必ずひとりひとりに「サンキュー」と返していた。「最も印象的だったのは、建物に入るためにドアを開けるとき、必ずみんなが後ろを振り返ること。そこに人が居合わせたら老若男女問わず、『お先にどうぞ』と通してくれる。道路を横断しようと道の端に立てば、車が途切れるのを待つまでもなく、車はすぐに止まってくれて、笑顔とジェスチャーで『どうぞ』と横断させてくれる。日本でほとんど見ることのない光景が、イギリスでは当たり前にありました。そして、日常のありとあらゆるところに『サンキュー』が飛び交っていたのです」洋食のテーブルマナーも、イギリスでの実体験から直接学んでいった。イギリスでの生活にも慣れたころ、ひろ子さんは現地で知り合った友人と起業する。英国在住の日本人学生が、帰国後に就職活動をするための準備として、また日本企業に就職したい外国人向けに「日本のビジネスマナー」を教える会社を立ち上げようということになったのだ。さらに、オックスフォードとケンブリッジ大卒の学者を集めた「知的人材バンク」の事業もスタート。日本人の研究者たちの論文を英訳し、『ネイチャー』や『サイエンス』などの世界的に有名な雑誌に投稿するサービスだった。「普通の翻訳会社と違って質がよかったみたいで大当たり。私はときどき日本に戻って営業をしに行きました。今、私が講演で話す“ビジネスマナー”は、このときの営業経験がもとになっているんです」クライアントは、主に東大や京大などの研究者と製薬会社。『イギリスが本社』と説明しても怪しまれ、なかなか信用してもらえず、苦労した。「まずは人に信用してもらうことからスタートだと思い、『マナーの基本5原則』を活用しました。また、この営業で実践したのは『ハイ!』と感じのよい返事をすること。そして『相手の名前を呼びながらコミュニケーションする』ということでした」イギリスでは必ず、『ヒロコ!』と名前を呼んで声をかけられた。それがヒントになったという。「名前を呼ばれると、社会的に認められた気持ちになって、私にはとても心地よかった。名前を呼ぶコミュニケーションを日本でもきちんと定着させようと思いました」営業のコツを少しずつつかみ、顧客は増えていった。だが、困ったことにイギリスの人たちは納期を守らなかった。注意しても、改善されない。ひろ子さんは日本の研究者たちからのクレーム対応に追われた。「どんなに怒鳴られても、相手が困っていらっしゃることを想像し、心の底からお詫びをする。電話で1、2時間ブワーッとクレームを言われても、何時間でも相手の話を聞きました」謝罪の言葉を繰り返しても、そこにちゃんと気持ちが入っていないと慇懃無礼で相手には何も伝わらない。「多少言葉遣いが間違っていようとも、相手の立場に立って、『お気持ちは大変よくわかります。申し訳ございません』と本当に心を込めて伝えることで、めちゃめちゃ怒っていた先生たちが、最後には新しい仕事を依頼してくださり、電話を終えられるんですね」クレーム処理はマイナスの事態だが、そんなときこそ、心を込めたマナーのある応対で、相手の印象をプラスに変えることができたという。31歳から35歳まで、都合4年間、ひろ子さんはイギリスに滞在。その間もときどき帰国しながら、マナーの仕事や秘書業、営業をこなしていた。そして2002年、大手飲料メーカーのヨーロッパ支社に勤める日本人会社員と結婚。日本に拠点を移し、本格的にマナー講師の活動を再開する。’03年には、初めての著作となる『オックスフォード流一流になる人のビジネスマナー』を上梓。2年後に発売された『完全ビジネスマナー』がヒット、’06年には『お仕事のマナーとコツ』が28万部のベストセラーとなり、マナー講師としての立場を確立できるようになっていった。■最高裁で母と争った末に……九州で母と暮らす弟は、介護福祉士として再スタートを切っているはずだった。しかし、彼はいつの間にか、雀荘の店長になっていた。そして、あちこちで借金を繰り返し、母を苦しめていた。「人材の育成に携わる自分が実の弟の育成すらできていない。これはおかしな話だと思ってしまって……。弟を自分の会社に引き取って更生させようと試みました。でも、私がやりたいことはいつも応援してくれた夫が、初めて大反対したんですね。私は土下座して頼み、承知してもらいました。ありがたかったです」しばらくは弟も姉のサポート役としてまじめに仕事をしていた。彼なりに人生をもう一度立て直したいという思いでいることが、ひろ子さんには伝わっていた。ところが──。弟はやはりお金が原因で問題を起こしてしまう。「弟は完全に壊れていました。病気ですね。平気で嘘をつけるようになっていたんです。ある日、『病気だったら治せるから、あなたの上司としてではなく、お姉ちゃんとして治してあげるから、一緒に頑張ろうね』と弟を抱きしめたんです。彼もワンワン泣きながら頷いてくれました。どこかで、母のため……という思いがあったんです。小さいころから弟を可愛がっていた母が悲しむから、私が何とか更生させなきゃって……」そう言って口を噤(つぐ)んだひろ子さんは涙を見せた。病院にも連れていってみたが、やはりどうにもならなかったという。「弟が私の会社で悪さしたのは、私のせいだと母に言われて……。心が折れてしまいました」結局、後ろ髪をひかれる思いで、弟を母のもとに戻す決断をする。だが、その後、マナー講師の仕事に打ち込み、事業も順調に展開し始めていた2009年、とんでもないことが起こる。母親から訴状が届いたのだ。「ある日、母から『実印と福岡の土地の謄本を持って帰ってきなさい』と突然電話がかかってきました。『え?なんで?』と聞いたけど、理由を言わない。放っておいたら訴状が届いたんです」母親は弟の借金返済のため、お金が必要だったと後で知った。裁判は結局、最高裁までもつれた。「最終的に私はその土地を売って母のために清算しました。法廷では母とは『これで最後だろうな』という覚悟で会いましたね」そして係争中、あろうことか、ひろ子さんは、相手の弁護士を通じて弟の死を知らされたのだ。「耳を疑いました。弟は自ら命を絶ってしまったのです。発見された場所は彼が学生時代を過ごした東京のある公園の公衆トイレでした。母に宛てた遺書があったようで、警察はまず母に連絡をしたみたいですね。母は『遺骨を引き取りには行けない』と言い、遺骨は飛行機で母のもとに送られたと聞きました。いくら係争中だとはいえ、東京にいる私になぜ、すぐに連絡してくれなかったのか……」ひろ子さんをそばで支えていた夫も気が気ではなかったという。「お母さんとのトラブルは、私の立場から安易に立ち入れない。裁判中は、彼女と『なんでこんなことになるの?』と話すこともありました。弟さんも残念でした。本当に彼女もつらかったと思います。でも、そんなことがあっても、彼女は明るい。仕事も懸命に続けていました」現在、母親とは音信不通。居場所さえ知らないと言う。「私はずっと母に『幸せになってもらいたい』と思ってきました。なのに、母は言いがかりのような訴えを起こしてきた。私は途中で和解案を持ちかけましたが、母はそれさえも拒絶してきました」両親の離婚のとき同様、何とか折り合いをつけたいと最後まで願ったが、叶わなかった。「いちばん大切なのは、相手の立場に立って、思いやる心を持つこと。そして決めつけないこと。母はこうでなければならないと譲らない人でした。言っていることは正しいかもしれないけど、人生には杓子定規にいかないことも起きる。母ももっと生き方を上手にできれば、こうはならなかったのかなと。人としての柔軟さがないと、幸せにはなれないんじゃないかって思うんです。だから、うちの家族はみんな残念なんです。父も母も弟も……」あまりにいろんなことが起きすぎたため、子どもをつくることは怖かったと告白する。「夫には申し訳ないのですが、あまり子どもが欲しいとは思わなかったんですよ。万一、同じようなことが起きたら……って。これは、私の代で終わりにしなきゃいけないな、と思ってしまったんです」冒頭の講義で「ハッピー」という言葉を何度も繰り返し伝えていたひろ子さん。その笑顔の裏には、家族の問題を反面教師にして生きたいという強い思いが込められていた。「こんな事態を招かないような世界にしたい。私はマナーという形で“思いやりの心”を伝え続けているんです」■テレワークマナーで大炎上昨年9月、『テレワークマナーの教科書』という本を出版。コロナ禍でテレワークが一般的になった現在、タイムリーな企画だったが、ネットで大炎上した。「驚きました。本の内容について『これはひどい』『うるせーばーか』『害悪』『こんな創作マナー出てくると思ったわ』という批判が殺到して。でも、炎上していた内容はその本に書かれていないものでした」「リモート会議では5分前にルームに入室」「お客様より先に退出してはいけない」など間違った投稿に多くの人が反応し、次々と批判コメントが拡散された。だが、本の中では、「先に入室してないから失礼だ、などと思わないことこそが真のマナー」というアドバイスを添えていた。「この騒動を通して、マナー講師につけられた『失礼クリエーター』という異名を知りました。『〇〇しては失礼』という新しい『失礼』を創出(クリエイト)して提唱する人、という意味。明らかに侮辱の感情が込められています」さすがに落ち込んだひろ子さんを救ったのは、夫の言葉だったという。「私、元来落ち込みやすいし、気にしちゃうタイプなんですよ、グジグジと。あのときも、批判コメントに対してお詫びのメールを書こうとしていたくらい(苦笑)。でも、夫に『記憶から消せ』と繰り返し言われて、前向きに変わっていけました。注意されたら『言葉の花束』をプレゼントされたと思おう。マイナスのことが起きたときは、プラスに変えなきゃって」心ない言葉の数々を目にして、反論したい気持ちはなかったんですか?思わず筆者がそう水を向けると、ひろ子さんは首を横に振った。「自分の至らなさを自省する機会になりました。一方で、ほとんどのマナー講師が、マナーを作法や型として教えている。『上から目線』に見える部分もあるのかもしれない、と思いました。それに、裏を返せば、マナー講師という仕事にそれだけ影響力があるということ。茶道にいくつも流派があるように、マナー講師の教え方もさまざまです。自分がいいと思えば、それを取り入れればいいし、『どうなの?』と首を傾げるものだったら、スルーすればいいだけなんですよ」■「母」に残した「頼みの綱」現在、ひろ子さんは、企業のマナーコンサルタントとしても引く手数多である。7年前から社員研修を依頼している『国立音楽院』代表の新納智保さん(56)が言う。「『仕事とは何か?』、経営者の立場に立った話から、経営のあり方、企業に合わせたさまざまな研修をしてくださるので驚きました。もともとはスタッフ向けにお呼びしたのですが、今は就活中の学生たちにも“ためになる”と人気です」今年、新たに自営業者向けのコンサルティングも始めたばかり。「相手の立場に立って、顧客が欲しがるものを提供する」思考は、マナーの得意とする分野だと言う。彼女の助言で、ネットを利用した新たなビジネスを始めた大阪の和食屋があった。コロナ禍でお店は休業。「お弁当を作って売ればいい」と周囲から言われたが、ご主人の大将は職人肌で、生ものにこだわっていた──。そこで、女将さんによる「和食のマナー講座」をオンライン化したのだ。有料の動画講座には申し込みが殺到。自粛期間でも収入を得ることができた。『和処Re楽』の女将・裏野由美子さん(51)は長年、和食の文化をお客様に伝えたいと思ってきたと話す。「西出先生のオンライン講座を知って参加したのがきっかけです。店側からしたら、マナーは知ってほしいけど、やはり『どうしたらお客様に楽しんでいただけるか』が大事。それを西出先生に言葉で示してもらえた。動画には大将もうれしそうに出演したんですよ(笑)」ひろ子さんの本を読んで、弟子入りし、マナー講師になった人もいる。吉村まどかさん(50)だ。「西出先生は、仕事に対しては厳しいですね。一貫してマナー最優先で人間関係に対応されるところも、尊敬しています。マイナスポイントは、完璧すぎるところ。仕事に妥協を許さないから、2日も3日も徹夜しちゃう。先生の身体も心配だし、周りのスタッフも大変ですよね。先生は甘いもの、可愛くて美しいものが大好き。携帯のアクセに凝ったりして。それがご自身のブランディングになってるところもすごいんですが……(笑)」今年、ひろ子さんは55歳になる。父が亡くなった年齢だ。「母とは、もう会うことはないと思います。でも、唯一の頼みの綱は残してあるんです。父や祖父が入っている納骨堂の施主が母になっています。施主として母の名前があるということは、まだ元気でいるということ。それだけは確認しています。そこの住職に『何かあったら、いつでも連絡してきてほしい』と伝えてあるんです」そう言ってひろ子さんは、「私、あっけらかんとしてるところもあるんで。終わったことはもう、ね」とおどけてみせた。けっして母親のことを諦めたわけではないのだ。ネット上で、マナー講師を批判する発言があっても、反論するどころか、批判した人の気持ちを想像しながら言葉を紡ぐ。あれほどのトラブルを持ち出した母親にも、まだ心遣いを欠かしてはいない。「マナー(思いやり)には、自分も相手も幸せにする力がある──」きっぱりと断言する彼女の信念は、少しも揺らぐことはないのである。(取材・文/小泉カツミ)こいずみ・かつみノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある
2021年10月31日月乃のあさん1年前の9月30日、地元・名古屋でアイドル活動をしていた月乃のあさん(享年18)が市内のビジネスホテルの屋上から飛び降り自殺した。インターネット上の誹謗中傷が一因だった。母親は、月乃さんが活動してきた証として、写真集を作成。今年9月20日には都内でお別れ会をした。月乃さんが《死にたい》とツイートしたのは自殺の3日前の27日。午前中、SNS「インスタグラム」で、ホテル屋上から動画を配信した。足をぶら下げ泣きながらこうつぶやいた。《(私が)死んだら悪い大人たちちょっとは反省してくれるかな?って思っちゃって》。これを視聴していたファンが場所を特定し、警察に通報。無事に保護された。母親(42)は言う。「私は当時、脳梗塞で倒れ入院していたため、そばにいてやれませんでした。娘がこの動画を配信中に《死なないと約束できる?》とケータイからメッセージをしました。娘は《できるよ》と約束してくれました。配信後も《すぐ(屋上から)降りなさい》と送ると、《いま帰る》と返事がありました」しかしこの3日後、月乃さんは自殺してしまう。■死の間際の炎上死のうとしたのは、ネット上で非難されたからだ。きっかけは、5月から働いていたコンセプトカフェ内でのトラブルについてのツイートだった。「娘は、カフェのオーナーとのトラブルをツイッターでつぶやいたんです。すると、信頼していた女性が娘に怒ってツイートをしたんです。女性の知人2人も加わりました。そのことが原因で匿名掲示板でも叩かれたんです」(母親、以下同)当時、月乃さんは、精神的に不安定だった。《死にたい》ツイートの2週間前の9月13日、過量服薬(OD)しながら動画配信もしていた。そのことがわかり、脳梗塞で入院していた母親の代わりに、オーナーが月乃さんの部屋に行った。このとき、トラブルが起こった。「私は娘を信じていますが、『これは、信じる、信じないの問題ではなく、(対人トラブルを)ツイッターにあげてはダメ』と言いました。娘は『わかった』と言っていましたが、トラブルのもととなったツイートを消さなかったんです」こうしたことがあり、月乃さんはカフェを辞めた。一年前の9月27日の夜、月乃さんは友人4人と市内のカラオケボックスで一緒に死のうとした。しかし、このうちの1人が通報、警察に保護された。母親の入院先には精神科があるため、母親は病院で待ったが、月乃さんは姿を見せなかった。「娘は『またアイドル活動を始めるから、入院するわけにはいかない』と言っていました。あのとき、強制的に入院させていれば、と思っています。ひと目会いたかった」■炎上のきっかけこのころ、ネット上での中傷は続いていた。「娘は匿名掲示板を自分でも読んでいたようです。つらかったと思います」前出の女性の知人も《死ぬ死ぬ詐欺をする元コンカフェキャスト》などとツイートした。それを見て、月乃さんは「なんでそんなこと言うの?生きていられない」と母親に電話で話していた。「9月29日(自殺の前日)に娘はまたいなくなりました。電話やSMSはしていましたが、どこにいるかわかりませんでした。娘のファンの子と一緒に、飛び降りたホテルの部屋に泊まっていたようですが……」亡くなった30日朝、月乃さんは母親に《生きているよ》とSMSを送った。14時13分、《ママごめんなさい》との遺書めいたSMSを送信した。母親は警察に通報し、駆けつけた警察官は月乃さんの部屋に置かれた遺書を発見。その日の夕方、警察から「女の子2人が飛び降りた」との連絡があった。■アイドルとしての娘「屋上に座っている2人を近くから見ていた人がいたそうで、すぐに自殺と判断されました。通夜には400人ほどに来ていただき、出棺のときは静かに見送ってもらいました」アイドルとしての月乃さんを、母親はどのように見ていたのだろうか。「歌は苦手でしたが、ダンスは得意でした。ファンへの思い入れがあり、中途半端では終われないというのが本人にはありましたね」ただ、月乃さんは最初からアイドル活動に興味があったわけではない。「もともとは引っ込み思案で、地元のアイドルと仲よくなり、手紙の交換をするようになったんです。悩みを打ち明け、慰められたりもしていました。交流が続いていたために『(そのアイドルの)グループに入りたい』と言うようになっていき、名古屋市内で歌う活動を始めました」中学のころに受けたいじめが原因で、高校は通信制に行きこのころから精神科に通った。1年生で中退。地元のアイドルをやめて、’18年に東京へ行き、講談社主催のアイドルオーディション「ミスiD」に出場した。結果、「死んだふりして生きているのはもう飽きた」賞をとった。また「ヲルタナティヴ」というアイドルグループに参加した。「ファンは中学生から、“孫が好きで見ていた”というおじいさんまで幅広かったです」■「ツキノノア」母の活動母親が、月乃さんの自殺を公表したのは通夜の後。同時に、「ツキノノア」名義のアカウントを開設した。最近では、クラウドファンディングをし、写真集作成の資金にした。ネットなどで公表している写真のほか、子どものころの写真も加えた。「金額に応じて、娘の私物も差し上げました。脳梗塞の後遺症があるため、私もいつどうなるかわかりません。そのため、大事にしてくれる人がいるなら渡したい」母親は現在、SNSを通じ、悩みがある人の相談に乗る。「“今、ビルの上にいます”というものもあります。当初は、自分が体験していないのに、アドバイスができるのかと思っていましたが、今ではみんなの気持ちがわかる気がしています」なぜ相談に乗るのか。「生きていてほしいんです。だって、残された人はつらすぎますから」一方、自殺のきっかけになった、ネットで中傷を書いたカフェ(前出)関係者3人とは話し合いをした。「当時のことを考えると複雑な気持ちですが、ちゃんと向き合えてよかったです。憎み合うだけじゃなく、話し合うと通じることがあると思います。遺書には『AさんとBさんを憎み続ける』と書いてありました。私も《絶対に許さない》と思ったこともあります。でも娘もきっと、3人のことは許していると思います」(同)月乃さんの活動が記憶に残り続けてほしい。政府は刑法の「侮辱罪」を厳罰化する方針を固めた。プロレスラーの木村花さんが亡くなったことを受けたものだ。ネット上の誹謗中傷も減ることを期待したい。《取材・文/渋井哲也》
2021年09月30日竹内結子さん《竹内結子は弊社にとって、永遠にかけがえのない大切な所属女優であることに変わりありません》所属事務所の公式サイトにそう綴られた突然の別れから、もう1年になる。「2020年9月27日の深夜に、竹内さんが自宅マンションで倒れているのを夫の中林大樹さんが発見。病院に運ばれたものの、死亡が確認されました。遺書は見つかっていませんが、警視庁は自殺と判断。遺作となったのは、同年7月に公開された映画『コンフィデンスマンJP-プリンセス編-』です」(スポーツ紙記者)3日後の9月30日には、家族葬を行ったと発表された。《あまりに突然の信じ難い出来事に、所属タレントや社員は未だ戸惑いの中にあり、この事態を到底受け入れられる状態ではなく悔やみきれない思いであります》事務所のコメントから、その衝撃の強さが伝わる。多くの人に愛された女優の死に、日本中が悲しみに包まれた。■獅童は「息子を引き取る」残されたのは、かけがえのない家族だった。「竹内さんは2005年に中村獅童さんと結婚し、第1子の男児を出産。しかし、獅童さんの不倫騒動などがあって2008年に離婚しました。長男の親権は竹内さんが持つことになり、2019年には事務所の後輩である俳優の中林大樹さんと再婚。2020年1月に彼との間に次男が生まれ、家族4人の生活が始まったばかりだったんですが……」(前出・スポーツ紙記者)悲報を知って、元夫の獅童は号泣したという。周囲から“長男を引き取ってはどうか”と提案されているとの話を聞き、2020年12月中旬、週刊女性は自宅前で彼を直撃し、長男の将来について質問。すると、落ち着いた様子でこう答えた。「中林さんの事務所には息子のサポートはするし、可能なら引き取ることも考えているとは伝えてあるよ。血がつながっているわけだから当然でしょ」獅童なりに長男の将来を考えたうえでの発言だろう。しかし、この内容を聞いた中林は困惑したという。「直接会うことはなかったようですが、中林さんは2人の息子を自分が育てていくという覚悟を固めていたので、獅童さんの意向を聞いて理解に苦しんだそうです。竹内さんが父親と設立した会社も引き継いで代表取締役に就任しており、家族を守ろうという強い気持ちを持っている。下の子が幼いので、中林さんのご両親もサポートしているそうですよ」(芸能プロ関係者)一方、12歳のときに両親が離婚した竹内さんの母親代わりだったという母方の祖母は、彼女の死にショックを受けて憔悴。コロナ禍で集まることもできず、親族の多くは気持ちのやり場を失っているという。しかしそれは、家族だけではなかった。「親友のイモトアヤコさんは、かなり意気消沈していましたね。竹内さんの家族葬が営まれた9月30日は日本テレビ系『世界の果てまでイッテQ!』のロケだったので、その前に故人と対面し、泣き崩れたそう。当時は彼女のことを心配する声も多く、TBSラジオの冠番組『イモトアヤコのすっぴんしゃん』では“正直まだ何も整理できていないのが今の気持ちです”と胸中を吐露していました」(テレビ誌ライター)イモトは今年8月15日に『イッテQ!』で妊娠6か月であることを発表。今後は体調を見ながら仕事を調整することになる。「おめでたい話題ですが、所属事務所としては、売れっ子タレントであるイモトさんの長期離脱は痛手でしょうね。産後すぐに復帰することを目標に、話し合いを進めていると聞きます」(前出・芸能プロ関係者)■イモトは「芸能界って何?」番組でも「スパーンと産んで、スパーンと戻ってくるので、よろしくお願いします」と語っていたが、実際は心が揺れているようだ。「“子育てに専念したいので、しばらく仕事はお休みしたい”と考えているみたい。産休・育休には数年をかけるなんて話も出ています。仕事に邁進してきた彼女がそう考えるようになった最大の理由は、竹内さんの死なんです……」(イモトの知人)現場では気丈に仕事をこなしているが、いまだ悲しみは癒えていない。自らを見つめ直す中で、将来について深く考えるようになった。「明るく気さくに振る舞っていた竹内さんが突然、自ら命を絶ったことでイモトさんは“芸能界って何なんだろう”と考え込んでしまった。しばらく芸能界から距離を置きたいと思うようになったのでしょう。抱えきれないほどのショックを受けて、仕事を懸命に続けながらも“カメラの前で笑うことができない”“もう仕事を心から楽しめない”とこぼすようになって……。悩んだあげく、“ふつうに幸せに生きていきたい”と考え始めたようです」(同・イモトの知人)■「結子が夢に出てきたの」彼女のほかにも、竹内さんを偲んで思い出を語り合う人たちがいた。「結子さんは、生きていれば今年の4月1日が41歳の誕生日でした。彼女が生きていたころは、誕生日の前後に集まってお祝いをしていましたが、今年はコロナもあって集まることはできないし、なによりも主役が不在だと集まる意味もない。それでも生前親しかった人たちは、ときおり連絡を取り合って、結子さんのことを話すんです。長年の付き合いだったスタッフさんは“結子が夢に出てきたの!みんなで仲よく話してるのに、私呼ばれてないよ~って言うのよ。でも、あんた死んでるじゃん、ってツッコんじゃった”なんて話をしていました」(竹内さんの知人)いまだ亡くなった実感が湧かず、彼女の存在を身近に感じているようだが、多くの人が同じ気持ちだった。「結子さんが夢の中に出てきたって人がほかにもいて。みんな明るく話しているけど、亡くなったときは本当にショックでした。だからこそ、彼女の死をまだ信じられないでいる。1年たった今でも、いきなり彼女が現れて“嘘だよ!”なんて言ってくれるような気がするんです……」(同・竹内さんの知人)いつも穏やかな表情を浮かべていた竹内さん。その笑顔は消えることなく、人々の胸に残り続けている─。
2021年09月28日※画像はイメージです「仕事がなくなって、生活が不安です」「ひとりぼっち。死にたい」孤独や絶望を抱えた人たちの声が集まってくる「いのちの電話」。1953年にイギリス・ロンドンで自殺予防のための電話相談として始まった。日本でも’71年からスタート、現在では全国に50のセンターがある。相談員は全員がボランティアだ。■コロナ禍で休止“苦渋の選択”そんな“命の砦”が今、危機に揺らいでいる。「三重いのちの電話」(以下、三重)は、今年の8月27日から相談を休止した。昨年4月に続き2回目だ。「急激に新型コロナ感染者が増え、三重県でも再度、緊急事態宣言が出されました。“こういうときだからこそ頑張ろう”という声もありましたが、相談員の感染不安を考えて休止したのです。解除されたら、すぐ対応できるようにします」(事務局長の古庄憲之さん)ほかのセンターもコロナ禍の影響により、今年は相談員の稼働数が例年より減少している。「コロナで失業し、体調も悪い。助けも得られない。死にたい」と、20代男性から悲痛な電話が寄せられたのは「北海道いのちの電話」(以下、北海道)。’20年2月から、相談種別に「コロナ」を加えた。深刻な相談が集まる一方、対応できる数は限られている。「去年の3月に緊急事態宣言が出され、稼働する相談員が半減しました」(事務局長の杉本明さん)相談員のいるブースを限定し、部屋の一角には大型の空気清浄機を設置するなど感染対策を行っている。しかし、公共交通機関を利用する相談員には感染不安から通えなくなった人が少なくない。「千葉いのちの電話」(以下、千葉)にも、「飲食店の売り上げが落ちて苦しい。死にたい」という女性から相談が寄せられている。失業や収入が減り困窮した人のほか、コロナ禍で外出が減ったためか、家族間のトラブルに悩む人たちが増えた。事務局長の斎藤浩一さんはこう話す。「相談者は女性が多く、なかでも50代が最多。気持ちや苦しさを受け止めることが相談支援の基本です。“誰かとつながっていたい”という人もいますし、“死にたい”と話す一方で気持ちが揺れている人もいます。死にたいと訴える人には、1時間でも2時間でも落ち着くまで話を聞くので、相談時間を一概に決めるのも難しい」電話相談を受けるブースは感染対策で1席開け、1時間に1回の換気も怠らない。だが、それでも感染不安から稼働する人数は減った。「千葉」では最盛期に約350人の電話相談員が在籍していたが、現在は実働160人に減少。相談員の9割が50代~70代だ。高齢化が進み人手不足が問題となっていたところへ、コロナが拍車をかけた。「活動を開始した1989年から24時間の相談体制を維持してきましたが、昨年4月17日から夜間の相談を休止しました。自殺を考えている人は明け方に亡くなるケースが多い。本来は途絶えることなく相談を受けるべきで、苦渋の選択です」(斎藤さん、以下同)遠方から通ってくる相談員も多く、感染拡大が起きている地域で電車を乗り継ぐことはストレスになる。感染を心配した家族の反対で通えなくなった相談員もいる。「電話が鳴ってもすべては取れないのが現状。救える命があったのではないかと思うと、もどかしいです。緊急事態宣言が解除されれば、徐々に24時間体制に戻したいと思っています」■「電話受けたくても受けられない」相談員の稼働数減少は受信数の減少にもつながる。「北海道」では、’20年の受信数は1万3423件。月平均に換算すると1000件ほどになるが、3〜5月はそれを下回った。相談員を確保できなかったためだ。だが今年は1000件以上を維持している。「シフトをあけないことが大原則です。24時間体制は死守しようと思っていますが、それでも、相談員を確保できない時間帯ができてしまっています。電話を受けたいのですが、受けられない状態のときもあり、10日に1日は維持できない状況です」(北海道・事務局長の杉本さん)コロナ禍だったこともあり、昨年は相談員を募集しなかった。人手の確保は積年の課題でもある。相談員になるための1年8か月の研修期間を短縮できないか検討中だ。「千葉」でも、受信件数が落ちている。’19年は1万7000件ほどあったが、’20年は1万767件と減少した。夜間の電話を取れなくなったことが大きい。「千葉の場合、相談員は1年半の研修を経てようやく独り立ちします。時間がかかるうえ、コロナの影響で研修に通えなくなり、中断したり、途中でやめたりする人も出てきている。できるだけ多くの電話を取りたくても、しばらくは現状維持で精いっぱいです。ただ、県や市も(いのちの電話とは別に)相談窓口を置き、手分けして対応してくれています」(千葉・事務局長の斎藤さん)警察庁によると、’20年の自殺者数は2万1081人。前年比で912人増えた。自殺者が増加に転じたのはリーマンショック後の’09年以来、11年ぶり。なかでも目立つのが若者や女性の自殺だ。■SNSや動画など、相談・PRに工夫「いのちの電話」では、若年層の相談を受け入れたい思いがあるが、広報や相談体制が課題だ。「北海道」は、札幌市内を拠点に活動するロックバンド「ナイトdeライト」とコラボレーションして、若者向けのメッセージ動画を制作し、DVDを4000枚作り、全道の中学・高校に配布した。また、バンドのメンバーに牧師がいることから、全国のミッション系の学校にも配布。動画制作にはクラウドファンディングを利用、完成したDVDを返礼品として送った。提供された楽曲はユーチューブで公開している。こうした取り組みが地元メディアで取り上げられ、その影響か、今年の相談員募集には例年より多い50人ほどの応募があった。「20〜30代の応募者も10人ほどいました。若い世代がこれほど応募してくるのは極めて異例で、研修では雰囲気が違いますね」(北海道・事務局長の杉本さん)いかに若年層に相談を意識してもらうか。「茨城」では今年5月からLINE相談を始めた。受付時間は、第5週を除く日曜日の午後4時~7時50分と、第2火曜日の正午~午後3時50分。全国のセンターの中では初めての試みだ。1人1日1回、50分まで利用できる。「若者の自殺が目立つ中で、若者に“電話してきてください”と言うのではなく、若者が日常的に使っているツールを利用しようということになりました。相談員の若返りも期待しています」(事務局長の多田博子さん、以下同)若者の就労支援を行う「サポートステーション」やハローワークで広報したことで、LINE相談には5月末から8月までに35件の相談が寄せられた。「自殺傾向がある人からの相談は、近年は8%でしたが、今年は11.8%と多くなっています。ただ、LINE相談では少ないですね。初めて連絡したという人や、“電話相談にかけたけれど、つながらないからLINEにアクセスした”という人もいました」また「茨城」では、既存の電話相談員から希望者を募り、厚生労働省や行政などがSNS相談を委託しているNPO法人「東京メンタルヘルススクエア」で研修を実施。インターネット相談をしているNPO法人「OVA」の講演も開いている。「広報が十分ではないので件数は少ないですが、相談にLINEという窓口が増えるのはいいことだと思います」コロナ禍という逆境の中にあっても、「いのちの電話」はさまざまな方法で悩める人々に寄り添い続けている。各地の相談先は「日本いのちの電話連盟」ホームページに掲載。「日本いのちの電話」では毎日午後4時~9時、また毎月10日は午前8時~翌11日の午前8時まで、0120-783-556で相談を受け付けている。取材・文●渋井哲也●ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。若者の生きづらさ、自殺、いじめ、虐待問題などを中心に取材を重ねている。『学校が子どもを殺すとき』(論創社)ほか著書多数
2021年09月22日神奈川県内の精神医療を担う横浜市立大学精神医学教室(所在地:神奈川県横浜市、教授:菱本 明豊、助教:宮崎 秀仁)は、県内の中学校・高等学校の教員を対象に子どもの自殺予防を目的とした「神奈川県学校自殺対策支援プロジェクト(ReSPE-K)」を令和3年9月8日(水)に始めました。事業詳細についてはホームページを参照ください( )。■背景新型コロナウイルス感染症の蔓延によりメンタルヘルスの問題を抱える子どもが増加しています。夏休み明けが子どもの自殺が最も増加する時期と言われますが、一方で学校教員の自殺予防に関する知識と経験は十分とは言えません。子どもの自殺予防の実践のために学校教員の自殺に関する知識定着と偏見解消を狙った教育プログラムを実施することとしました。■展開内容(1) 全体の流れ「精神医療編」「心理支援編」「社会支援編」の自殺に関する3つのテーマを精神科医が情報提供します。いずれもテーマでも精神科医とのディスカッション・事例検討を盛り込んでいます。その他、精神科医が現場での困りごとにも相談に乗ります。また役立つ情報を記載した資料提供も行います。(2) 講義内容「精神医療編」:自殺と関係する脳と心の状態や精神疾患の治療と予後について「心理支援編」:自殺を考える子どもの心理的背景と実際の対応について「社会支援編」:自殺総合対策大綱に基づく学校で出来る自殺予防について(3) 研究活動本プロジェクトによって学校教員の自殺に関する偏見を減らすことへの効果を測定するために、知識提供前後にアンケートを行い調査します。■今後の展開現在、すでに初回講義を開始しておりますが、随時県内の中学校・高等学校で参加校を募集中です。当該学校の責任者より以下の連絡先にお問い合わせ下さい。■組織概要組織 : 横浜市立大学精神医学教室代表者 : 教授 菱本 明豊プロジェクト責任者: 助教 宮崎 秀仁所在地 : 〒236-0004 神奈川県横浜市金沢区福浦3-9課題名 : 2020年度研究活動スタート支援(課題番号:20K22246)による「自殺予防のための学校教員を対象とした精神保健教育の効果に関する研究」研究資金 : 150万円URL : 【本件に関するお客様からのお問い合わせ先】横浜市立大学附属市民総合医療センター 高度救命救急センター担当 : 宮崎 秀仁TEL : 045-261-5656E-MAIL: hidem1117pc@yahoo.co.jp 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2021年09月14日夏休みは帰宅を促すこのような車も登場新型コロナ感染が拡大する中、東京都に緊急事態宣言が発令されている。しかし、新宿・歌舞伎町の映画館「TOHOシネマズ」の横の通り、通称、トー横には、夏休みということもあり、若者たちが集まる。SNSでは「#トー横」などでつながった若者同士の関係ができる。しかし、自殺や事件が報道されたことで、イメージが悪化、「トー横界隈と思われたくない」との呟きもある。■ホームレス男性への暴行容疑で少年を逮捕最近では、警視庁が8月23日、傷害容疑で広島市の少年(15)を書類送検した。調べでは、6月、少年らはトー横で路上飲みをし、ホームレスの60代男性に暴行し、ケガをさせた疑い。近くの防犯カメラに犯行が映っていた。少年は「酔っ払って覚えていないが、僕がやった」と供述している。ツイッターで拡散された動画では、赤く髪を染めた少年が男性の頭を何度も足蹴りしている様子が映し出されていた。動画には「なに10代とケンカしちゃってるの?」という男性の声や、「○◯(名前を呼ぶ声)、やりすぎ。防犯カメラあるからね」と止める女性の声が入っていた。その動画に対して、「ホームレスになら何をしてもいいと思っているの?」などの反応があった。「彼はトー横界隈では“R”と名乗っていてRくんと呼ばれ人気がありました。暴行のあった6月から逮捕まで2か月間ありましたが“捕まらないよ”などとイキっていました」(関係者)夏休み前からは犯罪抑止のため、警察官や青少年センターの職員が平日を含めて、“トー横”の若者たちに声をかけ、帰宅を促している。筆者も取材をすると、「私服警察官ですか?」と聞かれるほどだ。一方、「トー横に行きたい」との呟きもあり、今なお、悩みがある若者の居場所でもある。大学生のコトリ(仮名・18)はここに来るのは2度目だ。「きっかけは、友達に、“退屈だからトー横に行こう”と誘われたんです。当時、高校3年生だったんですが、受験や進路のことで悩んでいたんです。『もう、どうなってもいいかな?』と自暴自棄だったんです」しかし、しばらくトー横に来ていない。それは、彼氏に『行くな』と言われているからだ。この夜、来たのは偶然で、その彼氏と待ち合わせだったためだ。■「なんでも許してくれる。だから来てしまう」待ち合わせに現れた彼氏はミヤ(仮名・23)。ツイッターで知り合った女性に誘われたことがきっかけでトー横に来るようになったが、最近は3か月に1度のペースだという。「もうその女性もここには来ていないですね。ここは人がどんどん入れ替わります。僕は、ここでの知り合いを“友達”だとは思ってないです。ここでしか会わないし。何しに来るのか?って。それはお酒や会話を楽しむため。あとは(女性の)身体目的。やっているときは楽しい」だが、ほかの人にはトー横に来るのをすすめないという。「楽しいけれど、闇に飲まれるのは気をつけています。働いていない人もいて、“別に働かなくてもいいんじゃない?”と思ってしまい、仕事を疎かにしそうになります。ここはやばい。常識がないんです。その反面、なんでも許してくれる。だから来てしまう」ミヤは、逮捕されたことがあると話してくれた。「知り合った子と付き合って、性行為していたんですが、その子が17歳だったんです。年齢は知っていましたよ。普通、付き合っていれば、(都青少年健全育成条例違反の)淫行ではないと思うでしょ。警察に、出会って、どのくらいで性行為したのか聞かれました。罰金も取られました。ほんと、身体目的の男もいるんで、彼女には『トー横には行くな』と言っています」■パパ活の斡旋、病んでいくキッズ5月に、未成年者誘拐の疑いで逮捕された男(20)は、中学2年の女子(13)と性行為もしていた。出会いの場であれば、性行為の機会も多い。この男は再逮捕され、勾留中だ。「証拠があって立件できる分しか逮捕できていないが、実際はもっとたくさんの子どもを手籠めにしているはずで、余罪を調べています」(警察関係者)児童買春に絡んだ話もある。近くのホテルに宿泊することも珍しくはない。どうやってホテル代を捻出しているのか。「家にいることが精神的に苦しくて来ている」と話す女子高生のヨシ(仮名・15)は、「バイトで貯めた費用で泊まっている人もいるとは思うけど。ほとんどの子は、パパ活じゃないかな?」と話す。行き場がなくなった中高生が成人相手に援助交際をしている、ということだ。「相手はツイッターで見つけているんです。ただ、探すのは女の子ではなく、男子です」援助交際デリバリー、いわゆる援デリと同じ方法だ。つまり、“客”を探すのは男子で、その“客”と売買春をするのは女の子。男子は、女の子の報酬の中から一部を得る。同じ話は、家出中の、女子高生、ミカ(仮名・15)からも聞いた。「トー横で知り合った子が、パパ活をさせられていました。誰にさせられているのかは具体的には聞いていないんですが、トー横にいつもいる男です」NPO法人若者メタルサポート協会の相談員、竹田淳子さんは「誰とつながったのかが大事。基本的につながるのは、心の傷を持った子同士。ただ、そこに声をかけてきた大人たちに搾取されたりします。ちゃんとした大人につながればいいのですが」と話す。■’20年の小中高生の自殺者は過去最多ただ、トー横は、家庭内で虐待されたり、学校でいじめを受けている若者たちの居場所のひとつだ。子どもたちにも、苦しいときはSOSを出すようなことが言われているが、そう簡単な話ではない。「学校にも児童相談所にも警察にも相談したことがありますが、話を聞くだけで、何もしてくれませんでした」(前出のヨシ)そうした事情を警察に相談をした中高生がおり、児童相談所に保護された子もいる。SNSで「#トー横」で検索すると、精神的に不安定なユーザーがつながりたいため、「#病み垢」「#裏垢」などと一緒に呟かれている。「死にたい」や「消えたい」と呟いたり、リストカットや過量服薬(オーバードーズ、OD)する若者たちとつながる。アップされた画像にはリストカットし、血を流しているものもある。パパ活をさせられていた女の子の中で、自殺した可能性が高い女子高生がいる。その友人、アキ(仮名・15)は「助けられなかったことが後悔。仲がよかった子たちと何人かで後追いも考えました」と振り返る。10代の自殺は、夏休み明けが多い。’15年版「自殺対策白書」では、’13年までの42年間の、18歳以下の自殺者を日付別にまとめた。最多は131人で、9月1日だ。しかし、トー横に集まる若者たちは、夏休み中も常にリスクがある。日常を生きることも困難なのだ。警察庁によると、’21年7月までの全年齢の自殺者数は前年比で257人、14・7ポイント減少し、1万2452人となった。ただし、若年層の自殺は増えた。’20年に小中高生の自殺者は479人。職業別統計を取り始めて以降、過去最多だった。7月までで比較すると、中学生の場合、’20年は65人だが今年は75人で1割増。高校生の場合、’20年は131人。今年は188人、4割弱増で、右肩上がりだ。’17年10月に発覚した男女9人が殺害された座間事件は、ツイッターに「死にたい」「自殺募集」などとつぶやいた女性が狙われた。事態を重く見た厚生労働省はLINE相談を開始するなど対策を練るものの、若年層の自殺者は増える一方だ。トー横にいる若者たちは、それだけでSOSのメッセージを体現している。取材・文/渋井哲也教育問題、自殺などを取材。著書に『学校が子どもを殺すとき』(論創社)、『ルポ 平成ネット犯罪』(筑摩書房)、『命を救えなかった釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)など
2021年09月01日※画像はイメージです人気バンドSEKAI NO OWARIのボーカル、Fukaseさんが閉鎖病棟に入院していた過去をテレビで告白した。自身のインスタグラムでは、医者に無理やりズボンを脱がされて筋肉麻酔を打たれたことや、時計のない部屋で昼も夜もわからず閉じ込められていたという話を公表。センセーショナルな話題として一気に拡散した。■暗く怖い「閉鎖病棟」のイメージ厚生労働省の発表によれば、令和元年の精神病床における1日あたりの入院者数は1000人を超え、精神科受診者数は年間5万8000人以上となっている。重度のうつ病で入院を経験した漫画家、錦山まるさんは、「精神科や精神科病棟はみんながイメージするような場所ではない」と話す。実際のところはどうなのか?漫画家の錦山さんはうつ病を発症し、26歳のとき自殺未遂を起こして精神科病棟に入院することになった。錦山さんの話によれば、入院から4日間は重い鉄のドアのついた部屋に入れられ、外から鍵をかけられた。部屋にはプラスチックの椅子に穴があけられその下に容器が置かれた簡易トイレとベッド以外、何もなかった。私物は一切持ち込めないし、人との接触は日に数回まわってくる看護師とだけ。できることは何ひとつなく、ただ時間だけが過ぎていった。壁際の天井近くには監視カメラがついており、ナースステーションなどから四六時中見張られている。Fukaseさんも書いていたとおり「監視下の中で排泄までせざるをえない」環境に置かれるのだ。「最初はとにかく寂しくて、人間の生活をしているように思えなかったんです」この4日間の経験が今までの人生でトップ3に入るほどつらかったという。来る日も来る日もただひたすら時間をつぶすしかなかった。これまでのこと、これからのこと、どうしてうつ病になってしまったのか、うつ病を治した後のこと、漫画家としての自分など見つめなおした。病院によるとはいえ、閉鎖病棟の病室にあるのは基本的にベッドと簡易トイレのみ。洗面台やテーブル、椅子もない。扉は重い鉄のドアで外側からしか開けられない。どうしてこんな目にあわないといけないのか。錦山さんは入院当初、「病院に入院させられるほど自分は落ちぶれてしまったのだ」という屈辱感に支配されたという。そこにはやはり、精神科や精神科病棟への大きな負のイメージがあった。かつては、精神疾患患者は人目につかないところに隔離することも行われていた。1950年に精神衛生法が施行されるまではそんな患者にとっては厳しい状況が当たり前だった。しかも、精神衛生法でも一定の条件下での監視は認められていたため、その後も多くの患者が病院での非人道的な環境に耐えなければならなかったといわれる。’54年に薬物療法が導入される以前は、催眠療法や電気を脳に流したり、インシュリンやカルジアゾールなどの薬物を用いる療法が多かったのだ。「精神科病棟といえば、人里離れた山奥にあって病室の窓には鉄格子。入院患者は薬を打たれたり拘束されたりする」──インターネットのそんな情報や体験談を錦山さんも信じていたひとりだ。■患者のために徹底された安全管理精神科病棟への入院は所かまわず暴れたり、周囲に暴力を振るったりする患者を隔離するため、と思われがちだがそれは間違い。実際には患者自身が自らを傷つけたり、自死したりしないようにするための保護措置であることがほとんどだ。実際、錦山さんが入院することになったタイミングも自殺未遂の直後。部屋はシンプルな造りで、靴ひもタイプの靴や、携帯電話、割ると凶器になる可能性があるものを持ち込ませないようになっていた。入院中の差し入れなども患者の症状によって制限がかけられる。次ページ冒頭の漫画は、錦山さんの著書『マンガでわかるうつ病のリアル』からの抜粋である。架空の人物であるうつ病患者の夢が友人の璃杏に「死にたい」という気持ちになることがある、と打ち明けているシーンだ。「うつ病の人の死にたい気持ちは、病気でない人とは違うのだ」とあるが、平成27年の厚生労働省の調査でも自殺の2割はうつ病によるもので、職場や学校のトラブルによる自殺の約2倍にも達する。さらに、自殺未遂を起こす人の約3分の1までが、うつ病に限らず精神科にかかっていたり、精神疾患があることもわかっている。そして、精神疾患のある人の実行率が圧倒的に高いというデータは見逃せない。実は、閉鎖病棟とは入院患者にとって徹底的に安全な環境を提供する場所。「身体的拘束」も同じで、法律に基づき、開放的な環境では生命を危険にさらす可能性のある患者を守るためのものであり、基準が定められている。現在は「本人に危険が及ぶ場合」や「自殺企図または自傷行為が切迫している場合」などでしか許されず、さらに適用のルールが細かく決められている。以前とは異なるのだ。とはいえ、いくら病院側が細心の注意を払い、患者の安全のために拘束という手段をとっていたとしても患者の感覚は違う。錦山さんには入院時、身体拘束をされていないが、ベルトをきつく締められた経験を苦しげに語る患者と話したことがあるという。「30代の男性患者さんだったのですが、最初、ベルトがゆるくて暴れたらはずれたため、きつく締められたんだそうです。動きが制限されてイヤだったし、拘束中はトイレをおむつですることにするのに慣れなかったので、不快だったと言っていました。こういった体験が、今も根強く残る『精神科病棟は怖い』の理由かもしれません」■他科と変わらない入院生活個室の閉鎖的な空間はつらかったものの、意外にも錦山さんにとって精神科病棟は「普通の場所」だった。「たしかに、個室から出て病棟内を歩き回れるようになってからは叫び声を上げる人や机を蹴る人なども目にしましたが、そんなことばかりではありません。物にあたったり、ほかの患者さんに迷惑をかける人がいたらすぐに看護師さんが駆けつけ、落ち着くまで個室に入れたり、入院患者の安全を守っていました」第一印象は、病院がきれいだということ。窓に鉄格子などもなかった。「許可が出れば、院内を動き回ることもできました。売店に行ったり、外部へ電話したり、ロビーにあるテレビで番組を見たり、自販機で飲み物を買ったり。食堂には給湯器もあるので自由にお茶などを飲むこともできたんです」錦山さんの病院にはロビーと食堂にテレビがあった。漫画や雑誌、新聞、トランプやオセロなどもあり、個室に持ち込まなければ自由に利用できた。ただし、すべてが一気に許可されるわけではなく、それぞれ段階を踏んでの許可となるのは患者の状態に応じて安全のレベルが異なるから。だから、事前申請で許可が出れば外出も可能だ。■回復すれば、充実した生活もお風呂は予約制だったそうだが「ロビーなどまで出られるほど回復すれば、患者さん同士の交流もあったし、シェアハウス感覚でした」と話す。1日1回、ヨガや楽器演奏、習字など何かしらのレクリエーションがあり、行動制限がかかっていなければ自由に参加できた。食事の時間や消灯時間は決まっているものの、通常の入院生活と変わりがない。むしろレクリエーションが毎日行われているぶん、充実しているかもしれない。「強制参加ではないので、気が向いたときに参加してひとりで楽しんだり、ほかの患者さんと一緒に遊ぶことができます。私はこのレクリエーションのヨガが特に楽しみで、開催されない祝日は本当に退屈でした」閉鎖病棟は世間のイメージとは違い、患者が元気になるためにたくさんの工夫がされていたと話す。患者の症状に応じて病室は個室ではなく共同部屋に入ったり、ナースステーション内にある特別な個室に入ったりとさまざまだ。また、入院当初の「魔の4日間」にも大きな救いがあった。日に数回、部屋に顔を出してくれる看護師が、必ず時間を見つけては声をかけてくれたのだ。そのときほど人の温かみを感じたことはなかった。看護師との会話が錦山さんにとって大きな励みになった。「私は『どうせまた同じことを繰り返す』と訴えたら『ずっと繰り返しじゃない、いつかそうじゃなくなる日が必ずきます』と言われて。絶望感や屈辱感でいっぱいだった私が、このとき初めて元気になれると希望を持てたんです」それまでの多忙だった生活リズムが入院で落ち着いたこともあり、症状は劇的に回復した。もともと、3か月程度の入院が想定されていたが、長ければ半年くらいかかると思われていたところを、2か月弱で退院となったのだ。ほかにも社会復帰の練習のために、週に何回か、別の階や棟に移動して普段会わない患者と、1つのテーマについて話し合ったり、薬や病気についての勉強会をすることもあった。「私にとって、こうしたプログラムは病気を治すのに絶対必要な過程だったと考えています。閉鎖病棟は安全に過ごせ、少しでも早く元気になれるようにたくさんの工夫や配慮がされた“患者が元気になるための場所”です。振り返ってみると、トータルではとても過ごしやすい環境でした」新型コロナによる「コロナうつ」もニュースとなった。日本うつ病学会によれば、コロナの自粛によって人との接触が極端に減り、会社や学校などにも行かず、さまざまな我慢を強いられたストレスが積み重なり、引き起こされるという症状だ。「人と会わなくなったから」「外に出なくなって興味を向けるものが減ってしまったから」などもっともらしい理由があるせいで、症状に気づけていないことも多いという。右の漫画のように、何かがおかしい気がしても「たまたま失敗が続いているだけ」「疲れているだけ」と自分をごまかし、「ほかの人はできているのだから自分が悪いんだ」と思い込んでしまうことがある。心療科を持つ多くの病院が「該当する症状が一定期間続くのであれば一度受診を」「悪化する前に専門家へ相談を」とホームページで警鐘を鳴らしている。しかし、違和感を感じても病院に行かない理由は、自分がうつ病であることに気づかない、だけではない。これまで話してきたような精神科、精神科病棟へのマイナスのイメージが二の足を踏ませている可能性がある。「私もうつ病の疑いがあると感じながらも病院へかかることを避けていました。このくらいの仕事量はプロの漫画家ならこなして当たり前だ、と自分に言い聞かせて頑張る毎日。うつ病は弱い人間がなるただの“怠け病”だという偏見を持っていましたし、病院に行くこと自体に大きな抵抗があったのです」その後、後で結婚する当時の恋人から背中を押され、ようやく精神科を受診。通院と服薬による治療を受けることとなったが、「うつ病を治しても元の自分には戻れない」という絶望感にさいなまれ、自殺を図るほどまでに悪化してしまったのだった。退院してからは約2年で薬がゼロになり、その後も約2年、通院を続けた錦山さん。治療開始から通院終了までトータル5年半かかったという。「『たいしたことない』という自己判断で悪化させるのは、うつ病に限ったことではないかと思いますし、『うつ病は心の風邪だ』と表現する医者もいますよね」つまり、そのくらい誰でもかかる可能性があること。「悩んでいるなら、まずは病院に行ってほしいですね。そもそも病気なのか、治療が必要なのかは医師が教えてくれますから」と、錦山さんは力強くそう言う。うつ病に限らず、精神科のドアを開けることでそれまで何となく引っ掛かっていた悩みの問題が明確になるかもしれない。何より、自分自身との折り合いをつけるきっかけにもなるはずだ。■閉鎖病棟の病室を細かく説明!【部屋全体】物を引っ掛けられる出っぱりがなく造られている。【窓】はめ殺しではない。ビルのトイレなどにある、片側の端っこをほんの少し外側に向けて開けられるタイプの窓と同じ構造。鍵がかかっているのか開けることはできない。窓はガラスではなく強化プラスチックと思われる。窓自体のサイズは軽自動車のドアの窓くらい。窓の真ん中が床から170cmくらい。景色は見えるが少し位置が高い印象。【扉】小窓がついている。小窓の真ん中が床から160cmくらい。強化プラスチックらしき素材がはめ殺しになっていて小窓自体は開けられない。小窓には普段はふたがしてあり、外側(廊下側)からしかふたを開けられない。このふたはのれんみたいに上だけ固定されており、下の端に付いているツマミを持ってめくり開けるような簡易的なもの。たまに看護師が中の様子をのぞく。【扉のドアノブ】普通のドアと違い、物が引っ掛けられないようにドアノブが扉に斜めに刺さっており、鍵を掛けると画像のようにドアノブが下を向くようになっている。普通のドアノブのようなデザイン製はなく凹凸がないツルツルした造り【棚】ひもやガラスなど自傷他害に使えそうな物以外は好きに物を置ける。部屋の外に自由に出られるようになるまでは棚にトイレットペーパーだけが置かれていた。部屋の外に自由に出られるようになるとトイレットペーパーは回収された。【簡易トイレ】プラスチック製。便座部分にふたが付いており、トイレ時にはふたを開けて座って使う。ふた付きのゴミ箱のふたの周りに便座がくっついて座れるようになったような構造。便座もふたもはずすと中のバケツを取り替えられる。バケツ交換の時間まで便はそのまま。部屋の外に自由に出られるようになると簡易トイレは回収された。【ゴミ箱】中に袋などはつけられない規則になっている。100均のゴミ箱をそのまま置いてある状態。■錦山まる基準「こんな精神科病院・閉鎖病棟は注意!」【病院内部の情報がわからない】事前に少しでも情報が公開されている病院のほうが安心して行くことができる。ホームページやSNSなどで内部情報が集めやすく、わかりやすい病院に。【フィーリングが合わない】錦山さんの場合、親近者が通院する病院や入院する病院を選んだが、そのとき「ここにしよう」「ここはやめておこう」と思ったポイントは「対応の印象がよかったか」。受診のために電話をしたときの対応、入院前に病院に行ったときの診察の様子などから「しっかり向き合ってくれそうだ」「きちんと診てもらえそうだ」と感じた病院に決めたという。逆に患者さんの様子をほとんど見ない、患者さん本人に質問をほとんどしないなどの対応をされた病院はすぐに行くのをやめたとのこと。教えてくれたのは……●錦山まるさん●1988年、千葉県生まれ。プロの漫画家を目指して19歳で上京。24歳で初の単行本を出版するが、次回作の準備中にうつ病と診断されドクターストップがかかる。医師よりうつ病の「完全寛解」宣告を受け、うつ病に関する啓蒙活動に力を入れる。著書に『マンガでわかるうつ病のリアル』(KADOKAWA)がある。[取材・文/オフィス三銃士(松本一希)]
2021年08月31日※写真はイメージです過労死で親を亡くした子どもたちの交流会が行われています。もともとは過労死遺族たちが始めた活動ですが、今は過労死防止の事業の一環として、厚生労働省が支援しています。交流会ではどんなことが行われているのでしょうか。コーディネーターの一人として参加している元経済産業省職員の飯塚盛康さんに聞きました。■「遺児同士が思いっきり遊ぶ」ための場――なぜ厚労省が「過労死遺児交流会」を開いているのですか。以前は、遺族たちが自費で交流会を開いていたと聞きます。国が関わるようになったきっかけは、2014年に「過労死等防止対策推進法」という法律ができたことです。ご遺族が集まる「全国過労死を考える家族の会」(以下、「家族の会」)をはじめ、過労死問題に取り組む弁護士のみなさんなどが尽力してくれたおかげです。この法律に基づく事業のひとつとして、’16年から国の支援で遺児交流会が開かれています。――飯塚さんはもともと経済産業省で働いていたそうですが、交流会に関わるようになったきっかけは何ですか。経産省で働いていたころ、出先機関にあたる近畿と九州の経済産業局で、若い職員が2人も自殺してしまいました。それをきっかけに職場の労組の委員長を務めたり、大学院で過労死を研究したりしました。退職後は社会保険労務士として、企業に対して長時間労働や残業代不払いの解決を求めています。微力ながら過労死遺族への支援も行ってきました。そうした縁で遺児交流会の事業関係者の方から声をかけてもらい、第1回からコーディネーター(準備会委員)として参加させてもらうことになりました。というか、子どもたちと一緒になって遊んでいます(笑)。――交流会ではどのようなことを行うのですか。プログラムは「家族の会」の方々のご意見を聞いて決まります。私の考えでは、活動内容はシンプルで、「遺児たち同士が思いっきり遊ぶ」ということです。お父さんがいない家庭が多いのですが、そうするとスキーやキャンプ、海水浴などの遊びをする機会が少なくなります。交流会ではなるべく、そういった遊びをすることになっています。もうひとつは、保護者の方々の交流会・相談会です。みなさん、最愛の人を亡くしたなかで精いっぱい暮らしていると思います。暮らしや子育ての悩みを語り合ったり、専門家に相談したりできる時間が必要だと感じています。――交流会ではどんなところに行きましたか。年1回、夏休みか冬休みの時期に泊りがけで行っています。初回の’16年は山梨県でスキーをしました。16家族、18人の遺児が集まってくれましたね。翌年は長野県でバーベキューでした。あとは川遊びをしたり、遊園地に行ったり。参加者は毎年、少しずつ増えています。昨年は新型コロナの影響で宿泊が中止になり、オンライン交流会だけ開きました。今年も感染状況を見ての判断になりますが、年末のスキー旅行が企画されています。――交流会で子どもたちと接して気づいたことはありますか。事前に保護者の方々からいちばん注意されたのは、「“お父さん”という言葉を出さないこと」でした。あとは、「“学校”や“私生活”のことも聞かないでほしい」と言われました。いざ交流会に参加してみると、やっぱり必要な配慮だと思いました。遺児たちはとてもナイーブです。――どういうところがナイーブだと感じますか。私のようなおじさんがいると、小さい子はすぐに抱きついてきます。意識せずにお父さんを求めてきているのだと思います。そういう子に「お父さんが死んじゃって大変だったね」などと言ってしまったら、わざわざ思い出したくないことを思い出させて、深く傷つけてしまうと思います。心の扉をこじ開けてはいけないのではないでしょうか。――では、どのようにアプローチしますか。「お父さんの代わりにはなれない」と自覚したうえで、とにかく一緒になって遊ぶだけです。私も60才を優に越えてしまいましたが、だっこしたり肩車をしたり、できるだけ身体を使った遊びをするようにしています。学校に通う子どもたちのなかには、不登校やいじめを経験している子もいるため、そこにも軽々しく踏み込んではいけないと感じています。ただ、息抜きの場を作ってあげたいです。■過労死問題について今、思うこと――思春期以上の遺児たちにはどのような影響がありそうですか。保護者の方々から聞いた話では、残念ですが、お母さんとの関係に悩む人が多いようです。自分のなかで、お父さんが亡くなったことに納得できない部分があるのだと思います。その気持ちの持って行き場がなくて、「なぜお母さんは止められなかったんだ」と責めるような思いが生じてしまうのではないでしょうか。また、「子どもたちが、働くこと、社会に出ることをすごく怖がる」という話もしばしば聞きます。自分もお父さんと同じ道を歩んでしまうんじゃないか、という恐れがあるのだと思います。――深刻な傷を抱えているのですね。悩んでいる遺児に対してどのように接しますか。交流会に来た遺児たちが悩んでいるなと感じたとしても、私などが簡単にできることはありません。先ほども言った通り、息抜きの場を作ってあげることくらいです。遺児同士でなければ分かり合えない部分もあるかもしれません。遺児交流会には、大学生や高校生の遺児も参加しています。交流会で同年代の子と意気投合し、とても仲よくなることがあります。この事業の意義深さを感じます。――遺児交流会に参加した経験を踏まえて、過労死問題について言えることはありますか。過労死をめぐる報道では、主に配偶者を亡くされた方が取材を受けています。若い方が亡くなった場合は、そのご両親がお話をされることが多いです。一方で、メディアが取りあげていないだけで、子どもたちも傷ついて大変だということに思いをはせてほしいと強く感じます。過労死・過労自殺を出してしまった会社は、その方の両親や配偶者だけでなく、子どもも傷つけます。その傷は大人よりももっと深いかもしれません。そこまで思いを巡らせて、とにかく日本のすべての会社が、自らを戒めてほしいと思います。(取材・文/ジャーナリスト・牧内昇平)※このインタビュー記事は、筆者(牧内昇平)が8月4日に開いたオンラインイベント「『過労死』について考える」で行った飯塚氏とのトークセッションの内容に再取材を加え、構成しています。※記事のタイトルと本文の一部を修正しました(2021年8月26日)【PROFILE】いいづか・もりやす◎1955年、埼玉県生まれ。ノンキャリア官僚として通商産業省(現・経産省)に入省。現役官僚だった頃に過労死問題に関心をもち、早期退職後の’13年にNPO法人「ディーセント・ワークへの扉」を設立。過労死防止のための活動を続ける。明治大学大学院経営学科修了。社会保険労務士。「東京過労死を考える家族の会」会員。
2021年08月22日拒食症に苦しむ18歳の女性。体重は30キロに満たない多くの女性たちが持っているやせ願望。だが、無理なダイエットがいつの間にか摂食障害になってしまうケースも……。特に『まじめな優等生タイプ』ほどその危険度は上がるという。「子どもが摂食障害、拒食症になると知らない人が多いことを危惧しています。大人と同じような摂食障害で身体を壊す10代の子どもたちが増えています。安易なダイエットはしてほしくない」そう話すのは子どもの摂食障害に詳しい作田亮一教授。10代、20代で発症することが多く、女性の割合が高いが年齢、性別など問わず誰でもなる可能性がある病だ。「やせて可愛くなりたい」、それだけが原因ではない。「まじめで頑張り屋という共通点があります。成績もよくてスポーツもできるんです。なのに自己評価が低い。満たされないものを何かで補おうとする。それがダイエットになるんです。やせると達成感が得られるためにどんどんはまる」(作田教授、以下同)ほかにも「学校給食を残してはいけない」と言われたことで食べられなくなってしまうケース。バレエや陸上など体重制限があるスポーツでやせすぎるケースもあるという。「学校、友達関係、いじめ、家庭の問題もあります。幼児期の家庭内でのトラウマ、性的、心理的な虐待の場合もあります。バックグラウンドは非常に多岐にわたっています」芸能人やスポーツ選手にも少なくない。「自分の体形に対する認知が歪み、やせているにもかかわらず自分は太っているとか脚が太いと思い込み、やせようとします。10代の場合、過食をして吐くことは少なく、徹底して食べないなどでやせていく特徴があります」最近では小学校3年くらいから症状が出てくることが報告されており、特に中学生に目立つようになってきた。「これまでは摂食障害で当センターを受診する小中学生は年間20~30人ほどでしたが、昨年は倍。新型コロナウイルスが間接的に影響していることは間違いありません」外出が制限され、コロナ太りや運動不足が社会問題になり、ダイエットが注目された。「休校中に親や友達とダイエットを始め、気がついたら病気になっていたと受診するケースが多かったんです。学校生活も部活も中途半端。環境の変化によるストレスも影響があったと考えられます。コロナ禍ですっかり変化した社会の状況に子どもたちが影響されたことは一目瞭然です」■アイドルへの憧れで無理なダイエットもさらにはユーチューブやインスタグラムなどのインフルエンサーやアイドルにも影響を受けているという。「細くて可愛い同年代の女の子たちに影響されているのでしょう。それが子どもたちの標準になっています。その子と自分を比べてしまい、自分の体形を気にしてしまう」そしてやせるために徹底的に食べないことを選択する。「うちを受診する中学生の女の子で1週間に数食しか食べない子もいました。水を飲むのもそのときだけ。ですが本人は病気だとは思っていない」では、長年続くとどのような影響が出るのだろうか。「1つが病的な低身長。摂食障害になったことで性ホルモンが出ない。第二次性徴期が発来しないんです。身長の伸びが止まってしまいます」将来、重症の骨量減少、骨粗鬆症になるリスクも高まる。女子は無月経が長期間続けば不妊のリスクも高まることに。内臓機能も不調になり生命維持機能に支障をきたす。いちばん解決しなければならないのは心の問題だ。「栄養療法で身体はよくなっても自己評価の低さからは抜けきれないんです。体重が減れば達成感は大きく、そのときは自分の評価が高くなる。そんな快感が忘れられず、食べられなくなってしまう」むちゃくちゃに食べて吐くを繰り返す過食症に移行する拒食症の当事者も少なくない。そうなると治療に抵抗して経過が長くなり、回復するのはさらに難しくなっていく。それ以上に深刻なのは自ら命を絶ってしまうことだ。「摂食障害はうつ病に次いで自殺率が高い病気なんです」食べ物や体重のことで頭はいっぱいになり、他人に劣等感を覚え、希死念慮を強く抱く。やせることにとらわれ、食事をしなくなれば衰弱していくばかりだ。「“慢性的な自殺”と表現する専門家もいます。摂食障害はゆっくりと自ら命を削っていくような状態なんです」コロナ禍で増えた10代の自殺問題もその背景に摂食障害の増加もあるのでは、と専門家らは危惧している。「小児期の摂食障害は大人に比べて完治する可能性が高いんです。早期発見、早期治療が肝心です」では大人はどうやって気づけばいいのだろうか。「最近の子どもは習い事をしているケースが多く、家族とご飯を食べる機会が少ない傾向にあり気づくのが遅れる。毎日は無理でも週何回かはお子さんと楽しく食べてほしい」夏休み明け、さらに患者が増えることを危惧している。「子どもがダイエットを考えているなら正しく親の管理下でやってほしい。そして積極的に子どもに関わってください。それが予防になり、早期に発見できます。子どもたちを孤立させないことです」13歳で発症・村上英子さん(仮名・40代)■いい子でいるプレッシャーが「私の場合、家族、特に母親との関係が発症の原因のひとつと考えられます」そう明かすのは村上英子さん(仮名・40代)。中学1年生のころに拒食症を発症した。俗にいう「いい子」だった村上さんだが、親との関係性はどこかいびつなものだった。「親と子で接し方が逆転した感じです。私は母親の気持ちを察して、幸せにしなきゃいけないと必死でした」母親は「いいお母さん」だったが、彼女自身の満たされない思いや生き方への不満、娘への嫉妬を無意識のうちに村上さんへ向けていたという。尋ねると当然、否定したというが、幼いころから母の思いを敏感に感じ取っていた。言葉にできないモヤモヤとした思いや苦しさを抱え、誰にも打ち明けられなかった。学校でも部活ではレギュラー、成績もトップ。友人関係も相手に合わせ、嫌われないように、と気が抜けなかった。そんなとき、所属していたバスケットボールチームのコーチの「なんだその太ももは」というデリカシーのないひと言に傷つき、やせて周囲から称賛される同級生の存在をうらやんだことで中学1年の夏、ダイエットを決意。食べる量を少し減らす食事がエスカレート。中学2年の夏の食事はみかんの缶詰やところてんなどだけ。それさえもすぐに食べなくなった。冬には体調も悪く、学校も休みがちに。もともとやせていたがそのころの体重はダイエット開始時の半分ほど、いつ死んでもおかしくない状態で、「ミイラみたいな見た目だった」と振り返るだが自分がやせているとは思わなかったという。「やせても自分がやせているように感じない。自分は太っていると思っていたんです」信頼できる小児精神科医らとの出会いをきっかけに治療を始めたが今度は体重が増える恐怖との闘いだったという。拒食から過食になり、食べて嘔吐を繰り返すようになり、症状は30年近く続いた。「今でも母親との関係が解決したわけではありませんが、治療を続け、言葉で表現できるようになってからは症状が少しなくなってきました」そして夫との出会い、出産も村上さんを変えた。「初潮が始まる前に摂食障害を発症し、不妊のリスクがあったにもかかわらず、子どもを授かれたことは神様の計らいだと思っています。自分が母親になったことで気づけたことも大きいです」子どもが拒食症になったとき、母親や家族は必要以上に自分を責めることがあるという。そのときに自分自身の人生や家族との関係を見つめ直すことも大切なのだ。「子に寄り添い、自分たちも変わることも大事だと思います。楽しく自分の力で生きている様子を見せること。そうしたアプローチも回復の後押しになるでしょう」10歳で発症・木下亜由美さん(仮名・20代)■飲み会やオールが回復を後押し「発症にはもともとの性格も大きく影響していると思います。何事も思いつめてしまい相手の言葉を真に受けてしまう。まじめな子どもでした」そう話すのは木下亜由美さん(仮名・20代)。摂食障害の発症のきっかけは周囲からの何げないひと言だった。「小学5年生のとき友人から“太ってる”とか親からも“よく食べる”と言われました」ショックを受けた木下さん。“太っていることはよくない。やせなければ”と思い、ダイエットを始めたという。まず食事を減らし、カロリーコントロールを始めた。おにぎり1個、パン1個の食事。小学校は弁当。いつもコンビニで購入していた。中学受験を控えていた木下さんは夕飯もコンビニですませることが多く、親も食べていないことに気づいていなかった。「食事制限だけでなく激しい運動もしていました。おなかいっぱいにならないほうが勉強もはかどりました」健康の問題もなく、どんどん深みにはまっていった。ダイエットを始める前の身長は148センチで50キロほどだったが2年後の中学入学直後にはその半分近くまで落ちていた。だが、ダイエットをやめることができなかった。「体重が減ることに満足していて自分が間違っているとは思わなかったですね。体重が増えるのが怖かった」心配した友達の「やせすぎじゃない」「それしか食べないの? 」との声も届かなかった。中学1年の冬、親に強制的に入院させられ治療したことで食事ができるようになった。「親は私を太らせたいのだと思い込み、親の作るご飯が食べられませんでした」頭の中はいつも食べ物と体重のことばかり。木下さんを変えたのは大学で出会った同級生たちだった。「飲みすぎてつぶれる友達がいたり、オールをしたり、大学生らしい生活をしていたんです。そのときにこだわりがほどけて、みんなと食事ができるようになった」それまでは食事の時間もきっちり決めて、暮らしに厳しいルールを設けていた。「いろいろな生き方があることを知りました。やせていても太っていてもいい、勉強ができてもできなくてもいい」今は別の大学に入り直し、医学部の6年生だ。実習先で中高年の当事者と出会うこともあるという。「大人の摂食障害も増えています。体形のことで間違った指摘をすると逆効果になる人もいます。摂食障害は死亡率も高い怖い病気です。学校や社会がもっとこの病気のことを正しく知ることは大切だと思います。やせていることがいいことだ、というような社会の風潮を変えていかなければと思います」頑張りすぎなくてもいい。木下さんはそう願う。早期発見のためのSOS摂食障害は自分自身ではなかなかその症状に気づくことができない。そのため周囲の人にその兆候が見られたら本人に伝え、まずは専門家に相談を。(1)体重に関するSOS・明らかに体形が変わり、背中やあばら骨が浮いている・体重が増えることを極端に怖がる・「自分は太っている」「やせたい」という言動が多い・1日何度も体重計に乗る(2)食事に関するSOS・食べる量や回数が減る・カロリーの低い食事ばかりを食べる・カロリー表示をとても気にする・人との食事を避ける・食べてないのに「お腹すいていない」「食べている」と言う・食べだすと止まらない(3)行動のSOS・激しい、むちゃな運動を行う・常に動き続ける(4)排出行動のSOS・食事直後にトイレに行く・手の甲に嘔吐するときにできるたこがある・虫歯や歯のトラブルが増えた(5)その他のサイン・気分の浮き沈みが激しい・不安やイライラが増えた・隠し事が多い・集中力や判断力が低下するお話を聞いたのは……小児神経学・作田亮一教授●獨協医科大学埼玉医療センター子どものこころ診療センター長。『10代のためのもしかして摂食障害? と思った時に読む本』(おちゃずけ著)のイラストを監修、解説。
2021年08月21日“トー横キッズ”とは、東京・歌舞伎町の映画館「TOHOシネマズ」横の通り、通称“トー横”に集まってきた若者たちのことを指す今年5月11日、18歳の専門学校生の男性と14歳の中学生の少女が新宿・歌舞伎町のホテルから飛び降りて、死亡した。少女のものと思われるバッグの中からは遺書らしきメモが見つかっていた。亡くなったのは“トー横キッズ”の2人だ。歌舞伎町の映画館「TOHOシネマズ」横の通り、通称“トー横”に集まってきた若者たちのことで、“トー横界隈”とも呼ばれている。■自殺・誘拐……問題浮き彫りに亡くなった男性のものと思われるTwitterには、飛び降りる数時間前に《(一緒に亡くなった中学生と)付き合ったカモ〜》との投稿がされている。最後の投稿は、約1時間前の《お幸せになるが〜!!》というものだ。自殺した理由の書き込みはなく、はっきりとはしないが、市販薬を映した動画が投稿されている。その市販薬を過量摂取(OD、オーバードーズ)し、意識を朦朧とさせることが一部で流行っているが、同じことが行われていた可能性がある。ちなみに、5月5日には、岩手県の男(20)がTwitterで知り合ったトー横の少女(13)をビジネスホテルに連れ込み、誘拐の疑いで逮捕される事件も起きた。今年の5月に、自殺と事件が相次いだことで“トー横”の問題が浮き彫りになったのである。“トー横キッズ”の実質的な“リーダー”は、バーテンダーの男性、あまみやさん(23・仮名)だ。2年ほど前から、若者たちが歌舞伎町周辺で飲んでいたのが始まりだという。「若い子が多い。昼は中学生もいますよ。多くの子たちは、ここで知り合って友達になって、『また会いたい』から来ているのではないでしょうか。メンツの入れ替わりは激しい。全体では200人くらいが来ていると思いますが、1度に集まっているのは最大で40人くらい。半年に1回しか来ない人もいますし」SNSで注目を浴びたのは、TwitterやTikTokに投稿している動画だ。トー横周辺で踊ったり、前転や側転を繰り返す内容だったりする。中でも“地雷メイク”はトレンドとなった。7月某日。トー横で座って、男友達と話していたチャッピーさん(20代・仮名)。「あまみやさんが投稿した動画を見て、“やばいやつがいる”と思って、凸(突撃)したんです」と話す。動画を見て、興味を持ち、トー横にやってきた。「今は月に2、3度くらい来ています」出会った友達と立ち話をしていた高校3年生のクズさん(18・仮名)は「Twitterで知り合った友達に会いたいから来ています。ここで友達が増えました。共通する話題がある」と楽しそう。来春には卒業だが、「就職も学校から紹介された会社に決まっていますし。きっと、卒業してもまたここに来ると思います」■親からの虐待の果てに辿り着いた“トー横”NPO法人若者メタルサポート協会の相談員、竹田淳子さんは歌舞伎町に集まっている若者について、「“トー横キッズ”をよく見ます。飲酒をしていたり、女の子同士が話していたり。そこに男の子が声をかけたりしていますね。以前の歌舞伎町なら、グループが集まることはなく、基本的には1人で徘徊したり、集まっても2、3人だったのではないでしょうか。最近はSNSでつながって集まってきている印象です」と話す。歌舞伎町で徘徊する若者たちはどんなタイプなのか。「普通の子に見えていても、家族や学校に居場所がなかったりします。例えば、親からの虐待を回避するために居場所を求めてたどり着いたという子たちもいます」“トー横キッズ”の中で自殺者が出たが、前出のあまみやさんは「警察の事情聴取で、自殺した人たちの原因を聞かれました。最初の2人は家のことでちょっと悩みを抱えていたようです。翌週、同じホテルから男性が飛び降り自殺をしている。3人目はよく知っている10代の子でびっくりしました。死ぬって感じじゃなかったので……」と驚きを隠せない。最初の2人が飛び降りる直前の様子を知る人がいる。サラさん(10代・仮名)だ。ホテルのエレベーターを待っているときの表情を見た。「そのとき、2人とは会話はしていないのですが、暗い様子でした。(市販薬の)ODの後だったらしくて、結構目がパキッた(キマった)後のような目をしていました。2人が亡くなったことを知ったときは、ショックで泣き叫びました」亡くなった男性と思われるアカウントには5月4日、ODをしたと思われる市販薬を映し出した動画がアップされ、《パキるが〜!!!!》と投稿されていた。ODを繰り返していたのだろうか。「(亡くなった2人は)今年の4月から来ており、そこで親しくなり、連絡を取り合っていました。トー横に集まる若者たちの中には、精神的に不安定な若者も多く。そこで、市販薬のODや飲酒をすすめられたりします」(サラさん)■未成年者の市販薬の乱用が増加国立精神・神経医療センター精神保健研究所の松本俊彦・薬物依存研究部部長(精神科医)は、全国の精神科医療施設で調査。10代の薬物乱用で、市販薬が多用されていることを明らかにした。「危険ドラッグ規制以来、10代では特に、市販薬の乱用は増えました。(亡くなった2人が)死のうと思って飲んだとすれば、さらにいつもよりも多くの量を飲んだ可能性もありますね」市販薬のODは、危険性を伴うことを指摘する。「非合法薬物の成分が微量ですが、入っています。また、ほかの成分によって、肝臓や腎臓の機能が悪くなることも。大麻のODでは死ぬことはないですが、市販薬のODで死ぬことはありえます。さらにエナジードリンクやストロング系のチューハイを飲むことで体調悪化が拍車をかけます」なんのために市販薬のODするのか。「臨床経験でいえば、性被害や被虐待経験者が多いです。患者さんたちは『消えたい』『いなくなりたい』『死にたい』を紛らわせるために飲んでいます。日ごろから居場所がない子たちなのです」家庭や学校に居場所がない若者たち。SNSで知り合った、悩みを抱える同年代の若者たちと友達になるために、トー横に集まっている。コロナ禍でもあり、さらに居場所がないと感じているのだろう。もちろん、市販薬ODは危険を伴うだろう。ただし、若者たちが、トー横に集まらなくなったとしても、別の場所を探し、市販薬のODをするだけ。ODをしてしまう背景の解決にはつながらない。こうした状況に、「警察の問題というよりも、福祉の問題です」と松本医師。前出の竹田さんも、「普通に見える子どもたちのSOSに気づいてほしい。大人は正論をかざすが、説教や経験を述べるのではなく、ただ、ひたすら若者たちの声に耳を傾けてほしいのです。悩みがあれば、一緒に解決策を探すことが大切」と、大人に忠告する。“トー横キッズ”に見られる現状は、大人たちがサインを見逃した結果ともいえるのではないだろうか。取材・文●渋井哲也(しぶい・てつや)●1969年生まれ。新聞記者を経てフリーに。若者のネット・コミュニケーションや学校問題、自殺などを取材。著書に『ルポ平成ネット犯罪』(筑摩書房)、『学校が子どもを殺すとき』(論創社)ほか
2021年08月08日16歳の少年が誤って発砲して母親を撃ち殺し、その後自殺したと米オクラホマ州デルシティ警察が発表した。地元テレビ局KFORなどが報じている。警察の発表によると、7月31日午後11時過ぎ、16歳の少年が自宅リビングでピストルを持って遊んでいたところ銃が暴発。弾丸はリビングとキッチンを隔てる壁を貫通し、少年の母親ステファニー・ロウショーン・ジェニングスさん(36)の頭部に当たった。「彼女はその場で床に倒れ、死亡しました。(少年は)持っていた銃が暴発したこと自体、ひどく恐ろしかったと思います。さらに、自分が母親を撃ってしまったという事実を目の当たりにした彼の気持ちは想像もできません」とデルシティ警察所長ブラッドリー・ルール氏は記者会見で述べた。少年は、キッチンで血を流している母親を見て外へと飛び出し、同じ銃を自分に向けて自ら命を絶ったという。事件が起こった当時、リビングには目撃者がいたようだ。「目撃者に何が起こったかを聞きましたが、それは現場の状況と一致しました。目撃者は少年が自殺するつもりで外に出て行ったことは知らなかったと思います」と、ルール氏はPEOPLEの取材に語っている。KFORは遺族にコメントを求めたが、取材は拒否されたと伝えている。他のあらゆる事件の可能性をつぶすため、警察は徹底的に捜査を続けると、ルール氏は強調したという。
2021年08月04日三浦春馬さん三浦春馬さんが亡くなって、まもなく1年となる。彼が突然いなくなったのは、昨年の7月18日だった。「マネージャーが自宅まで春馬さんを迎えに行きましたが、電話やメール、インターホンにも応じませんでした。管理会社に連絡して鍵を開けて部屋に入ると、すでに意識のない状態。病院に搬送されて、死亡が確認されました。警察による検証の結果、自殺だったと判断されています」(スポーツ紙記者)新型コロナウイルスの感染が広がっていた時期で、大勢が集まる葬儀は見送られた。「亡くなった2日後に、所属事務所のアミューズのサイトで“お別れできる機会を設けたいと考えている”と発表。昨年10月には“’21年7月を目安に実施予定”という告知がありましたが、結局、7月18日にオンライン上で追悼の特別コンテンツが公開されるだけになったそうです」(前出・スポーツ紙記者)やむをえないのかもしれないが、やりきれない気持ちのファンも多い。「亡くなったことをまだ受け入れられない人もいますから。コロナ禍とはいえ、お別れ会ができないことで、思いをぶつけるところがないんですよ。お墓がどうなっているのかも気になります。同じアイテムを購入して身につけたいと思うファンもいるので、服や小物などの遺品も、何かの機会に公開してほしい」(ファンの女性)■春馬さんが通った地元の映画館春馬さんを偲ぶことができる場所が、茨城県土浦市にある。映画館の『土浦セントラルシネマズ』だ。館長の寺内龍地さんは、春馬さんが子どものころからよく知っていた。「彼が小さいころロビーを駆けずり回って、従業員に“コラ!”と怒られたりしていたんですよ。普通のやんちゃな男の子、という感じでした。2002年に公開された『森の学校』という映画に彼が出たときの舞台挨拶をここでやったんです。2009年の『クローズZERO2』の撮影のときにも挨拶に来てくれました。成長してかなり変わっていたので、“誰!?”って思いましたが(笑)。“ずいぶん大きくなったなあ。モテるだろ”と声をかけたら、“いやいやそんなことないです”なんて返してくれました」同じ建物内にあるスポーツスタジオを貸してほしい、と頼まれたこともあった。「“空き時間を利用してドラマの役づくりがしたいんだ”と言っていました。ご家族の方は1回も来たことないですね。『森の学校』で舞台挨拶をやったとき、まだ12歳だったから、普通は母親も来そうなものなのに挨拶すらなかった。だから顔も知りません。それを反面教師にして、彼は他人を慈しむことができる人に育ったんだと思います」この映画館では、現在も春馬さんが出演している作品を上映している。「彼のことが風化するのもかわいそうだし、地元としてできることはないか、と考えました。彼が亡くなったときに『森の学校』の監督に連絡して、改めて上映できないか相談したら、もともとフィルムだった映像をデジタルにしてくださいました。1月からずっと上映しています。それ以外の彼の出演作品も、期間ごとに入れ替えながら上映しています。大きな映画館ではこういうことはできないから、地元の個人館としては、彼の足跡を残す意味で、ずっと続けていけたらと思っています」ロビーでは写真展も。『森の学校』や『天外者』の劇中写真やオフショットが展示されている。「ロビーに桜の木があったでしょ。映画を見終わった方に、春馬さんへのメッセージをピンクの紙に書いて貼りつけてもらっているんです。コロナ禍でここに来られない方もいるので、郵送でも受け付けるようにしました。日本全国からはもちろん、ニュージーランド、カナダ、ニューヨーク、ハワイ、中国からもメッセージが届いています」命日にイベントを行う予定はなく、通常営業だという。「“彼に会いたくなったら、いつでもどうぞ”という気持ちです」春馬さんが土浦セントラルシネマズを訪れていたのは、『つくばアクターズスタジオ』が近かったから。彼が5歳から通っていた芸能スクールだ。当時、代表を務めていた加藤麻由美さんは、まだ自分の気持ちにけじめをつけられない。「ひとりっ子でお母さんもお仕事をされていたので、“帰りたくない!”という春馬を私のベッドに寝かせていたこともありました。小さいころは本当にお母さんのことが大好きでした。会話していて“それ、お母さんにも言われたことある!”と、私にお母さんを重ねているようなところもありました。あの子の人間性はわかっているので、そんな優しい子がなんで、と思うと、何を責めたらいいかわからないですよね……」ひとりっ子の春馬さんをアクターズスタジオに連れて行ったのは母親だった。“友達ができれば”という考えだったが、学校が終わるとほぼ毎日、歌やダンス、演技のレッスン。俳優になりたい、という気持ちが強くなっていった。「お母さんは“ステージママ”というタイプではなかったので、ある意味でスタジオとしてはやりやすい面がありました。よくも悪くも“ドライ”な方なんでしょうが、レッスンや出演する作品などについては、信頼してお任せしていただいていたんだと思います」春馬さんが7歳のとき、地元で“三浦春馬を大きく育てる会”がつくられる。「県議の方、市長さん、商工会の会長さんなど、地元の名士の方に実行委員になっていただきました。1000人以上集めて春馬の映画を公開し、実行委員のみなさんに舞台挨拶をしてもらったこともあります。地元のお祭りで市長さんに、春馬と手をつないで歩いてもらったことも。それだけ私も、春馬のことは目をかけていたというか……」■“あの日”にアミューズから連絡が春馬さんは2007年の映画『恋空』で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞。報告のため、加藤さんの自宅を訪れた。「キッチンのカウンターに寄りかかりながら“アカデミー賞もらったよ!”と話してくれました。普段はあまり連絡をとっていませんでしたが、報告があると連絡をくれたんです。ただ、“受賞を報告してもらえるような立場でありながら、不幸を止められなかった”という思いがあるんです。“あの日”はテレビの速報をたまたま目にして、彼が亡くなったことを知って、半狂乱でした。しばらくしてアミューズの方から連絡をいただいて、“守れなくて、すみませんでした”と……。それが、近しい大人の素直な感情なんだと思います」一周忌を迎えても、加藤さんは何かをする気持ちにはなれないでいる。「本当に罪なヤツですよ。会ったらぶん殴ってやりたい。なんでこんなに悲しい思いをみんなにさせるのか、どういうことかわかってるのか、と……。スタジオで主に彼を指導していた当時の常務は先に亡くなっていますが、向こうで怒っていると思います。もともと常務は役者をしていた人でもあるので、春馬からすると“師”ともいえるでしょう。あえて時代劇に出演させて、きちんとした演技の基礎や現場の常識から学ばせましたが、ちゃんとあの子は応えてくれました。だから私の半生はなんだったんだろう……って、本当に春馬は馬鹿野郎ですよ」加藤さんは今年、『森の学校』が再上映されたとき、舞台挨拶に登場した。「悪天候の中、全国からファンの方に集まっていただいたんです。舞台挨拶が終わって、みなさんに声をかけていただいて、ひとりひとりとお話ししました。ファンは春馬のお母さん世代くらいの、年配の女性が多いんです。昔からのファンではなく、“亡くなってからファンになりました”という方も大勢いて驚きました」春馬さんにとって加藤さんが母親代わりだったとするなら、父のような存在だったのが卯都木睦さんだろう。茨城県のオリジナルヒーロー『時空戦士イバライガー』を運営する『茨城元気計画』代表を務めており、春馬さんにとってはサーフィン仲間だった。「今でも世界中のファンから手紙が届いています。今、私は春馬ファンのことを優先して日々を考えているので、僕自身が落ち着くのはだいぶ先になると思います。僕は“ヒーロー”でもあるので、目の前のことから逃げるわけにはいかない。泣きながら電話をかけてきたファンの対応を何時間もするような生活を1年続けてきました。だから“あれ、春馬っていなくなっちゃったのかな?”と、思い出す余裕すらないんです」春馬さんの死後、彼の出演する作品を見ていないという。「まだ春馬のことをゆっくり考えている暇がないんです。今いちばん困っている、悩んでいるのは、突然の訃報に苦しむファンたち。彼らに手を差し伸べ、救うことを優先したい。もし天国から春馬が見ていたら“いっぱい迷惑かけちゃってごめんね”なんて言うと思いますが、全然気にならない。“俺メンタル強いから大丈夫だよ、気にすんな”って言ってあげたいですね」■春馬さんから「家族だよね?」春馬さんは、卯都木さん宅では自分の家のようにくつろいでいた。「海から帰ったら、ソファに寝そべって携帯をいじったりしていました。妻の誕生日には“ママさーん!誕生日おめでとう!”と玄関から叫んだことも。春馬から“家族だよね?お父さんじゃん!”と言われたんです。“卯都木さんは僕にとって特別な人だから”って言ってくれたこともありました。“何、照れくさいこと言ってるんだよ”って笑ってごまかしましたけど(笑)。そういうふうに慕ってくれた春馬の、そんな彼のファンをないがしろにするわけにはいかないんですよね」卯都木さんが春馬さんとの関係をより深めていったのは、2016年ごろから。「その当時は、春馬と家族との関係がなくなっていたので、知恵袋であり親代わりとしてついていてあげよう、と思って。春馬がいつ海に来てもいいように、サーフィンに適した午前中には予定を入れないようにしたんです。そうすると電話があって、“あさって空いてる?”とか言われて。亡くなる前の年の秋までは、週2くらいで来ていましたね」春馬さんがサーフィンをしていた海岸には、今もファンが訪れている。「寂しげに海を見つめている女性がいるんです。浜には花が手向けられていることも多いですね。曜日を決めて海岸の清掃を行っているファンもいます。ときどき春馬のファンから僕が写真やサインを求められることもあります。春馬にゆかりのある人と関われることがうれしいみたいで」春馬さんの死を止められなかったことに、悔しい思いは残る。だからこそ、春馬さんの面影を、いつまでも忘れずにいたい。
2021年07月16日※画像はイメージです昨年4月に初めての緊急事態宣言が発令され、その後も新型コロナウイルスの脅威は収まることなく1年以上の月日が流れた。「学校が一斉休校になったり、夫が在宅となったり……。コロナ禍となり、家庭を持つ女性には大きな負荷がかかりました。それを表すかのようなショッキングなデータがあるんです」というのは、心理カウンセラーの大野萌子さん。3月に発表された厚生労働省と警察庁のデータによると、2019年の自殺者は男性が1万4078人、女性が6091人、2020年は男性が1万4055人、女性が7026人。男性が微減なのに対し、女性は約1000人も増加した。今年に入っても増加傾向は続いていて、警察庁の暫定値では、今年5月に自殺した女性は616人で、前年同期に比べ23・7%増加。2020年6月から11か月連続で前年を上回っている。そして注目したいのが、自殺者の中で急増しているのが“同居あり女性”だったという点(厚生労働大臣指定法人いのち支える自殺対策推進センター「10月の自殺急増の背景について」より)。大野さんの元にも、「夫も子どももいるのに、どうしようもない孤独を感じる」「家族と一緒で幸せなはずなのに苦しくて仕方がない」「夫が在宅となり、1日3回の食事作りを毎日するのが苦痛」「ひとときもリラックスできない。やることが多すぎて、押しつぶされそう」など、主婦からの相談が多く寄せられている。家族が家にいるため、クローゼットの中から声を殺して電話をしてきた女性もいた。■家庭の不安を背負ってしまうなぜ主婦ばかりが追い詰められてしまうのだろう。「大きく3つ考えられます。第一は、お母さんが家族のストレスの矛先になりやすい点です」(大野さん、以下同)夫が、リモートにストレスを感じる、コロナ禍で仕事がうまくいかないなどから、妻に八つ当たりをしたり。子どもが外で遊べずにイライラして、母親に当たり散らしたり。「家族の中心人物であるお母さんは、自分だけでなく、みんなの心理負担も背負うことになるのです」第二は、女性が持つ役割の多さによる。「母の役割、妻の役割、家事など生活全般を担う役割、実母や義母に対して子どもとしての役割……家族を持つ女性は役割がとても多い。やるべきことや気がかりなことが山積みで、常になんとかバランスをとっている状態です」コロナ禍でどこか1か所に負荷がかかると、たちまちバランスが崩れ、連鎖的にすべてが回らなくなってしまいがち。「一気に、全部つらい、という気持ちに陥ってしまうのです」最後は、収入が少ないことへの引け目。「例えばコロナ禍でパート収入が減った場合、うしろめたさを感じる人が多いです」夫から「仕事もしていないんだから、家事くらいちゃんとしろ」などと心ない言葉をかけられでもすれば、反発もできず、すべて真に受けてしまいやすい。「自分のふがいなさや、家事をきちんとやらない自分が悪いなどと感じ、自分を追い詰めてしまうのです」■リセット時間を持つことが大事コロナ禍前であれば、気分転換にちょっとウインドーショッピングを楽しんだり、ママ友に夫のグチを言うなどして、ストレスを発散できた。けれども現在は、家族が家にいることが多く、ひとりの時間が激減。「行動が制限され、ストレスも吐き出せず、精神的な閉塞感が募りやすいと思われます」つらい、苦しい、悲しい、死にたい……そんな感情を少しでも抱いたら、押し殺さずに「今、自分は追い詰められている……と早めに自覚して、気づいてほしい」と大野さん。限界を超えてなお我慢をしていると、つらい状況に麻痺してしまい、無力感、絶望感、孤立感に支配されてしまう。“自分はこの世に必要とされていない”という気持ちが膨らみかねない。つらいときは、次に紹介する方法を試してみてほしい。■つらいときは試してみて!【ひとりの時間をつくる】「散歩をしたり、密を避けてショッピングをしたり。人間は誰かと過ごす時間も大切ですが、同様に、ひとりで過ごす時間も必要です」【身体を動かす】「心と身体は連動しています。心が凝り固まっているときは、まず身体からアプローチを」気持ちが落ちているときほど、軽い体操やストレッチをしたり、マッサージに行くなどを意識的にやってみて。「気分転換にもなるし、心も次第にほぐれていきます」【悲しさや腹立ちなどの思いを誰かに話す】心の内を話すことはカタルシス効果といい、浄化作用がある。「友人や親、姉妹など、誰かに聞いてもらえると、心はぐっと軽くなります」【“リセット時間”を持つ】「憂うつな時間を引きずって1日を過ごすのではなく、1日1回は気持ちを切り替える時間を持ってほしいです」趣味があれば、それに没頭する時間を大切に。好きなドラマやコンサート映像などを見て、違う世界に意識を向けても。また、香りを楽しむのもおすすめ。「香りは感情と記憶に直結している感覚器官。気分転換に非常に効果的です」コーヒーを豆からひいたり、アロマをたいてみたり……。「リセット時間は1日に何度あってもOK。小まめに数回あるといいですね」思い詰めてしまう女性は、まじめで頑張り屋さんが多い。「自分だけの時間、ボーッとする時間を持つことに罪悪感を持たないで。その余白があるから、人はまた頑張れるのです」家事も子育ても、仕事もこなし、すべてを担うことは不可能。手を抜くことも、必要不可欠なのだ。お話を伺ったのは……大野萌子さん(おおの・もえこ)心理カウンセラー、一般社団法人日本メンタルアップ支援機構代表取締役理事。生きやすい人間関係を創るメンタルアップマネージャー。『よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑』ほか著書多数。(取材・文/樫野早苗)
2021年07月07日NPO法人『心に響く文集・編集局』理事長茂幸雄さん 撮影/齋藤周造日本有数の景勝地で、命を絶とうとしている人々に声をかけ続けて17年。ひたすら話を聞き、徹底して寄り添う茂幸雄さんは、自身の活動を「自殺防止ではなく人命救助」と言い切ってはばからない。生きていく勇気を取り戻すには、自殺を止めるだけでは足りないから。本当は助けてほしい──、そう切望する心の叫びを知っているから。■自殺の名所「東尋坊」「ここがいちばんの飛び込み場所です」平然とそう語る案内人に指さされた方向は、ゴツゴツとした岩肌がV字形に開けていた。そこから先は、ほとんど垂直に切り立った岸壁が両側に連なり、日本海へ向かって延びている。ここは海抜25メートル。ビルの高さでいうと7〜8階に相当する。両腕を伸ばし、筆者は一眼レフを落とさないよう気をつけながら撮影した。真下の海面に恐る恐る目をやると、黄色いサンダルが海草に乗って揺れているのが小さく見え、打ち寄せられる波音が聞こえてきた。「そこから飛び込むんです。若い人は脚力があるから海に落ちて助かることもありますが、高齢者は手前の岩に激突してしまいます」と案内人に言われ、その場面を想像すると、足がすくむような思いにとらわれた。近くにいた観光客の若者たちも、この断崖絶壁を前におののいていた。「マジで怖い。ヤバイよ」6月1日午後4時半。目の前に広がる日本海は凪いでいた。西日に照らされた水面はまばゆいばかりに輝き、間もなく夕暮れ時を迎えようとしていた。ここは福井県坂井市三国町にある「東尋坊」と呼ばれる景勝地だ。この荒々しい岩肌は、六角形の柱を形成する「柱状節理」と呼ばれる現象でできた地形で、空に向かって突き出ている。国の天然記念物にも指定され、「世界の3大柱状節理」と評されている。太陽が沈む直前、緑色の光が瞬く「グリーンフラッシュ」と呼ばれる自然現象が年に何回か見られ、「日本の夕陽百選」にも指定されている。岩場から徒歩数分の商店街には、土産物店や海の幸が自慢の飲食店が軒を連ね、人通りでにぎわっている。■17年間で720人を救出「命の番人」そんな風光明媚な観光地を案内してくれたのは、「命の番人」と呼ばれる元警察官、茂幸雄さん(77)だ。自殺防止活動に取り組むNPO法人「心に響く文集・編集局」の理事長を務める。日に焼けた顔に、笑うと白い歯が目立つ、一見すると普通のやさしいおじいちゃんだが、困った人を放っておけない熱血漢である。ひとたび岩場に入ると、これまでに自殺から救出した人たちの話が、次から次へと口を衝いて出てくる。「数年前、青森から来た女性が飛び込んで大けがをしました。ヘリを呼んで救出し、病院まで運んでもらいました」「中年男性がそこで『ワンカップ』の酒を飲んでいました。“酒を飲まないと勇気が出ない。放っておいてくれ”と言われましたが、説得して連れ出しました」「近くの電話ボックスで男性が話をしてたので、おかしいと思って声をかけたら自殺しにきたと」「巡礼衣装に着替えて飛び込もうとした女性もいました」茂さんたちの普段の活動は岩場のパトロールが中心だ。じっとうなだれている人を見つけたら近寄って声をかけ、事務所がある茶屋「心に響くおろしもち」まで連れていき、じっくり話を聞く。そうして救出された人は、2004年の設立以来、17年間で720人(6月13日現在)。ほぼ1週間に1人ずつのペースで、自殺を決意した人たちに遭遇する計算だ。その9割近くが県外からの来訪者。一方、東尋坊で自殺により死亡した人の数は、過去10年間で116人に上っている。特に新型コロナウイルスの感染拡大以降、茂さんのもとにはコロナ関連の相談が相次いだ。昨年7月からは、厚生労働省の助成を受け、コロナ禍による自殺防止のための「悩みごと相談所」(TEL:0776-81-7835)を茶屋に開設。今年3月末までの相談件数は訪問も含めて、のべ228人。このうち男性は約65%の149人で、年齢別では50代、40代が圧倒的に多く、この2世代だけで全体の約66%を占めている。相談内容は次のようなものだ。「家庭に閉じこもっているため夫婦間がぎくしゃくし、アルコール依存症になった」「外国人と結婚を前提に交際していたが、彼が入国できなくなり疎遠になった」「職場の仕事がなくなって退職に追い込まれ、眠れない日々を送っている」「休校が続いて友人と疎遠になった。再開したが、友人とうまく付き合うことができず、悪口を言われて死にたい」こうした訴えに耳を傾け、ひとり平均1時間近く話を聞く。茂さんが力説する。「一般の電話相談は15分ぐらいが平均です。でも私のところは無制限。長いと2時間ぐらい。だいたい自殺を考えている人の相談が15分で終わるわけがない」茂さんは問題が解決するまで、相手に寄り添う。その徹底した姿勢の原点は、福井県警時代に溯る。■助けられなかった老カップルへの思い茶屋のテーブルに広げられたよれよれの白い紙は、ところどころ黄ばみ、保管されていた年月を感じさせる。そこに青いボールペンで綴られた達筆な字は、こんな書き出しで始まっている。《前略先日は私達二人の生命を助けて下さって有難度うございました。助言いただいたとうり金沢市役所にて……》筆跡の乱れはなく、大きく伸びやかな字だ。これは茂さんが警察官として現役最後の年に、ある高齢の男女から届いた手紙だ。茂さんは、1962年に福井県警に採用されてから警察人生ひと筋。その大半を県警本部で過ごし、薬物や爆発物、マルチ商法などを取り締まる特別刑法にかかる事件の捜査を担当した。定年を間近に控え、東尋坊を管轄する三国署(現・坂井西署)の副署長に着任した。毎日1時間、岩場の遊歩道約1・5キロの道のりをパトロールした。ところが、それまでの現場とは様相が一変し、自殺が相次ぐ現実を目の当たりにする。保護された人々の話に耳を傾け、彼らが用意した遺書を読んでみると、意外な事実がわかった。「本当は死にたくありません」「助けてくれるのを待っていました」内に秘められていたのは、「やっぱり生き続けたい」という心の叫びで、それを誰かに聞いてほしかったのだ。そんなパトロールを続けるうちに出会ったのが、先の老カップル。2003年9月3日の夕暮れ時、遊歩道のそばにある東屋でのことだった。今も残るその現場で、茂さんが2人の様子を再現しながら説明する。「男性のほうはベンチにあおむけになっていて、女性はその隣のベンチで座ってうなだれていました。男性は手首にけがをし、タオルで止血していました。“どうしたんですか?”と声をかけると“あっち行け!”と追い払われたのですが、説得の末、渋々口を開いてくれました」2人は東京で居酒屋を経営していたが、借金が200万円に膨らみ、再起不能に陥って東尋坊に自殺をしにきたと打ち明けた。茂さんは2人を病院に搬送し、地元の役場に引き継いだ。数日後、1通の手紙が届いた。目を通すと、2人はその後、500円程度の交通費を渡され、金沢市役所から富山県魚津市、新潟県の直江津市と柏崎市の役所をたらい回しにされていたことがわかった。手紙の最後はこう締めくくられていた。《相談しようと三国署に行った際はもう一度東尋坊より自殺しようと決めていた二人が、皆様の励ましのお言葉に頑張り直そうと再出発致しましたが、─中略─疲れ果てた二人には戦っていく気力は有りません。─中略─この様な人間が三国に現れて同じ道のりを歩むことの無いように二人とも祈ってやみません》2人は便箋を買う金がなかったのか、チラシの裏に書いていた。封筒も同じチラシで作られ、バンドエイドで封がされていた。90円切手の未納を知らせる通知書も届いた。なけなしの状態でしたためられた手紙が、すでに手遅れであることを物語っていた。「最終の地」に記された新潟県長岡市の役所に茂さんが電話をかけ、2人の消息について尋ねると、こう告げられただけだった。「うちの役所の近くの神社で今朝、首をつっているのが発見されました」誰かが声を上げなければ、第2、第3の犠牲者が現れるのではないか──。茂さんの最後の職場での1年間、発見された自殺者の遺体は21人、保護された人は約80人に上った。茂さんが当時を振り返る。「自殺は犯罪ではないから警察も踏み込んで対応できない。保護すべき行政も対応が不十分でした。亡くなった彼らは何も悪いことはしていない。社会や周りの人に追い詰められた構造的犯罪なんです」無念の思いが、茂さんの心を揺さぶった。■「今日までつらかったんでしょ?」老カップルの悲報を機に、茂さんは自費で新聞広告を出し、自殺を思いとどまったり、家族が自殺で亡くなった遺族に作文を募った。その結果、約70人から届き、「心に響く文集」として自費出版した。このタイトルにちなんで、福井県警退官後の’04年4月、NPO法人を設立。メンバーは県警時代の同僚や知人に声をかけて集めた。この同僚の中のひとり、森岡憲次さん(70代)は茂さんと同期生で、警察学校時代の寮が同じ部屋だった。自殺防止活動への協力を求められた際、実はこうアドバイスをしていたと懐かしそうに語る。「県警時代にいろいろ苦労をして、これから第2の人生を歩むんだから、もう少しゆっくりしたほうがいいんじゃないかと伝えたんです。ところが頑とした態度で、決意が固かった。三国署で出会った老カップルのことが、やはり心残りなんです」やると決めたらとことん突っ走る行動力が茂さんの魅力だ。活動拠点となる場所を商店街の近くに設置し、保護した人から話を聞くため、そこを茶屋にした。黄色いビニール製のどでかい屋根看板には「心に響くおろしもち」と店名が大きく書かれ、商店街の中でもひときわ目立っている。地元名物「おろし餅」をモチーフにしているのだが、それには理由がある。茂さんが説明する。「自殺しようとした人の心に響く食べ物は何だろうか?と考えたんです。昔は正月になると、向こう三軒両隣が集まり、杵で餅をついておろし大根をつけて、みんなで食べました。それが子どものときのいちばんの思い出でした。だから餅を食べて両親や故郷を思い出し、生きる糧になってくれればと」つきたての餅を提供できるよう、餅つきの中古機械を60万円で購入した。店の営業時間は日没まで。それにも根拠がある。「副署長時代に、自殺して亡くなった方の死亡推定時刻は午後8時〜午前0時でした。東尋坊には午後4時ごろに到着し、飛び込む場所を決めてからしばらく座っている。そんなときに店の明かりがついていたらお茶でも飲みに来てくれるかもしれない」そうして自殺防止に向けた活動が本格化した。パトロールは原則、1人で行う。2人以上だと相手に警戒されるからだ。1日3人で交代して2時間ほど歩き、時間は正午から日没まで。休日は、遭遇率が最も低かった水曜日のみ。自殺企図者は岩場やベンチなどに座り、しょんぼり佇んでいることが多く、その雰囲気でわかるという。茂さんらスタッフが見つけると近づき、「こんなところにひとりで何をしてるの?」と声をかける。その次のアプローチが大事だと、茂さんが力を込めた。「相手の横に行き、“今日までつらかったんでしょ?”と声をかけ、肩を叩いてあげるんです。そうするとどんな大きな男でもしおれてしまいます。女性は泣き崩れて、しがみついてきますよ。これが現場なんです」これに続いてかける言葉も決まっている。「わしがなんとかしてやる!」茂さんがその意図を説明する。「“なんとかなるよ”ではダメなんです。なんとかならないからここまで来るんでしょ?だったらわしが身体を張ってでも、なんとかしてやると」■「死にたい病」に対する正当行為その言葉どおり、茂さんは身体を張っている。勤め先のパワハラに悩まされた男性を保護したときは、その会社に乗り込んで上司に掛け合った。妻との関係に疲れ果てた男性を保護したときは、その家まで電車で足を運び、家族と話し合いを持って離婚を成立させた。立会人は茂さんだ。そうして年に数回、北は北海道から南は岡山まで、全国各地を自費で駆けめぐるという。「自殺を決意する人たちは、自分のアパートや家を手放し、友人の関係も断って仕事もない。お金もない。ここへ来るのは片道切符。そんな人に“なんとかしてあげる”と大口を叩く以上、自腹を切るしかありません」そこまで相手の事情に踏み込む理由について、茂さんはこう訴える。「公務員には民事不介入の原則があります。だから家庭内の問題に立ち入ったらあかん。でも本当に自殺から保護するには、相手の悩みごとを取り除いてあげないといけないんですよ」もっとも、助けを求められたからといって、闇雲にトラブルの現場へ足を運ぶわけではない。当人の言い分だけに頼るのではなく、関係者の話も参考に、被害の確証が得られた段階で動き出すのだ。だが、ここまでやる支援の在り方については、「生かすことが正義?」「死にたい人は静かに死なせてあげれば?」といった声もSNSなどで寄せられる。これに対して茂さんはこう言い切る。「そうした批判は、現場を知らない人が同情で言っているだけです。自殺を考えている人の心理状態は、精神を病んでいる人ばかり。一時的な感情で自殺に追い込んでいる、一種の“死にたい病”なんです。それを放置したらいつか飛び込む。医者が病人の身体を手術するとき、傷つけても傷害罪に問われないのと同様に、わしが介入するのも正当な行為なんです」そんな茂さんの熱い思いに同調し、開設当初から一緒に活動しているのが事務局長の川越みさ子さん(68)だ。県警本部の喫茶店で店長をしていた縁で、茂さんに誘われた。「茂さんはぶれない人です。何事に対しても物怖じしない。どんな逆境が来ても“いい機会だ”と前向きにとらえるんです。相談相手からは確かに重たい話を聞くのですが、それで茂さんがまいっているのを見たことはありません。会社に乗り込んでいくときは、分厚い六法全書を持っていきますからね」現在までに救出した720人の中には、その後に命を断った人が数人いる。とりわけ「あれは可哀想やったなぁ」と振り返る母子3人の姿が、茂さんの脳裏に今も焼きついている。それはある夏の日の昼下がりのことだった。商店街の人から「ちょっと来てくれないか」と言われ、見に行くと、母親とおぼしき女性がビールを飲んでいた。隣には幼女と、生後間もない男児の姿。幼女は「かあかあ、お家に帰ろう」と泣いているので、茂さんが声をかけた。「これから岩場に行くんです。旅行に来ただけ」そう言い張る女性は男児を抱き、幼女を連れて岩場へと歩き始めた。茂さんが引き留めると、「なんで引き留めるんだ!」と引っ張り合いになったが、何とか茶屋に連れてきた。話をじっくり聞いてみると、女性は関西出身で、夫婦仲と産後うつに悩んでいるのがわかった。そこで女性の親に電話をかけ、警察に引き渡した。約束どおり迎えの親が到着し、帰宅の途に就いた。ところが後日、親から電話がかかってきた。「せっかく東尋坊で自殺を止めていただいたのに、助けることができませんでした。疲れて別々の部屋で寝ている間に……」女性はビルの10階から子ども2人を投げ、自分も後を追ったという。茂さんが回想する。「女の子が“おじちゃんありがとう!サンダーバード(特急)で帰るね”と手を振ってくれたんです。ものすごい可愛い子やったのに」■「自殺の名所」に冷ややかな地元の視線茂さんが活動を開始した’04年当時、日本の自殺者は毎年、3万人超えが続き、主要7か国(G7)の中では最も多かった。3万人を初めて超えたのは1998年。バブル崩壊の影響というのが有力な説だ。その前年には山一證券や北海道拓殖銀行の倒産が相次ぎ、日本の自殺問題は深刻化の一途をたどった。ところが、自殺対策に関して国の基本方針は策定されなかった。このため茂さんはNPO開設時に行政からの支援を受けられず、茶屋の家賃を含めた年間約100万円の経費はすべて手弁当だった。こうした政府の「無策状態」が続くなか、自殺者の遺族や自殺予防活動に取り組む民間団体から、「個人だけでなく社会を対象として自殺対策を実施すべき」といった声が強まり、国会でのシンポジウム開催や自殺対策の法制化を求める署名活動などの動きが広がり、’06年、自殺対策基本法が成立した。その3年後には、自殺対策のための基金が設立され、100億円の予算が各都道府県に配分された。茂さんのNPOも県から助成金が受けられたが、救済した人を保護するシェルターや当面の生活支援費などで経費は膨らみ、すべてを助成金でまかなえなかった。その穴埋めについては、年間数十回の講演活動でやり繰りしていたと、茂さんが笑いながら「秘策」を明かす。「講演料といっても1回数万円です。経費はまかなえないので、茶屋でついたおろし餅を講演会場に持ち込み、売っていました。8個入り1パックで1000円!」こうした茂さんの地道な活動は、『自殺したらあかん!東尋坊の“ちょっと待ておじさん”』(三省堂)をはじめとして7冊の著書にもなっている。日本のメディアだけでなく、海外からも注目され、米CNNや英BBCをはじめ、17か国の取材に対応した。『命の番人』というタイトルでドキュメンタリー映画にもなり、’16年、ロサンゼルス国際映画祭で短編ドキュメンタリー賞を受賞した。こうして世界中から脚光を浴びることになったわけだが、地元、特に観光業界からの視線は冷ややかだった。当初は反発も強かったと、茂さんが渋い表情で振り返る。「東尋坊のイメージが悪くなるから、こそっとやってくれと言われました。新聞やメディアの取材には応じるなと」東尋坊は前述のとおり、風光明媚な景勝地だから、報道によって「自殺の名所」というイメージが定着するのを避けたい、というのが地元側の総意だったようだ。だが、茂さんがNPO法人を立ち上げる前からすでに、東尋坊の年間自殺者数は多いときで30人を超え、その名はすでに知れ渡っていたはずだ。茂さんはこうも言う。「地元の観光業界の中には、“自殺の名所”との評判を逆手に取り、客寄せに使っているところもありました」当時を知る観光業界の関係者に聞いてみると、こんな反応が返ってきた。「助かった人たちに警察が事情聴取をしたところ、この地に縁のない人が多かったんです。“自殺の名所”という報道を目にしたので東尋坊に来たと。そういった宣伝による逆効果を防ぎたかった。観光業界が自殺者を防ごうという崇高な理念を妨害したなんてことは一切ないし、自殺者を防ぎたいという思いは茂さんと一致しています」茂さんが活動開始後は自殺者が減少、’14年には初めて一桁台に達し、7人まで減った。過去10年の年間平均自殺者数でも11・6人と、活動開始前に比べて圧倒的に少なくなった。「自殺の名所」報道によって確かに、自殺を決意した人々が東尋坊に集まった可能性はあるものの、逆に東尋坊の存在が知れ渡らなければ、彼らは「命の番人」の網の目に引っかかることもなく、ほかの場所で自殺していたかもしれない。そもそも彼らは「死にたい」のではなく、「生きたい」から話を聞いてほしいのだ。「自殺の名所」のイメージを逆手に取った客寄せについては、東尋坊観光交流センター内にある一般社団法人『DMOさかい観光局』の担当者がこう説明する。「その昔、平泉寺にいた『東尋坊』という悪僧が、断崖絶壁から突き落とされた伝説に由来しているのだと思います。確かに遊覧船ではその伝説が放送されていましたし、数年前までは観光パンフレットにも掲載されていました。それが“自殺の名所”としてのイメージにつながった可能性はあります」東尋坊を訪れる観光客数は右肩上がりだ。茂さんが活動を開始した’04年は98万3000人で、翌年に100万人の大台に乗り、以降は増え続けた。東日本大震災の発生後は一時的に減少したが、北陸新幹線が金沢まで延伸した’15年には、関東からの観光客増で過去最多の約148万人を記録。以降は横ばいが続く。新型コロナの感染が拡大した昨年は、大幅に減ったが、昔も今も東尋坊は県内有数の観光地の座をキープし続け、魅力のさらなる向上に向けた再整備計画も進められている。そうした時代の変遷もあってか、茂さんの活動にも理解が生まれているようだ。前出・DMOさかい観光局の担当者はこう続けた。「観光に携わる立場から言うと、『自殺』という言葉を使うのはやはりタブー。マイナスイメージがメディアを通じて露出されるのは避けたいです。それよりも明るいイメージを出したほうが、自殺のために訪れる人が減るかもしれません。とはいえ影の部分があるのも事実ですし、それに対してボランティア活動を続ける茂さんには感謝しています」■自殺現場のリアルを写真集で再現岩場に体育座りをし、顔をうつむけた男性が写真に収まっている。目元はモザイクがかかり、グレーのパーカに黒いズボン、白いスニーカーを履いている。隣には黒いリュックサック。写真の下にはこんな説明が添えられている。《新型コロナ禍の影響で仕事に就けず、蓄えも無くなりアパートの家賃も払えなくなったことからアパートを追い出され、頼るところが無いため自殺しに来た》別のページの写真は、西日が当たるベンチに座る男性の後ろ姿。ジャケットを羽織って野球帽をかぶり、すぐ目の前の波打ち際を眺めている。荷物は写っていない。《中学時代に受けたイジメがトラウマになっており人間恐怖症になり、就職しても友達ができず、いつも孤立の状態であり、将来が見えないため自殺しに来た》これは茂さんが今年3月に出版した写真集『蘇よみがえる』の一部だ。収録されたのは17人で、いずれも茂さんたちが昨年、パトロール中に遭遇し、声をかける前に撮影したリアルな現場の様子である。全員から同意を得たうえで掲載した。厚労省の助成を受けて500部を刷り、ボランティア団体や全都道府県と全政令指定都市の自殺防止対策を担当する部署に送った。そのまま放置したら自殺をするかもしれない直前の姿を写真集にするのは、やや過激ではないか。その意図について、茂さんはこう説明する。「私たちの活動に対し“なぜ自殺を考えて来た人だとわかるのか?”、“声をかけたときの相手の反応は?”という質問が多く寄せられています。その声に答えるべく、自殺をしにきた人々のオーラを写真集にしました」事務局長の川越さんが、「もうすぐ80歳に手が届きそうなのに茂さんのあのパワーは何だろうな?と思います。まだまだ挑戦したいことがいっぱいある」と語ったように、茂さんは自殺防止に向け、今後も活動の幅を広げる意気込みだ。日本の自殺者は’14年に3万人を下回り、10年連続で減少した。昨年は新型コロナの影響で前年から微増し、芸能人の自殺も相次いだ。とはいえ3万人超えが連続していた当時に比べれば、明らかな改善と言える。この背景には、民間団体による取り組みの力が大きいと、厚生労働省自殺対策推進室の担当者は認める。「行政にはパトロールの人員を配置するほどのマンパワーやノウハウがありません。自殺対策においてはその隙間部分を、民間に頼らざるをえないのが現状です」これだけ自殺が社会問題化しながら、その解決を民間の力に依存し続けてきたのは、日本政府の失策と言わざるをえない。そんな「自殺大国ニッポン」の姿は、折れた心に寄り添い続けた「命の番人」にとって、どう映るだろうか。茂さんが語る。「頑張り主義や競争社会によって精神的に追い込まれるのが、そもそもの原因だと思います。子どものときから英才教育を受けさせ、学業成績が落ちると叱る。そんな空気感が蔓延した社会構造に問題があるのではないでしょうか。いわゆる貧困からきているわけではないでしょう」競争社会は必ずしも人間の幸福につながるとは限らない。むしろ足の引っ張り合いをするだけだ。そう頭ではわかっていながらも、いまだに日本社会は「勝ち組」と「負け組」を分ける境界線が暗黙のうちに敷かれている。ゆえに自分と他人を比較し、劣等感や自信喪失、厭世観に苦しむ。そうして負のスパイラルから抜け出せない人々が、東尋坊を目指すのではなかろうか。そんな彼らに対し、茂さんはこう包み込む。「夢を持て、希望を抱けと言いますが、そういうことじゃない。食べるだけあればいいんです。無理したらあかん。自分の楽しみを探せ。楽しみがなければここ1週間、あるいは1年で楽しかったことは何だろうかと考えてみる。例えば正月や盆に、家族みんなが丸い心で過ごせる。そんな楽しみが、夢であり、希望であるべきなんです」東尋坊を案内してくれた日の夕暮れ時、1本の電話が茂さんにかかってきた。茶屋の椅子に座り、受話器を耳に当てながら茂さんが語る。その内容から、4年ほど前に東尋坊で茂さんに救われた男性が、今回は父親との関係に悩んで相談してきたようだった。ため口だが、どこか人情味を感じさせる茂さんの声が、店内に響き渡る。「そんなこと言ったらあかん。そしたらわしがあなたのお父さんと1回、談判するか?」「そんなブラック企業みたいなところ行くな。早くおさらばせなあかんって」「大丈夫や!生きる道はある。アホなこと考えるなよ!」川越さんらスタッフが店じまいをする中、茂さんの電話相談は40分ほど続いた。「わしがなんとかしてやる!」茂さんは今日もまた、双眼鏡を手に、岩場をパトロールしている。取材・文/水谷竹秀(みずたに・たけひで)日本とアジアを拠点に活動するノンフィクションライター。三重県生まれ。カメラマン、新聞記者を経てフリー。開高健ノンフィクション賞を受賞した『日本を捨てた男たち』(集英社)ほか、著書多数
2021年06月26日厚生労働大臣指定法人 いのち支える自殺対策推進センターが主催する「第1回 自殺報道のあり方を考える勉強会~報道の自由と自殺リスクの狭間で~」が20日、オンラインで開催され、100人超えるメディア関係者が参加した。○■報道が後押しになってしまった同センターの清水康之代表理事は、昨年7月の有名俳優、同9月の有名女優の自殺報道後に自殺者数が急増したという状況を報告。それに加え、相談窓口に寄せられた「有名人の自殺に関する記事が気になってネットで読み続けているうちに、死にたい気持ちが再燃してしまった」といった実際の声を踏まえ、「新型コロナの影響によって、仕事や生活、人間関係等に関する悩みや不安を抱えていた人たちが、相次ぐ有名人の自殺報道に触れて、自殺の方向に後押しされてしまった。それで実際に亡くなる人が増加したのではないかと、私たちは捉えています」と、分析データに基づいて説明した。昨年は有名人の自殺が相次ぎ、同センターではそのたびに、WHOが定める「自殺報道ガイドライン」を踏まえた報道の徹底を要請する注意喚起の文書をメディア各社(82社242媒体)に向けて送付したが、その回数は昨年だけで9回にも及んだ。そうした取り組みもあり、最近では自殺報道のニュースや記事の最後に、悩んでいる人に向けた相談窓口を周知するメディアが増加。この結果、報道後に窓口への相談が殺到するようになったそうで、「相談を受けた中には、まさに死のうと思っていた方もいらっしゃいました」(清水氏)と、具体的に抑止につながった事例もあったそうだ。○■死にたい気持ちに前向きに対処した体験を伝える…NHKの取り組みこの勉強会では、NHKでの自殺抑止への取り組みについても紹介された。同局では、死にたい気持ちに前向きに対処した物語を伝えるなど、自殺報道の仕方によって自殺を抑止するという「パパゲーノ効果」に着目。放送番組やウェブで、死ぬこと以外の道を選んだ人の体験談を伝えることで、自殺抑止を目指すプロジェクトを展開している。番組は、中川翔子、大森靖子ら有名人を含む5人のパパゲーノ(=死にたい気持ちに前向きに対処した人)へのインタビューで構成し、放送後に動画を特設サイトで公開。中川は、18歳のときに本気で「死のう」と思ったとき、目の前に通りかかった猫をふと触ったことがきっかけで気が紛れ、「今日は1回やめようかな」と思い立ち、そこから気持ちが変わったという体験を話している。こうした動画に対し、SNSでの反響は「否定的なものは少なかったと感じています。特に多かったのは『自分もそういう気持ちである』と共感したり、つらい気持ちを吐露するものや、『自分の場合はつらいときにこうしてる』という知恵の共有といったリアクションが見られました」(NHK大型企画開発センター 渡辺由裕チーフ・プロデューサー)という。また、これによる抑止効果を測定するため、それぞれのインタビュー動画を視聴した人へのアンケート調査を実施。対象者の「死にたいと思ったことがある」程度によって差はあるものの、4割以上が「ポジティブになった」、5割以上が「死にたい気持ちがやわらぐ」、約6割以上が「共感できる」と回答しており、一定の効果が見られた。今後は、引き続きコンテンツを増やし、取り組みをブラッシュアップすることや、放送時間やメディアの検討を進める方針。また、「1週間以内に死にたいと思ったことがある」という人への効果が低い傾向が見られたため、その対応策を検討するとしている。悩んでいる方の相談窓口があります。下記をご覧ください。・電話:よりそいホットライン・SNS:生きづらびっと・いのちと暮らしの相談ナビ(相談窓口検索サイト)
2021年06月21日開催を目前にして、JOCの経理部長が自ら死を選んだ。何があったのか──「とても優しそうな人でした。庶民的な一戸建てに、家族と仲よく暮らしていらっしゃったのに……」近所の主婦は、驚きの表情を隠せない。■Aさんは東京五輪全体の金の流れを把握していた事件は、地下鉄都営浅草線『中延(なかのぶ)駅』で起きた。6月7日の朝9時22分、2番線『泉岳寺行き』のホーム、最後尾の車両位置で電車を待っていた52歳の男性Aさん。列車が入ってくる直前、彼は線路に飛び込んだ。その光景は複数人の乗客らが目撃していた。ホームにいた乗客は、「小さなカバンを足元にそっと置いて、何事もないかのように、静かにスッと飛び込んだんです」と、話している。飛び込みが起きてから約30分後に、Aさんはようやく電車の下から救出されて病院に搬送された。だが11時40分、搬送先の病院で死亡が確認された。電車は上下線で24本が運休して、最大で76分遅延。およそ1万人の足に影響したが、10時51分には全線で運転が再開された。この飛び込み自殺、轢死(れきし)事件で亡くなったAさんは、なんとJOC(日本オリンピック委員会)の経理部長という要職に就いている人物だった。冒頭の主婦は続ける。「そんなに偉い人だとは思っていませんでしたよ。こぢんまりしたお宅だったのでね」そんなAさんは、職場では莫大な金を動かしていた──。五輪関係者は、こう話す。「JOC経理部長であるAさんは、東京オリンピック全体のお金の流れを把握していました。そんな彼が開催の約6週間前に自ら死を選ぶなんて……関係者はみな首をかしげていますよ」思い出されるのは、あの事件だ。スポーツ紙記者が指摘する。「学校法人・森友学園への国有地売却をめぐる公文書改ざん問題。財務省近畿財務局の職員だった赤木俊夫さんが、上司からの指示で公文書を改ざん。命令とはいえ、罪の意識に苛まれた赤木さんは自殺しました。このことが、みな頭に浮かびましたよ。Aさんも組織との板挟みに苦しんでいたんじゃないかって」■税金が不透明に使用されている!あるイベント関係者は、五輪の金の流れを次のように言及する。「五輪は公共事業のようなもの。それなのに、大手広告代理店に予算をほぼ丸投げしていて、すべてお任せ状態」広告代理店を選定する際は、「一応、競争入札があるんですが、暗黙の了解があって……。だいたい同じ広告代理店が仕切って、その代理店に下請け企業からキックバックがあったりと、まあやりたい放題ですよ。国民の多大な税金がつぎ込まれているわけだから、不透明な金の流れは本来、許されるべきではない」5月26日、衆院文化委員会で五輪組織委員会が広告代理店に委託しているディレクターの日当が35万円と高額すぎることが問題になった。「氷山の一角でしょう。6月5日には、同じく組織委の現役職員が不透明な金の流れをTBS系の報道番組『報道特集』で告発しています。これからもポロポロ出てくる可能性はありますね」(同・イベント関係者)Aさんも、この一件に巻き込まれていたのだろうか──。JOCに問い合わせると、このような回答があった。《ご理解について誤解があるようですので補足させていただきます。東京2020大会の運営を担うのは、本会ではなく別組織の東京2020大会組織委員会です。そのため本会では大会運営に関する予算は取り扱っておらず、もちろん当該職員(Aさん)も携わっておりません。事実に基づかない報道はお控えください。~以下、略》だが、前出のイベント関係者はこれに対して真っ向から反論する。「確かに五輪に関わっているJOC、組織委員会、さらには招致委員会は表面上、別組織の形になっています。ですが、本体であるJOCの経理部長がすべての金の流れを把握できる立場にあるのは間違いないですよ」そもそも“JOCの親玉であるIOC(国際オリンピック委員会)にも問題がある”と話すのは、スポーツ評論家の玉木正之さんだ。「IOCのことを“金を巻き上げるマフィア”だと言う人もいます。JOCも似たようなものですかね。“スポーツと平和”を高らかに掲げながら、それを利用して暴利をむさぼっているんですから。まともな組織だと思ってはいけないんです」JOCの職員たちは、Aさんの死をどのように受け止めているのか。新宿にあるオフィス前で職員を出待ちしたが、話しかけるやいなや足早に逃げていくばかりだった。「箝口令(かんこうれい)までではないですが、上からやんわりと“話さないように”とクギを刺されているみたいですね」(前出・イベント関係者)■JOCはどんな形であれ透明性を示すべき組織の隠ぺいに関わって、良心の呵責に苛まれる。実直な人ほど、精神的に追い込まれてしまうもの。Aさんは、どんな人物だったのだろうか──。埼玉県の指折りの県立進学高校から法政大学を経て、西武鉄道グループの不動産会社であるコクドに入社した。JOCには当初、コクドからの出向だったが、その後JOC専任となった。「Aさんは10年ほど前に一戸建ての自宅を購入。1階でピアノ教室をやっている奥さん、20歳を越えた2人の娘さんの4人で暮らしていました」(近所の住民)毎朝、スーツ姿に帽子をかぶり、いかにも事務職らしい小型のバッグを持って通勤していたAさん。「背が高くて、いつも颯爽と歩いていてカッコよかったですよ。顔はいかにもまじめそうで、きっちりとした方なんだろうと思っていました」(同・近所の住民)自分に誠実であろうとしたAさんにとって、最終的な選択肢は“死”しかなかったのかもしれない。玉木さんは、語気を強めてこう話す。「JOCという組織はどんな形であれ、透明性を示すべきです。マスコミも五輪のバックにいるスポンサーや広告代理店に気兼ねせずに、徹底追及してほしい!」前出のイベント関係者も、「今は五輪開催を疑問視する声も多いですが、いざ始まったらわかりません。日本人選手がメダルをとったら、国民のボルテージが一気に上がって、この事件のことなんて忘れ去られてしまうんじゃないかな」準備してきた晴れの一大イベントを見ることなく、天国へ旅立たれたAさん。彼のためにも、真相究明の手を緩めてはいけないのだ。
2021年06月15日清水章吾清水章吾がチワワのくぅ~ちゃんと共演したアイフルのCMが話題になったのは2002年。渋いバイプレーヤーが“カワイイおじさん”として超有名人に。「最初はお断りしたんです。犬や子役が共演相手だと、どんなにいい演技をしても“食われて”しまいますからね。どうしてもと言われて、3か月だけということで受けました。本契約ではなく、ギャラは1回80万円。人気が出て契約が延長されても金額が上がることはありませんでしたよ」くぅ~ちゃんはオーディションで300匹の中から選ばれたという。「最終審査は7匹にまで絞られていました。きれいすぎる犬は落とされたんです。CMの監督は“別れ際の男と女”のようにしたかったので、瞳がウルウルのくぅ~ちゃんが選ばれたんですね。実は私にあまりなついてくれなくて、海辺で一緒に走るシーンは私から逃げ回っていたんです。キスする場面では、私の顔にバターを塗って撮影したんですよ(笑)。そういえば“くぅ~ちゃん死亡説”が流れたこともありましたね。3年たったころ急になついてきたんですが、くぅ~ちゃんの子どもにコッソリ代えられていたのかもしれません」最初のCMが話題となり、シリーズ化されて4年も続く大ヒットに。「チワワの人気が上がり、価格が高騰。相場10万円だったのが40万円になり、世田谷のペットショップでは100万円に。チワワを買いに行ったら、“清水さんのおかげで儲けさせてもらったから無料でいい”って言われましたよ(笑)。CMに出演して有名になりましたが、マイナス面もありました。例えば、フチなし眼鏡をかける役はアイフルのイメージになるからNG。アコムや武富士などほかの消費者金融のスポンサー番組には出られず、サスペンスものは出演が減りましたね」■「ナオミよ」を撮りにN.YへエステティックTBCのCMでは、スーパーモデルのナオミ・キャンベルと共演した。「娘がエステで変身して“ナオミよ”って出てくるやつです。ナオミさんの自宅近くならOKという条件だったので、ニューヨークまで撮影に行きました。このCMはちゃんとした契約だったのでそれなりのギャラだったはずですが、別れた奥さんが社長をしていた会社に入金されたので額は知りません。私は3万円のお小遣いをもらっただけでした」清水は40年連れ添った妻と2019年に離婚。『週刊新潮』にDV疑惑を報じられると、睡眠薬を飲んで自殺を図った。「自殺未遂は前にもあったんです。2010年に『相棒』に出演したとき、本番でセリフが出てこない。水谷豊さんが“清水さんは長いセリフができる人なのにおかしいな”と言ってくれて、救急車を呼んだら脳梗塞でした。生命保険のCMを降ろされ、美輪明宏さんに誘われていた舞台も降板。ストレスでうつ状態になり、睡眠薬を飲んでしまいました」そのころは埼玉県本庄市に住んでおり、現場までは3時間かけて車を運転していた。「妻と連れ子にぜんそくの持病があって引っ越したんです。帰り道は疲れきって居眠り運転をしそうになり、帰っても2時間ほどの睡眠でまた仕事へ。無理がたたって脳梗塞になってしまったんですね。家族からは“働け働け”とプレッシャーがあり、心身ともにドン底で、1度目の自殺未遂でした」焦る気持ちとは裏腹に、仕事の幅は狭くなっていく。「サスペンスのチョイ役でもいいからってお願いすると“清水さんは目立ちすぎて犯人だとすぐバレて使えない”と断られる。そういうことが重なって再び追い込まれ、2度目の自殺未遂をしてしまいました」2019年は3度目の自殺未遂だったことになる。睡眠薬を飲んで意識が薄れる中、清水の目に映ったのは愛犬の姿だった。アイフルのCMが終了してから、清水と犬との関係は深まっていたのだ。「最多で犬を13匹、猫を3匹飼っていました。もともと犬が大好きだったんですよ。私は日大鶴ヶ丘高校から学部付属の農獣医学部に進みました。でも、獣医になるための研修で、犬を殺さなければいけないのがつらくて大学を中退したんです」■「ポエチは死ぬな!」チワワと共演したCMでブレイクしたのも、犬が好きだったことが招き寄せた運命だったのかもしれない。「特に可愛がっていたのがポメラニアンのポエムちゃん。“ポエチ”って呼んでいます。ペットショップで売れ残っていたようで、相場が15万円ほどなのに『特売』で5万円でした。買うことを告げると、店員さんがエンエン泣きだしたのでビックリ。聞くと、その日に売れなかったら処分されるところだったそうです。ギリギリのところで命を救えた。ポエチとは運命的な出会いだったんですよ」清水が睡眠薬を飲んで横たわると、それまで吠えたことのなかったポエチが白目をむいて大騒ぎした。「あの世までついてくるのかと思い、“ポエチは死ぬな!”と叫びました。3日間たって意識が戻ったとき、ポエチが目の前にパッと現れてから消えたんです。私が息を吹き返したのを見届けるように。それで私は救われたんです」しかし、清水は今、ポエチに会うことができない。「15歳なので、先は長くないと思います。元奥さんの家に行って“ひと目でいいから会わせて”と頼むも“出てけ!”と追い返されて……」清水は現在、アパートでひとり暮らし。財産も失い、生活保護に頼っている。「ずっとお小遣いをもらえなくなっていましたから。イベントのギャラをもらえなかったり、ファンミーティングのお金を主催者に持ち逃げされたりしたことも。一昨年は駅の観光センターでバイトしていました。レジ打ちが遅いって、中年の女性店員さんに怒られながら。ビル掃除やポスティングのバイトもしましたよ。車が好きで何十台と乗り継いできましたが、衰えを感じたこともあって運転免許を返納し、車とは縁を切りました」■30歳以上も年の離れた彼女すべてをなくし自暴自棄になってもおかしくない。しかし、なぜか清水は意気軒昂。「こういう生活も、役者としてはいい経験になっていると思います。もちろん、また芝居をやるつもりですよ。芸能界は性格的には合わないのですが、今はカムバックするのがたったひとつの望みですね。コンテナ4台分の衣装も残っていますし、キッチリやりきりたいんです」アイフルのCMばかりが知られているが、清水は役者として長いキャリアがある。「20歳でデビューし、朝丘雪路さんや美空ひばりさんの舞台に出ました。テレビでは昼メロにたくさん出演しましたね。1973年にはNHK朝ドラ『北の家族』で高橋洋子さんとダブル主演。当時の朝ドラは、ヒロインだけでなく女性受けのいいイケメン役(笑)も主役だったんです」『白い巨塔』や『噂の刑事トミーとマツ』で熱演。バラエティーでは『欽ちゃんのどこまでやるの!』で“隣の二枚目”役を演じた。近年は復活に向けてSNSも活用。Facebookには3500人以上のファンがついており、積極的に交流もしている。「残りの人生は楽しくしたいですね。幸い、公私ともにサポートしてくれる30歳以上も年下の彼女ができました。私にも責任はあるし、キッチリ籍を入れて、可能ならば彼女には私の子を産んでもらいたいですね」ナント!78歳にして結婚と子づくり宣言。アイフルのCMにならうなら“無理のない計画を”。
2021年05月21日現場となった駐車場「いつもお子さん2人が庭で遊んでいて、はしゃぐ声が響き渡っていました。裕福なおうちで、絵に描いたような幸せな一家だなと微笑ましく思っていたのに……」近所の主婦は、驚きを隠せない様子でそう話した。事件が発覚したのは、4月22日の午前0時50分ごろ。神奈川県横浜市青葉区にあるコンビニの駐車場に停車していたワゴン車の中から、変死体4体が発見された。ドアはすべて内側から施錠されており、中で血まみれで亡くなっていたのは、同区に住む土志田信弘さん(40)とその妻・美穂子さん(37)、長男(7)、次男(2)。前日、信弘さんは知人に自殺をほのめかすようなメッセージを送っていたため、妻の両親も110番通報して行方を捜していた矢先の出来事だった。「車の中には刃物のようなものもあって、状況からすればおそらく信弘さんが妻、子どもの順に刺していって、最後に自害したものと思われます」(大手新聞記者)幸せそうに見えた一家に、いったい何があったというのだろうか――。■婿入りという肩身の狭い立場で土志田さん一家は、遺体が発見された現場の駐車場からおよそ2km離れた場所に住んでいた。500坪以上はある、妻の実家の敷地内に建てられた一戸建てだ。近所の住人は、こう話す。「土志田さんはこの辺りの大地主さんでね。マンションなども持っていて、その家賃収入で暮らしているお宅ですよ。おじいちゃんはおおらかで世話好きな方。去年まで20年も地元の自治会長を務めていた、いわば名士なんです。おばあちゃんも非常に面倒見のいい方です」祖父母はなかなか子宝に恵まれず、一粒種の娘の美穂子さんをようやく授かったのは、彼らが40歳近くになってからだった。「遅くにできた娘さんだったので、それはそれは可愛がっていて、大事に育てていましたよ。見た目もキレイな娘さんで、中学校から私立の学校に通っていました」(前出・主婦)娘の美穂子さんは10年近く前に、信弘さんと結婚。実家を継ぐために、信弘さんは婿入り養子となる。実は信弘さんは“帯谷信弘”というリングネームで、以前はその業界では名前が知られた総合格闘家。かつてPRIDEのメインイベンターを務めた五味隆典の弟子で、スパーリングのパートナーも務めたほどの実力者。総合格闘技イベントでライト級チャンピオンにも輝いている。信弘さんと美穂子さんの間に、長男が誕生したのは7年前。「それはもう、おじいちゃんとおばあちゃんは大喜びでね。“これで跡継ぎができた”と言っていました」(同・主婦)2年前には次男も誕生し、順風満帆に思える土志田さん一家だったが、「信弘さんは引退後、ジムのトレーナーをしていましたが、コロナの影響で無職に。“婿入り”というただでさえ肩身の狭い立場だった彼にとって、自分の居場所がなくなったと思えたのでは……」(前出・大手新聞記者、以下同)すると、夫婦間にもほころびが出始める。「彼は長男を格闘技の道場に通わせていたんですが、奥さんは反対していたそうです。彼女がSNSに“ダメ婿”などと書き込んだこともあったようです」裕福な妻の実家に対するコンプレックスや無職でいることの引け目が信弘さんを徐々に追い込み、それが悲しい結末を招いてしまったのだろうか――。実家の祖父に話を聞いた。「なぜ、こんなことが起きてしまったかなんて、そんなことは、いまでもわからないですよ。信弘さんを恨む気持ちはあるか?そんなことはない……。そんなことは、話せないですよ」悲しみにうちひしがれた顔で、その場を去っていった。たった一人の子ども、さらには孫2人まで失った祖父母は、80歳を前にして、絶望の淵に立たされている――。
2021年05月07日現場となったキャンプ場は天竜川沿いで桜の季節を迎えていた《ああ、やばいな。そう思ったのが学習発表会の二週間前》《私は、緊張感が元々うすい性格》(以下も本文ママ)小学校の卒業文集で『私なりの努力』と題して、自身が発表会でピアノの伴奏者に選ばれてからの過程を綴っていた少女が、自死の道を選んでしまった……。■名門女子中学生が30代の容疑者とネット心中3月16日の昼ごろ、福岡市の無職・入江大(だい)容疑者(33)は、静岡県浜松市天竜区のキャンプ場から、「自殺しようとしたが、死ねなかった。自分だけ生き残ってしまった」と110番通報。静岡県警天竜署員が駆けつけると、容疑者と、目張りされたテントから浜松市の中学3年生の匂坂絢乃(さぎさかあやの)さん(享年15)の遺体を発見。テントの中には自殺に使用された七輪や練炭が残っていた。入江容疑者は体調不良でそのまま入院。翌日に退院したが、15日に匂坂さんを車に乗せて浜松市内を連れ回したとして、未成年者誘拐の疑いで逮捕された。「容疑者は福岡の地元では、明るく優しい人物として知られていたようです。匂坂さんとはSNSで知り合い、知らない者同士がネットを通じて連絡を取り合い、心中を試みるネット心中だったと思われます」(地元メディア記者)県内屈指の名門中学に通っていた匂坂さんが、卒業式の直前に、ネットで知り合った見ず知らずの男と一緒に自殺するとは、何があったのだろうか──。浜松市内で生まれ育ち、母方の祖父母、両親、妹と同居していた匂坂さん。父親は医師で、自宅から近い場所に最近、大規模なクリニックを開院していた。母親は近くの薬局で薬剤師として働いていて、何も不自由がない生活をしているように見える一家。「お父さんは医師と思えないほどフランクな方。お母さんも非常に明るい方なので、娘に医者になれと厳しく迫るようなタイプではないと思いますよ。両親は忙しいだろうけど、家ではおじいちゃん、おばあちゃんがいるし、家庭での問題は特になかったのでは」(近所の住民)小学校は地元の公立校に通っていた匂坂さんだが、当時の同級生が語る。「小柄でおとなしくて、家で読書をするのが好きな子でした。外で遊ぶ姿はほとんど見たことがないです。特に国語が得意でしたが、ほかの科目もすべてよかった。学校ではトップクラスの成績でしたね」冒頭の文集で匂坂さんは、《ピアノの伴奏者に選ばれました。と言っても、私以外の立候補者がいなかったので、オーディション無しの……》《私は、まだ残りの日数に余裕があることを知って、練習時間を減らしてしまい》と自分を客観視することができる大人びた性格の少女だったようだ。「子ども特有のはしゃぐようなところがまったくなかった。落ち着いた大人のような、本当に利発な子でした」(別の近所の住民)匂坂さんの自宅近所では、勉強や進学の悩みが原因だったのでは、という声がいくつか聞かれた。「絢乃ちゃんのおばあちゃんはおしゃべり好きで、近所になんでも話してしまう。家の自慢話も多い。でも最近は、“孫娘が○○高校に合格した”とか、“○○高校へ進学することになった”とは聞いていない。絢乃ちゃんは志望校に進めなかったことを苦にしたのかも……」(同・住民)■「中学でいじめを受けて不登校に」という証言もさらに、匂坂さんを知る関係者からはこんな証言も寄せられた。「本人から、“中学校でいじめを受けていて、不登校になっている”と聞いたことがあります。いつごろなのか、どんないじめなのか、詳しいことまでは聞いていません」いじめが原因だとしたら、それから逃れられる卒業間近になぜ……という疑問も残る。一部で、匂坂さんが通っていた中学の「学校でのトラブルなどは聞いていない」とのコメントが報じられたが、週刊女性の取材では「現在、調査中」という回答だった。匂坂さんの父親は事件後、「私たち家族は、いまだ心の整理がつかない状態です」とコメントしている。改めて同居する祖母に聞くと、「体調がよくないので、申し訳ありません」あまりにも突然の孫娘の死に、うちひしがれている様子がひしひしと伝わってきた。《気付くと学習発表会の二週間前。私も、さすがに練習しないとまずいと思いました》《必死に私は、練習しました》本番直前の緊張感をそう文集に書いていた匂坂さん。当日はミスなく演奏して安堵したようだが、《発表会で学んだことを忘れないようにしたいです》と自らを律するように文章を締めくくっている。そんな努力家でストイックな匂坂さんは、中学でも勉強やトラブルに一生懸命、対処していたはず。それが叶わなかったとしても、自死以外に選択肢はなかったのだろうか……。
2021年03月31日父親が死んだ血まみれの浴室を見ておきたいという娘、息子の自殺現場で大家に頭を下げ続ける母親、死後1か月以上の孤独死……。部屋に残された痕跡から故人の“想い”を悟ること。そして、遺族の激しい感情の揺れを受け止めること──。死の後始末をする清掃人として、「ご安心ください」と胸を張って言えるまでには、長い年月が必要だった。事件現場清掃人・高江洲敦さん(撮影/渡邉智裕)■事件現場清掃人・高江洲敦さん東京の下町にある古いアパートの一室で孤独死が起きた。亡くなったのは62歳の男性。半年ほど前に職を失い、以来ほとんど6畳1間の自室にこもっていたらしい。たまたま部屋を訪れた元同僚が、玄関口で助けを求めるようにして倒れていた男性を発見し、警察に通報した。「事件現場清掃人」である高江洲敦(たかえすあつし・49)は、アパートの大家さんから電話でこんな依頼を受けた。「死後1か月たって見つかったようなんです。ご遺体の腐敗が進んでしまったためににおいが酷くて、一刻も早くにおいを消してほしいのです」「ご安心ください。私が必ずきれいにして差し上げます」高江洲が代表を務める「事件現場清掃会社」は、「特殊清掃」を専門に行う。主に自殺や孤独死があった場所で、消臭・消毒、虫の駆除、遺品整理、廃品・ゴミ処理、清掃・リフォームなどを行い、現状回復までを請け負っている。2003年から3000件以上の現場に立ち会ってきた、いわば「事故物件」再生のプロフェッショナルなのだ。病院で亡くなる場合と違い、冒頭のようなケースは「変死」扱いとなり、警察は死因を調べるために遺体を運び出す。しかし、遺体から出た毛髪や体液などはそのまま現場に放置されるという。高江洲は現場に到着すると、ドアを開けるとき「お疲れさまでした」と心の中で呼びかけ、故人と必ず向き合う。「現場に入るたび、家の主であった方の人生を想像せずにはいられません。“大変な人生でしたね”そう話しかけながら、お清めをするんです。わけのわからない念仏を唱えるより少量の塩と酒を部屋に置いて故人をねぎらう。これが私の習慣になっています」本来ならば、遺族が掃除をする役目を引き受けるべきだと思われるかもしれないが、孤独死の場合は身元が不明だったり、遺族がいても故人と疎遠だったことを理由に事後処理を断るケースが多い。このアパートの男性も、近所に義理の姉がいたのだが、遺体の引き取りはおろか火葬の費用を出すことも拒否。結局、大家さんが火葬を行い、死亡現場となった部屋の清掃までやむなく引き受けた。「失業保険をもらっていて、生活は苦しかったみたいですよ。家賃も最後の何か月かは滞納したままでしたから……」大家さんはいかにも困った様子で、高江洲にこぼした。6畳間の片隅には洗濯物がつるされ、台所には最後の食事だったのだろうか、干からびた食べ物が入った食器が置いてあった──。作業に欠かせない装備とはどんなものか。「絶対必要なのが、防護ゴーグルと防毒マスク。強烈な腐敗臭や、ハエなどの無数の虫、そして感染症から身を守るために着用します。また、遺体から流れ出た体液や虫の侵入を防ぐため、衣服の上には雨合羽の上着を着用し、手にはゴム手袋、靴はビニールのカバーで覆い、雨合羽とゴム手袋の隙間は養生テープでしっかりとふさぐんですね」特殊清掃では、まずゴミ処理と掃き掃除から行う。部屋中に広がったゴミや、故人の糞便などを踏んでしまうからだ。ハエやウジ、サナギなどの虫の死骸をうっかり踏みつぶせば、床や畳を汚し、フローリングにこびりついて、あとあと苦労するという。次に二酸化塩素を主成分とする特殊な消毒液を部屋の隅々まで噴霧する。死臭の主な原因は、腐敗の過程で細菌がタンパク質を分解して出す物質。薬剤をまくことで菌を死滅させ、においの原因を取り除いていくのだ。こうしてようやく本格的な清掃作業に入っていく。遺体から流れ出た体液や脂、血液、消化液などは混ざり合い、盛り上がった状態で表面が乾き固まる。これをスクレーパー(こびりついた汚れを落とす道具)で削り取り、残った汚れはスポンジで丁寧に除去する。ときには汚物にまみれたトイレや、何年も放置されたカビだらけの台所も清掃する。このように、部屋中のあらゆる汚れを取り除くのだ。男性の遺体があった玄関口には、ドス黒い人型のにじみが広がり、体液が床を通って階下の天井まで達していた。「こうなると、汚れた部分を削り取り、汚れた床板やフローリングなど、すべて新品に取り換えます。構造上はずせない木材やコンクリートは体液が染み込んだ部分を削ってコーティングを施します。ひどいときは解体や、全面的なリフォームが必要になりますね。そこまでしないと、においまで取り除けません」人が亡くなると腐敗が始まる。温度にもよるが、死後24〜36時間たつと腹部から腐敗ガスがたまり、それが全身に広がって身体を膨張させ、やがて体内にたまった腐敗ガスが血液や体液とともに、腐敗しやわらかくなった身体を破って噴出するのだ。これが「死臭」の発生源ともなる。作業の仕上げにもう1度消毒液を噴霧し、一連の作業を終えた高江洲は部屋の隅々までにおいを嗅ぎまわる。「最後は鼻を床に押しつけてにおいが完全に取れたことを確認します。この“においを取る”ということのために私は命懸けでやってきましたから」孤独死が社会問題となって久しい。その数は年々増え続けている。2019年の厚生労働省の調査によると、全国の「単独世帯」は1490万7000世帯で、全世帯の28・8%、実に4世帯中1世帯強がひとり暮らしをしているのだ。最近の傾向としては、60歳未満が4割を占め(第5回孤独死現状レポート)、実際に事件現場清掃の現場でも、特に多いと感じるのは40〜50代の男性の孤独死らしい。誰にも看取られず死亡する人は年間3万2000人にのぼるとされている。高江洲とは、6年ほどの付き合いがある横山清行さん(48)は、横浜の港南区で3代続く不動産会社の社長だ。これまでに10件以上、高江洲に依頼してきた。「古い物件では、長く住んでいる高齢者の方が亡くなるケースもよくあります。あのにおいはたまりませんね。脳に来る強烈さというか。高江洲さんは徹底的ににおいを消して、確実にきれいにしてくれる。最初は相見積もりでしたが、今では信頼する高江洲さんにお願いしています」■60代父の自殺後を見届けた娘特殊清掃の仕事で、孤独死についで数多く遭遇するのが自殺の現場である。これが全体の3割を占めるという。警察庁の統計によると、2020年の自殺者総数は2万1081人。コロナ禍の影響で今年はさらに上昇するとみられている。ある晩秋の昼下がり。車で移動中だった高江洲の携帯電話が鳴った。相手は若い女性で、特殊清掃の依頼だった。聞くと、団地にひとり暮らしだった父親が自室の浴槽で亡くなったと言う。憔悴しきった様子の声から、突然の父の死を受け入れなければならない娘の緊迫した状況が窺えた。直感的に「これは自殺だ」と感じた高江洲は、「ご安心ください。すぐに伺います」と伝え、現場に向かった。古い団地の入り口に20代と思われる女性が立っていた。2DKの典型的な団地の間取り。生臭い血のにおいが鼻につく。廊下の床には遺体の搬送中にポタポタと滴った血痕が続いていた。廊下を入ってすぐ右にある浴室に近づいてみると、浴室の折り戸の曇りガラスには、無数の赤い点、そして真っ赤な手形が見えた。意を決して扉を開けると、そこには想像していたとおりの惨状が広がっていた。浴槽内には血で染まった真っ赤な水。壁には天井まで達した血飛沫の跡。死の間際にもがき苦しんだのか、血塗れの手跡が至る所に見られた。首の動脈を切っての自殺だったことがわかる。作業に取りかかろうとすると依頼主に声を掛けられた。「清掃する前に、浴室の状態を見せてください。どうしても父の最期の様子を知っておかなければいけない気がするんです」とてもすすめる気にはなれなかったが、彼女の強い意志に負け、自殺の現場を見せることにした。浴室の扉を開けた瞬間、彼女は腰が砕けてよろめいた。しかし、すぐに立ち直って、浴室全体をゆっくりと見渡し、和室へ歩いて行き畳の上にへたり込み、静かに涙を流したのだった。「実はどんなに汚れた部屋でも肉体的なつらさは大したことはない。精神的にいちばんつらいのは、遺族から直接依頼されるケースなんです。遺族の“思い”を解決しなきゃならないですから」遺族との対話は「傾聴」が基本だという。だが、安易な相槌は打たないと決めている。「絶対に“わかります”などと軽率に言わないほうがいいんです。遺族の悲しみや悔しさなんて計り知れませんからね。ちゃんと遺族の方と話ができるようになるまでに2年以上かかりましたね」故人は60代。妻と死別後、ひとり暮らしをして、長く持病を患った末の自殺だった。彼女は、2日前に故人と会っていたと言う。そのときに父が告げた「今までありがとう」という言葉に、違和感を覚えたという話をしてくれた。「遺書がなかったために真実はわかりませんが、家族に面倒をかける前に逝こうと考えたのではないかと思われました。私には、最後までプライドを持って生きたのだと感じられた。でも、遺族にとってはとうてい承服しがたい、やりきれないものですよね」■料理人から掃除屋の社長へ高江洲は、沖縄県出身。長男で2歳下の弟と5歳下の妹がいた。決して裕福な家庭ではなかったが、「大きくなったら社長になる」という夢を持ち続けてきた。中学生になると、自分で稼いでいくには手に職をつけたほうがいいと考えるようになっていた。そして、同級生の「一緒に料理人にならないか」という誘いに乗って、工業高校の調理科に入学。高校卒業後、1年間、沖縄で働いた後に上京し有名ホテルの中華料理部門に就職した。夢は、理想の店をオープンさせ、そのオーナーとしてお金持ちになることだった。しかし、当然のことながら、最初のうちは下働きばかりで給料もわずか。高江洲は開業資金を貯めるため、休日にハウスクリーニングのアルバイトを始めた。「私は料理が大好きでした。でも、バイトで始めたハウスクリーニングもだんだん面白くなっていきました。掃除屋の車の荷台を見ると、道具一式がそろっています。それらの値段を調べるうちに、100万円もあればそろえられることがわかったんです」このまま料理人の道を選んだとしても、自分の店を出せるころには40代半ば。それに比べ、ハウスクリーニングは元手がかからないうえ、大きな店舗も必要ない。それで心を決め、ホテルは退職した。「しばらくは、昼は清掃業、夜は居酒屋でなんとかしのぐ生活でしたが、1年後に独立しました。弟が大学に通うための仕送りが大変だったこともあって。ハウスクリーニングで開業して、遠回りしてからの料理でもいいじゃないかと思ったわけなんですね」1995年の夏、25歳のときにハウスクリーニングと店舗清掃を業務とする「そうじ屋本舗」を開業し、晴れて念願の社長となった。社員も少しずつ増やし、2001年には法人化。売り上げも月600万円以上あった。「調子に乗ってしまった。毎晩のように豪遊ですよ。羽振りがよかったですから。それが間違いの始まりだった」そして、従業員の不満に気づかぬまま、愛想を尽かされることになる。「社長、あなたには経営者としての資格はありません」ある日、高江洲は社員たちに囲まれてそう宣言された。クーデターである。右肩上がりだった業績も落ち込みが目立つようになり、借金の額もかさんでいた。得意先に根回しを図っていた社員らは、社長1人を残して総辞職。後に、別会社を設立し、顧客を引き継いで業務を続けると決めていたのだ。■初めての事件現場で流した涙2003年、32歳になった高江洲は、たったひとりでハウスクリーニングの仕事をやっていくことになった。月の売り上げは20万円ほど。その一方で、解散した会社でつくった借金返済が月140万円あった。そんな高江洲を応援してくれる人がいた。葬儀関連の業界の社長だ。彼からある日、相談があると持ちかけられたのは、「ちょっと変わった現場の仕事」。それが、事故物件との出会いだった──。よくわからず向かった現場で待ち受けていたのは、強烈なにおい。「死臭」である。部屋に住んでいたのは60代の男性で、死後2週間がたっていた。男性が倒れるときに頭を柱にぶつけたらしく、生々しい血痕と毛髪が残り、壁にも血痕が飛び散っていた。消毒剤のスプレーを部屋の隅々まで吹きつけるわずか15分の作業だったが、今でもこの日の衝撃は忘れられない。「もう嫌でした、人が死んだ部屋というのが。一刻も早く現場から逃れたい思いで、においの確認もせずにそそくさと部屋を後にしました。なんとも情けない仕事ぶりです」だが、初めての事件現場の作業から1か月後、「消毒だけしてくれればいいから」と同じ社長からまた依頼がきた。マンションの一室で、死後2か月たって遺体が発見された。服毒自殺の現場だった。部屋に住んでいた男性は、IT関連の個人事業者。自殺の原因は離婚で、奥さんが家を出た直後に命を絶っていた。長期間放置されたため、部屋の中はものすごいにおいだった。男性はパソコンに向かうひじ掛け椅子に座ったまま亡くなったらしく、体液や血液、糞尿までもが椅子のスポンジに染み込み、そこからあふれたものが流れ落ち床に大きな塊を作っていた。その塊からウジ虫がわき、部屋中をハエが飛び交っていた。高江洲が、ひととおりの消毒作業を終え、この地獄のような場所から出て行こうとすると、立ち会っていた葬儀社の担当者が呼び止めた。「そこの汚れ、拭いてよ」「いや、私が引き受けたのは、消毒だけですから」「何言ってんの?掃除屋だろ?仕事じゃないのかよ?」頭に血が上ったが、言われてみれば、そのとおりだった。「話が違う、と言い続けることもできた。でも、私はプロなんだ、自分で選んだ仕事を失うことはできない。特殊清掃のノウハウもないまま掃除に取りかかったんです」掃除機で床に転がった無数の虫の死骸を片づけ、赤黒く固まった汚れを雑巾でこそげ落とすように拭いた。こみ上げる吐き気を我慢できず、思わずキッチンで嘔吐した。(なんで俺はこんなことをしているのだろう……)悔しくて涙があふれた。■自殺した息子の部屋を拭う母その後も、事件現場清掃の仕事は、月に1度のペースで入ってきた。受ける理由はただひとつ。金を稼がなければならないからだった。それでも、においだけは別だった。あの強烈な悪臭はどうやったら取れるのか、まったく見当もつかない。当時はまだ、事件現場の清掃を引き受けるときは、「汚れを取って、消毒はします。虫の始末もします。でも、においだけは消せません」と断りを入れていた。しかし、そんな高江洲の気持ちを大きく揺さぶる出会いが訪れる。現場は2階建てのアパートで、亡くなったのは若い男性だった。部屋に行くと、すでに片づけの作業が始まっていた。玄関の前に初老の女性がうつろな目をしてへたり込んでいる。そして荷物を運び出す業者に、何度も「すみませんでした、どうもすみませんでした」と言い続けている。故人の母親だった。遺体があった現場を見ると、フローリングに人型はあるものの、血液や体液などは残っていない。高江洲は、この女性がすべて拭き取ったのだと悟った。そこへ、様子を見に来たアパートの大家が、激しい剣幕で女性を怒鳴りつけた。「どうすんだよ!においが下の部屋まですんだよ!リフォームして入居者も決まっていたのに、お前のせがれのせいで契約も解除になっちまったじゃねぇか」体液は、階下の天井にまで達していた。高江洲は大家さんをなだめ、「ここまでいくと、消毒だけではにおいは取れません。部屋全体をリフォームするしかない」と事実を伝えることしかできなかった。この日初めて、自分の力不足を呪ったという。「この悪臭の中、お母さんはどんな気持ちでひたすら自分の息子の一部を拭き取ったのだろう……と。汚れた両手を床にそろえ、頭を下げ続ける姿は、わが子に対する親の愛情そのものでした」そこから、高江洲は、本格的に特殊清掃の勉強を始める。どうやったら、汚れた部分だけを修復するリフォームが可能になるか、感染症を防げるだけの殺菌力を持ち、脱臭効果のある無害な除菌剤が作れるのか──。その過程で、二酸化塩素が有効だという結論に至る。必死で取り扱う業者を探し、現場で使えるようになった。こうした研究に1年近い時間とそれなりの費用がかかったが、効果は絶大だった。においを消し去るにはリフォームか解体しか策がなかった現場でも、この薬剤を噴霧するとうそのように悪臭が消えた。高江洲は自信を持って現場に臨むことができ、仕事の依頼も増えていった。ところが好事魔多し。仕事を斡旋してくれた社長から、「ご遺族や大家さんに特殊清掃の仕事を説明するために、技術や薬品を知っておきたい」と言われ、作業のマニュアルを手渡してしまう。すると、社長は自分の会社に特殊清掃の部門を作り新サービスを始めたのだ。多額の借金を抱えたうえに、仕事を奪われ高江洲はどん底を味わった。それでも彼はめげなかった。ハウスクリーニングの会社の下部組織として、本格的に事件現場清掃を専門とした「事件現場清掃会社」を立ち上げた。以前のように斡旋ではなく、自分から営業をかけていく方針に変えたのだ。そして、全国にいるリフォーム業者や内装業者、建設業者を募り、その中から確かな技術を持つ人材とパートナー契約を交わす、フランチャイズシップによる「事件現場清掃会社」を設立した。沖縄時代、高江洲と小中高と一緒だった勢料厚司さん(50)は、高江洲が帰省するたびに会う旧友だ。「昔はバイクを乗り回したり、ヤンチャだったけど、彼は普段から根は優しいところがあった。今の仕事も誰にでもできる仕事じゃない。本当に優しい人じゃないと続かないんじゃないかな。沖縄に帰ってくると、朝まで一緒に飲みます。『本当はこの仕事がないような世の中になればいいんだけど』と言ってました。仕事の話になると、だいぶ先を見てるなと感心しますね。いつも島から応援しています」■妻と子どもに伝えていること2005年、高江洲は仕事を斡旋してくれていた社長に裏切られたと同時に、プライベートでも恋人と別れ、心の支えを失っていた。特殊な仕事を理解してもらう難しさを痛感したという。生涯独身を貫く覚悟だった。しかし’09年、沖縄の友人に紹介された女性と出会って3か月で結婚。’13年には長女が生まれ、昨年春には長男が誕生した。「妻は私の仕事を本当に理解してくれました。実際、彼女も清掃や遺品整理の現場を手伝ってくれることがあるんです。『おばあちゃん、頑張って生きたね』なんて語りかけながら作業していて、私よりも向いているかもしれません」さまざまな死から学んだことがある。それを今、妻や子どもたちに伝えている。「家族には、車や別荘やお金は残さないと話しています。金はあの世には持っていけないし、子どもがチャレンジする機会を奪いたくはないから。それに……お金持ちで心のバランスを崩して、自殺していったたくさんの人を見てきましたからね」■清掃後の「問題」にも向き合う高江洲は、特殊清掃が終わった後にこそ、「問題」があると指摘する。「物件で人が亡くなると、その部屋で何が起こったか、次の入居希望者に伝える告知義務がある。大家さんが数十万円~数百万円かけてリフォームしても、すぐ買い手が見つかるとは限らない。そんな心理的負担を軽減できないかと考えるようになりました」昨年、高江洲は事故物件専門の不動産業を始めた。相場の2割引で事故物件を買い取り、投資家に向けて販売することもあれば、自分で所有することもあるという。また、清掃後、引き取り手のない遺骨の問題にも取り組む。高江洲の事務所では、特殊清掃の依頼主から預かったいくつかのお骨を安置している。「これらの遺骨は、海洋散骨を行うことを約束しています。先日も沖縄の海に散骨してきました」高江洲は「特殊清掃」の後に残る問題とも、こうして向き合ってきた。清掃を終えた後、思いつめた様子の遺族から食事に誘われて、話を聞くことも少なくない。「誰かに聞いてほしい」遺族のそんな気持ちを受け止め、故人の生前に思いを馳せる時間に寄り添うこと。これもまた、“清掃の後”に残される大きな問題のひとつなのだ。「高江洲さんはね、すごく話しやすい人なの」高江洲が通う居酒屋の女将、浜田八重子さん(67)は言う。いつしか親しくなり、高江洲の仕事を知った浜田さんはこんな依頼をしたことがある。5年ほど前のことだ。「私、引っ越しを考えているんだけど、見積もりに来てくれないかしら」清掃でも遺品整理でもない。それでも高江洲は後日、彼女の住まいを訪ねた。古い木造アパート。居間には仏壇が置かれていた。そこは30年前、湯沸かし器の不完全燃焼による一酸化炭素中毒で夫を亡くした部屋だった。「実は見積もりは口実だったの(笑)。高江洲さんに話を聞いてもらいたかったんです」壁にかけられた夫の写真を見せながら、死別の日のこと、たったひとりで子ども3人をこの部屋で育ててきたことなど、思い出を語った。後日、高江洲は故郷の沖縄の砂を取り寄せて浜田さんに贈ったという。「亡くなった旦那さんは海が好きだったそうで、仏壇の線香立て用の砂は、女将がいつも海辺から持ってきたものを使っていると聞いたから」特殊清掃のほかにも、自分にできることはないか──。■一家心中の部屋で決意したこと困り果てる大家さん、身寄りのない故人、そして話を聞いてほしい遺族。高江洲はいつも、清掃の“その先”まで目を向けている。今、高江洲には「児童養護施設をつくる」という次なる夢がある。きっかけは、「心中」の現場清掃だった。個人経営のカレーショップが入った建物で2階が住居だった。キッチンには血痕と黒い血だまりがあり、またトイレには遺体から吹き出た体液が床一面に広がり、側には練炭が残されていた。夫が妻を包丁で手にかけ、その後、練炭自殺を図ったことがわかる。キッチンやトイレ以外には、部屋が荒らされた痕跡はない。壁には、幼い子どもが描いた絵が何枚も貼られている。(子どもはどうなったんだ?)高江洲は、寝室にあった布団を思い出し、まさかと思いながら、掛け布団をめくった。「息をのみましたよ。そこには小さな人型の染みがありました。自殺した夫は、妻だけでなく、幼い子も手にかけていたんです。一瞬で悲しみと怒りが全身に広がってブルブルと震えましたね」実は高江洲の妹は幼くして亡くなっていた。生まれつき身体が弱かった妹は、8歳のとき、心臓の手術に耐えられず命を落としたのだ。高江洲はこのとき、亡くなった子と妹の姿が重なったのだ。「ほかの現場でも、夫が借金を残して自殺した後、亡き夫を激しく罵る妻に連れられていた小さな女の子、見積もりに訪れた現場で、遺族と不動産買い取りの相談をする私をじっと見つめていた男の子……。親を亡くした幼い子どもの姿を目にするたびに、複雑な思いにとらわれて。こういう子どもたちの未来のために何かしたいと思ったんです」そして、「養護施設の運営」という答えにたどり着いた。特殊清掃という、ある種「人の不幸」で得たお金の出口をずっと探していたという。引き取り手のない遺品も、買い手のつかない事故物件も、施設の運営に役立てるつもりだ。■「孤独死=気の毒ではない」高江洲がよく受ける質問がある。「幽霊を見たことはありますか?」「事故物件=幽霊・心霊現象」というイメージはつきものだ。「幽霊が存在するかどうかは、私にはわかりませんし、見たことはありません。しかし、『死のエネルギー』は感じるんですね。人が病院で亡くなった場合と、自室で亡くなった場合とでは、なぜか部屋から受ける感じがまったく異なります。そこには、死の間際の故人の思いが残っているような気がするのです」ある意味ではその死者のエネルギーを拭い去ることが、事件現場清掃人の仕事なのかもしれないと言う。「そもそも“病院で死にたいか、家で死にたいか”と問われたら100かゼロで“家で死にたい”と答えますよね。それが人の本望ではあるわけです。孤独死の場合は、ただ少しばかり発見が遅れてしまっただけのこと。だから『孤独死=気の毒』とはならないはずなんですね」高江洲は、大切な人を失った遺族をたくさん見てきた。練炭自殺した男性の両親、心中した母娘を発見した妹、息子が首つり自殺したと伝えてきた父親、入浴中に亡くなり、風呂釜で煮込まれてしまった老女の娘や姪たち……。悲しみと後悔に暮れる遺族に、こんな言葉を伝えてきた。「人が死ぬとき、死ぬ瞬間は痛いかもしれないけれど、死んでしまえば、身体が溶けようが虫に食われようが本人は痛くはない。発見した人は気持ち悪いかもしれない。でも、それはただの『状態』にすぎないんです。だから、亡くなった人は上から見ていて“ちょっと汚れちゃってごめんなさいね”と笑っているかもしれませんよって」そんな高江洲も、30代でこの仕事を始めたばかりのころは「人はなぜ死ぬのか」「生死とは何か」と考えすぎてうつ状態に陥ったことがあった。平然と現場に立ちながらも、周囲には見せない葛藤を繰り返してきたのだ。「なぜ、自らの精神を削りながらも、この仕事を続けてこられたのですか?」最後にそう尋ねると、「なんでだろう……」と、しばらく黙り込み、こう切り出した。「心がさ、大きく満たされたんだよね。特殊清掃の仕事を始めて、涙を流しながら遺族の方に両手で強く握手されるようなことが何度も、何度もあって。僕のほうが人として心を大きく満たしてもらった。居場所というか、この現場で、俺は命を使っていいんだと思えたんですよ。使命感なんてものは後からついてくるものでさ」『この世の始末をしてくれ──』という故人の叫びに耳を澄ませる瞬間、かき立てられるものがある。だから、不安そうに立ち尽くす遺族や依頼主に胸を張って告げる。「ご安心ください。私が必ずきれいにして差し上げます」取材・文●小泉カツミ(こいずみかつみ)●ノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある
2021年03月28日青木ヶ原樹海神秘的なイメージで人々を魅了する青木ヶ原樹海。そこに20年以上通い続けてきた、ルポライターの村田らむさんが多くの“伝説”を持つ樹海の真実を激白──。■樹海でいちばん選ばれる自殺方法富士山の裾野に広がる青木ヶ原樹海は自殺スポット、心霊スポット、怪奇スポットとして人気が高い。世界中に自殺スポットはたくさんあるが、青木ヶ原樹海はかなり珍しいスポットだ。多くの自殺スポットではビルや崖などから飛び降りたり、走る電車や自動車に飛び込んで、自らの命を絶つ。だが、青木ヶ原樹海の中には小さな崖はあるものの、せいぜい3メートルくらいしか高さがない。飛び降りても痛いだけでなかなか死ねない。樹海内によく鹿は走り回っているが、よっぽど運がよくない限りぶつかって死ぬことはできないだろう。樹海でいちばん選ばれる自殺方法は、首吊り自殺だ。木にロープをかけて首を吊る。ただし、樹海は地面が溶岩でできていて、木の根がしっかり張れていない場所が多い。だから首を吊ろうとしたら木が倒れてしまうことも多い。枝ぶりのいい木も少ないから、吊る場所を探すのに苦労するようだ。次に多い死に方が服毒自殺だ。青酸カリのような致死性の高い毒は手に入れるのが難しいから、睡眠薬を飲んで亡くなる人が多い。睡眠薬を過剰摂取して死ぬのは実は難しいが、冬場に酒と睡眠薬をたくさん飲んで外で眠ってしまうと高い確率で凍死できる。ただ、目が覚めてしまい、死に至るまで低体温症で苦しい思いをするかもしれない。樹海の中で老年カップルの自殺死体を発見したことがあった。木の下で並んで死んでいたから、おそらく心中だろう。顔の肉は虫に食べられてほとんどガイコツになっていた。2人は除草剤を飲んで自殺していた。寄り添い眠るように死にたかったのかもしれないが、除草剤を使った自殺は非常に苦しい。2人とも、これでもかというくらい大きく口を開け、手は胸を掻きむしって死んでいた。ほとんどガイコツになっていても、まざまざと苦悶の跡が残っていた。飲む毒ではなく、吸う毒を持ってきていた人もいた。風船をふくらませるためのヘリウムガスだ。吸引することで酸欠になり、比較的楽な死に方ではあるが、ヘリウムガスのボンベはでかくて重い。足場の悪い樹海の中をガラガラとボンベを引きずって歩いたのかと思うと、ご苦労さんという気持ちになった。■イメージが先走り!?樹海“都市伝説”自殺者がたくさん出るため、青木ヶ原樹海は心霊スポットとして取り上げられることも多い。実際、霊能者がらみの取材に同行したこともある。霊能者は神妙な顔つきで、「おびただしい数の霊魂が集まっていますね!!」などとオーバーに驚いていた。だが青木ヶ原樹海の中で亡くなる人の数は多くて年間数十人くらいだ。最近では昔よりも減って30人以下だと言われている。単純計算で10日に1人以下だ。普通の森よりは多いだろうが、「おびただしい数の霊」ってほどではないんじゃないの?と興ざめした。だが青木ヶ原樹海は、霊現象以外にもさまざまな怪奇現象が起きると噂されている。まさに都市伝説の宝庫だ。代表的なところを検証してみよう。まず最も有名なのが、「樹海の中では方位磁石がきかなくなる」という説だろう。多くのフィクション作品の中でも登場する伝説だ。樹海の中で迷った主人公の手の中で、コンパスの針がクルクルと回るシーンを見たことがある人は多いはずだ。だがもちろん実際にはそんなことは起きない。筆者は20代のときに、コンパスだけで2度樹海を縦断したことがある。ほとんど迷わずに樹海を縦断することができた。確かに樹海の岩石の中には磁気を発生する鉱物があるらしいが、大変弱い磁力なので、コンパスを胸の高さで使用するなら、ほとんど影響はない。類似の伝説で、「青木ヶ原樹海は迷いの森。1度入ったら生きて出ることができない」というものもある。しかしこれもデマだ。樹海の中で「わざと迷ってみよう」と思い行動してみたことがある。コンパスもGPSも持たずに樹海の中に入ってひたすら歩いてみた。すると、30分も歩くと自然と外に出てしまった。1度ではなく3回入っても同じ結果になった。樹海は広そうに見えるが実際には4キロ四方くらいの大きさしかない。そして樹海の内部には実はたくさんの遊歩道、旧遊歩道、登山道が走っている。探検をした人が残していったロープが残っていることも多い。樹海で死体がよく発見されるのは「樹海に自殺するために来る人」が多いからだ。実際には、樹海の中で迷ってしまって、そのまま出られなくなって死んだ人はほとんどいないと思う。「樹海の中では携帯電話は使えない」のは、都市伝説というより、当たり前のことだと思っている人も多い。だが、樹海の中は意外と電波が通じている。もちろんどこでもバリバリアンテナが立つわけではない。しかし場所によっては動画の配信ができるくらいの電波がある。実はこれは最近の話ではない。筆者が初めて樹海に潜った20年以上前、ドキドキしながら森の中を歩いていたら、いきなり出版社から仕事の電話がかかってきた。仕事の話をしようとするので、「いま樹海の中にいるんです」と電話を切った。するとその直後に今度は母親から法事を知らせる電話が。そんなことで、すっかり興ざめしてしまった。青木ヶ原樹海の神秘的な光景に酔いたい人は携帯電話の電源は切っておいたほうがいいだろう。■実在する『樹海村』その実態は……「樹海の中には自殺志願者がつくった森があり、そこで生活している人がいる」という都市伝説もある。これは映画『樹海村』の基礎になった伝説でもある。映画の中では樹海の中に捨てられた人、自殺した人などが集まってつくられたおぞましい村が出てくる。しかし実際に樹海を歩いていて、このような集落を発見したことはない。テントが立てられているのを見つけるのが関の山だ。しかし驚くなかれ、青木ヶ原樹海の中に本当に村はあるのだ。航空写真を見ると精進湖の南のあたりの139号線の道沿いにキチッと長方形の形に整備された場所を見つけることができる。河口湖町精進5丁目、通称『民宿村』と呼ばれる場所だ。きちんとアスファルト舗装されて、70軒以上の民家が立っている。そして、名前のとおり10軒ほどの民宿が営業をしている。筆者は泊まりがけで青木ヶ原樹海を探索するときは、この民宿村に宿泊させてもらっている。実は樹海周辺は観光地だ。富士急ハイランドや富士サファリパークへ泊まりがけで遊びに行く人や、富士五湖や富士山登山をする人が利用する場合が多いという。おどろおどろしい気分を味わうことはできないかもしれないが、ぜひ1度、遊びに行ってほしい穴場なスポットだ。そして最後の伝説は、「樹海の中には野良犬やクマなどの獣がいて人間が襲われている」というもの。まずよく言われるのが、捨て犬が野犬になり群れをつくっているというものだ。だが実際に、樹海の中で犬を見たことは1度もない。もし群れで生活しているなら、かなりの量の肉を食べなければいけないが、たまに出る自殺者の肉ではとうてい足りないだろう。ネズミやリスなどの動物を捕まえて食べたらいいのじゃないか?と思うかもしれないが、これも難しい。樹海はあまり栄養に富んだ森ではないため、小動物の数も多くはないのだ。そして、クマだが、「安心して!!樹海にクマなんていないよ!!」と否定したいところだが、そこまでハッキリとは言い切れない。樹海の中で見つける遺体の多くは、動物に齧(かじ)られている。ネズミやイタチなどが齧ったと思われる小さな齧りあとはよく見かける。だが、あからさまに大型動物が食べたと思われる痕跡もちょくちょく見かける。乱暴にシャツをめくられ腹部がごっそり食べられていたり、ジーパンを切り裂き太ももの肉を齧り太い大腿骨をバッキリと折っているものもある。前述のとおり樹海の中は栄養に乏しいのであまりクマがいるメリットはないが、ツキノワグマの生息範囲には入っている。別に柵があるわけではないから、来ようと思ったら来ることができる。「なんだクマが出る以外の噂は全部、根拠のない噂じゃないか?」とシラケてしまった人もいるかもしれない。しかし神秘的なベールをすべて剥いでしまって現実がむき出しになっても、青木ヶ原樹海が、自ら命を絶つ人たちが集まる“自殺の森”であることは間違いがない。なぜ青木ヶ原樹海で多くの人たちが命を絶つのか?それにはいろいろな仮説はあるものの明確な答えはない──。寄稿・写真/村田らむルポライター、イラストレーター、漫画家。樹海や禁断の土地、触れてはいけない社会の暗部などを自ら身体を張って取材。近著『ホームレス消滅』(幻冬社)発売中
2021年03月13日三浦春馬さん(2019年)《私と春馬は、よその親子では考えられないくらい一心同体でした。たぶん、春馬も私がいない生活は考えられなかったと思うの》2月18日発売の『週刊新潮』2月25日号で5ページにわたって組まれた特集記事で、冒頭から《言いたいことはたくさんあるの》と告白を始めたのは三浦春馬さんの実母・A子さんだ。昨年7月18日に自宅マンションで亡くなった春馬さんの遺骨は、現在もお墓に入ることなく彼女が持ち続けているという。訃報から7か月経った今なお、安らかに眠ることが許されない故人の周囲で何が起きていたのだろうかーー。茨城県土浦市に生まれ、幼少より劇団に所属して子役としてデビューした春馬さん。その後もドラマや映画に出演し、2008年にTBS系ドラマ『ブラッディ・マンデイ』で主演を務めると大ブレイク。以後は演技力に磨きをかけて難役もこなす実力派に成長し、順風満帆な芸能人生活を送っているように見えた。しかし、彼を取り巻く家庭環境は複雑なものだったという。スポーツ紙芸能デスクが解説する。「両親は彼が7歳の頃に離婚し、A子さんは春馬くんを連れて自宅から出て行ったのです。その後、彼女は客として訪れていたホストクラブのオーナー男性と再婚して3人で暮らし始めるも、春馬くんは家で1人きりになることが多かったそう。彼の拠り所となったのは、当時通っていた劇団だったと言います」しかし、春馬さんが次第に“芸能人”として有名になっていくと、A子さんの興味は息子に向けられていったようだ。「春馬くんが都内の高校を卒業する頃には、母親や義父との関係も良好に。一方で、次第にA子さんの身なりが派手になっていったと言います。そして、彼女は再び離婚。すると、春馬さんにお金の無心をすることも多くなった、という取り巻く家庭環境の移り変わりが週刊誌などの周辺取材で浮き彫りになっていったのです」(前出・芸能デスク)そんなA子さんに愛想を尽かしたのか、以降は連絡を取ることを断っていたという春馬さん。さらに母方の戸籍を抜けて、本名を生き別れた実父の「三浦」に改姓した、とも伝えられた。つまりそれは母親との“絶縁”宣言だったのかもしれない。■実父との20年ぶりの再会で“歯車”がそして春馬さんはさらなる行動を起こす。報道によると、いまから2〜3年ほど前、“生き別れた”実父・Bさんと約20年ぶりの再会をはたしたのだという。「彼にしてみれば、残された“唯一の肉親”で、幼心に父とのいい思い出もあったのでしょう。ところが、当初こそ迎え入れらて絆を深めるも、心臓の手術をするなど健康面に不安を抱えていたBさんだけに、今度は父親からも金銭的支援を求められた、というのです」(前出・芸能デスク)母親のA子さん、そして父親のBさんと双方が春馬さんの資産を当てにしていた。そして彼が亡くなったことで、これが遺産争いとなったのだ。「春馬さんは個人会社を設立していて、所属事務所『アミューズ』からのギャラや印税がそこに振り込まれていたと言います。今後に見込まれる収益は事務所が管理し、基金を設立して収益を寄付していく仕組みになるようです。遺産となるのは預金や自家用車などの個人資産で、両親や兄弟で分配されますが、彼は一人っ子なので本来ならば父と母で2分の1ずつに分けられると思います。ただ、Bさんは約20年間を“不在”にして父親としての役割を果たしていたと言えるのか、A子さんがどう判断していたのか」(芸能プロ関係者)春馬さんが亡くなって以降、ともに沈黙を貫いてきた両親。A子さんは件の遺骨、生前の記録が残る携帯電話や手帳などの遺品を持ったまま、親族も連絡がとれない“行方不明”状態にもなっていた。そんな中で、先に沈黙を破ったのがBさんだった。昨年末に『女性自身』12月22日号の取材に応じたのだ。同誌ではまずBさんの知人の話として、「(Bさんは)お金に困っている様子はない」「父子関係がギクシャクした様子もない」と、春馬さんとの関係は良好だったとし、さらに「元奥さん(A子さん)はお金遣いが少々荒いタイプ」と添えられていた。そして当のBさんの話。報道をくまなくチェックしていたのか、春馬さんとは「20年ぶりの再会」ではなく「芸能界デビュー後から連絡をしていた」と訂正し、遺産相続については《私自身は息子の遺産はまったくあてにしていません》とするも、《この数年、(春馬は)母と折り合いが悪く、本人も悩んでいるようでした。いくら母と子といっても、金銭的なことでもめていると聞いて、私も心配はしていたのですが……》と、あらためて母子間に金銭トラブルがあったことを強調したのだった。すると、『週刊文春』12月31日号に“行方不明”になっていたA子さんが登場する。涙ながらに重い口を開いたという彼女は、春馬さんが役者として稼ぐようになった後も「仕事を続けていた」とし、「役員報酬」を得ていたことや「車を買ってもらった」ことは認めるも「息子に頼った生活をしたことはない」と、一連の報道を否定。さらに、《ここ七年は経済的な援助と言われるようなものは全く受けておりません。なのでここ数年間本人がどんな心境だったのか、私も全く心当たりがなく……》春馬さんとは連絡を取っていなかったことから、“経済的援助”はなかったと繰り返していた。そして故人の埋葬に話が及ぶと、《まだお墓のことまで考える余裕がありません。ゆくゆくは遺族として為すべきことは必ず行なっていくつもりです。ただ……、もう少し心の整理をつけるまでお時間を頂ければと思います》子を失った母の悲しみを吐露していたA子さん。春馬さんが大事に保管していたファンからの手紙などの遺品を手に感謝の意を述べるも、遺産問題について語られることはなかった。■実父が急死、そして実母は…そして今年、2月9日発売の『女性自身』2月23日号で事態は急展開を迎える。《実父が遺産問題渦中に急死!》として、Bさんが1月中旬に亡くなったことを報じたのだ。心臓に持病があり「俺はいつ死ぬかわからない」と周囲に話していたというBさんは、同誌によれば行きつけの飲食店を後にしてワンルームの自宅アパートで倒れたとある。そんなBさんが生前、取材班にこぼしていたことも付け加えられた。《いまの私お願いは、春馬の墓がどこかに建てられて参ることができるようになること。そして、コロナのために延期になってしまいましたが、仲よくしてくださった方やファンの方のためにも偲ぶ会が開催されること、その2つだけ……》子を追うようにこの世を去った父。そして、この訃報から10日もしないうちに冒頭のA子さんによる“ロングインタビュー”が掲載されたのだ。以前に初告白した『文春』ではなく舞台は『新潮』に移ったわけだが、今回は実に“じょう舌”だった。Bさんが亡くなったことを弁護士を通して知ったという元妻は《それはショックでした》としながらも、《私は香典を送りましたが、やっぱり最低限のことはね……。だからもう、遺産の件はこれでおしまいです》と遺産問題の“解決”宣言をしたのだ。その後も、春馬さんの葬儀に内縁妻を連れてやってきたというBさんがその1か月後に弁護士を立ててきた、などと元夫に対する明らかな不満もぶちまけていた。《彼がすごく主張してきた部分があって。そう、春馬の遺産を欲しがってきたから争うことになった。彼と春馬を最後に会わせてあげたのは私なのに、感謝の言葉の一つもないどころか、彼は私に対して“いい車に乗っているな”とか“随分とよい生活をしているね”と言い放った》《春馬は私が親権を持ち、育てた子です。(離婚時に)一円も貰わずにね。それなのに遺産の権利を主張してきてすごく迷惑でした》春馬さんとの間になされた“お金を無心”をめぐる報道についてもあらためて反論し、息子から連絡を断たれたことについては《春馬の心身の状態がよくなかったのね》と弁明する。《私や再婚相手の男性、そして所属事務所のアミューズとの関係で揉めていたし、いろいろな悪いことが春馬の精神や体に重なっていった。タイミングが悪かったんだと思う》続けて、春馬さんを取り巻いていた環境やボロボロに蝕まれていった心身についてを、まるで息子が我が身に“降りてきた”かのように代弁し、しゃべり倒すA子さん。そして彼が亡くなった原因にも言及したのだった。《春馬が亡くなった一番の原因は、私がそばについていられなかったこと。そこがもう、凄く後悔しています。たとえ何があったって、私が命をかけて守れなかったことは確か。そこはすごく悔しい。(中略)春馬は私がいなきゃ生きていけない。私も春馬がいないと生きていけない。そういう関係だったの》Bさんが亡くなった以上は、おそらくはA子さんが全ての遺産を相続するのだろう。現在も遺骨を持つ彼女は今後、Bさんのお墓に埋葬することは考えておらず、地元の茨城に母子が入るお墓を自ら建てるつもりのようだ。■“死人に口無し”「悲しいですね。亡くなった息子の遺産を両親が取り合うーー。なんとも浮かばれない話になりました」とは芸能ジャーナリストの佐々木博之氏。「遺産問題はなくなったのに、なぜ、ここまでしゃべる必要があったのか。確かに家庭内の事情やトラブルが掘り起こされはしましたが、いずれは忘れられるような話。しかし、今回のような家族による肉声はインパクトが強く、春馬さんのファンも聞きたくはなかった内容でしょう。よほど腹に据えかねるものがあったのか」春馬さんの死去後、ずっと沈黙を守ってきたはずのA子さんだったが、琴線に触れたのはやはり家族の肉声だったのか。「おそらくはBさんが最初に取材に答えなければ彼女も表に出ることはなく、ここまでの展開にはならなかったのかなと思います。“死人に口なし”ではないですが、まるで離婚後も良好な父子関係を築いていたかのような元夫の口ぶりが許せなかったのか。そして、そのBさんも亡くなったことでA子さんのひとり語りになりましたが、世間からすれば彼女の言い分も同じように、証言や反論することが不可能なので“死人に口なし”に映っていると思えてしまいます。こうした状況を何よりも春馬さんが嘆いているのではないでしょうか」(佐々木氏)願わくば、春馬さんが安心して眠れる静かな場所をつくってほしい。
2021年02月19日行政書士・ファイナンシャルプランナーをしながら男女問題研究家としてトラブル相談を受けている露木幸彦さんが、コロナ禍で見た夫婦の実例を紹介します。※写真はイメージです筆者は夫婦の悩み相談を専門に行っていますが、思いがけぬ形で「相談者の死」に直面することがあります。特に昨年、遭遇したケースはあまりにもショックでしたが、統計上、コロナ禍での自殺が増えているのは明らかです。警察庁によると2009年以降、減少し続けていた年間件数が2019年は2万169件(確定値)、そして2020年は2万919件(速報値)と前年比で3.7%も増えているのです。筆者が彼の死を知ったのは突然、かかってきた1本の電話がきっかけでした。<登場人物(名前は全て仮名・年齢などは相談時点)>夫:宮里大地(49歳・会社員・年収750万円)☆相談者妻:宮里美紀(47歳・パートタイマー・年収130万円)子ども:宮里優斗(15歳・大地と美紀の長男・中学生)■自死した相談者の妻から電話が「もしもし、露木先生ご本人でしょうか?私は宮里大地の妻です。実は……6月に主人が亡くなりました。先生は何か知っているんじゃないかと思って……」昨年末に突然、かかってきた電話の内容はあまりにも衝撃的でした。筆者は「あの宮里さんが……」と胸を締めつけられ、しばらくの間、言葉を失い、ただただ茫然とするしかありませんでした。妻の美紀さんいわく宮里さんが残した手帳には、2019年10月に筆者の事務所を訪ねたことが書かれており、筆者の名刺が挟まっていたそう。いったん電話を保留にし、相談者の記録ファイルを確認すると、確かにその日の11時、宮里さんの面談相談の予約が入っていたことがわかりました。例えば筆者の元には、重度の精神疾患、長期のパーソナリティ障害、そして病院への措置入院など、一歩間違えれば命を絶ってしまうかもと心配するような方が相談に来られることもありますが、宮里さんは違いました。筆者の事務所は神奈川県の大磯町にありますが、ここは平安時代に西行法師が吟遊したことで知られており、地元の銘菓は西行饅頭です。宮里さんは相談時、饅頭屋の手提げ袋を持っていたので、相談前に少しだけ観光を楽しんだ様子でした。実際のところ、相談の様子におかしなところ……ため息を繰り返したり、いきなり言葉に詰まったり、次第に泣き出したりすることはなく、よくある男性相談者の1人でした。「ほかでも同じ話を何度もしてきた」という感じで少々、うんざりした顔をしていたことは覚えていますが、宮里さんの様子から死の予兆は全く感じられませんでした。まずは当時、どのような相談をしたのかを振り返っていきたいと思います。宮里さんは「仕事がうまくいかずイライラしていたのは確かです……。まさかこんなことになるなんて夢にも思いませんでした」と懺悔します。宮里さんと妻との間には受験を控えた当時、15歳の息子さんがいました。息子さんは将来的に大学への進学を望んでおり、そのため高校は進学校に通うことが望ましかったのですが、息子さんは受験対策の塾が合わなかったのでしょうか。塾に通い始めて以降、模試の成績が上がるどころか下がる一方。見るに見かねた宮里さんは、自ら息子さんに勉強を教えることにしたそうです。妻や息子さんが頼んだわけではありませんが、宮里さんは大学まで剣道部で活躍していた筋金入りの体育会系。近所では教育熱心で有名で、自分でも正義感が強いと自負しており、「このままじゃ、あいつの人生は真っ暗だ」と立ち上がったようなのです。■勉強を教えるはずが、息子に手を上げ…ある日のこと。宮里さんは息子さんの部屋に入り、背後で腕組みをして勉強を見ていました。息子さんは父親のプレッシャーで力が発揮できなかったのでしょうか?宮里さんからすれば特に難しくもない問題を解けずにいました。宮里さんがいくらヒントを出しても反応は薄く……それもそのはず。息子さんが塾から帰宅するのは夜の10時で、そのあと夕飯抜きで問題を解くように言ったのです。疲れていた息子さんには無理だったのかもしれませんが、宮里さんにはそう映りませんでした。「やる気があるのか!いい大学、いい会社に入りたいんだろ?馬鹿なヤツと一緒にされてもいいのか?パパに恥をかかせるなよ!」勉強を教えるはずが、途中から説教を始めたのです。ひとりよがりな精神論に息子さんはあくびをするばかり。頭にきた宮里さんは息子さんの後ろ首を掴むと、息子さんの顔を学習机に叩きつけたのです。「口で言っても分からないんだから当然ですよね。悪いのは息子です!そんなに痛いんだったら、ちゃんと勉強をやればいいだけですよ」と宮里さんは言いますが、息子さんが「痛い!」と大声を上げ、両手で顔を被い、騒ぎを聞きつけて部屋に来た美紀さんに泣きついたのは当然のことです。「何をやっているの!」と間に入ろうとした妻に対して「あいつの将来がかかっているんだ!俺も必死なんだ!」と一蹴。怒った美紀さんは右手を上げようとしたのですが、いかんせん、鍛え上げられた宮里さんの腕力のほうが上です。宮里さんは美紀さんの右手を掴むと、そのまま下に振り下ろし、妻の身体はフローリングに叩きつけられたのです。とっくみあいの結果、美紀さんの右腕はミミズ腫れの状態に。宮里さんと美紀さんがやり合っている間、息子さんは自分のスマホから110番をしていたようで……到着した警察官は宮里さんの手を引き、警察署へ連行され、署内で事情を聞かれることになったのです。■妻と息子は家を出て行った「警察は何も信じてくれませんでした!」と宮里さんは憤ります。美紀さんは夫が手を上げたのは今回が初めてではなく、過去に何度も繰り返してきたと証言したようなのです。「正当防衛ですよ。妻はちょっとしたことでも頭に血が上るので、僕が静止したという感じで、あくまで僕自身を守るためですよ」と宮里さんは声を大にして言います。直近では「大した仕事もしていないくせに!」と美紀さんが喧嘩を売ってくるので、それに対して「誰のおかげでメシを食えているんだ!」と美紀さんの頬を叩いたとのこと。夫婦どちらの言い分が正しいのかはわかりませんが、宮里さんが警察官に「あいつの言うことはほとんど嘘ですよ」と弁明しても手遅れでした。なぜなら宮里さんいわく、警察官の頭のなかには「妻がDV被害者、夫が加害者」という構図ができ上がってしまったのだから。結局、宮里さんが帰宅すると妻と息子さんの姿はありませんでした。最低限の荷物を持って家を出て行ったのです。宮里さんの動揺は激しく、現実を受け入れられないまま、1週間が経過しました。宮里さんはようやく重い腰を上げ、息子さんが通っていた中学校へ電話をすると、すでに転校手続を済ませたとのこと。しかし、転校先の学校名を教えてくれませんでした。「俺は父親ですよ!知る権利があるんじゃないですか?」と声を荒げます。■妻から離婚調停を申し立てられる当時の宮里さんはまだ「気持ちを伝えればわかってくれる」と信じて疑いませんでした。きちんと謝り、心を入れ替え、「二度と同じことをしない」と誓えば、妻子は戻ってきてくれると。そんな宮里さんの希望を打ち砕いたのは10日後、自宅に届いた弁護士からの手紙。「今後、離婚手続の一切を代理しますので、何かあれば私に連絡してください。くれぐれも美紀さんに連絡しないように」手紙にはそんな非情な一文が盛り込まれていたのですが、事務所のホームページに「女性の権利向上」を掲げている弁護士からの一方的な通告を目の前にして、宮里さんは頭が真っ白に。手は小刻みに震え、目頭が一気に熱くなり、そして足は宙に浮いているような感じで、何が何だかわからない状態に。さらに追い打ちをかけるかのように家庭裁判所から呼び出しの手紙が届いたそうです。例の件から20日後のことでした。それは妻が離婚調停を申し立てた何よりの証拠。それでも宮里さんはあきらめきれず、弁護士を介さずに妻子に直接、謝りたいと思っていました。宮里さんが筆者の事務所を訪れたのは妻子の居場所を突き止めようとするタイミングでした。■妻がとったDVの支援措置ところで戸籍の附票という公的書類があります。これは出生から現在までの住民票の履歴が書かれており、住所地ではなく本籍地の役所で発行してくれます。住民票は原則、住所地の役所が発行しますが、妻子は別の市町村に転居した可能性があるので、住民票から探し当てることは難しいです。一方、宮里さん夫婦はまだ離婚していないので、妻子と宮里さんの本籍地は同じです。そのため、宮里さんが妻子の戸籍の附票を申請することは可能です。筆者はどうしても妻子の居所が知りたいという宮里さんに、「戸籍の附票を取ったらどうでしょうか?」とアドバイスをしました。宮里さんの場合、住所地と本籍地は同じです。宮里さんは市役所へ出向き、戸籍の附票を入手しようとしたのですが……窓口の担当者は「発行できません。理由はお伝えできません」の一点張り。宮里さんは門前払いを食らい、市役所を後にするしかありませんでした。DVの事実を証明することができれば、夫が窓口に来ても妻子の書類を発行しないよう頼むことができます(=支援措置)。妻がこの手続を行ったのは明らかでした。宮里さんが亡くなったのは、それから1年後のこと。美紀さんいわく宮里さんは裁判所からの呼び出しを無視し続け、離婚調停に一度も出席せず、何の進展もなかったそう。こうして離婚ではなく死別という形で幕を閉じたのです。遺書も残されておらず、宮里さんが死を選んだ理由はわからないそうです。筆者は美紀さんにこう投げかけました。「旦那さんはいろいろ資産運用していたようですが、投資したお金はどのくらい残っていたのでしょうか?」と。そうすると美紀さんは「300万円くらい」と答えました。相談当時、宮里さんは1000万円を投資しており、毎月6万円の配当金を得ていると豪語していました。だから妻子に生活費を送るのも余裕なんだと。利率にすると7.2%なのでかなりの高利回りです。もしリスクが高い先に投資していたとしたら……コロナの影響で運用が悪化し、投資した財産が3分の1に減少したと考えられます。もちろん、そのことが自殺の直接の原因になったのかどうかは今となっては誰にもわかりませんが、もしそうだとしたら、コロナがなければ宮里さんが亡くなることもなかったのではないか──そんなふうに思うと筆者はつい唇を噛みたくなります。■夫は妻だけでなく、息子のことも裏切った美紀さんは「先生にこんなことを言ってもしょうがないんですが」と前置きした上でこう続けます。「息子が産まれたとき、主人と二人で立派に育てていこうと誓いました。主人は私だけでなく、息子のことも裏切ったんです。こんなことをしたら必ず、息子が悲しむってわかっているはずなのに……許せません!」美紀さんの声は涙声で、悲しみと憤りをどこにぶつけたらいいのかわからないという様子でした。ただでさえ息子さんは思春期で難しい年ごろです。宮里さんが亡くなってから半年、このことを息子さんにどう伝えていいかわからずに過ごしてきたそうです。やはり離婚と死別は別ものです。離婚の場合、離れて暮らしているとはいえ父親は生きています。将来的に会いに行ったり、連絡先がわかれば電話やメール、LINEなどで連絡を取り合ったりする可能性が残されています。一方、死別はどうでしょうか?すでに父親はこの世にいないので、息子さんは二度と父親の声を聞いたり、返事が返ってくることはありません。実際のところ、父親が不在の影響はあまりにも大きいのです。息子さんはかろうじて滑り止めの高校に合格し、入学したものの、第一志望ではなかったため、遅刻や欠席を繰り返していたそうです。美紀さんは最近になり、意を決して宮里さんの死を伝えたのですが、息子さんはますます精神的に不安定になり、学校へ足を向けることができなくなり、自室にこもる日が増えているのが現状です。「息子に何の罪があるのでしょうか?主人は私だけでなく息子の人生も狂わせたんです!」美紀さんは我慢できずに嗚咽をもらしていました。妻子が出て行き一人になった宮里さんの状況がどのようなものだったのかは推し量ることしかできませんが、宮里さんは夫であり、父親でした。百歩譲って妻に対しては「嫌になったからやめる」で済まされるかもしれませんが、子どもは違います。最大の被害者は息子さんです。現在、コロナ禍で苦境に立たされている方は多いでしょう。でも、最悪の決断をしてしまう前に、家族の顔をもう一度思い出してください。妻子のいる方々にはそのことを頭の片隅に置いておいてほしいのです。露木幸彦(つゆき・ゆきひこ)1980年12月24日生まれ。國學院大學法学部卒。行政書士、ファイナンシャルプランナー。金融機関の融資担当時代は住宅ローンのトップセールス。男の離婚に特化して、行政書士事務所を開業。開業から6年間で有料相談件数7000件、公式サイト「離婚サポートnet」の会員数は6300人を突破し、業界で最大規模に成長させる。新聞やウェブメディアで執筆多数。著書に『男の離婚ケイカク クソ嫁からは逃げたもん勝ち なる早で! ! ! ! !慰謝料・親権・養育費・財産分与・不倫・調停』(主婦と生活社)など。公式サイト
2021年01月30日美紀さんに強制的に断薬を行った際にやりとりしたメール(3)《もう一回、病院に通い始めたころからやり直したい》2014年12月。鹿児島県の倉岡美紀さん(仮名・享年27)はそうメールに記し、自ら命を絶った。送信先は通院先の精神科クリニックの男性医師のY(当時・40代前半)。Yは医師としての立場を利用し治療と称し、向精神薬を悪用。美紀さんの心身を深く傷つけ、死に追いやった。遺族は性暴力事件としてYの裁きを望んだが被害届は受理されなかった。特に精神科を受診している場合や、精神、知的障がい者は性被害を訴えても、諦めるように促されたり、取り合ってもらえないこともある。そこで障がいの特性を踏まえた刑法改正や相談支援態勢の必要などを訴える声も高まる。美紀さんの両親は実名を公表し、Yの医師免許剥奪、性暴力で罰するための法整備などを求めて訴えを続ける。■意味のない投薬で精神を不安定に「美紀はおしゃれとアリアナ・グランデが大好きな女の子でした……」そう話すのは母親の祐子さん。美紀さんは穏やかな性格で家族や友人とも仲よく生活していた、ごく普通の女性。同年3月、Yのクリニックを受診したことで一変する。当時の美紀さんは、昼は市役所の臨時職員、夜はそば屋でアルバイトをしていた。人間関係に悩みを抱えており、「元気になって頑張って働きたい」と精神科クリニックでの治療を決めた。適応障害と診断され、大量の薬を処方された。実はターゲットにされていたのだ。「医師は診察で患者の生育歴や家族、友人との関係も全部聞けます。その中でYは根がまじめで平和主義な女性を中心に自分の話術で騙せそうかを見極め、手を出していった」(祐子さん)服用を始めて2週間。美紀さんの具合はみるみる悪化していった。昼夜逆転した生活、食事も満足にとれない。仕事に行けなくなり、いつもボーッとしていて、寝ているか起きているか、わからないような状態に。家族は心配してYに相談すると、「“大丈夫です。治療は進んでいます”と言われました。私たち夫婦も娘の病気を理解するためにカウンセリングを受けたい、とお願いすると“僕と美紀さんがもっと仲よくなったらね”と……」(同)■「すごい先生だ」と洗脳されていく服用から1か月。心身がますます不安定になった美紀さんのリストカットが始まった。「娘は抗うつ剤、抗精神病薬、睡眠薬を飲んでいました。でも私たちは薬の意味もわからなくて……。薬を飲んでいるのにリストカットをする。だから薬を飲まなかったらもっと悪くなっていたのかな、と思い、“ちゃんと薬飲んでるの?”と娘に尋ねることもありました……精神医療に無知な私が馬鹿だったんです」後悔を口にする祐子さん。これが手口だった。関係者によるとYは患者に当たり障りのない病名をつけ、治療にもならない薬を処方していたという。だが、違法薬物ではない。“治療”と言って処方されれば患者は疑わずに服用する。そこが医師による加害の恐ろしいところなのだ。Yは投薬でリストカットするほどに精神を落とし、次に“飴”を与え、気分を高めさせた。精神状態が不安定な状況を患者に作り出していた。「気分が落ち込んでいたら気分が上がる薬を出す。そうすれば体調はよくなる。ハイテンションが続けば落ち着く薬を出す。先生の言ったとおりに薬を飲むと治った、と思うわけですよ」(同)父親の久明さんも、「テンションが高いとき、夜中にカラオケに行こう、とせがまれたこともあります」塞ぎ込んでいた美紀さんが活動的になれば当然、家族は「元気になってきた」と思う。そんな状況が繰り返され、「Yはすごい先生だ」と美紀さんは洗脳されていく。次にYは自分に依存させるように仕向けていった。「とにかく口がうまい。“嫌われている”“医師を辞めようと思う”と言って同情を引き、女性たちの心に入り込んで懐柔していく」(祐子さん)そして家族と対立させ、親子関係を崩壊させた。Yは美紀さんに「体調が悪くなったのは母親が悪い」「父親はこんなことを言った」などあることないことを吹き込んだ。「娘と妻、妻と私の喧嘩が絶えませんでした」(久明さん)さらには個人的なメールのやりとりが始まったことで状況は一気に悪化する。Yは性的な内容のメールを送り、関係を迫るようにもなった。■『合意』を取りつけ、性的関係を持つ’14年7月。過剰な投薬で正常な判断ができなくなり、家族にも不信感を持っていた美紀さん。「治療するには家族と100キロ離れないとダメ」とYに言われるがまま、実家から遠く離れた鹿児島市内でひとり暮らしを始めた。家族とも離れさせることに成功したYは『合意』を取りつけ、性的関係を持った。だが、Yには妻子がいた。不倫が判明すると、傷ついた美紀さんの症状はさらに悪化。ショックで自殺未遂をした。幸いなことに一命を取り留めたがYは謝罪するでもなく、侮辱するメールを送ってきたのだ。後日、既婚者だったことを黙っていたことをとがめるとYは投薬を強制的に中断した。それは殺人にも等しい非常に危険で恐ろしい行為。医師が知らぬはずはない。精神医療現場で起きている人権侵害問題に詳しい『市民の人権擁護の会日本支部』の米田倫康さんが説明する。「離脱症状、禁断症状といわれる身体的、精神的な苦痛を伴う症状が現れ、ときには死に至らしめます」美紀さんも離脱症状に苦しんだ。遺品の中にあったメモには《最悪の時間を過ごす。禁断症状との戦い》という言葉や心身の不調、薬を渇望するさまが書き残されていた。これほどの仕打ちを受けながらもYから離れられなかった美紀さん。自分が悪いと思い込まされ、拒絶に脅し。一方でやさしくもされる。性的な関係と大量の薬による精神の錯乱。依存と後悔、孤独。美紀さんはYに冒頭のメールを送って自ら命を絶った。■被害女性は30人超、2人が命を絶った警察は事件性はないと判断したが、祐子さんは「おかしい」と訴えた。遺品のメールやメモなどから医師のYが己の立場を悪用し、患者を性的に搾取、自殺に追い込んだことがわかったからだ。だが、判断は変わらなかった。祐子さんは独自で事件の調査を続けた。するとYの被害者が次々に名乗り出た。患者、付き添いの家族、クリニックのスタッフ、高齢者施設の看護師……。Yは気に入った女性には片っ端から声をかけ、美紀さん同様、薬漬けにし、巧妙な話術で依存させ、性的な関係を迫った。美紀さん含め2人が自殺。30人以上の女性が性的被害を受けていたことがわかった。診察室でキスや胸を触られたり、性行為をさせられた女性。“拒否したら治療は続けない”“通院している家族に迷惑がかかる”と脅され、関係を持たされた女性もいた。Yは美紀さんの死まで利用。「患者が亡くなり、つらい」と涙ながらに訴え、女性の気を引こうとしていたのだ。何十人もの人生が狂い、命を奪われ、家族が壊れた。関係者によるとYは県内のクリニックを閉じ、妻子と別れ関西に移り住んだ。そこでも同様の手口で加害を繰り返していたという。■悪質な医師が野放しにされているだが、現状では処罰する手段はない。服薬や性行為に『合意』があるとみなされれば、罪には問えないからだ。「私たちは精神科医が地位や関係性を利用していることを問題視しています」前出の米田さんは訴える。治療中の主治医と患者が恋愛関係になることは本来、医師の倫理的にありえないことだという。特に精神科や心療内科など、弱ったときに心のうちを打ち明ける分野は危うい。患者が医師に恋愛感情のような気持ちを抱くことがあるからだ。これを『陽性転移』といい、誰でも起こりうる。精神科医はその前提で患者に接しないといけない。もうひとつの問題はそれにつけ込む一部の悪質な医師が野放しにされていること。「治療を装った体(てい)のいい性の搾取、Yのようなケースはかなりあると見られます。しかし、日本の行政はよほどの健康被害がない限り、医療行為の内容に口出しできる権限がない。逸脱するような診察をしていても行政や法律では取り締まれない」(米田さん)本来、悪質な医師たちも医師法では処分することができるはずだ。「医師法の第7条では、罰金以上の刑が確定した場合だけでなく医師としての品位を損なう行為をしたときには医師免許の取り消しなどの行政処分の対象となることが示されています」(同)■医師法第7条医師が第4条各号のいずれかに該当し、又は医師としての品位を損するような行為のあつたときは、厚生労働大臣は、次に掲げる処分をすることができる。一戒告二3年以内の医業の停止三免許の取消し患者への不適切な行為が品位を損なう行為でなければ何が品位を損なう行為なのか。結局Yを裁いたのは向精神薬を不正に譲渡した麻薬取締法違反(’18年1月逮捕・不起訴)。虚偽の診療報酬明細を提出した不正請求・詐欺罪(共に再逮捕)だった。鹿児島地裁は’19年3月、詐欺罪で懲役2年、執行猶予4年を言い渡した。Yは控訴したが棄却。最高裁に上告するも裁判所はそれを退け、昨年2月、有罪が確定した。Yは被害者たちに何を思うのか。入手した電話番号にかけたがつながらなかった。■被害を訴えても周囲に信じてもらえない実は精神障がいに限らず、障がいのある人は性暴力の被害を受けやすい。障がい児・者への性暴力撲滅を目指すNPO法人『しあわせなみだ』理事長の中野宏美さんは現状を訴える。「医師や支援者ら顔見知りによる犯行も多い。ただ、被害者は加害者の接近が性行為を目的としていることや、その行為は性暴力だと気づけないこともある。何より、被害に気づいて訴えても周囲に信じてもらえない、障がいゆえの妄想だととらえられてしまうことも多い」加害者は極めて計画的に犯行に及ぶ。狙うのは周囲に訴えなさそうな、おとなしそうなタイプ。恋愛関係と思わせ、性行為をするための信頼関係を構築する。美紀さんのように転居させ周囲から切り離すこともある。証拠が残らない、目撃されないような状況に持っていく。身体障がい者はケアの中で、本来不要な身体接触の被害を受けることもある。「障がいによっては誘導されやすく、司法が求める“証言の信ぴょう性”の担保が難しい場合もあります」(中野さん)性暴力被害を法廷で証言することはただでさえつらい。精神的に不調だった女性には耐えられない。だから立件を躊躇してしまう被害者も多い。前出の久明さんは訴える。「Yの報復を恐れ、泣き寝入りを強いられている被害者は少なくありません!」祐子さんも声を震わせ、「私たちが本当に望むのはYが性犯罪者として裁かれることです。もう娘はいません。でも、新たな被害者を出さないためにもYを精神医療現場へ復帰させるわけにはいかない。そして治療という手段で性暴力を働いた医師が2度と医療現場に戻ることができないように法整備がされることを願い、声を上げ続けます」
2021年01月22日新型コロナウイルス感染拡大に関連した解雇や雇い止め、給与カットなどで家賃が払えないケースが増加している。これまで数多の賃貸トラブルに立ち会ってきた司法書士の太田垣章子さんが、コロナ禍の実例をリポートする。※写真はイメージです2002年から家主側の訴訟代理人として、賃貸トラブルの賃借人と関わってきました。これまで出会ってきた賃借人は、2500人以上。家賃を払わず、追い出されたらまた次の部屋でも滞納を繰り返す、そんな常連の人もいました。一方で一生懸命に生きて、それでも家賃が払えずにもがいている人もいました。その度に可能な限り、最善の策は何だろう、賃借人と一緒に考えてきた気がします。2020年は新型コロナウイルスの余波で、苦しんでいる人とたくさん会ってきました。仕事を失った人、残業代が減って生活が苦しくなった人、この先が不安な人、そしてリモートでの仕事で孤独を感じる人、親の収入が減って学業を断念した若者。感染はしていないけれど、彼らもまた確実にコロナウイルスの被害者でもありました。■あえて派遣を選んできたシングルマザー事務の派遣社員として働きながら、ひとりで8歳の娘を育てているシングルマザーの井上さん(仮名・30代)。仕事が減らされ、家賃が払えなくなってしまいました。今回ほど正社員で働いていないことを後悔したことはない、と井上さんは言います。今まで何度か正社員になるチャンスはありました。でも井上さんは、あえて派遣を選んできたのです。娘さんが4歳のときに離婚。子どもが小さいと、さまざまな行事で仕事を休まねばなりません。子どもが体調を崩すこともあります。両親はすでに他界。家族の助けは得られませんが、別れた元夫が養育費をきちんと払うと約束してくれたので、大丈夫だろうと思っていたのです。ところが離婚直後から、養育費は支払われません。元夫を問い詰めると「こっちにも生活があるから」と言い、そのうち連絡も取れなくなってしまいました。養育費のことを正式に書面にしていたわけではありません。弁護士に依頼するのも、費用がかかってしまいます。離婚で寂しい思いをさせてしまった娘に対し、せめて行事ごとには全て参加してやりたい、そう思うとなかなか休みにくい正社員にはなれません。だから井上さんは、派遣社員としてひとりで歯を食いしばって生きてきたのです。ところがこのコロナウイルスで、正社員は自宅からのリモート勤務となりましたが、派遣社員の井上さんは出勤を命じられました。そして7月ごろから、仕事が減り出したのです。当然、収入も減っていきます。■「払えません」と言えない今までも、それほど余裕があったわけではありません。たちまち生活は苦しくなりましたが、家賃の督促をされても「払えない」とは言えませんでした。言ってしまうと追い出されてしまう、そう思った井上さんは「払います」と言い続けました。先は見えず、このままでは生活が成り立たなくなる……気持ちばかりが焦りました。ある日、家賃保証会社の担当者が部屋を訪ねてきました。「困ってるんじゃないですか?」そう優しく言われて、井上さんは今までの窮地を初めて口にしたのです。そのとき担当者から教えられて『住宅確保給付金』のことを知り、担当者は役所まで一緒に行ってくれました。この『住宅確保給付金』は何らかの事情で収入が減ったりなくなった人に対し、一定期間の家賃を自治体が支給してくれるというものです。この間に生活の立て直しができます。ところがこの制度を知らない人が、とても多いのです。井上さんは言います。「日々生活に追われていて、制度のことは家賃保証会社さんから聞いて初めて知りました。これからはもっと助けてくださいって声を上げます。口にしてはいけないような気がしていましたが、勇気を振り絞って言ってよかったです。家賃が補填されている間に一生懸命就活します」この仕事をしていると、必要な人に必要な情報が届いていないと感じます。二極化とよく言われますが、まさに情報も二極化です。ただ生活に追われていると、情報を取りに行くこともできません。井上さんのように「払えない」と言えたことで、道が拓けた人もいます。■例年以上に多い入居者の自殺先進国の中でも、日本は自殺の多い国です。銃弾が飛び交うわけでもなく、治安のよさも世界トップクラスと言われているのにです。希望を持てない、夢を抱けないのでしょうか。異常なまでの「自己責任論」が人々を縛り上げているのでしょうか。そんな中、ここ数年、自殺者数が年間3万人から少しずつ減り始め、2019年には2万人を少し超えるほどになり、このまま2020年は2万人を割るという悲願もあったのです。ところがコロナウイルスの影響か7月以降は増加に転じ、2020年の自殺者数は11月までの速報値で1万9101人に上ります(警察庁統計)。実にコロナウイルスで亡くなった人の5倍近くの方が、自ら命を絶っているのです(1月12日現在)。賃貸業界でも、入居者が亡くなるということが当然に増えました。私も今まで何度か経験はあります。ですが、今年は例年以上に管理会社から「入居者が自殺しました」という相談を数多く受けたのです。そしていつもなら経済的に行き詰まった中高年の男性が多いのですが、こと私に限っては若い女性の悲報が圧倒的でした。中でも20代、30代が目立ちます。なぜ彼女たちは、自ら命を絶ってしまったのでしょうか。今となれば、直接心の声を聞くことはできません。私は何人かの遺族と話をする機会を得ました。そこでの印象は、家族の縁が薄くなっているということと、親を頼れないのかSOSを出さなかったことでした。■一度も弱音を吐いたことがない頑張り屋鹿児島から東京に出てきたマリコさん(仮名・36歳)はアパレルで働いていましたが、緊急事態宣言中に職を失いました。そして8月、命を絶ったのです。もともと弱音を吐かなかったマリコさんですが、コロナ禍でも親御さんには一度も連絡はなく、そのためにご両親も特に気にしていなかったとのことです。デザイナーを目指し、高校卒業後に東京の専門学校へ。デザイナーにはなれませんでしたが、それからずっと大好きな洋服の販売の仕事をしてきました。20平方メートルほどのワンルームには所狭しと、洋服やアクセサリーが並べてありました。几帳面なマリコさんらしく、きちんと整理されています。「頑張り屋の長女なので、一度も弱音を吐いたことはありません。ずっと田舎は嫌だって言っていました。でも戻っておいでと言ってやればよかった」お父さんの言葉が忘れられません。大学を卒業して社会人となって、まだ2年。事務職として自分の立ち位置もわからないまま、わずか24歳のモエさん(仮名)も死を選びました。仕事はリモートで続けていたものの、「生きる意味がわからない」と同僚に思いの丈を吐いた矢先のことです。山形から進学のために東京に出てきて、そのまま東京の会社に就職しました。毎月2万円弱の奨学金の返済をし、家賃6万2000円のワンルームで頑張っていました。光熱費を差し引いたら、自由になるお金は7万円ちょっとです。生活に余裕があるわけではありません。いつまで続くかわからないリモートでの仕事に、行き詰まりを感じていたのでしょうか。社会人として確固たる地位を築けていない状態で、「自分がしていることは作業で、いなくなっても代わりはいくらでもいる」──そう漏らしていたモエさん。ご両親は経済的にギリギリで、娘のことを考える余裕もなかったと言います。東京での感染者が増え始めた4月に一度電話で話したきり、その3か月後に娘の変わり果てた姿と対面することになるのです。もっと心の内を吐き出せばいい、そう思います。言葉にすることで「自己責任」とバッシングする世相ではありますが、決して弱音を吐くことは悪いことじゃない。二度とマリコさんやモエさんのような悲しい結末を選ばなくていいように、弱さを受け入れる社会を望んで止みません。身近な人に声をかけてあげてください。みんなが他者を受け入れる社会にならなければ、ウイルスよりも先に心が壊れていってしまいます。コロナウイルスは、人々に生き方や人との関わり方を問うているような気がしてならないのです。太田垣章子(おおたがき・あやこ)OAGグループOAG司法書士法人代表司法書士。30歳で、専業主婦から乳飲み子を抱えて離婚。シングルマザーとして6年にわたる極貧生活を経て、働きながら司法書士試験に合格。登記以外に家主側の訴訟代理人として、のべ2500件以上の家賃滞納者の明け渡し訴訟手続きを受託してきた賃貸トラブル解決のパイオニア的存在。著書に『家賃滞納という貧困』『老後に住める家がない!明日は我が身の“漂流老人”問題』(以上、ポプラ社)、『賃貸トラブルを防ぐ・解決する安心ガイド』(日本実業出版社)がある。
2021年01月17日